万葉集の二番歌は舒明天皇の国見歌

「すぎにし人の形見とぞ」の続きです。
 此の話の主題は「万葉集は、持統天皇が孫の文武天皇のために皇統の正当性とその苦難の歴史を伝えるために、柿本人麻呂に編集させた皇統の歴史書であり、教育書である。」でした。
 では、万葉集巻一には、何が書かれているのか。その事で何が分かるのか、ですね。少しずつ紹介しています。

前回は、雄略天皇(泊瀬朝倉宮御宇天皇)の万葉集冒頭歌の紹介をしました。
この歌が本来の「初期万葉集の冒頭歌」であったのなら、泊瀬朝倉宮御宇天皇は持統天皇にとって意味があったのですね。
今日は、万葉集の2番歌・舒明天皇の国見歌です。

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今日は「すぎにしひとの形見とぞ」の⑦~⑮まで紹介します。

三人の天皇は、なぜ小さな香具山を詠んだのか
統治者として舒明天皇は天香具山から国見をした

⑦では万葉集の2番歌、舒明天皇の歌を読もう。舒明天皇は天智帝・天武帝・間人皇后の父であった。

舒明天皇の2番歌『国見歌』、天香具山に登って国見をしたという歌である。

香具山は、藤原宮の東の御門を守ると詠まれた山で、耳成・畝傍と並ぶヤマト三山と呼ばれる山の一つ。香具山を詠んだ天皇は、三人。舒明天皇・天智天皇・持統天皇、三人は香具山でつながるようだ。

 香具山の中腹には、舒明天皇の万葉歌碑がある。本格的に明日香に入った最初の男性天皇であるから、別に不思議ではない。つまり、歴代天皇の宮は明日香にはいなかったのである。舒明天皇の祖父の敏達帝は河内長野や桜井に宮があり、陵墓は河内磯長中尾陵である。敏達帝の皇后だった推古帝が蘇我氏との関係で明日香と橿原を宮とし、明日香に女帝の宮が造営されたと書かれている。

推古帝の遺言で大王となった舒明王家にとって、香具山は天降りの山・舒明皇統の始まりの聖地となったので、神聖な氏山として天の香具山と呼んだと思われる。

すると、舒明天皇が「香具山からの国見歌を読んだのは何故か」の答えは簡単に分かってしまった。秘密でも何でもない。もちろん、これは謎でも秘密でもない。ただ、舒明天皇は何処の出身だろうか。

簡単にいうと、舒明天皇はよそ者である。飛鳥の地に侵入して来たから「国見」をしたと、なる。

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舒明天皇の皇統は香具山を神山とした

⑧ 「天皇、香具山に登り国を望む時の御製歌」

2 ()はむら山あれど とりよろふ天の香具山のぼり立ち 国見をすれば国原は 煙立つたつ海原はかまめ立つたつ うまし国ぞ(あきづ)(しま)八間(やま)()の国は

「大和には群がるように山々があるけれど、鳥もよろけるという神の山・天の香具山に登り立ち、国見をすれば国原から煙が盛んに立ち上がっている。海原からはカモメが盛んに飛び立っている。豊かな素晴らしい国であるぞ。あきつしま大和の国は」

 足元に広がる国原を見渡す大王の国見歌である。 舒明天皇が詠まれた香具山は神山であるので、この天皇家は香具山を氏の守りの山としたといえる。今でも香具山に登ると山頂に)(とこ)(たち)命が祭られていて、中腹の説明板『名称大和三山・香久山』には、『(略)天香具山、畝傍山と耳成山、この三つの山は古来、有力氏族の祖神など、この地方に住み着いた神々が鎮まる地として神聖化され、その山中や麓に天香山神社、畝火山口坐神社、耳成山口神社などが祀られてきました。
天香具山は天から降ってきた(伊予国風土記逸文)
(略)香具山は伊予国風土記逸文に「天から降ってきた」という伝承が残っており、「天の香具山」とも呼ばれています。万葉集において「天」という美称がつけられた山は香久山だけで、このことから多くの山の中でも特別な位置付けを持っていたと考えられます』と案内板に書かれている。

