蘇我氏の出自・彼等は何処から来たのか
527~8年、「筑紫君磐井の乱」と
531年の辛亥の変で、倭王の一族は滅びました。
それは、墓制の変化(石棺が消えていく)ことで紹介してきました。
此処で、「筑紫君一族は何処へ逃げたのか」と書くと、筑紫君磐井の一族がこぞって九州を逃げ出したことになります。しかし、そうではありません。たとえば天智十年(671)、白村江敗戦後に熊津都督府から派遣された郭務宗と共に帰国した「筑紫君薩野馬」がいます。天智十年までは、筑紫君という姓はあったのです。
すると、筑紫君一族は北部九州の管理者として存続し、百済救援軍として海を渡っていたことになります。(この時、筑紫君薩夜麻を帰国させるために尽力したのは、上陽咩(かみつやめ)郡の大伴部博麻(おほともべのはかま)でした。大伴部博麻は倭国の危機的状況「唐が倭国を襲撃する計画」をいち早く知らせるために我が身を売ってその資金で薩夜麻を倭国に返したと書紀に書かれています。筑紫君の本拠地として、福岡県の筑後地方八女辺りが残っていたのです。)
今日は、
九州から石棺が消えたのに、近畿には石棺文化が入っています。そこで、彼らは何処から来たのかを考えたいと思います。
で、今回は蘇我氏の出自、彼らは何処から来たのか、です。
わたしは九州から移動したと思っています。
蘇我氏と言えば、物部氏と対立し仏教を受け入れたことで有名です。物部氏は九州よりの移動伝説を持った氏族ですが、蘇我氏も九州から移動したという痕跡はあるのでしょうか?
蘇我氏は、武内宿祢の末裔だと「尊卑分脈」に書かれています。
蘇我氏の祖が日本書紀に現れるのは、応神紀(15代天皇)の武内宿禰からです。
『尊卑分脈』の出自を見ましょう。
孝元天皇(8代)の皇子・彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)から蘇我氏は始まります。彦太忍信命の母は、伊香色謎命(いかがしこめのみこと)です。孝元天皇の妃ですから皇后に次ぐ身分の女性です。
*伊香色謎(いかがしこめ)命は、崇神天皇(10代)即位前期に『物部氏が遠祖・大綜麻杵(おほへそき)が女(むすめ)」とあり、古事記では『内色許男(うつしこを)の女』ですが、饒速日の五世孫・伊香色雄の後と書かれているのです。物部氏とも関係が深い女性なのです。
*孝元天皇(8代)の妃・伊香色謎命は、開化6年正月に開化天皇(9代)の皇后になりました。開化天皇は父を墓に納めた後に、継母(父の妃)を皇后にしたのです。皇后となった伊香色謎命は、崇神天皇(10代)・御間城入彦五十瓊殖(みまきいりびこいにゑ)天皇を生みました。
さて、彦太忍信命の母のことは了解ですか? 母は物部系の血統も持った人でしたから、古代には血筋の高貴な女性が次の後継者を生むと云うことになっていたのでしょう。皇子の彦太忍信命は、前天皇の息子であり、次の天皇の義理の息子であり、さらに次の天皇の同母兄となりますね。
彦太忍信命は、これ武内宿禰の祖父なり(孝元天皇紀)
武内宿禰といえば、九州と所縁の深い人ですね。
彦太忍信命から屋主忍男武雄心命(やぬしおしをたけをこころのみこと)、その子武内宿禰、その子の石川宿禰から蘇我満智(そがのまち)宿禰とつながっています。
では、屋主忍男武雄心命を書紀でさがします。
景行天皇(12代)の三年、紀伊国に行幸して占いをしたが吉と出なかったので、屋主忍男武雄心命が派遣されました。屋主忍男武雄心命は紀伊国で神祭りをして九年留まり、紀直(きのあたひ)の遠祖・菟道彦の娘の影媛を娶り、武内宿禰を生んだと、景行紀にあります。そこは、紀伊国でしょうか?
