119基山とは何だったのか
基山とは何だったのか
現在、基山は「古代山城」=椽肄(基肄)城跡 として知られている。その山城を築いたのは、663年の白村江敗戦後であると「日本書記」に書かれている。天智天皇の御代である。
基山の東側山麓に延喜式内社である筑紫神社が鎮座しているが、ここにある由緒の中に「城山から天智天皇が椽肄城を築くために祭祀されていた神を降ろした」と書かれている。「城(き)山とは基(き)山のことである」ことを、十年ほど前に地元の教育委員会の文化財課で確かめた。
これらのことから、古代より基山の頂上に神が祀られていた・天智天皇の時代に神祭りの場が変えられ、山の下に降ろされた・そこは筑紫神社だという・基山に椽肄城(朝鮮式山城)が築かれた・筑紫神社は延喜式の時代に名神大社となった、ということが分かる。
1・古代の基山の山頂で行われていた祭祀は、いつの時代から始まったのだろうか
古代の神祭りを知る手がかりはなかなか見つけられないが、地形(山頂)と墳墓の位置などを参考に考えることはできると思う。山頂は古来「神の座ます處」として聖地とされていたようだし、古代の信仰が時代により若干変わったとしても、山頂は残されているからである。登山にしても、明治になるまでは楽しみではなく信仰の行為であった。古来より人々は山を見て天候を見極め、朝夕手を合わせて豊穣を願ったのである。つい最近まで山頂には古代の祭祀が残されていたので、どんな神をどのように祀っていたか少しは分かる、と思われるのである。
その山頂が三か所も直線で連なるとき、人々は崇敬の念を厚くしたのだろう。
基山とつながる山々のことを考えてみよう。まず、九千部→基山→砥上岳の三山である。
九千部のもともとの山名(古代における山名)は不明であるが、ここが古代の聖地であったことは別に取り上げるとして、九千部から見れば基山は夏至の日の出の山である。このラインは砥上岳にまでは延びる。更に延びるのだが、ひとまず砥上岳に留めておく。砥上は神功皇后の伝説の山であり、筑紫野の宮地岳と東西に並ぶ神の山である。
「とがみ」と言えば、大分県日田市にある「津江三山」と呼ばれる渡(と)神(がみ)岳・釈迦岳・御前岳の中の渡神にも神功皇后伝説がある。それは、「古くは水晶山と呼ばれたが、神功皇后が三韓征伐戦勝の礼に神を迎え祭ったことから渡神岳と呼ばれるようになった」ということである。山頂には雨乞いの神事に使われる祠が祀られているという、釣鐘型の急峻な山である。
同じ「とがみ」の名を持つのは偶然とも思えないが、砥上がもともと渡神だとすると、いずれの神が渡られたのか、と展開することになる。一方、大分の津江三山のほうは直線でつなぐと、久留米の高良大社にまでラインが届く。高良大社の祭神は武内宿祢というから神功皇后に結びつき、このラインはまんざら出鱈目でもないようだ。大分の渡神岳に降りた神は、まっすぐ高良大社に向かわれたとして、その神の出発地については思うところがあるので後述したい。
次に、基山から大分の渡神岳にラインを引いてみよう。すると、耳納山地の最高峰の鷹取山を通る。基山からのラインは、二か所の「とがみ岳」につながり、古代には意味を持っていたと考えていいだろう。目視できる三か所の山頂が連なるのは特異な特別なことであろう。その起点は基山である。
ちなみに鷹取山は高良大社の真東の山だが、東に鷹取山を置いて、大社は不思議に北を向いている。
基山の神祭りはいつの時代に始まったかであるが、当然7世紀の半ば(白村江戦後)よりさかのぼる。それも、政変に近い出来事が起こった頃、つまり権力者が交代して神を何処からか連れてきたからである。二か所の山にそれぞれに神が渡来られた時、「とがみ岳」が神の山とされた時代はいつだろうか。それも九千部が聖地であった頃である。
