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カテゴリ:325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望( 5 )

叶わなかったのか、倭王武の開府儀同三司

武力が王の証だった時代倭王武の絶望
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倭の五王(讃・珍・済・興・武)が活躍した時代は、武力がものをいう時代で王も自ら戦いました。戦いによる犠牲と損益は計り知れません。まして、海外への遠征はリスクはあっても得るものは少ないと承知していたでしょう。しかし、倭王達は東アジアの状況から逃れることはできなかった…何とも悲惨ですが。
倭国の民は疲弊していたと思います。

そこで、書かれたのが倭王武の上表文でした。美辞麗句の散らばった美文だと、高校社会科で習いました。老教諭が「昔より祖禰みずから、甲冑を貫き、山川を跋渉し、寧所にいとまなし」と唾をとばした講義を忘れません。倭王の勇猛さを「武」という名が表しているように教えられました。そのまま受け止めていましたが、数十年経って読んでみると、何とも悲惨な倭国と国民の状況が心に浮かんだのです。美文の背後には、武の絶望観が漂うと思うのは、わたしだけでしょうか。
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宋の順帝は若く無力で、自らの運命を予感していました。そこへ、倭王武の上表文が届いたのです。「朕をこれほどまでに崇め慕う諸侯がいる。朕の統治も天によって認められたのではないか」と、彼は思ったでしょう。だから、東夷からの上表文が宋書に残されたのです。

上表文を奉った本人も、受け取った相手も共に平穏な状況ではなかったと思います。さて、倭王武の願いは順帝に伝わったのでしょうか。
武が順帝に上表して願ったのは

開府儀同三司でした。三公と同じように開府を認めてほしい!
順帝紀によると、昇明2年(478年)倭王興没し弟武立ち、「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍と称す。」と、自ら称したのでした。そして、5月戊午条では、「倭国王の武が遣使して方物を献上して上表し、自ら開府儀同三司と称し、その承認を求め」ました。順帝は武に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を授けています。(宋書)*百済は入っていません。
順帝は臣下に禅譲し(479)順帝は帝位を去り、南斉がおこりました。順帝はやがて殺されたのです。武の願い「開府儀同三司」は認められたのでしょうか。

開府儀同三司とは、漢代の終わりころ、高官の三公(例えば、太政大臣・左右大臣などのような高い地位の公人)に府(官庁の役所・みやこ)を開くことが許されました。その三公と同じように(儀同三司)、特典である府を開くこと(開府)を認めてほしいというものです。府とは「地方自治体の役所」のようなものでしょうか。
武は、自分の国で府を開き、自治国として経営がしたかったのです。
が、武には認められませんでした。
高句麗は既に「開府儀同三司」(463)を認められていましたから、武は失望したでしょう。百済が除かれた六国諸軍事安東大将軍は認められたのですが、失望は大きかったと思います。このあと、倭王武の遣使は停まりました。

百済が、南斉より「大都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王」(490)を授かっても、なぜか、倭王は遣使しませんでした。
倭王武は、何処で何をしていたのでしょう。
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倭王は九州から遠征した
それにしても、倭王武の国書の中で常に取り上げられるのが「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」です。
倭国が平定した国から、倭国の所在地を探る
上表文のような状況の中心地は何処か、どの地域から東西南北を見たのかを検討し、倭王の所在地を探る手がかりにされています。
東の毛人の五十五国は、関東を指しているのでしょうね。西の衆夷六十六国は九州ですね。海北九十五国とは半島となります。
西が九州だとすると、四国や中国・近畿は何処にも書かれてはいません。古事記にも、日本書紀にも、旧辞本記にも、九州からの東征(東遷)は書かれています。が、倭王武の上表文には東遷は書かれていません。事実であれば書かれたはずです。記述がないのは、なぜでしょう。
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武力をもっての東遷は5世紀後半から?
考えられるのは、武の国書(478年)が出されるまでは東遷はなかった、ということです。人民の移動はあったと思いますが、武力を用いての東遷はなかったと、思います。
では上表文(478)以前に、倭王が関東に遠征できたのはなぜでしょうか。
倭王は日本海側は熟知していました。出雲・丹波・越とは深く結びついていました。日本海側から参河(愛知県)に抜けて太平洋側に出たのです。瀬戸内を通って紀伊半島を廻るより、合理的で速かったと思います。近畿には別の権力者がいたから避けていたのでしょう。(邪馬台国の滅亡により大量の人・もの・技術が流入し、大阪平野は活況を呈していた)
すると、九州倭国の人民は平和と経済力を求めて近畿に逃げるでしょうね。当然、倭王は激怒したと思います。
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書紀の記述ですが、487~504の年表でもわかるように、国内が非常にざわついています。「492年条諸国に散亡した佐伯部を探し求める」とあります。佐伯部とは「さえぐ」人・遮る人ですから「武人」です。武人までが散亡したので、倭王は怒って諸国に探索命令を出した、というのです。
倭国に由々しき事態が起こり、列島が変化するのは五世紀の終わりから6世紀初頭で、ここで大型古墳が全国に拡散すると私は思うのです。祭神としてオオクニヌシが全国に拡散するのも、5世紀後半からだと思います。
大型古墳に共通する武具・馬具は、武力が横行した時代を示し、倭王が「治天下」を目指した証だと思います。列島内の古墳の副葬品の総合的な再検討が必要です。

