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馬鈴を表現した馬形埴輪を持つ古墳の被葬者は王か臣下か

関東の博物館巡りをしていると、馬鈴や鈴杏葉を持つ馬形埴輪を何度も見かけます。その博物館では馬鈴と鈴杏葉の出土はほとんど無かったと思います。それなのに、馬形埴輪には馬鈴や馬鐸、鈴杏葉が表現されているのです。
だんだん、ある疑問が頭を持ち上げました。
被葬者に副葬された馬具と、馬形埴輪の馬具が、同じではないのは何故だ?


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これは、千葉県香取市小見川市民センターの考古資料、馬形埴輪のお尻です。馬鈴と鈴杏葉(すずぎょうよう)が表現されています。
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しかし、図にも馬形埴輪にも鈴杏葉が表現されていますが、出土は有りません。
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小見川では、楕円形の杏葉が出土しています。
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千葉県印旛郡栄町龍角寺「房総風土記の丘資料館」にも馬形埴輪が展示されていて、胸繋(むながい)に鈴が表現されています。
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千葉県山武郡芝山町芝山の「芝山古墳はにわ博物館」にも、馬形埴輪の展示がありました。
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胸に下がっている物とお尻に鈴杏葉ですか。

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千葉県かすみがうら市柏崎の「富士見塚古墳展示館」にも馬形埴輪の展示がありました。やはり、鈴杏葉でしょうか。
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此処も、埴輪には鈴杏葉が表現されていますが、出土は有りません。

茨城県ひたちなか市中根に足を伸ばします。
虎塚古墳の資料がある「ひたちなか市の博物館」にも馬形埴輪がありました。
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鈴は見当たりませんが、鈴杏葉は馬形埴輪に付けられていました。
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見事な鈴杏葉だったので、学芸さんにお尋ねしました。
「鈴杏葉の部分は出土したものですか、それとも埴輪の復元のために表現したものですか?」
学芸員さんは「鈴杏葉の部分は出土物」と、資料を調べて教えてくださいました。

なんと、茨城や千葉の当たりの馬形埴輪には「鈴」「鈴杏繋」が表現されています。しかし、鈴のついた馬具の出土品は、見ませんでした。
当時の人々は、「鈴をつけた馬形埴輪」を権威のある馬の埴輪と認識していたのでしょう。しかし、古墳の被葬者には副葬しなかった・・・

ここで、群馬を思い出しました。
群馬の古墳の馬形埴輪(下の写真)とも共通するのでしょうね。

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関東で大型鋳銅馬齢が出土しているのは、埼玉県行田市の将軍山古墳でした。
中型鋳銅鈴は、鶴巻塚古墳(千葉県木更津市永井作)、見目1号墳(埼玉県深谷市川本町田中字見田)、益子天王塚古墳(栃木県益子町)、宮下古墳(栃木県宇都宮市岩本町)、文選11号(栃木県足利市)、上田篠1号墳(栃木県富岡市田篠)、坪田(福島県)

銅鈴の着いた馬具を持たない古墳でも、馬齢を持つ馬形埴輪は出土することがある。それ等の古墳が造られたのは、馬の文化が浸透した時期であり、当時の王は鈴を尊重していた、となります。
更に言えば、音がなることで王の接近や移動を知ることができた。馬鈴は、神が近づいたり離れたりすることを感じさせるような働きをした。

関東は、同じ文化圏だったといえるのでしょうね。
ここで、考えます。同じ文化圏の古墳の被葬者は、大きな政治組織(王権)の臣下だったのか、それとも在地の豪族だったのか。
在地の豪族が馬文化への単なる憧憬で馬形埴輪を作らせた。または、鈴音のする金ぴかの馬具を付けた馬に乗る王に仕えていた臣下だった。

馬鈴文化圏の中で、上位にいた王は何処に住んでいたのでしょうか。
彼らの文化の中心地は何処にあったのでしょうか。
ちょっと面白くなりました。



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# by tizudesiru | 2019-07-12 11:22 | 366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない? | Trackback

古墳時代・鋳銅馬鈴の文化は何処から広がったのか

福岡県福岡市西区元岡で庚寅銘大刀が出土しました。同じ古墳から大型の鋳銅馬鈴も出土しています。そもそも、馬鈴とは如何なる目的で造られ副葬されたのか、興味の湧くところです。写真は、群馬県の五目牛八幡林漏29号墳の馬形埴輪で博物館に展示されているものです。馬鈴を飾りにつけています。
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他の地域に比べて関東は馬形埴輪が多く出土していると書かれています。この馬形埴輪は、轡(くつわ)鐙(あぶみ)鞍(くら)が表現された飾り馬です。
では、前回のブログで紹介した馬胄が副葬されていた埼玉県行田市の将軍山古墳銅鈴、13.3cmの大型鋳銅鈴は何処に下げられていたのでしょうね。
将軍山古墳の資料館に馬具を付けた騎馬像がありました。それによると、やはり馬の胸元に下げられています。馬具は金メッキされていたのです。

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馬を飾るのは鈴だけではなく、同じように音が鳴る馬鐸というものがあります。同じ群馬県の馬形埴輪、白藤古墳群P-6号墳の埴輪が下の写真です。
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胸廻りの帯(胸繋・むながい)と尻廻りの帯(尻繋・しりがい)には、鈴が飾られています。音が鳴ることは大事だったのですね。
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鈴の着いた杏葉です。これも金メッキされていたのでしょう。
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埼玉将軍山古墳の被葬者は、馬具を他の副葬品と並べていたようですね。
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それから、人物埴輪の巫女ですが、腰のあたりに袋と鈴のついた丸い盤を下げています。これは鈴付きの鏡でしょうか。巫女が神がかりをするとき、鏡と鈴は使ったということですね。
紹介したの今回の資料は、すべて関東(群馬・埼玉)のものです。

大型鋳銅馬鈴が国内では20例ほどしか出土がないことは既に紹介しました。

関東地方は鈴の効果を十分に承知していたのですね。では、九州の元岡G6号墳の馬鈴はどのように使われたのか、当然、同じだったはずです。更に言えば、
数的に福岡県に馬鈴が多く出土しているということは、その文化の発祥地は九州だったと言える、のではないでしょうか。

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さて、馬具が○○王権からの下賜品だとして文化の伝播をかたずけていいのでしょうか。関東と九州という離れた地域に同じような文化がある・・・それは何故か。
それを考えなければなりません。
私には九州の勢力が日本海側から北陸・東国に進出したと思えるのです。他の資料を重ねて見ると・・・

鋳銅馬鈴がどんなふうに使われたか想像してみましたが、関東でも九州でも同じように音を立てて首長の権威を高めたのでしょうね。

では、またお会いします。


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# by tizudesiru | 2019-07-08 12:00 | 366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない? | Trackback

大型鋳造鈴は何処で造られたのか

福岡県福岡市の元岡古墳群のG6号墳から庚寅銘大刀が出土しました。そして、大型鋳造銅鈴も出土したのです。10cmを越える多角形の大型鋳造鈴は日本と韓国では20例ほどしか出土がないそうです。
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さて、この大型銅鈴は、「馬鈴」という馬具だそうです。お見事な銅鈴ですが、これを馬に付けたら、馬は重いでしょうね。他にもさまざまに飾りをつけられますから、鎧甲の首長を乗せたら馬はたまったもんじゃないですね。
こんなものを何の目的で何処で造ったのでしょうね。
日本と韓国の「大型鋳銅鈴(高さ10cm以上)の出土例」

*2019年6月29日「庚寅年銘大刀と鈴から見た元岡G6号墳の時代背景と東アジア」(福岡大学尋問学部教授桃崎祐輔)の資料の一部のみを紹介します。

古墳名(所在地) 銅鈴長
①埼玉将軍山古墳 (埼玉県行田市)13・3cm
➁神明山4号墳 (静岡県静岡市)12cm
③飯沼雲彩寺古墳 (長野県飯田市)11cm
④井田川茶臼山古墳 (三重県亀山市)10.7cm
⑤田上古墳 (三重県西牟婁郡)15cm
⑥柳本町 (奈良県磯城郡)10.0cm
⑦二万大塚 (岡山県吉備群真備町)10.0cm
⑧大将陣古墳 (福岡県行橋市)銅鈴
⑨野坂中松本古墳群 (福岡県宗像市)10.9cm
⑩平等寺向原1号墳 (福岡県宗像市)12.1cm
⑪船原3号墳 (福岡県古賀市)銅鈴3
⑫伝大宰府付近古墳 (福岡県太宰府市周辺)12.cm、9.cm
⑬馬塚  (福岡県筑前町) 10.0cm
⑭元岡G6号墳 (福岡県福岡市)銅鈴
⑮鏡山神社裏古墳 (佐賀県唐津市)9.cm
⑯壱岐双六古墳 (長崎県壱岐勝本町)9.cm
⑰慶州壺杆塚 (韓国慶尚北道慶州市)11.0cm
⑱徳川洞C区21号墳(韓国慶尚南道釜山広域市)14.cm
⑲鶴尾里古墳1号 (韓国慶尚北道義城市)15.cm

こんな馬鈴を副葬した古墳が、九州に集中しますね。それも福岡県に・・・これは大型鋳造銅鈴でしたから「中型鋳銅鈴」も見ましょう。10cm以下の銅鈴の出土です。
①野間古墳(福岡県岡垣町)
➁平等寺向原Ⅱ-19号(福岡県宗像市)
③須恵須賀浦9号横穴 (福岡県宗像市)
④須恵須賀浦75号横穴 (福岡県宗像市)
⑤久原Ⅳ区4号墳 (福岡県宗像市)
⑥大穂町町口遺跡4号墳 (福岡県宗像市)
⑦牟田尻桜京A08号墳 (福岡県宗像市)
⑧津丸横尾遺跡3号墳 (福岡県福津市)
⑨船原古墳 (福岡県古賀市)
⑩乙植木第4号墳 (福岡県粕屋群)
⑪草場6号墳 (福岡県福岡市)
⑫桑原石ヶ元12号墳 (福岡県福岡市)
⑬丸の口Ⅳ-1号墳 (福岡県那珂川町)
⑭観音山Ⅱ-1号墳 (福岡県那珂川町)
⑮日拝塚古墳 (福岡県春日市)
⑯八隈1号墳 (福岡県筑紫野市)
⑰伊方古墳 (福岡県田川郡福智町)

⑱壱岐双六古墳 (長崎県壱岐勝本町)
⑲才園2号墳 (熊本県人吉市)
⑳山崎上野原遺跡B-2区包含層 (宮崎県宮崎市)
㉑狐塚古墳 (宮崎県日南市)
㉒万燈山古墳 (岡山県津山市)
㉓上塩谷築山古墳 (島根県出雲市)
㉔宗像1号墳 (鳥取県米子市)
㉕牛輪谷遺跡 (鳥取県鳥取市)
㉖野間中古墳 (大阪府能勢町野間中)
㉗和田8号墳 (滋賀県栗東市)
㉘塚穴古墳{志賀4号墳} (三重県志摩市)
㉙石仏ノ坪古墳 (静岡県)
㉚賎機山古墳 (静岡県静岡市)
㉛新井原9号墳 (長野県飯田市)
㉜鶴巻塚古墳 (千葉県木更津市永井作)
㉝見目1号墳 (埼玉県深谷市)
㉞益子天王塚古墳 (栃木県益子町)
㉟宮下古墳 (栃木県宇都宮市)
㊱文選11号 (栃木県足利市)
㊲上田篠1号墳 (群馬県富岡市)
㊳坪田 (福島県相馬市)
 
おやまあ、ここも福岡県が半数ですね。
さて、こんな出土状況を見ると、銅鈴の製作地と発祥地が想像できそうです。
庚寅象嵌銘大刀と一緒に出土した他の遺物も見ましょう。
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これらは全て埋蔵文化財センターに展示されていました。

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では、このあたりで。
       

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# by tizudesiru | 2019-07-07 12:00 | 366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない? | Trackback

庚寅銘太刀は倭国産ではなく百済産?

福岡県福岡市西区元岡発見の「庚寅銘太刀金象嵌)」が重要文化財になりそうです。それは当然かもしれません。庚寅という干支が象嵌された大刀ですから、時期を特定する可能性が大きいのですから。材料の成分分析などから産地が、象嵌技術の研究から製作地が特定できるかもしれません。これからも考古学に貢献するでしょうし、歴史解明に欠かせない遺物となるからです。そういう意味では、重要文化財指定は当然です。しかも、発見場所がはっきりしています。古墳の状況や地域の歴史もよく知られた古代の志摩国・伊都国の辺りなのですから。
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現在の糸島半島は陸続きですが、古代・奈良平安時代くらいまで今津湾と加布里湾が入り込んで、糸島半島はほとんど半島ではなく島の状態でした。庚寅銘大刀が出土したのは、九州大学伊都キャンパスの南、元岡古墳群のG6号古墳です。
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この大刀は発見されて二時間後に文字が象嵌されていることが分かったそうです。ですから、埼玉の稲荷山鉄剣のように十年後とか、江田船山古墳のように数十年経た後とかではなく、錆が進む前に・さびて文字の象嵌が膨れてはがれ落ちる前に・保管に配慮が失われる前に、研究チームができたそうです。
真に幸運な遺物です。しかし、発見当時は倭王権からの下賜品だというコメントがあふれました。
最近は、百済で作成された物であろうというコメントが大勢を占めています。ほんとですか?
何か面白い物が出ると「百済製・新羅製」とコメントが出されます。しかし、金工技術は倭国に十分に浸透していたのではありませんか。庚寅年が570年だと特定されました。正月六日が庚寅になるのは、570年ですから。
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太歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果 (□は、練か)
太歳は庚寅の正月六日の庚寅の日時に、およそ(鉄を)十二練り、その果てにこの刀を作る
庚寅の年で正月六日が庚寅になるのは、570年しかないのです。お見事に時期を特定します。造られたのが570年だとしても、墓に入れられたのは570年より後だそうです。それは、金象嵌の文字に欠損部があるからです。墓に入れた時点で、すでに針金が抜け落ちていたらしいのです。
それにしても、金象嵌ですからね。作り手の思いも反映していることでしょう。古代日本に金象嵌の刀剣は4振しかありません。
蔵埼玉稲荷山古墳出土品 辛亥銘鉄剣(埼玉県行田市)
金錯銘直刀身 (伝 群馬県古墳出土)
東大寺山古墳出土品 金象嵌名花形飾環頭大刀 (奈良
県天理市)
元岡G群6号墳出土品 金錯銘大刀 (福岡県福岡市)

銀象嵌は、3振です。
稲荷台1号墳出土品 王賜銘鉄剣 (千葉県市原市)
出雲岡田山古墳出土品 銀錯銘銀装円頭大刀 (島根県松江市)
江田船山古墳出土品 銀象嵌銘大刀 (熊本県玉名郡和水町

胴象嵌は、1例のみ。
箕谷二号墳出土品 戊辰年銘大刀 (兵庫県養父市)

