万葉集の不思議・持統天皇は近江朝と有間皇子を偲び続けた

今日の辺りは、すでに何度か書いたことと70%ほど重なります。
a0237545_14173948.png
初期万葉集は、端的にいうと「持統天皇が編纂させた史書である」としてブログを進めています。長いので少しずつ紹介しています。今日は、「すぎにし人の形見とぞ」の㉟からです。
持統4年の紀伊国行幸は、草壁皇子の薨去の翌年ですから、妻の阿閇皇女は夫の草壁皇子を当然偲ぶでしょうね。

草壁皇子の妃・阿閇皇女・前年に薨去した夫を偲ぶ歌

㊵ 
持統四年の紀伊国行幸で有間皇子事件を詠んだ川嶋皇子と草壁皇子を偲んだ阿閇皇女

朱鳥四年(690)四月、持統天皇は草壁皇子妃の阿閇皇女を連れて紀伊國に行幸した。阿閇皇女は天智天皇と石川夫人(姪娘)の娘であり、後の元明天皇である。皇女は前年4月に夫・草壁皇子と死別していた。残された三人の子どもたちはまだ幼かったので、軽皇子が七歳、氷高皇女が十歳で末っ子の吉備皇女は五歳くらいだが、都に残しての行幸だったのだろうか。

 勢能山を越える時、阿閇皇女の御作歌

35 此れやこの倭にしては我()が恋ふる 木路()にありとふ 名に負ふ勢の山

 
 阿閇皇女は、背ノ山を越える時、草壁皇子を偲んだ。背ノ山を越えると紀伊国である。船で紀ノ川を下れば、背ノ山と妹山の間を抜けるとやがて川幅が広がり紀伊國の風景が広がる。

「紀伊国への路に有るという背ノ山のことは倭でも聞いていました。川を挟んで妹山と向き合っている背ノ山をぜひとも見たいと日頃から思っていたのです。これがその名のとおりの背ノ山、そうなのですね。(背ノ山をやっと見たのだが、我が身は背の君を失っているので、背ノ山と聞くと草壁皇子を思い出して切ない。紀伊國の背ノ山が川を挟んで妹山と向き合ってはいるのは、まるで川を渡れない私と夫のようではないか)」夫を失って一年、まだ皇女の歌には喪失感が漂っている。女帝と皇女は草壁皇子を偲んで紀伊国でともに泣いたのであろう。持統天皇が異母妹で息子の妻の阿閇皇女を連れて紀伊国に行幸したのは、皇女を励ますためでもあったろう。そして、もう一つ目的があった。

持統帝は未だ悲しみの癒えない嫁に、この行幸で伝えたいことがあったのだ。同じ持統四年の紀伊国行幸の時の川嶋皇子の歌が、その事を示している。川嶋皇子の歌は巻一の34首目で、阿閇皇女の歌の一首手前にある。そこには何と有間皇子事件が詠まれている。

a0237545_14155303.png


㊶ 
 紀伊国に幸す時、川嶋皇子の御作歌 或は山上臣憶良の作という

34 白波の濱松が枝()手向け草 幾代(いくよ)までにか年の経ぬらむ

川嶋皇子の父は天智天皇、母は色夫古(しこぶこの)(いらつめ)姉は大江皇女である。大江皇女は天武天皇の妃となり、長皇子・弓削皇子を生んでいる。

「懐風藻」伝によると川嶋皇子は大津皇子と莫逆(ばくぎゃく)の契を結んでいたが、天武天皇崩御の後の十月、大津謀反を朝廷に密告した。その事で大津皇子は死を賜っていた。この密告の年・朱鳥元年八月には、川嶋皇子は「封百戸」を与えられている。持統天皇の信任厚かったということだ。持統五年(691)にも「封百戸」を与えられているが、同年九月に薨去した。それは、上記の紀伊国行幸の翌年のことである。

皇子川嶋のこの歌は、明らかに有間皇子事件の悲劇性を詠み、御霊を慰めている。「白波が寄せる浜辺の松の枝を神に手向けるように結んで祈ったという有間皇子。あの事件からいったい何年たったことだろうか。皇子のことを思うと心が痛む。幾年過ぎても皇子を忘れることはない」という大意になる。然し…

川嶋皇子は三十年前の有間皇子事件を生まれていないので知らないはずである。が、「幾代までにか年の経ぬらむ」と有間皇子を偲んだ歌を詠み、「紀伊国に幸す時」だから公的な場で持統天皇に献じたのであろう。すると、はたまた違和感が漂う。川嶋皇子の御作歌が詠まれた持統四年(690)は、前年に皇太子である草壁皇子を失った後の行幸であるのに、草壁皇子ではなく有間皇子を偲ぶとはどういうことだろうか。

有間皇子事件を知らない川嶋皇子が、なぜ「結び松」を詠んだのか

a0237545_21023404.png
㊷ 川嶋皇子の歌は、天皇の行幸に従駕して献じたものであるなら、行幸先の土地を誉め旅の無事を祈る歌になるはずだが、持統四年の行幸では有間皇子の霊魂を鎮めているのだ。

