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カテゴリ:355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡( 4 )

邪馬台国の滅亡を再検討する・弥生遺跡消息一覧表

此処で、私自身うっかり見過ごしそうになりました。早まってはなりません。日本史の根幹にかかわる「邪馬台国の滅亡」です。それが起きたのは、弥生中期でしたか?
「卑弥呼以って死す」は、248年でした。弥生の後期ですから、あの一覧表を見直してみましょう。
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確かに、弥生中期で一斉に集落の衰退が起きています。そして、徐々に回復したのに、弥生後期に再び衰退期が来ています。
では、祭祀具の破棄を故意におこなったという栗田遺跡と七板遺跡を見ましょう。一覧表には七坂となっていますが、筑前町の文化財課に問い合わせたら「七板」の誤りでした。この七板遺跡は後期後葉で集落が途切れています。
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では、重要文化財を出土した栗田遺跡です。この祭祀具一式はほぼ完形で同じ場所で発掘されました。意図的な廃棄・埋納と考えられています。では、その時期は①➁③の何処でしょう。➁か③のどちらでしょうね。①では祭祀具の出現はまだないそうです。
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同じような祭祀具の意図的な破棄・埋納があった七板遺跡と同じような状況です。「足の踏み場もないような多数の甕棺墓とともに、調査参加者の眼瞳に焼き付くような鮮明に丹を塗られた精製胎土の磨研土器群の発見により他に比類なきものであることが確認された。」と、栗田遺跡の報告書(1974年)に在る通りです。
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ほぼ完形で見つかった!! 偶然ではありません。七板遺跡でも同じ状況なのですから。ほぼ同じ時期に意図的に埋納破棄された、としか思えません。すると、弥生後期にそれが起こったことになりましょう。
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実は、筑前町の柏木宮ノ元遺跡・宮ノ前遺跡は、弥生後期の遺跡です。つまり、土器の大量廃棄は弥生中期ではなく後期の出来事です。阪井田遺跡も弥生後期の遺跡で、溝に大量の土器が捨てられていました。
何か大きな事件があったのは弥生後期となり、邪馬台国の滅亡はこの時期と思われます。
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そして、「邪馬台国の滅亡は弥生中期だった」説は、消滅します。邪馬台国の滅亡は、発掘の状況からして弥生後期でした。
では、弥生中期の集落の衰退消滅は何だったのでしょうか。なぜ集落は消滅したのか、災害でもなく飢饉でもなく国を左右する大事件・・・考えられるのは、ひとつ。
倭国大乱です。
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明らかに、黄色ラインの弥生中期後葉に集落が一斉に消滅衰退しています。
此処で国を揺るがす大事件が起こりました。そして、卑弥呼の登場で乱はおさまります。回復の兆しが見えた時、狗奴国との争いが起きたのでした。祭祀具が捨てられたのは、文化や思想の違う社会になったからで、邪馬台国時代の祭祀は破棄され、人々はそれまでの祭祀を捨てて他所に去ったか、祭祀を変えて集落に残ったか、となるのです。
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ところで、これらの出土物の中で、他を圧しているものに丹塗磨研の筒型土器がある。器高80cm内外で、口径約15cm、上方に鍔(つば)を有するもので、北部九州独特の器制をなすものである。現在までの出土例は20例ぐらいであるが、当遺跡では、以前4個体分出土しており、今回を加えると10個体以上の出土をみたことになる。この筒形土器はSO1・SO5・SO6号の各祭祀遺構から検出された。その中で、SO6号祭祀遺構は、当遺跡の中で最大の祭祀遺構で、完形品およびこれに近いものだけで(基本個体)20個体を数えるほどである。」(栗田遺跡報告書・1974年)

更に驚いたことに、「最大の祭祀遺構であるSO6号を中心に、他の祭祀遺構が南北に連なり、ひとつの流れのようになっている。そして、この祭祀遺構集合線を境として、それぞれの甕棺墓群が対峙している。」と書かれています。
この筑前町の弥生遺跡は葬送文化を持ち、その文化圏には強い結びつきがあったのです。
此の丹塗磨研土器が卑弥呼の時代の祭祀だとしたら、この土器の最大の出土地は、女王国と深い関係にあったことになりましょう。卑弥呼、その人の出身地かもしれません。
この祭祀具は、伊都国でも春日の奴国でも出土しています。卑弥呼の時代の祭祀具には違いありませんからね。
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では、また明日。