案内板にあった伊予国風土記逸文にある「天から降ってきた」という文は気になる。(舒明天皇の出身地は伊予国だというのだろうか
また、萬葉集の巻一の6番歌の脚に「舒明天皇は讃岐に行幸されたことはないが、天皇の十一年に伊予の湯に行幸されたことはある」とあり、8番歌「熟田津に」の額田王の歌の左脚に、「御船、伊豫の熟田津の石湯行宮に泊られた。(斉明)天皇、昔日の物が猶ものこれるのを御覧になり、その時たちまちに感愛の情を起され、その故に歌を作り哀傷された」とある。斉明天皇が亡き夫を想い出して歌を詠んだというのである。舒明天皇と伊予の結びつきは深いのではなかろうか。(正史には出て来ないが、舒明天皇と伊予の縁は深いようである

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舒明天皇の百済大寺も天香具山の南に移された

 香具山の南に造営された寺だが、香具山の南に大官大寺跡がある。舒明天皇が建立したという百済大寺を、神聖なる香具山の南に移したと考えることができる。やはり、舒明天皇の皇統の寺として、移す必然性があったのだろう。

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「日本書紀」や「大安寺伽藍縁起」などによると、「だいかんだいじ」または「おおつかさのおおでら」と記されている。百済大寺から高市大寺から大官大寺に移り、平城京の大安寺へと変遷している。南から北へ中門・金堂・講堂が並び、中門と金堂をつなぐ回廊の中の東部に塔を配する伽藍配置であった。
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藤原宮御宇天皇の時代の官寺として活躍した

古代は、何処に墓を造るか、宮を建てるか、どの山を神山として祖先祭祀をするか、大事なことだったのです。
舒明天皇が国見をした天香具山を神山として、大官大寺は移されたと云うことですね。藤原宮御宇天皇の持統天皇と文武天皇にとって天香具山は神山でした。

伊予国風土記逸文に「香具山が天から降ってきた」と書かれたのですね。天香具山が伊予から来たのなら、舒明天皇の出身が伊予国だというのでしょうか。

万葉集に書かれていることと、日本書紀に書かれていることが食い違うので、脚注が入るのです。しかし、書かれてから数十年しかたっていないのに、もう分からないことだらけだったのですね。


では、中大兄の「三山歌」を読みます。

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「すぎにし人の形見とぞ」の⑪に戻ります。

⑪ さて、香具山が神の山であることはわかったが、他の畝傍と耳成はどう読まれているだろうか。

畝傍山は男性と解釈されたり、女性と解釈されたり、説が分かれる

原文では、「畝傍を惜し」を万葉仮名で「雲根火雄男志」と表記されている。故に、解釈が二通りある。

長歌の大意を日本古典文学大系の万葉集では、『香具山は畝火山(男性)を男らしく立派だと感じて、その愛を得ようと耳梨山と競争した。神代からこうであるらしい。昔もこのようであったから、現世でも一人の愛を二人で争うことがあるものらしい』となっている。

万葉集釋注では『香具山は、畝傍(女性)を失うには惜しい山だとして、耳成山と争った。神代からこんなふうであるらしい。いにしえもそんなふうであったからこそ、今の世の人も妻を取り合って争うのであるらしい』と解釈し、両者は男女が入れ替わる読み取りになっている。読みの都合上(男性)と(女性)の言葉をを挿入してみた。

中大兄のこの歌は本来二人の男性が争ったのか、二人の女性が争ったのか、気になるところであるが、中大兄の歌で見逃せないのは、三山を擬人化していることである。これは、たとえて遊んでいるのではなく、現実を表現しているはずである。

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香具山と耳成山が奪い合った畝傍山の姫は、いったい誰だったのか

⑫ つまり、三山に象徴される氏族があり、中でも香具山を神山とする新興勢力が政権を握っており、同じく耳成山を神山とする新興勢力と対峙している。そして、畝傍を神山する伝統的王族を取り込むことで権力が強固なものになろうという歌の意図なのだ。香久山は、畝部山一族の姫を妻に迎えようと耳成山と争っているのである。古代の権力の組み替えは、伝統的王家の血筋の娘を手に入れることで決まったというのだ。

たしかに、中大兄が額田王を大海人皇子と争ったという説がある。額田王は初め大海人皇子との間に娘をもうけ、後には天智帝のもとに仕え挽歌まで奉っている。すると、畝傍山に象徴される姫は額田王というのだろうか?

