百年の嘘からホケノ山古墳を開放してほしい

ホケノ山古墳築造が2~3世紀?
副葬品からもいえますか?

ホケノ山古墳は、箸墓(箸中山古墳)や三輪山の近くにあります。
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ホケノ山古墳の石棺は木槨の中に在りました。松木さんは「中国の王の埋葬はこのころ木槨を使っているので、それに倣ったものであり、畿内が中国と繋がっていたことが分かる」と言われたと思います。
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墳丘から箸墓も三輪山も見えます。下の画像の奥、丸い森影が箸墓です。
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三輪山の神杉も見えました。
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当初、このホケノ山古墳は4世紀の築造とされていましたが、箸墓より古いはずだと云うことで3世紀初めになりました。箸墓が3世紀の半ばとされたからです。箸墓の周濠から出た木片の年代を炭素14で測った結果だそうです。
箸墓の本体とは結びつかない木片で裏付けが取れたというのです。だから、ホケノ山古墳は築造時期が挙げられました。飯塚のフォーラムでは講師の松木さんが「2世紀に上がるかも知れないと考えている」とまで、言われて驚きました。
何の裏付けも取らずに、年代操作をして公表していいのでしょうか。ホケノ山古墳に、百年もワープさせてはいけません。


松木さんは

「邪馬台国が近畿だったから、ヤマト王権につながる勢力となったのだ」
との説ですね。「次のステージでヤマト王権が近畿に生れているのに、卑弥呼と無関係とは考えられない」と云うことですか。
結果から(事実から)物事を考えることを、わたしも常にやっていますが。もちろん、邪馬台国が次の王権とかかわりがないとは思いません。
狗奴国との戦争の結果、卑弥呼の集団は窮地に立たされた。だから、卑弥呼は死んだのです。でも、その事で鉄をどのくらい所有していたか、いなかったか、判断できません。
九州に邪馬台国があったとしたら、鉄を持っていたのに、なぜ、邪馬台国は狗奴国に負けたのか? という疑問を持たれたのでしょうか。
「鉄もなく弱かったから苦戦したのだから、邪馬台国は北部九州ではないのではないか?」と思われたのでしょう。いえいえ、大丈夫です。

もっと、武器を持ち(武力)、工具を持って生産力を上げていた地域がありました。当時、福岡より武器・工具の鉄製品を持っていたのは熊本ですから、そこが狗奴国です。
邪馬台国の南の国になります。川越哲志氏の「弥生後期の鉄鏃の分布」を資料として、高島忠平氏が提示されていました。
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邪馬台国が狗奴国と戦ったとすれば、戦場はは何処だったのか。九州で戦い、二手に分かれて日本海がわと瀬戸内を逃げながら戦ったのかもしれません。鉄鏃が出土する地域は、邪馬台国とつながりの深い所ばかりです。
何処で戦ったのか、弥生後期の鉄鏃の分布で明らかです。
まさに弓矢が弥生の武器でした。

川越哲志氏の研究を見ると、常に答えが或る方向を示しています。
熊本こそ福岡を圧倒する鉄の武器と工具を持っていた!

武力と生産力がセットですから、経済を握っていた。卑弥呼と狗奴国の卑弥弓呼はもとより仲が悪かったと魏書に書いてあります。狗奴国の位置は邪馬台国の南です。そして、邪馬台国連合には加入していません。狗奴国王は倭王の地位を狙っていたでしょう。

ホケノ山古墳の年代を引き上げても、
邪馬台国の位置は変わらないのです。


松木さん自身も、村上さんの論文を引き合いに「三世紀には、近畿の集落からの鉄器の出土数は北部九州には及ばず、技術も低いことから、鉄の掌握主体が北部九州から近畿に移動したとは、素直には解釈しがたいことが明らかとなった」(村上2000)と引用されています。
ここで、はっきり近畿の状況を説明されておられるのに、「ホケノ山古墳が2世紀にさかのぼるかも」と言われても、ご本人が自分の説を否定されては意味不明となります。ご本人の説に矛盾が生じます。
ホケノ山古墳には、大刀・鏃が大量に出土します。3世紀ではただひとつ、鉄が出土する古墳なのです。
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ヤジリの「のかつぎ」も4世紀の特長だとか。
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ホケノ山古墳は初め4世紀の古墳だと聞きました。共伴する土器が古くないからです。画文帯神獣鏡も出土していました。この鏡も新しいでしょう。5世紀後半の古墳にも副葬されています。
そして、ホケノ山古墳は3世紀に繰り上げられました。すると、畿内では唯一鉄器が副葬された3世紀の古墳となりました。
ホケノ山古墳が3世紀でなければならない理由は、箸墓より古い古墳だからです。ホケノ山が4世紀の古墳だったら、箸墓が卑弥呼の墓ではなくなるからです。
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箸墓は不思議な古墳で、急に大型化しています。女性の墓の言い伝えが、卑弥呼の墓となってしまったのでしょうか。

墓があるなら、居館跡(鉾で守られた宮殿)もあるはずとして、纏向が掘られています。が、何年掘っても見つかっていないのです。
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纏向で卑弥呼が住んだ大型建築物が遂に見つかったと、マスコミも大騒ぎでしたが、最近「発掘の結果、違うらしい」となったそうです。
当初から、方形の柱穴(7・8世紀に多く見られる柱穴)とか、疑問点も多かったのでした。
柿本人麻呂の屋敷跡と思って掘っていたそうですから、途中から「卑弥呼の居館跡」と変わったのも不思議でしたね。
これは、仕方ない結果ですね。

卑弥呼を箸墓と結びつける以外、畿内説は成り立たないのですか?

ヤマト王権は卑弥呼の王権の連続ではないかも知れません。邪馬台国と切り離して考えたが合理的です。
その辺を考えると、畿内の王権の成立にもっと早く近づくと思うのですが。
九州に邪馬台国がなくても別に構いません。でも、嘘で固めてはいけません。
わたしは、宗女壱与(イヨ・トヨ)の後が知りたいのです。

近畿には東海や北陸系の土器は出土するが、九州系の土器は一つも出土しない。
と、松木さんは強調されました。近畿の学者さんがよく口にされる言葉です。
そんなことはありません。大量に庄内式土器が出土します。

熊本の菊池川流域の方保田遺跡を見ますと、庄内式の土器が大量に出土しています。これは何故でしょうね。
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(方保田遺跡は、熊本の菊池川流域の弥生集落です。つまり、狗奴国と云われている地域の環濠集落です。このブログでも方保田遺跡については取り上げています)

こたえの一つ、「庄内式土器を持ち込んだのは、邪馬台国を追って行った狗奴国(熊本)の人たちだった」のではありませんか。
彼らは、簡単に炉をつくり、鉄を生産する技術力を持っていました。

また、菊池川流域には「阿蘇地方と同じ、蹴破り伝説」があります。湖から水を抜いて田地を得る方法です。菊鹿盆地の湖水を抜いて田にしたという「蹴破り」伝承ですが、湖水の底が広くなるたびに菊池川流域は生産力を上げたのでした。

さて、近畿には河内湖という巨大な湖沼がありました。
狗奴国人には、最も魅力的な地域だったでしょう。河内湖の水を抜け! と、思ったことでしょう。
彼らが意欲を燃やしたから、そこに、人手と鉄製品が導入されたのです。わたしは、そう思います。弥生時代まで広がっていた河内湖が、急に水底を表すでしょうか? そこに手を差し伸べた経験者がいてこそ、大阪平野は豊かな平野となったと思うのです。
そうして、大阪が「いの一番」に開発されたのです。


松木さん、大阪は水の都だったのですよ、大昔から。
邪馬台国近畿説にこだわらなければ、大阪平野のダイナミックな発展を見落としてしまうことはありません。

九州を席巻した勢力は、武力を持って突き進んだのです。武力で何もかも解決するはずはないと、気が付くのは彼らが滅びた後なのです。

卑弥呼が死んだ後、女王国連合内でも争いが起こりました。それを収めるために、宗女壱与(イヨ・トヨ)が選ばれたのでした。
新女王が決まると、張政は帯方郡に帰りました。さて、その後の壱与に如何なる試練が待っていたのでしょうね。
わたしは、その後を考えようとしています
フォーラムで「鳥取県・青谷上寺地遺跡」について、松木さんの気になる発言がありました。それで、同じ遺跡についての磯田さんの発言(NHK番組での)も思い出しました。わたしは、磯田さんは古文書の専門家として尊敬しているのですが、九州に対する発言が毎回気になるのです。

NHKの番組と磯田さんに一言
或るNHKの番組で、磯田さんがこのようなことを言われました。
「鳥取県の弥生遺跡の大量に捨てられた人骨から、彼らを殺したのはおそらく九州人です。九州人ならやりかねない…」定かではありませんが、九州の弥生人の残酷な仕打ちを強調されていました。
今回の飯塚でのフォーラムでも松木さんが「溝に遺体を投げ込むようなやり方は、よそ者がしたと分かる。九州は近隣の間の戦いでは、戦いで敗れた遺体も甕棺に丁寧に埋葬している。遺体が放置されたと云うことは、よそ者(九州)が来て殺害して溝に投入れたと思う。よそ者だから、ひどいことがやれたのだ」と、このような発言をされました。


同じ遺跡の人骨に対する二人の見解を聞いて驚きました。「九州人ならやりかねない」とのお考え、偏見ではありませんか。わたしも、鳥取の人骨の件で思う事がありました。あそこで死んだのは、他所から攻めて行った者か、追われて行った者だろうな。地域のだれとも関係ない遺体だったから放置・破棄されたのだろうなあと、思いました。つまり、死者は鳥取の弥生人ではないと思ったのです。
様々に考えることができるのにと思い、磯田さんの発言には違和感がありました。


今回、ブログのカテゴリ「古代史の危機!?」としましたが、よくよく考えてみると、古代史とは何かを考え直すチャンスでもあると思いました。
次は、2月18日のフォーラムの計画運営をされた高島忠平さんと飯塚市へ質問をしたいと思っています。
面白いフォーラムだったと思いますので。

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# by tizudesiru | 2018-02-22 15:49 | 327古代史の危機!? | Trackback

百年の嘘を ホケノ山古墳に粉飾

伊都国の平原王墓と、山城の椿井大塚古墳が同時代?

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「飯塚発 古代史情報最前線・イイヅカから未来のトビラを拓く」というフォーラムでした。2月18日のテーマは『卑弥呼の戦争と武器』でした。

松木先生ほんとですか? 邪馬台国が戦争をした相手は何処ですか?
確か、狗奴国です。
狗奴国は邪馬台国の南に在ったのです。魏書に書いてあります。卑弥呼が死んだとき、帯方郡より張政が倭国に来ています。その後、卑弥呼宗女壱与が女王位に着いたあと、張政を帯方郡に送ります。倭国の使者は、そのまま魏の都に朝貢しました。つまり、魏の使いは倭国の場所もわかり、風俗も調べ、倭国の要人にも会い、卑弥呼の墓も確かめているはずです。狗奴国の位置も状況も知りえたでしょう。
そのことごとくを天子に報告したはずです。嘘や出鱈目や間違いが在ってはなりません。邪馬台国までの距離は正しいのです。
女王国まで、萬二千余里

きちんと魏書に書いてあります。
魏書を読まれているから、松木先生は「文献では邪馬台国は九州だ」と言われたのですね。では、考古学的には畿内ということですか。でも、鉄も、絹も、クスノキも無い、楽浪郡の土器も出ない畿内ですか? もちろん帯方郡の韓式の土器も出土していません。
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それに、先生の資料は大丈夫ですか?
弥生王墓の平原と、椿井大塚古墳を同時代の鏡としておられました。

漢鏡とありますが、三角縁神獣鏡が漢鏡ではないことは、周知の事実ではないのですか?
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福岡の平原王墓は、弥生時代のの女性王の墓と云われています。確かに大量の鏡が出土した方形周溝墓です。
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しかし、椿井大塚古墳は、いわゆる初期古墳ではありません。
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(椿井大塚古墳)
ここは、弥生の墓ではありません。出土鏡も三角縁神獣鏡です。松木先生は、漢鏡5期とまとめている資料を使われています。十分に確かめてのことでしょうか。全く違う時期の副葬品を並べて論じていいのでしょうか。
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さらに、ホケノ山古墳まで持ち出されていました。そのことは、また。
長くなるので、また明日。


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# by tizudesiru | 2018-02-21 02:02 | 327古代史の危機!? | Trackback

えっ?鉄がありすぎる九州に邪馬台国はない?

倭の五王の話をしていますが、古代史学会大丈夫かな? と思う事があったので、その事をお知らせします。書いていいかを少し考えましたが、書かせていただきました。

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このフォーラムに参加して、下のような気分になりました。
ゆうれいの正体見たり枯れ尾花


それは、後援会のあとの討論会での発言を聞いてのことです。資料と突き合わせた話し合いの、最後の最後に出た学者の発言を。
わたしは、今日は何をしにここへ来たのでしょうと、思いました。
なぜなら、邪馬台国論争で「鉄」を採っていた倭人のいた国が邪馬台国だとされていたからです。

弥生の鉄をつかんでいたのは、どう見ても九州です。それも工具や武器の出土は福岡を抜いて熊本がトップに躍り出ました。わたしは邪馬台国と戦争をしていた狗奴国は熊本だと思っています、そして、鉄の武器の差で狗奴国が勝ったと思っているのです。
ところが、

弥生の北部九州には、鉄がありすぎるから、邪馬台国のイメージとはちがうので、邪馬台国は北部九州にはなかった
と言われたのです。驚きました。イメージですか!
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鉄で邪馬台国を論じるなら、九州で決まりだね、と思っていました。
然し、そう問屋は下ろさなかった、のです。

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鉄戈が取り上げられていました。弥生の青銅武器の威信財として、剣・矛・戈があります。中でも鉄戈は福岡の飯塚市や那珂川町などで、大型の鉄戈と変化して甕棺に副葬されているのです。更に、大型鉄戈は倭国にしか出ません。半島には大型は出土しないのです。
倭国には、大型鉄戈をつくる鉄文化があったのです。

弥生時代には、すでに銅だけではなく鉄を熔かす技術を北部九州は持っていました。


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甕棺の中の副葬ですから、伝世品ではありません。共伴する土器や木製品などで、編年もできているのです。
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弥生遺跡の鉄出土の比較を見ると、一つの遺跡だけでも熊本の鉄製品は圧倒的です。鳥取の青谷上寺地遺跡と比べると、熊本が自前ですべて作っているのですが、鳥取は他の地方からの移入品がありました。日本海側は、九州との交易が盛んだったので、技術の流失があったでしょうし、人の移動もあったはずです

弥生の鍛冶工房の様相・炉の形式が四種類
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Ⅰは、穴を掘り、穴の底に木炭や土を交互に敷き、熱効率を上げています。羽口からの空気が回るからです。ⅠとⅡ型は九州型で、ⅢとⅣ型は吉備辺りになるそうです。つまり、近畿の近くの鍛冶工房では大きな製品は造れなかったのです。
大きな鉄製品は、九州から仕入れたと云うことでした。近畿は流通で一大拠点だったというのです。

 
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倭女王卑弥呼は、魏から五尺刀を下賜されました。弥生の大刀は、素環頭大刀です。素環頭大刀は、弥生の後期組み合わせ式石棺の中から多く出土するそうです。それも、弥生の大刀も九州が圧倒的に多いのです。

しかし、鉄が多く出土する北部九州と邪馬台国は、イメージが合わないのだそうです。
でも、鉄も絹も出ない、クスノキも無い近畿にこそ、邪馬台国はないのではありませんか。文献でも、邪馬台国は九州ですけど。
でも、大事なのは、邪馬台国のその後ですよね。


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# by tizudesiru | 2018-02-20 17:57 | 327古代史の危機!? | Trackback

叶わなかったのか、倭王武の開府儀同三司

武力が王の証だった時代倭王武の絶望
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倭の五王(讃・珍・済・興・武)が活躍した時代は、武力がものをいう時代で王も自ら戦いました。戦いによる犠牲と損益は計り知れません。まして、海外への遠征はリスクはあっても得るものは少ないと承知していたでしょう。しかし、倭王達は東アジアの状況から逃れることはできなかった…何とも悲惨ですが。
倭国の民は疲弊していたと思います。

そこで、書かれたのが倭王武の上表文でした。美辞麗句の散らばった美文だと、高校社会科で習いました。老教諭が「昔より祖禰みずから、甲冑を貫き、山川を跋渉し、寧所にいとまなし」と唾をとばした講義を忘れません。倭王の勇猛さを「武」という名が表しているように教えられました。そのまま受け止めていましたが、数十年経って読んでみると、何とも悲惨な倭国と国民の状況が心に浮かんだのです。美文の背後には、武の絶望観が漂うと思うのは、わたしだけでしょうか。
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宋の順帝は若く無力で、自らの運命を予感していました。そこへ、倭王武の上表文が届いたのです。「朕をこれほどまでに崇め慕う諸侯がいる。朕の統治も天によって認められたのではないか」と、彼は思ったでしょう。だから、東夷からの上表文が宋書に残されたのです。

上表文を奉った本人も、受け取った相手も共に平穏な状況ではなかったと思います。さて、倭王武の願いは順帝に伝わったのでしょうか。
武が順帝に上表して願ったのは

開府儀同三司でした。三公と同じように開府を認めてほしい!
順帝紀によると、昇明2年(478年)倭王興没し弟武立ち、「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍と称す。」と、自ら称したのでした。そして、5月戊午条では、「倭国王の武が遣使して方物を献上して上表し、自ら開府儀同三司と称し、その承認を求め」ました。順帝は武に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を授けています。(宋書)*百済は入っていません。
順帝は臣下に禅譲し(479)順帝は帝位を去り、南斉がおこりました。順帝はやがて殺されたのです。武の願い「開府儀同三司」は認められたのでしょうか。

開府儀同三司とは、漢代の終わりころ、高官の三公(例えば、太政大臣・左右大臣などのような高い地位の公人)に府(官庁の役所・みやこ)を開くことが許されました。その三公と同じように(儀同三司)、特典である府を開くこと(開府)を認めてほしいというものです。府とは「地方自治体の役所」のようなものでしょうか。
武は、自分の国で府を開き、自治国として経営がしたかったのです。
が、武には認められませんでした。
高句麗は既に「開府儀同三司」(463)を認められていましたから、武は失望したでしょう。百済が除かれた六国諸軍事安東大将軍は認められたのですが、失望は大きかったと思います。このあと、倭王武の遣使は停まりました。

百済が、南斉より「大都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王」(490)を授かっても、なぜか、倭王は遣使しませんでした。
倭王武は、何処で何をしていたのでしょう。
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倭王は九州から遠征した
それにしても、倭王武の国書の中で常に取り上げられるのが「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」です。
倭国が平定した国から、倭国の所在地を探る
上表文のような状況の中心地は何処か、どの地域から東西南北を見たのかを検討し、倭王の所在地を探る手がかりにされています。
東の毛人の五十五国は、関東を指しているのでしょうね。西の衆夷六十六国は九州ですね。海北九十五国とは半島となります。
西が九州だとすると、四国や中国・近畿は何処にも書かれてはいません。古事記にも、日本書紀にも、旧辞本記にも、九州からの東征(東遷)は書かれています。が、倭王武の上表文には東遷は書かれていません。事実であれば書かれたはずです。記述がないのは、なぜでしょう。
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武力をもっての東遷は5世紀後半から?
考えられるのは、武の国書(478年)が出されるまでは東遷はなかった、ということです。人民の移動はあったと思いますが、武力を用いての東遷はなかったと、思います。
では上表文(478)以前に、倭王が関東に遠征できたのはなぜでしょうか。
倭王は日本海側は熟知していました。出雲・丹波・越とは深く結びついていました。日本海側から参河(愛知県)に抜けて太平洋側に出たのです。瀬戸内を通って紀伊半島を廻るより、合理的で速かったと思います。近畿には別の権力者がいたから避けていたのでしょう。(邪馬台国の滅亡により大量の人・もの・技術が流入し、大阪平野は活況を呈していた)
すると、九州倭国の人民は平和と経済力を求めて近畿に逃げるでしょうね。当然、倭王は激怒したと思います。
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書紀の記述ですが、487~504の年表でもわかるように、国内が非常にざわついています。「492年条諸国に散亡した佐伯部を探し求める」とあります。佐伯部とは「さえぐ」人・遮る人ですから「武人」です。武人までが散亡したので、倭王は怒って諸国に探索命令を出した、というのです。
倭国に由々しき事態が起こり、列島が変化するのは五世紀の終わりから6世紀初頭で、ここで大型古墳が全国に拡散すると私は思うのです。祭神としてオオクニヌシが全国に拡散するのも、5世紀後半からだと思います。
大型古墳に共通する武具・馬具は、武力が横行した時代を示し、倭王が「治天下」を目指した証だと思います。列島内の古墳の副葬品の総合的な再検討が必要です。

武力による東遷は、478年以降
そのヒントは、宋書の上表文にあります。

宋の滅亡を見た倭国王は、国内に「治天下」の王となるべく、「天子」への道を求めて突き進みました。
こうして、拡散して行く権力・人・物・技術・祭祀と神。その果てに倭王権に滅亡の危機がおとずれるのです。
倭国の人民が流出する中で倭王はその「逃亡した人民を返すように要望した」これが引き金になって、磐井の乱までつながったのではないでしょうか。
何時の時代も、武力では何も得ることはできないのですね。結果として、武力の行使は、自身も国をも亡ぼすのですから。

また、次回に。

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# by tizudesiru | 2018-02-16 12:00 | 325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望 | Trackback

冊封体制下の倭王たちの野望と苦悩

倭王達はどんな神祀りをしたのか
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三輪山は饒速日の山だったと、このブログでも書きました。大神神社・石上神宮・大和神社のご祭神は同じだとも紹介もしています。

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(石上神宮)
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(大神神社)
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(大和神社)

ブログ265「消された饒速日の王権」でも書きましたが、上の三社が同じ祭神とは何を意味するのでしょう。それは、かれらは同族、または同じ文化圏の出身、または運命共同体ですね。三輪山のご神体は磐座ということですが、写真にも撮れないし絵にも描けません。石上神宮のご神体も形はなく、そこは禁足地でした。どこか共通しています。九州の神社にも山をご神体とする社があり、共通する点が多くあります。
 
さて、4世紀5世紀の倭王は何処に住んだのでしょう。
その前に、倭国とその周辺の動きを考えましょう。
倭王の時代を年表でみます。「年表から何が分かるのか」ですが、そこには、彼らの生活・思想・願望・行動の一端を偲ぶ要素があるはずです。そして、倭王が何処に住んだのかも探れると思います。

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4世紀の後半から、倭国は半島に頻繁に出兵しています。百済の王子が倭国に来ていたと「応神紀」には書かれています。倭国は東晋(320~420)に御機嫌を伺いましたが、劉裕が東晋で挙兵し即位して宋が成立すると、倭国は使者をおくりすぐに宋の冊封体制に入ろうとしました。この頃、半島でも中国の冊封体制に組み込まれることを望んでいます。

413 高句麗*東晋より 使持節都督営州諸軍事征東将軍高句麗王楽浪公
416 百済*東晋より 使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王
420 宋成立
    高句麗*宋より 征東大将軍
    百済 *宋より 鎮東大将軍
425 高句麗*宋より 散騎常待督平州諸軍事を加綬


高句麗は平城に遷都(427)し、国を整えていきます。百済はおびえたことでしょう。倭国に兵の派遣を要望し、渡海した兵は五百でした。倭国は百済の為にも宋に遣使(430)を出しますが、極海の島国を宋は適当にあしらったでしょう。それより、高句麗が気になっていたのです。その高句麗は、北魏にも接近しています。

435 高句麗:北魏より 都督遼海諸軍事征東将軍領護東夷中郎将遼東郡開国公高句麗王

上の年表から読めるのは、倭王讃の涙ぐましい努力です。
繰り返し宋に遣使していますから、多大な労力と犠牲を払ったことでしょう
この王が誰なのか、日本書紀では分かりません。なぜに、これほどの努力を書き残さなかったのでしょうか。その理由として、書紀の王権の祖先ではないから書かなかった、のではないでしょうか。それとも、その伝承がすっかり忘れられていた…

倭王讃の意思を受け継いだのが、倭王珍でした。
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讃の弟・倭王珍は、高齢で即位(在位438~443)
わずかな在位期間に、精いっぱいの努力をしたようです。やがて、珍は力尽きまいたが、倭王が後をつぎ、さっそく宋に朝貢しました。
倭王済は、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・泰韓・慕韓六国諸軍事安東将軍倭国王」を望みますが、宋書文帝紀によると「安東大将軍」に留まったようです。倭王は半島にも影響力を持ちたかったのです。
済は460年くらいまで在位していたのですが、その後を受け継いだのは、興でした。

倭王の時代、半島情勢はますます厳しくなりました
450 高句麗 *新羅を討つ
457 百済 *宋より 鎮東大将軍を授かる
463 高句麗 *宋より 車騎大将軍開府儀同三司を授かる
472 百済 *北魏に 入貢し高句麗に対する帥を乞う
475 百済 *高句麗の 侵入を受け、熊津に遷都する
479 宋滅亡 *南斉(→502)おこる
    南斉 *高句麗王に車騎将軍、加羅王に輔国将軍を授ける
484 高句麗・百済 *南斉に入貢する
490 百済 *南斉より 大都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王を授かる
 

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さて、年表から倭王のいた場所を考えてみましょうか・戦禍につかれた倭国は何処か?

