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カテゴリ:348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係( 7 )

倭王国の興亡を年表で読む・七支刀と稲荷山鉄剣の年代

邪馬台国・伊都国・奴国などの小国が、倭国になった?
そもそも、三世紀の邪馬台国の時代は小国が沢山ありました。それがいつ倭国にまとまったのか。これまでも繰り返し書いてきました。それを、年表で見直してみましょう。以前にも紹介した年表です。倭・倭女王・倭国・倭軍・倭人と、いろいろ書き分けてあります。
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百済の成立は346年、新羅の成立は356年、4世紀の後半以降倭国と交流が始まったのです。
書紀の「神功紀」の記述に120年を足せば、年表として読めると云うことです。
此処で分かること、百済のために出兵できたのは、倭王が税を取り立て戸籍のようなものを握っていたということです。それなくして何度も出兵はできません。
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七支刀の倭国への献上は468年である
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七支刀については、「神功皇后の七支刀は誰のものだったのか」(カテゴリ・325冊封体制下の倭王讃珍済興武の野望)で取り上げています。

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成立間もない百済を倭国が助けたので、369年に七支刀を献上したとは思えません。ともに戦ったことの証のようなものではないでしょうか。
やはり468年、
半島内の高句麗・新羅・百済の三つ巴の争いに対して、「百済に援助した倭国への篤い感謝の気持ちをあらわしたもの」で、当然、倭王が受け取ったものです。然し、天皇家ではなく物部氏の宝物、七支刀は石上神宮の宝物となっています。
倭王権が滅亡する時(辛亥の変・531年)、王家が守って東へ逃げた(東へ侵入した)としか考えられませんね。すると、物部氏は、先代旧事本記が言うように九州から移動したのですね。
また、上の年表で
382年、襲津彦が出兵していますが、彼は唐津から船出しました。マツウラサヨ姫の伝承が唐津の鏡山に在ります。
襲津彦は、何処の人ですか。

彼は畿内の兵を連れて行ったのではなく、九州の兵を連れていったのです。襲津彦は故郷の娘との別れがつらかったのです。彼は九州の人でしょうね。
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倭王達は懸命に宋の冊封体制に入ろうとしました。書紀の記述となかなかかみ合いませんね。しかも、埼玉県行田市の稲荷山鉄剣の辛亥年が471年であれば、倭王武はまだ「倭王」になっていません。武が倭王になるのは、478年ですから。
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稲荷山鉄剣の辛亥年は、531年である
書紀の雄略帝は479年に没していますから、武が即位した翌年が雄略帝の没年です。書紀と外国の史書は全くかみ合いませんね。
わたしは、稲荷山鉄剣の「辛亥年」は、531年だと思います。鉄剣が発見された当初の学者の見解通り「531年」です。考古学的な資料で読み解かれたもので、既にブログで紹介しています。
江田船山の鉄刀と稲荷山の鉄剣の銘文を比べました。両者は、文化圏を共有し同じ首長に仕えています。その首長は「治天下大王」なのです。その大王家に仕えることを誇りとして「江田船山の鉄刀」が造られ、その大王家が滅びた後に「稲荷山鉄剣は作られたのです。これは、兼川氏によって読み解かれました。
倭王家は滅びたのです。所縁の人々は王家の誇りと家宝を以って東へ逃げました。
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と、年表を見直しました。
今日のまとめ

年表を見る限り、倭王は中国の冊封体制に入り、百済・新羅・高句麗と競い合っています。然し、日本書紀にはその事は全く触れられていません。「天皇の祖先が中国の臣下であった」と認めたくないので、敢て書紀には書かなかったというのです。ほんとですか? そうではなくて、近畿とは直接関係ない九州のことだからから書けなかったのではないですか。
先代旧事本記を見直さなくてはなりませんね。
物部氏の歴史を正史にすることはできなかったと云うことですからね?

