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今も謎のまま淡路の伊弉諾神宮の祭祀線

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古い伝えの神社に参拝した後に、この神社の創建はいつだろうかと思います。福岡の箱崎八幡宮のように由緒に927年と創建年代が書かれていることもありますが、ほとんど不明とか2000年の歴史があるとか書かれていて戸惑います。古事記や日本書紀を持ち出される神社もありますが、どちらも八世紀の文献で、編纂を命じた為政者の主張に合わせて編集されていますので、公正な歴史と扱うわけにもいきません。それでも、個々の神社の由緒や伝承は大切な過去を教えてくれる資料です。
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そして、およその時期は祭祀線で想像することができます。
祭祀線とは地図上に引く架空の直線です。神社の鳥居や本殿が御神体山の山頂に向かって真っすぐ連なるなどの直線です。
祭祀線という言葉が耳慣れない頃の話ですが、地図を見ていて神社や古墳や山の山頂が一直線に並ぶということに気が付きました。嘘だろうと思って国土地理院の五万分の一の地図を買いに行って張り合わせて確かめましたが、やはり多くの古社や古墳が並ぶのです。地図上の有名どころが並ぶので驚きました。それから、各地の地図を買い調べました。やがて、ネットの国土地理院の地図検索で調べていましたが、国土地理院のサービスが変わって使いにくくなったので、グーグルアースで確かめるようになりした。
知り合いには理解してくれる人がいなかったのですが、ある日、ネットで伊弉諾神宮の祭祀線を見つけたのです。このブログに2012年に「52淡路国伊弉諾神宮の祭祀線」を投稿しています。
今回、懐かしくなって10年ぶりに友人に会うような気分で、淡路島の伊弉諾神宮を尋ねました。


本殿に向かって歩いていくと、左の空き地にそれはありました。
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綺麗に掃除された祭祀線のいしぶみでした。
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以前は、だれに会っても祭祀線の話をしました。
祭祀線の話をすると、「そんな何百キロも離れた点と点を結ぶ技術は古代にもあったのか?」 と質問されました。確かに、私も聞きたいです。私は「山当て」を使えば、「三本の棒と糸で点と点を結び直線を引くことはできる」と、説明はしました。それは見える範囲ですから、何百キロも離れると、次の山に行って山当てをして距離を伸ばしていかなければなりませんが、不可能ではありません。
しかし、伊弉諾神宮のいしぶみは、対馬の海神神社や九州の高千穂神宮など目測では測れない神社ばかり、日の出・日没のライン上に挙げられていました。
これが事実なのか知りたいので、私はグーグルアースで調べました。それはほぼ正確でした。2012年にこのブログ「52伊弉諾神宮の不思議」ですでに紹介しています。
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いしぶみには、次のように書かれています。

伊弉諾神宮の神域は 日本書紀に「伊弉諾尊功既畢霊運當遷是以構幽宮於淡路之洲寂然長陰者」 古事記 伊勢本に「故其伊邪那岐大御神者淡路之多賀也」と記される神跡で伊弉諾大神が御神功を果たされ、淡路の多賀に幽宮を構築して余生を過ごされた故地であり、北緯三十四度二十七分二十三秒の緯度上にある。

 當神宮の創始は神代に遡り、伊弉諾尊の宮居跡に営まれた神陵を期限とする最古の神社である。また日本書紀「仍留宅於日之少宮」の記述があり、伊弉諾尊の太陽神としての神格を稱へ 御子神である天照皇大御神の差昇る朝日の神格と対比する日之少宮として 御父神の入り日(夕日)の神格を表現してゐる。因みに

全国神社の本宗と仰ぐ伊勢の神宮(皇大神宮)は、この神域の同緯度上に鎮座し、更にその両宮を結んだ中間点に最古の都「飛鳥宮藤原京」が営都されてゐるのである。


専門家の協力を得て當地から太陽軌道にあたる極地にあたる方位を計測すると夏至、冬至、春秋仲日の日の出と日歿の地に神縁の深い神々が鎮座してゐることを次の通りに確認することができた。緯度線より北への角地二十九度三十分にあたる夏至の日の出は信州の諏訪湖(諏訪大社) 日歿は出雲大社日御碕神社への線上となる。春分秋分は伊勢の神宮から昇り海神神社(對馬国)に沈む。南への角度二十八度三十分にあたる冬至の日の出は熊野那智大社(那智の大滝)日歿は天孫降臨伝承の高千穂嶺(高千穂神社・天岩戸神社)となるのである。(いしぶみの説明文)

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今、私が思うことは、この祭祀線は延喜式で国が奉幣する式内社が決められた10世紀以降のものだということです。
まず、祭祀線の引き方が新しいのです。
古代に祭祀線を引くとしたら、棒と糸で見える範囲を使ったでしょう。
いしぶみを見ると、藤原宮は引けるでしょうが、伊勢はかなり大変です。冬至の日の出の方向の那智大社は紀伊山地を越えて無理して引けないことはないかもしれません。しかし、九州と對馬はどうでしょう。
太陽と星の高度が図れるようになって、陰陽師が計算するようになって、それを仕事とする集団ができて、初めて実現するでしょう。さらに、高千穂神宮・那智大社・出雲大社・海神神社が国守りの神社として奉幣を受けるようになっていなければなりません。何も関係ない神社は選ばれません。それらが整うのは九世紀、十世紀ではありませんか。
さらに、伊勢神宮以外の諏訪大社・那智大社・出雲大社・伊弉諾神宮など一宮で、延喜式の名神大社です。延喜式で神社の格式や仕組みや神官の地位などが整えられていく中でできてきたとしか思えません。
しかし、祭祀線は10世紀でも、神社はもっと古いのです。
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ご本殿の右奥に楠の樹が見えます。楠が祀られているのです。
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楠が自然にはえる北限は、九州の福岡市です。この神社は楠を祀っていますから、
九州の古神社と同じようにクスが御神体だったかも知れません、神社の始まりのころは。
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夫婦大楠と淡路祖霊社が並んでいます。
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御祭神は、時代が変わり為政者が変わると入れ替えられていくので何とも言えません。が、祭祀が始まったのは古く、九州との関係が臭いますね。
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では、祭祀線を再度確かめてみましょう。伊勢神宮と海神神社からです。
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右下は伊勢神宮、以前引いたラインなので空地にラインが集まっているようですが、遷宮されて社が移動しているのです。もし、このラインが祭祀線として引かれたものであるなら、記紀に表現された神話が一般化し、王家の祖先は高千穂に天下り神武天皇が紀伊国からヤマトに入ったという神話と、更に大国主の国譲り神話が成立していることが前提となります。
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じょうずに記紀神話を具体的に表現したことになるのです。
別の言い方をすれば、記紀神話を浸透させる為にも神社の格付は重要でした。国家の幣を受けるべき神社は何度も確かめられ認定され続けました。平安時代の貴族たちは日本書紀を必死に学んで地方へ国司として配属されて住み着いたり、戦乱の時代に地方に逃れたりして、神話と神道は拡散されたのです。
それまで、蚊帳の外に置かれていた庶民も祖先の神を捨てて伊弉諾や天照大神にすがったので、各地の神社のご祭神が大混乱したのかもしれません。そんな中で、誰にも邪魔されなかった社とご祭神が残されているのです。
そんな神社に参拝すると、なんとなく落ち着きます。

淡路は本当に面白いところです。そして、畿内の為政者によって大いに搾取され利用され翻弄された土地です。その多難の歴史が美しく花開いていると思いました。

出合った人はみんな親切で美しい人ばかりでした。また、お邪魔します。


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# by tizudesiru | 2019-11-03 13:25 | 372古代史の謎は祭祀線で解ける | Trackback

魏武王・曹操は寒冷期を乗り越え、漢王朝の文化を発展させた

中国の河南省安陽市で発掘された墓に西高穴二号墳と命名されました。そこが記録にある「曹操高陵」と同じ場所であったこと、副葬品に「魏武王」と記した石牌(せきはい)があったことなど、魏武王は曹操を指しますから、曹操の墓であることが判明確定したのでした。
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三国志時代の曹操の墓だなんて…すごい発見でした。これを見ずに死んでしまった人に申し訳ない気持ちです。
さて、曹操の時代は地球的には寒冷期でした。邪馬台国の卑弥呼の国民も飢えました。それで、半島に助けを求めて1000人も移住したと「新羅本紀」に書かれていました。

三国志展の図録にも、次のようなグラフが掲載されていました。
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寒冷期に入り、人口は2世紀の6000万人近くから、3世紀には1000万人ほどに激減しています。作地面積が減少し、人口減少・戦争へと時代が流れたのです。人々は苦しみから「太平道」や「五斗米道」などの宗教に傾きました。「黄巾の乱」は、太平道の結社が起こした反乱でした。
乱が平定された後、残党の一部は曹操の軍団に組み込まれました。
曹操が支配した黄河流域は黄河文明の発祥の地で、人口も多く人材にも恵まれました。しかし、寒冷期に入ると戦乱が頻発し、農業も危機的状況となりました。そこで、曹操は屯田制をはじめ、土地を人民に与えて開墾させました。
結果、食料増産が進み、三国の戦いで有利になったのでした。
そして、
曹操は漢王朝の文化を受け継ぎ発展させました。書を読み、詩歌を詠み、書をよくするのは、支配者のたしなみだったのです。
 
写真は曹操の人形ですが、曹操は本当に英雄でしたね。その祖先は、漢王朝創立の功臣である曹参(そうしん)とされ、曹氏一族は官僚として長く仕えました。曹操の祖父の曹騰(そうとう)は宦官となり後漢王朝に信頼され、養子の曹崇(そうすう)は大臣となっています。曹操はその曹崇の子で、エリート官僚でした。
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220年、曹操(155~220)が没しました。子の曹丕(そうひ)は、後漢の献帝から帝位を譲り受け、「魏」が成立しました。220年の事です。
221年、魏の成立を知った劉備も「我こそ前漢皇帝の末裔」として即位したのでしたね。それが「蜀」でした。
魏・蜀・呉の三国の中で、魏が一番人口も多く豊かだったのです。
 
倭女王・卑弥呼も、曹操や「魏」のことは聞いていたでしょう。
景初二年(?)、卑弥呼が魏に遣使したのは239年だそうで、この時「親魏倭王」の印綬を受けています。なぜ、239年なのか、それは、遼東の公孫氏が魏の司馬懿(しばい)の軍に攻められ滅びたからです。倭は公孫氏の帯方郡に属していました。(三国志・倭人伝には、「景初二年」と書かれていますが、それは、「景初三年」の事で、倭人伝の間違いとなっているようです。)

卑弥呼は後漢の後を継いだ「魏」に朝貢したのですが、それは、公孫氏の滅亡と無関係ではないでしょう。寒冷期を乗り越えた「魏」を宗主国としたかったし、半島関係や国内事情もあったはずです。
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上の写真は三国志展の図録にある「毋丘倹紀功碑」ぶきゅうけんきこうひ  です。
公孫氏滅亡の史実を伝える資料だそうです。図録には、
『一行目に「正始三年(242)に高句麗が背いた」とある。
「三国志」には、正始五年から六年(244~245)にかけて魏の将軍の毋丘倹(姓が毋丘、名が倹)が高句麗に侵攻し、高句麗の首都を攻め落とすという大勝利をおさめ、征服地の三か所にその業績を記した碑を建てたと伝えるが、その一つである』と書かれているのです。
『一~二行目に魏による高句麗攻撃のさまを記し、四行目以下に功績をあげた将軍の名を列挙している。六行目には「行碑将軍領玄菟太守王頎」こうひしょうぐんりょうげんとたいしゅおうき、と推定される。王頎はこのあと帯方郡太守となり、倭女王卑弥呼と魏の外交を仲介した。』(図録より)
確かに、王頎の名は「倭人伝」に出ています。④に「太守王頎、官に至る」とありますから、「太守に着任した」のです。
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訳文は次の通りです。(講談社学術文庫 「倭国伝」 藤堂明保・竹田晃・影山輝國)


①正始元年(240)、帯方郡の太守弓遵(きゅうじゅん)は、建中校尉 梯儁(ていしゅん)らを遣わして、詔と印綬を倭国へ持って行かせ、倭王に任命した。そして、詔と一緒に、黄金・白絹・錦・毛織物・刀・鏡、その他を渡した。そこで、倭王は使いに託して上表文を奉り、お礼を言って詔に答えた。

➁正始四年(243)、倭王はまた、大夫伊声耆・掖邪狗ら八人を使いとして、奴隷・倭の錦、赤青の絹、綿入れ、白絹、丹木、木の小太鼓、短い弓と矢を献上した。掖邪狗らは八人とも、卒善中郎将の印綬をもらった。


③正始六年(245)詔を発して倭の難升米に、黄色い垂れ旗を、帯方郡の太守の手を通して与えた。


④正始八年(247)帯方郡の太守、王頎が着任した。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と以前から仲が悪かったので、倭の載斯・烏越らを帯方郡に遣わし、お互いに攻めあっている様子をのべさせた。帯方郡では、国境守備の属官の張政らをつかわし、彼に託して詔書と黄色い垂れ旗を持って行かせて、難升米に与え、おふれを書いて卑弥呼を諭した。


⑤使者の張政らが到着した時は、卑弥呼はもう死んでいて、大規模に直径百余歩の塚を作っていた。殉葬した男女の奴隷は百余人であった。かわって男王を立てたが、国中それに従わず、殺しあいをして、当時千余人が死んだ。そこでまた、卑弥呼の一族の娘で台与という十三歳の少女を立てて王とすると、国がようやく治まった。そこで、張政らはおふれを出して台与を諭し、台与は倭の大夫、率善中郎掖邪狗ら二十人を遣わして、張政らを送って行かせた。倭の使いはそのついでに魏の都まで行って、男女の奴隷三十人を献上し、白珠五千、青い大勾玉二個、めずらしい模様の雑錦二十匹を、貢ぎ物として差し出した。

 
以上は「倭国伝」からの抜粋ですから、個人的な訳文ではありません。「卑弥呼以って死す」の意味は諸説あり、『以って』の解釈で全く違う意味になることは、みなさん、既にご存知でしょう。
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ここで、三国志展に戻ります。帯方郡太守 王頎の名を刻んだ金石文が出て来た事は卑弥呼の遣使を裏付けることになるのです。では、倭国に張政を遣わしたのは「帯方郡」であり、王頎だとなります。王頎は軍事的な指導者でありましたから、卑弥呼に対しても軍事的な判断をしたでしょう。それは、老女の指導者はいらないということです。
だから、卑弥呼は死を賜った、と思うのです。
しかし、倭国は男王では納得しなかった、のです。
倭国としては無念だったと思います。それで、男王を受け入れなかったと。

王頎の判断は間違っていたのです。張政らは慌ててやり直し、台与(壹与)を選んだのでした。彼女は女王として役目を果たしたということになり、倭人伝は終わります。
三国志展の金石文は、王頎が軍人だったことを示しました。そこで、わかることもあるのですね。卑弥呼の国は、この後、どうなったのでしょうね。
今日は、卑弥呼の死は尋常な死ではなかった、彼女は死を賜ったのだと、書きました。
では、また、お会いします。



# by tizudesiru | 2019-10-22 18:56 | 371三国志の時代に卑弥呼は生きていた | Trackback

三国志展に選ばれた鏡・三段式神仙鏡とは何だ?

