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カテゴリ:328筑紫国と呼ばれた北部九州( 5 )

倭五王は行方不明

「神籠石(こうごいし)は、消えるのか」と、気になることを書きました。
結論としては、「神籠石は死語になる」と思います。わたしは、次の世代は名称として「神籠石」を使わないと思うのです。
今まで歴史の表舞台に出さなかったものを、文化庁が名前を変えて表に引き出しました。神籠石を持つ自治体としても観光に使うつもりなら「古代山城」として「山城ブーム」に乗るでしょう。耳慣れた言葉を使うのは、当然ですから。
もちろん、神籠石が消えるかどうか、次の世代が歴史をどう捉えるかで決まりましょう。ということで。

今日は、しばらく頓挫していた倭五王に戻ります。

そろそろ、たまった宿題を片付けなければなりません。
行方
不明の倭五王を探すことです。

倭王武は、雄略天皇なのか
宋書によれば、倭王武は倭王興の弟です。倭王武が日本書紀の雄略天皇であれば、確かに、宋書や梁書の倭国伝や倭伝とは系図が合致しません。

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雄略天皇が倭王武だって…ほんとですか?
倭王武が宋に遣使して上表したのが478年雄略天皇が没したのが479年ですから、
倭王武=雄略天皇なら、遣使の翌年には死亡したことになります。

宋書に書かれた倭王武は雄略天皇になっていますが、実は日本書紀でも決定打がなく倭王武も誰だか分かっていない、ホントは見つかっていないそうです。
書紀の中には、雄略天皇が宋の冊封体制に組み込まれることを望んだことなど、一切書かれていません。宋との交流も書かれていないのです。


宋書との接点がない理由は、「倭王が宋に朝貢した」という記事を正史である日本書紀に載せるのは恥だとして、正史に掲載しなかったというのです。
現代の歴史学者としても、他に理由を見つけられないのでしょう。
ホントにそうでしょうか。倭王武は実在の人です。その父、祖父にしても、中国との交流を書紀で辿ることはできません。


ここで考えられるのは、「五人の王の誰も書紀に登場しない理由は、日本書紀の大王・天皇とは無関係の人達ではないか」と云うことです。五王が畿内の人ではないと考えると、かなりの部分が解決します。
しかし、そうなると、倭王は何処に居て、どのような国をつくり、どのように消えて行ったのか、といった問題も出てきます。

先のブログでも既に出しましたが、ここで武の上表文を再読しましょう。
倭王について何か分かるかも知れません。

478年、倭王武が、宋に国書(上表文)


宋の冊封体制にありながら、武は自らの府(役所)を開いて政治を行いたいと申し出たのでしたが、翌年479年に、宋は滅亡しました。


その後の武の行動は? まず、武の上表文を先に読みましょう。
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上表文から分かること

①倭国の王は、遠征時に甲冑を身に着けたので、見栄えのいい甲冑を持っていた。それらは、墓にも副葬されたはず。


➁東の毛人の国を征服、西の衆夷の国を服属、渡海して海北の国を平定し、中国に朝貢を忘れなかったと自慢している。広い範囲を平定したのが、倭五王の時代なら、卑弥呼の時代はそこまで統一されていなかったことになる。(では、邪馬台国畿内説は?)

倭王にとって百済は親しく高句麗は憎い国である。

④倭王武は父親と兄をほぼ同時期に失った。

⑤倭王は、父兄の志を遂げること=高句麗に勝つことだ、と思っている。

⑥宋の後ろ盾で高句麗を破りたい。

⑦このような倭国王だから開府儀同三司を授けてほしいと願った。


①~⑦まで確認しました。
ここで驚かされるのは、軍事力です。そして、戦争をする意味です。理由もなしに「刃を畏れず戦う」ことはできません。彼らは何のために命を懸けて戦ったのか。
先に挙げたように「倭王が畿内の人ではない」とすると、倭王は畿内をスルーして関東へ遠征したことになりますが、其のあたりが上表文では読めません。

半島への派兵も重要です。上表文から「高句麗憎し」が浮かびます。
百済と高句麗が対立していたから、倭国は百済側に着いて高句麗を共通の敵としたのでしょう。

倭国は何処にあったのか。
①~⑦で読めるのは、百済に近くすぐ百済に行ける地域。近畿をスルーして関東に遠征できる地域、です。伝統的に戸籍を持っていて、軍備を早く整えることができる国です。食糧生産に適した地域でもありましょう。
どうも畿内の王権ではないようですが。
然し、これだけでは十分ではありません。

