邪馬台国の滅亡を再検討する・弥生遺跡消息一覧表

此処で、早まってはなりません。日本史の根幹にかかわる「邪馬台国の滅亡」です。それが起きたのは、弥生中期でしたか?
「卑弥呼以って死す」は、248年でした。弥生の後期ですから、あの一覧表を見直してみましょう。
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確かに、弥生中期で一斉に集落の衰退が起きています。そして、徐々に回復したのに、弥生後期に再び衰退期が来ています。
では、祭祀具の破棄を故意におこなったという栗田遺跡と七板遺跡を見ましょう。一覧表には七坂となっていますが、筑前町の文化財課に問い合わせたら「七板」の誤りでした。この七板遺跡は後期後葉で集落が途切れています。
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では、重要文化財を出土した栗田遺跡です。この祭祀具一式はほぼ完形で同じ場所で発掘されました。意図的な廃棄・埋納と考えられています。では、その時期は①➁③の何処でしょう。➁か③のどちらでしょうね。①では祭祀具の出現はまだないそうです。
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同じような祭祀具の意図的な破棄・埋納があった七板遺跡と同じような状況です。「足の踏み場もないような多数の甕棺墓とともに、調査参加者の眼瞳に焼き付くような鮮明に丹を塗られた精製胎土の磨研土器群の発見により他に比類なきものであることが確認された。」と、栗田遺跡の報告書(1974年)に在る通りです。
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ほぼ完形で見つかった!! 偶然ではありません。七板遺跡でも同じ状況なのですから。ほぼ同じ時期に意図的に埋納破棄された、としか思えません。すると、弥生後期にそれが起こったことになりましょう。
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実は、筑前町の柏木宮ノ元遺跡・宮ノ前遺跡は、弥生後期の遺跡です。つまり、土器の大量廃棄は弥生中期ではなく後期の出来事です。阪井田遺跡も弥生後期の遺跡で、溝に大量の土器が捨てられていました。
何か大きな事件があったのは弥生後期となり、邪馬台国の滅亡はこの時期と思われます。
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そして、「邪馬台国の滅亡は弥生中期だった」説は、消滅します。邪馬台国の滅亡は、発掘の状況からして弥生後期でした。
では、弥生中期の集落の衰退消滅は何だったのでしょうか。なぜ集落は消滅したのか、災害でもなく飢饉でもなく国を左右する大事件・・・考えられるのは、ひとつ。
倭国大乱です。
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明らかに、黄色ラインの弥生中期後葉に集落が一斉に消滅衰退しています。
此処で国を揺るがす大事件が起こりました。そして、卑弥呼の登場で乱はおさまります。回復の兆しが見えた時、狗奴国との争いが起きたのでした。祭祀具が捨てられたのは、文化や思想の違う社会になったからで、邪馬台国時代の祭祀は破棄され、人々はそれまでの祭祀を捨てて他所に去ったか、祭祀を変えて集落に残ったか、となるのです。
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ところで、これらの出土物の中で、他を圧しているものに丹塗磨研の筒型土器がある。器高80cm内外で、口径約15cm、上方に鍔(つば)を有するもので、北部九州独特の器制をなすものである。現在までの出土例は20例ぐらいであるが、当遺跡では、以前4個体分出土しており、今回を加えると10個体以上の出土をみたことになる。この筒形土器はSO1・SO5・SO6号の各祭祀遺構から検出された。その中で、SO6号祭祀遺構は、当遺跡の中で最大の祭祀遺構で、完形品およびこれに近いものだけで(基本個体)20個体を数えるほどである。」(栗田遺跡報告書・1974年)

更に驚いたことに、「最大の祭祀遺構であるSO6号を中心に、他の祭祀遺構が南北に連なり、ひとつの流れのようになっている。そして、この祭祀遺構集合線を境として、それぞれの甕棺墓群が対峙している。」と書かれています。
この筑前町の弥生遺跡は葬送文化を持ち、その文化圏には強い結びつきがあったのです。
此の丹塗磨研土器が卑弥呼の時代の祭祀だとしたら、この土器の最大の出土地は、女王国と深い関係にあったことになりましょう。卑弥呼、その人の出身地かもしれません。
この祭祀具は、伊都国でも春日の奴国でも出土しています。卑弥呼の時代の祭祀具には違いありませんからね。
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では、また明日。


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# by tizudesiru | 2018-11-19 23:33 | 355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡 | Trackback

筑前町・弥生時代の遺跡消息一覧表から読めること=邪馬台国の滅亡

筑前町の弥生遺跡の光芒は、邪馬台国の運命を示唆する
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福岡県朝倉郡筑前町(旧 三輪町と夜須町)の東小田峯遺跡を訪ねましたので、大事なことをお知らせしています。前回「筑前町の弥生遺跡が消滅したのは、邪馬台国滅亡という大事件に関係する」と書きましたので、その事を重ねて紹介します。
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この写真は「東小田峯遺跡の発掘報告書」の大溝の写真です。この遺跡では大溝を全て発掘したのではなく、たまたまトレンチしたところに大溝がかかった、ということです。その写真ですが、各層のところどころに割れた土器片が見られます。つまり長い間かかって溝が徐々に浅くなり捨てられた土器が年月とともに各層に残っている状況です。
この大溝は、平和な日常が営まれていた証拠にもなりましょう。
然し、ここにも集落の消滅は起こっています。では、たまたま土器を大溝に廃棄した場所が掘られていないだけでしょうか。
筑前町の他の遺跡では、大溝のある地点に土器が固まって捨てられていました。
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柏木宮ノ本遺跡も、阪井田遺跡も大溝に捨てられた土器でした。それも、同じ面(層)にかたまっていますから、ほぼ同じ時期に一斉に捨てられたということです。各層に点在するのではなく、土器は積み重なって出土しましたから。
柏木宮ノ元遺跡も、下の写真のように集落が同じ場所に続けて営まれ繁栄していましたが、大溝に土器を一斉に捨てるという状況になったのでした。
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様々な生活用品が出土しています。この豊かな生活が、突然断ち切られたということです。次の表を見てください。驚くべき事実が判明します。筑前町の弥生集落に何が起きたのでしょうか。
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筑前町の「弥生時代遺跡の消息一覧表」です。驚くべきことが読み取れます。つまり、どの集落もある時期に「消えた」消滅した、または衰退したということです。存続したように見える遺跡が若干ありますが、ほとんどいったん途切れています。
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私の理解では、Ⅰa・Ⅰbの時期に甕棺墓が作られますが、Ⅱaになると急に作られなくなる、ということです。しかし、住居はⅡaⅡbまでは、たくさん作られています。
すると、事件は、ⅡaⅡbの時期に突然起こったということです。人がこの地を去ったので、家が残されたが墓はない、人々は他所の土地に行って最後を迎えた、ということになります。

さらに、時間をおいて人が住み始めたが、その人々はかなり違った文化の人になっていた、ということでしょうか。
此処でおきた事は、何だったのか、です。そして、その時期は弥生の何時なのか。天変地異が起きた? 大飢饉があった? でしょうか。生活道具ばかりではなく、祭祀道具も捨てたのです。この時、起こったのは人々を恐怖に陥れた国家的な混乱だったでしょう。
それは邪馬台国が滅亡したこと。
その余波で周辺地域や関係の深い国は大混乱した、と思います。人がいなくなった証拠が筑前町の「弥生時代遺跡の消息一覧表」から分かるのです。
それでなくては、人々は豊かな災害の少ない一等地を捨てていくでしょうか。
では、又明日。


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# by tizudesiru | 2018-11-19 00:48 | 355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡 | Trackback

弥生集落を去る時、人々は祭祀具も土器も捨てた

福岡県朝倉郡筑前町に出かけました。何度出かけても東小田峯遺跡の場所を探せませんでしたが、今回は筑前町役場の方にお世話になって、地図を用意していただきました。
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筑前町の北には神山がずらりと並んでいます。全て信仰の山です。東小田峯遺跡はすべてが見渡せる平野に在ります。
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遺跡は大根地山を背景に田んぼの中にポツンとあります。
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遠く地平線の向こうは福岡平野・博多湾です。この幅が数キロの地溝帯を、鹿児島本線・国道・県道・高速道路が南北に通っています。古代にも、ここを攻めあがった兵(いくさ)がいました。地溝帯が危険だと思った武士軍団は背振山地を越えましたが。
中世、後醍醐天皇が挙兵した時、肥後の菊池武時入道は背振越えして早良(福岡市)に入りましたが、幼子たちは此の平地を通って博多に入ろうとしましたから、横隈の辺りで見つかり武時の孫たちは討たれました。此処を通るたびに、わたしは肥後菊池家の幼子を思い出しました。筑前町にはあまたの物語がうずもれています。
大昔から此処は人と文化の通り道でしたから、天下人も庶民も通りました。
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此処からは、基山や九千部山も見えます。背振は九千部に重なります。
古代から博多湾に上陸した人は、ここを通って筑紫平野に入ったのでした。反対に有明海に上陸した人も此処を通って博多湾側へ入ったのです。
此処には文物があふれ、文化の華が開いたのです。それは、弥生時代も同じでした。その弥生時代の全盛期にこの辺りの弥生集落は急速に消滅したのでした。なぜでしょう?
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それは、ここ東小田峯遺跡だけの個別の出来事・偶然の事件ではありません。筑前町全体で起こったのです。ほとんど同時に。
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これらの大事件は、偶然ではなく必然でした。それは、邪馬台国の滅亡にかかわる北部九州の悲劇の証明なのです。
今日はここまで、また、明日。



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# by tizudesiru | 2018-11-17 23:15 | 355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡 | Trackback

邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡(三輪町と夜須町)

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福岡県朝倉郡筑前町の東小田峰遺跡を訪ねました。
福岡平野と筑紫平野を結ぶこの辺りは、1800年前・弥生(中期)の集落が密集した豊かな大地でした。北側には三郡山地が、南側には耳納山地が見えます。筑紫平野はここからゆったりと末広がりに大きく広がり、すそには筑後川が流れています。
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 ここは、旧三輪町です。40年前ほど前になりますが「三輪町史」を借りたことがありました。そこには、近畿の地名と地形と位置関係が言及されていて、地名の移動について書かれていました。奈良の三輪山はこの地の「三輪山」の山名の移動と云うものでした。面白かったので、コピーして地図を知り合いに見せたのでした。その「三輪町」の地名を「筑前町」という近代の地名に変えてしまったのですね。夜須町にしても、古代の伝承に因む名前だったのに、もったいない気がしました。それでも、筑前町は魅力的な処です。
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ほんとに、見える範囲の小さな町ですが、一面弥生遺跡が広がる地域なのです。わたしも歩いていて「石包丁」を拾ったことがあります。畦におちていたのです。教材として学校の関係者にあげたので手元にはありませんが、道端で拾ったものは埋蔵文化財にはならないのでただの拾い物だそうです。が、驚くべきことです。
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ここ筑前町には、発掘されただけでも100カ所をはるかに超える遺跡があります。
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黒点の一つ一つが発掘された遺跡です。そこに住居跡や墓群があります。
その中で、Eグループには20~27の8カ所の遺跡が発掘されていますが、東小田峯遺跡は、23の番号の点になります。拡大すると下の画像(東小田峯遺跡)のようになります。
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23、この小さな点の中には、おびただしい住居跡が重なり、甕棺墓群があるのです。
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甕棺墓群は、次のようになっています。
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甕棺が列になっているように見えます。ここには一定の決まりを以って墓域が作られているのです。そして、「K10」と番号を打たれた甕棺が、王墓ではないかと云われる10号甕棺です。(Kの記号は、甕棺・カメカン(KAMEKANN)の意味で、Kです。)
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筑前町史に掲載されている写真です。ここ10号甕棺にはガラス壁が再加工されて副葬されていました。
こんなに、たくさんの人が住んだ東小田峯遺跡ですが、なぜか突然、最盛期に消滅するのです。何故だと思いますか。
そこには、弥生中期の大事件が絡んでいるのです。邪馬台国の滅亡と云う・・・
ではまた、明日。



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# by tizudesiru | 2018-11-17 01:27 | 355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡 | Trackback

伊豆神社の本宮・久我神社の創建は上代、其のルーツは!

