祭祀線から外された平原王墓の巫女王は壱与(臺与)か
すべて割られていた平原王墓の銅鏡

平原王墓は弥生の周溝墓です。そこには割竹形木棺があり、40面の銅鏡が副葬されていました。一つの墳丘墓で40面の銅鏡の副葬は、平原王墓が一位です。
内向花文鏡の5面は大型で、銅鏡の中では最大です。(鏡もすべて国宝です)
40面の銅鏡は全て割られていました。

(福岡県糸島市の平原王墓の内向花文鏡・伊都国歴史博物館)
出土状況を見ると、明らかに割られています。ここに、何か理由があるはずです。

内向花文鏡の5面は大型で、銅鏡の中では最大です。(鏡もすべて国宝です)
40面の銅鏡は全て割られていました。

出土状況を見ると、明らかに割られています。ここに、何か理由があるはずです。

近隣の王墓も割られていたのでしょうか。伊都国の井原鑓溝遺跡・中原遺跡・三雲南小路遺跡を見ましょう。

江戸時代に発見されたという井原鑓溝(いわらやりみぞ)の鏡は、記録によると割れていますね。三雲南少路王墓も、中原遺跡の鏡も割れていました。
後の世に撹拌されて割れたのでしょうか。初めから割られて副葬されたのでしょうか。
割れたのか、割られたのか、判断しにくいです。
割られたと断定できるのは、平原王墓だけです。
では、福岡平野の須玖岡本王墓はどうでしょう。
後の世に撹拌されて割れたのでしょうか。初めから割られて副葬されたのでしょうか。
割れたのか、割られたのか、判断しにくいです。
割られたと断定できるのは、平原王墓だけです。
では、福岡平野の須玖岡本王墓はどうでしょう。


須玖岡本遺跡の銅鏡も細かく割れています。
須玖岡本の大石の下にあった甕棺の銅鏡ですが、細かく割れています。大石に押しつぶされたのでしょうか。それとも、割った銅鏡を副葬したのでしょうか…
同じく甕棺の銅鏡が副葬されていた福岡県飯塚市の立岩遺跡。こちらの鏡はきちんと残っていましたね。


?立岩遺跡の銅鏡は割られていません。キチンと元形をとどめています。後の世に撹拌されなかったからでしょうか。それとも、割らずに副葬したのでしょうか。
割られていた平原王墓の銅鏡の意味は
伊都国と須玖岡本の王墓も割られていたとなると、そこに、弥生の王の悲劇が見えるのではないか
割られていた平原王墓の銅鏡の意味は
伊都国と須玖岡本の王墓も割られていたとなると、そこに、弥生の王の悲劇が見えるのではないか
では、祭祀の上でも敗北した平原王墓の女性は、誰なのか。
わたしは、壱与(臺与)だと思います。
祭祀具である鏡が割られたのは、政治や祭祀に関する事件があったからです。それは、「世々、王あり」と書かれた伊都国で起こった事件ですから、「倭人伝」とつながる出来事です。卑弥呼の後を継いだ壱与の運命を物語る墓だと思います。
須玖岡本の大石の下にあった甕棺の銅鏡は細かく割れていたのに、同じような甕棺の立岩遺跡の鏡はきちんと残っていましたね。甕棺という条件は同じです。
理にかないません。どちらも残っていいはずです。
飯塚と福岡・糸島では、葬送儀礼に違いがあった、のです。
確認しますが、須玖岡本の甕棺は大石の下にあったのだから、後の世の人が壊して埋め戻したりはしていないでしょう。初めから割れていたと思うのが自然です。
思い出してみると、吉武高木の銅鏡は割られていなかったと思います。
平原王墓(須玖岡本王墓、三雲南少路王墓)の銅鏡は、割られていた。その理由は政変!
由々しき事態です。そこには、政権の交替が見えるからです。
弥生時代の政変に巻き込まれた女性王となると、限られます。
最大の銅鏡(経46・5cm)を5面も副葬し、数も最高だという平原王墓。
そこは、ただの巫女、単なる巫女王の墓ではない
此の女性は特別の人、倭の女王以外には考えられません。
割られなかった古墳時代の銅鏡
次の古墳時代の鏡は割れていないのです。
伊都国の初期古墳の鏡の写真を見ましょう。3世紀末から4世紀初めの遺跡から出土したものです。
最近、古墳の年代がちぐはぐですか、九州では余り年代は動きません。


