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カテゴリ:329祭祀線で読む倭王の交替( 5 )

狗奴国から糸島、そして津屋崎に進出したのは、倭王だった

平原王墓の巫女王が、卑弥呼宗女壱与(臺与)なら、その霊力は封じられた
福岡県糸島市の平原王墓の主は、霊力を象徴する鏡を全て割られていた

壱与の次の時代、
 
王位を奪った一族(一貴山銚子塚古墳を築造)の霊力
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次の王は、平原王墓の巫女の霊力を象徴する鏡を全て割り、霊力を封じた
東西祭祀線上に築造された一貴山銚子塚古墳は、糸島では最大の古墳

一貴山銚子塚の主は成功しましたが、一族は支配を確立できたのでしょうか。
彼らの狙いは、伊都国の統括だけではなかったようです。もっと広く世界を見ていたと思います、大陸や半島を、倭王として。

(倭女王から倭王の地位を奪った一族は、伊都国から監視役のような「一大率」や「大倭」という役職を奪ったかも知れません。
*一大率とは魏志倭人伝に書かれた検察権力を持った役職で、伊都国に置かれていました。大倭も魏志倭人伝に出てくる役職で、交易や税を監視していました。

では、一貴山銚子塚古墳の次の世代の端山古墳を祭祀線でみます

端山古墳は柄鏡形の前方後円墳で、一貴山銚子塚と同じ南北の主軸線ですから、同じ一族の墳墓でしょうね。端山の後の世代、帆立貝型の築山古墳が近くに造られましたが、築山古墳は墳丘が小さくなりますから、首長との関わりが薄くなったのでしょう。一族の間で優劣はあったでしょう。

大型古墳が太陽祭祀線上から外れていくのは、太陽祭祀から祖先霊の祭祀へ変わったからではないでしょうか。
古墳の並びや形態を見ると、一貴山銚子塚の一族の中で様々な権力争いもあったと思われるし、権力者が糸島から離れたかも知れません。

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端山古墳からの直線がつながるのは、福岡県福津市の勝浦高原古墳でした。何で、そんなところに?

それは、倭王が海北を目指したからでしょう。
伊都国からではなく、倭王として半島に進出するには、広い船泊と船出の浜が必要でした。最適な場所、そこは、福津市の勝浦海岸でした。勝浦は、津屋崎湾が深く入り込み、天然の良港です。更に船団を組んだ船が一斉に出航するのに最適の勝浦海岸が外海に開いていました。
 端山古墳の一族が津屋崎の広い内海に目を付けたのは、新羅への出兵の為でした。
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(右から勝浦港・草崎(岬)・奥に勝島・更に奥に大島)
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(ひろい田園が広がります。奈良時代には津屋崎湾の一部、ここは海でした。)
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祭祀線は勝浦高原古墳に結び付きます。
三雲南小路王墓~端山古墳~今宿大塚古墳~勝浦高原古墳が直線でつながりました。(今宿大塚は6世紀で、後に造られた)
勝浦古墳群は、北部九州ではこの時期に最も勢いがあったようです。

沖ノ島祭祀をしたのは、勝浦峯ノ畑古墳の被葬者

糸島の大型古墳が衰退した後の世代では、勝浦峯ノ畑古墳が最大規模であり、勝浦地域では勝浦高原古墳が最も古い時期となります。
わたしは、沖の島の岩上祭祀をしたのは、この津屋崎古墳群の人達だったと思います。勝浦峯ノ畑古墳に副葬されていた三角縁神獣鏡は、沖ノ島のものと同范鏡でした。同范鏡とは、同じ鋳型で造られた鏡と云うことです。
岩の上に置かれた奉献品は、同時代の古墳の副葬品と同じだというので「王権祭祀」とされ、その王権がヤマト(近畿)にあったというのが定説です。
近畿の王権祭祀? ホントでしょうか。
確かに、武器や武具を奉献した理由は、単なる航海の安全祈願だけではないでしょう。半島に出兵する際の戦勝祈願も大きかったと思います。だからこそ、船出の地も「勝浦」と呼んだのです。背後の山は「勝浦岳=桂岳」です。


