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魏武王・曹操は寒冷期を乗り越え、漢王朝の文化を発展させた

中国の河南省安陽市で発掘された墓に西高穴二号墳と命名されました。そこが記録にある「曹操高陵」と同じ場所であったこと、副葬品に「魏武王」と記した石牌(せきはい)があったことなど、魏武王は曹操を指しますから、曹操の墓であることが判明確定したのでした。
魏武王・曹操は寒冷期を乗り越え、漢王朝の文化を発展させた_a0237545_20112235.jpg
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三国志時代の曹操の墓だなんて…すごい発見でした。これを見ずに死んでしまった人に申し訳ない気持ちです。
さて、曹操の時代は地球的には寒冷期でした。邪馬台国の卑弥呼の国民も飢えました。それで、半島に助けを求めて1000人も移住したと「新羅本紀」に書かれていました。

三国志展の図録にも、次のようなグラフが掲載されていました。
魏武王・曹操は寒冷期を乗り越え、漢王朝の文化を発展させた_a0237545_20312648.jpg
寒冷期に入り、人口は2世紀の6000万人近くから、3世紀には1000万人ほどに激減しています。作地面積が減少し、人口減少・戦争へと時代が流れたのです。人々は苦しみから「太平道」や「五斗米道」などの宗教に傾きました。「黄巾の乱」は、太平道の結社が起こした反乱でした。
乱が平定された後、残党の一部は曹操の軍団に組み込まれました。
曹操が支配した黄河流域は黄河文明の発祥の地で、人口も多く人材にも恵まれました。しかし、寒冷期に入ると戦乱が頻発し、農業も危機的状況となりました。そこで、曹操は屯田制をはじめ、土地を人民に与えて開墾させました。
結果、食料増産が進み、三国の戦いで有利になったのでした。
そして、
曹操は漢王朝の文化を受け継ぎ発展させました。書を読み、詩歌を詠み、書をよくするのは、支配者のたしなみだったのです。
 
写真は曹操の人形ですが、曹操は本当に英雄でしたね。その祖先は、漢王朝創立の功臣である曹参(そうしん)とされ、曹氏一族は官僚として長く仕えました。曹操の祖父の曹騰(そうとう)は宦官となり後漢王朝に信頼され、養子の曹崇(そうすう)は大臣となっています。曹操はその曹崇の子で、エリート官僚でした。
魏武王・曹操は寒冷期を乗り越え、漢王朝の文化を発展させた_a0237545_19495181.png
220年、曹操(155~220)が没しました。子の曹丕(そうひ)は、後漢の献帝から帝位を譲り受け、「魏」が成立しました。220年の事です。
221年、魏の成立を知った劉備も「我こそ前漢皇帝の末裔」として即位したのでしたね。それが「蜀」でした。
魏・蜀・呉の三国の中で、魏が一番人口も多く豊かだったのです。
 
倭女王・卑弥呼も、曹操や「魏」のことは聞いていたでしょう。
景初二年(?)、卑弥呼が魏に遣使したのは239年だそうで、この時「親魏倭王」の印綬を受けています。なぜ、239年なのか、それは、遼東の公孫氏が魏の司馬懿(しばい)の軍に攻められ滅びたからです。倭は公孫氏の帯方郡に属していました。(三国志・倭人伝には、「景初二年」と書かれていますが、それは、「景初三年」の事で、倭人伝の間違いとなっているようです。)

卑弥呼は後漢の後を継いだ「魏」に朝貢したのですが、それは、公孫氏の滅亡と無関係ではないでしょう。寒冷期を乗り越えた「魏」を宗主国としたかったし、半島関係や国内事情もあったはずです。
魏武王・曹操は寒冷期を乗り越え、漢王朝の文化を発展させた_a0237545_21434080.jpg
上の写真は三国志展の図録にある「毋丘倹紀功碑」ぶきゅうけんきこうひ  です。
公孫氏滅亡の史実を伝える資料だそうです。図録には、
『一行目に「正始三年(242)に高句麗が背いた」とある。
「三国志」には、正始五年から六年(244~245)にかけて魏の将軍の毋丘倹(姓が毋丘、名が倹)が高句麗に侵攻し、高句麗の首都を攻め落とすという大勝利をおさめ、征服地の三か所にその業績を記した碑を建てたと伝えるが、その一つである』と書かれているのです。
『一~二行目に魏による高句麗攻撃のさまを記し、四行目以下に功績をあげた将軍の名を列挙している。六行目には「行碑将軍領玄菟太守王頎」こうひしょうぐんりょうげんとたいしゅおうき、と推定される。王頎はこのあと帯方郡太守となり、倭女王卑弥呼と魏の外交を仲介した。』(図録より)
確かに、王頎の名は「倭人伝」に出ています。④に「太守王頎、官に至る」とありますから、「太守に着任した」のです。
魏武王・曹操は寒冷期を乗り越え、漢王朝の文化を発展させた_a0237545_00050690.png
訳文は次の通りです。(講談社学術文庫 「倭国伝」 藤堂明保・竹田晃・影山輝國)