それは、半島の情報がすぐに入る所。百済が兵を送れと要請しやすい処。当然、近畿ではありません。7世紀ですら百済救援に兵が集まらなかったではありませんか。半島に渡ったのは、九州の人たちでした。
ですから、戸籍を持たなかった近畿の権力に出兵する力はありません。
しかも、度重なる出兵で、九州の王権は疲弊していったと、わたしは思います。当然、大きな古墳を造る余裕はなかったでしょう。丁(よぼろ)がいないのです。
倭の五王の時代は、人民は豊かではなかったとわたしは思います。彼らは九州を捨てたかも知れません。倭王の野望の犠牲にならないように。人民の逃亡は、また倭王を苦しめたかも知れません。


年表の稲荷山鉄剣について
年表を見ると 埼玉県行田市の稲荷山鉄剣の銘文「辛亥年」が、471年とされるのです。ほとんどの人も471年を支持しています。しかし、これには、個人的には異議があります。それは、鉄剣に「吾左治天下」のことばが象嵌されているからです。

「わたし(吾)は天下を治めるのを助けた(左)」とは、大変なことです。「天下」を治めることができるのは、天子だけだからです。倭王の讃・珍・済・興・武は、そろって中国の冊封を受けることを望み、実際に将軍号を授かっています。これでは諸侯並で、天下を治めたと主張することはできません。ですから、471年の鉄剣は、発掘当初の見立ての通り、辛亥年=531年だと思います。
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稲荷山鉄剣委ついては、既にこのブロブ277「江田船山古墳と稲荷山古墳」で紹介しています。ですが、再度、取り上げましょうね、要点だけでも、次回以降に。
その前に、倭王武の上表文についても考えなければなりませんね。

  
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# by tizudesiru | 2018-02-13 22:42 | 325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望 | Trackback

神功皇后時代の七支刀は、誰のものだったのか

神功皇后・応神天皇時代の虚実ないまぜの歴史書
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(上の年表は「日本歴史年表」東京堂出版から)
百歳で没した神功皇后、御子の応神天皇も百一歳で没しています。
その応神天皇が即位したのは神功摂政69年の後ですから、70歳近くになってからの即位だったことになります。二人とも超長生きだったようですが(現実的年齢ではありません)実際にはよぼよぼでしょう。すると、その後の仁徳天皇も老齢での即位となるのですね。その没年は、仁徳天皇87年ですから、年齢は百歳を優に超えるのです。
この当たりには無理がありすぎ、歴史書の編纂上の造作・創作が考えられています。事実を反映した事件もあるかも知れませんが、嘘の歴史が創作されている可能性も大です。
ですから、海外の資料をたよりに倭国史を見直す以外にないのです。が、日本にもありました金石文が、七支刀の銘文が。


真の歴史を伝えるナナツサヤの太刀の金石文が、石上神宮に残されています。
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(石上神宮の七支刀・ナナツサヤの太刀)


歴史の真実を伝えるのか! 七支刀は

紀年のある銘文がある不思議な太刀が石上神宮に残されています。虚実ないまぜの歴史のなかで、七支刀の銘文が真実を語っているのですが、どう読むのか、それが問題なのです。
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(「大神社展」の図録では、七支刀は四世紀とされています)


銘文の冒頭の「泰■四年」から問題が生じています。
年代の解釈に、①②③の三通りあるのです。
①西晋の「泰始四年」=268年
➁東晋の「太和四年」=369年 *これが定説となっている
      
*泰が太に変わっている。音が通じるから、という。
③劉宋の「泰始四年」=468年

百済は宗主国の元号の字を変えたのか?

銘文の解釈もさまざまですが、定説はあります。

此の銘文のような状況は、いつ頃の半島と倭国の関係でしょうか。本当に369年なのでしょうか。
3世紀、4世紀、5世紀の何時か、です。

①3世紀には、百済はまだ成立していませんから、銘文の「泰始4年=268年」は成立しません。

➁では、「太和」を「泰■」に変えて彫り込んだ可能性ですが、当時の人が宗主国と仰ぐ中国の元号の文字を簡単に変えるでしょうか? しかも、「泰」の俗字が「太」で、「大きい・やすらか・はなはだしい・おごる・ゆったり…」などの意味があります。東晋の「太和」の「太」が俗字だから百済が「泰」に変えてあげたと、そんなことがあり得るでしょうか。
もちろん、銘文の年紀が「太和4年=369年」の可能性はありますが。

③宋時代の「泰始四年=468年」は、どうでしょうか。別に違和感はありませんね。年号も「泰■=泰始」ですし、倭の五王の時期で半島との交流も記録があります。
では、②③のどちらでしょう。わたしは③と思うのです。それは、
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(上のような解釈が一般的で、太和四年=369年が定説です)

銘文から、当時の半島と倭国は関係深く、軍事的な協力関係にあったと読め、運命共同体に近い状況だったとき、七支刀が造られた、神をも巻き込んで戦う状況だった、と解することができます。
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高句麗好太王碑文にもあるように、倭と百済と新羅と高句麗が入り乱れて戦っていたのは、四世紀後半からです。七支刀はその混戦の前に造られたか、後に造られたか。ですが、百済の感謝の気持ちを考えると、468年だと思うのです。
369年と468年、ちょうど百年ずれますね。

沖ノ島祭祀も七支刀の時代にかさなる
5世紀、沖の島の岩上祭祀の真っ最中で、三角縁神獣鏡・武器などが神に奉献されていました。半島に渡り戦っていたのでしょうね。沖の島の王権祭祀は、4世紀半ばに始まりました。渡海して戦う時、倭国も必死だったのです。

では、半島の国が倭国とのつながりを強力にしたい理由は何でしょうか。そこには、軍事的脅威があった。だから、命を賭して半島に渡った倭国に感謝したのです。つまり、文化的にも地理的にも半島と近い場所に倭国があったと云うことです。その王権の所在地は、九州以外にないではありませんか。すぐに兵を送れたのですから。

七支刀が戦乱に明け暮れた百済と倭国の親密さを伝える、のであれば、泰始四年=468年ではないかと思うのです。

沖ノ島祭祀は、6世紀前半は空白で、一度途切れました。そこで、何かがあったのです。考古学者は、「磐井の乱」の影響を指摘しています。さて、筑紫君磐井は破れました。では、この時、多くの磐井の王族や技術者が次の王権に追われて移動した、次の王権に無理やり移動させられた、経済的に困窮し移動を余儀なくされた、さまざまに考えられます。
そこで、王権の末裔の手によって、七支刀も移動したと思います。

ここで、問題が浮かびます。

王権が所有していたはずの七支刀がなぜ石上神宮に有るのか
七支刀は、もともと物部氏の祖先の持ち物だった、とすると…
物部氏は、百済と交流があった王権の末裔ということになります。
そうであれば、歴史はどう変わりますか?

旧王権がヤマトでは臣下になったのなら、何らかの事情でヤマトに入った(引っ越した)王族となりますね。
または、過去の王権の武官として神祭りをしていた氏なのでしょうか。石上神宮はヤマト王権の武器庫の役目を果たしていたといわれています。当時、石上神宮は大量の武器を所有していたのです。それらは、何処から手に入れていたのでしょう。
物部は「もののふ」とも読みますから、当然、武力と関わる集団で、武器と共に移動したのですが、七支刀をもっていたのですよね。

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石上神宮のご祭神は、刀を振る時の「ふっつ」という音に由来するのです。当然、物部氏は九州の剣や刀を祭神とした集団だったでしょう。

今日の結論ですが、
七支刀を持っていたのは倭王である。
倭王は半島に渡りやすい地域に住んでいた。その七支刀が石上神宮に在るのは、政変によって移動したから。が、畿内の王権とは関わりの無い宝剣だったので、石上神宮が守り続けた。
畿内の王権は、九州の王権のシンボルとしての「剣・刀」を神刀とする思想は取り入れた、となります。


長くなるのでここまでにします。


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# by tizudesiru | 2018-02-12 12:54 | 325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望 | Trackback

神功皇后は悪女だった・仲哀天皇の謎の死

神功皇后は仲哀天皇の二番目の妃・なぜ皇后になれたのか
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仲哀天皇(14代)は、景行天皇(12代)の子の倭建王の第二子です。成務天皇(13代)に世継ぎがいなかったので太子となりました。母は、イクメイリビコイサチ天皇の御娘です。

仲哀天皇(タラシナカツヒコ天皇)が先に妃としたのは、叔父の彦人大兄の娘・大中津姫で香坂皇子と忍熊皇子を生んでいます。
仲哀天皇の二年に皇后に立ったのが、気長足(オキナガタラシ)姫なのです。他にも妃があり、来熊田造の祖・大酒主の娘・弟姫が誉屋別(ホムヤワケ)を生んでいます。
妃の中では身分的には、大中津姫が皇后でしょう。この人は早く亡くなったのでしょうか。


神功皇后については、おかしな話だらけです
仲哀天皇が生きている間は、応神天皇(胎中天皇)は生まれていません。生まれる前の子が男子かどうかも分からないし、通常の出産ではなく遅れて生まれた上に、生まれる前から太子とは……ありえない話の連続なのです。


そもそも、仲哀天皇の崩御そのものがおかしいのです
日本書紀では「急に具合が悪くなって、翌日崩御」「一書には、敵の矢に当たり、それが原因で崩御」となっていますが、さすがに暗殺めいたことは書けなかったのでしょう。しかし、古事記では、


「その時、神をよせたのは、息長足姫でした。
天皇が筑紫の訶志比宮におられて、熊襲を討たんとなさった時に、天皇は御琴を弾いて、建内宿祢の大臣が沙庭(さには)に居て、神の命(みこと)を請いました。ここで、大后に神が乗り移り言教え諭して、『西の方に国があり(略)われ今その国を帰服させよう』と言われました。天皇は『高い所に登って西を見たが国は見えない。海だけだ。偽りをなす神だ』と、御琴を押しのけて弾かれませんでした。
それで、その神は怒り『この天下は、お前の治めるべき国ではない。お前は死の国に行ってしまえ』と言われました。建内宿祢は『恐ろしいことです。わが天皇、どうぞ御琴を弾いてください』と申しあげました。
そこで、天皇はしぶしぶ弾かれたのですが、どれほどの時間もたたないのに御琴の音が止みました。
それで、灯りをともしてみると、天皇は既に崩御されていました。」
と書かれています。*沙庭とは、忌み浄めた祭場。そこで託宣を請う人を審神者(さには)という。


仲哀天皇の死は尋常ではありませんね。
「死の国に行ってしまえ」と言ったのは、皇后の声でした。真っ暗な沙庭で何があったのでしょう。仲哀天皇の突然の死の場にいたのは、建内宿禰と皇后だけです。二人は何をしたのか…
ですが、古事記は「御腹にいます子が治めるべき国だと、言教えた大神」の名を「天照大神」というのです。
仲哀天皇は「天照大神の御心」で、胎中の子の為に死なねばならなかったのでした。理不尽な話です。
仲哀天皇の死・本当の意味は何でしょう?

結果から言えることは、悪女の王位簒奪・王家の消滅です
①大王位の簒奪 ➁半島との交渉権の簒奪 ③正当な後継者の権利の簒奪
*簒奪(さんだつ)とは、臣下が君主の位を奪い取ることです。

この後、皇后が半島に行き新羅を征討したことになっています。そして筑紫で御子を生み、その後、倭に登り香坂王・忍熊王を討つのです。香坂王は猪に食い殺され、忍熊王は琵琶湖に入水しました。
こうして、仲哀天皇一族は葬り去られました。神功皇后は、越の国の角鹿(つぬが)に帰り、酒宴を開いたのでした。
王権の簒奪以外にないでしょうね。古事記は、そのようになっています。神功皇后が角鹿の人なら、日本海側の国と九州との関係は深いですね。

そして、次なる疑問が出てきます
仲哀天皇(足中彦天皇)の祖父・景行天皇の「国偲び歌」について、ブログでも取り上げましたが、彼の故郷は福岡市の平群村だったのではないか、平群の神山とは「飯盛山」だったのではないかと紹介しました。景行天皇は筑後まで帰って平群山のある国偲び歌を詠んだのですから、平群は福岡市早良区であろうと書きました。ヤマトタケルも国偲び歌を詠いましたが、死して白鳥となっても近畿の平群にも大和にも帰りませんでした。
景行天皇もヤマトタケルも九州と深くかかわっていましたから、足仲彦天皇が豊浦宮と香椎宮に住んだのも違和感はありませんね。


すると、景行天皇→ヤマトタケル→仲哀天皇の三人は、九州の大王だったと云うことではありませんか。
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その伝承がないまぜになって、古事記に残されていると、思いませんか。
では、また明日。


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# by tizudesiru | 2018-02-11 01:39 | 325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望 | Trackback

「卑弥呼以って死す」以後の倭国

「卑弥呼以って死す」その後の邪馬台国

張政が還った後、女王国と壱与はどうなったのか。わたしは、ただ真実が知りたいのです。
壱与は畿内に引っ越したという説もあります。壱与の後、権力を握ったのは誰なのか、知りたくないですか。「なんとなく邪馬台国は畿内にあったんじゃないの」という風潮に流されていいのでしょうか。
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纏向の住居跡が卑弥呼の神殿跡とされましたが、建物の築造時期が卑弥呼の時代より新しいので、考古学的にここが卑弥呼の居館ではなくなったそうです。
では、改めて、矛でいかめしく守られた城柵・楼観のある宮殿は、纏向の何処に見つかるのでしょうね。
鉄も鏡も出ない纏向に、卑弥呼が住んでいたとは思えません。周りに経済力のある豪族がいないのですから。
が、やがてそこに権力が生まれた、それは何故か、です。
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近畿の内陸に権力が生まれたのは、そこに逃げて来た集団がいたからではないかと書きました。その集団を受け入れる協力者がいたのではないか、と思います。そうでなくては、移住したらまず海岸に居を構える他はないでしょう。急に内陸には入れないでしょう、案内もないのに。
すぐに、内陸に入り、その地域の山を自分たちの神山にするのは容易ではないはずです。先住民との軋轢もあるでしょうから。(ブログ265『消された饒速日の王権』でも書いていますが、饒速日は九州から近畿に入ったのです。そこへ、再度、九州から神武は侵入したことになっていますね。)

卑弥呼没後の邪馬台国
「日本史年表」(東京堂出版)で調べてみましょう。
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卑弥呼が没して、18年後に、倭女王が遣使
日本書紀の神功皇后紀に「倭女王」の記事


「(神功皇后)六十六年、是年、晋の武帝の泰初二年なり。晋の起居注に云はく、『武帝の泰初二年十月に、倭の女王、訳(をさ)を重ねて貢献せしむ」』といふ。」 

上の文は、日本書紀の本文ではなく、小さく書きこまれた割注にあります。「百済記」を参考にしたという割注にあるのです。

*武帝は、晋の第一代の帝(265~290)
*起居注、中国で天子の言行・勲功を記した日記体の記録


卑弥呼の没年は248年。宗女壱与が倭女王となったのは、その数年後で、張政が協力しています。すると、266年遣使の倭女王は、壱与でしょうね。266年は、13才で女王になって十数年が経った年ですから、女盛りと云うところでしょうか。
そうすると、世話になった魏が滅びたすぐ後に、次の王朝に遣使したことになります。情報収集が早いです。

では、壱与の記事が、なぜ神功皇后の条に書かれたのでしょうか。

日本書紀では、神功皇后元年辛巳)は西暦201年で、神功皇后は六十九年(269年)没、その年齢は百歳となっています。書紀では、神功皇后は3世紀の人となっているのです。
しかし
「神功紀」には百済や新羅との関係が様々に書かれています。ですが、そもそも新羅国や百済国が成立するのは4世紀半ばで、神功紀とは120年ずれるのです。(
神功皇后が実在なら、4世紀の人となります。)

すると、泰初二年=266年=神功皇后66年 は成立しないことになります。壱与の記事を神功皇后と結びつける意図が書紀編集者にあったのでしょうか。でも、神功皇后は倭女王ではありません。あくまで、皇后摂政なのです。
神功→応神→仁徳の家系は、近畿に侵入した形になっていると思います。応神天皇は九州で生まれたのですから、侵入者ですね。


年表でもわかりますが、日本書紀の神功皇后の年紀には120年プラスされて解釈されています。そうしないと、記述が史実につながらないからです。
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では、神功紀に4世紀の出来事が書かれているとして、366年・367年・369年に記載された人物は、何処の誰の命を受けて、百済に出かけたり、新羅を攻めたりしたのでしょうか。卑弥呼没して百年後のことです。四世紀の半ばから「沖ノ島」で岩上祭祀が始まっています。半島と密接なつながりが生まれていたのは事実でしょう。

神功皇后と同時代、誰が倭国の王だったのでしょう。
この事は、明日考えましょう。


ここで確認したのは、266年まで倭女王が存在していたこと、魏が滅びたらすぐに次の王朝に遣使を出したと云うことです。半島との関係も深まったと云うことです。


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# by tizudesiru | 2018-02-09 00:41 | 325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望 | Trackback

卑弥呼はどんな姿だったのか・弥生後期の巫女の姿を考える

倭女王はどんな姿だったのか
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卑弥呼が役目を終えても、宗女壱与が女王の地位を継ぎましたが、倭国の巫女王は、どんな姿をしていたのでしょう。中国から錦を贈られたり、倭国から倭錦や白絹を献上していますから、絹織物を着ていたでしょうね。
残念ながら姿を探る絵や像が出土していません。ただ、倭人伝によると、邪馬台国の女子は髪を束ねて折り曲げていたそうです。頭の上に載せてあげていたのでしょうか。
古墳時代になると、埴輪がありますから、男性の姿は想像しやすいですね。女性も特別な存在の巫女でしょうか、埴輪が残されています。古墳時代後期の埴輪に残る巫女の姿は、豪華とは言えないまでも、弥生時代の巫女の姿と何らかの共通点はあったでしょうね。特に、髪型等そっくりではないでしょうか。

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東京国博所蔵の埴輪の巫女は、腰に鈴鏡をつけています。巫女は鈴音を鳴らし神と交信したのでしょうね。右の仁徳天皇陵古墳の巫女頭部ですが、髪型も似ています。焼成の時の火の当たり具合から額の上に髪が折り曲げられていたのでしょう。
巫女は全国同じ髪型だった? のでしょうか?

(仁徳天皇陵と言えば、今、世界遺産にすると頑張っている処です
が、さて、何世紀の古墳と決められるのでしょうか、気になります。
九州と関東と大阪の巫女埴輪の髪型は、共通していると云うことでしょうか。同じような神祭りをしていたのか(共通文化)、姿だけ似たのか、古墳の築造は近い時期なのか、どこから伝播したのか、興味は生まれますね。

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書紀の仁徳天皇は、応神天皇の子どもとなっています。その陵墓とされるのが大山古墳です。ここから出た巫女の埴輪です。竪穴式石室に、縄掛突起の石棺があります。これは、前方部の斜面で出土したそうです。武具の模写図もありますが、鋲留短甲だったような…
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純朴な埴輪の表情には、どんなドラマがあったのでしょうね。
弥生時代の巫女の姿は、少ないですが線描きで土器に残されています。でも、女性か男性か分かりにくいですね。
弥生時代には大型甕棺も丹塗祭祀具も作れる技術があるのに、人物を作らなかったのは何故でしょう。土偶はありますけど、まるで人間とかけはなれた顔に作られています。そこには、似せることへの深い恐れがあったのではないでしょうか。ひとがた(人形)には魂が込められたから、あえて作らなかったのではないでしょうか。


(ところが、中国では人形を墓に入れます。それを知って、徐々に埴輪が作られるようになったと思うのです。ですから、埴輪は墓の中ではなく、古墳の外側に並べて、被葬者の功績や在りし日の姿を後世に伝えようとしたのでしょうね。)
 
古墳時代に作られた埴輪に、弥生の伝統が少しは残っているはず

埴輪は6世紀の産物ですから、3世紀とはつながらないように思えますが、今日でも神官はスーツ姿ではありません。
現代の神官も数百年前と同じ神事用の衣服をあつらえ着用しているではありませんか。平安時代の絵巻物と同じような姿です。祝詞が完成したころの儀式服というところでしょうか。長い伝統があるので変わりにくいのでしょう。
同じことが、古代にもあったのだと思います。祭祀が変わらなければ、その姿や祭具も変わらなかったでしょう。
と云うことは、中臣祝詞が完成していく過程で、大きな宗教上の変革があったのかも知れません。そこで、現在につながる祭祀の形態ができたので、それまでの祭祀の伝統は失われた…

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(立山山13号墳の埴輪・岩戸山歴史資料館)
倭国女王の姿を思い描きながら、「卑弥呼以死」の後を考えます。


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# by tizudesiru | 2018-02-08 13:00 | 325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望 | Trackback

女王国は北部九州にあったなら、卑弥呼の墓は何処?

