大型古墳が集中する竹野川流域に豊受大神を祭る神社

大宮売神社の例祭にも大刀振り神事と笹囃し
大宮売神社は、延喜式内名神大社です。ここでも、籠神社と同じ神事が古くより執り行われています。

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案内板を見ると、大宮売神社のご祭神は、大宮売神・若宮売神です。
(この神社の説明板には、「六世紀の頃、大和王朝に統一された大宮売神は、宮中八神の一柱で造酒司(みきつかさ)にも奉斎され…」とありました。「四世紀に、ヤマト王権が日本を統一した」という認識ではないのですね。)
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石碑を見ると、大宮賣神=あめのうずめの神、若宮賣=とようけの神
と彫られています。古い神が天鈿女神で、新しい神(若宮)が豊受大神というのです。そうですか…ここも、豊受大神が祀られているのですか。
籠(この)神社の元宮は、奥宮の真名井神社でしたね。

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前回、籠神社の奥宮眞名井神社(比沼眞名井神社)の紹介をしましたが、比沼麻奈為神社が京丹後市に在ります。比沼麻奈為神社も延喜式内社ですが大社ではありません。同じ「ひぬまない神社」というので、双方の社殿を直線で結んでみました。
すると、大宮売神社がラインに乗るので「これは祭祀線なのかな」と思いましたが、ラインは大宮売神社本殿の南の参道を通っていたのです。
大宮売神社は本殿が動いていますが、大幅に移動したとは思えませんので祭祀線と断定することはできません。
が、三か所共に「豊受大神を祭っている」のは、意味深だと思います。

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比沼麻奈為神社にも行きました。
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さて、ここにも他の豊受大神を祭る神社と同じよう伝承が残されていました。
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本殿にもお詣りしました。
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籠神社の奥宮でも、ここでも「豊受大神」を祭っていた
或る時同時に「豊受大神」を祭れなくなった。それでも、ここは分霊を祀ることを願ったのですね。籠神社は祖先神に祭神を変えましたが、ここは変えなかったのです。
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いにしえの御祭神の逸話の虚実は、今では判断できません。
然し、ここが「ひぬまない神社」と呼ばれて、豊受大神を祭っていることは重要だと思います。天照皇大神を祭る神社は日本中に広がりましたが、ここは古代から豊受大神を祭ったのですから、そこには歴史の重みがあると思うのです。
大宮売神社の傍を流れる竹野川は高低差がほとんどなく海までが緩やかに流れています。竹野川流域は、この川によって潤ったでしょう。農作物だけではなく物流も、竹野川が左右したと思います。この地の豪族は大きな富を得ていたようです。
丹後半島の大型古墳は竹野川沿いに集中するのですから。

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大宮売神社の近くにも古墳群が集中します。群衆墓ですね。
力を持った集団がいたと云うことです。
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上の地図を見ると、中央を南北に流れる竹野川に大型古墳や古墳群が集中することが分かります。

ここに、文化と経済が発達してのです。政治の中心は何処でしょう。丹波道主は、主要河川・主要道路を抑えていたのですから、この竹野川沿いにも一族が住んだでしょうね。群衆墓の集中からして、大宮売神社の近くに住んだかも知れません。

その宗家が海部直氏なのでしょうか。丹波国という広い地域を治めていた氏族は、いつどのように消えて行ったのでしょうね。

次は、この地の伝承と古墳を訪ねます。

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# by tizudesiru | 2018-04-20 11:05 | 丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

前漢鏡を伝世する籠神社は、北部九州とつながっていた

籠神社の祭祀を司る祀職に在るのは海部(あまべ)氏
祝部(はふり)家の神殿深くに秘められた後漢鏡と前漢鏡
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天の橋立に守られた阿蘇海は天然の良港です。籠神社の祝部(はふり)の海部氏は古代よりこの地に住み、歴史の紆余曲折を見て来た家系なのです。
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この宮司家には、二面の伝世鏡がありました。前環境と後漢鏡です。将に、北部九州の弥生の甕棺の副葬品です。近畿では弥生の漢鏡は出土しませんから、北部九州と結びついていたという他ありません。
丹波国の国造であった海部直(あまべのあたい)氏は、海運によって九州と結びつていたのです。
然し、その事は秘されていた? 古代にも、公表するには問題があったのでしょう。「海部氏勘注系図」には、その鏡の由緒が書かれています。

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海部氏の系図(国宝)
平安時代には、海部直氏の系図は検閲されていたのです。余計なこと書かせない為でしょうか。系図(国宝)に押された丹後國印は、検閲の証拠と思います。
海部直氏が系図を残したのは、その出自に対する並々ならぬ思い入れがあったからです。丹波国の主であった宗家が祝(はふり)に落とされる時の無念が込められていると思います。では、その事態をなぜ受け入れたのでしょうか。

その答えは、籠神社の祭事から読めそうです。

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四月二十四日(古来、四月の二の午の日)例祭は、葵祭とよばれていますが、元は「藤祭」といいました。この神事を御蔭祭や御あれ祭とも呼んでいます。

山城(京都市)の一宮「賀茂別雷神社」や「賀茂御祖神社」でも、四月の二の午の日に御陰祭が行われ、四月の二の酉の日に「葵祭」が行われますが、共通しています。

ただ、籠神社の「葵祭」は「二の午の日」ですから、賀茂別雷神社の「二の酉の日」より、午(うま)未(ひつじ)申(さる)酉(とり)ですから三日早いのです。つまり、籠神社の方が「葵祭」が早いので格上だとわたしは思います。
一般的に、神社で「神楽」が奉納される日も、格上の神社からほぼ順番に日が下がっていますから。


では、籠神社の祭事に戻ります。
奥宮眞名井神社の例祭は十月十五日(古くは、九月十五日の満月の日)であり、豊受大神には「月神」としての一面もあると云うことです。また、五節句(一月七日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日)のうち、七七,九九との深い結びつきがあるとか…古来中国に於いては奇数が陽、偶数が陰ですから、その思想と結びついているのですね。

御蔭神事(「元伊勢籠神社御由緒略記」より)
『海部直氏の極秘伝によれば、之は奥宮の元初の御祭神豊受大神の御生まれの祭りとして発祥したが、後に豊受大神を祭った海部直氏に祖神彦火明命が、宿縁により現身の丹波道主命となって天下蒼生御稜威(みいづ)を垂れ給う神事と伝えられる。
此の御神事(御渡り)には、大刀振神事と云う典雅勇壮な特殊神事が遠く貞観年中から行われている。更に、神代から伝えられている鶺鴒囃し(ささばやし)の古儀も行われるが、これは爺と孫(男子)、即ち祖孫共演の篠竹のはやしであり、弥生期農耕社会の一つの習俗を伝える極めて貴重な神事であると云われている。
また、現在は中絶しているが、塩土の神が彦火火出見の為に籠船を造られた故事によって、「塩土の舞」と稱された神楽、また、彦火火出見と浦島太郎に因んだ「兒の舞」という神楽のあったことが古記により知られる。
また、眞名井神社の例祭には豊受大神に深い由縁を持つ、五穀神事という古儀が伝わっている。』


大刀振神事とは、意味深ですね。そして、塩土の神ですか。なるほど。
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今日は、籠神社と海部直氏の深い縁を紹介しました。
何より北部九州とのただならぬ結びつきを確認いたしました。
では、また。

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# by tizudesiru | 2018-04-18 23:00 | 丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

丹後半島の籠神社の祭神の交替は倭五王時代とリンクするのか

五王時代の痕跡を求めて、丹後半島を旅しました。
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古代においても大型古墳を築くには、経済力と統率力と技術力と人口密度などが関係してくるはずです。何の権力も経済力も無い地では大型古墳は造れません。
と、云うことで、丹波の国の古代の中心地を見ています。


丹波国のころ、古代の中心地は何処だったのかというと、律令時代は籠神社・国分寺のある国分や府中の辺でした。そこは天橋立の北の浜近くです。(7世紀になって急に中心地になったのではなく、古くから栄えていたのです。)

古代からの中心地に在る籠神社の現在の祭神は、彦火明命、相殿に豊受大神、天照大神、海神、天水分神となっています。

吉佐宮(よさのみや)と呼ばれた頃の主祭神は、豊受大神。天照大神と共に四年間祭祀し、天照大神に続いて豊受大神が伊勢に移った後、天孫彦火明命を祀ったと案内板にありました。
元々の祭神は、豊受大神だったのです。(主祭神が何度も変わったのですね。)
元宮は奥宮真名井神社ですが、何故かごたごたしています。
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「神代の昔より奥宮真名井原に豊受大神を祀って来た」と案内板に書かれていたので、籠神社より徒歩で10分ほど離れている奥宮眞名井神社に行きました。
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奥宮真名井神社が、籠神社の元宮です。

この地の籠神社を守って来たのは海部氏で、大化改新までは「丹波国造家」でした。つまり、大化改新によって国造から「祝部(はふり)」へと変えられたのです。更に、その系譜を残した「海部氏の系図」(国宝)に押された印は、「丹後國印」であることが判明し、丹後国庁に提出して認知を受けたものであることが分かりました。祝部家系図が検閲を受けていた理由は何でしょう。
系図に高貴な出自であると書かれることを畏れたのでしょうか。それとも、海部氏の系図には重要なことは省かれ、公にしてもいいことが書かれていたのでしょうか。

系図によれば、海部直氏の始祖とされるのは「天照国照彦火明命」、籠神社の主祭神です。

天照国照彦火明命は『先代旧事本記』によると、彦火明命=饒速日命であり、天磐船に乗って河内の哮峯(いかるがのみね)に天下ったとされています。
籠神社の伝承と共通点がありますね。では、海部氏も「物部氏」の系譜と云うことでしょうか。
ここは饒速日の神社、石上神宮や大神神社ともつながりがあるのですね。

眞名井神社にも、「天岩船」という磐座が祀られています。

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元々の祭神は、豊受大神でしたね。
元宮は奥宮真名井神社だったと書かれていました。
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眞名井神社は、ちょうど工事中でした。これ以上神域には進みませんでしたので、ご神体の磐座に参拝しませんでした。

もともと眞名井神社には本殿はなく、磐座を直接祀っていました。
現在は、磐座の近くに寄ることも、写真撮影も禁じられているのです。心無い行為をした人がいた為に、このような残念なことになったと云うことでした。

丹後国一之宮・総社「元伊勢籠神社御由緒略記」を見ましょう。

眞名井神社=匏宮(よさのみや)吉佐宮・与謝宮・久志濱宮)
   別稱 豊受第神宮・比沼眞名井・下宮元宮・元伊勢大元宮)

『神代より、奥宮の真名井原に
匏宮(よさのみや)といい豊受大神が鎮座していたが、十代崇神天皇の三十九年に大和笠縫邑から天照皇大神が遷座したので豊受け大神と共に祭祀していた。
十一代垂仁天皇の二十五年に天照皇大神が伊勢に遷座した後、二十一代雄略天皇二十二年に伊勢度会郡の山田原に豊受大神も遷座となった。


眞名井原の吉佐宮は、大化改新まで丹波国造家であった海部氏が、大化改新以降「祝部(はふり)」として守って来た。

天武天皇の白鳳十一年に、海部氏が宮名を「与謝宮(よさのみや)」から「籠宮(このみや)」に改名し、彦火火出見尊を主神として祀っていた。

元正天皇の養老三年に、本宮を奥宮眞名井神社の地から現在の本宮の地へ遷し、海部直愛志(えし)が祖神・彦火明命を主祭神とし、天照・豊受の両大神、及び海神を相殿に祀り、天水分神を合わせて祭るようになった。』


以上が、おおよその縁起の内容です。

眞名井原縁起に書かれていること、意味深ですね

①豊受大神が伊勢に遷る…天照は他所から来た神で伊勢に移ってもいいのでしょうが、豊受大神は本来眞名井原の祭神だから、神が奪われたことになりますね


➁大化改新まで丹波国造家であった海部氏が、大化改新以降「祝部(はふり)」として吉佐宮を守って来た…海部氏は国造家の地位を奪われたのでしょうか。


③天武天皇の時代に、海部氏が宮名を「与謝宮(よさのみや)」から「籠宮(このみや)」に改名したとは、変更したのか、変更させられたのか、どちらでしょう。

④元正天皇の養老三年、奥宮眞名井神社の地から現在の本宮の地へ遷った…丹波国の重要な神社となったのでしょうか?

⑤彦火火出見尊を主祭神としていたが、祖神・彦火明命に主祭神を変えた…祭神を変え、宮地を変える理由があったはずです。


現在に至るまでの間に、籠神社には祭神の入れ替えなどの大変革が何度もあったのです。そこに政権交代が見え隠れしませんか。
神代・古代・大化改新・天武天皇代・元正天皇代と、幾度もありましたね。

その事を伝える貴重な神社なのですね、籠神社は。

神代・古代の変化は、倭五王とリンクするのでしょうか。
祀職の海部(あまべ)氏は、系図では「海部直(アマベノアタイ)氏」となっています。直(アタイ)という姓(かばね)を持っていますから、古代の有力氏です。
大化改新の頃、確かに大変革ですが、丹波国造は黙って従ったのですね。

(余談ですが)
元宮の眞名井神社は工事中でしたので、参詣は遠慮しました。

が、眞名井神社の噂の石碑は見ました。確かに「三つ巴」の神紋がはめ込まれ、元の神紋は替えられていました。

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2013年くらいまでは、「三つ巴」ではなく「籠目紋」=「六芒星」の神紋が彫られていたそうです。イスラエルの六芒星と似ているというので「日本人とイスラエル人の祖先が同じ証拠」という話をする人もいたようです。
(岩手県のヘライ(?)神社でも「六芒星」の神紋を見ましたね。30年前に)

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丹後半島と倭五王との接点を探し続けています。
では、今日はここまで。


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# by tizudesiru | 2018-04-17 23:20 | 丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

丹後半島の大型古墳は倭五王の時代とリンクするのか

丹後半島に出かけたのは、元伊勢皇第神社や元伊勢豊受神社に参詣するためではありません。何より、気になっていたのは「丹後半島の大型古墳は、古墳時代前期で突然消滅する」という博物館側の説明を、確かめに行ったのです。

丹波国と九州の結びつきは、何時?どのように?
とても気になりました。なぜ、突然消滅したのか、何があったのか。大型古墳の消滅と倭五王家の滅亡とリンクするのか。何処に住み、何を経済的背景に持ち、いかにして権力を築いたのか…考える糸口を見つけたかったからです。
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(阿蘇海とは、天橋立の内海の名称です。古代はこの辺りが中心地でした。この広い内海は、天然の良港だったのでしょう)

籠神社や国分寺跡も天橋立の付け根にあります。国分寺跡を訪ねてみましょうか。
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直線的に画面を横切る緑は天の橋立の砂嘴(さし)です。内海が阿蘇海。奥は宮津湾になります。
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国分寺跡の横の寺院で写真を撮りました。
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写真は丹後半島ですが、山地が多く平地が少ないので食料生産では、米以外が考えられますね。それでも、ここは古代の中心地で国分寺も造られました。

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国分寺の基壇が芝生の奥に見えます。

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聖武天皇の天平13年(741)以降、ここに国分寺が建てられたとはいえ、それ以前から人口も集中した場所だったのは間違いありません。
雪舟は、古代の伝承の残るこの地を克明に書き残したのです。

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古代~聖武天皇御代~雪舟の時代と、時は変わっても、ここは丹後の中心地でした。
何ゆえに、かくも長く栄えたのか…それは、やはり海運でしょうか。


すぐ近くに、籠神社がります。もちろん丹後国一宮ですが、「海部氏の系図(国宝)」が有名ですね。
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(籠神社)
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(博物館に「海部氏(かいふし)系図」の複製がありました。この系図には、朝廷に提出した時「改竄無し・偽りなし」などを証明する印がうたれていました。)
当時は、系譜や系図は厳しく検閲されたのですね。
籠神社は海部氏(海人族)の神社だと云うことです。その神社が、阿蘇海の一番奥に鎮座するということは、海運を握った人々が反映させた地域だとなりますね。

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ところで、前々回に紹介した「元伊勢豊受大神社」と同じようなことが、この神社の説明板にも書かれていました。
さて、どちらが「吉佐宮(よさのみや)」なのでしょう。
確かに、ここには奥宮真名井神社がありますね。