  
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ここは、九州大学移転に伴う調査で見つかった古墳群でした。此の大学は、敷地内の多数の前方後円墳を破壊して作られました。丘陵一帯が古代の墓地だったのです。このG6号墳の直ぐ近所には、御道具山古墳という糸島地方では初期の古墳がありますが、敷地外でした。キャンパス内の古墳群とつながりのある前方後円墳でしょうね。まあ、九州の前方後円墳ですから残されずに破壊されたという噂です。
福岡市の方の話だと、G6号墳は残したそうですが何もしていないそうです。つまり、整備をするのではなく破壊はしなかったが、埋め戻した状態ということでしょう。壊されなくてよかったです。

そういえば、銅象嵌の大刀、養父市の箕谷二号墳は残されています。
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箕谷二号墳
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福岡市にも頑張って欲しいです。
元岡のG6号墳では金象嵌大刀だけではなく、大型の鋳造の銅鈴が出土しています。たいへん珍しいそうです。
画像で見てもつるりと光っています。つなぎ目がない鈴ですから、鋳型で造られたのです。
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此の鈴は何処で造られたのでしょうね。
福岡市埋蔵文化財センターで出土物が展示されています。
では、また後日お会いしましょう。



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# by tizudesiru | 2019-07-05 20:34 | 366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない? | Trackback

在自山は天蓋山・古代は馬を飼育し守る神が祀られた

世界遺産になった福岡県福津市の津屋崎古墳群は、ひとまず「宗像氏の奥津城」と宣伝されています。
津屋崎地域は江戸時代の塩田開発や干拓により耕作地は広がりましたが、100m前後の古墳を連続して造営する豪族が存在できるほどの耕作地は、古代には有りませんでした。つまり、この古墳群を造営した豪族の本拠地は津屋崎以外の土地にあったのでしょうか。食料を確保できる田畑を持ち、権力を手にできる財力が備わっていなければ、墳丘墓を継続して造営できません。

では、津屋崎の豪族は何を財源にしていたのでしょう。交易・鉄生産・銅生産・須恵器生産などいろいろありますが、一つには牧場があります。馬を育てていたのではないでしょうか。
これから、次のような、結論に至ります。

在自山は、もとは天蓋山だった。そこには、神が祀られていた。それに、十五世紀に金山彦が奉祀され、十八世紀に金比羅社が勧請された。それより先の十四世紀(南北朝の時代)には、牧口神社があったと記録がある。
牧口とは、馬を飼う牧場の入口という意味で、公が管理する牧場の入口のことである。もともと、ここには大きな牧があったのだ。
南北朝時代には手厚い奉斎が行われていた。


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<福岡県福津市津屋崎の在自(あらじ)にある金比羅神社>
では、津屋崎町の在自に金比羅神社を訪ねます。ここは、大物主神・応神天皇・仁徳天皇・神功皇后・大己貴命・少彦名命・大海津美命・・・なんとも多彩な神々が祀られていますが、金比羅神社とは不思議です。その石段の横に牧口宮と彫られた石がありました。
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『筑前国続風土記拾遺』に次のような一文があります。
「金比羅神社」在自村にあり。昔より天蓋山(あまおいやま)<社の上にある高山なり>の頂に小祠有りしを修験者大澄、享保の初年、讃州より金比羅神を勧請して、相殿に祭り、寛延年中麓なる今の地に社を移せり。霊験ありとて常に参詣の人絶えず。毎年八月九日の夜は津屋崎の海まで神幸ありて、いと賑わし。当山派山伏奉祀す。社内に祇園社、貴布祢社有り。この社前より海上の眺望佳景なり。
非常に気になる山の名前が出てきました。天蓋山あまおいやまです。地図にこの山の名前は有りません。が、それは在自山のことだそうです。津屋崎山地の中で一番高い山です。そこにもともと小祠があったそうです。
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(在自山=天蓋やま=あまおいやま・在自剣塚古墳より南西に在自山をみると、山頂が少し見える)
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(金比羅神社の境内)
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確かに、社殿の横に天蓋山遥拝所の石碑がありました。在自山=天蓋山を遥拝していたのです。
金比羅神を讃岐より勧請したという修験者・大澄の「大澄家記録」には、次のように書かれています
「金比羅神社は文安二年(一四四五年)に定海法印が古宮の天蓋山山頂に金山彦を奉斎鎮座されてより後、宝永年中、一楽院元海法印が讃岐国象頭山に詣で、金比羅大権現を勧請合祀して山頂の古宮に社殿を創建した。その後、現在地に遷され、正徳二年(一七一二年)大澄家の先祖が第四代黒田藩主綱正公の意を得て拝殿を改築した。略」

在自山山頂はなかなか魅力的な地であったらしく、様々な神が勧請されたのです。先祖の「大澄」が金比羅神を勧請したのは15世紀です。その前から信仰は有りました。
更に、昔は「唐防」にあった八幡宮も在自に遷して合祀したそうです。唐防(とうぼう)とは、唐の侵略を防ぐという意味でしょうか。なんと、八幡神も合祀されたのです。
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そして、在りました、『宗像神社史』に牧口神社の説明が。
『御縁起に一〇八社の一つとして「牧口明神」とあり、正平年中(南北朝時代)行事に七五社の一つとして「在自牧口社」とあり、同神事の条に
「在自郷牧口大明神 三月三日神事、 九月九日神事、五月五日神事、二季彼岸神事、毎月朔幣・望祭神事一年中二四度」 と見え、吉野期(南北朝時代)神事目録、九月御九日祭の條に「牧口大明神二七日」とある。』

円寶末社帳には「牧口明神、 三毛入野命」とあり、

『続風土記付録』の宗像郡上の在自村の条には

「牧口大明神ウラノタニ、神殿方五尺、拝殿二間・二間半、祭礼九月二八日、奉祀惣ノ市。在自四十戸の産霊なり。祭るところ、天津兒屋根命」

『続風土記拾遺』十九では「同村裏の谷にある牧口神社を以って「宗像七十五社其の一也」としている。
牧口というのは後述の由牧殿社・由牧殿明神・御牧殿・湯牧殿の条にのべるごとく、国の牧場の入口の守護神で、これは在自郷にあったものである。」

明細帳では津屋崎町大字在自字平原鎮座の金比羅神社(旧村社)の項によると、「大字在自字裏の谷にあった牧口神社(旧村社・祭神大海津美命)は、明治四十四年、金比羅者境内の内に合祀された」と見えている。

ごたごたしてますから、まとめます。
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在自山は、もとは天蓋山だった。そこには、神が祀られていた。それに、十五世紀に金山彦が奉祀され、その後に金比羅社が勧請された。それより先の十四世紀(南北朝の時代)には、牧口神社があったと記録がある。
牧口とは、馬を飼う牧場の入口という意味で、公が管理する牧場の入口のことである。南北朝時代には手厚い奉斎が行われていた。

となりました。

何度も津屋崎古墳群を訪ねましたが、確かに不思議な古墳群です。古墳の集中度と継続を見ると、在地豪族が大きな財力と権力を持っていたと思います。しかし、中世まで見渡す限りの田畑は海・内海でした。大伴坂上郎女も歌に詠んでいるように、内海を船で勝浦まで来て名兒山を越えて宗像の社に参拝しています。津屋崎は内海が入り込み権力のための十分な田畑がありません。
此処で、どのようにして財を築いたか、それが問題です。
大きなカギは、牧口神社に在るのではないか・・・海辺の草は塩分をふくみ、牛馬が育つには最適です。火山のある内陸や海浜はよい牧となったのです。では、津屋崎の馬の需要は何時生まれ、どのように発展したのか。

それは古墳時代、5世紀、6世紀の倭が盛んに出兵していた時代にさかのぼるのではないでしょうか。
此処の豪族は、馬匹飼育により財をなした。それは、半島出兵と東国進出という野望に支えられ、需要が十分にあった。ということです。ここの豪族は大きな組織の中で、兵馬を育てていたのではないか。

そこで、疑問符、その豪族が宗像氏だったのですか・・・?
7世紀後半は確かに宗像氏の存在が大きいのですが。彼らは5世紀から此処に存在したのでしょうか。

此処までにします。



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# by tizudesiru | 2019-07-05 10:55 | 367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏 | Trackback

侵略者か在地豪族か?18号墳の被葬者(善一田古墳群)

磐井の乱後、列島に画期がもたらされたと、このブログで紹介しました。それは、6世紀後半の中小の墳丘墓にも馬具などの副葬品が入れられ、豊かな小豪族が増えたことで分かるのだそうです。それを証明するような遺跡が福岡県大野城市善一田古墳群でした。
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ここは宅地として開発されていましたが、広範囲に古墳や古代の住居跡が見つかりました。それで、市民から一部を残してほしいという要望があり、山際の一部を市が買い取り公園として整備したのでした。
ほとんどの市町村は金銭的に自前で土地を買い取り公園整備などできません。大野城市はたまたま財源の都合がついたのです。今年から文化財に国からの援助はなくなりましたから、財政難の地方には「文化財」をあきらめるしかないのです。もう地方に文化も歴史もいらないのです。特に、九州にはいりません。
いくら発掘しても、「もう九州の古代遺跡は必要ない。歴史は変えない」の壁が張り巡らされたのです。
戦わずして「不戦敗」となってしまったのです。

福岡平野の周りも筑後平野の周りも丘陵はほとんど古墳群になっています。宅地開発するには、そこしか残っていないのです。そこが新興住宅地になり、交通の便がなければ三十年後には売れない住宅地となるのでしょうか。
いえいえ、善一田古墳の報告でした。大野城市は遺跡の一部を何とか残したのでした。
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19号墳の周りには木棺墓群がありました。
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馬具が副葬されていたのは、18号墳です。
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18号墳は善一田古墳群の中で最初に造られた古墳だそうです。すると、この人は相当な財力と統率力を持って、他から此処へ来たのでしょうか?
集落が徐々に大きくなっていくとか、先祖の住んだところで拡大していくとか、そんなことではないのです。この人が此処に来て、辺りが急に活気づいたということです。どこからきたのですかね?
新羅系土器が出ていますから、半島と交流もあったようですし、馬具や武器が副葬されていますから首長でもあったのです。他所からきて首長になったのですか? では、侵略したのか、首長の交代か・・・・
何かがあったということです。

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18号墳の高さから「三郡山地と背振山地の谷部=交通の要衝」を見渡すことができます。なんだか意味のある位置に在るのです。
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善一田古墳群を形成した人を支えた財源は何だったのでしょうね。
では、また。




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# by tizudesiru | 2019-06-23 14:16 | Trackback

「光明皇后の権力の影に不運と不幸と孤独」6月25日のテーマ

万葉集を読むかぎり、光明皇后は孤独でした。夫の聖武天皇も、娘の孝謙天皇も孤独で不運でした。
最悪の状況の中で強く生きた女性のお話を予定しています。
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前々会の「玄昉の墓」の紹介の時、光明皇后について少し触れました。今回は光明子が詠んだ三首とその歌が詠まれた背景に迫ります。

4240 大船に真梶(まかじ)しじぬき この吾子を 韓国に遣る いはえ神たち
752年、甥の藤原朝臣清河が遣唐大使となったので、春日の宮で神事を行った時に、光明皇后が詠んだ歌です。
 この時代の遣唐使は命がけでした。遣唐使として海に消えた学問僧や留学生が数多いましたから。
清河もその事は承知していました。しかし、嫌とは言えません。藤原豊成(南家・武智麻呂の長子)と藤原仲麻呂(南家・武智麻呂の二子)が任命したのですから。清河は北家・房前の四男でしたが、南家の勢いに押されていました。この時、豊成は右大臣、仲麻呂は大納言でした。そして、仲麻呂は光明皇后のお気に入りでした。
 清河には大使として唐に行く他の道はなかったのでした。
 
  遣唐大使となった清河が詠んだ歌です。
4241 春日野に いつく三諸の 梅の花 栄えて在り待て 還り来るまで

 清河は還って来たいと思っていました。しかし、彼は還れませんでした。唐で客死しています。向こうで子を造ったみたいです。
北家が台頭するのは、藤原仲麻呂(恵美押勝)が乱を起こした後の方でした。
藤原四兄弟は、南家・北家・式家・京家と四家に分かれていますが、その権力争いはし烈でした。このころ、藤原宇合の式家は、長子だった広嗣がおこした「広嗣の乱」以来低迷していました。

光明皇后は、藤三女として出身の氏に尽くしました。ですから、身内の失敗や混乱をつぶさに見ていたことでしょう。つらいことも悲しいこともあったはずです。
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東大寺の正倉院は、大仏殿の裏にあります。夏の東大寺の裏には鹿たちがゆったりと遊んでいます。その裏道の林の奥に正倉院があります。ここには光明皇后により「聖武天皇の遺愛の品」が奉納されています。

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木立の向こうに、正倉院の校倉(あぜくら)造りの壁が見えています。

6月25日には「光明皇后の不運と不幸と孤独」のお話をする予定です。
福岡市天神・ 13持30分~16時 

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では、また、お会いできますように。


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# by tizudesiru | 2019-06-20 00:26 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

ニニギ命は糸島から出発した

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福岡県糸島市の二見が浦に行きました。日曜日なので家族で遊びに来ているようでした。
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宮原誠一氏の神社見聞牒で紹介された神社にいきました。
まず、糸島市新田320、「天降天神社」に行きました。祭神はニニギ命です。
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この神社の近くに「岐大神」と彫られた大石がありました。大石には「猿田彦」が祀られたのは見たことがありますが、「岐」大神という石は初めて見ました。一緒に見た人は「ニニギの岐か、伊都国の長官だった「ニキ」の岐かも知れない、と謂ってました。
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いずれにしても、意味があるものですね。此処に昔は「社」があって、その社が遷された時に記念の碑を建てたのかもしれません。
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次に、志摩津和崎300番地、若宮神社に行きました。ここは古墳でした。祭神は、木花開耶姫命です。たしか、ニニギ命の奥さんでしたよね。
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それから、糸島市志摩桜井666、天降天神宮にいきましたが、祭神は不明でした。

宮原誠一氏は「糸島には、コノハナサクヤ姫とニニギ命の二人の神を一緒には祭っていない。二人を一緒に祭る神社は南九州に在る」と言われるのです。糸島で夫婦の神を別々の神社に祭っているのは、「ここがニニギ命の出発の地であるからだ、赴任地ではない」と指摘されています。
大変興味深い指摘でした。宮原氏のブログ「宮原誠一の神社見聞牒」をご覧ください。
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*脊振山も火山も伝承からして、古代から神山だったと思われます。
糸島地方には、弥生時代の神山と神山を結んだ線上に首長墓が築造されています。三雲南少路王墓は弥生の王墓です。ここで、何らかの権力が発生したのは、魏志倭人伝を見ても明らかですね。
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東西のライン上に何が乗るでしょう。もちろん南北のライン、夏至の日の出のライン、当時の日の出のライン、様々なラインが引かれますが、その上に乗る墳墓や神社や寺は、意味を持って作られたのでしょう。私はそう思います。
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古代の糸島市は、伊都国と志摩国に分かれていました。志摩=嶋で、現在のように広い陸地でつながってはいなくて、志登神社の辺りに細い陸橋でつながっていたようです。東西から加布里湾と今津湾が入り込んでいたのです。伊都国の中心は三雲王墓や平原王墓がある辺りでした。