この時の行幸に従駕して献じられた歌は巻二「挽歌」にも残されているが、やはり有間皇子を偲ぶ歌である。行幸の目的は、有間皇子の霊魂を鎮めるためだったことになる。題詞に『紀伊国に幸す時、川嶋皇子の御作歌。或は山上臣憶良作ると云う』とあり、歌の左下にも『日本紀には、朱鳥四年庚寅の秋九月に、天皇紀伊国に幸すという』という脚がある。『紀伊国行幸』が題詞と左脚の両方に書かれているのは、これが事実であることを強調しているのだろう。此処の朱鳥四年の紀伊国行幸に関しては、巻一には阿閇皇女の歌と二首だけしか見当たらないが、あとは巻二の「挽歌」に掲載されていて、この紀伊国行幸が有間皇子を偲ぶ旅だったのは揺るがないのである。

 また、川嶋皇子の一首(三四)とよく似た歌は、巻九の「山上の歌一首」である。

1716 白波の 浜松の木の 手むけ草 幾世までにか 年は経にけむ(巻九)

左下の脚に「或は川嶋皇子の御作歌という」とある。山上とは、山上臣憶良のことである。この年、憶良も持統天皇に従駕して紀伊国に旅をしているので、その時のものであろう。なぜ、二人の人物の名が必要だったのだろうか。元歌は山上の方だが、川嶋皇子の御作歌なら更に無実の有間皇子の悲劇性を強調する、と万葉集編者は考えたということか。川嶋皇子が有間皇子を思うという姿が必要だったということだろうか。

有間皇子の事件からは三〇年以上のかなりの時を経過しているが、大津皇子事件からはわずか四年である。その記憶は誰にも新しいはず、まして川嶋皇子には生々しい記憶のはずである。

万葉集の編集意図としては、有間皇子の無実を際立たせるために大津皇子謀反事件の密告者である川嶋皇子の歌が必要だと判断したから、巻一の「雑歌」34に川嶋皇子の歌が置かれたのだろう。それも、持統天皇の前で公的に詠んだというのである。

つまり、朱鳥四年の紀伊国行幸に従駕した川嶋皇子の歌には、『わたしは大津皇子の謀反を許さなかったが、有間皇子の謀反は無実であると知ったので、このようにあの結松を見て、何年たったのだろうかと古に思いをはせたのだ』と持統天皇に献じ、更に、『親友を裏切ったあの皇子川島でさえも有間皇子を偲んでいる。有間皇子事件は誰にも痛ましく思われるのだ』と周囲にも伝えているのだ。

それにしても、万葉集で「持統天皇の紀伊国行幸時」の詠歌となると従駕者が「有間皇子を悼む歌」となるのは、皇子の魂鎮めだけでなく、持統天皇との並々ならぬ因縁もありそうである。

わたしは度々持統天皇と有間皇子の関係を取り上げている。如何なる縁があるのかを。

持統天皇は天智天皇の近江朝を偲び、その霊魂を鎮め続けた


㊸ 
漂う霊魂を鎮めたのは持統天皇

 阿閇皇女と川嶋皇子の歌は重いが、これだけが重たいのではない。川嶋皇子の歌の前には、高市古人の二首があり近江朝を偲ぶ歌となっていて、その前には「近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂が造る歌」の長歌と反歌が置かれている。持統天皇の御製歌「春過ぎて」の後には、何と近江朝を偲ぶ歌が続くのである。そして、阿閇皇女の歌に至る。勢能山(背の山)の歌まで「失った人=すぎにし人」を偲ぶ歌が続くのである。

  高市古人(黒人)、近江の旧(ふる)き都(みやこ)を感傷(かな)しびて作る歌

32 古(いにしえ)の人にわれあるや 楽浪(ささなみ)の故(ふる)き京(みやこ)見れば悲しき

33 楽浪の 国つみ神の うらさびて 荒れたる京(みやこ) 見れば悲しも

34 白浪の 濱松が枝の 手向け草 幾代までにか 年の経ぬらむ

35 これやこの倭(やまと)にしては我が恋ふる 木路(きぢ)に有りとふ名に負ふ勢の山

高市古人は「私は昔の人なのであろうか、まるで昔の人のように昔のものを見ると様々に思い出されて悲しい気持ちになる」と近江朝を追慕した。

32~35までの歌は、古の人を思うという意味で並べられたものだろう。ここに云う古とは、「近江朝の天智天皇」と「紀伊国に護送された有間皇子」と「阿閇皇女の夫である草壁皇子」の時代で、持統天皇が繰り返し懐かしんだのはこの三人であり、近江国と紀伊国だったということ、それは万葉集の中で一貫している。持統天皇はひたすら近江朝を懐かしむのである。

a0237545_21114931.png

㊹ 
人麻呂は、公的な場で近江朝を偲んだ。そして、個人的にも近江朝を偲び続けた。本来なら、現王朝の臣下として前王朝を偲び続けるなんてありえない。然し、誰にも遠慮する必要がなかった。持統天皇が望んでいたのだから。


a0237545_21160343.png

㊺ 
巻三の人麻呂の歌の隣にある歌。264,265,266番歌を見よう。

真ん中に挟まれるのは、長忌寸意吉麻呂の歌になる。歌の中身も、場所も前後の人麻呂の歌とずれている。編集の仕方がイビツで、何らかの編集意図が働いていると思われる。人麻呂の歌は、何故か、万葉集中にバラバラになっているのである。

