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令和二年、古今集からみえることは何ですか

万葉集は日本最古の歌集として重要視されてはいますが、古今集は国文学の中でも重要な位置にあり、和歌史上の最高峰と考えてもいい、とも言われています。その評価は人によってさまざまだと思いますが。では、古今集はどんな編集をしているのでしょうね。気になりますね。
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勅撰和歌集は二十一集ありますが、古今集が勅撰集のさきがけです。万葉集は勅撰和歌集ではありません。
古今和歌集は醍醐天皇の勅で、紀貫之が長い年月をかけて精選し編集したものです。それは、世に出た直後から世間の注目を浴び絶賛され、手本とされ、人々にこぞって暗唱されました。万葉集とは、まったく違うのです。
古今集で、「万葉集は平城天皇の御世に編集されたものだ」と紹介されています。
古今集においては平城天皇の御製が90番歌です。
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平城天皇こそ、大伴家持の官位を復し、万葉集を召し上げ侍臣に編集させた人、なのです。
平城天皇はどこどこまでも奈良の都を愛した方でしたね。都を平安京から平城京に戻すようにと要求し、譲位していたのに「薬子の変」まで起こして、嵯峨天皇と対立されました。御子の阿保(あぼ)親王は本来なら皇太子となったのでしょうが、平城天皇の敗北と出家により大宰府に左遷されたのです。阿保親王の子供たちは臣籍に下り在原という姓になったのです。在原行平・業平の兄弟です。
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そこで面白いことに、在原元方の歌が「古今集」の冒頭歌なのです。貫之は何故この歌を選び、冒頭に持ってきたのでしょうね。
そこには、貫之の歌人としての教養と政治的な意図があったはずです。
考えてみると面白いですね。
令和二年、お正月を桜で飾りました。では、今年もよろしくお願いします。



# by tizudesiru | 2020-01-01 02:21 | 374令和元年こそ万葉集を読み解こう | Trackback

大伴家持が詠んだ万葉集の最終歌の一つ前の歌「秋風の」

天平文化が花開いた奈良時代。でも、政変が連続した厳しい時代でした。
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「万葉集」は奈良時代の歌人である大伴家持が編集した、と言われています。
「万葉集」の最終歌は、4516番歌の「新(あらた)しき 年の初めの初春の今日降る雪の いやしけ吉事」ですね。
とても爽やかな新年の喜びと期待感に満たされる歌です。
この歌を詠んだのは、大伴家持でした。因幡守として国郡司を饗応する宴席で詠んだ歌です。彼がどんな思いでこの歌を詠んだのか、この歌から読み解ける歴史の一端を知りたくなりますね。
この歌が詠まれた時代を考えるために、ひとつ前の歌・4515番歌を読んでみましょう。同じ大伴家持の作歌です。
4516 秋風の 末吹き靡く 萩の花 ともにかざさず 相か別れむ
天平宝字二年(758)七月に詠まれた歌ですが、なんだか非常に寂しい歌です。
題には『七月の五日に、治部少輔(じぶのしょうふ)大原今城真人(おほはらのいまきのまひと)の宅(いへ)にして、因幡守(いなばのかみ)大伴宿禰家持を餞(せん)する宴の歌一首』とあります。七月は旧暦ではすでに初秋でした。
大原今城真人という人が、因幡守となって赴任する大伴家持のために別れの宴を開いてくれたのでした。その心尽くしに対して詠まれたのが4515番歌なのです。
4515 秋の風が 萩の枝の先の葉まで靡かせて吹いている。この萩の花を髪に挿して宴を楽しむことのないままで、お互いに別れ別れとなっていくのだ。(別れとはつらいものだ)
家持は「相か別れむ!」と言い切りました。寂しさが切々と伝わります。万葉集のなかで「相か別れむ」という表現は、この家持の歌、4515番歌のみだそうです。
なぜ、家持はこんなに寂しい歌を詠んだのでしょう。
家持は大伴氏の御曹司、大手門を守る大伴氏という古代豪族の末裔、その家持に何があったのでしょう。
ちょうど一年前の七月、その事件はありました。大伴氏には大変な試練の時でした。家持は親しい人々や一族の有力者や大の親友を亡くしました。「橘奈良麿の謀反の発覚」事件です。
この大事件に遭遇するまでの大伴家持の半生を振り返ってみましょうか。
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家持は物心ついたときには、父の大伴旅人のもとで英才教育を受けていました。
弟の書持とも仲良く育ちました。父の旅人が大宰帥となって九州に赴任した時も、旅人の「長屋王の変」(729年、左大臣の長屋王一家が無実の罪で命を落とした事件)への対応も、目撃しました。旅人が天平三年(731年)に没した後、十代の家持の肩には大伴氏がのしかかってきたのです。
天平十年(738)の諸兄の旧宅での橘奈良麿の宴の時は、家持は内舎人(うどねり)でした。
天平十二年(740)藤原広嗣が乱を起こすと、聖武天皇について伊勢・不破・恭仁京・信楽京と聖武天皇とともに関の東を五年間も移動し続けました。
天平十六年(744)、献身的に仕えた聖武天皇の息子の安積親王の突然死家持は内舎人として仕えていましたからうちのめされました。
そして、失意のうちに越中守として赴任している時、弟の書持(文持)の薨去を知ります。
更に打ちのめされた家持は病に倒れました。越中守時代に家持の心の支えとなったのが、大伴池主の存在でした。池主と家持は深い友情で結ばれたのでした。
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しかし、聖武天皇が娘の阿倍内親王に譲位したあと、皇位継承の問題がくすぶり始めます。孝謙天皇は独身でしたので、次の皇太子が誰になるのか、大変な火種が残されたのです。
大伴氏も藤原氏も他の豪族も、次の政権をにらんで水面下で暗躍していたでしょう。それが、ついに表面化し藤原氏の反対勢力が一掃される事件が起こりました。
天平勝宝九年(757) 橘奈良麿の謀反発覚事件
何故か、家持はその事件に巻き込まれなくて済みました。それまで親しくしていた人々から距離を取っていたのです。しかし、親友だった大伴池主は事件に巻き込まれて命を落としました。池主の死を知った家持はどんな思いを抱いたでしょう。
自分が苦しい時を支えてくれた池主を死なせてしまったのです。心穏やかではなかったでしょう。
大伴池主、彼が無念の最期を遂げた一年後の七月、いろいろ思い出したでしょうから家持が宴を楽しんだはずはありません。餞する宴の歌は4515番歌以外の歌は掲載はありません。この一首のみが最終歌の前に置かれています。当然、にぎやかに餞別の会などしなかったのです。
私はそう思いますし、そう解釈ました。

なぜ、家持は難局を乗り越えることができたのか。
不思議ですが、誰かが情報を漏らして家持を救ったのです。それは、誰なのか。
答えは万葉集の中にあるはずです。4516番歌のひとつ前の歌「秋風の末吹き靡く萩の花‥」を家持が詠んだ場所『大原今城真人の宅』がヒントです。
私は、大原今城真人が大伴の氏の継続のために、藤原氏側の情報を家持に漏らしたのだと思います。彼は大伴氏をつぶしてはならないと考えた。そのために、家持を救おうと決めたのです。
だって、大原今城真人の母は「大伴女郎」なのです。大伴氏ゆかりの女性なのです。彼が大伴を断絶してはならないと考えたなら、それは自然です。
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では、「大原今城真人が藤原氏と深くかかわっていたから情報を持っていた」と言えるとしたら、それは何故か。
そのあたりは、また今度。



# by tizudesiru | 2019-12-29 21:00 | 374令和元年こそ万葉集を読み解こう | Trackback

万葉集の最終歌・あらたしき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事

万葉集の最終歌は、数年前にこのブログでも取り上げました。
4516 新 年乃始乃 波都波流能 家布弗流由伎能 伊夜之家餘其騰
     あらたしき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事
この歌を詠んだのは、万葉集の編集者とみなされている大伴宿禰家持です。
天平宝字三年(759)正月一日、家持は「新しき年の初めの」の歌を因幡国の国庁に国郡司らを招いた宴で詠みました。前年、天平宝字二年六月、家持は因幡守に任じられ、七月に親しい者による別れの宴を済ませ、ほどなく家持は任地に赴いていたのです。
そして、正月一日の宴。この年は、正月一日と立春が重なった年でした。その年の宴歌です。
 新しい年の初めの一日が 立春に重なった今日、このめでたい日に降る雪よ どんどん降り積もれ。 吉いことが積み重なるように この国の弥栄をことほぐように 降り積もれ 
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凛と引き締まった寿歌です。国土と人々の幸せを願い、新年を寿ぐ思いが込められています。
しかし、こんな寿歌を詠んだ家持は、この時非常に寂しく辛い状況でした。
因幡守として国郡司を饗応した家持でしたが、彼の因幡守任命はいわゆる左遷でした。
家持が因幡守に任じられた一年前の天平勝宝九年(757)橘奈良麿の謀反事件がありました。そこで、反藤原勢力は一掃されていました。

橘奈良麿の父の左大臣橘諸兄の館に聖武太上天皇に従がして訪問したこともある家持だったのに、「奈良麿の謀反」に何故か巻き込まれなかったのでした。家持は443人もの処分者を出した政変を生き残ったのです。それは、彼を死なせてはならないと密かに情報を伝えた人物がいたということでしょう。だから、家持は橘諸兄たちから遠ざかり命をつないだのです。
しかし、藤原氏としては名門豪族大伴氏を率いる家持を野放しにするわけにはいきません。
家持が左遷されたのは、古代からの名門豪族である大伴氏が藤原氏にとって危険な存在だったからです。七月、藤原仲麻呂は抜かりなく家持を因幡国に遠ざけ、八月には孝謙天皇の譲位、息のかかった大炊王(淳仁天皇)に即位させました。藤原仲麻呂は光明皇后の甥で、孝謙天皇には従弟にあたり、光明皇后の権威のもとに権力を握りました。
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仲麻呂は光明皇后というバックがあったので、すべて意のままに動かせると思っていたのでしょう。
政変の度に、藤原氏によってターゲットの動向は監視され、事が起きた時には逃げ道はないのです。
橘奈良麿の謀反事件でも「反藤原氏勢力を一網打尽」計画は準備万端でした。

天平勝宝九年の橘奈良麿の変は、計画通りに事が進行しました。
発端は、聖武天皇の遺詔により「道祖王ふなどおう」が皇太子指名されていたことです。天武天皇の皇子である新田部親王の王子に皇位が移るのです。それが聖武天皇の遺言でした。孝謙女帝は独身でしたから、当然だれかに皇位継承されるのですが、藤原氏としては道祖王(ふなどおう)では納得いかなかったのでした。彼は天武系の王子です。

聖武天皇崩御(756年5月)の半年後の天平勝宝八年(757年1月)、左大臣を辞していた橘諸兄を死に至らしめ(おそらく殺害されたと思います)、その同年(757)7月に「橘奈良麿の変」を実行しました。
そうとしか考えられません。藤原氏がかかわる政治的な出来事は、ほとんど半年前から準備され確実に実行されています。それも、ことごとく「半年後の法則」(私が命名したのですが)に当てはまります。
757年7月、奈良麿の謀反は、大伴家持とも親しく交流していた山背王(長屋王の子)によって密告されました。それまで反藤原仲麻呂派だった山背王が、なぜか仲間を裏切り藤原氏に密告したのです。内部事情を知り尽くした王の密告です。そして、同母の兄をはじめ443人もの人が刑に処せられました。同母の兄の安宿王はその妻子とともに佐渡に流罪でした(宝亀四年・773年には、高階真人の姓を賜り、臣下に下る)。しかし、同母の兄の黄文王は皇位継承者候補とされていたために獄中で杖に打たれ絶命しています。
家持はこの危険な網を逃れました。家持の大切な人々は、歌を交換し合った友である大伴池主も、大伴氏の期待の星だった大伴古麻呂も、道祖王も名だたる官人も獄中の拷問で絶命したのでした。
何もできなかった家持は無念でした。

家持の主人だった藤原仲麻呂(恵美押勝)が、大伴家持の本心を見抜かないはずはありません。家持が大伴氏を断絶しないために不本意な選択をしたことに気が付いていたはずです。ですから、橘奈良麿の変(757年7月)のちょうど一年後に、因幡国に左遷したのです。家持が都を去ると、八月にさっさと淳仁天皇(大炊王)を即位させました。
時代の流れと一族の受難を密かにかみしめて家持は因幡国で年末を迎え、そして新年を迎えたのです。
そこで、大伴家持は新年を寿ぐ歌を詠み、それを万葉集の最終歌としたのです。
どんなにつらいことがあっても、家持が寿歌を詠み切ったのはなぜか。それは、彼が初期万葉集の編集に倣い合わせたからです。
柿本人麻呂によって編纂された「初期万葉集」では「寿歌をもって最終歌としていた」からです。
だから、家持も渾身の力を注いで最終歌を詠んだのでした。
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この大伴家持の詠歌をかみしめながら、明日を迎えましょう
明日は、万葉集最終歌の4516番歌の一つ前の歌4515番歌についてお話ししましょうね。
では、また。


# by tizudesiru | 2019-12-26 22:49 | 374令和元年こそ万葉集を読み解こう | Trackback

魏の使者が常にとどまった伊都国と女王国との距離の問題

シンプルな疑問があります。魏の使者が常に留まるところ、伊都国の位置の問題です。
伊都国は魏から贈られた品物や出入りする集団を検閲し、諸国の動向を監視していました。女王国の出先として、また権力の一翼を担っていたことになります。その伊都国は女王国よりどのくらいの距離にあったのでしょう。女王国が畿内にあったのなら、緊急時の対応には何か月もの遅れが生じます。奈良時代は駅鈴があり馬を変えながら走ったでしょうが…弥生時代の後期にはそんなに簡単に連絡は取れなかったでしょう。ですから、伊都国の位置から考えると邪馬台国畿内説は無理です。
更に、近畿にたどり着くまでにはあまたの国や河川や山地を乗り越えなければなりません。伊都国で検閲した魏からの下賜品が届くまでに途中は危険すぎで、損傷したり紛失したりするリスクが高すぎます。すべての国を支配下に置いていたとしても、です。武器も持たなかった畿内の国が支配していたとしても…。やはり、地理的地形的にも畿内説は無理です。
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写真の奥の山は、福岡県糸島市の可也山(糸島富士)です。甘南備の山を見て楽浪郡の使者が懐かしんで「可也」と命名したかもしれません。川と可也山の間には微高地が広がり多くの遺跡が集中しています。(糸島市の遺跡地図)

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三雲南小路みくもみなみしょうじ遺跡が二基の甕棺(王墓)が発掘された方形周溝墓です。井原鑓溝いわらやりみぞ遺跡も王墓であったらしく多くの副葬品が発見されていますが、現在は場所の確定が出来ていません。平原ひらばる遺跡は大量の割られた鏡が副葬されていた弥生の方形周溝墓です。「三雲井原遺跡」と書かれた辺りには楽浪形土器が出土しますから、交易のために訪れた人や楽浪郡の使者が生活したところですね。
今は広い畑となっています。
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画面の左に見える可也山に連なる低い山は、古代の志摩国の山です。古代の志摩国は、古代の伊都国の隣に位置していることが、660年までに唐で書かれた『翰苑かんえん』に『ななめ(邪)に伊都にいたり、傍ら斯馬(しま・志摩)に連なる』とありますから、志摩国は伊都国の隣にありました。両者は地理的には現在の糸島市です。古代伊都国と志摩国の間には東西から加布里湾と今津湾が深く入り込み、志摩国はさながら島そのものでした。
ですから、現在の三重県を志摩国とするわけにはいきませんよね。
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福岡市が編集した図録の「弥生時代中期の青銅器の分布」をみると、青銅器は福岡平野の早良区に集中します。この後に邪馬台国の時代が来るのです。権力はどこに集中していたのか、想像できます。早良国が栄えた後に須玖岡本遺跡(春日市)の時代になるのです。権力の交代があったようです。
何を書いてもどんな説を出しても『魏志』の倭人伝を読めば邪馬台国は決定します。
だって、そこには産物としてクスが書かれています。おまけに豫樟があります。
どちらも楠クスノキですが、豫樟は巨大な象のようなクスノキのことです。
邪馬台国には大きな樟があったのです。
現在も、九州の神社は多くが大楠をご神木としています。山々には樟が自生しています。古代から生活の中に樟があったのです。
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ほとんどの邪馬台国シンポジウムで樟が取り上げられたことはないと思います。
九州以東には樟の自生はありません。野山に自然にクスは生えていないのです。そこで、何の議論もできません。邪馬台国の位置が決まってしまうからです。楽しくも面白くもない事実です。
だから、誰も取り上げません。「邪馬台国シンポジウム」そのものが成り立たなくなってしまうでしょう…(金銭の話になりそうですが、本意ではありません。ごめんなさい)

