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カテゴリ:324三国志魏書倭人伝に書かれていること( 3 )

女王国は北部九州にあったなら、卑弥呼の墓は何処?

魏志倭人伝の終わりに卑弥呼の墓の記述
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卑弥呼が巻き込まれた重大事が④にあります。①から読んでみましょう。

①正始元年(240)、(帯方郡)太守弓遵は、建中校尉梯儁らを遣わして、詔と印綬を倭国に持って行かせ、倭王に任命した。詔と共に金・白絹・錦・毛織物・刀・鏡・采物を賜った。倭王は使者に上表文を奉り詔に感謝した。
➁その四年(243)、倭王はまた、大夫の伊声耆・掖邪狗ら八人を遣使し、生口・倭の錦・赤と青の絹布・綿衣・白絹・丹木・木の小太鼓・短弓と矢を献上した。
掖邪狗らは八人ともに率善中郎将の印綬をもらった。
③その六年(245)、詔で倭の難升米に黄幢(黄色の垂れ幡)を假綬した(帯方郡の太守より与えられた)。

④正始八年(247)、(帯方郡の)太守・王頎が着任した。倭女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と以前から不和だったので、倭の載斯と烏越らを帯方郡に遣わし、お互いに攻撃し合っている状況を説明させた。郡は塞の曹掾史(国境守備の属官)の張政らを遣わし、彼に詔書と黄幢(黄色い旗)を持って行かせ、難升米に与え、檄(おふれ)を書いて卑弥呼を諭した。

 
諭されて、卑弥呼は死を選んだ
それで、卑弥呼は死んだのです。「以って死す」という「以死」とうい文字は、中国の史書では尋常な死には使われていないそうです。事件・刑死などの不慮の死の場合に使われているそうです。
⑤を読みましょうか。


⑤それで、卑弥呼は死んだので、おおいに経百余歩の墓を造った。殉葬した奴婢は百余人であった。あらためて男王を立てたが、国中が従わず、更に互いに誅殺しあい、当時千余人が死んだ。
それでまた、卑弥呼の宗女壱与(いちよ・とよ?)、十三歳の女性を王とすると、国中が治まった。それで、張政らは檄を書いて壱与を諭した。


⑥壱与は、倭の大夫・率善中郎将(宮中の宿衛の武官の長)の掖邪狗ら二十人で張政を郡まで送った。(倭の使者は)魏の都まで行って、男女の生口(奴隷)三十人を献上し、白珠五千、青い大珠玉二個、珍しい雑錦二十匹を貢いだ。
*ここで「倭人」伝は終わりです。


④に卑弥呼の墓は経百歩で大変大きい墓だったと書かれています。
では、箸墓が「女性の墓」という伝承があるので卑弥呼の墓なのでしょうか。箸墓が初めての前方後円墳なのでしょうか。しかし、ホケノ山古墳を始め、箸墓に先行する墓が発掘されました。そこで、ホケノ山古墳は築造年代を引き上げられる事態となったようです。ホケノ山古墳の副葬品は卑弥呼の時代と会わないのですが、築造年代は引き上げられています。それは、何度も書きましたから繰り返しませんが。

女王国が九州なら、卑弥呼の墓は何処なのでしょうね。
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(吉武高木遺跡から見る飯盛山、飯盛山・飯盛神社中宮から見る宝満山)

倭女王の墓、それを祭祀線が教えてくれるはずですが。
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何度もブログで繰り返し紹介した「宝満・飯盛を結ぶ祭祀線」です。このラインはどうでしょう。
弥生王墓
と認められている三か所の王墓が、みんなこのラインに乗ります。このラインを見つけた時から、「卑弥呼が九州の女王ならこのラインに眠っているはずだ」と書いて来たし、方々でしゃべってきました。
須玖岡本・吉武高木・三雲南小路の弥生王墓に加えて、一貴山銚子塚古墳(三世紀末~四世紀初め)が、この飯盛山・宝満山の二山を結ぶ祭祀ラインに乗るのです。それも、春分秋分の東西祭祀線の上に、です。一貴山銚子塚古墳には、三角縁神獣鏡は館外の足元に、後漢鏡は管内の被葬者の頭の近くに置かれていたそうです。それも、一枚は金メッキがされた漢鏡です。金メッキの漢鏡は日本に三面しか出土していません。三世紀末とされるこの古墳も、卑弥呼と深くかかわるかも知れません。
では、此のラインのどこに墓はあるのか……

