金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡を手に入れたのは、

だんわら遺跡の前の風景、三芳駅と周辺の山
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人家の向うには大きな筑後川が流れているのですが、辺りの土地は川より高いので田んぼに取水できません。それで、古墳群のある丘に穴を何キロも掘って、岡の向うから水を通しているのです。渡辺さんの御先祖の努力の結果の田んぼが、目の前にあります。
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今は水の出口をコンクリートにしておられます。岡を挟んで両側から穴を掘って、ほぼ1mほどの誤差で合流したのだそうです。驚きの技術です。
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田んぼに水を引くという情熱が、確かに昔はあったと思います。家族を飢えさせないために、村の男たちが命がけで用水路を掘った話は、筑後川沿いに点々とあります。昔は、大川・千歳川とよばれた筑後川も田圃を潤す有難い川ではなかったのです。何度も洪水で河床を変える暴れ川でした。ですから、洪水が終わったら流れが変わって、村が分断されていたことが、記録が残るだけでもずいぶんありました。

「この水のおかげで田植えができる、ありがたいです」と、渡辺さんは言われました。凝灰岩に彫られたトンネルから水がゆったり流れていました。
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倉には「こて絵」がありました。水が豊かな暮らしをもたらしてくれたのでしょう。
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この崖に掘られた横穴墓を見て、昔の人が同じように崖を掘れば水が引けると思ったのでしょうね。
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金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡には、「長・宜・(子)・孫」の四文字が刻まれ、金、銀・貴石がちりばめられ、龍紋、渦巻き紋で飾られ、いずれも漢王朝の象徴的な紋様だそうです。この鏡と同時に「貝製雲珠(かいせいうず)」と「鉄製貝装辻金具」が出ています。真珠光沢の貝を螺鈿(らでん)に細工したものです。
中国漢代の物で、三芳の刃連(ゆき)町には、靫負(ゆげい)日下部氏が居たとの記録があるそうですから、その関係の墓なのでしょうか。

いずれにしても、馬具である雲珠(うず)や辻金具(つじかなぐ)を伴う石棺から出た鉄鏡ですから、古墳の主は5世紀以降の人です。横穴墓群は近隣の前方後円墳と連動して造られる例が多く見られるので、その被葬者は同じ氏か、共同体つながりか、だんわら古墳といずれにしても無関係ではないでしょう。

また、馬具が副葬される古墳は5世紀からで、それが石棺からでたのであれば、倭五王時代と重なります。日田に邪馬台国があったという説がありますが、すくなくとも「だんわら遺跡」の鏡の被葬者と邪馬台国時代は時期が違うと思います。
倭五王時代の被葬者の鏡だと考えて、周囲の古墳群を見直したがいいと思います。朝倉市の古墳群とのつながりなど有りますからね。
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久大線の線路からだんわら遺跡を見ても、横穴墓群のそれらしい風景すら探すことはできません。


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# by tizudesiru | 2018-07-22 22:18 | 352日田を歩いたら見える歴史の風景 | Trackback

だんわら古墳のこと、聞いたことがありますか

だんわら遺跡とか、だんわら古墳とか、聞いたことありますか。
1933年、国鉄久大線の豊後三芳駅付近で盛り土を採集している時、石棺が出土し、その中から鉄の鏡が出土しました。金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)と呼ばれる鏡で、発見者の渡辺音吉氏が小学校に寄付展示していたら、盗まれたのです。
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(だんわら古墳は、二軒の家の間に電柱がある辺りの後ろ)

それが古美術商に持ち込まれて売りに出されたので、再発見となりました。さび止めのつもりで鏡にまぶしていた石灰が残っていたので、盗品の鏡の決め手になったのでした。そんなエピソードを持つ鉄鏡ですが、国の重要文化財に指定されています。
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発見者の音吉さんは、平成まで生存され、百三才で往生されたのだそうです。ちょうど、農作業をされていた音吉さんの家族の方に案内をしていただいて、遺跡だったという裏庭に行きました。

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裏の丘陵は古墳群です。凝灰岩の壁に彫られた横穴墓が見えています。この横穴墓とだんわら古墳がセットで存在したのなら、古墳の時期は或程度推し量れるでしょうね。
渡辺さんの家族の方のお話だと、崖の前に少し空間がありその辺りに石棺があったのだそうです。すっかり土が持ち去られて、古墳らしい面影は有りません。

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発見者の渡辺さんによれば「石棺からは鉄鏡と同時に鉄刀、轡(くつわ)が出土し、碧玉製管玉・水晶切子玉・ガラス小玉なども出土した」そうです。日田市から出土した帯の金具(上の写真)である金錯鉄帯鉤(きんさくてったいこう)3点も、同じ古墳から出土したということも云われています。
こんな貴重なバックルを副葬する人は、どのようにして権力を手に入れたのでしょうね。
続きは、また明日。



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# by tizudesiru | 2018-07-21 23:43 | 352日田を歩いたら見える歴史の風景 | Trackback

日田の山間に高住神社がありました

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高住神社は、山の中にポツンとありました。鳥居をくぐり階段を登ると磐座がありました。
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岩を穿ってお堂が建てられていました。辺りには人家も無く、何を願って人は此処に社を造ったのでしょうか。
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こんな岩の中にいらっしゃる神様はどなたでしょう。
切り石を加工して造られた祭殿は、古いものではないでしょう。然し、木で作られていたものが石に代えられたのでしょうから、それなりの時間は経っていそうです。岩は凝灰岩だと思います。
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高住神社という名称から考えると、英彦山修験道の神社ではないかと云うことでした。高住神社とは英彦山北岳の登り口に在る神社ですが、ご神体は豊前坊です。北岳ではなく、北岳の隣に林立する岩山のことです。
江戸時代は英彦山にはあまたの寺社や宿坊があって、明治になるまで神仏習合の拠点だったのです。しかし、明治以降、かっての賑わいどころか、茶店が若干あるばかりです。
文化の破壊とは、こんなことを云うのでしょうか。


この高住神社は凝灰岩の磐座のようですが、他の磐座はほとんど花崗岩でした。
船石権現とか
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神在の大石とか、
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太田宮の磐座とか、
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どれも見事な花崗岩でした
すると、この高住神社の信仰は、磐座信仰とは別のものかも知れません。
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そうだとしても、小屋が建てられていますから、ここに通って参詣する人が沢山いるということですね。山の中に通う強い信仰があるのです。

では、また。

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# by tizudesiru | 2018-07-20 20:45 | 350九州神社の旅 | Trackback

奥野正男かく語りき「邪馬台国論争に参加しない」

邪馬台国が何処かと言う論争に、わたしは参加しないのです。十人いたら十の説があるのです。人はそれぞれだから、わたしはそれでいいと思っている。それより大事なことがありますよ。
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(飯塚市・遠賀川) 
大事なことは…と、奥野先生はポツリポツと常に噛みしめるように話をされます。何度も話されたことですから、「もちろん。あたりまえ」と受け止めていました。
 然し、よく考えてみると非常に重たい言葉です。わたしも忙しくて聞いたことをすぐに忘れてしまうので、書いておきたいと思いました


戦後、急に自由になったのではない
「邪馬台国論争で思う事だけど、論争ができること、それ自体が非常に大事なことで、十分に発言できるようになって時間がさほど経っていない思うので、非常に大事なことです。戦後、自分たちの国の歴史について話ができるようになっても十分に自由ではなかった。日本人が自分たちの歴史をどう考えるか、どう表現するか、それが邪馬台国論争の大事なところだと思うのです。」


「天皇制がどうだとか言うのではなくて、その事に触れることさえできなかった戦前の不自由な生活の後に、急になんでも話せるようになった。それは、日本人にとって衝撃的な出来事だった。それまで考えることもできなかったことが、言えるようになったと云うことです。明治以来の天皇絶対の教育を受けて来た日本人にとって、踏み込めないところに踏み込めるようになっても、それで急に自由に書いたり言ったりできるようになったわけではないのです。」

確かに、先生が言われるように、戦後、言論の自由と言われても日本人がすぐになんでも喋り書けるようになったわけではないでしょう。バケツに絵の具を一滴落としても、色は出ません。戦後生まれの人は「もう戦後ではない」と言われた昭和四十年代以降に大人になった人たちです。でも、戦前を引きずる人々が教育したのですから、過去と切り離された人々ではありません。

武士は人殺しの道具を腰にさして歩いていた

「明治になった時、世の中は非常な変化だったでしょう。しかも、明治の前の江戸時代、徳川の幕藩体制は三百年も続いていたのです。武士と云う存在は、戦国時代を経て武力で人々を押さえたのです。武士は庶民を斬り殺すことができる特権階級で、常に人殺しができる刀を腰にさしていたのです。
 藩が潰れて主人を失っても、武士は浪人となっても刀を腰にさし、それを離さなかった。そういう人が、同じ空間を歩いていて、一方だけが相手を殺すことができたという社会だった。それが三百年続いた。その中で、日本人は生きて来たのです。日本人が生きて来た三百年の江戸時代という歴史は、日本人の形成や生活の中に大きな意味を持ち、隅々にまで浸透しているのです。
 この事は、日本人を考える上で重要だと思うのです。」

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そう云えば、テレビから「昭和顔」だとか、「昭和的な街並み」という言葉が流れます。その言葉の度に「昭和じゃいけないの? 古いということ?」と反射的に思います。過去が残るのは当たり前で、歴史はある日突然変わったりしないのです。
日本人が自分の国の歴史について考えたり喋ったりするようになったことが、その事が重要なのだと、わたしは思う。だから、わたしは邪馬台国論争に参加することをしなかった。」


ホントにそうでした。いろいろ出て来た段階ですね、今、現在は。そして、AIや、学者や、一般の歴史家が、こぞって検証するのですね。
その結果を、新しい世界が日本人にもたらしてくれる恩恵「歴史の真実」に期待したくなります。

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(天照神社の川岸から見る遠賀川)
奥野先生のお話を7月22日(日)曜日に聞けます。先生も85歳前後の御歳を重ねられています。御一人での講演という形ではなく、質問に答える形式で「古代史セミナー」をされるそうです。先生のご健康とご健闘をお祈りしいたします。

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では、また。


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# by tizudesiru | 2018-07-20 00:27 | 270邪馬台国論争なぜ続くのか | Trackback

大原神社の元宮を訪ねました

守りてもいなくなった宮地嶽神社
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宮地岳神社は社も壊れてしまい、今は小さな社が跡地を示しています。今は、大原神社の摂社になっているようです。
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日本の神社は、かっては地域の拠所であり結束を深める場でもありました。然し、守る人も集まる人も絶えて行き、社は朽ちて行きました。これから20年もたてば、更に祭の場は無くなるのでしょうね。

宮地岳にお詣りして、元大原神社に行きました。地名もそれらしい「神来」です。
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何度も遷座した大原神社でしたね。ここから現在地の田島の大原神社に遷座したので「元大原神社」と呼んだのだそうです。元の神社跡が守られるのは珍しいと思います。
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社殿は覆い屋で守られていました。ここは750年間も社地であったのです。
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750年前と言えば、鎌倉時代が始まった頃です。いろいろなことがあったのです。

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# by tizudesiru | 2018-07-17 20:15 | 350九州神社の旅 | Trackback

日田の総社・大原神社の1300年の歴史

大分県・日田市の大原神社に行きました
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何度か参拝した神社でしたが、宮司さんのお話を聞いたのは初めてでした。

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此の神社は、郷社や村社などのように氏子を持たない神社です。日田盆地の山際に鎮座するのに、所在地は日田市田島一丁目となっています。
祭神はホムタワケ命、大帯姫(オオタラシヒメ)命、比売大神
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『大原神社の起源は、天武天皇白鳳9年(680)、靫負郷岩松峰(日田市天ケ瀬町金場の北)に、宇佐の鷹の居にいます神と名乗る神が現れ、社(鞍尾形の宮)を立てて祀ったのがはじめである。

慶雲元年(704)、杉原の杉下に髪が降りて神がかり、「岩松のの嶺の神」を名のって、杉原が便宜よいので此処に来たと告げたとして、社を立てて祀ったというのが大原八幡宮の前身である杉原宮である。

貞観13年(871)もしくは仁珠念(852)に、当時日田郡司であった大蔵永弘によって、杉原から現在の元宮に遷座され、宇佐神宮より橋本公則を迎えて社司としている。

建久4年(1193)、九州探題大友能直が、東の総社を柞原八幡宮、西の総社を大原八幡宮として鎌倉鶴岡八幡宮の参拝礼式に改めさせたといわっる。

更に、元和10年(1624)日田永山城主石川主殿守忠総により、元宮から現在の位置に遷座された。その際社殿形式に八幡造を用いている。』
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記録に在るだけでも、五度の遷座遷宮が行われたというのですね。
大きな神社は何処も所在地をどんどん変えますから、古代の祭祀線はひけません。

筑後川流域には、久留米市にしても、創建に天武天皇や高市皇子がかかわる神社がありますね。特に天武朝と筑後川流域は関わりが深いのでしょうか。

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大原(大波羅)神社は、広い境内に摂社末社が沢山ありました。
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本殿の真後ろには、大山祇神社がありました。本殿のご祭神にお詣りすると、この神様も一緒に拝むことになるのですね。

珍しい所では、昭和10年(1935)に就役した大日本帝国海軍の最上型重巡洋艦「三隅」の船の上に祀っていた神社は、此の大原神社から分祀されていたと云うことでした。艦名「三隅」が、日田盆地を流れる三隅川に因むと云うことから大原神社が艦上で祭祀する神社に選ばれたのだそうです。

その記念碑がありました。大きな神社は、政治と時代の変化をもろに受けているのです。

では、
天武天皇白鳳9(680)年に何があったのでしょう。特に天武天皇が神力を頼むことがあるとしたら。
 678年(十市皇女急死・筑紫大地震)680年(橘寺火災・金光明経をはじめて宮中で講ずる・皇后の病回復のために薬師寺建立を発願)こうしてみると、皇后の回復を願って、神社建立の発願となったのですかね。それに、筑紫大地震も大きな衝撃だったことでしょう。護国神祭祀も当然です。

文武天皇慶雲元年(704)年、この年はどうでしょう。702年12月に持統太上天皇崩御。翌年は喪に服したでしょうから、年が明けて五月に改元し、文武天皇は心新たに祭祀を始めたかったのでしょうか。

貞観13(871)年、には何があったでしょう。
 869年(陸奥貞観大地震)・870年(大宰少弐藤原元利万呂ら反乱を企てる・上総国で俘囚が反乱)871年(貞観式を頒布)未曾有の大地震・貞観大地震で日本中が震撼としたのかも知れません。民の不安も高まっていました。やはり、天変地異は大きく祭祀に関わるのですね。

建久4(1193)年、これは言わずと知れた政変の後です。
 1192年、源頼朝が征夷大将軍となっています。世の中が大きく変わった後です。神社も次の政治体制に順応しなければならないでしょうね。

元和10(1624)年、これは江戸時代ですね。
 1623年(徳川秀忠、征夷大将軍を辞職し、家光が任じられる)この数年前からキリシタンの取り締まりが激しくなり、宣教師らが多数処刑されています。江戸幕府が政治基盤の安定に奔走していた時期ですから、神社もそれに倣ったのでしょうか。


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赤ちゃんの産毛を治めて無事に成長することを願った祠です。
人々の願いも受け止めながら、大きな神社は生き残って来たのでしょうね。


大変でしたね。


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# by tizudesiru | 2018-07-13 16:19 | 350九州神社の旅 | Trackback