武力による東遷は、478年以降
そのヒントは、宋書の上表文にあります。

宋の滅亡を見た倭国王は、国内に「治天下」の王となるべく、「天子」への道を求めて突き進みました。
こうして、拡散して行く権力・人・物・技術・祭祀と神。その果てに倭王権に滅亡の危機がおとずれるのです。
倭国の人民が流出する中で倭王はその「逃亡した人民を返すように要望した」これが引き金になって、磐井の乱までつながったのではないでしょうか。
何時の時代も、武力では何も得ることはできないのですね。結果として、武力の行使は、自身も国をも亡ぼすのですから。

また、次回に。

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by tizudesiru | 2018-02-16 12:00 | 325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望 | Trackback(66)

冊封体制下の倭王たちの野望と苦悩

倭王達はどんな神祀りをしたのか
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三輪山は饒速日の山だったと、このブログでも書きました。大神神社・石上神宮・大和神社のご祭神は同じだとも紹介もしています。

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(石上神宮)
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(大神神社)
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(大和神社)

ブログ265「消された饒速日の王権」でも書きましたが、上の三社が同じ祭神とは何を意味するのでしょう。それは、かれらは同族、または同じ文化圏の出身、または運命共同体ですね。三輪山のご神体は磐座ということですが、写真にも撮れないし絵にも描けません。石上神宮のご神体も形はなく、そこは禁足地でした。どこか共通しています。九州の神社にも山をご神体とする社があり、共通する点が多くあります。
 
さて、4世紀5世紀の倭王は何処に住んだのでしょう。
その前に、倭国とその周辺の動きを考えましょう。
倭王の時代を年表でみます。「年表から何が分かるのか」ですが、そこには、彼らの生活・思想・願望・行動の一端を偲ぶ要素があるはずです。そして、倭王が何処に住んだのかも探れると思います。

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4世紀の後半から、倭国は半島に頻繁に出兵しています。百済の王子が倭国に来ていたと「応神紀」には書かれています。倭国は東晋(320~420)に御機嫌を伺いましたが、劉裕が東晋で挙兵し即位して宋が成立すると、倭国は使者をおくりすぐに宋の冊封体制に入ろうとしました。この頃、半島でも中国の冊封体制に組み込まれることを望んでいます。

413 高句麗*東晋より 使持節都督営州諸軍事征東将軍高句麗王楽浪公
416 百済*東晋より 使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王
420 宋成立
    高句麗*宋より 征東大将軍
    百済 *宋より 鎮東大将軍
425 高句麗*宋より 散騎常待督平州諸軍事を加綬


高句麗は平城に遷都(427)し、国を整えていきます。百済はおびえたことでしょう。倭国に兵の派遣を要望し、渡海した兵は五百でした。倭国は百済の為にも宋に遣使(430)を出しますが、極海の島国を宋は適当にあしらったでしょう。それより、高句麗が気になっていたのです。その高句麗は、北魏にも接近しています。