高良大社に武内宿祢が祀られた時なら、渡神岳から渡ったのは武内宿祢となるのだろうか。武内宿祢を武人神と考えるなら、砥上山頂に今も武宮(たけみや)として武神がまつられているし、神功皇后が勧請したという武甕槌神とも重なってくる。砥上は「新羅征討の時、兵士を集め兵器を研がせた」ので砥上と呼んだそうだが。古代に祭られていた神は武神であり、武内宿祢か武甕槌の可能性があるとして、次に進もう。
では、他の砥上岳ラインからも神祭りの時期を探ってみよう。
おつぼ山神籠石→帯隈山神籠石→砥上岳→御所ヶ谷神籠石という砥上岳を通るラインがある。神籠石を結ぶラインである。神籠石とは、神籠石式山城と呼ばれる古代山城のことで、朝鮮式山城と呼ばれる椽肄城や大野城とは工法や仕組みが異なるとされる古代建造物であるが、書紀などの史書には登場しないので謎の古代建造物とされている。その三か所をつなぐラインが砥上山頂を通過することには何らかの意味があると考えられる。
が、ここではその築造時期を問題にしたい。神籠石が正史に記載がないとすれば、正史の編纂者はその建造物を知らなかったようだ。もしくは、知っていたが書かずに済ませることができたし、誰に咎められることもなかった。すると、政権側の建造物ではないのだろう。白村江敗戦時からずっと無視され続けたということは、その時点で築造されていたのであれば、政権側とは関わりないことは間違いない。人が踏み込まないような山の斜面に高さの揃った(規格品)切り石が隙間なく数キロにわたって並ぶなど、一部の人間の思い付きでつくれるものではない。国家的な事業であるというのは大方の見方である。が、目的や施行者が不明なのである。
神籠石は交通の要衝に置かれているし、いずれも同じ工法であるということから、国を挙げて築造したのは、白村江敗戦後ではなく、出土土器の編年から6世紀半までは遡るだろう。砥上岳が三か所の神籠石をつなぐとしたら、砥上山頂で神祭りも行われていたかもしれないが、目測して方向を決めるためには重要な地形・位置にあったためであるとも思われる。また、知られている神籠石は山城として必要な倉庫跡などの痕跡が見当たらないし、古墳を中に取り込んでいる例もあり、単なる山城とも考えられず神祭りの場としての視点も残されているようだ。この三か所の神籠石ラインは夏至の日の出ラインであり、その間に砥上岳は存在する。神の山・砥上から日が昇ることは信仰の対象だったのだろう。だから砥上を取り込んだライン上に神籠石を築造した・・・
神籠石の時代に砥上が聖地であったからこそ、九千部・基山から見た日の出の方向としても重要だったと思われる。ここで、九千部→基山→砥上のラインと神籠石→砥上ラインが、平行ではないことに疑問が出てくる。前者は九千部の山頂から見た場合の6月22日の日の出をパソコンで確認したものである。どちらのラインも太陽が山頂に来る。
図のように、黄色のラインも黄緑のラインも目測できる夏至の日の出のラインである。黄緑と黄色ラインは理論上では平行になりそうであるが、これらは平行ではない。雷山→若杉山、井原山→砥石山、九千部山→砥上山の黄緑ラインに共通するのは高い山からの目視ということであろうか。しかし、脊振→王塚古墳は黄色であるが、このラインは王塚が平地にあるので、王塚から見た冬至の日没のラインと考えることもできる。これは、夏至や冬至のラインが古墳時代には重視されていたことの証ともなるかもしれない。
念のために、北からライン上に乗る社寺や遺跡と山を上げておこう。
・大祖神社(糸島市)→灘山(糸島市)→志賀海神社の元宮(外海側)→宮地嶽神社の古宮
・一貴山銚子塚古墳→宮地岳(糸島市)→小戸→香椎宮本殿裏→遠見山→六嶽(遠賀川流域)
・飯盛山(山頂は伊弉冉命)→博多区の住吉神社(延喜式内社)→鉾立山(香椎宮の東)
・雷山(そそぎ山)→若杉山の太祖神社→若杉山
・井原山→須玖岡本遺跡の高地→砥石岳
・脊振山→観世音寺の講堂→天開稲荷神社(太宰府)→宝満山→寿命王塚古墳(主軸線)
・九千部山→基山→砥上岳
・おつぼ山神籠石→帯隈山神籠石→砥上岳→御所ヶ谷神籠石