平地の多い伊都国に一大率がいたのでしたね。

では、また。


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# by tizudesiru | 2019-06-19 00:02 | 350九州神社の旅 | Trackback

藤原宏嗣に光明皇后との仲を疑がわれた僧正玄昉

藤原広嗣は、光明皇后と僧正玄昉のよからぬがあることを知って激怒しました。それも「藤原宏嗣の乱」の動機でありました。
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福岡県太宰府市の戒壇院行きました。此のお寺の裏に僧玄昉の墓があるからです。以前撮った写真が冬場だったので、夏の戒壇院の写真を撮りに行ったのです。
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(「戒壇は 奈良時代に国家が正式に各宗派僧侶の資格を認める受戒の儀式の為と 戒律のために設けられた」と、門前に説明板があります。
古代には僧に成るための資格を与える儀式を行う場所がありませんでした。そのために鑑真和上を招いたのです。和上が渡海の危険を承知して失敗を重ねながらやっと日本にたどり着いた時には、日本には戒壇を受ける場ができていたのですが、和上の決意とご苦労には誰もが感服したと思います。)

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夏の戒壇院も静かで美しいです。本堂の右手から門を出て裏に回ると、玄昉の墓があります。
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僧正玄昉の墓
「玄昉は奈良時代の僧。阿倍仲麻呂・吉備真備らと共に遣唐船で中国に渡り、在唐18年、玄宗皇帝によって三品に准ぜられ、紫袈裟を許された。帰国後、奈良の宮廷で権力をふるったが、天平17年(745)造観世音寺別当に左遷され、翌年、観世音寺造立供養の日に死去。政敵藤原広嗣の霊に殺されたと伝えられる。」と説明板に在ります。
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観世音寺造立供養の日に死去、ですか。
何というひどい仕打ちでしょうか。造立供養の大事な儀式の日に殺されたとは! もちろん、殺害されたと思います。玄昉には自殺する理由も何もありません。

藤原宇合の息子だった藤原広嗣は朝廷に対して兵を挙げましたから、謀反人です。中央では橘諸兄や吉備真備が活躍し、藤原氏の影が薄くなりそうだったのです。そして、光明皇后と僧玄昉のよからぬ噂がありました。広嗣は伯母の光明皇后と玄昉の噂に憤り抗議文を朝廷に送り付けました。
聖武天皇は召喚命令を出しましたが、広嗣は従わず兵を挙げました。

そもそも光明皇后が僧玄昉を頼りにしたのには理由があります。
光明皇后は729年の「長屋王事件」の後、精神的にも疲れていたでしょう。
そこで、母の県犬養美千代と同じように仏教を頼り、730年に興福寺の五重塔を一年で完成させました。(普通の豪族には1年で五重塔を建てる財力も権力もありません。しかし、聞くところによると、光明皇后には国家予算の6分の1ほどの財力が集中していたのです。)
あの興福寺五重塔は、長屋王事件の苦しみから逃れるために光明皇后が建立したと思います。

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長屋王事件(729年)は藤原氏が仕組んだ事件だったと賢い皇后が気が付かないはずはありません。心穏やかにはなれないはずです。伯母の一家を断絶したのですから。

十代で安倍内親王を生んだあと、十年も子どもに恵まれていなかった光明子がさずかった基王は、生後三か月で皇太子になりました。しかし、一年足らずで夭折。吾子を亡くした母として落胆はいかばかりだったでしょうか。


そこへ、長屋王が佐道を学び呪詛していた、そのため基王が死亡したという密告があったのです。聖武天皇は長屋王を深く恨み、兵をむけ館を取り囲ませ自刃に追い込みました。
その後、光明子は立后され、皇后となったのでした。長屋王は光明子の立后にも反対していたのですから、その死によって光明子の立后が実現したのです。
それまでの光明子の位階は夫人(ぶにん)で、その前は嬪(ひん)でした。聖武天皇の即位と共に、夫人となっていたのです。そして、ついに「皇后」に上りつめました。王族ではない氏の女性が皇后になる初例で、これ以降、藤原氏の娘が皇后になる前例となるのです。


皇后となっても光明子の心は晴れなかったでしょうが、気丈にふるまっていたことでしょう。都には長屋王に同情する声が満ちていました。その声も聞いたかもしれません。
光明子の母の県犬養美千代は仏門に入っていましたから、娘のために祈ったことでしょう。(橘夫人念持仏が法隆寺に遺されています。)

しかし、733年、その母も世を去りました。
光明皇后は大きな支えを失いました。皇后の発願で母の一周忌に間に合うように建立されたのが、あの有名な中金堂(西金堂)です。その思いの深さがよくわかります。阿修羅像、あれほどの見事な国宝はありませんからね。
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阿修羅像は美しいだけではない、光明皇后の深い悲しみをあらわしているのです。734年にはこの西の金堂は完成しました。やはり、一年で完成させています。何という財力と権力でしょう
734年に母の葬儀、皇后の心には穴が空き、風が吹いていました。そして、ついに病に伏してしまいました。
この年の暮れ、入唐使多治比広成、下道真備、玄昉ら多禰島に漂着しました。18年間の中国生活を終えて、留学生・学問僧が帰って来たのです。そこに玄昉がいました。
彼らはさっそく文化をもって国家に貢献していきました。仏教に造詣が深かった光明子は、玄昉の経論五千余巻の献上に目を見張ります。それを早速『皇后宮職』に写経させたのです。
それも、長屋王の館跡の役所で。
長屋王の館跡は公に没収され役所になっていたようです。そこは「皇后宮職」という役所があったらしいですが、そこで、写経‥‥どんな思いや願望があっての写経だったのでしょうか。母を失った後も、光明皇后は病に苦しんでいましたから。更に、
737年(天平九年)藤原四兄弟、流行病で全員死亡。
後ろ盾であった兄たちが全員死亡したのでした。

僧正であった玄昉を皇后が頼りにしたのは当然です。
聖武天皇は皇后以外の女性に心動かされていましたので、頼りにできません。皇后は孤独でした。
しかも、皇后は吾子を亡くし、母を亡くし、病に苦しみ続け、兄達を失ったのです。
仏の教えにすがらなければ、わが身すら無くしかねません。
18年間中国で学問し玄宗皇帝に認められた玄昉を尊敬し頼りにするのは、当然でした。

740年(天平十二年)藤原広嗣が乱を起こしました。そして、斬られました。
この後、聖武天皇は五年間も平城宮に帰らず放浪されるのです。
 
はたして、皇后が悪いのでしょうか。そうではありますまい。
玄昉は皇后を助けようとしたかもしれませんが、それ以上の罪をこの僧正におっかぶせることは出来ないと、私は思うのです。戒壇院の隣に観世音寺はあります。基壇と礎石に往時をしのぶことができます。
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玄昉はどのような最期を迎えたのかなと、観世音寺の静寂の中で立ち止まり考えました。
紫の袈裟まで許された僧正玄昉も、観世音寺の鐘(国宝)の音は聞いたのでしょうね。
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此の鐘を打つことができると、寺の掃除をされている方に進められましたが、国宝だからもったいないと、私はお断りしました。
今度、「筑紫古代史の会」で光明皇后の歌を詠みます。よかったらお出かけください。
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6月25日(火)13持30分~16時、福岡市天神、光ビルにて
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宜しくお願いします。
では、またお会いできますように。

# by tizudesiru | 2019-06-14 02:39 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

天武朝の悲劇は天武天皇から始まった

6月11日(火)の筑紫古代文化研究会でのお話は「天武天皇」です。
壬申の乱で勝利した天武天皇は、『万葉集ではどのように位置づけられているか』を考えます。
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写真の大きな礎石は、本薬師寺(もとやくしじ)の金堂の礎石出す。ここは、天武天皇が皇后の病気平癒を祈念して建立を発願した寺です。天武九年(680年)のことでした。
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伽藍が完成したのは十数年後になります。寺は金堂から造営をはじめますが、開眼会(かいげんえ)が開かれたのは持統十一年(697)ですから、完成まで十七年ほどかかったということです。
当然、完成させたのは持統天皇ということになります。
当時は大きな寺でした。遷都の時に平城宮の西に移され、現在まで薬師寺として存続しています。
薬師寺跡のここには伽藍が残っていましたので、本(もと)薬師寺と呼ばれたのでした。
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さて、11日(火)の話の中心は、薬師寺のことではありません。
持統天皇の病気平癒を願った天武天皇の話です。万葉集における「天武朝の歌の編集はかなり厳しくシビア」です。
天武天皇は優雅で強い男性とは読めないのです。そして、心許した女性からも本当は愛されていなかったのではないか、と憶測を誘うように歌が掲載されています。
それは何故でしょう。
持統天皇と天武天皇は夫唱婦随のおしどり夫婦だったと、今日、世間では信じられています。万葉集は本来そのように編集していたのでしょうか。
天智天皇の葬送儀礼の挽歌は九首ありますが、天武天皇の場合は崩の時に持統天皇が詠んだ一首と或本の二首です。八年後に、持統天皇が夢で詠んだものがありますが、臣下の歌や女官の歌はありません。
持統天皇にとって天武帝が大事な夫であったなら、天武朝の歌の編集も丁寧な作業が行われたでしょうに。しかし、そうはなってない。
そして、天武天皇の皇統はついに滅んでしまうのです。
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6月11日(火)13時半~ (福岡市天神・光ビル)
明日のことですが、お知らせいたします。

では、又。


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# by tizudesiru | 2019-06-10 00:04 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

大伴旅人、大宰府の水城にて別れの儀式

天平二年十二月、大伴旅人は大宰府を発ちました。都に大納言として呼び戻されたのです。妻を亡くした上に弟を亡くし、肉体的にも限界だった旅人が、天平二年の正月に催した「梅花の宴」の噂は都にも届き、大評判となりました。そして、
長屋王の変の後、武人の氏族である大伴旅人に二心がないことが都にも伝わったのでした

生きているうちに都へ帰りたい、大伴氏の将来を確保しておきたい、都の事件(長屋王家の謀反)には関心はなく藤原氏に対して不信感は持っていないと都に知らせ、一日も早く都へ呼び戻してほしい、という思いが叶ったのでした。
梅花の宴は、旅人の願い通りの成果をあげたのです。


都の藤原氏も大伴旅人が従順であれば、ひとまず安心したのです。
帰京の時、旅人は水城で大宰府の官人の見送りを受けたのでした。
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水城の城門阯には、大友卿と児島の歌の歌碑があります。既に紹介しています。
大伴旅人が大宰府を離れたのは冬十二月ですが、今年、令和の春の写真で水城を紹介します。

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水城の土塁の上から見ますと。長い森が直線で伸びています。
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土塁は右の博多湾側が急斜面になり、左の大宰府側が緩やかな斜面になっています。そして、まっすぐ背振山頂に向かって続いています。
工事はどのように行われたのでしょうね。

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水城の森をまっすぐにのばすと、背振山頂にラインが届きます。なぜ、背振山なのでしょう。背振山の神に土塁を守ってもらうためでしょうか。
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山当で直線を引くと、かなりまっすぐな線が引けます。
緻密な設計図がなくとも、正確な直線は引けたのです。
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水城は背振山頂につながり、大宰府政庁の朱雀大路のラインは、基肄城の門・北御門(きたみかど)に届きます。基山も神山です。神山に守られていたいうことでしょうか。政庁の東には高尾山があったのです。
面白いですね。

(梅花の宴の三十二首の序文を旅人が書いたというのですが、2019年4月1日以来『令和』という元号が示されたことで様々に取り上げられています。序文には「帥老」という言葉が使われ「老」は敬語として使われるものなので、旅人の文ではないとの説もあるというのですが、大方は旅人が書いたとされています。序文を旅人以外の誰が書くでしょう。彼以外に考えられません。)
では、また。


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# by tizudesiru | 2019-06-08 22:19 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

太宰府・坂本八幡宮には旅人の人生最後の秋に詠んだ歌碑がある

令和になって、急に脚光を浴びた「坂本八幡宮」は、大宰府市の都府楼跡の北西に位置します。
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都府楼の中を通り抜けて行くこともできるし、蔵司と都府楼の間の車道を通って行くこともできます。
都府楼跡からは北西の杜に向かって進みます。都府楼跡には三つの石碑がありますが、写真では石碑群中央の後方にこんもりした樟の杜が見えます。大伴旅人の屋敷跡だったという坂本神社の杜です。
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旅人の屋敷跡「坂本神社」は、大宰府市の都府楼跡のすぐ近くに在るのです。大伴旅人は大宰帥でしたから一等地に屋敷があったということでしょう。
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境内に万葉歌碑があります。
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この歌は、巻八にある1541番歌です。次の1542番歌ともに旅人の歌です。
   大宰帥大伴卿歌二首
1541わが岳(おか)に さ男鹿来鳴く 初萩の花嬬問ひに来鳴くさ男鹿(大伴旅人)
1542わが丘(おか)の秋萩の花 風を痛み ちりべく成りぬ 見む人もがも (旅人)
この歌は、雌鹿を呼ぶ雄鹿の鳴き声に、亡くした妻を思い出している歌なのです。
二首は天平二年の7月以降に詠まれた歌ですから、大宰府の帥の館で詠まれたのでしょう。旅人は天平二年の十二月に帰京し、翌年七月には没しています。
ですから、都に帰っても秋七月以降に妻を偲ぶ歌を詠むことはできません。その事を理解して、坂本神社に歌碑が置かれたと思います。
背後に大城山、東には政庁の屋根瓦の奥に宝満山を眺め、旅人は人生最後の秋を噛みしめたに違いありません。
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(大宰府政庁址・写真の最奥に青く宝満山がのぞいている)
さて、上記の地図写真の『万葉歌碑』は別の歌です。
巻五の冒頭歌「大宰帥大伴卿、凶問に報(こた)ふる歌一首」
793 余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎之 伊与余麻須万須 加奈之可利家理
    よのなかは むなしきものと知るときし いよよますます悲しかりけり

巻五のあの名歌です。当時、最も新しい表現でした。この歌碑は坂本神社の東100mにあります。神社の鳥居から東に歩いて行くと、やがて旅人の万葉歌碑が見えます。
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50年前、この辺りはのどかな田園でした。いまでこそ公園になりましたが、政庁址の横を流れる小川にはマムシがいました。政庁の古代瓦も川底にごろごろしていましたが、蛇がいました。川辺によるとかま首をもち上げたものです。
今はセメントで固められた川底となりました、蛇たちがどうなったのか知りませんが、公園になる時に多くの生き物が死んだのは本当です。
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政庁址の裏には田圃がわずかに残っています。
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太宰府市の坂本神社に出かけてこれらの万葉歌碑に向かい合うと、妻と弟の大伴宿奈麿を失った旅人の絶望と悲嘆がしみじみと感じられます。