九州国立博物館で始まった「三国志の時代展」に展示されている三段式神仙鏡。あまり知られていない鏡です。実は、重要だったのです。
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それにしても、なんとなくなじみがありませんよね。
なぜこの鏡が展示されたのか、実は意味深なのです。
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その三段式神仙鏡によく似た鏡があるのです。群馬県前橋市、前橋天神山古墳から出土した鏡(上の画像の右の鏡)です。現在の前橋天神山古墳は、気の毒な状況です。
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しかし、後円部が残されたことを喜びましょう。
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階段を登れば墳丘の上に立てます。出土した鏡は、群馬県立博物館に展示されています。
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前橋天神山古墳の説明文でもわかる通り、しっかり記述されているのは三角縁神獣鏡です。卑弥呼の鏡だと全国の人が信じているからです。
しかし、
今まで蚊帳の外に置かれていた「三段式神仙鏡」が急に脚光を浴びることとなったのです。
それは何故か、答えに迷いはありません。
卑弥呼を機内に持ってくるためです。そのためには、東国の後押しが必要なのです。
まさか、九州と東国は結び付くまい、と、考えての画策です。


「三国志展」の図録には、次のように書かれています。

日本には「呉服」や「蜀の錦」などの言葉があるが、三国ゆかりの物が日本にもたらされることがあったのだろうか。ここでは、日本で出土する鏡をもとにみていこう。

一番多いのは魏の年号を記した鏡だ。邪馬台国の卑弥呼が239年に明帝からもらった鏡は三角縁神獣鏡が有力視されている。「師(作者)は洛陽に出づ」という銘文もあり、技術的なつながりも深い。ただし、三角縁神獣鏡は基本的には日本でしか出土せず、中国では魏の年号を記した鏡は呉の領域でしか見つかっていないなど謎が多い。

蜀の鏡は不明である。ただし、五斗米道の思想を体現した三段式神仙鏡が出土している。曹操による漢中平定ののち五斗米道の信者は漢中や鄴(ぎょう)に移されたので三段式神仙鏡も魏や晋でもつくられたのだろうが、もとは蜀の地で生まれた信仰だ。

呉では神獣鏡など銅鏡の生産が盛んであったが、呉に由来する鏡は日本では少ない。日本が呉の地域の影響を強く受けるのは、倭の五王が南朝に遣使する五世紀以降である。(図録より)

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前橋天神山古墳の上に立ってあたりを見回しました。この古墳の被葬者は、かってここを治め、この地を眺めた人なのでしょうね。

彼は、どのようにして三段式神仙鏡を手に入れたのか、それは畿内との交流があったからという展開になるのでしょうか。
いえ、そうとは言えません。
東国に仏教文化が早く入ったのも、鏡や鈴の文化が浸透したのも、九州との関係があったからです。そうして、6世紀初めの政変で東国に画期が訪れた。人の移動です。
東国では「渡来系の人の移入」でかたずけていますが、それだけではない。人が大量に動く何かがあったから、です。それを、稲荷山古墳(埼玉)は訴えているではありませんか。
渡来人でかたずけてはならないと、私は思っています。
舌足らずですが、今日は、この辺で。




# by tizudesiru | 2019-10-20 01:22 | 371三国志の時代に卑弥呼は生きていた | Trackback

三角縁神獣鏡が時代を席巻した理由は何か

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九州国博では三国志の時代展が開催中です。前々回に「畿内説の学者さんたちは、卑弥呼の貰ったという鏡を三角縁神獣鏡から画文帯神獣鏡に換える方針だ」と書かせていただきました。
そこで、疑問が生じます。
そうは言っても、今日まで大量に出土した三角縁神獣鏡はどういう位置づけになるのだろう? とか、
既に500面は越えている(?)という出土状況をどのように解釈するのだろう? とか
つまり、おいそれと鏡のみを交換するわけにはいきません。
畿内を中心に三角縁神獣鏡は重要視され、ありがたがられ、羨望の的となり大量生産されたのですから、その思想の根源を考えなければなりません。
下の画像は奈良県の黒塚古墳です。30面以上の三角縁神獣鏡が出土しています。
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然し良く見ると、被葬者の頭部に置かれていたのは、13.5cmの画文帯神獣鏡ですね。しかも棺内にあったとは…三角縁神獣鏡は棺外ですから意味深です。大きな三角縁神獣鏡が棺外で、ちいさな画文帯神獣鏡が棺内です。これは大きく扱いが違います。鏡の価値の違いです。
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では、黒塚古墳の三角縁神獣鏡にはどんな思想があるのでしょう。
神獣や東王父、西王母、が当時の思想を反映しているのは明らかです。
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これらの鏡の中で、一つ意味のわからない不思議な文様があります。
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クリスマスツリーのような不思議な木(?)でしょうか。奥野正男氏は「笠松形文様」と言われましたが、何でしょうか。この文様は三角縁神獣鏡に限られた文様だそうです。それからして、中国鏡ではないと奥野氏は主張されました。
この文様は、黒塚古墳出土の鏡の半数近くに刻まれています。
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これはいったい何でしょう。当時の人々には、ありがたい意味のある文様です。そこで、今回の「三国志の時代展」に意味を考えるヒントはないかと探してみました。なかなか見つかりません。あえて挙げるなら、これです。
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これって何でしょう。笠松形文様に確かに似てはいます。三国志展の図録の説明には次のように書かれています。
「揺銭樹」ようせんじゅ*台座は緑釉陶(焼き物です)
『大小400個もの円銭を飾った青銅製の樹木が、緑釉陶の台座に挿し込まれている。円柱上の枝が四方に伸びる。枝には銅銭のほか、不老不死をつかさどる西王母、鹿に乗る人物などを配する。ある銅銭は「五利后」という銘文をもつ。揺銭樹は後漢時代の墓で140個以上出土しているが、大部分が蜀の地に集中する。死後に仙人になれるように、財に恵まれるようにといった願いや、当地の人びとが信仰した神仙の世界を反映したものと考えられる。
「三国志」魏書・邴原伝(へいげんでん)に引く「邴原別伝」に、ある樹の枝に民衆が銅銭をどんどんかけて祀った記事がある。揺銭樹の副葬は蜀の地にほぼ限られるが、銭の樹への信仰はほかの地域にも存在したようである。』

蜀は劉備が建国した国です。劉備は、前漢皇帝・劉啓の子・劉勝(中山靖王)の流れと伝えられています。220年、曹操の子・曹丕(そうひ)が漢王朝を滅ぼして魏の皇帝となると、漢王朝の正当な後継者は自分であると主張して劉備は皇帝に即位しました。劉備は国名を「漢」と自称しましたが、『三国志』は、歴史的な地名である「蜀」を採用したのです。
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揺銭樹という副葬品でしたね。三国のうちの蜀で、死者のために作られたものでした。それが三角縁神獣鏡の文様に取り入れられたとすると、西王母といい、神獣といい、揺銭樹といい、死者のための文様です。
三角縁神獣鏡とは、本来、葬送の道具として死者のために作られたということですか! 大いに納得です。墓に入れるために作られたということです。では、
魏が卑弥呼に下賜した鏡は、、葬儀の道具だったのでしょうか。
まさか?!ですよね。葬儀の道具として制作したのは、日本の人たちで技術を提供したのは、西晋に追われた人たち、呉(280年滅亡)や蜀(263年滅亡)や魏(265年魏に譲位)の人だったかもしれません。

三角縁神獣鏡の工人は呉から逃げてきた人たちだったという説を聞いたことがありますが、笠松形文様が揺銭樹なら、蜀の人も一緒に来たということでしょうか。呉の人が倭国に渡ってくることは、可能でしょう。かれらは舟を使って交易で財をなしていたのですから、舟を作る技術に優れていたのです。
280年、呉が西晋の軍勢に滅ぼされたとき、呉の人は舟で海流に乗って倭国にきたでしょう。その時、一緒に来た蜀や魏の人がいた、となります
そして、彼らが「葬儀の道具としての鏡、」を作り生業としたのでしょう。
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(この画像は「方格規矩鳥文鏡」ほうかくきくちょうもんきょう、です。後漢から三国時代の鏡で、公孫氏の中心地であった、現在の遼寧省遼陽市にある墓から出土したものだそうです。公孫氏は遼東の支配も認められ、のちに半島の楽浪郡も支配下におさめ、三世紀初頭には楽浪郡の南に帯方郡を設置しました。
倭と韓は帯方郡に属したのですから、方格規矩鏡が倭でもてはやされたのは公孫氏との関係でしょうか。)
ですから、魏の鏡とは若干違っている文様が生まれ、銅を節約するために外枠の強い三角縁が生まれた、となりましょうか。中の銅は薄くても外側が強ければ形がゆがんだりしない鏡となったのです。安価で豪華に見える三角縁神獣鏡は、首長たちに喜ばれたので大量生産となったのです。
需要がなければ生産は、ありません。みんながこぞって求めたから、全国に広がったのです。王権からの配給とは思えません。
では、鏡がなぜ葬送の道具となったのでしょう。何に使われたのでしょう。そのあたりも考えなければなりませんね。

東京国博と九州国博で開催の「三国志展」に深い絶望を感じたのですが、でも、少し思ったことを書いてみました。

まだまだ、卑弥呼はどこにいたのか。なぜ、倭女王は「魏」を選んで遣使したのか。曹操を尊敬していたのなら、それをどのように取り入れ表現したのか。卑弥呼の時代の人の思考はどのような形で残されたのか。その経済基盤は何だったのか‥等々にかかわることなど、まだ大事なことに触れていません。
以上、解決はしていませんが。
また、お会いしましょう


# by tizudesiru | 2019-10-15 21:02 | 371三国志の時代に卑弥呼は生きていた | Trackback

東日本の皆様へお見舞い申し上げます

2019年、たびたびの台風より大きな被害を受けられた皆様に心よりお見舞い申し上げます。
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藤岡市の歴史資料館のがけ下には猿田川が流れていて十二天橋が架かっていました。この猿田川は直ぐに鮎川に合流し、又すぐに鏑川と鮎川が合流するのです。ですから、ここの落合の地名は二つの川の合流地点からきているのでしょう。そこにあるのが七輿山古墳でした。この豪族は二つの川の利便性を使って財を成したのかもしれません。その川が災難ももたらすということなのですね。
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高崎市には保渡田八幡塚古墳があります。
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お見事な埴輪群像のレプリカでした。
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保渡田八幡塚古墳の埴輪から、これまで武人とされてきた人物埴輪が首長をあらわしたものだと変わりました。
儀式における首長の装いが様々であることが分かったのです。
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それから、綿貫観音山古墳の埴輪も見事です。観音山の埴輪は、県立博物館に展示されています。
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2019年、この度の台風より大きな被害を受けられた皆様に心よりお見舞い申し上げます。群馬の方々にはお世話になりました。そして、昨年の11月、今年の7月と東日本を訪ねて懐かしく思いました。

どうぞお元気でいらしてください。
また、お邪魔いたします。

# by tizudesiru | 2019-10-15 01:00 | Trackback

弥生後期の政変・広形銅戈はどこへ消えたか

東京国博と九州国博で開催の「三国志展」に深い絶望を感じたのですが、でも、少し思ったことを書いてみましょう。
それは、卑弥呼はどこにいたのか。なぜ、倭女王は「」を選んで遣使したのか。曹操を尊敬していたのなら、それをどのように取り入れ表現したのか。卑弥呼の時代の人の思考はどのような形で残されたのか。その経済基盤は何だったのか‥等々にかかわることでもあります。
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まず、弥生時代の全盛期・弥生中期に甕棺墓のほとんどが消えたということです。弥生後期の墓が急激に減り、甕棺も急に小さくなります。それも、甕棺文化圏の中心から。
大型甕棺は弥生中期に突然消えるのです。それは、甕棺文化圏全体で起きた変化で、青銅器が墓ではなく土中に埋納される事態になりました。
これは、埋納祭祀などではなく祭祀具隠しでしょう。奪われたくないから隠したのです。何か大きな権力が動いた証拠です。隠さざるを得なかった…
ここに、不思議な現象があります。中広形銅矛と広形銅矛の問題です。
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広形銅矛とは、中広形銅矛の発展形です。
銅剣・銅戈・銅矛は、細形から中細形へ、それから中広形へ、そして広形へと形態が変化し大きくなります。上の図によれば、甕棺文化圏の広形銅矛は非常に少ないのです、対馬には大量に出土しますが。福岡平野に鋳型はあるのに、出土がほとんどなしです。どういうことでしょう。
対馬に大量に広形銅矛が出土した理由は、ふたつ。移動する必要がなかったか、奪われなかったからです。では、北部九州の広形銅矛はどうなったのか。それは、甕棺文化圏の人が持って移動したと思います。なぜ? それは、知らない土地に行くための、それが金品代わりだったからです。
そして、銅矛(どうほこ)だけではなく、銅戈(どうか)も同じ運命をたどりました。両者は、同じ出来事に出くわしたのです。
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広形銅戈の鋳型はあります。春日地域で生産していたのです。しかし…製品はありません。糸島などに完品が若干残っていますが。当時、生産していたし、流通もしていたのです。それなのに、鋳型のある福岡平野での広形銅戈の出土例がほとんどない……
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パネルには『中広形銅戈は、分布域が北部九州にほぼ限定され、この点銅矛とは異なる。広形銅戈は出土数がきわめて少ないことから、鋳つぶされて広形銅矛の原料になったとする説もある。』と説明されています。

確かに、前段階の「中広形銅戈」は北部九州で大量に出土してます。
しかし、次の段階の「広形銅戈」は、ほとんど出土がありません。なぜ?
広形銅戈の鋳型はあるのですから、おかしいです。
鋳つぶされた説は当然です。では、同じ北部九州の銅矛になったのでしょうか。
いえいえ、そうではない。それは、先にあげた「銅矛」の出土図で明らかです。
明らかに、広形銅矛は生産が減少したためか、出土が減少しています。原料が増えてはいないし、生産につながっていません。

広形銅戈はどこかに持ち込まれ、鋳つぶされたのですが、そこは北部九州ではないどこか、です。
ヒントは「ガラス工房」です。春日市須玖五反田遺跡は弥生のガラス工房跡です。ガラス工房は、丹後半島と大阪に伝播したのではないでしょうか。ガラス製品は生活必需品ではありませんから、経済的な有力者しか必要としません。
需要と供給が一致したのが、丹後半島と大阪湾岸だったのではないでしょうか。
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北部九州に急激な変化が起きた時、人々は何を考えたか。それは、移住でしょう。

北部九州にしか勢力を伸ばしていなかった銅戈祭祀の人々は、金品の代わりに銅戈を抱えて移動した、そう考えます。
何か大きな変化が起こったので、移動せざるを得なかったのです。
もちろん、四国地方には行けません。知り合いがいないのですから。そこには、銅矛祭祀の人たちが移動していますから。

もう一つ言えること、北部九州の文化の一つ「銅矛祭祀」は、中国地方ではなく四国地方に伝播していたということです。弥生時代の北部九州文化は四国に進出した、となります。中国地方では出雲地域に進出していたということです。
出雲も政変の影響を受けたことになります。
神話と伝承によれば、出雲はその後も侵略を受けます。
もちろん、古墳時代に北部九州でも大きな政変がありました。不思議なことに出雲も連動していますね。
銅矛・銅戈を祭祀道具とした人々の移動について考えました。では、銅剣を祭祀道具とした人々は、どうなったのでしょう?
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鉄素材の素環頭太刀は、九州の弥生の組み合わせ式石棺の中から出土します。武器として工具として鉄は活躍しました。
福岡県糸島市の平原王墓(女性王)には素環頭太刀が副葬されていました。  
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平原王墓では、内行花文鏡など鏡は割られて副葬されていました。日本で一番大きな鏡が割られていたのです。鏡が祭祀道具であれば、その呪力を奪ったことになります。この女性の胸のあたりに置かれていたのが、素環頭太刀です。
副葬された鏡の量からして、この女性が当時のトップ首長であることは間違いありません。その胸に置かれた素環頭太刀にはどんな意味があるのか、自明でありましょう。特別な太刀、大事な鏡より一段意味のある副葬品です。
まさに、卑弥呼が下賜された五尺刀ではありませんか。
この平原王墓について年代を卑弥呼の死亡年よりあげたり下げたり、学者は苦心惨憺していますが、普通に言えば、この人が「以って死す」の卑弥呼ではありませんか。
今のところ、そう考えざるを得ませんね。
卑弥呼は敗れたのです、呪力を失って。邪馬台国はほろんだでしょう。
だから、人々は混乱し移住せざるを得なかった。
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最近、何人もの知り合いが笑って言ってました。「卑弥呼が魏を主国としていたのなら、創始者たる曹操の墓より大きな墓を自分のために作ったりしませんよね。」
そう言われると、そうかもしれません。曹操高陵は地下にあり、墳丘も作らせず木も植えさせませんでした。そういう意味では、どでかい前方後円墳には違和感がありますね。
そうは言っても、大型古墳は首長のあこがれとなって全国に広がるのですから、あこがれの首長が存在していて、彼にあやかりたいと思ったということですよね。
それは、圧倒的な武力を持っていた首長でしょうか。武力は経済力で支えられますから、何を経済基盤としたか考えねばなりませんね。