また、武の必死の思いは伝わりますが、開府儀同三司を許されることはなく、宋も滅びたし、武の朝貢も終わりました。以後、朝貢の記録はないのです。この辺りは、既に書きました。



479年以後の倭王武の行動

武は開府儀同三司の理想を捨てたのでしょうか。
次の年表を見てみましょう。474・475・479・は雄略紀の記事です。
471年は江田船山古墳の金石文です。

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上の年表を見ると、いろいろ考えることができます。
その事は、また次に。


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by tizudesiru | 2018-03-27 12:16 | 328筑紫国と呼ばれた北部九州 | Trackback

岩戸山古墳の祭祀線

岩戸山古墳の祭祀線から分かること
岩戸山古墳に届く直線を引くと、面白いほど神祭りの山と結びつくし、古墳とも関係がありそうです。つまりラインが引けるのです。
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岩戸山古墳は九州では大きな古墳になりますが、大型古墳と比べると小さいですね。
一昨年、近畿の大型古墳を見に行きました。メスリ山古墳を見に行った時、橿原考研の博物館にも行きました。そこには大型の埴輪がありましたが、何だか見たことある形だな、と思ったのです。岩戸山古墳の石の石製表飾品と。
祭祀線の前に、ちょっと埴輪や石の表飾品を見ましょう。


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いずれも古墳の表飾製品で大型です。この時代は大きいことに意味があったのでしょう。
そういえば、岩戸山古墳の横の歴史資料館に勾金を付けた大刀の石表飾品がありました。そこに、「今城塚古墳にも勾金の大刀を持つ武人の埴輪がある」との説明文がありました。
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すると、大きさは違いますが、岩戸山古墳・今城塚古墳・メスリ山古墳の被葬者は同じようなものを、重要視していたのですね。同じ時代の古墳だと云うことでしょう。
では、祭祀線に戻りましょうか。
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面白そうなものを挙げてみました。
⓵は岩戸山古墳の真東、そこには熊渡山(クマトヤマ)の山頂があります。このラインの上には古墳はありません。「熊が渡って来た」という意味深な山の名前です。被葬者の出身地を暗示するのでしょうか。
➁耳納山地の最高峰の鷹取山と直線を結ぶと、山向うの楠名古墳に当たりそうです。楠名古墳は6世紀の装飾古墳(円墳)です。この被葬者は、岩戸山とつながりを持ちたかったのかも知れません。
③では、日ノ岡古墳と屋形古墳に当たりそうです。
④は、西館古墳を通って麻氐良山(山頂に式内社がある信仰の山)を通り、釈迦ヶ岳に届きます。

⑤⑥⑦⑪⑬⑭のラインはいずれも、神籠石とつながります。

⑤岩戸山古墳ー馬見山ー御所ヶ谷神籠石
⑥岩戸山古墳―高良山神籠石ー大根地山(信仰の山・日拝塚古墳の真東の山)
⑦岩戸山古墳ー宮地岳神籠石ー宝満山(福岡平野の神山)
⑪岩戸山古墳ー井原山ー雷山神籠石ー一貴山銚子塚古墳
⑬岩戸山古墳ー風浪宮ー山ーおつぼ山神籠石
⑭岩戸山古墳ー女山神籠石ー雲仙普賢岳
いずれも山頂を使う「山当て」という方法で位置を探したと思われます。

帯隈山神籠石と杷木神籠石もつながりがあると思うのですが、どの山を使ったのか判断できなかったのでラインを引いてはいません。

また、神の山や信仰の山を結ぶと岩戸山古墳に届くのは、不思議ですが当然ですね。
⑩岩戸山古墳―脊振山ー高祖山(糸島市)
⑫岩戸山古墳ー舩塚古墳ー天山
⑮岩戸山古墳―江田船山古墳―熊ノ岳
⑰岩戸山古墳ー雄岳ー八方ヶ岳
他にも、⑯は、阿蘇中岳、⑧は、日拝塚古墳 ⑨は、九千部山とつなぎました。
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岩戸山古墳の祭祀線から何が言えるのか
まず、北部九州の神山とつながるのは、地域間に支配被支配の関係が生まれていた証拠でしょう。他の八女丘陵の古墳では、これほど信仰の山と結びつく古墳はありません。岩戸山古墳の被葬者が権力を持っていた証でしょう。
福岡平野を支配した信仰の山は宝満山・九千部山であり、糸島地方では井原山・雷山です。福岡平野から筑紫平野に入ると、馬見山です。更に筑後平野を南下すると天山であり、脊振山・九千部であり、普賢岳です。普賢岳は有明海にくっきりと浮かび、阿蘇と並ぶ神山です。