倭五王の時代、草崎(いくさざき=戦﨑)を見て、勝島に見送られながら、若い兵士が半島に渡ったと思います。万感の思いを込めて「名兒山」を見つめたことでしょう。愛しい子(娘)の名を胸に刻みながら。沖ノ島を過ぎると、もう引き返すことはできません。

沖ノ島の岩上祭祀は4世紀半
ちょうど、倭五王の半島出兵とリンクしています。ですが、倭五王は近畿の人ではありません。
兵を集めるには、権力者が集団を支配し、税や戸籍を掌握しておかなければなりません。そして、半島に渡るための舟や港を持たねばなりません。
北部九州や海北の航路を熟知した者にしか、半島進出はできないと思います。

半島進出に倭王がこだわり続けた理由
それは、半島侵攻が目的で北部九州に進出した人々だからです。
そうとしか、考えられません。弥生時代、女王国と戦った狗奴国の人たち。飢饉のために困窮する女王国を見ながら支援せずに、半島への進出を押し通した氏族だと思います。

再度、確認してみましょう

北部九州が早くから大陸や半島と交流があったことは、狗奴国の人も早くから知っていました。狗奴国は有明海から引き潮に乗って五島列島まで渡り、半島を目指したと思います。古くから鉄を求めて、半島へ渡っていたはずです。
倭女王卑弥呼は新羅と友好国となりましたが、狗奴国はどうでしょう。
有明海ルートの他に、更に、海北の航路が欲しかったのです。そこで新羅との軋轢が生じ、それを解消するために半島に出兵することになったので、どうしても北部九州を支配したかったと思います。
そして、新羅を討つつもりだったと。

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193年の大飢饉で、邪馬台国と友好国だったから新羅は難民を引き受けたのです。交流も深かったはずです。だから、突然の侵攻(208)は有りえません。
わたしは、新羅本紀には狗奴国と倭国のことがかき分けられていると思うのです。
大きな権力がなくては出兵はできませんから、侵攻したのは倭人の国に違いありません。
新羅本紀では「倭人」「倭国」「倭女王」と使い分けています。倭国と倭人は別の集団なのでしょうか。新羅本紀の編纂者は意図的にかきわけているのでしょう。
年表を見る限り、「倭国」は663年に百済救援をした国です。「倭人」はずっと新羅に侵攻し続ける国なのです。

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倭王は「倭人」と書かれた国の王だった

北部九州に進出した狗奴国出身の支配者は、半島進出に心を奪われていました。そのために、狗奴国の進出を嫌って東へ逃げた人々が経済を握り、徐々に力をつけて行くことなど考えもしなかったでしょう。

(以上何度も何度も書いて来たことです)
今回付け加えたのは、半島進出を願ったのは倭五王達であり、かれらの出自は狗奴国である。半島進出の目的を達するために勝浦海岸に進出し、沖ノ島祭祀を始めたと云うことでした。
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(ためしに、平原王墓と勝浦峯ノ畑古墳を結んでみましょう。すると、糸島地域の兜塚古墳をラインが通りました。このラインが有効なら、兜塚古墳の被葬者は弥生女王と勝浦峯 ノ畑古墳の霊力にあやかりたいと思ったのでしょうね。)

ではまた、明日。
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by tizudesiru | 2018-03-15 01:02 | 329祭祀線で読む倭王の交替 | Trackback

祭祀線で読む倭王の交替!歴史の闇に消えた宗女壱与

卑弥呼宗女壱与を歴史の闇へ落としたのは、まぎれもなく倭王である


一貴山銚子塚古墳の被葬者に

大接近

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平原王墓の被葬者を「玉依姫=オオヒルメノムチ」としたのは、原田大六でした。
彼は中山平次郎博士の弟子となり、板の間に毎日6時間正座し、9年間もマンツーマンで考古学を学びました。戦後、公職を追放された原田は、考古学に全身全霊で立ち向かったのでした。

その原田が遭遇した平原王墓です。わたしは運命の歯車を感じます。彼は、大きな発見をしました。それは、伊勢神宮の八咫の鏡が、「八頭花崎八葉」の文様であるという記録でした。そこで、ご神体は天照大神の別名のオオヒルメノムチの依代であると考え、モデルとなった平原女王墓の年代を2世紀後半に設定したと思います。