しかし、今考えているのは、曹操の国を頼った卑弥呼には、どんな政治的状況があったか、邪馬台国が滅亡して人々はどうなったのか、です。
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糸島富士と呼ばれる可也山は、半島の可也にちなむ地名です。ここに半島の人が多く訪れたのです。この山は、いろいろ見てきたでしょうね
では、またお会いしましょう。


# by tizudesiru | 2019-10-10 15:15 | 371三国志の時代に卑弥呼は生きていた | Trackback

卑弥呼が貰った鏡を変えて畿内説を示唆する方向に

東京と九州の国立博物館で開催されている「三国志展」の開催意図は、他でもありません。邪馬台国九州説の撲滅でしょう。今日、「邪馬台国が九州に在った」と言っているのは素人で、考古学者は畿内説になっている。というのが事実です。文化庁もその方向です。
その意図がはっきり表れているのが、今回の三国志展です。
私が知りたいのは事実と真実です。本当に、邪馬台国畿内説でいいのか、未だに納得がいきません。
これまでに計画的に行われてきた蛮行を、科学的とか、最新の知見とか、表現していますが‥‥


九州説潰しに、関東からの縄文文化の伝播でせめ、巨大古墳の世界遺産化でせめ、文献は嘘が多いとして読みを変え文字を変えを承認し、九州などの地方の発掘費用を文化庁が遮断し、特定地方の古墳群を観光地化して市民の意識を操作し、ついに「邪馬台国畿内説の重要な証拠であった三角縁神獣鏡の否定」に取り掛かりました。
それが、画文帯神獣鏡への切り替えです。

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国博の三国志展では、三角縁神獣鏡を否定しています。さも公平な態度で、しかし、代わりに画文帯神獣鏡を出してきました。前漢鏡でも後漢鏡でもありません。大きな神獣鏡です、それも、環状乳画文帯神獣鏡です。この鏡は、三角縁神獣鏡が危なくなってきた時、現れた鏡です。
あの、奈良のホケノ山古墳(箸墓の近く)から出土した画文帯神獣鏡に結びつけるはずです。
学者さんたちは、「もうすぐホケノ山古墳の年代は、三世紀後半~四世紀前半から、三世紀半ばに引き上げられる」と言ってました。
三世紀半ばになれば、卑弥呼の墓と言われる箸墓より古くなります。
それが狙いなのです。ホケノ山古墳が箸墓より早く作られた古墳とされているので、四世紀ではまずいのです。なんとか三世紀の248年に没した卑弥呼より、先に葬られた人の墓だとしたかったでしょう。それが、既に準備されています、もちろんマスコミを使って。


今度の三国志展も、畿内説に持って行くための市民の意識改革の一環です。全体を見回すとそうなります。わたし達市民は何時も振り回されます。発掘するお金もないし、資料を調べる時間もありません。しかし、直感はあります。なんだか変だと思う‥‥
そうです、変なのです。
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それは、素環頭大刀です。大刀の柄の先端に丸い環が付いています。
ここに紐や布を通して手首に巻きつけ、戦いのとき手から離れないようにするのです。相手に叩き落されたらおしまいですから、落さないための紐通しの環なのです。
三国志の時代の刀は素環頭で、戦いの道具でもあります。

また、文字を書くために木を削る道具の刀子も形は素環頭と似ています。この時代は素環頭だった…素環頭大刀は九州の組み合わせ式石棺の中から出土します。
糸島の初期古墳である一貴山銚子塚古墳からも出土します。
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九州の弥生遺跡からどんなに大量の鉄や銅の武器・工具が出ようとも、それは渡来人の持ち込みだとなりましたね。紀元前4世紀には渡来人が来て、九州の平地を席巻したとなりつつあります。九州の平地の全てに渡来人居住地というくくりになり、縄文系の人は山地に住みその骨は消えていった、となっているのです学者さんたちは、そこで手を打ったという‥‥前代未聞の展開です。
ですから、残るのは古墳の時期の確定です。
ホケノ山古墳も一貴山銚子塚古墳も、このブログで何度も取り上げました。下の写真のようにホケノ山古墳の墳丘から箸墓が見えます。なんとしても、ここを三世紀半ばにしなければなりません…
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あれほど三角縁神獣鏡が大量に出土したと騒いだ黒塚古墳の時代は終わらされました。下の写真は黒塚古墳。ここも三世紀と言われたのでしたね。
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わたしには考古学がすっかり色あせて感じられます。本当の事が分からないまま、全く別のステージにいざなわれているからです。税金を使うのなら、どんなに恥ずかしい歴史でも真実を知らせてほしいです。
文化庁は誰のために何を目指していくのでしょう。個人や特定地域の為ではなく、広く市民のための、現在の日本に至るまでの歴史を、そこを掘り続けてほしいです。

絶望と混沌の中で死んでいった人の事を忘れてはなりません。



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# by tizudesiru | 2019-10-08 10:35 | 371三国志の時代に卑弥呼は生きていた | Trackback

神となった関羽の像に会える・九州国博「三国志展」

10月から九州国博で「三国志展」が始まりました。会場に入ると関羽像に出会います。
219年、関羽は非業の最期を遂げましたが、敵将の曹操からも「義の人」と称賛されました。その関羽の像は、スリムです。顔の半分が顎髭という一般化された関羽像と違って、どこか若くりりしく見えます。三国志の中では、人気ナンバーワンですかね。諸葛孔明が好きな人も多いようですが。
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関羽は張飛とともに早くから劉備に仕えました。「同年同月同日に生まれること」を願うのではなく、「同年同月同日に死ぬこと」を誓い、劉備・関羽・張飛は「兄弟のような恩愛」で結ばれていました。
劉備・関羽・張飛が誓いを立てた「桃園結義」以来、三人は行動を共にしていましたが、徐州の戦いで劉備が曹操に敗れます。劉備とはぐれた関羽は、劉備の二人の夫人を守るためにやむなく曹操に投降したのでした。
敵将曹操は、関羽を厚遇しました。「一万人の兵に匹敵する」と言われた関羽でしたから。
関羽は曹操の恩義に報いるために、白馬・延津(えんしん)の戦いで曹操のために活躍します。
が、劉備の所在を知ると関羽は曹操に別れを告げたのです。劉備のもとへ戻る関羽を曹操は止めずに、「義である」と称賛しました。
十九年後の219年、関羽は曹操軍と呉の孫権軍に挟み撃ちにされ、非業の死を遂げました。
その翌年220年、曹操も没します。曹操の子・曹丕(そうひ)が、後漢の献帝(けんてい)から帝位を譲られ「魏」が成立するのです。
つまり、「魏」という国は、曹操が没した後に生まれた国ですね。
後漢から帝位を譲られた曹氏に対して、天下を治めるべきは前漢の中山靖王劉勝に連なる家柄であるとして、221年に劉備が蜀の地で皇帝になることを宣言しました。
そして、229年、孫権も帝位につき、魏・蜀・呉の三国の時代となるのです。

正史「三国志」は、155年の曹操の誕生から書き出されていますから、155年から280年の「呉が西晋に滅ぼされ、西晋が成立する」までを三国志の時代として、「三国志展」は開催されています。
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あの赤壁の戦いは、208年ですからまだ三国は成立していません。
この時、劉備・孫権軍対、曹操軍の戦いで、曹操が破れます。ここで、天下三分の形態が固まるのです。
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三国志展には、気になる一級文物がたくさん展示されています。


中国が門外不出の展示物を国外に出してくれたのです。この展示物のために、多大な時間をかけて相当な人が働きかけられたことでしょう。写真も撮っていいのです。
すごいサービスだと思います。とても、面白かったです。
思ったのは、この時、卑弥呼は生きていたのだということです。魏からたくさんの文物を下賜されていますから、かならず同時代のにおいのするものをもらっているはずです。そう思ってみると、面白いのです。
では、また。


# by tizudesiru | 2019-10-05 01:44 | 371三国志の時代に卑弥呼は生きていた | Trackback

「甕棺の人骨は渡来人説」とは、邪馬台国九州説の否定なのか

納得できないことにぶち当たりました。
九州の弥生の墓制、甕棺文化圏の人は渡来系だというのです、すべて。山口県の土井ヶ浜遺跡では300体ほどの人骨が見つかりました。福岡の金隈遺跡でも130体ほどの人骨が見つかっています。佐賀でももちろん甕棺墓から人骨が出ました。
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甕棺に残った人骨の特徴から、彼らは渡来人だというのです。日本列島には押しなべて縄文人が住んでいて、がっちり形でほりの深い顔だちだった縄文人がいる列島へ渡来人が侵入し、河口の湿地を中心に稲作を始めて縄文人とは住み分けた、というのです。渡来人系の人々は、顔が長くほりの浅い顔の長身だったというのです。
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しかし、かんじんの半島では弥生時代に当る時期の人骨はほとんど見つかっていません。ですから、半島人の形態が不明のままなのに、九州の甕棺文化圏の人が全て渡来系だとするのは早計ではありませんか。更に、縄文人の骨も非常に少ないのです。
私もこの辺りは重要だと思っていました。同じ弥生人の骨が地域によってかなり違っているからです。縄文系弥生人とか、渡来系弥生人とか言われますが、日本列島人そのものが、外から来た人種です。近親婚を繰り返しながら、他と混血を進めていったのでしょう。その過程では、地域差があるのは当然です。

もちろん、彼らが混血しながら列島に住み着いたとは聞いたことがあります。
ここで問題なのは、骨の特色は長く何百年も同じなのです。金隈遺跡を見ればそういうことになります。600年間、縄文系の人々との混血はなかったのでしょうか。

600年間同じ特色の骨であれば、その人達そのものが列島にもともと住んでいたとなりませんか。混血は600年より前に終わっていて、彼らが稲作を受け入れたというのでしょうか。

弥生前期に半島から九州や山口に人間が大集団で渡り、彼らが大集落をつくるという展開は納得がいきません。それも、縄文人とは住み分けたから混血はしなかった…
だって、金隈遺跡は紀元前4世紀から継続しているのです。
彼らは一度に渡ったのでしょうか。少しずつ一定の地域に渡ったのでしょうか。
福岡平野の一等地を耕し、そこを見渡す一等地の丘陵を墓地としたのです。在地の人との交流もなく、そこを手に入れることができたのでしょうか?
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弥生前期の甕棺墓と後期の甕棺墓から出土する人骨の形態が同じなら、紀元前400年には混血が終わって形質の同じ身体になっていたとなるからです。遺伝学的には優性遺伝子や劣性遺伝子があるでしょうから、同じ因子を潜在的に持っておれば、近親婚では劣性遺伝子も外側に出てきます。そうなると、骨の特色は一定にはなりません。様々な形態があらわれるでしょうに。
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それにしても、甕棺ではこんなに骨が残るのですね。鼻が低くて細い顔だということは分かりますね。
忙しかったので、ブログができませんでした。又、お会いしましす。


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# by tizudesiru | 2019-09-24 01:34 | 368 北部九州で弥生文化は花開いた | Trackback

金隈弥生遺跡は 卑弥呼の時代まで六百年間継続し、136 体の人骨が出土

福岡県福岡市の金隈(かねのくま)遺跡に出かけました。甕棺墓が見学できるように公開されています。『金隈遺跡では、約2,400年前から1,800年前、弥生時代のおよそ600年にわたって甕棺348基をはじめ土壙墓(どこうぼ)119基石棺墓2基の合計469基もの墓が発見されています。』とパンフレットに書かれています。ここから136体分の人骨が出土しました。貝輪や石製の小玉、甕棺に供えられた小型の壺が出土していますが、青銅製の武器などはありません。福岡平野の西の吉武高木遺跡と東の金隈遺跡ではずいぶん違っています。西の吉武高木遺跡では、弥生時代の前期の鏡や玉や銅剣が特定の墓域から出土していますから。(福岡市博物館に展示されています)
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4体分の人骨が展示されていますが、本物だそうです。他は九州大学で保管されているそうです。ここの骨で、弥生人の骨格の特色が分かったと聞きました。DNA分析を加えれば更に詳しいことが分かるでしょうね。期待がふくらみます。
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折り重なるように甕棺墓と土壙墓がありますから、長い間に同じ場所に埋葬を繰り返したのですね。
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子ども用の甕棺も多いですね。下の写真のように、子どもに副葬されたゴホウラ貝輪もあります。ゴホウラ製貝輪は男性に、イモガイ製貝輪は女性に副葬されるのだそうですから、この子は男子でしょう。
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この甕棺墓群は北部九州の弥生時代の文化や政治の変化を解明できるのでしょうね。600年も続いたのですから。パンフレットには「遺跡の年代を測る『ものさし』として利用することもできます。また、かめ棺墓の中からは状態のよい多くの人骨や貝輪が発見され、弥生時代に生きた人々のすがたや、ほかの地域との交流を研究する上で貴重な資料となっています」
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この遺跡の案内板には、弥生前期から後期の初頭にかけての遺跡と書かれていました。その間は、400年となっています。これは発掘当時の50年前の認識なのでしょうね。昭和47年当時のままの文章ですね…
紀元前200年から紀元後200年の四百年間ここは墓地だったのです。ちょうど卑弥呼(248年没)の時代まで使われていたのですね。それにしても、パンフレットには600年間と書かれていましたが、この説明板には400年間と書かれています。200年の誤差は、大きいですね。
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なるほど、甕棺の形態の変化がわかるのですね。甕棺の変化から時期を推定できるということです。下の図の水色は土壙墓で、この遺跡では土壙墓が最も古い墓とされています。
「弥生時代前期後半ころ(約2300年前)からのちは、かめ棺墓が主体になります。甕棺墓は中期のおわり(約2000年前)にかけて減り、それ以降はわずかに石棺墓がつくられるにすぎません。金隈遺跡は弥生時代のおわり(約1800年前)まで、墓地として使われていたと考えられます。」(パンフレット)
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なぜか、栄えた甕棺文化は断絶するのです。みごとな大型土器の技法は失われたのでしょうか。この甕棺技術が埴輪製作技術につながったのではないでしょうか。カメカンの需要がなくなって工人たち集団は生活に困ったでしょうから。
人が移動するのは、需要と供給の問題、経済活動です。生活の成り立たないところに人は住みません。つまり、弥生後期に何かがあったのです。政治的経済的混乱…それは内乱でしょうか。
そして、誰もいなくなった…三国志の時代を生きた人たちはどうなったのでしょう。

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遺跡は勾配のきつい丘の上に有ります。弥生の森と書かれた広場の中心に横穴式石室の古墳があり、そこが遺跡の最高地となります。屋根をかぶせて残されたのは、甕棺と土壙墓の部分です。下の図の上下(東西方向、西が上)が急な崖になっていることが分かります。金隈遺跡は丘陵の尾根に作られた墓なのです。
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丘の上に展示施設があるので、資料館には階段を上ってたどり着きます。
あたりを歩いていると、気のせいか前方後円墳の上を散策しているように感じられます。北の古墳に向かって緩やかに登りますが、そこが後円部のように思えるのです。気のせいですが。古墳への道は細くくびれています。
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三国志の時代が終わって・・・
弥生人が墓を造らなくなって二百年、この被葬者が此処に墓を造った、ということですか。二百年経っていても、ここは墓地だったのですね。ふむ・・・