魏志倭人伝の終わりに卑弥呼の墓の記述
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卑弥呼が巻き込まれた重大事が④にあります。①から読んでみましょう。

①正始元年(240)、(帯方郡)太守弓遵は、建中校尉梯儁らを遣わして、詔と印綬を倭国に持って行かせ、倭王に任命した。詔と共に金・白絹・錦・毛織物・刀・鏡・采物を賜った。倭王は使者に上表文を奉り詔に感謝した。
➁その四年(243)、倭王はまた、大夫の伊声耆・掖邪狗ら八人を遣使し、生口・倭の錦・赤と青の絹布・綿衣・白絹・丹木・木の小太鼓・短弓と矢を献上した。
掖邪狗らは八人ともに率善中郎将の印綬をもらった。
③その六年(245)、詔で倭の難升米に黄幢(黄色の垂れ幡)を假綬した(帯方郡の太守より与えられた)。

④正始八年(247)、(帯方郡の)太守・王頎が着任した。倭女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と以前から不和だったので、倭の載斯と烏越らを帯方郡に遣わし、お互いに攻撃し合っている状況を説明させた。郡は塞の曹掾史(国境守備の属官)の張政らを遣わし、彼に詔書と黄幢(黄色い旗)を持って行かせ、難升米に与え、檄(おふれ)を書いて卑弥呼を諭した。

 
諭されて、卑弥呼は死を選んだ
それで、卑弥呼は死んだのです。「以って死す」という「以死」とうい文字は、中国の史書では尋常な死には使われていないそうです。事件・刑死などの不慮の死の場合に使われているそうです。
⑤を読みましょうか。


⑤それで、卑弥呼は死んだので、おおいに経百余歩の墓を造った。殉葬した奴婢は百余人であった。あらためて男王を立てたが、国中が従わず、更に互いに誅殺しあい、当時千余人が死んだ。
それでまた、卑弥呼の宗女壱与(いちよ・とよ?)、十三歳の女性を王とすると、国中が治まった。それで、張政らは檄を書いて壱与を諭した。


⑥壱与は、倭の大夫・率善中郎将(宮中の宿衛の武官の長)の掖邪狗ら二十人で張政を郡まで送った。(倭の使者は)魏の都まで行って、男女の生口(奴隷)三十人を献上し、白珠五千、青い大珠玉二個、珍しい雑錦二十匹を貢いだ。
*ここで「倭人」伝は終わりです。


④に卑弥呼の墓は経百歩で大変大きい墓だったと書かれています。
では、箸墓が「女性の墓」という伝承があるので卑弥呼の墓なのでしょうか。箸墓が初めての前方後円墳なのでしょうか。しかし、ホケノ山古墳を始め、箸墓に先行する墓が発掘されました。そこで、ホケノ山古墳は築造年代を引き上げられる事態となったようです。ホケノ山古墳の副葬品は卑弥呼の時代と会わないのですが、築造年代は引き上げられています。それは、何度も書きましたから繰り返しませんが。

女王国が九州なら、卑弥呼の墓は何処なのでしょうね。
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(吉武高木遺跡から見る飯盛山、飯盛山・飯盛神社中宮から見る宝満山)

倭女王の墓、それを祭祀線が教えてくれるはずですが。
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何度もブログで繰り返し紹介した「宝満・飯盛を結ぶ祭祀線」です。このラインはどうでしょう。
弥生王墓
と認められている三か所の王墓が、みんなこのラインに乗ります。このラインを見つけた時から、「卑弥呼が九州の女王ならこのラインに眠っているはずだ」と書いて来たし、方々でしゃべってきました。
須玖岡本・吉武高木・三雲南小路の弥生王墓に加えて、一貴山銚子塚古墳(三世紀末~四世紀初め)が、この飯盛山・宝満山の二山を結ぶ祭祀ラインに乗るのです。それも、春分秋分の東西祭祀線の上に、です。一貴山銚子塚古墳には、三角縁神獣鏡は館外の足元に、後漢鏡は管内の被葬者の頭の近くに置かれていたそうです。それも、一枚は金メッキがされた漢鏡です。金メッキの漢鏡は日本に三面しか出土していません。三世紀末とされるこの古墳も、卑弥呼と深くかかわるかも知れません。
では、此のラインのどこに墓はあるのか……

卑弥呼の霊魂は彷徨っているかも知れない。還るべき山を見失って。
わたしは、弥生文化の断絶を考えました。大型甕棺の時代の断絶です。甕棺が大型となった弥生文化の絶頂期に、その中心地から先に大型甕棺は消滅しました。
大型銅矛を祭祀していた集団の、その祭祀具の埋納(断絶)とほぼ同時期にです。神祭りのための祭祀具を土中に埋めるとは。それは、なぜ起きたのか。政治的経済的な大変革が弥生時代の後期に起きたのです。ただ事ではありません。そこに在るのは、女王国の変革と関わるのではないでしょうか。卑弥呼の館を守っていた兵の武具は、矛です。矛を持つ文化圏に卑弥呼の館はありました。その祭祀具である大型銅矛が埋められる状況を説明するには、女王国の消滅以外に考えられないのです。何かが起こった。
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もちろん、大量の銅矛の鋳型が出土した春日丘陵に、卑弥呼の墓があった可能性は大です。しかし、わたしは続く政変の結果、女王墓は改葬されたと思います。
改葬後の墓の候補地は都が置かれたという伝承がある廟という伝承の場所でしょうか。
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そこは
北の香椎廟の辺りになるでしょうか。そこにあるのは男王の伝承ですが。
ここから九千部山頂が真南に見えます。その視線は春日丘陵を通るのです。この祭祀線の上に乗る神社も怪しいと思いますが、わたしは香椎廟の辺に改葬墓があったと思います。なぜなら、福岡平野の北の地を、霊力の強い神に守ってもらうのが一番だからです。後の世の改葬であれば、そう考えたでしょうね。
今は、まだ、祭祀線を紹介しませんが。


ヒジリ王のラインをおさらいします
ピンクのラインが、弥生の基本的な祭祀線です。この線上で、日の出・日の入りを見守ったのです。赤ラインは、ヒジリ王が観察した山々のラインです。


日知り王のラインは既に紹介しています。ヒジリ王は東西ライン上で祭祀をしていたと。
最終的に春日丘陵になったと思います。ここには、夏至・冬至・春分秋分の各日の出・日の入りの山、その山頂が揃っているのです。
東西祭祀線上の祭祀場で、山と太陽を見て暦代わりにしていたのです。
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(赤の南北ラインの上に、ヒジリ王の暦の山々が南北に連なります。このラインは、まっすぐ高良大社まで届きます。聖なる山の伝統は残ったということですね。)
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では、「親魏倭王」の印綬はどうなったのでしょう。誰かが持って行ったでしょうか。わたしは、後の世の権力者が持ち去ったと思っています。それは…それを持つものは「倭王」だからです。白村江敗戦の上表文は「倭王に問う」と書かれていたではありませんか。倭王としての地位は継続していたのです。



気になるのは、張政が帰国した後の壱与の行動です。

倭王となって、宗女壱与は何をしたのでしょうか。

張政が帰った後、列島は大変革を迎えました。皆さんご存じのように、鉄が全国に拡散します。三角縁神獣鏡が大量生産されます。工業生産地が全国に出現するのです。
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一体、何が起こったのでしょう。人と物の大拡散とは。

生産力が上がっても、人口は急には増えません。子どもが育ち、子孫が増えるスピードより速く、人口が増えるのはなぜか? 答は一つです。人間の移動です。それは、征服や侵略でしょうか。そうとは考えられません。技術を持っての移動ですから、各地ですぐに受け入れられたのではないでしょうか。邪馬台国が負けたからこそ、文化の拡散がおこり列島は変わったのだと思うのです。
技術を持って移動した豪族、彼らのルーツは九州にあると思います。


わたしは、大量の人口移動が倭国の内乱の後に何度も起こったと思います。それは、内乱の度に、繰り返されたと思うのです。二世紀、三世紀も、四世紀・五世紀・六世紀まで、特に、倭国の乱の三世紀と、磐井の乱の六世紀は大きかったと思うのです。
技術を持った豪族のルーツは、面白いです。そして、祖先神の共通性もなかなか面白いです。
それは、また、今度

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# by tizudesiru | 2018-02-03 23:17 | 324三国志魏書倭人伝に書かれていること | Trackback

卑弥呼が魏の明帝から下賜された豪華な賜物

魏から倭女王卑弥呼への贈り物
もちろん、銅鏡百枚だけではありませんし、魏はもっと良い物を下賜したと自負しているのです。
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景初二年六月、使者が帯方郡へ詣でて
魏の明帝から貰った豪華な下賜品とは
読んでみましょうか。
①景初二年(魏の明帝・238年)六月、倭女王は大夫難升米らを遣わし帯方郡に詣で、魏の天子に朝献することを申し出た。郡の太守の劉夏は役人を遣わして魏の都まで送らせた。
➁その年十二月、倭女王に返事の詔書が出された。そこには、曰。親魏倭王卑弥呼に詔す。
③帯方郡の太守劉夏が送ってきた汝の大夫難升米、次使の都市牛利らが、汝の献じた男の奴隷四人と女奴隷六人、斑布(マダラ織の布)二匹二丈を持って到着した。
④汝の住むところははるかに遠いのに、遣使して貢献して来た。これは、汝の忠孝である。余は汝を非常にけなげであると思う。そこで、汝を親魏倭王となし、金印紫綬を与えよう。封をして帯方郡太守にことづけて授けよう。土地の者をなつかせ、余に孝順をつくせ。
⑤汝の使者の難升米と牛利は遠い所から来たので、その苦労をねぎらい、難升米を率善中郎将に、牛利を率善校尉になし、銀印・青綬を与え、余が引見し労をねぎらい贈り物を与えて還す。
⑥それから、深紅の交竜の模様の錦五匹、また深紅の毛織物十枚、茜色の絹五十匹、紺青の絹五十匹をもって汝の献じた貢物に応えよう。
⑦特に、汝に紺地の錦三匹と、細かい花模様の毛織物五枚、白絹五十匹、金八両、五尺刀二振り、銅鏡百枚、真珠、鉛丹を各五十斤、みな封をして難升米と牛利に付けるので帰還したら受け取るようにせよ。
⑧そのものを悉く汝の国の人に示し、吾大国が汝を健気に思うが故に、丁重に汝に良い物を賜ったことを知らしめよ。


素晴らしい絹・絹織物・錦・金・五尺刀の次が銅鏡百枚ですね。銅鏡十枚くらいでは他と釣り合わないから百枚も下賜したのですね。この鏡は出来のいいものだったでしょうから、銅の厚みが足りない三角縁神獣鏡ではないでしょうね。貧相な贈り物ではなかったでしょうから。
倭国の人はこの贈り物に度肝を抜かれたでしょうから、様々に伝承が残ったはずです。忘れてはならないことだったはずです。


(だから、正史「日本書紀」や古事記に何も書かれていないとは、不思議です。では、正史には「卑弥呼の遣隋使より後の時代のことが書かれている」と云うことでしょうか。神武天皇が近畿に移動したのは、三世紀より後だということです。それも、遣隋使の事実を知らない人たちか、遣使を無視した集団が書いた、のかも知れません。)

魏の下賜品を確実に見たのは伊都国の役人だった!?
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さて、北部九州の伊都国には帯方郡・楽浪郡系の土器が出土します。この時代に確実に交流があった証拠です。(近畿には楽浪系の土器は出土していません。これは、畿内の学者のご指摘の通りです)
「世王あり」代々王がいた、という伊都国の王の墓がどんな位置に在るか、以前にも紹介していますが、少し確かめてみましょう。

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緑のポイントは山頂、青は古墳・墓、ピンクの太祖は神社です。
伊都国の周囲の山と山の山頂を直線で結んでみます。すると、祭祀ラインが数多く交差する王墓があります。三雲南小路王墓です。上の紹介画像のように前漢境が57枚も出土した遺跡です。方形周溝墓で、周囲とは区別された区画に甕棺が並んでいました。

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他にも王墓があるでしょうが、井原鑓溝などまだ位置が確認されていないので紹介できません。
それでも王墓が特別な位置に造営されたこと、三雲南の王が特別の位置に埋葬されたことは理解できます。古代の人は、山の上に霊魂が集まると思ったのでしょうね。山頂は魂が故郷を確認する時の目印だったかも知れません。
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ちなみに、平原王墓もたくさんの国宝銅鏡を出土しています。被葬者が女性とされる平原王墓は、三雲南少路王墓と加也山の祭祀線上にあります。少し拡大してみましょう。
後の世の王は、祖先の王墓と所縁の山を祭祀線で結んで自分の墓を造った、と云うことが分かりますね。同時に、どの墓が古く、どの墓と関係が深いのか、それも祭祀線が教えてくれるのです。

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女王国の北には一大率がおかれて、諸国を検察していたのです。「諸国もこれを畏れていた。その統率者は、常に伊都国に居て、それは中国の刺史のようなものである。」と書かれています。彼らは代々中国から諸侯なみの扱いを受けていたのでしょうね。甕棺から下賜品のガラス璧が出ていますから。

今日は、伊都国の役人が見た魏の下賜品の確認でした。伊都国の役人は、封泥のことも分かっていたし、目録の文字も読めたと云うことですね。

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# by tizudesiru | 2018-02-02 12:04 | 324三国志魏書倭人伝に書かれていること | Trackback

女王国は、武器の矛、宮室・楼観・城柵、絹織物、クスがある地域

倭人伝・倭人は古代九州地方の人だった

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倭人伝の、その倭人の風俗を読んでみましょうね。
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①倭人の風俗は節度がある。男子は被り物がなく木綿のはちまき。着物はひと幅の布を巻き付け紐で結んで縫うことはない。婦人は髪を曲げて束ね、単衣の真ん中に穴をあけてきている。
➁稲やカラム氏を植え、桑で蚕を育て繭を集めて織り、細い麻糸、絹織物、綿織物を造っている。そこには、牛、馬、虎、豹、かささぎはいない。
③兵(武器)にはを用い、楯、木弓を使う。木弓は下を短く上を長くする。竹矢には鉄鏃や骨鏃を使う。
そこに有るのは、儋耳や朱崖と同じである。
倭の地は温暖で、冬夏も生野菜を食べ、皆はだしである。家には部屋があり、父母兄弟は寝起きを別にしている。その体に朱丹を塗っていて、中国のおしろいのようなものである。飲食には高坏を使い、手で食べる。
④葬式について、棺はあるが槨はない。土で塚を作る。死んですぐから十数日間は喪にふくし、その間は肉食をしない。喪主は声をあげて泣き、他の者は歌い舞い飲食する。埋葬後は、家をあげて水浴し、中国の禊ぎのようなものである。
⑤倭国から使いが海を渡る時,持哀(じさい)を選んでいる。<その紹介は略 >
⑥倭国から真珠・青玉が取れる。山では丹砂・朱砂があり、樹木には、くす・とち・(くすのき)・ぼけ・クヌギ・スギ・かし・ヤマグワ・カエデがある。<略>
⑦には、骨を焼く占いのことが書かれている。<略>
⑧倭人の集会では父子・男女の差別はない。酒好きで、偉い人に会うと拍手をする。寿命は長い。
⑨身分のあるものは四、五人の妻を持つ、下戸でも二、三人の妻がいる。<略>

さて、どんな地域が想像されますか?
そこでは絹織物が造られ、武器は矛で、クスノキがあり、骨で占いをしているのです。
そこは、九州ですね。棺は甕棺ですね、直葬ですから槨はないのです。

租税・物々交換の市・諸国を検察 国の組織ができていた
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皆さんがよくご存じのことがかかれています。
①税があった
➁伊都国に一大率がいて、諸国を検察していた。
③女王が中国・帯方郡に使いを出す時と迎える時、全て港であらためていた。誤りは許されなかった。<略>
④倭国では、もとは七・八十年間も男王であったが、乱がおこり長年互いに攻伐しあったので、一人の女性を共立して王と為し、卑弥呼と名付けた。
⑤卑弥呼は鬼道(神霊に通じた)で衆を引き付け、年は取っているが夫もいず、弟が国政を助けている。
⑥王となってより直接会う者は少なく、千人の奴婢が仕え、ただ一人の男子が飲食の世話をし、伝言を取り次ぐために出入りしている。
⑦卑弥呼の宮室は、楼観や城柵を厳かに設営し、常に警備兵が武器を以って守備している。
女王国の東に海を渡って千里のところに、また国がある。倭の種族である。また、侏儒国がある。この国の背丈は、三、四尺で女王国からの距離は四千里。<略>
⑨倭地について問うと、絶海の中の島の上で、国々は離島だったり陸続きだったりして、周囲は五千里ほどである


地理的にも状況的にも、倭地は九州中心の地域
中国や帯方郡からの荷物を検めて、女王国に届けるのです。何日も離れた場所に女王国があるわけはありません。途中で紛失しては大変ですから。更に、倭地の周囲が五千里とは、狭くありませんか。

でも、倭人伝に書かれているのですから、周囲五千里でも仕方ないですね。
邪馬台国の時代に九州から近畿まで倭国が広がっていたのではないのです。

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# by tizudesiru | 2018-02-01 14:46 | 324三国志魏書倭人伝に書かれていること | Trackback

卑弥呼の出身地は何処か?邪馬台国論争は終わっているのに

倭女王・卑弥呼の出身地は何処か?!
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またもや、NHKで邪馬台国を取り上げていました。今回は、「卑弥呼の出身地は何処か? 何処の豪族が卑弥呼を選んだのか」という視点で考えたそうです。
なぜ、この番組が造られたのか、不思議でした。邪馬台国論争は終わっています。なのに、「倭国の内乱を鎮めるのに選ばれた女王」の出身地を考えようというのです。
番組では、権力を持っていた国から選ぶと豪族たちは納得せずまとまらないので、鉄を持っていた九州からは選ばれてはいないだろうという展開でした。スタートが「卑弥呼の墓は箸墓」ですから、やはり結論ありきの番組でした。

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NHKとしての番組の意図は「魏書・倭人伝をよむかぎり、邪馬台国は九州で決まり」だから、これでは箸墓の可能性は無くなる。だから、箸墓が卑弥呼の墓とすると、出身地は九州ではない可能性があると云うことですね。倭人伝には

女王國 萬二千餘里 
(帯方)郡より女王国に至るには、万二千余里

という決定的な漢字があるからです。邪馬台国は九州から一歩も出ないのです。それに、女王国は伊都国の南にあるのです。みんな書かれていて、ひっくり返せないのです。狗奴国は女王国の南に在り、邪馬台国と戦争をしていたのです。

しかし、卑弥呼の墓は箸墓であるから、女王の墓が奈良盆地に造られたのは何故か、誰がそれを指示したのか、何処の豪族が選んだのかと、NHKは別の視点で考えたというのです。
この展開だと、古代社会では武器は何の意味もなかった?!卑弥呼は鏡の出土しない地域の女王となった? 伊都国の監視の届かない地域で女王は祭祀をした? 巫女であれば他国の神祭りにすぐになじめた? と、なるのでしょうか? では、軍事力を持っていた国々は、女王の選出に納得していたのでしょうか? 
三国志魏書の倭人伝には、そういう出身地を探す手がかりがあるのでしょうか?
気になりますね。

では、魏志倭人伝にはどう書いてあるでしょうか?
読めなくても、見てみたいですよね。

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この後も続きますが、みんな書かれているのです。
退屈でなければ、読んでみますか? 或所で講師が「邪馬台国論争は終わっている。論じるだけ時間の無駄。邪馬台国の、それ以後を考えたい」と言われました。わたしも、方々で同じようなことを云っています。誰が解決を引き延ばしているのでしょうか。どんな結論でも、真実であれば構わないのに。

確かに、無駄かもしれませんね。それでも。

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# by tizudesiru | 2018-01-30 11:44 | 323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK | Trackback

高市皇子の妃・御名部皇女は承知していた天智天皇の皇統

すめ神嗣て賜へる吾なけなくに

万葉集巻一の「和銅元年(708)戊申」という表題のもとに、阿閇皇女(76番歌)と御名部皇女(77番歌)の二首が並んでいます。二人は姉妹で、右大臣蘇我石川麿の娘・姪娘(めいのいらつめ)が天智天皇との間にもうけた皇女達でした。姉の御名部皇女は高市皇子に、妹の阿閇皇女は草壁皇子にそれぞれ嫁ぎ、二人は子どもたちにも恵まれていました。
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慶雲四年(707)
二月、平城京遷都の話は諸王臣(五位以上)には知らされました。
六月、文武天皇崩御。七月、元明天皇即位。

和銅元年(708)は平城京遷都の二年前です。
この日までに、二人がどんなに運命に翻弄されてきたか、想像に難くはありません。
祖父は蘇我倉山田石川麻呂、讒言により自ら命を絶ちました。母・姪郎女は天智帝の夫人となり女子をもうけました。壬申の乱を越えて、姉の御名部皇女が高市皇子に、妹の阿閇皇女が草壁皇子の正妃となりました。あまたの皇女の中で、二人は特別でした。
草壁皇子の妃となった阿閇皇女は、持統三年(689)に夫を亡くしました。御名部皇女も、持統十年(696)に太政大臣だった高市皇子を亡くしました。二人はお互いを支え合ったに違いありません。持統十一年(697)に持統天皇が孫の文武天皇に譲位し、大宝二年(702)に力尽き崩御となりました。しかも、文武天皇までも慶雲四年(707)に崩御となり、極位が空位となるところをつないだのが元明天皇(阿閇皇女)だったのです。
元明天皇の即位の時、壬申の乱以来の天武朝の重臣たちはどう行動したでしょう。草壁(大津)高市の皇統が継承すべきという当然の声が内部にはあったはずです。
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(高市皇子が心血を注いで造った藤原宮)
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御名部皇女の和する歌は和銅元年(708)ですから、大嘗祭が行われたのは即位の翌年です。そこで、二人の歌