新田神社の末社(みささぎ神社)は誰の墓なのでしょう


不思議な神社を訪ねて鹿児島に行きました


地元の女性に案内してもらって、次に行った祠も細い山道を少し登った先に在りました。

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新田神社の末社で中陵神社です。瓊瓊杵尊の妃の陵墓だとか…

神社の階段を登ると全て石で造られた祠がありました。
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ここ、中陵と呼ばれる神社は、明治に石造りになったのです。どうやらお墓の上に建てられた社のようです。社の横の空き地が石柵で囲まれ、意味深な石が置かれていていました。
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江戸時代にはこの場所が守られていたという証の石塔ですね。
本当は誰の陵墓なのでしょう。陵とは、高貴な方の墓をいいますからね。
さて、この小丘の隣にも岡があり、同じような社がありました。
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此処も中陵神社で新田神社の末社でした。先ほどの石祠と同じような祠がありました。
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両者は同じ時期に同じ工人の手によって造られたのでしょうか。どういうわけか、由緒などすべて削り取られていました。どうしたのでしょう。何かあったのでしょうか、不都合なことが。
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この空白に、歴史の転換期があったのです。こんなことを書き残してはいけないとか。
ここは、新田神社の裏手に当たりますし、末社になっていますから、神話の世界に関係する女性のことが書かれていたのかも知れませんね。
では、また。

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# by tizudesiru | 2018-07-10 10:16 | 350九州神社の旅 | Trackback

天火明命を祀る川合陵神社にいきました

地元の女性に不思議なところに案内されました。川合陵(かあいりょう)神社です。え?川合陵?
川合陵神社に行きました。

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雨が降っていましたが、薄暗い道を通って山の中の小さな祠につきました。
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案内板がありました。
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川合陵神社(薩摩川内市五代町羽田=旧高城郡水引郷五代村中尾崎)
ご祭神  天火明命(あめのほあかりのみこと)
由緒  川合陵神社は御稜殿とも称され、新田神社のご祭神瓊瓊杵尊の皇兄、天火明命が祀られています。創祀の年月は詳らかならずといえども往古より冠山と呼ばれる高さ二十メートル、周囲五百メートルの山の麓に御鎮座されています。社殿の西方道路を隔てたところにチョッポリ岡といわれる小丘があり、土地の人はこの岡を御祭神の墳慕として以前は木柵を設けて陵域を護持していました。又この丘の頂に立つと不思議な音響がきこえてくるとされ崇められています。社殿の前には御手洗池と呼ばれる小池があり、神社境内には文化年間の石灯籠があります。現在の社殿は嘉永年間に作られました。
          平成十八年 川江みささぎ会
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何とも意味深な言葉が並んでいました。案内板に在るチョッポリ岡は、祠から20mほど離れたの土手のような場所です。
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チョッポリ岡は自然の丘のように見えましたが、たしかに独立した小丘です。
川合陵神社とチョッポリ岡の間に道路と沼がありました。
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沼には葦が繁茂していました。この片側だけ葉のついた葦は、スズテツが取れる湿地に生えるのだそうです。だから、ここは古代鉄製産と関係があるんじゃないかとNさんが云っていました。

ふうん、そうなんですか。と素通りしましたが、全く変なところに天火明命の墓があるのですね。
それにしても、意味深な場所に冠岳がありますね。熊本でも宮崎でも鹿児島でも、冠岳が多いのですが、それは同じような時期に同じような文化を持った人たちがそこに住んでいたと云うことでしょうね。
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では、また。


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# by tizudesiru | 2018-07-09 11:25 | 350九州神社の旅 | Trackback

菅原道真は生き延びたのですか?藤川天神の由緒

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鹿児島の菅原神社に行きました。藤川天神と呼ばれている神社です。
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なんと、道真の墓所もあるそうです。
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お詣りさせていただきました。
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裏山は急だったので杉が伐られていました。土砂災害を防ぐためでしょうか。
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一旦神社の鳥居を出て、伝「道真の墓」へ行きます。鳥居の左手近くです。
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それらしい証拠を見つけることはできませんでしたが、小さな盛り土を信じる他ありません。この10mほど先に、また別の墓がありました。
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白太夫(しらたゆう)の墓でした。道真の寵臣として仕え、終身仕えてこの地に没したというのです。
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次に、道真の妻子がはるばる訪ねて来たという伝承の地へ行きました。
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祠は崩れて撤去されたのでしょうね。案内板のみが在りました。
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道長の伝承は、どこどこまでも不思議です。人はなぜこの人に心寄せるのでしょう。
恵まれた才能があったのに、不遇だったからでしょうか。

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梅が香る頃、お出かけください。

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# by tizudesiru | 2018-07-07 14:27 | 350九州神社の旅 | Trackback

鹿児島の新田神社に行きました

新田神社に行きました
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この階段を登ると、途中に広場があります。もともと社殿はそこにありました。

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高倉天皇は、源平合戦で壇ノ浦に入水された安徳天皇のお父さんですね。この広場には多くの摂社が残されていました。
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此処の高良神社のご祭神は天鈿女(あめのうずめ)となっていました。さて、広場からまた階段を上ります。
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はい、ここが「天津日高彦火瓊瓊杵尊」の神社です。祖母の天照大神は伊勢に、父の天忍穂耳尊は英彦山に、ニニギ尊は新田神社に祭られたと書かれています。
明治維新で功があったと自負する鹿児島に、ニニギ尊が祀られているのですね。
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子だき狛犬を見て、本殿にお詣りいたしました。
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それから、可愛(えの)山稜に行きました。本殿の裏あたりになりましょうか。
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本殿の裏に回るために少し階段を降りました。

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此処が可愛山稜です。

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ニニギ尊は此処に眠られているのでしょうか。
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# by tizudesiru | 2018-07-06 00:13 | 350九州神社の旅 | Trackback

蘇我氏の出自・彼等は何処から来たのか

527~8年、「筑紫君磐井の乱」と

531年の辛亥の変で、倭王の一族は滅びました。


それは、墓制の変化(石棺が消えていく)ことで紹介してきました。
此処で、「筑紫君一族は何処へ逃げたのか」と書くと、筑紫君磐井の一族がこぞって九州を逃げ出したことになります。しかし、そうではありません。たとえば天智十年(671)、白村江敗戦後に熊津都督府から派遣された郭務宗と共に帰国した「筑紫君薩野馬」がいます。天智十年までは、筑紫君という姓はあったのです。

 すると、筑紫君一族は北部九州の管理者として存続し、百済救援軍として海を渡っていたことになります。(この時、筑紫君薩夜麻を帰国させるために尽力したのは、上陽咩(かみつやめ)郡の大伴部博麻(おほともべのはかま)でした。大伴部博麻は倭国の危機的状況「唐が倭国を襲撃する計画」をいち早く知らせるために我が身を売ってその資金で薩夜麻を倭国に返したと書紀に書かれています。筑紫君の本拠地として、福岡県の筑後地方八女辺りが残っていたのです。)
今日は、
九州から石棺が消えたのに、近畿には石棺文化が入っています。そこで、彼らは何処から来たのかを考えたいと思います。

で、今回は蘇我氏の出自、彼らは何処から来たのか、です。
わたしは九州から移動したと思っています。

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蘇我氏と言えば、物部氏と対立し仏教を受け入れたことで有名です。物部氏は九州よりの移動伝説を持った氏族ですが、蘇我氏も九州から移動したという痕跡はあるのでしょうか?
蘇我氏は、武内宿祢の末裔だと「尊卑分脈」に書かれています。

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蘇我氏の祖が日本書紀に現れるのは、応神紀(15代天皇)の武内宿禰からです。
『尊卑分脈』の出自を見ましょう。
孝元天皇(8代)の皇子・彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)から蘇我氏は始まります。彦太忍信命の母は、伊香色謎命(いかがしこめのみこと)です。孝元天皇のですから皇后に次ぐ身分の女性です。

*伊香色謎(いかがしこめ)命は、崇神天皇(10代)即位前期に『物部氏が遠祖・大綜麻杵(おほへそき)が女(むすめ)」とあり、古事記では『内色許男(うつしこを)の女』ですが、饒速日の五世孫・伊香色雄の後と書かれているのです。物部氏とも関係が深い女性なのです。
*孝元天皇(8代)の妃・伊香色謎命は、開化6年正月に開化天皇(9代)の皇后になりました。開化天皇は父を墓に納めた後に、継母(父の妃)を皇后にしたのです。皇后となった伊香色謎命は、崇神天皇(10代)・御間城入彦五十瓊殖(みまきいりびこいにゑ)天皇を生みました。

 さて、彦太忍信命の母のことは了解ですか? 母は物部系の血統も持った人でしたから、古代には血筋の高貴な女性が次の後継者を生むと云うことになっていたのでしょう。皇子の彦太忍信命は、前天皇の息子であり、次の天皇の義理の息子であり、さらに次の天皇の同母兄となりますね。

彦太忍信命は、これ武内宿禰の祖父なり(孝元天皇紀)

武内宿禰といえば、九州と所縁の深い人ですね。

彦太忍信命から屋主忍男武雄心命(やぬしおしをたけをこころのみこと)、その子武内宿禰、その子の石川宿禰から蘇我満智(そがのまち)宿禰とつながっています。

では、屋主忍男武雄心命を書紀でさがします。
景行天皇(12代)の三年、紀伊国に行幸して占いをしたが吉と出なかったので、
屋主忍男武雄心命が派遣されました。屋主忍男武雄心命は紀伊国で神祭りをして九年留まり、紀直(きのあたひ)の遠祖・菟道彦の娘の影媛を娶り、武内宿禰を生んだと、景行紀にあります。そこは、紀伊国でしょうか?

佐賀県の武雄市には武雄神社があります

武内宿禰を祀る神社は、圧倒的に福岡が多いのです。続いて大分・佐賀・和歌山の順になり、福岡は大分の2倍、佐賀の4倍、和歌山の10倍です。奈良の40倍以上の数になります。
特に、佐賀県武雄市には、武雄神社があり武内宿禰を主祭神とし、神功・応神・仲哀天皇と父の武雄心命を祀っています。
また、武雄市には、武内宿禰の母・山下影媛を祀る神社もあります。やはり、九州と所縁の深い人になります。


武内宿禰の母も、紀伊国(和歌山)の人と言うより基山のある基肄国(佐賀県)の人だったのではないでしょうか。

日本書紀も古事記では「孝元天皇」のところで、多くの氏族の祖が分かれたことになっています。案外、孝元天皇が倭王と重なるのかも知れませんね。ちなみに、皇子達は、大毘古命・少名日子建猪心命。若倭根子日子大毘毘命、彦太忍信命、建波邇夜須毘古命の五人。
孝元天皇の皇子から出た氏族は、書紀では「安倍臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造越国造・伊賀臣 など七族の始祖」と書かれています。

武内宿禰の子孫たち(古事記)
羽田矢代宿禰⇒波多臣・淡海臣・林臣・波美臣・星川臣・長谷部臣
許勢小柄宿禰⇒巨勢臣・雀部臣・輕部臣
平群木菟宿禰(平群都久宿禰)⇒平群臣佐和良臣・馬御樴連
石川宿禰(蘇賀石川宿禰)⇒蘇我臣・川邉臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣
紀角宿禰(木角宿禰)⇒紀臣(木臣)・都奴臣・坂本臣
葛城襲津彦(葛城長江曾都毘古)⇒玉手臣・的臣・生江臣・阿藝那臣
若子宿禰⇒江野財臣
女子は、久米能摩伊刀比売、怒能伊呂比売、の二人です。
武内宿禰は、色々な氏族の祖となっています。

と云うことで、蘇我氏に戻りましょう。

履中天皇(17代)紀二年に、蘇我満智宿禰が平群氏・物部氏・円氏と共に国事に携わっています。突然、国政に参画したのでしょうが、何の力もなくてはできません。この頃の蘇我氏にできて、他の氏族にできなかったこと。それは、『古語拾遺』にも書かれているように「三蔵を検校すること」、帳簿をつけること・数字を読み書きすること、計算すること、ですか……財政を握っていたようですね。


ちなみに三蔵とは、斎蔵=祭祀に関わる財源、内蔵=王家の生活に関わる財源大蔵=国政に関する財源、と云うことです。財源がなくては何もやれませんから。

その辺りは、また今度。



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# by tizudesiru | 2018-06-22 00:33 | 349筑紫君一族は何処へ逃げたのか | Trackback

石舞台は家形石棺・九州では石棺文化が消えたのに

石舞台古墳(蘇我馬子の墓)に家形石棺があった
九州の古墳から家形石棺・舟形石棺は消えました。然し、近畿には阿蘇石の石棺が出現します。普通に考えれば、故郷の墓制を持ち込んだのではありませんか。つまり、九州に所縁のある人が移動したということです。
あの石舞台古墳にも家形石棺がありました。
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(石舞台古墳・明日香村)
しかし、蘇我氏の家形石棺は「妻入横口式家形石棺」ではありません。密封型の刳抜式家形石棺(くりぬきしきいえがた石棺)です。つまり、筑紫君一族の直系ではなく、どうやら熊本県中南部の宇土半島の基部近くの系統のようですね。「畿内系刳抜式家形石棺は、本来宇土半島で5世紀後半に造られていた刳抜式舟形(くりぬきしきふながた)石棺の系譜を引くものであり、近畿地方の古墳時代後期の指標となるものである。」と新宇土市史に書いてあります。
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(石舞台古墳の石棺・石室に残された凝灰岩をもとに復元されている)
この復元は妥当なのかを、近くの都塚古墳(蘇我稲目の墓とされている)の石棺と比べましょう。
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確かに、縄掛突起(なわかけとっき)もある家形石棺です。
では、飛鳥から山田道を通り阿倍山を見ましょう。蘇我山田石川麻呂(持統天皇の祖父)とならぶ左大臣・阿倍倉橋麻呂の本貫の阿部山丘陵にある艸墓(くさはか)古墳の石棺を見ましょう。
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ここも、巨石の石室なのですね。その石棺は家形です。
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全て、既に紹介した写真です。
いま、考えているのは、この家形石棺のルーツがやはり熊本であれば…被葬者のルーツも熊本ですか、ということです。
推古天皇の改葬前の墓とされる植山古墳に熊本県宇土半島の馬門石(まかどいし)製の家形石棺が出土しています。二つの石室のうち、一方だけ石棺が残されたようです。屋根の部分が割れたので、そのまま残されたのでしょう。(下の写真)
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(「新宇土市史」の写真をデジカメで写したもの・馬門石製の家形石棺)
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馬門石と言えば、まさに熊本県宇土半島の阿蘇溶結凝灰岩・ピンク石です。

これらの家形石棺は、熊本の支配地から王権への献上品とされています。ですが、まだ、大化改新(645年)前の王権にです。中央集権ではない、公地公民の決まりもなかったころ、王権へ献上とは違和感があります。まだ、筑紫大宰もありません。王権にすれば、何の所縁も無い遠い田舎の石棺を永遠の眠りに使う意味は特にないはずです。

推古天皇は蘇我系の天皇で、蘇我馬子が大臣でした。その二人は、九州にルーツを持つ家形石棺と縁が深いのです。
推古天皇と蘇我馬子や稲目との共通点は、蘇我の血統以外にありません。蘇我系の人は家形石棺を用いた、それも熊本の鴨籠(かもご)古墳の石棺のように石棺には出入口がなく密封されている形式にした、ということです。
同族だったのではありませんか?
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石舞台古墳をラインで読みましょう。
石舞台古墳は、蘇我蝦夷や入鹿の墓とされる小山田遺跡・菖蒲池古墳を通り見瀬丸山古墳(真の欽明陵という)に届きます。なかなか意味深です。

