カテゴリ:318難波宮の運命の人・間人皇后( 2 )

難波天皇と持統天皇の運命の人・間人皇后

持統天皇の難波宮行幸

持統天皇と難波宮とは深い因縁があるということでしょう。

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朱鳥元年に前期難波宮は全焼したと書かれていますし、発掘の結果でも掘立柱の焼け跡が確認されています。その後に建てかえられたのでしょう。持統天皇即位以後も、節目ごとに各天皇の難波宮行幸がありました。各天皇と難波宮のかかわりを見ましょう。
白雉三年~五年(652~654)孝徳天皇の皇居(五年に崩御)
斉明六年十二月(660) 斉明天皇行幸(百済救援の武器をそろえるため) 
天武八年十一月(679) 天武天皇、羅城を築く
天武十二年十二月(683) 天武天皇、難波宮を第一の陪都と定める
朱鳥元年正月(686) 難波宮全焼

持統六年四月(692) 有位の親王以下、少初位下相当に至るまでに、難波大蔵の鋤を賜う
持統□年 (69□)  持統太上天皇行幸(万葉集に行幸時の歌あり)
文武三年ー~二月(699) 文武天皇行幸(大宝令成定の前年)
慶雲三年九月(706) 文武天皇行幸(崩御の前年)
養老元年二月(717) 元正天皇行幸(即位三年目)
神亀二年十月(725) 聖武天皇行幸(即位二年目)
神亀四年二月(727) 聖武天皇、難波宮を造営(後期難波宮)

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難波長柄豊崎宮(なにわのながらのとよさきのみや)は、白雉三年(652)に完成しました。この都は経済的・政治的な面だけではなく、外交の面からも重要な港を持ち、選び抜かれた本格的な皇都だったのでした。「乙巳の変」後の新しい政治を象徴する都だったのです。
この皇都から、白雉四年に中大兄は母(斉明天皇)と妹(間人皇后)や役人らを率いて倭京に帰っています。東宮という立場でありながら、天皇の皇后まで連れて倭京に帰るとは、異常事態です。(天智天皇は難波宮を捨てたのです。だから、持統天皇が難波宮を重視するのは天智天皇との関わりからではありません。他に理由があるのです)
中大兄皇子の倭京への引き上げは、孝徳天皇にも信じられない状況でした。
孝徳天皇が間人皇后に贈った歌が書紀にありましたね。
金木つけ 吾が飼う駒は引き出せず 吾が飼う駒を人見つらむか
後宮の皇后を連れ出せる人とは、それは誰なのか、様々に取りざたされました。間人皇后と中大兄皇子が恋仲だったという説もあります。翌年の白雉五年に孝徳天皇が病に倒れたので、間人皇后は中大兄と難波宮に天皇を見舞いました。皇后はそのまま難波宮に残ったのでしょう。玉璽を預かり中宮天皇となったのですから。

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中宮天皇の存在については、これまでも紹介してきました。
難波宮天皇(孝徳天皇)は病が重篤となった時、間人皇后(はしひとのこうごう)=中宮天皇に玉璽を渡したので、「玉璽を持たない天智天皇は、中宮天皇が薨去するまで極位につけなかった」といいました。
また、中宮天皇の実在は、野中寺の小さな仏像の「野中寺弥勒菩薩半跏像銘(やちゅうじみろくぼさつはんかぞうめい」文の干支で確認されています
。この銘文の中宮天皇として斉明天皇と間人皇后が考えられていますが、さて銘文は、母の斉明帝(661年没)、娘の間人皇后(665年没)のどちらを指すのでしょうか。「丙寅年四月大旧癸卯」の丙寅癸卯が重なるのは、天智五年(666)だけです。
しかし、二人の没年を見ると、天智五年(666)に病気平癒をねがったのなら、どちらも没しているので該当しません。では、銘文を読みましょう。

丙寅(ひのえとら)四月大旧(だいきゅう)八日 癸卯開に記す。栢寺(かしわてら)の知識等、中宮天皇の大御身、労(いたづ)き坐(ま)しし時にいたり、誓願し奉る弥勒像也。友等人数一百十八、是に依りて六道の四生の人等、此の数に相(あ)うべき也。

「栢寺」について*何処にあったのか不明です。
「大旧」について*持統四年に採用された新暦では四月は29日で、旧暦(元嘉暦)では30日となり、29日を「小の月」30日を「大の月」ということで、「大旧」とは「四月が旧暦では大の月だった」という意味だそうです。(では、旧暦と新暦が同時に使われている時期に銘文が彫られた弥勒像だとなりますね。すると、銘文は持統四年より後の時代のものです。)
癸卯開の「開」について*「開」は暦用語で、造営・治病に良いとされる日だそうです。