佐賀県の武雄市には武雄神社があります
武内宿禰を祀る神社は、圧倒的に福岡が多いのです。続いて大分・佐賀・和歌山の順になり、福岡は大分の2倍、佐賀の4倍、和歌山の10倍です。奈良の40倍以上の数になります。
特に、佐賀県武雄市には、武雄神社があり武内宿禰を主祭神とし、神功・応神・仲哀天皇と父の武雄心命を祀っています。
また、武雄市には、武内宿禰の母・山下影媛を祀る神社もあります。やはり、九州と所縁の深い人になります。
武内宿禰の母も、紀伊国(和歌山)の人と言うより基山のある基肄国(佐賀県)の人だったのではないでしょうか。
日本書紀も古事記では「孝元天皇」のところで、多くの氏族の祖が分かれたことになっています。案外、孝元天皇が倭王と重なるのかも知れませんね。ちなみに、皇子達は、大毘古命・少名日子建猪心命。若倭根子日子大毘毘命、彦太忍信命、建波邇夜須毘古命の五人。
孝元天皇の皇子から出た氏族は、書紀では「安倍臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣 など七族の始祖」と書かれています。
武内宿禰の子孫たち(古事記)
羽田矢代宿禰⇒波多臣・淡海臣・林臣・波美臣・星川臣・長谷部臣
許勢小柄宿禰⇒巨勢臣・雀部臣・輕部臣
平群木菟宿禰(平群都久宿禰)⇒平群臣・佐和良臣・馬御樴連
石川宿禰(蘇賀石川宿禰)⇒蘇我臣・川邉臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣
紀角宿禰(木角宿禰)⇒紀臣(木臣)・都奴臣・坂本臣
葛城襲津彦(葛城長江曾都毘古)⇒玉手臣・的臣・生江臣・阿藝那臣
若子宿禰⇒江野財臣
女子は、久米能摩伊刀比売、怒能伊呂比売、の二人です。
武内宿禰は、色々な氏族の祖となっています。
と云うことで、蘇我氏に戻りましょう。
履中天皇(17代)紀二年に、蘇我満智宿禰が平群氏・物部氏・円氏と共に国事に携わっています。突然、国政に参画したのでしょうが、何の力もなくてはできません。この頃の蘇我氏にできて、他の氏族にできなかったこと。それは、『古語拾遺』にも書かれているように「三蔵を検校すること」、帳簿をつけること・数字を読み書きすること、計算すること、ですか……財政を握っていたようですね。
ちなみに三蔵とは、斎蔵=祭祀に関わる財源、内蔵=王家の生活に関わる財源、大蔵=国政に関する財源、と云うことです。財源がなくては何もやれませんから。
その辺りは、また今度。
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531年の辛亥の変で、倭王の一族は滅びました。
それは、墓制の変化(石棺が消えていく)ことで紹介してきました。
此処で、「筑紫君一族は何処へ逃げたのか」と書くと、筑紫君磐井の一族がこぞって九州を逃げ出したことになります。しかし、そうではありません。たとえば天智十年(671)、白村江敗戦後に熊津都督府から派遣された郭務宗と共に帰国した「筑紫君薩野馬」がいます。天智十年までは、筑紫君という姓はあったのです。
すると、筑紫君一族は北部九州の管理者として存続し、百済救援軍として海を渡っていたことになります。(この時、筑紫君薩夜麻を帰国させるために尽力したのは、上陽咩(かみつやめ)郡の大伴部博麻(おほともべのはかま)でした。大伴部博麻は倭国の危機的状況「唐が倭国を襲撃する計画」をいち早く知らせるために我が身を売ってその資金で薩夜麻を倭国に返したと書紀に書かれています。筑紫君の本拠地として、福岡県の筑後地方八女辺りが残っていたのです。)
今日は、
九州から石棺が消えたのに、近畿には石棺文化が入っています。そこで、彼らは何処から来たのかを考えたいと思います。
で、今回は蘇我氏の出自、彼らは何処から来たのか、です。
わたしは九州から移動したと思っています。
蘇我氏は、武内宿祢の末裔だと「尊卑分脈」に書かれています。
『尊卑分脈』の出自を見ましょう。
孝元天皇(8代)の皇子・彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)から蘇我氏は始まります。彦太忍信命の母は、伊香色謎命(いかがしこめのみこと)です。孝元天皇の妃ですから皇后に次ぐ身分の女性です。
*伊香色謎(いかがしこめ)命は、崇神天皇(10代)即位前期に『物部氏が遠祖・大綜麻杵(おほへそき)が女(むすめ)」とあり、古事記では『内色許男(うつしこを)の女』ですが、饒速日の五世孫・伊香色雄の後と書かれているのです。物部氏とも関係が深い女性なのです。
*孝元天皇(8代)の妃・伊香色謎命は、開化6年正月に開化天皇(9代)の皇后になりました。開化天皇は父を墓に納めた後に、継母(父の妃)を皇后にしたのです。皇后となった伊香色謎命は、崇神天皇(10代)・御間城入彦五十瓊殖(みまきいりびこいにゑ)天皇を生みました。
さて、彦太忍信命の母のことは了解ですか? 母は物部系の血統も持った人でしたから、古代には血筋の高貴な女性が次の後継者を生むと云うことになっていたのでしょう。皇子の彦太忍信命は、前天皇の息子であり、次の天皇の義理の息子であり、さらに次の天皇の同母兄となりますね。
彦太忍信命は、これ武内宿禰の祖父なり(孝元天皇紀)
武内宿禰といえば、九州と所縁の深い人ですね。
彦太忍信命から屋主忍男武雄心命(やぬしおしをたけをこころのみこと)、その子武内宿禰、その子の石川宿禰から蘇我満智(そがのまち)宿禰とつながっています。
では、屋主忍男武雄心命を書紀でさがします。
景行天皇(12代)の三年、紀伊国に行幸して占いをしたが吉と出なかったので、屋主忍男武雄心命が派遣されました。屋主忍男武雄心命は紀伊国で神祭りをして九年留まり、紀直(きのあたひ)の遠祖・菟道彦の娘の影媛を娶り、武内宿禰を生んだと、景行紀にあります。そこは、紀伊国でしょうか?