平原王墓の築造は2世紀後半ではない
2世紀後半なら、三雲南少路遺跡や井原鑓溝遺跡との時代的な釣り合いが取れません鏡の大量破壊や大型鏡の副葬は、明らかに前者より後の時代だからです。他の大型鏡は、古墳時代の出土だからです。
原田大六は、百年早く設定してしまったのです。中山平次郎博士について三雲南少路も井原鑓溝も周囲の遺跡も調査しているはずなのに、原田大六は「神話に引き込まれた」と思います。


平原王墓こそ、宗女壱与(臺与)の墓!八咫鏡を5面も持った女王
平原王墓の巫女王は最高の地位にありましたが、三雲南少路の夏至の日没の方向、王都の西、瑞梅寺川を渡った先に埋葬されました。あまりな仕打ちと言えるでしょう。それを指示したのは、後の世の権力者で、宝満・飯盛山の太陽の道に埋葬された人です。

その人こそ、東西ラインと呼ぶ、太陽が真東から上る聖なる祭祀線上に眠る権力者=一貴山銚子塚の被葬者
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宝満山・飯盛山の東西祭祀線の西に位置する一貴山銚子塚古墳

一貴山銚子塚古墳は、何度も取り上げたので内容が重複するかも知れません。

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写真では後円部が北にあるように見えますが、逆で後円部は南に在ります。主軸線は南北です。

柄鏡型(えかがみがた)の初期古墳、後円部が南、前方部が北。竪穴式石室に朱が塗られていた。

後漢鏡2面(内向花文鏡・方格規矩鏡*金メッキ)*頭部近くに置かれていた 
三角縁神獣鏡8面(木棺の傍らに並べられていた)
鉄鏃と大刀と剣(鉄製の素環頭大刀、鉄剣)6振
勾玉と管玉(左右の手に腕飾り)

(出土物は、京都大学が持っているそうです。京大は、考古遺物を福岡に返すべきです! 地元の人が協力して発掘したのに、持って行ってしまうのは過去の習慣で、今後は管理研究を地元に任せるべきではないでしょうか。その方が、地元の人の目に触れます。)

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ここは、未盗掘の古墳だった!


未盗掘には大変重要な意味があります。この時代の首長はどのように葬られたか分かるからです。

後漢鏡(一面は金メッキ)は大事だったから頭部に置かれた。三角縁神獣鏡はそれなりに置かれた、などなど。大刀にまだ飾りが見られないから、平原王墓の素環頭大刀からあまり時間を経ていない古墳だとか、この時期には、三角縁神獣鏡が国内で造られていた、とかも分かるでしょう。

祭祀線で一貴山を読む
ここには、弥生の葬送儀礼が残されました。しかし、東西ラインの太陽祭祀線上に乗りながら、墳丘の主軸を南北とし方向を考えています。明らかに新しい祭祀を始めようとしているようです。
この前後に、伊都国では古墳がつくられますが、南北に主軸が向くタイプと、東西に主軸が向くタイプ、その他が見られます。

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一貴山銚子塚・丸熊山・若八幡・井原1号・ワレ塚・端山。南北に主軸、南に後円部

一貴山銚子塚古墳
のような南北主軸線タイプ(上の画像)を祭祀線で見ると、例えば若八幡古墳とワレ塚古墳は、一貴山からのラインに乗ります。ついでに、細石(さざれいし)神社が乗っていますが、志賀島出土の金印(国宝)はこの神社のご神体だったという伝承もある神社です。

卑弥呼がもらった金印(親魏倭王)の伝承が先にあって、志賀島の委奴国の金印(漢委奴国王)との噂が混戦したのかも知れませんが、興味がわきます。ピンクのラインは、宝満・飯盛山の東西祭祀ラインですからね。ここは、伊都国の領域です。

黄色のラインは、夏至の日の出のラインです。このまま進むと、香椎宮本殿をかすめ、遠賀川流域の六ヶ嶽山頂まで届きます
。(このブログでも、一貴山銚子塚古墳の主が遠賀川流域の六ヶ嶽に降臨(侵略)したことを書いています。それは、祭祀線で読んだことです。)