それなのに、今日までこの論争は解決していません。畿内に卑弥呼が生まれなおすまで終わらないのです。日本には、歴史なんてほんとはどうでもいいのでしょうね。
すっかり住みにくくなった日本、若者は自分を生かすために国外に出ていくのでしょうね。
令和元年、歴史は変わります…あの「三角縁神獣鏡」が中国鏡になろうとしているのですから‥‥「中国から一面も出ていない三角縁神獣鏡」600面も出土している三角縁神獣鏡が「中国生産の鏡」に生まれ変わろうとしています。
歴史の改ざんは、「科学的な分析」という一面から進行中なのです。
市民の手の届かないところで、一定の方向をもって予め計画され、結果をメディアが放映するという構図はできているのです。

私たちはそれを傍観させられているのです。



# by tizudesiru | 2019-12-20 12:18 | 373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ | Trackback

三国志時代の王侯貴族の造墓は倭国に伝わったと思われる

三国志時代の陵墓の話です。「曹操高陵」が魏の武帝曹操の墓と認定される決め手となったのは、石牌「魏武王常所用挌虎大戟(ぎのぶおう つねにもちうるとこの かくこだいげき」の発見でした。そこで、この墓から見つかった男性の頭蓋骨は曹操のものだということになりました。石牌には『魏の武王が常に用いた虎をも倒す大戟」と書かれ、墓に副葬された曹操の愛用品のひとつ・戟の説明です。
やはり、三国志の時代も被葬者の愛用品が副葬されたということ。では、きっと倭国もそのあたりをまねたでしょうね。
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曹操高陵、この墓の仕様が「魏時代の王侯貴族の墓のありようを伝えている」ことになるのです。
まず、墓は地下に造られ、壁には四角いレンガが積まれています。倭国でいうならば南九州の地下式横穴墓のようなものでしょうか。
曹操は自分の墓に墳丘を築くことすらせず質素倹約を命じています。それでも、たたけば金属音のする硬い煉瓦が墓に積まれたのでした。高温で焼きしめた煉瓦ですね。
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もちろん、倭国は煉瓦で墓を造ってはいません。古墳の初期には、小口の平石を積んで煉瓦のように見せてはいますね。それに、倭国でも初期の横穴式石室墓は墓道が地下に下るように造られ、入口のほうが石室の床面より高くなっているので、魏の墓のように下に降りねばなりません。もちろん魏の陵墓のように大きくも深くもありません。斜めに降りていくだけです。それでも、倭国の竪穴系横穴式石室の墓は、地下に降りるという形式だけは魏の王墓に似ていることになるのでしょう。
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それから
武帝の棺が置かれたのは墓の最奥でした。そして、割れてはいましたが12個の鼎(てい)が副葬されていました。皇帝の葬儀においては瓦鼎(がてい)を十二口副葬するのが決まりでした。曹操の墓はそれが守られているのです。鼎は支配者の徳を表すものだそうで、殷周時代以来、鼎の副葬には重要な意味があったそうです。金属のように見えるこの鼎は素焼きの土器(瓦鼎という)で、高温で焼かれたので灰色に焼きしまっているのです。
このように、倭国の支配者も支配者たる徳を示す重要なものを副葬したのでしょうね。
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それにしても、弥生後期の平原王墓の鏡は弥生時代の副葬品としては断トツ多いです。福岡県糸島市の平原王墓では、鏡が支配者の地位を示すものだったでしょう。ここは、まだ小口の石を使った横穴墓ではありません。墳丘は小さな方形周溝墓です。鏡にも三角縁神獣鏡はありません。
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弥生時代の糸島市・飯塚市・朝倉市・春日市のいずれの鏡も前漢鏡・後漢鏡ですね。
九州では三角縁神獣鏡が副葬されるのは古墳時代になってからです。

古墳時代になって横穴式石室が浸透しますが、初期は入口が高く地下に降りるようになっている竪穴系の横穴式石室、だそうです。
初期の横穴式石室は小口の石積みです。
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鍬崎古墳から出土した鏡を見ても、まだ三角縁神獣鏡はありません。三角縁神獣鏡が副葬され始める前の時代の古墳となるのでしょうか。それとも、この古墳の被葬者は昔の鏡にあこがれて、昔の様式の鏡を中国に注文して特別仕様で送ってもらったのでしょうか。

どうなのでしょうね。九州だからそんなこと簡単にできたというのでしょうか…



# by tizudesiru | 2019-12-16 21:27 | 373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ | Trackback

魏志「倭人伝」の女王国は九州にあったのではないか

魏志倭人伝に記述された女王国はどこでしょう。魏と交流があったのなら、なんらかの痕跡が残っているはずです。
魏の武帝とされる曹操(220年没)の墓に副葬されていたという鉄鏡があります。その鉄の鏡に似ている鉄鏡が日田市のだんわら遺跡で出土したというのです。それが「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」で、9月に新聞に報道されて注目を浴びました。三国志展が太宰府で開催される数日前のことです。
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金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡を発見した渡辺音吉さんはすでに亡くなっていますが、彼は自分の家の裏から土取り作業中に鏡を見つけたのでした。それを錆びないように湿気を避けようと石灰をまぶして小学校に寄付したのです。それが小学校から盗まれて行方不明になっていたところを考古学者が骨董品店から買い取ったということでした。
そこで、渡辺さんが「鉄鏡には石灰をまぶしていた」と証言し、鉄鏡を調査したところ石灰が付着していて、小学校から盗まれたものだということが判明したのです。
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弥生時代や古墳時代の遺跡から出土した鏡の総数は、現在6000面ほどにもなるそうですが、鉄鏡は10面にも至らないとのことです。日田出土の鉄鏡は相当に意味のある遺物となります。
この鏡は石棺の中から出土したそうで、他にも鉄刀や轡(くつわなどの馬具が副葬されていたそうです。すると、古墳時代のものとなりましょうか。ほかにも、帯金具や金錯鉄帯鉤などもあります。
三国志の時代ではないようです。(このブログ「352 日田を歩いたら見える見歴史の風景」で渡辺さんの家を訪ねたことを取り上げています。)
それにしても、金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡が貴重なものであることに変わりはありません。
日本製か、中国製か、日本製なら象嵌の技術はどこから来たのか、などなど謎が深まることでしょう。そう思ったら…
残念ながら、その出土地がはっきりしないので考古学的な価値が薄いそうです。そんな馬鹿な‥‥この鏡が出土したのは日田に違いありません。考古学に関係ない渡辺さんに嘘をつく意味はありませんから。鏡は貴重だと思ったけれど価値の程度が分からず小学校に寄付したのですから、何の欲もなかったのです
日田の鉄鏡が魏の王侯の鏡と関係があるとしたら、どうなるのでしょうね。

さて、話を弥生時代の後期に戻します。三国志の時代です。
倭人が魏との交流を求めたのであれば、当然、彼らは航海技術にたけていたでしょうし、あこがれの国の文物をまねたでしょう。
倭人の武器も剣から大刀に変わったでしょう、三国志の時代の武器は素環頭太刀でしたから。そして、戟という「ト」の字に似た武器を使ったかもしれません。(戟を捧げ持った騎乗兵の像が三国志展に出品されていました。)よく似た武器が、福岡県の津屋崎古墳群から出土しています。九州の組み合わせ式石棺から素環頭太刀が、一貴山銚子塚古墳からは素環頭太刀や金メッキの後漢鏡が出土しています。
やはり、大陸の武器にあこがれたのでしょうね。
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それから
「三国志の時代展」が九州国博に移動して、秋10月から大宰府で展示が始まりました。(2020年1月の5日まで展示の予定と聞いています。)
展示物にはいろいろな興味を誘うものがあるのですが、中でも女王国とかかわった人物・王頎の名が刻まれた石碑が、気になりました。
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毋丘倹紀功碑(ぶきゅうけんきこうひ)という吉林省で発見された石碑の一部です。
一行目に「正始三年(242)に高句麗が背いた」とあります。
正始五年から六年(244~5)にかけて、魏の将軍の毋丘倹が高句麗に侵攻し大勝利をおさめ、征服地の三か所に碑を建てたという、その碑の一つです。王頎はその将軍の一人でした。
六行目は「行碑将軍領玄菟太守王頎(こうひしょうぐんりょうげんとたいしゅおうき)」と推定されています。
王頎はこのあと帯方太守となり、倭女王卑弥呼と魏の外交を仲介しました。
おりしも狗奴国との関係が悪化していたので、卑弥呼はその仲介を帯方太守に頼んだのです。そして、告諭を受け「卑弥呼以て死す」となったのでした。卑弥呼が相談した相手の王頎は軍人です。王頎は、どうすれば相手を攻略できるかを考える立場の人ですから、戦略として卑弥呼の死を判断したのでしょう。告諭によって卑弥呼は死にました。

三国志の時代は、ちょうど、世界的な寒冷期で世界中が飢えていました。中国でも黄巾の乱が起こり、五斗米道や太平道が浸透したのも社会不安からでした。卑弥呼が魏を宗主国として敬ったのは、魏の武王・曹操が大飢饉で飢えていた人々に土地を与え開墾を進めたからではないでしょうか。この屯田兵政策で飢えが改善されたのです。
女王国では寒冷化による飢饉がで繰り返されていたでしょう。新羅本紀には
「193年、倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来」と記録されています。渡海の危険を承知して新羅に渡ったということは、近隣の諸国も飢えていて何処も頼れなかったからでしょう。列島の何処もが飢饉で飢えていた、だから狗奴国と女王国は衝突したのです。
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新羅本紀を見るとなんだか変で、倭人の行動に矛盾が見られます。
208年、飢饉で千人もの人々が頼りにした新羅に、倭人が侵入しているのです。なぜでしょう。
173年には、『倭女王卑彌呼、遣使来聘』と書かれていますから、卑弥呼は友好のために使者を送っていました。その友好国に侵入するとは…
208年に避難民を受け入れた新羅に倭人が侵略した時、まだ、卑弥呼は女王として生きています。
卑弥呼は248年に没していますが、それまでに232年・233年と、倭人と倭兵が新羅を侵略しているのです。この新羅本紀の矛盾は、どう説明すればいいのか。
それは、「倭人・倭(国)・倭兵」は違うということです。国として行動したのか、各地の倭人として行動したのか、国の兵隊として行動したのか、意味が違いましょう。233年・289年・292年・294年は「倭兵」ですから、国の兵隊が侵略したということになります
倭兵と呼ばれる以上「国によって組織された集団」です。
それは、女王国からの派兵でしょうか。そうでないなら、何処から?
候補として狗奴国があります。狗奴国は、女王国と対立する強国でした。もちろん、武器を持たない地域は侵略などできないし、渡海してまで侵略はしませんね。
残念なことに、狗奴国も鉄を持った地域だったことになります。
すると、鉄を持っていた地域が対立したのですね。
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それでも、邪馬台国は近畿だったとなるのでしょうか‥‥



# by tizudesiru | 2019-12-14 23:44 | 373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ | Trackback

女王国で重視した鏡や武器の形

そもそも、卑弥呼の邪馬台国は三角縁神獣鏡で論じられていました。では、卑弥呼が外交を望んだ魏の鏡はどんなものだろうと知りたくなります。折しも、2019年は日中交流40周年ということで、記念の交流事業が催されました。国博の三国志展です
そこで展示された鏡を見なおしてみましょう。
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「獣文鏡」13.3cm。後漢・一~二世紀。
魏ではこのような鏡も用いられたかもしれないと説明がありました。銘文「徐氏がつくったこの鏡はまったく傷がない。中央に天禄がいるので、王侯貴族のように金持ちになる」と書かれているらしいです。魏ではこのような後漢鏡が出土するのです。
魏や西晋の墓からは、後漢時代に制作された鏡が多数出土している。という説明です。
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「方格規矩鳥文鏡」17cm。後漢から三国志の時代の魏の鏡
公孫氏の中心地の墓から出土したので、日本とのつながりが指摘されている。

次が、呉の鏡です。
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「画文帯環状乳神獣鏡」14.2㎝。呉の鏡で湖北省東部の銅で作られたらしい。以下湖北省出土の鏡となります。魏の鏡と呉の鏡ではかなり違った印象がありますね。
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「同行式神獣鏡「」12.3㎝。」湖北省出土。呉の鏡
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『嘉禾五年』重列式神獣鏡かかごねんじゅうれつしきしんじゅうきょう 16㎝。呉の鏡
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「仏像き鳳鏡」12.1㎝。湖北省出土。呉の鏡
この時代に、既に仏教の痕跡があるのです。

次に武器を見ましょうか。
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素環頭大刀です。この時代は武器が発達しました。三国志の時代は戦乱の時代だったのです。
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それから、騎乗兵が戟を高くかかげています。「ト」の字の形をした武器です。矛もかかげていますね。戟は「げき」と読みます。
卑弥呼はこんなものを欲しいと思ったでしょうか。女王国の周囲の首長は欲しいと思ったかもしれません。こんなものをかかげていたら怖いですね。

この続きは、また後で。



# by tizudesiru | 2019-12-14 09:49 | 373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ | Trackback

古代史に密かな激震・NHKは突き進む

2019年12月4日にNHKで歴史番組「英雄たちの選択」の再放送がありました。再放送、たしか以前見た番組だと思います。
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番組で、国宝の「合掌土偶」が女性であり出産の場面を表現した土偶と紹介されました。
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女性器も表現されているそうです。
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縄文時代の人々には、妊娠と出産は大変な出来事でした。大きなリスクも伴いますが、集団には避けられない重要な出来事なのです。安産は集団の願望だったでしょうから、信仰に結び付くのは当然です。
合掌土偶の座って出産する形が、青森から岩手・宮城を経由して大阪まで伝わったという説が紹介されました。
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そこで強調されたのが、東北と近畿の結びつきでした。「九州が弥生時代に突入していた時、東北や近畿はまだ縄文時代だった」と解説者がいうのです。あっさり、近畿が鉄や青銅器を持たなかったことを認めたうえで「米や鉄で弥生を語ってはならない」という番組の展開でした。つまり、米つくりと鉄工具や武器生産で有利な九州を排除して弥生時代を語ろうというのです。
そして、紹介されたのが大阪の田井中遺跡でした。
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ここでは、弥生土器を持つ環濠集落と縄文土器を持つ集落が接近して存在していたというのです。なぜ生活形式の違う集落が共存していたのか、それは豊かな土地なので争う必要がなかったからだという展開でした。
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一方、「九州は土地が狭いので争いがおこったのではないか」という結論を出していました。「九州の土地が狭かった説」は初めて聞きました。人類学の方の話では、渡来系弥生人の混血は紀元前数世紀には終了していて、その後は縄文人とは住み分けが行われていて混血はないという話でしたが、NHKは何から結論を導きだしたのでしょうか。
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次に、青谷上寺地遺跡の遺棄された人骨の画像が出てきました。以前、この遺跡の悲惨な結末に対して、『英雄たちの選択』のレギュラーである磯田氏が「こんなことするのは九州ですよ。九州に決まっている」と言われました。一市民として、何か違和感を感じました。そうしたら、今回も同じ発言がありました。
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「こんなことするのは九州ですよ。他に考えられない」と。確かに、恐ろしい殺傷痕ですね。弥生時代に何があったのか、事件の内容はわかりませんが「こんなことするのは○○」という決めつけには、すごく違和感がありました。
弥生時代に何が悲惨な結果を導いたのか、歴史的に解明することは大事です。そこに、「こんなことするのは○○だ」という決めつけは、聞く人によっては不快ではありませんか。
邪馬台国畿内説を支持しておられるので、邪馬台国九州説に対して厳しい点はわからないわけではありません。しかし、そもそも、歴史は一体誰のものでしょうか。
日本国民のみならず、それは現代に生きる人に過去を問い直し未来を考えてもらうための大事な事実であるわけです。どこかの地域を排除して歴史を語るべきではないでしょう。
NHKは邪馬台国畿内説で番組を構成していますから公平でも公正でもありませんし、それにディレクターやプロデューサーの思想に左右されますから、真実に迫りたいという気持ちはあまりないかもしれません。
しかし、何処かを排除して歴史を論じてはならないでしょう。どんなことも歴史の事実であれば、事実として受け止めるべきでしょう。
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次に、近畿で出土した石棒が「共存のシンボル」だとして取り上げられていました。
武器を持っていた九州では争いがあったけれど、武器を持たない近畿にはなかったというのです。近畿では石棒の出土も多く、豊穣を願う祭祀が盛んだったということでした。
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確かに東北には石棒の出土がありますね。石棒は豊穣を願う祭祀具だったのでしょう。
近畿ではその祭祀が卑弥呼の祭祀(鬼道)に結び付くとの展開なのでしょうか…銅鐸が最後に紹介されていました。