では、そこにも行ってみましょうね。また、次回に。
古墳にたどり着くのは、もう少し後になりそうです。

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# by tizudesiru | 2018-04-16 11:36 | 丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

元伊勢内宮皇大神社も式内名神大社と結ばれる

元伊勢内宮皇大神宮に行きました。
伊勢の内宮皇大神宮になぞらえて、裏の川には五十鈴川と名付けられていました。この川を渡れば、天岩戸神社に行きます。しかし、渡らずに皇大神社に向かいました。
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この元伊勢内宮と外宮は、地図上でも余り離れていません。電車の一駅ほどの距離にあります。
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西参道は山道です。途中に神籬山の遥拝所があります。地図上の名は城山。

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神籬山を見て、本殿に参詣しました。
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元伊勢内宮の紹介文がありました。
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ご祭神は 天照皇大神
ご由緒  人皇第十代崇神天皇三十九年に、「別に大宮地を求めて鎮め奉れ」との皇大神の御教えに従い、永遠にお祀りする聖地を求め、皇女豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)御杖代(みつえしろ)となり給い、それまで奉斎されていた倭の笠縫邑を出御されたのが、今を去る二千四十九 年の遥か昔であった。そして、まず最初にはるばると丹波(後に分国して丹後となる)へ御遷幸になり、其の由緒により当社が創建されたと伝えられている。
皇大神人皇第十一代垂仁天皇二十六年に伊勢の五十鈴川上(今の伊勢神宮)に永遠に御鎮座になった。
然し、天照皇大神のご神徳を仰ぎ慕う崇敬者は、引き続いて当社を伊勢神宮の元宮として「元伊勢(内宮)さん」などと呼び親しみ、今に至るも、庶民の篤い信仰が続いている。


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摂社・末社も多く、境内は静かでした。然し、かっては賑わったと思われます。
参道には旅館や料理屋が建ち並んでいたことでしょうね。
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この神社は、あまり祭祀線が引けませんでした。若干ずれるからです。本殿の建て替えやその他の事情があって、伝承地からずれてるのかも知れませんが。
京都の守りの貴船神社と大江山を結ぶと、皇大神社本殿が乗ります…
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雷神社とはじか神社と元伊勢内宮は、いずれも本殿を結びました。と云うことは、古代より建て替えの時、祭殿は同じ所におかれたということでしょうか。
雷神社もはじかみ神社も、延喜式内名神大社ですから、少なくとも十世紀の始めから、同じ地に社殿が置かれたと云うことですね。

元伊勢信仰は江戸時代に盛り上がったのではなく、古代からあったと云うことでしょうか。

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# by tizudesiru | 2018-04-15 12:00 | 丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

下り宮の山神社は、丹波国の衰退を伝えるのか

山神社は下り宮なのでしょうか?
山神社は、兵庫県豊岡市にある延喜式内名神大社です。
鳥居をくぐると階段を降ります。本殿はがけ下に見えています。
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ここ山神社は、下り宮です。名神大社ですが。
「下り宮」で有名なのは、熊本県の南阿蘇の草部吉見神社ですね。祭事の御輿が鳥居をくぐってはならない、という不思議な神社です。
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山神社のご神木は、ケヤキでしょうか。本殿の近くの大木は、ケヤキでした。

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山神社の横を小河が流れています。つまり、集落より低い所に「延喜式内名神大社」はあるのです。なんとなく変です。毎日、神様を見下ろすことになりますね。
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集落の北は山地で、南に向かう傾斜に山宮地区はあります。
画像の左(西)のゆるやかな斜面に集落があり、右(東)道下の畑は段が下がります。
その畑より神社は低い土地に在りますから、集落のどこよりも低い所が社地になります。
何で、こんな土地が選ばれたのでしょうね。
山神社は、前回紹介した「元伊勢外宮豊受大神社」の祭祀線上の神社です。
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そして、
山神社が下り宮だとすると、祀られているのは意味深な神様だとなりますね。

祭神 句句廼馳命(くくのちのみこと)
『国司文書・但馬神社系譜伝』には、天皇の皇子で山ノ公の祖・五十日帯彦命。

国司文書 但馬故事記』(第一巻・気多郡故事記)
人皇35代舒明天皇の3年秋8月、垂仁天皇の皇子 五十日帯彦命の裔 山公峯男をもって、多遅麻国造となす。山部をつかさどる山公峯男は、その祖 五十日帯彦命を太多村に祀り、山宮と称え祀る。

『国司文書・但馬神社系譜伝』(巻一・気多郡神社系譜伝)
山ノ神社 気多郡山守部村鎮座。 祭神 五十日帯彦命 人皇十六代応神天皇の御代、但馬国気多郡に山守部を置く。人皇三十五代舒明天皇の三年秋八月、但馬山守部の山公峯男これを祀る。垂仁天皇は、丹波道主命の娘 畑入姫命を娶り、五十日帯彦を生む。山ノ公の祖なり。

と云うことは、
祭神 句句廼馳命(くくのちのみこと)
は、五十日帯彦命のことで、垂仁天皇の皇子である。母は、丹波道主命の娘 畑入姫命である。
ここは、後の世まで「山ノ公が治めていた」という伝承があり、舒明天皇の時代になっても山ノ公は残っていて、国造に任命された。

えっ? かなり意味深です。

だって、ここは但馬国の式内社ですよ。丹波国ではありません。
丹波国は、和銅六年(713)に、丹波国と丹後国に分けられていますが、但馬国は、その隣の国です。
では、古代の丹波国を 治めた丹波道主命は、娘を天皇の妃に出せる家柄であったのに、娘が生んだ皇子は但馬国の山中深くに住んだ、と言うのですか。まるで、丹波国から追い出されたか、隠れたように。
しかも、山公峯男の時代になって、はじめて祖先の神を祀ることができたが、その宮地は非常にふさわしくない山水に襲われそうな傾斜地の川の傍だった、しかも、集落のはずれのくぼ地だった…
但馬国の式内名神大社は河の傍が多かったけれど、水運とも耕作とも関係ない式内名神大社は、山神社くらいではありませんかね。
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それも、祭神が句句廼馳命(くくのちのみこと)
わたしは、菊池川流域のククチを思い出しました。魏志倭人伝の時代の卑弥弓呼、ククチヒコ を思い出したのです。ククノチとククチ、双方とも無関係ではない気がしました。丹後半島には、天橋立と阿蘇海がありますからね。九州とつながるでしょう。

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古代の丹波国の中心地は、天の橋立のある与謝郡でした。丹後半島を取り巻くように、古代の遺跡や古墳は集中しています。
しかし、ここで栄えた丹波道主命の首長家は、古墳時代の或る時に消滅したようです。なぜか、大型古墳が急に造られなくなるそうです。
突然、何かがあったのです。

その衰退消滅の時期は、何時か。九州の政変と連動するのか。
そこに興味があったので、今回の旅となったのでした。

山神社の伝承と丹波と九州と、何処か何かが重なる気がしませんか。

山神社の近くに「戸神社」という、これまた変な神社があります。ここも延喜式内名神大社なのです。「万葉集を読む会」の同行者は、山神社・戸神社について、
「これって、ヤマトのヤマとトを分けたんではないの?」
と言いました。なかなかインパクトのあるご指摘です。
現時点では、追及が難しいのですが、頭の隅に留めておきましょうね。

今回は、ここまで。
明日は、元伊勢内宮皇大大神社か、戸神社の紹介か、どちらかにしましょう。
では。

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# by tizudesiru | 2018-04-14 11:44 | 丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

元伊勢下宮豊受大神社・福知山市の元伊勢神社

伊丹から高速道(大阪宮津道)を使って、元伊勢と言われる豊受大神社に行きました。
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(伊丹空港に到着5分前の大阪)
晴れていましたが、気温は低かったです。
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元伊勢下宮豊受大神宮。旧号を、与佐宮。
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ご祭神 豊受(とようけ)大神  相殿 日子番能邇々杵(ほのににぎ)命

四所別宮 多が神社・土之神社・月読宮・風之神社

本殿の周りに摂社がずらりとありました。
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この豊受大神社は、京都府福知山市に在ります。日本海にそそぐ由良川の支流の宮川沿いに。更に上流は二瀬川となり、二瀬川を上りつめると「大江山の鬼退治」で有名な「酒呑童子の里」に届き、そこには「日本の鬼の交流博物館」があります。酒呑童子の里近くに、元伊勢外宮豊受神社と元伊勢内宮皇大神社があるのは、なかなか意味深ですね。

元伊勢外宮豊受大神社が、ここに祀られた意味は何でしょうね。
そこで、青・ピンク・黄色の三本の祭祀線を引いてみました。
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「延喜式」とは、醍醐天皇の延喜年間に作られた「式」と呼ばれる行政の細則のことです。その中で、神社の取り扱いも細かく決められました。
朝廷から幣を奉られるべき神社を「式内社」として、神名が書き込まれ、中でも大社・中社・小社など、社格が決められていました。

神社の取り扱いや、神官などについての決まりごとがありましたが、
名神大社となると、国司や勅使が幣を捧げる重要な神社と云うことです。

元伊勢豊受大神社がいくつもの名神大社とつながるのは、ここが重要な神社である証拠とも言えます。

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神社が鎮守の森に隠れると分かりにくい時がありますが、石上神宮と摩氣神社は本殿を通るのが分かりますね。

丹後半島は今でこそ高速道路で簡単に行けますが、昔は遠い異界だったのでしょうか。酒呑童子の鬼退治の話や、小式部内侍の「大江山 いく野の道の遠ければ まだ文も見ず 天のはし立」という歌もあります。遠い所だったのですね。
春の丹後半島は本当にきれいでした。


明日は、不思議な「山神社」について報告しましょう。
丹後半島の温泉、最高に良かったです。


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# by tizudesiru | 2018-04-13 12:04 | 丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

丹後半島の古墳時代

丹後半島周辺を旅行中です。

丹後半島は古墳もなかなか面白いですね。
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この辺りの埴輪は、ちょっと違ってます。何処から伝わった形でしょうね。
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自宅に帰ったら、紹介したいと思います。


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# by tizudesiru | 2018-04-10 12:00 | 丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

丹後半島を旅行中です

丹後半島に来ています
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日本三景のひとつ天橋立。
このみごとな砂嘴の内海は、阿蘇海です。外海が宮津湾。

天の橋立の付け根には、元伊勢籠神社があります。
なんだか、いろいろな意味がありそうですね。


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半島を廻って間人にも行きます。

ここが、伝承通りに穴穂部間人皇后が一時隠れた場所なのか、又は、わたしが主張するように孝徳天皇の皇后、間人皇后が隠れた場所なのか、確かめに行くのですが。
果たして、どうなりますか。


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# by tizudesiru | 2018-04-09 12:00 | 丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

辛亥の変とは、倭五王家の滅亡だった!

稲荷山古墳鉄剣と江田船山古墳鉄刀の銘文から
「辛亥の変」を読み取れるのでしょうか

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(さきたま古墳群の中で、最初に作られたのは「稲荷山古墳」)
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熊本県の鉄刀と埼玉県の鉄剣の銘文には多くの共通点、対応点が見られると、「百済の王統と日本の古代」(兼川晋著)指摘されていました。
①金象眼と銀象眼
➁杖刀人と典曹人
③百練(錬)と八十錬
④奉事と奉事
⑤獲加多支鹵大王と獲■■■鹵大王
⑥七月中と八月中
⑦吉祥句の有無

両者が大きく違っているのは⑦の吉祥句の有無です。
縁起のいい詞があるか無いかで、両者が造られた目的が違って来ます。兼川さんは、稲荷山の鉄剣銘文を次のように読まれました。ここだけ書き写しますと、前後が分かりにくいのですが、敢て写しましょう。


「百済の王統と日本の古代」155ページ『鉄剣銘を読み直す』


「辛亥の年七月中に記す。(五三一年の七月に記す。)この年は三月に、筑紫の武王家を嗣いだ葛子天皇が物部麁鹿(あらかい)に討たれて光栄ある倭の五王家の一族は滅ぼされてしまった。だから、わたし=乎獲居臣は、ここに自分の一族のことと倭の五王家との所縁について記すのであるが)乎獲居臣の上祖の名は意冨比垝、其の児の名は多加利足尼、其の児の名は弖已加利獲居、其の児の名は多加披次獲居、其の児の名は多沙鬼獲居、其の児の名は半弖比、其の児の名は加差披余、其の児の名は乎獲居臣。世々、杖刀人の首と為り、(筑後の五王家)に奉事し来り今に至る。獲加多支鹵大王の寺(武王が関東に巡狩に見えた時、こちらでは倭武天皇とお呼びしたものだが、その寺が)斯鬼宮(現栃木県藤岡町大崎。現在の大前神社)に在りし時、吾、(獲加多支鹵大王の)天下を佐治せり。(思えば、この地にあって、武王が討たれたときは何のお力にもなれず、この度はまた物部麁鹿のために滅亡したと云うことである。遥かに冥福を祈り)此の百錬の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也」
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江田船山の鉄刀の方は、
「天下を治められていた獲多支鹵大王の治世に典曹仁としてお仕えした私、名は无利弖が、八月のさなかに大鋳釜を用いて四尺の廷刀せた八十錬、九十振、三寸上好の刊刀である。此の刀を服する者、長寿にして子孫洋々、■恩を得ることができ、其の統べる所を失うことはない。作刀者の名は伊太和、書者は張安である。」
と、刀の力によってますます幸運に恵まれるというのです。



この銘文の違いとその意味を、兼川さんの読みが言い当てていると思いました。
稲荷山鉄剣に込められたのは、深い悲しみと、倭王武への追慕の気持ちです。
兼川さんは、武が討たれただけではなく、其の王家の滅びたと読み取ったのです。

圧巻の解説でした。


ではまた次回


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# by tizudesiru | 2018-04-08 12:00 | 334辛亥年に滅びた倭五王家 | Trackback

縄文土器や石器との別れの朝の深い霧

報告します。
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「西原村は旧石器、城門のタイムカプセル」として、このブログで紹介しました考古遺物を、熊大に引き取っていただきました。
ほとんどが我が家の庭や、向こう三軒両隣といったご近所の空き地や草地や畑の畔、道端で表採したものでした。
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(深い霧に立つ送電線:熊本地震で壊れたので建て替えられました)

わたしの家族が西原に家を建てて引っ越してからの30年間、父が考古遺物を拾ったことが契機となり、辺りを歩いて拾ったものでした。父が他界しました後は、余り熱心に探さなく無くなりましたが。
それでも、歩いていると目に着くのです。なんとなく拾ってしまって…

西原の台地が守り続けて来たこれらを、父は村起こしや村の紹介の為に使いたいと言い続けていました。しかし、その話はなかなかまとまらず、父も故人となりました。そして、20年経ちました。

わたしも石や土器を採集するようになって、不思議なことに出会うようになりました。「出てお出で、2000年も土の中にいて寂しくない?私の前に出ておいでよ」と、心に思うと石器が目に入るのです。不思議と、たいして時間を掛けずに拾ってしまうのでした。しかし、最近は「もういいよ。そこにいなさいね。静かに眠っていなさい。」と言うことにしています。

4月5日、旧石器の石器や縄文土器との別れの日がついにやって来ました。

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熊大の小畑先生が、家族が長い間表採して来た考古遺物を引き受けてくださると云うことで、二人の学生と一緒に調査に来てくださいました。

半年前に現地を調査するという約束していただいたので、それが実現したのです。大変うれしく思いましたが、同時に深い寂しさに襲われました。家族中で石鏃や石匙に驚いたり喜んだりしたのですから。
其の一つ一つは、父や妹や吾子や甥っ子たちが手にしたものでした。
拾い上げて微笑んだものばかりです。
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石斧も庭の駐車場から妹が拾ったのです。
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まず、自宅の駐車場がA地点となりました。西隣のアイスクリーム屋さんの駐車場がB地点。東隣の牧場がC地点で、道路を挟んで北側がD地点とされました。
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それから、道路沿いに歩いてE地点、F地点と、歩きました。
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ここは、昔からの信仰の場所で、今も掃除されています。

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旧石器の遺跡だという土橋はこの辺りでしょうか。むかし、この道や畔からスクレイパーを拾いました。
桑鶴遺跡や土橋遺跡の近くにも行きました。地震の後、住居が無くなっています。この近くの空き地で、やっぱり土器を拾いました。
二人の学生さんも袋いっぱい拾っていました。ソハタ式の文様の縄文土器が多かったし、黒曜石の破片もたくさんありました。今でも20分ほどでたくさん拾えるのです。
小畑先生も「この面は遺跡だね」と言われました。