他に、九千部からの6世紀より遡るラインがある。九千部は福岡平野の南に広がる山塊である。九千部からラインを北上させると、香椎宮に当たる。香椎宮は大嶽と鉾立山の東西ラインのほぼ中心に位置する。大嶽は磐座を持つ古代信仰の場であり、今も神社が祀られている。香椎宮は神功皇后伝承地・仲哀天皇の香椎宮跡伝承地で廟であり、今日でも官幣社ならぬ幣を奉られる神社である。香椎宮と九千部のほぼ中央に弥生時代の須玖岡本遺跡がある。
九千部が古い神祭りにかかわっていたと思われるのは、須玖岡本遺跡を通って香椎宮に届くからである。須玖岡本遺跡は弥生中期の中心地であったと考えられる。ここには中国と交流した王墓があり、鏡・銅矛・鏃の鋳型が出土する弥生の最先端の一大工業地帯である。この春日丘陵の南に九千部山頂があり、須玖岡本より基山山頂も望める。福岡平野をはさんで北に立花山と南に九千部山。立花山は本来「二神山」と呼ばれる香椎宮のご神体山である。
また、香椎宮の東にある鉾立山は、玉依姫伝承地である。玉依姫が宝満山に降りる前に鎮座地を探していた時、矛を立てて菅岳と高さを比べたという山である。この鉾立山から南北ラインを南下させると、鉾立山→砥石山→宝満山→宮地岳→高良大社と山頂を直線がつなぐ。まことに不思議な有難い太陽時計のラインができている。須玖岡本から見ると夏至の陽は砥石山から、春分秋分の陽は宝満山から、冬至の陽は宮地岳から昇る。宮地嶽は江戸時代までは「天の香久山」と呼ばれていたという。
九千部が古代の人々にとって重要な山であったことは、上記のことからもうなずけることだろう。
更に、基山と志賀海神社の元宮(勝間側の外海に面している)と結ぶ線上には、基山→日拝塚古墳→福岡城天守跡(築城前の赤坂山?)→志賀海神社元宮とならぶ。日拝塚古墳は春分秋分に大根地山から日が昇るのが見えるので命名された前方後円墳である。この日拝塚の位置は、焼ノ峠古墳→天拝山→日拝塚→愛宕神社とか、脊振山→日拝塚→(須玖岡本)→竹原古墳とか、平原王墓→飯盛山→日拝塚→観世音寺とかの様々なラインが通過する。まさに古代の信仰のラインの通過点となっている。
基山からのラインが日拝塚を通るのはそこに意味があったからである。日拝塚古墳が築造される時、重要だった山は、飯盛・脊振・天拝・大根地・基山の山々であった。そして、古墳築造に欠かせないのが過去の王墓や首長の墳丘墓であったようである。墳丘墓は盛り土のおかげで目印となりやすかったのだろう。
重要だったと思われる山々には、それぞれに神が祀られていた。イザナミ・五十猛・荒穂などその土地のゆかりの神であり、各地の首長が祀っていた神々だろう。
九千部南北ラインと宝満東西ラインの交点が須玖岡本遺跡であり、ここを中心に考えると、砥石・宝満・宮地岳(筑紫野)が太陽時計の山頂であり、重要だったことがうかがえる。そして、九千部は太陽が毎日かならず南中する山である。ここが信仰の対象になるのは想像に難くない。
さて、これまでの山々の連なりと寺社と古墳の状況から考えると、九千部・基山・砥上・宝満・飯盛・鉾立・宮地(筑紫野)の山頂が重要な意味を持っていた頃とは、古墳時代となるのだろう。もちろん、その時代前の弥生の風習や伝統も受け継いでいたのであろう。須玖岡本のある春日丘陵の状況からして、この時代には弥生の信仰や伝統が色濃く残り、そこに新しい人々(侵入者)により新しい神が持ち込まれたという構図になる。
2・入り乱れた神々の出自を少しだけ考える
では、侵入者が持ち込んだ信仰(神々)とはどんな様相を示していたのだろうか。これまでに侵入者としての可能性があるのは、高良大社の武内宿祢や宝満山の玉依姫である。
延喜式内社の志登神社(小社)が鎮座する糸島市の志登は、古来より玉依姫上陸の聖地とされてきた。ここでも、玉依姫は外から来た神のようだ。鉾立山の伝承は玉依姫が鎮座地を求めていた時、菅岳より気に入った山を見つけたので鉾立山に矛を立てて高さを図ったという。やはり外からの侵入した神であることがうかがえる。