以前、淡路島の銅鐸祭祀が大きく取り上げられて、まるで卑弥呼の祭祀のような番組の組み立てでしたね。「卑弥呼をそこに持って行くのか」と驚いたものでした。九州には大型銅鐸の出土はありませんから。小銅鐸や小銅鐸の鋳型の出土があるのみですから。
しかし、少し変ですよ。魏志倭人伝には「倭国大乱」という時期があります。その争いの結果、卑弥呼が擁立されたのでした。その後は、卑弥呼の女王国は南の狗奴国と対立します。そして、魏によって告諭された卑弥呼が没したのち、倭国は男王のもとにまとまらず、お互いに戦い千人以上が死んだのです。
倭国には断続的に戦闘状態が続くのです。卑弥呼の時代の前後は争いの連続なのです。その原因は何だったのでしょう。
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そして、もう一つ、鉄でも米つくりでも弥生が語れないのであれば、平和だけでも邪馬台国は語れません。戦いの証拠がないのなら、近畿に卑弥呼はいないのです。彼女は戦いの結果、平和を願って生み出された女王でした。しかも、新たな戦いによって魏の告諭を受け「以て死す」となった女性です。

近畿に戦いはなかった、であれば、卑弥呼は近畿にはいなかったことになります。
NHKさんは、そのあたりをどのように持っていくのでしょう。年末年始の歴史番組で「邪馬台国畿内説」に近づくための番組が用意されているはずです。
そうして、徐々に市民を洗脳していく計画なのでしょう。無理がとおれば道理が…の世の中です。しかし、歴史の真実を簡単に変えたり、消去したり、なかったことにしたりできるのでしょうか。
年末年始の番組に何が出て来るのか、興味の沸くところです。

# by tizudesiru | 2019-12-12 15:25 | 373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ

甕棺に葬られた倭人は、すべて渡来系の人たちだった

福岡県飯塚市のある歴史資料館のパンフレットに、立岩遺跡の甕棺の写真がある。ゴホウラ貝輪を大量に右腕に着けた男性の人骨である。この男性には鉄戈が副葬されていた。大型鉄戈である。大型鉄戈は半島には出土しないので、国産の鋳造品である。つまり、この地域には大型鉄戈を製作する技術があったということである。この時代、貝輪を造るためにゴホウラ貝を求めて南の海まで行った人がいるということである。
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この甕棺に埋葬された人「立岩の君」は渡来人なのか?というテーマで、2019年11月10日に古代史講演会が飯塚市であった。私は下関や福岡市で「甕棺人の骨格」や「弥生人のDNA分析」に関するシンポジウムや講座に参加して興味を持っていた。
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国立科学博物館副館長であり人類学研究部長の篠田謙一氏の「DNAで語る弥生人の成立」という講演は大変面白かった。
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ただ、講演の中で、篠田さんが繰り返し抑えていたのは、分析できた弥生人の骨の数が限られていること・縄文人の骨がほとんど残されていない事・多くの分析は現在進行中であること等々であった。
そうは言いながら、渡来系弥生人とされる山口県の土井が浜遺跡の頭蓋骨のように、「顔が長い・鼻の付け根が低い・現代日本人に近い」顔立ちの骨格は渡来系ということだった。それは、縄文系とされる顔立ちの人「顔が広い・目が大きい・鼻の付け根が高い」人とは形質的に違うという話だった。
すると、土井が浜をはじめ、福岡県の安徳台、佐賀県の吉野ケ里の人骨は渡来系ということである。すると、渡来系の「のっぺり型」と呼ばれる人骨は、紀元前数百年の甕棺から出土するから、弥生前期にはすでに混血が終っていたということになる。すぐには理解できないことである。
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では、細形青銅武器を持ち始めた時代から、中広形青銅武器を持ち、広形青銅武器を持つようになる数百年の間、日本列島は同じ形質の弥生人が闊歩していたことになる。倭人と書かれた弥生人は渡来系の人々だったと、なってしまう。
魏と交流した倭人は、渡来人系の倭人である。
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篠田氏は「アジア集団の持つ遺伝的な特徴・主成分分析の結果」という図を提示された。
確かに、縄文人とされる集団と、現代日本人の集団は離れている。渡来系弥生人とされる「青谷上寺地・安徳台」の人骨のDNAは現代日本人の集団の中に入っている。
ここで、現代韓国人のDNAと縄文人のDNAの間に「現代日本人」が位置することから、渡来人と縄文人の混血の結果が「倭人」だったというのだろう。

これから、遺伝子が何を語ってくれるのか、興味の沸くところですね。


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# by tizudesiru | 2019-12-12 00:28 | 373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ | Trackback

今も謎のまま淡路の伊弉諾神宮の祭祀線

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古い伝えの神社に参拝した後に、この神社の創建はいつだろうかと思います。福岡の箱崎八幡宮のように由緒に927年と創建年代が書かれていることもありますが、ほとんど不明とか2000年の歴史があるとか書かれていて戸惑います。古事記や日本書紀を持ち出される神社もありますが、どちらも八世紀の文献で、編纂を命じた為政者の主張に合わせて編集されていますので、公正な歴史と扱うわけにもいきません。それでも、個々の神社の由緒や伝承は大切な過去を教えてくれる資料です。
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そして、およその時期は祭祀線で想像することができます。
祭祀線とは地図上に引く架空の直線です。神社の鳥居や本殿が御神体山の山頂に向かって真っすぐ連なるなどの直線です。
祭祀線という言葉が耳慣れない頃の話ですが、地図を見ていて神社や古墳や山の山頂が一直線に並ぶということに気が付きました。嘘だろうと思って国土地理院の五万分の一の地図を買いに行って張り合わせて確かめましたが、やはり多くの古社や古墳が並ぶのです。地図上の有名どころが並ぶので驚きました。それから、各地の地図を買い調べました。やがて、ネットの国土地理院の地図検索で調べていましたが、国土地理院のサービスが変わって使いにくくなったので、グーグルアースで確かめるようになりした。
知り合いには理解してくれる人がいなかったのですが、ある日、ネットで伊弉諾神宮の祭祀線を見つけたのです。このブログに2012年に「52淡路国伊弉諾神宮の祭祀線」を投稿しています。
今回、懐かしくなって10年ぶりに友人に会うような気分で、淡路島の伊弉諾神宮を尋ねました。


本殿に向かって歩いていくと、左の空き地にそれはありました。
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綺麗に掃除された祭祀線のいしぶみでした。
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以前は、だれに会っても祭祀線の話をしました。
祭祀線の話をすると、「そんな何百キロも離れた点と点を結ぶ技術は古代にもあったのか?」 と質問されました。確かに、私も聞きたいです。私は「山当て」を使えば、「三本の棒と糸で点と点を結び直線を引くことはできる」と、説明はしました。それは見える範囲ですから、何百キロも離れると、次の山に行って山当てをして距離を伸ばしていかなければなりませんが、不可能ではありません。
しかし、伊弉諾神宮のいしぶみは、対馬の海神神社や九州の高千穂神宮など目測では測れない神社ばかり、日の出・日没のライン上に挙げられていました。
これが事実なのか知りたいので、私はグーグルアースで調べました。それはほぼ正確でした。2012年にこのブログ「52伊弉諾神宮の不思議」ですでに紹介しています。
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いしぶみには、次のように書かれています。

伊弉諾神宮の神域は 日本書紀に「伊弉諾尊功既畢霊運當遷是以構幽宮於淡路之洲寂然長陰者」 古事記 伊勢本に「故其伊邪那岐大御神者淡路之多賀也」と記される神跡で伊弉諾大神が御神功を果たされ、淡路の多賀に幽宮を構築して余生を過ごされた故地であり、北緯三十四度二十七分二十三秒の緯度上にある。

 當神宮の創始は神代に遡り、伊弉諾尊の宮居跡に営まれた神陵を期限とする最古の神社である。また日本書紀「仍留宅於日之少宮」の記述があり、伊弉諾尊の太陽神としての神格を稱へ 御子神である天照皇大御神の差昇る朝日の神格と対比する日之少宮として 御父神の入り日(夕日)の神格を表現してゐる。因みに

全国神社の本宗と仰ぐ伊勢の神宮(皇大神宮)は、この神域の同緯度上に鎮座し、更にその両宮を結んだ中間点に最古の都「飛鳥宮藤原京」が営都されてゐるのである。


専門家の協力を得て當地から太陽軌道にあたる極地にあたる方位を計測すると夏至、冬至、春秋仲日の日の出と日歿の地に神縁の深い神々が鎮座してゐることを次の通りに確認することができた。緯度線より北への角地二十九度三十分にあたる夏至の日の出は信州の諏訪湖(諏訪大社) 日歿は出雲大社日御碕神社への線上となる。春分秋分は伊勢の神宮から昇り海神神社(對馬国)に沈む。南への角度二十八度三十分にあたる冬至の日の出は熊野那智大社(那智の大滝)日歿は天孫降臨伝承の高千穂嶺(高千穂神社・天岩戸神社)となるのである。(いしぶみの説明文)

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今、私が思うことは、この祭祀線は延喜式で国が奉幣する式内社が決められた10世紀以降のものだということです。
まず、祭祀線の引き方が新しいのです。
古代に祭祀線を引くとしたら、棒と糸で見える範囲を使ったでしょう。
いしぶみを見ると、藤原宮は引けるでしょうが、伊勢はかなり大変です。冬至の日の出の方向の那智大社は紀伊山地を越えて無理して引けないことはないかもしれません。しかし、九州と對馬はどうでしょう。
太陽と星の高度が図れるようになって、陰陽師が計算するようになって、それを仕事とする集団ができて、初めて実現するでしょう。さらに、高千穂神宮・那智大社・出雲大社・海神神社が国守りの神社として奉幣を受けるようになっていなければなりません。何も関係ない神社は選ばれません。それらが整うのは九世紀、十世紀ではありませんか。
さらに、伊勢神宮以外の諏訪大社・那智大社・出雲大社・伊弉諾神宮など一宮で、延喜式の名神大社です。延喜式で神社の格式や仕組みや神官の地位などが整えられていく中でできてきたとしか思えません。
しかし、祭祀線は10世紀でも、神社はもっと古いのです。
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ご本殿の右奥に楠の樹が見えます。楠が祀られているのです。
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楠が自然にはえる北限は、九州の福岡市です。この神社は楠を祀っていますから、
九州の古神社と同じようにクスが御神体だったかも知れません、神社の始まりのころは。
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夫婦大楠と淡路祖霊社が並んでいます。
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御祭神は、時代が変わり為政者が変わると入れ替えられていくので何とも言えません。が、祭祀が始まったのは古く、九州との関係が臭いますね。
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では、祭祀線を再度確かめてみましょう。伊勢神宮と海神神社からです。
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右下は伊勢神宮、以前引いたラインなので空地にラインが集まっているようですが、遷宮されて社が移動しているのです。もし、このラインが祭祀線として引かれたものであるなら、記紀に表現された神話が一般化し、王家の祖先は高千穂に天下り神武天皇が紀伊国からヤマトに入ったという神話と、更に大国主の国譲り神話が成立していることが前提となります。
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じょうずに記紀神話を具体的に表現したことになるのです。
別の言い方をすれば、記紀神話を浸透させる為にも神社の格付は重要でした。国家の幣を受けるべき神社は何度も確かめられ認定され続けました。平安時代の貴族たちは日本書紀を必死に学んで地方へ国司として配属されて住み着いたり、戦乱の時代に地方に逃れたりして、神話と神道は拡散されたのです。
それまで、蚊帳の外に置かれていた庶民も祖先の神を捨てて伊弉諾や天照大神にすがったので、各地の神社のご祭神が大混乱したのかもしれません。そんな中で、誰にも邪魔されなかった社とご祭神が残されているのです。
そんな神社に参拝すると、なんとなく落ち着きます。

淡路は本当に面白いところです。そして、畿内の為政者によって大いに搾取され利用され翻弄された土地です。その多難の歴史が美しく花開いていると思いました。

出合った人はみんな親切で美しい人ばかりでした。また、お邪魔します。


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# by tizudesiru | 2019-11-03 13:25 | 372古代史の謎は祭祀線で解ける | Trackback

魏武王・曹操は寒冷期を乗り越え、漢王朝の文化を発展させた

中国の河南省安陽市で発掘された墓に西高穴二号墳と命名されました。そこが記録にある「曹操高陵」と同じ場所であったこと、副葬品に「魏武王」と記した石牌(せきはい)があったことなど、魏武王は曹操を指しますから、曹操の墓であることが判明確定したのでした。
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三国志時代の曹操の墓だなんて…すごい発見でした。これを見ずに死んでしまった人に申し訳ない気持ちです。
さて、曹操の時代は地球的には寒冷期でした。邪馬台国の卑弥呼の国民も飢えました。それで、半島に助けを求めて1000人も移住したと「新羅本紀」に書かれていました。

三国志展の図録にも、次のようなグラフが掲載されていました。
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寒冷期に入り、人口は2世紀の6000万人近くから、3世紀には1000万人ほどに激減しています。作地面積が減少し、人口減少・戦争へと時代が流れたのです。人々は苦しみから「太平道」や「五斗米道」などの宗教に傾きました。「黄巾の乱」は、太平道の結社が起こした反乱でした。
乱が平定された後、残党の一部は曹操の軍団に組み込まれました。
曹操が支配した黄河流域は黄河文明の発祥の地で、人口も多く人材にも恵まれました。しかし、寒冷期に入ると戦乱が頻発し、農業も危機的状況となりました。そこで、曹操は屯田制をはじめ、土地を人民に与えて開墾させました。
結果、食料増産が進み、三国の戦いで有利になったのでした。
そして、
曹操は漢王朝の文化を受け継ぎ発展させました。書を読み、詩歌を詠み、書をよくするのは、支配者のたしなみだったのです。
 
写真は曹操の人形ですが、曹操は本当に英雄でしたね。その祖先は、漢王朝創立の功臣である曹参(そうしん)とされ、曹氏一族は官僚として長く仕えました。曹操の祖父の曹騰(そうとう)は宦官となり後漢王朝に信頼され、養子の曹崇(そうすう)は大臣となっています。曹操はその曹崇の子で、エリート官僚でした。
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220年、曹操(155~220)が没しました。子の曹丕(そうひ)は、後漢の献帝から帝位を譲り受け、「魏」が成立しました。220年の事です。
221年、魏の成立を知った劉備も「我こそ前漢皇帝の末裔」として即位したのでしたね。それが「蜀」でした。
魏・蜀・呉の三国の中で、魏が一番人口も多く豊かだったのです。
 
倭女王・卑弥呼も、曹操や「魏」のことは聞いていたでしょう。
景初二年(?)、卑弥呼が魏に遣使したのは239年だそうで、この時「親魏倭王」の印綬を受けています。なぜ、239年なのか、それは、遼東の公孫氏が魏の司馬懿(しばい)の軍に攻められ滅びたからです。倭は公孫氏の帯方郡に属していました。(三国志・倭人伝には、「景初二年」と書かれていますが、それは、「景初三年」の事で、倭人伝の間違いとなっているようです。)