武内宿禰を祀る神社は、圧倒的に福岡が多いのです。続いて大分・佐賀・和歌山の順になり、福岡は大分の2倍、佐賀の4倍、和歌山の10倍です。奈良の40倍以上の数になります。
特に、佐賀県武雄市には、武雄神社があり武内宿禰を主祭神とし、神功・応神・仲哀天皇と父の武雄心命を祀っています。
また、武雄市には、武内宿禰の母・山下影媛を祀る神社もあります。やはり、九州と所縁の深い人になります。
武内宿禰の母も、紀伊国(和歌山)の人と言うより基山のある基肄国(佐賀県)の人だったのではないでしょうか。
日本書紀も古事記では「孝元天皇」のところで、多くの氏族の祖が分かれたことになっています。案外、孝元天皇が倭王と重なるのかも知れませんね。ちなみに、皇子達は、大毘古命・少名日子建猪心命。若倭根子日子大毘毘命、彦太忍信命、建波邇夜須毘古命の五人。
孝元天皇の皇子から出た氏族は、書紀では「安倍臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣 など七族の始祖」と書かれています。
武内宿禰の子孫たち(古事記)
羽田矢代宿禰⇒波多臣・淡海臣・林臣・波美臣・星川臣・長谷部臣
許勢小柄宿禰⇒巨勢臣・雀部臣・輕部臣
平群木菟宿禰(平群都久宿禰)⇒平群臣・佐和良臣・馬御樴連
石川宿禰(蘇賀石川宿禰)⇒蘇我臣・川邉臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣
紀角宿禰(木角宿禰)⇒紀臣(木臣)・都奴臣・坂本臣
葛城襲津彦(葛城長江曾都毘古)⇒玉手臣・的臣・生江臣・阿藝那臣
若子宿禰⇒江野財臣
女子は、久米能摩伊刀比売、怒能伊呂比売、の二人です。
武内宿禰は、色々な氏族の祖となっています。
と云うことで、蘇我氏に戻りましょう。
履中天皇(17代)紀二年に、蘇我満智宿禰が平群氏・物部氏・円氏と共に国事に携わっています。突然、国政に参画したのでしょうが、何の力もなくてはできません。この頃の蘇我氏にできて、他の氏族にできなかったこと。それは、『古語拾遺』にも書かれているように「三蔵を検校すること」、帳簿をつけること・数字を読み書きすること、計算すること、ですか……財政を握っていたようですね。
ちなみに三蔵とは、斎蔵=祭祀に関わる財源、内蔵=王家の生活に関わる財源、大蔵=国政に関する財源、と云うことです。財源がなくては何もやれませんから。
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by tizudesiru
| 2018-06-22 00:33
| 349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
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地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史
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1祭祀線で読む大宰府の位置
2祭祀線で見る竹原古墳
3祭祀線が交叉する間夫という山
4祭祀線で知る筥崎八幡宮
5祭祀線で弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
7祭祀線で読める八女丘陵の古墳のライン
8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
104安心院の佐田神社
386今城塚古墳の謎・物語が見えない
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授柿本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける
373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ
374令和元年こそ万葉集を読み解こう
375大伴家持、万葉集最終歌への道
376神社一人旅はいかがですか
377花の写真はいかがですか
378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東
379万葉集巻二十は鎮魂と告発の歌巻
380関東の神社は、政変を示しているのか
381九州の古墳の不思議と謎
382松浦佐用姫は何故死んだのか
383令和三年の奇跡を祈りましょう
384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ
法隆寺
大塚初重氏の仕事
385万葉集を片手に旅ゆけば
386今城塚古墳の謎・物語が見えない
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