76 丈夫の鞆の音すなり もののふの おほまへつきみ 楯立つらしも
77 わご大王 ものなおもほし すめ神の 嗣ぎて賜へる 吾なけなくに


「皇祖神は、あなたに着けて私を賜った」と御名部皇女は歌いました。ここで、主張されているのは「あなたが即位するのは何も不思議ではない。私もあなたも皇祖神は同じで、あなたを支えるために私が付けられている。心丈夫に、安心していてください。私たちが天智帝の皇統であり、蘇我の血を引くことを忘れてはならない。」と詠んだのです。「すめ神」とは、皇統の正統を示す神に他なりません。

御名部皇女は、天武帝の皇統ではなく天智帝の皇統に皇位が継承されるべきだというのです。高市皇子の妃である人が詠んだ歌です、これは。
天武朝の世にありながら、天智帝の皇統を支えようというのです。
御名部皇女は何もかも承知していたのでしょうか。夫の死の真相も、持統天皇や草壁皇子の出自も。そのうえで、妹が極位に着くことを全面的に支えたと云うことでしょうか。

今日の結論、御名部皇女は天智天皇の皇統への皇位継承を承知していた
妹を支えた御名部皇女の77番歌を読むかぎり、「元明天皇の皇位継承は正当である」とそう主張したと理解せざるを得ません。自分たちをして、「すめ神」が賜われた血統の「吾と大王」と詠んだのですから。
元明天皇の即位の時(708)、天武朝の重臣が数多並ぶ状況で、太政大臣高市皇子の妃として「すめ神の嗣ぎて賜える吾」と御名部皇女は詠んだのです。この言葉は、高市皇子についていた大伴氏を始め多くの「壬申の乱以来の重臣たち」を黙らせるに、十分だったはずです。
御名部皇女の言葉には重みがありました。
姉妹の固い結束は揺るぎませんでした。阿閇皇女は深く感動したはずです。ですから、夫・草壁皇子の意思も汲み、姉の愛も受け止め、しかるべき時が来たら「長屋王と吉備内親王の子どもたちの地位を二品に引き上げ、皇位継承の権利を残しておこう」と思ったでしょう。実際に実行していますからね。

御名部皇女の毅然とした態度は、阿閇皇女に決意させた
天智帝と蘇我の血統の皇女達は、皇后(中宮天皇)になれる地位に生れたのです。だから、阿閇皇女は元明天皇となりました。つまり姉妹は「倭姫(ヤマトヒメ)・皇位継承者を生む女性」という地位にあったということです。
阿閇皇女が姉の子どもたちに皇位継承権を与えても不思議ではないのです。もちろん、それは皇位継承に一矢を放つことになるのですが。
元明天皇は即位の時(708)の天武朝の重臣が数多並ぶ状況で、太政大臣高市皇子の妃としてあえて歌を詠んだ姉の気持ちに、妹として報いた結果と思うのです。

元明天皇は譲位する時(715年)になって、急に「娘の吉備内親王の子を二品に引き上げる」ことを思い立ったのではないのです。思慮深い元明天皇は、娘・氷高内親王以外には、この事を洩らさなかったと思います。


そうして、元明天皇は、藤原氏の血を引く首皇子・聖武天皇ではなく、氷高内親王(元正天皇)に譲位したのでした。長屋王の子どもたちを二品に引き上げたうえで。

それは、藤原不比等にとって晴天の霹靂だったことでしょうね

即位後、元明天皇は天智帝の皇統であることを主張し続けた
「天智天皇の発願の寺院」として、大幅に遅れ滞っていた筑紫観世音寺の造営を進め、「天智天皇の改めまじし常の典(のり)」即位の詔に持ち出した元明天皇です。天智天皇の常典をもって、天武朝の皇位継承の基本的な考え方とするのは変な話でしょう。しかし、元明天皇は堂々と実行しました。元明天皇は持統天皇の遺言を守り、深く天智天皇を思い、草壁皇子の意思を汲んで最後まで行動したのです。
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35 これやこの倭にしては我が恋ふる木路にありとふ名に負う瀬能山

草壁皇子を亡くした翌年の紀伊国行幸での阿閇皇女の御歌です。この時、夫を亡くし、三人の子を守る阿閇皇女は、どんなに心細かったでしょうね。この行幸で、皇女はどんなことを思っていたのでしょう。阿閇皇女の強さは此の辺りで培われたのでしょうか。

さて、このように、持統天皇の家族について何度も確かめる作業を続けている理由ですが、それは「人麻呂歌集」の紹介の為です。一昨年からそのように思っているのですが、唐突な中身にならないように足元を固めているのです。いずれ、万葉集の「人麻呂歌集」に入るつもりです。
その時は、よろしくお願いします。

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# by tizudesiru | 2018-01-28 17:41 | 322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌 | Trackback

藤原鎌足の不思議な25年間? 内臣として何をしていた?

鎌足は25年間、内臣(うちつおみだった!!
中臣(藤原)鎌足(鎌子)は不思議な人です。書紀大化改新での謀(はかりごと)以外に何をしたのでしょう。中大兄皇子の腹心の部下だったと何度も書きましたが、どんな仕事をしていたのでしょう。記録では、25年間ずっと内(うちつおみ)でした。
大臣(うちつおほおみ)になったのは、薨去の前です。

天智八年(669)十月 藤原内大臣の家に行幸した天皇は、「積善の者には余慶がもたらされる。何かあるならすぐに申し出なさい」と鎌足に言葉をかけました。
これに対して鎌足は、
「葬儀は簡単なものにしてください。生きては軍国(おおやけ)に務めを果たしておりません。死去してまで煩わすことはできません」と、応えました。その言葉を取りあげ、続けて「時の賢人が『この一言は先哲の善言にも並ぶのもだ』と言った」と、日本書紀はその死を惜しみました。


議政官を記録の中から見ると、任命が明らかなのは、下記のとおりです。
よく見ると各帝に仕えてずっと「内大臣」となっているのは、鎌足だけです。
中大兄が孝徳朝の難波宮を去った時、腹心の部下の鎌足は難波宮に残ったのでしょうか? 
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(近江神宮)
議政官任命を「公卿補任」で見る


大化元年~五年(645~649)孝徳
      左大臣 安倍倉梯麻呂  (五年三月没)巨勢徳陀(五年4月~)
      右大臣 蘇我倉山田石川麻呂(五年三月自殺)大伴長徳(五年4月~)
      内臣  中臣鎌子


白雉元年~五年(650~654)孝徳
      左大臣 巨勢徳陀
      右大臣 大伴長徳(~三年7月没)
      内臣  中臣鎌子 *紫冠を授け、封をます

斉明元年~七年(655~661)斉明
      左大臣 巨勢徳陀(~四年正月没)その後なし
      内臣  中臣鎌子

天智元年~六年(662~667)天智称制
      大臣  蘇我連子(~三年五月没)その後なし
      内臣  中臣鎌子

天智七年~八年(668~669)天智即位
      内臣  中臣鎌子(~八年没)八年に内大臣

天智九年(670) 天智 *議政官の任命なし
      
天智十年(天智十二月没)~壬申の乱(671~672)
      太政大臣 大友皇子(~7月自殺)
      左大臣  蘇我赤兄(~8月流罪)
      右大臣  中臣金(~8月没)
      御史大夫 蘇我果安(~7月自殺) 巨勢比等(~8月流罪) 紀大人(?)

      
分かりやすく分けてみました。
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これらの「公卿補任」の記録から分かるのは、孝徳朝の白雉五年(654)から天智十年(671)までの間、十数年も議政官が任命されていなかった(❓)ことです。そんなことはないでしょうが、記録がほとんどないのです。この時期に、誰が行政のトップだったのでしょうか。誰が政治を動かしていたのでしょうか。
「評」の行政区が書かれた木棺は出土しています。税の取り扱いはおこなわれていたのです。行政が滞ることはなかったようです。問題は、誰がそれを執り行っていたのか、です。

議政官の任命がない時期に誰が行政のトップだったのか
654~671年の間、藤原鎌足は誰に仕えていたのでしょうか。
もしかしたら
難波天皇が実在したことを示す、資料でしょうか

孝徳天皇崩御の後、行政のトップには有間皇子(難波天皇)が座っていた、その後を間人皇后(中宮天皇)が引き継いだ、中宮天皇の薨去(667)の後、葬儀・埋葬・遷都・即位が終わり、やっと、天智天皇が議政官を任命することができたと、考えることはできませんか。(次の天武朝では、皇親政治を目指していたので議政官の任命はありません。)

ここで再び、「天皇、宇智野に遊猟したまふ時に、中皇命の間人連老に奉らしめたまふ歌」の問題です。
万葉集辞典によれば、間人連老は「白雉五年(654)二条、遣唐使判官、小乙下中臣間人連老」とあります。同一人物なのです。西海使(遣唐使)として唐に行き、いつ帰ったのでしょう。
そして、書紀によれば「白雉五年二月に渡唐して7月に帰り、唐から多くの文書・宝物を持ちかえったので、大使吉士長丹などは位を上げられ、封二百戸を賜り、呉氏という姓まで賜って」います。
しかし、中国の史書「旧唐書」によれば、高宗本記・永徽五年十二月条に『倭国、琥珀・瑪瑙を献ず』と書かれています。永徽五年=白雉五年(654)ですから、遣使が十二月に皇帝に謁見したのなら、同年七月に帰ることはできません。ならば、翌年に帰国したということです。公の使いですから、朝廷で報告をするはずです。では、書紀の記述が間違っているのでしょうか。
遣使に褒美を与えた大王が孝徳帝でないならば、何処の誰だったのでしょう。

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やはり、この歌は、幼い皇女が献らせた歌ではなく、新大王の為に、中皇命(中宮天皇)として間人連老に奉らせた歌と考えたが違和感がないのです。間人連老は遣唐使判官として帰国(655)後、中宮天皇に仕えていたと云うことです。

梓弓の中筈の音で浄められた大野に、臣下が馬を並べて整列し、いよいよ儀式が始まるのです。それは、大王の霊魂に触れるための儀式でしょうね。清浄な大野に初めて踏み込む、大王位に着く人の儀式です。

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ではでは、内臣として鎌足は難波天皇にも仕えていたのでしょうか。それとも、斉明天皇について明日香に帰っていたのでしょうか。

それから、もう一つ、内臣の仕事はどんなことでしょう
中臣(藤原)鎌足のことについては、既にこれまでのブログで紹介しています。ここでは、25年間の内臣のという役職が何を意味するのかを考えてみたかったのです。
鎌足が薨去した後、内臣(うちつおみ)の任命は長くありません。と、云うことは、この役職が無ければ行政が滞ると云うことでは無いのです。内の臣ですから、王家の仕事・宮内省のような仕事をしていたのでしょうか。王家の神事とか、王家の生活のための人事や調度を整えたりなどの身の回りの世話です。天智朝では中臣祝詞が儀式でつかわれたようですから、中臣祝詞が完成していく過程に、鎌足の活躍があったのでしょうか。すると、皇居では常に神事に従事していたのでしょうか。
中臣鎌足は、「中臣」という氏の本流ではありません。本流の中臣が消えた後に現れたのでした。ですから中臣鎌足は「内臣」として、人と神の中をつなぐ祭祀をしていたのではないでしょうか。

それにしても
25年間も内臣の仕事をしたとしても、大王位が変わり、都が変わり、政変・内乱・国外出兵と混乱が続く中で「内臣は変わらない」とは、鎌足は不思議すぎます。


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# by tizudesiru | 2018-01-26 23:21 | 321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年 | Trackback

宇治天皇の悲劇を詠んだ柿本人麻呂と額田王

人麻呂と額田王が詠んだ宇治天皇
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万葉集巻九は、大変意味深な巻でした。この巻の「挽歌」という部立の冒頭歌が、柿本人麻呂の歌です。既に紹介していると思いますが、再度取り上げました。

    宇治若郎子の宮処の歌一首
1795 
妹等がり 今木の嶺に茂り立つ 嬬待つの木は古人見けむ

「愛しい人のところへ今来た」という意味と同じ「今木」の嶺、そこに茂りたっている「嬬を待つ木」という意味の松の木をいにしえの人(宇治若郎子)は見たのだろうか。
宇治若郎子の宮処の「松の木」は、ここに住んでいたあの悲劇の皇太子が見た松の木なのだ。


人麻呂の歌の題詞にある「宇治若郎子(うじのわきのいらつこ)の宮処の歌」、何とも意味深な題の付け方です。宇治若郎子の宮処で、人麻呂は松の木を見て、古人を偲んだのです。「松」といえば、初期万葉集では「岩代の結松」が読み手の念頭に浮かぶのです。人麻呂も「松」に関しては紀伊国の「岩代の松」と結びつけた歌を多く詠んでいます。ですから、松といえば、悲劇の皇太子・有間皇子が思い出され、それを宇治若郎子の伝承と結びつけて詠んだと思います。
人麻呂の作歌活動は日本書紀の成立以前と考えられますが、彼はどうして書紀のエピソードや神話の中身(自分の歌に詠みこんでいる)を知っていたのでしょう。
(考えられることは、人麻呂は宮廷の中に入ることができる知識人だったと云うこと。更に、正史の編纂に携わる人とも交流があったと云うことでしょう。)

宇治若郎子について、おさらいしましょう
万葉集では、難波高津宮天皇(仁徳天皇とされている)の名が巻二に出ていましたが、宇治若郎子はその弟で皇太子でありながら、兄に皇位を譲るために自殺してしまったという人です。古事記も日本書紀も、皇位継承の争いは親族間でありました。それは一方の死によって決着しています。ですから、宇治若郎子も自殺ではなく、他殺の可能性が大でしょうね。

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更に、巻九の人麻呂の歌についておさらい
巻九は特別な巻でした。その巻九の「挽歌」の冒頭には、人麻呂の歌が五首並びます。1795番歌に続くのは、下の四首でした。
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既に紹介していますが、巻九は紀伊国行幸の十三首のために編集されていたのでしたね。

次に巻一の7番歌、額田王の歌です。

7 秋の野の美草刈り葺き宿れりし 宇治の都の仮廬(かりほ)しおもほゆ


秋の美草を刈り取って屋根を葺いて旅宿リした宇治の都の仮廬が、あの仮廬こそが偲ばれる(そこに宿リなさったあの方のことが)

額田王が「過去の思い出を懐かしんでいる」歌で、それは、旅宿リをした天皇の仮廬です。その天皇は旅の宿の屋根を草を刈り取って葺いたというのです。宮子(都)という以上は、天皇のお住まいです。旅寝の仮の住いでも宮子(都)と呼びました。
さて、この歌について、後世の編者には「いつどこで詠まれたのか、詠み手も額田王か天皇御製歌か、分からなかった」のです。

一書には比良の宮に行幸が大化四年(648)で、書紀には「斉明五年正月(659)
に紀伊温湯から帰り、三月に吉野の宮、その後に比良の浦に行幸した」と長い左脚で説明されています。

ここで、「秋の野の美草刈り葺き宿れりし」がぴったりと収まるのは、「斉明五年の正月に紀伊温湯から帰った」です。
斉明天皇は前年(658)の秋から紀伊温湯に行幸していました。ですから、額田王は前年の秋のことを詠んでいるのでしょう。

将に、斉明四年(658)十一月に起こったのが「有間皇子事件」でした。「わが背子は仮廬作らす草なくは…」、あの歌を思い出してください。草を刈り取って旅の仮廬としたのは、有間皇子だったではありませんか。

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もし、この歌が斉明帝の御製歌であれば、美草は御草となります。
 
秋の野の御草を刈り取って屋根を葺いて旅寝をしたあの皇太子、いえ、あの宇治天皇の都、一夜の都となった仮廬が思い出されてしかたがない。

と、若くして政変により命を落とした皇子を斉明天皇が偲んだことになりましょうか。しかも、是を編集した学者は、額田王が斉明四年(658)の秋の出来事を詠んだ歌だと知っていたと思います。だからこそ「斉明五年(659)正月、紀伊温湯から帰った」と遠まわしに書いたのです。

つまり、後の学者は、7番歌と額田王の9番歌「・・我が背子がい立たせりけむ いつ樫が本」と結びつかないように気を配ったのでしょうね。
すると、8番歌「にぎたづに船乗り背むと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎ出でな」の歌が、ここ8番目にはめ込まれた理由が分かります。
9番歌は「紀伊温泉に幸す時」の歌で、658年の有間皇子事件を詠んでいます。8番歌が百済救援の時の歌なら660年以降の出来事になりますから、歌の時期が入れ替わっています。                                                                                                                       
本来なら、7番歌、9番歌、8番歌と並ばなければなりません。もともとは、7・9・8・の順だったでしょうね。入れ替えたので読みにくくなり「脚注」がつけられたのです。
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額田王も人麻呂も率直に「有間皇子と宇治若郎子」と結びつけて詠んだと思います。

「にぎたづに船乗りせむと」の歌が、百済救援の時の歌ではない可能性もあるでしょうから、まだ考察する余地を残しておきましょうね。

私といたしましては、万葉集の人麻呂歌集に大変興味を持っています。そのうちご紹介をするつもりです。なかなか面白いし、納得の内容なのですが。その前に、あまたの予備知識がいるので、何度も同じことを確かめている処です。


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# by tizudesiru | 2018-01-26 02:01 | 320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌 | Trackback

宇治天皇と難波天皇を結ぶ赤い糸・万葉集3番歌の謎

宇治天皇と難波天皇を結ぶのは、万葉集巻一の3番歌
これは、以前から書いていることをもう少し進めた万葉集の歌の紹介です。
これまで、中皇命が間人皇女である可能性を指摘してきました。そこで、問題になるのは、巻一の3番歌です。ここには、「中皇命が間人老に歌を献じさせた」という題が掲げられています。中皇命が間人皇女なら、間人皇女が献じさせた歌となります。
では、この天皇(舒明天皇とされる)が内(宇智)野に御猟をしたとき、間人皇女は何歳でしょう。舒明天皇は舒明十三年(641)に崩御ですから、御猟はそれ以前になりましょう。すると、皇女は十二歳以下の十歳前後の子どもだったことになります。そんな子どもが天皇の御猟に従駕して、歌を献じたとは…やや違和感があります。

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では、歌も読んでみましょう。ここにも違和感があるのです。
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隅々までお治めになっていた我が大王が、朝には手に取ってお撫でになり、夕方には傍に立れた(しみじみ眺められ)そのご愛用の梓弓の中筈の音がしている。朝狩に今お立ちになったらしい。夕猟に今お立ちになったらしい。梓弓の中筈の音がしている。(大王が儀式のためにお使いになる梓弓の音がしている。音を立てて、今、辺りを浄めているらしい。いよいよ儀式が始まるのだ)
  反歌
中筈の音で浄められた大野には、張り詰めた空気が漂っている。儀式の御狩の為に馬を並べて、まだ、誰も入ってはいない標を結われた大王の狩場に、この朝、踏み込もうとしている。ああ、その草深い野(大王の標野)に。

と、詠みました。草深野が大きな意味を持って最後に置かれています。
大野とは、単に大きな野原でなく「大王の狩場」ではないでしょうか。そこで、梓弓の音を鳴らし儀式が行われているのです。浄められた大野に初めて入る大王の儀式です。これは、舒明天皇でしょうか。ではなく、孝徳天皇崩御後の後継者である新しい大王(難波天皇)の儀式の歌ではないでしょうか。
そう読めると、「万葉集を読む会」で話はしていましたが、間人連老=中臣間人連老について踏み込めませんでした。しかし、幼い姫に大事な儀式歌を献上させるのは、やはり違和感があります。


此の中皇命は幾つなのか、天皇とは本当に舒明天皇なのか

と考えた結果、やはり、「中皇命」となった間人皇后が、次の大王となるべき人の儀式に参加していたと読んだのです。
では、改めて、題に名前があるのは間人連老ですね。この人は、いかなる立場の人でしょうか。「間人連」というのは、姓になります。日本書紀の「中臣間人連老」と同一人物とされています。
この中臣間人連老は、孝徳天皇の白雉五年(654)二月に、西海使(遣唐使)の一人・判官として唐に渡っています。トップは高向玄理で、大化改新の指導者の一人でした。(高向玄理は、既に高齢でしたので唐に渡って客死しました。鎌足の息子の定恵もこの時渡海しました。二艘に分かれて出かけたのですが、遭難により多くの学問僧が海に没しました。)この西海使は、同年秋七月に新羅・百済の送使に付き沿われて筑紫まで帰りました。帰国者が孝徳天皇に謁見した時は、八月に入っていたでしょうね。
孝徳天皇は白雉五年十月十日に崩御ですが、その十日ほど前に中大兄皇子は間人皇后と斉明皇太后を連れて、難波宮に戻っています。ですから、間人連老が中臣間人連老だとしても、中皇命(中宮天皇)との接点はあります。

その後も間人連老が中皇命に仕えたかどうかですが
この時の孝徳帝の内臣(うちつおみ)は中臣鎌足です。鎌足は孝徳朝で、王家のお世話をしていたのです。孝徳帝からもずっと信頼されていました。
書紀には、白雉五年の「正月五日に、紫冠を中臣鎌足連に授け、封(へひと)を若干増した」と書かれています。孝徳帝の忠臣だったのです。

この時点で「中臣」の氏が共通すると云うことは、間人連老は鎌足とはいくらかつながりのある人かも知れません。ですから、孝徳帝崩御の後でも、中皇命に仕え続けたと思うのです。中臣という氏の関係で、可能性はあるでしょう。
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すると、ここで、あの難波津の歌が再び顔を出しました。あの歌は、孝徳天皇の素晴らしい難波宮を寿ぐ歌でもありますが、次の難波天皇に即位を促す歌だったとも読めますね。
実は、わたしは後者かも知れないと思っていたのです。
孝徳帝亡き後、「どうか大王位についてください」と促された人がいたということです。その人が有間皇子だったのではないかと思うのです。
このブログ、187「難波宮を寿ぐ歌」、188「孝徳帝の難波宮を寿ぐ」では、難波津の歌は孝徳天皇の難波宮の素晴らしさを詠んだものだと書きました。そのとき、気になっていたのが「難波高津宮天皇の即位を願った歌」だというエピソードでした。
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このエピソードは、ある出来事を伝えるものではないかと思ったのです。大王位への即位を促された人がいたということを。その人は万葉集の巻二の難波高津宮天皇ではないか。