卑弥呼は後漢の後を継いだ「魏」に朝貢したのですが、それは、公孫氏の滅亡と無関係ではないでしょう。寒冷期を乗り越えた「魏」を宗主国としたかったし、半島関係や国内事情もあったはずです。
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上の写真は三国志展の図録にある「毋丘倹紀功碑」ぶきゅうけんきこうひ  です。
公孫氏滅亡の史実を伝える資料だそうです。図録には、
『一行目に「正始三年(242)に高句麗が背いた」とある。
「三国志」には、正始五年から六年(244~245)にかけて魏の将軍の毋丘倹(姓が毋丘、名が倹)が高句麗に侵攻し、高句麗の首都を攻め落とすという大勝利をおさめ、征服地の三か所にその業績を記した碑を建てたと伝えるが、その一つである』と書かれているのです。
『一~二行目に魏による高句麗攻撃のさまを記し、四行目以下に功績をあげた将軍の名を列挙している。六行目には「行碑将軍領玄菟太守王頎」こうひしょうぐんりょうげんとたいしゅおうき、と推定される。王頎はこのあと帯方郡太守となり、倭女王卑弥呼と魏の外交を仲介した。』(図録より)
確かに、王頎の名は「倭人伝」に出ています。④に「太守王頎、官に至る」とありますから、「太守に着任した」のです。
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訳文は次の通りです。(講談社学術文庫 「倭国伝」 藤堂明保・竹田晃・影山輝國)


①正始元年(240)、帯方郡の太守弓遵(きゅうじゅん)は、建中校尉 梯儁(ていしゅん)らを遣わして、詔と印綬を倭国へ持って行かせ、倭王に任命した。そして、詔と一緒に、黄金・白絹・錦・毛織物・刀・鏡、その他を渡した。そこで、倭王は使いに託して上表文を奉り、お礼を言って詔に答えた。

➁正始四年(243)、倭王はまた、大夫伊声耆・掖邪狗ら八人を使いとして、奴隷・倭の錦、赤青の絹、綿入れ、白絹、丹木、木の小太鼓、短い弓と矢を献上した。掖邪狗らは八人とも、卒善中郎将の印綬をもらった。


③正始六年(245)詔を発して倭の難升米に、黄色い垂れ旗を、帯方郡の太守の手を通して与えた。


④正始八年(247)帯方郡の太守、王頎が着任した。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と以前から仲が悪かったので、倭の載斯・烏越らを帯方郡に遣わし、お互いに攻めあっている様子をのべさせた。帯方郡では、国境守備の属官の張政らをつかわし、彼に託して詔書と黄色い垂れ旗を持って行かせて、難升米に与え、おふれを書いて卑弥呼を諭した。


⑤使者の張政らが到着した時は、卑弥呼はもう死んでいて、大規模に直径百余歩の塚を作っていた。殉葬した男女の奴隷は百余人であった。かわって男王を立てたが、国中それに従わず、殺しあいをして、当時千余人が死んだ。そこでまた、卑弥呼の一族の娘で台与という十三歳の少女を立てて王とすると、国がようやく治まった。そこで、張政らはおふれを出して台与を諭し、台与は倭の大夫、率善中郎掖邪狗ら二十人を遣わして、張政らを送って行かせた。倭の使いはそのついでに魏の都まで行って、男女の奴隷三十人を献上し、白珠五千、青い大勾玉二個、めずらしい模様の雑錦二十匹を、貢ぎ物として差し出した。

 
以上は「倭国伝」からの抜粋ですから、個人的な訳文ではありません。「卑弥呼以って死す」の意味は諸説あり、『以って』の解釈で全く違う意味になることは、みなさん、既にご存知でしょう。
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ここで、三国志展に戻ります。帯方郡太守 王頎の名を刻んだ金石文が出て来た事は卑弥呼の遣使を裏付けることになるのです。では、倭国に張政を遣わしたのは「帯方郡」であり、王頎だとなります。王頎は軍事的な指導者でありましたから、卑弥呼に対しても軍事的な判断をしたでしょう。それは、老女の指導者はいらないということです。
だから、卑弥呼は死を賜った、と思うのです。
しかし、倭国は男王では納得しなかった、のです。
倭国としては無念だったと思います。それで、男王を受け入れなかったと。

王頎の判断は間違っていたのです。張政らは慌ててやり直し、台与(壹与)を選んだのでした。彼女は女王として役目を果たしたということになり、倭人伝は終わります。
三国志展の金石文は、王頎が軍人だったことを示しました。そこで、わかることもあるのですね。卑弥呼の国は、この後、どうなったのでしょうね。
今日は、卑弥呼の死は尋常な死ではなかった、彼女は死を賜ったのだと、書きました。
では、また、お会いします。



# by tizudesiru | 2019-10-22 18:56 | 371三国志の時代に卑弥呼は生きていた | Trackback

三国志展に選ばれた鏡・三段式神仙鏡とは何だ?

九州国立博物館で始まった「三国志の時代展」に展示されている三段式神仙鏡。あまり知られていない鏡です。実は、重要だったのです。
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それにしても、なんとなくなじみがありませんよね。
なぜこの鏡が展示されたのか、実は意味深なのです。
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その三段式神仙鏡によく似た鏡があるのです。群馬県前橋市、前橋天神山古墳から出土した鏡(上の画像の右の鏡)です。現在の前橋天神山古墳は、気の毒な状況です。
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しかし、後円部が残されたことを喜びましょう。
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階段を登れば墳丘の上に立てます。出土した鏡は、群馬県立博物館に展示されています。
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前橋天神山古墳の説明文でもわかる通り、しっかり記述されているのは三角縁神獣鏡です。卑弥呼の鏡だと全国の人が信じているからです。
しかし、
今まで蚊帳の外に置かれていた「三段式神仙鏡」が急に脚光を浴びることとなったのです。
それは何故か、答えに迷いはありません。
卑弥呼を機内に持ってくるためです。そのためには、東国の後押しが必要なのです。
まさか、九州と東国は結び付くまい、と、考えての画策です。


「三国志展」の図録には、次のように書かれています。

日本には「呉服」や「蜀の錦」などの言葉があるが、三国ゆかりの物が日本にもたらされることがあったのだろうか。ここでは、日本で出土する鏡をもとにみていこう。

一番多いのは魏の年号を記した鏡だ。邪馬台国の卑弥呼が239年に明帝からもらった鏡は三角縁神獣鏡が有力視されている。「師(作者)は洛陽に出づ」という銘文もあり、技術的なつながりも深い。ただし、三角縁神獣鏡は基本的には日本でしか出土せず、中国では魏の年号を記した鏡は呉の領域でしか見つかっていないなど謎が多い。

蜀の鏡は不明である。ただし、五斗米道の思想を体現した三段式神仙鏡が出土している。曹操による漢中平定ののち五斗米道の信者は漢中や鄴(ぎょう)に移されたので三段式神仙鏡も魏や晋でもつくられたのだろうが、もとは蜀の地で生まれた信仰だ。

呉では神獣鏡など銅鏡の生産が盛んであったが、呉に由来する鏡は日本では少ない。日本が呉の地域の影響を強く受けるのは、倭の五王が南朝に遣使する五世紀以降である。(図録より)

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前橋天神山古墳の上に立ってあたりを見回しました。この古墳の被葬者は、かってここを治め、この地を眺めた人なのでしょうね。

彼は、どのようにして三段式神仙鏡を手に入れたのか、それは畿内との交流があったからという展開になるのでしょうか。
いえ、そうとは言えません。
東国に仏教文化が早く入ったのも、鏡や鈴の文化が浸透したのも、九州との関係があったからです。そうして、6世紀初めの政変で東国に画期が訪れた。人の移動です。
東国では「渡来系の人の移入」でかたずけていますが、それだけではない。人が大量に動く何かがあったから、です。それを、稲荷山古墳(埼玉)は訴えているではありませんか。
渡来人でかたずけてはならないと、私は思っています。
舌足らずですが、今日は、この辺で。




# by tizudesiru | 2019-10-20 01:22 | 371三国志の時代に卑弥呼は生きていた | Trackback

三角縁神獣鏡が時代を席巻した理由は何か

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九州国博では三国志の時代展が開催中です。前々回に「畿内説の学者さんたちは、卑弥呼の貰ったという鏡を三角縁神獣鏡から画文帯神獣鏡に換える方針だ」と書かせていただきました。
そこで、疑問が生じます。
そうは言っても、今日まで大量に出土した三角縁神獣鏡はどういう位置づけになるのだろう? とか、
既に500面は越えている(?)という出土状況をどのように解釈するのだろう? とか
つまり、おいそれと鏡のみを交換するわけにはいきません。
畿内を中心に三角縁神獣鏡は重要視され、ありがたがられ、羨望の的となり大量生産されたのですから、その思想の根源を考えなければなりません。
下の画像は奈良県の黒塚古墳です。30面以上の三角縁神獣鏡が出土しています。
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然し良く見ると、被葬者の頭部に置かれていたのは、13.5cmの画文帯神獣鏡ですね。しかも棺内にあったとは…三角縁神獣鏡は棺外ですから意味深です。大きな三角縁神獣鏡が棺外で、ちいさな画文帯神獣鏡が棺内です。これは大きく扱いが違います。鏡の価値の違いです。
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では、黒塚古墳の三角縁神獣鏡にはどんな思想があるのでしょう。
神獣や東王父、西王母、が当時の思想を反映しているのは明らかです。
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これらの鏡の中で、一つ意味のわからない不思議な文様があります。
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クリスマスツリーのような不思議な木(?)でしょうか。奥野正男氏は「笠松形文様」と言われましたが、何でしょうか。この文様は三角縁神獣鏡に限られた文様だそうです。それからして、中国鏡ではないと奥野氏は主張されました。
この文様は、黒塚古墳出土の鏡の半数近くに刻まれています。
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これはいったい何でしょう。当時の人々には、ありがたい意味のある文様です。そこで、今回の「三国志の時代展」に意味を考えるヒントはないかと探してみました。なかなか見つかりません。あえて挙げるなら、これです。
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これって何でしょう。笠松形文様に確かに似てはいます。三国志展の図録の説明には次のように書かれています。
「揺銭樹」ようせんじゅ*台座は緑釉陶(焼き物です)
『大小400個もの円銭を飾った青銅製の樹木が、緑釉陶の台座に挿し込まれている。円柱上の枝が四方に伸びる。枝には銅銭のほか、不老不死をつかさどる西王母、鹿に乗る人物などを配する。ある銅銭は「五利后」という銘文をもつ。揺銭樹は後漢時代の墓で140個以上出土しているが、大部分が蜀の地に集中する。死後に仙人になれるように、財に恵まれるようにといった願いや、当地の人びとが信仰した神仙の世界を反映したものと考えられる。
「三国志」魏書・邴原伝(へいげんでん)に引く「邴原別伝」に、ある樹の枝に民衆が銅銭をどんどんかけて祀った記事がある。揺銭樹の副葬は蜀の地にほぼ限られるが、銭の樹への信仰はほかの地域にも存在したようである。』

蜀は劉備が建国した国です。劉備は、前漢皇帝・劉啓の子・劉勝(中山靖王)の流れと伝えられています。220年、曹操の子・曹丕(そうひ)が漢王朝を滅ぼして魏の皇帝となると、漢王朝の正当な後継者は自分であると主張して劉備は皇帝に即位しました。劉備は国名を「漢」と自称しましたが、『三国志』は、歴史的な地名である「蜀」を採用したのです。
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揺銭樹という副葬品でしたね。三国のうちの蜀で、死者のために作られたものでした。それが三角縁神獣鏡の文様に取り入れられたとすると、西王母といい、神獣といい、揺銭樹といい、死者のための文様です。
三角縁神獣鏡とは、本来、葬送の道具として死者のために作られたということですか! 大いに納得です。墓に入れるために作られたということです。では、
魏が卑弥呼に下賜した鏡は、、葬儀の道具だったのでしょうか。
まさか?!ですよね。葬儀の道具として制作したのは、日本の人たちで技術を提供したのは、西晋に追われた人たち、呉(280年滅亡)や蜀(263年滅亡)や魏(265年魏に譲位)の人だったかもしれません。

三角縁神獣鏡の工人は呉から逃げてきた人たちだったという説を聞いたことがありますが、笠松形文様が揺銭樹なら、蜀の人も一緒に来たということでしょうか。呉の人が倭国に渡ってくることは、可能でしょう。かれらは舟を使って交易で財をなしていたのですから、舟を作る技術に優れていたのです。
280年、呉が西晋の軍勢に滅ぼされたとき、呉の人は舟で海流に乗って倭国にきたでしょう。その時、一緒に来た蜀や魏の人がいた、となります
そして、彼らが「葬儀の道具としての鏡、」を作り生業としたのでしょう。
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(この画像は「方格規矩鳥文鏡」ほうかくきくちょうもんきょう、です。後漢から三国時代の鏡で、公孫氏の中心地であった、現在の遼寧省遼陽市にある墓から出土したものだそうです。公孫氏は遼東の支配も認められ、のちに半島の楽浪郡も支配下におさめ、三世紀初頭には楽浪郡の南に帯方郡を設置しました。
倭と韓は帯方郡に属したのですから、方格規矩鏡が倭でもてはやされたのは公孫氏との関係でしょうか。)
ですから、魏の鏡とは若干違っている文様が生まれ、銅を節約するために外枠の強い三角縁が生まれた、となりましょうか。中の銅は薄くても外側が強ければ形がゆがんだりしない鏡となったのです。安価で豪華に見える三角縁神獣鏡は、首長たちに喜ばれたので大量生産となったのです。
需要がなければ生産は、ありません。みんながこぞって求めたから、全国に広がったのです。王権からの配給とは思えません。
では、鏡がなぜ葬送の道具となったのでしょう。何に使われたのでしょう。そのあたりも考えなければなりませんね。

東京国博と九州国博で開催の「三国志展」に深い絶望を感じたのですが、でも、少し思ったことを書いてみました。

まだまだ、卑弥呼はどこにいたのか。なぜ、倭女王は「魏」を選んで遣使したのか。曹操を尊敬していたのなら、それをどのように取り入れ表現したのか。卑弥呼の時代の人の思考はどのような形で残されたのか。その経済基盤は何だったのか‥等々にかかわることなど、まだ大事なことに触れていません。
以上、解決はしていませんが。
また、お会いしましょう


# by tizudesiru | 2019-10-15 21:02 | 371三国志の時代に卑弥呼は生きていた | Trackback

東日本の皆様へお見舞い申し上げます

2019年、たびたびの台風より大きな被害を受けられた皆様に心よりお見舞い申し上げます。
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藤岡市の歴史資料館のがけ下には猿田川が流れていて十二天橋が架かっていました。この猿田川は直ぐに鮎川に合流し、又すぐに鏑川と鮎川が合流するのです。ですから、ここの落合の地名は二つの川の合流地点からきているのでしょう。そこにあるのが七輿山古墳でした。この豪族は二つの川の利便性を使って財を成したのかもしれません。その川が災難ももたらすということなのですね。
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高崎市には保渡田八幡塚古墳があります。
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お見事な埴輪群像のレプリカでした。
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保渡田八幡塚古墳の埴輪から、これまで武人とされてきた人物埴輪が首長をあらわしたものだと変わりました。
儀式における首長の装いが様々であることが分かったのです。
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それから、綿貫観音山古墳の埴輪も見事です。観音山の埴輪は、県立博物館に展示されています。
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2019年、この度の台風より大きな被害を受けられた皆様に心よりお見舞い申し上げます。群馬の方々にはお世話になりました。そして、昨年の11月、今年の7月と東日本を訪ねて懐かしく思いました。

どうぞお元気でいらしてください。
また、お邪魔いたします。

# by tizudesiru | 2019-10-15 01:00 | Trackback

弥生後期の政変・広形銅戈はどこへ消えたか

東京国博と九州国博で開催の「三国志展」に深い絶望を感じたのですが、でも、少し思ったことを書いてみましょう。
それは、卑弥呼はどこにいたのか。なぜ、倭女王は「」を選んで遣使したのか。曹操を尊敬していたのなら、それをどのように取り入れ表現したのか。卑弥呼の時代の人の思考はどのような形で残されたのか。その経済基盤は何だったのか‥等々にかかわることでもあります。
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まず、弥生時代の全盛期・弥生中期に甕棺墓のほとんどが消えたということです。弥生後期の墓が急激に減り、甕棺も急に小さくなります。それも、甕棺文化圏の中心から。
大型甕棺は弥生中期に突然消えるのです。それは、甕棺文化圏全体で起きた変化で、青銅器が墓ではなく土中に埋納される事態になりました。
これは、埋納祭祀などではなく祭祀具隠しでしょう。奪われたくないから隠したのです。何か大きな権力が動いた証拠です。隠さざるを得なかった…
ここに、不思議な現象があります。中広形銅矛と広形銅矛の問題です。
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広形銅矛とは、中広形銅矛の発展形です。
銅剣・銅戈・銅矛は、細形から中細形へ、それから中広形へ、そして広形へと形態が変化し大きくなります。上の図によれば、甕棺文化圏の広形銅矛は非常に少ないのです、対馬には大量に出土しますが。福岡平野に鋳型はあるのに、出土がほとんどなしです。どういうことでしょう。
対馬に大量に広形銅矛が出土した理由は、ふたつ。移動する必要がなかったか、奪われなかったからです。では、北部九州の広形銅矛はどうなったのか。それは、甕棺文化圏の人が持って移動したと思います。なぜ? それは、知らない土地に行くための、それが金品代わりだったからです。
そして、銅矛(どうほこ)だけではなく、銅戈(どうか)も同じ運命をたどりました。両者は、同じ出来事に出くわしたのです。
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広形銅戈の鋳型はあります。春日地域で生産していたのです。しかし…製品はありません。糸島などに完品が若干残っていますが。当時、生産していたし、流通もしていたのです。それなのに、鋳型のある福岡平野での広形銅戈の出土例がほとんどない……
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パネルには『中広形銅戈は、分布域が北部九州にほぼ限定され、この点銅矛とは異なる。広形銅戈は出土数がきわめて少ないことから、鋳つぶされて広形銅矛の原料になったとする説もある。』と説明されています。