①正始元年(240)、帯方郡の太守弓遵(きゅうじゅん)は、建中校尉 梯儁(ていしゅん)らを遣わして、詔と印綬を倭国へ持って行かせ、倭王に任命した。そして、詔と一緒に、黄金・白絹・錦・毛織物・刀・鏡、その他を渡した。そこで、倭王は使いに託して上表文を奉り、お礼を言って詔に答えた。

➁正始四年(243)、倭王はまた、大夫伊声耆・掖邪狗ら八人を使いとして、奴隷・倭の錦、赤青の絹、綿入れ、白絹、丹木、木の小太鼓、短い弓と矢を献上した。掖邪狗らは八人とも、卒善中郎将の印綬をもらった。


③正始六年(245)詔を発して倭の難升米に、黄色い垂れ旗を、帯方郡の太守の手を通して与えた。


④正始八年(247)帯方郡の太守、王頎が着任した。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と以前から仲が悪かったので、倭の載斯・烏越らを帯方郡に遣わし、お互いに攻めあっている様子をのべさせた。帯方郡では、国境守備の属官の張政らをつかわし、彼に託して詔書と黄色い垂れ旗を持って行かせて、難升米に与え、おふれを書いて卑弥呼を諭した。


⑤使者の張政らが到着した時は、卑弥呼はもう死んでいて、大規模に直径百余歩の塚を作っていた。殉葬した男女の奴隷は百余人であった。かわって男王を立てたが、国中それに従わず、殺しあいをして、当時千余人が死んだ。そこでまた、卑弥呼の一族の娘で台与という十三歳の少女を立てて王とすると、国がようやく治まった。そこで、張政らはおふれを出して台与を諭し、台与は倭の大夫、率善中郎掖邪狗ら二十人を遣わして、張政らを送って行かせた。倭の使いはそのついでに魏の都まで行って、男女の奴隷三十人を献上し、白珠五千、青い大勾玉二個、めずらしい模様の雑錦二十匹を、貢ぎ物として差し出した。

 
以上は「倭国伝」からの抜粋ですから、個人的な訳文ではありません。「卑弥呼以って死す」の意味は諸説あり、『以って』の解釈で全く違う意味になることは、みなさん、既にご存知でしょう。
魏武王・曹操は寒冷期を乗り越え、漢王朝の文化を発展させた_a0237545_11074070.jpg

ここで、三国志展に戻ります。帯方郡太守 王頎の名を刻んだ金石文が出て来た事は卑弥呼の遣使を裏付けることになるのです。では、倭国に張政を遣わしたのは「帯方郡」であり、王頎だとなります。王頎は軍事的な指導者でありましたから、卑弥呼に対しても軍事的な判断をしたでしょう。それは、老女の指導者はいらないということです。
だから、卑弥呼は死を賜った、と思うのです。
しかし、倭国は男王では納得しなかった、のです。
倭国としては無念だったと思います。それで、男王を受け入れなかったと。

王頎の判断は間違っていたのです。張政らは慌ててやり直し、台与(壹与)を選んだのでした。彼女は女王として役目を果たしたということになり、倭人伝は終わります。
三国志展の金石文は、王頎が軍人だったことを示しました。そこで、わかることもあるのですね。卑弥呼の国は、この後、どうなったのでしょうね。
今日は、卑弥呼の死は尋常な死ではなかった、彼女は死を賜ったのだと、書きました。
では、また、お会いします。



by tizudesiru | 2019-10-22 18:56 | 371三国志の時代に卑弥呼は生きていた | Trackback
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地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける
373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ
374令和元年こそ万葉集を読み解こう

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