天平二年の梅花の宴は前王朝の正月儀式の再現だった(2)
「天平二年の梅花の宴は前王朝の正月儀式の再現だった」の続きです。
天平二年正月、大宰府の帥の館に大弐・少弐から無位の役人まで集い宴が執り行われました。その宴では老いも若きも官位の高低もなく、ひとしく梅を詠んだのです。通常では考えられないことでした。身分を分けること、出自を明らかにすることなど、政治が目指していたことでした。律令も整えられ官位も細かく分けられて、秩序を重んじ身につけるものまで決められていましたから。
そんな風潮の中で席をほぼ同じくして歌を詠み合うなど、考えられないことだったでしょう。
もちろん、都では宮廷の正月儀式として宴(とよのあかり)が設けられ、身分・位に応じて各々に賜物がありました。しかし、身分の上下にかかわらずともに歌を詠んだりはしていません。
平安時代には宮廷で歌会があったでしょうが、「梅花の宴」は奈良時代の初めです。
旅人は思い付きで宴を開いたのでしょうか。 そんなことは有りません。
彼は、大宰帥として九州の正月儀式を再現したのです。
まず、そこで読まれた歌を詠んでみましょうか。
815 正月(むつき)たち春の来たらばかくしこそ梅を招(を)きつつ楽しき終へめ
大弐紀卿 だいにきのまえつきみ(従四位下)
816 梅の花今咲けるごと散り過ぎず我が家の園にありこせぬかも
少弐小野大夫 しょうにおののまえつきみ(従五位上)
817 梅の花咲きたる園の青柳は縵(かずら)にすべくなりにけらずや
少弐粟田大夫 しょうにあはたのまえつきみ(従五位上)
818 春さればまず咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日くらさむ
筑前守山上大夫 つくしみちのくちのかみやまのうえのまえつきみ(従五位下)
819 世の中は恋繁しゑやかくしあらば梅の花にもならましものを
豊後守大伴大夫 とよのみちのしりのかみおほとものまえつきみ(従五位下)
*大夫(だいぶ)とは、中国の周代から春秋戦国時代にかけての身分を表す言葉で、領地をもった貴族のことであった。大夫は卿の下、士の上に位した。日本でも律令制度に用いられ、太政官に於いては三位以上、寮に於いては四位以上、国司に於いては五位以上の官吏の称とされた。単に五位を意味する場合「たいふ」と詠み分ける。
820 梅の花今盛りなり思ふどちかざしにしてな今盛りなり
筑後守藤井大夫 つくしのみちのしりのかみふじいのまえつきみ(外従五位下)
821 青柳梅と花とを折りかざし飲みての後は散りぬともよし
笠沙弥 かさのさみ(無位 僧)
822 わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れくるかも
主人 あるじ(旅人)(正三位)
823 梅の花散らくはいずくしかすがにこの城(き)の山に雪は降りつつ
大監伴氏百代 だいげんばんじのももよ(正六位下)
824 梅の花散らまく惜しみ我が園の竹の林にうぐいす鳴くも
少監阿氏奥島 しょうげんあじのおきしま(従六位上)
825 梅の花咲きたる園の青柳を縵にしつつ遊び暮らさな
少監土氏百村 しょうげんとじのももむら(従六位上)
826 うちなびく春の柳と我がやどの梅の花とをいかにか別かむ
大典史氏大原 だいてんしじのおほはら(正七位上)
827 春されば木末(こぬれ)隠りてうぐいすそ鳴きて去(い)ぬなる梅が下枝(しづえ)に
少典山氏若麻呂 しょうてんさんじのわかまろ(正八位上)
828 人ごとに折りかざしつつ遊べどもいやめずらしき梅の花かも
大判事丹氏麻呂 だいはんじたんじのまろ(従六位下)
829 梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや
薬師張氏福子 くすりしちょうじのふくこ(正八位上)
830 万代に年は来(き)経(ふ)とも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし
筑前介佐氏子首 つくしみちのくちのすけさじのおびと(従六位上)
831 春なればうべも咲きたる梅の花君を思ふと夜眠(よい)も寝なくに
壱岐守板氏安麻呂 いきのかみはんじのやすまろ(従六位下)
832 梅の花折りてかざせる諸人は今日の間は楽しくあるべし
神司荒氏稲布 かみつかさくわうじのいなしき(正七位下)
833 年のはに春の来たらばかくしこそ梅をかざして楽しく飲まめ
大令史野氏宿奈麻呂 だいりょうしやじのすくなまろ(大初位上)
834 梅の花今盛りなり百(もも)鳥(とり)の声の恋しき春来たるらし
少令史田氏肥人 しょうりょうしでんじのこまひと(大初位下)
835 春さらば逢はむと思ひし梅の花今日の遊びに相見つるかも
薬師高氏義通 くすりしかうじのよしみち(正八位上)
836 梅の花手折りかざして遊べども飽き足らぬ日は今日にしありけり
陰陽師磯氏法麻呂 おんやうしきじののりまろ(正八位上)
837 春の野に鳴くやうぐいす馴付けむと我が家の園に梅が花咲く
算師志氏大道 さんししじのおほみち(正八位上)
838 梅の花散り粉(まが)ひたる岡びにはうぐいす鳴くも春かたまけて
大隅目榎氏鉢麻呂 おほすみのさくわんかじのはちまろ(大初位下)
839 春の野に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る
筑前目田氏真上 ちくしみちのくちのさくわんでんじのまかみ(従八位下)
840 春柳縵に折りし梅の花誰か浮かべし酒坏(さかづき)の上(へ)に