若八幡古墳は一貴山銚子塚より後の時期の古墳です。刳り抜き形木棺の周りは粘土。井原1号墳や一貴山銚子塚古墳と同じように、粘土の間に鉄器が挟み込まれていました。ここには、方形板皮綴短甲が副葬され、最古級の甲冑の一つとなっています。
つまり、一貴山銚子塚に甲冑は副葬されていないので、若八幡が後の新しい古墳だとなります。ここ若八幡でも、鏡(三角縁二神二獣鏡)が頭部に置かれていました。大刀も三葉環頭大刀で後の時代のものです。素環頭大刀ではないのです。



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今宿大塚・銭瓶塚・西堂古賀碕・賽の本1号 などは東西に主軸、東に後円(稲葉1号・池ノ浦、西に後円)
今宿大塚古墳は6世紀の後期の古墳です。今宿大塚古墳は柄鏡型の前方後円墳ではありません。前方部は大きくなっています。この時代になって、東西の主軸に変わる何事かが起こったのでしょうね。




今日のまとめ、
⓵伊勢神宮の御神体は、八頭花碕八葉の八咫鏡(大型鏡)である。
 その鏡は、福岡県の糸島市(伊都国)の平原王墓の鏡と同型である。(前回)
平原王墓の女性王は、東西祭祀ラインから外されている。それは、首長の交替があったからである。
➁平原王墓の被葬者の地位を奪ったのは一貴山銚子塚の被葬者である。彼は弥生の葬送儀礼を継承しながらも、祭祀を変えた。辺りの有力者を傘下に取り込んだ。


卑弥呼宗女壱与を平原に封じたのは、一貴山銚子塚の被葬者である

原田大六氏に敬意を表しながら、以上紹介しました。

古代の王や女王が選んだ祭祀ラインのパワースポットは、明日紹介しましょう。


これは、余談


一貴山銚子塚を掘ったのは、有光教一や小林行雄や森貞次郎です。なかでも、三角縁神獣鏡の研究で知られる小林行雄は一貴山銚子塚から出土した三角縁神獣鏡の同型鏡の研究を進め、「同范鏡論」の基礎を築いたのです。
一貴山銚子塚は、古墳研究の基となるべき古墳です。古墳の形、出土物、弥生時代との接触、など時代の変化と副葬品の推移を探るのに最高の場所・糸島市に出土した初期古墳なのですから。

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糸島市の皆さん、一貴山銚子塚古墳の考古遺物を京都大学から返してもらってはいかがでしょうか?
九州国立博物館にでも、永久貸し出しをしてほしいと思うのは、わたしだけでしょうか。

では、明日はパワースポット・細石神社です。

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by tizudesiru | 2018-03-11 10:53 | 329祭祀線で読む倭王の交替 | Trackback

伊勢神宮の八咫鏡、天皇家の祭祀は伊都国から始まった

伊勢神宮の八咫鏡、
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天皇家の祭祀は伊都国から
古墳への鏡の大量副葬の風習は、北部九州から始まりました。
伊勢神宮のご神体=八咫鏡も北部九州が発祥の地です。
伊勢神宮のご神体
八咫鏡
直接見ることはできません。
原田大六は「八咫鏡と同型だ」と言った
福岡県糸島市の
平原王墓(1号墳)を発掘した原田大六は「1号墳から出土した大型内向花文鏡(内向花文八葉鏡)を其の文様と大きさから八咫鏡と同型ではないか」という説を示しました。


伊勢神宮
に関する『御鎮座伝記』
「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉也」とあります。そのまま、八つの頭花・八枚の葉の形 の文様の鏡なのです。
将に、弥生遺跡の平原王墓の大型銅鏡の文様です。


八咫鏡=八頭花碕八葉の文様の鏡
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古墳時代の大型内向花文鏡と比べてみましょう。
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伊都国歴史博物館の図録の紹介写真を見ると、大型鏡の中で、内向花文鏡は三面です。
平原王墓(糸島市)柳本大塚古墳(奈良県)下池山古墳(奈良県)

