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カテゴリ:327古代史の危機!?( 6 )

神籠石から古代山城へ、名前を変える必要はあるのか

朝鮮式古代山城は、当然、百済の築造技術ですか?!
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2018年3月18日の麹智城跡「特別研究の報告会」の紹介をしています。

山田隆文「古代山城の立地環境ー百済・新羅との比較を通して」
山田さん(橿原考古学研究所研究員)は、「初めに」で次のように述べています。

⓵「日本における古代山城の築造は、『日本書紀』の記述によって、百済の滅亡とその後の復興軍の敗戦に起因する」

➁「その際に我が国に渡来した百済の亡命官人達が古代山城の築造に深く関わっていたことが知られる。」


③「しかし、日本の古代山城の全てが百済の様式で築造されたのかというと、必ずしもそうではなく、例えば大野城の門跡で出土した門扉軸摺金具(もんぴじくすりかなぐ)や、屋島城の懸門構造(けんもんこうぞう)など明らかに新羅山城で特徴的な要素も見られることは、周知のとおりである。」

④「そのため、日本の古代山城を研究する場合、その比較検討対象は、百済地域だけではなく、新羅、高句麗、伽耶を含めた韓半島全体としなければならない。」
という理由で、韓国に研究旅行となったのだそうです。

簡単に研究の立ち位置が書かれています。
これは、大野城・基肄城などの朝鮮式山城のことですね。白村江敗戦後に造られたという。倭国へ亡命百済人が来ていますからね。


➁大野城を造ったという百済の憶礼福留・四比福夫。あまりに石積が雑だったので、新羅軍の攻撃を畏れて慌てて造ったからだと、社会科でも教えられたのですが。雑な石積技術だったのですね。


③確かに、白村江戦後に統一新羅ができますが、統一新羅の技術が入るのは掘立柱の一期ではありません。敗戦後に造られた大野城は百済系の朝鮮式の山城でした。この時は、まだ新羅の技術は入っていないのではありませんか。
軸摺金具とは扉を開閉する時に回りやすくするために使われた金具です。懸門とは入り口が高い所に在る門で、梯子で出入りしますが、非常時には梯子を外せます。
大野城は三期の建て替えがあっていて、軸摺金具が使われるのは、後の時代になります。一緒に扱ってはいけないと思います。

④統一新羅の技術なら、完全に白村江敗戦後になります。古代山城は、天智天皇が築造した山城と決めて調査しているのですね。

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山田さんが調査している時期は、古代山城が造られた時期より、新しいと思います。修理や建て替えの時期に新羅の技術が入ったのではないでしょうか。

統一新羅の地方都市、九つの州と五カ所の小京を「九州五小京」といいます。上の地図でも分かるように、黄色の九州、青色の五小京が、半島全体にあります。紫は新羅の都です。
要するに、日本の山城は統一新羅の影響を受けたから上記の山城と共通する、と、主張されているのです。


「古代山城の立地環境について国内の事例と比較研究は進んでいる」そうです。
⓵古代山城の導入期の戦略上の重要拠点に山城が単独で立地する段階
➁駅路や官衙に接近した場所に築造される段階
と、①から➁に変化しているというのです。



えっ、ちょっと待ってください。②はなんですか?


①の金田城(対馬)大野城(福岡)・基肄城(佐賀)などが造られた後には、駅路や官衙の近くに山城が造られたという正史の記述も文献もありません。
もしかして、神籠石系山城のことを云ってるのですか?
それなら、あまりに唐突かつ横暴です。

神籠石系山城について、切り石の状況や版築や構造を取り上げないまま、調べないまま「古代山城の第二段階」という論説は、唐突で異常です。
古代の政治史の上でも科学的にも神籠石が公共の施設だと論証したうえで、説を展開しなければなりませんね。突然、奈良県の都合により福岡県や瀬戸内の神籠石を
「ヤマト政権側の古代山城」
にすり替えてしまうのは、おかしくないですか。



奈良県立橿原考古学研究所は、それでいいのですか。長い間、神籠石について研究してきたのは在野の研究家でした。それをいきなり「古代朝鮮式山城の次の段階」と、奈良県の人が決めてしまうなんて、それでいいのですか。


講演の中でも、山田さんは高良山神籠石のことを「高良山城」と呼んでいました。高良山城と呼びたかったでしょうが、「高良山神籠石」という明治以来の名称はどうなりますか。九州の人や瀬戸内の神籠石系山城のある地域の人は、ほとんど百年以上も「神籠石」と呼んできたのです。
然し、「神籠石」と呼ぶのは時代遅れというのでしょうね。


