カテゴリ:346丹後半島に間人皇后の足跡を追う( 1 )

丹後半島・竹野川下流に間人皇后は身を隠したのか

古代の丹後半島は、高貴な人が身を隠す場所だった?
雄略天皇が兄の市辺押磐(いちのへのおしは)皇子を射殺したので、その遺児の憶計(おけ)と弘計(をけ)王が、真っ先に逃げた所が丹波国の余社(よさ)郡でした。ここから播磨の赤石郡に行き、名を「丹波小子(たにはのわらは)」と改めて、針間の縮見(しじみ)の屯倉の首(おびと)に仕えた(日本書紀)、とあります。

間人皇后も丹波国に逃げた
丹後半島の間人(たいざ)に在るのが、聖徳太子の母・穴穂部間人(はしうど)皇后の避難の伝承です。
丹後半島の北の景勝地、間人(たいざ)に行きました。

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砂浜の先に見えるのが竹野川の下流にある立岩です。
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立岩の辺りの海、夏はこのような美しい海になるのです。
立岩と向き合うのが穴穂部間人皇后の母子像です。
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用明天皇の皇后だった穴穂部間人皇后は「蘇我物部戦争」を避けてこの地に避難したと云うことです。
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まず、間人(たいざ)の役所に行きました。そこで、間人皇后の伝承と祭について聞きました。知っている人が少ないようでした。
皇后伝承の祭りは、間人町(たいざまち)の祭りではなく「個人的な、少数の家の人が続けている祭」だそうです。

役場で「間人皇后に所縁ある場所かも知れない」ところ、「御所の坪」という意味ありげな場所を教えてもらいました。
役所の方とお寺の方に教えてもらった場所は、家一軒ほどずれたでしょうか。でも、ほぼ同じ所でした。

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早速、行ってみました。
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祭の御神輿は、三柱神社から出るそうです。
奥の鳥居が三柱神社です。海からの斜面を上り詰めた所に神社があります。
「御所の坪」は、だいたい海と神社の間にあるようです。海に向かって降りましょう。

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「御所の坪」という小字(こあざ)の地名に付きました。
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そこは狭い空き地でした。集められたお地蔵さんが置かれていました。
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阿波国二拾三箇所の石塔が建てられていたので、ここにお詣りすれば二十三カ所を巡礼したことになったのでしょうね。

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お寺の奥様のお話によると、伝統の祭りを行っているのは、東さんと言う方々だそうです。祭の案内板は、先ほどの役所の筋向いにありました。

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小さな祠が水無月神社のようです。謂れが書かれていました。
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川すそ祭りは、ここの「水無月神社」で行われているようです。

祭を執り行っている人達は、竹野川を中心とした交通運輸の仕事をしていて、その神として水無月神社を祀って来たそうです。

此処に用明天皇の皇后・穴穂部間人皇后が「蘇我物部の乱」を避けて、大浜の地に避難したという伝承があると書かれていました。祭を執り行っているのは、皇后について来た供人だと云うことです。

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間人の川すそ祭の謂(案内板に書かれていること)
間人と書きて、タイザと読む

不思議のいわれを調べ、我が東氏の由来を探求しここに明文にする。水無月神社は内外の浜なる後ヶ浜川尻に鎮座す。東氏の祭神たる水無月神社は、東氏の遠い先祖より毎年七月二十八日(旧暦六月二十八日)に竹野川の川尻松林に同族相集い、夜を徹して神前に篭り、立岩厳頭に御幣を掲げ、かがり火をこうこうとたき盛大にして賑々しく、斎宮神社の桜井宮司の司祭にて祭神せるものなり。竹野川の川尻松林に大太鼓を叩く響きはしょうらい(松風の音)と共に木霊し、善男善女の参拝は引きも切らず、また妊産婦の参拝は特にに多し、露天は軒を並べ、客を呼ぶ声も高く世の更けるを忘るる程なりしが、敗戦後は髪を軽んずる風潮を生み我が水無月祭も疎となりたり。されども、東氏の遠き祖先より祭事せるものを廃断するは誠に遺憾にして、祖先に対し相済まぬ儀と心得、またこの伝統ある祭事を子孫に伝える義務ありと思料し(中略)神社を行者岩の境内地に昭和51年11月6日千遷宮せるものなり。

間人に於いて各種氏姓あれど一つの氏のみが一つの神事をし、年に一度同族が相集う行事は吾ら東氏のみにして他姓にはなし。

東氏のみが何故何時のころからかかる行事を行いしにや不明なれど、古き昔より口伝を以って相伝え今日に至れるものなり。水無月神社は東氏のみにて祭事せるも、その講中に只一人異姓に者あり。泊氏なり。何故泊氏が東氏請中に加わりしにや不明なれど、往古よりともに祭事す。‥‥我が間人は第31代用明天皇の御后穴穂部間人皇后を通じ大和の国斑鳩の宮との所縁あり。東氏の祖先を明らかにするため古事記、日本書紀またその他の文献より左に明文する。

10世紀の和名抄には間人、大日本地名辞典には「間人は愛人のこと」、土師人の意かとも言い、15世紀の一色軍記には「対座」とあり、丹後旧記には田伊佐津とある。現在の定説は、間人村濫觴記なり。(前掲)東氏の鼻祖は東漢直駒の後胤にして、千余その血脈は二流三流に別れ連綿として繁茂せり。また木目見宿祢は相見となり、浦田麿の子孫は谷、上谷、下谷、小谷と称し、下戸部は下戸に、穂見中江麿は中江に、中臣スグリは中村となる。その外記するに枚をもて挙げるべからず。千余連綿として子孫の繁茂黄するはみな鼻祖の余訳なるべし。水無月神社の祭りを司っている。
上記のように案内板に書かれていました。