都に大納言として戻りはしたものの、旅人は疲れ果てていました。それでも、大宰府での日々を懐かしく語ったのでしょう。妹の坂上郎女の歌があります。

     大伴坂上郎女、筑紫大城山を思ふ歌一首
1474 今もかも大城の山に 霍公鳥 鳴きとよむらむ 吾なけれども
 坂上郎女は、大城山=大野山を思い出したのです。旅人と共に見た大城山だったことでしょう。


では、又。

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# by tizudesiru | 2019-06-06 17:02 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

万葉集巻九の冒頭歌は雄略天皇・そこに詠まれた鹿の運命

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明日、令和元年5月28日(火)のことです。筑紫古代文化研究会の講座(福岡市中央区天神・光ビル)で「万葉集巻九・紀伊国十三首」のお話をします。
始めは、「有間皇子とは」から話し始めて、紀伊国十三首までたどり着きます。

万葉集の中で、巻九は最高に読み応えのある巻です。

巻九の冒頭歌は、雄略天皇の歌です。

万葉集巻第九 「雑歌」
     泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首

1664 暮去者 小椋山尓 臥鹿之 今夜者不鳴 寝家良霜
    ゆふされば おぐらのやまに ふすしかは こよいはなかず いねにけらしも
泊瀬朝倉宮天皇とは、雄略天皇のことです。
雄略天皇御製歌が万葉集の巻の冒頭に置かれているのは、巻一と巻九なのです。
然も、そこに掲載された大きな意味もあるのです。

夕されば(夕方が去って夜になって)
小椋の山に臥す鹿は(小椋の山で臥している鹿は)
今夜は鳴かず(どうしたことか、毎晩のように鳴いていたのに今夜は鳴かないなあ)
いねにけらしも(寝てしまったのだろうな)
この歌は、いかにも意味深です。鹿は臥しています。では、既に寝ているのです。この詠み手は「鹿は臥している」と知っていて、「今宵は鳴かず」と云っていますから、「もう臥しているから今夜は鳴かないのだな。もう寝てしまったのかな」となって、なんだか歯がかみ合いません

よく似た歌が、万葉集巻八の「秋雑歌」の冒頭に在ります。
  巻八  「秋雑歌」
      岡本天皇御製歌一首(舒明天皇)
1511 ゆうされば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かずいねにけらしも
こちらであれば、「いつもなら夜になったら小倉の山に住む鹿が鳴くのだが、今夜はなかないが寝てしまったのだろうか」と自然に意味が流れます。
しかし、そうであっても巻九(1664)も巻八(1511)も、なぜ鹿が鳴かなかったのか分かりません。何時もなら鳴いている鹿が鳴かない。
二人の天皇が鳴かない鹿を思っている、そこに共通するのは何でしょう。それは、「鹿の死」なのです。万葉集には鹿を詠んだ歌が五十五首ぐらいはあります。
其のほとんどが、妻を呼ぶ牡鹿の鳴き声です。
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そして、万葉集時代の人々は、鹿が鳴かないわけを知っていました。
秋の牡鹿が妻を呼んで鳴いているその声が聞こえない。
その声が聞こえないのは、牡鹿に異変があったからにほかなりません。
二人の天皇の歌は、鹿の身に起こった異変・事件を暗示しているのです。
その事件こそが、有間皇子謀反事件でした。
こんなお話を交えて、紀伊国行幸で詠まれた有間皇子所縁の地を辿ります。


巻八の冒頭歌は、志貴皇子のあの有名な歌です。
  巻八  「春雑歌」
      志貴皇子よろこびの御歌一首
1418 石ばしる 垂水の上のさわらびの もえいづる春になりにけるかも

万葉集は何処を読んでも面白い。初期万葉集が編纂された時、秘密や謎はなかったのです。
全てきちんと書かれていた。
しかし、元明天皇には都合が悪かったのです。だから、人麻呂は断罪された。

そのうち、お話しましょうね。



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# by tizudesiru | 2019-05-28 01:30 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

大若子を祀る櫛田神社は福岡平野と背振山の周辺に在る

前回は、野芥の櫛田神社にお詣りしました。今回は、その野芥の櫛田神社から分祀したという荒江野芥神社への参詣です。
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注連縄に特徴があります。野芥の櫛田神社も同じ様式でした。下の写真が野芥櫛田神社です。
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よく似ているでしょう。 

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櫛田神社の由緒によると、野芥や博多や佐賀の神崎の櫛田神社は、みんな天平年間の創祀だそうです。それは、それぞれの主張もありましょうが、荒江櫛田神社には『大若子が主たる祭神と思われる櫛田神社は、全国的には数が少なく』と書かれています。他ではあまり見られないということでしょうか。
発生の地(起源)は、伊勢櫛田神社』と書かれていますが、それは、倭姫世紀の話に基づいたものでしょうか。伊勢神宮の成立に関わる古文書ですが、本当はさほど古い物ではありません。
伊勢の神は「度会の神」として万葉集にも出てきます。わたらいの神であれば、宮川のある下宮(げくう)の神様です。つまり、豊受大神になります。
内宮が成立するのは7世紀後半以降ですから。五十鈴川の上流に天照大神の鎮座が必要になってからの祭祀だと思います。高天原広野姫天皇という諡号を持つ持統天皇の時代になって、必要とされた女神なのです。
そう考えると、大若子を祀る櫛田神社の起源を伊勢に求める必要はありません。
脊振山を取り巻く地域にいた大若子が祀られたと考えていいのではないかと思います。

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荒江櫛田神社の隣の社、赤い社が見えますが、「幸神社」です。
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幸神社は昔からの地域の「地神」だそうです。もとは、この境内に祀られていなかったのを、此処に合祀したのだそうです。地域の生活と結びついた地神と、古代の氏神信仰につながる社は分けられていたのですね。

ではこの辺で。


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# by tizudesiru | 2019-05-26 01:06 | 350九州神社の旅 | Trackback

大若子と倭姫の接点を知っていた野芥櫛田神社

福岡県福岡市早良区野芥の櫛田神社に参詣しました。以前の参詣とは違ったことに気が付きました。それは、ご祭神のことです。
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ご祭神は、天照皇大神・大若子命・天児屋根命・手力男命・倭姫命となっていました。

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由緒(古事記・続風土記拾遺、神社誌ヨリ抜粋要約)

皇譜十二代景行天皇十八年 此ノ地方二強賊蠻居シ在リ即チ勅シテ 大若子命ニ征誅セシメラレ コレガ縁起ニテ当地 能解(のけ)ニ勧請セラレ後チ天慶二年再建ノノチハ早良六郷ノ郷社トシテ鎮座シ給ヘリト傳承ス 即チ往古ニ算スレバ其ノ創祀ハ実ニ一千三百年ノ昔 大和朝時代ナリト

*能解=野芥 

野芥櫛田神社に上記のような由緒がありました。それで、佐賀県の櫛田神社を思い出したのです。御祭神はどうだったのかな…もう忘れていたので神崎の櫛田神社のホームページで確かめました。

「神埼の櫛田神社」のホームページ

(かんざき)」発祥の地 景行天皇が今から1930余年前に櫛田宮を創祀されて以来、荒廃した地が神の幸をうける平和郷となり、神幸(かむさき)と名付けられました。これが後に神埼となりました。〈肥前國風土記〉

御祭神の御神徳は、国土万民の安泰繁栄を守護し、あらゆる災難を除き給う事は「神代より末代の今に至る迄、霊験あらたにして威徳世に盛に、利生掲焉にして賞罰分明なり」と櫛田大明神縁起に明記され、厄はらい・車両はらい・地鎮祭・縁結び・安産・病気平癒等の神さまとして仰がれています。

櫛田神社の元宮(もとみや) 弘安4年(1281)蒙古襲来。神埼本宮より末社博多櫛田神社へ神剣を移して異賊退散を祈り、霊験あらたかなものがありました。

当宮と南北各1里へだてて鎮座する高志(たかし)神社(千代田町、田中豊宮司)・白角折(おしとり)神社(旧仁比山村朝日)とは三所一体の神社です。他にも『櫛田大明神』と刻まれた石祠などが筑紫山地などあちらこちらに祀られています。

御祭神
櫛田三柱大神
櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)正面鎮座、櫛田大明神
須佐之男命(スサノオノミコト)  東御座、高志大明神
日本武命 (ヤマトタケルノミコト)西御座、白角折大明神(おしとりだいみょうじん)
と、上記のように書かれていました。

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野芥の櫛田神社は、明らかに大若子命が中心の神社です。由緒からそのようにしか読み取れません。他の四神(天照皇大神・天児屋根命・手力男命・倭姫命)は、後からくわえられた神々でしょうか。たぶん明治になって「大若子命」の関係から伊勢神宮の縁起に倣って四神が入って来たと思われます。
大若子は、ヤマトヒメが天照大神の鎮座地を求めてさまよっている時、土地を献上した豪族だったと思います。

こんな九州にまで倭姫は来られたのですか? ではなくて、あの話は九州で起こったことですか? と思いたくなりますね。
神社を巡っていると、ひよっこり、宇治稚郎子にあったり、仁徳天皇に会ったり、大若子に会ったりするので驚きます。伊勢神宮に伝わる「倭姫世紀」には、
十四年[乙巳]、伊勢国桑名野代宮(くはなのしろ のみや)に遷幸して、四年間奉斎。
 この時、国造大若子命〔一名大幡主命〕が現はれ参上して御共に仕へ奉ったので、国内の風俗を奏上させた。また、国造建日方命(たけひかた のみこと)が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと「神風の伊勢国」と申上げ、舎人弟 伊尓方命(いにかた のみこと)、また地口・神田・神戸を進った。若子命は、舎人弟 乙若子命を進った。

と、「大若子」の記述があるのです。
此処に出てくる大若子(大幡主命)は、国造です。倭姫世紀を知っていたので、早良の人たちがご祭神に加えたのでしょうか。
大変不思議です。
では、この辺で。



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# by tizudesiru | 2019-05-25 00:48 | 350九州神社の旅 | Trackback

博多湾の能古島はオノゴロ島だったのか

福岡市東区の志賀海神社の元宮は、玄界灘に向かって鎮座していました。現在は博多湾を向いていますが、古代には外海を見ていたのです。
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志賀海神社の元宮の沖津島を東に見て後ろ(西)に目を移すと、そこに玄海島が見えます。玄界島は将に博多湾の入口に控えています。
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志賀島と玄界島の間を通って船が行き来しています。
玄界島には鷹の緑丸の伝承があります。
玄海島を見て博多湾に入ると、能古島が浮かんでいます。ここにも面白い話が合って、神話時代のオノコロ島は、能古島(のこのしま)だというのです。

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能古島には防人も置かれました。国外から攻めてくるとしたら、必ず通る海峡に浮かぶ島なのです。
志賀島の高台・塩見公園の展望台からこの能古島を見ましょう。確かに、古代には防人を置いたでしょうね。能古島が重要な位置にあることは分かりました。ここがオノコロ島の可能性はあるでしょう。南の対岸には小戸があり青木ヶ原がありますからね…

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何と言っても「神話の時代の話」ですから、肯定も否定もしません。

神話の時代の話ですから、文字を手に入れた氏族が自分たちの知識と都合で「日本書紀」や「古事記」を編集したのでしょうから、それをマルマル信じようというのではないのです。
しかし、その編集は少し気になります。

国生み神話を日本書紀で見ると、イザナギとイザナミが生んだ順番は次のようになります。
①秋津島(本州) ➁伊予二名島(四国)③筑紫島(九州)④⑤隠岐島と佐度島 ⑥越洲(北陸)⑦大洲(周防大島)⑧吉備児島(児島半島)
古事記では次の通りです。

①淡路島 ➁伊予二名島(四国)③隠岐島 ④筑紫島(九州)⑤壱岐島 ⑥対馬島 ⑦佐度島 ⑧秋津島(本州)

どゆこと? と思いますよね。日本書紀と古事記では「秋津島(本州)」を生んだ順番が、一番と最後、全く違います。この違いは、編集する氏の考えと主張の違いなのでしょうね。
 
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博多湾の入口には万葉歌碑もありますが、蒙古塚もあります。
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故郷には家族も恋人もいたでしょうに、この海で失われた命がたくさんあったのですね。
失われた命を思うと、美しい海が悲しく思えます。
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では、又明日,と書いてしまいました。
またまた、大事なことを書きませんでした。
「志賀海神社の元宮が外海を向いているのは何故か」の答えです。
此の答えは分かり切ったことで、単純です。志賀海神社を祭祀した安曇氏に「渡海技術があったから」です。
彼らは外海に出ていたのです。ただの漁師なら博多七浦と呼ばれた安全な湾内の漁だけでやれたはずです。危険な玄界灘で漁をする必要はありません。
志賀海神社の神に守られて、多くの丈夫が渡海しました。

玄界灘を越えて行くからこそ海神に祈ることが重要でした。「何をしに行くのか」ですが、王家の使者として、兵隊を送る船頭として、又は自らも兵として出港したのかもしれません。
だから、古代の社は外海を向いていると、私は思います。


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# by tizudesiru | 2019-05-19 00:13 | 350九州神社の旅 | Trackback

志賀海神社の元宮が外海を向いていたのは何故か

平成最後の「山誉め祭り」(福岡市東区志賀島の志賀海神社)に行きました。4月15日のことです。既に令和になりましたが、平成最後の祭だと思っていきました。報告します。
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祭りは厳かですが、楽し気な雰囲気でした。
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祭りの後、志賀海神社の元宮を訪ねました。元宮は博多湾側ではなく、玄界灘側にあり外海を見ているのです。博多湾側に社が移ったのは、外海に出る仕事がなくなったためか、政治的な意味があるのでしょうか。地図上のピンクのポイントが沖津宮です。港の近くの水色のポイントが現在の志賀海神社です。
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沖津宮は勝馬にあります。海岸からこの少し離れた海の中です。この沖津宮と向き合っているのが中津宮で、ここは古墳になっています。この被葬者は海に関わりのある人だったのでしょう。海に突き出た岬の墓ですから。
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そして、辺津宮は中津宮とほとんど並んでいます。数年前に社は朽ちてしまい、その址だけが残されています。が、地域の人のお祀りは続いています。
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辺津宮はとても分かりにくいです。海辺の林に踏み分け路が続き、清められた空間があります。
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今は、ほんの少しの人だけが知っている聖地です。
元宮を訪ねて思うのですが、「安曇」は日本中に地名が広がりました。
魚を取って生業を立てるのであれば、博多湾側で神祭りをするでしょう。
しかし、元宮は外海を見ているのです。
神功皇后が安曇磯羅を呼び出したのは、渡海するためでした。航海技術があったのでしょう。
そうして、全国に地名が伝わった。さすれば、勝馬のどこかから船出したのでしょうか。
やはり、元宮の辺りでしょうね。
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此の浜辺は小舟を引き上げるにはいいかも知れません。奥に沖津宮が見えます。
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山誉め祭りで「君が代」と同じ言葉を今年も聞きました。毎回、不思議な感じがします。では、また。