橿原考古学研究所は、奈良県の研究所の一つです。全国の名所や土地の呼び名を勝手に変える権利はありません。それとも、国の指示があったのでしょうか。

そう云えば…

こういうことが始まったのは、「阿志岐古代山城」という名称が使われた時からです。宮地岳神籠石と呼ばれていたのに、史跡の名称に「神籠石」ではダメだったそうで、「阿志岐古代山城」とされたのです。

古代山城となって、地元としては、中央に近づいた感じがしたのですかね?
然し、九州の地元の声や研究が、ここで切れた感じになりました。「神籠石」はお上に召し上げられたと云うことですね。


わたしも、このブログで、宮地岳神籠石(阿志岐山城)のことは数回取り上げています。朝鮮式山城とは違う目的の異なる工法の山城でした。

それも、同じ工法・同じような技術で作られていると思われる共通点の多い遺構です。それは、大きな権力によって指示され築造されたと考えるのが妥当でしょう。
すると、福岡を中心にした神籠石を作らせたのは、どこの誰? ですか。

旧唐書には、倭国の存在があります。白村江までは倭国が存在したのです。神籠石を造らせたのは、倭国であると考えるのは、ごく自然なことでしょう。
神籠石の集中しているところは福岡県ですから、そこに倭国の中心があったと考えるのも自然です。


倭国の中心が福岡にあったらいけない? それはなぜですか?
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(宮地岳神籠石の水門と列石)
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(高良山神籠石の列石と版築土塁)
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(女山神籠石の水門と列石*ぞやまこうごいし)

これらの神籠石をすっかり「新羅の影響で作られた」とするには、道理にかないません。
神籠石で使われた技法「持ち送り」や「切り欠き加工」は、明らかに古墳の築造時術に使われているからです。それも、5・6世紀とされる古墳です。特に、熊本の大野窟古墳や井寺古墳に顕著です。7世紀後半にその技術が使われた? いえいえ、
わたしは、6世紀後半から7世紀初頭に神籠石は造られたと思います。


九歴の小澤さんも「古墳の技術者が神籠石築造に関与した」と言われたと思います。九州の人で考古学をしている人は、古墳の技術はご存知です。


どうぞ地元の人の研究に学び、市民の声を聞き、科学的な調査をやり、地元に広報し、歴史の真実を市民のものにする方向で研究してください。若い才能は、真実を求めることに使ってほしいです。

大和に卑弥呼がいて、倭五王もいたのが事実なら、それでもかまいません。

ですが、素人も文献を見ることができるし、考古学報告書も読むことができます。そこで、さまざまに考えるのは、当然です。事実、様々な説が入り乱れています。

ですが、本当のことを知りたい、それが市民としての本音でしょうね。

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熊本城も覆い屋がかけられ、修理に入っています。このお城が親しまれるのは、加藤清正の築城だからです。市民の心の中に彼は生きていますから。歴史はその地域の人の心を癒し育むものですね。
神籠石も勝手に名称変更などせずに、それが存在する地域に長く残してほしいと思います。

では、また。

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by tizudesiru | 2018-03-20 12:31 | 327古代史の危機!? | Trackback(1325)

卑弥呼と戦った卑弥弓呼の国、狗奴国は何処か

女王国と戦った狗奴国は何処か
女王国が九州なら、狗奴国(くなこく・くぬこく)は何処か問題になりましょう。それは、熊本だと書きました。鉄と食料生産の二つの条件を満たす地域です。しかも、女王国と利害が対立した国でしょう。同じようなものによって経済が支えられ、しかも、安価にそれを作りだすことができた国です。
倭人伝に④『倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼ともとより不和』とあります。

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遠く離れた地域の男王であれば、もともと不和だとは書きません。女王国の南の狗奴国は近いのです。卑弥呼と卑弥弓呼、呼び名まで似てますね。同じような地位と役目を持っていたのでしょう。そうなると、卑弥呼を女性の呼称として「ひめこ」と読むことは難しいですね。卑弥呼=日御子=ヒミコと詠んだ方が自然です。
では、卑弥弓呼=日御彦でしょうかね。この人も祭祀をしていたのでしょうね。
狗奴国の官は狗古智卑狗でしたから、政治をしていたのは狗古智卑狗、となります。