難波高津宮天皇とは、仁徳天皇ではない!
巻二の冒頭歌で磐姫皇后が帰らないと心配した「天皇」で、衣通姫が待ち切れずに迎えに行った「皇太子」、この二つのエピソードは有馬皇子事件と状況が重なると紹介しました。
そして、今回、巻一の3・4番歌の「中皇命」は間人皇后のことで、献歌のとき幼い皇女ではなかったとしたら、いずれの天皇の御猟に歌を献上させたのか、という問題になったのです。
それは、有馬皇子以外に考えにくいのです。

初期万葉集は、有間皇子の霊魂を鎮め、草壁皇子の皇統が何であるかを文武天皇に伝えるために、人麻呂が編集したと思うのです。だから、巻一に有間皇子関係の歌がないとは思えないのです。巻一の3・4番歌こそ、有間皇子にかかわる歌だと思えたのです。


では、次は内臣・中臣鎌足について考えてみましょうね。
彼は、この事・後継者問題をどう思っていたのでしょうね。
そして、宇治天皇と難波天皇についてももう少し触れなければなりませんね。

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# by tizudesiru | 2018-01-24 18:02 | 320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌 | Trackback

持統天皇の紀伊国行幸・紀伊路を歩けば見えてくる謎

玉津嶋磯の浦見の真砂にもにほひてゆかな妹も触れけむ
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と、紀ノ国で四首を詠んだ人麻呂。こ歌の女性は人麻呂の妻とされています。しかし、私には妻とは思えません。確かめてみましょう。人麻呂は紀伊国で生活したのではないのです。此の歌の人麻呂は、旅の途中です。
紀伊国は、黄葉(もみじば)のようにはかなく逝ったその人の思いでの地です
その人と過ごした(遊んだ)磯を再び訪れるのは、人麻呂にとって悲しく寂しい…そこは形見の地なのです。
形見の地だからこそ、すぎにし人の霊魂が漂っている地だからこそ、ここに来たのです。
その人の霊魂に再会するために、その人が幾たびも来た海辺、思いで深い磯を求めて。
そこは、いにしえに、あの人と一緒に見た「黒牛方」という有名な岩場が見える所。
帰りには「玉津嶋の磯の真砂の臭いを染みこませていこう。あの人も触れた砂なのだから」と
玉津嶋の磯はその人には特別なところだったから、人麻呂はその真砂に触れたいと思ったのでした。


誰の霊魂に触れるために、玉津嶋の磯まで人麻呂は出かけたのでしょうか。わたしは持統天皇の霊魂だと書きました。
。(過去に人麻呂が紀伊国に来たのは、持統天皇の行幸に従駕してのことでした。)

この「紀伊国に作る歌四首」の旅は、ゆったりした観光旅行ではありません。
深い思索と決意のもとに、人麻呂が紀伊国を再訪問した時の歌です。四首には甘い感傷もありません。有るのは亡き人への深い恋慕と敬慕の思いです。
万葉集を読むかぎり、この歌の女性は、普通の人と考えられてはいません。人麻呂がその霊魂に触れに来た女性、霊力のある高貴な女性ということです。霊力は高貴な人に備わったのです。(この時代の人は、そのように考えていたと、古事記などを読むかぎり思います。わたしがこう考えているのではありません。)

この時代の男女は、対等ではありません。女性の性は、すべて族長のものでした。何処に輿入れするかだけでなく、姫君でさえ宴会の引き出物として、お土産のようにやり取りされていたのです。古事記や日本書紀を読んでみてください。少しも対等ではありませんよ。その運命に従うことが、女性の美徳でした。主人の男性が死を賜ったら、女性は共に死んだのです。選択肢は有りません。女性が生き残れるかどうか、すべて男性側の社会が決めたのです。(現代から見ると非常に残念なことですが)

しかし、人麻呂のこの歌の女性は普通の人とは違います。すぎにし人は、霊力を持った人です。「黄葉のすぎにし人」という言葉を、人麻呂はそのように使っています。

この事を確かめに、紀ノ國に出かけてみませんか?
人麻呂が如何なる女性を敬慕したのか、その足で紀伊国を訪ねて確かめてほしいのです。

玉津嶋から始めませんか。持統天皇の紀伊国行幸の跡を訪ねる旅を。スリリングでミステリアスな万葉集の謎を解くために、ぜひ。
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玉津嶋神社
山部赤人の万葉歌碑
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玉津嶋神社の裏山の奠供山には5分で登れます。そこから片男波公園を眺めましょう。古代の紀ノ川の河口は、ここでした。吉野から紀ノ川を下って、玉津島まで来れたのです。奠供山には孝謙天皇の望海楼がありました。聖武天皇も持統天皇も文武天皇も見た風景を偲んでみるのもいいですね。
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名草山
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片男波公園の砂嘴が見えます。
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何処を見ても桜、山桜が素晴らしい。
柿本人麻呂の「紀伊國に作る歌四首」については、既に紹介しています。カテゴリ157「持統天皇の霊魂に再会した人麻呂」その他でも。
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玉津島神社は不思議な伝承の神社です。鏡山に竈門神社もあります。
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そして、牟婁の湯まで行きましょう。
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春は和歌山へ・紀伊国の旅をおすすめ
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紀伊国国分寺の春も最高に美しいですね。

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# by tizudesiru | 2018-01-21 01:12 | 701年紀伊国行幸・持統天皇が触れた砂 | Trackback

間人皇后伝承の拡散・安珍と清姫

間人皇后伝承は衣通姫伝承と合体した
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今日も、間人皇后について、もう少し捕捉説明をさせてください。前回の衣通姫に関わることです。
和歌山県の玉津嶋神社の御祭神
のことは、カテゴリ242「紀伊国・玉津嶋神社」のところで紹介しました。(『玉津島神社の春・衣通姫の歌』など)

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不思議なことに、玉津嶋神社のご祭神は「海の神様」ではありません、玉津嶋は古代には海に浮かぶ島だったのに、です。最初に祭られたのは「稚日女尊(わかひるめのみこと)=丹生都比女神」で「丹生=水銀朱の神」であったのでしょうか。そこに「息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)」が加わり、聖武天皇が「明光浦靈(あかのうらのみたま)」を祀らせ、第58代光孝天皇が「衣通姫尊(そとおりひめのみこと)」を祀らせたとなっています。衣通姫は新しい祭神なのです。


光孝天皇は皇位継承の争いを回避するために「衣通姫」を祀る

第58代光孝天皇(830~887)は、父は仁明天皇、母は藤原沢子。甥の陽成天皇が叔父の藤原基経により若くして廃位となり、光孝天皇は55歳での即位となりました。在位は4年(884~887)

光孝天皇は即位と同時にすべての子女を臣籍降下させ、子孫に皇位を継承させないことを決めていました。
然しながら、皇太子が確定しない内に光孝天皇は病に倒れ、臣籍降下していた源定省(後の宇多天皇)を親王に復し、翌日には立太子。即日、光孝天皇の崩御となりました。御子の立太子は光孝天皇の意思だったかどうかわかりません。
むしろ、藤原基経が仲の悪かった妹(藤原高子)の子に即位させないための策だったのでしょう。

光孝天皇は自分の家族が皇位に着くことを望んでいなかった!
そんな光孝帝の夢枕に立った衣通姫、その歌は

立ちかえり またもこの世に跡垂れむ その名うれしき 和歌の浦波

一度は去ってしまったこの世に、またも戻って来て、生き直してみたい。和歌の浦とうれしい名前になった、そのなつかしい浦に寄せ来る波のように。

この衣通姫は書紀の允恭天皇の妃となった弟姫(皇后の妹)ではありません。古事記允恭記「軽太子と衣通王」の軽大郎女皇女のことです。軽太子は妹との姦通罪よりに皇位継承権を弟の穴穂皇子に奪われ自殺しました。

衣通姫の物語は書紀・古事記・万葉集で知られていましたから、聡明な光孝天皇は当然学んでいました。親族で殺し合うような愚かなことはしたくないと思っていたのです。
だから、極位に昇ることになった時、子女を臣籍に落としたのです。光孝天皇は皇位継承の殺し合いなど、自分の家族にはさせたくなかったのです。


だからこそ、
光孝天皇は紀伊国の玉津島神社を選び、衣通姫を祀りました。
なぜなら、そこは天武朝の聖地でした。天武朝のように政変で滅んではならないので、敢て政変で滅んだ衣通姫を選んだのです。
玉津嶋は持統天皇も立ちより、文武天皇も元正天皇も聖武天皇も立ち寄りました。聖武天皇と孝謙天皇は行宮として使いました。
山部赤人の「若の浦に潮満ち来れば潟をなみ 葦辺をさして鶴鳴き渡る」は、神亀元年の聖武天皇行幸の時の歌です。
有間皇子事件にもかかわる藤白坂は、目の前の名草山の奥の山にありました。

天武朝の天皇が玉津嶋を聖地にしていた理由は持統天皇の遺言
持統天皇が最後の紀伊国行幸で詠ませた十三首があるからです。「紀伊國に止まず往来(かよは)む 妻の杜 妻よし来せね 妻と言いながら」これは、遺言のような歌でした。
妻の杜の神様、紀伊国にはずっと通い続けるつもりです。あなたが妻の杜という名の通りなら、わたしの大事なあの人を連れて来て下さい。紀伊国に止まず通いますから、お願いです。

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約束通り、天武朝の人々は紀伊国に通いました。
だから、光孝天皇は玉津嶋神社で滅びた天武朝の霊魂を鎮めさせ、滅亡の危機にさらされている天智朝の繁栄を願ったのです。

もちろん、「万葉集」巻二の衣通姫が誰を指すのか、「間人皇后=中宮天皇」だと光孝天皇は承知していました。だから衣通姫は「和歌の神」となり、宮中では玉津嶋の衣通姫に歌を捧げたのです。

衣通姫が合祀された後、玉津島神社は「和歌三神」の一つとなり、後西帝、霊元帝、桜町帝、桃園帝、後桜町帝、後桃園帝、光格帝、仁孝帝の御代に、「法楽和歌会」と称し、玉津島の神に和歌を奉納する歌会が宮中で催されました。

女の執念が蛇となった・安珍と清姫

紀伊国・道成寺は、大宝元年(701年)に文武天皇が建立したといわれます。皇后の藤原宮子の願いを受け建立されたそうです。そうでしょうか? 
大宝元年(701)、文武天皇は持統太上天皇と紀伊国行幸をしました。それは、「紀伊國十三首」でも分かるように、有間皇子事件の所縁の地を訪ねる旅でした。
その後、道成寺の建立ですから、藤原宮子の為というより有間皇子の為だったのではないでしょうか。
道成寺の観音像の瞳は、まっすぐ有間皇子の墓とされる「岩内一号墳」を向いていると云うことです。文武天皇が持統天皇の案内でその墓を知ったとしたら、菩提を弔う寺を発願したでしょうね。

(宮子は聖武天皇を生むと産後の回復が進まず、この後三〇年以上吾子も抱けない状態だったのです。道成寺の「髪長姫伝説」はその辺のところを伝えるのでしょうか。)

さて、紀ノ國で起こった有間皇子事件は、人々の耳目を集めたことでしょう。しかし、人々は事の真相も顛末も十分に知っていたわけではありません。様々な噂話が拡散していたでしょうね。そこへ、道成寺の建立ですから、その噂話に火が付いたのではないでしょうか。それが、

紀伊国・道成寺の伝承・安珍と清姫の物語となった


と思います。安珍が有間皇子で、清姫が間人皇后です。約束を交わした男が逃げるので、女が執念で追いかけ、遂には愛する男を殺してしまうという…物語に変化していったと、思うのです。

有間皇子事件は、大きな政変でした。王家の人々が有間皇子事件を繰り返し思い出し戒めとしても、藤原氏の抗争に巻き込まれました。その中で、和歌に親しむことは慰めだったでしょうね。
では、また。

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# by tizudesiru | 2018-01-19 02:26 | 319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや | Trackback

間人皇后の華麗なる生涯・光と影

間人皇女は十代で孝徳帝の皇后に立つ
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間人皇女は、舒明天皇と斉明天皇の間に生まれました。
乙巳の変(645)で蘇我氏本家が滅んだ時、中大兄皇子は十九歳の青年でした。間人皇女は中大兄の妹ですから、立后された時はうら若い乙女だったのです。孝徳天皇は推古五年(597)の生まれですから、間人皇女との結婚はかなりの年の差婚でした。高貴な姫君が恋をすることもなく、老人のもとへ輿入れしたと云うことです。
ですから、大人になるにつれて姫君の心は空しくなっていったでしょう。

華麗なる宮廷生活、しかし、皇女の心の空白は埋められなかった
白雉四年(653)、突然、兄の中大兄皇子が母の斉明皇太后と妹の間人皇后を連れて倭京に帰る事態となりました。そこには孝徳天皇と中大兄皇子との確執もあったでしょう。それは、東宮=皇太子に関わる問題だったかも知れません。であれば、中大兄皇子は自分だけ倭京に帰ればいいのです。しかし、皇后まで連れ出したとは…これは犯罪です。
この状況を古代の視点ではなく現代の視点で見れば、皇后は孝徳朝での宮廷生活に苦しみ精神的な限界に来ていたということではないでしょうか。見かねた兄が救いの手を出した、それに母も賛同した、ということです。しかし、同時に、


皇后の家出は、政治の改革に努力していた孝徳天皇にはダメージだった
若い皇后を気遣う時間が少なかったとしても、孝徳天皇は皇后を大事にはしていたのです。ですが、基本的には対等の夫婦というより「金木つけ吾がかう駒は引き出せず」ですから、皇后は後宮の飾りの一つのようなものだったのでしょう。それが故に、皇后が家出したのです。前代未聞のことでしたから、孝徳天皇は激怒し極位を下りるとまで言い出しました。

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孝徳天皇の最後をみとった間人皇后の決断
白雉五年(654)、心労がたたり孝徳天皇は病に倒れました。中大兄皇子は皇后と共に見舞いに訪れます。そこで間人皇后の目に映ったのは、弱り果てた老いた天皇の姿だったでしょう。そこで、孝徳天皇は毅然として言ったはずです。

「□よ、あなたには大変つらい思いをさせた。しかしながら、あなたは皇后(大后)である。皇后である以上天皇(大王)亡き後は玉璽を守らなければならない。それを、次の天皇に継承するという役目がある。全てあなたの肩にかかる大事だが、あなたはやり通さなければならない。」*□は間人皇后の実名
間人皇后は改めて自分の置かれた立場を理解し、皇后として自覚したでしょう。そこで、「後宮」が次の天皇に引き継がれることも確認したと思います。大勢の役人も後宮の女官もお払い箱にはなりません。
皇后が明日香に戻ったという記事はありませんから、間人皇后は改めて「皇后」になる決心をしたと思います。次の天皇がすべてを引き継ぐまで。
この時、東宮=皇太子は誰だったのでしょう。中大兄皇子が難波宮を去った時に東宮がどうなったのか、書紀には書かれていません。が、有間皇子が皇太子になっていたと思われます。


「後宮」の間人皇后を支えたのは有間皇子だった
皇后が帰ってきても、天皇崩御ともなれば役人も女官も複雑な思いだったでしょうね。そこで、中宮天皇となった間人皇后を支えたのは皇太子=有間皇子だったと思います。万葉集で中皇命は有間皇子を「吾が背子」と詠んだのですから、かなり近しい間柄だったと思います。

しかし、中大兄皇子から見れば由々しき事態です。妹が中宮天皇となったことには異存はなかったでしょうが、孝徳帝の息子にすべてが移譲されることは納得できなかったでしょう。
そこで、皇后=中宮天皇への不敬罪・不謹慎な行為が取り上げられたと考えます。連行された有間皇子に対して中皇命=中宮天皇は、何とか助けたいと「孝徳天皇の遺詔」を以って追いかけたから「紀伊国に往す」となったのです。

万葉集巻二の冒頭歌・磐姫皇后の「難波天皇を待ち続ける歌」は、この事件を暗示しているのです。難波天皇が連行された理由は、前歌に続く
軽太郎皇女の歌が示すように「禁断の愛」だったでしょう。磐姫皇后と軽太郎皇女の歌は、偶然並んだのではありません。難波高津宮天皇とは、後に贈られた有間皇子の諡号かも知れませんね。
(また、有間皇子の父・孝徳天皇は、皇子とよばれました。木梨皇子や太郎女皇女とも「」という名で有間皇子事件を引き出そうとしていると思います。)
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(丹後半島・間人の祭り)
有間皇子事件後、間人皇后は間人(たいざ)に身を隠した
丹後半島の間人(たいざ)には、聖徳太子の母・穴穂部間人皇后が身を隠したという伝承があると紹介しました。それも、聖徳太子の母ではなく、孝徳朝の間人皇后の伝承ではないかと書きました。聖徳太子信仰の高まりの中で、間人皇后に「穴穂部」が付いたと云うことです。「御所・中宮」と付く場所が伝承地として残されていることもありますから、ここに高貴な女性が来られたのは事実でしょう。
さて、どちらの皇后でしょう。まず、穴穂部間人皇后ですが、弟の穴穂部皇子が物部守屋に三輪君親子を殺させたり(586)、守屋と組んでいた中臣勝美が殺されたり(587)と、物部蘇我の争いが続きました。穴穂部皇子が馬子に殺され(587)、遂に物部守屋も蘇我氏との戦いに敗死(587)しました。この間、用明天皇が崩御(587)し、崇峻天皇が即位(587)しました。穴穂部皇子も泊瀬部皇子(崇峻天皇)も穴穂部間人皇后の弟です。夫が病気・弟が皇位継承の時期に、一人丹後半島に避難したと云うことですかね。
孝徳朝の間人皇后は、有間皇子が殺害された(658)後、中宮天皇として玉璽を持って逃げたとしたら、その住まいは「御所」と呼ばれ、「中宮」と崇められたことでしょう。こちらが、より伝承に近づくと思います。そして、伝承は拡散し膨らんでいったのです。

物語や伝承は、どんどん膨らんんでいく
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万葉集巻十三に木梨軽皇子の歌が掲載されています。3263番歌ですが、「古事記」の允恭記の「軽太子と衣通姫」の歌謡にそっくりです。少し違っているのは「国にも 家にもゆかめ 誰がゆえか行かむ」のところで、古事記では「家にも行かめ 国をも偲はめ」となっています。古事記には、「反歌」「或本の反歌」は有りません。後期万葉集の巻十三が編集された時、古事記(712年完成)は既に出来上がっていますから、古事記の歌謡をもとに造られた物語歌ですね。。古事記では上の長歌の後に「かく歌ひて、すなはち共に自ら死にたまひき」となっています。軽太子の悲劇をなぞりながら、人々は少しずつお話を付け加えていくのですね。後期万葉集になると、叙事詩にかなり脚色がなされるようです。

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# by tizudesiru | 2018-01-17 21:08 | 319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや | Trackback

間人皇后の愛・君が代も吾が代も知るや磐代の

中皇命は有間皇子を愛した中宮天皇
前回の「難波天皇の運命の人・間人皇后」が長くて分かりにくかったようなので、少し説明を捕捉しますので、過去のブログを思い出していただきたいと思います。

10 君之齒母 吾代毛所知 磐代乃 岡之草根乎 去来結手名(君がよも 吾代もしるや 岩代の 岡の草根を いざ結びてな)

ドラマチックなこの歌は、将に政変の歌であり、悲恋の歌でもありました。それも、万葉集の巻一の10番歌なのです。万葉集の重要な位置にあり、人麻呂が十分に配慮と校正を重ねた痕が残る部分なのです。万葉集の巻一が巻九と響き合うように構成されていることは、「紀伊國行幸の十三首」のところで既に書きました。
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中皇命は、紀伊温泉(きのゆ)に、斉明帝の行幸について行ったのではありません。目的があって自ら往(いでま)したのです。そこで詠まれた三首から一人の男性が浮かび上がりました。その人は「神に祈らねばおれない局面に立たされている人・それも命の危険にさらされていて、仮廬に夜を明かす旅寝の状況にある人」であり、「仮廬をお造りになるなら小松の下の草をお刈りくださいませ」と、中皇命が敬語を以って対する高貴な人であると読むことができました。

「吾が背子」が誰を意味するのか。有間皇子以外に選択肢はありません。間人皇后が中大兄の恋人という説で、兄に対して「貴方や私がいつまで生きるか分からないから」とか、「仮廬をお造りくださいませ」とか、詠んだとして、これらの歌の緊迫感と悲壮感は理解できません。中皇命がわざわざ紀伊国に出向いて歌を詠む意味も必要もありません。まして、草を結んで神に祈ろうなど、今を時めく中大兄皇子には不要です。
このように、中皇命の歌が有間皇子事件の時に詠まれたものであることは、何度も紹介したのです。それも、有間皇子を思って追いかけて来た間人皇后が詠んだ歌だと。
更に、今回、もう少し踏み込んだ紹介をしたいと思います。

更に、「岡の草根をいざ結びてな」という誘いに応じたのは、万葉集中にただ一首「磐代の濱松が枝を引き結び」と応えた有間皇子の歌以外にありません。中皇命の歌と有間皇子の歌は、本来は「相聞歌」ではなかったでしょうか。お互いの消息や愛を確かめる相聞歌です。しかし、「相聞」に掲載されなくて「雑歌」と「挽歌」に引き裂かれています。が、本来は並べられていたと思われます。人麻呂は並べていたと。
しかし、平城天皇に編纂を任された学者達がおもんばかって(忖度して)入れ替え差し替えたと思うのです。
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試しに有間皇子の自傷歌と、巻九の冒頭から二首目に置かれていた不思議な歌(1665歌)を並べてみました。1665番かは「岡本宮御宇天皇(斉明天皇)紀伊国に幸す時の歌」と題詞に有りますから、「妹が為吾玉拾う奥辺なる玉よせもち来奥津白浪」は、有間皇子事件の時、斉明帝と中大兄皇子が紀伊国にいた時の歌なのです。作者は未詳となっています。
そして、40年以上も経った大宝元年の持統太上天皇の「紀伊国行幸の時の十三首」の冒頭の歌に酷似しています。それが、次の歌です。
1667番歌「妹が為我玉もとむ おき辺なる白玉寄せ来 おきつ白浪
1667番歌は、1665番歌を意識して四十年以上も経った大宝元年に詠まれたのです。
紀伊国行幸の十三首の冒頭歌には、大きな意味があったでしょう。有間皇子の歌をそのまま「本歌取り」したと思うのです。
もちろん、紀伊国十三首の冒頭歌は、柿本人麻呂作だと思います。人麻呂でなくて、誰が冒頭歌に「有間皇子事件当時の歌」に似せた歌を掲載するでしょうか。
紀伊國行幸十三首は、有間皇子の歌を思い出すところから始まったのです。もともとは、見事な編集になっていたのでしょう。
しかし、現在の万葉集ではわかりにくくなっている…

ここに、のちの世の編集の作為や意図が見えませんか?