壱岐目村氏彼方 いきのさくわんそんじのおちかた(少初位上)
841 うぐいすの音聞くなへに梅の花我家の園に咲きて散る見ゆ
対馬目高氏老 つしまのさくわんかうじのおゆ(少初位上)
842 我がやどの梅の下枝に遊びつつうぐいす鳴くも散らまく惜しみ
薩摩目高氏海人 さつまのさくわんかうじのあま(大初位下)
843 梅の花折りかざしつつ諸人の遊ぶを見れば都しぞ思ふ
土師氏御通 はにしうぢのみみち(無位)
844 妹が家に雪かも振ると見るまでにここだも粉ふ梅の花かも
小野氏国堅 をのうぢのくにかた(無位)
845 うぐいすの待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ児がため
筑前掾門氏石足 つくしのみちのくちのじょうもんじのいそたり(従七位上)
846 霞立つ長き春日をかざせれどいやなつかしき梅の花かも
小野氏淡理 をのうぢのたもり (無位)
この正月儀式はたいへん文化的で華やかで、参加した人々や噂を聞いた都の人など多くの人に感銘を与えました。正月早々から上下を問わず歌を詠み合う儀式、それも梅の花を詠む宴、そこにある意味は何でしょう。
上下を重んじて身分や官位を細分化し「姓」を与えたりして氏の間に差別を持ち込み続けた当時の常識に反し、「王権を象徴する梅花の下に上下を問わず集い王朝の弥栄を寿ぐ正月儀式が九州にはありました」ということです。
当時の王朝の儀式ではないとすると、別の王家の儀式だったことになりましょう。
ちなみに日本書紀・持統紀などに見られる正月儀式は、「白馬節会(あおうまのせちえ))の原形や「射礼(じゃらい)」などが挙げられます。が、詩歌を詠む会ではありません。
正月七日の宴は「白馬節会・あおうまのせちえ」という行事に整えられていきましたが、これは天皇が白馬を見る儀式で「白馬を見ると縁起がいい」というのです。また、正月十七日に「射礼・じゃらい」という儀式は弓の音を立てて邪鬼を払うというものです。
平城天皇(在位806~9)の時代、正月儀式として詩文を作らせ御前で読み上げさせる儀式は「内宴」と云って正月二十日か二十一日に行われたのですが、その儀式が取り入れられたのはずっと後の時代です。
平城天皇とはこれまでも紹介した「大伴氏から万葉集を召し上げ、侍臣に編集させた天皇」で、万葉集に深い理解があった人です。ですから、正月儀式に詩文を詠む宴の意味を理解し、その意義を踏まえ儀式を再現したと思われます。
(平城天皇が罪人として官位も剥奪されていた家持の官位を戻した理由は何かですが、万葉集を召し上げるために他なりません。平城天皇は、万葉集の本質と意義を理解していました。だから、平安京から平城京に都を戻そうと言い出したのです。そのために嵯峨天皇と激しく対立したのです。)
平城天皇は、旅人が執り行った梅花の宴を「王朝の寿ぎの儀式」の再現だと理解したので、自らの世(70年以上後)に儀式化したのでした。理想の王家の正月儀式を大伴旅人が大宰府で再現していたと理解したからです。
当時の旅人としては、長屋王の父・高市皇子の血縁になる九州の王家の儀式をなぞり、長屋王の霊魂を鎮めたいと願ったと思います。もちろん、その事は決して表には出さなかったでしょうし、気づかれないようにしたでしょう。旅人の内心を理解した人物が居たとしたら、山上憶良をおいて他には居りません。
「後に梅の歌に追和する四首(849~51)」が巻五に掲載されていますが、旅人が追和したのであろうと云われています。が、そうであれば、「梅花の宴を懐かしんで作る」という題詞があってもおかしくありません。が、それはないので何ともいえませんが、旅人も思わぬ反響に驚いたのかもしれません。宴の成功に感動した別人の可能性もありましょう。
他にも「諸人、梅花の歌にこたえ奉る一首(856)」があります。
巻十七には、「大宰の梅花の時に追和する新しき歌六首(3901~6)」と題詞があり、「右、十二年十二月九日、大伴宿祢書持が作る」と左脚が付いています。大伴家持の弟・書持が父を偲んで十年後に追和したとわかります。
梅花の宴は、このように人々の心に残りました。なぜなら、非常に文化的な行事で都にはなかったのです。家持も弟の書持も「大宰府の梅花の宴」を深く心に刻み、誇りに思っていたのでした。
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288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける
373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ
374令和元年こそ万葉集を読み解こう
375大伴家持、万葉集最終歌への道
376神社一人旅はいかがですか
377花の写真はいかがですか
378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東
379万葉集巻二十は鎮魂と告発の歌巻
380関東の神社は、政変を示しているのか
381九州の古墳の不思議と謎
382松浦佐用姫は何故死んだのか
383令和三年の奇跡を祈りましょう
384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ
法隆寺
大塚初重氏の仕事
385万葉集を片手に旅ゆけば
386今城塚古墳の謎・物語が見えない
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