女王国に近く、流通を握る川の傍にあり、大量の食糧生産ができ、鉄も持っていた弥生の環濠集落は、何処に在るのか。条件を満たすのは、菊池川流域でしょう。

狗奴国は菊池川流域にあった

再度、菊池川流域の方保田東原遺跡を紹介します。
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たくさんの土器があります。土器の底に台がついているものが、この地域の土器の特長だそうです。
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しかし、底が丸い土器も大量に出土しています。「庄内式の土器ですか?」と質問したら、「はい、そうです」と答えられました。畿内に出土する庄内式土器のルーツは、菊池川流域かもしれませんね。
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弥生の後半には、菊池川の水位は現在の川の水位に近づいていました。弥生のある時期に、菊池川が生まれたのです。

縄文時代には、方保田遺跡はまだ水の底でした。
ここには、茂賀の浦という大きな湖があったのです。
(阿蘇の火砕流が川をせき止めて、内陸に大きな湖ができていた。)


話は少し変わりますが、大きな湖の話です。
わたしは、子供の頃「先祖が奉納したという扇面の三十六歌仙」の絵を見るために一族揃って千田聖母八幡神社に参詣したことがあります。その時、父から「ここには大きな湖があって、八匹の亀が住んでいた。亀は成敗されて、八つの島になったが、神社の傍の八島がそれだという伝承がある」と聞かされました。
もちろん、荒唐無稽な話だと子どもながらに思ったのです。

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千田聖母神社のあたりは「宮」という地名で、神社の鳥居の前に千田川が流れ、八島があります。千田はあんがい血田だったのかも知れません。
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(八島です)
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さて、「茂賀の浦」について調査された本を紹介します。
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この本『「茂賀の浦」と「狗奴国」菊池』には、次のような資料があります。デジカメで撮らせていただきました。(中原先生へ、勝手に紹介しています。)
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縄文期の茂賀の浦が弥生期にかけて、だんだん水が引いていく様子が集落遺跡の発掘から明らかになっています。
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縄文期には集落がなかったのに、弥生期には集落ができていくのです。このようにして、一気に菊池川流域は開けていくのです。(菊池盆地の周囲の山には、製鉄遺跡があります。)

鉄と米と人を手にした有力者が、次に望むものは何でしょうね。残念ながら権力・支配地の拡大のようです。

ここで、考えていたのは、狗奴国は何処かと云うことでした。
わたしは自著でも書きましたが、倭人伝を読むかぎり、狗奴国は熊本です。
或る大学の方は「九州の田舎に邪馬台国や狗奴国はない。九州の田舎の人がロマンを求めているのだ」と言われました。
「邪馬台国が九州だとすると、歴史を日本人じゃなく外国系の人に取られる気がする」とある青年がいいました。


どちらにも驚きましたが、日本人のDNAをネットで調べてみてください。この後の日本の歴史における混血の結果を。九州は東北と近いです。後は、自分の目で確かめて。偏見と余談の歴史観を離れて、自分の目で耳で自分の国の歴史を考えてほしいです。

残念でしょうが、倭人伝にかかれています。
倭国の東に、千余里で、また国があって、皆、倭の種である。
倭の地は、絶えて海中、州島(島)の上にある。
絶えたり連なったりして、周旋(まわり)は五千余里ばかりである。
女王国まで、万二千余里。

どのように読んでも、そこは九州を出ることはありません。
張政は倭国に来たのです。自分で倭国を見て、報告しているはずです。まんざら嘘とは思えません。
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倭国は狭い範囲です。狗奴国の位置も決まります。南の熊本北部辺りですね。魏志倭人伝をみましょう。
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⑨に「参問倭地」があります。人々に「倭の地」について聞いたのです。短いですが、大事なことが書かれていました。
では、このあたりで。

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by tizudesiru | 2018-02-25 12:55 | 327古代史の危機!? | Trackback(1882)

邪馬台国フォーラム・高島忠平先生、質問してもいいですか?

重要な意味があった高島氏の発言
飯塚の古代史のフォーラム(2018・2・18)は、たいへん興味深いものでした。計画推進された飯塚市に感謝したいと思います。わたしの住居のある地域では、市の教育文化振興事業団の主催で「古代史講座」などやっていないのです。むしろ、予算を減らそうと頑張っているようです。歴史より経済の方が大切なようですね。
さて
今回、久しぶりに参加して高島氏の発言に大変納得いたしました。
討論会の中で「九州が畿内と関わりを持つのは、5世紀の終わりからだと思われる」という内容の発言がありました。

考古学者の目から見ても、やはりそうだったのだ。
高島氏の「新羅・伽耶系の土器や遠賀川流域の古墳の様相から、畿内と関わりを持つのは、5世紀から6世紀で、早くても5世紀後半以降と思われる」の一言で、今日は来てよかったと思いました。その事は、後で触れます。
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(福岡県飯塚市・遠賀川)
では、あらためて
高島忠平先生、質問してもいいですか?