持統天皇の絶大な信頼を得ていた柿本朝臣人麻呂。だが、集中の人麻呂の歌はバラバラにされている。人麻呂の歌がバラバラにされた理由は、後世に再編集した為に他ならない。


a0237545_21015805.jpg
人麻呂は近江朝と難波朝の歌物語を万葉集に展開していたと、わたしは思うのです。それが分からないように、歌はバラバラにされていると思うのです。
明日は、初期万葉集のクライマックスです。そこに掲載された歌は、万葉集を考えるうえで大切なポイントなのです。
では。また明日。


 歴史ランキング

[PR]
by tizudesiru | 2018-05-22 00:06 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback
トラックバックURL : https://tizudesiru.exblog.jp/tb/238527852
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


by tizudesiru

プロフィールを見る
画像一覧

記事ランキング

最新の記事

法隆寺釈迦三尊像の台座の落書..
at 2018-09-03 13:12
法隆寺は藤ノ木古墳をミササギ..
at 2018-08-31 13:18
「聖徳太子は阿毎多利思比(北..
at 2018-08-11 22:05
消えた天神社の信仰を「肥後国..
at 2018-08-05 20:02
法起寺式と呼ばれる飛鳥時代の..
at 2018-08-02 10:08
纏向遺跡のフイゴの羽口は九州..
at 2018-07-30 10:35
玉垂社と黒男社、どちらも武内..
at 2018-07-23 15:02
金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡を手に入れ..
at 2018-07-22 22:18
だんわら古墳のこと、聞いたこ..
at 2018-07-21 23:43
日田の山間に高住神社がありました
at 2018-07-20 20:45
奥野正男かく語りき「邪馬台国..
at 2018-07-20 00:27
大原神社の元宮を訪ねました
at 2018-07-17 20:15
日田の総社・大原神社の130..
at 2018-07-13 16:19
新田神社の末社(みささぎ神社..
at 2018-07-10 10:16
天火明命を祀る川合陵神社にい..
at 2018-07-09 11:25
菅原道真は生き延びたのですか..
at 2018-07-07 14:27
鹿児島の新田神社に行きました
at 2018-07-06 00:13
蘇我氏の出自・彼等は何処から..
at 2018-06-22 00:33
石舞台は家形石棺・九州では石..
at 2018-06-15 21:00
古墳から石棺が消える時、筑紫..
at 2018-06-14 15:54

カテゴリ

全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1祭祀線で読む大宰府の位置
2祭祀線で見る竹原古墳
3祭祀線が交叉する間夫という山
4祭祀線で知る筥崎八幡宮
5祭祀線で弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
7祭祀線で読める八女丘陵の古墳のライン
8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
103安心院の妻垣神社
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」

画像一覧

以前の記事

2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2014年 07月
2013年 10月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 05月
2013年 02月
2012年 11月
2012年 09月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月

タグ

フォロー中のブログ

絵本ぶろぐ

最新のコメント

WEB小説「北円堂の秘密..
by omachi at 12:25
観世音寺絵図に、碾磑(み..
by 尊敬します at 19:36
oh! 「すべて」展や「..
by 尊敬します at 23:30
筑紫野市さんへお伝えくだ..
by 尊敬します at 23:36
何時もありがとうございま..
by tizudesiru at 21:33
拝殿でお神楽をやっていた..
by 尊敬します at 23:00
> 宮原さん ありがと..
by tizudesiru at 20:17
宮地嶽神社の扁額の文字は..
by 宮原 at 10:33
たぶん、夾紵棺の技術、大..
by 尊敬します at 22:58
もう読まれましたか。 ..
by 大町阿礼 at 21:21
> 名無しさん ほんと..
by tizudesiru at 11:55
> aさん コメントあ..
by tizudesiru at 11:20
郭務宗が二千人の人々を率..
by 名無し at 09:10
間夫という山名は鉱山に関..
by a at 01:51
いつも楽しく拝見させてい..
by 尊敬します at 23:15
>いつもありがとうござい..
by tizudesiru at 20:27
弥生の風公園のわら細工の..
by 尊敬します at 22:29
> コメントありがとうご..
by tizudesiru at 23:06
建物の遺構もさることなが..
by 暇人 at 22:48
ごめんなさい。 楼閣じ..
by 尊敬します at 00:10

検索

メモ帳

その他のジャンル

外部リンク

ファン

ブログジャンル

歴史
旅行・お出かけ