「大旧」が「旧暦の大の月」であれば、銘文が持統四年より後に彫られたとなり、中宮天皇の病が重篤になった時に像が作られ、銘文はその後に由来を知る人により彫り込まれたとなりますね。では、誰が彫ったのか。そもそもどなたの病気平癒を願って、誰が造らせたものなのでしょう。
仏像が間人皇后のために造られたのであれば、天智天皇の時代の誰か、中宮天皇の身近な人が造ったとなりましょう。さて、間人皇后の没年ですが、野中寺の銘文が正しいとすると、書紀の没年とは一年ずれることになりますが、そのずれの原因は書紀の記述の混乱かも知れません。その例を書紀から探してみましょう。

日本書紀の斉明紀・天智紀には一年ずれる重出記事がある
一つ例を挙げてみました。
斉明六年(660)の十二月に、斉明天皇は難波宮に行幸しますが、それは百済救援のための武器を調達するためでした。660年に百済の王たちは唐に連行されていますから、事実上百済は滅びました。王家の血族でもあった鬼室福伸が救援軍を要請したので、斉明帝が難波行幸したとなっています。そして、七年(661)の正月に出航して三月に筑紫の娜大津(なのおおつ)に到着するのです。(斉明帝の行動が早すぎます。)
高句麗の僧・道顕の「日本世記」によれば、七年(661)四月に鬼室福伸より「王子・豊璋を迎えることを乞う」と使いが来ています。斉明天皇は朝倉宮に遷り、七月には崩御となるのです。中大兄皇子が称制し、九月に豊璋に五千の護衛の兵をつけて百済に送りました。そして、明日香に戻り、天皇の殯宮は川原宮で行われました。一旦、明日香に引き揚げたということです。(この後、中大兄皇子は筑紫に行かなかったのでしょうか)
天智一年(662)五月に安曇比羅夫が軍船百七十艘を率い、
豊璋を百済に送りました。
百済の王子・豊璋は百済に二度も帰国したことになります。
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(福岡の恵蘇八幡神社・木の丸殿の址といわれています)

書紀の記述に重出があることはよく知られています。記録が二重にあって、どちらが正しいか分からないのでしょうか。そうであれば時期の整合性も無くなります。わたしは「間人皇后の没年記事も、一年早いのではないか」と思うのです。
斉明天皇の筑紫への征西(661正月)は早すぎます。難波宮で調達した武器はあっても、船も兵もないのです。書紀では、百済救援の武器を修繕し、船舶を準備し、軍兵の食料を蓄えるのは、天智一年(662)になっています。二万七千人の出兵は天智二年(663)のことです。


間人皇后の没年は正確ではない可能性があると思うのです。
野中寺の仏像は、中宮天皇の関係者が病気平癒を弥勒像に祈ったか、平癒を願って仏像を造らせたか、です。白村江敗戦後に手に入れた仏像に、中宮天皇の病気平癒を祈っただけかも知れません。その事を後の時代になって、「この仏像には高貴な方との特別な関わりがあることを忘れてはならない」として彫らせたものかも知れません。仏像と銘文の製作は一致しないと思うのです。ただ、中宮天皇という女性の実在は動かせないのです。

中宮天皇は誰だったのか、それが問題です。万葉集には「中宮天皇」という言葉はありません。中皇命とはありますが、それは、間人皇后を置いてほかにはないのです。玉璽を預かる立場の后と考えるならば。

他に、中皇命と同じ立場の女性を表す詞として、次のような資料があります。
「仲天皇」・天平九年『大安寺伽藍縁起幷流記資財帳』天智后倭大后
「中都天皇」・『続紀』巻三〇、神護景雲三年十月詔  草壁皇子妃、のち元明天皇
「中宮天皇」・河内野中寺弥勒菩薩像台座銘 (斉明天皇・間人皇后)