質問1
遠賀川沿いの集落の人口について、です。桂川の古墳見学に行った時、古墳を造営した人々の集落が何処にあったのか分かっていない、周辺にはない、と説明されました。
では、遠賀川流域全体を見て、弥生後期から古墳時代の人口の増減はどのようになっていますか?
弥生後期の卑弥呼の死後のあたりの人口、古墳時代の磐井の乱前後にかけての人口の推移です。特徴があるのでしょうか?




(冬空の中、筑豊の最奥に英彦山。中央に雪をかぶる)
質問2 
松木さんは討論の中で「近畿には九州系の土器は一つも入っていない」と言われ、すぐ後に「博多遺跡群の第一加工物の中に、近畿の土器がある」と云われました。
纏向遺跡から出土した鞴(ふいご)の羽口(はぐち)は、特長があり博多遺跡の鞴の羽口と同型です。近畿の学者も九州からの技術の提供を否定していませんが、遠賀川流域の鉄生産の状況と、鞴の羽口の形態について、教えてください。博多遺跡とのかかわりはあるのでしょうか?


質問3
村上さんが『銅戈は異常な武器』だと云われました。「特別なものとして扱われ、鉄戈となっていく。剣や矛とは違うよほどの意味があった。用途は祭祀用で、装着部分はそれなりに作られている。」と、なかなか意味深な発言でした。
(福岡平野では鉄戈を副葬する甕棺は周辺部ですが、飯塚の立岩遺跡では、鉄戈は首長墓に副葬されています。)
銅戈を重要視するのは、宗像・阿蘇などの地域だったと思うのですが、装飾古墳で有名な王塚古墳(遠賀川流域最大)もある飯塚市としては、北部熊本との関係をどのように分析されているのでしょうか?


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(遠賀川には数多くの支流が流れ込む。平坦な筑豊平野のの運河となっていた。)

質問4
高島さんの発言の中に「近畿で発掘していた頃」の体験についての一言がありました。「私は大阪(?でしたかね。メモしていません)で発掘していましたが、一つの遺跡から出るその遺物の多さに圧倒されました」とのことでした。
この言葉から近畿の人口爆発が考えられるのですが、発掘された集落は、どの辺りで、時期はいつ頃(土器編年でもいいのですが)のことでしょうか。
河内湖が陸化する時期だとしたら、大量の人口を養えると思いますが。それは、おおよそ邪馬台国時代より下がるのか、上るのか、微妙ですが教えて下さい。
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(飯塚市の東側の山が見えます)
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聞きたいことはまだあるのですが、ここまでにします。

ところで、高島忠平さんは「古代国家と邪馬台国」について、次のように書かれていました。
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邪馬台国が「近畿であれば、日本列島の大部分を三世紀には統一した政権があった」ことになり、「九州であれば、倭国は列島の一部であり、国家形成の道筋が、まったく異なってくる。」と云われます。
ですから、「近畿との接触は5世紀後半」という発言が心に残ったのです。


高島さんの発言は当然です。

3世紀に列島が統一されていれば、ヤマトタケルの東国遠征もないでしょう。

南九州の熊襲征伐も伝承としてないはずです。

もちろん、神武の東征もいりません。


何より宋書の倭王武の上表文が出鱈目になってしまいます。

倭王武は、西夷や毛人の国、海北の地を平らげたとしています。
なにより列島統一がなされていなかった証拠ではありませんか。
統一していなかったからこそ、「治天下大王」を目指して、遠征したのです。


倭王武の遠征が始まったのは、5世紀末です。
478年、武は宋に朝貢し「開府儀同三司」を望みますがかないませんでした。その後、宋の天子は臣下に禅譲し、宋は滅びます。
そこで、武は冊封体制から離れ「治天下大王」になることを決心したのです。

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武は東国に遠征します。稲荷山古墳の被葬者は、その時「左治」したのです。治天下大王の政治を助けた(左=たすける)のでした。

では、武の出発地は何処か、もちろん九州です。日本海側から、若狭湾に入り(そこは弥生から九州と関係の深い場所でした)、名古屋を抜け、東海・東国と進んだのです。
そのころ、瀬戸内と近畿には新たな勢力が出現していましたから、いずれ衝突することは必至でした。
衝突は起こりました。それが、磐井の乱として歴史に残された政変だと思います。墳墓の石人石馬を叩き壊す行為は、相手の王権への冒涜でしかありません。