確かに、前段階の「中広形銅戈」は北部九州で大量に出土してます。
しかし、次の段階の「広形銅戈」は、ほとんど出土がありません。なぜ?
広形銅戈の鋳型はあるのですから、おかしいです。
鋳つぶされた説は当然です。では、同じ北部九州の銅矛になったのでしょうか。
いえいえ、そうではない。それは、先にあげた「銅矛」の出土図で明らかです。
明らかに、広形銅矛は生産が減少したためか、出土が減少しています。原料が増えてはいないし、生産につながっていません。

広形銅戈はどこかに持ち込まれ、鋳つぶされたのですが、そこは北部九州ではないどこか、です。
ヒントは「ガラス工房」です。春日市須玖五反田遺跡は弥生のガラス工房跡です。ガラス工房は、丹後半島と大阪に伝播したのではないでしょうか。ガラス製品は生活必需品ではありませんから、経済的な有力者しか必要としません。
需要と供給が一致したのが、丹後半島と大阪湾岸だったのではないでしょうか。
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北部九州に急激な変化が起きた時、人々は何を考えたか。それは、移住でしょう。

北部九州にしか勢力を伸ばしていなかった銅戈祭祀の人々は、金品の代わりに銅戈を抱えて移動した、そう考えます。
何か大きな変化が起こったので、移動せざるを得なかったのです。
もちろん、四国地方には行けません。知り合いがいないのですから。そこには、銅矛祭祀の人たちが移動していますから。

もう一つ言えること、北部九州の文化の一つ「銅矛祭祀」は、中国地方ではなく四国地方に伝播していたということです。弥生時代の北部九州文化は四国に進出した、となります。中国地方では出雲地域に進出していたということです。
出雲も政変の影響を受けたことになります。
神話と伝承によれば、出雲はその後も侵略を受けます。
もちろん、古墳時代に北部九州でも大きな政変がありました。不思議なことに出雲も連動していますね。
銅矛・銅戈を祭祀道具とした人々の移動について考えました。では、銅剣を祭祀道具とした人々は、どうなったのでしょう?
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鉄素材の素環頭太刀は、九州の弥生の組み合わせ式石棺の中から出土します。武器として工具として鉄は活躍しました。
福岡県糸島市の平原王墓(女性王)には素環頭太刀が副葬されていました。  
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平原王墓では、内行花文鏡など鏡は割られて副葬されていました。日本で一番大きな鏡が割られていたのです。鏡が祭祀道具であれば、その呪力を奪ったことになります。この女性の胸のあたりに置かれていたのが、素環頭太刀です。
副葬された鏡の量からして、この女性が当時のトップ首長であることは間違いありません。その胸に置かれた素環頭太刀にはどんな意味があるのか、自明でありましょう。特別な太刀、大事な鏡より一段意味のある副葬品です。
まさに、卑弥呼が下賜された五尺刀ではありませんか。
この平原王墓について年代を卑弥呼の死亡年よりあげたり下げたり、学者は苦心惨憺していますが、普通に言えば、この人が「以って死す」の卑弥呼ではありませんか。
今のところ、そう考えざるを得ませんね。
卑弥呼は敗れたのです、呪力を失って。邪馬台国はほろんだでしょう。
だから、人々は混乱し移住せざるを得なかった。
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最近、何人もの知り合いが笑って言ってました。「卑弥呼が魏を主国としていたのなら、創始者たる曹操の墓より大きな墓を自分のために作ったりしませんよね。」
そう言われると、そうかもしれません。曹操高陵は地下にあり、墳丘も作らせず木も植えさせませんでした。そういう意味では、どでかい前方後円墳には違和感がありますね。
そうは言っても、大型古墳は首長のあこがれとなって全国に広がるのですから、あこがれの首長が存在していて、彼にあやかりたいと思ったということですよね。
それは、圧倒的な武力を持っていた首長でしょうか。武力は経済力で支えられますから、何を経済基盤としたか考えねばなりませんね。

しかし、今考えているのは、曹操の国を頼った卑弥呼には、どんな政治的状況があったか、邪馬台国が滅亡して人々はどうなったのか、です。
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糸島富士と呼ばれる可也山は、半島の可也にちなむ地名です。ここに半島の人が多く訪れたのです。この山は、いろいろ見てきたでしょうね
では、またお会いしましょう。


# by tizudesiru | 2019-10-10 15:15 | 371三国志の時代に卑弥呼は生きていた | Trackback

卑弥呼が貰った鏡を変えて畿内説を示唆する方向に

東京と九州の国立博物館で開催されている「三国志展」の開催意図は、他でもありません。邪馬台国九州説の撲滅でしょう。今日、「邪馬台国が九州に在った」と言っているのは素人で、考古学者は畿内説になっている。というのが事実です。文化庁もその方向です。
その意図がはっきり表れているのが、今回の三国志展です。
私が知りたいのは事実と真実です。本当に、邪馬台国畿内説でいいのか、未だに納得がいきません。
これまでに計画的に行われてきた蛮行を、科学的とか、最新の知見とか、表現していますが‥‥


九州説潰しに、関東からの縄文文化の伝播でせめ、巨大古墳の世界遺産化でせめ、文献は嘘が多いとして読みを変え文字を変えを承認し、九州などの地方の発掘費用を文化庁が遮断し、特定地方の古墳群を観光地化して市民の意識を操作し、ついに「邪馬台国畿内説の重要な証拠であった三角縁神獣鏡の否定」に取り掛かりました。
それが、画文帯神獣鏡への切り替えです。

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国博の三国志展では、三角縁神獣鏡を否定しています。さも公平な態度で、しかし、代わりに画文帯神獣鏡を出してきました。前漢鏡でも後漢鏡でもありません。大きな神獣鏡です、それも、環状乳画文帯神獣鏡です。この鏡は、三角縁神獣鏡が危なくなってきた時、現れた鏡です。
あの、奈良のホケノ山古墳(箸墓の近く)から出土した画文帯神獣鏡に結びつけるはずです。
学者さんたちは、「もうすぐホケノ山古墳の年代は、三世紀後半~四世紀前半から、三世紀半ばに引き上げられる」と言ってました。
三世紀半ばになれば、卑弥呼の墓と言われる箸墓より古くなります。
それが狙いなのです。ホケノ山古墳が箸墓より早く作られた古墳とされているので、四世紀ではまずいのです。なんとか三世紀の248年に没した卑弥呼より、先に葬られた人の墓だとしたかったでしょう。それが、既に準備されています、もちろんマスコミを使って。


今度の三国志展も、畿内説に持って行くための市民の意識改革の一環です。全体を見回すとそうなります。わたし達市民は何時も振り回されます。発掘するお金もないし、資料を調べる時間もありません。しかし、直感はあります。なんだか変だと思う‥‥
そうです、変なのです。
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それは、素環頭大刀です。大刀の柄の先端に丸い環が付いています。
ここに紐や布を通して手首に巻きつけ、戦いのとき手から離れないようにするのです。相手に叩き落されたらおしまいですから、落さないための紐通しの環なのです。
三国志の時代の刀は素環頭で、戦いの道具でもあります。

また、文字を書くために木を削る道具の刀子も形は素環頭と似ています。この時代は素環頭だった…素環頭大刀は九州の組み合わせ式石棺の中から出土します。
糸島の初期古墳である一貴山銚子塚古墳からも出土します。
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九州の弥生遺跡からどんなに大量の鉄や銅の武器・工具が出ようとも、それは渡来人の持ち込みだとなりましたね。紀元前4世紀には渡来人が来て、九州の平地を席巻したとなりつつあります。九州の平地の全てに渡来人居住地というくくりになり、縄文系の人は山地に住みその骨は消えていった、となっているのです学者さんたちは、そこで手を打ったという‥‥前代未聞の展開です。
ですから、残るのは古墳の時期の確定です。
ホケノ山古墳も一貴山銚子塚古墳も、このブログで何度も取り上げました。下の写真のようにホケノ山古墳の墳丘から箸墓が見えます。なんとしても、ここを三世紀半ばにしなければなりません…
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あれほど三角縁神獣鏡が大量に出土したと騒いだ黒塚古墳の時代は終わらされました。下の写真は黒塚古墳。ここも三世紀と言われたのでしたね。
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わたしには考古学がすっかり色あせて感じられます。本当の事が分からないまま、全く別のステージにいざなわれているからです。税金を使うのなら、どんなに恥ずかしい歴史でも真実を知らせてほしいです。
文化庁は誰のために何を目指していくのでしょう。個人や特定地域の為ではなく、広く市民のための、現在の日本に至るまでの歴史を、そこを掘り続けてほしいです。

絶望と混沌の中で死んでいった人の事を忘れてはなりません。



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# by tizudesiru | 2019-10-08 10:35 | 371三国志の時代に卑弥呼は生きていた | Trackback

神となった関羽の像に会える・九州国博「三国志展」

10月から九州国博で「三国志展」が始まりました。会場に入ると関羽像に出会います。
219年、関羽は非業の最期を遂げましたが、敵将の曹操からも「義の人」と称賛されました。その関羽の像は、スリムです。顔の半分が顎髭という一般化された関羽像と違って、どこか若くりりしく見えます。三国志の中では、人気ナンバーワンですかね。諸葛孔明が好きな人も多いようですが。
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関羽は張飛とともに早くから劉備に仕えました。「同年同月同日に生まれること」を願うのではなく、「同年同月同日に死ぬこと」を誓い、劉備・関羽・張飛は「兄弟のような恩愛」で結ばれていました。
劉備・関羽・張飛が誓いを立てた「桃園結義」以来、三人は行動を共にしていましたが、徐州の戦いで劉備が曹操に敗れます。劉備とはぐれた関羽は、劉備の二人の夫人を守るためにやむなく曹操に投降したのでした。
敵将曹操は、関羽を厚遇しました。「一万人の兵に匹敵する」と言われた関羽でしたから。
関羽は曹操の恩義に報いるために、白馬・延津(えんしん)の戦いで曹操のために活躍します。
が、劉備の所在を知ると関羽は曹操に別れを告げたのです。劉備のもとへ戻る関羽を曹操は止めずに、「義である」と称賛しました。
十九年後の219年、関羽は曹操軍と呉の孫権軍に挟み撃ちにされ、非業の死を遂げました。
その翌年220年、曹操も没します。曹操の子・曹丕(そうひ)が、後漢の献帝(けんてい)から帝位を譲られ「魏」が成立するのです。
つまり、「魏」という国は、曹操が没した後に生まれた国ですね。
後漢から帝位を譲られた曹氏に対して、天下を治めるべきは前漢の中山靖王劉勝に連なる家柄であるとして、221年に劉備が蜀の地で皇帝になることを宣言しました。
そして、229年、孫権も帝位につき、魏・蜀・呉の三国の時代となるのです。

正史「三国志」は、155年の曹操の誕生から書き出されていますから、155年から280年の「呉が西晋に滅ぼされ、西晋が成立する」までを三国志の時代として、「三国志展」は開催されています。
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あの赤壁の戦いは、208年ですからまだ三国は成立していません。
この時、劉備・孫権軍対、曹操軍の戦いで、曹操が破れます。ここで、天下三分の形態が固まるのです。
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三国志展には、気になる一級文物がたくさん展示されています。


中国が門外不出の展示物を国外に出してくれたのです。この展示物のために、多大な時間をかけて相当な人が働きかけられたことでしょう。写真も撮っていいのです。
すごいサービスだと思います。とても、面白かったです。
思ったのは、この時、卑弥呼は生きていたのだということです。魏からたくさんの文物を下賜されていますから、かならず同時代のにおいのするものをもらっているはずです。そう思ってみると、面白いのです。
では、また。


# by tizudesiru | 2019-10-05 01:44 | 371三国志の時代に卑弥呼は生きていた | Trackback

「甕棺の人骨は渡来人説」とは、邪馬台国九州説の否定なのか

納得できないことにぶち当たりました。
九州の弥生の墓制、甕棺文化圏の人は渡来系だというのです、すべて。山口県の土井ヶ浜遺跡では300体ほどの人骨が見つかりました。福岡の金隈遺跡でも130体ほどの人骨が見つかっています。佐賀でももちろん甕棺墓から人骨が出ました。
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甕棺に残った人骨の特徴から、彼らは渡来人だというのです。日本列島には押しなべて縄文人が住んでいて、がっちり形でほりの深い顔だちだった縄文人がいる列島へ渡来人が侵入し、河口の湿地を中心に稲作を始めて縄文人とは住み分けた、というのです。渡来人系の人々は、顔が長くほりの浅い顔の長身だったというのです。
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しかし、かんじんの半島では弥生時代に当る時期の人骨はほとんど見つかっていません。ですから、半島人の形態が不明のままなのに、九州の甕棺文化圏の人が全て渡来系だとするのは早計ではありませんか。更に、縄文人の骨も非常に少ないのです。
私もこの辺りは重要だと思っていました。同じ弥生人の骨が地域によってかなり違っているからです。縄文系弥生人とか、渡来系弥生人とか言われますが、日本列島人そのものが、外から来た人種です。近親婚を繰り返しながら、他と混血を進めていったのでしょう。その過程では、地域差があるのは当然です。

もちろん、彼らが混血しながら列島に住み着いたとは聞いたことがあります。
ここで問題なのは、骨の特色は長く何百年も同じなのです。金隈遺跡を見ればそういうことになります。600年間、縄文系の人々との混血はなかったのでしょうか。

600年間同じ特色の骨であれば、その人達そのものが列島にもともと住んでいたとなりませんか。混血は600年より前に終わっていて、彼らが稲作を受け入れたというのでしょうか。

弥生前期に半島から九州や山口に人間が大集団で渡り、彼らが大集落をつくるという展開は納得がいきません。それも、縄文人とは住み分けたから混血はしなかった…
だって、金隈遺跡は紀元前4世紀から継続しているのです。
彼らは一度に渡ったのでしょうか。少しずつ一定の地域に渡ったのでしょうか。
福岡平野の一等地を耕し、そこを見渡す一等地の丘陵を墓地としたのです。在地の人との交流もなく、そこを手に入れることができたのでしょうか?
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弥生前期の甕棺墓と後期の甕棺墓から出土する人骨の形態が同じなら、紀元前400年には混血が終わって形質の同じ身体になっていたとなるからです。遺伝学的には優性遺伝子や劣性遺伝子があるでしょうから、同じ因子を潜在的に持っておれば、近親婚では劣性遺伝子も外側に出てきます。そうなると、骨の特色は一定にはなりません。様々な形態があらわれるでしょうに。
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それにしても、甕棺ではこんなに骨が残るのですね。鼻が低くて細い顔だということは分かりますね。
忙しかったので、ブログができませんでした。又、お会いしましす。


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# by tizudesiru | 2019-09-24 01:34 | 368 北部九州で弥生文化は花開いた | Trackback

