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カテゴリ:305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた( 3 )

持統天皇が霊魂となって北へ向かったわけ

持統天皇は霊魂となって北の天智陵へ向かった
未来永劫、霊魂のままでいい!
それは女帝の望みでした。太上天皇は望み通りに白い骨となり、ヨミガエリを望むことなく霊魂となって北へ向かったと、わたしは思います。葬儀を指示したのは文武天皇です。十分に太上天皇の望みを知って執り行ったことでしょう。
天智陵と持統天武陵が同じ経度にあることには意味があるはずです。それは、持統帝と天智帝に深いつながりがあったからだと思うのです。
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また、天智陵が平安京を守る位置にあるということにも意味があるでしょう。
平安京は天智帝の皇統の都として造られました。
しかし、持統・天武天皇の陵墓ともつながらないわけではありませんね。天智陵の真南には持統天皇が眠っているのですから。
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新しい皇統の都のために天智陵は移されることなく守護神となりました。
ここで、また振り返ってみましょう。
意思の強い女帝が貫いたことは天武帝の皇統を守ること。何度も書きましたが、草壁皇子の皇統を守ることでした。しかし、ここで立ち止まりましょう。草壁皇子が天武天皇の皇子であり、持統帝・元明帝・元正帝が天武帝の皇統を大事にしたのであれば、天武帝の他の皇子達の皇位継承権を認めたはず、だと。
では、元明天皇が長屋王の子どもたちのを身分を引き上げたのは何故でしょうか、例外でしょうか。
娘を長屋王に嫁がせていた元明天皇は長屋王の皇統に皇位継承権を認めてもいいと考えたようです。それは、「真の天武帝の皇統に継承してもらいたい」というのが草壁皇子の遺志だったからです。大津皇子を死なせてしまったことを悔やんでもいましたから。妃の元明天皇は夫の遺志を承知していたと思います。万葉集を読むかぎり、元明天皇の夫・草壁皇子への思いは、深く強いと思います。
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それでも、天武帝の皇統は抹殺されてしまいました。
藤原氏が外戚として権力を握るようになって、ことごとく天武帝の皇統は抹殺されていきました。ついに天武帝の皇統が絶え、天智帝の皇統が皇位継承者(光仁天皇)となりました。その息子の桓武天皇は平安京に遷都した時、怨霊・悪霊から都を守ることに腐心しました。その時、天智天皇の陵墓は守り神とされたのです。

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では、神祭りはどうでしょう。伊勢の神祭りが天武帝の祭祀であれば、そのまま次の平安京の権力者・皇統の祭祀となったでしょうか。
明治になって、たしかに天皇家の神祀りとして伊勢神宮が神道のトップとなりました。それまで、天皇の行幸が何百年もなかった伊勢神宮が…です。
ここで、やはり立ち止まり考えさせられます。
天武天皇の壬申の乱を勝利に導いた渡会(わたらい)の神は、天照大神ではなかったのではないか。それは、豊受大神だったのではないか。それを証明しているのが、「人麻呂の高市皇子の挽歌」の一節ではないかと、わたしも思うようになりました。すると、天照大神が伊勢に入ったのは豊受大神より後で、壬申の乱より後、となるでしょう。

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ここで、伊勢の神の鎮座地を求めた倭姫命とその物語は、遠い昔の人でも話でもなく天武天皇以降の時代のことだと思うのです。天智帝の消えた倭姫皇后と、持統天皇の伊勢行幸の大三輪高市麻呂との逸話を考えると、倭姫皇后は消えたのではなく天武天皇の後宮に召されたのではないか、持統天皇の行幸の目的が鎮座地探しだったのではないか、などと考えてしまうのです。
だから、持統天皇の霊魂は北へ向かった。天智陵へと。

では、また明日



by tizudesiru | 2017-11-24 22:07 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback

倭姫命と伊勢・度会の神

高市皇子を助けたのは渡会の神?

