倭王済が安東大将軍を望んだ理由
倭の五王は何処に? まだ見つからないのです!
五王の行方を捜すためのいくつかの条件があります
倭王は冊封体制に組み込まれることを望み、軍事に力を入れていた。それは、仮想敵国の高句麗に対抗するためだった。つまり、高句麗と対峙した天皇を探すこと。
倭王は、半島に渡る為ためにも「百済」とは親しくし、高句麗と組みやすい「新羅」には出兵を続けていたと思います。百済にしても、高句麗・新羅の勢力に対抗するためにも倭と友好関係にあることが必要でした。
五王の治世は、賛は22年間、珍は5年間ほど、済は17年間、興は18年間、倭王武は30年ほどでしょうか、武がはっきりしませんが。
中国の宋書の記述で、書紀を見直していますが、やはり、結論は「見つからない」なのでしょうか。探すことが無駄なのでしょうか…それでも、探しています。

年表から高句麗関係を抜き出してみる(卑弥呼死後の年表)と、倭王済の時代も高句麗は大国で、中国の影響を直に受けていました。
高句麗の関係記事に、倭王済の治世(443~460)を入れてみました。
263年、魏滅び、晋(西晋)おこる
266年、倭女王、西晋に朝貢する(壱与の素早い対応が分かる)
302年、高句麗が晋(西晋)の玄菟郡を侵す
316年、高句麗が楽浪郡を滅ぼす。
317年、西晋滅び、五胡十六国時代始まる。東晋おこる
343年、高句麗が前燕に入朝し、叙正される
355年、高句麗、前燕より進号される
372年、高句麗に前秦より仏教伝来
392年、高句麗、公開土王が即位
400年、高句麗、新羅を援助し倭を討つ
413年、高句麗、東晋より叙正される
414年、高句麗、公開土王の碑がたつ
421年、高句麗、宋より叙正
425年、高句麗、宋より進号
427年、高句麗、平譲に遷都
435年、高句麗、北魏に入貢し、叙正される
443年、倭王済が宋に遣使し、安東将軍倭国王となる
444年、倭兵が金城を包囲し、食料が付きて帰る
450年、高句麗が新羅を討つ
451年、倭王済が安東大将軍倭国王に進号する
459年、倭人が月城に進撃したが、破られる
460年、済没し、世子興立ち、宋に遣使貢献する
463年、高句麗、宋より車騎大将軍開府儀同三司を授かる
484年、高句麗、南斉に入貢
倭王済がどんな時代を生きたか想像がつきますよね。彼は倭王珍が成しえなかったことをやりたいと思ったようです。しかし、大きく高句麗が控えていたのです。
こうして見ても、允恭天皇とも思えません。高句麗の記事が允恭記にはないのです。仁徳紀では既に紹介した「十二年、高麗国、鉄盾・鉄的を献上した」と、「五十八年、高麗国が朝貢した」の二件でした。
では、新羅に関してはどうでしょう。
神功(11)応神(6)仁徳(3)允恭(3)雄略(7)継体(10)宣化(1)欽明(28)敏達(6)崇峻(2)推古(12)以下省略
允恭記「允恭三年、使者をやって良医を新羅に求めた。」「允恭四十二年、天皇崩御。新羅王は天皇が既に崩御と聞いて驚き悲しんで調(みつき)の船八十艘と種々の楽人八十人を貢上した。」「新羅の弔問使が喪礼が終わって帰る時「ウネメハヤ、ミミハヤ」と言った。畝傍山と耳成山を誉めたのであるが、采女と通じたと誤解して報告されたので、使者らは捕らえられた。しかし、間違いであったことが分かり許されたが、新羅の使者らはたいそう恨み、貢上物の品種と船の数を減らした。」
新羅の使者は香具山と耳成山を見たと書いてありますが、ここから允恭天皇の時代に新羅に出兵していたとは読めません。
それにしても、海中の小王国が何のために冊封体制に入り、叙正を望み、新羅への侵攻を続けたのでしょうか。いまいち理解が届きません。百済は隣国とはいえ、海を隔てていますから、親交を深めた理由が必要です。
其の理由は何でしょう。強い同盟国と言うだけでなく、倭国との間に婚姻関係があって同族と思っていたのかも知れませんね。
新羅にしても海を越えてまで倭国に侵攻する意味はなかったでしょう。それより、高句麗や百済との交渉が大事だったと思います。
交渉を間違えば戦争になったでしょうから、遠い倭国にかまけている暇はなかったでしょう。
倭国は中国にとっては小国ですから、ほとんど魅力のない夷蛮の徒であったでしょうね。中国の皇帝にとって、「遠い辺鄙な地域からの朝貢は、天子として天に認められたという証」ではあったでしょう。
まだ続きますが、また次回に。
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五王の行方を捜すためのいくつかの条件があります
倭王は冊封体制に組み込まれることを望み、軍事に力を入れていた。それは、仮想敵国の高句麗に対抗するためだった。つまり、高句麗と対峙した天皇を探すこと。
倭王は、半島に渡る為ためにも「百済」とは親しくし、高句麗と組みやすい「新羅」には出兵を続けていたと思います。百済にしても、高句麗・新羅の勢力に対抗するためにも倭と友好関係にあることが必要でした。
五王の治世は、賛は22年間、珍は5年間ほど、済は17年間、興は18年間、倭王武は30年ほどでしょうか、武がはっきりしませんが。
中国の宋書の記述で、書紀を見直していますが、やはり、結論は「見つからない」なのでしょうか。探すことが無駄なのでしょうか…それでも、探しています。
今回は、倭王済です。443~460年の治世だったとすると、443・444・450・451・459・460(没)と記事が拾えます。