金隈弥生遺跡は 卑弥呼の時代まで六百年間継続し、136 体の人骨が出土

福岡県福岡市の金隈(かねのくま)遺跡に出かけました。甕棺墓が見学できるように公開されています。『金隈遺跡では、約2,400年前から1,800年前、弥生時代のおよそ600年にわたって甕棺348基をはじめ土壙墓(どこうぼ)119基石棺墓2基の合計469基もの墓が発見されています。』とパンフレットに書かれています。ここから136体分の人骨が出土しました。貝輪や石製の小玉、甕棺に供えられた小型の壺が出土していますが、青銅製の武器などはありません。福岡平野の西の吉武高木遺跡と東の金隈遺跡ではずいぶん違っています。西の吉武高木遺跡では、弥生時代の前期の鏡や玉や銅剣が特定の墓域から出土していますから。(福岡市博物館に展示されています)
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4体分の人骨が展示されていますが、本物だそうです。他は九州大学で保管されているそうです。ここの骨で、弥生人の骨格の特色が分かったと聞きました。DNA分析を加えれば更に詳しいことが分かるでしょうね。期待がふくらみます。
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折り重なるように甕棺墓と土壙墓がありますから、長い間に同じ場所に埋葬を繰り返したのですね。
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子ども用の甕棺も多いですね。下の写真のように、子どもに副葬されたゴホウラ貝輪もあります。ゴホウラ製貝輪は男性に、イモガイ製貝輪は女性に副葬されるのだそうですから、この子は男子でしょう。
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この甕棺墓群は北部九州の弥生時代の文化や政治の変化を解明できるのでしょうね。600年も続いたのですから。パンフレットには「遺跡の年代を測る『ものさし』として利用することもできます。また、かめ棺墓の中からは状態のよい多くの人骨や貝輪が発見され、弥生時代に生きた人々のすがたや、ほかの地域との交流を研究する上で貴重な資料となっています」
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この遺跡の案内板には、弥生前期から後期の初頭にかけての遺跡と書かれていました。その間は、400年となっています。これは発掘当時の50年前の認識なのでしょうね。昭和47年当時のままの文章ですね…
紀元前200年から紀元後200年の四百年間ここは墓地だったのです。ちょうど卑弥呼(248年没)の時代まで使われていたのですね。それにしても、パンフレットには600年間と書かれていましたが、この説明板には400年間と書かれています。200年の誤差は、大きいですね。
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なるほど、甕棺の形態の変化がわかるのですね。甕棺の変化から時期を推定できるということです。下の図の水色は土壙墓で、この遺跡では土壙墓が最も古い墓とされています。
「弥生時代前期後半ころ(約2300年前)からのちは、かめ棺墓が主体になります。甕棺墓は中期のおわり(約2000年前)にかけて減り、それ以降はわずかに石棺墓がつくられるにすぎません。金隈遺跡は弥生時代のおわり(約1800年前)まで、墓地として使われていたと考えられます。」(パンフレット)
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なぜか、栄えた甕棺文化は断絶するのです。みごとな大型土器の技法は失われたのでしょうか。この甕棺技術が埴輪製作技術につながったのではないでしょうか。カメカンの需要がなくなって工人たち集団は生活に困ったでしょうから。
人が移動するのは、需要と供給の問題、経済活動です。生活の成り立たないところに人は住みません。つまり、弥生後期に何かがあったのです。政治的経済的混乱…それは内乱でしょうか。
そして、誰もいなくなった…三国志の時代を生きた人たちはどうなったのでしょう。

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遺跡は勾配のきつい丘の上に有ります。弥生の森と書かれた広場の中心に横穴式石室の古墳があり、そこが遺跡の最高地となります。屋根をかぶせて残されたのは、甕棺と土壙墓の部分です。下の図の上下(東西方向、西が上)が急な崖になっていることが分かります。金隈遺跡は丘陵の尾根に作られた墓なのです。
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丘の上に展示施設があるので、資料館には階段を上ってたどり着きます。
あたりを歩いていると、気のせいか前方後円墳の上を散策しているように感じられます。北の古墳に向かって緩やかに登りますが、そこが後円部のように思えるのです。気のせいですが。古墳への道は細くくびれています。
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三国志の時代が終わって・・・
弥生人が墓を造らなくなって二百年、この被葬者が此処に墓を造った、ということですか。二百年経っていても、ここは墓地だったのですね。ふむ・・・

面白い金隈遺跡の紹介でした。
ここで、はっきりさせたいのは
卑弥呼の時代には大きな変化があったということですそれは、技術者の移動を余儀なくした…
さらに、弥生時代の骨は甕棺の中には残りやすいが、土壌には残りにくいことです。今、やたらに弥生の人骨と言って木棺墓から立派な木片とともに、立派な人骨が出土しています、ある地方で。それも、組み合わせ式の木簡は金属器で加工した「ほぞ穴」のある立派なものです。残らないはずの木材と残らないはずの人骨が相次いで見つかっている…日本はどうなったのでしょう
「日本は酸性土壌なので、人骨は土の中では30年で消える」と、ある骨の研究者は言われました。しかし、日本のある地方では、木棺墓に弥生の全身の骨がごっそり何体も出土しているという、狐につままれたような話が写真集でまとめられています。
どうなっているのですかねえ。
日本の科学はこれでいいのですかねえ…きになります。
では、またお会いします。


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# by tizudesiru | 2019-09-10 10:33 | 368 北部九州で弥生文化は花開いた | Trackback

三国志の時代・野方遺跡は卑弥呼の時代に重なる遺跡

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福岡市の野方遺跡では弥生の住居址を展示しています。遺跡の中の溝は環濠でしょうか。奥に見える山は、飯盛山でしょう。平群の山です。今は福岡市になっていますが。早良郡平群村の中心にあったのが飯盛山でした。平群という村名も地名もなくなってしまいました。地名の変更で、歴史は見えなくなるのです。
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野方だって、早良郡額田だったのです。額田が消えて野方となりました。
野方遺跡の近くでは弥生後期の鏡「位至三公鏡」が出土しているそうです。これは、卑弥呼のすぐ後の時代の物だそうです。
野方遺跡には後漢鏡が展示されていました。
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そうそう、「卑弥呼が没した前後の時代」は今では、「弥生後期」ではなく『古墳時代』なのだそうです…が、福岡ではあいまいでほぼ「弥生時代」となっています。福岡では、三角縁神獣鏡は4世紀以降の墓や住居址から出土するのです。ですから、その前の弥生時代には三角縁神獣鏡は出土しないのです。

これは、どういうことですかね。特定の地域が「
三角縁神獣鏡の時代」を3世紀としたのは「間違い」ということですかね。
すると、近畿の古墳時代区分は間違いの上に構築されたということですか。ほんとはどうなのでしょうね。

10月1日から九州国立博物館でも「三国志の時代の展覧会」があります。隣国中国の学者は「魏の鏡として三角縁神獣鏡はありえない」という見解ですから、みんなで「本物の魏の鏡」を見た方がいいのではないかと思います。三角縁神獣鏡とどこが違うのか分かって面白いのではないでしょうか。もちろん、私も楽しみにしています。
この催しは東京国博でやっていましたから、早く見たいと思っていました。縄文展のように、九州はパスされるのかなあと心配でしたが、よかったです。
鏡だけではなく大刀も展示されますから、卑弥呼が魏から下賜された五尺刀がどのようなものだったか、類推する機会になると思います。


ということで、福岡の弥生の様相を調べるのも大事かなと思います。
福岡市の野方遺跡の紹介です。
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見学はもちろん無料です。
福岡市には甕棺墓地を見学できる金隈遺跡もあります。
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ここもなかなか面白いのです。そのうち紹介しましょうね。
ではまた、お会いできますように。

# by tizudesiru | 2019-08-27 12:20 | 368 北部九州で弥生文化は花開いた | Trackback

「聖武天皇を孤独から救ったのは大仏建立だった」万葉集と古代史

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聖武天皇は東大寺の大仏建立を成し遂げた人で、深く仏教に帰依しました。しかし、その一生は波乱に富み、孤独でもありました。
聖武天皇を不安に陥れた出来事に「藤原広嗣の乱」がありました。この乱をきっかけに、聖武天皇は関の東に行幸することにしたのでした。

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都に残された藤原豊成は、天皇不在をどう思ったでしょう。さぞや悔しかったでしょう。
737年に藤原四兄弟がそろって没した後、それまで藤原四家(南家・北家・式家・京家)から議政官が出ていたものを、元に戻され一氏から一名になっていましたし、橘諸兄が天皇の信頼を得ていたのですから。
藤原氏の後退というその不満ゆえに、740年に藤原広嗣は「乱」を起こしました。
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740年、東国への避難(?)の行幸の途中から、聖武天皇は「大仏建立」という目標に向かって進みだしたのです。難波の知識寺で見たような廬舎那仏を建立するという目標でした。
が、紆余曲折があって、思うようにはことが運びませんでした。
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恭仁宮、紫香楽宮、難波宮と聖武天皇は彷徨います。そして、ついに平城宮へ戻ったのでした。
そうして戻った平城宮で、聖武天皇を待っていたのは・・・・・・
と、いうお話です。


聖武天皇が孤独になってしまったのは、藤原氏が外戚となったからでした。

「聖武天皇の孤独」の後半のお話しは8月27日(火)で、実は、明日です。福岡市中央区天神の元「光ビル」、『正知ビル』です。8月13日のお話「聖武天皇の孤独」の後半です。
宜しくお願いします。
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# by tizudesiru | 2019-08-26 10:44 | 369・令和元年、後期万葉集も読む | Trackback

藤原氏から密命を受けていた山上憶良は、大伴旅人に近づいた

まだまだ夏真っ盛りのような福岡県太宰府市の大宰府政庁址です。
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背後の山は大城山(大野山)です。この大宰府政庁で山上憶良と大伴旅人はであったのです。

8月の歴史カフェは、万葉集の巻五の「梅花の宴」について考えます。

天平二年の正月に、大伴旅人はどんな思いで正月儀式を行ったのか。その時代背景と旅人の置かれた状況から「梅花の宴」を深読みします。

大宰帥・大弐・少弐・国司から無官の者までが一同に会して「梅花」を詠むなど、前代未聞の出来事でした。その行事は、旅人の思い付きだったのか、筑紫の伝統行事だったのか、宴の目的は何だったのか、ここが重要なのです。

当時、大伴旅人には都の藤原氏から秘密裏に三人の監視人が付けられていました。旅人は気が付いていたのでしょうか。筑前守・山上憶良と、少弐・小野老と、造観世音寺別当・沙弥満誓の三人です。三人共に稀代の知識人で教養がありました。だから、大伴旅人の傍に近づけたのです。

大伴旅人は都の高級官僚ですから、少々の文化人では傍にも寄れないのです。

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筑前守山上憶良は、無官のまま遣唐使として唐に渡りその才能を発揮し、帰国後は役人として都で活躍し、716年から伯耆守、721年退朝後は「東宮」に仕え、皇太子(聖武天皇)の教育係の一人になりました。聖武は724年に即位し、憶良の仕事は終わっていたのです。

なのに、既に高齢の老人だった憶良が726年に筑前守となりました。

何処か変おかしいでしょう! 退朝した高齢者を九州に遣るなんて。

憶良は733年に74才で没していますから、大宰府に来たときは、68歳くらいの老人です。棺桶に片足突っ込んだ人をはるばる筑紫に遣りますか? 藤原氏としては、憶良以外に大伴旅人をうならせる人物はいないと、踏んだのです。

憶良は皇太子の教育係までした人物ですから、そのころの聖武天皇の立場は熟知しています。その頃の聖武天皇には、後継者となる男子がいませんでした。そうなると、元明天皇によって「皇孫」と立場を引き上げられた長屋王の子ども達が皇位に着きかねません。

ゆゆしき事態、やむにやまれぬ状況だと憶良は諭されたでしょう。ですから、老体に鞭打って、必死の覚悟で彼は九州に来たのでした。旅人に面会した時は70歳になっていたでしょうか。


藤原氏としては、時の権力者・左大臣長屋王に死んでもらう予定だったのです。旅人は大宰府に遣る、都に残った弟の大伴少奈麿にも死んでもらう、そうして長屋王を陥れ、その4人の男子(吉備内親王の子ども達)を断絶する、その計画は実行されました。


梅花の宴は、大宰府に遣られた大伴旅人が天平二年正月十三日に開いた宴です。大伴旅人は自分の立場や政治的状況を理解できなかったのでしょうか。そんなことはありますまい。



何もかも分かっていて、その上で何もできない自分を嘆いたでしょう。そして、下心丸出しで近づいてきた山上憶良と親しくなったのです。

憶良も同じです。立場は違っても両者は稀代の文化人です。大伴旅人は、古代大伴氏の血統をつなぐサラブレットでした。その文化力と教養に憶良としても感銘したはずです。

憶良は漢文の知識を駆使し漢詩を作り、和歌を詠み長歌を作歌しては旅人に献じました。それらが多く残されたのが、万葉集巻五です。

巻五の詩歌には二人のやり取り、憶良のその重厚な手練手管が見え隠れしています。70歳の老人の決意と執念、悲しい限りです。憶良が大宰府に在った時、彼はすでに家族のすべてを失っていました。その人が、聖武天皇のために命を捧げたのです。

70歳の憶良の妻も児もこの世の人ではなかった彼が孤独な老人だったと分かって、巻五に残された憶良の歌を読むと世間の無常が胸を突くのです

803 銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも

905 若ければ道ゆき知らじ まひはせむ 下への使ひ 負いて通らせ
どちらも、死んだ子を思う親心にあふれています。
瓜を食べても栗を食べても、思うのは亡くした子のこと。あの子は瓜が好きだった、栗も食べたいと言ったなあと思いだすと、二度と帰って来ない時間が胸を締め付ける‥‥愛する息子・古日が死んだ時どんなに悲しかったか、若い息子には黄泉の国へ降りていく道は分からないだろうから、黄泉の国の使いよ、どうか背負って行ってくれまいか。

こんな詩歌を献じられて、大伴旅人は憶良に心開いたかもしれません。憶良も強い心が傾いたことでしょう。しかし、一方は武人、一方は官僚です。二人は別れる時、どんな会話をしたのでしょうね。

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8月27日(水)歴史カフェ阿蘇「令和元年、万葉集を読む」は『天平二年の梅花の宴・大伴旅人は長屋王を偲んだ』です。熊本県阿蘇郡西原村1805-1「平田庵」というそば屋さんの隣の民家です。水曜日は「平田庵」は休みです。
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宜しくお願いいたします。
では、また。


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# by tizudesiru | 2019-08-19 21:39 | 369・令和元年、後期万葉集も読む | Trackback

丹後半島に逃げた二人の天皇

大江山 生野の道の遠ければ まだ文も見ず 天橋立
(大江山 行く野の道の遠ければ まだ踏みもみず 天橋立)
和泉式部の娘・小式部が詠んだ誰もが知っている天橋立の名歌は、「母からの文だなんて、あの大江山へ行く生野の道も遠いのですから
文(便り)も届くはずもなく、天橋立にはまだ足を踏み入れたこともありません。母の力を借りて歌を作ったりいたしませんわ。」
と藤原定頼に応えた 歌でした。

ところで、此の大江山が問題です。
小式部が詠んだ大江山は、果たして都から近い大枝山なのか、遠い丹後半島の付け根の大江山なのか、です。学者の解釈は「都の北西の大枝山」となっていて、わざわざ「鬼退治の大江山ではない」と説明が付きます。
そうでしょうか。
私には大江山は遠かったとしか読めないのです。小式部は大きな大胆な歌を詠んだと思うのです。
「大江山」と読むと「都から遠いあの大江山のある土地へ向かって生野を越えて母が行った」と詠んだことになり平安京の西の「大枝山」として読むと「都の近くの大枝山を越えて生野へ向かった道が遠い」と意味が小さくなるからです。
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(鬼の面が飾られた大江駅)
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鬼で有名な大江山のある大江の駅には「鬼瓦・鬼面」が飾られています。地域をあげて「鬼」を売り出しているのです。古代の「鬼」にどんな意味が託されたかというと、人間を越えた、恐ろしく強い力を持つ者、の意味です。そんな力のある者が大江山辺りには住んでいたということです。

「大江山生野の道の遠ければ」この歌から分かることは、大江山の向こうは異界だった。大江山には伝説上は鬼が住んでいたということですから、昔から丹後半島は別世界、異界だったということです。そこは、別の文化圏に属していたことになりましょう。鬼退治をしなければならないほど「まつろわぬ首長が住んでいた」のです。
それは、当然です。日本海側の首長達は筑紫と交流することで財を成してきたのです。そうでなければ、日本海側の潟湖が港として栄えるわけがありません。港に出入りする船は筑紫船だったのです。
丹波国が瀬戸内の首長と交流するのであれば、中国山地を越える道を整備すればいいのです。しかし、船で筑紫と交流する方が実入りが大きかったのです。