また、平安時代(九世紀)の大宰府の官人は穂波の大分宮に幣を奉るため参詣しなければならなかったが、その為に伯母(玉依姫)の山・宝満山を越えるのは不敬であるとして、十世紀になって大分宮は筥崎宮(福岡市東区)に遷宮された。侵入した玉依姫は、長く宝満山に留まっていたようである。
玉依姫は何処からやって来たのか。菅岳や鉾立山を知っていて、穂波町など複数の町の町史に同じ伝承が書かれていることから、福岡県の東北部からの侵入ということになろうか。のちに、玉依姫は神武の母として「宝満大神」と呼ばれ、方々の宝満神社に祭られていく。平安時代になっても、宝満山は「伯母の山」として大宰府の官人に重要視され、穂波町の大分宮に国司が幣を捧げるのに宝満山を越えねばならないことが不敬であるとされたのである。
ほかにも、延喜式内社の名神大社としてより、宗像三女神の神社として有名になっている宗像大社は、基山のほぼ北になる。三重県の伊勢神宮のほぼ真北にある気多神社は、もともと伊勢神宮の北の神社として作られたという。気多とは北のなまったものであるとか。とすると、宗像大社も「ある神社(地点)」の北を意識して造営されたのだろうか。宗像大社そのものにも、もともとの祭神は大国主命だったという説もある。万葉集を詠む限り、その可能性もかなりありそうである。
近隣では祭神のほかに大国主命を密かに祀る神社が点在する。三女神も他からの侵入した神の可能性も高い。もとは三女神ではなかったという話も方々でなされている。祭神の入れ替えは政変時の条件であろう。
紫色(基山→宗像大社)
薄茶色(基山→日拝塚古墳→舞鶴城天守→志賀海神社元宮)
黄緑色?(基山→英彦山・高住神社→宇佐神宮の旧社→熊野本宮大社・大祓)*有名どころを結ぶ?
基山のほぼ真南に荒穂神社があるのは気になるところである。荒穂神社→基山→天拝山の荒穂神社と、基山は南北の荒穂神社を結びつける。
次に、渡神岳に渡った神であるが、江田船山古墳→国見山→渡神岳のラインから察すると、肥後から渡り来られた可能性がある。
渡神岳→英彦山の北岳→御所が嶽(神籠石がある)
渡神岳→鷹取山→基山(すでに紹介している)
渡神岳→釈迦岳→御前岳→高良大社(すでに紹介している)
渡神岳に渡来た神は北部九州に浸透したことがうかがえるだろう。渡神がその侵入の起点となった。まさに渡神岳なのである。また、その出発地として菊池川流域が考えられるということである。江田船山古墳からのラインがそれを示す。
さて、肥後の勢力と言ってもそれは江田船山古墳が在る菊池川の下流域のみではない。次の図でも分かるように、阿蘇の神もかかわっているようである。
①八方ヶ岳→男岳→岩戸山古墳
②草壁吉見神社→阿蘇中岳→八方ヶ岳→脊振
③八方ヶ岳→国見岳→鷹取山→大巳貴神社→宮地嶽古墳(福津市)
④高千穂神宮→阿蘇中岳→高良大社
⑤阿蘇中岳→釈迦岳→熊渡山→宮地嶽古墳
こうしてみると、肥後の神々が侵入した跡がうかがえそうである。そして、古墳時代に入って更に広い範囲からの侵入となったと想像される。
3 基山とは何か
基山のことを考えるとき、近隣周辺の神社や山との関係のみに注目すると「基山」を見失う。脊振山系の端に何気なく存在する山だが、古代の祭祀線を求めるときに目視するために使われたようである。つまり、神の通過された場所である。ラインをたどるためには重要な位置にあり、神が通過された土地として後々までも払い清めたのであろう、と想像するのである。その根拠は、山頂と神社、山頂と墳丘墓を結びつけるラインである。
時を経て、聖地として伝えられ土地に地元の神が祀られたり、政権交代により新しい神が渡来られたりしたのであろう。そこが聖地であることは、長く人々の生活や気持ちの中に残っていたということでもある。だからこそ、白村江敗戦の大転換期に古来からの神が降ろされた。いや、聖地であるからこそ、国守り(政権を守る)の山城が築かれたのである。他の神籠石も神祭りを背景に築造されたようである。朝鮮式の山城も、基本的には神籠石と同じ思想の基に築造されたとしたら、それも十分に理解できるし考えられることである。