学生さんが楽しそうに拾っていたので、わたしも嬉しくなりました。

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地震で、揺ぎヶ池の水は枯れました。

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水源と呼ばれた池も枯れました。
中央の木の根元から湧き続けていた水が枯れたのです。
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青い水も、大きかった鯉も、過去のものとなりました。この豊かな水があったから、ここに縄文人も住んだのでしょう。
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さようなら、愛しきもの。
長い間、村を見て来たね。ありがとう、ご苦労さん。
彼らは、もう私たちの傍にはありません。
何時か、西原のどこかで村の人に見てもらえると嬉しいです。調査をしてもらって、少しでも村の展示室に帰って来てほしいです。

小畑先生、後は宜しくお願いいたします。
学生さん、考古学は楽しいでしょう。頑張ってくださいね。

ではまた、次回。

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# by tizudesiru | 2018-04-07 12:00 | 278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル | Trackback

社会科では習わない「辛亥の変」を知っていますか

倭王武の足跡は、502年で消えた…
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倭五王の年表は、ここで途切れます。倭王武がこの後どうなったのか。わかりません、新羅本紀も「663年、倭の水軍が百済を援ける」まで、空白(記述がない)なのです。なぜ何も書かれなかった、又は書かなかったのでしょうか。
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500年代、6世紀の初めに何かあったのでしょうか。

社会科では習わない倭王権の滅亡なのでしょうか?
531年、辛亥の変

あなたは、知っていましたか?
日本書紀では、継体天皇の後、息子の安閑天皇(2年在位)、宣化天皇(4年在位)、欽明天皇(32年在位)が順に即位したことになっています。531年は安閑天皇の即位年に当たります。

書紀の継体天皇は、25年(531)歳次辛亥に崩御です。

継体25年とされたのは、百済本記に「531年に、日本の天皇と太子・皇子が共に崩薨した」と書かれていたからです。

えっ、では、継体天皇は25年崩御ではないのですか。
では、再度、書紀『或本』を確かめましょう。

(書紀には)或本には(継体天皇は)28年歳次甲寅に崩御という。しかし、ここで25年歳次辛亥に崩御としたのは、百済本記に『太歳辛亥の三月に、進軍して安羅に着き、乞乇(こつとく)城を造営した。この月に、高麗はその王安を殺した。また聞くところでは、日本の天皇と太子・皇子は共に薨去された』と書かれているからである。これによると、辛亥の年(531)は(継体)25年に当たる。この事は、後の人が明らかにするだろう。』
このような割注があります。

継体天皇の死亡年は、531年か、534年か判断しない。ひとまず、こ
のように記述したが、後世に勘合する者が明らかにするだろう、と判断を避けたのです。

辛亥年(531)に何かあったのでしょうか。

「上宮聖徳法王帝説」では、『志帰嶋(しきしま)天皇の治天下四一年』とあり、在位は41年で書紀の『在位32年』と合いません。*欽明天皇=志帰嶋天皇

法王帝説の在位期間が41年では、日本書紀の32年とで10年の差があるのです。安閑・宣化の在位を足してもまだ足りません。欽明天皇の崩御年は、571年ですから、531年に即位しなければ数が合わないのです。
継体天皇崩御後、直ちに欽明天皇が即位したことになります。
ということは、安閑・宣化天皇の即位はなかったことになります
書紀の安閑紀も宣化紀もなんとなく変ですからね。


安閑天皇二年12月 崩御、この月に旧市高屋丘陵に葬る。70歳。皇后も天皇の妹も合葬する。

宣化天皇四年二月天皇崩御 11月身狭桃花鳥坂上陵に葬る。73歳。皇后とその子も合葬する。


合葬とは…… 崩御後の同月に埋葬とか、家族を合葬とか、天皇の葬儀とは思えないです。この辺りで何か事件を意味しているのでしょうか。

531年は、稲荷山鉄剣の「辛亥年」に重なります
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稲荷山鉄剣の銘文から、辛亥の変を読み取った人がいました。江田船山古墳の鉄刀と稲荷山古墳の鉄剣を読み比べた結果、そこに倭王家の運命を読み取ったのです。
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このことは、また次回に。


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# by tizudesiru | 2018-04-06 12:00 | 334辛亥年に滅びた倭五王家 | Trackback

卑弥呼も倭五王もタリシホコの登場しない「日本書紀」と「日本旧記」

倭五王の五人目の「倭王武」の行方を捜していました…
倭王興の弟で、478年に宋に上表した倭王武の行方、です。
これまで、倭五王の行方を探してきましたが、結局、影も形もないのです。
なぜ、倭五王の痕跡がないのか。わたしの結論は次の①~⑤のなかの⑤なのです。

①日本書紀の編纂者は、宋書の倭五王をまったく知らなかった。故に、書紀には書かれていない。
➁編纂者は倭五王を知っていたが、8世紀の近畿の王権とは無関係なので正史に書かなかった。
③編纂者は倭五王を知っていたが、書けば歴史上矛盾が生じるのでほのめかすことも避けた。
④編纂者は倭五王のことを史書に書いているが、現代の学者も見いだせない
⑤「日本書紀」は、「日本は白村江戦で唐と戦った倭国とは別国である」と主張し、
唐との外交回復を願って編纂されたものである。当時、敗戦後の倭国関係者もこぞって歴史の改竄に賛同する立場をとり倭国を隠した。故に、倭国関係の卑弥呼・倭五王・タリシホコは、書紀に登場するはずはない。

わたしは⑤を主張しているのです。
自著「太宰府・宝満・沖ノ島」(不知火書房)で、書いています。


そもそも、倭五王は「日本書紀」に登場してはならなかった、のです。

書紀によると、倭王興は雄略天皇と時期が重なります。が、他の倭王達は誰とも重なりません。いずれの天皇にも当てはまらないのです。倭五王の活躍は全く無視された形で、8世紀に歴史書「日本書紀」は編纂されたのです。ですから、後世の学者にとっては、外国の資料と合致しない部分が多い「日本書紀」を読み解くことは難解な仕事でした。

そして、一定の学者たちは、地方の神社仏閣にも「大宝律令(701年)が施行された大宝元年(701年)以前の元号」があることを当然だと思っていたのです。
だから、外国の史書を読んだ江戸時代の学者は「卑弥呼も倭五王もタリシホコもいない日本国」と、別の歴史を持った倭国が日本の古代にあった、と考えたのです。


鎌倉・室町・江戸時代は武家政治でしたが、天皇制も残っていたので、同時に別の王朝が存在するという発想は容易でした。つまり、江戸時代までの学者は「九州年号とよぶ年号を持った王朝があった」と考えることができる状況にいた、明治までは。

もちろん、一般の人々も、古代の王朝を信じていたと思います。古い神社仏閣に「九州年号」と呼ばれた年号を残したからです。それらは、上の命令で書き残されたのではありません。

つい最近まで、人々は自家の歴史や系譜や口伝を持っていました。それらは歴史に揉まれながら、変形したり、ほとんど消えたり、何度か書き写されたり、片言だけ残ったりして現在に至っていました。もちろん、中には何の伝承も無い氏が、祖先を立派な歴史上人物に仕立てたり等、あったでしょう。が、無視できない伝承があることも忘れてはなりません。


問題は明治に在るのです! 明治に、九州の王朝説が消えた
二つ以上の王朝があったと考えることができなくなったのは、明治からです。薩長土肥の功罪は大きすぎました。神社を合祀させ、神宮寺を潰し、修験の山々をはげ山にしました。人々は新政府を信じて「廃仏毀釈」に走り、伝統と文化を破壊しました。そうして、大戦まで走ったのです。
明治を思うと悲しくなりそうです。薩長土肥の暴挙が無くても、日本人は「新世界」を開いたかも知れません。わたしはそのように思っています。ペリーも100年後の日本人を恐れました。「江戸時代の日本人は清潔感と激しい向上心と勤勉さ」を持っていたのですから。
(余計な感傷に浸りました。倭王に戻りましょう)

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歴史を考え直すチャンスは何度もありました

江田船山古墳の「鉄刀の銘文」の発見でも、転機を逃した
熊本県菊池川流域の小さな前方後円墳から鉄刀が出土し、そこに「治天下大王」の金石文が見つかりました。これは、古代史を考え直す大きな転機だったのですが、見過ごされました。
すっかり、九州にあった王朝関係の墓と云う考え方は消えて、近畿の天皇に「大王」を当てようとしたのでした。
「治天下大王」は、「瑞歯別天皇」だとされ、いの一番に「日本書紀」の天皇があてはめられました。
その後、埼玉県で稲荷山古墳より鉄剣が出土して銘文に「左治天下」があったのです。「治天下」「大王」「ワカタケル大王」が共通するとして、「瑞歯別」も「ワカタケル」と訂正されました。5、6世紀に、熊本県と埼玉県のように離れた地域を治めていたのは、奈良県の大王だとなったのです。
ホントでしょうか?


では、奈良県の勢力が埼玉や熊本に入った時期は、いつなのでしょうか? 
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(さきたま古墳群の中で、最も早く造られたという稲荷山古墳)
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稲荷山鉄剣と江田船山の鉄刀には共通点があった「人制」という役職

何度も書きましたが、埼玉の鉄剣と熊本の鉄刀に共通するのは、治天下やワカタケル大王だけではありません。「杖刀」「典曹」と言う役職の「〇〇」が共通します。

「〇〇人」と言う役職は、何処で生まれたのでしょう。列島の西と東で共通するのは、支配者が同じだったからです。「雄略十年に筑紫国には身狭村主青(むさのすぐりあお)が呉が献じたガチョウを土産に帰って来た。ところが水沼君(みぬまのきみ)の飼い犬がガチョウを噛み殺した。そこで、水沼君は鴻(おおとり)十羽と養鳥人を奉って、罪をあがないたいと申し出た。」
と書かれていて、ここにも「養鳥
」と言う役職が出てきます。

養鳥人を献じた水沼君(*)は筑紫の人です。「人」のつく役職は、九州でうまれたのでしょうね。
*別本では、水沼君ではなく筑紫の嶺県主(みねのあがたぬし)泥麻呂(ねまろ)という。
いずれにしても、北部九州の人です。更に、呉の使いは、有明海から筑紫に上陸したことになりますね。

有明海とは、近畿王権の使いとしては、異例のコースになりましょう。
身狭村主青は、九州の勢力の使者だったと考えた方がいいのでしょうか。
それとも、ここは書紀編纂者のうっかりミスなのでしょうか。そして、雄略紀には「日本旧記」という史書が出てくるのです。これもミスでしょうか。

百済との友好関係、高句麗との敵対と「日本旧記」
雄略二十一年条に「日本旧記」に曰く『久麻那利を持ちて末多王(またおう)に賜う』と書かれています。
「日本旧記」という史書があったようですね。末多王とは東城王のことで、雄略二十三年には「百済の文斤王(もんこんおう)が薨じたので、昆支王(こんきおう)の子の中から聡明な末多王を選んで王となして、武器と筑紫の兵士五百人を護衛として(百済に)送らせた」と書かれています。筑紫の兵士とは…

更に続けて「この年に、百済の調賦は例年より多かった。筑紫の安致(あち)臣、馬飼臣等船軍(ふないくさ)を率いて高麗を撃った。」

高麗に兵が出ています。筑紫の兵が。
突然「高麗を撃った」と書かれているのです。「百済の貢」の後につづけて、です。


もしかしたら、この辺りには「倭の五王の歴史が隠れているかも知れませんね。
雄略紀には妙に百済との親密な関係が書かれていて、高麗を撃つともあるのです。
ここには、百済本紀からの引用と、日本旧記からの引用があるのです。
「万葉集の冒頭歌」は雄略天皇だし、ここに何かがありそうですね。
この事は、別の機会にふれます。

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まだまだ続きます。
今日は、次のことを云いたかったのです。
日本書紀が正史であるなら、「中国の史書に出てくる卑弥呼も倭五王もタリシホコ」も登場させないはずはありません。中国に見せるために造った正史であるなら、なおさらでしょう。しかし、日本書紀が「日本は倭国ではない」という前提のもとに編纂されたから、中国の歴史書とリンクしないのです。
それが、日本国の出発の基本姿勢だったと思います。亡命百済人を山深くの「こもりく」に隠したのも、中国に見つからないようするためだった、と思います。



ただ、卑弥呼より前の「委奴国」の時代は否定していません。でも、神武東遷は北部九州を避けて、宮崎県の美々津の浜からの出発とした、筑紫には寄り道したとの記述にして、はぐらかしたのかも知れませんね。そこにも、王国はあったのですから。

白村江敗戦後、倭国は占領されました。多くの人は東に逃げたことでしょう。そうして、日本が唐と国交を回復する時が来たのです。
列島の人々は「倭国ではなく日本」として、何処までも考え尽くして、日本書紀を編纂したと思います。

その結果、歴史が混乱したのです。

次は、日本書紀「雄略紀」編纂の秘密についてかきましょう。

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# by tizudesiru | 2018-04-04 12:00 | 333倭五王の行方を捜してみませんか | Trackback

倭王武は雄略天皇ではないが、応神・仁徳王朝は滅亡した

倭王武は雄略天皇ではない
前回のブログで、「倭王武は雄略天皇ではない」と書きました。更に、辛亥年は471年ではなく531年だとも書きました。最近の定説を否定しましたから、大方の人は「嘘だろう!」と思われたでしょう。ですが、

普通に「宋書」を読むと、倭王興が活躍した時期に471年は入ります。ですから、辛亥年が471年なら、稲荷山鉄剣にかかれた大王は「興」だとなるのです。(前回のブログ)
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「稲荷山古墳」鉄剣が秘めた古代の謎
ホントに、謎でしょうか。謎としたのは、歴史学者ではありませんか?
「宋書」に倭五王の記述があるので、日本書紀の編纂をする学者は参考にしたでしょう。でも、なぜか倭五王と対応する天皇は存在しません。なぜでしょうか? 「新羅本紀」にも侵攻したのは、倭人・倭兵と書かれていました。「三国史記」の中の『新羅本紀』は14世紀に編纂されたものです。歴史の流れを承知した上で、倭について「倭国・倭兵・倭人」と書き分けていて、すべてが倭国ではないのです。
つまり、「過去において新羅にたびたび侵攻した倭は、倭人であって倭国ではない」と発言してくれたのでした。

すると、「歴史上の某天皇が新羅に侵攻したのは事実であるが、ひとまず友好国として言及を避けた」というのでしょうか。
そうであれば、倭五王をいずれかの天皇に比定することはできるでしょう。その中で、倭王が大泊瀬稚武(オオハツセノワカタケル)天皇となります。

倭王興が活躍していたのは460~478年であり、辛亥年が定説どおり471年であるなら稲荷山鉄剣の「ワカタケル大王」は倭王興となる、自明のことです。倭王興=雄略天皇=ワカタケル大王

しかし、埼玉新聞社発刊の『稲荷山古墳』では、辛亥年=531年としています。
稲荷山鉄剣が発掘された当初は、ほとんどの学者が「辛亥年は531年」を支持していたのです。
531年なら、倭王興とワカタケル大王は時代がずれるので別人です。
倭王(478~)がワカタケル大王の可能性があるなら、定説の471年ではなく531年しかありません。

しかし、いつの間にか「辛亥年は471年で、倭王武は雄略天皇である」が定説になってしまいました。これが謎ですね。

金石文である埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文「辛亥年七月中」という干支は、歴史上の事実です。そこに「ワカタケル大王」という人名があるのなら、この大王も実在の人です。
この人が書紀の天皇の誰かと一致するのか、しないのか。王権の支配地域を考えるうえにも重要です。
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(稲荷山古墳)

中国の史書である「宋書」には、倭国王が五人登場しました。
ところが、五人そろって何処の誰だか分からないのです。この五人も書紀の天皇と一致するのかしないのか、重要です。
書紀の記述の年代は虚実ないまぜで、明らかに時代がずれていたりしますが、倭五王と対応するのなら中国の干支により実際の年代が導き出される可能性が高いからです。
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日本書紀の編纂には40年ほどかかったそうです。学者たちは、漢書・後漢書・三国志(魏志倭人伝)も宋書・隋書も読んだ上で編纂したでしょう。漢文を読める学者が、外国の史書を参考資料としながら日本書紀を編纂したと考えます。それらを参考にしなかったと考える方が無理でしょう。書紀の引用文には「〇書に曰」と出典が示され、百済本記や個人の日誌など実際に参考にされています。

それなのに、卑弥呼も倭五王もタリシホコも記紀には登場しません。これは変です。
四世紀には畿内の王権が列島を支配していたのなら、五,六世紀の倭五王が史書の中で行方不明になるわけはありません。
また、王権が列島に少なくとも二ヵ所以上あったにしても、倭王が史書から漏れることはないでしょう。敵対するなり、無視するなり、何らかの影響があるはずで、全く消えることはないと思います。

今回は倭王武の行方を捜していますが…
倭王興の弟で、478年に宋に上表した倭王武の行方

倭王武の前後には、日本史を揺るがしかねない大きな歴史の転換点がある、のです。
だからこそ、ここを素通りはできません。


雄略天皇の弟は、天皇になっていないのです。書紀編纂者が歴史を知っているなら、「興の弟の武が即位した」と天皇位の継承で臭わせるでしょう。しかし、「宋書」を読んでいても、「宋書」に合わせることはなかった。倭五王の皇統の存在を残さなかった…故意に残さなかったのかも知れません。
ここは大事なところです。

日本書紀の編纂者は、「宋書の五王と畿内王権は無関係という事実」と「もう一つの真実」を知っていた。だから、畿内の王権と直接の関係を造作しなかった、と思うのです。
其の真実とは、「倭五王の系譜は断絶した」こと、と思います。
倭五王の皇統は、倭王武の後、いくらも経たないうちに滅びた、と思うのです。
自然に滅びたのではなく、何らかの政変があったと。
では、五世紀末~六世紀初めに、政変があった?
 