前回の「厳神社」の本宮も、前々回の伊豆神社の本宮も久我神社と由緒にありました。その本宮を訪ねました。
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鳥居には確かに「久我宮」と掲げられています。ここは神社ではなく、「宮」と主張しているようです。しかし、由緒には「久我神社」と書かれています。鳥居の左後ろの由緒を読んでみましょう。
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神社創建時期は不詳であるが、社伝によれば、神功皇后征韓の途次、筑紫岡湊(おかのみなと)に御滞在の折、当古賀村に三神鎮座を聞召し、今の字、惣仙洞にて釣り上げられた鱸(スズキ)を蓼(タデ)の穂と共に神前に供えられ征討の勝利を祈られたとある。この遺風が穂蓼の神事である。これは神前において蓼の葉を刻みて顔面に塗り皮膚への滲み具合によって、其歳の豊凶を占う神事であるが、現在は途絶えている。
この神社は中古の御世 古賀・朳(えぶり)・頃末(ころすえ) の三村の産土神として広く崇められ、又筑前山鹿城主麻生氏の出城が久我嶽の山頂にあり、その崇敬殊に厚く郡中七大社の一つであった。当時本社は区の南方久我嶽の麓にあったが、落石による社殿の破壊度々なるをもって三村に分祀される事となり、頃末には元亀二年(1571)に、朳には天正十六年(1588)社殿が設けられた。同時に本社も字 亀の甲に御遷座申し上げた。又、宝暦九年(1758)、それまで伊豆神社と称していたのを久我神社と改めた。明治四十三年本社を今の地に御遷座併せて、豊前坊山にあった高住神社(旧 豊日別神社)及び相殿疫神斎、字 京原鎮座の多賀神社 字 惣仙洞鎮座の貴船神社及び各神社の境内社を合倂合祀した。
この神社は古来安産の神として崇められ古賀村には難産の煩いがないと云われる。

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中世の武士は出城を築くのに神の御加護のある土地を選びましたから、山頂の神社が他に移されることは多々ありました。ここも古代から霊力があると信じられていた場所なのですね。
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拝殿にはヤタガラスの神幕が張られていましたが、ここは羽を広げていませんね。ここに留まるということでしょうね。前回までの神社のヤタガラスは羽を広げて飛んでいましたから、他から飛んできて鎮座したと説明しているのでしょうか。三社の関係がよくできています。感心しました。ですから、「郡中央鎮守」と神額を掲げたのでしょう。
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本殿の裏には急階段があり豊前坊に昇ることができそうでした。
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然し、ちょっと急な傾斜が怖い感じでした。
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豊前坊を遠賀川の堤防から見ると、円錐形に見えます。山頂下のくぼ地に久我神社(旧伊豆神社)があるのです。
では、これまでに見た伊豆神社を祭祀線で確かめましょう。
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嶋門本社と書かれていた島津の伊豆宮を起点に祭祀線を引きました。そもそも伊豆神社と伊豆宮は違います。「神社」は他からの遷座とかありますが、「宮」はその地がその神の発祥地と云うことです。ですから、ここでは島津の伊豆宮(嶋門本社)が、神の発生の地ということになるのです。
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島津に鎮座する嶋門本社(伊豆宮)は、イズノメ神がご祭神でした。然し、其処を起点に祭祀線を引くと、丸山古墳を通り、豊前坊を通り、明神ヶ辻を通り、中間市の高尾山まで行きつきます。豊前坊と明神ヶ辻はもともと聖地で後の世に社を置いたと思いますが、その山頂はつながりました。古代には同じ神をまつる共同体だったかもしれませんね。
高尾山の麓には犬王(INUO)というバス停があります。山の西には永犬丸(EINOMARU)という住宅地もあります。急に作られた地名ではないのです。

ここは、委(伊・井)王、又は「委奴王」という首長が居たのかもしれません。其の首長は海を渡る力を持ち、農業開発もしたでしょう。島津は首長の船着き場だったでしょうね。そこには、海の神が祀られたと思います。海難を避けるための「伊豆=いつ=神がいつく=浄められた場所」だったでしょうね。
時代や為政者が変わり、元の祭祀は変化し原型をとどめていません。然し、わずかに祭祀線が過去を語ってくれる、そう思います。

伊豆神社を訪ねる旅、面白かったです。
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では、遠賀川を渡って帰りましょう。
古代に、この広い流域が開発された時、肥沃な農地が生れたでしょう。首長は大きな力を持ったはずです。もちろん、鉄の道具が大量に必要ですが。  では、また。



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# by tizudesiru | 2018-11-02 09:25 | 354遠賀川河口の伊豆神社 | Trackback

明神ヶ辻から降りて来た厳神社の神は、久我神社から来られた

朳(えぶり)の厳(いず)神社を訪ねました。
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ちょうど、朳(えぶり)神社御遷座記念の「なおらい」があっていて、みなさんお祭りの宴たけなわで楽しそうでした。神社と同じ敷地に公民館があり、そこに地域の方が集まっておられました。500年の歴史がある神社でした。
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ここにもヤタガラスが社の神幕に染め抜かれていました。
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神額には、「厳神社」とありますが、天正年間に久我神社から勧請した時は「伊豆神社」だったそうです。
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以前の社は明神ヶ辻の山頂よりやや下がったところにあったそうですが、この地に移したそうです。
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厳神社の境内からは元の社があった場所は見えないとのことでした。写真の高竿の旗と森が交差する辺りに、元の社があったようです。更に、天正年間に移し奉ったという伊豆神社の御祭神は、集落の左奥の豊前坊におられたそうです。
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左端に飛び出た山頂が、豊前坊と呼ばれる久我神社の神山です。久我神社はそこにあるそうです。

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秋の日差しにきらめく田の向こうは遠賀川の堤防で、道路になっています。その奥には宗像の山が見えます。
ではでは、久我神社を訪ねなければなりませんね。次回は。


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# by tizudesiru | 2018-11-01 12:00 | 354遠賀川河口の伊豆神社 | Trackback

遠賀川流域の水巻町の伊豆神社の祭神はヒコホホデミノ命

福岡県遠賀川流域の水巻町の伊豆神社には、ヤタガラスを染め抜いた旗がずらりと並んでいました。
前回の伊豆神社の近くで、同じ伊豆神社という名前ですが、ご祭神は女性(イズノメ神)ではなく男性(ヒコホホデミノ命)でした。全く別系統の神社なのでしょうか
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石段にもヤタガラスの旗がはためいていました。足がそろっているので三本足なのかどうかは分かりませんが、『ヤタガラス』だそうです。三本足のヤタガラス=太陽、「太陽の黒点」を意味するのです。其のカラスが太陽を背負って飛んでいる『陽負いガラス』の文様ですね、この神社は。
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大きなしめ縄が下げられていました。
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伊豆神社由緒によると、ご祭神は彦火々出見命、玉依姫尊、塩土老翁、でした。元亀二年(1571)頃、古賀鎮座の伊豆大明神(今の久我神社)より御分霊を受け、山頂に神殿を建立。よって、この山を明神ヶ岳という。大正三年(1914)にこの地に遷座、現在に至っている、そうです。
大明神とは、仏教と神が結びついたのですね。しかし、神として山頂に祀っていた。分霊を受けたのは「古賀」という地名だったが、時代を経て「久我」となまったというのです。KO→KUとなった、よくある地名の変化です。
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此処に来られたのは大正時代ということですが、それにしては様々な摂社末社がありました。
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(唐熊宮・唐と熊を祀る? 唐の熊を祀る?)
伊豆神社の拝殿前に『逆立ち狛犬』があり、安産祈願で有名だそうです。
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今年の9月の新聞ですね。
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ちょっと恥ずかしくないですか? ま、いいか神様のなさることだから。
それにしても、拝殿の塗り物は立派な陽負いカラスでしたね。
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では、次も伊豆神社です。あ、でも「厳神社」でした。それは、また次回に。
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今回は、遠賀川の岸の水巻町の伊豆神社でしたが、近くにも伊豆神社があります。ここは「伊豆」が「厳」になっています。次回、訪ねます。グーグルの地図を載せました。
おや、明神ヶ岳ではなく、明神ヶ辻になっています。何故でしょうね。では、また。


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# by tizudesiru | 2018-10-31 12:00 | 354遠賀川河口の伊豆神社 | Trackback

遠賀川河口・柿本人麻呂の嶋門はここですか?