面白い金隈遺跡の紹介でした。
ここで、はっきりさせたいのは
卑弥呼の時代には大きな変化があったということですそれは、技術者の移動を余儀なくした…
さらに、弥生時代の骨は甕棺の中には残りやすいが、土壌には残りにくいことです。今、やたらに弥生の人骨と言って木棺墓から立派な木片とともに、立派な人骨が出土しています、ある地方で。それも、組み合わせ式の木簡は金属器で加工した「ほぞ穴」のある立派なものです。残らないはずの木材と残らないはずの人骨が相次いで見つかっている…日本はどうなったのでしょう
「日本は酸性土壌なので、人骨は土の中では30年で消える」と、ある骨の研究者は言われました。しかし、日本のある地方では、木棺墓に弥生の全身の骨がごっそり何体も出土しているという、狐につままれたような話が写真集でまとめられています。
どうなっているのですかねえ。
日本の科学はこれでいいのですかねえ…きになります。
では、またお会いします。


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# by tizudesiru | 2019-09-10 10:33 | 368 北部九州で弥生文化は花開いた | Trackback

三国志の時代・野方遺跡は卑弥呼の時代に重なる遺跡

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福岡市の野方遺跡では弥生の住居址を展示しています。遺跡の中の溝は環濠でしょうか。奥に見える山は、飯盛山でしょう。平群の山です。今は福岡市になっていますが。早良郡平群村の中心にあったのが飯盛山でした。平群という村名も地名もなくなってしまいました。地名の変更で、歴史は見えなくなるのです。
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野方だって、早良郡額田だったのです。額田が消えて野方となりました。
野方遺跡の近くでは弥生後期の鏡「位至三公鏡」が出土しているそうです。これは、卑弥呼のすぐ後の時代の物だそうです。
野方遺跡には後漢鏡が展示されていました。
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そうそう、「卑弥呼が没した前後の時代」は今では、「弥生後期」ではなく『古墳時代』なのだそうです…が、福岡ではあいまいでほぼ「弥生時代」となっています。福岡では、三角縁神獣鏡は4世紀以降の墓や住居址から出土するのです。ですから、その前の弥生時代には三角縁神獣鏡は出土しないのです。

これは、どういうことですかね。特定の地域が「
三角縁神獣鏡の時代」を3世紀としたのは「間違い」ということですかね。
すると、近畿の古墳時代区分は間違いの上に構築されたということですか。ほんとはどうなのでしょうね。

10月1日から九州国立博物館でも「三国志の時代の展覧会」があります。隣国中国の学者は「魏の鏡として三角縁神獣鏡はありえない」という見解ですから、みんなで「本物の魏の鏡」を見た方がいいのではないかと思います。三角縁神獣鏡とどこが違うのか分かって面白いのではないでしょうか。もちろん、私も楽しみにしています。
この催しは東京国博でやっていましたから、早く見たいと思っていました。縄文展のように、九州はパスされるのかなあと心配でしたが、よかったです。
鏡だけではなく大刀も展示されますから、卑弥呼が魏から下賜された五尺刀がどのようなものだったか、類推する機会になると思います。


ということで、福岡の弥生の様相を調べるのも大事かなと思います。
福岡市の野方遺跡の紹介です。
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見学はもちろん無料です。
福岡市には甕棺墓地を見学できる金隈遺跡もあります。
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ここもなかなか面白いのです。そのうち紹介しましょうね。
ではまた、お会いできますように。

# by tizudesiru | 2019-08-27 12:20 | 368 北部九州で弥生文化は花開いた | Trackback

「聖武天皇を孤独から救ったのは大仏建立だった」万葉集と古代史

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聖武天皇は東大寺の大仏建立を成し遂げた人で、深く仏教に帰依しました。しかし、その一生は波乱に富み、孤独でもありました。
聖武天皇を不安に陥れた出来事に「藤原広嗣の乱」がありました。この乱をきっかけに、聖武天皇は関の東に行幸することにしたのでした。

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都に残された藤原豊成は、天皇不在をどう思ったでしょう。さぞや悔しかったでしょう。
737年に藤原四兄弟がそろって没した後、それまで藤原四家(南家・北家・式家・京家)から議政官が出ていたものを、元に戻され一氏から一名になっていましたし、橘諸兄が天皇の信頼を得ていたのですから。
藤原氏の後退というその不満ゆえに、740年に藤原広嗣は「乱」を起こしました。
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740年、東国への避難(?)の行幸の途中から、聖武天皇は「大仏建立」という目標に向かって進みだしたのです。難波の知識寺で見たような廬舎那仏を建立するという目標でした。
が、紆余曲折があって、思うようにはことが運びませんでした。
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恭仁宮、紫香楽宮、難波宮と聖武天皇は彷徨います。そして、ついに平城宮へ戻ったのでした。
そうして戻った平城宮で、聖武天皇を待っていたのは・・・・・・
と、いうお話です。


聖武天皇が孤独になってしまったのは、藤原氏が外戚となったからでした。

「聖武天皇の孤独」の後半のお話しは8月27日(火)で、実は、明日です。福岡市中央区天神の元「光ビル」、『正知ビル』です。8月13日のお話「聖武天皇の孤独」の後半です。
宜しくお願いします。
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# by tizudesiru | 2019-08-26 10:44 | 369・令和元年、後期万葉集も読む | Trackback

藤原氏から密命を受けていた山上憶良は、大伴旅人に近づいた

まだまだ夏真っ盛りのような福岡県太宰府市の大宰府政庁址です。
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背後の山は大城山(大野山)です。この大宰府政庁で山上憶良と大伴旅人はであったのです。

8月の歴史カフェは、万葉集の巻五の「梅花の宴」について考えます。

天平二年の正月に、大伴旅人はどんな思いで正月儀式を行ったのか。その時代背景と旅人の置かれた状況から「梅花の宴」を深読みします。

大宰帥・大弐・少弐・国司から無官の者までが一同に会して「梅花」を詠むなど、前代未聞の出来事でした。その行事は、旅人の思い付きだったのか、筑紫の伝統行事だったのか、宴の目的は何だったのか、ここが重要なのです。

当時、大伴旅人には都の藤原氏から秘密裏に三人の監視人が付けられていました。旅人は気が付いていたのでしょうか。筑前守・山上憶良と、少弐・小野老と、造観世音寺別当・沙弥満誓の三人です。三人共に稀代の知識人で教養がありました。だから、大伴旅人の傍に近づけたのです。

大伴旅人は都の高級官僚ですから、少々の文化人では傍にも寄れないのです。

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筑前守山上憶良は、無官のまま遣唐使として唐に渡りその才能を発揮し、帰国後は役人として都で活躍し、716年から伯耆守、721年退朝後は「東宮」に仕え、皇太子(聖武天皇)の教育係の一人になりました。聖武は724年に即位し、憶良の仕事は終わっていたのです。

なのに、既に高齢の老人だった憶良が726年に筑前守となりました。

何処か変おかしいでしょう! 退朝した高齢者を九州に遣るなんて。

憶良は733年に74才で没していますから、大宰府に来たときは、68歳くらいの老人です。棺桶に片足突っ込んだ人をはるばる筑紫に遣りますか? 藤原氏としては、憶良以外に大伴旅人をうならせる人物はいないと、踏んだのです。

憶良は皇太子の教育係までした人物ですから、そのころの聖武天皇の立場は熟知しています。その頃の聖武天皇には、後継者となる男子がいませんでした。そうなると、元明天皇によって「皇孫」と立場を引き上げられた長屋王の子ども達が皇位に着きかねません。

ゆゆしき事態、やむにやまれぬ状況だと憶良は諭されたでしょう。ですから、老体に鞭打って、必死の覚悟で彼は九州に来たのでした。旅人に面会した時は70歳になっていたでしょうか。


藤原氏としては、時の権力者・左大臣長屋王に死んでもらう予定だったのです。旅人は大宰府に遣る、都に残った弟の大伴少奈麿にも死んでもらう、そうして長屋王を陥れ、その4人の男子(吉備内親王の子ども達)を断絶する、その計画は実行されました。


梅花の宴は、大宰府に遣られた大伴旅人が天平二年正月十三日に開いた宴です。大伴旅人は自分の立場や政治的状況を理解できなかったのでしょうか。そんなことはありますまい。



何もかも分かっていて、その上で何もできない自分を嘆いたでしょう。そして、下心丸出しで近づいてきた山上憶良と親しくなったのです。

憶良も同じです。立場は違っても両者は稀代の文化人です。大伴旅人は、古代大伴氏の血統をつなぐサラブレットでした。その文化力と教養に憶良としても感銘したはずです。

憶良は漢文の知識を駆使し漢詩を作り、和歌を詠み長歌を作歌しては旅人に献じました。それらが多く残されたのが、万葉集巻五です。

巻五の詩歌には二人のやり取り、憶良のその重厚な手練手管が見え隠れしています。70歳の老人の決意と執念、悲しい限りです。憶良が大宰府に在った時、彼はすでに家族のすべてを失っていました。その人が、聖武天皇のために命を捧げたのです。

70歳の憶良の妻も児もこの世の人ではなかった彼が孤独な老人だったと分かって、巻五に残された憶良の歌を読むと世間の無常が胸を突くのです

803 銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも

905 若ければ道ゆき知らじ まひはせむ 下への使ひ 負いて通らせ
どちらも、死んだ子を思う親心にあふれています。
瓜を食べても栗を食べても、思うのは亡くした子のこと。あの子は瓜が好きだった、栗も食べたいと言ったなあと思いだすと、二度と帰って来ない時間が胸を締め付ける‥‥愛する息子・古日が死んだ時どんなに悲しかったか、若い息子には黄泉の国へ降りていく道は分からないだろうから、黄泉の国の使いよ、どうか背負って行ってくれまいか。

こんな詩歌を献じられて、大伴旅人は憶良に心開いたかもしれません。憶良も強い心が傾いたことでしょう。しかし、一方は武人、一方は官僚です。二人は別れる時、どんな会話をしたのでしょうね。

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8月27日(水)歴史カフェ阿蘇「令和元年、万葉集を読む」は『天平二年の梅花の宴・大伴旅人は長屋王を偲んだ』です。熊本県阿蘇郡西原村1805-1「平田庵」というそば屋さんの隣の民家です。水曜日は「平田庵」は休みです。
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宜しくお願いいたします。
では、また。


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# by tizudesiru | 2019-08-19 21:39 | 369・令和元年、後期万葉集も読む | Trackback

丹後半島に逃げた二人の天皇

大江山 生野の道の遠ければ まだ文も見ず 天橋立
(大江山 行く野の道の遠ければ まだ踏みもみず 天橋立)
和泉式部の娘・小式部が詠んだ誰もが知っている天橋立の名歌は、「母からの文だなんて、あの大江山へ行く生野の道も遠いのですから
文(便り)も届くはずもなく、天橋立にはまだ足を踏み入れたこともありません。母の力を借りて歌を作ったりいたしませんわ。」
と藤原定頼に応えた 歌でした。

ところで、此の大江山が問題です。
小式部が詠んだ大江山は、果たして都から近い大枝山なのか、遠い丹後半島の付け根の大江山なのか、です。学者の解釈は「都の北西の大枝山」となっていて、わざわざ「鬼退治の大江山ではない」と説明が付きます。
そうでしょうか。
私には大江山は遠かったとしか読めないのです。小式部は大きな大胆な歌を詠んだと思うのです。
「大江山」と読むと「都から遠いあの大江山のある土地へ向かって生野を越えて母が行った」と詠んだことになり平安京の西の「大枝山」として読むと「都の近くの大枝山を越えて生野へ向かった道が遠い」と意味が小さくなるからです。
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(鬼の面が飾られた大江駅)
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鬼で有名な大江山のある大江の駅には「鬼瓦・鬼面」が飾られています。地域をあげて「鬼」を売り出しているのです。古代の「鬼」にどんな意味が託されたかというと、人間を越えた、恐ろしく強い力を持つ者、の意味です。そんな力のある者が大江山辺りには住んでいたということです。

「大江山生野の道の遠ければ」この歌から分かることは、大江山の向こうは異界だった。大江山には伝説上は鬼が住んでいたということですから、昔から丹後半島は別世界、異界だったということです。そこは、別の文化圏に属していたことになりましょう。鬼退治をしなければならないほど「まつろわぬ首長が住んでいた」のです。
それは、当然です。日本海側の首長達は筑紫と交流することで財を成してきたのです。そうでなければ、日本海側の潟湖が港として栄えるわけがありません。港に出入りする船は筑紫船だったのです。
丹波国が瀬戸内の首長と交流するのであれば、中国山地を越える道を整備すればいいのです。しかし、船で筑紫と交流する方が実入りが大きかったのです。

丹波国が異界だったことは、雄略紀でもわかります。
弘計(をけ)天皇=顕宗天皇と、憶計(おけ)天皇=仁賢天皇は、丹波国余社郡(よさのこおり)に逃げました。なぜなら、そこへ逃げれば逃げ切ることができたのです。
まるっきり知らない土地に逃げれば、寝首を欠かれるか、身ぐるみはがれるでしょう。頼りになるのは、逃亡者でも受け入れてくれる知り合いであり、情報力と組織力のある知り合いなのです。与謝郡は、逃げるには好地だったのです。

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余社郡=与謝郡で丹後半島の東側の辺りです。古代は決して小さな郡ではなく、与謝郡は日本海の海運業でにぎわっていたです。豊かな国であり、豪族が居たから高貴な皇女や皇子が逃げたのです。間人皇后も丹後半島の北「間人たいざ」に逃げました。
羽衣伝承の筑紫の姫たちも丹波に逃げました。

古代の丹波国は、そういう独自の文化と自治力を持った地域だったのです。
父の市辺押磐皇子が雄略天皇の策略で殺された後、二人の王子は与謝郡に逃げました。そこなら何とかなると思って、逃げたのでしょう。与謝郡は丹波国です。
丹波の与謝郡から播磨国の赤石郡に移った二王子は、名を「丹波小子(たにはのわらは)と変え、縮見屯倉首に仕えたのでした。
二人は逃げているはずなのに、播磨の赤石郡に移るのは不思議ですね。今の感覚では赤石郡では見つかりそうな感じがしますが。当時は、丹波小子と名乗れば出自は隠せたのです。つまり、播磨と丹波は近くても文化圏が違った遠い土地だったのです。

豊受大神も丹波国の神でしたね。

古代史のなぞを解く鍵は、丹波国が握っているのかもしれません。
では、又、お会いします。


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# by tizudesiru | 2019-08-18 00:25 | 370筑紫国造磐井の乱後の筑紫 | Trackback

羽衣伝承・絹衣を身に付けた高貴な姫たちの出身地は筑紫

日本各地の「羽衣伝承」から見えるのは、政変があった時に滅びた王家の女性たちが、知り合いを頼って逃げ延びた話が伝わった証拠ですね。逃げた先、たどり着いた先に「羽衣伝承」が生れた、となりましょう。風土記に残る「丹後半島の羽衣伝承」も、羽衣(美しい絹の衣)を身に着けた女性たちの話だと思います。
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羽衣伝承の残る地域は、古代には滅亡した王家と関わりがあったと言えましょう。
その王家と関係の深い地域のひとつが、丹後半島だったのです。
天橋立で有名な丹後半島の根元に籠神社がありますが、その本宮は眞名井神社です。眞名井神社ですから、真の名は「井」だったのでしょう。「井」は大事なものだったということでしょうか。伊都国の「い」、糸島には「イ」の地名がありますね。井原(いわら)、井原山、いいじ、等々。