「間人(たいざ)がに」で有名な「間人(たいざ)」ですが、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)ゆかりの旧跡であると、「丹後町史・間人村濫觴記録」が伝えているそうです。

聖徳太子の母であり、用命天皇の后であった間人皇后が、夫の死後、蘇我馬子と物部守屋の争いに巻き込まれ、丹後の地に難を避けて、大浜の里(現在の間人村)に滞在したそうです。
この時、間人皇后に仕えて同行した中に、後に蘇我馬子の命令で崇峻天皇を暗殺し、その後天皇殺しの罪で蘇我馬子に惨殺される東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)がいました。東さんはその末裔と称されているそうです。

聖徳太子と蘇我馬子に物部守屋が滅ぼされて、間人皇后は大和の地へ戻ることになり、その時、大浜の里を離れる時に三首の歌を残されました。

大浜の あら塩風に 馴れし身の またも日嗣(ひつぎ)の ひかり見るかな

大浜の 里にむかしを とどめてし 間人村と 世々につたへん

大浜に つとふみやこの ことの葉は 行末栄ふ 人の間人

間人皇后が大浜の里を退座するのに因んで、間人(退座)村と宛名したと、「間人村濫觴記録」が伝えています。間人=はしうど(はしひと)と呼んでは失礼だというので、「退座された地」と云う意味で「たいざ」とよぶことにしたのだそうです。
残された三首を見ると、後の世の人が作歌したとも思えますが。

日本書紀では、
敏達天皇の十四年(585)八月、敏達天皇崩御。九月、用明天皇即位。
用明天皇一年(586)穴穂部間人皇女を立てて皇后と為す。
  二年(587)四月、天皇、仏教への帰依を詔す。天皇崩御。

   六月、蘇我馬子、炊屋姫尊を奉じ、穴穂部皇子と宅部皇子を殺させる。
   七月、蘇我馬子、物部守屋を滅す。
   八月、泊瀬部皇子(崇峻天皇)即位。

上のように展開していますから、穴穂部間人皇女が間人(たいざ)に逃げたのは、587年の5月(6月)から8月の間と云うことになりますね。
皇后が大浜の里に滞在したとしても、三ヵ月ほどになるでしょう。

間人(たいざ)の間人(はしひと)皇后は、用明天皇の妃でしょうか。

穴穂部間人皇后は、直接「日嗣・皇位継承」に関わってはいないように思います。馬子は後の推古天皇を奉じていますし、間人皇后は用明天皇崩御後に用明帝の長子の田目皇子の妃になっているからです。

田目皇子の母は、蘇我稲目の娘・石寸名(いしきな)です。用明天皇の母は稲目の娘・堅塩(きたし)媛でした。用明天皇は、叔母を殯として迎えたのですね。蘇我系の皇子に皇位継承権があったようですね。
 
欽明天皇の有力な皇子皇女の出自は、ほとんどが蘇我氏となっています。

欽明紀では、蘇我稲目の娘・小姉君が生んだのが、埿部(はしひと)穴穂部皇子で兄、即位した崇峻天皇=泊瀬部(はつせべ)皇子は弟になります。書紀の欽明紀では「はしひと」を埿部と表記しています。

古事記では、間人穴太部(はしひとのあなほべ)王、長谷部若雀(はつせべのわかさざき)命となっていますが、埿部穴穂部皇女に当たる女性としては三枝部穴太部(さえぐさのあなほべ)王=須賣伊呂杼(すめいろど)、ですかね。
 
古事記・日本書紀では、人名表記に差異があります。これは、元の資料が違っていると云うことですね。

では、本題です
間人皇后はなぜ丹後半島に逃げたのか
確かに、穴穂部間人皇女も、兄と弟の皇位継承問題にかかわって身の危険を感じたかも知れませんね。それで、三カ月ほど逃げた…ですかね。
(それにしても、田目皇子の妃となったのは何故でしょうか。蘇我系の皇女は外に出さない、外の氏に「皇位継承者の血統」は渡さないという蘇我氏の意思なのでしょうか。「血統こそが財産」の時代ですからね。)

それとも、穴穂部間人皇后ではなく、有間皇子事件を目撃した中皇命(間人皇后)が皇位継承の御璽を持って、兄の中大兄皇子から逃げたのでしょうか。
数年後、見つけ出されて連れ戻されて、その後…薨去となり、葬儀の後に母の斉明帝と合葬され、遂に中大兄皇子が即位した、と云うことでしょうか。
そうであれば、
大浜の あら塩風に 馴れし身の またも日嗣の ひかり見るかな

「またも日嗣のひかり見る」この別れの歌の意味も分かる気がするのですが。

では、この辺で。


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by tizudesiru | 2018-04-27 20:30 | 346丹後半島に間人皇后の足跡を追う | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
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174高市皇子の死の真相
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181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
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188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
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192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
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198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
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211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
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218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
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221斑鳩寺は若草伽藍
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224樟が語る古代
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232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
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236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
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243 柿本人麻呂と玉津島
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245雲居の桜
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247岩戸山古墳と八女丘陵
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249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
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294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇で思う事

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