突然ですが、ここは伊豆宮です。福岡県の遠賀川の河口の西川(遠賀川の支流)と遠賀川にはさまれたところに在ります。伊豆宮の社殿神額の上に「嶋門本社」と書かれています。不思議なことに、伊豆宮というこの神社は嶋門社の本社なのです。もとは、嶋門社と書かれていたのでしょうか。
嶋門本社とは、どういう意味でしょうね。他に嶋門社があるということですか
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西川は水量の豊かな川で、この先で遠賀川に合流します。
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河口に向かう流れはゆったりしていて、上流には筑豊三山が遥かに遠く見えます。広いマッ平らな遠賀川流域、弥生時代には遠賀湖という広い湖だったそうです。何処までも平らなので、おかげで最近まで遠賀川はかなり上流まで船が上りました。
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遠賀川と西川に挟まれて島津という集落があります。この辺りは、昔は二つの川が合流する中州(島)だったのでしょう。

島津の伊豆宮はここに在ります。ここは氾濫原の中の微高地で古墳になっています。
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この嶋門本社は、島津丸山古墳を祀っているのでしょうか。伊豆宮となっていますが、伊豆とは「いつ」「浄められた神聖な」という意味でしょうか。そして、「神社」ではなく「宮」ですから、他からの遷座や勧請ではないようですね。ここが「嶋戸宮」の発祥の地というのですね。
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御祭神は伊豆能賣神で、境内摂社が九社ありました。それぞれに所縁の深い神なのです。
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嶋門本社と島津丸山古墳を川向うから見ると、なだらかな三角形に見えます。
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そして
嶋門(しまど)と聞くと、すぐに思い出すのが柿本人麻呂の「大王の遠の朝廷とあり通う嶋門をみれば神代しおもほゆ」です。ここが嶋門だったのか! ということです。人麻呂がここへ来た可能性はあるのでしょうか。では、万葉の時代にはここは交通の要衝だったのでしょうか。
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人麻呂の時代に大宰府に入るのに、ここを通った可能性は有ります。コースを四本用意しました。右から①~④
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①豊前から入るには、瀬戸内を島伝いに来て南下します。➁関門海峡を越えれば、すぐに陸路を南下することもできます。しかし、③洞海湾を西に進み遠賀川につながる堀のような運河を通れば、遠賀川を王塚古墳のある飯塚市桂川町まで船で進めます。大宰府へは、宝満山と大根知山の間の米の山峠を越えればいけます。もちろん、ここは官道です。時間をかけて④博多湾から上陸し官道を筑紫平野に入ることもできます。一番楽な旅となりましょう。
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洞海湾から遠賀川に船で来れるかという疑問ですが、赤ラインで示したコースであれば、大丈夫です。
さて、人麻呂の時代はどうだったのでしょうね。神功皇后伝説もありますから、嶋戸までの運河は有効ですね。関門海峡の出入り口は門司ですから、役所があったに違いありませんね。門(出入り口)の司(つかさ)ですから、役人がいたでしょう。其の役所は入るのを取り締まったのでしょうが、さて何処を守ったのでしょうね。
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今日は、遠賀川河口の伊豆宮を紹介しました。次も「伊豆神社」を紹介しましょうね。忙しかったので、ちょっとブログを休んでいました。また、書かなくちゃ。宜しくお願いします。

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# by tizudesiru | 2018-10-30 14:02 | 354遠賀川河口の伊豆神社 | Trackback

法隆寺釈迦三尊像の台座の落書きが教えてくれること

あまたのなぞに包まれた法隆寺は、ミステリーワールドですね。
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さて、法隆寺金堂のご本尊と、東の間に安置された薬師如来像の台座のお話です。こちらの二つの台座はたいへん有名です。それで、1994年の法隆寺展でも展示されました。
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薬師如来像の台座は二段になっていて、上段と下段では製作時期が違うそうです。下段が古いのですが、それは台座の請花(うけばな)反花(かえりばな)の花びらが単弁と複弁で違うから判断されたのです。単弁(下座)の方が古い様式です。そして、この請花反花の部分だけがクスノキで造られています。
それは、ご本尊の釈迦三尊像台座でも同じなのです。二つの台座はほぼ同じ時に同じ方法で造られたのです。
つまり、下の古い台座の上に上座を造り、ご本尊を安置したのです。
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然も、下座の框(かまち)の大きな檜は建築物の扉の再利用となっています。もともとは扉だったとは・・・いったいどこの建築物だったのでしょう。其の下座の裏側に墨書が見つかりました。落書きと書きましたが、らくがきと云うにはあまりに貴重な絵と文字があったのです。
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①は「相見る可陵の面、未だ識らず可陵の心」美しい女性の心のうちはわからないという意味らしいです。
➁には、辛巳年八月九日作 と書かれていますから、この台座は、辛巳年(621年)に作られたのでしょうか。
すると、聖徳太子の没年より早くなりますから、当然、釈迦三尊像はまだできていません。
まだ見ぬ仏像の為に台座を造るのは可能でしょうか。計画通りにといえば、それまでですが。
③には、何かの分量のことが書かれています。つまり、倉庫に使われていた部材で、その品物の量が板に書かれていたとのことです。ふううむ・・・なんの量か見当がつかなかったということは、書紀にも他の文献にもない分量の言葉だったのですね。
それは、違う文化圏から運ばれてきた部材だったということでしょうか。
法隆寺の木造飛鳥仏のすべてがクスノキで造られていました。
クスは古代には九州にしかありませんでした。福岡市の立花山が北限なのです。もちろん、韓国にもありません。
何度も書きましたが、百済観音も樟材ですから、百済から来たとは言えないのです。
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法隆寺のあまたのなぞ、それは、九州とのつながりを考えれば解けるとおもうのです。あの夢殿の救世観音もクスノキなのですから。あれほどの仏像を造れたのは、何処の工人たちなのか。聖徳太子に似せて作られたという救世観音は、いったいどこで造られ、何処から運ばれてきて、夢殿の秘仏となったのでしょう。
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こんな不思議な話、何処にもありませんよね。
歴史カフェ・阿蘇で「聖徳太子のなぞ」を考えています。


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# by tizudesiru | 2018-09-03 13:12 | 353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」 | Trackback

法隆寺は藤ノ木古墳をミササギ山と呼んだ

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藤ノ木古墳は法隆寺の西350mの位置に在ります。きれいに整美されて、昔の面影は有りません。初めて藤ノ木古墳を見た時は、北の丘陵からでしたから下の写真のようでした。辺りもすっかり様子が変わりました。
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石棺の外側も内側も赤く塗られた家形石棺でした。写真は、十年ほど前に図録をデジカメで撮ったものです。
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その図録の後ろのページに解説が掲載されていて、そこを読んで大いに驚き、想像が膨らんだのです。なぜなら、藤ノ木古墳の副葬品は一級品でしたし、そんなものを手にする人は、造る技術・大きな財力と権力を持った人である、そんな人にしか持ちえない物だったからです。
石棺の二人の被葬者は、いかなる身分の人なのかと、興味が湧いたのです。然し・・・
葬儀用の金銅製飾履は片方ずつしかなく、一方の被葬者の物は破損していました。飾履とは飾りを針金で取り付けた沓ですが、ほとんどは二足揃っているのです。それが、片方ずつ・・・
書き忘れていましたが、この家形石棺は、未盗掘・未開放だったのです。
つまり、飾履は、遺体が納められる時、既に片方ずつで、一つは破損していたのです。しかも飾履内には麻布が敷かれ、足を入れる所には縁取りの繊維跡があったので、死者の足にはかされていたものでしょう。すると、片方の足のみ飾履をはいていたとは考えにくいです。

(どういうこと? 被葬者は別のところから運ばれたの? その時、片方が失われたとして、何のために移動した? 改葬ならその理由は何か・・・)
そして、権威の象徴たる金銅製冠は折られていました。同じく権威の象徴たる大帯も三つに曲げられ、中に刀子が挟まれていました。副葬品の解説にも、冠の位置など「不自然」とされ、藤ノ木古墳が一般的風習とは言えない特殊性を持っていると指摘されていました。
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(見事な飾履です)
発掘前の藤ノ木古墳は、5世紀代の古墳とされていました。それは、出土した埴輪から判断されていたのでした。しかし、発掘してみると6世紀後半の墳丘だと変わりました。
そうですか、埴輪の形で古墳の年代は特定できないのですね。
改めて確認しました。とても、大事なことだと思います。

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それに、藤ノ木古墳には排水施設がありました。排水施設は7世紀から8世紀の古墳に有りますね。キトラ古墳とか、マルコ山古墳、高松塚古墳とか、でしたかね。
そうそう、あの石舞台古墳にも排水施設があったのでしょうか。確か、石舞台には家形石棺が置かれていたと云うことでした。
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さて、藤ノ木古墳の見事な副葬品に目を奪われていましたが、その築造年代は何時なのでしょうね。6世紀後半でいいのでしょうか。
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スパンコールの豪華な布が二人の被葬者を包んでいたのです。その布の一部が残っていたとは不思議です。被葬者はかなり腐敗して残りが少なかったのに、薄い布が残ったのですから。
法隆寺は「ミササギ山」としてこの古墳を守って来ています。ミササギですから「王家の陵墓」という意味です。
そうであれば、誰が何の理由でどなたの墓を此処に造ったのでしょう。
わたしには、7世紀に何処かの古墳を此処に移動したと思えるのですが。

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何もかも不思議で、面白い古墳です。

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# by tizudesiru | 2018-08-31 13:18 | 353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」 | Trackback

「聖徳太子は阿毎多利思比(北)孤ではない」のテーマで歴史カフェ阿蘇

聖徳太子は誰もが知っている歴史上の人物なのに、いつどこでどんなことをしたのか、何処に生れて何処に陵墓があるのか、実際のところ何もわかりません。実在を疑う人もいるそうです。
確かに、「日出処の天子」として隋に国書をだした阿毎多利思北孤と聖徳太子は、立場や記述に大きなズレがあります。しかも、隋書には「有阿蘇山」と書かれていますから、近畿の人ですか? と、疑われますね。
聖徳太子の実在を示すとされる「釈迦三尊像」が法隆寺のご本尊です。この有名なご本尊について考えてみようというのが、8月8日の歴史カフェ・阿蘇でした。
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歴史カフェでは、法隆寺西院伽藍の金堂の本尊、「釈迦三尊像」の光背銘文と、同じく金堂の東の間の「薬師如来像」の光背銘文を読みました。長い間光背銘文の信憑性が問題になってきましたが、最近、三尊像が造仏される時に光背銘文が書かれたという説が、定説となったようです。
此の銘文を「歴史カフェ・阿蘇」で読みました。十数人で読むことができて、よかったです。
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この法皇は誰なのか、それを解く鍵を探したのでした。
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釈迦三尊像は623年(癸巳年)で、薬師如来像は607年(丁卯年)ですから、薬師如来が古いことになります。然し、造仏技術も様式も似てはいるけれど、薬師如来の方が新しいのです。更に、銘文の文言に東宮聖王とか大王天皇とか使用されていますが、それらは後世に使われた称号で、推古朝では使われていないという説がもっぱらです。
すると、なぜそのようなことが起こったのでしょうか。
それは、法隆寺が封戸を止められるという大変な局面に遭遇した時、「太子所縁の寺で用明天皇の為に造られた仏像も安置しているのだ」と、法隆寺が自ら主張したのではないかと言われています。
なるほど、そのような事情があれば、銘文をつくりあげるだろうな・・・

然し
しかも、その銘文が後世の造作であることを示唆するという皮肉にもなるのです。そして、聖徳太子と、アメノタリシホコ(アメノタリシヒコ)は別人であるということも示唆してしまうのです。
銘文が当時の物であれば、銘文の中身は大変な重みのあるものとなりますね。