それは、ありました。九州の「磐井の乱」です。

もう一つ、日本書紀の中で滅びたと思われる皇統は、応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈の皇統です。この皇統が、継体天皇にとって代わられるという事件が、六世紀の前半に起こりました。

さて、ここでまた問題です。わたしは、倭五王は畿内の天皇には見当たらないと書いてきました。倭王武の上表文から、倭王達は九州にいたのではないかと書きました。倭王が九州にいて、「磐井の乱」が九州で起こったのなら、「うちわもめ」のようなものだったのでしょうか。

すると、九州の事件「磐井の乱」と滅びた応神朝はどのようにかかわるのでしょうか。遠く離れて、連動するのでしょうか。

その辺りは、解決しなければなりません。

以前「宋書」倭国伝の武の上表文を読みました。
倭王が九州にいて、上表文の通りだとすると、478年まで畿内への東遷はなかったことになると、書きました。武が「治天下」を目指したのは、478年以降だとも書きました。

日本書紀は自ら「雄略天皇は倭王興である」として、武だとは書いていません。一方では「列島は近畿の王に九州から関東までに支配されていた」ように書かれています。

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では、滅びた応神天皇の皇統について見直しましょうね。
また、次回。

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# by tizudesiru | 2018-04-03 12:00 | 333倭五王の行方を捜してみませんか | Trackback

倭王武は雄略天皇ではない

倭王興の選択も、やはり宋の冊封体制だった
倭王讃・珍・済まで見てきました。
彼らが望んだのは、宋の臣下となることではありません。友好国・百済の為に、半島で優位な位置を占めることでした。
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今回は、倭王興(460~478在位)についてです。
興は、済の世子でした。
倭王興も、即位した同年に宋に貢献しました。二年後、「安東将軍倭国王」を授与されますが、対立する高句麗は「車騎大将軍開府儀同三司」を授かりました。
開府儀同三司とは、独自に「府」を開き役職を作り自国を経営することができる地位でした。
倭王興としては、高句麗に先を越されて非常に残念だったでしょうね。

倭王興の時代は、書紀の雄略天皇の時代と重なるのです。では、興は雄略天皇でしょうか。
年表の続きを見ましょう。『稲荷山鉄剣』には、後で触れます。

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474・475・479年は、日本書紀の雄略紀の記事です。
481・487・490・492・493・498・501・504
は、清寧紀、顕宗紀、仁賢紀、武烈紀の記事です。雄略天皇が没した後、20年間に四人の天皇が即位しています。
ここで、皇位継承の問題が生じたということでしょう。
他の472・477・478・502年は、中国の史書の記事です。


では、倭王興は何天皇でしょう
460年、倭王済没し、倭王興立つ。
462年、宋が倭王興に「安東将軍倭国王」を授ける
同 年、倭人が活開城を襲い、一千名を連れ去る
463年、倭人が歃良城を攻めるが、勝てずに去る
(471年、稲荷山古墳の鉄剣銘文・辛亥年)
476年、倭人が東辺を攻める
477年、倭人が五道に侵入し、功なく帰る

同 年、倭国、宋に遣使、方物を献ずる
478年、倭王興没し、倭王武立つ
(479年、雄略天皇没す・日本書紀)

これまでの倭王と同じことを繰り返し、興は力尽きたようです。

日本書紀では、雄略天皇は479年に没したことになっています。雄略天皇の没年記事は、倭王興と一年ずれていますがほぼ合致した記述なのでしょう。
日本書紀の記述「雄略天皇」と、宗書「倭王興」とは同一人物ということです。つまり、雄略天皇は倭王武ではないのです。

すると、ややこしくなるので、確認します
「ワカタケル大王」とかかれた稲荷山鉄剣「辛亥年=471年?」の大王は、倭王興だとなります。稲荷山鉄剣の銘文は、歴史の事実を伝えていますから辛亥年が471年なら、宋書の「倭王興」以外に該当者はありません。
これは、ごく自然な宋書の読み方です。

更に、「ワカタケル大王」という号から「武」という中国風名称が導き出されたという、これも、倭王「興」では、成立しません。

では、宋書に書かれた「倭王武(478~)」は、誰でしょうか。雄略天皇の次の天皇は次々に交代しますが、清寧天皇でしょうか。ですが、清寧天皇は雄略天皇の第三子で、弟ではありません。

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稲荷山鉄剣を副葬した被葬者が心から仕えたワカタケル大王は、「治天下大王」でした。天子となった大王なのです。だから、倭王興ではないでしょう。では、倭王武が治天下大王なのでしょうか。

宋書「倭王武」と、稲荷山鉄剣が指し示す「ワカタケル大王」は、ともに実在しています。同一人物かどうかは分かりませんが。

稲荷山鉄剣の「辛亥年」が
辛亥年=531年となると、事態は大きく変わります

わたしは、531年であると、以前からこのブログで書いてきました。


稲荷山鉄剣のワカタケル大王は、531年には既に没しています。多くの学者がそのように銘文を「過去形」で読んでいますから。その亡き大王を偲んでいるのが、稲荷山古墳の被葬者なのです。

その物語を再度確認しなければなりませんね。

それは、次回。
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参考までに、新羅本紀の記事の年表を載せました。

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# by tizudesiru | 2018-04-02 12:00 | 333倭五王の行方を捜してみませんか | Trackback

倭王済が安東大将軍を望んだ理由

倭の五王は何処に? まだ見つからないのです!

五王の行方を捜すためのいくつかの条件があります
倭王は冊封体制に組み込まれることを望み、軍事に力を入れていた。それは、仮想敵国の高句麗に対抗するためだった。つまり、高句麗と対峙した天皇を探すこと。
倭王は、半島に渡る為ためにも「百済」とは親しくし、高句麗と組みやすい「新羅」には出兵を続けていたと思います。百済にしても、高句麗・新羅の勢力に対抗するためにも倭と友好関係にあることが必要でした。
五王の治世は、賛は22年間、珍は5年間ほど、済は17年間、興は18年間、倭王武は30年ほどでしょうか、武がはっきりしませんが。


中国の宋書の記述で、書紀を見直していますが、やはり、結論は「見つからない」なのでしょうか。探すことが無駄なのでしょうか…それでも、探しています。

中国・半島・列島に関わる年表から、倭王の行方を捜そう
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今回は、倭王済です。443~460年の治世だったとすると、443・444・450・451・459・460(没)と記事が拾えます。
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年表から高句麗関係を抜き出してみる(卑弥呼死後の年表)と、倭王済の時代も高句麗は大国で、中国の影響を直に受けていました。
高句麗の関係記事に、倭王済の治世(443~460)を入れてみました。

263年、魏滅び、晋(西晋)おこる
266年、
倭女王、西晋に朝貢する(壱与の素早い対応が分かる)


302年、高句麗が晋(西晋)の玄菟郡を侵す
316年、高句麗が楽浪郡を滅ぼす。
317年、西晋滅び、五胡十六国時代始まる。東晋おこる
343年、高句麗が前燕に入朝し、叙正される
355年、高句麗、前燕より進号される
372年、高句麗に前秦より仏教伝来
392年、高句麗、公開土王が即位
400年、高句麗、新羅を援助し倭を討つ
413年、高句麗、東晋より叙正される
414年、高句麗、公開土王の碑がたつ
421年、高句麗、宋より叙正
425年、高句麗、宋より進号
427年、高句麗、平譲に遷都
435年、高句麗、北魏に入貢し、叙正される

443年、倭王済が宋に遣使し、安東将軍倭国王となる

444年倭兵が金城を包囲し、食料が付きて帰る
450年、高句麗が新羅を討つ
451年、倭王済が安東大将軍倭国王に進号する
459年倭人が月城に進撃したが、破られる
460年、済没し、世子興立ち、宋に遣使貢献する


463年、高句麗、宋より車騎大将軍開府儀同三司を授かる
484年、高句麗、南斉に入貢


倭王済がどんな時代を生きたか想像がつきますよね。彼は倭王珍が成しえなかったことをやりたいと思ったようです。しかし、大きく高句麗が控えていたのです。


こうして見ても、允恭天皇とも思えません。高句麗の記事が允恭記にはないのです。仁徳紀では既に紹介した「十二年、高麗国、鉄盾・鉄的を献上した」と、「五十八年、高麗国が朝貢した」の二件でした。
では、新羅に関してはどうでしょう。

神功(11)応神(6)仁徳(3)允恭(3)雄略(7)継体(10)宣化(1)欽明(28)敏達(6)崇峻(2)推古(12)以下省略

允恭記「允恭三年、使者をやって良医を新羅に求めた。」「允恭四十二年、天皇崩御。新羅王は天皇が既に崩御と聞いて驚き悲しんで調(みつき)の船八十艘と種々の楽人八十人を貢上した。」「新羅の弔問使が喪礼が終わって帰る時「ウネメハヤ、ミミハヤ」と言った。畝傍山と耳成山を誉めたのであるが、采女と通じたと誤解して報告されたので、使者らは捕らえられた。しかし、間違いであったことが分かり許されたが、新羅の使者らはたいそう恨み、貢上物の品種と船の数を減らした。」

新羅の使者は香具山と耳成山を見たと書いてありますが、ここから允恭天皇の時代に新羅に出兵していたとは読めません。

それにしても、海中の小王国が何のために冊封体制に入り、叙正を望み、新羅への侵攻を続けたのでしょうか。いまいち理解が届きません。百済は隣国とはいえ、海を隔てていますから、親交を深めた理由が必要です。
其の理由は何でしょう。強い同盟国と言うだけでなく、倭国との間に婚姻関係があって同族と思っていたのかも知れませんね。


では、五世紀の後半、
日本中で一番百済系・新羅系の副葬品を持つ古墳は


そこは、熊本の菊池川流域の江田船山古墳です。
ここには冠だけでなく銀象嵌の鉄刀も出土しています。
被葬者は、偉大な首長に仕えたというのです。その首長は何処の誰か?
この江田船山古墳が倭王へつながる道を教えてくれるはずです。

倭王済が何処にいたのか、まだわかっていません。 

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倭王は常に半島を見ていましたが

新羅にしても海を越えてまで倭国に侵攻する意味はなかったでしょう。それより、高句麗や百済との交渉が大事だったと思います。
交渉を間違えば戦争になったでしょうから、遠い倭国にかまけている暇はなかったでしょう。


倭国は中国にとっては小国ですから、ほとんど魅力のない夷蛮の徒であったでしょうね。中国の皇帝にとって、「遠い辺鄙な地域からの朝貢は、天子として天に認められたという証」ではあったでしょう。

まだ続きますが、また次回に。


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# by tizudesiru | 2018-04-01 10:43 | 333倭五王の行方を捜してみませんか | Trackback

倭王珍が安東大将軍を望んだ理由

438年、倭王讃没して、弟珍立つ

珍は宋に朝貢して、「使時節都督倭・百済・新羅・任那・泰韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と自ら称し、上表して除正を求めました。兄の路線を継承したのです。
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438~443年(?)、倭王珍の治世は5年ほどです。

珍は兄の後を継承したのですから、没したとき高齢だったと思います。彼も高句麗を仮想敵国として軍事に力を入れたようです。
倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の六国諸軍事の将軍となろうとしたのですが、ここに高句麗の国名はありません。六国は同盟国でも、高句麗は倭にとって敵国だったのです。

さて、倭王珍も一番に取り組んだのが、宋の冊封体制に入ることでした。

438年、倭王珍は宋に朝貢し上表して除正を求めました。
(この後、珍は数年で没し、済が倭王となりました)


443年、倭王済、宋に奉献し安東大将軍倭国王の称号を与えられました。倭は、忠誠を誓いました。百済も宋に入貢しています。済も珍同様、高句麗を入れませんでした。

450年、高句麗が新羅を討ちました。新羅は高句麗の援助で倭を討った(400年)こともありました。が、時が経ち北魏が勢力を拡大したので、おされて高句麗も南下して新羅を脅かしたようです。新羅は身の危険を感じて百済や倭に近づきました。

451年、倭王済は「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東将軍倭国王」を宋から賜りました。宋の文帝紀では、安東将軍から安東将軍に進号(位を進めた)となっています。半島の状況が、新羅も倭を頼り、宋もそれを認めたと云うことです。

新羅本紀によると、倭王は長く新羅と対立していた

倭の新羅への出兵をみると、400年前後は多いようです。400年、新羅は高句麗の援助で倭を討ちました。新羅は高句麗とよしみを通じていたのです。然し、450年、高句麗が新羅を討ちました。その後、451年に倭王が安東大将軍となった後にも増えています。
倭王は新羅を500年まで攻め続けるのです。

新羅本紀の年表で「倭人の度重なる侵攻」を再度確かめましょう。

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高句麗が軍事に力を入れる理由は、中国との関係で度々侵攻を受けていたからです。「中国が出てくる=高句麗が南下する=新羅が百済に侵攻する」
単純な構図ではありませんが、中国の軍事力は強大でした。

結果として、高句麗が倭王の敵国となったのです。


倭王珍は書紀の何れの天皇にあたるか、探してみましょう

数年で没した天皇は、安康天皇(穴穂皇子)です。

安康天皇は允恭天皇の第三子で、皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)を自滅に追い込んだ人でした。

また、叔父である大草香皇子の妹を「息子(大伯瀬皇子)の妻に迎えよう」と使いを出しましたが、使いが嘘をついて『同族だからと云って、どうしてわが妹を天皇の息子の妻などにできようかと答えた』と報告しました。使いの者は大草香皇子から天皇に献上された『押木珠蘰(おしきのたまかづら)』が欲しかったので、嘘をついて横領したのでした。
嘘の報告をまにうけて安康天皇は怒り、大草香皇子の家を囲んで殺してしまいました。
大草香皇子の忠臣であった親子が『わが君、罪無くしてみうせたまいぬ』と嘆き、皇子の体を懐き殉死するという、無実の皇子の悲劇でした。


更に、悲惨なことに、安康天皇は殺した大草香皇子の妻の中蒂(なかし)姫=長田皇女(ながたのひめみこ)を取り、宮中に入れて皇后としました。
この中蒂姫=長田皇女の連れ子が眉輪(まよわ)王です。大草香皇子の王子でしたが、幼いので母の傍で育てられていました。偶然、父の死の真相を知った眉輪王に、安康天皇は殺害されたのでした。
更に、眉輪王も大泊瀬皇子(雄略天皇)殺されてしまいます。