万葉集はあまりによくできた「魂鎮めの歌集」でした。非業の最後を遂げた有間皇子(難波天皇)の霊魂を慰め、皇子を追いかけた間人皇后の愛と献身に応えた歌集です。その歌集の編纂を望んだ人は、有間皇子・間人皇后に所縁の人、そう結論する以外にないのです。
明日も、もう少し捕捉する予定です。


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# by tizudesiru | 2018-01-16 22:17 | 319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや | Trackback

難波天皇と持統天皇の運命の人・間人皇后

持統天皇の難波宮行幸

持統天皇と難波宮とは深い因縁があるということでしょう。

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朱鳥元年に前期難波宮は全焼したと書かれていますし、発掘の結果でも掘立柱の焼け跡が確認されています。その後に建てかえられたのでしょう。持統天皇即位以後も、節目ごとに各天皇の難波宮行幸がありました。各天皇と難波宮のかかわりを見ましょう。
白雉三年~五年(652~654)孝徳天皇の皇居(五年に崩御)
斉明六年十二月(660) 斉明天皇行幸(百済救援の武器をそろえるため) 
天武八年十一月(679) 天武天皇、羅城を築く
天武十二年十二月(683) 天武天皇、難波宮を第一の陪都と定める
朱鳥元年正月(686) 難波宮全焼

持統六年四月(692) 有位の親王以下、少初位下相当に至るまでに、難波大蔵の鋤を賜う
持統□年 (69□)  持統太上天皇行幸(万葉集に行幸時の歌あり)
文武三年ー~二月(699) 文武天皇行幸(大宝令成定の前年)
慶雲三年九月(706) 文武天皇行幸(崩御の前年)
養老元年二月(717) 元正天皇行幸(即位三年目)
神亀二年十月(725) 聖武天皇行幸(即位二年目)
神亀四年二月(727) 聖武天皇、難波宮を造営(後期難波宮)

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難波長柄豊崎宮(なにわのながらのとよさきのみや)は、白雉三年(652)に完成しました。この都は経済的・政治的な面だけではなく、外交の面からも重要な港を持ち、選び抜かれた本格的な皇都だったのでした。「乙巳の変」後の新しい政治を象徴する都だったのです。
この皇都から、白雉四年に中大兄は母(斉明天皇)と妹(間人皇后)や役人らを率いて倭京に帰っています。東宮という立場でありながら、天皇の皇后まで連れて倭京に帰るとは、異常事態です。(天智天皇は難波宮を捨てたのです。だから、持統天皇が難波宮を重視するのは天智天皇との関わりからではありません。他に理由があるのです)
中大兄皇子の倭京への引き上げは、孝徳天皇にも信じられない状況でした。
孝徳天皇が間人皇后に贈った歌が書紀にありましたね。
金木つけ 吾が飼う駒は引き出せず 吾が飼う駒を人見つらむか
後宮の皇后を連れ出せる人とは、それは誰なのか、様々に取りざたされました。間人皇后と中大兄皇子が恋仲だったという説もあります。翌年の白雉五年に孝徳天皇が病に倒れたので、間人皇后は中大兄と難波宮に天皇を見舞いました。皇后はそのまま難波宮に残ったのでしょう。玉璽を預かり中宮天皇となったのですから。

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中宮天皇の存在については、これまでも紹介してきました。
難波宮天皇(孝徳天皇)は病が重篤となった時、間人皇后(はしひとのこうごう)=中宮天皇に玉璽を渡したので、「玉璽を持たない天智天皇は、中宮天皇が薨去するまで極位につけなかった」といいました。
また、中宮天皇の実在は、野中寺の小さな仏像の「野中寺弥勒菩薩半跏像銘(やちゅうじみろくぼさつはんかぞうめい」文の干支で確認されています
。この銘文の中宮天皇として斉明天皇と間人皇后が考えられていますが、さて銘文は、母の斉明帝(661年没)、娘の間人皇后(665年没)のどちらを指すのでしょうか。「丙寅年四月大旧癸卯」の丙寅癸卯が重なるのは、天智五年(666)だけです。
しかし、二人の没年を見ると、天智五年(666)に病気平癒をねがったのなら、どちらも没しているので該当しません。では、銘文を読みましょう。

丙寅(ひのえとら)四月大旧(だいきゅう)八日 癸卯開に記す。栢寺(かしわてら)の知識等、中宮天皇の大御身、労(いたづ)き坐(ま)しし時にいたり、誓願し奉る弥勒像也。友等人数一百十八、是に依りて六道の四生の人等、此の数に相(あ)うべき也。

「栢寺」について*何処にあったのか不明です。
「大旧」について*持統四年に採用された新暦では四月は29日で、旧暦(元嘉暦)では30日となり、29日を「小の月」30日を「大の月」ということで、「大旧」とは「四月が旧暦では大の月だった」という意味だそうです。(では、旧暦と新暦が同時に使われている時期に銘文が彫られた弥勒像だとなりますね。すると、銘文は持統四年より後の時代のものです。)
癸卯開の「開」について*「開」は暦用語で、造営・治病に良いとされる日だそうです。

「大旧」が「旧暦の大の月」であれば、銘文が持統四年より後に彫られたとなり、中宮天皇の病が重篤になった時に像が作られ、銘文はその後に由来を知る人により彫り込まれたとなりますね。では、誰が彫ったのか。そもそもどなたの病気平癒を願って、誰が造らせたものなのでしょう。
仏像が間人皇后のために造られたのであれば、天智天皇の時代の誰か、中宮天皇の身近な人が造ったとなりましょう。さて、間人皇后の没年ですが、野中寺の銘文が正しいとすると、書紀の没年とは一年ずれることになりますが、そのずれの原因は書紀の記述の混乱かも知れません。その例を書紀から探してみましょう。

日本書紀の斉明紀・天智紀には一年ずれる重出記事がある
一つ例を挙げてみました。
斉明六年(660)の十二月に、斉明天皇は難波宮に行幸しますが、それは百済救援のための武器を調達するためでした。660年に百済の王たちは唐に連行されていますから、事実上百済は滅びました。王家の血族でもあった鬼室福伸が救援軍を要請したので、斉明帝が難波行幸したとなっています。そして、七年(661)の正月に出航して三月に筑紫の娜大津(なのおおつ)に到着するのです。(斉明帝の行動が早すぎます。)
高句麗の僧・道顕の「日本世記」によれば、七年(661)四月に鬼室福伸より「王子・豊璋を迎えることを乞う」と使いが来ています。斉明天皇は朝倉宮に遷り、七月には崩御となるのです。中大兄皇子が称制し、九月に豊璋に五千の護衛の兵をつけて百済に送りました。そして、明日香に戻り、天皇の殯宮は川原宮で行われました。一旦、明日香に引き揚げたということです。(この後、中大兄皇子は筑紫に行かなかったのでしょうか)
天智一年(662)五月に安曇比羅夫が軍船百七十艘を率い、
豊璋を百済に送りました。
百済の王子・豊璋は百済に二度も帰国したことになります。
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(福岡の恵蘇八幡神社・木の丸殿の址といわれています)

書紀の記述に重出があることはよく知られています。記録が二重にあって、どちらが正しいか分からないのでしょうか。そうであれば時期の整合性も無くなります。わたしは「間人皇后の没年記事も、一年早いのではないか」と思うのです。
斉明天皇の筑紫への征西(661正月)は早すぎます。難波宮で調達した武器はあっても、船も兵もないのです。書紀では、百済救援の武器を修繕し、船舶を準備し、軍兵の食料を蓄えるのは、天智一年(662)になっています。二万七千人の出兵は天智二年(663)のことです。


間人皇后の没年は正確ではない可能性があると思うのです。
野中寺の仏像は、中宮天皇の関係者が病気平癒を弥勒像に祈ったか、平癒を願って仏像を造らせたか、です。白村江敗戦後に手に入れた仏像に、中宮天皇の病気平癒を祈っただけかも知れません。その事を後の時代になって、「この仏像には高貴な方との特別な関わりがあることを忘れてはならない」として彫らせたものかも知れません。仏像と銘文の製作は一致しないと思うのです。ただ、中宮天皇という女性の実在は動かせないのです。

中宮天皇は誰だったのか、それが問題です。万葉集には「中宮天皇」という言葉はありません。中皇命とはありますが、それは、間人皇后を置いてほかにはないのです。玉璽を預かる立場の后と考えるならば。

他に、中皇命と同じ立場の女性を表す詞として、次のような資料があります。
「仲天皇」・天平九年『大安寺伽藍縁起幷流記資財帳』天智后倭大后
「中都天皇」・『続紀』巻三〇、神護景雲三年十月詔  草壁皇子妃、のち元明天皇
「中宮天皇」・河内野中寺弥勒菩薩像台座銘 (斉明天皇・間人皇后)


「中・仲・中都・中宮」天皇という言葉には、中継ぎとして玉璽を受け継ぐべき立場の女性という意味があります。しかも、間人皇后=中皇命=中宮天皇 を指すという、理由がまだ野中寺にあります。
この寺は「中の太子」と呼ばれ、「聖徳太子の命によって蘇我馬子が建立した」と伝えられています。叡福寺が「上の太子」、八尾市の大聖将軍寺が「下の太子」と呼ばれています。この辺りを本拠地としていた船史(ふなのふひと)氏の氏寺として創建されたそうです。創建当時は、東西に金堂と塔が並ぶ伽藍であったそうです。
百済系渡来人の船史氏の寺が、何ゆえ「聖徳太子と結びついた」のでしょう。ここで、叡福寺古墳の三骨一廟が思い出されます。穴穂部間人皇后が共に埋葬されているという伝承です。この事は以前にも書きました。(穴穂部間人皇后は、義理の息子と再婚しているのです。聖徳太子の母として同じ墓に入る理由はうすいのです。既に、大后ではありません。玉璽を預かる立場ではないのです。)
最近のブログで、叡福寺古墳は孝徳天皇と間人皇后と斉明天皇の墓であると紹介しました。そうです、同じ間人皇后に関わるのです。野中寺は間人皇后の病気平癒を願い、薨去の後は菩提を弔ったのかも知れません。聖徳太子信仰の高まりにより、同じ名を持つ間人皇后の関係で「中の太子」と呼ばれるようになったのでしょう。
伝承には深い意味があると思います。

持統天皇は、大宝律令が完成する前に難波宮に行幸した

行幸の目的は、亡き難波天皇への報告ではないでしょうか。いよいよ律令が完成し、元号も建てることになりましたと、それまでの天皇ができなかった建元をしたのです。画期的な事だったはずです。だからこそ、文武天皇も行幸したのです。
前回に万葉集巻二の冒頭歌の題詞に出てくる「難波高津宮天皇」について紹介しました。
この難波天皇は、大方の解説者のいうように「仁徳天皇、または孝徳天皇」とは考えられないと書きました。難波天皇は「ある日出かけたまま帰って来ない天皇」で、その帰りを待ち続ける皇后(磐姫)がいて、「白髪になるまでも待ち続けよう」という歌でした。続く軽太郎女皇女の歌は、皇位継承事件を詠んだものでした。「皇太子が行ってしまってから日が経ってしまったが、迎えに行こう、待ち続けることはできない。」と進みだした歌でした。
巻二の冒頭歌六首は、有間皇子事件を知らしめる歌だった。そのように編集されたのが巻二だったのです。と、紹介しています。


難波天皇に所縁の深い乙女(持統天皇)を救ったのは、中皇命(中宮天皇)を置いて、他にはないでしょう。将に、中皇命が持統天皇の命運を握り、守ったと思います。なぜなら、愛する人の忘れ形見だったから、ではありませんか。

持統天皇は難波宮に行幸していますし、その時の歌が万葉集に残されているのです。しかも歴代の天皇は、必ず難波宮に行幸していますから
難波宮とは深い因縁があったということです。この深い因縁は尋常ではありません。歴史の闇に取り残された事実を、「万葉集・野中寺の仏像・難波宮への行幸」が語り続けていると思います。


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# by tizudesiru | 2018-01-16 03:04 | 318難波宮の運命の人・間人皇后 | Trackback

万葉集巻二の難波天皇・持統天皇の出自を暗示する

皇都の遷都は政変と重なる
欽明・敏達・推古・舒明帝の時代は、大王の館が政治の中心でしたから皇居は次々に変わりました。が、難波宮・近江京・藤原宮・平城京・長岡京・平安京などの遷都は、いずれも政治の転換点であり、政変が絡んでいました。また、最初の皇都である孝徳天皇の難波宮(652年完成)は、先達として後世の都のモデルとなりました。天武十二年(683年)、天武天皇は難波宮を第一の陪都と定めました。難波宮に持統天皇や文武天皇が何度も行幸しましたが、それは何を意味したのでしょうか。藤原宮は難波宮をモデルに作られたのです。朝堂院内の堂の並びや数、敷地の東西の幅など、両者には共通点があります。高市皇子や持統帝の意思で作られた藤原宮には難波宮への特別な思いが窺えますが、それは何ゆえに生まれたのでしょうか。
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難波宮大極殿と天香具山をラインでつなぐと、直線は藤原宮の大極殿を通りました。孝徳天皇が難波宮に暮らしたのは、白雉三年から五年の間(652~654)わずか二年です。藤原宮が難波宮を意識して造営されたとしても、白雉五年での持統天皇は九歳くらいで高市皇子は生まれたばかりですから、関わりがあっても高市皇子ではないでしょう。では、藤原宮御宇天皇である持統天皇にとって、難波宮はどんな意味があったのでしょう。
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難波宮天皇と持統天皇陵のつながりは?

藤原宮は15年(足かけ17年)で捨てられましたが、難波宮は百年以上使われました。この違いはなんでしよう。難波宮は持統天皇にとってどんな意味があったのか、ラインでも見ます。
難波宮から天武持統陵(野口王墓)にラインを引きました。すると、ラインは真の欽明陵といわれている見瀬丸山古墳(五条野丸山)を通り野口王墓に届きました。
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このラインが王墓造営の時に意識されたと、断定はできません。しかし、持統天皇と難波宮には何かしらつながりがあると、思いました。宮殿にしても陵墓にしても、造営する時に何の意味もない土地が選ばれることはないと思うのです。
そこには、陵墓を造った人の意思、宮殿を造った人の思いが絡んでいるはずです。
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天智陵を天武持統陵と結ぶ(ピンクのライン)と、藤原宮の大極殿を通ることは、何度も紹介しました。王墓はその位置に意味がある、都も然りです。

では、難波宮と持統天皇とを結びつけるものは、何なのか。
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ここで、万葉集の巻二に気になる天皇の存在があります。
万葉集巻二の冒頭歌に「難波高津宮天皇」が登場するのですが、(その皇后の歌・四首は既にブログでも紹介しています。)難波天皇は仁徳天皇とされ、その皇后・磐姫が「帰って来ない天皇を待ちのぞむ」歌でした。しかし、古事記や日本書紀では逆で「出て行って帰って来なかったのは磐姫皇后」の方で、皇后に「帰って来てほしい」と歌を詠み続けるのは仁徳天皇の方なのです。二人の状況が記紀と万葉集では逆転しているのです。
万葉集の歌は叙事詩と云われていますから、物語を創作してお話の世界を詠んだ歌とは考えられません。それも、巻二の冒頭歌ですから、ただ偶然に掲載されたのではないでしょう。(万葉集の各巻の冒頭歌には深い意味があります)
すると、難波天皇は何かの事情で長い間不在と云うことになります。しかも、仁徳天皇ではない可能性が大きいと思います。(仁徳天皇の難波高津宮はまだ不明です、長い間探し続けられていますが。)

いったい、万葉集の難波天皇は何処へ行かれたのでしょう。

当時、万葉集を読んだ人たちには、巻二の冒頭歌の意味も、難波天皇の不在の理由も分かったのでしょうか。分からなかったなら、脚注などが付けられたでしょうから。

 難波の高津宮に天の下知らしめす天皇の代(大鷦鷯天皇、諡して仁徳天皇という)
 磐姫皇后(いわのひめのおほきさき)、天皇を思(しいの)ひて作らす歌四首

85 君が行き けながくなりぬ 山たづね 迎えか行かむ 待ちにか待たむ

磐姫皇后の四首(85・86・87・88)に続けて、「或本の歌一首」が古歌集より載せられています。「89 居明して君をば待たむ ぬばたまの吾黒髪に霜はふるとも」、白髪になっても待ち続けますというのです。そこまで長い不在なんて、状況として考えにくいです。

難波天皇の長い不在の理由は何でしょうか。実は、その理由が暗示されていると思うのです、次の歌を使って。ある事件が暗示されていると…

そこに、政権に巻き込まれた高貴な人の運命が
次にあるのは、軽太郎女(かるのおおいらつめ)=衣通姫(そとほりひめ)の歌です。

90番の歌の前後に長い題詞と長い左脚があり、この歌について説明されています。
古事記に曰く
軽太子(かるのひつぎのみこ)、軽太郎女に姧(たは)く。その故にその太子を伊予の湯に流す。この時に、衣通王(そとほりのおおきみ)恋慕(しのひ)に堪(あ)へずして追い往く時に、歌ひて曰く


90 君が行き けながくなりぬ 山たづの 迎えを行かむ 待つには待たじ


まるで磐姫皇后の歌に似ています。
古事記によると、軽太郎女皇女は木梨軽皇子の妹で、その美しさのために同母兄の木梨軽皇子に愛されてしまった人でした。木梨軽皇子は皇位継承者でしたが、禁断の愛の為にその権利を奪われ、遂には軽太郎女と共に自殺してしまうのです。

不思議な運命の糸が絡む歌・巻二の冒頭歌に続く「木梨軽皇子の事件」の歌
木梨軽皇子は允恭天皇の皇太子で、允恭天皇は仁徳天皇の御子ですから、軽皇子は仁徳天皇(難波天皇)の孫になります。つまり難波高津宮天皇の孫の皇位継承者の悲劇的な事件の歌なのです。その事件の歌が、磐姫皇后の歌に並べられているのです。よく似た歌として。
木梨軽太子は皇太子ですから、めったなことでは皇位継承権を奪われることはありません。そこへ「禁断の愛」です、書紀では「汁物が凝ったので占ったら、事が明らかになった」というのです。古事記では、「皇子が二人の関係を歌にした」から人々が知ったことになっています。
占いと歌でしたから証拠は曖昧なもので、弟の穴穂皇子側の陰謀の臭いもしてきます。


万葉集巻二の冒頭歌(85~90)は、難波天皇の事件にかかわる歌ではないか

万葉集が持統天皇の意思を汲んで編纂されたものであるなら、そこに女帝の願いや思いがあるでしょう。難波天皇と呼ばれる人は決して架空の天皇ではない、とわたしは思います。
その人は、皇位継承者であり、近親者によりおとしめられ、陰謀により皇位継承権を奪われ、そして命も奪われた。更に、彼を愛した女性は皇女であり(皇后でもあった)、更に、帰らぬ天皇を追って迎えに行った人、となるのです。
すると、難波天皇は仁徳天皇ではない。難波天皇は実在した人であるが、孝徳天皇でもない。

では、誰なのですか? 答は既に何度も何度も書いてきました。

難波天皇と呼ばれる人物は、有間皇子事件の当時者=有間皇子以外にいないのです
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その人は、持統天皇の所縁の人です。持統天皇は難波宮に行幸していますし、その時の歌が万葉集に「太上天皇、難波行幸の時の歌」掲載されているのです。持統天皇は難波宮を特別に思っていたのです。しかも、
万葉集巻二の冒頭は、「有間皇子事件」に関わる歌となっています。そして、同じ巻二の「挽歌」の冒頭も「有間皇子の自傷歌」です。
万葉集の巻二の編集の目的、それは「有間皇子事件」の告発なのかも知れません。誰もが知っている「事件」だったのでしょう。事件は歌の形を借りて、文武帝に伝達されようとしたのです。が、文武帝は奏上の前に崩御されました。
難波天皇が有間皇子を想定しているのなら、皇子は即位していたか、即位してもいい状態だったか、皇太子として準備をしていたか、いずれでしょうか。その皇子が突然あらぬ疑いをかけられて、連行された。誰もが心配したでしょう。
孝徳天皇の後宮は有間皇子の後宮に移動していたでしょうから、間人皇后は当然『次の天皇の後宮に遷る』ことを承知していたはずです。

だから、間人皇后は有間皇子の後を追いかけて行ったのでした。「君が行き日(け)ながくなりぬ」だったからです。
しかし、事件は悲惨な結果となり、間人皇后は、しばらく日本海側の間人(たいざ)という港に隠れたのです。一人ではなかったでしょう。後宮の女性たちが一緒だったでしょうし、その中に有間皇子の子女もいたと思います。
そして、皇后は玉璽を守っていたのです。
やがて、皇后は摂津に返ります(難波宮かもしれません)が、そこで病に倒れたのでした。
人々は勇気のある、しかも賢く美しい皇后=中宮天皇の病気平癒を願ったことでしょう。
皇后が摂津に戻った時、鵜野皇女が間人皇后から引き離されていたかも知れません。
高貴な乙女であれば、後宮に召される他に選択肢はありませんでした。だから、当然、天智帝の後宮に入れられたのです。


藤原宮は捨てたのに難波宮は大事にされるとは
更に、727年に聖武天皇は難波宮を瓦葺の宮殿に建てかえました。その理由は、簡単です、所縁の宮殿だったからです。聖武天皇と難波宮との深い因縁無くして、考えられないことです。

その難波宮を捨てるのは桓武天皇で、延暦のころ、平安京遷都(延暦十三年・794年)の二年ほど前です。桓武天皇はどんなに立派でも難波宮はいらなかったのです。

持統天皇は、大宝律令が完成する前に難波宮に行幸しています。しかも歴代の天皇は、必ず難波宮に行幸しています。行幸の目的は古を偲ぶことでしょうか。
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難波宮と持統天皇は深い因縁があったということです。
ここで、これまでに書いて来たことを確認しました。次は、持統天皇の難波行幸の歌を詠みましょう。
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では、また後で。




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# by tizudesiru | 2018-01-12 17:32 | 318難波宮の運命の人・間人皇后 | Trackback