蘇我氏は九州系の人である、すごく言いにくいことですが。然し、どう考えても見直してもその事は事実です。
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「八代市立博物館未来の森ミュージアム」の資料「火の君、海を征く!」から上の部分をデジカメで写しました。菊池川流域と宇土半島周辺の石材の移動が分かりますね。
ここまでにします。
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# by tizudesiru | 2018-06-15 21:00 | 349筑紫君一族は何処へ逃げたのか | Trackback

古墳から石棺が消える時、筑紫君は衰退した

舟形石棺・家形石棺がともに消えた理由は何か
それは、一地域だけの問題ではなく北部九州・中九州の石棺文化圏で起こりました。大きな変化があった証拠です。例えば、明治になってキリスト教が解禁されたから、十字架の墓も造られるようになりました。つまり、政治的な背景が墓制に変化をもたらす要素になると云うことです。
考えてみると、九州では弥生前期・弥生後期・古墳前期・古墳後期と墓制の変化がたびたび起きました。
佐賀県をみると、弥生時代には脊振の北唐津側(菜畑・宇木汲田・桜馬場遺跡)や、吉野ケ里のある南でも甕棺文化が栄えました。
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そこに石棺文化が入り込み首長墓は石棺となりました。
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佐賀県立博物館のパネルを見ると、圧倒的に有明海側に古墳が集中しています。ここが古墳時代の中心地だったのです。もちろん、海岸線もぐっと内陸に入っていました。
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が、そこへ横穴式石室に死床を持つ古墳が現れ、やがて巨石を積んだ横穴式石室が出現します。そこには壁面装飾がありました。
佐賀神崎の伊勢崎古墳(6世紀半ばころ)には、赤い円文が描かれていたそうです。装飾古墳が密集するのは、熊本の菊池川流域でした。熊本とのかかわりは当然ありました。佐賀県は、もともと火の国(肥の国)で、飛鳥時代に肥前と肥後に分かれたのです。肥国は、大きな国だったのです。
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(佐賀県神埼町の伊勢塚古墳・前方後円墳78m)
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伊勢崎古墳は、巨石の横穴式石室です。さて、この巨石文化の発祥は何処でしょうね。
石人山古墳・浦山古墳・乗場古墳・谷口古墳、石室はみんな小口の割石でした。それが、巨石の古墳に変わっていったのです。

これも以前に紹介しています。
カテゴリ「128倭国の墓制」倭国の墓制・家形石棺は熊本で発祥

カテゴリ「129?国の墓制・巨石横穴墓」俀国の墓制は巨石横穴墓か


今回は、佐賀でも墓制は熊本や福岡と同じように変化していったこと。舟形石棺・家形石棺ともに消えた行ったと云うことを紹介しました。このブログで何度も書きましたが、倭国は熊本がルーツであると云うこと。その倭国内の権力争いが磐井を滅ぼし、巨石横穴墓をもつ勢力に淘汰されたと云うことです。(それも、熊本と豊前が合体した勢力と思います。)
今日は、ここまでにします。
さて、衰退した筑紫君一族、一部は九州に残ったようですが、九州を追われた彼らは何処へ逃げたのでしょう。

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# by tizudesiru | 2018-06-14 15:54 | 349筑紫君一族は何処へ逃げたのか | Trackback

筑紫君一族の古墳文化は突然失われた

筑紫君磐井の墓とされる岩戸山古墳は、被葬者が特定される唯一の古墳
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(岩戸山古墳の別区の石人・その一部が展示されている。風土記によると、盗人が裁判にかけられている様子が石人たちで表現されていたようである。)
岩戸山古墳と言えば、石人石馬がすぐに思い出されます。岩戸山資料館のパネルには筑紫君一族のシンボルと書かれていました。
『5世紀前半頃、初代筑紫君と思われる石人山古墳の被葬者は石人に象徴的な意味合いを見出し、同族結束の証として石人を用い、視覚的にも結束を再確認することを目的として古墳祭祀に採用したものと考えられます。石人石馬は筑紫君一族のシンボルであり、有明海沿岸を拠点とする豪族たちのシンボルでもあったでしょう。』(資料館のパネル)
では、石人を持つ熊本の菊池・山鹿市周辺(清原古墳群・臼塚古墳・フタツカサン古墳・チブサン古墳)や八代海周辺(姫ノ城古墳・富ノ尾古墳・石ノ室古墳)などの古墳の被葬者も一族と考えていいのでしょうね。
また、八女丘陵の石人山古墳は妻入横口式家形石棺(つまいりよこぐちしきいえがたせっかん)で、そこに直弧文がありました。

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直弧文(ちょっこもん)も首長が用いた文様でしょうね。岩戸山古墳はまだ掘られていませんので、石棺があるかどうかは分かりません。しかし、石製の古墳装飾品の刀の勾金(まがりかね)に直弧文があります。
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勾金(まがりかね)とは、刀の束に用いられた飾りのようなものですが、そこに直弧文が装飾されています。このように石棺と石製装飾品が特色だった筑紫君一族の古墳文化が突然消えました。
磐井の乱(527年)で、筑紫君磐井は破れました。その後、磐井の墓は破壊されたのでした。
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古墳の築造の説明板をみると、6世紀に入り岩戸山古墳が築かれました。次が乗場古墳になりますね。この古墳は岩戸山古墳のほぼ隣にありますが、そこに石棺はありません。(下の写真・乗場古墳と久留米の寺徳、西館古墳)
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石棺はどこかへ持ち去られたのでしょうか。破戒されたのでしょうか。それとも、造られなかったのでしょうか。石人石馬も同時に姿を消したようです。
それは、八女丘陵ばかりではなく、佐賀の久保泉でも、久留米でも、熊本の八代海周辺でも連動して消えたと思います。と云うことは、単に筑紫君磐井一族の衰退という問題ではなかったと云うことです。大きな権力の交替があったので、墓制が変わった…

すると、筑紫君一族は、倭王権の一部だった可能性がありますね。
では、筑紫君の王権に代わったのは、何処の勢力でしょうか。日本書紀に云うように、継体天皇なのでしょうか。
それは、また、今度。


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# by tizudesiru | 2018-06-13 12:00 | 349筑紫君一族は何処へ逃げたのか | Trackback

倭王国の興亡を年表で読む・七支刀と稲荷山鉄剣の年代

邪馬台国・伊都国・奴国などの小国が、倭国になった?
そもそも、三世紀の邪馬台国の時代は小国が沢山ありました。それがいつ倭国にまとまったのか。これまでも繰り返し書いてきました。それを、年表で見直してみましょう。以前にも紹介した年表です。倭・倭女王・倭国・倭軍・倭人と、いろいろ書き分けてあります。
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百済の成立は346年、新羅の成立は356年、4世紀の後半以降倭国と交流が始まったのです。
書紀の「神功紀」の記述に120年を足せば、年表として読めると云うことです。
此処で分かること、百済のために出兵できたのは、倭王が税を取り立て戸籍のようなものを握っていたということです。それなくして何度も出兵はできません。
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七支刀の倭国への献上は468年である
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七支刀については、「神功皇后の七支刀は誰のものだったのか」(カテゴリ・325冊封体制下の倭王讃珍済興武の野望)で取り上げています。

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成立間もない百済を倭国が助けたので、369年に七支刀を献上したとは思えません。ともに戦ったことの証のようなものではないでしょうか。
やはり468年、
半島内の高句麗・新羅・百済の三つ巴の争いに対して、「百済に援助した倭国への篤い感謝の気持ちをあらわしたもの」で、当然、倭王が受け取ったものです。然し、天皇家ではなく物部氏の宝物、七支刀は石上神宮の宝物となっています。
倭王権が滅亡する時(辛亥の変・531年)、王家が守って東へ逃げた(東へ侵入した)としか考えられませんね。すると、物部氏は、先代旧事本記が言うように九州から移動したのですね。
また、上の年表で
382年、襲津彦が出兵していますが、彼は唐津から船出しました。マツウラサヨ姫の伝承が唐津の鏡山に在ります。
襲津彦は、何処の人ですか。

彼は畿内の兵を連れて行ったのではなく、九州の兵を連れていったのです。襲津彦は故郷の娘との別れがつらかったのです。彼は九州の人でしょうね。
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倭王達は懸命に宋の冊封体制に入ろうとしました。書紀の記述となかなかかみ合いませんね。しかも、埼玉県行田市の稲荷山鉄剣の辛亥年が471年であれば、倭王武はまだ「倭王」になっていません。武が倭王になるのは、478年ですから。
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稲荷山鉄剣の辛亥年は、531年である
書紀の雄略帝は479年に没していますから、武が即位した翌年が雄略帝の没年です。書紀と外国の史書は全くかみ合いませんね。
わたしは、稲荷山鉄剣の「辛亥年」は、531年だと思います。鉄剣が発見された当初の学者の見解通り「531年」です。考古学的な資料で読み解かれたもので、既にブログで紹介しています。
江田船山の鉄刀と稲荷山の鉄剣の銘文を比べました。両者は、文化圏を共有し同じ首長に仕えています。その首長は「治天下大王」なのです。その大王家に仕えることを誇りとして「江田船山の鉄刀」が造られ、その大王家が滅びた後に「稲荷山鉄剣は作られたのです。これは、兼川氏によって読み解かれました。
倭王家は滅びたのです。所縁の人々は王家の誇りと家宝を以って東へ逃げました。
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と、年表を見直しました。
今日のまとめ

年表を見る限り、倭王は中国の冊封体制に入り、百済・新羅・高句麗と競い合っています。然し、日本書紀にはその事は全く触れられていません。「天皇の祖先が中国の臣下であった」と認めたくないので、敢て書紀には書かなかったというのです。ほんとですか? そうではなくて、近畿とは直接関係ない九州のことだからから書けなかったのではないですか。
先代旧事本記を見直さなくてはなりませんね。
物部氏の歴史を正史にすることはできなかったと云うことですからね?

今日は、ここまでにしたいのですが、
まだ、筑紫君と倭王の関係が残っています。
倭王家が辛亥年(531)に滅びたことは、分かりました。倭王家をそのまま筑紫君としていいのでしょうか。


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# by tizudesiru | 2018-06-10 23:42 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback

熊本の鉄と石の文化が、弥生文化の破壊と進化をもたらした

さて、今日は「脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係」のまとめに入ります。倭国とは北部九州を中心とする国であろうと考えられます。確かに「旧唐書」には倭国が出てきますが、「新唐書」にはありません。中国の史書には「日本はもともと小国で、倭国を併合した」とか「倭国は名前がみじめなので日本に変えた」とか、いろいろな情報があります。白村江戦の後に倭国と云う国が消えたことは、事実のようです。


倭国は九州のどの当たりにあったのか、この事を調べるのに考古遺物は貴重ですが十分ではありません。物は移動できるからです。そこで、祭祀線を使い始めたのでした。その結果、
三世紀後半以降から4世紀に、北部九州に入った勢力は近畿ではなく、熊本だったのではないか。倭国は、熊本の勢力が中心になって造った国であろう。

となりました。

今回は、その事を脊振山の南の古墳から考えてきたのです。

弥生の甕棺・木棺の墓制が、墳丘墓と石棺の墓制に変わったのは何故か
わたしは北部九州(福岡・佐賀)の弥生文化を潰したのは、鉄(工具・武器)を大量に持っていた九州中部(熊本)の勢力と思っています。

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その事は、発掘された遺物からも分かります。

佐賀県の吉野ケ里遺跡の銅剣・銅矛・銅矛巴形銅器の鋳型ですが、吉野ケ里ではこれらを生産していたのです、それも弥生前期に。 ここで出土するのは、細形銅剣ですから、中広形や広型に発展する前の段階、弥生前期の銅製品なのです。
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このように、弥生前期から脊振山の南側は発展していました。
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そこへ、狗奴国との争いが起こり、弱体化した北部九州に熊本の勢力が侵入してきました。彼らは鉄を使い石を削ることができました。

鉄の工具を持った彼らの生産力は高かったし、農業生産だけではなく、交易も抑えたのではないでしょうか。彼らは航海技術にたけていて貝の交易をし、半島にも容易に渡ることができたと思います。

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関行丸古墳には、貝輪が出土しています。海の民がもたらしたものです。鹿児島県の種子島、熊本県の宇城市、玉名市の貝輪とも共通します。

ここには金銅製冠帽が出土していました。特別の首長だった証拠でしょう。


首長は死して神となった・関行丸古墳

「この関行丸古墳の所在地は、佐賀市久保泉町川久保字神上(かみあげ)所属し、俗称関行と称している。」と古墳の報告書に書かれています。何と、川久保の神上という地名なのです。

つまり、この地に眠る首長は「神」になった人なのですが、墓制は石棺ではありません。徐々に別の勢力が浸透していたのです。
日ノ隈山、帯隈山の辺りは佐賀の脊振山の南の古墳文化の中心地で、そこに「神上」の字名がありました。そして、関行丸古墳・熊本山古墳・浦山古墳は直線でつながりました。
浦山古墳の家形石棺には、直弧文(ちょっこもん)

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浦山古墳から祭祀線を引くと、地域を越えた古墳とつながりました。この時代の交流は大きかったのですね。直弧文を持つ首長墓として、石人山古墳(八女)・井寺古墳(熊本県・緑川流域)があります。千足(せんぞく)古墳は岡山県の古墳です。
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浦山古墳と石人山古墳は石棺に直弧文が彫られていますが、井寺古墳は石障です。同じ首長墓でも、ルーツがやや違っているのでしょう。
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そして、とうとう九州の家形石棺の墓制は消えていきます。石棺文化は東に大移動するのです。
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古墳時代には、鉄の工具で石を刻む王族が、石棺を発展させました。
つまり、石棺の発祥地は熊本でした。
倭国となった北部九州の勢力は、農業生産力と鉄の技術力を持ち、石を加工し大きな富を得たことでしょう。

しかし、富は抗争を呼び起こし、石を使う勢力の内部分裂で石棺や鉄工具は全国に広がり、その権力争いや再編成が連続して起こり日本は政治的画期を迎えたのだと思うのです。その事が人口移動を引き起こしたと。結果、

鉄の技術を持った倭国の勢力は、日本海ルートを使って関東にまで進出した。

そのルートは鏡と鉄製品・文化や言葉や地名や食料の移動で辿れると思うのです。丹後半島から渥美半島へ陸路を通り、関東に北上したと思います。やがて、瀬戸内海の島々を抜けて、大阪・和歌山から畿内にも入ったと。それは、家形石棺の文化を伴った移動だったのです。

畿内勢力が九州に侵入したのではなく、九州勢力が畿内に侵入したのです。

邪馬台国の滅亡の時に先に東へ移動した人たちがいて、九州からの侵入者や移入者を受け入れたり抵抗したりして、様々に葛藤が起きたかも知れません。

それまでも人の交流は自然にあったと思いますが、支配者の移動は自然ではありません。
無理を通して、あるいは強引な方法で、武力を使っての侵入となりましょう。侵入した側が自分のルーツの石棺を望むのは自然な気がします。それが、熊本からの石棺の移入となったと。

今のところ、石棺は九州からの献上品とされて、一件落着となっています。
ホントですか? 蘇我氏も植山古墳(改葬前の推古天皇陵)も阿蘇石を使っていますよ。

では、推古天皇も、蘇我氏も、九州と関わりが深いと云うことですね。
この事に触れなければなりませんね。
今日は、ここまで

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# by tizudesiru | 2018-06-09 16:27 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback

浦山古墳・石人山古墳(八女)井寺古墳(熊本)は直弧文で結ばれる

浦山古墳は久留米成田山の本堂の隣にあります。
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本堂に参拝して、鍵と懐中電灯を借していただきまます。
それから、隣の小高い森に進みます。すると案内板と階段が見えます。
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階段の先に建物。これが石室を保護する建物です。トビラを開けます。
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石室を上からのぞくことになります。
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縄掛突起のある組み合わせ式の家形石棺です。石棺の内側に直弧文の彫があります。この紋様が上津校区の文化財マップの表紙を飾っています。
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浦山古墳は、5世紀後半に造られたとされる現存60mの帆立貝式(ほたてがいしき)前方後円墳で、後円部の横穴式石室に妻入横口式(つまいりよこぐちしき)の家形石棺が納められています。家形石棺の屋根には4個の環状縄掛突起があり、入口は「はめ込み扉」とそれを押さえる閂(かんぬき)を持った精巧な作りをしています。石棺の内面は赤く塗られ、直弧文が彫られています。

直弧文は、筑紫君一族の墓という筑後市の石人山古墳にも彫られています。同じ筑紫君一族なのでしょうね。

遺物についてはよくわかっていませんが、勾玉・金環・刀剣・甲冑が出土したと伝わります。
では、熊本山からの祭祀線以外も何処とつながるか見てみましょう。
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赤は、白鬚神社・関行丸・熊本山・浦山古墳のライン。
黄色は、風浪宮・(浦山古墳)・高良山・高住神社(英彦山)のラインで、夏至の日の出のライン。
緑色は、浦山古墳。石櫃山古墳(久留米市)・西館古墳(久留米市)・田主丸大塚古墳と筑後川流域の古墳を4か所つなぐ。
水色は、浦山古墳・丸山古墳(八女丘陵)・方保田(山鹿市)の古墳をつなぐ。
ピンクは、浦山古墳・江田船山古墳(菊池川流域)・井寺古墳(緑川流域)
ピンクラインの江田船山古墳には横穴式石室に妻入家形石棺が置かれ、井寺古墳には石障に見事な直弧文の装飾があります。まんざら無関係とは思えませんが、井寺古墳は関行丸古墳とおなじく石棺ではありません。石障(石の間仕切り)が在るのです。死床を持つ横穴式石室は熊本から入った文化でしょうか。

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成田山は「浦山古墳の主を慰め鎮めるために造られた」という話は、とうとう聞けませんでした。この話を知っている人、教えてくださいね。
この古墳はなぜ、「うらやま」と呼ばれるのですか? まさか恨み山ではありませんよね。
では、この辺で。


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# by tizudesiru | 2018-06-08 00:31 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback

熊本山古墳の被葬者は何者なのか

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日本一の舟形石棺の被葬者とは、何者か?!

日本一長い石棺の被葬者ですから、只者ではないでしょう。熊本山古墳の被葬者は、倭王の近親者だったのでしょうか。
そう思って副葬品の鉄剣を見ると、折り曲げられています。何故?

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何か理由があるでしょうね、日本一の長い石棺に副葬するのにわざわざ折り曲げるのですから。
この熊本山石棺より古い日本で二番目に長い舟形石棺が、熊本県宇土市で出土しています。あの阿蘇ピンク石=馬門石で有名な宇土市です。その向野田古墳の石棺を見ましょうか。

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向野田古墳の舟形石棺、被葬者は女性です。


石棺は、弥生時代後期の組み合わせ式箱形石棺から始まるのでしょうか。熊本では舟形石棺・家形石棺が多く造られています。石室も石棺直葬から竪穴式石室、横穴式石室と変化します。横穴式石室の時代には、装飾古墳が浸透してきます。この辺りで石棺から石屋形と呼ばれる様式に変化するようです。石室の石も小口から大石に変化していきます。それは、倭五王の時代と重なるのです。九州に倭五王がいたのなら、彼らは石棺に眠っていることでしょう。それも、倭王讃・倭王珍の時代は家形石棺になっているでしょうか。

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日本で二番目に長い「向野田(ムコウノダ)古墳」(前方後円墳・89m)の石棺は、小口の石を積み上げた竪穴式石室に置かれています。熊本県の宇土半島本部は、熊本では最も早く前方後円墳が築造された地域です。宇土市や八代市の博物館では、4世紀後半(350年以降)に向野田古墳を置いています。(ここには、まだ、三角縁神獣鏡が出現していません。)
そして、石棺直葬の熊本山石棺(4世紀末)より古い設定になってます。

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4世紀後半なら、熊本山石棺の被葬者は、倭五王の父や祖父の時代になるのでしょう。

長崎(壱岐・対馬をのぞく)佐賀・熊本は、古代の火の国(肥国・火国)でしたね。その頃の火国の中心は、古墳の状況から宇土半島基部から氷川流域だそうです。そうであれば、同じ文化圏ですから石棺は似たものが作られたでしょう。
 
それにしても、熊本山石棺の折り曲げられた鉄剣には、何か違和感があります。30mほどの円墳に石棺直葬というのも気になります。円墳の周囲には箱式石棺が何基も取り巻くように在ったのです。この人たちは、家臣か親族でしょう。ともに葬られたのは殉死でしょうか。それも前方後円墳でも竪穴式石室でもなく、30mの円墳の周りに埋葬、です。

こんな、謎だらけの熊本山古墳は、帯隈山神籠石に取り込まれています。しかも、「熊本山」だなんて、どんな伝承があるのでしょうね。
 

今日は。ここまでにします。

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# by tizudesiru | 2018-06-04 00:18 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback

日本一長い石棺を出土した熊本山は何処にある?

熊本山古墳の所在地を探しました! 何処ですか!
博物館で聞いても、地図やネットで調べても、熊本山古墳の所在地が分かりません。
でも、熊本山を見たいと思いました。分かっているのは、

「久保泉町川久保の熊本山は、清兵衛山から連なる丘陵で独立丘となっている。標高は55mくらいである。」

久保泉は何度も通ったところでした。帯隈山神籠石や神代神社がありますから。しかし、熊本山は聞いたことがありません。たぶん何気なく見過ごしていると思います。
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清兵衛山を見つけました。帯隈山神籠石の内側に!
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案内板は以前来た時には見ていませんから、別ルートで来たのでしょうね。
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帯隈山と神籠池の堤が見えます。
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帯隈山・神籠池・清兵衛山。そして、ミカン山として開発された熊本山、ありました。
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これが、熊本山に違いありません。何度も通っただろう道の横にありました。

出かけるので、また後で

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# by tizudesiru | 2018-06-02 09:45 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback

熊本山古墳(日本一長い石棺)の被葬者は何者なのか

日本一長い石棺を持つ熊本山古墳の不思議
前回、熊本山から出土した石棺の紹介をしました。石棺を見ると、古墳時代前期のように思えました。横穴式の石室ではありません。古墳に直葬されていたのですから。
博物館には、熊本山古墳と谷口古墳の副葬品が同じ所に展示されて「古墳時代中期」とされていました。
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(展示物の上部が熊本山古墳、下部が谷口古墳)
谷口古墳(佐賀県唐津市)は日本海側の玉島川の下流付近にある前方後円墳ですが、熊本山古墳は久保泉のの丘の上の30mほどの円墳だそうです。
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そうですか、これは熊本県八代市とつながる石棺なのですね、と思ったらどうしたことでしょうか。

石棺の石材の産地が違うのは、何故?
さがの歴史・文化お宝帳(佐賀市地域文化財データベースサイト)では、次のように説明されています。

熊本山古墳の説明文
佐賀市久保泉町川久保にある標高
55.5メートルの熊本山の北側高所から箱式石棺1、南側高所から箱式石棺5基と舟形石棺1基が昭和36(1961)に出土した。

舟形石棺は、径30メートル余りの円墳と思われる高まりの土中に直接埋置されていた。福岡県八女(やめ)地方産の阿蘇熔結凝灰岩を3室に刳りぬいた身と蓋(ふた)からなる石棺は、長さ4.3メートル、最大幅88センチメートル、身の最大高53センチメートルと長大で、内面は赤く塗彩されている。身・蓋とも刳り抜きや両端にある孔は対応し、身の両側面にも円孔が見られる。身の底部は、舟底形を呈しゆるやかな曲線をえがき、内部は、主室を中心に両端に副室を設けておりその構造は舟型石棺の名称にふさわしいものである。
中央室の刳り抜きは長さ2.03メートルで、造り出し枕に頭を置いた人骨1体と差し違えてもう1体の人骨があり、鉄剣2口・鉄刀1口が出土した。中央室の両側にある小形の刳り抜きのうち、枕側の北室に多くの副葬品が納められており、南室からは用途不明の鉄製工具1個が発見されたのみである。
北室からは、革綴(かわつづり)式の短甲(たんこう)1具、四獣鏡1面、鉄剣1口、釶(やりがんな)1個、鉄針1本、ヒスイ製とメノウ製の勾玉(まがたま)1個、碧玉製管玉(へいぎょくせいくだたま)18個、水色のガラス製小玉162個、碧玉製紡錘車(ぼうすいしゃ)2個が出土した。獣帯鏡(10.7センチメートル)徳島県節句山2号古墳出土鏡と同じ鋳型で鋳造されたもので、熊本山のものが後鋳品である。
この舟形石棺は、その構造および副葬品などからみても、畿内地方の文化の影響を強く受けた5世紀前半ごろの所産であると考えられる。


と、書かれています。重要な情報は、

① 箱式石棺と舟形石棺(4・3mで日本一の長さ)が出土。石材の産地は八女? 八代?

② 舟形石棺は周囲の箱式石棺とは違う30mの墳丘に直葬されていた。

③ 造り出し枕に頭を置いた人骨1体、差し違えて人骨1体。同じ石棺に2体

④ 皮綴短甲の副葬、四獣鏡・鉄剣・ヤリガンナ。

⑤ 獣帯鏡は徳島県節句山2号墳と同范鏡。
⑥ この舟形石棺は、構造・副葬品から見ても、畿内地方の文化の影響を強く受けた5世紀後半の所産である


⑥は驚きました、舟形石棺の構造と副葬品が畿内の影響
そうですか? 古墳時代となるので畿内が出てきますか? 大きな違和感がありますね。畿内が入り込むなら、何らかの闘争があったでしょうね?
無理がありませんか?
それで、畿内の影響とするために「熊本県八代地方」から「福岡県八女地方」に説明文が書き換えられたのですね。わたしの目には、熊本山石棺は普通に熊本県の舟形石棺がルーツだと見えますが。
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あらためて、谷口古墳と比べてみなくてはなりませんね。
谷口古墳は、竪穴系横口式石室で、熊本山古墳は舟形石棺直葬です。大いに違いますし、古いのは熊本山古墳の方ですね。
それは、次回に。




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# by tizudesiru | 2018-06-01 11:10 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback

日本最長の舟形石棺は、佐賀県立博物館に在る

脊振山地の南・佐賀県の古代豪族と倭国の関係
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(背振山地は南の有明海と北の玄界灘の間に連なる山塊で、南北では気候も生活環境も違いますが、南では古代から吉野ケ里のような弥生文化が開け、北では伊都国が目を光らせていました。) 
 
 倭国と日本国の関係はよく話に出ますが、倭国内の関係、つまり九州内の豪族の興亡や関係についてはあまり話に出ません。わたしは、倭国内の結びつきが気になるのです。九州で倭の五王の時代となると、石棺の時代になります。弥生の甕棺から組み合わせ式石棺となり、舟形石棺の直葬が現れて、家形石棺、横穴式石室、装飾古墳と変化していきます。順番がだいたい決まっているのですが、装飾古墳は6世紀とされています。石棺の時代から装飾古墳の時代なったのは、何か大きな出来事が起こり墓制が変化したのではないかと思うのです。
5世紀のおわりから6世紀初めにかけて、何かがあった……
つまり、舟形石棺の時代は倭の五王と重なるのですね。

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 わたしは舟形石棺の大きいものは熊本に在ると思っていましたが、10年ほど前「日本最長の舟形石棺は、佐賀県出土のものだと聞いたのです。佐賀県立博物館のロビーに置いてあるのを見たことはありましたが、今回改めて見せてもらいに行きました。
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熊本山古墳(佐賀県・久保泉町川久保字熊本山)の舟形石棺です。石棺の側面が底に向かってカーブしてます。それで、舟形と云うのでしょうね。博物館の展示室には、もう一つ石棺が在りました。
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写真の状態で発掘されたのですね。被葬者の横に鉄剣があります。
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 こちらは蓋の様子から家形石棺だと思ったのですが、舟形石棺となっています。ロビーに置かれていた舟形石棺と同じ佐賀市久保泉の川久保の「久保泉丸山3号墳」の石棺です。二つの古墳は同じ地域の古墳ですね。
久保泉丸山3号墳には、人骨が三体とは…被葬者の足元に固めてあったのですね。
更に、熊本県の菊池川流域の玉名市宮ノ後古墳の石棺とよく似ているそうです。


そうですよね。菊池川流域には家形石棺・舟形石棺、いろいろ出ていますからね。この辺りの豪族も熊本の豪族と親戚関係にあったのですかね。

彼らは何かあったら共に戦ったのでしょうか。それとも敵対したのでしょうか。気になります。それから、前回紹介した白山神社があった福岡県糸島市二丈町にも、舟形石棺が出土しています。糸島高校博物館に置かれていました。
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 御見事な石棺ですね。加工がきれいで中には丹が塗られていたそうです。

 ふうむ、なるほど、ですね。三例の舟形石棺を見ました。
 然し、三例の舟形石棺は、「舟形石棺」としてまとめられていますが、違いがありすぎますね。
 どのように理解すればいいですかね。どう見ても、一番古いのは、熊本山石棺のように思います。次は丸山古墳で、最後が二丈町のものですかね。タガネの技術がスゴイですね。熟練工が何処にもいた時代なのでしょうね。
 
こうしてみると、熊本と脊振山地の南側は早くから結びつき、その力は脊振の北にも広がったのですね。では、倭の五王の時代には、熊本の勢力の影響が脊振の南側から北側に広がり、石棺の文化は畿内まで伝播した、ということですか。

石棺はいろいろ語ってくれますね。佐賀県立博物館は、佐賀市の中央・城内に在ります。
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また、明日。

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# by tizudesiru | 2018-05-26 23:19 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback

白山神社は菊理姫(白山姫)を祀る

福吉は白山神社で、白山宮ではありませんでした。
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明治になって神楽の奉納が始まったようですね。白山神社だから「福井神楽」と読んでるんですかね? それは、筑前の田島郷から伝えられたというのですか? では、福井県とは直接の関係はないのですね。ここには、ひっきりなしに参拝者が在りました。
神社の傍をちいさな小川が流れていて、静かな集落です

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此の神社から浮嶽は見えませんが、後ろの山を地域の人に訊ねると「浮嶽です」と答えてくださいました。二丈町や唐津氏の人には、浮嶽は特別大事な信仰の山のようでした。
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しかし、この白山神社から浮嶽は見えません。神社の横に見えるのは、十坊(トンボ)山です。修験道の坊が十カ所もあったから着いた名前なのだそうです。
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此処も、境内社が沢山ありました。おや、前回の「白山宮」と比べると末社のご祭神がかなり違いますね。白山宮とはあまり離れていないのに、違いが大なのですね。