丹波国が異界だったことは、雄略紀でもわかります。
弘計(をけ)天皇=顕宗天皇と、憶計(おけ)天皇=仁賢天皇は、丹波国余社郡(よさのこおり)に逃げました。なぜなら、そこへ逃げれば逃げ切ることができたのです。
まるっきり知らない土地に逃げれば、寝首を欠かれるか、身ぐるみはがれるでしょう。頼りになるのは、逃亡者でも受け入れてくれる知り合いであり、情報力と組織力のある知り合いなのです。与謝郡は、逃げるには好地だったのです。

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余社郡=与謝郡で丹後半島の東側の辺りです。古代は決して小さな郡ではなく、与謝郡は日本海の海運業でにぎわっていたです。豊かな国であり、豪族が居たから高貴な皇女や皇子が逃げたのです。間人皇后も丹後半島の北「間人たいざ」に逃げました。
羽衣伝承の筑紫の姫たちも丹波に逃げました。

古代の丹波国は、そういう独自の文化と自治力を持った地域だったのです。
父の市辺押磐皇子が雄略天皇の策略で殺された後、二人の王子は与謝郡に逃げました。そこなら何とかなると思って、逃げたのでしょう。与謝郡は丹波国です。
丹波の与謝郡から播磨国の赤石郡に移った二王子は、名を「丹波小子(たにはのわらは)と変え、縮見屯倉首に仕えたのでした。
二人は逃げているはずなのに、播磨の赤石郡に移るのは不思議ですね。今の感覚では赤石郡では見つかりそうな感じがしますが。当時は、丹波小子と名乗れば出自は隠せたのです。つまり、播磨と丹波は近くても文化圏が違った遠い土地だったのです。

豊受大神も丹波国の神でしたね。

古代史のなぞを解く鍵は、丹波国が握っているのかもしれません。
では、又、お会いします。


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# by tizudesiru | 2019-08-18 00:25 | 370筑紫国造磐井の乱後の筑紫 | Trackback

羽衣伝承・絹衣を身に付けた高貴な姫たちの出身地は筑紫

日本各地の「羽衣伝承」から見えるのは、政変があった時に滅びた王家の女性たちが、知り合いを頼って逃げ延びた話が伝わった証拠ですね。逃げた先、たどり着いた先に「羽衣伝承」が生れた、となりましょう。風土記に残る「丹後半島の羽衣伝承」も、羽衣(美しい絹の衣)を身に着けた女性たちの話だと思います。
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羽衣伝承の残る地域は、古代には滅亡した王家と関わりがあったと言えましょう。
その王家と関係の深い地域のひとつが、丹後半島だったのです。
天橋立で有名な丹後半島の根元に籠神社がありますが、その本宮は眞名井神社です。眞名井神社ですから、真の名は「井」だったのでしょう。「井」は大事なものだったということでしょうか。伊都国の「い」、糸島には「イ」の地名がありますね。井原(いわら)、井原山、いいじ、等々。

天橋立は九州の文化の入口でもあったのです。籠神社の伝世した漢鏡もその証ではないでしょうか。


天橋立の砂嘴の内側は「阿蘇海」あそのうみ、です。阿蘇(九州)の舟が出入りする内海の意味でしょう。世阿弥作の謡曲『丹後物狂い』にも、筑紫舟が出てきます。筑紫(九州)からの船が出入りしていた、中世にもその伝承があった。更に、謡曲『丹後物狂い』の主人公は磐井の某なのです。此処に「磐井」というゆゆしき氏名が出てきます。丹後半島が日本海を通して筑紫(九州)と深い関係にあった証拠でしょう。さらに、磐井某の子は天橋立から身投げし、そこを筑紫船に助けられて、九州の英彦山で修行をするのです。
阿蘇海の北の浜は、眞名井原と呼ばれていたそうです。

丹後半島の羽衣伝承は『丹後国丹波の郡、郡家の西北の隅に比治の里あり。この里の比治山の頂に井あり。その名を眞名井と云ふ。今はすでに沼となれり。この井に天女八人降りて来て水浴みき』と書かれています。

そういえば、大分県日出町に「日出の眞那井神社」があるのです。
こちらの名前の由来は定かではありませんが、日出=比治 眞名井=真那井 で表記がやや違っていますが、もとは「ひじのまない」でしょうか。

眞名井神社は出雲にもあります。出雲国風土記や延喜式に記された「眞名井神社」です。中世から近世は「伊弉諾神社」だったそうで、明治になって「旧号」に戻したそうです。何百年も我慢して「伊弉諾神」に従っていたのですか…

為政者の都合で祭神や社名が変えられるのはよくあることですし、合祀・遷座・遷宮、総社に集めるなどなど様々な紆余曲折を経て今日に至った神社が大半でしょう。
大化改新・律令体制・武家支配・明治維新の政変で、神祭りは変えられてきました。


ここで、羽衣伝承に戻りましょう。
風土記にもあった「比治と眞名井」には、不思議と羽衣伝説が絡んでいます。天女が天から降りて来て水浴をしている時、置いていた衣を隠されて天に戻ることができなかったという伝承です。紀伊国にも羽衣伝承があり、三保の松原にもあります。大阪にも千葉にもあるそうです。
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さて、天女の出発地は何処でしょう。まさか、空の上ではありますまい。
ここで言えることは、彼女たちの出身地は「伝承地ではない」ということです。伝承地以外の他の土地から来たのです。

それも、天女が身に着けるような見たこともない衣を着ていたのです。つまり、その衣は絹でできていたでしょう。絹の産地か、そこから近い所の高貴な姫たちだったということです。
その女性たちは、様々な文化を伝えています。機織りもそうです。
丹後半島の奈具神社の姫は、土地の夫婦に頼まれて養女になり、様々なことを伝えますが、その中に酒造がありました。
それまで、口に含んで吐き出した飯を発酵させて酒を造っていたところに、新しい酒造法を伝えたようです。それは、麹を使った酒造でしょうか。おかげで夫婦は豊かになり、姫を不要として放り出しました。そこで、奈具村までたどりつき「吾が心なぐしくなりぬ」と言ったので奈具という地名になったという話です。

羽衣伝承と、新しい文化はセットなのです。
それは何処から伝わったかというと、答えは九州です。
しかし、丹後半島の人たちの答えは「半島や大陸から伝わった」となっています。
それはないとは言いませんが、より安全な港伝いに小舟でもいける地域が妥当な答えではないでしょうか。

絹の衣は奈良時代でも九州の税であり、特産品でした。万葉集の沙弥満誓の歌を紹介します。この人は、元明天皇が病気になった時、出家していました。大伴旅人の知り合いです。大宰府でふたりは再会しています。「梅花の宴」にも呼ばれました。その人の歌です。

沙弥満誓、綿を詠む歌一首(造筑紫観世音寺別当 俗姓笠朝臣麻呂也)
336 白縫 筑紫の綿は 身に着けて 未だは着ねど 暖けく見ゆ

「筑紫の綿」とは絹のことです。満誓はまだ着たこともない物でした。そうそうに都にもなかったのです。筑紫には弥生時代から絹の生産がありました。丹後半島には、羽衣伝承のあとに絹生産と機織りが入るのです。それが「丹後ちりめん」という伝統工芸品にまで高まったのだと思います。
今日の結論は、羽衣のような絹の着物を着た女性は、九州から各地へ出て行った。その理由は、故郷に戻れない事情があったからではないか。そのために入り込んだ地域に喜ばれるような技術を伝承した。しかし、よそ者には変わりはないので子供を残しても出て行かざるを得なかった。
羽衣伝承のある地域は、九州とつながりがあったと思われる。

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(磐井の某の息子が修行したという成相寺)

では、沙弥満誓の他の歌も紹介しましょう。
 沙弥満誓の歌一首
351 世の中を なににたとへむ 朝開き こぎにし船の 跡無きごとし

造筑紫観世音寺別当沙弥満誓の歌一首
391 鳥総立て 足柄山に 船木伐り 樹に伐りゆきつ あたら船木を

 
太宰府でどんなことに気づき、何を考えて、一生を閉じたのでしょうね。
この人はハンサムだったそうです。

では、又。


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# by tizudesiru | 2019-08-11 01:26 | 370筑紫国造磐井の乱後の筑紫 | Trackback

筑紫国造磐井の孫、大石麻呂の建立したという龍光山恵華寺があった大石地区

筑紫国造磐井の乱は、教科書にも書かれています。磐井の子・葛子が父に連座して誅殺されることを恐れて「糟屋屯倉」を献上したと書紀にも書かれています。
磐井の本貫は岩戸山古墳のある八女丘陵を中心とした筑後川より南、南筑後の辺りだとされますが、糟谷の屯倉は北の玄界灘側です。筑紫君は火君と婚姻関係にあり、福岡県北部に葛子の領地があったのであれば、一豪族とは思えない広大な地域を抑えていたことになります。
さて、筑紫君葛子の一族はその後、どうなったのでしょう。
筑紫国造磐井の孫が建立した寺の伝承地を訪ねてみました。須多田(すだた)古墳群と大石古墳群の中に在ります。
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(須多田の天降天神社の御祭神は少彦名命となっています)
福津市津屋崎町須多田の天降天(あもり・あまふり)神社は古墳になっています。
ここ須多田地区は隣の大石地区とは、古代から婚姻はなかったそうです。大石地区の伝承によれば、「筑紫国造磐井の孫である大石麻呂、須多田麻呂、磐津麻呂とは、三兄弟であった為だ」というのです。津屋崎町の民族編「ムラの歴史伝承」に書かれています。
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大石地区には「椎ヶ元観音」という平安時代の仏像が伝わっていますが『その由来によると、この地に龍光山恵華寺という大きな寺があり、筑紫国造磐井の孫、大石麻呂の建立したものであると伝えられている。』
では、椎ヶ元観音を訪ねます。大石地区の公民館の隣のこんもりした杜が観音堂です。
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本尊は檜の一木つくりで、平安時代中期の観音像です。聖(正)観音あるいは十一面観音ともいわれていますが、現在の像容からはいずれとも判断できません。33年ごとの御開帳以外は、秘仏として堂内の厨子に納められています。
言い伝えでは、昔はこの地に龍光山恵華寺という大寺があり、本像はその本尊でした。ところが、永禄年間(1560年ころ)兵火のため焼失。その後、たびたびの災難にあって一時はその所在すらわからなくなっていました。
ある時、境内の椎の木の根元に立っている本像を発見。村人は新に観音堂(円福寺)を建て、椎ヶ元観音と呼んで祀ることにしました。しかし、仏体の破損はすすみ、尊像を維持するため、大石区民は浄財を募って本像の大修復を成就。1994年4月10日の御開帳を期して法要が盛大に挙行されました
。』
このように境内の説明板に書かれてます。
津屋崎町史にも椎ヶ元観音については説明があります。が、大石麻呂が建立した伝承は書かれていません。大石麻呂が実在の人なら6世紀の人であろうし、仏像は平安時代の物というので時代が合わないとの判断でしょうか。
それにしても、筑後でもない、糟谷屯倉ともちがう、津屋崎の小さな谷の集落に「筑紫国造にまつわる伝承がある」ことは、面白いですね。

では、またお会いします。



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# by tizudesiru | 2019-07-28 17:48 | 370筑紫国造磐井の乱後の筑紫 | Trackback

令和元年後期万葉集も読む「聖武天皇の孤独」

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聖武天皇(701~756年)は、寂しい子供時代を過ごした孤独な人でした。
母親の藤原宮子は、首皇子(聖武天皇)出産後、ながくうつ状態にあったようです。そのため、首皇子は母に抱かれることもなく甘えることもできませんでした。親子の体面が36年間かなわなかったのですから。
父の文武天皇は、首皇子が7歳の時に崩御となっています。皇太子は、幼くして孤独の人となったのでした。
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聖武天皇と云えば、奈良の都と深い関わりがあったように社会科で学習します。確かにそうですが、実は首皇子は10歳になるまで明日香に暮らしたのです。はなやかな藤原宮の近くで、宮子の父である藤原不比等の館で育ったのかもしれません。乳母の県犬養道代がしっかり世話をしたのです。道代は不比等との間に安宿媛(あすかべひめ)を生んでいますから、首皇子と安宿媛は一緒に子ども時代を過ごしたことでしょう。
もちろん、二人の将来を見越して藤原不比等は首皇子と安宿媛(光明子)を育てたのです。不比等が道代に近づいたのは、道代が元明天皇(首皇子の祖母)に信頼されていたし、命婦(みょうぶ)として力があったからにほかなりません。道代は文武天皇の乳母(めのと)でしたから。そうして、その子の首皇子の乳母にもなったのです。天皇親子の乳母になるなんて、三千代はスゴスギです。
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元明天皇にすれば、息子ばかりではなく孫まで道代の世話になったのです。
和銅元年(708)、文武天皇没後に母の元明天皇はやむなく中継ぎとして皇位に着きました。(首皇子はまだ7歳で幼かったからです。)その大嘗祭の時、道代は「橘」の姓を与えられ、
「県犬養橘宿祢三千代(あがたのいぬかいのたちばなのすくね みちよ)」
となったのでした。道代も三千代と字を変えました。元明天皇は三千代に感謝を示しました。

そうして、首皇子は十四歳で皇太子となりました。しかし、
藤原不比等と県犬養三千代の努力にもかかわらず15歳になっていたのに首皇子は即位できませんでした。
祖母の元明天皇が譲位したのは首皇子ではなく、娘の氷高内親王(首皇子の伯母)でした。

「*略* この神器を皇太子に譲らむとすれども、年歯(よはい)幼く稚くして深宮を離れず、庶務多端にして一日に万機あり。一品氷高内親王は、早く祥符(しょうふ=天の授けるよいしるし)に叶ひ、つとに徳音(よい評判)をあらはせり。天のゆるせる寛仁、沈静婉孌(ちんせいえんれん=もの静かで若く美しい)にして、*略* 今、皇帝の位を内親王に伝ふ。公卿・百寮、悉くつつしみ奉りて、朕が心にかなふべし」
不比等と三千代の皇太子養育を信頼していたはずですが、元明天皇は首皇子について「年歯幼く稚くして深宮を離れず」と詔の中でふれています。譲位できなかったのは、首皇子が幼かったからでした。
首皇子の父・文武天皇は15歳で皇位に着いています。祖母の持統太上天皇は傍にいて、ことごとく補佐をしていました。
ですから、今回も元明天皇の補佐があって首皇子の即位も可能だったかもしれません。しかし、元明天皇はそうしなかった。
それは、何故か。

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文武天皇は在位10年間(697~707)に様々な大仕事に取り組みました。優秀な官僚がいたとしても、十代の若い天皇には大変な重圧だったと思います。そして、持統天皇と藤原氏のための施策もこなさなければなりませんでした。
おまけに、夫人の藤原宮子はうつ状態で監禁されていました。若い文武天皇もやはり孤独でした。
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万葉集の文武天皇の御製歌を読んでみましょう。
 吉野宮に幸す時の歌
74 み吉野の山の嵐の寒けくに はたや今夜(こよひ)も我がひとりねむ
吉野に行幸の時でさえ、羽を伸ばすこともなく独り寝をしています。しかも「今夜も」ですから、いつものことなのです。
文武天皇は疲れ切ったのだと思います。それで、若くして崩御となった…
元明天皇はその事を分かっていて、孫のために「十五歳即位」を避けたのでしょうか。そう思いたいですね。
孫には息子のような苦労はさせたくない、体に無理をさせてはいけない、そう思ったのでしょうか。
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さて、首皇子(聖武天皇)は、二十四歳で即位します。
伯母の元正天皇は、草壁皇子の皇統をつないだのだと詔しました。天皇となった聖武天皇は悩み続けます。自分は何をするために極位に着いたのか。そんな聖武天皇がたどり着いたのが大仏建立でした。
8月13日のテーマは「聖武天皇の孤独」です。


8月13日はお盆に入っています。しかし、「筑紫古代史の会」は例年どおりお盆も講座をするそうです。
ですから、私もお話しさせていただくことにしました。
場所は、福岡市天神 正知ビル(光ビル、ではなく名称が変わっていました)です。
時間は13持30分~16時です。  宜しくお願いします。

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場所は今までと同じですが、ビルの名前が変わっていました。ごめんなさい。

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# by tizudesiru | 2019-07-24 21:42 | 369・令和元年、後期万葉集も読む | Trackback

庚寅銘大刀と高松塚古墳に南朝茅山道教系の屍解仙思想が共通?