このような、安康紀の記事には、高麗も新羅も出てきません。

すると、倭王珍は安康天皇ではないのでしょう。では、父である允恭天皇でしょうか。
允恭天皇の治世は42年間となっていて長いのです。短い治世の倭王珍とは考えにくいですね。
では、更に遡って允恭天皇の兄、履中天皇や反正天皇でしょうか。 

その辺りを見ましょう。続きは次回に


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# by tizudesiru | 2018-03-31 12:00 | 333倭五王の行方を捜してみませんか | Trackback

倭王讃は応神天皇か、それとも仁徳天皇なのか

倭王讃は高句麗を敵としたのか?
卑弥呼宗女壱与(臺与)の時代の後、倭国はどうなったのでしょう。公開土王碑文が書かれた時期は、書紀では応神紀に対応し、宋書の倭王讃も応神紀と重なるようです。
では、応神天皇が「倭王讃」なのでしょうか。
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405年と429年は、応神紀の記述です。
この年表から読めるのは、外交に出遅れた倭国王讃

404年
、高句麗は、帯方郡に出兵した倭軍を撃退させました。倭軍は半島の奥深くまで兵を進めていたのです。

413年
、高句麗は東晋に朝貢し「使持説都督営州諸軍事征東将軍高句麗王楽浪公」を授かります。倭国も東晋に方物を献じましたが、高句麗ほどは外交力がなかったようです。

(414年
、高句麗は「公開土王の碑」を建て国威を誇示しました。)

(416年
百済も東晋より「使時節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王」を授かりました。盟友の倭国王は焦ったでしょう。)

420年、宋が成立。さっそく
高句麗が朝貢「征東大将軍」、百済も朝貢「鎮東大将軍」を授かりました。またも、倭王讃は出遅れました。

421年
倭王讃が宋に朝貢し叙授され、やっと冊封体制に入りました。讃が必死に努力している時、427年に高句麗は平城に遷都し国を整えていきました。

425年、倭王讃は方物を献じ上表します。使者は司馬曹達でした。(司馬は軍事に関する官職名とされ、421年に讃が叙授されたであろう安東将軍(?)となった後、設置された官職らしい)
倭王讃は、421年の叙授により、さっそく官職を整え、うやうやしく上表しました。讃は宋の想定以上の努力をしたのです。

428年、429年、倭国は百済との友好を深めようとしました。

430年
倭国は宋に方物を献じ忠誠を誓います。*方物とは地方の特産物です。支配地の産物を天子の食卓に並べ、冊封体制に組み込まれていることを示しました。倭国王は、努力したのです。


435年
高句麗は北魏に朝貢し、「都督遼海諸軍事征東将軍領護東夷中郎将遼東郡開国公高句麗王」に封ぜられました。高句麗は一歩も二歩も先んじ、勢いに乗っていました。

438年
倭王讃は失意のうちに没しました。弟の珍は上表して、宋に除正を求めました。何としても「使時節都督倭・百済・新羅・任那・泰韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」の称号が欲しかったのでしょうが、宋は倭王を「安東大将軍倭国王」としたのです。倭王珍は、倭隋ら13人にもそれぞれに将軍号の下賜を求め許されています。


さて、20年間努力し続けた倭王讃は誰でしょう

倭王讃は仁徳天皇という説もあります
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公開土王碑によると倭王は高句麗と対立しています
書紀に高麗(こま)や高麗国などがどのくらい出てくるか、調べてみました。

(一記事につき一回とカウントした数字)
神功紀(1)応神紀(3)仁徳紀(2)雄略紀(5)顕宗紀(1)仁賢紀(2)継体紀
(4)欽明紀(17)敏達紀(5)推古紀(9)舒明紀(2)
皇極紀(7)孝徳紀(7)斉明紀(4)天智紀(11)天武紀(18)持統紀
(2)
*倭五王の時代は、継体天皇以前ですよね。
 

倭王讃は応神天皇か、それとも仁徳天皇か
それとも他の誰か? 果たして誰でしょう。仁徳天皇の在位87年間で、高麗(高句麗)が出てくる記事は2回、応神紀では3回あります。

応神七年秋九月、高麗人・百済人・任那人・新羅人、そろって来朝した。」

二十八年秋九月、高麗王が使いを遣して朝貢し、その時上表した。其の上表文に『高麗王が日本国に教える』とあった。その時、太子菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)は其の文を読んで怒り、高麗の使者に上表文が失礼だと責めて、その上表文を破り捨てられた。」

応神三七年の春(略)ここに阿知使主(あちのおみ)ら、高麗国に渡り呉に行こうとしたけれど道が分からなかった。道を知る人を高麗に求めた。高麗王は、久礼波・久礼志の二人をつけて道案内人とした。」
高麗が倭国と対立している様子はありませんね。

仁徳十二年秋七月の辛未の朔(つきたち)にして癸酉に、高麗国、鉄盾・鉄的をたてまつる」(高麗国は仁徳帝に贈り物をしています)

仁徳五十八年冬十月に、呉国・高麗国、並びに朝貢(みつきたてまつ)る」(ここでも、高麗国は貢物をしています)

高句麗と対立していたとは書紀からは読みにくいですね。外交努力を重ねた倭王讃の姿を書紀から見出すことはできませんでした。

更に、倭王讃の都は何処でしょう

倭王讃が「安東将軍」になったとして、将軍府はどこでしょう。役所(府)が設置されていたはずです。文官・武官の役所も設置されていたでしょう。「司馬」もその役職名でした。425年に司馬曹達が使者に立ちましたが、彼は高官だったはずです。讃は安東将軍に次ぐ高官を宋に派遣したと思います。
が、その倭の都が見つかりません。

この時代、沖ノ島祭祀をしたのは誰でしょう

ヤマト王権の祭祀という「沖ノ島祭祀」でした

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まだ、倭王は見つかりません。次回も倭王の年表をみましょう。

次は、倭王珍の時代になります
443年、倭王済も宋に称号を求めました。同年、百済も朝貢しています。倭国と百済は歩調そろえているようです
では、次回。


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# by tizudesiru | 2018-03-30 10:28 | 333倭五王の行方を捜してみませんか | Trackback

倭五王は行方不明

「神籠石(こうごいし)は、消えるのか」と、気になることを書きました。
結論としては、「神籠石は死語になる」と思います。わたしは、次の世代は名称として「神籠石」を使わないと思うのです。
今まで歴史の表舞台に出さなかったものを、文化庁が名前を変えて表に引き出しました。神籠石を持つ自治体としても観光に使うつもりなら「古代山城」として「山城ブーム」に乗るでしょう。耳慣れた言葉を使うのは、当然ですから。
もちろん、神籠石が消えるかどうか、次の世代が歴史をどう捉えるかで決まりましょう。ということで。

今日は、しばらく頓挫していた倭五王に戻ります。

そろそろ、たまった宿題を片付けなければなりません。
行方
不明の倭五王を探すことです。

倭王武は、雄略天皇なのか
宋書によれば、倭王武は倭王興の弟です。倭王武が日本書紀の雄略天皇であれば、確かに、宋書や梁書の倭国伝や倭伝とは系図が合致しません。

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雄略天皇が倭王武だって…ほんとですか?
倭王武が宋に遣使して上表したのが478年雄略天皇が没したのが479年ですから、
倭王武=雄略天皇なら、遣使の翌年には死亡したことになります。

宋書に書かれた倭王武は雄略天皇になっていますが、実は日本書紀でも決定打がなく倭王武も誰だか分かっていない、ホントは見つかっていないそうです。
書紀の中には、雄略天皇が宋の冊封体制に組み込まれることを望んだことなど、一切書かれていません。宋との交流も書かれていないのです。


宋書との接点がない理由は、「倭王が宋に朝貢した」という記事を正史である日本書紀に載せるのは恥だとして、正史に掲載しなかったというのです。
現代の歴史学者としても、他に理由を見つけられないのでしょう。
ホントにそうでしょうか。倭王武は実在の人です。その父、祖父にしても、中国との交流を書紀で辿ることはできません。


ここで考えられるのは、「五人の王の誰も書紀に登場しない理由は、日本書紀の大王・天皇とは無関係の人達ではないか」と云うことです。五王が畿内の人ではないと考えると、かなりの部分が解決します。
しかし、そうなると、倭王は何処に居て、どのような国をつくり、どのように消えて行ったのか、といった問題も出てきます。

先のブログでも既に出しましたが、ここで武の上表文を再読しましょう。
倭王について何か分かるかも知れません。

478年、倭王武が、宋に国書(上表文)


宋の冊封体制にありながら、武は自らの府(役所)を開いて政治を行いたいと申し出たのでしたが、翌年479年に、宋は滅亡しました。


その後の武の行動は? まず、武の上表文を先に読みましょう。
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上表文から分かること

①倭国の王は、遠征時に甲冑を身に着けたので、見栄えのいい甲冑を持っていた。それらは、墓にも副葬されたはず。


➁東の毛人の国を征服、西の衆夷の国を服属、渡海して海北の国を平定し、中国に朝貢を忘れなかったと自慢している。広い範囲を平定したのが、倭五王の時代なら、卑弥呼の時代はそこまで統一されていなかったことになる。(では、邪馬台国畿内説は?)

倭王にとって百済は親しく高句麗は憎い国である。

④倭王武は父親と兄をほぼ同時期に失った。

⑤倭王は、父兄の志を遂げること=高句麗に勝つことだ、と思っている。

⑥宋の後ろ盾で高句麗を破りたい。

⑦このような倭国王だから開府儀同三司を授けてほしいと願った。


①~⑦まで確認しました。
ここで驚かされるのは、軍事力です。そして、戦争をする意味です。理由もなしに「刃を畏れず戦う」ことはできません。彼らは何のために命を懸けて戦ったのか。
先に挙げたように「倭王が畿内の人ではない」とすると、倭王は畿内をスルーして関東へ遠征したことになりますが、其のあたりが上表文では読めません。

半島への派兵も重要です。上表文から「高句麗憎し」が浮かびます。
百済と高句麗が対立していたから、倭国は百済側に着いて高句麗を共通の敵としたのでしょう。

倭国は何処にあったのか。
①~⑦で読めるのは、百済に近くすぐ百済に行ける地域。近畿をスルーして関東に遠征できる地域、です。伝統的に戸籍を持っていて、軍備を早く整えることができる国です。食糧生産に適した地域でもありましょう。
どうも畿内の王権ではないようですが。
然し、これだけでは十分ではありません。

また、武の必死の思いは伝わりますが、開府儀同三司を許されることはなく、宋も滅びたし、武の朝貢も終わりました。以後、朝貢の記録はないのです。この辺りは、既に書きました。



479年以後の倭王武の行動

武は開府儀同三司の理想を捨てたのでしょうか。
次の年表を見てみましょう。474・475・479・は雄略紀の記事です。
471年は江田船山古墳の金石文です。

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上の年表を見ると、いろいろ考えることができます。
その事は、また次に。


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# by tizudesiru | 2018-03-27 12:16 | 328筑紫国と呼ばれた北部九州 | Trackback

共通する技術・古墳と神籠石の切り欠き加工

前回、神籠石は天武朝後半に造られてという文化庁の論考を紹介しました。
神籠石が天武朝後半だとすると、それはそれで面白い話です。これまでの疑問が一気に解決するのでしょうか。天武朝なら、高市皇子がかかわったことになりますね。すると、天武天皇も高市皇子も九州と深いつながりがあったことになります。その辺りは面白いと思うので、別の機会に書きます。

今回は、統一新羅の石室「陵山里式石室」について

統一新羅系の石室が、奈良県で採用されたのは、白村江敗戦後、 になるようです。


鞠智城跡「特別研究」の報告会での
「古代山城の立地環境」の発表から

統一新羅の山城を判別するために、発表者は韓国で二つの条件を満たす山城を探しておられました。条件の一つは陵山里式石室、二つは副葬品の銀花冠職でした。


統一新羅とは、「白村江戦後の新羅」を、三国時代の「新羅」と区別して呼ぶ。
陵山里(りょうざんり)式石室とは、切り石の板石を張った石室で、天上が高く見えるように石が加工された石室。
銀花冠飾とは、冠に刺す飾り物のこと。

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陵山里式石室の画像を見ると、床面・壁面・天井面に板石が組まれ整えられています。さらに、天井面には斜めの石が組まれ、天上がより高く見えるようになっています。このような石室を持つ墓と冠飾をセットにして、統一新羅の「九州五小京」に伴う山城を探したそうです。前々回に紹介しています。


日本にも、切り石で整えられた古墳があります。
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文殊院西古墳(奈良県桜井市)です。
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花崗岩を入念に加工し、時に玄室の天井は一枚岩で約15㎡もあり、天上の中央部分を薄く削り上げ△の形にして、全体面をアーチ型に仕上げているそうです。伝承では、安倍倉橋麻呂(孝徳朝の左大臣)の墓となっているそうです。
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孝徳朝の左大臣・安倍倉橋麻呂は、大化五年(649)の三月に薨去しています。
同年同月に右大臣・蘇我石川麻呂が讒言により殺されていますから、是が倉橋麻呂の墓だとすると意味深ですね。


薄葬令(墓を簡素にするという通達)が出されている中で、こんな立派な墓を造ったのでしょうか。

それに、左右大臣に何かあったのでしょうか。なんとなく事件の臭いがします。


左大臣・右大臣が同年同月(649年3月)薨去したので、巨勢徳陀(こせのとこた)と大伴長徳(おおとものながとこ)が四月に左右大臣になっています。(長徳は二年後に没します。)
孝徳天皇が白雉五年(654)に崩御となり、巨勢徳陀は其の四年後に没します。
大化改新の大事業はまだ途中だったでしょうね。


以来 、右大臣の任命はありません。662年に大臣(おおおみ)の任命があるのみで、中臣鎌足のみが内臣として25年間勤め続けました。



同じ阿倍文殊院の敷地内に在る東古墳(下の写真)を見ると、自然石に近い巨石が組まれています。
方墳だとすると、蘇我氏系の古墳になるのでしょうか。

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奈良の安倍文殊院の東古墳と西古墳では、どちらも大きな石が使われていますが、壁面が平らに整えられた東古墳が新しいそうです。確かに、西古墳と東古墳は様子が違いますね。西古墳は統一新羅系の様式に似ています。統一新羅の影響なら7世紀後半ですから、左大臣阿倍倉橋麻呂の墓ではないと、わたしは思います。

実は、阿部文殊院のある阿部丘陵には艸墓古墳があります。そこも、大きめの石で石室が組まれていました。わたしは、こちらが石室の様子から左大臣の墓かも知れないと思うのです。
凝灰岩製の石棺も置かれています。

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艸墓古墳には石棺が置かれていましたが、似たような石組みの古墳が竜田川の近く平群(奈良県)にもあるのです。
方墳の西宮古墳です。7世紀中期となっています。

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聖徳太子御廟石室もよく似ています。天上を持ち上げる石が斜めに加工されていますから、まさに統一新羅系の石室です。
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すると、この石室も聖徳太子の時代より後、7世紀後半以降に造られたのでしょうね。
わたしは、ここは聖徳太子墓ではなく、孝徳天皇の改葬墓で間人皇后ともう一人(孝徳帝の妃だった夫人)の墓かも知れないと思っています。でも、たしか、このブログに書きましたよね。孝徳天皇と間人(はしひと)皇后と、もう一人は斉明天皇(奥の棺)と。斉明天皇と間人皇后は親子で合葬されたと記録があり、牽牛子塚(けんごしつか)古墳に比定されていました。
然し、持統天皇の時代になって、二人の中皇命の軀が牽牛子塚古墳(明日香)から移され、孝徳天皇と共に改葬されたと思うのです。

中皇命とは、天皇に事が起きた時「一時的に玉璽を受ける中継ぎ」の地位にある正妃のことです。


牽牛子塚(けんごしつか)古墳も、磯長の聖徳太子廟と同じく挟紵棺(きょうちょかん)が使われていました。同じ時代の最高の棺を使用しているのです。両古墳には挟紵棺という共通点があり、聖徳太子廟は天皇級の人物の石室なのです。


以上のことから分かることを整理すると、
天武朝後半以降、統一新羅式の石組み技術が入って来て、古墳の作り方に変化が起こった。それは、陵山里式の板石を使った仕様で、持統天皇の時代になって浸透した。
更に、これまで紹介してきたことを合わせると、
持統天皇は、かねてより孝徳天皇を尊敬し、難波宮行幸もして律令政治の継承を願っていた。
そこで、王家の谷を磯長に定め、推古・用明に続いて孝徳の墓を遷した。霊魂を鎮めた後に、政治改革に乗り出した結果、高市皇子の皇親政治派と対立することになった。…と展開していきます。

なぜ、持統帝位はそこまで孝徳天皇にこだわったのか? ですが。
それは、自分の出自に対する自負でしょう、有間皇子の父である孝徳天皇への尊崇というより自分の皇統を誇示したのではないでしょうか。つまり、血族だという自覚と自負です。
政治には欠かせない、皇統の継続の重要性を知っていたからです。

何度も書きましたね。それとも、他のブログだったかな。
では日を改めて、その事も書きましょう

では、また。
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# by tizudesiru | 2018-03-24 18:03 | 131素材が語る古代Ⅱ | Trackback

文化庁は、「神籠石は天武朝に造られた」という

神籠石の築造を命じたのは誰か?