白山宮の御祭神の写真を見直しましょうか。(白山宮に合祀されていた神社)
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末社のご祭神は、本当に違いますね。二つの神社は距離的には近いのに、住んでいる人の考え方が違っていたのでしょうかね。
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この白山神社にも千木はありませんね。
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拝殿の階段の横に注連縄を掛けた石が在りました。何処の石でしょうか。十坊山か、浮嶽か、どちらでしょうか。
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白山神社から少し離れなければ、浮嶽は見えませんけどね。
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然も、この白山神社は糸島市の加也山と十坊山をつないだ直線上に乗ります。
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神楽殿に「福井大神楽」の看板がありました。福井じゃなくて筑前田島からの伝播でしたね。然し、白山のある福井の名を冠したのです。気持ちは分かりますよね。

すると、前回の白山宮の方がここより古いと云うことですかね。共通するのは、菊理(くくり)姫です。
では、また、明日。

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# by tizudesiru | 2018-05-26 11:07 | 347白山神社そぞろ歩き・福岡県 | Trackback

白山神社の御神体山は浮嶽ですか

白山神社(福岡県二丈町)に行きました
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725年(神亀二年)に白山比咋(咩?)大神=しらやまひめのおおかみ=菊理姫命(くくりひめのみこと) を勧請したと、由緒に在ります。
 かなり昔の人が福井県の白山を知っていて、自分たちの神を捨てて祭神を入れ替えたというのでしょうか。それとも、福井の人が故郷の神を連れて来たのでしょうか。
 はたまた、白山姫を勧請したのは、朝廷の意向でしょうか。
神亀元年(724年)は、元正天皇が甥の聖武天皇に譲位し改元した年です。その翌年、新しい平安な世を築くために朝廷の意向にかなった神を九州に持ってきたとか、九州の神の力を抑えようとしたとか、そのための政治的な意味での勧請だったのでしょうか。

二丈町の白山神社から見える山の名は、浮嶽です。

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沖の船からのランドマークとして浮嶽は有名です。陸に近づいて浮嶽を見ると沈むように見え、離れると浮き上がるように見えるので「浮嶽」という名がついてるのです。山頂には浮嶽神社があります。それにしても、その麓に「白山神社」とは、なんとなく地方信仰の神社としては違和感がありますね。
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近くの雷山山頂から浮嶽方面を見ると、羽金山・浮だけ・十坊山の山頂が連なっているのが分かります。ここは、三連山の信仰の山です。
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羽金山・浮嶽・十坊山(とんぼやま)は、ほぼ東西にならぶ三連山です。信仰の対象になる条件のひとつでしょうね。

浮嶽山頂には浮嶽神社がありますが、麓には白山神社があるのです。
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地図には、白山神社が三社あります。吉井宮ノ上の白山神社は、三社の真ん中です。
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此処には「白山宮」と書かれています。神社とは違うのですね。
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合祀社にたくさんの神様がおられました。
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本殿の屋根には五三桐の神文が在りました。
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此の神社を丁寧に掃除されていたご婦人に山の名前を訪ねましたが「知らない」という答えでした。
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この狛犬さんは、浮嶽を見ているのに…
明日は、もう一つの白山神社を訪ねます。
では、明日。

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# by tizudesiru | 2018-05-25 16:35 | 347白山神社そぞろ歩き・福岡県 | Trackback

有間皇子と柿本朝臣人麻呂は自傷歌を詠んだ

有間皇子と柿本朝臣人麻呂は自傷歌を詠んだ
「自傷歌」というキーワードがありますが、共通するものは何でしょう。
有間皇子・自傷歌と共通するのは、「刑死」ではありませんか。

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万葉集によれば「本朝臣人麻呂は石見国で死に臨んだ」という
死因は何か? 行き倒れか? 刑死か? 自然死か?
死に臨んでの「自ら傷みて作る歌」が223番歌です。有間皇子と同じように人麻呂も「自傷歌」を残しました。旅の途中で「人麻呂は行き倒れ」死したという説がありますが、そうでしょうか。
「自傷歌」という文字からして死に臨まされて、有間皇子と同じように刑死となったと、わたしは思います。万葉集の人麻呂の挽歌を読んでみましょう。

万葉集・巻二の223番歌
  柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に望む時、自ら傷みて作る歌一首
223 鴨山の磐根し巻ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ

  柿本朝臣人麻呂が死にし時、妻依羅娘子(よさみのをとめ)が作る歌二首
224 今日今日と吾が待つ君は石水(いしかわ)のかいに交じりて有りと云わずやも 
225 直(ただ)の相は相かつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ

 丹比真人、柿本朝臣人麻呂が意(こころ)に擬(なずら)へて報ふる歌一首
226 荒浪により来る玉を枕に置き吾ここに有りと誰か告げなむ

  或本の歌に曰く
227 天離る鄙(ひな)の荒野に君を置きて想いつつあれば生けるとも無し


 上の歌から分かることは、
人麻呂は石見国で死んだ。
その妻の依羅娘子は、夫の死に目には会えず死の知らせを聞いた。直に会えないから魂が雲となって石川に立ち上ってくれれば、それを見て偲びたいと詠んだ。(
不思議なことに、依羅娘子は石見の国に住んでいたはずである。人麻呂の131~139番歌は、石見国の依羅娘子と別れる時の歌である。二人は同じ石見国に在りながら逢うことができず、死後でさえ亡骸にも面会できなかった…その死を知っているにかかわらず、面会できていない。これも、人麻呂の死は尋常ではなく、刑死と考える所以である
。)
人麻呂終焉の地は 石見国の海か、はたまた荒野のどちらかだろう。
 224~7の一連の歌、人麻呂の死に対する三人の挽歌が万葉集に残されたのには、必ず意味がある。(死に臨んで自傷歌を詠んだ人麻呂に対して、少なくとも三者が時期を遅れて場所は違うが挽歌を詠んだ。このような例は、「有間皇子の挽歌」以外にあっただろうか。わたしは、記憶していない。)

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妻の依羅娘子(よさみのをとめ)と丹比真人(名は不明)と或本の歌の三人は、人麻呂の地位と身分と状況を十分に知って歌を詠んだ。*丹比真人の「真人」は、八色の姓の第一位であるから、この人は高貴な家柄で身分の高い人となる。
依羅娘子は、人麻呂が「石見国より妻と別れて上り来る時の歌二首、併せて短歌」(131~9)の歌群の後にある140番歌の女性である。
「柿本朝臣人麻呂が妻依羅娘子、人麻呂に与うる相別るる歌一首」
な念(おも)ひと君は言えども相はむ時何時と知りてか吾が恋ずあらむ
依羅娘子は相聞歌が詠める身分の高い女性であろう。

以上のことは読み取れます。




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死に臨んだ人麻呂。彼の死は「刑死」だった
もちろん、「人麻呂が自然死した」のなら、万葉集の理解が違ってきます。
万葉集を読む中で理解したのは「その編纂の時期と目的」でした。
「持統天皇が文武天皇の皇統を守る為に、その正当性と歴史」を叙事詩にした」と万葉集を理解しましたが、持統天皇と文武天皇の死後、即位した元明天皇にとってそれは毒薬となりました。

草壁皇子の出自が公表されれば、天武系の皇子達に謀反の糸口を与えかねなかったのです。そんな内容の歌集を編纂編集した人物だから、人麻呂は断罪されたのでした。そう読めるように編纂されていた重い歌集だったのですから。

この事は、前回までの「柿本朝臣人麻呂は何故死んだのか」で説明しています。

天武系の皇統を全て滅ぼした平安時代の天皇家にも万葉集は不都合だった。

 天智帝の皇統に戻った平安時代に「今更、蒸し返してほしくない事実が書かれていた」、それは、草壁・文武・聖武の皇統はもともと天智帝の皇統だったと云うことです。草壁皇子・文武天皇・聖武天皇の皇統こそ正統だったと、万葉集は主張していました。この事を理解した 平城天皇は、「平城京こそわが王統が引く継ぐべき京だ」と主張したのでした。
 父の桓武天皇が「極位が天智天皇の皇統に戻ったことは易姓革命だ」としたことは、平城天皇も承知していました。然し、実はそうではなかったと気がついたからこそ、奈良の都(平城宮)に戻ることを望まれたと思います。
平城天皇は万葉集を理解していたのです。然し、公表には躊躇された、今さら公にできない事実だったのです。
皇位継承に関して多くの旧臣を断罪し、多くの皇族の命を奪った後では、はなはだ不都合だったので、内容を分かりにくくするための編集の手を入れて世に出した、という次第です。

 天智天皇に引き上げられた藤原氏にとって、天武帝の皇統に極位を渡すことなどありえなかった、高市皇子や長皇子や新田部皇子に譲ることなど絶対にするはずがなかったのです。



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# by tizudesiru | 2018-05-23 17:19 | 346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ | Trackback

雄略天皇の御製歌は万葉集の冒頭歌

「すぎにし人の形見とぞ」2

では、万葉集の冒頭歌の紹介。泊瀬朝倉宮御宇天皇=雄略天皇の歌である。

この冒頭歌で雄略天皇は、菜を摘む娘に敬語を使っている。『菜摘ます子=菜をおつみになっている娘』と『家をおっしゃってください。名を名のってください』 求婚の儀式だろう。 

古代では名前を呼べるのは、特別な間柄か親族で、他人に名を知られるのを嫌った。

此の菜を摘む女性は高貴な家柄の姫で、儀式により婚姻が整おうとしている瞬間である。

これは「雑歌」=儀式歌の冒頭歌にふさわしい歌なのである。」

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万葉集巻一には、「雑歌」という「部立」があります。
「雑歌」とは、「雑なその他の歌」という意味ではないのです。「儀式歌・様々な公の場での歌」と云う内容の歌群をいいます。ですから、雄略天皇の万葉集1番歌も「雑歌」ですから個人的な歌ではなく、公的な場での歌になりますね。


万葉集の冒頭歌は、「こもよ。みこ持ち」この歌ですね。
 最近になって、平和で幸福な感じの婚礼の儀式歌だと、思えるようになりました。
もともと、万葉集は持統天皇が『平和で幸福な皇統の国造り』を願い、文武天皇のための教育書として作られたと、わたしは前回紹介しました。万葉集の性格からして、政変や悲運な出来事の歌が巻一の冒頭に置かれるはずはありません。特に巻一ですから、幸せと希望に満ちた冒頭歌のはずです。
 すると、巻一の最終歌も平安と希望に満ちたものになるでしょうね。そう思って巻一の最終歌を読むと、何だかまとまりのない形になっています。元々万葉集巻一最終歌には、別の「世を寿ぐ歌」があったでしょうに。
(他の巻は、様々な皇統の出来事・歴史に触れますから内容が重く苦しいものにもなるのは必然です。)
雄略帝の歌と対峙する巻一の最終歌は、どの歌だったのでしょうね。

 話は飛びますが、大伴家持が後期万葉集を編纂したと云われていますが、その最終歌「巻二十・4516 新しき年のはじめの初春の今日降る雪のいやしけよごと」となっています。家持は因幡守として詠んでいますが、この時の家持は失意のどん底にいました。それでも、寿歌を以って新年と国の平安を歌で祈り万葉集の最終歌としたのでした。なぜ、彼はこのように寿歌を持ってきたのでしょうか。

 それは、「初期万葉集」がそのような編集の仕方になっていたからです。彼は、人麻呂が編集したその形式を踏襲したと思うのです。後期万葉集の編纂・編集の仕方を見ると、初期万葉集の編纂編集の方向が見えると思います。
 わたしは、巻一は堂々と王統の歴史を語っていたと思いますから、雄略・舒明・皇極・(孝徳)・天智・天武・持統・文武の御代の歌が並んでいたと、思います。

巻一の冒頭歌をはじめて読んだ時、雄略天皇という存在がか細く思えたのでした。万葉集釋注(伊藤博著)では次のように解されています。
「おお、籠(かご)、立派な籠を持って、おお掘串(ふくし)、立派な掘串を持って、ここわたしの岡で名を摘んでおいでの娘さん、家をおっしゃい、名前をおっしゃいな。幸(さき)わうこの大和の国は、くまなくわたしが平らげているのだ。隅々までもこのわたしが治めているのだ。が、わたしの方からうち明けようか、家も名も。」

泊瀬朝倉宮天皇は、自分こそが大和を平らげていると娘さんに告げていますから、大和を統治していたのでしょう。でも、飛鳥にはまだ入っていなかったと云うことですかね。次の舒明天皇の歌を読むかぎり、そう云うことになりますね。
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日本書紀で雄略天皇の系譜をおさらいしてみよう
スタートは応神天皇でした。



応神 九州より攻め上る。忍熊、香坂皇子と戦って王位を奪う。
仁徳 大鷦鷯(おほさざき)天皇。菟道稚郎子の自殺により即位。
履中 去来穂別(いざほわけ)天皇。母、葛城襲津彦の娘・磐之媛。住江仲皇子の謀反。磐余の若桜宮に即位。平群・蘇我・物部が仕える。筑紫の三女神「どうして我が民を奪ったのか。わたしは今、お前をはじいらせよう」車持君が筑紫で罪を犯す(何故か、九州の神の話
反正 瑞歯別(みずはわけ)天皇。履中帝の同母弟。河内の丹比(たじひ)を都とする。柴籬宮(柴垣の宮)
允恭 雄朝津間稚子宿禰(おあさつまわくごのすくね)天皇。反正天皇の同母弟。太子木梨軽皇子の逸話(同母妹との姦通罪により追い詰められ自殺)
安康 穴穂天皇。木梨軽皇子の事件により即位。叔父の大草香皇子を殺し、その妻の中蒂姫(なかしひめ)を皇后に据え、その連れ子の眉輪王に殺される。
雄略 大泊瀬幼武天皇。吉備上道臣田狭を任那にやり、その妻を奪う。皇位継承者を次々に殺害。
清寧 白髪武広国押稚日本根子(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこの)天皇。母は、葛城韓媛。雄略帝の妃であった吉備の稚媛(もと吉備上道臣田狭の妻)が子(星川皇子)をそそのかし謀反を企てたが、共に焼き殺される。
顕宗 弘計(をけ)天皇 父親を殺され兄(仁賢)と与謝郡に逃げる。

仁賢 憶計(おけ)天皇。諱は大脚(おほし)、またの名は大爲(おほす)*旧本による。字名は島郎子(しまのいらつこ)、穴穂天皇(安康天皇)が崩御した時、丹波の余社郡(よさのこほり)に避難した。
武烈 無道の限りを尽くした (断絶) 


ふむふむ、なかなか大変な顔ぶれですね。ただ、此の天皇の宮は、橿原・桜井・大阪・天理・奈良に京を作り、允恭天皇(明日香村所在不明)顕宗天皇は(明日香村八釣)明日香に宮があったとされていますが、所在地は不明です。陵墓は羽曳野市・堺市・藤井寺・北葛城郡・奈良市などになっています。此の王朝は、香具山の王朝とは直接には結びつかないようですね。
 しかしながら、万葉集の冒頭には雄略天皇の名があります。此処に、どんな意味があるのでしょうね。
明日は、舒明天皇の国見歌(万葉集巻一・2番歌)を読みます。

では、明日。
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# by tizudesiru | 2018-05-22 00:10 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

天智天皇御代には優雅な歌、天武天皇御代には壬申の乱の後遺症

万葉集は、文武天皇のために編纂された「皇統の正当性と歴史」を伝える教育書であり、歌物語であるという立場で「すぎにし人の形見とぞ」を紹介しています。
今日は、㉙から始めます。
16~21番歌が天智天皇の御代の歌であり、22~27番歌が天武天皇の御代の歌である。そこには、詩歌はどのように詠まれているのだろうか。