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福岡市元岡G6号墳の庚寅銘大刀と、奈良県明日香村の高松塚古墳に「南朝茅山道教系の屍解仙思想」が共通しているなんて、『なんのこっちゃ?!』と思いますね。

共通していると云っても、双方に同じ思想があったのではないか、ということです。
それも、両者は真逆の使い方をしている! すごく興味のある事実なのです。

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上の写真は、橿原考古学研究所の博物館に展示されていた刀剣の復元品です。法隆寺の傍にある藤ノ木古墳の副葬品を復元したもので、有力な被葬者には刀剣が副葬されていることは、世の中に知られていることです。こんな立派なものでなくても、6世紀半ばには地方の首長でも刀剣を副葬するようになりました。
下の写真のように鉄鏃などと共に副葬されています。
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そして、金象嵌の庚寅年銘大刀が福岡市でも出土しましたが、そこは八角形の墳丘だった可能性もあるという元岡G6号墳です。その大刀の説明文に気になる文言がありました。(福岡市埋蔵文化財センターのパネル)
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『現状の庚寅銘大刀には把頭飾(はとうしょく)や柄巻(つかまき)は伴っていない。足金物(あしかなもの)や鞘尻金具(さやじりかなぐ)は出土しているものの、材料などから庚寅銘大刀のものである可能性は低い
と、説明書きがあったのです。よく読んだら、仰天ものですよ。では、

この庚寅銘大刀には、鞘がなかった。鞘の木質が発見されなかったので、抜身で副葬されていたということです。庚寅銘大刀と離れた場所にあった鞘の材料は、庚寅銘大刀の物ではない。では、庚寅銘大刀の鞘は何処に行ったのか。考古学者の説明では、壊されていた可能性もあるそうです。
そんな馬鹿な! 被葬者に対して失礼ではありませんか! いえいえ、そうではなかったのです。
その事が、福岡大学の桃崎祐輔氏の「庚寅銘大刀重要文化財指定記念シンポジウム」に寄せられた『庚寅年銘大刀と鈴から見た元岡G6号墳の時代背景と東アジア』の文章を読んで理解できました。  

『中国の神仙思想や銅鏡では、人が一旦死んだのちに行き返り、他の地で仙人になることを尸解仙という。尸解には、死体を残して霊魂のみが抜け去るものと、死体が蘇生して棺より抜け出るものがとがある。前者の場合も、死体は腐らず、あたかも生きているがごとくであるという。*略*
しかしのちに陶弘景が完成した茅山派道教では、尸解を登仙法として重視し、剣を身体の代わりに現世に残して仙人となる「剣解」法を説いた』

と書かれていました。剣を残して仙人となる思想が、日本にも到来していた。書紀の聖徳太子の条に出てくる飢人の説話が、尸解仙思想は日本に入っていたその証拠だとか‥‥
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寅銘大刀が抜身だった理由は「屍解仙思想」が浸透していたからだというのです。死して遺体を残さず消えて行くのは、「凡人にあらず真人である」というのです。真人であった死者は不老不死の仙人になるのでしょう。
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ここで、高松塚古墳の被葬者のことを思い出しました。彼の人の副葬品の大刀は刀身が抜かれていました。刀身が無かったのです。頭蓋骨も持ち去られていました。下あごの骨や歯は残っていましたから、首を斬られたのではありません。壁画の玄武の顔も削られていました。ここまで「蘇り」を阻止された高貴な人物は、高市皇子以外に考えられません。 
刀身が抜き取られていた理由は、「剣解」思想が浸透していたからだと納得したのです。
高市皇子には蘇りが許されなかった。それを願ったのは誰か、分かりますよね。
逆に、
福岡の庚寅銘大刀は鞘から抜かれていました。鞘は別の場所に置いてあり、壊されていたかもしれません。要するに、抜身だったのです。そこには、被葬者に「生きて仙人のように戻って来て」という切なる願いがあったのです。高松塚古墳とは真逆の願いがあったのです。

抜身だったという一つの事実は、何と多くのことを教えてくれるのかと、思いました。

では、また、よき日に。


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# by tizudesiru | 2019-07-19 23:36 | 366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない? | Trackback

壬申の乱を勝利に導いた高市皇子の悲劇・歴史カフェ阿蘇

熊本県阿蘇郡西原村での歴史カフェは、7回目となります。今年は万葉集のお話です。7月31日(水)のテーマは「壬申の乱を勝利に導いた高市皇子の悲劇」となっています。
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壬申の乱は、大海人皇子(天武天皇)の周到な計画のもとに起きた内乱でした。天武は東国の兵を召集していました。ですから、吉野を脱出して不破ノ関辺りのワザミが原の仮宮にいて、動きませんでした。天武の代わりに軍を率いて活躍したのが、高市皇子です。万葉集の「高市皇子の挽歌」にはそのように書かれています。
壬申の乱後、高市皇子は天智天皇の皇女を二人、妃に迎えました。
天武帝に愛された大津皇子には天智の皇女は一人、山部皇女だけです。
皇太子だった草壁皇子にも天智の皇女は一人、阿閇皇女だけです。

滅ぼした王朝の皇女たちは天智天皇の血統ですから、他の有力者に渡すことはしません。天武天皇自身も天智天皇の皇女を四人も召し入れているのです。(大田皇女・鵜野皇女・新田部皇女・大江皇女の四人です。それぞれの皇女が皇子を生みました。)
ですから、高市皇子が天智天皇の皇女を二人も妃に迎えたのは特別です。御名部皇女と但馬皇女です。こともあろうに、但馬皇女は穂積皇子に恋して、高市皇子を裏切ります。
穂積皇子に惹かれる歌や密かに会いに行った歌が万葉集に遺されていますから、周囲の者はみんな知っていたのです。
その上に、高市皇子は近江軍の総大将だった大友皇子の妃(十市皇女)を引き受けさせられました。十市皇女は大海人皇子(天武天皇)と額田王との間に生まれた長女でした。
母の額田王と共に近江に下り、大友皇子の妃となって王子も生んでいました。
高市皇子は、そんな義理の姉を引きうけたのでした。十市皇女も高市皇子もいろいろ思うところがあったでしょうし、うまく収まるはずはありません。
やはり、事は起こりました。
十市皇女が宮中で突然死したのです。
たぶん、自死だと思います。
天武天皇は斎宮での儀式を取りやめ、急ぎ戻ります。父にもショックだったでしょう。

壬申の乱を勝利に導いた高市皇子の悲劇・歴史カフェ阿蘇_a0237545_16082687.png

さて、壬申の乱後、高市皇子は藤原宮を造営しました。彼はそのころ何処に住み、どんな暮らしをしたのでしょう。そして、死後、何処に埋葬されたのでしょう。
その飾り立てられた遺体は、明日香のメインストリートを通り城上の陵に埋葬されたのです。

万葉集で一番長い挽歌を柿本人麻呂に献じられた高市皇子は、どんな人だったのでしょう。
歴史カフェ阿蘇で、一緒に万葉集を読みましょう。

壬申の乱を勝利に導いた高市皇子の悲劇・歴史カフェ阿蘇_a0237545_16103516.png

私は高松塚古墳こそ高市皇子の墓だと思っています。その証拠に迫ります。
壬申の乱を勝利に導いた高市皇子の悲劇・歴史カフェ阿蘇_a0237545_16080345.jpg

では、七月三一日(水)西原村でお会いできればうれしいです。

会場は、熊本県阿蘇郡西原村小森1805です。「平田庵」の駐車場が開いています。水曜は、平田庵はお休みです。会場は平田庵駐車場に隣接しています。

宜しくお願いします。


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# by tizudesiru | 2019-07-18 17:20 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

馬鈴を表現した馬形埴輪を持つ古墳の被葬者は王か臣下か

関東の博物館巡りをしていると、馬鈴や鈴杏葉を持つ馬形埴輪を何度も見かけます。その博物館では馬鈴と鈴杏葉の出土はほとんど無かったと思います。それなのに、馬形埴輪には馬鈴や馬鐸、鈴杏葉が表現されているのです。
だんだん、ある疑問が頭を持ち上げました。
被葬者に副葬された馬具と、馬形埴輪の馬具が、同じではないのは何故だ?


馬鈴を表現した馬形埴輪を持つ古墳の被葬者は王か臣下か_a0237545_23265459.jpg
これは、千葉県香取市小見川市民センターの考古資料、馬形埴輪のお尻です。馬鈴と鈴杏葉(すずぎょうよう)が表現されています。
馬鈴を表現した馬形埴輪を持つ古墳の被葬者は王か臣下か_a0237545_23331434.jpg
しかし、図にも馬形埴輪にも鈴杏葉が表現されていますが、出土は有りません。
馬鈴を表現した馬形埴輪を持つ古墳の被葬者は王か臣下か_a0237545_23305290.jpg
小見川では、楕円形の杏葉が出土しています。
馬鈴を表現した馬形埴輪を持つ古墳の被葬者は王か臣下か_a0237545_23541252.jpg
千葉県印旛郡栄町龍角寺「房総風土記の丘資料館」にも馬形埴輪が展示されていて、胸繋(むながい)に鈴が表現されています。
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馬鈴を表現した馬形埴輪を持つ古墳の被葬者は王か臣下か_a0237545_10122094.jpg
千葉県山武郡芝山町芝山の「芝山古墳はにわ博物館」にも、馬形埴輪の展示がありました。
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胸に下がっている物とお尻に鈴杏葉ですか。

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千葉県かすみがうら市柏崎の「富士見塚古墳展示館」にも馬形埴輪の展示がありました。やはり、鈴杏葉でしょうか。
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此処も、埴輪には鈴杏葉が表現されていますが、出土は有りません。

茨城県ひたちなか市中根に足を伸ばします。
虎塚古墳の資料がある「ひたちなか市の博物館」にも馬形埴輪がありました。
馬鈴を表現した馬形埴輪を持つ古墳の被葬者は王か臣下か_a0237545_00204569.jpg
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鈴は見当たりませんが、鈴杏葉は馬形埴輪に付けられていました。
馬鈴を表現した馬形埴輪を持つ古墳の被葬者は王か臣下か_a0237545_00244717.jpg
見事な鈴杏葉だったので、学芸さんにお尋ねしました。
「鈴杏葉の部分は出土したものですか、それとも埴輪の復元のために表現したものですか?」
学芸員さんは「鈴杏葉の部分は出土物」と、資料を調べて教えてくださいました。

なんと、茨城や千葉の当たりの馬形埴輪には「鈴」「鈴杏繋」が表現されています。しかし、鈴のついた馬具の出土品は、見ませんでした。
当時の人々は、「鈴をつけた馬形埴輪」を権威のある馬の埴輪と認識していたのでしょう。しかし、古墳の被葬者には副葬しなかった・・・

ここで、群馬を思い出しました。
群馬の古墳の馬形埴輪(下の写真)とも共通するのでしょうね。

馬鈴を表現した馬形埴輪を持つ古墳の被葬者は王か臣下か_a0237545_09400246.jpg
関東で大型鋳銅馬齢が出土しているのは、埼玉県行田市の将軍山古墳でした。
中型鋳銅鈴は、鶴巻塚古墳(千葉県木更津市永井作)、見目1号墳(埼玉県深谷市川本町田中字見田)、益子天王塚古墳(栃木県益子町)、宮下古墳(栃木県宇都宮市岩本町)、文選11号(栃木県足利市)、上田篠1号墳(栃木県富岡市田篠)、坪田(福島県)

銅鈴の着いた馬具を持たない古墳でも、馬齢を持つ馬形埴輪は出土することがある。それ等の古墳が造られたのは、馬の文化が浸透した時期であり、当時の王は鈴を尊重していた、となります。
更に言えば、音がなることで王の接近や移動を知ることができた。馬鈴は、神が近づいたり離れたりすることを感じさせるような働きをした。

関東は、同じ文化圏だったといえるのでしょうね。
ここで、考えます。同じ文化圏の古墳の被葬者は、大きな政治組織(王権)の臣下だったのか、それとも在地の豪族だったのか。
在地の豪族が馬文化への単なる憧憬で馬形埴輪を作らせた。または、鈴音のする金ぴかの馬具を付けた馬に乗る王に仕えていた臣下だった。

馬鈴文化圏の中で、上位にいた王は何処に住んでいたのでしょうか。
彼らの文化の中心地は何処にあったのでしょうか。
ちょっと面白くなりました。



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# by tizudesiru | 2019-07-12 11:22 | 366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない? | Trackback

古墳時代・鋳銅馬鈴の文化は何処から広がったのか

福岡県福岡市西区元岡で庚寅銘大刀が出土しました。同じ古墳から大型の鋳銅馬鈴も出土しています。そもそも、馬鈴とは如何なる目的で造られ副葬されたのか、興味の湧くところです。写真は、群馬県の五目牛八幡林漏29号墳の馬形埴輪で博物館に展示されているものです。馬鈴を飾りにつけています。
古墳時代・鋳銅馬鈴の文化は何処から広がったのか_a0237545_14133936.jpg
他の地域に比べて関東は馬形埴輪が多く出土していると書かれています。この馬形埴輪は、轡(くつわ)鐙(あぶみ)鞍(くら)が表現された飾り馬です。
では、前回のブログで紹介した馬胄が副葬されていた埼玉県行田市の将軍山古墳銅鈴、13.3cmの大型鋳銅鈴は何処に下げられていたのでしょうね。
将軍山古墳の資料館に馬具を付けた騎馬像がありました。それによると、やはり馬の胸元に下げられています。馬具は金メッキされていたのです。

古墳時代・鋳銅馬鈴の文化は何処から広がったのか_a0237545_14225994.jpg

馬を飾るのは鈴だけではなく、同じように音が鳴る馬鐸というものがあります。同じ群馬県の馬形埴輪、白藤古墳群P-6号墳の埴輪が下の写真です。
古墳時代・鋳銅馬鈴の文化は何処から広がったのか_a0237545_09400246.jpg
胸廻りの帯(胸繋・むながい)と尻廻りの帯(尻繋・しりがい)には、鈴が飾られています。音が鳴ることは大事だったのですね。
古墳時代・鋳銅馬鈴の文化は何処から広がったのか_a0237545_21321945.jpg
鈴の着いた杏葉です。これも金メッキされていたのでしょう。
古墳時代・鋳銅馬鈴の文化は何処から広がったのか_a0237545_14065298.jpg
古墳時代・鋳銅馬鈴の文化は何処から広がったのか_a0237545_21243781.jpg
埼玉将軍山古墳の被葬者は、馬具を他の副葬品と並べていたようですね。
古墳時代・鋳銅馬鈴の文化は何処から広がったのか_a0237545_21274569.jpg
それから、人物埴輪の巫女ですが、腰のあたりに袋と鈴のついた丸い盤を下げています。これは鈴付きの鏡でしょうか。巫女が神がかりをするとき、鏡と鈴は使ったということですね。
紹介したの今回の資料は、すべて関東(群馬・埼玉)のものです。

大型鋳銅馬鈴が国内では20例ほどしか出土がないことは既に紹介しました。

関東地方は鈴の効果を十分に承知していたのですね。では、九州の元岡G6号墳の馬鈴はどのように使われたのか、当然、同じだったはずです。更に言えば、
数的に福岡県に馬鈴が多く出土しているということは、その文化の発祥地は九州だったと言える、のではないでしょうか。

古墳時代・鋳銅馬鈴の文化は何処から広がったのか_a0237545_21161666.jpg
さて、馬具が○○王権からの下賜品だとして文化の伝播をかたずけていいのでしょうか。関東と九州という離れた地域に同じような文化がある・・・それは何故か。
それを考えなければなりません。
私には九州の勢力が日本海側から北陸・東国に進出したと思えるのです。他の資料を重ねて見ると・・・

鋳銅馬鈴がどんなふうに使われたか想像してみましたが、関東でも九州でも同じように音を立てて首長の権威を高めたのでしょうね。

では、またお会いします。


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# by tizudesiru | 2019-07-08 12:00 | 366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない? | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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190間人皇后の難波宮脱出
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192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
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204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
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209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
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212中大兄の遅すぎる即位
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214天智天皇が建てた寺
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216小郡市埋蔵文化財センター
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218熊本の古代寺院・浄水寺
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240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
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243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
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247岩戸山古墳と八女丘陵
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249再び高松塚古墳の被葬者
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252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
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267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
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269彷徨える大国主命
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271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける
373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ
374令和元年こそ万葉集を読み解こう

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