(更に、15番歌は反歌として他者が付け加えたとされている。「渡津海の豊旗雲に」の歌は堂々としていて、これほどの歌を詠める歌人は誰なのか様々な説があるが、額田王詠歌という学者もいる。古典文学大系は大意を「大海の豊旗雲に入日の射すのを見た今夜は、月も清かに照ってほしいものだ」と、三山の争いが終わったので、海神がたなびかせた豊旗雲を見た印南国原の神は晴れ晴れとした気持ちになったというのだ。が、三山歌の反歌として「わたつみの豊旗雲」は不釣合な気もする。

また、この歌の題「中大兄、三山の歌」であるが、何故か「皇子」の文字が欠けていて、御製歌とも書かれていない。これは、中大兄皇子がぞんざいな扱いを受けたということか。または、「長子という立場をあらわす大兄(古人大兄皇子)」の次という「二番目の長子」という意味と位置を「中大兄」が表しているだけなのか…)

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畝傍山と本薬師寺の祭祀線と持統天皇

藤原宮の西に畝傍山。この山を神山とする氏の姫を迎えることが重要だと、「三山歌」には詠まれている。
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創建時の伽藍の大きさが想像できる礎石群。本薬師寺(もとやくしじ)は、奈良県橿原市の東南に位置する藤原京の薬師寺と呼ばれた寺院。後に持統天皇となる皇后の病気平癒を祈って天武天皇が建立を誓願した官寺である。平城京遷都で薬師寺が西ノ京に移ると、西ノ京の「薬師寺」と区別するために「 薬師寺」と称されるようになった。本薬師寺は「元薬師寺」とも記されるほか、平城京に造営された薬師寺(平城京薬師寺)に対して、「藤原京薬師寺」などとも呼ばれる。これまでの発掘調査により、およそ11世紀初頭まで存続していたことが認められている(ネットでは上記のように紹介されている)

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(東塔址)

⑮耳成と香久山が争った畝傍山。では、畝傍姫とは持統天皇なのか?

本薬師寺は、薬師寺が平城京に移動した後、11世紀まで残った。この寺が、持統皇后の病気平癒の為に建てられたのなら、持統その人は畝傍山系氏の所縁の姫であることになる。

なぜなら、現在は基壇しか残されてはいないが、その基壇は畝傍山と直線で結ばれるからである。本薬師寺の東西の塔は畝傍山の山頂と並ぶ。将に、畝傍の姫を争ったのは誰と誰なのか。(想像がつきますね。更に、畝傍の関係氏族は、東西の太陽を祀る人々だったと考えられる。)
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(西塔址と畝傍山

持統天皇は香久山を詠んで、文武天皇の皇統を示した

⑯ では、巻一28番歌。これが、持統天皇の香具山の歌である。持統天皇が畝傍姫だとしたら、何故香久山を詠んだのか、不思議である。考えられるのは、畝傍姫である持統帝が「香具山の皇統の世を寿いで詠んだ歌」でいるということだ。

28 春過ぎて夏来るらし 白妙の衣乾したり 天の香具山 

誰もが聞いたことがある持統天皇の御製歌であるが、この歌の解説を読むとなぜか頭の中がすっきりしない。「初夏の風の中に翻る真っ白い衣が、青々とした夏の香具山に映える様子を詠んだはつらつとした叙景歌」だという。『万葉集には叙景歌はほとんどなく、出来事や行事を詠んだ詩歌のほとんどが叙事詩である』といいながら、万葉学者は「春過ぎて」は叙景歌で『万葉集の中ではかなり異質の新しい作風である』というのである。いえいえ、この歌は叙景歌ではないと、わたしは思う。