これらの氏族の象徴的な信仰の山と岩戸山古墳結ぶと、何故か神籠石が現れました。


此の事実から「岩戸山古墳の被葬者の霊力を信じて、神籠石は造られた。その時、岩戸山古墳は既に完成していた」となります。岩戸山古墳と神籠石は前後して造られたのです。
神籠石と信仰の山と結べる岩戸山古墳の主は、倭王だった。
それは、6世紀前半の倭国の状況です。

それらは何故作られたか? その理由は何か?
大きな時代の浪が近づいていた、つまり、何か起こりそうだったのです。だから、いち早く協力体制を確認する必要があったのでした。
神籠石は地域間の連合の証であり、協力体制に組み込まれた国々の範囲を示している、其の中心地も示している、のです。工法の共通性(土塁の高さ・版築・切り石・切り欠き溝・切り欠き加工)を見ると、勝手に作ったのではありません。共通性こそ神籠石を解く鍵です。
(更に、設置場所からして神籠石が対峙したのは、外国ではなく、国内の敵です。その敵は、瀬戸内の神籠石系山城の先に控える集団でした。)

然し、神籠石系山城には生活の痕跡は見られない。

一斉に作り始めて、一斉に作り終わった。または、途中で工事ができなくなった…
上の写真は、岩戸山古墳の別区です。別区は古墳の「造り出し」のようなものでしょう。そこに置かれた石の表飾品は、被葬者の業績を誇示するもの、記念するもの、後世に伝えようとしたもの、でしょう。風土記によると石人石馬で表されたのは、「裁判官」が罪人を裁く様子だそうです。

この被葬者・筑紫国造(君)磐井一族は、どうなったのか。

磐井の乱、その後、彼の一族は滅んだのでしょうか、生き延びたのでしょうか。
さて、地域の神山と結びつき、神籠石ともつながる岩戸山古墳の被葬者に、更に迫らなければなりません。筑紫君、磐井とは何だったのか、です。
それは、また、明日。

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by tizudesiru | 2018-03-04 02:09 | 328筑紫国と呼ばれた北部九州 | Trackback

岩戸山古墳と江田船山古墳の祭祀線から倭王を解く

岩戸山古墳と江田船山古墳の

祭祀線から倭王を解く

倭王は畿内の人ではありません。
それは、祭祀線を引けば分かります。



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では、皆さんがご存じの岩戸山古墳(福岡県八女市)を見ましょうか。
上の画像は岩戸山古墳で、右上(東北)に別区と呼ばれる空間があります。黄色のラインは、石人山古墳とつないだラインです。石人山古墳の墳丘と結ぶと、なぜか装飾古墳の弘化谷古墳(円墳・六世紀)が入り込みます。(下の画像)弘化谷古墳には、石棺ではなく石屋形の死床があります。

両者は並んでいるようですが、谷を挟んで小高い丘の上に弘化谷古墳があります。
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石人山古墳の資料館にある石棺のレプリカです。古墳の実物の石室を覗くことができますが、暗いので懐中電灯が必要です。
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これは、石人山古墳の石棺の文様です。この石棺には直弧文という文様が彫られています。僻邪の意味でしょうか。これは、コンパスを使って文様を書き、鏨(たがね)を駆使して彫られたのです。
石人山古墳から分かることは、この被葬者が岩戸山古墳の主の祖先(祖父らしい)であれば「岩戸山古墳も家形石棺が置かれている」となるでしょう。
この二つの古墳の主軸線は、ほぼ重なるようです。岩戸山古墳は石室内など発掘されていませんが、周囲は発掘調査が行われています。


家形石棺を持つ古墳は、何処にあるのか
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有名なのは、浦山古墳と江田船山古墳ですね。浦山古墳の石棺の内側には直弧文が彫られているそうです。江田船山古墳の副葬品は有名ですね。この時期の古墳では、外来品・舶載品を大量に副葬品しているのは、ここです。江田船山古墳の被葬者は、半島と深くつながっていたのです。