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# by tizudesiru | 2019-05-18 01:37 | 350九州神社の旅 | Trackback

690年の紀伊国行幸で持統天皇は有間皇子の霊魂に対面した

元号が令和に代わって早くも11日が経ちました。今日に続く元号が初めて建てられた(建元という)のは、文武天皇五年・701年3月です。大宝」から慶雲・和銅・霊亀・養老・神亀・天平…と元号は改められて(改元という)きました。建元と改元は違うのです。

文武天皇は十五歳で即位していましたから、文武天皇五年=大宝元年(701年)には二十歳になっています。この年に、藤原宮子との間に首(おびと)皇子も生まれました。
大宝元年、都ではお祝いの連続だったでしょうね。更に、

大宝元年は、3月に大宝令が施行された記念すべき年でした。
律」が加わり「大宝律令」が成るのは、8月のことです。

大宝元年とは、大きな節目の年だったのです。
太上天皇に支えられて政治を行ってきた文武天皇も青年期を迎え、「大宝」と建元し、律令による政治を始動させました。太上天皇(持統天皇)としてはどんなにか喜ばしい年だったでしょう。
しかし、ほっとしている暇はありません。祖母として太上天皇として、孫の帝に伝えなければならないことがまだまだありました。そこで
大宝元年9月から10月にかけて、紀伊國行幸が敢行されました。
紀伊国行幸は持統太上天皇の望みで「敢行=あえて行われた」と思います。

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それにしても、紀伊国とは。そこは持統天皇にとって如何なる意味のある場所なのか。

紀伊国の白浜海岸は古代でも有名な観光地で、そこに牟婁温泉がありますが、有間皇子が牟婁温泉に護送された事件は紀伊国で起こりました。
天智天皇が孝徳天皇の長子である有間皇子を陥れ、命を奪った土地でありましたから、その卑怯な手口は長く難波宮の官人の口に上ったことでしょう。
そのため、天智天皇は間人皇后(孝徳天皇の皇后)に渡っていた「皇位継承の玉璽」を奪えず、難波宮にも近づけず、斉明帝が崩御しても長く即位できませんでした。

間人皇后が薨去して初めて天智帝が即位できた」という事実を、難波宮の官人も持統天皇も藤原氏も忘れてはいません。ですから、有間皇子事件は多くの官人にとっても触れたくない事件だったでしょう。
しかし、持統天皇は紀伊国行幸を敢行します。それはなぜか。
実は、大宝元年の紀伊国行幸の意味を解くカギは、690年の紀伊国行幸にあるのです。
701年、文武天皇と持統太上天皇はなぜ紀伊国に御幸したのかを解くカギです。

万葉集には「紀伊国行幸」は、690年と701年の二回敢行され、歌が残されています。
690年は、持統天皇にとって正念場、大変な年でした。
持統三年(689年)三月、草壁皇子が薨去
しました。
持統天皇の一人息子が亡くなったのです。
日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)と諡(おくりな)されたとおり、草壁皇子こそ極位に上ってほしいと持統天皇が望んだ人でした。
その皇子が薨去したのですから、持統四年一月に持統帝即位となり、七月に高市皇子を太政大臣、多治比嶋を右大臣に任命しました。
その後、9月に紀伊国行幸の敢行なのです。何を思っての旅だったのでしょうか。
そこで詠まれたのは、なんと有間皇子をしのぶ歌でした。
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川嶋皇子・長忌寸意吉麻呂が歌を献上しています。
持統四年(690年)、持統天皇は紀伊国に行幸し、有間皇子の所縁の地を訪ねているのです。そこで、従駕の者に歌を詠ませたのでした。
その中に川嶋皇子の歌があります。
「紀伊国に幸す時の御作歌」ですから公の場での詠歌です。
公の場で、有間皇子ゆかりの結松を詠みました。川嶋皇子は有間皇子事件の時はまだ生まれていません。彼は事件を知らないのです。
しかし、敢えて歌を詠んだのには、それなりの理由と意味があるはずです。


持統四年(690)の持統天皇には、強い決意がありました。
如何なることがあっても孫の軽皇子(草壁皇子の長子)を大王に育てなければならない。
今を乗り切るために、行政のトップは高市皇子に任せる以外ない。
そんな時に、有間皇子をしのぶ歌を詠んだのです。有間皇子の霊魂を鎮めて、何を願ったのでしょうか。
この行幸が、次の701年の紀伊国行幸の下地となるのです。


今度の火曜日、下記のようなことをお話ししたいと思います。
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有間皇子はなぜ殺されたのか。
有間皇子の自傷歌はなぜ『挽歌』に編集されたのか。

5月14日(火)の「筑紫古代文化研究会」(福岡市天神・光ビル)では、有間皇子の話と「690年の紀伊行幸」の話をする予定です。(「701年の紀伊国行幸」は、次にまわします。5月の4週(火)の予定です。)

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写真は和歌山県の11月の白崎。
その名の通り石灰岩の岬です。ここで詠まれた万葉集・巻九の歌。

1668 白崎者 幸在待 大船尓 真梶繁貫 又将顧 (原文)
1668 白崎は幸く在り待て 大船に真梶しじぬき 又かへりみむ (読み)
この歌が詠まれたのは、「大宝二年辛丑冬十月」でした。
この歌については、四週の「紀伊国行幸十三首」で話したいと思います。

上の写真は、白崎で11月に取ったものです。旧暦の冬十月は、今日では11月終わりから12月初めのころです。
1300年昔の白崎も、この写真のように海も空も青く晴れ挙げったいたのでしょうか。


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では、又、お会いしましょう。


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# by tizudesiru | 2019-05-12 11:24 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

神籠石系古代山城の築造時期の問題提起

元号の「平成」が「令和」に代わり、国内には新しいことが起きそうな期待感が高まっていますが、古代史の世界は残念なことが連続しています。
近畿の巨大古墳群が世界遺産に登録されることを目指すそうです。
あの古墳群が5世紀の王権の証明とでもいうのでしょうか。5世紀と言いたい、そのように5世紀であって欲しい、それは願望としては理解できます。しかし、史実としてはどうでしょうか
大化改新(645年)まで、豪族を抑えきれていなかった近畿です。戸籍も持たない、行政区もなかった、経済的に力を持った豪族が権力を握っていたと思われる地域です。そこで、中国の中央集権国家に倣って、新しい国家像を求めて蘇我氏を滅ぼしたのです。
統一政権=王権の確立は、まだなかったのです。
阿毎多利思北孤が畿内に居たのなら、行政区があり組織があり戸籍があって税もあり、王宮も王妃も後宮も皇太子もいたのですから、「大化改新」をする必要はありません。
何にもなかったから留学生が帰国した後に中央集権国家を目指そうと、彼ら学者と若者が軽皇子(孝徳天皇)を中心に集まったのです。

日本書紀と隋書を読めば、自明のことです。アメノタリシホコは阿蘇山のある九州に居たのです。王権はそこに成立していた。ですから、大化改新の前に近畿王権が確立していたはずはありません。推古天皇は女性ですし、タリシホコではありえません。

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アメノタリシホコは佛教で国を教化しようとしていました。それを見た蘇我氏も物部氏も仏教とその文化にあこがれました。しかし、近畿に仏教を入れるには抵抗勢力が強かったのです。蘇我氏が私的に仏教を保護したのもそのためでした。
やがて、蘇我氏と物部氏は交易の利権を巡って対立し、蘇我氏が勝利しました。
そこで、蘇我氏は物部氏の莫大な土地と財産を奪いました。大阪市の上町台地の大阪城辺りには、古代の難波堀江がありました。そこは古代の流通の拠点だったのです。そして、その辺りは物部氏の私有地だったでしょう。

蘇我物部戦争に敗北した物部氏はすべてを失い、難波堀江辺りは蘇我氏の土地となりました。
が、ほどなく上町台地の一等地は、乙巳の変(645)で蘇我氏本家を滅ぼした孝徳帝の所有地となったのです。ですから、そこに難波名柄豊崎宮は造営されました。


単純な恐ろしい話です。政変のたびに莫大な財産の所有者が変わるのです。
孝徳天皇は理想に向かって難波宮を造営しました。しかし、律令を持たなかったので「詔勅」で政治を行いました。命令系統が整ってなかったのです。その痕跡もなかったので、過去の権力の組織を再利用することもできませんでした。ゼロからの出発でした。

何にもなかったのです。そして、そこには過去の大型古墳があった?
不自然で、違和感がありすぎです。王権の古墳ではないでしょう。
 
6世紀の半ば過ぎから7世紀初めにかけて、国内の流通が一変しました。その経済力をバックに大きな威信物を希望した新興豪族が作ったと考えることは出来ます。

以上、「古代史の残念」について一言書きました。
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令和元年、最初の投稿ですが、カテゴリ「363神籠石が歴史論争から外され‥」につながる内容になります。
古代山城についての昨今の動き・見解には、驚きあきれます。理解できない説が文化庁の説をはじめ諸説が横行しています。
「古代山城として朝鮮式山城が白村江敗戦後に造られ、その後、交通の発展に伴い神籠石系山城が作られた。唐・新羅に対しての防御の意味で造られたので、神籠石系山城は見せかけの山城で建物も何も作られなかった。ハリボテのようなものだった」
そうでしょうか。これまで、九州の地方自治体がコツコツと積み上げて来た研究はどうなるのでしょう。まるで、地方をないがしろにした言葉だけの説です。

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そこで思い出しました。今年三月の「善一田古墳と古代筑紫の世界」シンポジウムのスライドです。安閑紀の屯倉の位置を示した地図に、朝鮮式山城と神籠石系山城が一緒に示されていました。
すると、古代山城は安閑紀の屯倉(磐井の乱後の全国に造られた)と時期がリンクするのですね。

文化庁の見解とはぜんぜん食い違いますね。白村江敗戦よりも100年以上早くなりますから。文化庁は8世紀とか書いていましたからね。150年も時間差ができるわけです。
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2005年(平成17年)4月12日の読売新聞です。
少しアップします。
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6世紀後半から7世紀前半に造られていた可能性とあります。
私たちは自分たちに都合のいい情報で歴史を処理してはいけないと思います。説はいろいろでしょう。
しかし、経済効果や町おこしという目的で歴史を扱ってはいけないと思います。

歴史は個人や一地域のものではないと思うし、未来の人々に真実を見つけるチャンスを残したいと思います。
ではまた、明日。


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# by tizudesiru | 2019-05-11 21:53 | 363神籠石が歴史論争から外され、更に・ | Trackback

「平成」最後の日に「令和」の弥栄を願う

今日は平成最後の日になりました。
歴代の天皇の中でも国民に寄り添うことを願われたのは今上天皇でした。多くの国民に直接声をかけられた今上天皇が退位されました。平和な時代がこれからも続きますように。
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それにしても、次が「令和」という元号であると発表されたことには驚きました。
「令和」が万葉集・巻五の「梅花歌卅二首幷序」から採用されたと聞いて、更にびっくりしました。

確かに、大宰府の大伴旅人の館で催された正月儀式「梅花の宴」は華やかな宴会で、三十二首の梅を詠んだ歌会です。天平二年正月十三日無官の者から高官の大弐紀卿までが一同に会して「梅花の歌を詠む」という前代未聞の催し事でした。
遥かに離れた都にもその事は伝わり、噂を聞いて宮中はおどろきました。
それまでの都の正月儀式は一月七日の「白馬節会(あおうまのせちえ)」、十七日頃の「射礼(じゃらい)」などで優雅な歌を詠むなどという正月儀式はなかったのです。

同じ年三月に、聖武天皇は宴を開きました。『天皇松林宮に宴を催す。文章生「曲水の詩」を賦す』とあります。旅人が行ったような優雅な儀式をやりたかったのです。
しかし、前年の長屋王事件の後遺症はまだまだ残っていて、皇后に立った光明子は苦しみ続けていました。宴どころではなかったでしょう。

都では、長屋王事件の後にあらぬ噂が流れ、人々は混乱していました。
それなのに、大宰府では優雅な儀式をしていた…違和感があります。
なぜ、大伴旅人は「梅花の宴」をしたのでしょう。そこが重要です。その旅人の意図を解く鍵は、「梅花の宴」の序文にあるのです。

初春の令月にして、気淑く風和ぐ

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令月の「令」は、漢字本来は「おきて・法律」などのように『神の言葉を以って命ずる』という意味だったのです。後に、それが敬称として用いられるようになりました。今日、ご令息・ご令嬢などと使います。同じように「令月」=よい月 となりましょう。
しかし、もう一つの令月「陰暦二月の別名を忘れてはなりません。
旅人は正月(初春)の十三日に『令月』を使いました。「正月はよい月」という意味ではなく、「陰暦二月」として旅人は使ったのです。正月に「二月を意味する」のはおかしな話です。
二月…長屋王事件は前年の神亀六年の二月に起こりました。
旅人は神亀六年二月に薨去した長屋王を偲んだのです…「天平」に改元されたのは半年後の八月でした。神亀から天平(天が反逆者を倒し平らげたの意味)に改元されました。
つまり、天平二年は「天平に改元されて初めての正月』です。
旅人は大宰府で長屋王を偲び続けていたのです、おくびにも出さずに。

梅花の宴

そこにあるのは、前年二月に謀反のかどで死に追い込まれた長屋王への追悼の思いでした。九州の古代王権が行っていた正月儀式を、高市皇子の長子である長屋王の霊魂を鎮めるために再現したのです。そうして、九州に所縁のある長屋王を偲んだと、そうとしか思えません。


そもそも、「梅花歌卅二首」は万葉集・巻五置かれているのです。
巻五の冒頭歌は、旅人の名歌「絶望と怒りの歌」、『大宰帥大伴卿、凶問に報ふる歌一首』からはじまるります。その793番歌、

よのなかは 空しきものと しるときし いよよますます かなしかりけり


この歌の強さ「悲しかりけり」と感情を率直に述べながら、深く「世の中は空しきもの」と述懐する歌、このような歌はこれまでに有りませんでした。その歌の表現の新しさに、編者が感動したかもしれません。それで、冒頭に持って来た・・・
いえいえ、そうではなく、巻五には編者の思いがあふれています。
次に794番歌として、続くのは山上憶良の歌。旅人の妻への挽歌『日本挽歌』なのです。巻五はほとんど、挽歌と雑歌がないまぜ状態ですね。
憶良の「貧窮問答歌」も巻五です。巻五は、冒頭から最後まで重く悲しい歌が連続しています。(巻五の最後は、憶良の「死亡した我が子・古日を恋うる歌」なのですよ)

これで、巻五がどのような意図で編集されたか想像に難くないでしょう。「梅花歌三十二首」は、巻五に掲載されています。それが、重く沈む歌群の中に異彩を放っているのです。