435 高句麗:北魏より 都督遼海諸軍事征東将軍領護東夷中郎将遼東郡開国公高句麗王

上の年表から読めるのは、倭王讃の涙ぐましい努力です。
繰り返し宋に遣使していますから、多大な労力と犠牲を払ったことでしょう
この王が誰なのか、日本書紀では分かりません。なぜに、これほどの努力を書き残さなかったのでしょうか。その理由として、書紀の王権の祖先ではないから書かなかった、のではないでしょうか。それとも、その伝承がすっかり忘れられていた…

倭王讃の意思を受け継いだのが、倭王珍でした。
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讃の弟・倭王珍は、高齢で即位(在位438~443)
わずかな在位期間に、精いっぱいの努力をしたようです。やがて、珍は力尽きまいたが、倭王が後をつぎ、さっそく宋に朝貢しました。
倭王済は、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・泰韓・慕韓六国諸軍事安東将軍倭国王」を望みますが、宋書文帝紀によると「安東大将軍」に留まったようです。倭王は半島にも影響力を持ちたかったのです。
済は460年くらいまで在位していたのですが、その後を受け継いだのは、興でした。

倭王の時代、半島情勢はますます厳しくなりました
450 高句麗 *新羅を討つ
457 百済 *宋より 鎮東大将軍を授かる
463 高句麗 *宋より 車騎大将軍開府儀同三司を授かる
472 百済 *北魏に 入貢し高句麗に対する帥を乞う
475 百済 *高句麗の 侵入を受け、熊津に遷都する
479 宋滅亡 *南斉(→502)おこる
    南斉 *高句麗王に車騎将軍、加羅王に輔国将軍を授ける
484 高句麗・百済 *南斉に入貢する
490 百済 *南斉より 大都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王を授かる
 

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さて、年表から倭王のいた場所を考えてみましょうか・戦禍につかれた倭国は何処か?

それは、半島の情報がすぐに入る所。百済が兵を送れと要請しやすい処。当然、近畿ではありません。7世紀ですら百済救援に兵が集まらなかったではありませんか。半島に渡ったのは、九州の人たちでした。
ですから、戸籍を持たなかった近畿の権力に出兵する力はありません。
しかも、度重なる出兵で、九州の王権は疲弊していったと、わたしは思います。当然、大きな古墳を造る余裕はなかったでしょう。丁(よぼろ)がいないのです。
倭の五王の時代は、人民は豊かではなかったとわたしは思います。彼らは九州を捨てたかも知れません。倭王の野望の犠牲にならないように。人民の逃亡は、また倭王を苦しめたかも知れません。


年表の稲荷山鉄剣について
年表を見ると 埼玉県行田市の稲荷山鉄剣の銘文「辛亥年」が、471年とされるのです。ほとんどの人も471年を支持しています。しかし、これには、個人的には異議があります。それは、鉄剣に「吾左治天下」のことばが象嵌されているからです。

「わたし(吾)は天下を治めるのを助けた(左)」とは、大変なことです。「天下」を治めることができるのは、天子だけだからです。倭王の讃・珍・済・興・武は、そろって中国の冊封を受けることを望み、実際に将軍号を授かっています。これでは諸侯並で、天下を治めたと主張することはできません。ですから、471年の鉄剣は、発掘当初の見立ての通り、辛亥年=531年だと思います。
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稲荷山鉄剣委ついては、既にこのブロブ277「江田船山古墳と稲荷山古墳」で紹介しています。ですが、再度、取り上げましょうね、要点だけでも、次回以降に。
その前に、倭王武の上表文についても考えなければなりませんね。

  
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by tizudesiru | 2018-02-13 22:42 | 325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望 | Trackback

神功皇后は悪女だった・仲哀天皇の謎の死

神功皇后は仲哀天皇の二番目の妃・なぜ皇后になれたのか
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仲哀天皇(14代)は、景行天皇(12代)の子の倭建王の第二子です。成務天皇(13代)に世継ぎがいなかったので太子となりました。母は、イクメイリビコイサチ天皇の御娘です。

仲哀天皇(タラシナカツヒコ天皇)が先に妃としたのは、叔父の彦人大兄の娘・大中津姫で香坂皇子と忍熊皇子を生んでいます。
仲哀天皇の二年に皇后に立ったのが、気長足(オキナガタラシ)姫なのです。他にも妃があり、来熊田造の祖・大酒主の娘・弟姫が誉屋別(ホムヤワケ)を生んでいます。
妃の中では身分的には、大中津姫が皇后でしょう。この人は早く亡くなったのでしょうか。