平原王墓
の銅鏡は鈕の周りに八葉の文様がありますが、柳本大塚も下池山も四枚の葉しかありません。では、八咫鏡は、柳本大塚・下池山古墳の鏡ではありません。


伊勢神宮の八咫の鏡と同型は、平原王墓の銅鏡のみです。すると、
平原王墓の被葬者は、伊勢神宮に祀られている天照大神のモデルだった。だから、伊勢神宮は大型内向花文鏡をご神体とした。

すると、倭国の武人が各地に天下ったのですね。
ここで、疑問符。なぜ、平原王墓の女性は首長が眠る祭祀線上に埋葬されなかったのでしょうか。


それは、政変により倭王の地位を奪われたからです。では、誰に? それは、首長が眠るべき位置を奪った人物、一貴山銚子塚古墳の被葬者だと思います。では、次に

一貴山銚子塚古墳の被葬者に大接近
しましょう。

今日のまとめ
伊勢神宮の御神体は、八頭花碕八葉の八咫鏡(大型鏡)である。
 その鏡は、福岡県の糸島市(伊都国)の平原王墓の鏡と同型である。
➁平原王墓の女性王は、東西祭祀ラインから外されている。それは、首長の交替があったからである。
③平原王墓の被葬者の地位を奪ったのは一貴山銚子塚の被葬者である
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by tizudesiru | 2018-03-10 15:30 | 329祭祀線で読む倭王の交替 | Trackback(788)

祭祀線から外された平原王墓の巫女王は壱与(臺与)か

すべて割られていた平原王墓の銅鏡
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平原王墓は弥生の周溝墓です。そこには割竹形木棺があり、40面の銅鏡が副葬されていました。一つの墳丘墓で40面の銅鏡の副葬は、平原王墓が一位です。
内向花文鏡の5面は大型で、銅鏡の中では最大です。(鏡もすべて国宝です)


40面の銅鏡は全て割られていました。
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(福岡県糸島市の平原王墓の内向花文鏡・伊都国歴史博物館)
 
出土状況を見ると、明らかに割られています。ここに、何か理由があるはずです。
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近隣の王墓も割られていたのでしょうか。伊都国の井原鑓溝遺跡・中原遺跡・三雲南小路遺跡を見ましょう。

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江戸時代に発見されたという井原鑓溝(いわらやりみぞ)の鏡は、記録によると割れていますね。三雲南少路王墓も、中原遺跡の鏡も割れていました。
後の世に撹拌されて割れたのでしょうか。初めから割られて副葬されたのでしょうか。
割れたのか、割られたのか、判断しにくいです。
割られたと断定できるのは、平原王墓だけです。

では、福岡平野の須玖岡本王墓はどうでしょう。
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須玖岡本遺跡の銅鏡も細かく割れています。
須玖岡本の大石の下にあった甕棺の銅鏡ですが、細かく割れています。大石に押しつぶされたのでしょうか。それとも、割った銅鏡を副葬したのでしょうか…

同じく甕棺の銅鏡が副葬されていた福岡県飯塚市の立岩遺跡。こちらの鏡はきちんと残っていましたね。

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?立岩遺跡の銅鏡は割られていません。キチンと元形をとどめています。後の世に撹拌されなかったからでしょうか。それとも、割らずに副葬したのでしょうか。

割られていた平原王墓の銅鏡の意味は

伊都国と須玖岡本の王墓も割られていたとなると、そこに、弥生の王の悲劇が見えるのではないか


では、祭祀の上でも敗北した平原王墓の女性は、誰なのか。
わたしは、壱与(臺与)だと思います。

祭祀具である鏡が割られたのは、政治や祭祀に関する事件があったからです。それは、「世々、王あり」と書かれた伊都国で起こった事件ですから、「倭人伝」とつながる出来事です。卑弥呼の後を継いだ壱与の運命を物語る墓だと思います。

須玖岡本の大石の下にあった甕棺の銅鏡は細かく割れていたのに、同じような甕棺の立岩遺跡の鏡はきちんと残っていましたね。甕棺という条件は同じです。
理にかないません。どちらも残っていいはずです。
飯塚と福岡・糸島では、葬送儀礼に違いがあった、のです。

確認しますが、須玖岡本の甕棺は大石の下にあったのだから、後の世の人が壊して埋め戻したりはしていないでしょう。初めから割れていたと思うのが自然です。

思い出してみると、吉武高木の銅鏡は割られていなかったと思います。

平原王墓(須玖岡本王墓、三雲南少路王墓)の銅鏡は、割られていた。その理由は政変!