筑紫君葛子は糟谷の屯倉を献上して、命乞いをします。
しかし、531年(辛亥年)、武の王朝は滅びました。その時、稲荷山古墳の被葬者は、倭王武が活躍したころを偲んで辛亥年(531年)の銘文を刻んだとわたしは思います。


この事には、後で触れるつもりです。

要するに、三世紀での統一はありえません。統一していれば、方々へ遠征する必要もないのですから。このように考えるのが、自然だと思うのです。
高島忠平さんの発言に納得したのは、わたしだけでしょうか。
そもそも、大和朝廷はどのようにして成立したのでしょうか。邪馬台国とは直接にはつながらないとしたら。

では、また。

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by tizudesiru | 2018-02-23 16:22 | 327古代史の危機!? | Trackback

大和朝廷の祖というホケノ山古墳は何時造られたのか

ホケノ山古墳築造が2~3世紀?
副葬品も同時期ですか?

ホケノ山古墳は、箸墓(箸中山古墳)や三輪山の近くにあります。
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ホケノ山古墳の石棺は木槨の中に在りました。松木さんは「中国の王の埋葬はこのころ木槨を使っているので、それに倣ったものであり、畿内が中国と繋がっていたことが分かる」と言われたと思います。
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墳丘から箸墓も三輪山も見えます。下の画像の奥、丸い森影が箸墓です。
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三輪山の神杉も見えました。
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当初、このホケノ山古墳は4世紀の築造とされていましたが、箸墓より古いはずだと云うことで3世紀初めになりました。箸墓が3世紀の半ばとされたからです。箸墓の周濠から出た木片の年代を炭素14で測った結果だそうです。
箸墓の本体とは結びつかない木片で裏付けが取れたというのです。だから、ホケノ山古墳は築造時期が挙げられました。飯塚のフォーラムでは講師の松木さんが「2世紀に上がるかも知れないと考えている」とまで、言われて驚きました。
何の裏付けも取らずに、年代操作をして公表していいのでしょうか。ホケノ山古墳に、百年もワープさせてはいけません。


松木さんは

「邪馬台国が近畿だったから、ヤマト王権につながる勢力となったのだ」
との説ですね。「次のステージでヤマト王権が近畿に生れているのに、卑弥呼と無関係とは考えられない」と云うことですか。
結果から(事実から)物事を考えることを、わたしも常にやっていますが。もちろん、邪馬台国が次の王権とかかわりがないとは思いません。
狗奴国との戦争の結果、卑弥呼の集団は窮地に立たされた。だから、卑弥呼は死んだのです。でも、その事で鉄をどのくらい所有していたか、いなかったか、判断できません。
九州に邪馬台国があったとしたら、鉄を持っていたのに、なぜ、邪馬台国は狗奴国に負けたのか? という疑問を持たれたのでしょうか。
「鉄もなく弱かったから苦戦したのだから、邪馬台国は北部九州ではないのではないか?」と思われたのでしょう。いえいえ、大丈夫です。

もっと、武器を持ち(武力)、工具を持って生産力を上げていた地域がありました。当時、福岡より武器・工具の鉄製品を持っていたのは熊本ですから、そこが狗奴国です。
邪馬台国の南の国になります。川越哲志氏の「弥生後期の鉄鏃の分布」を資料として、高島忠平氏が提示されていました。
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邪馬台国が狗奴国と戦ったとすれば、戦場はは何処だったのか。九州で戦い、二手に分かれて日本海がわと瀬戸内を逃げながら戦ったのかもしれません。鉄鏃が出土する地域は、邪馬台国とつながりの深い所ばかりです。
何処で戦ったのか、弥生後期の鉄鏃の分布で明らかです。
まさに弓矢が弥生の武器でした。

川越哲志氏の研究を見ると、常に答えが或る方向を示しています。
熊本こそ福岡を圧倒する鉄の武器と工具を持っていた!