万葉集巻一・天智帝御代と天武帝御代では、詩歌の編集意図が異なる


16~21番歌は、額田王4首)大海人皇子(1首)井戸王(1首)が詠んだ天智天皇の御代の詩歌で、宮廷の文化行事と近江遷都が詠まれている

*ここには百済救援「白村江敗戦」は詠まれていない。

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㉙ 巻一の「近江大津宮御宇天皇代・天命開別天皇・諡して天智天皇という」という標でまとめられ、此処に置かれている詩歌は、16~21の額田王四首と大海人皇子一首と井戸王一首である。

16番歌 「天皇、内大臣藤原朝臣に詔して春山の万花の艶(にほ日)と秋山の千葉の彩(いろ)とを競(きほ)い憐れびしめたまふ時に、額田王が、歌をもちて判(ことわ)る歌 」

17番歌「額田王、近江国に下る時に作る歌」、18番歌 反歌 

19番歌「井戸王が即ち和(こた)ふる歌」

20番歌 「天皇、蒲生野に遊猟したまふ時に、額田王が作る歌」 21番歌「皇太子の答えたまう御歌」

額田王は天智天皇の御代で大きな活躍をしていたということである。娘の十市皇女は、大友皇子の妃となって御子をもうけていた。親子ともに近江朝では幸せだったのである。

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㉚ 17・18番歌。おや、近江遷都の時、額田王が別れを惜しんだのは、天香具山ではなく、三輪山である。では、王家の本貫の山は三輪山だったと云うことになろうか。

饒速日の山だったことに。

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㉛ 天智天皇代に、額田王と大海人皇子の有名な蒲生野の歌もここに掲載されている。

20 茜さす 紫野ゆき 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る 

21 紫の にほへる妹を にくくあらば 人嬬ゆへに 吾れ恋めやも 

この歌は、天智天皇の遊猟(御猟)の時の歌である。

天智天皇の御代には、宮廷の文化的な行事の歌が掲載されている。

次の天武天皇代に詩歌はどのように詠まれているか


㉜ 天武天皇御代。次の王朝の明日香清御原宮天皇代の歌は、22~27の六首で、十市皇女が伊勢神宮に参赴する時に吹芡刀自が作った歌、麻續王が流される時の人の哀傷歌、それに和する歌、天皇御製歌、或本の御製歌、更に天皇御製歌となっている。 

22番歌 「十市皇女、伊勢の神宮に参赴(まゐで)ます時に、波多の横山の巌(いはほ)を見て、吹芡刀自(ふぶきのとじ)が作る歌」で始まる。これを当時の読み手は、どう受け止めただろう。


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㉝ 十市皇女が伊勢に参赴する時の歌

22 河の上の ゆつ磐むらに 草むさず 常にもがもな 常(とこ)処女(おとめ)にて

天武四年、大伯皇女が伊勢の斎宮となったので、阿閇皇女と共に十市皇女も伊勢を訪れた。この時、吹芡刀自が作って奉った歌である。壬申の乱後、近江朝の総大将の妃であった十市皇女が、夫を失い子の葛野王を連れて天武帝に引き取られた後に行われた伊勢神宮への参赴であった。「水量の多い河の中にある聖なる岩々には草も生えていない。その岩のように常に変わらずありたいものだ。ずっと乙女であるように」

十市皇女は常処女でいることはできなかった。それゆえ、天武7年に宮中で突然命を絶ったのだろう。天武天皇は、十市皇女の薨去に対し、嘆き悲しんだ。本来なら、近江朝の皇后となったかも知れない人の、はかない人生を嘆いたのかもしれない。天智朝を倒した天武帝は「敵将の妃だったとはいえ、娘に再び幸せになってほしい、やり直してほしい。」と願ったのか。十市皇女の運命を知る当時の人は、壬申の乱の悲劇を思い出し、胸を痛めたに違いない。


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㉞ 天武天皇の御製歌25・26番歌は、吉野からの逃亡の歌である。壬申の乱は、天武天皇にとって、人生最大の難局だったのである。

27番歌の『芳野よく見よ』の歌は、十市皇女の薨去の翌年の天武八年「吉野行幸」の時の歌である。皇太子決めをするための「吉野盟約」が行われたとされる時の歌である。然し、この後の歴史の展開を見ると「皇太子決め」だったとは読めない。ただ、天武天皇の大喜び・歓喜の歌から、吉野行幸は特別だったに違いない。それは、暗黙の裡に皇太子となっていた草壁皇子のみならず、天武と天智の双方の皇子が兄弟の契を交わして対等になった「喜びの会合」だったからではないだろうか。永年の重荷を下ろしたという…更に、大津皇子も極位を望むことができると、天武天皇は考えたとわたしは思う

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壬申の乱による後遺症の歌以外には、麻績王の流罪の時の哀傷歌がある。
麻績王がどんな罪だったのか分からないが、世の人は彼に同情したのである。
当時の人には、説明がなくとも事件の顛末は分かったであろう。このように、天武天皇代の歌に宮廷の華やかさはない。
むしろ、悲劇の歌が掲載されている。



天智帝と天武帝の御代では、編集意図が違いすぎる
天智帝と天武帝の御代で取り上げた歌の扱いは、真逆である。
短い天智朝では王家の行事が歌われ、長い天武帝の御代では「皇女の悲劇」など壬申の乱の後遺症が詠まれている。この編集の違い、これはどうしたことか。此処に、持統天皇の本音が見えてくる。


そして、これが文武天皇に伝えようとした皇統の歴史なのである。


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また、明日。

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# by tizudesiru | 2018-05-22 00:07 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

持統天皇の御代に人麻呂は登場し、天皇の傍近くで活躍した

 初期万葉集は、柿本人麻呂が編纂した。持統天皇の勅を受けて文武天皇のために「分かりやすい皇統の歴史書」として完成させたが、文武天皇の崩御により元明天皇に献上する他なかった。然し、元明天皇は激怒し、人麻呂は刑死することになった… という立場で、「すぎにし人の形見とぞ」を紹介しています。

今回は㉟からで、持統天皇の御代の歌になります。

持統天皇の御代にはどんな出来事があり、どんな歌が詠まれたのか

 持統天皇の天香具山の歌と在位中の行幸から浮かんでくる謎

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 持統天皇には常に謎が付きまとう。その代表歌を再確認してみよう。

巻一の28番歌の題詞には「藤原宮御宇天皇代、高天原廣野姫天皇、元年丁亥十一年 軽皇子に譲位  尊号太上天皇と曰」と書かれている。そして御製歌。

28 春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香久山

万葉集の秀歌であるが、叙事詩とすると『耐え忍んだ冬が終わりやっと春が来て、その春も過ぎいよいよ夏が来たらしい。氏神の香具山に神祭りのしろたえの衣を干しているではないか。やっとわたしの時代、天の香具山の皇統の時代になったのだ。』と読んだ。持統帝が実権を握ったのは晩年だったが、これから自分の思いを貫くのだという決意の表れた歌なのだ。だが、一体、いつ詠まれたのだろうか。歌の意味と即位後の持統帝の行動とがかなり結びつかないのである。


律令政治に切り替えた持統天皇は、吉野行幸を繰り返した
 持統四年(690)即位、持統帝はそれまでの天武天皇の皇親政治を止め律令による政治を目指したらしく、太政大臣(高市皇子)と右大臣(多治比嶋)の儀政官の任命をしている。自分の時代には天武天皇の政治は引き継がないと、やりたいように政(まつりごと)をするという決意の表れでもあろう。

だが、それにしては天皇が都に居ないのは何故だろうか。持統帝は常にお出かけしているのである。吉野行幸だけでも三十数回ある。他にも親しい明日香皇女の田荘に行幸、紀伊行幸や伊勢行幸と在位中に留守が多いのである。天皇が不在でも行政は役人が行うであろうが、宮廷の祭事や神事はどうだろうか。天皇の吉野行幸は多すぎて、即位後に持統帝による神事が定期的に行われたかどうか疑わしいのだ。即位は持統四年で称制期間の三年を経た後であるが、行幸の回数を見てみよう。

持統三年の三月から吉野行幸が記録されている。三年(1、8月)四年(2,5,8,10.12月)五年(1,4,7,10月)六年(5,7,10月)七年(3,5,7,8,11月)八年(1,4,9月)九年(2,3,6,8,12月)十年(2,4,6月)十一年(4月)、  年に三回から多い時には五回と、回数の多さに驚かされる。
持統天皇は、何を考えていたのだろう。


持統天皇が作ろうとした教育書は、軽皇子の為だった

草壁皇子が薨去した年、持統天皇は皇子達の教育のために「撰善言司」を置き教科書造りを始めた。何より軽皇子(文武天皇)の為であったと思われる。

持統天皇は皇子達に良い教科書を与えようとした⇒万葉集に発展したのではないか

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㊱ 
持統天皇が即位したのか、しなかったのか、様々な説がある。年表を見ると天武天皇崩御の後、三年間空位であった。そこで持統帝は何を考えたのか。持統三年「撰善言司」を置くとあるが、目的は何だろうか。

草壁皇子の死後、皇統のための歴史書・文武帝や他の皇族の為の教科書が必要だと持統帝は思った。完成しなかったのは、他の方法を考えたからではないか。持統帝は真剣に教育書が必要だと思っていたのである。万葉集は、この「教育書としての役割を担って編纂された」と私は思う。

年表から、高市皇子太政大臣に任じすべてを委ね、紀伊国へ行幸したと読むことができる。

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人麻呂は持統三年には登場し、持統天皇の傍近くで詩歌を献じ続けた

㊲ 持統天皇の御代は圧倒的に歌の数が多い。柿本人麻呂の活躍も大きい。
 柿本氏の出自は、天足彦国押人命の後、敏達天皇の御世家門に柿樹があったので氏名とした。(姓)祖は孝昭天皇皇子、天押帯日子命(記)。天武十年(681)十二月と、和銅元年(708)四月の柿本猿(佐留)との関係も論じられている。

万葉集で年次の明らかなものは、持統三年(689)の日並皇子殯宮挽歌、同十年、高市皇子殯宮挽歌、文武四年(700)明日香皇女殯宮挽歌が挙げられる。ただ、天皇に対する挽歌はない。また、人麻呂は、和銅三年以前に没したというのが定説である。

人麻呂作歌(長歌19、短歌69)人麻呂歌集(長歌2、短歌332、旋頭歌35)人麻呂の歌中(短歌3)此の数の多さから、万葉集の編纂者は人麻呂以外に考えられない。

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持統天皇の御製歌の次の歌は、近江朝を偲ぶ歌

持統天皇代、圧倒的にこの御代の歌が多いので、「持統万葉」などと「初期万葉」は呼ばれている。持統天皇代の歌を見てみよう。

「藤原宮御宇天皇代・高天原廣野姫天皇・元年丁亥十一年 軽皇子に譲位す・尊号を太上天皇と曰」とあり、「春過ぎて」の有名な歌に始まる持統天皇代の歌が並ぶ。持統帝代の詩歌の題詞をあげてみよう。{☆は、人麻呂の作歌 △は、慶雲三年(706)持統天皇崩御後の歌となる}

28番歌 天皇御製歌、

☆29番歌 近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌(長歌)と反歌二首(30,31番歌)

 32・33番歌 高市古人、近江の旧き都を感傷しびて作る歌 或る本には高市連黒人といふ

 34番歌 紀伊国に幸す時に、川島皇子の作らす歌 或は、山上臣憶良作るといふ

 35番歌 勢能山を越ゆる時に、阿閇皇女の作らす歌   ◎阿閇皇女は元明天皇

☆36・37番歌 吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌(長歌)と反歌 

◎持統三,四,五年のいずれかの従駕

☆38・39番歌(吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌)長歌と反歌 

☆40・41・42番歌 伊勢国に幸す時に、京に留まれる柿本朝臣人麻呂が作る歌 ・三首

43番歌 当麻真人が妻の作る歌

44番歌 石上大臣従駕にして作る歌

☆45・46・47・48・49番歌 軽皇子、安騎の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌 ・長歌と短歌四首

50番歌 藤原の宮の役民の作る歌

51番歌 明日香の宮より藤原の宮に遷りし後に、志貴皇子の作らす歌

52・53番歌 藤原の宮の御井の歌(長歌)と短歌

54・55・56番歌 大宝元年辛丑の秋の九月に、太上天皇、紀伊国に幸す時の歌・三首

57・58番歌  二年壬寅に、太上天皇、三河の国に幸す時の歌・二首(長忌寸意吉麻呂、高市連黒人)

59番歌  誉謝女王が作る歌

60番歌  長皇子の御歌

61番歌  舎人娘子、従駕にして作る歌

62番歌  三野連、入唐する時に、春日蔵首老が作る歌 ・大宝二年六月

63番歌  山上臣憶良、大唐に在る時に、 本郷を憶いて作る歌 ・大宝二年

64・65番歌 *慶雲三年丙午に、難波宮に幸す時 志貴皇子の作らす歌 長皇子の御歌 △  

66・67・68・69番歌 太上天皇、難波宮に幸す時の歌 ・四首(置始東人 高安大島、身人部王、清江娘子)・

70番歌  太上天皇、吉野の宮に幸す時に、高市連黒人が作る歌    ・大寶元年か?

71・72番歌  大行天皇、難波の宮に幸す時の歌・二首(忍坂部乙麻呂、式部卿藤原宇合)・文武三年

73番歌  長皇子の御歌

74・75番歌  大行天皇、吉野の宮に幸す時の歌 ・二首(或は天皇御製歌、長屋王)・大寶二年か?

  

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即位の年、持統天皇は紀伊国の有間皇子の所縁の地を訪ね、歌を詠ませた・人麻呂も紀伊国行幸に従駕していた?