では、天照大神ではなく豊受大神だったというのですか?

十二年ほどまえ伊勢に入った時、下宮の傍のホテルに泊まりました。そこで自転車を借りて伊勢を廻ろうと思ったのですが、なかなかでした。その時、倭姫命神社に寄りました。そこで、創建についてお尋ねしました。すると、女性の神官の方が
「この神社は明治になって建造されました。伊勢を求めてお出でになった倭姫を祀る神社がないのはどうしたことかと、その時できたお宮ですので、まだ新しいのです」
と説明されました。
式年遷宮に合わせて御社は建てかえされているそうで、神殿は交互に建てかえられるように空聖地が社の隣に設けられていました。その時、思ったのは『倭姫命の宮地はどのように選ばれたのだろうか』ということでした。
それで、その時に持っていた或旅行雑誌の地図を広げて内宮・外宮・倭姫命神社の位置を当たりました。三社を結びつけたラインは三角形だったと思います。これは測量して聖地を選んだのかな?と思いました。(この時の写真は全部ないのです。パソコンのコードを愛犬が噛んでショートして、データが無くなりました。電気屋さんに見せたけどダメだと云われて、パソコンも廃棄にしたのです。こんなことは何度もありましたから…データが無くなることを常に考えておかなければなりませんが)

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(下宮の東に倭姫命神社は造られています)
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(内宮は五十鈴川のほとりにあります)

伊勢を廻っていた時は、内宮と外宮はずいぶん離れていることを何とも思わなかったのです。が、倭姫命を調べている時「万葉集の渡会の神は、豊受大神である」という文章を読みました。その時は読み過ごしたのですが、後になって気になり始めました。そうして、伊勢神道の五部書を見ると、内宮と外宮は二所大神としてセットになっているのです。しかし、「倭姫命世記」では、聖地を求めて歩くのは、天照大神の御為です。

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歌を読むと、たしかに伊勢の渡会の神が高市皇子を助けてくれていますね。
柿本人麻呂が高市皇子のために造った挽歌のはじめから途中までを掲載しました。(以前に紹介しています)
伊勢の内宮は五十鈴川の上流にあり、下宮の近くを流れるのは宮川です。二つの川はともに海に流れ込み、合流はしません。
高市皇子が渡会の神(豊受大神)に助けられたのだとすると、倭姫命は渡会の神より後に伊勢に入り、宮川は既に豊受大神が鎮座していたので、五十鈴川を遡ったことになりますが…
そうなのでしょうか。また明日。




by tizudesiru | 2017-11-23 12:51 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback

持統天皇の最後の行幸と伊勢神宮

もうこの海を見ることもないだろう
あの方の霊魂を鎮める最後の旅となるだろう
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大宝元年の紀伊国行幸(秋九月、冬十月)は、万葉集の巻一、巻二、巻九に歌が乗せられています。大宝元年辛丑冬十月の紀伊国行幸は、女帝の心にあった永年の苦しみを払う行幸でした。文武天皇が持統天皇と合流したのは、十月だったのでしょう。その時、紀伊国での出来事を全て孫に伝えたのです。

持統天皇は、九月に孫の文武天皇より先に紀伊国に来ていました。その時の歌が巻一にありますが、巻九の「紀伊国十三首」と比べて軽いのですが、旅先の土地を誉め、旅の安全を祈ったのでしょう。
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大宝元年辛丑冬十月の紀伊国行幸は、特別でした。紀伊国の郡司をねぎらいながら一重に有間皇子の霊魂を慰め鎮めました。それが巻九の「紀伊国行幸十三首」でした。そのひと月前の持統太上天皇の紀伊国行幸、この時の歌を読んでみましょう。

54 巨勢の山のつらつら椿はさいてはいないけれど、つらつら思い偲んでみようか。巨勢山に椿が咲き乱れるその美しい春野を。
秋なので椿は咲いていませんからね。春野を想像して詠んだのです。