武力と生産力がセットですから、経済を握っていた。卑弥呼と狗奴国の卑弥弓呼はもとより仲が悪かったと魏書に書いてあります。狗奴国の位置は邪馬台国の南です。そして、邪馬台国連合には加入していません。狗奴国王は倭王の地位を狙っていたでしょう。

ホケノ山古墳の年代を引き上げても、
邪馬台国の位置は変わらないのです。


松木さん自身も、村上さんの論文を引き合いに「三世紀には、近畿の集落からの鉄器の出土数は北部九州には及ばず、技術も低いことから、鉄の掌握主体が北部九州から近畿に移動したとは、素直には解釈しがたいことが明らかとなった」(村上2000)と引用されています。
ここで、はっきり近畿の状況を説明されておられるのに、「ホケノ山古墳が2世紀にさかのぼるかも」と言われても、ご本人が自分の説を否定されては意味不明となります。ご本人の説に矛盾が生じます。
ホケノ山古墳には、大刀・鏃が大量に出土します。3世紀ではただひとつ、鉄が出土する古墳なのです。
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ヤジリの「のかつぎ」も4世紀の特長だとか。
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ホケノ山古墳は初め4世紀の古墳だと聞きました。共伴する土器が古くないからです。画文帯神獣鏡も出土していました。この鏡も新しいでしょう。5世紀後半の古墳にも副葬されています。
そして、ホケノ山古墳は3世紀に繰り上げられました。すると、畿内では唯一鉄器が副葬された3世紀の古墳となりました。
ホケノ山古墳が3世紀でなければならない理由は、箸墓より古い古墳だからです。ホケノ山が4世紀の古墳だったら、箸墓が卑弥呼の墓ではなくなるからです。
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箸墓は不思議な古墳で、急に大型化しています。女性の墓の言い伝えが、卑弥呼の墓となってしまったのでしょうか。

墓があるなら、居館跡(鉾で守られた宮殿)もあるはずとして、纏向が掘られています。が、何年掘っても見つかっていないのです。
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纏向で卑弥呼が住んだ大型建築物が遂に見つかったと、マスコミも大騒ぎでしたが、最近「発掘の結果、違うらしい」となったそうです。
当初から、方形の柱穴(7・8世紀に多く見られる柱穴)とか、疑問点も多かったのでした。
柿本人麻呂の屋敷跡と思って掘っていたそうですから、途中から「卑弥呼の居館跡」と変わったのも不思議でしたね。
これは、仕方ない結果ですね。

卑弥呼を箸墓と結びつける以外、畿内説は成り立たないのですか?

ヤマト王権は卑弥呼の王権の連続ではないかも知れません。邪馬台国と切り離して考えたが合理的です。
その辺を考えると、畿内の王権の成立にもっと早く近づくと思うのですが。
九州に邪馬台国がなくても別に構いません。でも、嘘で固めてはいけません。
わたしは、宗女壱与(イヨ・トヨ)の後が知りたいのです。

近畿には東海や北陸系の土器は出土するが、九州系の土器は一つも出土しない。
と、松木さんは強調されました。近畿の学者さんがよく口にされる言葉です。
そんなことはありません。大量に庄内式土器が出土します。

熊本の菊池川流域の方保田遺跡を見ますと、庄内式の土器が大量に出土しています。これは何故でしょうね。
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(方保田遺跡は、熊本の菊池川流域の弥生集落です。つまり、狗奴国と云われている地域の環濠集落です。このブログでも方保田遺跡については取り上げています)

こたえの一つ、「庄内式土器を持ち込んだのは、邪馬台国を追って行った狗奴国(熊本)の人たちだった」のではありませんか。
彼らは、簡単に炉をつくり、鉄を生産する技術力を持っていました。

また、菊池川流域には「阿蘇地方と同じ、蹴破り伝説」があります。湖から水を抜いて田地を得る方法です。菊鹿盆地の湖水を抜いて田にしたという「蹴破り」伝承ですが、湖水の底が広くなるたびに菊池川流域は生産力を上げたのでした。

さて、近畿には河内湖という巨大な湖沼がありました。
狗奴国人には、最も魅力的な地域だったでしょう。河内湖の水を抜け! と、思ったことでしょう。
彼らが意欲を燃やしたから、そこに、人手と鉄製品が導入されたのです。わたしは、そう思います。弥生時代まで広がっていた河内湖が、急に水底を表すでしょうか? そこに手を差し伸べた経験者がいてこそ、大阪平野は豊かな平野となったと思うのです。
そうして、大阪が「いの一番」に開発されたのです。