では、岩戸山古墳と結んでみましょう。遠いので目印の山として、熊本の熊ノ岳を使います。当時の人もそうしたでしょう。岩戸山古墳から緑のラインを南下させました。
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すると、ラインは江田船山古墳の墳丘部を通りました。
同じように、家形石棺を持つ浦山古墳から江田船山古墳(福岡県久留米市)を通過しましょう。
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すると、船山古墳は通過しますが、熊ノ岳山頂を外しました。

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今日、紹介したのは、家形石棺の前方後円墳の被葬者はつながりがある、と云うことです。

特に、岩戸山古墳と江田船山古墳の被葬者は深い関係になります。
これは、日本書紀の「筑紫君と火君の姻戚関係」を物語るのでしょうか。または、それ以上の事実を物語るのでしょうか。

祭祀線は残されました。わたしは、ここに「倭王が九州にいた」という事実のゴースト(影)を感じるのです。長くなるので、この辺で。
明日も倭王は何処にいたのか、考えます。



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by tizudesiru | 2018-03-02 13:45 | 328筑紫国と呼ばれた北部九州 | Trackback

日知り王の国の財力・須玖岡本遺跡の青銅器コンビナート

弥生のコンビナート・須玖岡本の経済力は何処へ移動した!?
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須玖岡本遺跡は、③のところです。
弥生のコンビナートとして栄えた須玖岡本遺跡の王族は、
あらゆる富を手に入れたことでしょう。

ここには、銅矛・銅戈・銅剣・銅鏃・小型銅鐸・銅鏡・ガラス玉の鋳型が出土しています。

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その繁栄は、古墳時代まで続かなかったのでしょうか。
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まことに残念なことですが、
これらの技術は九州にはとどまらなかったようです。
なぜ、そう思うかというと、

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古墳時代の円筒埴輪を見ると、いかにも「手びねり」の雑な造りなのです。弥生土器の美しさは何処へ行ったのでしょう。技術は失われた、としか言いようがありません。弥生後期に、何かが起こったのです。
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こんな疑問を抱かせてくれる「奴国の丘歴史資料館は、春日市岡本3丁目57(TEL 092-501-1144)にあります。いつでも、無料です。
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敷地内に甕棺を残したドームがあります。
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敷地内に王墓の大石が移されています。
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この大石が、あの王墓の甕棺の上に在りました。頭の方に指標石がありました。ここから、歩いて2分のところに熊野神社があります。ここに銅鉾の鋳型が奉納されていたのですかね。
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岡本公園は奴国の丘歴史資料館の隣にあり、その横に熊野神社があります。この公園がラインの交差点になります。選ばれし土地なのです。さぞやパワースポットなのでしょうね。
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今日は、「なべ・カマの歴史展」があっていました。
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甑(こしき)は、蒸し器の役目をします。ですから、底に穴が開いています。
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近畿の博物館で聞いたのですが「甑は半島系の人々が持ち来んだもので、交流があった証拠だ。ほとんど畿内を中心に出土する」と云うことでした。しかし、九州のどの博物館に行っても「甑」を見かけます。案外、九州から伝わったかもしれませんね。
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学芸員さんの話では、「甑が普及するのはカマドが作られるようになってからで、古墳時代です。ミニチュアのカマドが古墳に副葬されていますが、5世紀より後です。」ということです。
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古墳時代になって、青銅器は祭祀用に使われ、鉄が普及します。
鉄が時代を変えたに違いありません。

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甕棺の中に鉄が入りますが、それでも、ここの人々は青銅器にこだわっていたのでしょうか。
そして、彼らはこの土地を去ったのでしょうか。手ぶらで移動はできません。銅製品をタップリ持って、労働力と技術を持って移動したと思います。それは、大量にあった銅戈と銅矛でしょうか。
彼らは、狗奴国の人口の北上に伴って、押し出されるように移動したのかも知れません。移動先が受け入れたわけは、経済力だったでしょうね。
次の権力が、前権力の人・もの・土地を取り尽くしたから、「つくし」の国となったのでしょうか。それまでの文化の中心地が「尽くし」の国になったとは、悲しいことですね。
では、また、明日。

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by tizudesiru | 2018-03-02 00:34 | 328筑紫国と呼ばれた北部九州 | Trackback