天橋立は九州の文化の入口でもあったのです。籠神社の伝世した漢鏡もその証ではないでしょうか。


天橋立の砂嘴の内側は「阿蘇海」あそのうみ、です。阿蘇(九州)の舟が出入りする内海の意味でしょう。世阿弥作の謡曲『丹後物狂い』にも、筑紫舟が出てきます。筑紫(九州)からの船が出入りしていた、中世にもその伝承があった。更に、謡曲『丹後物狂い』の主人公は磐井の某なのです。此処に「磐井」というゆゆしき氏名が出てきます。丹後半島が日本海を通して筑紫(九州)と深い関係にあった証拠でしょう。さらに、磐井某の子は天橋立から身投げし、そこを筑紫船に助けられて、九州の英彦山で修行をするのです。
阿蘇海の北の浜は、眞名井原と呼ばれていたそうです。

丹後半島の羽衣伝承は『丹後国丹波の郡、郡家の西北の隅に比治の里あり。この里の比治山の頂に井あり。その名を眞名井と云ふ。今はすでに沼となれり。この井に天女八人降りて来て水浴みき』と書かれています。

そういえば、大分県日出町に「日出の眞那井神社」があるのです。
こちらの名前の由来は定かではありませんが、日出=比治 眞名井=真那井 で表記がやや違っていますが、もとは「ひじのまない」でしょうか。

眞名井神社は出雲にもあります。出雲国風土記や延喜式に記された「眞名井神社」です。中世から近世は「伊弉諾神社」だったそうで、明治になって「旧号」に戻したそうです。何百年も我慢して「伊弉諾神」に従っていたのですか…

為政者の都合で祭神や社名が変えられるのはよくあることですし、合祀・遷座・遷宮、総社に集めるなどなど様々な紆余曲折を経て今日に至った神社が大半でしょう。
大化改新・律令体制・武家支配・明治維新の政変で、神祭りは変えられてきました。


ここで、羽衣伝承に戻りましょう。
風土記にもあった「比治と眞名井」には、不思議と羽衣伝説が絡んでいます。天女が天から降りて来て水浴をしている時、置いていた衣を隠されて天に戻ることができなかったという伝承です。紀伊国にも羽衣伝承があり、三保の松原にもあります。大阪にも千葉にもあるそうです。
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さて、天女の出発地は何処でしょう。まさか、空の上ではありますまい。
ここで言えることは、彼女たちの出身地は「伝承地ではない」ということです。伝承地以外の他の土地から来たのです。

それも、天女が身に着けるような見たこともない衣を着ていたのです。つまり、その衣は絹でできていたでしょう。絹の産地か、そこから近い所の高貴な姫たちだったということです。
その女性たちは、様々な文化を伝えています。機織りもそうです。
丹後半島の奈具神社の姫は、土地の夫婦に頼まれて養女になり、様々なことを伝えますが、その中に酒造がありました。
それまで、口に含んで吐き出した飯を発酵させて酒を造っていたところに、新しい酒造法を伝えたようです。それは、麹を使った酒造でしょうか。おかげで夫婦は豊かになり、姫を不要として放り出しました。そこで、奈具村までたどりつき「吾が心なぐしくなりぬ」と言ったので奈具という地名になったという話です。

羽衣伝承と、新しい文化はセットなのです。
それは何処から伝わったかというと、答えは九州です。
しかし、丹後半島の人たちの答えは「半島や大陸から伝わった」となっています。
それはないとは言いませんが、より安全な港伝いに小舟でもいける地域が妥当な答えではないでしょうか。

絹の衣は奈良時代でも九州の税であり、特産品でした。万葉集の沙弥満誓の歌を紹介します。この人は、元明天皇が病気になった時、出家していました。大伴旅人の知り合いです。大宰府でふたりは再会しています。「梅花の宴」にも呼ばれました。その人の歌です。

沙弥満誓、綿を詠む歌一首(造筑紫観世音寺別当 俗姓笠朝臣麻呂也)
336 白縫 筑紫の綿は 身に着けて 未だは着ねど 暖けく見ゆ

「筑紫の綿」とは絹のことです。満誓はまだ着たこともない物でした。そうそうに都にもなかったのです。筑紫には弥生時代から絹の生産がありました。丹後半島には、羽衣伝承のあとに絹生産と機織りが入るのです。それが「丹後ちりめん」という伝統工芸品にまで高まったのだと思います。
今日の結論は、羽衣のような絹の着物を着た女性は、九州から各地へ出て行った。その理由は、故郷に戻れない事情があったからではないか。そのために入り込んだ地域に喜ばれるような技術を伝承した。しかし、よそ者には変わりはないので子供を残しても出て行かざるを得なかった。
羽衣伝承のある地域は、九州とつながりがあったと思われる。

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(磐井の某の息子が修行したという成相寺)

では、沙弥満誓の他の歌も紹介しましょう。
 沙弥満誓の歌一首
351 世の中を なににたとへむ 朝開き こぎにし船の 跡無きごとし

造筑紫観世音寺別当沙弥満誓の歌一首
391 鳥総立て 足柄山に 船木伐り 樹に伐りゆきつ あたら船木を

 
太宰府でどんなことに気づき、何を考えて、一生を閉じたのでしょうね。
この人はハンサムだったそうです。

では、又。


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# by tizudesiru | 2019-08-11 01:26 | 370筑紫国造磐井の乱後の筑紫 | Trackback

筑紫国造磐井の孫、大石麻呂の建立したという龍光山恵華寺があった大石地区

筑紫国造磐井の乱は、教科書にも書かれています。磐井の子・葛子が父に連座して誅殺されることを恐れて「糟屋屯倉」を献上したと書紀にも書かれています。
磐井の本貫は岩戸山古墳のある八女丘陵を中心とした筑後川より南、南筑後の辺りだとされますが、糟谷の屯倉は北の玄界灘側です。筑紫君は火君と婚姻関係にあり、福岡県北部に葛子の領地があったのであれば、一豪族とは思えない広大な地域を抑えていたことになります。
さて、筑紫君葛子の一族はその後、どうなったのでしょう。
筑紫国造磐井の孫が建立した寺の伝承地を訪ねてみました。須多田(すだた)古墳群と大石古墳群の中に在ります。
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(須多田の天降天神社の御祭神は少彦名命となっています)
福津市津屋崎町須多田の天降天(あもり・あまふり)神社は古墳になっています。
ここ須多田地区は隣の大石地区とは、古代から婚姻はなかったそうです。大石地区の伝承によれば、「筑紫国造磐井の孫である大石麻呂、須多田麻呂、磐津麻呂とは、三兄弟であった為だ」というのです。津屋崎町の民族編「ムラの歴史伝承」に書かれています。
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大石地区には「椎ヶ元観音」という平安時代の仏像が伝わっていますが『その由来によると、この地に龍光山恵華寺という大きな寺があり、筑紫国造磐井の孫、大石麻呂の建立したものであると伝えられている。』
では、椎ヶ元観音を訪ねます。大石地区の公民館の隣のこんもりした杜が観音堂です。
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本尊は檜の一木つくりで、平安時代中期の観音像です。聖(正)観音あるいは十一面観音ともいわれていますが、現在の像容からはいずれとも判断できません。33年ごとの御開帳以外は、秘仏として堂内の厨子に納められています。
言い伝えでは、昔はこの地に龍光山恵華寺という大寺があり、本像はその本尊でした。ところが、永禄年間(1560年ころ)兵火のため焼失。その後、たびたびの災難にあって一時はその所在すらわからなくなっていました。
ある時、境内の椎の木の根元に立っている本像を発見。村人は新に観音堂(円福寺)を建て、椎ヶ元観音と呼んで祀ることにしました。しかし、仏体の破損はすすみ、尊像を維持するため、大石区民は浄財を募って本像の大修復を成就。1994年4月10日の御開帳を期して法要が盛大に挙行されました
。』
このように境内の説明板に書かれてます。
津屋崎町史にも椎ヶ元観音については説明があります。が、大石麻呂が建立した伝承は書かれていません。大石麻呂が実在の人なら6世紀の人であろうし、仏像は平安時代の物というので時代が合わないとの判断でしょうか。
それにしても、筑後でもない、糟谷屯倉ともちがう、津屋崎の小さな谷の集落に「筑紫国造にまつわる伝承がある」ことは、面白いですね。

では、またお会いします。



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# by tizudesiru | 2019-07-28 17:48 | 370筑紫国造磐井の乱後の筑紫 | Trackback

令和元年後期万葉集も読む「聖武天皇の孤独」

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聖武天皇(701~756年)は、寂しい子供時代を過ごした孤独な人でした。
母親の藤原宮子は、首皇子(聖武天皇)出産後、ながくうつ状態にあったようです。そのため、首皇子は母に抱かれることもなく甘えることもできませんでした。親子の体面が36年間かなわなかったのですから。
父の文武天皇は、首皇子が7歳の時に崩御となっています。皇太子は、幼くして孤独の人となったのでした。
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聖武天皇と云えば、奈良の都と深い関わりがあったように社会科で学習します。確かにそうですが、実は首皇子は10歳になるまで明日香に暮らしたのです。はなやかな藤原宮の近くで、宮子の父である藤原不比等の館で育ったのかもしれません。乳母の県犬養道代がしっかり世話をしたのです。道代は不比等との間に安宿媛(あすかべひめ)を生んでいますから、首皇子と安宿媛は一緒に子ども時代を過ごしたことでしょう。
もちろん、二人の将来を見越して藤原不比等は首皇子と安宿媛(光明子)を育てたのです。不比等が道代に近づいたのは、道代が元明天皇(首皇子の祖母)に信頼されていたし、命婦(みょうぶ)として力があったからにほかなりません。道代は文武天皇の乳母(めのと)でしたから。そうして、その子の首皇子の乳母にもなったのです。天皇親子の乳母になるなんて、三千代はスゴスギです。
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元明天皇にすれば、息子ばかりではなく孫まで道代の世話になったのです。
和銅元年(708)、文武天皇没後に母の元明天皇はやむなく中継ぎとして皇位に着きました。(首皇子はまだ7歳で幼かったからです。)その大嘗祭の時、道代は「橘」の姓を与えられ、
「県犬養橘宿祢三千代(あがたのいぬかいのたちばなのすくね みちよ)」
となったのでした。道代も三千代と字を変えました。元明天皇は三千代に感謝を示しました。

そうして、首皇子は十四歳で皇太子となりました。しかし、
藤原不比等と県犬養三千代の努力にもかかわらず15歳になっていたのに首皇子は即位できませんでした。
祖母の元明天皇が譲位したのは首皇子ではなく、娘の氷高内親王(首皇子の伯母)でした。

「*略* この神器を皇太子に譲らむとすれども、年歯(よはい)幼く稚くして深宮を離れず、庶務多端にして一日に万機あり。一品氷高内親王は、早く祥符(しょうふ=天の授けるよいしるし)に叶ひ、つとに徳音(よい評判)をあらはせり。天のゆるせる寛仁、沈静婉孌(ちんせいえんれん=もの静かで若く美しい)にして、*略* 今、皇帝の位を内親王に伝ふ。公卿・百寮、悉くつつしみ奉りて、朕が心にかなふべし」
不比等と三千代の皇太子養育を信頼していたはずですが、元明天皇は首皇子について「年歯幼く稚くして深宮を離れず」と詔の中でふれています。譲位できなかったのは、首皇子が幼かったからでした。
首皇子の父・文武天皇は15歳で皇位に着いています。祖母の持統太上天皇は傍にいて、ことごとく補佐をしていました。
ですから、今回も元明天皇の補佐があって首皇子の即位も可能だったかもしれません。しかし、元明天皇はそうしなかった。
それは、何故か。

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文武天皇は在位10年間(697~707)に様々な大仕事に取り組みました。優秀な官僚がいたとしても、十代の若い天皇には大変な重圧だったと思います。そして、持統天皇と藤原氏のための施策もこなさなければなりませんでした。
おまけに、夫人の藤原宮子はうつ状態で監禁されていました。若い文武天皇もやはり孤独でした。
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万葉集の文武天皇の御製歌を読んでみましょう。
 吉野宮に幸す時の歌
74 み吉野の山の嵐の寒けくに はたや今夜(こよひ)も我がひとりねむ
吉野に行幸の時でさえ、羽を伸ばすこともなく独り寝をしています。しかも「今夜も」ですから、いつものことなのです。
文武天皇は疲れ切ったのだと思います。それで、若くして崩御となった…
元明天皇はその事を分かっていて、孫のために「十五歳即位」を避けたのでしょうか。そう思いたいですね。
孫には息子のような苦労はさせたくない、体に無理をさせてはいけない、そう思ったのでしょうか。
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さて、首皇子(聖武天皇)は、二十四歳で即位します。
伯母の元正天皇は、草壁皇子の皇統をつないだのだと詔しました。天皇となった聖武天皇は悩み続けます。自分は何をするために極位に着いたのか。そんな聖武天皇がたどり着いたのが大仏建立でした。
8月13日のテーマは「聖武天皇の孤独」です。


8月13日はお盆に入っています。しかし、「筑紫古代史の会」は例年どおりお盆も講座をするそうです。
ですから、私もお話しさせていただくことにしました。
場所は、福岡市天神 正知ビル(光ビル、ではなく名称が変わっていました)です。
時間は13持30分~16時です。  宜しくお願いします。

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場所は今までと同じですが、ビルの名前が変わっていました。ごめんなさい。

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# by tizudesiru | 2019-07-24 21:42 | 369・令和元年、後期万葉集も読む | Trackback

庚寅銘大刀と高松塚古墳に南朝茅山道教系の屍解仙思想が共通?