松木さん、大阪は水の都だったのですよ、大昔から。
邪馬台国近畿説にこだわらなければ、大阪平野のダイナミックな発展を見落としてしまうことはありません。

九州を席巻した勢力は、武力を持って突き進んだのです。武力で何もかも解決するはずはないと、気が付くのは彼らが滅びた後なのです。

卑弥呼が死んだ後、女王国連合内でも争いが起こりました。それを収めるために、宗女壱与(イヨ・トヨ)が選ばれたのでした。
新女王が決まると、張政は帯方郡に帰りました。さて、その後の壱与に如何なる試練が待っていたのでしょうね。
わたしは、その後を考えようとしています
フォーラムで「鳥取県・青谷上寺地遺跡」について、松木さんの気になる発言がありました。それで、同じ遺跡についての磯田さんの発言(NHK番組での)も思い出しました。わたしは、磯田さんは古文書の専門家として尊敬しているのですが、九州に対する発言が毎回気になるのです。

NHKの番組と磯田さんに一言
或るNHKの番組で、磯田さんがこのようなことを言われました。
「鳥取県の弥生遺跡の大量に捨てられた人骨から、彼らを殺したのはおそらく九州人です。九州人ならやりかねない…」定かではありませんが、九州の弥生人の残酷な仕打ちを強調されていました。
今回の飯塚でのフォーラムでも松木さんが「溝に遺体を投げ込むようなやり方は、よそ者がしたと分かる。九州は近隣の間の戦いでは、戦いで敗れた遺体も甕棺に丁寧に埋葬している。遺体が放置されたと云うことは、よそ者(九州)が来て殺害して溝に投入れたと思う。よそ者だから、ひどいことがやれたのだ」と、このような発言をされました。


同じ遺跡の人骨に対する二人の見解を聞いて驚きました。「九州人ならやりかねない」とのお考え、偏見ではありませんか。わたしも、鳥取の人骨の件で思う事がありました。あそこで死んだのは、他所から攻めて行った者か、追われて行った者だろうな。地域のだれとも関係ない遺体だったから放置・破棄されたのだろうなあと、思いました。つまり、死者は鳥取の弥生人ではないと思ったのです。
様々に考えることができるのにと思い、磯田さんの発言には違和感がありました。


今回、ブログのカテゴリ「古代史の危機!?」としましたが、よくよく考えてみると、古代史とは何かを考え直すチャンスでもあると思いました。
次は、2月18日のフォーラムの計画運営をされた高島忠平さんと飯塚市へ質問をしたいと思っています。
面白いフォーラムだったと思いますので。
イイヅカ発 古代史情報最前線「古代から未来のトビラを拓く」テーマ『卑弥呼の戦争と武器』(2018・2・18)


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by tizudesiru | 2018-02-22 15:49 | 327古代史の危機!? | Trackback(1)

百年の嘘を ホケノ山古墳に粉飾

伊都国の平原王墓と、山城の椿井大塚古墳が同時代?

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「飯塚発 古代史情報最前線・イイヅカから未来のトビラを拓く」というフォーラムでした。2月18日のテーマは『卑弥呼の戦争と武器』でした。

松木先生ほんとですか? 邪馬台国が戦争をした相手は何処ですか?
確か、狗奴国です。
狗奴国は邪馬台国の南に在ったのです。魏書に書いてあります。卑弥呼が死んだとき、帯方郡より張政が倭国に来ています。その後、卑弥呼宗女壱与が女王位に着いたあと、張政を帯方郡に送ります。倭国の使者は、そのまま魏の都に朝貢しました。つまり、魏の使いは倭国の場所もわかり、風俗も調べ、倭国の要人にも会い、卑弥呼の墓も確かめているはずです。狗奴国の位置も状況も知りえたでしょう。
そのことごとくを天子に報告したはずです。嘘や出鱈目や間違いが在ってはなりません。邪馬台国までの距離は正しいのです。
女王国まで、萬二千余里

きちんと魏書に書いてあります。
魏書を読まれているから、松木先生は「文献では邪馬台国は九州だ」と言われたのですね。では、考古学的には畿内ということですか。でも、鉄も、絹も、クスノキも無い、楽浪郡の土器も出ない畿内ですか? もちろん帯方郡の韓式の土器も出土していません。
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それに、先生の資料は大丈夫ですか?
弥生王墓の平原と、椿井大塚古墳を同時代の鏡としておられました。

漢鏡とありますが、三角縁神獣鏡が漢鏡ではないことは、周知の事実ではないのですか?
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福岡の平原王墓は、弥生時代のの女性王の墓と云われています。確かに大量の鏡が出土した方形周溝墓です。
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しかし、椿井大塚古墳は、いわゆる初期古墳ではありません。
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(椿井大塚古墳)
ここは、弥生の墓ではありません。出土鏡も三角縁神獣鏡です。松木先生は、漢鏡5期とまとめている資料を使われています。十分に確かめてのことでしょうか。全く違う時期の副葬品を並べて論じていいのでしょうか。
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さらに、ホケノ山古墳まで持ち出されていました。そのことは、また。
長くなるので、また明日。


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by tizudesiru | 2018-02-21 02:02 | 327古代史の危機!? | Trackback

えっ?鉄がありすぎる九州に邪馬台国はない?