卑弥呼の霊魂は彷徨っているかも知れない。還るべき山を見失って。
わたしは、弥生文化の断絶を考えました。大型甕棺の時代の断絶です。甕棺が大型となった弥生文化の絶頂期に、その中心地から先に大型甕棺は消滅しました。
大型銅矛を祭祀していた集団の、その祭祀具の埋納(断絶)とほぼ同時期にです。神祭りのための祭祀具を土中に埋めるとは。それは、なぜ起きたのか。政治的経済的な大変革が弥生時代の後期に起きたのです。ただ事ではありません。そこに在るのは、女王国の変革と関わるのではないでしょうか。卑弥呼の館を守っていた兵の武具は、矛です。矛を持つ文化圏に卑弥呼の館はありました。その祭祀具である大型銅矛が埋められる状況を説明するには、女王国の消滅以外に考えられないのです。何かが起こった。
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もちろん、大量の銅矛の鋳型が出土した春日丘陵に、卑弥呼の墓があった可能性は大です。しかし、わたしは続く政変の結果、女王墓は改葬されたと思います。
改葬後の墓の候補地は都が置かれたという伝承がある廟という伝承の場所でしょうか。
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そこは
北の香椎廟の辺りになるでしょうか。そこにあるのは男王の伝承ですが。
ここから九千部山頂が真南に見えます。その視線は春日丘陵を通るのです。この祭祀線の上に乗る神社も怪しいと思いますが、わたしは香椎廟の辺に改葬墓があったと思います。なぜなら、福岡平野の北の地を、霊力の強い神に守ってもらうのが一番だからです。後の世の改葬であれば、そう考えたでしょうね。
今は、まだ、祭祀線を紹介しませんが。


ヒジリ王のラインをおさらいします
ピンクのラインが、弥生の基本的な祭祀線です。この線上で、日の出・日の入りを見守ったのです。赤ラインは、ヒジリ王が観察した山々のラインです。


日知り王のラインは既に紹介しています。ヒジリ王は東西ライン上で祭祀をしていたと。
最終的に春日丘陵になったと思います。ここには、夏至・冬至・春分秋分の各日の出・日の入りの山、その山頂が揃っているのです。
東西祭祀線上の祭祀場で、山と太陽を見て暦代わりにしていたのです。
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(赤の南北ラインの上に、ヒジリ王の暦の山々が南北に連なります。このラインは、まっすぐ高良大社まで届きます。聖なる山の伝統は残ったということですね。)
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では、「親魏倭王」の印綬はどうなったのでしょう。誰かが持って行ったでしょうか。わたしは、後の世の権力者が持ち去ったと思っています。それは…それを持つものは「倭王」だからです。白村江敗戦の上表文は「倭王に問う」と書かれていたではありませんか。倭王としての地位は継続していたのです。



気になるのは、張政が帰国した後の壱与の行動です。

倭王となって、宗女壱与は何をしたのでしょうか。

張政が帰った後、列島は大変革を迎えました。皆さんご存じのように、鉄が全国に拡散します。三角縁神獣鏡が大量生産されます。工業生産地が全国に出現するのです。
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一体、何が起こったのでしょう。人と物の大拡散とは。

生産力が上がっても、人口は急には増えません。子どもが育ち、子孫が増えるスピードより速く、人口が増えるのはなぜか? 答は一つです。人間の移動です。それは、征服や侵略でしょうか。そうとは考えられません。技術を持っての移動ですから、各地ですぐに受け入れられたのではないでしょうか。邪馬台国が負けたからこそ、文化の拡散がおこり列島は変わったのだと思うのです。
技術を持って移動した豪族、彼らのルーツは九州にあると思います。


わたしは、大量の人口移動が倭国の内乱の後に何度も起こったと思います。それは、内乱の度に、繰り返されたと思うのです。二世紀、三世紀も、四世紀・五世紀・六世紀まで、特に、倭国の乱の三世紀と、磐井の乱の六世紀は大きかったと思うのです。
技術を持った豪族のルーツは、面白いです。そして、祖先神の共通性もなかなか面白いです。
それは、また、今度

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by tizudesiru | 2018-02-03 23:17 | 324三国志魏書倭人伝に書かれていること | Trackback