平原王墓は、宝満山からの弥生王墓の聖なるラインの上には乗りません。
外されたのか、外れたのかですが、わたしは外されたと思います。
交代して東西ラインに葬られたのが、一貴山銚子塚古墳の主でした。祭祀線上に乗る古墳には大きな意味があるのです。

外されたのか、外れたのかですが、わたしは外されたと思います。
交代して東西ラインに葬られたのが、一貴山銚子塚古墳の主でした。祭祀線上に乗る古墳には大きな意味があるのです。

卑弥呼と壱与の墓は何処に造られたか
倭女王・倭王について考えている途中です。「王」の称号は中国の冊封体制に入った証でした。
卑弥呼は「倭女王」でした。倭の国王と名乗ったのです。倭の女王として、彼女が何処に住んでいたか、何処に墓があるか、中国の使者が知らないはずはありません。
その事を解くチャンスがありました。
倭女王・倭王について考えている途中です。「王」の称号は中国の冊封体制に入った証でした。
卑弥呼は「倭女王」でした。倭の国王と名乗ったのです。倭の女王として、彼女が何処に住んでいたか、何処に墓があるか、中国の使者が知らないはずはありません。
その事を解くチャンスがありました。

卑弥呼の墓を追及するチャンスに遭遇したのは、原田大六でした。
1965年、平原遺跡の発掘が始まりました。
1号墓(平原王墓)は2世紀後半とし、銅鏡・鉄の素環頭大刀・勾玉という「三種の神器」を思わせる副葬品、「八咫鏡」と平原王墓出土の大型鏡との類似性から古墳との共通性を推測しました。更に、被葬者を太陽に関わる神事を行っていた巫女とし、被葬者を
玉依姫=大日孁貴尊(おおひるめのむち)=天照大神
1965年、平原遺跡の発掘が始まりました。
1号墓(平原王墓)は2世紀後半とし、銅鏡・鉄の素環頭大刀・勾玉という「三種の神器」を思わせる副葬品、「八咫鏡」と平原王墓出土の大型鏡との類似性から古墳との共通性を推測しました。更に、被葬者を太陽に関わる神事を行っていた巫女とし、被葬者を
玉依姫=大日孁貴尊(おおひるめのむち)=天照大神
と推量したのでした。彼は、記紀神話の記述を北部九州で起きた史実を記録したものだと考えたのです。
確かに、神武が東の日向峠から侵入したというのでしょうか。クシフルダケも東の連山にありますし、細石(さざれいし)神社もあります。
原田大六は、「発掘報告書」より価値のあることを発見したと思ったのでしょう。
確かに、神武が東の日向峠から侵入したというのでしょうか。クシフルダケも東の連山にありますし、細石(さざれいし)神社もあります。
原田大六は、「発掘報告書」より価値のあることを発見したと思ったのでしょう。
平原王墓は、考古学の研究対象になれなかったのです。
原田大六著「実在した神話」は、既に忘れられたのでしょうか。
伊都国歴史博物館の西に原田氏の銅像があります。
しかし、平原王墓が弥生の方形周溝墓として、弥生の墳丘墓として検討されることはほとんどありませんでした。
平原王墓の築造は、いつでしょうか。2世紀後半か、3世紀半ばか、3世紀後半か?
ここは重要です。被葬者が特定されるからです。大型銅鏡が八咫鏡であるなら、3世紀後半になります。
弥生時代の八咫鏡の副葬は、平原王墓だけです。後はみんな古墳時代の大型鏡です。
その意味は、ひとつ。
八咫鏡の文化の発祥は、伊都国となります。天照大神の祭祀は、ここから始まったとなります。古墳時代に引き継がれたのは、鏡の大量副葬でした。
では、では、古墳文化は、まさに伊都国の弥生の巫女王の伝統を継承したことになるのです。

そうなりますね。それが、他の地域に伝播したのです。
by tizudesiru
| 2018-03-09 11:53
| 329祭祀線で読む倭王の交替
|
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地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史
by tizudesiru
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