神功皇后については、おかしな話だらけです
仲哀天皇が生きている間は、応神天皇(胎中天皇)は生まれていません。生まれる前の子が男子かどうかも分からないし、通常の出産ではなく遅れて生まれた上に、生まれる前から太子とは……ありえない話の連続なのです。


そもそも、仲哀天皇の崩御そのものがおかしいのです
日本書紀では「急に具合が悪くなって、翌日崩御」「一書には、敵の矢に当たり、それが原因で崩御」となっていますが、さすがに暗殺めいたことは書けなかったのでしょう。しかし、古事記では、


「その時、神をよせたのは、息長足姫でした。
天皇が筑紫の訶志比宮におられて、熊襲を討たんとなさった時に、天皇は御琴を弾いて、建内宿祢の大臣が沙庭(さには)に居て、神の命(みこと)を請いました。ここで、大后に神が乗り移り言教え諭して、『西の方に国があり(略)われ今その国を帰服させよう』と言われました。天皇は『高い所に登って西を見たが国は見えない。海だけだ。偽りをなす神だ』と、御琴を押しのけて弾かれませんでした。
それで、その神は怒り『この天下は、お前の治めるべき国ではない。お前は死の国に行ってしまえ』と言われました。建内宿祢は『恐ろしいことです。わが天皇、どうぞ御琴を弾いてください』と申しあげました。
そこで、天皇はしぶしぶ弾かれたのですが、どれほどの時間もたたないのに御琴の音が止みました。
それで、灯りをともしてみると、天皇は既に崩御されていました。」
と書かれています。*沙庭とは、忌み浄めた祭場。そこで託宣を請う人を審神者(さには)という。


仲哀天皇の死は尋常ではありませんね。
「死の国に行ってしまえ」と言ったのは、皇后の声でした。真っ暗な沙庭で何があったのでしょう。仲哀天皇の突然の死の場にいたのは、建内宿禰と皇后だけです。二人は何をしたのか…
ですが、古事記は「御腹にいます子が治めるべき国だと、言教えた大神」の名を「天照大神」というのです。
仲哀天皇は「天照大神の御心」で、胎中の子の為に死なねばならなかったのでした。理不尽な話です。
仲哀天皇の死・本当の意味は何でしょう?

結果から言えることは、悪女の王位簒奪・王家の消滅です
①大王位の簒奪 ➁半島との交渉権の簒奪 ③正当な後継者の権利の簒奪
*簒奪(さんだつ)とは、臣下が君主の位を奪い取ることです。

この後、皇后が半島に行き新羅を征討したことになっています。そして筑紫で御子を生み、その後、倭に登り香坂王・忍熊王を討つのです。香坂王は猪に食い殺され、忍熊王は琵琶湖に入水しました。
こうして、仲哀天皇一族は葬り去られました。神功皇后は、越の国の角鹿(つぬが)に帰り、酒宴を開いたのでした。
王権の簒奪以外にないでしょうね。古事記は、そのようになっています。神功皇后が角鹿の人なら、日本海側の国と九州との関係は深いですね。

そして、次なる疑問が出てきます
仲哀天皇(足中彦天皇)の祖父・景行天皇の「国偲び歌」について、ブログでも取り上げましたが、彼の故郷は福岡市の平群村だったのではないか、平群の神山とは「飯盛山」だったのではないかと紹介しました。景行天皇は筑後まで帰って平群山のある国偲び歌を詠んだのですから、平群は福岡市早良区であろうと書きました。ヤマトタケルも国偲び歌を詠いましたが、死して白鳥となっても近畿の平群にも大和にも帰りませんでした。
景行天皇もヤマトタケルも九州と深くかかわっていましたから、足仲彦天皇が豊浦宮と香椎宮に住んだのも違和感はありませんね。


すると、景行天皇→ヤマトタケル→仲哀天皇の三人は、九州の大王だったと云うことではありませんか。
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その伝承がないまぜになって、古事記に残されていると、思いませんか。
では、また明日。


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by tizudesiru | 2018-02-11 01:39 | 325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望 | Trackback(1092)