祭祀線は弥生時代の福岡から始まった

祭祀線は弥生時代に

北部九州から始まった
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祭祀線って、分かりますか?
むかしの人が御墓を造る場所を選ぶとき、使ったと思われる土地探しの方法です。探したのは、魂が再生する聖なる場所と考えられるところです。そこは、地域の守りの山に抱かれた、清らかな地だったでしょう。そこを見つけるために苦心したでしょう。
山頂はめざす土地を探すための目印であり、聖地だったのです。
結果として、山と墓は動かなかったので、現在もその直線を辿ることができるのです。
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祖先の霊魂を祀ることは、一族の繁栄にもつながると考えられた
祖霊信仰と太陽信仰がともに顕れるのは、宝満山・飯盛山を結ぶ東西ラインでした。

ラインに乗る弥生の三代王墓

そのライン上には、吉武高木・須玖岡本・三雲南少路王墓の弥生王墓がのりますし、この東西ラインは三世紀後半最大の一貴山銚子塚古墳に行きつきます。
こんなことは偶然ではないと思って、「ライン」と名付けながら直線を引き始めました。すると、特別の古墳は地域の神山と結びつくと云うことがはっきりしてきたのです。驚くべきことでした。

その事は、様々な会場の講演会でお話したのですが、手ごたえがほとんどありませんでした。或る時、H教授から「偶然が重なると一つのルールになり、たくさんのルールが集まると真実・定説になる」と慰められました。
そこで、気を取り直して再び地図に直線を引き始めたのでした。

わたしがブログにも載せるようになって、その後、徐々に一般化したのか、最近はあちこちで祭祀線という言葉や、ラインという言葉を聞くようになりました。
わたしは体験的に「祭祀線を引くと歴史が分かる」と思っています。どの古墳がどの山と結びつくのか、どの山がどの地域に信仰されたのか、祭祀線で分かります。すると、その時代の勢力圏・経済圏が見えてくるのです。当然、時代が下がると経済圏は広がりますね。
そこで、文献・伝承・考古学遺物を検討するのです。そして、一定の答えがみつかります。

わたしは、祭祀線を全国の人に使ってもらいたいと思っています。そうなれば「日本の歴史は変わる」と思うのです。用語として、ラインは他のメデアでも使われますから、もっぱら祭祀線に戻りましたね。
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ラインをひいて、そのラインを使うこと
パソコンで6月22日を設定して、ライン上から太陽が上がるのを調べることもできます。上の画像は、鉾立山の夏至の日の出です
。飯盛山の山頂から黄色の直線を引きました。このラインに式内名神大社の住吉神社が乗ります。そこで新たな疑問を解くことになるという展開になるのです。

吉武高木の王族から、須玖岡本の王に権力が移ったので、日知りの山が移動しました。
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⓵吉竹高木遺跡 ➁三雲南少路遺跡 ③須玖岡本遺跡 ④平原王墓 ⑤一貴山銚子塚古墳 と、権力者の墓が造営されていきました。
吉武高木から須玖岡本の時代になると、夏至や冬至や春分秋分の日の出・日の入りの山がはっきりしてきます。この時点で、日知り王と呼ばれたでしょう。
将に、日知り王で日知りの山を持っていたのですから。
この弥生の東西ラインの時代が、魏志倭人伝の前の時代で、倭人がしきりに半島や中国と交流していた時であると、考古遺物からはっきりしています。それなのに、急に、邪馬台国が近畿だとは、考古学的な歴史事実に反します。

さて、次の時代はどうでしょう。
甕棺から箱式石棺へ、そして、石室を持った古墳時代となり、墓制が変わりました。
凝灰岩の石棺を持った氏族は何処で発生し、どのように他へ侵攻したのかも祭祀線で辿ることができました。方々で喋りましたから、ご存じでしょうけれど、確認したいと思います。


そして、ラインは倭国の繁栄と侵略と滅亡までゴーストとして歴史の影を残しているのです。

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祭祀線は、千年以上前に何が起こったのかを静かに教えてくれます。正史に書かれなかった九州の姿を教えてくれるのです。
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歴史のターニングポイントになった白村江敗戦。その後、築かれたという水城です。多くの人民を半島で失って、残った女子供が作ったというのでしょうか、その水城を。
なにより、倭国がなぜ、「筑紫」と呼ばれるようになったのか、知りたいですよね。
そこに、何があったのですか?
この地で、汗と涙を流した人々の霊魂に、本当のことを伝えなければなりません。

また、あとで。

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by tizudesiru | 2018-02-28 14:17 | 328筑紫国と呼ばれた北部九州 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
367謎だらけの津屋崎古墳群と宗像氏
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫

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