少し長くなりました。
長屋王事件について、少しスライドで補足しました。
旅人については、このブログ「大伴旅人、水城にて乙女と別れの歌をかわす
に詳しく書いています。読んでみてください。

令和の弥栄を祈らずにはおれません。
大伴旅人も柿本人麻呂も、自分がどんなに苦しい立場に追い込まれても、人生が終わろうとしていても、世を寿ぎ世の弥栄を願う歌を詠みました。それは歌人として、言霊を信じる歌人として、当然のことだったのでしょうか。

敷島の倭の国は言霊のたすくる国ぞ真福(まさきく)在りこそ  (人麻呂)
新しき年の始めのはつはるの きょうふる雪の いやしけよごと (家持)

では、令和の佳き日にお会いしましょう。
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# by tizudesiru | 2019-04-30 12:47 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

那珂川の河内にある乙子神社

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乙子(おとご)神社は、福岡県那珂川町に在ります。昔から気になっていた神社です。
福岡市の二か所の住吉神社(名神大社)の延長線上にあるからです。更に、福岡市の飯盛山(旧平群村の神山)の日の出のライン上に在ります。飯盛山山頂ー荒平山山頂ー乙子神社とラインで結ばれます。
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どんな神社なのだろうと思っていました。さて、参拝しようと歩き出したら、地元の人に呼び止められました。「女人禁制の祠があるから、そこには行かないで」と言われます。
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それは、大変な禁忌です。「大丈夫、そこには行きません」
女人禁制の社殿は、本殿の横の階段を上った上宮でした。
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若い女性とか、家族に不幸があった人とか、参拝できない神社は、時々聞きますが、女性は上がれない社は珍しいですね。
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ここは背振の修験道に関係深い神社のようです。神社の近くを流れているのは、那珂川です。
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乙子神社がある辺りは、面白い地名が集まっています。
という
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京の隈という地名なのです。
ブログ「宮原誠一の神社見聞録」で宮原さんは、面白いこと書いていましたね。
那珂川町の此の辺りは、昔は河内という地名だったと老人が言われたらしいです。
そして、ここには高津神社があるのです。
おや、「河内・高津・京」が揃って、なんだか意味深だというのです。
では高津神社に参詣しましょう。
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ご神体は磐座のようです。
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高津神社の由緒は消されていたのか、消してあったのか、分かりません。ただ、元寇のころ、ここに岩門城があったのです。たぶん、那珂川の水量も多く、船が奥まで入り込めたのでしょう。攻めるにも守るにも良い場所だったのです。そして、博多湾まで見渡せたということです。
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高津神社の辺りが古代の神祭りの場であることはよく分かりました。しかし、神祀りをした場所は分かったけど、古代の支配者は何処に住んだのでしょう。宮原さんは「伏見宮」の辺りに住んだはずだと云われました。
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伏見宮は確かに那珂川のほとりにあります。交通の利便性のいいところに在りました。
伏見宮から川へ降りる階段があり、昔から利用されていたと思います。
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伏見宮の千木を見ると「平切り」になっていますから、女性神なのです。
「伏見宮」は「‥宮」ですから、この神社は、ここが発生の地だということになりますね。「伏見」とは「伏し身」なのでしょうか、気になりますね。
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神楽面からすると、天鈿女命と豊姫命が主祭神でしょうか。
那珂川には面白い所がたくさんあります。
神功皇后伝承の裂田の溝もありますからね。古代から神祭りの重要な場所だったのです。
では、また。

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# by tizudesiru | 2019-04-28 17:11 | 350九州神社の旅 | Trackback

卑弥呼が九州から消える日・縄文から始まる

とうとうその日が来るのですか。誤解から始まった邪馬台国近畿説が、国家の歴史として決定される日が。何と恐ろしい! 真実がみえなくなり、歴史はゆがみます。

箸墓が卑弥呼の墓だという信じられない説を一般化した畿内説学者は、文献や考古資料では「邪馬台国九州説を撲滅することは出来ない」と知っています。
「文献では邪馬台国は読めないから、読まない。」と言い出して半世紀以上が経ちました。
(文献で読むと九州説が有力だからです)
それで、考古資料で邪馬台国を探すとして、40年の長きにわたり奈良を掘り続けたのに、頼りの纏向遺跡ですら時期が怪しくなってきました。残念ながら。
そこで、登場したのが東北・関東の見事な縄文遺物でした。
長い縄文、短い弥生、そして、怒涛の如く古墳時代に突入する東国。「その状況が近畿と似ている」 として、ここに目が付けられました。

分かりますか? 豊かな東国の縄文文化と融合して畿内の弥生は花開き、卑弥呼の神祭りが生れた、と展開するのです。畿内で卑弥呼は生まれたとするのです。
身震いがします。
確かに東国・東北の縄文文化は素晴らしい。
その基礎があったから稲作が入り、古墳文化が怒涛のように入っても、消化し古墳文化を花開かせたのです。
明治の日本と同じです。江戸時代の寺子屋教育が浸透し国民が学問をしていたから、明治の教育は浸透し、近代国家へと移行できました。
文化の浸透⇒近代的国家は、基礎教育があったからこそ可能だったのです。
同じことが言えます。豊かな縄文があったからこそ、弥生と古墳文化が素早く入り込んだのです。もちろん、畿内にも基礎があったのです。
そこへ、九州の弥生後期の文化・更に古墳文化が入って、王権が誕生したのです。


令和元年に合わせて、いよいよ始まりました。あちこちで話をしてきました『縄文ブームは卑弥呼畿内説の準備である」と。
ついに「邪馬台国九州説」をつぶす時期だと考えたのですね、当局は。
このままでいいのですか?

昨年2018年の夏、

東京国博で「縄文展」開催され、噂の縄文のビーナスが展示された。 周囲では、ビーナスが揃う機会はめったにないから見に行ったという話が流れていた。
私は見に行くつもりはなかった。

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本当に縄文の土偶だろうか、という思いと、急な縄文ブームにいささかの疑問を感じていたからです。なぜ、縄文が急に脚光を浴びるようになったのか。

当局の意図は、素人の私にも分かりました。準備のための印刷物が出回っていました。
図版・図録・パンフ・すべて、当局の物は同じ方向を向いています。
ですから、素人にも分かりやすいのです。


(写真は縄文展の図録をデジカメで撮ったものです)
貴方は、この写真を見て不思議に思いませんか?
私は縄文のビーナスに対して非常に違和感を覚えていました。


「土偶は不思議だ。大量に発見されているのに、完品はない。体の一部が必ず失われている。それは病気などで体の悪い所を治すためのまじないの為らしい。遮光土器もあれもまじないの一種だろうか」という話は昔からありました。

土偶の前面に付けられた文様が深い祈りと結びついていたと、私はそう思っていましたから、文様がほとんど彫り込まれていない、然も、土偶として割損部のないビーナスを『縄文土器』として認識するのに抵抗がありました。
青森の飛行場で売っていた土産物の遮光土器も片足が欠けていたし・・・文様に覆われた完品ではない土偶が「土偶」の本来の姿ではないでしょうか。

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遮光土器には文様の窪みに朱が残っていますから、本来は赤い色が塗られていたのです。そうしてみると、ビーナスには朱の後は有りません。高温で焼しめられた土の肌は黒光りさえしています。
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はっきり言えば、焼成温度が高いのです。そういう技術があった時期のものです。
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形の完璧さからして、時期が古くは有りません。
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見事な造形美を堪能できます。しかし、文化のレベルは古式ではありません。
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それにしても高い芸術性と焼成技術が備わっています。
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群馬県藤岡市の博物館の耳飾りを見ても、細かな細工が壊れていません。完形で風化もほとんどありません。これは、焼成温度が高く、製作技術も工具も充実していた証拠です。簡単なことです。いわゆる縄文時代とはいえ、新しいのです。長く縄文が続き熟成していた証拠です。
そこへ、九州の文化が入って来た。古墳時代になって更に色濃く九州の文化が入って来た、のです。
畿内王権が入って来た時、戸籍や行政区などの基礎ができていたから、たやすく統治できたのです。関東の文化は、九州の影響を色濃く受けています。

そんな分析は抜きで、畿内と東国を結びつけた。
その作業が続いていましたが、いよいよその路線が国民に向かって披露される。
日本の歴史の書き換えと上塗りが始まるのです。

その情報発信に駆り出されているのは、NHKです。最近のNHKには、公平さが無くなりました。もともと公平ではなかったけれど。小泉政権の頃から極端になったと思いますが。
当局に都合のいいところだけ放送する。国民の目と耳を一定の方向にもっていく、朝飯前の仕事です。


今日は、心からがっかりしたので、ブログを書きました。
先ほど、
「水曜日の『英雄たちの選択』は縄文だったよ。近畿の縄文は長くゆっくり続いたんだって」と、一言聞きました。
私は出かけていたので、そのTVを見ていません。


かねてより危惧していた事態が、いよいよ現実になると思いました。
若者も老人も「令和で新しいことが起こる」と期待しています。
そこへ、この「九州説つぶし」の激震が用意されているのです。
そう思ったのは、私だけでしょうか。これを読んで、あなたはどう思いましたか。


このような事態にならないようにと、私は願っています。どうぞ、的外れでありますようにと。TVの再放送を見て、再度かんがえるつもりです。では。


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# by tizudesiru | 2019-04-27 16:08 | 365令和元年・卑弥呼が九州から消える | Trackback

令和元年・万葉集を読む in 西原村

歴史カフェ阿蘇「令和元年、万葉集を読む」は、明日です。
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今回は、万葉集の編集についてのお話です。
万葉集は、誰が何のために編纂編集させたのか。
もちろん、持統天皇が人麻呂に編集を詔したのですが。
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持統天皇が孫の軽皇子を即位させるには困難がありました。
軽皇子には多くのライバルがいました。天武天皇の皇子達です。
そして、皇位継承者選びや方法に問題があったのです。
それをクリアするには、皇位継承の正統性を主張する必要がありました。
・・・・万葉集で読み解きましょう。

では、熊本の西原村でお会いしましょう。場所は、西原村萌の里の近く、平田庵というソバ屋さんの隣です。
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では、明日。

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# by tizudesiru | 2019-04-23 22:55 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

継体天皇御一家の悲劇は起きたのか

継体紀に、恐ろしく悲しい「結婚初夜」の歌があります。
それは、継体天皇の長子・勾大兄(まがりのおおえ)皇子=安閑天皇の結婚初夜の歌です。
八洲(やしま)国では妻を娶ることができなかったので、春日の国で美しい女性がいると聞いて妻にしたというのですが・‥読んでみてください。

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美しい妻を迎えたのに、何とかしようとしたのに、何もことが起こらないうちに夜が明けてしまった…という結婚初夜の歌なのです。
勾大兄皇子に何があったのでしょう。この事態に、妻となった春日山田皇女も困惑しました。
そこで、皇女は歌で答えました。

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「やすみしし我が大君が着けていらっしゃる、細かい模様の御帯が結び垂れ、誰もがみな声を出して賛嘆しています」と訳文がつけれれていますが、賛嘆、それはないでしょう。
勾大兄皇子の御帯は垂れているのです。これは暗喩です。何を暗喩しているか、言わずもがな。勾大兄皇子は結婚初夜を悲しい結果に終わらせたのです。
それを責めなかったのか、嘆いたのか、春日山田皇女は「御帯の結び垂れ」と表現しました。


二人になぜこんな悲しい結果が訪れたのか、そこが問題です。
勾大兄皇子=安閑天皇には、子どもがいません。ほかの女生徒の間にも子どもをもうけることができなかったのでした。
それはなぜか。わたしにも不思議でした。
その事に、一つの答えを示唆してくれた本を紹介します。わたしには考えても見ないことがかかれていましたので。

『不実考』続外道まんだら (徳永裕二 著) 不知火書房(出版社)
「継体天皇が皇統を継ぐに相応しい人物であることを武威や血統によってではなく信仰上において他の皇族・豪族等に納得させるためには、かっての古代首長の表徴として抜箭信仰を保持していることを示すことである。つまり継体自らは抜箭することはなかったにせよ、長子の安閑には抜箭を施したとみられる。あたかも、『旧約聖書』創世記で父・アブラハムが庶兄・イシュマエルと嫡男・イサクに割礼(ベリトミラフ)を施したように。なお、割礼は抜箭の擬きである。

信仰とは、言い難く恐ろしいものではあります。継体天皇が自分の長子を犠牲にして、権力を手に入れたという展開は、恐ろしくも実感がありました。

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ではまた。


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# by tizudesiru | 2019-04-21 22:17 | 361 六世紀の筑後に王権があったのか | Trackback

継体天皇御一家の悲劇は起きたのか

後、二週間しないうちに元号が令和に変わります。今日まで使われている元号は、701年・文武天皇5年の「大宝」からで、以来切れ間なく続いてきました。
巷では「では、大宝までは元号がなかったのか」という問題が議論されてきました。
法隆寺の釈迦三尊像の光背には「法興」という元号が彫られています。飛鳥時代の金文ですから、その意味は大きいのです。
元号を決めることができるのは天子のみですから、元号があったとしたら「天子」という最高権力者が居たということにもなりましょう。自称「天子」だとしても、その人物は一定の領土を治め、人民の戸籍を握り税を取り、役人を任命し、律と令で政治を行っていたことになります。当然、歴史書を作ろうとしたでしょうし、文化や経済の振興にも力を入れたでしょう。
そういう人物でなければ、天子とは言えません。

隋書に見える『日いずる処の天子』は存在したのです。中国の史書が日本のためにでたらめを書く意味・必要は有りません。
隋書に書かれていることは、事実です。しかし、日本書紀と食い違います。

日本書紀は推古天皇ですから、アメノタリシホコは出て来ないのです。では、彼は何処にいたのか?