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律令国家の誕生と鞠智城
文化庁文化財部記念物課文化財調査官である近江さんの論考が、3月18日に頂いた『特別研究』論文集の最後に載せられていました。
はじめに
(一)古代山城築造の背景
(二)古代山城から見える防御網
問題の所在
(一)古代山城全般に対する理解について
(二)今回、問題として取り上げる点
古代山城築造の契機
(一)築城に関わる資料
(二)気になる両槻宮(ふたつきのみや)
(三)天智朝以前に築造が開始された可能性
古代山城は交通の要衝に位置しているのか
(一)情報伝達速度から駅路敷設時期を考える
(二)古代山城と駅路との関係
(三)古代山城の編年
(四)古代山城と交通路
(五)交通路から見た古代山城の築城時期
古代山城の築城目的は何か
(一)第一・二段階の山城
(二)第三段階の古代山城 天武朝の緊張
(三)古代山城の築城
律令国家と鞠智城
(一)鞠智城の謎
(二)鞠智城の評価をめぐって
(三)第二段階の古代山城として、今後、視野に入れておくべきこと


という「見出し」が付けられていますが、何が書かれているか想像できますか。
ほとんど「神籠石の意味・築造・あつかいかた」について書かれています。
鞠智城について取り上げられているのは、最後の20行で「(三)第二段階の古代山城として、今後、視野に入れておくべきこと」だけです。
驚きました。


裏を返せば、「神籠石の取り扱いが大変微妙「だと云うことです。なぜ?

如何にでも解釈できるからです。

文化庁は神籠石の意味も謎も、みんな承知しているのです。

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そこで、みんなひっくるめて「神籠石」を使わず「古代山城」としたのです。そうする必要があるからです。

然し、資料はありません。

まず、「持統4年、唐で捕虜となっていた大伴部博麻(おおともべのはかま)の帰国」を持ちだしています。
博麻は白村江戦で唐軍の捕虜となりました。「唐人の謀を本国に知らせよう」と我が身を売り旅費をつくり、仲間を日本に帰しました。30年後に帰って来た博麻を持統天皇は誉め労ったという記事です。

つまり、「博麻が身売りしてまで、本国に危機を知らせたかった」ほど、天智四年には唐・新羅連合軍 来襲の危機があったとして、古代山城の第一段階が造られたとしています。長門城・金田城・大野城・基肄城・高安城などです。

然し、これ以降は、山城の築造記事はありません。

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(何故、このような大工事の記事が正史にないのでしょうか。)

それでも、神籠石は存在します。

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それで、神籠石も含む山城として、三段階に分けられました。二段階と三段階が神籠石になっています。

山城に入れられた理由は交通の要衝にあるからです。

国家的な事業と言わざるを得ないのです。


神籠石は、白村江敗戦後の大野城の石垣と比べると、格段に計画的だし丁寧に作られています。
然し、人が住んだ痕跡が見つかっていないそうです。なぜ?


神籠石が大野城より後に造られたという証拠は有りません。

しかし、誰の指示もなしに造られたのではありません。

築造を命令した人がいるはずです。財力も統率力も設計図も必要です。
同じ文化圏の技術でなければなりません。得手勝手に造ったものではないからです。

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(さて、古代官道はいつ整備されたのか、元々交通網はどのようになっていたのか。)
解決しなければなりませんね。

近藤氏(文化庁)の論考では、第三段階の古代山城(神籠石系山城)は、天武朝後半の築造と断定されていました。


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# by tizudesiru | 2018-03-22 12:51 | 231神籠石築造は国家的大事業 | Trackback

神籠石の水門の切り欠き加工の技術が失われた理由は何か

前回も長すぎました。ですから、神籠石と切り欠き加工についてのみ紹介します。
神籠石はいつ造られたのか

神籠石という名称は、高良山神籠石から使われ始めたそうです。神の神域と列石で囲まれた土地が重なったので、神籠石と列石が結びついたようです。高良山神籠石が知られるようになると、あちこちから「同じような列石がある」と報告があり、いつの間にか「神籠石」という名称が共通語になり、論文でも「神籠石」「神籠石系山城」と使われてきたのです。

その神籠石が急に「古代山城」となり、大野城などより後に造られたことになっているのです。
いつの間にか。


大野城より後に築造という、驚きの急展開!!!?

これまでは、6世紀後半から7世紀初頭に神籠石は築造されたというのが定説でした。大野城より先に築造。


神籠石という名称は、地域に深く根付いています。


幾つか紹介します。

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(女山神籠石の石柱と列石)
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(鹿毛馬神籠石の案内板と列石)
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(雷山神籠石の石柱と列石と水門)

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確かに高度な技術です。
だから、山の上に切り石をきちんと並べるなんて、6世紀後半の九州の技術ではできないというのでしょうか。
これが、統一新羅の技術だとでもいうのでしょうか。そんなことはありません。
5・6世紀の九州の古墳造に既に使われていた技術でした。
なぜか、この技術は後世に伝わりませんでした。この技術が忽然と消えたのはなぜでしょうか。
中央政権が造らせたのなら、古代の技術は失われなかったはずです。


忽然と消えた理由は一つ。後ろ盾の権力が潰れた(無くなった・消えた)からです。
白村江敗戦で九州は大打撃を受け、技術も技術者もバラバラになってしまったのです。それで、古代の石組み技術が消えたのです。


神籠石は白村江敗戦前の権力者の所在地を探る手がかりだと、多くの人が考えたようです。
だから、いけなかったそうです。九州に別の権力があるのは許されないそうです。
研究者が神籠石を無視し続けた理由は、民間の声だったと云うことです。
ホントに、そうですか? たしかに神籠石の論争はほとんどなかったようですが。


誰が神籠石を消したのか? 知りたいです。

知ってどうする? 分かりませんが、「文化庁」らしいです。
神籠石という名称を許さないのは、文化庁だと云うことです。
ホントでしょうか? 次は「文化庁文化財部記念物課文化財調査官」の近藤氏の論考を紹介します。

では、明日。

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# by tizudesiru | 2018-03-21 14:03 | 231神籠石築造は国家的大事業 | Trackback

神籠石から古代山城へ、名前を変える必要はあるのか

朝鮮式古代山城は、当然、百済の築造技術ですか?!
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2018年3月18日の麹智城跡「特別研究の報告会」の紹介をしています。

山田隆文「古代山城の立地環境ー百済・新羅との比較を通して」
山田さん(橿原考古学研究所研究員)は、「初めに」で次のように述べています。

⓵「日本における古代山城の築造は、『日本書紀』の記述によって、百済の滅亡とその後の復興軍の敗戦に起因する」

➁「その際に我が国に渡来した百済の亡命官人達が古代山城の築造に深く関わっていたことが知られる。」


③「しかし、日本の古代山城の全てが百済の様式で築造されたのかというと、必ずしもそうではなく、例えば大野城の門跡で出土した門扉軸摺金具(もんぴじくすりかなぐ)や、屋島城の懸門構造(けんもんこうぞう)など明らかに新羅山城で特徴的な要素も見られることは、周知のとおりである。」

④「そのため、日本の古代山城を研究する場合、その比較検討対象は、百済地域だけではなく、新羅、高句麗、伽耶を含めた韓半島全体としなければならない。」
という理由で、韓国に研究旅行となったのだそうです。

簡単に研究の立ち位置が書かれています。
これは、大野城・基肄城などの朝鮮式山城のことですね。白村江敗戦後に造られたという。倭国へ亡命百済人が来ていますからね。


➁大野城を造ったという百済の憶礼福留・四比福夫。あまりに石積が雑だったので、新羅軍の攻撃を畏れて慌てて造ったからだと、社会科でも教えられたのですが。雑な石積技術だったのですね。


③確かに、白村江戦後に統一新羅ができますが、統一新羅の技術が入るのは掘立柱の一期ではありません。敗戦後に造られた大野城は百済系の朝鮮式の山城でした。この時は、まだ新羅の技術は入っていないのではありませんか。
軸摺金具とは扉を開閉する時に回りやすくするために使われた金具です。懸門とは入り口が高い所に在る門で、梯子で出入りしますが、非常時には梯子を外せます。
大野城は三期の建て替えがあっていて、軸摺金具が使われるのは、後の時代になります。一緒に扱ってはいけないと思います。

④統一新羅の技術なら、完全に白村江敗戦後になります。古代山城は、天智天皇が築造した山城と決めて調査しているのですね。

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山田さんが調査している時期は、古代山城が造られた時期より、新しいと思います。修理や建て替えの時期に新羅の技術が入ったのではないでしょうか。

統一新羅の地方都市、九つの州と五カ所の小京を「九州五小京」といいます。上の地図でも分かるように、黄色の九州、青色の五小京が、半島全体にあります。紫は新羅の都です。
要するに、日本の山城は統一新羅の影響を受けたから上記の山城と共通する、と、主張されているのです。


「古代山城の立地環境について国内の事例と比較研究は進んでいる」そうです。
⓵古代山城の導入期の戦略上の重要拠点に山城が単独で立地する段階
➁駅路や官衙に接近した場所に築造される段階
と、①から➁に変化しているというのです。



えっ、ちょっと待ってください。②はなんですか?


①の金田城(対馬)大野城(福岡)・基肄城(佐賀)などが造られた後には、駅路や官衙の近くに山城が造られたという正史の記述も文献もありません。
もしかして、神籠石系山城のことを云ってるのですか?
それなら、あまりに唐突かつ横暴です。

神籠石系山城について、切り石の状況や版築や構造を取り上げないまま、調べないまま「古代山城の第二段階」という論説は、唐突で異常です。
古代の政治史の上でも科学的にも神籠石が公共の施設だと論証したうえで、説を展開しなければなりませんね。突然、奈良県の都合により福岡県や瀬戸内の神籠石を
「ヤマト政権側の古代山城」
にすり替えてしまうのは、おかしくないですか。



奈良県立橿原考古学研究所は、それでいいのですか。長い間、神籠石について研究してきたのは在野の研究家でした。それをいきなり「古代朝鮮式山城の次の段階」と、奈良県の人が決めてしまうなんて、それでいいのですか。


講演の中でも、山田さんは高良山神籠石のことを「高良山城」と呼んでいました。高良山城と呼びたかったでしょうが、「高良山神籠石」という明治以来の名称はどうなりますか。九州の人や瀬戸内の神籠石系山城のある地域の人は、ほとんど百年以上も「神籠石」と呼んできたのです。
然し、「神籠石」と呼ぶのは時代遅れというのでしょうね。


橿原考古学研究所は、奈良県の研究所の一つです。全国の名所や土地の呼び名を勝手に変える権利はありません。それとも、国の指示があったのでしょうか。

そう云えば…

こういうことが始まったのは、「阿志岐古代山城」という名称が使われた時からです。宮地岳神籠石と呼ばれていたのに、史跡の名称に「神籠石」ではダメだったそうで、「阿志岐古代山城」とされたのです。

古代山城となって、地元としては、中央に近づいた感じがしたのですかね?
然し、九州の地元の声や研究が、ここで切れた感じになりました。「神籠石」はお上に召し上げられたと云うことですね。


わたしも、このブログで、宮地岳神籠石(阿志岐山城)のことは数回取り上げています。朝鮮式山城とは違う目的の異なる工法の山城でした。

それも、同じ工法・同じような技術で作られていると思われる共通点の多い遺構です。それは、大きな権力によって指示され築造されたと考えるのが妥当でしょう。
すると、福岡を中心にした神籠石を作らせたのは、どこの誰? ですか。

旧唐書には、倭国の存在があります。白村江までは倭国が存在したのです。神籠石を造らせたのは、倭国であると考えるのは、ごく自然なことでしょう。
神籠石の集中しているところは福岡県ですから、そこに倭国の中心があったと考えるのも自然です。


倭国の中心が福岡にあったらいけない? それはなぜですか?
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(宮地岳神籠石の水門と列石)
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(高良山神籠石の列石と版築土塁)
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(女山神籠石の水門と列石*ぞやまこうごいし)

これらの神籠石をすっかり「新羅の影響で作られた」とするには、道理にかないません。
神籠石で使われた技法「持ち送り」や「切り欠き加工」は、明らかに古墳の築造時術に使われているからです。それも、5・6世紀とされる古墳です。特に、熊本の大野窟古墳や井寺古墳に顕著です。7世紀後半にその技術が使われた? いえいえ、
わたしは、6世紀後半から7世紀初頭に神籠石は造られたと思います。


九歴の小澤さんも「古墳の技術者が神籠石築造に関与した」と言われたと思います。九州の人で考古学をしている人は、古墳の技術はご存知です。


どうぞ地元の人の研究に学び、市民の声を聞き、科学的な調査をやり、地元に広報し、歴史の真実を市民のものにする方向で研究してください。若い才能は、真実を求めることに使ってほしいです。

大和に卑弥呼がいて、倭五王もいたのが事実なら、それでもかまいません。

ですが、素人も文献を見ることができるし、考古学報告書も読むことができます。そこで、さまざまに考えるのは、当然です。事実、様々な説が入り乱れています。

ですが、本当のことを知りたい、それが市民としての本音でしょうね。

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熊本城も覆い屋がかけられ、修理に入っています。このお城が親しまれるのは、加藤清正の築城だからです。市民の心の中に彼は生きていますから。歴史はその地域の人の心を癒し育むものですね。
神籠石も勝手に名称変更などせずに、それが存在する地域に長く残してほしいと思います。

では、また。

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# by tizudesiru | 2018-03-20 12:31 | 327古代史の危機!? | Trackback

いつの間にか消えた神籠石という名称。消したのは誰?