卑弥呼が魏の明帝から下賜された豪華な賜物

魏から倭女王卑弥呼への贈り物
もちろん、銅鏡百枚だけではありませんし、魏はもっと良い物を下賜したと自負しているのです。
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景初二年六月、使者が帯方郡へ詣でて
魏の明帝から貰った豪華な下賜品とは
読んでみましょうか。
①景初二年(魏の明帝・238年)六月、倭女王は大夫難升米らを遣わし帯方郡に詣で、魏の天子に朝献することを申し出た。郡の太守の劉夏は役人を遣わして魏の都まで送らせた。
➁その年十二月、倭女王に返事の詔書が出された。そこには、曰。親魏倭王卑弥呼に詔す。
③帯方郡の太守劉夏が送ってきた汝の大夫難升米、次使の都市牛利らが、汝の献じた男の奴隷四人と女奴隷六人、斑布(マダラ織の布)二匹二丈を持って到着した。
④汝の住むところははるかに遠いのに、遣使して貢献して来た。これは、汝の忠孝である。余は汝を非常にけなげであると思う。そこで、汝を親魏倭王となし、金印紫綬を与えよう。封をして帯方郡太守にことづけて授けよう。土地の者をなつかせ、余に孝順をつくせ。
⑤汝の使者の難升米と牛利は遠い所から来たので、その苦労をねぎらい、難升米を率善中郎将に、牛利を率善校尉になし、銀印・青綬を与え、余が引見し労をねぎらい贈り物を与えて還す。
⑥それから、深紅の交竜の模様の錦五匹、また深紅の毛織物十枚、茜色の絹五十匹、紺青の絹五十匹をもって汝の献じた貢物に応えよう。
⑦特に、汝に紺地の錦三匹と、細かい花模様の毛織物五枚、白絹五十匹、金八両、五尺刀二振り、銅鏡百枚、真珠、鉛丹を各五十斤、みな封をして難升米と牛利に付けるので帰還したら受け取るようにせよ。
⑧そのものを悉く汝の国の人に示し、吾大国が汝を健気に思うが故に、丁重に汝に良い物を賜ったことを知らしめよ。


素晴らしい絹・絹織物・錦・金・五尺刀の次が銅鏡百枚ですね。銅鏡十枚くらいでは他と釣り合わないから百枚も下賜したのですね。この鏡は出来のいいものだったでしょうから、銅の厚みが足りない三角縁神獣鏡ではないでしょうね。貧相な贈り物ではなかったでしょうから。
倭国の人はこの贈り物に度肝を抜かれたでしょうから、様々に伝承が残ったはずです。忘れてはならないことだったはずです。


(だから、正史「日本書紀」や古事記に何も書かれていないとは、不思議です。では、正史には「卑弥呼の遣隋使より後の時代のことが書かれている」と云うことでしょうか。神武天皇が近畿に移動したのは、三世紀より後だということです。それも、遣隋使の事実を知らない人たちか、遣使を無視した集団が書いた、のかも知れません。)

魏の下賜品を確実に見たのは伊都国の役人だった!?
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さて、北部九州の伊都国には帯方郡・楽浪郡系の土器が出土します。この時代に確実に交流があった証拠です。(近畿には楽浪系の土器は出土していません。これは、畿内の学者のご指摘の通りです)
「世王あり」代々王がいた、という伊都国の王の墓がどんな位置に在るか、以前にも紹介していますが、少し確かめてみましょう。

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緑のポイントは山頂、青は古墳・墓、ピンクの太祖は神社です。
伊都国の周囲の山と山の山頂を直線で結んでみます。すると、祭祀ラインが数多く交差する王墓があります。三雲南小路王墓です。上の紹介画像のように前漢境が57枚も出土した遺跡です。方形周溝墓で、周囲とは区別された区画に甕棺が並んでいました。

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他にも王墓があるでしょうが、井原鑓溝などまだ位置が確認されていないので紹介できません。
それでも王墓が特別な位置に造営されたこと、三雲南の王が特別の位置に埋葬されたことは理解できます。古代の人は、山の上に霊魂が集まると思ったのでしょうね。山頂は魂が故郷を確認する時の目印だったかも知れません。
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ちなみに、平原王墓もたくさんの国宝銅鏡を出土しています。被葬者が女性とされる平原王墓は、三雲南少路王墓と加也山の祭祀線上にあります。少し拡大してみましょう。
後の世の王は、祖先の王墓と所縁の山を祭祀線で結んで自分の墓を造った、と云うことが分かりますね。同時に、どの墓が古く、どの墓と関係が深いのか、それも祭祀線が教えてくれるのです。

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女王国の北には一大率がおかれて、諸国を検察していたのです。「諸国もこれを畏れていた。その統率者は、常に伊都国に居て、それは中国の刺史のようなものである。」と書かれています。彼らは代々中国から諸侯なみの扱いを受けていたのでしょうね。甕棺から下賜品のガラス璧が出ていますから。