桓武天皇・平安京遷都の意味をラインで読む

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(大阪市難波宮址)
前回のブログで、わたしはラインを使って難波宮と平安京と延喜式の話をしました。(延喜式とは十世紀に奏上された「律令を使う上での行政の細則」で、細かな令の取り扱いをまとめたもの、それを「式」といいます。)
前回のブログで書いた難波宮と三都(藤原宮・平城京・平安京)のことですが、お気づきのように、難波宮は7・8世紀の皇都ですから、10世紀の延喜式の時代と同じ次元で扱えば齟齬が生じるでしょうね。とはいえ、ラインで読むと面白い世界が広がると思います。今回はラインを使って都の姿を読み解きましょう。前回の捕捉であり、祭祀ラインの紹介になります。

長岡京から平安京へ都は遷った
平安京遷都は、桓武天皇の延暦十三年(794)です。
桓武天皇は母の身分が低位であったために極位に登ることはないと思っておられたようです。しかし、井上皇后と他戸親王の廃后・廃太子に続く薨去により、極位への道が開いたのです。
そこには藤原氏内部の争いが絡んでいました。桓武天皇は弟の早良親王を皇太子としましたが、ほどなく政争に巻き込まれ早良親王は四国に流され憤死されました。(桓武天皇には心痛の種となったようです。歴史書から早良親王の記述は削除されているそうです。)


では、平安京遷都のはなしに参りましょう
万葉集の時代の平城京から話が飛びますが、桓武天皇は平安京の土地をなぜ選んだのか、その理由を考えてみましょう。ラインを使えば、一つの答が導き出されます。
天武朝はあまたの政変に翻弄され遂に皇統が絶えたのですが、続日本紀によると、桓武天皇は「天武朝から皇統が天智朝に戻ったことは易姓革命である」と考えたようです。

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平安京は、東西関係にある大津宮を意識して造られた
桓武天皇が京に選んだ土地は、天智天皇の大津宮の西でした。そして、大友皇子(弘文天皇)の宮の西でもありました。そのラインが平安京の一条と二条にほぼ重なります。
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(白ポイント・大津宮錦織遺跡・ここからラインを引いています)
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ラインを見ると、平安京が選ばれた土地であると分かります
東西のラインを見る限り、桓武天皇は天智朝を引き継ぐ決意をしていたと言えます。お気づきのように、最初の大極殿は、現在の御所の地ではありません。現在の御所より西にずれています。度重なる火災によって元の位置より東に建てかえられたのです。
羅城門から都に入ると、九条に東寺と西寺があります。
都の南の入り口の羅城門は、黄色のライン上にあったのです。
桓武天皇は、都内に平城宮のように寺院を建立させませんでした。
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錦織遺跡(近江京)からの紫ラインが一条と重なり、三井寺からの水色ラインが二条と重なりました。赤のラインは東堀川と西堀川です。この四角の中に御所は造営されていました。
何処を終点にしたらいいのか分からなかったので、紫ラインは仁和寺に、水色ラインは愛宕山に向けて引きました。どんな方法で測量したのか分かりませんが、結果として御所が何処に作られるべきか分かりますし、それをラインが教えてくれるのです。
そこを選んだ人と、選ばれた理由が分かるのですね。

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嵯峨天皇の時代には、空海の霊力で平安京は守られた
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さて、平安京を守る空海の結界を何度も紹介しました。上賀茂神社と南北に向き合うのは東寺です。これは何故? 実は、空海が国家守護の祭祀を始めるのは、嵯峨天皇の御代です。桓武天皇崩御により皇位を受け継いだ兄の平城天皇は、三年で弟の嵯峨天皇に譲位しました。病気がちであったというのですが、譲位後には元気になり再度極位に登ろうとされました。なにより「都は平城京に戻すべきだ」と主張し、遂には「薬子の変」まで引き起こし、その為に出家するという事態となったのです。嵯峨天皇の御代は政変から始まったのです。そこで、

嵯峨天皇は、国家守護の仏教を学んだ空海に東寺を任せ、天皇家と都の平安を守る寺としました。(明治まで東寺の僧が御所で一月一日に護摩焚きの祈祷を行っていました。明治以後は、東寺のみで祈祷を続けているそうです。)

その空海の守りの結界が上のラインです。

九世紀の後半に皇統存続の危機
しかし、肝心の皇統が切れそうになる事態が起こります。そこで、宇多天皇は皇籍に復帰し、即位しました。そして、在位十年で御子に譲位。譲位された醍醐天皇は、延喜式により全国の「神社の祭祀」を見直し、神祭りを強化したのです。当然、天皇家の安定と安寧の為の祭祀です。(ここで、大きく祭神の入れ替えなど有ったのでしょう。)

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すると、三か所の延喜式内社に御所と難波宮が挟まれた時期は、上の図を見ると、焼失した御所が建てなおされる時でしょうか。神聖なラインの上に御所改築の場所が選ばれたかもしれません。
更に、御所が移動したら結界も変わるのでしょうか。貴船神社のラインは新しい御所を守っています。都の守りは時代の変化に合わせて徐々に変わって行ったのです。それが、祭祀ラインで分かります。

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緑ラインが行き着くのは、東は伊勢神宮(内宮)、西は淡路島の伊弉諾神宮です。伊弉諾・伊勢の東西ラインは、文武天皇陵のすぐ南を通ります…
何とも面白い結果を見せてくれます。

今日は祭祀ラインを紹介しました。グーグルアースを使って、ラインを引くのは誰もができることです。神社は移動していますからなかなか難しいのですが、山と古墳を結んでみると古代史の謎が解けるかも知れません。
貴方もやってみませんか。



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# by tizudesiru | 2018-01-08 21:48 | 317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ | Trackback

孝徳天皇の難波宮から聖武天皇の難波宮へ激動の百年

孝徳天皇の難波宮から聖武天皇の難波宮へ激動の百年
藤原宮は15年で捨てられたが、難波宮は生き延びた
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(大阪城南・難波宮址)
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(歴史博物館画像・難波宮)
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難波宮は交通の要衝にあり、外交・経済活動の要の地にありました
何処と深くつながっていたか、ラインで見ましょう

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東西に意味があるなら、藤原氏が難波宮の真東に社殿を建てた理由はひとつ
藤原宮は捨てられましたが、難波宮は長く使われ続けています。平城京遷都を計画した時、為政者にとって難波宮はどのような意味があったのでしょう。春日大社の位置を考えれば、その答えは自明のことでありましょう。

難波宮から見ると平城京はほとんど真東に当たりますが、難波宮大極殿に対応するのは平城京の大極殿ではないのです。難波宮大極殿からの東へラインを引くと、東西の関係に収まるのは藤原氏の氏神・春日大社です。春日大社は難波宮の位置を意識して造られたのです。藤原氏の氏神と孝徳天皇霊の霊的な一体化です。
聖武天皇は難波宮を副都としましたから、難波宮はずっと重要な位置に在りました。

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新しい体制(律令政治)への転換を目指して「大化の改新」の詔をだした孝徳天皇の難波宮。そこは、律令政治の出発の地であり、理想の地でありました。
律令政治を藤原鎌足も孝徳天皇と共に目指しました。豪族の合議ではなく、律令によって国を動かす。富の分配を豪族以外で行うためには、律令が必要でした。
春日大社の社殿の位置は、鎌足と孝徳天皇(軽皇子)は深く結びついていたと強調したかったから選ばれたのでしょう。

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孝徳天皇の難波宮は人々を驚かせた
第一次難波宮は掘立柱の宮殿でしたが、「表現できないほど素晴らしい」と人々を驚嘆させました。この難波宮を詠んだ歌が「難波津の歌」であると、去年このブログでも書いています。仁徳天皇の代を寿ぐ歌ではなく、孝徳天皇の宮を寿ぐ歌に他ならないと。
発掘された難波宮の壮大な宮殿跡を見ると、「大化改新はなかった」などとは思えません。大化改新の詔は、孝徳天皇の理想が具現化したものに違いないでしょう。藤原鎌足は孝徳天皇(軽皇子)と理想を語り合っていました。
(鎌足は軽皇子を尊敬していたし、皇子も鎌足を気に入っていたのです。)
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その後、難波宮は火災にあいながらも存続し続けました。天武天皇も持統天皇も難波宮を使いました。文武天皇も行幸しています。
瓦葺の第二次難波宮の宮殿は、第一次難波宮とほぼ同じ位置に同じ配置で造営されました。奈良時代には、藤原氏は鎌足と軽皇子を結びつけ、春日大社の地を大極殿の真東としたのです。東西ラインは難波宮の重要性を肯定していますが……他のラインはどうでしょうか。

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不思議なことに、難波宮は平安時代の「延喜式式内社」に挟まれているのです。
延喜の帝(醍醐天皇)の代に奏上された延喜式、その中の式内社の中でも官より奉幣されるべき名神大社がありますが、その名神大社に難波宮が挟まれるという、由々しき事態になっているのです。

醍醐天皇は、皇統が切れそうになった時、皇籍に復帰された宇多天皇の御子で、宇多天皇の在位十年に譲位を受けた天皇でした。そして、どうしても果たさなければならない使命が、皇統の継続と維持でした。だからこそ、全国の神祭りを見直し、皇統の弥栄と継承を祈るための神社が選ばれました。
皇統への祟り神は封じ込められ、退座させられ、古代の氏族が祭祀する神々の霊力は断ち切られました。そのために式内名神大社は配置されました。(このことを紹介することが、このブログを始めた理由でもありました)
古代には霊力は信じられていたし、それは日常生活も政治も経済も左右したのでした。


画像を見てください。
下鴨神社・御所・酒解神社・難波宮・生国魂神社のラインは、難波宮大極殿を見事に挟みます。下鴨神社など三社は、みな式内名神大社になります。式内社の三社に挟まれることは、めったにありません。しかもラインは天皇のお住まいそのものを通ります。すると、御所と難波宮は三か所の式内社の霊力で守られたことになりますね。

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舒明天皇・天智天皇・持統天皇が詠んだ天香具山にもラインが届く
また、明日香の天香具山と結ぶと、越智神社(若干ずれている)を通り、藤原宮の大極殿をラインが通ります。平安京・平城京・藤原宮がこんなラインで結ばれるとしたら、どんな意味があるかわかります。藤原宮の大極殿(白ポイント)を通るのですからね。

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不思議なことに、天香具山と結ぶと藤原宮が、下鴨神社と結ぶと御所が取り込まれるのです。こうして、十世紀には三都は新しい物語に組み込まれていくのです。
ラインは自然にできたものではありません。その時代を生きた為政者の切なる願いや、暗躍する野望を背景に作られたものなのです。
孝徳天皇崩御の654年から聖武天皇崩御の756年の約百年間、その後も難波宮は激動の時代をずっと見まもりました。藤原宮や平城宮より長く存続した宮処なのです。
それは、万葉集のほとんどの歌が詠まれた時期ともだいたい重なります。

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あらためて、難波津の歌を読みかえしましょうか。孝徳天皇を偲びながら。


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# by tizudesiru | 2018-01-07 12:30 | 316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮 | Trackback

飛鳥の明日香と呼ばれた霊魂の地が二ヵ所ある理由

飛鳥はいつからアスカと呼ばれたのか
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(藤原宮から天香具山)

和銅三年、「飛鳥の明日香の
里を置きていなば」と別れを惜しみ、元明天皇は明日香を去りました。

和銅三年(710)には、[飛鳥(とぶとり)の明日香]という言葉が定着していたのですね。
しかし、古事記(712年撰上)・日本書紀(720年撰進)では、アスカは「飛鳥」で統一されてます。712年頃までに「飛鳥」は、「とぶとり」ではなく「アスカ」に変わったのです。元明天皇は古風な言い回しを用いて古京を懐かしんだのでしょう。

それにしても、社会科では「あすか時代」を飛鳥時代と書き、博物館のこの時代の仏像にも「飛鳥仏」と書かれています。飛鳥(とぶとり)をアスカと読むようになったのは、いつからでしょう。

ブログにも書きましたように、万葉集には「飛ぶ鳥の明日香」は四例、それは柿本人麻呂の川嶋皇子の挽歌(持統五年・691年)、同じく人麻呂の明日香皇女の挽歌(文武四年・700年)、平城宮遷都の時の元明天皇の歌(和銅三年・710年)、巻十六の由縁雑歌(後期万葉)に一例です。

「飛ぶ鳥の明日香」は、限られた地域の限られた意味を持つ言葉となっています。しかも、挽歌と結びついた言葉です。元明天皇も死別した夫や息子を「君があたりは見えずかもあらむ」と偲びました。やはり亡き人につながります。「飛ぶ鳥の」を美称とかたずけるわけにはいかないでしょう。「アスカは亡き人を思い出させる地」として、霊魂の地「アスカ・飛鳥」となったのです。
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また、人麻呂が草壁皇子(持統三年・689年)の殯宮で詠んだ歌には「飛ぶ鳥の浄(きよみ)の宮」とありますから、「飛ぶ鳥の明日香」はまだ使われていません。
とすると、「飛ぶ鳥の明日香」が定着したのは、持統三年から五年の間となりましょう。「飛ぶ鳥の浄の宮」は、人麻呂にとっても、万葉集にとっても大変重要な言葉となります。

ただ、丁丑年(天武六年677年)十二月上旬に葬ったと記されている小野毛人墓誌銘に「飛鳥浄見原宮治天下天皇」とあり、丁丑は天武六年(677年)となるのです。が、この墓誌の作成年次には疑問が持たれています。後に作られた墓誌だというのです。
大方は、明日香が「飛鳥」と定着したのは、天武天皇の御病が重篤になった時、平癒を願って「朱鳥」と改元され、宮を飛鳥浄御原宮というようになったからだと日本書紀(720年)に書かれていますから、これを支持しています。


遠津飛鳥は捨てられた…蘇我氏の残像を払う為に
考えてみると、不比等はなぜ明日香を選ばなかったのでしょう。
平城宮遷都は「藤原不比等の暗躍の結果だった」と、このブログで書きましたが、明日香を捨てる理由は何でしょう。藤原氏所縁の談山神社も近くにあって、鎌足の産湯井戸跡もあるし、大原(小原)は藤原氏の出身地だったようですし。更に、中大兄皇子と藤原鎌足には「乙巳の変」の所縁の土地が方々にあります。でも、明日香は都として選択されなかった。
一つには、都を大きくするには飛鳥は狭かったし、水の供給に問題があったと云われています。確かに、明日香川の水では十分ではなかったでしょう。

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(明日香川のながれ・甘樫の丘の北)
しかし、飛鳥を切り捨てる理由はもっと他に、深い意味があったのではないでしょうか。そこには蘇我馬子も住んだという嶋荘には嶋宮という宮殿があり、岡宮があり、浄御原宮があり、天武朝の宮が集中していました。が、何より蘇我稲目以来の蘇我氏の影も強く残る土地だったというのが大きかったのではないでしょうか。昔は、大伴氏も中臣氏も蘇我氏の組織の中に組み込まれていたのですから。
だから、

蘇我氏の残像を捨て去ること、それが遷都の最大の目的だった。
舒明天皇の墓を押坂内陵(八角墳)に改葬した理由も、「明日香からの切り離し」です。天智帝と同じ八角墳にしたのは、同じ皇統であることを強調するためです(元の陵墓は明日香にあったが改葬されたとすると、そこは…)。
推古帝と竹田皇子の合葬墓も明日香から「近津飛鳥」に改葬された(前方後円墳ではなく方墳として改葬した)ということです。方墳ですから、舒明帝の八角墳とは形式を変えています。選ばれたのは、近津飛鳥でした。

近津飛鳥と呼ばれるようになったのは、いつ?その理由はは何か?
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用明天皇陵(方墳)も、孝徳天皇陵(円墳)もなぜか近津飛鳥に在ります。それも、改葬されたからです。同じく王家の墓を「明日香」から切り離したかったからです。
かし、王墓の改葬ですから、簡単に実行できません。だから、人々を納得させる(欺く)ために、都に近い霊魂の地として「近津飛鳥」と呼んだのです。「飛鳥」は奈良朝が作りだした「当て字」でしょう。
要するに、明日香に残したのは、蘇我氏と天武朝の人々の墓だった(天武持統陵は「八角墳」)……それが奈良朝の藤原(不比等)氏の構想でした。

誰かが計画し実行しなければ、なんとなく墓が改葬されるはずがありません。すると、舒明・用明・推古の陵墓の改葬は、ある時期(それは奈良時代か)に一斉に実行されたと云うことになります。それは、「近つ飛鳥」という呼び名から分かります。近い遠いは都を基準に使われましたから、「近津飛鳥」は明日香より平城京に近い明日香の意味です。そして、飛ぶ鳥が「飛鳥(あすか)」となった。
理由は様々にあったでしょうが、ある権力者は藤原宮の人々(天武朝)の霊魂を明日香に残した(藤原氏が封じた)ままにしたかったのです。

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(叡福寺・聖徳太子陵墓)
とすると、聖徳太子陵が近津飛鳥に在ることは不思議なことになります。

孝徳天皇の墓は聖徳太子廟ではないか

大王ではないのですから、聖徳太子が実在でも改葬の必要はないのです。では、叡福寺の陵墓は、誰の墓なのか。それは、もちろん孝徳天皇の改葬墓です。他に該当する天皇はありません。石室の構造、石室の切り石からして終末期、石棺の台には格狭間(こざま)が彫られていました。明らかに後世の仏具の装飾でした。すると、聖徳太子墓では有りえません。更に、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后(聖徳太子の母)も一緒ですからね。
大胆な説ではなく、孝徳天皇の改葬墓と考えたが自然なのです。三骨一廟の三骨とは、孝徳天皇・間人(はしひと)皇后・斉明天皇以外には考えられません。二人の女性は斉明天皇と間人皇后で、牽牛子塚古墳からの改葬です。この二人を明日香に残したままにするとは考えられません。舒明天皇陵の改葬をしたのなら、其の皇后(斉明天皇)の墓も改葬するはずでしょう。

改葬されたのです、二人の女性も近つ飛鳥に、「孝徳天皇の玉璽を守り、天智天皇に渡した中宮天皇として」間人皇后も合葬されたと考えるのが自然です。同じ間人皇后ですから、後の人々は伝承としての「穴穂部間人皇后」と名前の点で混同したかも知れません。
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これで、昨年から書いて来た「永福寺の聖徳太子陵墓の謎」の一部を書いたと思います。叡福寺聖徳太子陵の不思議については、去年のブログを見ていただきたいです。
昨年は、謎だらけであることを紹介していました。

明日香はなぜ「飛鳥」となったのか、それは何時なのか、いかなる意図があったのか、それと「飛鳥」と呼ばれる「近津飛鳥」はどうつながるのか、書きました。

七世紀から八世紀の王墓の改葬がなぜ多いのかも絡んでいましたが、そこには大王家と結んだ藤原氏の大きな野望と創作したい物語があったのです。
その物語の創作は、日本書紀を正史にする上に欠かせない作業だったのかも知れませんね。



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# by tizudesiru | 2018-01-05 14:22 | 315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬 | Trackback

草壁皇子と天智天皇の関係は秘密ではなかった

天智天皇は草壁皇子と義淵を共に岡宮で育てた
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竜蓋寺(岡寺)は吉野の竜門寺と共に義淵僧正が国家の隆泰と藤原氏の栄昌を祈って建立したものであると、「竜門寺縁起」に書かれています。
岡寺(竜蓋寺)には草壁皇子の宮跡を賜って、義淵が寺にしたと伝わります。が、寺の建立の目的が国家と藤原氏のためだったと「竜門寺縁起」はいうのです。ここで分かるのは、義淵と藤原氏を結びつける何かがあった、草壁皇子の宮跡を賜る縁もあった、と云うことです。
また、「竜蓋寺伝記」は、『高市郡に住む津守氏と阿刀氏の夫婦が多年子どもがないので観音に祈ったところ、夜に柴垣の上に白帖に包まれた小児を得、養育していたが、その事を聞いた天智天皇が引き取って日並皇子(草壁皇子)とともに岡宮で育て、やがて長じて義淵になった、その義淵が岡宮を賜って寺とした』と書かれています。
義淵が僧正に任ぜられたのは、大宝三年(703)でした。その数年前の文武三年(699)に義淵はその学行を賞され稲一万束を賜っています。それは、持統太上天皇の目に留まり、「天智天皇の元で草壁と共に育ったあの義淵がここまで成長したのか」という思いの結果だったのでしょうか。

ここで、「天智天皇が育てた」という文言が気になります。以前、わたしは持統天皇と天武天皇が草壁皇子と義淵を共に育てたと思っていました。しかし、「竜蓋寺伝記」では、天武帝ではなく天智帝なのです。
この時代の結婚の形として、娘の生んだ子供は実家が面倒をみたという意味で「天智天皇が岡宮で育てた」と書かれたのでしょうか。では、天智天皇は岡宮に住み、鵜野皇女の実家は岡宮だった? となるのでしょうか。
それとも、「竜蓋寺(岡寺)伝記」は、草壁皇子の父親は天智天皇だったと伝えているのでしょうか。
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義淵は草壁皇子と共に育ち、後に賜った岡宮を寺として「国家の隆泰と藤原氏の栄昌を祈った」と云うことは、藤原氏の後ろ盾があって僧正になったのでしょう。では、藤原氏が「僧正」に義淵を押した理由です、どんなつながりがあったのでしょうか。

藤原氏と義淵を結びつけたのは、やはり天智天皇でしょう。藤原氏は鎌足以来、「藤原」の姓を賜った天智天皇を如何なる時も主上と仰いできました。「天智天皇が育てた義淵」として、僧正に押したと思います。
義淵は神亀四年(727)に俗姓「市往(いちき)」氏を改めて「岡連」の氏姓を賜りました。新撰姓氏録によると、市往(いちき)公は百済国明王の出自で、岡連と共に百済系の人です。
すると、義淵はいつ百済から大和に来たのでしょうか。白村江敗戦後でしょうかね。白村江敗戦後、天智天皇は百済人を多く起用しています。大友皇子に百済人を仕えさせたように、草壁皇子の傍にも百済の少年を置いたのかも知れませんね。


今日の結論として、義淵と草壁皇子の関係から、育てた天智天皇とのつながりはまだはっきりしません。しかし、万葉集を読むかぎり、持統天皇(鵜野皇女)の父親は天智帝とは考えられません。しかし、鵜野皇女の天智天皇に対する思慕は尋常ではありません。それで、父親ではないなら夫だった、草壁皇子の父だったと読んだのです。

万葉集は、その事を隠してはいませんでした。見えなくしたのは、平城天皇です。この事は何度も書きましたね。
今年も、万葉集を読みます。一つの読みで万葉集のほとんどが変わる。その事を紹介したいと思っています。