今年も「鞠智城跡『特別研究』の報告会に行きました。3月18日(日)
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熊本県知事も挨拶に来るという若手の研究者の発表の場です。
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九州歴史資料館の小澤さん(文化財専門職)の発表「石垣構築技術からみた菊池城石垣の位置づけ」は、大変面白いものでした。
福岡県太宰府市・宇美町・大野城市にまたがる朝鮮式山城の「大野城」の石垣と、鞠智城の石垣を比べてみようというものでした。

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大野城の石垣には、崩れやすいとされる「重箱積」という石組み技術が使われています(赤〇部分)が、崩れてはいない。それは、重箱積を斜めにして、力のかかり方を変えているからだそうです。
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更に、逆三角の石組を入れることで、崩れるのを防いでいるというのです。更に、石垣に一本の線を引くように「横めじ」が走るそうです。これは、版築のように一定の高さに石を積み終えて、次の段を積むという工法だったのではないかと云うことでした。
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この技術が麹池城とも共通するかを調べたというのです。

ここで、若干の疑問

白村江敗戦後に、亡命百済人が指揮して造ったという「大野城の百閒石垣」と共通する? そうであれば、同じ百済人の指揮で造ったのですかね。肥後国には石垣の技術はなかった? のですかね。
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「馬こかし」の石垣と「三枝」の石垣、両者は工法・石積・技術などほとんどの点で共通性がなく、全く別の集団が造ったと考えられる。三枝の方は近世以降に見られる石積みと思われるが、表面観察では結論は出しにくい。

朝鮮式山城の「大野城」について、工法を知ることができて面白かったです。
質問させていただきました。

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上の百済の山城の石垣の紹介の時、写真に「切り欠き加工」と思われる箇所が見受けられたので。その事への質問でした。
「百済の石垣の切り欠き加工と思われ里箇所が見られるが、この技法は朝鮮式山城に採用されているのか。神籠石系山城や熊本の大野窟古墳や井寺古墳にはこの技法が使われているが、百済の山城にはこの技術は使われているのか。」

お答えをいただきました。
「まず、写真の切り欠き加工は、実は切り欠き加工ではなくそのように見えるが、小石が入っている。また、百済の石垣には切り欠き加工は見られない。神籠石の石組は、古墳の技術者が造ったと考えられるが、朝鮮式山城より後の時期に造られたと考えている。」
 
そうなのですか!
九州歴博は「神籠石が朝鮮式山城より後の時期に造られた」という見解を持っているのです。それを造ったのは古墳の技術者だと。百済の石組には 切り欠き加工はないそうです。(では、なぜ、何のために、いつ誰が造らせたのか?疑問が膨らみます。)

分かったことです
最近の山城の研究の方向は、古代国家の事業として山城が造られたのは間違いない。従って、神籠石系山城も国家の事業であろう。その築造時期は、白村江敗戦後の朝鮮式山城築造の後であろう、となっています。

神籠石系がヤマト王権の築造とされつつあることは、昨年から顕著になりました。
考えてみると、十数か所もの離れた場所で、同じような工法により一斉に工事を始めるには、命令系統が一つでなければ動けません。しかし、それはヤマト王権でしょうか。
今日は、ここまでにします。

他の発表者は、金田明大(独立行政法人国立文化財機構独法職員)、堀内和広(長崎県教育庁新幹線文化財調査事務所)、
山田隆文(奈良県立橿原考古学研究所研究員)でした。


山田さんの「古代山城の立地環境・百済と新羅の比較」は、次にまわします。
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では、また後で。

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# by tizudesiru | 2018-03-19 20:15 | 231神籠石築造は国家的大事業 | Trackback

一貴山銚子塚古墳の真の築造時期を知りたい!素環頭大刀副葬の意味

一貴山銚子塚古墳の築造時期は、4世紀前半と聞いていました。
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****10年ほど前****

古代史の講座で、元大学教授のT先生が一貴山銚子塚古墳の話をされた時「あれは、4世紀前半とされていますが、あんがい3世紀後半かもしれませんね。」と言われました。
「素環頭大刀は、弥生時代の九州の箱式石棺に副葬されていた。」と、古代史の会で奥野正男先生から幾度も聞きました。先生の著作の中でも、素環頭大刀は「弥生の箱式石棺の中にしか出土しない」と云われます。
a0237545_00234462.png
***柄鏡形の古墳は古い****

一貴山銚子塚古墳が平原王墓の後を引き継いだと、わたしは書いてきました。弥生墳丘墓の平原王墓と柄鏡形(えかがみがた)の一貴山銚子塚古墳、両者は時代が違うように見えますが、どちらにも素環頭大刀が副葬されていました。
素環頭大刀は弥生後期の代表的な副葬品です。
ですから、両者の築造時期は、極めて近いと思います。

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銅剣・銅矛・銅戈が副葬されていた甕棺の後の時代、箱式石棺の時代になると、弥生後期の有力者の副葬品として、素環頭大刀が使われました。

古墳時代になっても大刀の副葬がありますが、それは飾り大刀になります。
福岡県糸島地域は飾り大刀の宝庫です。「飾り大刀」は素環頭大刀(そかんとうたち)の環頭の輪に、三葉・龍・鳳凰などの飾りが入ったものです。

後期弥生の副葬品・素環頭大刀***
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豊前の徳永川ノ上遺跡は、弥生終末期から古墳時代初期の遺跡です。
上町向原遺跡から、同時代では日本最長の素環頭大刀が出土しています。

大型の石棺墓から出土と伝わる五尺刀(119.9㎝・福岡県糸島市上町向原遺跡)は、石棺が特定できないのが残念ですが、卑弥呼が下賜された五尺刀かも知れません。伊都国歴史博物館に展示されています。

***何と、甕棺墓からも
福岡市の吉武樋渡遺跡では甕棺墓から素環頭大刀(62号甕棺)素環頭刀子(64号甕棺)が出土しています。佐賀県の椛島山遺跡(弥生後期の石棺墓)から素環頭刀子が出土しました。

素環頭刀子ですが、素環頭大刀より長さが短いものが、刀子とされています。

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***初期古墳にも素環頭刀子
藤崎6号墳
は弥生の方形周溝墓で、久里双水古墳は初期古墳です。副葬品だけ見ると、久里双水の方が古いようですね。
藤崎6号は三角縁二神二車馬鏡(22.3㎝)と素環頭大刀・刀子・ヤリガンナで、久里双水は盤龍鏡(12.15㎝)と素環頭刀子・管玉でした。時代が下るほど鏡は大きくなっています。ですから、久里双水の盤龍鏡が古いと思います。

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こうして見ると、素環頭大刀の副葬の時期がしぼられて来ます。
北部九州では、弥生後期の方形周溝墓の木棺や箱式石棺に、素環頭大刀が副葬されているのですから



***4世紀とされる若八幡古墳には飾り大刀
環頭大刀の中で、飾りのないものが素環頭、飾りのある大刀が「三葉環頭大刀・単鳳環頭大刀・単龍環頭大刀・双鳳環頭大刀」とそれぞれに呼ばれています。
いわゆる飾り大刀です。
弥生後期の素環頭大刀より、古墳時代初期の飾り大刀は装飾性が進んでいるのです。
若八幡古墳(福岡市今宿)には、最古級の短甲も副葬されていました。
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ここは、一貴山銚子塚古墳より新しい古墳でしょうね。

***ところが、です。
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***古墳の築造時期をまとめた図を見ると(黄色の丸をつけた銚子塚)

一貴山銚子塚古墳のほうが、若八幡古墳より新しくなっています。

副葬品で考えると若八幡古墳の方が新しいのです。
糸島では最大の大きさの一貴山銚子塚古墳です。トップの首長なら、最新かつ最高レベルの品々を副葬するでしょう。若八幡古墳に後れを取るはずはありません。
若八幡より築造が遅いのなら、短甲も三葉環頭大刀も鉄鏃も最高のものが置かれていたでしょう。
一貴山銚子塚には三葉環頭大刀も短甲も置かれていません。なぜなら、それらが知られる前だったから、です。
まだまだ、素環頭大刀が大きな威力を持っていた時代だったのです。


副葬品ではなく、墳丘の形で判断されているのではないですか?
いわゆる箸墓型の古墳(前方部がバチ形に開く)が古く、ホケノ山の帆立型古墳が古いというルールで判断されたのではありませんか。


素人は展示品や図録を素直に見ます。

****わたしは、T先生や奥野先生の云われたことを思い出すのです。

素環頭大刀は弥生後期の副葬品、図録でも全くそうですね。
本当に真の築造時期は、いつでしょうか。


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# by tizudesiru | 2018-03-18 00:59 | 332あまたの副葬品は、もの申す | Trackback

太陽祭祀から祖先霊祭祀へ、歴史は動いた

太陽祭祀から祖先霊祭祀へ

前日、古墳時代になって祭祀が変わってきたことに触れました。
「太陽」ではなく「祖先霊」が大きく祭祀されるようになったと。「祖先霊」の祭祀は、ラインを引くとよくわかります。重要な山や墓ほどたくさんのラインの起点や終点、通過点となるのです。


では祭祀線で、首長墓と言われる古墳を見ます。

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福岡県糸島市の三雲南少路王墓の祭祀線
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福岡県糸島市の一貴山銚子塚古墳の祭祀線
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福岡県八女市の岩戸山古墳の祭祀線
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福岡県福津市の宮地岳神社古墳の祭祀線

色々な山、延喜式内社、有名神社、古墳、神籠石等と結んだ直線です。これらが祭祀線として全て有効だとは言いませんが、何らかの大きな意味を持っていると思うのです。

ここに上げた古墳は、すべて築造時期が違っている
上記の古墳は墓制も微妙に違っていると思うので、同じ氏族ではないはずです

しかし、当時の人が「神と祀られた権力者には強い霊力がある」と信じていたから、ラインを引くことができた、と思います。
次の権力者は、前時代の権力者の霊力を畏れられたでしょうし、それにあやかりたいとも思ったでしょう。
では、ここで問題が起こります。

支配者の墓制をどう考えるか、支配氏族の継承や断絶を、ラインで読めるのかです。この事は、次の機会に取り上げましょう。


祭祀線の起点・終点・通過点となった信仰の山々

宝満山・脊振山・九千部山・飯盛山・井原山・雷山など

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直線は点と点の二点を結ぶとできるものです。しかし、わたしは三点以上が直線上に並ぶものだけをラインと呼びました。その中には、神祭りに使われた祭祀線が含まれていると思うのです。わたしは地図上にポイントを置きましたが、山のポイントは山頂に、神社は本殿に、墓は墳丘の中心に置きました。それでもラインが引けるのか、大事な点です。

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福岡県飯塚市桂川の「筑前王塚古墳」です。黄色のラインは、王塚~宝満山~脊振山をむすびます。
この被葬者は遠賀川上流に葬られましたが、福岡平野、佐賀平野・遠賀川流域(肥前・筑前・豊前)を支配する王だったとなるのでしょう。ちなみに、この王墓は遠賀川流域では最大で、五色の顔料を用いた
最高の装飾古墳で、各地から集めた石材で石屋形が造られ、そこににダブルの死床があります。

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熊本県菊水町の江田船山古墳です。この古墳の副葬品には有名な銀象嵌の鉄の大刀がありました。他の副葬品も、この時代では舶来品が最も多い古墳です。水色のラインは、岩戸山古墳~江田船山古墳~熊ノ岳となります。

今日は以上です。明日は、「一貴山銚子塚古墳の築造時期に異議あり」の予定です。外出しますから、アップは夜中になるかも知れません


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# by tizudesiru | 2018-03-16 12:05 | 331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化 | Trackback

狗奴国から糸島、そして津屋崎に進出したのは、倭王だった

平原王墓の巫女王が、卑弥呼宗女壱与(臺与)なら、その霊力は封じられた
福岡県糸島市の平原王墓の主は、霊力を象徴する鏡を全て割られていた

壱与の次の時代、
 
王位を奪った一族(一貴山銚子塚古墳を築造)の霊力
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次の王は、平原王墓の巫女の霊力を象徴する鏡を全て割り、霊力を封じた
東西祭祀線上に築造された一貴山銚子塚古墳は、糸島では最大の古墳

一貴山銚子塚の主は成功しましたが、一族は支配を確立できたのでしょうか。
彼らの狙いは、伊都国の統括だけではなかったようです。もっと広く世界を見ていたと思います、大陸や半島を、倭王として。

(倭女王から倭王の地位を奪った一族は、伊都国から監視役のような「一大率」や「大倭」という役職を奪ったかも知れません。
*一大率とは魏志倭人伝に書かれた検察権力を持った役職で、伊都国に置かれていました。大倭も魏志倭人伝に出てくる役職で、交易や税を監視していました。

では、一貴山銚子塚古墳の次の世代の端山古墳を祭祀線でみます

端山古墳は柄鏡形の前方後円墳で、一貴山銚子塚と同じ南北の主軸線ですから、同じ一族の墳墓でしょうね。端山の後の世代、帆立貝型の築山古墳が近くに造られましたが、築山古墳は墳丘が小さくなりますから、首長との関わりが薄くなったのでしょう。一族の間で優劣はあったでしょう。

大型古墳が太陽祭祀線上から外れていくのは、太陽祭祀から祖先霊の祭祀へ変わったからではないでしょうか。
古墳の並びや形態を見ると、一貴山銚子塚の一族の中で様々な権力争いもあったと思われるし、権力者が糸島から離れたかも知れません。

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端山古墳からの直線がつながるのは、福岡県福津市の勝浦高原古墳でした。何で、そんなところに?

それは、倭王が海北を目指したからでしょう。
伊都国からではなく、倭王として半島に進出するには、広い船泊と船出の浜が必要でした。最適な場所、そこは、福津市の勝浦海岸でした。勝浦は、津屋崎湾が深く入り込み、天然の良港です。更に船団を組んだ船が一斉に出航するのに最適の勝浦海岸が外海に開いていました。
 端山古墳の一族が津屋崎の広い内海に目を付けたのは、新羅への出兵の為でした。
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(右から勝浦港・草崎(岬)・奥に勝島・更に奥に大島)
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(ひろい田園が広がります。奈良時代には津屋崎湾の一部、ここは海でした。)
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祭祀線は勝浦高原古墳に結び付きます。
三雲南小路王墓~端山古墳~今宿大塚古墳~勝浦高原古墳が直線でつながりました。(今宿大塚は6世紀で、後に造られた)
勝浦古墳群は、北部九州ではこの時期に最も勢いがあったようです。

沖ノ島祭祀をしたのは、勝浦峯ノ畑古墳の被葬者

糸島の大型古墳が衰退した後の世代では、勝浦峯ノ畑古墳が最大規模であり、勝浦地域では勝浦高原古墳が最も古い時期となります。
わたしは、沖の島の岩上祭祀をしたのは、この津屋崎古墳群の人達だったと思います。勝浦峯ノ畑古墳に副葬されていた三角縁神獣鏡は、沖ノ島のものと同范鏡でした。同范鏡とは、同じ鋳型で造られた鏡と云うことです。
岩の上に置かれた奉献品は、同時代の古墳の副葬品と同じだというので「王権祭祀」とされ、その王権がヤマト(近畿)にあったというのが定説です。
近畿の王権祭祀? ホントでしょうか。
確かに、武器や武具を奉献した理由は、単なる航海の安全祈願だけではないでしょう。半島に出兵する際の戦勝祈願も大きかったと思います。だからこそ、船出の地も「勝浦」と呼んだのです。背後の山は「勝浦岳=桂岳」です。


倭五王の時代、草崎(いくさざき=戦﨑)を見て、勝島に見送られながら、若い兵士が半島に渡ったと思います。万感の思いを込めて「名兒山」を見つめたことでしょう。愛しい子(娘)の名を胸に刻みながら。沖ノ島を過ぎると、もう引き返すことはできません。

沖ノ島の岩上祭祀は4世紀半
ちょうど、倭五王の半島出兵とリンクしています。ですが、倭五王は近畿の人ではありません。
兵を集めるには、権力者が集団を支配し、税や戸籍を掌握しておかなければなりません。そして、半島に渡るための舟や港を持たねばなりません。
北部九州や海北の航路を熟知した者にしか、半島進出はできないと思います。

半島進出に倭王がこだわり続けた理由
それは、半島侵攻が目的で北部九州に進出した人々だからです。
そうとしか、考えられません。弥生時代、女王国と戦った狗奴国の人たち。飢饉のために困窮する女王国を見ながら支援せずに、半島への進出を押し通した氏族だと思います。

再度、確認してみましょう

北部九州が早くから大陸や半島と交流があったことは、狗奴国の人も早くから知っていました。狗奴国は有明海から引き潮に乗って五島列島まで渡り、半島を目指したと思います。古くから鉄を求めて、半島へ渡っていたはずです。
倭女王卑弥呼は新羅と友好国となりましたが、狗奴国はどうでしょう。
有明海ルートの他に、更に、海北の航路が欲しかったのです。そこで新羅との軋轢が生じ、それを解消するために半島に出兵することになったので、どうしても北部九州を支配したかったと思います。
そして、新羅を討つつもりだったと。

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193年の大飢饉で、邪馬台国と友好国だったから新羅は難民を引き受けたのです。交流も深かったはずです。だから、突然の侵攻(208)は有りえません。
わたしは、新羅本紀には狗奴国と倭国のことがかき分けられていると思うのです。
大きな権力がなくては出兵はできませんから、侵攻したのは倭人の国に違いありません。
新羅本紀では「倭人」「倭国」「倭女王」と使い分けています。倭国と倭人は別の集団なのでしょうか。新羅本紀の編纂者は意図的にかきわけているのでしょう。
年表を見る限り、「倭国」は663年に百済救援をした国です。「倭人」はずっと新羅に侵攻し続ける国なのです。

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倭王は「倭人」と書かれた国の王だった

北部九州に進出した狗奴国出身の支配者は、半島進出に心を奪われていました。そのために、狗奴国の進出を嫌って東へ逃げた人々が経済を握り、徐々に力をつけて行くことなど考えもしなかったでしょう。