55 麻裳で知られる国、紀伊国の人がうらやましいことだ。この真土山をいつもいつも眺めることができる。わたしは旅の行き帰りに見るのだが、紀伊国の人は本当に羨ましいなあ。
真土山を越えると大和から紀伊國に入ります。その境の山を見ると旅情が高まるのでしょう。

56 川岸に咲き乱れるつらつら椿、巨勢の春の野はつらつら見ても見飽きないことだろうなあ、巨勢の春野は、きっと。
まだ、春は遠いけれど椿咲き乱れる春野を偲びながら、一行は紀伊国の行幸の安からんことを祈ったのでしょう。土地を誉めることがその地の神々に祈ることでもあったそうです。以前紹介した「紀伊国十三首」の重く切ない歌と比べると、九月の歌はかなり軽く感じますね。文武天皇を伴った行幸は特別だったことが分かります。


そして、最後の行幸が大宝二年
持統天皇の最後の行幸・美濃・三河・伊勢・伊賀

大宝二年、東国へ持統太上天皇は行幸しました。
大宝二年は女帝の崩御の年です。崩御のひと月前まで女帝は行幸の輿の上に在ったのです。行幸とは「幸を行う」ことでした。行く先々で、人々を労い褒美を与えることなのです。持統天皇も先々で褒美を与えて回りました。
その最晩年の行幸時の歌が万葉集に残されています。


大宝元年辛丑冬十月の紀伊国行幸では、紀伊国の郡司をねぎらいながら一重に有間皇子の霊魂を慰め鎮めました。もう思い残すことはないだろうと周囲は思ったでしょう。
しかし、持統天皇は旅に出ました。それも、特別のお気に入りを連れての行幸です。

今度の旅の目的は何でしょうか。

冬十月十日、太上天皇参河国に行幸 *今年の田租を出さなくて良しとする

十一月十三日、行幸は尾張国に到る *尾治連若子麻呂・牛麻呂に姓宿禰を賜う                                       *国守従五位下多治比真人水守に封一十戸

同月十七日、行幸は美濃国に到る *不破郡の大領宮勝木実に外従五位下を授ける *             
 *国守従五位上石河朝臣子老に封一十戸 

同月二十二日、行幸は伊勢国に到る *守従五位上佐伯宿禰石湯に封一十戸を賜う

同月二十四日、行幸は伊賀国に至る 

同月二十五日、車駕(行幸の一行)参河より至る(帰ってきた)

東国行幸では、尾張・美濃・伊勢・伊賀と廻り、郡司と百姓のそれぞれに位を叙し、禄を賜ったのでした。それが目的だったのでしょうか。大宝律令により太上天皇として叙位も賜封もできるようになっていました。太上天皇は新しい大宝令を十分につかったのです。

この行幸は、壬申の乱の功労者を労うことが目的だったと言われています。確かに天武軍は東国で兵を集め整えました。

行幸の目的については気になることがありますが、行幸で詠まれた歌を見ましょう。
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この行幸時の女帝のようすにただならぬ気配はなかったのでしょうか。十月から十一月まで五か国をめぐる旅が続きました。お疲れだったと思いますが。

歌に出てくる地名です。
引馬野(ひくまの)愛知県宝飯郡御津町御馬の地・音羽川河口付近に引馬神社がある。他に豊川市や静岡県浜松市の曳馬町付近とする説もある。
阿礼の崎(あれのさき)所在地未詳
隠(なばり)三重県名張市のあたり。
円方(まとかた)三重県松阪市の東部。東黒部町一帯後。「逸文風土器」に『地形が的に似る』とある。


持統天皇の行幸は「倭姫命世記」の倭姫の歩いた道と重なります。それは何故か、気になっていました。
それは、また明日。




by tizudesiru | 2017-11-21 00:10 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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195聖武天皇と元正天皇の約束
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197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
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216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
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236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
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240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける

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