倭の五王の話をしていますが、古代史学会大丈夫かな? と思う事があったので、その事をお知らせします。書いていいかを少し考えましたが、書かせていただきました。
飯塚市発 古代史情報最前線、今回のテーマ「卑弥呼の武器と戦争」
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このフォーラムに参加して、下のような気分になりました。
ゆうれいの正体見たり枯れ尾花


それは、後援会のあとの討論会での発言を聞いてのことです。資料と突き合わせた話し合いの、最後の最後に出た学者の発言を。
わたしは、今日は何をしにここへ来たのでしょうと、思いました。
なぜなら、邪馬台国論争で「鉄」を採っていた倭人のいた国が邪馬台国だとされていたからです。

弥生の鉄をつかんでいたのは、どう見ても九州です。それも工具や武器の出土は福岡を抜いて熊本がトップに躍り出ました。わたしは邪馬台国と戦争をしていた狗奴国は熊本だと思っています、そして、鉄の武器の差で狗奴国が勝ったと思っているのです。
ところが、

弥生の北部九州には、鉄がありすぎるから、邪馬台国のイメージとはちがうので、邪馬台国は北部九州にはなかった
と言われたのです。驚きました。イメージですか!
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鉄で邪馬台国を論じるなら、九州で決まりだね、と思っていました。
然し、そう問屋は下ろさなかった、のです。

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鉄戈が取り上げられていました。弥生の青銅武器の威信財として、剣・矛・戈があります。中でも鉄戈は福岡の飯塚市や那珂川町などで、大型の鉄戈と変化して甕棺に副葬されているのです。更に、大型鉄戈は倭国にしか出ません。半島には大型は出土しないのです。
倭国には、大型鉄戈をつくる鉄文化があったのです。

弥生時代には、すでに銅だけではなく鉄を熔かす技術を北部九州は持っていました。


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甕棺の中の副葬ですから、伝世品ではありません。共伴する土器や木製品などで、編年もできているのです。
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弥生遺跡の鉄出土の比較を見ると、一つの遺跡だけでも熊本の鉄製品は圧倒的です。鳥取の青谷上寺地遺跡と比べると、熊本が自前ですべて作っているのですが、鳥取は他の地方からの移入品がありました。日本海側は、九州との交易が盛んだったので、技術の流失があったでしょうし、人の移動もあったはずです

弥生の鍛冶工房の様相・炉の形式が四種類
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Ⅰは、穴を掘り、穴の底に木炭や土を交互に敷き、熱効率を上げています。羽口からの空気が回るからです。ⅠとⅡ型は九州型で、ⅢとⅣ型は吉備辺りになるそうです。つまり、近畿の近くの鍛冶工房では大きな製品は造れなかったのです。
大きな鉄製品は、九州から仕入れたと云うことでした。近畿は流通で一大拠点だったというのです。

 
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倭女王卑弥呼は、魏から五尺刀を下賜されました。弥生の大刀は、素環頭大刀です。素環頭大刀は、弥生の後期組み合わせ式石棺の中から多く出土するそうです。それも、弥生の大刀も九州が圧倒的に多いのです。

しかし、鉄が多く出土する北部九州と邪馬台国は、イメージが合わないのだそうです。
でも、鉄も絹も出ない、クスノキも無い近畿にこそ、邪馬台国はないのではありませんか。文献でも、邪馬台国は九州ですけど。
でも、大事なのは、邪馬台国のその後ですよね。

講演会の中休みに、知り合いの有名ブロガー女子が「ね、どうなの? おかしくない?」と言ってきました。
そんな気分になった人も多かったようですね。

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by tizudesiru | 2018-02-20 17:57 | 327古代史の危機!? | Trackback(35)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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163持統天皇の最後の願い
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166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
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181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
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199光明皇后の深い憂鬱
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204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
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223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
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229 残された上岩田遺跡
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232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
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237パルメットの謎
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248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
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251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
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255 東大寺は興福寺と並ぶ
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259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
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264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
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271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
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273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
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332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける

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