今日は、ここまでにしたいのですが、
まだ、筑紫君と倭王の関係が残っています。
倭王家が辛亥年(531)に滅びたことは、分かりました。倭王家をそのまま筑紫君としていいのでしょうか。


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by tizudesiru | 2018-06-10 23:42 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback(34)

熊本の鉄と石の文化が、弥生文化の破壊と進化をもたらした

さて、今日は「脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係」のまとめに入ります。倭国とは北部九州を中心とする国であろうと考えられます。確かに「旧唐書」には倭国が出てきますが、「新唐書」にはありません。中国の史書には「日本はもともと小国で、倭国を併合した」とか「倭国は名前がみじめなので日本に変えた」とか、いろいろな情報があります。白村江戦の後に倭国と云う国が消えたことは、事実のようです。


倭国は九州のどの当たりにあったのか、この事を調べるのに考古遺物は貴重ですが十分ではありません。物は移動できるからです。そこで、祭祀線を使い始めたのでした。その結果、
三世紀後半以降から4世紀に、北部九州に入った勢力は近畿ではなく、熊本だったのではないか。倭国は、熊本の勢力が中心になって造った国であろう。

となりました。

今回は、その事を脊振山の南の古墳から考えてきたのです。

弥生の甕棺・木棺の墓制が、墳丘墓と石棺の墓制に変わったのは何故か
わたしは北部九州(福岡・佐賀)の弥生文化を潰したのは、鉄(工具・武器)を大量に持っていた九州中部(熊本)の勢力と思っています。

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その事は、発掘された遺物からも分かります。

佐賀県の吉野ケ里遺跡の銅剣・銅矛・銅矛巴形銅器の鋳型ですが、吉野ケ里ではこれらを生産していたのです、それも弥生前期に。 ここで出土するのは、細形銅剣ですから、中広形や広型に発展する前の段階、弥生前期の銅製品なのです。
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このように、弥生前期から脊振山の南側は発展していました。
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そこへ、狗奴国との争いが起こり、弱体化した北部九州に熊本の勢力が侵入してきました。彼らは鉄を使い石を削ることができました。

鉄の工具を持った彼らの生産力は高かったし、農業生産だけではなく、交易も抑えたのではないでしょうか。彼らは航海技術にたけていて貝の交易をし、半島にも容易に渡ることができたと思います。

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関行丸古墳には、貝輪が出土しています。海の民がもたらしたものです。鹿児島県の種子島、熊本県の宇城市、玉名市の貝輪とも共通します。

ここには金銅製冠帽が出土していました。特別の首長だった証拠でしょう。


首長は死して神となった・関行丸古墳

「この関行丸古墳の所在地は、佐賀市久保泉町川久保字神上(かみあげ)所属し、俗称関行と称している。」と古墳の報告書に書かれています。何と、川久保の神上という地名なのです。

つまり、この地に眠る首長は「神」になった人なのですが、墓制は石棺ではありません。徐々に別の勢力が浸透していたのです。
日ノ隈山、帯隈山の辺りは佐賀の脊振山の南の古墳文化の中心地で、そこに「神上」の字名がありました。そして、関行丸古墳・熊本山古墳・浦山古墳は直線でつながりました。
浦山古墳の家形石棺には、直弧文(ちょっこもん)

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浦山古墳から祭祀線を引くと、地域を越えた古墳とつながりました。この時代の交流は大きかったのですね。直弧文を持つ首長墓として、石人山古墳(八女)・井寺古墳(熊本県・緑川流域)があります。千足(せんぞく)古墳は岡山県の古墳です。
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浦山古墳と石人山古墳は石棺に直弧文が彫られていますが、井寺古墳は石障です。同じ首長墓でも、ルーツがやや違っているのでしょう。
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そして、とうとう九州の家形石棺の墓制は消えていきます。石棺文化は東に大移動するのです。
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古墳時代には、鉄の工具で石を刻む王族が、石棺を発展させました。
つまり、石棺の発祥地は熊本でした。
倭国となった北部九州の勢力は、農業生産力と鉄の技術力を持ち、石を加工し大きな富を得たことでしょう。

しかし、富は抗争を呼び起こし、石を使う勢力の内部分裂で石棺や鉄工具は全国に広がり、その権力争いや再編成が連続して起こり日本は政治的画期を迎えたのだと思うのです。その事が人口移動を引き起こしたと。結果、

