耳納山・鯰・政変・一揆、田主丸の伝承いろいろ
耳納山の牛鬼伝承
康平五年(1062)のある夜、ゴーンゴーンという鐘の音に然廓上人は目を覚まし「こんな夜中に誰が鐘をついているのだろう」と不思議に思いました。鐘つき堂には誰もいないのです。不思議な出来事は幾晩も続き、果ては婦女子が怪物に襲われるという怪異までもおこるようになり、「御仏の御霊光にかけても」と意を決した上人は正体を突き止めるべく木陰に実を潜め時の到るのを待っていました。
そこに現れた怪物は、顔は牛、体は鬼。しかし、上人はただ経文を読み続けました。すると、御仏の功徳によってか牛鬼も神通力を失い五体の自由さえ失いました。夜が明けるころ、駆け付けた村人たちにより怪物の首は都へ送られ、怪物の手は切り取られて寺に残されるこことなったのでした。耳は山に埋められて、その山を名付けて「耳納山」となった、という伝承が田主丸の紹介本に書かれていました。(写真は、その本をデジカメで撮ったものです)
地徳の善院区の吉岡家の敷地内にある古墳には「塚神」として十一面観音が祀ってあります。この塚神の謂れは、次のようなものです。90年ほど前のこと、吉岡家の幼い長女が病弱で医者にかかっても効果が見られませんでした。ある日、トウニンサン(祷人)が訪れ、「塚の口を開けなさい。そして、十一面観音を祀りなさい」と勧められ、娘の快気を祈って教えに従ったそうです。
吉岡家のあたりはホノケ(字)といい、八龍ということだそうです。古墳の上には以前から「水の神」として八代龍王が祀られていたからでしょう。
この墳丘では年に一度「御こもり」が行われているそうです。この御こもりは一旦絶えたのだそうですが、村内で雷に打たれた人が亡くなることがあって、復活したのだそうです。
阿蘇神社の守り神鯰を食べない人々
森山地区の人々は、鯰を阿蘇神社の使いと信じ、絶対に鯰を食べないという禁忌を守っていました。上の鯰の石像は、昭和十年(1935)に伊勢神宮に参詣した祈念に奉納されたものです。村人の支えによって代表が伊勢神宮に参拝した祈念なのです。タブーを守ることは、地区の人々の団結力も培ったのです。 鯰は川魚として昔からよく食べられていましたが、それを禁忌として守ることは、阿蘇神社が中世の菊池市とのつながりができた頃に勧請されたとしても、長く人々の団結力を培ったのでしょう。
藩政に苦しみ一揆を起こした人々
その団結力は一揆にも反映されました。
享保十三年(1728)の一揆は、藩の税制改革が過酷であったので、当時、厳禁とされていた寄り合いを農民たちが各地で持ったのです。そして「大庄屋衆より聞き書覚」によれば、生葉郡若宮の森(現 吉井町若宮八幡境内)で二月二十七日から三月二日までの間に、最初は五~六〇人、次に八〇〇余人、さらに下郡からも参加して二〇〇〇余人の寄り合いを持ったのでした。
三月四日には、城下に押し掛ける覚悟で、菅笠・かうばし(はったいこ)の類を用意したのです。
この事態に、家老中達四名の連盟による税制改革案の撤廃書を出しましたが、信用ならぬと騒動は収まりませんでした。江戸には使者がたてられましたが、藩主からは「税制改革の方針どおりに進めよ」との申し渡しがありました。家老の有間右近も江戸に出府し藩主に一考を促しますが、「騒ぎ立て不届きの至り」と取り合いません。
八月上旬になって、上三郡の農民は「寄合極書」を申し合わせ、竹野郡・山本群からも嘆願書が提出されました。やがて、生葉郡竹野郡の農民の農民が動き出しました。大庄屋は制止しますが聞き入れられません。
八月二十日、農民は城下へ向かって進むことを相談して決めます。大庄屋は郡奉行所に農民の要求を報告しました。八月二十三日、農民はついに久留米市御井の切り通しまで進出したのです。
八月二十四日、家老の有間監物、同内記、同因幡、同右近ら、四人連名で「藩主の裁許無しには願い事は取り上げられぬ。ごくごく難儀の品々があれば藩主からの裁許なくとも詮議するので、そうそう居村に帰るがよい。この旨を相弁えないとすれば幾日滞留しても願いは受けぬ」と申し渡され、農民たちは各村々に引き上げたのでした。
(吉井町の若宮八幡宮、広い境内があったのでしょう) 久留米藩の税制改革は、正徳二年(1711)に始まり、享保を経て、延喬五年(1748)まで続きますが、藩の財政ひっ迫はどうにもなりませんでした。なかでも、享保十七年に大飢饉が西日本を襲った時には、年貢は平年の二割しか入らず藩は困窮し、領内では餓死者一万一一九〇人、死馬4000頭と伝わります。
久留米藩の二大一揆は、生葉・竹野二郡を起点として起こっていますが、それは何故でしょう。この地域は江戸時代初期の「五人の庄屋」の物語が残っています。彼らは命を賭して大石堰を造り用水路を完成させ、地域のコメの生産力を上げたのです。(その後、水神として祭られています)しかし、その水路の恩恵で得た物を藩によりほとんど収奪されたのでした。生葉・竹野の農民の努力に藩は報いるどころか何もかも収奪したのです。
宝暦一揆は、藩権力に対する全領的な蜂起であったので、藩の権威維持と農民支配のために、事後処理は徹底されました。また、藩としても農民からの収奪の限界を知ることにもなったのでした。
一揆後、次々と関係者が捕らわれ始めました。6月末から7月にかけて三〇〇人にも及び、死罪三十七名、追放七十六名、過料四十七名、など厳しいものでした。
竹野郡は、庄屋が四名死罪、二名追放、村役人の重罪処分は他郡より多く、死罪三十七名のうち竹野郡の者は十一名と多いのです。(生葉郡は死罪五名)
古代の磐井も耳納山地の西の御井で戦いました。中世の後醍醐天皇の皇子も耳納山地に陣を置きました。豊臣秀吉も耳納山地の西の端に陣を置きました。昔から耳納山地にはあまたの血と涙と汗が流れているのです。美しい山並には、様々な物語が隠れていますね。
そこに現れた怪物は、顔は牛、体は鬼。しかし、上人はただ経文を読み続けました。すると、御仏の功徳によってか牛鬼も神通力を失い五体の自由さえ失いました。夜が明けるころ、駆け付けた村人たちにより怪物の首は都へ送られ、怪物の手は切り取られて寺に残されるこことなったのでした。耳は山に埋められて、その山を名付けて「耳納山」となった、という伝承が田主丸の紹介本に書かれていました。(写真は、その本をデジカメで撮ったものです)
古墳で御こもり・塚神と八代龍王