由々しき事態です。そこには、政権の交替が見えるからです。
弥生時代の政変に巻き込まれた女性王となると、限られます。

最大の銅鏡(経46・5cm)を5面も副葬し、数も最高だという平原王墓
 
そこは、ただの巫女、単なる巫女王の墓ではない
此の女性は特別の人、倭の女王以外には考えられません。

割られなかった古墳時代の銅鏡

次の古墳時代の鏡は割れていないのです。
伊都国の初期古墳の鏡の写真を見ましょう。3世紀末から4世紀初めの遺跡から出土したものです。
最近、古墳の年代がちぐはぐですか、九州では余り年代は動きません。

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どの古墳の銅鏡にも、故意に割られた痕跡は見当たりません。

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平原王墓は、宝満山からの弥生王墓の聖なるラインの上には乗りません。

外されたのか、外れたのかですが、わたしは外されたと思います。

交代して東西ラインに葬られたのが、一貴山銚子塚古墳の主でした。祭祀線上に乗る古墳には大きな意味があるのです。
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卑弥呼と壱与の墓は何処に造られたか

倭女王・倭王について考えている途中です。「王」の称号は中国の冊封体制に入った証でした。
卑弥呼は「倭女王」でした。倭の国王と名乗ったのです。倭の女王として、彼女が何処に住んでいたか、何処に墓があるか、中国の使者が知らないはずはありません。
その事を解くチャンスがありました。
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卑弥呼の墓を追及するチャンスに遭遇したのは、原田大六でした。
1965年、平原遺跡の発掘が始まりました。
1号墓(平原王墓)は2世紀後半とし、銅鏡・鉄の素環頭大刀・勾玉という「三種の神器」を思わせる副葬品、「八咫鏡」と平原王墓出土の大型鏡との類似性から古墳との共通性を推測しました。更に、被葬者を太陽に関わる神事を行っていた巫女とし、被葬者を

玉依姫=大日孁貴尊(おおひるめのむち)=天照大神

と推量したのでした。彼は、記紀神話の記述を北部九州で起きた史実を記録したものだと考えたのです。

確かに、神武が東の日向峠から侵入したというのでしょうか。クシフルダケも東の連山にありますし、細石(さざれいし)神社もあります。
原田大六は、「発掘報告書」より価値のあることを発見したと思ったのでしょう。


平原王墓は、考古学の研究対象になれなかったのです。
原田大六著「実在した神話」は、既に忘れられたのでしょうか。

伊都国歴史博物館の西に原田氏の銅像があります。

しかし、
平原王墓が弥生の方形周溝墓として、弥生の墳丘墓として検討されることはほとんどありませんでした。

平原王墓の築造は、いつでしょうか。2世紀後半か、3世紀半ばか、3世紀後半か?

ここは重要です。被葬者が特定されるからです。大型銅鏡が八咫鏡であるなら、3世紀後半になります。

弥生時代の八咫鏡の副葬は、平原王墓だけです。後はみんな古墳時代の大型鏡です。

その意味は、ひとつ。
八咫鏡の文化の発祥は、伊都国となります。天照大神の祭祀は、ここから始まったとなります。古墳時代に引き継がれたのは、鏡の大量副葬でした。
では、では、古墳文化は、まさに伊都国の弥生の巫女王の伝統を継承したことになるのです。


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もしかして、日本のふるさと?