古いはずの薬師如来に使われた「天皇」「東宮聖王」は、新しい時代の言葉ではありませんか。薬師如来像の造仏技術も様式も新しいそうですから。
ふうむ、すると、やはり後の時代の仏像だと云うことですね。
ブログに「歴史カフェ」の紹介をしていましが、それを読んで大阪から徳永さんが来てくださいました。以前、「歴史カフェ」で紹介した「外道まんだら」(不知火書房)の著者です。大変驚きましたし、はじめてお目にかかりうれしかったです。参加者には初対面の方もいらしたし、懐かしい方もおられました。福岡・菊池・熊本・阿蘇と、様々なところからきてくださいました。

ほんとうにありがとうございました。 

よかったら、8月22日もお出でいただいたら嬉しいです。
熊本県阿蘇郡西原村1805-1です。車は、平田庵というお蕎麦屋さんの駐車場に止めることができます。



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# by tizudesiru | 2018-08-11 22:05 | 353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」 | Trackback

消えた天神社の信仰を「肥後国誌」が語る

熊本といえば、阿蘇山。阿蘇神社の信仰が県内に染みわたっていると思いますよね。
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十年前の阿蘇山、御池に湯が溜まっていました。地震で壊れる前の阿蘇神社の楼門、大変懐かしく思います。これが、横揺れでぺしゃんこになったのでした。

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さて、熊本で人々が古くから信仰したのは、何神社だったでしょうか。阿蘇神社は、大宮司家の氏神でしたから、庶民からは遠かったのでしょうか。
阿蘇一宮1・阿蘇一宮大明神2・阿蘇一之宮1・阿蘇二宮5・阿蘇二宮社1・阿蘇二宮大明神1・阿蘇三ノ宮1・阿蘇三宮社1・阿蘇三宮大明神社3・阿蘇三宮大神宮1・阿蘇四宮3・阿蘇四宮大明神1・阿蘇五社2・阿蘇五社大明神1・阿蘇五宮大明神1・阿蘇六宮1・阿蘇七ノ宮1・阿蘇七ノ宮大明神2・阿蘇十二宮大明神1・阿蘇乙宮1・阿蘇大宮1・阿蘇大神本地1・阿蘇宮12・阿蘇山上宮1・阿蘇山上宮神社1・その他
その数は、全部入れて53か所でした。球磨郡・天草郡は別に編集されているので除かれていました。

では、天神社を見てみましょう。「肥後国誌」の編纂者は、天神社の信仰が今日では失われているとまとめていました。

天子社2・(天)大神宮1・天子天満宮1・天子堂2⇒計6

天社大明神社1・天壐社1・天心社2・天神4・天神宮15・天神社171・天神堂3・その他2⇒計199 索引を載せました。
ただし、上記の数字は、ページを数えたものです。天神社・天神宮は、一ページに数か所掲載されていることが多く、実際の数は、2倍ほどにはなりましょうか。
また、「天神社は、氏神なり」などと、説明のあるものはほとんどなく、ただ祭日が9月15日などとあるのみです。何神を祀ったものか、いつ祀り始めたものか、全くわからないのです、ほとんどが。
然し、天満宮は「宰府より勧請」とか、「誰がいつ勧請した」とか書かれていますので、天満宮と天神宮は似て非なる神祭りなのです。
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流石に天神社関係は多いですね。フム、天満宮も多いです。数えたら173ページもありました。
村の中に、自分たちの氏神として、人は如何なる神を祀ったのでしょう。
知りたくなりますね。
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十年前の阿蘇の五岳です。俵山峠からの写真ですが、この風景は峠越えの道路が完成した時から毎年のように訪れて見続けた絶景です。亡き父母と見た阿蘇の変わらないはずの、幸せな光景でした。
この写真は、東京都生まれの東京育ちというお嬢さんが「故郷を持たない」と言われるので、阿蘇を案内した時に映したものです。この爽やかな風景を紹介した時、十年後のことなど思ってもいませんでしたね。
今さらに、この風景がなつかしいです。時は戻りませんが、記憶とは枯れないものです。
たぶん歴史においても、古代から残された記憶が、今も生きているのでしょうね。

そう思います。



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# by tizudesiru | 2018-08-05 20:02 | 350九州神社の旅 | Trackback

法起寺式と呼ばれる飛鳥時代の寺・法起寺

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斑鳩の三塔は、法隆寺喪五重塔、法輪寺の三重塔、それに法起寺の三重塔です。法輪寺の三重塔は落雷で焼失し再建されました。いずれも聖徳太子と山背大兄にまつわる由来を持つ寺院です。この三寺だけが、塔と金堂が東西に並びます。法起寺式と呼ばれる伽藍様式です。
敷地内は静かですが、世界遺産になって、どうでしょうね? 明日香も斑鳩も外国の人が一人か、二、三人で歩いています。安全なんですね、日本は。 外国では日本人は独りで歩いたりめったにしませんよね。
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現在、三重塔は金堂と東西には並んでいないように見えますね。聖天堂の場所が若干それらしく見えるでしょうか。
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上の写真は、聖天堂と呼ばれている建物ですが、古代には金堂がここに在りました。
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石の並びは金堂跡を示しますから、元は大きな建物だったのです。
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聖天堂の奥に講堂が見えます。
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いつ見ても素晴らしい法起寺の三重塔です。このような建物は飛鳥様式とよばれ、法隆寺・法起寺・法輪寺にしか見られないのです。
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非常に特徴的な建築なのです。
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8月8日(水)に熊本県西原村にて「歴史カフェ阿蘇」があります。万葉集を読む会の主催です。万葉集ではなくて、今回は聖徳太子がテーマです。お知らせだけいたします。
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では、暑い日が続きます。お体をお大切になさいませ。


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# by tizudesiru | 2018-08-02 10:08 | 219法起寺式伽藍は九州に多い | Trackback

纏向遺跡のフイゴの羽口は九州から伝わった

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最近の考古学研究の片寄りに驚いています。
ヨーロッパだって、中国大陸だって、韓半島だって、始まりは小さな国でした。ヨーロッパは都市国家が強大国家となったし、中国は夏や殷の文明国家も滅び周や秦も滅び広大な大地で大小乱れて戦い続けましたし、韓半島の小さな国々は中国の進出に悩み、倭人と手を結びました。
でも、四世紀の列島はいつの間にか、近畿が支配していた?
そんな! ありえません。
そもそも倭人伝によると、三世紀の倭人の国は中国と通じる国は三十か国ほど(九州の国々)だったのが、次の四世紀の始めには近畿が九州を支配していたなんて、不思議です。三世紀半ばまで半島系土器も楽浪系土器も出土しないのですから、近畿には半島との外交はなかったのです。
それが、急に鉄を持ち、武器を持ち、王権が生まれたのです。
なぜですか?
九州からの大移動があったからにほかなりません。
今までは、鉄の技術が九州から伝わったとして、「福岡博多遺跡の鞴(ふいご)の羽口(はぐち)が蒲鉾型(かまぼこがた)になっているものが纏向遺跡から出土していたので、鉄製産の技術は福岡から伝わり、それが吉備地方に伝播した」というのが、近畿の学者の見解でした。
然し、彼らは「九州からの技術は困る」のです。鉄製産技術も鉄も出ない畿内の弥生時代を何とかしたいのですが、九州を除く手段が見つからなかった。
そこで、最近は「鞴の羽口がかまぼこ型になっているのは、粘土がゆがんだからだ」というのです。
 なんですか? 其の根拠は?
わたしの卒論は「焼もの」でしたからわかりますが、粘土の羽口がゆがんでかまぼこ型になることは有りえません。
生乾きの粘土が形を変える場合は、土の重みに耐えかねた時ですから、小さな羽口くらいでは起こりません。高熱で立てておいた土器が曲がることはありますが、横に置いているものがかまぼこ型にゆがむことは、ありません。生乾きの粘土を高熱で熱したら空気が膨らみ爆発するか、ひびが入り、羽口としての役目を果たしません。よく乾かしてから焼くので、小さなものが割れることはほとんどなく、かまぼこ型にゆがむなんてこと、起こりません。
更に、博多遺跡と纏向遺跡、遠く離れた地域で、一斉にしかも同じ形にゆがんだ、というのですか?

冷静に考えてください。有りえません。そこにあるのは、九州の影響を断ち切らんがための意図にあふれた説です。そうではなくて、日本の歴史を日本人の手で解きたいと思いませんか。わたしが大阪に生まれても北海道に生れても、同じことを考えると思います。
なぜ、九州ではいけないのですか?
それは、その後につづく「邪馬台国」近畿説がかかわるのですね。
卑弥呼の宮殿を近畿にせんが為に、考古学が奔走していることは十分に承知しています。然し、嘘はいけません。


だから、発掘もしていない箸中山古墳(箸墓)の溝の木片を分析して、箸墓の築造年代を上げました。弥生時代に箸墓ができたとして、近畿の古墳の年代をことごとく挙げたのです。ついに、古墳時代は四世紀からだと社会科で習ったのに、三世紀からにしてしまったのです。
「奈良大好き女子」の私でさえ、納得できません。
わたしは考古学が子供の頃から好きでしたが、最近、驚き呆れることばかりです。驚いたことに、近畿の考古遺物の考古学的時期が、約100年早くなった、のです。
こんなこと続けていいのですか?
こんなことをしなければならない、若い考古学者が気の毒になったりしますが。
本当のことを求めない人に、同情・同調は、しません。
人生は短いですから、大事に使いましょう。自分の国の歴史ですから、生きているうちに本当のことが知りたいです。
以上

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# by tizudesiru | 2018-07-30 10:35 | 270邪馬台国論争なぜ続くのか | Trackback

玉垂社と黒男社、どちらも武内宿禰をまつる

徳川300年の武士の時代の痕跡、神社仏閣を歩いていると武士の時代の痕跡に出会うのは必然です。日田の玉垂神社にもその痕跡が残るのでしょうか。

ここは日田の玉垂社です。
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筑後川の下流の久留米市には式内大社玉垂宮がありますが、そこからの勧請でしょうか日田にも玉垂社がありました。川岸近くなので、河の民が祀ったものでしょうか。それとも、武士が社殿などを寄進したのでしょうか。
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不思議なことに、同じ神社の敷地に別の神社の名称もあります。黒男社です。

その黒男社ですが、武内宿禰を祀ります。高良玉垂宮も武内宿禰を祀ると云うことですから、共通するという意味かも知れません。
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たしかに、黒男殿社(くろおさましゃ)と書かれた鳥居です。
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大原神社の末社だそうです。大原神社は以前は非常に大きかったと云うことですね。

江戸時代の学者、広瀬淡窓は度々ここに訪れています。黒男社を詠んだ漢詩が石碑として残されていました。
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「雨中、黒男祠に会す」ですから、雨の中に此処に集まったというのです。
「社友、多く至らず」あんまり多くは集まらなかったので、集まった数人はよくよくの友だったのです。そこで漢詩を詠んだのですが、なんと雨の日に学問や遊興ができるとは恵まれた人たちです。