「卑弥呼以って死す」以後の倭国

「卑弥呼以って死す」その後の邪馬台国

張政が還った後、女王国と壱与はどうなったのか。わたしは、ただ真実が知りたいのです。
壱与は畿内に引っ越したという説もあります。壱与の後、権力を握ったのは誰なのか、知りたくないですか。「なんとなく邪馬台国は畿内にあったんじゃないの」という風潮に流されていいのでしょうか。
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纏向の住居跡が卑弥呼の神殿跡とされましたが、建物の築造時期が卑弥呼の時代より新しいので、考古学的にここが卑弥呼の居館ではなくなったそうです。
では、改めて、矛でいかめしく守られた城柵・楼観のある宮殿は、纏向の何処に見つかるのでしょうね。
鉄も鏡も出ない纏向に、卑弥呼が住んでいたとは思えません。周りに経済力のある豪族がいないのですから。
が、やがてそこに権力が生まれた、それは何故か、です。
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近畿の内陸に権力が生まれたのは、そこに逃げて来た集団がいたからではないかと書きました。その集団を受け入れる協力者がいたのではないか、と思います。そうでなくては、移住したらまず海岸に居を構える他はないでしょう。急に内陸には入れないでしょう、案内もないのに。
すぐに、内陸に入り、その地域の山を自分たちの神山にするのは容易ではないはずです。先住民との軋轢もあるでしょうから。(ブログ265『消された饒速日の王権』でも書いていますが、饒速日は九州から近畿に入ったのです。そこへ、再度、九州から神武は侵入したことになっていますね。)

卑弥呼没後の邪馬台国
「日本史年表」(東京堂出版)で調べてみましょう。
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卑弥呼が没して、18年後に、倭女王が遣使
日本書紀の神功皇后紀に「倭女王」の記事


「(神功皇后)六十六年、是年、晋の武帝の泰初二年なり。晋の起居注に云はく、『武帝の泰初二年十月に、倭の女王、訳(をさ)を重ねて貢献せしむ」』といふ。」 

上の文は、日本書紀の本文ではなく、小さく書きこまれた割注にあります。「百済記」を参考にしたという割注にあるのです。

*武帝は、晋の第一代の帝(265~290)
*起居注、中国で天子の言行・勲功を記した日記体の記録


卑弥呼の没年は248年。宗女壱与が倭女王となったのは、その数年後で、張政が協力しています。すると、266年遣使の倭女王は、壱与でしょうね。266年は、13才で女王になって十数年が経った年ですから、女盛りと云うところでしょうか。
そうすると、世話になった魏が滅びたすぐ後に、次の王朝に遣使したことになります。情報収集が早いです。

では、壱与の記事が、なぜ神功皇后の条に書かれたのでしょうか。

日本書紀では、神功皇后元年辛巳)は西暦201年で、神功皇后は六十九年(269年)没、その年齢は百歳となっています。書紀では、神功皇后は3世紀の人となっているのです。
しかし
「神功紀」には百済や新羅との関係が様々に書かれています。ですが、そもそも新羅国や百済国が成立するのは4世紀半ばで、神功紀とは120年ずれるのです。(
神功皇后が実在なら、4世紀の人となります。)

すると、泰初二年=266年=神功皇后66年 は成立しないことになります。壱与の記事を神功皇后と結びつける意図が書紀編集者にあったのでしょうか。でも、神功皇后は倭女王ではありません。あくまで、皇后摂政なのです。
神功→応神→仁徳の家系は、近畿に侵入した形になっていると思います。応神天皇は九州で生まれたのですから、侵入者ですね。


年表でもわかりますが、日本書紀の神功皇后の年紀には120年プラスされて解釈されています。そうしないと、記述が史実につながらないからです。
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では、神功紀に4世紀の出来事が書かれているとして、366年・367年・369年に記載された人物は、何処の誰の命を受けて、百済に出かけたり、新羅を攻めたりしたのでしょうか。卑弥呼没して百年後のことです。四世紀の半ばから「沖ノ島」で岩上祭祀が始まっています。半島と密接なつながりが生まれていたのは事実でしょう。

神功皇后と同時代、誰が倭国の王だったのでしょう。
この事は、明日考えましょう。


ここで確認したのは、266年まで倭女王が存在していたこと、魏が滅びたらすぐに次の王朝に遣使を出したと云うことです。半島との関係も深まったと云うことです。


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by tizudesiru | 2018-02-09 00:41 | 325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望 | Trackback