「中・仲・中都・中宮」天皇という言葉には、中継ぎとして玉璽を受け継ぐべき立場の女性という意味があります。しかも、間人皇后=中皇命=中宮天皇 を指すという、理由がまだ野中寺にあります。
この寺は「中の太子」と呼ばれ、「聖徳太子の命によって蘇我馬子が建立した」と伝えられています。叡福寺が「上の太子」、八尾市の大聖将軍寺が「下の太子」と呼ばれています。この辺りを本拠地としていた船史(ふなのふひと)氏の氏寺として創建されたそうです。創建当時は、東西に金堂と塔が並ぶ伽藍であったそうです。
百済系渡来人の船史氏の寺が、何ゆえ「聖徳太子と結びついた」のでしょう。ここで、叡福寺古墳の三骨一廟が思い出されます。穴穂部間人皇后が共に埋葬されているという伝承です。この事は以前にも書きました。(穴穂部間人皇后は、義理の息子と再婚しているのです。聖徳太子の母として同じ墓に入る理由はうすいのです。既に、大后ではありません。玉璽を預かる立場ではないのです。)
最近のブログで、叡福寺古墳は孝徳天皇と間人皇后と斉明天皇の墓であると紹介しました。そうです、同じ間人皇后に関わるのです。野中寺は間人皇后の病気平癒を願い、薨去の後は菩提を弔ったのかも知れません。聖徳太子信仰の高まりにより、同じ名を持つ間人皇后の関係で「中の太子」と呼ばれるようになったのでしょう。
伝承には深い意味があると思います。

持統天皇は、大宝律令が完成する前に難波宮に行幸した

行幸の目的は、亡き難波天皇への報告ではないでしょうか。いよいよ律令が完成し、元号も建てることになりましたと、それまでの天皇ができなかった建元をしたのです。画期的な事だったはずです。だからこそ、文武天皇も行幸したのです。
前回に万葉集巻二の冒頭歌の題詞に出てくる「難波高津宮天皇」について紹介しました。
この難波天皇は、大方の解説者のいうように「仁徳天皇、または孝徳天皇」とは考えられないと書きました。難波天皇は「ある日出かけたまま帰って来ない天皇」で、その帰りを待ち続ける皇后(磐姫)がいて、「白髪になるまでも待ち続けよう」という歌でした。続く軽太郎女皇女の歌は、皇位継承事件を詠んだものでした。「皇太子が行ってしまってから日が経ってしまったが、迎えに行こう、待ち続けることはできない。」と進みだした歌でした。
巻二の冒頭歌六首は、有間皇子事件を知らしめる歌だった。そのように編集されたのが巻二だったのです。と、紹介しています。


難波天皇に所縁の深い乙女(持統天皇)を救ったのは、中皇命(中宮天皇)を置いて、他にはないでしょう。将に、中皇命が持統天皇の命運を握り、守ったと思います。なぜなら、愛する人の忘れ形見だったから、ではありませんか。

持統天皇は難波宮に行幸していますし、その時の歌が万葉集に残されているのです。しかも歴代の天皇は、必ず難波宮に行幸していますから
難波宮とは深い因縁があったということです。この深い因縁は尋常ではありません。歴史の闇に取り残された事実を、「万葉集・野中寺の仏像・難波宮への行幸」が語り続けていると思います。


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by tizudesiru | 2018-01-16 03:04 | 318難波宮の運命の人・間人皇后 | Trackback

万葉集巻二の難波天皇・持統天皇の出自を暗示する

皇都の遷都は政変と重なる
欽明・敏達・推古・舒明帝の時代は、大王の館が政治の中心でしたから皇居は次々に変わりました。が、難波宮・近江京・藤原宮・平城京・長岡京・平安京などの遷都は、いずれも政治の転換点であり、政変が絡んでいました。また、最初の皇都である孝徳天皇の難波宮(652年完成)は、先達として後世の都のモデルとなりました。天武十二年(683年)、天武天皇は難波宮を第一の陪都と定めました。難波宮に持統天皇や文武天皇が何度も行幸しましたが、それは何を意味したのでしょうか。藤原宮は難波宮をモデルに作られたのです。朝堂院内の堂の並びや数、敷地の東西の幅など、両者には共通点があります。高市皇子や持統帝の意思で作られた藤原宮には難波宮への特別な思いが窺えますが、それは何ゆえに生まれたのでしょうか。
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難波宮大極殿と天香具山をラインでつなぐと、直線は藤原宮の大極殿を通りました。孝徳天皇が難波宮に暮らしたのは、白雉三年から五年の間(652~654)わずか二年です。藤原宮が難波宮を意識して造営されたとしても、白雉五年での持統天皇は九歳くらいで高市皇子は生まれたばかりですから、関わりがあっても高市皇子ではないでしょう。では、藤原宮御宇天皇である持統天皇にとって、難波宮はどんな意味があったのでしょう。
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難波宮天皇と持統天皇陵のつながりは?