屋根のある立派な神社で漢詩を書いて風流を楽しむことができたのは、支配者階級でしょう。
庶民は学問どころか、雨を見ながら藁(わら)を打ち縄(なわ)や筵(むしろ)でも作っていたのでしょう。廣瀬淡窓の詩を読んで「上手に作っているな」と思い、「庶民は漢字も学習したかっただろうな」と思いました。
武士階級も神社を集まりの場としたのですね。裕福な商家の青年も集まりやすかったのでしょうね、神社には。

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広い境内と、屋根のある建物、小さなイベント会場のような場所でもあったのですね、神社は。

 筑後川が山間から大平野に進出する場所・浮羽・田主丸地域の神社には、宮地岳神社が点々とありました。宮地嶽神社は、水争いやその他の戦いに勝つための勧請だったそうです。祭神に「勝頼大明神」などと、勝の字があるからです。
 昔、集落の人々は、武士に対して命を賭して「一揆」を起こす時にも神社に集まりました。その切羽詰まった状況を神社は見て来たのです。あげく、村の指導者が断罪されてさらし首になるという結末となった後、人々は神社に夜中に集まって哭いたという、そんな歴史が刻まれている……筑後川沿いの神社の多くは黙して語りませんが、日本人が越えて来た過酷な歴史を見てきました。


武士の時代、大きな神社には藩主や領主の寄進が相次ぎました。神社を崇敬し支配体制の安泰を祈ったのでしょうか。それとも、領民の服従を願ったのでしょうか。領民に神仏を崇める信心深い支配者であることを示そうとしたのでしょうか。ほとんどの神社を維持管理していたのは支配者ですから、庶民を統制するために使ったでしょうね、神社を。

神社巡をしながら、ふっと思ったことでした

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今日でも、ここには公民館が併設しているのでしょう。
今は昔、でした。また。


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# by tizudesiru | 2018-07-23 15:02 | 352日田を歩いたら見える歴史の風景 | Trackback

金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡を手に入れたのは、

だんわら遺跡の前の風景、三芳駅と周辺の山
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人家の向うには大きな筑後川が流れているのですが、辺りの土地は川より高いので田んぼに取水できません。それで、古墳群のある丘に穴を何キロも掘って、岡の向うから水を通しているのです。渡辺さんの御先祖の努力の結果の田んぼが、目の前にあります。
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今は水の出口をコンクリートにしておられます。岡を挟んで両側から穴を掘って、ほぼ1mほどの誤差で合流したのだそうです。驚きの技術です。
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田んぼに水を引くという情熱が、確かに昔はあったと思います。家族を飢えさせないために、村の男たちが命がけで用水路を掘った話は、筑後川沿いに点々とあります。昔は、大川・千歳川とよばれた筑後川も田圃を潤す有難い川ではなかったのです。何度も洪水で河床を変える暴れ川でした。ですから、洪水が終わったら流れが変わって、村が分断されていたことが、記録が残るだけでもずいぶんありました。

「この水のおかげで田植えができる、ありがたいです」と、渡辺さんは言われました。凝灰岩に彫られたトンネルから水がゆったり流れていました。
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倉には「こて絵」がありました。水が豊かな暮らしをもたらしてくれたのでしょう。
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この崖に掘られた横穴墓を見て、昔の人が同じように崖を掘れば水が引けると思ったのでしょうね。
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金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡には、「長・宜・(子)・孫」の四文字が刻まれ、金、銀・貴石がちりばめられ、龍紋、渦巻き紋で飾られ、いずれも漢王朝の象徴的な紋様だそうです。この鏡と同時に「貝製雲珠(かいせいうず)」と「鉄製貝装辻金具」が出ています。真珠光沢の貝を螺鈿(らでん)に細工したものです。
中国漢代の物で、三芳の刃連(ゆき)町には、靫負(ゆげい)日下部氏が居たとの記録があるそうですから、その関係の墓なのでしょうか。

いずれにしても、馬具である雲珠(うず)や辻金具(つじかなぐ)を伴う石棺から出た鉄鏡ですから、古墳の主は5世紀以降の人です。横穴墓群は近隣の前方後円墳と連動して造られる例が多く見られるので、その被葬者は同じ氏か、共同体つながりか、だんわら古墳といずれにしても無関係ではないでしょう。

また、馬具が副葬される古墳は5世紀からで、それが石棺からでたのであれば、倭五王時代と重なります。日田に邪馬台国があったという説がありますが、すくなくとも「だんわら遺跡」の鏡の被葬者と邪馬台国時代は時期が違うと思います。
倭五王時代の被葬者の鏡だと考えて、周囲の古墳群を見直したがいいと思います。朝倉市の古墳群とのつながりなど有りますからね。
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久大線の線路からだんわら遺跡を見ても、横穴墓群のそれらしい風景すら探すことはできません。


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# by tizudesiru | 2018-07-22 22:18 | 352日田を歩いたら見える歴史の風景 | Trackback

だんわら古墳のこと、聞いたことがありますか

だんわら遺跡とか、だんわら古墳とか、聞いたことありますか。
1933年、国鉄久大線の豊後三芳駅付近で盛り土を採集している時、石棺が出土し、その中から鉄の鏡が出土しました。金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)と呼ばれる鏡で、発見者の渡辺音吉氏が小学校に寄付展示していたら、盗まれたのです。
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(だんわら古墳は、二軒の家の間に電柱がある辺りの後ろ)

それが古美術商に持ち込まれて売りに出されたので、再発見となりました。さび止めのつもりで鏡にまぶしていた石灰が残っていたので、盗品の鏡の決め手になったのでした。そんなエピソードを持つ鉄鏡ですが、国の重要文化財に指定されています。
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発見者の音吉さんは、平成まで生存され、百三才で往生されたのだそうです。ちょうど、農作業をされていた音吉さんの家族の方に案内をしていただいて、遺跡だったという裏庭に行きました。

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裏の丘陵は古墳群です。凝灰岩の壁に彫られた横穴墓が見えています。この横穴墓とだんわら古墳がセットで存在したのなら、古墳の時期は或程度推し量れるでしょうね。
渡辺さんの家族の方のお話だと、崖の前に少し空間がありその辺りに石棺があったのだそうです。すっかり土が持ち去られて、古墳らしい面影は有りません。

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発見者の渡辺さんによれば「石棺からは鉄鏡と同時に鉄刀、轡(くつわ)が出土し、碧玉製管玉・水晶切子玉・ガラス小玉なども出土した」そうです。日田市から出土した帯の金具(上の写真)である金錯鉄帯鉤(きんさくてったいこう)3点も、同じ古墳から出土したということも云われています。
こんな貴重なバックルを副葬する人は、どのようにして権力を手に入れたのでしょうね。
続きは、また明日。



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# by tizudesiru | 2018-07-21 23:43 | 352日田を歩いたら見える歴史の風景 | Trackback

日田の山間に高住神社がありました

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高住神社は、山の中にポツンとありました。鳥居をくぐり階段を登ると磐座がありました。
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岩を穿ってお堂が建てられていました。辺りには人家も無く、何を願って人は此処に社を造ったのでしょうか。
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こんな岩の中にいらっしゃる神様はどなたでしょう。
切り石を加工して造られた祭殿は、古いものではないでしょう。然し、木で作られていたものが石に代えられたのでしょうから、それなりの時間は経っていそうです。岩は凝灰岩だと思います。
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高住神社という名称から考えると、英彦山修験道の神社ではないかと云うことでした。高住神社とは英彦山北岳の登り口に在る神社ですが、ご神体は豊前坊です。北岳ではなく、北岳の隣に林立する岩山のことです。
江戸時代は英彦山にはあまたの寺社や宿坊があって、明治になるまで神仏習合の拠点だったのです。しかし、明治以降、かっての賑わいどころか、茶店が若干あるばかりです。
文化の破壊とは、こんなことを云うのでしょうか。


この高住神社は凝灰岩の磐座のようですが、他の磐座はほとんど花崗岩でした。
船石権現とか
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神在の大石とか、
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太田宮の磐座とか、
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どれも見事な花崗岩でした
すると、この高住神社の信仰は、磐座信仰とは別のものかも知れません。
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そうだとしても、小屋が建てられていますから、ここに通って参詣する人が沢山いるということですね。山の中に通う強い信仰があるのです。

では、また。

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# by tizudesiru | 2018-07-20 20:45 | 350九州神社の旅 | Trackback

奥野正男かく語りき「邪馬台国論争に参加しない」

邪馬台国が何処かと言う論争に、わたしは参加しないのです。十人いたら十の説があるのです。人はそれぞれだから、わたしはそれでいいと思っている。それより大事なことがありますよ。
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(飯塚市・遠賀川) 
大事なことは…と、奥野先生はポツリポツと常に噛みしめるように話をされます。何度も話されたことですから、「もちろん。あたりまえ」と受け止めていました。
 然し、よく考えてみると非常に重たい言葉です。わたしも忙しくて聞いたことをすぐに忘れてしまうので、書いておきたいと思いました


戦後、急に自由になったのではない
「邪馬台国論争で思う事だけど、論争ができること、それ自体が非常に大事なことで、十分に発言できるようになって時間がさほど経っていない思うので、非常に大事なことです。戦後、自分たちの国の歴史について話ができるようになっても十分に自由ではなかった。日本人が自分たちの歴史をどう考えるか、どう表現するか、それが邪馬台国論争の大事なところだと思うのです。」


「天皇制がどうだとか言うのではなくて、その事に触れることさえできなかった戦前の不自由な生活の後に、急になんでも話せるようになった。それは、日本人にとって衝撃的な出来事だった。それまで考えることもできなかったことが、言えるようになったと云うことです。明治以来の天皇絶対の教育を受けて来た日本人にとって、踏み込めないところに踏み込めるようになっても、それで急に自由に書いたり言ったりできるようになったわけではないのです。」

確かに、先生が言われるように、戦後、言論の自由と言われても日本人がすぐになんでも喋り書けるようになったわけではないでしょう。バケツに絵の具を一滴落としても、色は出ません。戦後生まれの人は「もう戦後ではない」と言われた昭和四十年代以降に大人になった人たちです。でも、戦前を引きずる人々が教育したのですから、過去と切り離された人々ではありません。

武士は人殺しの道具を腰にさして歩いていた

「明治になった時、世の中は非常な変化だったでしょう。しかも、明治の前の江戸時代、徳川の幕藩体制は三百年も続いていたのです。武士と云う存在は、戦国時代を経て武力で人々を押さえたのです。武士は庶民を斬り殺すことができる特権階級で、常に人殺しができる刀を腰にさしていたのです。
 藩が潰れて主人を失っても、武士は浪人となっても刀を腰にさし、それを離さなかった。そういう人が、同じ空間を歩いていて、一方だけが相手を殺すことができたという社会だった。それが三百年続いた。その中で、日本人は生きて来たのです。日本人が生きて来た三百年の江戸時代という歴史は、日本人の形成や生活の中に大きな意味を持ち、隅々にまで浸透しているのです。
 この事は、日本人を考える上で重要だと思うのです。」