今日は、伊都国の役人が見た魏の下賜品の確認でした。伊都国の役人は、封泥のことも分かっていたし、目録の文字も読めたと云うことですね。

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by tizudesiru | 2018-02-02 12:04 | 324三国志魏書倭人伝に書かれていること | Trackback(98)

女王国は、武器の矛、宮室・楼観・城柵、絹織物、クスがある地域

倭人伝・倭人は古代九州地方の人だった

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倭人伝の、その倭人の風俗を読んでみましょうね。
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①倭人の風俗は節度がある。男子は被り物がなく木綿のはちまき。着物はひと幅の布を巻き付け紐で結んで縫うことはない。婦人は髪を曲げて束ね、単衣の真ん中に穴をあけてきている。
➁稲やカラム氏を植え、桑で蚕を育て繭を集めて織り、細い麻糸、絹織物、綿織物を造っている。そこには、牛、馬、虎、豹、かささぎはいない。
③兵(武器)にはを用い、楯、木弓を使う。木弓は下を短く上を長くする。竹矢には鉄鏃や骨鏃を使う。
そこに有るのは、儋耳や朱崖と同じである。
倭の地は温暖で、冬夏も生野菜を食べ、皆はだしである。家には部屋があり、父母兄弟は寝起きを別にしている。その体に朱丹を塗っていて、中国のおしろいのようなものである。飲食には高坏を使い、手で食べる。
④葬式について、棺はあるが槨はない。土で塚を作る。死んですぐから十数日間は喪にふくし、その間は肉食をしない。喪主は声をあげて泣き、他の者は歌い舞い飲食する。埋葬後は、家をあげて水浴し、中国の禊ぎのようなものである。
⑤倭国から使いが海を渡る時,持哀(じさい)を選んでいる。<その紹介は略 >
⑥倭国から真珠・青玉が取れる。山では丹砂・朱砂があり、樹木には、くす・とち・(くすのき)・ぼけ・クヌギ・スギ・かし・ヤマグワ・カエデがある。<略>
⑦には、骨を焼く占いのことが書かれている。<略>
⑧倭人の集会では父子・男女の差別はない。酒好きで、偉い人に会うと拍手をする。寿命は長い。
⑨身分のあるものは四、五人の妻を持つ、下戸でも二、三人の妻がいる。<略>

さて、どんな地域が想像されますか?
そこでは絹織物が造られ、武器は矛で、クスノキがあり、骨で占いをしているのです。
そこは、九州ですね。棺は甕棺ですね、直葬ですから槨はないのです。

租税・物々交換の市・諸国を検察 国の組織ができていた
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皆さんがよくご存じのことがかかれています。
①税があった
➁伊都国に一大率がいて、諸国を検察していた。
③女王が中国・帯方郡に使いを出す時と迎える時、全て港であらためていた。誤りは許されなかった。<略>
④倭国では、もとは七・八十年間も男王であったが、乱がおこり長年互いに攻伐しあったので、一人の女性を共立して王と為し、卑弥呼と名付けた。
⑤卑弥呼は鬼道(神霊に通じた)で衆を引き付け、年は取っているが夫もいず、弟が国政を助けている。
⑥王となってより直接会う者は少なく、千人の奴婢が仕え、ただ一人の男子が飲食の世話をし、伝言を取り次ぐために出入りしている。
⑦卑弥呼の宮室は、楼観や城柵を厳かに設営し、常に警備兵が武器を以って守備している。
女王国の東に海を渡って千里のところに、また国がある。倭の種族である。また、侏儒国がある。この国の背丈は、三、四尺で女王国からの距離は四千里。<略>
⑨倭地について問うと、絶海の中の島の上で、国々は離島だったり陸続きだったりして、周囲は五千里ほどである


地理的にも状況的にも、倭地は九州中心の地域
中国や帯方郡からの荷物を検めて、女王国に届けるのです。何日も離れた場所に女王国があるわけはありません。途中で紛失しては大変ですから。更に、倭地の周囲が五千里とは、狭くありませんか。

でも、倭人伝に書かれているのですから、周囲五千里でも仕方ないですね。
邪馬台国の時代に九州から近畿まで倭国が広がっていたのではないのです。

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by tizudesiru | 2018-02-01 14:46 | 324三国志魏書倭人伝に書かれていること | Trackback(21)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける
373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ

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