鉄の技術を持った倭国の勢力は、日本海ルートを使って関東にまで進出した。

そのルートは鏡と鉄製品・文化や言葉や地名や食料の移動で辿れると思うのです。丹後半島から渥美半島へ陸路を通り、関東に北上したと思います。やがて、瀬戸内海の島々を抜けて、大阪・和歌山から畿内にも入ったと。それは、家形石棺の文化を伴った移動だったのです。

畿内勢力が九州に侵入したのではなく、九州勢力が畿内に侵入したのです。

邪馬台国の滅亡の時に先に東へ移動した人たちがいて、九州からの侵入者や移入者を受け入れたり抵抗したりして、様々に葛藤が起きたかも知れません。

それまでも人の交流は自然にあったと思いますが、支配者の移動は自然ではありません。
無理を通して、あるいは強引な方法で、武力を使っての侵入となりましょう。侵入した側が自分のルーツの石棺を望むのは自然な気がします。それが、熊本からの石棺の移入となったと。

今のところ、石棺は九州からの献上品とされて、一件落着となっています。
ホントですか? 蘇我氏も植山古墳(改葬前の推古天皇陵)も阿蘇石を使っていますよ。

では、推古天皇も、蘇我氏も、九州と関わりが深いと云うことですね。
この事に触れなければなりませんね。
今日は、ここまで

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by tizudesiru | 2018-06-09 16:27 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback

浦山古墳・石人山古墳(八女)井寺古墳(熊本)は直弧文で結ばれる

浦山古墳は久留米成田山の本堂の隣にあります。
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本堂に参拝して、鍵と懐中電灯を借していただきまます。
それから、隣の小高い森に進みます。すると案内板と階段が見えます。
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階段の先に建物。これが石室を保護する建物です。トビラを開けます。
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石室を上からのぞくことになります。
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縄掛突起のある組み合わせ式の家形石棺です。石棺の内側に直弧文の彫があります。この紋様が上津校区の文化財マップの表紙を飾っています。
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浦山古墳は、5世紀後半に造られたとされる現存60mの帆立貝式(ほたてがいしき)前方後円墳で、後円部の横穴式石室に妻入横口式(つまいりよこぐちしき)の家形石棺が納められています。家形石棺の屋根には4個の環状縄掛突起があり、入口は「はめ込み扉」とそれを押さえる閂(かんぬき)を持った精巧な作りをしています。石棺の内面は赤く塗られ、直弧文が彫られています。

直弧文は、筑紫君一族の墓という筑後市の石人山古墳にも彫られています。同じ筑紫君一族なのでしょうね。

遺物についてはよくわかっていませんが、勾玉・金環・刀剣・甲冑が出土したと伝わります。
では、熊本山からの祭祀線以外も何処とつながるか見てみましょう。
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赤は、白鬚神社・関行丸・熊本山・浦山古墳のライン。
黄色は、風浪宮・(浦山古墳)・高良山・高住神社(英彦山)のラインで、夏至の日の出のライン。
緑色は、浦山古墳。石櫃山古墳(久留米市)・西館古墳(久留米市)・田主丸大塚古墳と筑後川流域の古墳を4か所つなぐ。
水色は、浦山古墳・丸山古墳(八女丘陵)・方保田(山鹿市)の古墳をつなぐ。
ピンクは、浦山古墳・江田船山古墳(菊池川流域)・井寺古墳(緑川流域)
ピンクラインの江田船山古墳には横穴式石室に妻入家形石棺が置かれ、井寺古墳には石障に見事な直弧文の装飾があります。まんざら無関係とは思えませんが、井寺古墳は関行丸古墳とおなじく石棺ではありません。石障(石の間仕切り)が在るのです。死床を持つ横穴式石室は熊本から入った文化でしょうか。

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成田山は「浦山古墳の主を慰め鎮めるために造られた」という話は、とうとう聞けませんでした。この話を知っている人、教えてくださいね。
この古墳はなぜ、「うらやま」と呼ばれるのですか? まさか恨み山ではありませんよね。
では、この辺で。


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by tizudesiru | 2018-06-08 00:31 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback

熊本山古墳の被葬者は何者なのか

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日本一の舟形石棺の被葬者とは、何者か?!