そうなりますね。それが、他の地域に伝播したのです。
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今、倭王について考えている途中です。
中でも、倭女王は避けて通れませんから平原王墓について書きました。倭王、彼らが何処から来て、何処へ消えたのか、それが問題です。

また、明日。




by tizudesiru | 2018-03-09 11:53 | 329祭祀線で読む倭王の交替 | Trackback(2923)

倭王の交替・邪馬台国以後の倭王の出自は中九州

わたしは、倭王が何処に住んだのかを祭祀線で探してきました。
すこしずつ、その場所を紹介してきました。

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まず、弥生時代の終焉
上の写真は、ベンガラを塗った祭祀具です。特別の形を特別に製作焼成し、特別の色を塗って特別の場所で神祭りをしたのです。その祭祀具が福岡のあちこちで一か所にまとまって出土しますが、なぜでしょう?
もしや、わけあって一度に破棄されたのではないか、わたしはそう思いました。。壊れたから、一つずつ作りなおしたのではありません。一斉に、強制的に、または集団が進んで破棄したのです。なぜ?
 
北部九州のの国が滅び、信仰が失われたからでしょう。
支配者が変わり、今までの神祭りができなくなったからだ、と思いませんか。
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もう用が無くなった、もう使うことが許されない、祀り手が逃げていなくなった、等々。
とにかく、異常な状況です。その後、組み合わせ式箱式石棺の時代になり、鉄の素環頭大刀が副葬されるようになります。価値観が変わったのです。昔からの支配者がいなくなったか、殺されたか、逃げ出したか、追われたか、社会が変わったのでしょう。


それは、弥生文化の終焉でした

大型甕棺の突然の消滅であり、青銅器の祭祀用武器の埋納でした。

その後、何処の地域の人が権力を握ったのか。とにかく、別の地域の人達です。それは何処か?
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(一度に環濠に投げ込まれた土器だと思われる)
甕棺文化圏を破壊したのは、何処の人か?
それは、鉄を持っていた肥(火)の国の勢力
つまり、倭五王の祖は狗奴国の人

火の国とは、阿蘇山のある国というより、高温の火で道具を作りだす工業国という意味でしょうか。古事記などの逸話からもそう読めます。
さて、その後、火ノ国はなぜ北部九州に侵攻したのか。当然、利権が絡んでいます。
卑弥呼の死後40年ほどで、半島への侵攻が始まっていますから、それを見ると、目的は半島への侵攻です。
狗奴国は北部九州の海を狙っていたのではないでしょうか。

北部九州に侵攻した最初の世代は、生産力の向上に励んだのですね。その後、徐々に力を持ち始めて、ついに半島に侵攻しました、その事を「新羅本紀」は語ります。倭国に関する年表で見ましょう。
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確かに、
三国史記の「新羅本紀」には、倭の侵攻が書かれています。
2世紀末、193年頃に倭国には大飢饉がありました。


上の年表に、大きな矛盾が見つかりました。邪馬台国を考える上で大きなヒントです。

・173倭女王卑弥呼が新羅に遣使(友好目的でしょうか
・193倭国大飢饉で難民が新羅に入る(友好国に食料を求めたようです
・208倭人が国境を侵す(友好から方針がかわったのでしょうか?)


2世紀末、193年頃に倭国には大飢饉!!

(飢饉の時、助けを求めて移動できた1000人=半島とつながりの深い北部九州の人、他からの移動は無理でしょう。近畿で飢饉があったとして、人は半島に頼るでしょうか。簡単に渡る航海技術も必要です。それに、何処を通って渡るでしょうか。)
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卑弥呼の国と新羅は友好国でした(173)から、大飢饉の時1000人もの難民が助けを求めたのです。その後、10年で侵略が始まります。なぜでしょうか、友好国としては有りえないことです。

年表をどのように読むか
大飢饉後に人口が回復したのか、
208、232、233年に、倭人は新羅に出兵した。
(この倭人は、北部九州の人でしょうか。恩のある国に侵攻するでしょうか。)
しかし、続いて邪馬台国・狗奴国の戦争が起こり、半島には出兵できなくなった。
そして、
248年の「卑弥呼、以って死す」卑弥呼の死後の40年の空白は、倭国が疲弊したからです。その後、287年、新羅に侵攻するまでに回復した。と読むことができます。

狗奴国邪馬台国戦争の後は、出兵どころではなかった、全てを失った状態が『尽くしの国=筑紫國」になったほど、人々は飢え、新天地を求めて人口は東に流失した(倭人の侵攻で信頼関係をなくしていたので、人々は半島へ渡ることができなかった)。それで、人口回復に40年ほどかかった。