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by tizudesiru | 2018-11-19 23:33 | 355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡 | Trackback

筑前町・弥生時代の遺跡消息一覧表から読めること=邪馬台国の滅亡

筑前町の弥生遺跡の光芒は、邪馬台国の運命を示唆する
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福岡県朝倉郡筑前町(旧 三輪町と夜須町)の東小田峯遺跡を訪ねましたので、大事なことをお知らせしています。前回「筑前町の弥生遺跡が消滅したのは、邪馬台国滅亡という大事件に関係する」と書きましたので、その事を重ねて紹介します。
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この写真は「東小田峯遺跡の発掘報告書」の大溝の写真です。この遺跡では大溝を全て発掘したのではなく、たまたまトレンチしたところに大溝がかかった、ということです。その写真ですが、各層のところどころに割れた土器片が見られます。つまり長い間かかって溝が徐々に浅くなり捨てられた土器が年月とともに各層に残っている状況です。
この大溝は、平和な日常が営まれていた証拠にもなりましょう。
然し、ここにも集落の消滅は起こっています。では、たまたま土器を大溝に廃棄した場所が掘られていないだけでしょうか。
筑前町の他の遺跡では、大溝のある地点に土器が固まって捨てられていました。
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柏木宮ノ本遺跡も、阪井田遺跡も大溝に捨てられた土器でした。それも、同じ面(層)にかたまっていますから、ほぼ同じ時期に一斉に捨てられたということです。各層に点在するのではなく、土器は積み重なって出土しましたから。
柏木宮ノ元遺跡も、下の写真のように集落が同じ場所に続けて営まれ繁栄していましたが、大溝に土器を一斉に捨てるという状況になったのでした。
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様々な生活用品が出土しています。この豊かな生活が、突然断ち切られたということです。次の表を見てください。驚くべき事実が判明します。筑前町の弥生集落に何が起きたのでしょうか。
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筑前町の「弥生時代遺跡の消息一覧表」です。驚くべきことが読み取れます。つまり、どの集落もある時期に「消えた」消滅した、または衰退したということです。存続したように見える遺跡が若干ありますが、ほとんどいったん途切れています。
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私の理解では、Ⅰa・Ⅰbの時期に甕棺墓が作られますが、Ⅱaになると急に作られなくなる、ということです。しかし、住居はⅡaⅡbまでは、たくさん作られています。
すると、事件は、ⅡaⅡbの時期に突然起こったということです。人がこの地を去ったので、家が残されたが墓はない、人々は他所の土地に行って最後を迎えた、ということになります。

さらに、時間をおいて人が住み始めたが、その人々はかなり違った文化の人になっていた、ということでしょうか。
此処でおきた事は、何だったのか、です。そして、その時期は弥生の何時なのか。天変地異が起きた? 大飢饉があった? でしょうか。生活道具ばかりではなく、祭祀道具も捨てたのです。この時、起こったのは人々を恐怖に陥れた国家的な混乱だったでしょう。
それは邪馬台国が滅亡したこと。
その余波で周辺地域や関係の深い国は大混乱した、と思います。人がいなくなった証拠が筑前町の「弥生時代遺跡の消息一覧表」から分かるのです。
それでなくては、人々は豊かな災害の少ない一等地を捨てていくでしょうか。
では、又明日。


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by tizudesiru | 2018-11-19 00:48 | 355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡 | Trackback

弥生集落を去る時、人々は祭祀具も土器も捨てた

福岡県朝倉郡筑前町に出かけました。何度出かけても東小田峯遺跡の場所を探せませんでしたが、今回は筑前町役場の方にお世話になって、地図を用意していただきました。
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筑前町の北には神山がずらりと並んでいます。全て信仰の山です。東小田峯遺跡はすべてが見渡せる平野に在ります。
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遺跡は大根地山を背景に田んぼの中にポツンとあります。
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遠く地平線の向こうは福岡平野・博多湾です。この幅が数キロの地溝帯を、鹿児島本線・国道・県道・高速道路が南北に通っています。古代にも、ここを攻めあがった兵(いくさ)がいました。地溝帯が危険だと思った武士軍団は背振山地を越えましたが。
中世、後醍醐天皇が挙兵した時、肥後の菊池武時入道は背振越えして早良(福岡市)に入りましたが、幼子たちは此の平地を通って博多に入ろうとしましたから、横隈の辺りで見つかり武時の孫たちは討たれました。此処を通るたびに、わたしは肥後菊池家の幼子を思い出しました。筑前町にはあまたの物語がうずもれています。
大昔から此処は人と文化の通り道でしたから、天下人も庶民も通りました。
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此処からは、基山や九千部山も見えます。背振は九千部に重なります。
古代から博多湾に上陸した人は、ここを通って筑紫平野に入ったのでした。反対に有明海に上陸した人も此処を通って博多湾側へ入ったのです。
此処には文物があふれ、文化の華が開いたのです。それは、弥生時代も同じでした。その弥生時代の全盛期にこの辺りの弥生集落は急速に消滅したのでした。なぜでしょう?
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それは、ここ東小田峯遺跡だけの個別の出来事・偶然の事件ではありません。筑前町全体で起こったのです。ほとんど同時に。
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これらの大事件は、偶然ではなく必然でした。それは、邪馬台国の滅亡にかかわる北部九州の悲劇の証明なのです。
今日はここまで、また、明日。



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by tizudesiru | 2018-11-17 23:15 | 355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡 | Trackback

邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡(三輪町と夜須町)

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福岡県朝倉郡筑前町の東小田峰遺跡を訪ねました。
福岡平野と筑紫平野を結ぶこの辺りは、1800年前・弥生(中期)の集落が密集した豊かな大地でした。北側には三郡山地が、南側には耳納山地が見えます。筑紫平野はここからゆったりと末広がりに大きく広がり、すそには筑後川が流れています。
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 ここは、旧三輪町です。40年前ほど前になりますが「三輪町史」を借りたことがありました。そこには、近畿の地名と地形と位置関係が言及されていて、地名の移動について書かれていました。奈良の三輪山はこの地の「三輪山」の山名の移動と云うものでした。面白かったので、コピーして地図を知り合いに見せたのでした。その「三輪町」の地名を「筑前町」という近代の地名に変えてしまったのですね。夜須町にしても、古代の伝承に因む名前だったのに、もったいない気がしました。それでも、筑前町は魅力的な処です。
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ほんとに、見える範囲の小さな町ですが、一面弥生遺跡が広がる地域なのです。わたしも歩いていて「石包丁」を拾ったことがあります。畦におちていたのです。教材として学校の関係者にあげたので手元にはありませんが、道端で拾ったものは埋蔵文化財にはならないのでただの拾い物だそうです。が、驚くべきことです。
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ここ筑前町には、発掘されただけでも100カ所をはるかに超える遺跡があります。
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黒点の一つ一つが発掘された遺跡です。そこに住居跡や墓群があります。
その中で、Eグループには20~27の8カ所の遺跡が発掘されていますが、東小田峯遺跡は、23の番号の点になります。拡大すると下の画像(東小田峯遺跡)のようになります。
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23、この小さな点の中には、おびただしい住居跡が重なり、甕棺墓群があるのです。
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甕棺墓群は、次のようになっています。
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甕棺が列になっているように見えます。ここには一定の決まりを以って墓域が作られているのです。そして、「K10」と番号を打たれた甕棺が、王墓ではないかと云われる10号甕棺です。(Kの記号は、甕棺・カメカン(KAMEKANN)の意味で、Kです。)
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筑前町史に掲載されている写真です。ここ10号甕棺にはガラス壁が再加工されて副葬されていました。
こんなに、たくさんの人が住んだ東小田峯遺跡ですが、なぜか突然、最盛期に消滅するのです。何故だと思いますか。
そこには、弥生中期の大事件が絡んでいるのです。邪馬台国の滅亡と云う・・・
ではまた、明日。



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by tizudesiru | 2018-11-17 01:27 | 355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡 | Trackback(4)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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167持統帝の孫・文武天皇の仕事
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169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
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232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫

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