阿蘇山のある地域に居たに違いありません。彼は、6世紀末から7世紀初頭の人です。
600年(髄の開皇二十年)に、タリシホコは遣隋使船を出しました。
その頃は、天である兄・タリシホコが夜の明けないうちに政治を行い、夜が明けると政務を取りやめ、あとは弟の太陽に任せるという、道理のない状況でした。
隋の煬帝がその理不尽な状況を変えさせました。隋書には「俀国を諭してこれを改めさせた」とあります。
ますます、日本書紀の王権とは食い違います。

更に、俀国の場所は九州の熊本を含んだ地域でありました。
「阿蘇山あり。その石ゆえなくして火起こり、天に接する者(こと)あり、俗、以って異となし、因って禱祭(とうさい)を行う。」
この文面からも俀国の位置が想定できます。
阿蘇山が突然噴火するので、人々が異変だとして祈り祀っているというのですから。
まさか、関係ない地域のことは書きません。

隋の使者は阿蘇山を見たのでしょう。七世紀初めの俀国には使者が来たのですから。
では、俀国は何時生まれ、その後どうなったのでしょう。六世紀半ば以降には俀国は確実にあったのです。

行政区(軍尼・稲置・八十戸)を持っていた隋書の俀国。王宮も後宮もあったし、皇太子も居た。天子は男性。
内官(中央の役人)には十二等あった。大徳・小徳・大仁・小仁・大義・小義・大礼・小礼・大智・小智・大信・小信 の十二等。
俀国には、
戸籍・行政区があり、役人もいて、タリシホコは仏教によって国政を運営したいと思っていたのです。
(ちなみに、聖徳太子の官位十二階は、徳・仁・礼・信・義・智の順に大小が付きます。)
近畿の王権にここまで行政組織が整っていたのなら、『大化改新』の必要はありません。
大化改新が必要だったのは、国の行政組織が不十分で、権力が各豪族に拡散していたからでしょう。やはり、タリシホコの国は近畿ではありません。

しかし、歴史書では近畿に聖徳太子が居たことになっています。
八世紀の日本国には、「聖徳太子は九州ではなく近畿にいた」という歴史が必要だったのです。新しい国でしたから、古い長い歴史が必要だった。
または、倭国の一部が近畿で王権を樹立し、祖先の歴史を九州から移動させた…

もともと列島は一つの国だったと、書紀は真実を曲げる必要があったのです。
しかし、それは無理です。新唐書は「日本」ですが、旧唐書には「倭国」があるではありませんか。両者はもともと別国だったと書かれているのです。
それでも、日本書紀が事実を曲げたので、あちこちにヒズミが出ているのです。

「倭国と日本は元々一つの国だった」を主張した日本書紀は、罪深い史書ではありますが、倭国の歴史も取り込んでいるので、あちこちに齟齬は有りますが、重要な語り部でもあるのです。過去を探査するための資料でもあるのです。


そうなると、磐井の乱は「磐井の反乱」ではありません。反乱を起こしたのは、オホド王(継体天皇)側ではありませんか。

磐井が滅びて、六世紀は大事な変わり目となりました。
六世紀のはじめ、書紀によると北部九州で「磐井の乱」という内乱が起りました。その後、屯倉が置かれ始め、そうして、列島各地が活気づいたというが定説です。


また、各地に屯倉が置かれたのは、近畿の王権の進出を意味すると歴史家がいわれますが。
それにしても、
日本書紀の継体紀をそのまま読めば「長門より西は、汝が統治せよ」と、継体天皇が言ったことになっていますから、磐井の乱後に長門より西を支配したのは物部麁鹿火となります。
磐井の乱後、物部政権が北部九州を支配した、それが近畿の王権だというのです。
では、磐井の乱後の九州の屯倉の位置を見ましょう。
安閑紀ですから、継体天皇の息子の時代になります。磐井の乱の後で6世紀前半~半ばです。

6世紀・安閑紀につくられた九州の屯倉の位置を①➁③④⑤⑥⑦⑧とおさえて見ました。「糟谷」という文字のポイントは、磐井の息子・葛子が献上したという「糟谷屯倉」です。こうしてみると、①~⑦までの屯倉はなぜか北九州に偏っています。⑧は熊本県の熊本市辺りです。ここは、いきなり離れています。

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(黄色のポイントは、神籠石系山城の位置です)

①~⑧は、滅びた豪族の領地だったので没収したということでしょう。
つまり、そこは筑紫君磐井の領地だった…しかし、岩戸山古墳のある辺りは無傷だから、その本拠地は手放していない、となります。
屯倉が豊前と筑前のに一部に集中しているのは、逆にそこまで磐井が入り込んでいた証拠…風土記によれば、「磐井は豊前の山中に入り込んで行方不明になった」ですから、豊前との関係が深かった証拠にもなります。

磐井の乱とは何だったのか、歴史的にまだはっきりしていません。
しかし、筑紫君磐井の子・葛子が父に連座することを畏れて糟屋屯倉を献上したと、書紀に有ります。葛子の領地が削られたのは事実でしょう。
発掘された糟屋の屯倉は、新宮町の辺りで遺構も発掘されている、というのです。
こうして、継体天皇の王朝は確立したかに見えますが、そうでもなかった…

此処で、日本書紀の不思議な記述に出くわします。継体天皇の崩御の記述です。
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辛亥年(531年)、磐井を倒したという継体天皇とその一家に何が起こったようです。
『日本の天皇と太子・皇子、倶に崩薨りますと聞けり』という百済本記の記述は事実でしょう。一家そろって死亡するのは異常事態です。

筑紫君磐井を滅ぼしたという継体天皇、その王朝も滅びたかも知れない、ということです。これは…どうなっているのでしょう。安閑天皇は、継体天皇の子どもですが、書紀では父と共にに崩御されてはいません…が、天皇と皇后と天皇の妹を合葬したと記述が有ります。
次の宣化天皇紀でも、天皇と皇后とその児を合葬したと書かれています。

継体天皇の長子・安閑天皇と弟・宣化天皇は、どちらも家族と合葬になっているのです。
やはり、継体天皇の家族に何事かあったのでしょう。
これには、「宣化天皇は欽明天皇によって殺された説」も想定される、おかしな状況です。次の欽明天皇には合葬記事は有りません。次の敏達天皇も、馬子に殺された崇峻天皇にも。推古天皇は早くに薨去した児の竹田皇子との合葬を望みましたが。

また、日本書紀の安閑紀には、屯倉を置いた理由も書かれてています。
伊甚(いじみ)屯倉は、伊甚国造が皇后を驚かせたことの購いに献上されました。
このように罪の購いに献上させたものと、単に置かれたものです。他人の土地を勝手に屯倉にすることは出来ませんから、「置いた」と書かれた屯倉は磐井の乱後に没収された土地である可能性が大きいと思います。
政変があったからこそ、屯倉が置かれたなら尚更のことです。安閑二年の屯倉を書紀から拾ってみました。
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北部九州以外で「置かれた屯倉」の中で、阿波・紀・丹波・近江・尾張・上野・駿河は、大変意味深な地域です。6世紀の九州の倭国と関係深い地域だったからです。
これらの屯倉は、磐井の乱後に没収された土地に置かれた可能性があるでしょう。
安閑紀の屯倉設置状況を見ると、王権側からの要求で設置されているものがあり、豪族が渋ると「反抗だ」として処罰されています。つまり、屯倉は、他者の土地に置かれているのです。

やはり、没収した土地に屯倉が置かれたと思います。

安閑(広国押武金日)天皇には四人の妃がいますが、世継ぎがいませんでした。(子の無い天皇は何人か書紀に登場しますが、安閑天皇もその一人です)
そこで、天皇は世継ぎがいないので死後に名が忘れられることを嘆いて大臣に相談し、名を残すために屯倉が置かれるようになったというのです。
皇后・春日山田皇女(山田赤見皇女)を別にすれば、許勢男人の娘・狭手媛、その妹・香香有媛、物部木蓮子の娘・宅媛の名に関わる屯倉はないようです。


書紀は屯倉の設置理由をあいまいにしていますが、政変も何もないのに土地の所有者が急に変わることは考えられません。

安閑天皇には、まだまだ不思議な話がありますが、又、後日。


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# by tizudesiru | 2019-04-20 16:38 | 363神籠石が歴史論争から外され、更に・ | Trackback

歴史カフェ阿蘇「令和元年・万葉集を読む」

今年も、「歴史カフェ」を熊本県西原村でします。
今年は、5回計画しています。昨年はつめて4回やりましたが、今年は4月・5月・7月・8月・9月に予定しています。

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昨年の最終回に「次の歴史カフェは、万葉集です」とお知らせはしていましたが、みなさんあまり興味のある様子ではありませんでした。

元号が「令和」に変わりますので、万葉集に興味を持っていただいたかもしれません。今は、万葉集にしていてよかったと思ってます。

1回目のテーマは、「万葉集とはそもそも何のために誰が編纂編集したのか」、ということです。
もちろん、万葉集は柿本人麻呂の編集です。その為に、彼は刑死したのです。

その辺りをお話ししたいと思っています。

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内容を少し紹介します。

持統天皇は香久山を詠んで、文武天皇の皇統を示した

 巻一28番歌。これが、持統天皇の香具山の歌である。持統天皇は即位した後、何故香久山を詠んだのか、不思議である。持統天皇が高市皇子に造営させた藤原宮は、明らかに北に耳成山を取り込み、守りの山・象徴の山としている。28番歌は、持統帝が「香具山の皇統の世を寿いで詠んだ歌」ということになる。耳成山ではなく、香久山なのである。

28 春過ぎて夏来るらし 白妙の衣乾したり 天の香具山 
誰もが聞いたことがある持統天皇の御製歌であるが、この歌の解説を読むとなぜか頭の中がすっきりしない。「初夏の風の中に翻る真っ白い衣が、青々とした夏の香具山に映える様子を詠んだはつらつとした叙景歌」だという。『万葉集には叙景歌はほとんどなく、出来事や行事を詠んだ詩歌のほとんどが叙事詩である』といいながら、万葉学者は「春過ぎて」は叙景歌で『万葉集の中ではかなり異質の新しい作風である』というのである。いえいえ、この歌は叙景歌ではないと、わたしは思う。
この歌を詠んだ持統天皇は四五才過ぎの老婦人なのだから、はつらつとした歌を詠んだとしてもやや違和感は残る。持統天皇は壬申の乱・天武天皇の崩御・大津皇子謀反事件・息子草壁皇子の死・高市皇子の薨去などを乗り越えて即位した女帝である。やがては孫の軽皇子に譲位しなくてはならないという重責もあった。その女帝が、耳成山ではなく、藤原宮の東に位置する天の香具山を詠んだ。女帝と香久山、畝傍姫が何ゆえ香久山を詠んだのか。そこにあるのは、舒明・天智の皇統をつなぐのだという意思。それしかない。
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よかったらおいでください。熊本県西原村は、まだ熊本地震からの復興の途上にありますが、西原村で歴史カフェをしたいと思っています。

それから、個人的に4月は万葉集のお話が三回重なりました。

福岡市の百道パレスでは、九州古代史の会主催で「万葉集に見る倭国の痕跡」のお話をしました。もう、4月7日に済んでいます。忙しくて、お知らせしておりませんでした。

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次は、
4月23日(火)13時半~16時まで。筑紫古代史の会(天神・光ビル)で「万葉集と古代史・難波宮と間人皇后」のお話をする予定です。

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孝徳天皇の皇后だった間人皇后の波乱の半生を万葉集からと丹後半島の伝承から読み解きます。4月23日です。

ご興味のある方は、どうぞおいでください。
では、また、後日、お会いしましょう。



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# by tizudesiru | 2019-04-17 20:33 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

大伴卿の最後の日・初期万葉集が家持に渡る

大納言大伴旅人は、天平三年七月に没しました。
大宰府を離れたのは、天平二年の十二月でしたから、自宅に帰って半年後に薨去となったのでした。
万葉集には旅人の最後の歌が残されています。

三年辛未(かのとひつじ)に、大納言大伴卿、寧楽の家に在りて、故郷を思ふ歌二首

969 しましくも行きて見てしか神なびの淵は浅せにて瀬にかなるらむ
970 さすすみの来栖(くるす)の小野の萩の花散らむ時にし行て手向けむ


天平三年の秋七月二十五日、旅人は永眠しました。六十七才だったようです。
萩の花が詠まれていますから、詠歌の時は秋であり、病床にあったのでしょう。自分が生まれ育った故郷・明日香を懐かしんで詠んだものです。故郷の飛鳥の川の淵は、浅くなって瀬になっているのでなないだろうか、と。
あの懐かしい小野の萩の花を手向けたいものだと、旅人は詠んだのでした。


巻三には
「天平三年辛未秋七月大納言大伴卿薨の時歌六首」があります。余明軍の五首と県犬養宿祢人上の一首です。

454 はしきやし栄えし君の居ましせば 昨日も今日も吾を召さましを
455 かくのみにありけるものを萩の花咲てありやと問ひし君はも
456 君に恋 痛(いた)もすべなみ蘆鶴(あしたづ)の ねのみし泣かゆ朝夕にして
457 遠長く仕へむものと思へりし君にしまさねば こころどもなし
458 みどり子のはひたもとほり朝夕(あさよい)に ねのみぞ吾泣く君なしにして
 
459 見れどあかず居ましし君が紅葉(もみじば)の 移りいゆけば悲しくもあるか


旅人の薨去は、息子の家持にとって将に人生を変える出来事・大事件でした。父の永眠と共に「初期万葉集」が家持の手に渡りそれを読み理解し守る役目が回ってきたのですから。
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そもそも、万葉集は持統天皇の詔勅により柿本人麻呂が編纂編集したものだと、紹介してきました。孫の文武天皇に「皇統の正統性と歴史を伝えるための教科書」として、持統天皇が作らせたものであると。
それが持統天皇の遺詔となり、人麻呂は主人の思いに応えようと努力したのでした。
しかし、文武帝に進呈する前に、当の帝の崩御となったのです。
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人麻呂は母の元明天皇に献上しましたが、それが元明天皇の逆鱗に触れたのでした。万葉集には皇統の真実が記されていましたから、元明天皇には許しがたい内容でした。
天智天皇の娘として、草壁皇子の妃として、文武天皇の母として極位には着きましたが、天武天皇の皇子皇女があまた存在する中での即位でしたので、何かと臣下の動きが気になっていた時期でもあったのです。
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どこかに不安を抱えていた元明天皇。そこで、御名部皇女が支えます。
周囲も二人の堅い結びつきを疑いませんでした。
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天武朝と元明天皇を支え助けたのが、姉の御名部皇女です。御名部皇女は高市皇子の妃、薨去していたとはいえ太政大臣であった高市皇子の正室なのです。高市皇子は天武天皇の長子で、財力権力を掌握していた人でした。その絶大な財力も大きな支えとなったでしょう。

しかし、二人がこの世を去ると皇位を巡って政変が続きました。
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待っていたように政変が続いたのでした。 
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そうして、天武朝の皇統は消えていきました。
それが万葉集の時代です。その時代を目撃したのが、大伴家持。


こんな万葉集のお話をしようと計画しました。「令和元年・万葉集を読む」
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会場は、熊本県西原村・萌の里の近く、平田庵の隣です。昨年の「歴史カフェ・聖徳太子の謎」と同じ場所です。
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赤い道路が高森線のバイパスです。
宜しくお願いします。


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# by tizudesiru | 2019-04-15 00:49 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

大伴旅人・水城にて乙女と別れ歌を交わす

万葉集・巻五は、大伴旅人の絶望の歌ではじまります。
     大宰帥大伴卿、凶問に報(こた)ふる歌一首  
禍故(かこ)重畳し、凶問累集す。ひたぶるに崩心の悲しびを懐き、もはら断腸の涙を流す。ただ、両君の大助によりて、傾命(けいめい)をわずかに継げらくのみ。筆の言(こと)を尽くさぬは、古今歎くところ。
792 余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理
        神亀五年六月二十三日