飢饉―人口回復―出兵
狗奴国との戦争―卑弥呼の死ー人口流失―生産力の回復出兵

渡海しての侵攻は、生産力の向上と人口の回復がなければできません。でも、半島出兵の国は、北部九州にあったのでしょうか。

もう一つの年表の読み

➁大飢饉で頼りにした新羅に侵攻した「倭人」は、倭国(邪馬台国)ではない。

173年、卑弥呼が遣使した新羅は、倭国と友好関係であった、のです。
だから、邪馬台国が大飢饉(193年)になった時、新羅を頼りにして大量の人が避難民として渡海しました。
邪馬台国は、近隣の狗奴国を頼るより新羅を頼った、ということです。
倭国は周旋五千余里の狭い範囲でした。その中に、女王国もあったのです。日照りに河川の反乱、倭国の飢饉は広範囲にわたっていたのでしょう。
その小さな倭国連合が、208年に新羅に侵攻できるでしょうか。
ここでの結論は、一つ
208年、新羅に侵攻したのは狗奴国である
狗奴国には鉄の道具があり、生産力が向上していた
狗奴国は、有明海を引き潮と共に南下し五島列島まで渡って、海流にのって一気に半島に向かって北上していたのです。だから、三世紀の始めは、狗奴国は有明海から半島に渡ったはずです。
倭王の宮殿は、有明海に流れ込む河川の中下流にあったと思います。菊池川・白河・緑川流域、いずれも弥生時代からの大きな稲作地帯です。

しかし、狗奴国王は半島や大陸とのつながりを求めて、北の博多湾を使いたかったのです。が、まだ伊都国の存在が大きかったので、結果として狗奴国と倭国連合は対立したはずです。
そこへ、友好国への狗奴国の侵攻。こうなれば、狗奴国と邪馬台国連合は対立するでしょう。
遂に、戦争になり、卑弥呼は楽浪郡に使いを出して解決を模索したのです。しかし、老女だった卑弥呼は戦争の指揮をとることもできず、「以って死す」となりました。

新羅本紀の倭人の侵攻は、「狗奴国の野望」の証し

248年の卑弥呼死後、倭女王国は困窮を極め「尽くしの国=筑紫国」と呼ばれました。当然、出兵は不可能。

40年後、新羅への侵攻が再度始まりました。287,289、292、294、295年ですが、実は、この後の4世紀にも新羅への侵攻が続きます。北部九州の人口は回復していたのでしょうか。
この侵攻を指揮したのは、もちろん倭国連合の王ではありません。新たに「倭王」となった狗奴国の王でしょう。


倭王は、狗奴国王に交代していた

この249~287年の40年の空白ですが、卑弥呼の後を引き継いだ壱与の時代になっています。この空白は何を意味するのでしょう。筑紫国で人々を導いたのは壱与でしょうか。しかし、彼女の国は疲弊しています。
では、彼女は、やはり次の支配者(狗奴国王)に追われたのでしょうか。

壱与は人口流失を止めきれなかった
その為に、倭国を追われた? かもしれません。
何処へ逃げますかね? 中国・四国・近畿でしょうか。
四国には銅剣の密集地があります。銅戈の密集地、銅鉾の出土地と、地域が分かれます。逃げた集団の祭祀具(青銅器)が微妙に違っていると云うことです。それは、一族揃っての移動だったからでしょう。
もちろん、中広形・広形・平形という後期の形態をした青銅製武器です。細形の青銅製武器を持つ九州の弥生より後の時代の青銅器になります。

壱与がいなくなった(死亡・逃亡)ことで、次の男性の権力者が北部九州から半島に進出したと思うのです。自国の繁栄を他国の犠牲によって構築する……権力者の危険な選択でした。

今日は、[狗奴国が女王国と対立したのは、大陸との交渉権をえるためだった]ということ。倭王の祖は、狗奴国の王だったかも知れないと云うこと。倭女王国が半島に侵攻してのではない。これが結論です。
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by tizudesiru | 2018-03-07 11:08 | 329祭祀線で読む倭王の交替 | Trackback


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