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そう云えば、テレビから「昭和顔」だとか、「昭和的な街並み」という言葉が流れます。その言葉の度に「昭和じゃいけないの? 古いということ?」と反射的に思います。過去が残るのは当たり前で、歴史はある日突然変わったりしないのです。
日本人が自分の国の歴史について考えたり喋ったりするようになったことが、その事が重要なのだと、わたしは思う。だから、わたしは邪馬台国論争に参加することをしなかった。」


ホントにそうでした。いろいろ出て来た段階ですね、今、現在は。そして、AIや、学者や、一般の歴史家が、こぞって検証するのですね。
その結果を、新しい世界が日本人にもたらしてくれる恩恵「歴史の真実」に期待したくなります。

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(天照神社の川岸から見る遠賀川)
奥野先生のお話を7月22日(日)曜日に聞けます。先生も85歳前後の御歳を重ねられています。御一人での講演という形ではなく、質問に答える形式で「古代史セミナー」をされるそうです。先生のご健康とご健闘をお祈りしいたします。

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では、また。


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# by tizudesiru | 2018-07-20 00:27 | 270邪馬台国論争なぜ続くのか | Trackback

大原神社の元宮を訪ねました

守りてもいなくなった宮地嶽神社
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宮地岳神社は社も壊れてしまい、今は小さな社が跡地を示しています。今は、大原神社の摂社になっているようです。
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日本の神社は、かっては地域の拠所であり結束を深める場でもありました。然し、守る人も集まる人も絶えて行き、社は朽ちて行きました。これから20年もたてば、更に祭の場は無くなるのでしょうね。

宮地岳にお詣りして、元大原神社に行きました。地名もそれらしい「神来」です。
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何度も遷座した大原神社でしたね。ここから現在地の田島の大原神社に遷座したので「元大原神社」と呼んだのだそうです。元の神社跡が守られるのは珍しいと思います。
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社殿は覆い屋で守られていました。ここは750年間も社地であったのです。
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750年前と言えば、鎌倉時代が始まった頃です。いろいろなことがあったのです。

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# by tizudesiru | 2018-07-17 20:15 | 350九州神社の旅 | Trackback

日田の総社・大原神社の1300年の歴史

大分県・日田市の大原神社に行きました
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何度か参拝した神社でしたが、宮司さんのお話を聞いたのは初めてでした。

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此の神社は、郷社や村社などのように氏子を持たない神社です。日田盆地の山際に鎮座するのに、所在地は日田市田島一丁目となっています。
祭神はホムタワケ命、大帯姫(オオタラシヒメ)命、比売大神
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『大原神社の起源は、天武天皇白鳳9年(680)、靫負郷岩松峰(日田市天ケ瀬町金場の北)に、宇佐の鷹の居にいます神と名乗る神が現れ、社(鞍尾形の宮)を立てて祀ったのがはじめである。

慶雲元年(704)、杉原の杉下に髪が降りて神がかり、「岩松のの嶺の神」を名のって、杉原が便宜よいので此処に来たと告げたとして、社を立てて祀ったというのが大原八幡宮の前身である杉原宮である。

貞観13年(871)もしくは仁珠念(852)に、当時日田郡司であった大蔵永弘によって、杉原から現在の元宮に遷座され、宇佐神宮より橋本公則を迎えて社司としている。

建久4年(1193)、九州探題大友能直が、東の総社を柞原八幡宮、西の総社を大原八幡宮として鎌倉鶴岡八幡宮の参拝礼式に改めさせたといわっる。

更に、元和10年(1624)日田永山城主石川主殿守忠総により、元宮から現在の位置に遷座された。その際社殿形式に八幡造を用いている。』
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記録に在るだけでも、五度の遷座遷宮が行われたというのですね。
大きな神社は何処も所在地をどんどん変えますから、古代の祭祀線はひけません。

筑後川流域には、久留米市にしても、創建に天武天皇や高市皇子がかかわる神社がありますね。特に天武朝と筑後川流域は関わりが深いのでしょうか。

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大原(大波羅)神社は、広い境内に摂社末社が沢山ありました。
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本殿の真後ろには、大山祇神社がありました。本殿のご祭神にお詣りすると、この神様も一緒に拝むことになるのですね。

珍しい所では、昭和10年(1935)に就役した大日本帝国海軍の最上型重巡洋艦「三隅」の船の上に祀っていた神社は、此の大原神社から分祀されていたと云うことでした。艦名「三隅」が、日田盆地を流れる三隅川に因むと云うことから大原神社が艦上で祭祀する神社に選ばれたのだそうです。

その記念碑がありました。大きな神社は、政治と時代の変化をもろに受けているのです。

では、
天武天皇白鳳9(680)年に何があったのでしょう。特に天武天皇が神力を頼むことがあるとしたら。
 678年(十市皇女急死・筑紫大地震)680年(橘寺火災・金光明経をはじめて宮中で講ずる・皇后の病回復のために薬師寺建立を発願)こうしてみると、皇后の回復を願って、神社建立の発願となったのですかね。それに、筑紫大地震も大きな衝撃だったことでしょう。護国神祭祀も当然です。

文武天皇慶雲元年(704)年、この年はどうでしょう。702年12月に持統太上天皇崩御。翌年は喪に服したでしょうから、年が明けて五月に改元し、文武天皇は心新たに祭祀を始めたかったのでしょうか。

貞観13(871)年、には何があったでしょう。
 869年(陸奥貞観大地震)・870年(大宰少弐藤原元利万呂ら反乱を企てる・上総国で俘囚が反乱)871年(貞観式を頒布)未曾有の大地震・貞観大地震で日本中が震撼としたのかも知れません。民の不安も高まっていました。やはり、天変地異は大きく祭祀に関わるのですね。

建久4(1193)年、これは言わずと知れた政変の後です。
 1192年、源頼朝が征夷大将軍となっています。世の中が大きく変わった後です。神社も次の政治体制に順応しなければならないでしょうね。

元和10(1624)年、これは江戸時代ですね。
 1623年(徳川秀忠、征夷大将軍を辞職し、家光が任じられる)この数年前からキリシタンの取り締まりが激しくなり、宣教師らが多数処刑されています。江戸幕府が政治基盤の安定に奔走していた時期ですから、神社もそれに倣ったのでしょうか。


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赤ちゃんの産毛を治めて無事に成長することを願った祠です。
人々の願いも受け止めながら、大きな神社は生き残って来たのでしょうね。


大変でしたね。


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# by tizudesiru | 2018-07-13 16:19 | 350九州神社の旅 | Trackback

新田神社の末社(みささぎ神社)は誰の墓なのでしょう


不思議な神社を訪ねて鹿児島に行きました


地元の女性に案内してもらって、次に行った祠も細い山道を少し登った先に在りました。

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新田神社の末社で中陵神社です。瓊瓊杵尊の妃の陵墓だとか…

神社の階段を登ると全て石で造られた祠がありました。
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ここ、中陵と呼ばれる神社は、明治に石造りになったのです。どうやらお墓の上に建てられた社のようです。社の横の空き地が石柵で囲まれ、意味深な石が置かれていていました。
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江戸時代にはこの場所が守られていたという証の石塔ですね。
本当は誰の陵墓なのでしょう。陵とは、高貴な方の墓をいいますからね。
さて、この小丘の隣にも岡があり、同じような社がありました。
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此処も中陵神社で新田神社の末社でした。先ほどの石祠と同じような祠がありました。
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両者は同じ時期に同じ工人の手によって造られたのでしょうか。どういうわけか、由緒などすべて削り取られていました。どうしたのでしょう。何かあったのでしょうか、不都合なことが。
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この空白に、歴史の転換期があったのです。こんなことを書き残してはいけないとか。
ここは、新田神社の裏手に当たりますし、末社になっていますから、神話の世界に関係する女性のことが書かれていたのかも知れませんね。
では、また。

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# by tizudesiru | 2018-07-10 10:16 | 350九州神社の旅 | Trackback

天火明命を祀る川合陵神社にいきました

地元の女性に不思議なところに案内されました。川合陵(かあいりょう)神社です。え?川合陵?
川合陵神社に行きました。

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雨が降っていましたが、薄暗い道を通って山の中の小さな祠につきました。
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案内板がありました。
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川合陵神社(薩摩川内市五代町羽田=旧高城郡水引郷五代村中尾崎)
ご祭神  天火明命(あめのほあかりのみこと)
由緒  川合陵神社は御稜殿とも称され、新田神社のご祭神瓊瓊杵尊の皇兄、天火明命が祀られています。創祀の年月は詳らかならずといえども往古より冠山と呼ばれる高さ二十メートル、周囲五百メートルの山の麓に御鎮座されています。社殿の西方道路を隔てたところにチョッポリ岡といわれる小丘があり、土地の人はこの岡を御祭神の墳慕として以前は木柵を設けて陵域を護持していました。又この丘の頂に立つと不思議な音響がきこえてくるとされ崇められています。社殿の前には御手洗池と呼ばれる小池があり、神社境内には文化年間の石灯籠があります。現在の社殿は嘉永年間に作られました。
          平成十八年 川江みささぎ会
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何とも意味深な言葉が並んでいました。案内板に在るチョッポリ岡は、祠から20mほど離れたの土手のような場所です。
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チョッポリ岡は自然の丘のように見えましたが、たしかに独立した小丘です。
川合陵神社とチョッポリ岡の間に道路と沼がありました。
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沼には葦が繁茂していました。この片側だけ葉のついた葦は、スズテツが取れる湿地に生えるのだそうです。だから、ここは古代鉄製産と関係があるんじゃないかとNさんが云っていました。

ふうん、そうなんですか。と素通りしましたが、全く変なところに天火明命の墓があるのですね。
それにしても、意味深な場所に冠岳がありますね。熊本でも宮崎でも鹿児島でも、冠岳が多いのですが、それは同じような時期に同じような文化を持った人たちがそこに住んでいたと云うことでしょうね。
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では、また。


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# by tizudesiru | 2018-07-09 11:25 | 350九州神社の旅 | Trackback

菅原道真は生き延びたのですか?藤川天神の由緒

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鹿児島の菅原神社に行きました。藤川天神と呼ばれている神社です。
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なんと、道真の墓所もあるそうです。
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お詣りさせていただきました。
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裏山は急だったので杉が伐られていました。土砂災害を防ぐためでしょうか。
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一旦神社の鳥居を出て、伝「道真の墓」へ行きます。鳥居の左手近くです。
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それらしい証拠を見つけることはできませんでしたが、小さな盛り土を信じる他ありません。この10mほど先に、また別の墓がありました。
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白太夫(しらたゆう)の墓でした。道真の寵臣として仕え、終身仕えてこの地に没したというのです。
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次に、道真の妻子がはるばる訪ねて来たという伝承の地へ行きました。
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祠は崩れて撤去されたのでしょうね。案内板のみが在りました。
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道長の伝承は、どこどこまでも不思議です。人はなぜこの人に心寄せるのでしょう。
恵まれた才能があったのに、不遇だったからでしょうか。