妻を亡くしたばかりの旅人の所へ、京から悲しい知らせが届きました。そのとき詠んだのが
「大宰帥大伴卿、凶問に報ふる歌」です。

不幸が重なり、悪い知らせが続きます。ずっと崩心の悲しみに沈み、独り断腸の涙を流しています。ただただ、両君のこの上ないお力添えによって、いくばくもない余命をようやく繋ぎ留めているばかりです。<筆では言いたいことも充分尽くせないのは、昔も今も一様に嘆くところです>*訳文は、集英社「万葉集釋注」より

792 よのなかは むなしきものと しるときし いよよますます 悲しかりけり
        神亀五年六月二十三日

『かなしかりけり』とは、まあ見事な詠嘆です。この時代「悲しかりけり」と沈痛な悲しみを込めて述懐する歌は、万葉集中にはこれ以外にはない(「万葉集釋注」伊藤博)そうです。なるほど、万葉集・巻五の冒頭を飾る名歌です。更に「世の中は空しきもの」とは、仏教語の「世間虚仮」の翻案で万葉集中最初の用例だとか。

旅人の歌は当時の人には衝撃的に新しかったのでした。つまり、「世の中」を人麻呂も歌に読んでいないし、都の人もこの言葉を使ってはいなかったことになります。(その言葉が使われていた地域は筑紫ですね。そこには仏教が浸透し、仏教語が日常的に使われていたと、私はそう思います。早い時期に仏教が入っていた地域だと)
        

大伴旅人が大宰府に任ぜられたのは、六十三歳の時でした。時に、旅人は中納言、行政のトップは左大臣の長屋王でした。大宰府に赴任して間もなく妻の大伴郎女を亡くし、ほどなく悪い知らせを受けたのです。

更に、翌年の二月に長屋王事件が起きました。皇位継承権をもった長屋王の男子四人すべてが、長屋王と妃の吉備内親王とともに命を奪われました。誰が聞いてもおかしな事件でした。長屋王の四人の王子を抹殺したかった藤原氏が仕組んだ事件だと都の人々も思ったようです。事件後、都は怪しげな噂で混乱しました。

旅人は遠く大宰府にいて、どう思ったでしょう。
  神亀六年己巳、左大臣長屋王賜死の後に「膳部(かしはで)王を悲傷する歌一首」があります。巻三に、
442 世間は空しきものとあらむとぞ この照る月は満ちかけしける
     右一首、作者未詳 *膳部王は長屋王の長子でした。万葉集にも歌が掲載されています。

442番歌の作者は誰でしょう。長屋王やその王子達を知る人物で、身分も高かったはずです。更に、その名が知られると困る立場の人。そうでああれば、旅人をおいて他にないと思います。
旅人は大宰府に帥として下向していました。武人とはいえ、六十五近くの老人です。
旅人は、何より早く都に戻りたかったのです。
そんな人が、膳部王の悲劇を堂々と詠めたでしょうか。藤原氏に長屋王への同情が伝わってはなりません。せめて、名前は隠したと私は思いますが、旅人は心から無念だったのです。壬申の乱以来、大伴氏を取り立ててくれた天武朝に対する忠誠心からして、壬申の乱の英雄・高市皇子の長子である長屋王の受難を見過ごすことなどできなかったでしょう。
とはいえ、長屋王を断罪したのは聖武天皇です。

聖武天皇は我が子・基王(もといおう)が一歳で死亡したショックから、長屋王が呪詛したという讒言を信じたのでした。その事は旅人も知っていましたが、無念だったし、世の中は空しい=世間空=世間虚仮=世の無常 を感じたのです。 


こんな旅人が長屋王事件の翌年、天平では初めての正月に「梅花の宴」を執り行ったのでした。
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「時に初春の令月にして、気淑く風和ぐ」
折しも、初春の佳き月で、気は清く澄み渡り風は柔らかにそよいでいる…と旅人は書きました。
新春の『令月』の意味は何でしょう。ただ、「よい月」なのでしょうか。
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漢和辞典にあるように「のり、おきて、いいつけ、いましめ、法令の発布、命令する」でしょうか。『他人の親族への敬称』でしょうか…令嬢や令子、令夫、令主などのように「よい○○」という意味もありましょうが、「令月が陰暦の二月の別名」というのは、大変意味深です。
なぜなら、大伴旅人にとって「二月」は、前年に長屋王事件があった月だからです。
神亀六年二月に長屋王事件が起きました。そして、半年後の八月に「天平」に改元されました。天平二年は、改元されて初めての正月です。長屋王と親しく天武朝の忠臣だった大伴旅人が、この正月を穏やかな心で迎えたでしょうか。
そうは思えません。
旅人は長屋王事件を忘れてはいません。ただ、都へ帰るためには従順でなければなりません。
長屋王への同情などみじんも見せず、優雅に梅花の宴を開きました。それは、官人たちを感動させ、都までその噂は飛びました。人が追和するほどの反響だったのです。

だからこそ、旅人は大納言として都に呼び戻されました。
天平二年十二月、旅人は大宰府を発ちました。府のはずれ、水城の門まで来て「別れの儀式」をします。
都へ帰れる喜びと安堵感で、旅人は笑顔だったことでしょう。しかし、別れの儀式は静粛に行われました。
筑紫の乙女・児島が詠みます。
965 おおならばかもかもせむを かしこみとふりたき袖を 忍びてあるかも
966 倭路は雲隠りたり しかれども 我が振る袖を なめしともふな


965 貴方が並の方であったなら、別れに際して ああもしようこうもしよう思うのですが、恐れ多い方なので振りたい袖もふらずに忍んでおります。
966 あなたがお帰りになる倭路は、はるか遠くに続きます。私が振るのを忍んでいた袖を振ってしまったとしても、無礼だとは思わないでくださいませ。

旅人は娘子の歌に応えて、大宰府の人々へ別れの歌を詠ました。
967 日本路の吉備の児島を過ぎてゆかば 筑紫の子島 おもほえむかも
968 丈夫と思へる吾や 水茎の水城の上に なみだのごはむ


967 日本(やまと)へ帰る道にある吉備の小島、あの小島を過ぎて行くとき、わたしはきっと筑紫の児島を思うだろうな
968 私は自分を丈夫だと思っているのだが、その私が水城での別れに涙を流すとは何ということだ

大伴旅人と筑紫の児島の歌は「冬十二月、大宰帥大伴卿の上京」の時の歌です。行事の歌であり儀式の歌です。
二人は意を尽くした歌を詠みあいました。
ここで思うのは、筑紫の娘子はうかれめ(遊行女婦)なのでしょうか。
うかれめが、大宰帥の上京の儀式で歌を詠むのでしょうか。児島はたいへん教養のある女性ですが、遊行女婦とはたいへん疑問です。
更に、旅人と児島は「やまとじ」の漢字を倭と日本に使い分けています。
旅人は山上憶良から提案された通り「これからは倭国ではなく日本国になったのだから、そのように漢字を使い、心して日本国に帰って行こう」と心に刻んだのでした。児島は倭国の人として見送ったのでした。
大伴旅人は山上憶良から献じられた「日本挽歌」に深く感動し、忘れることはなかったのです。

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旅人は都に帰りますが、翌年、天平三年の七月に没します。
旅人は大宰府での生活をどう思ったのでしょう。妹の大伴坂上郎女は大宰府の大野山(大城山)を思い出していますが。
     「大伴坂上郎女、筑紫大城山を思う歌一首」
1474 今もかも 大城の山に ほととぎす 鳴きとよむらむ 吾なけれども


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# by tizudesiru | 2019-04-08 00:56 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

新年号・令和、平城天皇の思いが叶った瞬間

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新年号が令和と決まり、万葉集の梅花の宴の序文から「令」と「和」がとられたと聞いて、一瞬「その時が来た」と思いました。平城天皇の深い思いが叶ったと。

平城天皇は桓武天皇の皇太子で、延暦二十五年(806年)に即位されました。
その平城(へいぜい)天皇は、即位するとすぐに、大伴家持(すでに20年前に死亡)の官位を復し「万葉集」を召し上げられました。
万葉集、そこに書かれていることを、すでに十分に理解されていたのです。だからこそ、侍臣に編集させ「万葉集」を世に出されました。その後、「奈良の都に戻ること」を強く提唱し、譲位した弟の嵯峨天皇と対立されました。

(それにしても、譲位していたにも関わらず、なぜ奈良遷都を強行しようとされたのでしょうと、万葉集を知らない人には不思議な上皇の判断です。平城上皇のその思いは、ついに「薬子の変」となり、破れた上皇は出家されました。その影響で、息子の阿保親王は大宰府で14年間も過ごされることになりました。)

平城天皇の奈良の都への深い思いは、万葉集と無縁ではありません。万葉集の内容を読み解いたからこそ「奈良遷都」を固執されたのです。万葉集には、皇統の正統性とその歴史が歌物語として編集されていました。
編集を命じたのは持統天皇、編纂者は柿本人麻呂を中心とした歌人学者でしょう。
しかし、そこに書かれた史的な内容はインパクトが大きく、元明天皇の逆鱗に触れ人麻呂の刑死となりました。

事の顛末の全てを承知して、大伴氏が元「万葉集」を引き受け、保麿・旅人・家持と受け継がれました。
平城天皇はその「曰く付きの歌集」を召し上げたのです。そこに、どんな天皇の思いがあったのでしょう。それは、平城天皇の元号で想像することができましょう。それは、「大同」です。

大同…意味深な元号です。前王朝も現王朝も本当は変わりはないのだと、根は同じなのだという意味です。
父の桓武天皇は、天武朝から天智朝の皇統に皇位が戻ったことを「易姓革命」だとされました。
しかし、その長子である平城天皇は、「大いに同じ」だとされたのです。
それは、万葉集を既に知っていたための元号の選択だったと思います。しかし、失意のうちに出家した上皇に従うものは有りません。万葉集もほとんど日の目を見ずに細々と受け継がれました。

「万葉集は残したい」という平城天皇の無念が、今日晴れたと思います。
なぜなら、万葉集「梅花の宴」の序文から元号の言葉が選ばれたからです。是から万葉集の姿が明らかにされていくことでしょう。万葉集に掲載されていたのは、王朝の歴史歌であり、その正当性と弥栄を願う詩歌です。
平城天皇は承知されていました。天智朝も天武朝も違って見えているが同じなのだ、それが皇統の歴史だったのだと。(さて、何処が同じだったのか、これからは書こうとは思っていますが。)

 
大伴旅人も「万葉集」を理解し、晩年に歌に目覚めました。息子の家持は、父と柿本人麻呂と山上憶良を敬愛し、初期「万葉集を」守りました。後に付け加えたのは、万葉集の編集方針に倣った後期『万葉集」です。

さて。
梅花の宴は、天平二年の正月に、大伴旅人の館で行われた宴ですが、「古王朝の正月儀式」だったとこのブログにも書いたと思います。旅人は大宰府に来て、古王朝の正月儀式を知り、再現したと思います。
前年の神亀六年、長屋王の変(二月)があり、長屋王家に悲劇が訪れ、半年後に改元(八月)されて『天平』となったのです。天平二年は、改元後の初めての正月です。そこで、行われた梅花の宴。

梅花の宴はただの遊びではありません。尊敬していた天武朝の高市皇子の跡継ぎである長屋王の悲劇を胸にしながら、九州にあった古王朝の正月儀式を大伴旅人が再現したのです。
そこには、長屋王へ深い追悼の思いがあったはずです。


梅花の宴は、正月に、役人のトップから無官の者までが集まって「王朝を寿ぐ歌を詠む」という前代未聞の正月儀式でした。その頃の都にはない儀式だったのです。人々は驚き、その宴を称賛し、息子の家持(やかもち)も書持(ふみもち)も長く誇りにしていました。

今日は本当に、万葉集を残してくださった平城天皇に感謝を申し上げ、悪逆の氏族とまで言われた大伴氏にお祝いの言葉を述べたいと思います。本当に宜しゅうございました。
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筑紫古代史の会の例会にて「万葉集と古代史:大宰府と梅花の宴」という題目で、上記のことは取り上げました。その他のこともいろいろお話しました。
よかったら、筑紫古代史の会にもおいでになりませんか。



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# by tizudesiru | 2019-04-01 14:56 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

建元とは初めて年号を立てること、改元は年号がかわるという意味

明日は、新元号が発表される。どんな文字が使われ、いかなる意味が込められるのだろう。
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思えば、今日に続く元号が建てられたのは、文武天皇の五年(701年)の大宝元年でありました。
持統天皇が太上天皇として孫の文武天皇を支え、大宝令が完成し国家の体制も整いつつあった時期です。


それまでの日本には、元号はありませんでした。なぜなら、続日本紀に「建元」の文字が使われているからです。建元とは「初めて元号をったてる」という意味です。以来、「改元」され続けて今日に至っているのです。

それでは、「大化改新」の「大化」はどうなるのでしょう。「白鳳や白雉」はどうなる。孝徳天皇の「大化と白雉」はなかったのだろうか、という疑問が生れます。
「白雉」については、白雉では小さな瑞兆でしかないので、もっと大きな瑞兆が望ましいということで、後の世に「白雉」を「白鳳」にすり替えた、国として過去の元号を差し替えたのだと、日本書紀の講座で習いました。

天武天皇崩御の年には「朱鳥(あかみどり・あけとり)」という元号も顔を出しています。
では、大化・白雉・朱鳥はなぜ続かなかったのでしょう。万葉集には「朱鳥」の元号が記述されていますが。

続かない元号には、政治的理由があったでしょう。そこには残されなかった歴史があるでしょう。
今がどんな時代なのか、日記の隅にでも一言書き残しておきましょうか。
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今日は、女帝神社に行きました。福岡県みやこ町にあります。神社の御神体は、大きな円墳です。なかには家形石棺があり、縄掛突起のある家形石棺で溶結凝灰岩製です。
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それにしても、女帝神社ですか。昔の人は、何を頼りに「女帝」という言葉を選んだのでしょう。近くに円墳が並んでいました。
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6世紀後半の群集墓でしょうか。いずれも大きな石で造っていました。
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この時代、列島中、各地で巨石の横穴式石室が大量に出現します。
時代は変わったのです。王家でなくとも横穴式石室が造れたのです・・・

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明日、新元号にどんな文字が選ばれるのでしょう。
ちなみに、私は過去の元号の中で、平城天皇の「大同」が意味も深く、ゆかしいと思っています。


元号と云えば、
もちろん、「九州年号」と呼ばれる年号があることも知っています。子どものころ住んでいた熊本の寺や神社に九州年号と呼ばれる年号が使われていました。それが、「私年号」と呼ばれるものだそうです。
何で、そんな年号を使う必要があったのか、使いたかったのか、その辺りを知りたいと思いました。
では、また。

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# by tizudesiru | 2019-03-31 22:17 | 361 六世紀の筑後に王権があったのか | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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4祭祀線で知る筥崎八幡宮
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6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
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11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
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53祭祀線で空海の霊力を知る
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92薦神社の不思議な祭祀線
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94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
367謎だらけの津屋崎古墳群と宗像氏
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた

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