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福岡市元岡G6号墳の庚寅銘大刀と、奈良県明日香村の高松塚古墳に「南朝茅山道教系の屍解仙思想」が共通しているなんて、『なんのこっちゃ?!』と思いますね。

共通していると云っても、双方に同じ思想があったのではないか、ということです。
それも、両者は真逆の使い方をしている! すごく興味のある事実なのです。

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上の写真は、橿原考古学研究所の博物館に展示されていた刀剣の復元品です。法隆寺の傍にある藤ノ木古墳の副葬品を復元したもので、有力な被葬者には刀剣が副葬されていることは、世の中に知られていることです。こんな立派なものでなくても、6世紀半ばには地方の首長でも刀剣を副葬するようになりました。
下の写真のように鉄鏃などと共に副葬されています。
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そして、金象嵌の庚寅年銘大刀が福岡市でも出土しましたが、そこは八角形の墳丘だった可能性もあるという元岡G6号墳です。その大刀の説明文に気になる文言がありました。(福岡市埋蔵文化財センターのパネル)
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『現状の庚寅銘大刀には把頭飾(はとうしょく)や柄巻(つかまき)は伴っていない。足金物(あしかなもの)や鞘尻金具(さやじりかなぐ)は出土しているものの、材料などから庚寅銘大刀のものである可能性は低い
と、説明書きがあったのです。よく読んだら、仰天ものですよ。では、

この庚寅銘大刀には、鞘がなかった。鞘の木質が発見されなかったので、抜身で副葬されていたということです。庚寅銘大刀と離れた場所にあった鞘の材料は、庚寅銘大刀の物ではない。では、庚寅銘大刀の鞘は何処に行ったのか。考古学者の説明では、壊されていた可能性もあるそうです。
そんな馬鹿な! 被葬者に対して失礼ではありませんか! いえいえ、そうではなかったのです。
その事が、福岡大学の桃崎祐輔氏の「庚寅銘大刀重要文化財指定記念シンポジウム」に寄せられた『庚寅年銘大刀と鈴から見た元岡G6号墳の時代背景と東アジア』の文章を読んで理解できました。  

『中国の神仙思想や銅鏡では、人が一旦死んだのちに行き返り、他の地で仙人になることを尸解仙という。尸解には、死体を残して霊魂のみが抜け去るものと、死体が蘇生して棺より抜け出るものがとがある。前者の場合も、死体は腐らず、あたかも生きているがごとくであるという。*略*
しかしのちに陶弘景が完成した茅山派道教では、尸解を登仙法として重視し、剣を身体の代わりに現世に残して仙人となる「剣解」法を説いた』

と書かれていました。剣を残して仙人となる思想が、日本にも到来していた。書紀の聖徳太子の条に出てくる飢人の説話が、尸解仙思想は日本に入っていたその証拠だとか‥‥
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寅銘大刀が抜身だった理由は「屍解仙思想」が浸透していたからだというのです。死して遺体を残さず消えて行くのは、「凡人にあらず真人である」というのです。真人であった死者は不老不死の仙人になるのでしょう。
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ここで、高松塚古墳の被葬者のことを思い出しました。彼の人の副葬品の大刀は刀身が抜かれていました。刀身が無かったのです。頭蓋骨も持ち去られていました。下あごの骨や歯は残っていましたから、首を斬られたのではありません。壁画の玄武の顔も削られていました。ここまで「蘇り」を阻止された高貴な人物は、高市皇子以外に考えられません。 
刀身が抜き取られていた理由は、「剣解」思想が浸透していたからだと納得したのです。
高市皇子には蘇りが許されなかった。それを願ったのは誰か、分かりますよね。
逆に、
福岡の庚寅銘大刀は鞘から抜かれていました。鞘は別の場所に置いてあり、壊されていたかもしれません。要するに、抜身だったのです。そこには、被葬者に「生きて仙人のように戻って来て」という切なる願いがあったのです。高松塚古墳とは真逆の願いがあったのです。

抜身だったという一つの事実は、何と多くのことを教えてくれるのかと、思いました。

では、また、よき日に。


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# by tizudesiru | 2019-07-19 23:36 | 366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない? | Trackback

壬申の乱を勝利に導いた高市皇子の悲劇・歴史カフェ阿蘇

熊本県阿蘇郡西原村での歴史カフェは、7回目となります。今年は万葉集のお話です。7月31日(水)のテーマは「壬申の乱を勝利に導いた高市皇子の悲劇」となっています。
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壬申の乱は、大海人皇子(天武天皇)の周到な計画のもとに起きた内乱でした。天武は東国の兵を召集していました。ですから、吉野を脱出して不破ノ関辺りのワザミが原の仮宮にいて、動きませんでした。天武の代わりに軍を率いて活躍したのが、高市皇子です。万葉集の「高市皇子の挽歌」にはそのように書かれています。
壬申の乱後、高市皇子は天智天皇の皇女を二人、妃に迎えました。
天武帝に愛された大津皇子には天智の皇女は一人、山部皇女だけです。
皇太子だった草壁皇子にも天智の皇女は一人、阿閇皇女だけです。

滅ぼした王朝の皇女たちは天智天皇の血統ですから、他の有力者に渡すことはしません。天武天皇自身も天智天皇の皇女を四人も召し入れているのです。(大田皇女・鵜野皇女・新田部皇女・大江皇女の四人です。それぞれの皇女が皇子を生みました。)
ですから、高市皇子が天智天皇の皇女を二人も妃に迎えたのは特別です。御名部皇女と但馬皇女です。こともあろうに、但馬皇女は穂積皇子に恋して、高市皇子を裏切ります。
穂積皇子に惹かれる歌や密かに会いに行った歌が万葉集に遺されていますから、周囲の者はみんな知っていたのです。
その上に、高市皇子は近江軍の総大将だった大友皇子の妃(十市皇女)を引き受けさせられました。十市皇女は大海人皇子(天武天皇)と額田王との間に生まれた長女でした。
母の額田王と共に近江に下り、大友皇子の妃となって王子も生んでいました。
高市皇子は、そんな義理の姉を引きうけたのでした。十市皇女も高市皇子もいろいろ思うところがあったでしょうし、うまく収まるはずはありません。
やはり、事は起こりました。
十市皇女が宮中で突然死したのです。
たぶん、自死だと思います。
天武天皇は斎宮での儀式を取りやめ、急ぎ戻ります。父にもショックだったでしょう。

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さて、壬申の乱後、高市皇子は藤原宮を造営しました。彼はそのころ何処に住み、どんな暮らしをしたのでしょう。そして、死後、何処に埋葬されたのでしょう。
その飾り立てられた遺体は、明日香のメインストリートを通り城上の陵に埋葬されたのです。

万葉集で一番長い挽歌を柿本人麻呂に献じられた高市皇子は、どんな人だったのでしょう。
歴史カフェ阿蘇で、一緒に万葉集を読みましょう。

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私は高松塚古墳こそ高市皇子の墓だと思っています。その証拠に迫ります。
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では、七月三一日(水)西原村でお会いできればうれしいです。

会場は、熊本県阿蘇郡西原村小森1805です。「平田庵」の駐車場が開いています。水曜は、平田庵はお休みです。会場は平田庵駐車場に隣接しています。

宜しくお願いします。


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# by tizudesiru | 2019-07-18 17:20 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

馬鈴を表現した馬形埴輪を持つ古墳の被葬者は王か臣下か

関東の博物館巡りをしていると、馬鈴や鈴杏葉を持つ馬形埴輪を何度も見かけます。その博物館では馬鈴と鈴杏葉の出土はほとんど無かったと思います。それなのに、馬形埴輪には馬鈴や馬鐸、鈴杏葉が表現されているのです。
だんだん、ある疑問が頭を持ち上げました。
被葬者に副葬された馬具と、馬形埴輪の馬具が、同じではないのは何故だ?


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これは、千葉県香取市小見川市民センターの考古資料、馬形埴輪のお尻です。馬鈴と鈴杏葉(すずぎょうよう)が表現されています。
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しかし、図にも馬形埴輪にも鈴杏葉が表現されていますが、出土は有りません。
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小見川では、楕円形の杏葉が出土しています。
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千葉県印旛郡栄町龍角寺「房総風土記の丘資料館」にも馬形埴輪が展示されていて、胸繋(むながい)に鈴が表現されています。
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千葉県山武郡芝山町芝山の「芝山古墳はにわ博物館」にも、馬形埴輪の展示がありました。
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胸に下がっている物とお尻に鈴杏葉ですか。

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千葉県かすみがうら市柏崎の「富士見塚古墳展示館」にも馬形埴輪の展示がありました。やはり、鈴杏葉でしょうか。
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此処も、埴輪には鈴杏葉が表現されていますが、出土は有りません。

茨城県ひたちなか市中根に足を伸ばします。
虎塚古墳の資料がある「ひたちなか市の博物館」にも馬形埴輪がありました。
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鈴は見当たりませんが、鈴杏葉は馬形埴輪に付けられていました。
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見事な鈴杏葉だったので、学芸さんにお尋ねしました。
「鈴杏葉の部分は出土したものですか、それとも埴輪の復元のために表現したものですか?」
学芸員さんは「鈴杏葉の部分は出土物」と、資料を調べて教えてくださいました。

なんと、茨城や千葉の当たりの馬形埴輪には「鈴」「鈴杏繋」が表現されています。しかし、鈴のついた馬具の出土品は、見ませんでした。
当時の人々は、「鈴をつけた馬形埴輪」を権威のある馬の埴輪と認識していたのでしょう。しかし、古墳の被葬者には副葬しなかった・・・

ここで、群馬を思い出しました。
群馬の古墳の馬形埴輪(下の写真)とも共通するのでしょうね。

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関東で大型鋳銅馬齢が出土しているのは、埼玉県行田市の将軍山古墳でした。
中型鋳銅鈴は、鶴巻塚古墳(千葉県木更津市永井作)、見目1号墳(埼玉県深谷市川本町田中字見田)、益子天王塚古墳(栃木県益子町)、宮下古墳(栃木県宇都宮市岩本町)、文選11号(栃木県足利市)、上田篠1号墳(栃木県富岡市田篠)、坪田(福島県)

銅鈴の着いた馬具を持たない古墳でも、馬齢を持つ馬形埴輪は出土することがある。それ等の古墳が造られたのは、馬の文化が浸透した時期であり、当時の王は鈴を尊重していた、となります。
更に言えば、音がなることで王の接近や移動を知ることができた。馬鈴は、神が近づいたり離れたりすることを感じさせるような働きをした。

関東は、同じ文化圏だったといえるのでしょうね。
ここで、考えます。同じ文化圏の古墳の被葬者は、大きな政治組織(王権)の臣下だったのか、それとも在地の豪族だったのか。
在地の豪族が馬文化への単なる憧憬で馬形埴輪を作らせた。または、鈴音のする金ぴかの馬具を付けた馬に乗る王に仕えていた臣下だった。

馬鈴文化圏の中で、上位にいた王は何処に住んでいたのでしょうか。
彼らの文化の中心地は何処にあったのでしょうか。
ちょっと面白くなりました。



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# by tizudesiru | 2019-07-12 11:22 | 366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない? | Trackback

古墳時代・鋳銅馬鈴の文化は何処から広がったのか

福岡県福岡市西区元岡で庚寅銘大刀が出土しました。同じ古墳から大型の鋳銅馬鈴も出土しています。そもそも、馬鈴とは如何なる目的で造られ副葬されたのか、興味の湧くところです。写真は、群馬県の五目牛八幡林漏29号墳の馬形埴輪で博物館に展示されているものです。馬鈴を飾りにつけています。
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他の地域に比べて関東は馬形埴輪が多く出土していると書かれています。この馬形埴輪は、轡(くつわ)鐙(あぶみ)鞍(くら)が表現された飾り馬です。
では、前回のブログで紹介した馬胄が副葬されていた埼玉県行田市の将軍山古墳銅鈴、13.3cmの大型鋳銅鈴は何処に下げられていたのでしょうね。
将軍山古墳の資料館に馬具を付けた騎馬像がありました。それによると、やはり馬の胸元に下げられています。馬具は金メッキされていたのです。

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馬を飾るのは鈴だけではなく、同じように音が鳴る馬鐸というものがあります。同じ群馬県の馬形埴輪、白藤古墳群P-6号墳の埴輪が下の写真です。
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胸廻りの帯(胸繋・むながい)と尻廻りの帯(尻繋・しりがい)には、鈴が飾られています。音が鳴ることは大事だったのですね。
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鈴の着いた杏葉です。これも金メッキされていたのでしょう。
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埼玉将軍山古墳の被葬者は、馬具を他の副葬品と並べていたようですね。
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それから、人物埴輪の巫女ですが、腰のあたりに袋と鈴のついた丸い盤を下げています。これは鈴付きの鏡でしょうか。巫女が神がかりをするとき、鏡と鈴は使ったということですね。
紹介したの今回の資料は、すべて関東(群馬・埼玉)のものです。

大型鋳銅馬鈴が国内では20例ほどしか出土がないことは既に紹介しました。

関東地方は鈴の効果を十分に承知していたのですね。では、九州の元岡G6号墳の馬鈴はどのように使われたのか、当然、同じだったはずです。更に言えば、
数的に福岡県に馬鈴が多く出土しているということは、その文化の発祥地は九州だったと言える、のではないでしょうか。

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さて、馬具が○○王権からの下賜品だとして文化の伝播をかたずけていいのでしょうか。関東と九州という離れた地域に同じような文化がある・・・それは何故か。
それを考えなければなりません。
私には九州の勢力が日本海側から北陸・東国に進出したと思えるのです。他の資料を重ねて見ると・・・

鋳銅馬鈴がどんなふうに使われたか想像してみましたが、関東でも九州でも同じように音を立てて首長の権威を高めたのでしょうね。

では、またお会いします。


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# by tizudesiru | 2019-07-08 12:00 | 366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない? | Trackback

大型鋳造鈴は何処で造られたのか

福岡県福岡市の元岡古墳群のG6号墳から庚寅銘大刀が出土しました。そして、大型鋳造銅鈴も出土したのです。10cmを越える多角形の大型鋳造鈴は日本と韓国では20例ほどしか出土がないそうです。
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さて、この大型銅鈴は、「馬鈴」という馬具だそうです。お見事な銅鈴ですが、これを馬に付けたら、馬は重いでしょうね。他にもさまざまに飾りをつけられますから、鎧甲の首長を乗せたら馬はたまったもんじゃないですね。
こんなものを何の目的で何処で造ったのでしょうね。
日本と韓国の「大型鋳銅鈴(高さ10cm以上)の出土例」

*2019年6月29日「庚寅年銘大刀と鈴から見た元岡G6号墳の時代背景と東アジア」(福岡大学尋問学部教授桃崎祐輔)の資料の一部のみを紹介します。

古墳名(所在地) 銅鈴長
①埼玉将軍山古墳 (埼玉県行田市)13・3cm
➁神明山4号墳 (静岡県静岡市)12cm
③飯沼雲彩寺古墳 (長野県飯田市)11cm
④井田川茶臼山古墳 (三重県亀山市)10.7cm
⑤田上古墳 (三重県西牟婁郡)15cm
⑥柳本町 (奈良県磯城郡)10.0cm
⑦二万大塚 (岡山県吉備群真備町)10.0cm
⑧大将陣古墳 (福岡県行橋市)銅鈴
⑨野坂中松本古墳群 (福岡県宗像市)10.9cm
⑩平等寺向原1号墳 (福岡県宗像市)12.1cm
⑪船原3号墳 (福岡県古賀市)銅鈴3
⑫伝大宰府付近古墳 (福岡県太宰府市周辺)12.cm、9.cm
⑬馬塚  (福岡県筑前町) 10.0cm
⑭元岡G6号墳 (福岡県福岡市)銅鈴
⑮鏡山神社裏古墳 (佐賀県唐津市)9.cm
⑯壱岐双六古墳 (長崎県壱岐勝本町)9.cm
⑰慶州壺杆塚 (韓国慶尚北道慶州市)11.0cm
⑱徳川洞C区21号墳(韓国慶尚南道釜山広域市)14.cm
⑲鶴尾里古墳1号 (韓国慶尚北道義城市)15.cm

こんな馬鈴を副葬した古墳が、九州に集中しますね。それも福岡県に・・・これは大型鋳造銅鈴でしたから「中型鋳銅鈴」も見ましょう。10cm以下の銅鈴の出土です。
①野間古墳(福岡県岡垣町)
➁平等寺向原Ⅱ-19号(福岡県宗像市)
③須恵須賀浦9号横穴 (福岡県宗像市)
④須恵須賀浦75号横穴 (福岡県宗像市)
⑤久原Ⅳ区4号墳 (福岡県宗像市)
⑥大穂町町口遺跡4号墳 (福岡県宗像市)
⑦牟田尻桜京A08号墳 (福岡県宗像市)
⑧津丸横尾遺跡3号墳 (福岡県福津市)
⑨船原古墳 (福岡県古賀市)
⑩乙植木第4号墳 (福岡県粕屋群)
⑪草場6号墳 (福岡県福岡市)
⑫桑原石ヶ元12号墳 (福岡県福岡市)
⑬丸の口Ⅳ-1号墳 (福岡県那珂川町)
⑭観音山Ⅱ-1号墳 (福岡県那珂川町)
⑮日拝塚古墳 (福岡県春日市)
⑯八隈1号墳 (福岡県筑紫野市)
⑰伊方古墳 (福岡県田川郡福智町)

⑱壱岐双六古墳 (長崎県壱岐勝本町)
⑲才園2号墳 (熊本県人吉市)
⑳山崎上野原遺跡B-2区包含層 (宮崎県宮崎市)
㉑狐塚古墳 (宮崎県日南市)
㉒万燈山古墳 (岡山県津山市)
㉓上塩谷築山古墳 (島根県出雲市)
㉔宗像1号墳 (鳥取県米子市)
㉕牛輪谷遺跡 (鳥取県鳥取市)
㉖野間中古墳 (大阪府能勢町野間中)
㉗和田8号墳 (滋賀県栗東市)
㉘塚穴古墳{志賀4号墳} (三重県志摩市)
㉙石仏ノ坪古墳 (静岡県)
㉚賎機山古墳 (静岡県静岡市)
㉛新井原9号墳 (長野県飯田市)
㉜鶴巻塚古墳 (千葉県木更津市永井作)
㉝見目1号墳 (埼玉県深谷市)
㉞益子天王塚古墳 (栃木県益子町)
㉟宮下古墳 (栃木県宇都宮市)
㊱文選11号 (栃木県足利市)
㊲上田篠1号墳 (群馬県富岡市)
㊳坪田 (福島県相馬市)
 
おやまあ、ここも福岡県が半数ですね。
さて、こんな出土状況を見ると、銅鈴の製作地と発祥地が想像できそうです。
庚寅象嵌銘大刀と一緒に出土した他の遺物も見ましょう。
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これらは全て埋蔵文化財センターに展示されていました。

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では、このあたりで。
       

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# by tizudesiru | 2019-07-07 12:00 | 366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない? | Trackback

庚寅銘太刀は倭国産ではなく百済産?

