万葉集3・4番歌は、もともと難波天皇の儀式歌だったのではないか

「すぎにし人の形見とぞ」の続きです。
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「初期万葉集」を一言でいえば「皇統の歴史書」であり、持統天皇の意思が込められた教育書であります。それを人麻呂の歌に使われた詞、魂を呼び寄せる詞「すぎにし人の形見とぞ」が解き明かしてくれるのです。
今、読んでいるのは、万葉集の巻一です。皇統の歴史書として読んでいます。「舒明・天智・持統とつながる天香具山の皇統」を文武天皇につなげようとしていたと、理解して読みを進めています。

今日は、巻一の3・4番歌から始まります。

万葉集3・4番歌の中皇命とは間人皇后
中皇命(間人皇后)は、難波天皇への儀式歌を間人連老に献じさせた

⑳ 万葉集巻一の3番歌「天皇、宇智の野に遊猟(みかり)したまふ時に、中皇命の間人連老(はしひとのむらじおゆ)をして献(たてまつ)らしめたまふ歌」を読む。

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中皇命(なかつすめらみこと)とは誰か。舒明天皇の皇后の皇極天皇とも、娘の間人皇女とも、以前から様々な説がある。間人皇女であれば、十歳そこそこの少女と云うことになる。

うら若い姫だったので、代わりに間人連老に歌を献じさせたというのである。老(おゆ)は、同じ「はしひと」の姓を持つが、皇女の同族と云う意味ではない。間人皇女を守り育てる経済的支えを「間人氏」が担っていたので、皇女を「間人皇女」と詠んだのである。間人氏が、養育担当の壬生部だったのである。

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宇智の大野での遊猟(みかり)の儀式は、何だったのか

㉑ 万葉集の3番歌は、中皇命が奉らしめた歌である。高市岡本宮御宇天皇=舒明天皇への献上歌になっている。当然、公の儀式で使われた歌となる。何の儀式なのか? 単なる遊猟(みかり)には思えないが。 弓で中筈の音を立て邪気を払う儀式は、天皇即位の儀式で行われた。元明天皇の即位儀式の時の歌に「ますらおの鞆の音すなり もののべの大臣 楯立つらしも」という76番歌がある。

 ここで問題なのは、中皇命が本当は幾つなのかと云うことである。舒明天皇の遊猟ならば、十一、二歳である。其の年齢では幼ずぎるから、間人連老に代わりに献上させたという解説がある。だが、そもそも大切な儀式に若い姫を参加させたのなら、違和感がある。

題詞には「間人皇女」ではなく「中皇命」=「天皇の玉璽を預かった人」と書かれている。中皇命という立場の女性が歌を献じさせ儀式を行っているのなら、答えは一つ。これは、新大王の即位の行事の一つであるでは、誰の即位なのか。もちろん難波宮御宇天皇、有間皇子に他ならないだろう。

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㉒ わたしの読み取りでは、これは孝徳天皇より玉璽を預かった中皇命が「次の大王となるべき遊猟の儀式」をする時、唐から帰った間人老に奉らせたとなる。間人皇后=中皇命としての解釈した理由であるが、他の巻の歌とも関わるのでその事は後述したい。(このブログでは幾度か書いている)

巻一の5.6番歌は、讃岐国に幸す時に軍王が山を見て作る歌である

㉓ 次は、万葉集巻一の5~6番歌「讃岐国行幸」の時の歌である。ここは史実とのすり合わせが十分ではないので、紹介しない。しかし、この天皇と四国との縁は深いようだ。


額田王は皇極天皇の傍近くで大事件を目撃した

㉔7番歌は皇極天皇の御代の歌である。額田王は「宇治の京」を詠んでいるが、「京」とは天皇=大王の住いが在る処 のはずなのに、宇治天皇は歴史には登場しない。では、なぜ、額田王は「宇治の京」を詠んだのか。「あの時、あの方が秋の野の美草を刈り取り、一夜の仮庵の屋根を葺いて旅宿リされた。あの宇治の京の仮庵のことが思い出されてならない。」と詠んだ。どんなことがあったのか。

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架空の物語ではなく、ある出来事を詠んでいるのだが実態が見えないのである。脚注には「大化四年(648)年に皇極上皇が近江の比良の宮に行幸した時の歌の御製と類聚歌林にある」と書かれている。「宇治の京」の歌は額田王の作ではないかもしれないというのである。額田王の歌と題詞に書かれた四例のうち三例までが「或は天皇の御歌」となっている。

「宇治の京」の歌が額田王の歌だとしても、またもや年齢の問題が起こってくる。この時、十代の娘ということになるのである。額田王は非常に若い時から皇極天皇の傍で歌を詠み、この後は天智天皇の傍で歌を読み続けることになるという才女だったようだ。

7番歌に続く8・9番歌も、額田王の歌となっている。

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㉔ 巻1の7~9番歌は、額田王の歌になっているが、それぞれ詠まれた時期が違うのである。

7番歌では、皇極天皇の時、宇治の都を詠んでいた。

8番歌と9番歌は重祚した斉明天皇だが、時期が逆になっている。百済救援(661)に出かけたまま斉明天皇は崩御となられるから、斉明天皇の紀伊国行幸(658)は船出の前の有間皇子事件があった時の行幸になる。本来は、9番歌・8番歌の順であったはずである。意識して入れ替えているのだろう。

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㉕9番歌が入れ替えられたのは、次の10・11・12番歌と関わらせるためである。