吉岡家のあたりはホノケ(字)といい、八龍ということだそうです。古墳の上には以前から「水の神」として八代龍王が祀られていたからでしょう。
この墳丘では年に一度「御こもり」が行われているそうです。この御こもりは一旦絶えたのだそうですが、村内で雷に打たれた人が亡くなることがあって、復活したのだそうです。
藩政に苦しみ一揆を起こした人々
その団結力は一揆にも反映されました。
享保十三年(1728)の一揆は、藩の税制改革が過酷であったので、当時、厳禁とされていた寄り合いを農民たちが各地で持ったのです。そして「大庄屋衆より聞き書覚」によれば、生葉郡若宮の森(現 吉井町若宮八幡境内)で二月二十七日から三月二日までの間に、最初は五~六〇人、次に八〇〇余人、さらに下郡からも参加して二〇〇〇余人の寄り合いを持ったのでした。
三月四日には、城下に押し掛ける覚悟で、菅笠・かうばし(はったいこ)の類を用意したのです。
この事態に、家老中達四名の連盟による税制改革案の撤廃書を出しましたが、信用ならぬと騒動は収まりませんでした。江戸には使者がたてられましたが、藩主からは「税制改革の方針どおりに進めよ」との申し渡しがありました。家老の有間右近も江戸に出府し藩主に一考を促しますが、「騒ぎ立て不届きの至り」と取り合いません。
八月上旬になって、上三郡の農民は「寄合極書」を申し合わせ、竹野郡・山本群からも嘆願書が提出されました。やがて、生葉郡竹野郡の農民の農民が動き出しました。大庄屋は制止しますが聞き入れられません。
八月二十日、農民は城下へ向かって進むことを相談して決めます。大庄屋は郡奉行所に農民の要求を報告しました。八月二十三日、農民はついに久留米市御井の切り通しまで進出したのです。
八月二十四日、家老の有間監物、同内記、同因幡、同右近ら、四人連名で「藩主の裁許無しには願い事は取り上げられぬ。ごくごく難儀の品々があれば藩主からの裁許なくとも詮議するので、そうそう居村に帰るがよい。この旨を相弁えないとすれば幾日滞留しても願いは受けぬ」と申し渡され、農民たちは各村々に引き上げたのでした。
更に悲惨だった宝暦一揆
享保一揆は、農民が年貢減免を要求した最初の一揆でした。ここで、彼らは団結する強さを学んだのです。同時に、為政者側は更なる弾圧と取り締まりの方法を考えたのです。ですから、宝暦一揆の場合は農民も強くなっていましたが、藩側も厳しくなっていました。久留米藩の二大一揆は、生葉・竹野二郡を起点として起こっていますが、それは何故でしょう。この地域は江戸時代初期の「五人の庄屋」の物語が残っています。彼らは命を賭して大石堰を造り用水路を完成させ、地域のコメの生産力を上げたのです。(その後、水神として祭られています)しかし、その水路の恩恵で得た物を藩によりほとんど収奪されたのでした。生葉・竹野の農民の努力に藩は報いるどころか何もかも収奪したのです。
宝暦一揆は、藩権力に対する全領的な蜂起であったので、藩の権威維持と農民支配のために、事後処理は徹底されました。また、藩としても農民からの収奪の限界を知ることにもなったのでした。
一揆後、次々と関係者が捕らわれ始めました。6月末から7月にかけて三〇〇人にも及び、死罪三十七名、追放七十六名、過料四十七名、など厳しいものでした。
竹野郡は、庄屋が四名死罪、二名追放、村役人の重罪処分は他郡より多く、死罪三十七名のうち竹野郡の者は十一名と多いのです。(生葉郡は死罪五名)
竹野の神鉾神社の拝殿の絵馬にあった「義士衣錦」の文字には歴史の重みがあるのですね。
by tizudesiru
| 2017-10-08 01:45
| 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
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159草壁皇子の薨去の事情
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163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
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168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
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171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
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178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
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181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授柿本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける
373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ
374令和元年こそ万葉集を読み解こう
375大伴家持、万葉集最終歌への道
376神社一人旅はいかがですか
377花の写真はいかがですか
378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東
379万葉集巻二十は鎮魂と告発の歌巻
380関東の神社は、政変を示しているのか
381九州の古墳の不思議と謎
382松浦佐用姫は何故死んだのか
383令和三年の奇跡を祈りましょう
384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ
法隆寺
大塚初重氏の仕事
385万葉集を片手に旅ゆけば
386今城塚古墳の謎・物語が見えない
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