福岡県福岡市西区元岡発見の「庚寅銘太刀金象嵌)」が重要文化財になりそうです。それは当然かもしれません。庚寅という干支が象嵌された大刀ですから、時期を特定する可能性が大きいのですから。材料の成分分析などから産地が、象嵌技術の研究から製作地が特定できるかもしれません。これからも考古学に貢献するでしょうし、歴史解明に欠かせない遺物となるからです。そういう意味では、重要文化財指定は当然です。しかも、発見場所がはっきりしています。古墳の状況や地域の歴史もよく知られた古代の志摩国・伊都国の辺りなのですから。
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現在の糸島半島は陸続きですが、古代・奈良平安時代くらいまで今津湾と加布里湾が入り込んで、糸島半島はほとんど半島ではなく島の状態でした。庚寅銘大刀が出土したのは、九州大学伊都キャンパスの南、元岡古墳群のG6号古墳です。
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この大刀は発見されて二時間後に文字が象嵌されていることが分かったそうです。ですから、埼玉の稲荷山鉄剣のように十年後とか、江田船山古墳のように数十年経た後とかではなく、錆が進む前に・さびて文字の象嵌が膨れてはがれ落ちる前に・保管に配慮が失われる前に、研究チームができたそうです。
真に幸運な遺物です。しかし、発見当時は倭王権からの下賜品だというコメントがあふれました。
最近は、百済で作成された物であろうというコメントが大勢を占めています。ほんとですか?
何か面白い物が出ると「百済製・新羅製」とコメントが出されます。しかし、金工技術は倭国に十分に浸透していたのではありませんか。庚寅年が570年だと特定されました。正月六日が庚寅になるのは、570年ですから。
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太歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果 (□は、練か)
太歳は庚寅の正月六日の庚寅の日時に、およそ(鉄を)十二練り、その果てにこの刀を作る
庚寅の年で正月六日が庚寅になるのは、570年しかないのです。お見事に時期を特定します。造られたのが570年だとしても、墓に入れられたのは570年より後だそうです。それは、金象嵌の文字に欠損部があるからです。墓に入れた時点で、すでに針金が抜け落ちていたらしいのです。
それにしても、金象嵌ですからね。作り手の思いも反映していることでしょう。古代日本に金象嵌の刀剣は4振しかありません。
蔵埼玉稲荷山古墳出土品 辛亥銘鉄剣(埼玉県行田市)
金錯銘直刀身 (伝 群馬県古墳出土)
東大寺山古墳出土品 金象嵌名花形飾環頭大刀 (奈良
県天理市)
元岡G群6号墳出土品 金錯銘大刀 (福岡県福岡市)

銀象嵌は、3振です。
稲荷台1号墳出土品 王賜銘鉄剣 (千葉県市原市)
出雲岡田山古墳出土品 銀錯銘銀装円頭大刀 (島根県松江市)
江田船山古墳出土品 銀象嵌銘大刀 (熊本県玉名郡和水町

胴象嵌は、1例のみ。
箕谷二号墳出土品 戊辰年銘大刀 (兵庫県養父市)

  
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ここは、九州大学移転に伴う調査で見つかった古墳群でした。此の大学は、敷地内の多数の前方後円墳を破壊して作られました。丘陵一帯が古代の墓地だったのです。このG6号墳の直ぐ近所には、御道具山古墳という糸島地方では初期の古墳がありますが、敷地外でした。キャンパス内の古墳群とつながりのある前方後円墳でしょうね。まあ、九州の前方後円墳ですから残されずに破壊されたという噂です。
福岡市の方の話だと、G6号墳は残したそうですが何もしていないそうです。つまり、整備をするのではなく破壊はしなかったが、埋め戻した状態ということでしょう。壊されなくてよかったです。

そういえば、銅象嵌の大刀、養父市の箕谷二号墳は残されています。
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箕谷二号墳
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福岡市にも頑張って欲しいです。
元岡のG6号墳では金象嵌大刀だけではなく、大型の鋳造の銅鈴が出土しています。たいへん珍しいそうです。
画像で見てもつるりと光っています。つなぎ目がない鈴ですから、鋳型で造られたのです。
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此の鈴は何処で造られたのでしょうね。
福岡市埋蔵文化財センターで出土物が展示されています。
では、また後日お会いしましょう。



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# by tizudesiru | 2019-07-05 20:34 | 366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない? | Trackback

在自山は天蓋山・古代は馬を飼育し守る神が祀られた

世界遺産になった福岡県福津市の津屋崎古墳群は、ひとまず「宗像氏の奥津城」と宣伝されています。
津屋崎地域は江戸時代の塩田開発や干拓により耕作地は広がりましたが、100m前後の古墳を連続して造営する豪族が存在できるほどの耕作地は、古代には有りませんでした。つまり、この古墳群を造営した豪族の本拠地は津屋崎以外の土地にあったのでしょうか。食料を確保できる田畑を持ち、権力を手にできる財力が備わっていなければ、墳丘墓を継続して造営できません。

では、津屋崎の豪族は何を財源にしていたのでしょう。交易・鉄生産・銅生産・須恵器生産などいろいろありますが、一つには牧場があります。馬を育てていたのではないでしょうか。
これから、次のような、結論に至ります。

在自山は、もとは天蓋山だった。そこには、神が祀られていた。それに、十五世紀に金山彦が奉祀され、十八世紀に金比羅社が勧請された。それより先の十四世紀(南北朝の時代)には、牧口神社があったと記録がある。
牧口とは、馬を飼う牧場の入口という意味で、公が管理する牧場の入口のことである。もともと、ここには大きな牧があったのだ。
南北朝時代には手厚い奉斎が行われていた。


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<福岡県福津市津屋崎の在自(あらじ)にある金比羅神社>
では、津屋崎町の在自に金比羅神社を訪ねます。ここは、大物主神・応神天皇・仁徳天皇・神功皇后・大己貴命・少彦名命・大海津美命・・・なんとも多彩な神々が祀られていますが、金比羅神社とは不思議です。その石段の横に牧口宮と彫られた石がありました。
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『筑前国続風土記拾遺』に次のような一文があります。
「金比羅神社」在自村にあり。昔より天蓋山(あまおいやま)<社の上にある高山なり>の頂に小祠有りしを修験者大澄、享保の初年、讃州より金比羅神を勧請して、相殿に祭り、寛延年中麓なる今の地に社を移せり。霊験ありとて常に参詣の人絶えず。毎年八月九日の夜は津屋崎の海まで神幸ありて、いと賑わし。当山派山伏奉祀す。社内に祇園社、貴布祢社有り。この社前より海上の眺望佳景なり。
非常に気になる山の名前が出てきました。天蓋山あまおいやまです。地図にこの山の名前は有りません。が、それは在自山のことだそうです。津屋崎山地の中で一番高い山です。そこにもともと小祠があったそうです。
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(在自山=天蓋やま=あまおいやま・在自剣塚古墳より南西に在自山をみると、山頂が少し見える)
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(金比羅神社の境内)
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確かに、社殿の横に天蓋山遥拝所の石碑がありました。在自山=天蓋山を遥拝していたのです。
金比羅神を讃岐より勧請したという修験者・大澄の「大澄家記録」には、次のように書かれています
「金比羅神社は文安二年(一四四五年)に定海法印が古宮の天蓋山山頂に金山彦を奉斎鎮座されてより後、宝永年中、一楽院元海法印が讃岐国象頭山に詣で、金比羅大権現を勧請合祀して山頂の古宮に社殿を創建した。その後、現在地に遷され、正徳二年(一七一二年)大澄家の先祖が第四代黒田藩主綱正公の意を得て拝殿を改築した。略」

在自山山頂はなかなか魅力的な地であったらしく、様々な神が勧請されたのです。先祖の「大澄」が金比羅神を勧請したのは15世紀です。その前から信仰は有りました。
更に、昔は「唐防」にあった八幡宮も在自に遷して合祀したそうです。唐防(とうぼう)とは、唐の侵略を防ぐという意味でしょうか。なんと、八幡神も合祀されたのです。
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そして、在りました、『宗像神社史』に牧口神社の説明が。
『御縁起に一〇八社の一つとして「牧口明神」とあり、正平年中(南北朝時代)行事に七五社の一つとして「在自牧口社」とあり、同神事の条に
「在自郷牧口大明神 三月三日神事、 九月九日神事、五月五日神事、二季彼岸神事、毎月朔幣・望祭神事一年中二四度」 と見え、吉野期(南北朝時代)神事目録、九月御九日祭の條に「牧口大明神二七日」とある。』

円寶末社帳には「牧口明神、 三毛入野命」とあり、

『続風土記付録』の宗像郡上の在自村の条には

「牧口大明神ウラノタニ、神殿方五尺、拝殿二間・二間半、祭礼九月二八日、奉祀惣ノ市。在自四十戸の産霊なり。祭るところ、天津兒屋根命」

『続風土記拾遺』十九では「同村裏の谷にある牧口神社を以って「宗像七十五社其の一也」としている。
牧口というのは後述の由牧殿社・由牧殿明神・御牧殿・湯牧殿の条にのべるごとく、国の牧場の入口の守護神で、これは在自郷にあったものである。」

明細帳では津屋崎町大字在自字平原鎮座の金比羅神社(旧村社)の項によると、「大字在自字裏の谷にあった牧口神社(旧村社・祭神大海津美命)は、明治四十四年、金比羅者境内の内に合祀された」と見えている。

ごたごたしてますから、まとめます。
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在自山は、もとは天蓋山だった。そこには、神が祀られていた。それに、十五世紀に金山彦が奉祀され、その後に金比羅社が勧請された。それより先の十四世紀(南北朝の時代)には、牧口神社があったと記録がある。
牧口とは、馬を飼う牧場の入口という意味で、公が管理する牧場の入口のことである。南北朝時代には手厚い奉斎が行われていた。

となりました。

何度も津屋崎古墳群を訪ねましたが、確かに不思議な古墳群です。古墳の集中度と継続を見ると、在地豪族が大きな財力と権力を持っていたと思います。しかし、中世まで見渡す限りの田畑は海・内海でした。大伴坂上郎女も歌に詠んでいるように、内海を船で勝浦まで来て名兒山を越えて宗像の社に参拝しています。津屋崎は内海が入り込み権力のための十分な田畑がありません。
此処で、どのようにして財を築いたか、それが問題です。
大きなカギは、牧口神社に在るのではないか・・・海辺の草は塩分をふくみ、牛馬が育つには最適です。火山のある内陸や海浜はよい牧となったのです。では、津屋崎の馬の需要は何時生まれ、どのように発展したのか。

それは古墳時代、5世紀、6世紀の倭が盛んに出兵していた時代にさかのぼるのではないでしょうか。
此処の豪族は、馬匹飼育により財をなした。それは、半島出兵と東国進出という野望に支えられ、需要が十分にあった。ということです。ここの豪族は大きな組織の中で、兵馬を育てていたのではないか。

そこで、疑問符、その豪族が宗像氏だったのですか・・・?
7世紀後半は確かに宗像氏の存在が大きいのですが。彼らは5世紀から此処に存在したのでしょうか。

此処までにします。



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# by tizudesiru | 2019-07-05 10:55 | 367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏 | Trackback

侵略者か在地豪族か?18号墳の被葬者(善一田古墳群)

磐井の乱後、列島に画期がもたらされたと、このブログで紹介しました。それは、6世紀後半の中小の墳丘墓にも馬具などの副葬品が入れられ、豊かな小豪族が増えたことで分かるのだそうです。それを証明するような遺跡が福岡県大野城市善一田古墳群でした。
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ここは宅地として開発されていましたが、広範囲に古墳や古代の住居跡が見つかりました。それで、市民から一部を残してほしいという要望があり、山際の一部を市が買い取り公園として整備したのでした。
ほとんどの市町村は金銭的に自前で土地を買い取り公園整備などできません。大野城市はたまたま財源の都合がついたのです。今年から文化財に国からの援助はなくなりましたから、財政難の地方には「文化財」をあきらめるしかないのです。もう地方に文化も歴史もいらないのです。特に、九州にはいりません。
いくら発掘しても、「もう九州の古代遺跡は必要ない。歴史は変えない」の壁が張り巡らされたのです。
戦わずして「不戦敗」となってしまったのです。

福岡平野の周りも筑後平野の周りも丘陵はほとんど古墳群になっています。宅地開発するには、そこしか残っていないのです。そこが新興住宅地になり、交通の便がなければ三十年後には売れない住宅地となるのでしょうか。
いえいえ、善一田古墳の報告でした。大野城市は遺跡の一部を何とか残したのでした。
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19号墳の周りには木棺墓群がありました。
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馬具が副葬されていたのは、18号墳です。
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18号墳は善一田古墳群の中で最初に造られた古墳だそうです。すると、この人は相当な財力と統率力を持って、他から此処へ来たのでしょうか?
集落が徐々に大きくなっていくとか、先祖の住んだところで拡大していくとか、そんなことではないのです。この人が此処に来て、辺りが急に活気づいたということです。どこからきたのですかね?
新羅系土器が出ていますから、半島と交流もあったようですし、馬具や武器が副葬されていますから首長でもあったのです。他所からきて首長になったのですか? では、侵略したのか、首長の交代か・・・・
何かがあったということです。

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18号墳の高さから「三郡山地と背振山地の谷部=交通の要衝」を見渡すことができます。なんだか意味のある位置に在るのです。
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善一田古墳群を形成した人を支えた財源は何だったのでしょうね。
では、また。




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# by tizudesiru | 2019-06-23 14:16 | Trackback

「光明皇后の権力の影に不運と不幸と孤独」6月25日のテーマ

万葉集を読むかぎり、光明皇后は孤独でした。夫の聖武天皇も、娘の孝謙天皇も孤独で不運でした。
最悪の状況の中で強く生きた女性のお話を予定しています。
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前々会の「玄昉の墓」の紹介の時、光明皇后について少し触れました。今回は光明子が詠んだ三首とその歌が詠まれた背景に迫ります。

4240 大船に真梶(まかじ)しじぬき この吾子を 韓国に遣る いはえ神たち
752年、甥の藤原朝臣清河が遣唐大使となったので、春日の宮で神事を行った時に、光明皇后が詠んだ歌です。
 この時代の遣唐使は命がけでした。遣唐使として海に消えた学問僧や留学生が数多いましたから。
清河もその事は承知していました。しかし、嫌とは言えません。藤原豊成(南家・武智麻呂の長子)と藤原仲麻呂(南家・武智麻呂の二子)が任命したのですから。清河は北家・房前の四男でしたが、南家の勢いに押されていました。この時、豊成は右大臣、仲麻呂は大納言でした。そして、仲麻呂は光明皇后のお気に入りでした。
 清河には大使として唐に行く他の道はなかったのでした。
 