年表から高句麗関係を抜き出してみる(卑弥呼死後の年表)と、倭王済の時代も高句麗は大国で、中国の影響を直に受けていました。
高句麗の関係記事に、倭王済の治世(443~460)を入れてみました。
263年、魏滅び、晋(西晋)おこる
266年、倭女王、西晋に朝貢する(壱与の素早い対応が分かる)
302年、高句麗が晋(西晋)の玄菟郡を侵す
316年、高句麗が楽浪郡を滅ぼす。
317年、西晋滅び、五胡十六国時代始まる。東晋おこる
343年、高句麗が前燕に入朝し、叙正される
355年、高句麗、前燕より進号される
372年、高句麗に前秦より仏教伝来
392年、高句麗、公開土王が即位
400年、高句麗、新羅を援助し倭を討つ
413年、高句麗、東晋より叙正される
414年、高句麗、公開土王の碑がたつ
421年、高句麗、宋より叙正
425年、高句麗、宋より進号
427年、高句麗、平譲に遷都
435年、高句麗、北魏に入貢し、叙正される
443年、倭王済が宋に遣使し、安東将軍倭国王となる
444年、倭兵が金城を包囲し、食料が付きて帰る
450年、高句麗が新羅を討つ
451年、倭王済が安東大将軍倭国王に進号する
459年、倭人が月城に進撃したが、破られる
460年、済没し、世子興立ち、宋に遣使貢献する
463年、高句麗、宋より車騎大将軍開府儀同三司を授かる
484年、高句麗、南斉に入貢
倭王済がどんな時代を生きたか想像がつきますよね。彼は倭王珍が成しえなかったことをやりたいと思ったようです。しかし、大きく高句麗が控えていたのです。
こうして見ても、允恭天皇とも思えません。高句麗の記事が允恭記にはないのです。仁徳紀では既に紹介した「十二年、高麗国、鉄盾・鉄的を献上した」と、「五十八年、高麗国が朝貢した」の二件でした。
では、新羅に関してはどうでしょう。
神功(11)応神(6)仁徳(3)允恭(3)雄略(7)継体(10)宣化(1)欽明(28)敏達(6)崇峻(2)推古(12)以下省略
允恭記「允恭三年、使者をやって良医を新羅に求めた。」「允恭四十二年、天皇崩御。新羅王は天皇が既に崩御と聞いて驚き悲しんで調(みつき)の船八十艘と種々の楽人八十人を貢上した。」「新羅の弔問使が喪礼が終わって帰る時「ウネメハヤ、ミミハヤ」と言った。畝傍山と耳成山を誉めたのであるが、采女と通じたと誤解して報告されたので、使者らは捕らえられた。しかし、間違いであったことが分かり許されたが、新羅の使者らはたいそう恨み、貢上物の品種と船の数を減らした。」
新羅の使者は香具山と耳成山を見たと書いてありますが、ここから允恭天皇の時代に新羅に出兵していたとは読めません。
それにしても、海中の小王国が何のために冊封体制に入り、叙正を望み、新羅への侵攻を続けたのでしょうか。いまいち理解が届きません。百済は隣国とはいえ、海を隔てていますから、親交を深めた理由が必要です。
其の理由は何でしょう。強い同盟国と言うだけでなく、倭国との間に婚姻関係があって同族と思っていたのかも知れませんね。
では、五世紀の後半、
日本中で一番百済系・新羅系の副葬品を持つ古墳は
そこは、熊本の菊池川流域の江田船山古墳です。
ここには冠だけでなく銀象嵌の鉄刀も出土しています。
被葬者は、偉大な首長に仕えたというのです。その首長は何処の誰か?
この江田船山古墳が倭王へつながる道を教えてくれるはずです。
倭王済が何処にいたのか、まだわかっていません。

倭王は常に半島を見ていましたが日本中で一番百済系・新羅系の副葬品を持つ古墳は
そこは、熊本の菊池川流域の江田船山古墳です。
ここには冠だけでなく銀象嵌の鉄刀も出土しています。
被葬者は、偉大な首長に仕えたというのです。その首長は何処の誰か?
この江田船山古墳が倭王へつながる道を教えてくれるはずです。
倭王済が何処にいたのか、まだわかっていません。

新羅にしても海を越えてまで倭国に侵攻する意味はなかったでしょう。それより、高句麗や百済との交渉が大事だったと思います。
交渉を間違えば戦争になったでしょうから、遠い倭国にかまけている暇はなかったでしょう。
倭国は中国にとっては小国ですから、ほとんど魅力のない夷蛮の徒であったでしょうね。中国の皇帝にとって、「遠い辺鄙な地域からの朝貢は、天子として天に認められたという証」ではあったでしょう。
まだ続きますが、また次回に。
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by tizudesiru
| 2018-04-01 10:43
| 333倭五王の行方を捜してみませんか
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地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史
by tizudesiru
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35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
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157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
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159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
314草壁皇子と天智天皇の関係
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
326倭王武と雄略天皇は同一人物なのか
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
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