万葉集は文武天皇の為に編纂された
編纂を命じたのは持統天皇、実働したのは柿本人麻呂
草壁皇子の皇統の正しさを文武天皇に伝えるために、万葉集は編纂された
文武天皇は十五歳で即位しましたから、周囲の政治的状況も十分にはつかんでいなかったでしょう。その困難な政治的状況を生き抜いていくには、ゆるぎない皇統であるという確信が必要だったのです。皇統や血統やどの氏に属するかが何より大切で、それによって地位が決定されるという、血統が財産と同じであった時代ですから。
故に、孫に譲位した持統天皇には伝えたいことがあり、「人麻呂に「遺言としての万葉集を編纂」させたと思います。

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持統→草壁→文武の皇統がどのような運命をたどり、誰の皇統を引き継いだのか、これから誰に受け継がれていかなければならないのか、持統天皇は「近江県の物語」を人麻呂に託したのです。愛する者の為に「皇統の真幸」を願って、歌集を編纂させたのでした。
万葉集で、すぎにし人を意味する「葉(もみじば)」、それはただ一人「草壁皇子」を象徴する詞でした。万葉集で人麻呂は黄葉を「すぎにし人=死者・故人」として使いました。集中に「もみじば」として黄葉・紅葉はあっても「葉」だけで「もみじば」と読むのは、一か所だけです。それは、草壁皇子を意味しました。皇位継承の霊魂に触れる儀式の時に使われた詞でした。
万葉集は、文武天皇に「父・草壁皇子の皇統の真実」を伝えるために編纂されたのです。
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(去年の一月に訪れた岡寺)
岡宮で草壁皇子と一緒に義淵をそだてたのは、天智天皇だった
それは、草壁皇子に教養を身に着けた子どもと共に育ってほしかったからです。父親としての教育の一貫だったと考えられませんか。

そして、天武朝でも、吉野盟約の時も、秘密にしていなかったと思います。少なくとも、持統天皇が生きている間は。
しかし、文武天皇崩御の後、元明天皇が即位する時、大問題になったと思うのです。天武帝の皇統の皇子達が存命中なのに、天智帝の娘の阿閇皇女(元明天皇)が即位するのですから。天武朝の皇統ではない女帝が即位するなんて、壬申の乱で勝利した氏族には我慢ならなかったでしょう。軽皇子(文武天皇)即位の場合は持統天皇の孫としてまだ筋が通りましたが、阿閇皇女(元明天皇)の場合は、誰の目にもにも異例だったでしょう。そこを乗り越えて、なんとか元明天皇が即位しようという時に、万葉集が献じられたとしたら…大混乱になったはずです。
だから、人麻呂は処断されたと思うのです。言霊をつかって世を混乱させようとした、として。
それが、柿本人麻呂の刑死の理由でした。では、また。



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# by tizudesiru | 2018-01-03 02:11 | 314草壁皇子と天智天皇の関係 | Trackback

彷徨う霊魂・飛ぶ鳥の明日香

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今年宜しくお願いいたします
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2017年のブログを振り返えると、どこかで聞いた話だな、と思ったことはありませんでしたか?
万葉集の時代は、悲しい時代でした。


有力な皇位継承者が追い詰められ、家族ともども自ら命を絶つ話が、万葉集の時代には数多くありました。
歴史の中で似たような事件がずっと繰り返されていると思います。政敵は近親者で、結果として皇位継承者が命を奪われています。

宇治若郎子を追い詰めたのは兄の仁徳天皇で、宇治若郎子は自死しました。
木梨軽太子と軽太郎皇女の話も、結果として弟に皇位を奪われ二人は自殺しました。

山背大兄皇子は従兄弟の蘇我入鹿に攻められ家族と共に斑鳩で最後をとげました。
古人大兄皇子も吉野で家族とともに
異母兄弟の中大兄皇子に討たれました。
有間皇子も従兄弟の中大兄皇子のために藤白坂で命を絶たれました。
大友皇子(弘文天皇)も、叔父の大海人皇子側に壬申の乱で敗れ自経しました。
天武天皇の願い空しく大津皇子も死を賜りました。


後期万葉集の時代も、悲劇は続きました。

長屋王も叔父たちに糾問され自尽し、家族も共に死を撰ばされました。

聖武天皇の遺言で皇太子となった道祖(ふなど)王は、橘奈良麻呂事件でと共に杖下に絶命しました。
長屋王の遺児も次々に事件に巻き込まれて露と消えてゆきました。

この忌まわしい時代を生きた人の歌が詩歌として残されましたから、万葉集は歴史のタイムカプセルとなりました。
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数年前、何気に詠んだ万葉集の歌が思わぬ事実を突きつける、そんなことが度重なって、わたしは万葉集そのものを読み直そうと思ったのです。そして、この数年の間に、思いもよらなかった結論に行きついてしまったのです。その一つ一つを少しずつ書いてきました。
万葉集の時代を生きた人の喜びと愛と悲しみと無念を、わたしが感じたままに伝えたいと思っています。今年も読んでいただきたいと思います。
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そして、地図を楽しもう
蘇我馬子がどんな館に住み、本当の墓が何処なのか、万葉集では読めません。島の大臣と呼ばれていたので、明日香の嶋庄にある石舞台が馬子の墓と言われています。手に入るわずかな情報を使って地図にラインを引くと、様々な事が分かります。
わずかな情報でも、蘇我蝦夷や入鹿の墓が何処かを考えることができます。
わたしはかならず直線(ライン)で探します。
石舞台古墳と真の欽明天皇といわれている見瀬丸山古墳をラインでつなぎました。すると、二つの遺跡をラインが通りました。
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小山田遺跡と菖蒲池古墳です。
大小の二つの墓が甘樫丘の南すそに並んでいますから、これが、書紀にも書かれた並び墓、蘇我の蝦夷と入鹿の生前造られた壽墓という説がもっぱらです。

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甘樫丘の裾部にある二つの遺跡。ラインを引いた結果を見ると、小山田遺跡と菖蒲池古墳は蘇我氏関係の墓である、という説と矛盾しません。ラインは有効なのです。
そして、見瀬丸山古墳が真の欽明陵なら蘇我馬子大臣との関係は他人ではない・一族の可能性あり、と云うことになります。

(では、磯長(大阪府)・近津飛鳥 にあるという馬子の墓はどう考えればいいでしょうか…という新たな問題も出てきますが。磯長には、推古陵・用明陵・孝徳陵・敏達陵の他に聖徳太子陵墓もあります。)この事は、書くつもりです。
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蘇我馬子の死後ですが、石舞台と呼ばれる墓が破壊されたのは何故でしょう。封土ははがされ、あったはずの石棺は破壊されたらしく欠片しか残されていません。その副葬品の一つも伝わってはいないのです。7世紀の方墳とされながら、被葬者の伝承もありません。645年の乙巳の変は、大変な出来事だったのでしょう。石舞台が破壊された理由はここに求める他ないでしょう。

他にもいろいろラインを引いてみました。すると、藤原宮の大極殿から石舞台にラインを吹くと、紀寺跡と飛鳥寺がラインの上に乗ります。藤原宮の大極殿からまっすぐ南にラインを伸ばすと、天武持統陵にラインが届きます。
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このラインは、なんとあの菖蒲池古墳を縦断していました。そもそも、このラインはあの天智陵から南に伸ばしたラインなのです。すると、菖蒲池古墳の被葬者は何者なのでしょうか? 蘇我入鹿なら、彼は高貴な重要な人だったとなるのですね。
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さて、三角形が平安京を守っています
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天智天皇陵は三角形の底辺から南に延びたピンクのラインの起点です。この陵墓は、平安時代には聖地となりました。
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天智帝の陵墓は、平安京が造られる時、都の守りとなりました。平安京が天武帝の皇統から天智天皇の皇統に変わったことが、このラインを使った大きな理由だと思います。①は皇居でしたが焼失したので、現在地➁に皇居が遷っています。平安京の守りの神社は上賀茂神社、寺は東寺でした。皇居が➁に遷ったあとピンクのラインの北の端に貴船神社がありますが、ここが都と皇居を守りました。

ラインはその時代の権力者の思いを伝えています。
地図を見ると、上賀茂神社と東寺の間に二条城(江戸時代)が入り込んでいます。二条城は、平安京の大事な霊力を断ち切りました。上賀茂神社と松尾大社の間には金閣寺(室町時代)が入り込んでいます。室町幕府もちゃんと考えて金閣寺を建てたのです。二条城や金閣寺によって霊力を遮っているのです。武士は天皇家や皇族貴族が持っていた霊力を畏れたに違いありません。

と、このようにラインでよめるのです。
ラインの話はまだありますが。

また、今度。



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# by tizudesiru | 2018-01-01 00:10 | Trackback

天武天皇の後宮に召されなかった明日香皇女・持統天皇との深い関係

天武天皇の後宮に召されなかった明日香皇女
人麻呂の挽歌に わが王おほきみの御名忘れせぬ

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特別だった明日香皇女・それは何故?
柿本朝臣人麻呂に歌を献じられた皇子皇女は、天智天皇の皇統につながる子女で、持統天皇の覚えめでたき高貴な人たちだったと書きました、前回までに。
草壁皇子(689没)川嶋皇子(691没)明日香皇女(700没)高市皇子(696没)のための人麻呂が献じた挽歌が万葉集に残されていますが、挽歌を献じられた四人は、それぞれに特別でした。

中でも、明日香皇女と持統天皇の深い関係を書紀には「持統六年八月十七日、明日香皇女の田荘(なりどころ)に幸す」とあります。田荘は「私有地」ですから、天皇が自ら皇女の私有地に出かけたのです。
また、「持統八年八月十七日、皇女明日香のために沙門百四人を得度せしむ」とあります。104人もの出家者を出したのです。皇女の病気平癒のために。
明日香皇女は、文武四年四月に薨去しました。続日本紀に「弔賻(ちょうふ)は天智天皇の皇女なればなり」と書かれています。公の手厚い弔いの使者が出されたのです。続日本紀からも「天智天皇の皇女として大事にされた」ことがわかります。
でも、その理由は天智帝の御娘だったこと、なのです。それだけなのです。
柿本人麻呂の挽歌を読みましょうか。
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挽歌をみますと、川嶋皇子より長いです。

長歌の長さだけ比べると、草壁皇子=皇太子の挽歌と変わらないか、それ以上の量があります。

併せて短歌が二首
「短歌」とは長歌の中身を繰り返さない歌。「短歌」と「反歌」は使われ方が違っています。長歌の後の「反歌」は長歌と同じ内容を繰り返し歌う時に使われ、新しい内容を詠う時は短歌と書かれます。
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人麻呂は皇女の死を嘆き、明日香の地名がのこるように、皇女の名も忘れないと詠みました。
この人麻呂の挽歌は個人的に献じた歌ではなく、「城上の殯宮の時」の儀式歌です。文武四年に公の葬儀の場で献じられた挽歌なのです。文武天皇と持統太上天皇は、明日香皇女の葬儀を「忍坂部(刑部)皇子の妃」ではなく「天智天皇の皇女」として行わせたのでしょう。
考えてみると、持統八年に行われた病気平癒を願っての百四人の得度は不思議です。
草壁皇子の長女・氷高皇女の病気の時は、百四十人が得度しましたから、幼い皇女でも氷高皇女(元明天皇)は特別な存在でした。明日香皇女も同じように特別だったと云うことです。それは、なぜ?(草壁皇子=皇太子には得度の記事はありません。
特別だった理由が「天智帝の皇女だった」だけでは、他の皇子皇女との釣り合いがとれません。)

こんな特別な姫君なのに、なぜか天武天皇の後宮に召されませんでした。

壬申の乱後(672)、天武朝では滅ぼした王朝の女子を一人も他へはやりませんでした。高貴な血統を他に漏らすつもりはなかったのです。
天智天皇の妃には皇族では倭姫皇后一人でしたが、天武天皇は四人の皇女(太田・鵜野・大江・新田部皇女)を後宮に入れ、他の皇女達は息子に与えました。天智朝の姫君を妻に迎えることができたのは、吉野盟約の天武朝の皇子でした。草壁皇子(阿閇皇女)・大津皇子(山部皇女)・高市皇子(御名部皇女)・刑部皇子(明日香皇女)です。他に皇女がいますが、泉皇女は伊勢斎宮となり、水主皇女は不明です。つまり、皇女には自由に相手を選ぶことなどできなかったのです。
(近江朝の総大将・大友皇子の妃であった十市皇女は天武帝の皇女でしたが、子連れで高市皇子の妃となりました。十市皇女にとって高市皇子は敵将であり異母兄であったので、その悩み苦しみが突然の皇女の薨去(自死)につながったことは既に書きました。)

明日香皇女は、天武朝の皇子の中で身分的には最も下位だった刑部皇子の妃になりました。
当時の女性は、其の嫁ぎ先で地位も生活も左右されたのです。妹の新田部皇女は天武天皇の妃となり、姉の明日香皇女は天武帝の御子の忍壁皇子に嫁いでいる、どういう判断でこのような嫁ぎ先になったのでしょう。
母方の出自を見ても明日香皇女は申し分ない氏の出身でしたのに。
明日香皇女の母の橘姫は孝徳天皇の左大臣・阿倍倉梯麿の娘で、父は天智天皇です。
同じ阿倍倉梯麿の娘に小足媛がいました。小足媛は孝徳帝に嫁ぎ有間皇子を生んでいます。橘娘と小足姫は姉妹なのです。明日香皇女は有間皇子の従妹になります。

持統天皇が明日香皇女を特別にした理由は、ここにあるのかも知れません。持統天皇が霊魂を鎮め続ける有間皇子との繋がりです。
だから、明日香皇女を持統帝は特別待遇にしたのです。

持統天皇が有間皇子(孝徳帝の皇子)につながる人であれば、小足媛や橘姫とも深い縁があるのです。明日香皇女が有間皇子の従妹だったから、持統帝は皇女に特別の思いを懐いたのではないでしょうか。

では、天武天皇の後宮に召されなかった理由は何でしょう。
それは、明日香皇女の父は天智帝ではなく有間皇子、または孝徳帝だった、という可能性です。
孝徳朝後宮から有間皇子後宮へ、有間皇子後宮から天智天皇後宮へ、天智天皇後宮から天武天皇後宮へ、女性たちの移動があったと万葉集では読めました。すると、明日香皇女は天智天皇の御娘ではなかったかも知れません。それを知っていた天武天皇は、自分の後宮に明日香皇女を召し入れなかった、のかも知れません。

これが、明日香皇女が天武天皇の後宮ではなく刑部皇子の妃になった理由、です。
阿倍氏の出身で、母が小足媛の姉妹で、有間皇子の従妹で、天智帝の御娘であれば、当然天皇の後宮に召されたでしょうから。

明日香皇女の謎はまだありますが、長くなるので、ここ辺で。





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# by tizudesiru | 2017-12-29 22:36 | 313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌 | Trackback

人麻呂の挽歌に詠まれた天智帝の皇統・持統天皇は見捨てなかった

古事記・日本書紀は「飛鳥」、万葉集には「飛鳥の明日香」…今日は、歌に込められた「飛鳥の意味を考えます。万葉集には「飛鳥の明日香」は四例あり、先に紹介した「元明天皇の御製歌」ともいわれる歌一首と、柿本人麻呂の挽歌二首と由縁雑歌(巻十六)の一首です。では、「飛鳥」について人麻呂の歌で考えましょう。

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(飛鳥川・豊浦)

 人麻呂は天武朝の皇子のために挽歌を読んだのではなく

天智帝の皇統のために挽歌を献じた

柿本朝臣人麻呂は、長皇子や舎人皇子に献歌していました。なぜ二人の皇子に献歌したのか、その理由は二人が天智天皇の御娘の大江皇女と新田部皇女の所生だったからだと書きました。天智帝の皇統として皇子達を持統帝が認め、人麻呂に献歌させた。天智帝天武帝の孫にあたる二皇子には皇位継承者として、持統天皇も特別に目をかけていたと、書きました。


持統天皇が寵愛していた皇子皇女だったから人麻呂が歌を献じたのであれば、挽歌でも同じことが言えるのではないでしょうか。人麻呂は、草壁皇子、高市皇子、川嶋皇子、明日香皇女に挽歌を献じています。


草壁皇子は持統帝の一人息子ですし、妃は天智帝の御娘・阿閇皇女です。挽歌は当然献じられたでしょう。しかし、後に作られた高市皇子の挽歌よりはるかに短くなっています。そこには「神々に選ばれた皇太子であったのに、自ら天原の岩戸を開き神上がりされた。」と詠まれていました。挽歌から読めるのは病死でも事故死でもなく、自死であったということです。日並皇子尊の覚悟の死を人麻呂は嘆きました。続いて、皇子の急な薨去で途方に暮れる舎人の歌が二十三首ありますが、彼らも皇子の急死に動揺しているのです。既に紹介しています。

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次に、高市皇子の長い挽歌は太政大臣としての地位を示し、妃の御名部皇女を慰めもしたでしょう。御名部皇女は天智帝の御娘で、阿閇皇女(元明天皇)の姉でした。大津皇子・草壁皇子亡き後、高市皇子の存在がいかに大きかったか、人麻呂は皇子の立つ位置をきちんと周囲に挽歌で示しました。高市皇子の子ども達が悲惨な最後を迎える要因はこの挽歌からも詠めるのです。高市皇子の存在は大きすぎましたからね。既に紹介しました。



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(飛鳥川の夕暮れ)
草壁皇子と高市皇子の挽歌は既に紹介していますから、今日紹介するのは「川嶋皇子」の挽歌です。
川嶋皇子は天智帝の御子で、大江皇女の弟です。吉野盟約の時の六人の皇子の一人でもありました。大津皇子の親友でしたが、その親友の謀反を密告しています。
川嶋皇子は持統四年(690)の紀伊国行幸に従駕しています。そこで、持統天皇に歌を献じました。

巻一「紀伊国に幸す時、川嶋皇子の作らす歌 或書に高市連黒人という」
34 白浪の濱松が枝の手向け草幾代までにか年の減るらむ

白波が打ち寄せる浜の松の枝を手向け草として(結ばれて)神に祈られたという。有間皇子が祈られた時からどれほどの月日がたったのだろうか。松はまだここにあるのに。(わたしは有間皇子に逢ったことはないが、話は十分に聞いている。あの方は謀反の罪で命を落とされたが無実だったのだ。わたしは親友だった大津皇子を思い出す。大津皇子も無実ではなかったかと。)

紀伊国行幸(690)の翌年、河嶋皇子は薨去しています。早すぎる死だったのではありませんか。書紀には「皇子川嶋」と書かれ、名より皇子が先に書かれ「皇子川嶋」は敬称とはなっていません。静かに、罪人扱いをしているのです。本当に彼は罪を犯したのでしょうか。

では、万葉集巻二「柿本朝臣人麻呂、泊瀬部皇女・忍坂部皇子に献づる歌一首併せて短歌」を見ましょう。
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「飛鳥明日香」が長歌の冒頭に来ています。この詞で、この長歌が挽歌であると聞き手に理解させてしまうでしょう。「飛鳥」とは「鳥が飛び交う地・霊魂が漂う地・祖霊が鎮まる地」という意味があるからです。「呼兒鳥」でも紹介したように、万葉集の鳥は霊魂の顕れでもありました。

人麻呂は、川嶋皇子の挽歌では敬語を「嬬の命」以外には使っていません。人麻呂は川嶋皇子の薨去を嘆きながら、妻であったという泊瀬部皇女(天武帝の御娘)の立場で歌を詠み、敬語を避けたのです。

人麻呂が心のどこかで皇子川嶋を責めていた、のであれば、持統天皇も同じように皇子川嶋を責めていたのでしょうか。川嶋皇子は天武帝崩御年(686)の八月に封戸を加増されています。九月崩御、十月大津謀反密告の前に封戸の加増だったのです。やがて来る天皇の死「その時は、よろしくな」と、頼んだ人物がいるのです。
そして、紀伊国行幸(690)で「結松」の歌を詠んだ翌年の一月にも封戸の加増があり、同じ年の九月に没しています。この流れを見ると、川嶋皇子は高貴な人に利用されたようにも見えます。

しかし、人麻呂は川嶋皇子の挽歌を読みました。そこに持統天皇の気持ちがなかったはずはありません。持統天皇は知っていたでしょう。皇子川嶋が皇位継承に関して「草壁皇子か、大津皇子か、どちらの皇統を選ぶか」と迫られた時、深く苦しみ悩んだことを。
天武帝の病が重篤になるにつれて、周囲が暗躍したのは間違いありません。川嶋皇子も「吉野盟約の六人の皇子」として、判断を迫られたでしょう。
その時、川嶋皇子が判断の拠所としたのは何だったのか。それが問題です。


彼はなぜ親友の大津を選ばなかったのか。
そこには、皇統の秘密が絡んでくると思うのです。川嶋皇子は天智天皇の御子なのです。大津皇子は天武天皇の御子でした。二人の皇統は違っていました。
天智と天武のどちらの皇統を選ぶのか、河嶋皇子は迫られたのです。

草壁皇子が天智天皇の御子だったからこそ、皇子川嶋は親友を捨てることができたと思うのです。それは断腸の決断だったことでしょう。

結果として、大津皇子を指示した勢力を納得させる理由が謀反だった・・・そして、結果として川嶋皇子の決断が利用されてしまったのです。

皇子川嶋は苦しんだでしょうし、それを知った草壁皇子も苦しんだでしょう。その皇位継承のごたごたは、草壁皇子の死を招きました。その翌年、持統天皇は川嶋皇子を見捨てず紀伊国にも連れて行った、そう思いませんか?

持統天皇は天智天皇の皇統の皇子を決して見捨てなかったのです。だから、人麻呂は挽歌を読みましたが、そこには敬語はなく「高光る」という皇統を示す言葉もありません。皇子川嶋は「飛ぶ鳥の明日香」の霊魂となったと詠んだのです。

人麻呂の歌には、持統天皇の川嶋皇子への哀惜の情がせつせつと漂うのです。
挽歌を読むかぎり、持統天皇は決して天智天皇の皇統の川嶋皇子を見捨てなかったと、わたしは思います。 


飛鳥」が「アスカ」となったのは、人麻呂の歌より後の時代です。
明日香が霊魂の地として定着したから、平城遷都の時に元明天皇に「飛ぶ鳥 明日香の里を…」と詠まれたのです。飛鳥は決して明日香の美称ではないし、とても政治的な言葉でもあります。

過ぎ去った人々の霊魂が漂う地であり、都ではない、という意味です。
「飛鳥の明日香」という言葉を造り出したのは、人麻呂なのかも知れませんね。

次は、明日香皇女に献じられた挽歌です。



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# by tizudesiru | 2017-12-26 12:27 | 313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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59続石上神宮の視線
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145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
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157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
314草壁皇子と天智天皇の関係
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
701年紀伊国行幸・持統天皇が触れた砂
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
326倭王武と雄略天皇は同一人物なのか
327古代史の危機!?

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