 持統四年は即位の年だが九月には紀伊国行幸もしている。

持統四年(690)1月即位、2月吉野行幸、5月吉野行幸、6月泊瀬行幸、7月高市皇子太政大臣、多治比島真人を右大臣、八省百寮を選任。8月吉野行幸。9月戸籍を作らせ、紀伊国行幸。10月吉野行幸。11月元嘉暦と儀鳳暦を施行。12月吉野行幸。

 吉野行幸も不思議なのだが、持統四年(690)の紀伊国行幸も不思議である。持統帝の即位は四年一月、前年の四月に日並(ひなみしの)皇子(草壁皇子)を亡くした後、残された阿閇皇女を連れての行幸だった。

孫の軽皇子に皇統をつなぐには持統帝の即位しかなかったのである。が、その即位後の吉野行幸、紀伊國行幸とは、持統帝は即位後に何をしたかったのだろうか。行幸にどんな目的があったのだろうか。
(阿閇皇女にも有間皇子事件を知らせ、皇子の霊魂を共に鎮魂をするためだったのか)
では、朱鳥四年の紀伊国行幸を読んでみよう。
(紀伊国行幸の歌は、明日取り上げます)

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持統四年は即位の年だが九月には紀伊国行幸もしているので、ほとんど都にはいなかったことになろうか。これでは天皇としての仕事も滞ると思われ、「持統帝は即位していなかった説」も生まれようというものである。すべてが高市皇子にゆだねられ、太政大臣高市皇子が政権の中枢に座りほぼ天皇と同じ立場となっていたことになるのだろうか。そうなると、軽皇子(文武天皇)が成長した暁には高市皇子の存在がネックになるではないか。高市皇子はその権力の象徴として、耳成山を北にして藤原宮を造営している。絶大な財力も彼の手にあったのである。それが為に軽皇子の元服の半年前に薨去となったのだろうか。しかも、万葉集の高市皇子の扱いは微妙である。其の力を認めながらもどこかでおとしめているように思われるが、これは気のせいだろうか。
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また、明日。


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# by tizudesiru | 2018-05-22 00:06 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

万葉集の不思議・持統天皇は近江朝と有間皇子を偲び続けた

今日の辺りは、すでに何度か書いたことと70%ほど重なります。
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初期万葉集は、端的にいうと「持統天皇が編纂させた史書である」としてブログを進めています。長いので少しずつ紹介しています。今日は、「すぎにし人の形見とぞ」の㉟からです。
持統4年の紀伊国行幸は、草壁皇子の薨去の翌年ですから、妻の阿閇皇女は夫の草壁皇子を当然偲ぶでしょうね。

草壁皇子の妃・阿閇皇女・前年に薨去した夫を偲ぶ歌

㊵ 
持統四年の紀伊国行幸で有間皇子事件を詠んだ川嶋皇子と草壁皇子を偲んだ阿閇皇女

朱鳥四年(690)四月、持統天皇は草壁皇子妃の阿閇皇女を連れて紀伊國に行幸した。阿閇皇女は天智天皇と石川夫人(姪娘)の娘であり、後の元明天皇である。皇女は前年4月に夫・草壁皇子と死別していた。残された三人の子どもたちはまだ幼かったので、軽皇子が七歳、氷高皇女が十歳で末っ子の吉備皇女は五歳くらいだが、都に残しての行幸だったのだろうか。

 勢能山を越える時、阿閇皇女の御作歌

35 此れやこの倭にしては我()が恋ふる 木路()にありとふ 名に負ふ勢の山

 
 阿閇皇女は、背ノ山を越える時、草壁皇子を偲んだ。背ノ山を越えると紀伊国である。船で紀ノ川を下れば、背ノ山と妹山の間を抜けるとやがて川幅が広がり紀伊國の風景が広がる。

「紀伊国への路に有るという背ノ山のことは倭でも聞いていました。川を挟んで妹山と向き合っている背ノ山をぜひとも見たいと日頃から思っていたのです。これがその名のとおりの背ノ山、そうなのですね。(背ノ山をやっと見たのだが、我が身は背の君を失っているので、背ノ山と聞くと草壁皇子を思い出して切ない。紀伊國の背ノ山が川を挟んで妹山と向き合ってはいるのは、まるで川を渡れない私と夫のようではないか)」夫を失って一年、まだ皇女の歌には喪失感が漂っている。女帝と皇女は草壁皇子を偲んで紀伊国でともに泣いたのであろう。持統天皇が異母妹で息子の妻の阿閇皇女を連れて紀伊国に行幸したのは、皇女を励ますためでもあったろう。そして、もう一つ目的があった。

持統帝は未だ悲しみの癒えない嫁に、この行幸で伝えたいことがあったのだ。同じ持統四年の紀伊国行幸の時の川嶋皇子の歌が、その事を示している。川嶋皇子の歌は巻一の34首目で、阿閇皇女の歌の一首手前にある。そこには何と有間皇子事件が詠まれている。

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㊶ 
 紀伊国に幸す時、川嶋皇子の御作歌 或は山上臣憶良の作という

34 白波の濱松が枝()手向け草 幾代(いくよ)までにか年の経ぬらむ

川嶋皇子の父は天智天皇、母は色夫古(しこぶこの)(いらつめ)姉は大江皇女である。大江皇女は天武天皇の妃となり、長皇子・弓削皇子を生んでいる。

「懐風藻」伝によると川嶋皇子は大津皇子と莫逆(ばくぎゃく)の契を結んでいたが、天武天皇崩御の後の十月、大津謀反を朝廷に密告した。その事で大津皇子は死を賜っていた。この密告の年・朱鳥元年八月には、川嶋皇子は「封百戸」を与えられている。持統天皇の信任厚かったということだ。持統五年(691)にも「封百戸」を与えられているが、同年九月に薨去した。それは、上記の紀伊国行幸の翌年のことである。

皇子川嶋のこの歌は、明らかに有間皇子事件の悲劇性を詠み、御霊を慰めている。「白波が寄せる浜辺の松の枝を神に手向けるように結んで祈ったという有間皇子。あの事件からいったい何年たったことだろうか。皇子のことを思うと心が痛む。幾年過ぎても皇子を忘れることはない」という大意になる。然し…

川嶋皇子は三十年前の有間皇子事件を生まれていないので知らないはずである。が、「幾代までにか年の経ぬらむ」と有間皇子を偲んだ歌を詠み、「紀伊国に幸す時」だから公的な場で持統天皇に献じたのであろう。すると、はたまた違和感が漂う。川嶋皇子の御作歌が詠まれた持統四年(690)は、前年に皇太子である草壁皇子を失った後の行幸であるのに、草壁皇子ではなく有間皇子を偲ぶとはどういうことだろうか。

有間皇子事件を知らない川嶋皇子が、なぜ「結び松」を詠んだのか

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㊷ 川嶋皇子の歌は、天皇の行幸に従駕して献じたものであるなら、行幸先の土地を誉め旅の無事を祈る歌になるはずだが、持統四年の行幸では有間皇子の霊魂を鎮めているのだ。

この時の行幸に従駕して献じられた歌は巻二「挽歌」にも残されているが、やはり有間皇子を偲ぶ歌である。行幸の目的は、有間皇子の霊魂を鎮めるためだったことになる。題詞に『紀伊国に幸す時、川嶋皇子の御作歌。或は山上臣憶良作ると云う』とあり、歌の左下にも『日本紀には、朱鳥四年庚寅の秋九月に、天皇紀伊国に幸すという』という脚がある。『紀伊国行幸』が題詞と左脚の両方に書かれているのは、これが事実であることを強調しているのだろう。此処の朱鳥四年の紀伊国行幸に関しては、巻一には阿閇皇女の歌と二首だけしか見当たらないが、あとは巻二の「挽歌」に掲載されていて、この紀伊国行幸が有間皇子を偲ぶ旅だったのは揺るがないのである。

 また、川嶋皇子の一首(三四)とよく似た歌は、巻九の「山上の歌一首」である。

1716 白波の 浜松の木の 手むけ草 幾世までにか 年は経にけむ(巻九)

左下の脚に「或は川嶋皇子の御作歌という」とある。山上とは、山上臣憶良のことである。この年、憶良も持統天皇に従駕して紀伊国に旅をしているので、その時のものであろう。なぜ、二人の人物の名が必要だったのだろうか。元歌は山上の方だが、川嶋皇子の御作歌なら更に無実の有間皇子の悲劇性を強調する、と万葉集編者は考えたということか。川嶋皇子が有間皇子を思うという姿が必要だったということだろうか。

有間皇子の事件からは三〇年以上のかなりの時を経過しているが、大津皇子事件からはわずか四年である。その記憶は誰にも新しいはず、まして川嶋皇子には生々しい記憶のはずである。

万葉集の編集意図としては、有間皇子の無実を際立たせるために大津皇子謀反事件の密告者である川嶋皇子の歌が必要だと判断したから、巻一の「雑歌」34に川嶋皇子の歌が置かれたのだろう。それも、持統天皇の前で公的に詠んだというのである。

つまり、朱鳥四年の紀伊国行幸に従駕した川嶋皇子の歌には、『わたしは大津皇子の謀反を許さなかったが、有間皇子の謀反は無実であると知ったので、このようにあの結松を見て、何年たったのだろうかと古に思いをはせたのだ』と持統天皇に献じ、更に、『親友を裏切ったあの皇子川島でさえも有間皇子を偲んでいる。有間皇子事件は誰にも痛ましく思われるのだ』と周囲にも伝えているのだ。

それにしても、万葉集で「持統天皇の紀伊国行幸時」の詠歌となると従駕者が「有間皇子を悼む歌」となるのは、皇子の魂鎮めだけでなく、持統天皇との並々ならぬ因縁もありそうである。

わたしは度々持統天皇と有間皇子の関係を取り上げている。如何なる縁があるのかを。

持統天皇は天智天皇の近江朝を偲び、その霊魂を鎮め続けた


㊸ 
漂う霊魂を鎮めたのは持統天皇

 阿閇皇女と川嶋皇子の歌は重いが、これだけが重たいのではない。川嶋皇子の歌の前には、高市古人の二首があり近江朝を偲ぶ歌となっていて、その前には「近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂が造る歌」の長歌と反歌が置かれている。持統天皇の御製歌「春過ぎて」の後には、何と近江朝を偲ぶ歌が続くのである。そして、阿閇皇女の歌に至る。勢能山(背の山)の歌まで「失った人=すぎにし人」を偲ぶ歌が続くのである。

  高市古人(黒人)、近江の旧(ふる)き都(みやこ)を感傷(かな)しびて作る歌

32 古(いにしえ)の人にわれあるや 楽浪(ささなみ)の故(ふる)き京(みやこ)見れば悲しき

33 楽浪の 国つみ神の うらさびて 荒れたる京(みやこ) 見れば悲しも

34 白浪の 濱松が枝の 手向け草 幾代までにか 年の経ぬらむ

35 これやこの倭(やまと)にしては我が恋ふる 木路(きぢ)に有りとふ名に負ふ勢の山

高市古人は「私は昔の人なのであろうか、まるで昔の人のように昔のものを見ると様々に思い出されて悲しい気持ちになる」と近江朝を追慕した。

32~35までの歌は、古の人を思うという意味で並べられたものだろう。ここに云う古とは、「近江朝の天智天皇」と「紀伊国に護送された有間皇子」と「阿閇皇女の夫である草壁皇子」の時代で、持統天皇が繰り返し懐かしんだのはこの三人であり、近江国と紀伊国だったということ、それは万葉集の中で一貫している。持統天皇はひたすら近江朝を懐かしむのである。

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㊹ 
人麻呂は、公的な場で近江朝を偲んだ。そして、個人的にも近江朝を偲び続けた。本来なら、現王朝の臣下として前王朝を偲び続けるなんてありえない。然し、誰にも遠慮する必要がなかった。持統天皇が望んでいたのだから。


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㊺ 
巻三の人麻呂の歌の隣にある歌。264,265,266番歌を見よう。

真ん中に挟まれるのは、長忌寸意吉麻呂の歌になる。歌の中身も、場所も前後の人麻呂の歌とずれている。編集の仕方がイビツで、何らかの編集意図が働いていると思われる。人麻呂の歌は、何故か、万葉集中にバラバラになっているのである。

持統天皇の絶大な信頼を得ていた柿本朝臣人麻呂。だが、集中の人麻呂の歌はバラバラにされている。人麻呂の歌がバラバラにされた理由は、後世に再編集した為に他ならない。


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人麻呂は近江朝と難波朝の歌物語を万葉集に展開していたと、わたしは思うのです。それが分からないように、歌はバラバラにされていると思うのです。
明日は、初期万葉集のクライマックスです。そこに掲載された歌は、万葉集を考えるうえで大切なポイントなのです。
では。また明日。


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# by tizudesiru | 2018-05-22 00:06 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

万葉集を編纂した柿本人麻呂は何故死んだのか

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柿本朝臣人麻呂こそが持統天皇の詔を受けて万葉集を編纂した。と、いう立場で、万葉集巻一に何が書かれていたのか、紹介してきました。「すぎにし人の形見とぞ」の最終回です。今日は50~57までです。

宜しくお願いします。


万葉集の編纂の意図を、万葉集そのものが語る

㊿万葉集は、草壁皇子の御子・文武天皇の為に編纂されたのである。皇統の正当性、皇統の歴史を歌物語にし、 15歳で即位した文武天皇の心の拠所となるように、持統天皇が勅により編纂させた、という他はない。皇統の歴史として、万葉集には「語られなかった歴史の真実」が散らばっている。


歴史書として、万葉集を読みなおせば、そこに何が書かれているか分かるのである

書かれているのは、草壁皇子の後継者は軽の皇子より他にはいない。軽皇子こそ統治者であり、日の皇子・大王である。その皇統は正統である。
 
編纂の勅を出した持統天皇、勅に従った柿本人麻呂
初期万葉集は、持統天皇・文武天皇の時代にまとめられたものである。巻一には長歌・短歌あわせて84首あるが、うちわけは、
雄略(1)舒明(5)皇極(1)斉明(8)天智(6)天武(6)持統(34)文武・持統太上(14) 元明(8)奈良宮(1)となっている。

巻一には、「挽歌」の部立はない。だから、どの天皇の御代の歌が多いのか、挽歌を含んだ巻二の数も必要であろうか。巻二の全150首のうちわけ、

仁徳天皇代(6)斉明(2)天智(21)天武(9)持統(105)奈良宮(7)

やはり、圧倒的に持統天皇代の歌が多い。

では、持統天皇代に活躍した歌人といえば、柿本朝臣人麻呂である。やはり、編集をした人物は人麻呂以外に考えられない。

持統天皇の崩御(702)後、人麻呂は初期万葉集の編集に励んだが、数年後に文武天皇の崩御(707)となった。人麻呂は「万葉集」を献上すべき帝までうしなったのである。


文武天皇崩御後、初期万葉集は行き場を失った

52 初期万葉集の終焉

文武天皇の崩御(707年6月)の後、元明天皇即位(707年7月)。この時、天武朝は皇位継承問題で揺らいだことだろう。そこで、元明天皇が極位に着くには、相当の政治的困難があったと思われる。天武帝の皇子は多く健在であり、高市皇子の王子達もいるからである。頼みの持統天皇も既になく、元明天皇を支えた御名部皇女(高市皇子の妃)の力は大きかったことだろう。

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78(元明天皇)79(御名部皇女)の歌

和銅元年(708)戊申(つちのえさる)に天皇としての儀式をするにあたって、元明天皇は不安に襲われたようだ(78番歌)。それを支えたのは姉の御名部皇女で、大王を支えた歌(79番歌)を詠んだのである。

この年、和銅元年4月、柿本朝臣佐留が没している。

柿本佐留が人麻呂であるのなら、和銅元年に人麻呂を罰したのは元明天皇であろう。

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元明天皇は奏上された万葉集を見て動揺したと思われる。

そこに書かれていたのは、草壁皇子につながる皇統の正当性であり皇統の歴史だった。天武帝の皇子達にはゆゆしき歌集であったはずである。この時、元明天皇を支えた御名部皇女は、高市皇子の妃であった。どんなに元明天皇は支えられたか。姉の御名部皇女は「ご心配なさいますな」と妹を励まし、諸臣を抑えたことだろう。
そして、人麻呂には厳罰が下され、人麻呂は受け止めたのである。

人麻呂刑死後、初期万葉集は彷徨った

53 
万葉集の巻一の終わり方は不自然である。元明天皇の御代の歌は、即位と「平城宮遷都」関係の歌である。

巻一の最終歌は「寧樂の宮」となっていて、歌は「長皇子、志貴皇子と佐紀宮にしてともに宴する歌」の一首のみである。

 長皇子と志貴皇子の歌が並んでいたというが、志貴皇子の歌が欠けている。突然の終焉ではなく、ここにもこれ以外にも歌があったのかもしれない。巻一は最後まで第三の編集が行われているようだ。他の巻の歌の総数を見ると、

巻一(84首)、巻2(150首)、巻三(252首)、巻四(309首)、巻五(116首)、巻六(160首)、巻七(350首)、巻八(246首) 、巻九(148首)、巻十(539首)、巻十一(490首)などなど、数だけを見ると、巻一は少なすぎる。

このことから何らかの編集の手が入った結果と考えられる。それは、単なる歌の並べ替えではなく、大きな権力を持った人の意思と思考による改造であったと思う。歌を変えることはできないので並べ変えと、若干の題詞の改竄だと思われる。では、誰が手を入れたのか?