藤原宮は15年(足かけ17年)で捨てられましたが、難波宮は百年以上使われました。この違いはなんでしよう。難波宮は持統天皇にとってどんな意味があったのか、ラインでも見ます。
難波宮から天武持統陵(野口王墓)にラインを引きました。すると、ラインは真の欽明陵といわれている見瀬丸山古墳(五条野丸山)を通り野口王墓に届きました。
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このラインが王墓造営の時に意識されたと、断定はできません。しかし、持統天皇と難波宮には何かしらつながりがあると、思いました。宮殿にしても陵墓にしても、造営する時に何の意味もない土地が選ばれることはないと思うのです。
そこには、陵墓を造った人の意思、宮殿を造った人の思いが絡んでいるはずです。
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天智陵を天武持統陵と結ぶ(ピンクのライン)と、藤原宮の大極殿を通ることは、何度も紹介しました。王墓はその位置に意味がある、都も然りです。

では、難波宮と持統天皇とを結びつけるものは、何なのか。
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ここで、万葉集の巻二に気になる天皇の存在があります。
万葉集巻二の冒頭歌に「難波高津宮天皇」が登場するのですが、(その皇后の歌・四首は既にブログでも紹介しています。)難波天皇は仁徳天皇とされ、その皇后・磐姫が「帰って来ない天皇を待ちのぞむ」歌でした。しかし、古事記や日本書紀では逆で「出て行って帰って来なかったのは磐姫皇后」の方で、皇后に「帰って来てほしい」と歌を詠み続けるのは仁徳天皇の方なのです。二人の状況が記紀と万葉集では逆転しているのです。
万葉集の歌は叙事詩と云われていますから、物語を創作してお話の世界を詠んだ歌とは考えられません。それも、巻二の冒頭歌ですから、ただ偶然に掲載されたのではないでしょう。(万葉集の各巻の冒頭歌には深い意味があります)
すると、難波天皇は何かの事情で長い間不在と云うことになります。しかも、仁徳天皇ではない可能性が大きいと思います。(仁徳天皇の難波高津宮はまだ不明です、長い間探し続けられていますが。)

いったい、万葉集の難波天皇は何処へ行かれたのでしょう。

当時、万葉集を読んだ人たちには、巻二の冒頭歌の意味も、難波天皇の不在の理由も分かったのでしょうか。分からなかったなら、脚注などが付けられたでしょうから。

 難波の高津宮に天の下知らしめす天皇の代(大鷦鷯天皇、諡して仁徳天皇という)
 磐姫皇后(いわのひめのおほきさき)、天皇を思(しいの)ひて作らす歌四首

85 君が行き けながくなりぬ 山たづね 迎えか行かむ 待ちにか待たむ

磐姫皇后の四首(85・86・87・88)に続けて、「或本の歌一首」が古歌集より載せられています。「89 居明して君をば待たむ ぬばたまの吾黒髪に霜はふるとも」、白髪になっても待ち続けますというのです。そこまで長い不在なんて、状況として考えにくいです。

難波天皇の長い不在の理由は何でしょうか。実は、その理由が暗示されていると思うのです、次の歌を使って。ある事件が暗示されていると…

そこに、政権に巻き込まれた高貴な人の運命が
次にあるのは、軽太郎女(かるのおおいらつめ)=衣通姫(そとほりひめ)の歌です。

90番の歌の前後に長い題詞と長い左脚があり、この歌について説明されています。
古事記に曰く
軽太子(かるのひつぎのみこ)、軽太郎女に姧(たは)く。その故にその太子を伊予の湯に流す。この時に、衣通王(そとほりのおおきみ)恋慕(しのひ)に堪(あ)へずして追い往く時に、歌ひて曰く


90 君が行き けながくなりぬ 山たづの 迎えを行かむ 待つには待たじ


まるで磐姫皇后の歌に似ています。
古事記によると、軽太郎女皇女は木梨軽皇子の妹で、その美しさのために同母兄の木梨軽皇子に愛されてしまった人でした。木梨軽皇子は皇位継承者でしたが、禁断の愛の為にその権利を奪われ、遂には軽太郎女と共に自殺してしまうのです。