卑弥呼はどんな姿だったのか・弥生後期の巫女の姿を考える

倭女王はどんな姿だったのか
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卑弥呼が役目を終えても、宗女壱与が女王の地位を継ぎましたが、倭国の巫女王は、どんな姿をしていたのでしょう。中国から錦を贈られたり、倭国から倭錦や白絹を献上していますから、絹織物を着ていたでしょうね。
残念ながら姿を探る絵や像が出土していません。ただ、倭人伝によると、邪馬台国の女子は髪を束ねて折り曲げていたそうです。頭の上に載せてあげていたのでしょうか。
古墳時代になると、埴輪がありますから、男性の姿は想像しやすいですね。女性も特別な存在の巫女でしょうか、埴輪が残されています。古墳時代後期の埴輪に残る巫女の姿は、豪華とは言えないまでも、弥生時代の巫女の姿と何らかの共通点はあったでしょうね。特に、髪型等そっくりではないでしょうか。

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東京国博所蔵の埴輪の巫女は、腰に鈴鏡をつけています。巫女は鈴音を鳴らし神と交信したのでしょうね。右の仁徳天皇陵古墳の巫女頭部ですが、髪型も似ています。焼成の時の火の当たり具合から額の上に髪が折り曲げられていたのでしょう。
巫女は全国同じ髪型だった? のでしょうか?

(仁徳天皇陵と言えば、今、世界遺産にすると頑張っている処です
が、さて、何世紀の古墳と決められるのでしょうか、気になります。
九州と関東と大阪の巫女埴輪の髪型は、共通していると云うことでしょうか。同じような神祭りをしていたのか(共通文化)、姿だけ似たのか、古墳の築造は近い時期なのか、どこから伝播したのか、興味は生まれますね。

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書紀の仁徳天皇は、応神天皇の子どもとなっています。その陵墓とされるのが大山古墳です。ここから出た巫女の埴輪です。竪穴式石室に、縄掛突起の石棺があります。これは、前方部の斜面で出土したそうです。武具の模写図もありますが、鋲留短甲だったような…
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純朴な埴輪の表情には、どんなドラマがあったのでしょうね。
弥生時代の巫女の姿は、少ないですが線描きで土器に残されています。でも、女性か男性か分かりにくいですね。
弥生時代には大型甕棺も丹塗祭祀具も作れる技術があるのに、人物を作らなかったのは何故でしょう。土偶はありますけど、まるで人間とかけはなれた顔に作られています。そこには、似せることへの深い恐れがあったのではないでしょうか。ひとがた(人形)には魂が込められたから、あえて作らなかったのではないでしょうか。


(ところが、中国では人形を墓に入れます。それを知って、徐々に埴輪が作られるようになったと思うのです。ですから、埴輪は墓の中ではなく、古墳の外側に並べて、被葬者の功績や在りし日の姿を後世に伝えようとしたのでしょうね。)
 
古墳時代に作られた埴輪に、弥生の伝統が少しは残っているはず

埴輪は6世紀の産物ですから、3世紀とはつながらないように思えますが、今日でも神官はスーツ姿ではありません。
現代の神官も数百年前と同じ神事用の衣服をあつらえ着用しているではありませんか。平安時代の絵巻物と同じような姿です。祝詞が完成したころの儀式服というところでしょうか。長い伝統があるので変わりにくいのでしょう。
同じことが、古代にもあったのだと思います。祭祀が変わらなければ、その姿や祭具も変わらなかったでしょう。
と云うことは、中臣祝詞が完成していく過程で、大きな宗教上の変革があったのかも知れません。そこで、現在につながる祭祀の形態ができたので、それまでの祭祀の伝統は失われた…

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(立山山13号墳の埴輪・岩戸山歴史資料館)
倭国女王の姿を思い描きながら、「卑弥呼以死」の後を考えます。


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by tizudesiru | 2018-02-08 13:00 | 325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望 | Trackback(940)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1祭祀線で読む大宰府の位置
2祭祀線で見る竹原古墳
3祭祀線が交叉する間夫という山
4祭祀線で知る筥崎八幡宮
5祭祀線で弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
7祭祀線で読める八女丘陵の古墳のライン
8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
367謎だらけの津屋崎古墳群と宗像氏
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫

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