日本一長い石棺の被葬者ですから、只者ではないでしょう。熊本山古墳の被葬者は、倭王の近親者だったのでしょうか。
そう思って副葬品の鉄剣を見ると、折り曲げられています。何故?

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何か理由があるでしょうね、日本一の長い石棺に副葬するのにわざわざ折り曲げるのですから。
この熊本山石棺より古い日本で二番目に長い舟形石棺が、熊本県宇土市で出土しています。あの阿蘇ピンク石=馬門石で有名な宇土市です。その向野田古墳の石棺を見ましょうか。

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向野田古墳の舟形石棺、被葬者は女性です。


石棺は、弥生時代後期の組み合わせ式箱形石棺から始まるのでしょうか。熊本では舟形石棺・家形石棺が多く造られています。石室も石棺直葬から竪穴式石室、横穴式石室と変化します。横穴式石室の時代には、装飾古墳が浸透してきます。この辺りで石棺から石屋形と呼ばれる様式に変化するようです。石室の石も小口から大石に変化していきます。それは、倭五王の時代と重なるのです。九州に倭五王がいたのなら、彼らは石棺に眠っていることでしょう。それも、倭王讃・倭王珍の時代は家形石棺になっているでしょうか。

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日本で二番目に長い「向野田(ムコウノダ)古墳」(前方後円墳・89m)の石棺は、小口の石を積み上げた竪穴式石室に置かれています。熊本県の宇土半島本部は、熊本では最も早く前方後円墳が築造された地域です。宇土市や八代市の博物館では、4世紀後半(350年以降)に向野田古墳を置いています。(ここには、まだ、三角縁神獣鏡が出現していません。)
そして、石棺直葬の熊本山石棺(4世紀末)より古い設定になってます。

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4世紀後半なら、熊本山石棺の被葬者は、倭五王の父や祖父の時代になるのでしょう。

長崎(壱岐・対馬をのぞく)佐賀・熊本は、古代の火の国(肥国・火国)でしたね。その頃の火国の中心は、古墳の状況から宇土半島基部から氷川流域だそうです。そうであれば、同じ文化圏ですから石棺は似たものが作られたでしょう。
 
それにしても、熊本山石棺の折り曲げられた鉄剣には、何か違和感があります。30mほどの円墳に石棺直葬というのも気になります。円墳の周囲には箱式石棺が何基も取り巻くように在ったのです。この人たちは、家臣か親族でしょう。ともに葬られたのは殉死でしょうか。それも前方後円墳でも竪穴式石室でもなく、30mの円墳の周りに埋葬、です。

こんな、謎だらけの熊本山古墳は、帯隈山神籠石に取り込まれています。しかも、「熊本山」だなんて、どんな伝承があるのでしょうね。
 

今日は。ここまでにします。

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by tizudesiru | 2018-06-04 00:18 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback

日本一長い石棺を出土した熊本山は何処にある?

熊本山古墳の所在地を探しました! 何処ですか!
博物館で聞いても、地図やネットで調べても、熊本山古墳の所在地が分かりません。
でも、熊本山を見たいと思いました。分かっているのは、

「久保泉町川久保の熊本山は、清兵衛山から連なる丘陵で独立丘となっている。標高は55mくらいである。」

久保泉は何度も通ったところでした。帯隈山神籠石や神代神社がありますから。しかし、熊本山は聞いたことがありません。たぶん何気なく見過ごしていると思います。
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清兵衛山を見つけました。帯隈山神籠石の内側に!
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案内板は以前来た時には見ていませんから、別ルートで来たのでしょうね。
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帯隈山と神籠池の堤が見えます。
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帯隈山・神籠池・清兵衛山。そして、ミカン山として開発された熊本山、ありました。
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これが、熊本山に違いありません。何度も通っただろう道の横にありました。

出かけるので、また後で

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by tizudesiru | 2018-06-02 09:45 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback

熊本山古墳(日本一長い石棺)の被葬者は何者なのか

日本一長い石棺を持つ熊本山古墳の不思議
前回、熊本山から出土した石棺の紹介をしました。石棺を見ると、古墳時代前期のように思えました。横穴式の石室ではありません。古墳に直葬されていたのですから。
博物館には、熊本山古墳と谷口古墳の副葬品が同じ所に展示されて「古墳時代中期」とされていました。
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(展示物の上部が熊本山古墳、下部が谷口古墳)
谷口古墳(佐賀県唐津市)は日本海側の玉島川の下流付近にある前方後円墳ですが、熊本山古墳は久保泉のの丘の上の30mほどの円墳だそうです。
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そうですか、これは熊本県八代市とつながる石棺なのですね、と思ったらどうしたことでしょうか。

石棺の石材の産地が違うのは、何故?
さがの歴史・文化お宝帳(佐賀市地域文化財データベースサイト)では、次のように説明されています。

熊本山古墳の説明文
佐賀市久保泉町川久保にある標高
55.5メートルの熊本山の北側高所から箱式石棺1、南側高所から箱式石棺5基と舟形石棺1基が昭和36(1961)に出土した。

舟形石棺は、径30メートル余りの円墳と思われる高まりの土中に直接埋置されていた。福岡県八女(やめ)地方産の阿蘇熔結凝灰岩を3室に刳りぬいた身と蓋(ふた)からなる石棺は、長さ4.3メートル、最大幅88センチメートル、身の最大高53センチメートルと長大で、内面は赤く塗彩されている。身・蓋とも刳り抜きや両端にある孔は対応し、身の両側面にも円孔が見られる。身の底部は、舟底形を呈しゆるやかな曲線をえがき、内部は、主室を中心に両端に副室を設けておりその構造は舟型石棺の名称にふさわしいものである。
中央室の刳り抜きは長さ2.03メートルで、造り出し枕に頭を置いた人骨1体と差し違えてもう1体の人骨があり、鉄剣2口・鉄刀1口が出土した。中央室の両側にある小形の刳り抜きのうち、枕側の北室に多くの副葬品が納められており、南室からは用途不明の鉄製工具1個が発見されたのみである。
北室からは、革綴(かわつづり)式の短甲(たんこう)1具、四獣鏡1面、鉄剣1口、釶(やりがんな)1個、鉄針1本、ヒスイ製とメノウ製の勾玉(まがたま)1個、碧玉製管玉(へいぎょくせいくだたま)18個、水色のガラス製小玉162個、碧玉製紡錘車(ぼうすいしゃ)2個が出土した。獣帯鏡(10.7センチメートル)徳島県節句山2号古墳出土鏡と同じ鋳型で鋳造されたもので、熊本山のものが後鋳品である。
この舟形石棺は、その構造および副葬品などからみても、畿内地方の文化の影響を強く受けた5世紀前半ごろの所産であると考えられる。


と、書かれています。重要な情報は、

① 箱式石棺と舟形石棺(4・3mで日本一の長さ)が出土。石材の産地は八女? 八代?

② 舟形石棺は周囲の箱式石棺とは違う30mの墳丘に直葬されていた。

③ 造り出し枕に頭を置いた人骨1体、差し違えて人骨1体。同じ石棺に2体

④ 皮綴短甲の副葬、四獣鏡・鉄剣・ヤリガンナ。

⑤ 獣帯鏡は徳島県節句山2号墳と同范鏡。
⑥ この舟形石棺は、構造・副葬品から見ても、畿内地方の文化の影響を強く受けた5世紀後半の所産である


⑥は驚きました、舟形石棺の構造と副葬品が畿内の影響
そうですか? 古墳時代となるので畿内が出てきますか? 大きな違和感がありますね。畿内が入り込むなら、何らかの闘争があったでしょうね?
無理がありませんか?
それで、畿内の影響とするために「熊本県八代地方」から「福岡県八女地方」に説明文が書き換えられたのですね。わたしの目には、熊本山石棺は普通に熊本県の舟形石棺がルーツだと見えますが。
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あらためて、谷口古墳と比べてみなくてはなりませんね。
谷口古墳は、竪穴系横口式石室で、熊本山古墳は舟形石棺直葬です。大いに違いますし、古いのは熊本山古墳の方ですね。
それは、次回に。




by tizudesiru | 2018-06-01 11:10 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback

日本最長の舟形石棺は、佐賀県立博物館に在る

脊振山地の南・佐賀県の古代豪族と倭国の関係
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(背振山地は南の有明海と北の玄界灘の間に連なる山塊で、南北では気候も生活環境も違いますが、南では古代から吉野ケ里のような弥生文化が開け、北では伊都国が目を光らせていました。) 
 
 倭国と日本国の関係はよく話に出ますが、倭国内の関係、つまり九州内の豪族の興亡や関係についてはあまり話に出ません。わたしは、倭国内の結びつきが気になるのです。九州で倭の五王の時代となると、石棺の時代になります。弥生の甕棺から組み合わせ式石棺となり、舟形石棺の直葬が現れて、家形石棺、横穴式石室、装飾古墳と変化していきます。順番がだいたい決まっているのですが、装飾古墳は6世紀とされています。石棺の時代から装飾古墳の時代なったのは、何か大きな出来事が起こり墓制が変化したのではないかと思うのです。
5世紀のおわりから6世紀初めにかけて、何かがあった……
つまり、舟形石棺の時代は倭の五王と重なるのですね。

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 わたしは舟形石棺の大きいものは熊本に在ると思っていましたが、10年ほど前「日本最長の舟形石棺は、佐賀県出土のものだと聞いたのです。佐賀県立博物館のロビーに置いてあるのを見たことはありましたが、今回改めて見せてもらいに行きました。
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熊本山古墳(佐賀県・久保泉町川久保字熊本山)の舟形石棺です。石棺の側面が底に向かってカーブしてます。それで、舟形と云うのでしょうね。博物館の展示室には、もう一つ石棺が在りました。
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写真の状態で発掘されたのですね。被葬者の横に鉄剣があります。
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 こちらは蓋の様子から家形石棺だと思ったのですが、舟形石棺となっています。ロビーに置かれていた舟形石棺と同じ佐賀市久保泉の川久保の「久保泉丸山3号墳」の石棺です。二つの古墳は同じ地域の古墳ですね。
久保泉丸山3号墳には、人骨が三体とは…被葬者の足元に固めてあったのですね。
更に、熊本県の菊池川流域の玉名市宮ノ後古墳の石棺とよく似ているそうです。


そうですよね。菊池川流域には家形石棺・舟形石棺、いろいろ出ていますからね。この辺りの豪族も熊本の豪族と親戚関係にあったのですかね。

彼らは何かあったら共に戦ったのでしょうか。それとも敵対したのでしょうか。気になります。それから、前回紹介した白山神社があった福岡県糸島市二丈町にも、舟形石棺が出土しています。糸島高校博物館に置かれていました。
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 御見事な石棺ですね。加工がきれいで中には丹が塗られていたそうです。

 ふうむ、なるほど、ですね。三例の舟形石棺を見ました。
 然し、三例の舟形石棺は、「舟形石棺」としてまとめられていますが、違いがありすぎますね。
 どのように理解すればいいですかね。どう見ても、一番古いのは、熊本山石棺のように思います。次は丸山古墳で、最後が二丈町のものですかね。タガネの技術がスゴイですね。熟練工が何処にもいた時代なのでしょうね。
 
こうしてみると、熊本と脊振山地の南側は早くから結びつき、その力は脊振の北にも広がったのですね。では、倭の五王の時代には、熊本の勢力の影響が脊振の南側から北側に広がり、石棺の文化は畿内まで伝播した、ということですか。

石棺はいろいろ語ってくれますね。佐賀県立博物館は、佐賀市の中央・城内に在ります。
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また、明日。

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by tizudesiru | 2018-05-26 23:19 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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大型鋳造鈴は何処で造られたのか
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全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1祭祀線で読む大宰府の位置
2祭祀線で見る竹原古墳
3祭祀線が交叉する間夫という山
4祭祀線で知る筥崎八幡宮
5祭祀線で弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
7祭祀線で読める八女丘陵の古墳のライン
8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
367謎だらけの津屋崎古墳群と宗像氏
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫

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