この歌を詠んだ持統天皇は四五才過ぎの老婦人なのだから、はつらつとした歌を詠んだとしてもやや違和感は残る。持統天皇は壬申の乱・天武天皇の崩御・大津皇子謀反事件・息子草壁皇子の死・高市皇子の薨去などを乗り越えて即位した女帝である。やがては孫の軽皇子に譲位しなくてはならないという重責もあった。その女帝が、耳成山ではなく、藤原宮の東に位置する天の香具山を詠んだ。女帝と香久山、畝傍姫が何ゆえ香久山を詠んだのか。そこにあるのは、舒明・天智の皇統をつなぐのだという意思。それしかない。
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耳成山は藤原宮の北を守る守護神の山であり、高市皇子の神山である


⑰ 更に、耳成山である。

そもそも、持統帝の藤原の宮の北を守るのは、耳成山である。耳成山は何処からも見える神山である。
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⑱ 耳成山の真南に、二つの墳墓が造営された。耳成山の真南に在るには、中尾山古墳と高松塚古墳だが、中尾山古墳が、真の文武天皇陵なのであれば、高松塚を遮るように作られたといえるのではないだろうか。
このように、寺社や陵墓の位置から読めるのは、皇統の人間関係である地位なのである。
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⑲ では、天武持統陵はどのような位置に在るのか藤原宮大極殿の南に在るのは野口王墓。

野口王墓は京都府山城の天智天皇陵の真南に位置する。何も意識しないで、測量もしないで、離れた二つの墓を造営することはできない。これを実行したのは、文武天皇である。文武天皇も持統天皇も、天智天皇を大事にした。これは、ゆるぎない事実である。

「天の香具山を詠んだ三人の天皇」の結論として言えること

持統天皇・舒明帝・天智帝は同じ皇統を主張している。

確かに、この三人の天皇は八角墳に埋葬されているし、陵墓の形式も共通する。

壬申の乱を経て成立した天武朝は明日香に宮を造営したし、持統帝は藤原宮御宇天皇なのである。確かに畝傍を西に香具山を東に置いて藤原宮が造営されていると、万葉集にも長歌が残されている。だが、天武朝の氏山は耳成山のはずである。野口王墓(天武持統合葬陵)、高松塚古墳(高市皇子説)、キトラ古墳(舎人皇子説)などは、耳成山・藤原宮の真南を意識して造営されている。畝傍でも香久山でもないのである。

それなのに、持統天皇はなぜか政権を握った後に耳成山ではなく香具山を詠んだ。なぜ耳梨山を読まないのだ? そして即位の決意はどうなったのだ? なにゆえ持統帝は天智帝を大事にするのだ? と疑問が出てくるだろう。

香具山を「氏族の神祭りの山」とした舒明天皇(国見歌)、中大兄皇子(三山歌)持統天皇(香具山の歌)を紹介した後、香具山を氏のトーテムとする三人は同じ氏族とし、その結びつきは陵墓でもわかるとした。

しかし、持統天皇の漢風諡「持統」は、「天武天皇の皇統を草壁皇子から文武天皇につないだ」という意味とされている。だが、持統天皇自身は、天武朝ではなく舒明・天智の皇統であると「香具山の歌で」主張しているのである。すると、持統」という諡号は天武帝の皇統をつないだ意味ではなく、ほんとうは天智天皇の皇統をつないだ意味になってしまう。万葉集は、そのように解いてくれている。

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今日は。ここまでにします。

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畝傍山が象徴する姫が持統天皇だった?! そうすると、姫を争ったのは天香具山(天智)と耳成山(天武)だと云うことになりますね。
また、明日。


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by tizudesiru | 2018-05-22 00:09 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback
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地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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167持統帝の孫・文武天皇の仕事
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169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
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175草壁皇子の挽歌
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177持統帝と天武帝の絆の深さ?
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181藤原不比等とは何者か(2)
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189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
314草壁皇子と天智天皇の関係
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係

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