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梅が香る頃、お出かけください。

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# by tizudesiru | 2018-07-07 14:27 | 350九州神社の旅 | Trackback

鹿児島の新田神社に行きました

新田神社に行きました
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この階段を登ると、途中に広場があります。もともと社殿はそこにありました。

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高倉天皇は、源平合戦で壇ノ浦に入水された安徳天皇のお父さんですね。この広場には多くの摂社が残されていました。
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此処の高良神社のご祭神は天鈿女(あめのうずめ)となっていました。さて、広場からまた階段を上ります。
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はい、ここが「天津日高彦火瓊瓊杵尊」の神社です。祖母の天照大神は伊勢に、父の天忍穂耳尊は英彦山に、ニニギ尊は新田神社に祭られたと書かれています。
明治維新で功があったと自負する鹿児島に、ニニギ尊が祀られているのですね。
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子だき狛犬を見て、本殿にお詣りいたしました。
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それから、可愛(えの)山稜に行きました。本殿の裏あたりになりましょうか。
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本殿の裏に回るために少し階段を降りました。

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此処が可愛山稜です。

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ニニギ尊は此処に眠られているのでしょうか。
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# by tizudesiru | 2018-07-06 00:13 | 350九州神社の旅 | Trackback

蘇我氏の出自・彼等は何処から来たのか

527~8年、「筑紫君磐井の乱」と

531年の辛亥の変で、倭王の一族は滅びました。


それは、墓制の変化(石棺が消えていく)ことで紹介してきました。
此処で、「筑紫君一族は何処へ逃げたのか」と書くと、筑紫君磐井の一族がこぞって九州を逃げ出したことになります。しかし、そうではありません。たとえば天智十年(671)、白村江敗戦後に熊津都督府から派遣された郭務宗と共に帰国した「筑紫君薩野馬」がいます。天智十年までは、筑紫君という姓はあったのです。

 すると、筑紫君一族は北部九州の管理者として存続し、百済救援軍として海を渡っていたことになります。(この時、筑紫君薩夜麻を帰国させるために尽力したのは、上陽咩(かみつやめ)郡の大伴部博麻(おほともべのはかま)でした。大伴部博麻は倭国の危機的状況「唐が倭国を襲撃する計画」をいち早く知らせるために我が身を売ってその資金で薩夜麻を倭国に返したと書紀に書かれています。筑紫君の本拠地として、福岡県の筑後地方八女辺りが残っていたのです。)
今日は、
九州から石棺が消えたのに、近畿には石棺文化が入っています。そこで、彼らは何処から来たのかを考えたいと思います。

で、今回は蘇我氏の出自、彼らは何処から来たのか、です。
わたしは九州から移動したと思っています。

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蘇我氏と言えば、物部氏と対立し仏教を受け入れたことで有名です。物部氏は九州よりの移動伝説を持った氏族ですが、蘇我氏も九州から移動したという痕跡はあるのでしょうか?
蘇我氏は、武内宿祢の末裔だと「尊卑分脈」に書かれています。

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蘇我氏の祖が日本書紀に現れるのは、応神紀(15代天皇)の武内宿禰からです。
『尊卑分脈』の出自を見ましょう。
孝元天皇(8代)の皇子・彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)から蘇我氏は始まります。彦太忍信命の母は、伊香色謎命(いかがしこめのみこと)です。孝元天皇のですから皇后に次ぐ身分の女性です。

*伊香色謎(いかがしこめ)命は、崇神天皇(10代)即位前期に『物部氏が遠祖・大綜麻杵(おほへそき)が女(むすめ)」とあり、古事記では『内色許男(うつしこを)の女』ですが、饒速日の五世孫・伊香色雄の後と書かれているのです。物部氏とも関係が深い女性なのです。
*孝元天皇(8代)の妃・伊香色謎命は、開化6年正月に開化天皇(9代)の皇后になりました。開化天皇は父を墓に納めた後に、継母(父の妃)を皇后にしたのです。皇后となった伊香色謎命は、崇神天皇(10代)・御間城入彦五十瓊殖(みまきいりびこいにゑ)天皇を生みました。

 さて、彦太忍信命の母のことは了解ですか? 母は物部系の血統も持った人でしたから、古代には血筋の高貴な女性が次の後継者を生むと云うことになっていたのでしょう。皇子の彦太忍信命は、前天皇の息子であり、次の天皇の義理の息子であり、さらに次の天皇の同母兄となりますね。

彦太忍信命は、これ武内宿禰の祖父なり(孝元天皇紀)

武内宿禰といえば、九州と所縁の深い人ですね。

彦太忍信命から屋主忍男武雄心命(やぬしおしをたけをこころのみこと)、その子武内宿禰、その子の石川宿禰から蘇我満智(そがのまち)宿禰とつながっています。

では、屋主忍男武雄心命を書紀でさがします。
景行天皇(12代)の三年、紀伊国に行幸して占いをしたが吉と出なかったので、
屋主忍男武雄心命が派遣されました。屋主忍男武雄心命は紀伊国で神祭りをして九年留まり、紀直(きのあたひ)の遠祖・菟道彦の娘の影媛を娶り、武内宿禰を生んだと、景行紀にあります。そこは、紀伊国でしょうか?

佐賀県の武雄市には武雄神社があります

武内宿禰を祀る神社は、圧倒的に福岡が多いのです。続いて大分・佐賀・和歌山の順になり、福岡は大分の2倍、佐賀の4倍、和歌山の10倍です。奈良の40倍以上の数になります。
特に、佐賀県武雄市には、武雄神社があり武内宿禰を主祭神とし、神功・応神・仲哀天皇と父の武雄心命を祀っています。
また、武雄市には、武内宿禰の母・山下影媛を祀る神社もあります。やはり、九州と所縁の深い人になります。


武内宿禰の母も、紀伊国(和歌山)の人と言うより基山のある基肄国(佐賀県)の人だったのではないでしょうか。

日本書紀も古事記では「孝元天皇」のところで、多くの氏族の祖が分かれたことになっています。案外、孝元天皇が倭王と重なるのかも知れませんね。ちなみに、皇子達は、大毘古命・少名日子建猪心命。若倭根子日子大毘毘命、彦太忍信命、建波邇夜須毘古命の五人。
孝元天皇の皇子から出た氏族は、書紀では「安倍臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造越国造・伊賀臣 など七族の始祖」と書かれています。

武内宿禰の子孫たち(古事記)
羽田矢代宿禰⇒波多臣・淡海臣・林臣・波美臣・星川臣・長谷部臣
許勢小柄宿禰⇒巨勢臣・雀部臣・輕部臣
平群木菟宿禰(平群都久宿禰)⇒平群臣佐和良臣・馬御樴連
石川宿禰(蘇賀石川宿禰)⇒蘇我臣・川邉臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣
紀角宿禰(木角宿禰)⇒紀臣(木臣)・都奴臣・坂本臣
葛城襲津彦(葛城長江曾都毘古)⇒玉手臣・的臣・生江臣・阿藝那臣
若子宿禰⇒江野財臣
女子は、久米能摩伊刀比売、怒能伊呂比売、の二人です。
武内宿禰は、色々な氏族の祖となっています。

と云うことで、蘇我氏に戻りましょう。

履中天皇(17代)紀二年に、蘇我満智宿禰が平群氏・物部氏・円氏と共に国事に携わっています。突然、国政に参画したのでしょうが、何の力もなくてはできません。この頃の蘇我氏にできて、他の氏族にできなかったこと。それは、『古語拾遺』にも書かれているように「三蔵を検校すること」、帳簿をつけること・数字を読み書きすること、計算すること、ですか……財政を握っていたようですね。


ちなみに三蔵とは、斎蔵=祭祀に関わる財源、内蔵=王家の生活に関わる財源大蔵=国政に関する財源、と云うことです。財源がなくては何もやれませんから。

その辺りは、また今度。



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# by tizudesiru | 2018-06-22 00:33 | 349筑紫君一族は何処へ逃げたのか | Trackback

石舞台は家形石棺・九州では石棺文化が消えたのに

石舞台古墳(蘇我馬子の墓)に家形石棺があった
九州の古墳から家形石棺・舟形石棺は消えました。然し、近畿には阿蘇石の石棺が出現します。普通に考えれば、故郷の墓制を持ち込んだのではありませんか。つまり、九州に所縁のある人が移動したということです。
あの石舞台古墳にも家形石棺がありました。
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(石舞台古墳・明日香村)
しかし、蘇我氏の家形石棺は「妻入横口式家形石棺」ではありません。密封型の刳抜式家形石棺(くりぬきしきいえがた石棺)です。つまり、筑紫君一族の直系ではなく、どうやら熊本県中南部の宇土半島の基部近くの系統のようですね。「畿内系刳抜式家形石棺は、本来宇土半島で5世紀後半に造られていた刳抜式舟形(くりぬきしきふながた)石棺の系譜を引くものであり、近畿地方の古墳時代後期の指標となるものである。」と新宇土市史に書いてあります。
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(石舞台古墳の石棺・石室に残された凝灰岩をもとに復元されている)
この復元は妥当なのかを、近くの都塚古墳(蘇我稲目の墓とされている)の石棺と比べましょう。
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確かに、縄掛突起(なわかけとっき)もある家形石棺です。
では、飛鳥から山田道を通り阿倍山を見ましょう。蘇我山田石川麻呂(持統天皇の祖父)とならぶ左大臣・阿倍倉橋麻呂の本貫の阿部山丘陵にある艸墓(くさはか)古墳の石棺を見ましょう。
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ここも、巨石の石室なのですね。その石棺は家形です。
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全て、既に紹介した写真です。
いま、考えているのは、この家形石棺のルーツがやはり熊本であれば…被葬者のルーツも熊本ですか、ということです。
推古天皇の改葬前の墓とされる植山古墳に熊本県宇土半島の馬門石(まかどいし)製の家形石棺が出土しています。二つの石室のうち、一方だけ石棺が残されたようです。屋根の部分が割れたので、そのまま残されたのでしょう。(下の写真)
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(「新宇土市史」の写真をデジカメで写したもの・馬門石製の家形石棺)
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馬門石と言えば、まさに熊本県宇土半島の阿蘇溶結凝灰岩・ピンク石です。

これらの家形石棺は、熊本の支配地から王権への献上品とされています。ですが、まだ、大化改新(645年)前の王権にです。中央集権ではない、公地公民の決まりもなかったころ、王権へ献上とは違和感があります。まだ、筑紫大宰もありません。王権にすれば、何の所縁も無い遠い田舎の石棺を永遠の眠りに使う意味は特にないはずです。