不思議な運命の糸が絡む歌・巻二の冒頭歌に続く「木梨軽皇子の事件」の歌
木梨軽皇子は允恭天皇の皇太子で、允恭天皇は仁徳天皇の御子ですから、軽皇子は仁徳天皇(難波天皇)の孫になります。つまり難波高津宮天皇の孫の皇位継承者の悲劇的な事件の歌なのです。その事件の歌が、磐姫皇后の歌に並べられているのです。よく似た歌として。
木梨軽太子は皇太子ですから、めったなことでは皇位継承権を奪われることはありません。そこへ「禁断の愛」です、書紀では「汁物が凝ったので占ったら、事が明らかになった」というのです。古事記では、「皇子が二人の関係を歌にした」から人々が知ったことになっています。
占いと歌でしたから証拠は曖昧なもので、弟の穴穂皇子側の陰謀の臭いもしてきます。


万葉集巻二の冒頭歌(85~90)は、難波天皇の事件にかかわる歌ではないか

万葉集が持統天皇の意思を汲んで編纂されたものであるなら、そこに女帝の願いや思いがあるでしょう。難波天皇と呼ばれる人は決して架空の天皇ではない、とわたしは思います。
その人は、皇位継承者であり、近親者によりおとしめられ、陰謀により皇位継承権を奪われ、そして命も奪われた。更に、彼を愛した女性は皇女であり(皇后でもあった)、更に、帰らぬ天皇を追って迎えに行った人、となるのです。
すると、難波天皇は仁徳天皇ではない。難波天皇は実在した人であるが、孝徳天皇でもない。

では、誰なのですか? 答は既に何度も何度も書いてきました。

難波天皇と呼ばれる人物は、有間皇子事件の当時者=有間皇子以外にいないのです
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その人は、持統天皇の所縁の人です。持統天皇は難波宮に行幸していますし、その時の歌が万葉集に「太上天皇、難波行幸の時の歌」掲載されているのです。持統天皇は難波宮を特別に思っていたのです。しかも、
万葉集巻二の冒頭は、「有間皇子事件」に関わる歌となっています。そして、同じ巻二の「挽歌」の冒頭も「有間皇子の自傷歌」です。
万葉集の巻二の編集の目的、それは「有間皇子事件」の告発なのかも知れません。誰もが知っている「事件」だったのでしょう。事件は歌の形を借りて、文武帝に伝達されようとしたのです。が、文武帝は奏上の前に崩御されました。
難波天皇が有間皇子を想定しているのなら、皇子は即位していたか、即位してもいい状態だったか、皇太子として準備をしていたか、いずれでしょうか。その皇子が突然あらぬ疑いをかけられて、連行された。誰もが心配したでしょう。
孝徳天皇の後宮は有間皇子の後宮に移動していたでしょうから、間人皇后は当然『次の天皇の後宮に遷る』ことを承知していたはずです。

だから、間人皇后は有間皇子の後を追いかけて行ったのでした。「君が行き日(け)ながくなりぬ」だったからです。
しかし、事件は悲惨な結果となり、間人皇后は、しばらく日本海側の間人(たいざ)という港に隠れたのです。一人ではなかったでしょう。後宮の女性たちが一緒だったでしょうし、その中に有間皇子の子女もいたと思います。
そして、皇后は玉璽を守っていたのです。
やがて、皇后は摂津に返ります(難波宮かもしれません)が、そこで病に倒れたのでした。
人々は勇気のある、しかも賢く美しい皇后=中宮天皇の病気平癒を願ったことでしょう。
皇后が摂津に戻った時、鵜野皇女が間人皇后から引き離されていたかも知れません。
高貴な乙女であれば、後宮に召される他に選択肢はありませんでした。だから、当然、天智帝の後宮に入れられたのです。


藤原宮は捨てたのに難波宮は大事にされるとは
更に、727年に聖武天皇は難波宮を瓦葺の宮殿に建てかえました。その理由は、簡単です、所縁の宮殿だったからです。聖武天皇と難波宮との深い因縁無くして、考えられないことです。

その難波宮を捨てるのは桓武天皇で、延暦のころ、平安京遷都(延暦十三年・794年)の二年ほど前です。桓武天皇はどんなに立派でも難波宮はいらなかったのです。

持統天皇は、大宝律令が完成する前に難波宮に行幸しています。しかも歴代の天皇は、必ず難波宮に行幸しています。行幸の目的は古を偲ぶことでしょうか。
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難波宮と持統天皇は深い因縁があったということです。
ここで、これまでに書いて来たことを確認しました。次は、持統天皇の難波行幸の歌を詠みましょう。
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では、また後で。




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by tizudesiru | 2018-01-12 17:32 | 318難波宮の運命の人・間人皇后 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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84船原3号墳の馬具
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86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
332モノ申す副葬品たち
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
314草壁皇子と天智天皇の関係
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う

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