 9番歌は紀伊国行幸の時の歌である。二句には定まった読みがない。


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読みが定まっていない漢字には「しづまりし うらなみさわく」という読みがつけられています。他に「ゆふつきの あふきてといし」「ゆうつきの かげふみてたつ」「みよしのの山みつつゆけ」「紀ノ國のやまこえてゆけ」「しづまりし 神ななりそね」「ゆうつきのかげふみてたつ」などなど。(紀ノ國のやまこえてゆけ? なぜこのように読めるのか、分からないのである。)


額田王は斉明天皇の傍近くに仕えていた時、大きな事件を歌に詠んだ

7番歌は「明日香川原宮天皇の御代」で、皇極天皇代である。「京」とは、天皇=大王の住いのある処のはずなのに。宇治天皇は歴史には登場しない。では、なぜ、額田王は宇治の都を詠んだのか。「あの時、あの方が秋の野の美草を刈り取り、一夜の仮廬の屋根を葺いて宿リされた」この天皇は果たして誰なのだろうか。

万葉集の巻一の7・8・9・10・11・12番歌から、万葉集が何を伝えようとしているのか。歴史の闇に消された事実が見えるのではないか。斉明天皇の御代の大事件は有間皇子事件であろう。それは、皇位継承にかかわる事件だったと思われる。


9番歌 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾が瀬子がい立たせりけむ いつかしが本


㉖ 9番歌は紀伊国行幸の時の歌である。二句には定まった読みがないというが、実は、額田王は故意に詠めなくしたのではないか、という解釈もある。此処に額田王の本音があるのではないか、というのである。 読めないような漢字を使ったのなら、漢字そのものを読んでみてもいいと思う。
(個人的な読みは既にブログで紹介している)

 忘れてはならないのは、この歌は「斉明天皇の紀伊国行幸に従駕しての歌」と云うことである。額田王の歌の題詞には「幸(みゆき)」と云う字があるから、天皇の行幸時の歌である。

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斉明天皇の「紀伊国行幸」時の額田王と中皇命の歌が並んでいる。10番歌~12番歌は中皇命の歌で、紀温泉に往った時の歌なのである。ただし「幸す」と「往す」と「いでます」の字が変えてある。「中皇命、紀温泉に往す時」は、天皇の行幸について行ったのではない。

では、中皇命は、何をしに紀伊温泉に往ったのか。(また、12番歌には「天皇の御製歌」という、異説があるが、誰天皇の御製なのか。)

玉璽を預かった間人皇后が、護送された有間皇子を紀伊温泉に追って往った時の歌が、3首も続けて巻一に掲載されている


㉗ 紀伊国行幸の10・11・12番歌の中皇命であるが、巻一には、中皇命という女性が二度登場する。同じ巻一に登場するので、同一人物と考えられる。別人であれば、脚注がつくはずだから、この巻一の中皇命は「斉明天皇」ではありえない。


そもそも、この歌の意味は、「あなたと私がいつまで生きられるか分からないけれど、この岩代の草はそれを知るかもしれない。さあ、草を結んで神に命永からんことを祈りましょう」という歌意である。「私の大切な方が借廬を作っておられます。草が足りないのであれば、先ほど神に祈った子松の下の草をお刈りくださいませ」この次に、12番歌がある。

しかし、後世の人は、12番歌の位置と意味が分からなかったらしい。「私が見せたいと思っていた野嶋は見せた。だが、底深い阿胡根の浦の真珠を拾いたかったのに拾わなかった」この歌は何だ? どういう意味で此処に置かれたのだ? と疑問を懐いたらしい。いえいえ、ここはポイントで、この歌を読んだのは「中皇命ではなく天皇だ」と脚注があるのをみのがしてはならない。ここには敬語も使われていないので、中皇命が目下の者に向かって詠んだと解すべきだろうか。いえ、ここは高貴な人(難波天皇)が中皇命に向かって読んだとするほかはない。

つまり、この三首は相聞歌であろう。岩代に護送されてきた難波天皇と中皇命の相聞歌なのである。

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(和歌山県・白浜海岸の有間皇子之碑)

㉘ 書紀では、斉明四年11月、有間皇子は蘇我赤兄の罠に落ちた。11月3日赤兄が有間皇子に近づき、5日密談をした夜中に、守君大石(もりのきみおほいは)、坂合部連薬(くすり)、塩屋連鯯魚(このしろ)と共に有間皇子は捕らえられ紀伊温泉に送られた。9日、牟婁の湯(和歌山県・白浜)での中大兄との会見の後、いったん許されたように見えたが追っ手がかけられ、11日に有間皇子は藤白坂で絞刑に処された。舎人新田部連米麻呂と孝徳帝の忠臣であった塩屋連鯯魚は藤白坂で斬られ、他は流罪になったと書かれている。

孝徳帝の忠臣であった塩屋連鯯魚は殺される時に『願わくは右手をして、国の宝器を作らしめよ』と言ったという。この書紀の記述の意味は何だろうか。文官の鯯魚(このしろ)がいう「国の宝器」とは、律令の仕事以外には考えられないではないか。彼は、文官として自分の仕事を続けたかった。それは、有間皇子に従って難波宮で行っていた仕事以外には考えられない。当然、有間皇子は文官をつかった行政のトップにいたと云うことになる。


7~12番歌(額田王と中皇命の歌)から読めることのまとめ

万葉集は「持統天皇が孫の文武天皇の為に皇統の正当性と歴史を分かりやすく編纂させた歌物語」歴史書であると、初めに述べている。すると、7~12番歌で詠まれた有間皇子事件は、皇統の歴史にとって重要だったと云うことになる。少なくとも、持統天皇はそのように考えたのである。


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この事件が、持統天皇の胸の裡から消えることはなかった。
持統天皇と有間皇子の縁は深いのである。

また、明日。
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by tizudesiru | 2018-05-22 00:08 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback
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232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
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256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
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263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
314草壁皇子と天智天皇の関係
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係

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