(以上何度も何度も書いて来たことです)
今回付け加えたのは、半島進出を願ったのは倭五王達であり、かれらの出自は狗奴国である。半島進出の目的を達するために勝浦海岸に進出し、沖ノ島祭祀を始めたと云うことでした。
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(ためしに、平原王墓と勝浦峯ノ畑古墳を結んでみましょう。すると、糸島地域の兜塚古墳をラインが通りました。このラインが有効なら、兜塚古墳の被葬者は弥生女王と勝浦峯 ノ畑古墳の霊力にあやかりたいと思ったのでしょうね。)

ではまた、明日。
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# by tizudesiru | 2018-03-15 01:02 | 329祭祀線で読む倭王の交替 | Trackback

真東からの太陽祭祀をしたのか・パワースポット細石神社

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細石神社は宝満山と飯盛山の真東に鎮座
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弥生時代に神祭りを始めた頃は、東から上る太陽は大切だったことでしょう。

奥に見える森が細石(さざれいし)神社です。田圃の中の道は参道ですが、何故ここに長い参道が造られたのでしょう。別に集落を結ぶ道ではありません。途中に川があって真っ直ぐ東には進めません。しかし、まっすぐの道があります。これは古代からの神祭りの道でしょうか。

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君が代の「千代に八千代にさざれ石の」

細石(さざれいし)神社は、古くは「佐々禮石」と書きました。以前は神田も広く大社だったそうですが、中世の戦乱で社殿は焼失し、豊臣秀吉の時代に太閤検地によって神田は取り上げられ、以後衰退しました。昔は、東に位置する高祖神社からの御神幸があったそうです。
この神社のご祭神は、磐長姫命・木之花開耶姫命という姉妹の神様です。細石が御神体ではありません。境内に注連縄をめぐらせた石がありますが、伝承は無いようです。
神社巡をしていると、境内摂社に混じって細石が置いてあるのを見かけますが、石の種類もさまざまです。後世の人がそれぞれに「これは細石ではないか」と思う石を持ち込んで奉納したのでしょう。それだけ、「細石」に対する思い入れがあるようです。「君が代」にも歌われていますからね。
「細石が岩になるくらい長い時間、我が君の世が続きますように」という歌詞を読み間違えたのですかね。まだ岩になってない「細石」を祀るはずはないと思いますが。信仰の世界ですからね、細石をさがしたのでしょうね。

今年は春が遅かったのですが、神社はほのかに温もりを持ち清浄な空気が流れていました。あまり有名ではないので、観光客が少なくて汚れていないのでしょうか。
ここは、古代の東西ラインの中で、最高のパワースポットです。
志賀島出土の国宝の金印は、この神社の御神体(宮司の口伝による)だったとか、そんな話もあるのです。

いろいろなところを歩いていると、不思議なことに出会うことがありますね。隠岐ノ島では社殿が建て返られていることを知らないまま参拝しましたが、風に押されるように感じたのがその隣の池地でした。聞いてみると、元宮はその場所に長く建てられていたのだそうです。池の中に印の石があり、非常に驚きました。
20年ほどまえ、奈良の法起寺でも涼しい風が頭の中を通るように思いましたが、無風でした。そんな体験はあるものですよね。

細石神社はふわりと温かく感じましたね。

一貴山銚子塚古墳からの祭祀線に乗る細石神社

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青いポイントが一貴山銚子塚古墳(柄鏡形の古墳)の後円部です。北に前方部が伸びています。
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この三本のラインは、赤・ピンク・黄ともに一貴山銚子塚と宝満山・須玖岡本王墓・飯盛山と結んだものです。今まで何回も直線を引きました。いずれもワレ塚古墳を通りますから、ここは一貴山銚子塚古墳と関わりの深い人の墓だと思います。

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ピンクのポイントが細石神社です。
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アップすると、現在の参道がラインと若干ずれています。聞くところに寄ると、2000年ほど前の真東は、1度ほどずれるのだそうです。そうなら、今の参道が北にずれているのは当然なのですね。



三雲地区に伊都国の王都

三雲地区には、上覚・ヤリミゾ・南小路・宮ノ下・屋敷・中川屋敷・楠木屋敷・塚回り・下西・八反田・サキソノ・番上・鬼木・郡の後…などなど小字があります。
ほとんど遺跡の上にあるということですね。


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細石神社の辺りが三雲南少路遺跡、端山古墳のある辺りが三雲番上遺跡、その南に三雲加賀石支石墓があります。加也山が見える広々とした番上遺跡が、弥生の対外交流の拠点でした。ここから楽浪系の土器がたくさん出ているそうです。
魏志倭人伝のころの楽浪郡からの使者も、交易を求めた人も、番上地区に来たということです。いにしえの人も、原田大六氏も見た風景なのですね。
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三雲番上遺跡。この辺りから、楽浪系の土器が出土したのです。
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日向峠も見えています。

築山古墳と端山古墳

細石神社のすぐ近くに二つの古墳がありますから、紹介します。

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(左のこんもりした樹木の塊が築山古墳・住宅の奥に端山古墳)
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帆立貝形の古墳です。初期の古墳で、葺石(ふきいし)、壺型埴輪、円筒埴輪が出土したそうです。近くには「茶臼塚」という古墳もあったそうですが、確認されていません。
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端山古墳は柄鏡形に近い墳丘ですね。
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端山古墳は、築山古墳より古いのです帆立貝形古墳より古いと云うことです。近畿では、帆立貝形古墳が古いとされていますが、糸島地方では逆で柄鏡形古墳の方が古いのです。
糸島地方では60基ほどの前方後円墳が確認されていて、ほとんどが前期~中期の古墳です。しかも、古墳の様々なタイプが揃っているのです。
古墳の形式の変化は、此処で辿ることができます。古墳の密集地ですから。
後期古墳がなぜ造られなかったか、それが問題です。ここには時代の波や事件や政変が押し寄せたのでしょう。


今日のまとめ

細石神社は伊都国の王都に残る神社である。
まさに、「さざれ石の巌となりて」の細石神社なのですね。

また、あした…
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# by tizudesiru | 2018-03-12 12:12 | 330真東から上る太陽を祭祀した聖地 | Trackback

祭祀線で読む倭王の交替!歴史の闇に消えた宗女壱与

卑弥呼宗女壱与を歴史の闇へ落としたのは、まぎれもなく倭王である


一貴山銚子塚古墳の被葬者に

大接近

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平原王墓の被葬者を「玉依姫=オオヒルメノムチ」としたのは、原田大六でした。
彼は中山平次郎博士の弟子となり、板の間に毎日6時間正座し、9年間もマンツーマンで考古学を学びました。戦後、公職を追放された原田は、考古学に全身全霊で立ち向かったのでした。

その原田が遭遇した平原王墓です。わたしは運命の歯車を感じます。彼は、大きな発見をしました。それは、伊勢神宮の八咫の鏡が、「八頭花崎八葉」の文様であるという記録でした。そこで、ご神体は天照大神の別名のオオヒルメノムチの依代であると考え、モデルとなった平原女王墓の年代を2世紀後半に設定したと思います。


平原王墓の築造は2世紀後半ではない
2世紀後半なら、三雲南少路遺跡や井原鑓溝遺跡との時代的な釣り合いが取れません鏡の大量破壊や大型鏡の副葬は、明らかに前者より後の時代だからです。他の大型鏡は、古墳時代の出土だからです。
原田大六は、百年早く設定してしまったのです。中山平次郎博士について三雲南少路も井原鑓溝も周囲の遺跡も調査しているはずなのに、原田大六は「神話に引き込まれた」と思います。


平原王墓こそ、宗女壱与(臺与)の墓!八咫鏡を5面も持った女王
平原王墓の巫女王は最高の地位にありましたが、三雲南少路の夏至の日没の方向、王都の西、瑞梅寺川を渡った先に埋葬されました。あまりな仕打ちと言えるでしょう。それを指示したのは、後の世の権力者で、宝満・飯盛山の太陽の道に埋葬された人です。

その人こそ、東西ラインと呼ぶ、太陽が真東から上る聖なる祭祀線上に眠る権力者=一貴山銚子塚の被葬者
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宝満山・飯盛山の東西祭祀線の西に位置する一貴山銚子塚古墳

一貴山銚子塚古墳は、何度も取り上げたので内容が重複するかも知れません。

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写真では後円部が北にあるように見えますが、逆で後円部は南に在ります。主軸線は南北です。

柄鏡型(えかがみがた)の初期古墳、後円部が南、前方部が北。竪穴式石室に朱が塗られていた。

後漢鏡2面(内向花文鏡・方格規矩鏡*金メッキ)*頭部近くに置かれていた 
三角縁神獣鏡8面(木棺の傍らに並べられていた)
鉄鏃と大刀と剣(鉄製の素環頭大刀、鉄剣)6振
勾玉と管玉(左右の手に腕飾り)

(出土物は、京都大学が持っているそうです。京大は、考古遺物を福岡に返すべきです! 地元の人が協力して発掘したのに、持って行ってしまうのは過去の習慣で、今後は管理研究を地元に任せるべきではないでしょうか。その方が、地元の人の目に触れます。)

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ここは、未盗掘の古墳だった!


未盗掘には大変重要な意味があります。この時代の首長はどのように葬られたか分かるからです。

後漢鏡(一面は金メッキ)は大事だったから頭部に置かれた。三角縁神獣鏡はそれなりに置かれた、などなど。大刀にまだ飾りが見られないから、平原王墓の素環頭大刀からあまり時間を経ていない古墳だとか、この時期には、三角縁神獣鏡が国内で造られていた、とかも分かるでしょう。

祭祀線で一貴山を読む
ここには、弥生の葬送儀礼が残されました。しかし、東西ラインの太陽祭祀線上に乗りながら、墳丘の主軸を南北とし方向を考えています。明らかに新しい祭祀を始めようとしているようです。
この前後に、伊都国では古墳がつくられますが、南北に主軸が向くタイプと、東西に主軸が向くタイプ、その他が見られます。

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一貴山銚子塚・丸熊山・若八幡・井原1号・ワレ塚・端山。南北に主軸、南に後円部

一貴山銚子塚古墳
のような南北主軸線タイプ(上の画像)を祭祀線で見ると、例えば若八幡古墳とワレ塚古墳は、一貴山からのラインに乗ります。ついでに、細石(さざれいし)神社が乗っていますが、志賀島出土の金印(国宝)はこの神社のご神体だったという伝承もある神社です。

卑弥呼がもらった金印(親魏倭王)の伝承が先にあって、志賀島の委奴国の金印(漢委奴国王)との噂が混戦したのかも知れませんが、興味がわきます。ピンクのラインは、宝満・飯盛山の東西祭祀ラインですからね。ここは、伊都国の領域です。

黄色のラインは、夏至の日の出のラインです。このまま進むと、香椎宮本殿をかすめ、遠賀川流域の六ヶ嶽山頂まで届きます
。(このブログでも、一貴山銚子塚古墳の主が遠賀川流域の六ヶ嶽に降臨(侵略)したことを書いています。それは、祭祀線で読んだことです。)


若八幡古墳は一貴山銚子塚より後の時期の古墳です。刳り抜き形木棺の周りは粘土。井原1号墳や一貴山銚子塚古墳と同じように、粘土の間に鉄器が挟み込まれていました。ここには、方形板皮綴短甲が副葬され、最古級の甲冑の一つとなっています。
つまり、一貴山銚子塚に甲冑は副葬されていないので、若八幡が後の新しい古墳だとなります。ここ若八幡でも、鏡(三角縁二神二獣鏡)が頭部に置かれていました。大刀も三葉環頭大刀で後の時代のものです。素環頭大刀ではないのです。



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今宿大塚・銭瓶塚・西堂古賀碕・賽の本1号 などは東西に主軸、東に後円(稲葉1号・池ノ浦、西に後円)
今宿大塚古墳は6世紀の後期の古墳です。今宿大塚古墳は柄鏡型の前方後円墳ではありません。前方部は大きくなっています。この時代になって、東西の主軸に変わる何事かが起こったのでしょうね。




今日のまとめ、
⓵伊勢神宮の御神体は、八頭花碕八葉の八咫鏡(大型鏡)である。
 その鏡は、福岡県の糸島市(伊都国)の平原王墓の鏡と同型である。(前回)
平原王墓の女性王は、東西祭祀ラインから外されている。それは、首長の交替があったからである。
➁平原王墓の被葬者の地位を奪ったのは一貴山銚子塚の被葬者である。彼は弥生の葬送儀礼を継承しながらも、祭祀を変えた。辺りの有力者を傘下に取り込んだ。


卑弥呼宗女壱与を平原に封じたのは、一貴山銚子塚の被葬者である

原田大六氏に敬意を表しながら、以上紹介しました。

古代の王や女王が選んだ祭祀ラインのパワースポットは、明日紹介しましょう。


これは、余談


一貴山銚子塚を掘ったのは、有光教一や小林行雄や森貞次郎です。なかでも、三角縁神獣鏡の研究で知られる小林行雄は一貴山銚子塚から出土した三角縁神獣鏡の同型鏡の研究を進め、「同范鏡論」の基礎を築いたのです。
一貴山銚子塚は、古墳研究の基となるべき古墳です。古墳の形、出土物、弥生時代との接触、など時代の変化と副葬品の推移を探るのに最高の場所・糸島市に出土した初期古墳なのですから。

a0237545_10304400.jpg
糸島市の皆さん、一貴山銚子塚古墳の考古遺物を京都大学から返してもらってはいかがでしょうか?
九州国立博物館にでも、永久貸し出しをしてほしいと思うのは、わたしだけでしょうか。

では、明日はパワースポット・細石神社です。

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# by tizudesiru | 2018-03-11 10:53 | 329祭祀線で読む倭王の交替 | Trackback

伊勢神宮の八咫鏡、天皇家の祭祀は伊都国から始まった

伊勢神宮の八咫鏡、
a0237545_17382469.png


天皇家の祭祀は伊都国から
古墳への鏡の大量副葬の風習は、北部九州から始まりました。
伊勢神宮のご神体=八咫鏡も北部九州が発祥の地です。
伊勢神宮のご神体
八咫鏡
直接見ることはできません。
原田大六は「八咫鏡と同型だ」と言った
福岡県糸島市の
平原王墓(1号墳)を発掘した原田大六は「1号墳から出土した大型内向花文鏡(内向花文八葉鏡)を其の文様と大きさから八咫鏡と同型ではないか」という説を示しました。


伊勢神宮
に関する『御鎮座伝記』
「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉也」とあります。そのまま、八つの頭花・八枚の葉の形 の文様の鏡なのです。
将に、弥生遺跡の平原王墓の大型銅鏡の文様です。


八咫鏡=八頭花碕八葉の文様の鏡
a0237545_01524628.png

 

古墳時代の大型内向花文鏡と比べてみましょう。
a0237545_12595463.jpg

伊都国歴史博物館の図録の紹介写真を見ると、大型鏡の中で、内向花文鏡は三面です。
平原王墓(糸島市)柳本大塚古墳(奈良県)下池山古墳(奈良県)

平原王墓
の銅鏡は鈕の周りに八葉の文様がありますが、柳本大塚も下池山も四枚の葉しかありません。では、八咫鏡は、柳本大塚・下池山古墳の鏡ではありません。


伊勢神宮の八咫の鏡と同型は、平原王墓の銅鏡のみです。すると、
平原王墓の被葬者は、伊勢神宮に祀られている天照大神のモデルだった。だから、伊勢神宮は大型内向花文鏡をご神体とした。

すると、倭国の武人が各地に天下ったのですね。
ここで、疑問符。なぜ、平原王墓の女性は首長が眠る祭祀線上に埋葬されなかったのでしょうか。


それは、政変により倭王の地位を奪われたからです。では、誰に? それは、首長が眠るべき位置を奪った人物、一貴山銚子塚古墳の被葬者だと思います。では、次に

一貴山銚子塚古墳の被葬者に大接近
しましょう。

今日のまとめ
伊勢神宮の御神体は、八頭花碕八葉の八咫鏡(大型鏡)である。
 その鏡は、福岡県の糸島市(伊都国)の平原王墓の鏡と同型である。
➁平原王墓の女性王は、東西祭祀ラインから外されている。それは、首長の交替があったからである。
③平原王墓の被葬者の地位を奪ったのは一貴山銚子塚の被葬者である
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# by tizudesiru | 2018-03-10 15:30 | 329祭祀線で読む倭王の交替 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
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184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
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198光明皇后の不幸と不運
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202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
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