  遣唐大使となった清河が詠んだ歌です。
4241 春日野に いつく三諸の 梅の花 栄えて在り待て 還り来るまで

 清河は還って来たいと思っていました。しかし、彼は還れませんでした。唐で客死しています。向こうで子を造ったみたいです。
北家が台頭するのは、藤原仲麻呂(恵美押勝)が乱を起こした後の方でした。
藤原四兄弟は、南家・北家・式家・京家と四家に分かれていますが、その権力争いはし烈でした。このころ、藤原宇合の式家は、長子だった広嗣がおこした「広嗣の乱」以来低迷していました。

光明皇后は、藤三女として出身の氏に尽くしました。ですから、身内の失敗や混乱をつぶさに見ていたことでしょう。つらいことも悲しいこともあったはずです。
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東大寺の正倉院は、大仏殿の裏にあります。夏の東大寺の裏には鹿たちがゆったりと遊んでいます。その裏道の林の奥に正倉院があります。ここには光明皇后により「聖武天皇の遺愛の品」が奉納されています。

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木立の向こうに、正倉院の校倉(あぜくら)造りの壁が見えています。

6月25日には「光明皇后の不運と不幸と孤独」のお話をする予定です。
福岡市天神・ 13持30分~16時 

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では、また、お会いできますように。


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# by tizudesiru | 2019-06-20 00:26 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

ニニギ命は糸島から出発した

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福岡県糸島市の二見が浦に行きました。日曜日なので家族で遊びに来ているようでした。
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宮原誠一氏の神社見聞牒で紹介された神社にいきました。
まず、糸島市新田320、「天降天神社」に行きました。祭神はニニギ命です。
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この神社の近くに「岐大神」と彫られた大石がありました。大石には「猿田彦」が祀られたのは見たことがありますが、「岐」大神という石は初めて見ました。一緒に見た人は「ニニギの岐か、伊都国の長官だった「ニキ」の岐かも知れない、と謂ってました。
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いずれにしても、意味があるものですね。此処に昔は「社」があって、その社が遷された時に記念の碑を建てたのかもしれません。
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次に、志摩津和崎300番地、若宮神社に行きました。ここは古墳でした。祭神は、木花開耶姫命です。たしか、ニニギ命の奥さんでしたよね。
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それから、糸島市志摩桜井666、天降天神宮にいきましたが、祭神は不明でした。

宮原誠一氏は「糸島には、コノハナサクヤ姫とニニギ命の二人の神を一緒には祭っていない。二人を一緒に祭る神社は南九州に在る」と言われるのです。糸島で夫婦の神を別々の神社に祭っているのは、「ここがニニギ命の出発の地であるからだ、赴任地ではない」と指摘されています。
大変興味深い指摘でした。宮原氏のブログ「宮原誠一の神社見聞牒」をご覧ください。
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*脊振山も火山も伝承からして、古代から神山だったと思われます。
糸島地方には、弥生時代の神山と神山を結んだ線上に首長墓が築造されています。三雲南少路王墓は弥生の王墓です。ここで、何らかの権力が発生したのは、魏志倭人伝を見ても明らかですね。
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東西のライン上に何が乗るでしょう。もちろん南北のライン、夏至の日の出のライン、当時の日の出のライン、様々なラインが引かれますが、その上に乗る墳墓や神社や寺は、意味を持って作られたのでしょう。私はそう思います。
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古代の糸島市は、伊都国と志摩国に分かれていました。志摩=嶋で、現在のように広い陸地でつながってはいなくて、志登神社の辺りに細い陸橋でつながっていたようです。東西から加布里湾と今津湾が入り込んでいたのです。伊都国の中心は三雲王墓や平原王墓がある辺りでした。

平地の多い伊都国に一大率がいたのでしたね。

では、また。


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# by tizudesiru | 2019-06-19 00:02 | 350九州神社の旅 | Trackback

藤原宏嗣に光明皇后との仲を疑がわれた僧正玄昉

藤原広嗣は、光明皇后と僧正玄昉のよからぬがあることを知って激怒しました。それも「藤原宏嗣の乱」の動機でありました。
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福岡県太宰府市の戒壇院行きました。此のお寺の裏に僧玄昉の墓があるからです。以前撮った写真が冬場だったので、夏の戒壇院の写真を撮りに行ったのです。
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(「戒壇は 奈良時代に国家が正式に各宗派僧侶の資格を認める受戒の儀式の為と 戒律のために設けられた」と、門前に説明板があります。
古代には僧に成るための資格を与える儀式を行う場所がありませんでした。そのために鑑真和上を招いたのです。和上が渡海の危険を承知して失敗を重ねながらやっと日本にたどり着いた時には、日本には戒壇を受ける場ができていたのですが、和上の決意とご苦労には誰もが感服したと思います。)

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夏の戒壇院も静かで美しいです。本堂の右手から門を出て裏に回ると、玄昉の墓があります。
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僧正玄昉の墓
「玄昉は奈良時代の僧。阿倍仲麻呂・吉備真備らと共に遣唐船で中国に渡り、在唐18年、玄宗皇帝によって三品に准ぜられ、紫袈裟を許された。帰国後、奈良の宮廷で権力をふるったが、天平17年(745)造観世音寺別当に左遷され、翌年、観世音寺造立供養の日に死去。政敵藤原広嗣の霊に殺されたと伝えられる。」と説明板に在ります。
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観世音寺造立供養の日に死去、ですか。
何というひどい仕打ちでしょうか。造立供養の大事な儀式の日に殺されたとは! もちろん、殺害されたと思います。玄昉には自殺する理由も何もありません。

藤原宇合の息子だった藤原広嗣は朝廷に対して兵を挙げましたから、謀反人です。中央では橘諸兄や吉備真備が活躍し、藤原氏の影が薄くなりそうだったのです。そして、光明皇后と僧玄昉のよからぬ噂がありました。広嗣は伯母の光明皇后と玄昉の噂に憤り抗議文を朝廷に送り付けました。
聖武天皇は召喚命令を出しましたが、広嗣は従わず兵を挙げました。

そもそも光明皇后が僧玄昉を頼りにしたのには理由があります。
光明皇后は729年の「長屋王事件」の後、精神的にも疲れていたでしょう。
そこで、母の県犬養美千代と同じように仏教を頼り、730年に興福寺の五重塔を一年で完成させました。(普通の豪族には1年で五重塔を建てる財力も権力もありません。しかし、聞くところによると、光明皇后には国家予算の6分の1ほどの財力が集中していたのです。)
あの興福寺五重塔は、長屋王事件の苦しみから逃れるために光明皇后が建立したと思います。

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長屋王事件(729年)は藤原氏が仕組んだ事件だったと賢い皇后が気が付かないはずはありません。心穏やかにはなれないはずです。伯母の一家を断絶したのですから。

十代で安倍内親王を生んだあと、十年も子どもに恵まれていなかった光明子がさずかった基王は、生後三か月で皇太子になりました。しかし、一年足らずで夭折。吾子を亡くした母として落胆はいかばかりだったでしょうか。


そこへ、長屋王が佐道を学び呪詛していた、そのため基王が死亡したという密告があったのです。聖武天皇は長屋王を深く恨み、兵をむけ館を取り囲ませ自刃に追い込みました。
その後、光明子は立后され、皇后となったのでした。長屋王は光明子の立后にも反対していたのですから、その死によって光明子の立后が実現したのです。
それまでの光明子の位階は夫人(ぶにん)で、その前は嬪(ひん)でした。聖武天皇の即位と共に、夫人となっていたのです。そして、ついに「皇后」に上りつめました。王族ではない氏の女性が皇后になる初例で、これ以降、藤原氏の娘が皇后になる前例となるのです。


皇后となっても光明子の心は晴れなかったでしょうが、気丈にふるまっていたことでしょう。都には長屋王に同情する声が満ちていました。その声も聞いたかもしれません。
光明子の母の県犬養美千代は仏門に入っていましたから、娘のために祈ったことでしょう。(橘夫人念持仏が法隆寺に遺されています。)

しかし、733年、その母も世を去りました。
光明皇后は大きな支えを失いました。皇后の発願で母の一周忌に間に合うように建立されたのが、あの有名な中金堂(西金堂)です。その思いの深さがよくわかります。阿修羅像、あれほどの見事な国宝はありませんからね。
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阿修羅像は美しいだけではない、光明皇后の深い悲しみをあらわしているのです。734年にはこの西の金堂は完成しました。やはり、一年で完成させています。何という財力と権力でしょう
734年に母の葬儀、皇后の心には穴が空き、風が吹いていました。そして、ついに病に伏してしまいました。
この年の暮れ、入唐使多治比広成、下道真備、玄昉ら多禰島に漂着しました。18年間の中国生活を終えて、留学生・学問僧が帰って来たのです。そこに玄昉がいました。
彼らはさっそく文化をもって国家に貢献していきました。仏教に造詣が深かった光明子は、玄昉の経論五千余巻の献上に目を見張ります。それを早速『皇后宮職』に写経させたのです。
それも、長屋王の館跡の役所で。
長屋王の館跡は公に没収され役所になっていたようです。そこは「皇后宮職」という役所があったらしいですが、そこで、写経‥‥どんな思いや願望があっての写経だったのでしょうか。母を失った後も、光明皇后は病に苦しんでいましたから。更に、
737年(天平九年)藤原四兄弟、流行病で全員死亡。
後ろ盾であった兄たちが全員死亡したのでした。

僧正であった玄昉を皇后が頼りにしたのは当然です。
聖武天皇は皇后以外の女性に心動かされていましたので、頼りにできません。皇后は孤独でした。
しかも、皇后は吾子を亡くし、母を亡くし、病に苦しみ続け、兄達を失ったのです。
仏の教えにすがらなければ、わが身すら無くしかねません。
18年間中国で学問し玄宗皇帝に認められた玄昉を尊敬し頼りにするのは、当然でした。

740年(天平十二年)藤原広嗣が乱を起こしました。そして、斬られました。
この後、聖武天皇は五年間も平城宮に帰らず放浪されるのです。
 
はたして、皇后が悪いのでしょうか。そうではありますまい。
玄昉は皇后を助けようとしたかもしれませんが、それ以上の罪をこの僧正におっかぶせることは出来ないと、私は思うのです。戒壇院の隣に観世音寺はあります。基壇と礎石に往時をしのぶことができます。
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玄昉はどのような最期を迎えたのかなと、観世音寺の静寂の中で立ち止まり考えました。
紫の袈裟まで許された僧正玄昉も、観世音寺の鐘(国宝)の音は聞いたのでしょうね。
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此の鐘を打つことができると、寺の掃除をされている方に進められましたが、国宝だからもったいないと、私はお断りしました。
今度、「筑紫古代史の会」で光明皇后の歌を詠みます。よかったらお出かけください。
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6月25日(火)13持30分~16時、福岡市天神、光ビルにて
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宜しくお願いします。
では、またお会いできますように。

# by tizudesiru | 2019-06-14 02:39 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

天武朝の悲劇は天武天皇から始まった

6月11日(火)の筑紫古代文化研究会でのお話は「天武天皇」です。
壬申の乱で勝利した天武天皇は、『万葉集ではどのように位置づけられているか』を考えます。
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写真の大きな礎石は、本薬師寺(もとやくしじ)の金堂の礎石出す。ここは、天武天皇が皇后の病気平癒を祈念して建立を発願した寺です。天武九年(680年)のことでした。
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伽藍が完成したのは十数年後になります。寺は金堂から造営をはじめますが、開眼会(かいげんえ)が開かれたのは持統十一年(697)ですから、完成まで十七年ほどかかったということです。
当然、完成させたのは持統天皇ということになります。
当時は大きな寺でした。遷都の時に平城宮の西に移され、現在まで薬師寺として存続しています。
薬師寺跡のここには伽藍が残っていましたので、本(もと)薬師寺と呼ばれたのでした。
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さて、11日(火)の話の中心は、薬師寺のことではありません。
持統天皇の病気平癒を願った天武天皇の話です。万葉集における「天武朝の歌の編集はかなり厳しくシビア」です。
天武天皇は優雅で強い男性とは読めないのです。そして、心許した女性からも本当は愛されていなかったのではないか、と憶測を誘うように歌が掲載されています。
それは何故でしょう。
持統天皇と天武天皇は夫唱婦随のおしどり夫婦だったと、今日、世間では信じられています。万葉集は本来そのように編集していたのでしょうか。
天智天皇の葬送儀礼の挽歌は九首ありますが、天武天皇の場合は崩の時に持統天皇が詠んだ一首と或本の二首です。八年後に、持統天皇が夢で詠んだものがありますが、臣下の歌や女官の歌はありません。
持統天皇にとって天武帝が大事な夫であったなら、天武朝の歌の編集も丁寧な作業が行われたでしょうに。しかし、そうはなってない。
そして、天武天皇の皇統はついに滅んでしまうのです。
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6月11日(火)13時半~ (福岡市天神・光ビル)
明日のことですが、お知らせいたします。

では、又。


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# by tizudesiru | 2019-06-10 00:04 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

大伴旅人、大宰府の水城にて別れの儀式

天平二年十二月、大伴旅人は大宰府を発ちました。都に大納言として呼び戻されたのです。妻を亡くした上に弟を亡くし、肉体的にも限界だった旅人が、天平二年の正月に催した「梅花の宴」の噂は都にも届き、大評判となりました。そして、
長屋王の変の後、武人の氏族である大伴旅人に二心がないことが都にも伝わったのでした

生きているうちに都へ帰りたい、大伴氏の将来を確保しておきたい、都の事件(長屋王家の謀反)には関心はなく藤原氏に対して不信感は持っていないと都に知らせ、一日も早く都へ呼び戻してほしい、という思いが叶ったのでした。
梅花の宴は、旅人の願い通りの成果をあげたのです。


都の藤原氏も大伴旅人が従順であれば、ひとまず安心したのです。
帰京の時、旅人は水城で大宰府の官人の見送りを受けたのでした。
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水城の城門阯には、大友卿と児島の歌の歌碑があります。既に紹介しています。
大伴旅人が大宰府を離れたのは冬十二月ですが、今年、令和の春の写真で水城を紹介します。

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水城の土塁の上から見ますと。長い森が直線で伸びています。
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土塁は右の博多湾側が急斜面になり、左の大宰府側が緩やかな斜面になっています。そして、まっすぐ背振山頂に向かって続いています。
工事はどのように行われたのでしょうね。

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水城の森をまっすぐにのばすと、背振山頂にラインが届きます。なぜ、背振山なのでしょう。背振山の神に土塁を守ってもらうためでしょうか。
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山当で直線を引くと、かなりまっすぐな線が引けます。
緻密な設計図がなくとも、正確な直線は引けたのです。
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水城は背振山頂につながり、大宰府政庁の朱雀大路のラインは、基肄城の門・北御門(きたみかど)に届きます。基山も神山です。神山に守られていたいうことでしょうか。政庁の東には高尾山があったのです。
面白いですね。

(梅花の宴の三十二首の序文を旅人が書いたというのですが、2019年4月1日以来『令和』という元号が示されたことで様々に取り上げられています。序文には「帥老」という言葉が使われ「老」は敬語として使われるものなので、旅人の文ではないとの説もあるというのですが、大方は旅人が書いたとされています。序文を旅人以外の誰が書くでしょう。彼以外に考えられません。)
では、また。


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# by tizudesiru | 2019-06-08 22:19 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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4祭祀線で知る筥崎八幡宮
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6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
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12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
未分類
97宇佐神宮と北部九州・2
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
367謎だらけの津屋崎古墳群と宗像氏
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける

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