推古天皇は蘇我系の天皇で、蘇我馬子が大臣でした。その二人は、九州にルーツを持つ家形石棺と縁が深いのです。
推古天皇と蘇我馬子や稲目との共通点は、蘇我の血統以外にありません。蘇我系の人は家形石棺を用いた、それも熊本の鴨籠(かもご)古墳の石棺のように石棺には出入口がなく密封されている形式にした、ということです。
同族だったのではありませんか?
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石舞台古墳をラインで読みましょう。
石舞台古墳は、蘇我蝦夷や入鹿の墓とされる小山田遺跡・菖蒲池古墳を通り見瀬丸山古墳(真の欽明陵という)に届きます。なかなか意味深です。

蘇我氏は九州系の人である、すごく言いにくいことですが。然し、どう考えても見直してもその事は事実です。
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「八代市立博物館未来の森ミュージアム」の資料「火の君、海を征く!」から上の部分をデジカメで写しました。菊池川流域と宇土半島周辺の石材の移動が分かりますね。
ここまでにします。
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# by tizudesiru | 2018-06-15 21:00 | 349筑紫君一族は何処へ逃げたのか | Trackback

古墳から石棺が消える時、筑紫君は衰退した

舟形石棺・家形石棺がともに消えた理由は何か
それは、一地域だけの問題ではなく北部九州・中九州の石棺文化圏で起こりました。大きな変化があった証拠です。例えば、明治になってキリスト教が解禁されたから、十字架の墓も造られるようになりました。つまり、政治的な背景が墓制に変化をもたらす要素になると云うことです。
考えてみると、九州では弥生前期・弥生後期・古墳前期・古墳後期と墓制の変化がたびたび起きました。
佐賀県をみると、弥生時代には脊振の北唐津側(菜畑・宇木汲田・桜馬場遺跡)や、吉野ケ里のある南でも甕棺文化が栄えました。
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そこに石棺文化が入り込み首長墓は石棺となりました。
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佐賀県立博物館のパネルを見ると、圧倒的に有明海側に古墳が集中しています。ここが古墳時代の中心地だったのです。もちろん、海岸線もぐっと内陸に入っていました。
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が、そこへ横穴式石室に死床を持つ古墳が現れ、やがて巨石を積んだ横穴式石室が出現します。そこには壁面装飾がありました。
佐賀神崎の伊勢崎古墳(6世紀半ばころ)には、赤い円文が描かれていたそうです。装飾古墳が密集するのは、熊本の菊池川流域でした。熊本とのかかわりは当然ありました。佐賀県は、もともと火の国(肥の国)で、飛鳥時代に肥前と肥後に分かれたのです。肥国は、大きな国だったのです。
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(佐賀県神埼町の伊勢塚古墳・前方後円墳78m)
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伊勢崎古墳は、巨石の横穴式石室です。さて、この巨石文化の発祥は何処でしょうね。
石人山古墳・浦山古墳・乗場古墳・谷口古墳、石室はみんな小口の割石でした。それが、巨石の古墳に変わっていったのです。

これも以前に紹介しています。
カテゴリ「128倭国の墓制」倭国の墓制・家形石棺は熊本で発祥

カテゴリ「129?国の墓制・巨石横穴墓」俀国の墓制は巨石横穴墓か


今回は、佐賀でも墓制は熊本や福岡と同じように変化していったこと。舟形石棺・家形石棺ともに消えた行ったと云うことを紹介しました。このブログで何度も書きましたが、倭国は熊本がルーツであると云うこと。その倭国内の権力争いが磐井を滅ぼし、巨石横穴墓をもつ勢力に淘汰されたと云うことです。(それも、熊本と豊前が合体した勢力と思います。)
今日は、ここまでにします。
さて、衰退した筑紫君一族、一部は九州に残ったようですが、九州を追われた彼らは何処へ逃げたのでしょう。

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# by tizudesiru | 2018-06-14 15:54 | 349筑紫君一族は何処へ逃げたのか | Trackback

筑紫君一族の古墳文化は突然失われた

筑紫君磐井の墓とされる岩戸山古墳は、被葬者が特定される唯一の古墳
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(岩戸山古墳の別区の石人・その一部が展示されている。風土記によると、盗人が裁判にかけられている様子が石人たちで表現されていたようである。)
岩戸山古墳と言えば、石人石馬がすぐに思い出されます。岩戸山資料館のパネルには筑紫君一族のシンボルと書かれていました。
『5世紀前半頃、初代筑紫君と思われる石人山古墳の被葬者は石人に象徴的な意味合いを見出し、同族結束の証として石人を用い、視覚的にも結束を再確認することを目的として古墳祭祀に採用したものと考えられます。石人石馬は筑紫君一族のシンボルであり、有明海沿岸を拠点とする豪族たちのシンボルでもあったでしょう。』(資料館のパネル)
では、石人を持つ熊本の菊池・山鹿市周辺(清原古墳群・臼塚古墳・フタツカサン古墳・チブサン古墳)や八代海周辺(姫ノ城古墳・富ノ尾古墳・石ノ室古墳)などの古墳の被葬者も一族と考えていいのでしょうね。
また、八女丘陵の石人山古墳は妻入横口式家形石棺(つまいりよこぐちしきいえがたせっかん)で、そこに直弧文がありました。

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直弧文(ちょっこもん)も首長が用いた文様でしょうね。岩戸山古墳はまだ掘られていませんので、石棺があるかどうかは分かりません。しかし、石製の古墳装飾品の刀の勾金(まがりかね)に直弧文があります。
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勾金(まがりかね)とは、刀の束に用いられた飾りのようなものですが、そこに直弧文が装飾されています。このように石棺と石製装飾品が特色だった筑紫君一族の古墳文化が突然消えました。
磐井の乱(527年)で、筑紫君磐井は破れました。その後、磐井の墓は破壊されたのでした。
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古墳の築造の説明板をみると、6世紀に入り岩戸山古墳が築かれました。次が乗場古墳になりますね。この古墳は岩戸山古墳のほぼ隣にありますが、そこに石棺はありません。(下の写真・乗場古墳と久留米の寺徳、西館古墳)
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石棺はどこかへ持ち去られたのでしょうか。破戒されたのでしょうか。それとも、造られなかったのでしょうか。石人石馬も同時に姿を消したようです。
それは、八女丘陵ばかりではなく、佐賀の久保泉でも、久留米でも、熊本の八代海周辺でも連動して消えたと思います。と云うことは、単に筑紫君磐井一族の衰退という問題ではなかったと云うことです。大きな権力の交替があったので、墓制が変わった…

すると、筑紫君一族は、倭王権の一部だった可能性がありますね。
では、筑紫君の王権に代わったのは、何処の勢力でしょうか。日本書紀に云うように、継体天皇なのでしょうか。
それは、また、今度。


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# by tizudesiru | 2018-06-13 12:00 | 349筑紫君一族は何処へ逃げたのか | Trackback

倭王国の興亡を年表で読む・七支刀と稲荷山鉄剣の年代

邪馬台国・伊都国・奴国などの小国が、倭国になった?
そもそも、三世紀の邪馬台国の時代は小国が沢山ありました。それがいつ倭国にまとまったのか。これまでも繰り返し書いてきました。それを、年表で見直してみましょう。以前にも紹介した年表です。倭・倭女王・倭国・倭軍・倭人と、いろいろ書き分けてあります。
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百済の成立は346年、新羅の成立は356年、4世紀の後半以降倭国と交流が始まったのです。
書紀の「神功紀」の記述に120年を足せば、年表として読めると云うことです。
此処で分かること、百済のために出兵できたのは、倭王が税を取り立て戸籍のようなものを握っていたということです。それなくして何度も出兵はできません。
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七支刀の倭国への献上は468年である
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七支刀については、「神功皇后の七支刀は誰のものだったのか」(カテゴリ・325冊封体制下の倭王讃珍済興武の野望)で取り上げています。

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成立間もない百済を倭国が助けたので、369年に七支刀を献上したとは思えません。ともに戦ったことの証のようなものではないでしょうか。
やはり468年、
半島内の高句麗・新羅・百済の三つ巴の争いに対して、「百済に援助した倭国への篤い感謝の気持ちをあらわしたもの」で、当然、倭王が受け取ったものです。然し、天皇家ではなく物部氏の宝物、七支刀は石上神宮の宝物となっています。
倭王権が滅亡する時(辛亥の変・531年)、王家が守って東へ逃げた(東へ侵入した)としか考えられませんね。すると、物部氏は、先代旧事本記が言うように九州から移動したのですね。
また、上の年表で
382年、襲津彦が出兵していますが、彼は唐津から船出しました。マツウラサヨ姫の伝承が唐津の鏡山に在ります。
襲津彦は、何処の人ですか。

彼は畿内の兵を連れて行ったのではなく、九州の兵を連れていったのです。襲津彦は故郷の娘との別れがつらかったのです。彼は九州の人でしょうね。
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倭王達は懸命に宋の冊封体制に入ろうとしました。書紀の記述となかなかかみ合いませんね。しかも、埼玉県行田市の稲荷山鉄剣の辛亥年が471年であれば、倭王武はまだ「倭王」になっていません。武が倭王になるのは、478年ですから。
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稲荷山鉄剣の辛亥年は、531年である
書紀の雄略帝は479年に没していますから、武が即位した翌年が雄略帝の没年です。書紀と外国の史書は全くかみ合いませんね。
わたしは、稲荷山鉄剣の「辛亥年」は、531年だと思います。鉄剣が発見された当初の学者の見解通り「531年」です。考古学的な資料で読み解かれたもので、既にブログで紹介しています。
江田船山の鉄刀と稲荷山の鉄剣の銘文を比べました。両者は、文化圏を共有し同じ首長に仕えています。その首長は「治天下大王」なのです。その大王家に仕えることを誇りとして「江田船山の鉄刀」が造られ、その大王家が滅びた後に「稲荷山鉄剣は作られたのです。これは、兼川氏によって読み解かれました。
倭王家は滅びたのです。所縁の人々は王家の誇りと家宝を以って東へ逃げました。
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と、年表を見直しました。
今日のまとめ

年表を見る限り、倭王は中国の冊封体制に入り、百済・新羅・高句麗と競い合っています。然し、日本書紀にはその事は全く触れられていません。「天皇の祖先が中国の臣下であった」と認めたくないので、敢て書紀には書かなかったというのです。ほんとですか? そうではなくて、近畿とは直接関係ない九州のことだからから書けなかったのではないですか。
先代旧事本記を見直さなくてはなりませんね。
物部氏の歴史を正史にすることはできなかったと云うことですからね?

今日は、ここまでにしたいのですが、
まだ、筑紫君と倭王の関係が残っています。
倭王家が辛亥年(531)に滅びたことは、分かりました。倭王家をそのまま筑紫君としていいのでしょうか。


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# by tizudesiru | 2018-06-10 23:42 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback(4)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
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31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
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39祭祀線と神籠石から分かること(4)
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47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
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135阿蘇ピンク石の井寺古墳
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139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡

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