54
 
初期万葉集の編纂者は誰か、一次は人麻呂だが

二次、旅人・家持の手を経て、三次、806年平城天皇の元へ召し上げられ編集しなおされたと、考えている。

平城天皇は、万葉集の意義と歌の意味を深く知り、世に出す為に「編集して人麻呂の編纂の意味を隠した」となる。その時点では世に明らかにできないことが多く含まれていたからである。この再編集によって「人麻呂があえて編集し(事上げし)、文武天皇に歌で皇統の歴史の真実を知らしめようとしていた」肝心の皇統の正当性と歴史が読めなくなったのである。

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55 人麻呂が万葉集を編集した
その時期を元明天皇即位後と決めた理由は、文武天皇が「大行天皇」と書かれているからである。

サキノスメラミコト(大行天皇)、天皇位を下りた天子のことをそう呼ぶ。文武天皇崩御後、正式の諡が定まらない時期の奏上であったと思われる。しかし、元明天皇は拒否し、人麻呂を罰した。人麻呂はその事を受け入れた。


56
 
多くの事実が書き残され奏上された初期万葉集を、元明天皇は大伴安麻呂に託したのではないか。蘇我系の石川郎女を妻にしていた大伴安麻呂に。参議大伴安麿が薨去(和銅7年)した後、子の大伴旅人の手に渡った(旅人は父から万葉集の意図を聞き、晩年に歌に目覚める)。旅人の薨去(731)後、家持が受け取る(家持も、大伴坂上郎女と父の手ほどきで歌の道を知り、まい進する)。

家持は自家歌集を編纂し、初期万葉集のように年代順に歌を並べ、同じように歴史書として鎮魂歌集としての体裁とする。政変の為(藤原種継暗殺事件)、家持は冠位を剥奪され、死後に息子と共に島流しになる(万葉集は大伴氏の手により守られる)。

806年、平城天皇が家持の官位を復し、噂の『万葉集』を召し上げる。侍臣に命じて「万葉集」の編纂をするが、この時、家持編集の「後期万葉集」にはほとんど興味をしめさなかったので、そのまま年代順に編集されている。平城天皇の譲位により、万葉集は宙に浮いたが、長くその存在は語り継がれ、多くの文人・学者の耳目を集め、細々と書写され続けた。そうして、「古今伝授」により多くの噂と混然一体となって、「謎の歌集・万葉集」は平安時代を生き延びた。

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巻一の話のまとめ

万葉集巻一は、皇統の正当性と皇統の歴史を文武天皇に教え諭すために編纂編集された教育書である。編纂を命じたのは持統天皇であり、作り上げたのは人麻呂である。ここで、人麻呂個人だったかどうか問題であるが、彼のみが刑死していると思われるので、その罪を一身に受けたと考えている。

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終わりに

57 人麻呂の詠んだ「阿騎野の冬猟歌」が初期万葉集のクライマックスである。そして、巻一の最終歌には何が置かれていたのだろうか。

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現在残されている「万葉集」で巻一の最後を飾るにふさわしい歌は、78番歌ではないだろうか。

この歌をここに置いたのは、大伴家持か平城天皇か、それは分からないが。


「和銅三年庚戌(かのえいぬ)春二月藤原宮より寧樂宮に遷る時、御輿を長屋の原に停め、故郷を廻望みて作らす歌」

一書に云う 太上天皇御製(編集した時点で元明天皇は既に譲位していたことになる)と

78 飛ぶ鳥の明日香の里を置きていなば 君があたりは見えずかもあらむ

    一に云う 君があたりを見ずてかもあらむ    

 長屋の原は、中津道の平城京と藤原京の中間点である。そこで、御輿を停めて明日香に別れの儀式をする。でき過ぎの演出であった。

この時、左大臣石川麻呂は藤原宮に残されていた。元明天皇に従ったのは、藤原不比等右大臣である。「此処で元明天皇に泣いてもらって、藤原宮への未練を断とう」という……その演出をしたのは、藤原不比等を置いて他にはない。


 元明天皇は夫草壁皇子と吾子文武天皇の墓のある明日香を捨て平城宮へ遷都(710)した。藤原宮と平城宮の中間点の長屋の原で、元明天皇は十分に涙を流されたはずである。大きな時代の流れを元明天皇は感じられたことだろう。
 こうして、明日香は「霊魂の漂う京」となった。

時代はこのように変わっていったのである。


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と云うことで、「すぎにし人の形見ぞと」を終わります。
万葉集巻一について、何が書かれているか、十分ではありませんが紹介したつもりです。

後程、詠みやすいように「人麻呂は何故死んだのか」の掲載順を入れ替えます。

また、明日。
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# by tizudesiru | 2018-05-20 21:16 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

丹後半島・竹野川下流に間人皇后は身を隠したのか

古代の丹後半島は、高貴な人が身を隠す場所だった?
雄略天皇が兄の市辺押磐(いちのへのおしは)皇子を射殺したので、その遺児の憶計(おけ)と弘計(をけ)王が、真っ先に逃げた所が丹波国の余社(よさ)郡でした。ここから播磨の赤石郡に行き、名を「丹波小子(たにはのわらは)」と改めて、針間の縮見(しじみ)の屯倉の首(おびと)に仕えた(日本書紀)、とあります。

間人皇后も丹波国に逃げた
丹後半島の間人(たいざ)に在るのが、聖徳太子の母・穴穂部間人(はしうど)皇后の避難の伝承です。
丹後半島の北の景勝地、間人(たいざ)に行きました。

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砂浜の先に見えるのが竹野川の下流にある立岩です。
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立岩の辺りの海、夏はこのような美しい海になるのです。
立岩と向き合うのが穴穂部間人皇后の母子像です。
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用明天皇の皇后だった穴穂部間人皇后は「蘇我物部戦争」を避けてこの地に避難したと云うことです。
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まず、間人(たいざ)の役所に行きました。そこで、間人皇后の伝承と祭について聞きました。知っている人が少ないようでした。
皇后伝承の祭りは、間人町(たいざまち)の祭りではなく「個人的な、少数の家の人が続けている祭」だそうです。

役場で「間人皇后に所縁ある場所かも知れない」ところ、「御所の坪」という意味ありげな場所を教えてもらいました。
役所の方とお寺の方に教えてもらった場所は、家一軒ほどずれたでしょうか。でも、ほぼ同じ所でした。

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早速、行ってみました。
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祭の御神輿は、三柱神社から出るそうです。
奥の鳥居が三柱神社です。海からの斜面を上り詰めた所に神社があります。
「御所の坪」は、だいたい海と神社の間にあるようです。海に向かって降りましょう。

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「御所の坪」という小字(こあざ)の地名に付きました。
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そこは狭い空き地でした。集められたお地蔵さんが置かれていました。
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阿波国二拾三箇所の石塔が建てられていたので、ここにお詣りすれば二十三カ所を巡礼したことになったのでしょうね。

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お寺の奥様のお話によると、伝統の祭りを行っているのは、東さんと言う方々だそうです。祭の案内板は、先ほどの役所の筋向いにありました。

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小さな祠が水無月神社のようです。謂れが書かれていました。
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川すそ祭りは、ここの「水無月神社」で行われているようです。

祭を執り行っている人達は、竹野川を中心とした交通運輸の仕事をしていて、その神として水無月神社を祀って来たそうです。

此処に用明天皇の皇后・穴穂部間人皇后が「蘇我物部の乱」を避けて、大浜の地に避難したという伝承があると書かれていました。祭を執り行っているのは、皇后について来た供人だと云うことです。

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間人の川すそ祭の謂(案内板に書かれていること)
間人と書きて、タイザと読む

不思議のいわれを調べ、我が東氏の由来を探求しここに明文にする。水無月神社は内外の浜なる後ヶ浜川尻に鎮座す。東氏の祭神たる水無月神社は、東氏の遠い先祖より毎年七月二十八日(旧暦六月二十八日)に竹野川の川尻松林に同族相集い、夜を徹して神前に篭り、立岩厳頭に御幣を掲げ、かがり火をこうこうとたき盛大にして賑々しく、斎宮神社の桜井宮司の司祭にて祭神せるものなり。竹野川の川尻松林に大太鼓を叩く響きはしょうらい(松風の音)と共に木霊し、善男善女の参拝は引きも切らず、また妊産婦の参拝は特にに多し、露天は軒を並べ、客を呼ぶ声も高く世の更けるを忘るる程なりしが、敗戦後は髪を軽んずる風潮を生み我が水無月祭も疎となりたり。されども、東氏の遠き祖先より祭事せるものを廃断するは誠に遺憾にして、祖先に対し相済まぬ儀と心得、またこの伝統ある祭事を子孫に伝える義務ありと思料し(中略)神社を行者岩の境内地に昭和51年11月6日千遷宮せるものなり。

間人に於いて各種氏姓あれど一つの氏のみが一つの神事をし、年に一度同族が相集う行事は吾ら東氏のみにして他姓にはなし。

東氏のみが何故何時のころからかかる行事を行いしにや不明なれど、古き昔より口伝を以って相伝え今日に至れるものなり。水無月神社は東氏のみにて祭事せるも、その講中に只一人異姓に者あり。泊氏なり。何故泊氏が東氏請中に加わりしにや不明なれど、往古よりともに祭事す。‥‥我が間人は第31代用明天皇の御后穴穂部間人皇后を通じ大和の国斑鳩の宮との所縁あり。東氏の祖先を明らかにするため古事記、日本書紀またその他の文献より左に明文する。

10世紀の和名抄には間人、大日本地名辞典には「間人は愛人のこと」、土師人の意かとも言い、15世紀の一色軍記には「対座」とあり、丹後旧記には田伊佐津とある。現在の定説は、間人村濫觴記なり。(前掲)東氏の鼻祖は東漢直駒の後胤にして、千余その血脈は二流三流に別れ連綿として繁茂せり。また木目見宿祢は相見となり、浦田麿の子孫は谷、上谷、下谷、小谷と称し、下戸部は下戸に、穂見中江麿は中江に、中臣スグリは中村となる。その外記するに枚をもて挙げるべからず。千余連綿として子孫の繁茂黄するはみな鼻祖の余訳なるべし。水無月神社の祭りを司っている。
上記のように案内板に書かれていました。

「間人(たいざ)がに」で有名な「間人(たいざ)」ですが、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)ゆかりの旧跡であると、「丹後町史・間人村濫觴記録」が伝えているそうです。

聖徳太子の母であり、用命天皇の后であった間人皇后が、夫の死後、蘇我馬子と物部守屋の争いに巻き込まれ、丹後の地に難を避けて、大浜の里(現在の間人村)に滞在したそうです。
この時、間人皇后に仕えて同行した中に、後に蘇我馬子の命令で崇峻天皇を暗殺し、その後天皇殺しの罪で蘇我馬子に惨殺される東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)がいました。東さんはその末裔と称されているそうです。

聖徳太子と蘇我馬子に物部守屋が滅ぼされて、間人皇后は大和の地へ戻ることになり、その時、大浜の里を離れる時に三首の歌を残されました。

大浜の あら塩風に 馴れし身の またも日嗣(ひつぎ)の ひかり見るかな

大浜の 里にむかしを とどめてし 間人村と 世々につたへん

大浜に つとふみやこの ことの葉は 行末栄ふ 人の間人

間人皇后が大浜の里を退座するのに因んで、間人(退座)村と宛名したと、「間人村濫觴記録」が伝えています。間人=はしうど(はしひと)と呼んでは失礼だというので、「退座された地」と云う意味で「たいざ」とよぶことにしたのだそうです。
残された三首を見ると、後の世の人が作歌したとも思えますが。

日本書紀では、
敏達天皇の十四年(585)八月、敏達天皇崩御。九月、用明天皇即位。
用明天皇一年(586)穴穂部間人皇女を立てて皇后と為す。
  二年(587)四月、天皇、仏教への帰依を詔す。天皇崩御。

   六月、蘇我馬子、炊屋姫尊を奉じ、穴穂部皇子と宅部皇子を殺させる。
   七月、蘇我馬子、物部守屋を滅す。
   八月、泊瀬部皇子(崇峻天皇)即位。

上のように展開していますから、穴穂部間人皇女が間人(たいざ)に逃げたのは、587年の5月(6月)から8月の間と云うことになりますね。
皇后が大浜の里に滞在したとしても、三ヵ月ほどになるでしょう。

間人(たいざ)の間人(はしひと)皇后は、用明天皇の妃でしょうか。

穴穂部間人皇后は、直接「日嗣・皇位継承」に関わってはいないように思います。馬子は後の推古天皇を奉じていますし、間人皇后は用明天皇崩御後に用明帝の長子の田目皇子の妃になっているからです。

田目皇子の母は、蘇我稲目の娘・石寸名(いしきな)です。用明天皇の母は稲目の娘・堅塩(きたし)媛でした。用明天皇は、叔母を殯として迎えたのですね。蘇我系の皇子に皇位継承権があったようですね。
 
欽明天皇の有力な皇子皇女の出自は、ほとんどが蘇我氏となっています。

欽明紀では、蘇我稲目の娘・小姉君が生んだのが、埿部(はしひと)穴穂部皇子で兄、即位した崇峻天皇=泊瀬部(はつせべ)皇子は弟になります。書紀の欽明紀では「はしひと」を埿部と表記しています。

古事記では、間人穴太部(はしひとのあなほべ)王、長谷部若雀(はつせべのわかさざき)命となっていますが、埿部穴穂部皇女に当たる女性としては三枝部穴太部(さえぐさのあなほべ)王=須賣伊呂杼(すめいろど)、ですかね。
 
古事記・日本書紀では、人名表記に差異があります。これは、元の資料が違っていると云うことですね。

では、本題です
間人皇后はなぜ丹後半島に逃げたのか
確かに、穴穂部間人皇女も、兄と弟の皇位継承問題にかかわって身の危険を感じたかも知れませんね。それで、三カ月ほど逃げた…ですかね。
(それにしても、田目皇子の妃となったのは何故でしょうか。蘇我系の皇女は外に出さない、外の氏に「皇位継承者の血統」は渡さないという蘇我氏の意思なのでしょうか。「血統こそが財産」の時代ですからね。)

それとも、穴穂部間人皇后ではなく、有間皇子事件を目撃した中皇命(間人皇后)が皇位継承の御璽を持って、兄の中大兄皇子から逃げたのでしょうか。
数年後、見つけ出されて連れ戻されて、その後…薨去となり、葬儀の後に母の斉明帝と合葬され、遂に中大兄皇子が即位した、と云うことでしょうか。
そうであれば、
大浜の あら塩風に 馴れし身の またも日嗣の ひかり見るかな

「またも日嗣のひかり見る」この別れの歌の意味も分かる気がするのですが。

では、この辺で。


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# by tizudesiru | 2018-04-27 20:30 | 346丹後半島に間人皇后の足跡を追う | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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熊本山古墳の被葬者は何者なのか
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日本一長い石棺を出土した熊本..
at 2018-06-02 09:45
熊本山古墳(日本一長い石棺)..
at 2018-06-01 11:10

カテゴリ

全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1祭祀線で読む大宰府の位置
2祭祀線で見る竹原古墳
3祭祀線が交叉する間夫という山
4祭祀線で知る筥崎八幡宮
5祭祀線で弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
7祭祀線で読める八女丘陵の古墳のライン
8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
未分類
97宇佐神宮と北部九州・2
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
103安心院の妻垣神社
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景

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