「基山とは何か」という問いに対する私の答えは「古来より基山は聖地であった。神が渡るときに通過する神の道の通過点であった。」となる。
ひとまず、ここまでにします。
現在、基山は「古代山城」=椽肄(基肄)城跡 として知られている。その山城を築いたのは、663年の白村江敗戦後であると「日本書記」に書かれている。天智天皇の御代である。
基山の東側山麓に延喜式内社である筑紫神社が鎮座しているが、ここにある由緒の中に「城山から天智天皇が椽肄城を築くために祭祀されていた神を降ろした」と書かれている。「城(き)山とは基(き)山のことである」ことを、十年ほど前に地元の教育委員会の文化財課で確かめた。
これらのことから、古代より基山の頂上に神が祀られていた・天智天皇の時代に神祭りの場が変えられ、山の下に降ろされた・そこは筑紫神社だという・基山に椽肄城(朝鮮式山城)が築かれた・筑紫神社は延喜式の時代に名神大社となった、ということが分かる。
1・古代の基山の山頂で行われていた祭祀は、いつの時代から始まったのだろうか
古代の神祭りを知る手がかりはなかなか見つけられないが、地形(山頂)と墳墓の位置などを参考に考えることはできると思う。山頂は古来「神の座ます處」として聖地とされていたようだし、古代の信仰が時代により若干変わったとしても、山頂は残されているからである。登山にしても、明治になるまでは楽しみではなく信仰の行為であった。古来より人々は山を見て天候を見極め、朝夕手を合わせて豊穣を願ったのである。つい最近まで山頂には古代の祭祀が残されていたので、どんな神をどのように祀っていたか少しは分かる、と思われるのである。
その山頂が三か所も直線で連なるとき、人々は崇敬の念を厚くしたのだろう。
基山とつながる山々のことを考えてみよう。まず、九千部→基山→砥上岳の三山である。
九千部のもともとの山名(古代における山名)は不明であるが、ここが古代の聖地であったことは別に取り上げるとして、九千部から見れば基山は夏至の日の出の山である。このラインは砥上岳にまでは延びる。更に延びるのだが、ひとまず砥上岳に留めておく。砥上は神功皇后の伝説の山であり、筑紫野の宮地岳と東西に並ぶ神の山である。
「とがみ」と言えば、大分県日田市にある「津江三山」と呼ばれる渡(と)神(がみ)岳・釈迦岳・御前岳の中の渡神にも神功皇后伝説がある。それは、「古くは水晶山と呼ばれたが、神功皇后が三韓征伐戦勝の礼に神を迎え祭ったことから渡神岳と呼ばれるようになった」ということである。山頂には雨乞いの神事に使われる祠が祀られているという、釣鐘型の急峻な山である。
同じ「とがみ」の名を持つのは偶然とも思えないが、砥上がもともと渡神だとすると、いずれの神が渡られたのか、と展開することになる。一方、大分の津江三山のほうは直線でつなぐと、久留米の高良大社にまでラインが届く。高良大社の祭神は武内宿祢というから神功皇后に結びつき、このラインはまんざら出鱈目でもないようだ。大分の渡神岳に降りた神は、まっすぐ高良大社に向かわれたとして、その神の出発地については思うところがあるので後述したい。
次に、基山から大分の渡神岳にラインを引いてみよう。すると、耳納山地の最高峰の鷹取山を通る。基山からのラインは、二か所の「とがみ岳」につながり、古代には意味を持っていたと考えていいだろう。目視できる三か所の山頂が連なるのは特異な特別なことであろう。その起点は基山である。
ちなみに鷹取山は高良大社の真東の山だが、東に鷹取山を置いて、大社は不思議に北を向いている。
基山の神祭りはいつの時代に始まったかであるが、当然7世紀の半ば(白村江戦後)よりさかのぼる。それも、政変に近い出来事が起こった頃、つまり権力者が交代して神を何処からか連れてきたからである。二か所の山にそれぞれに神が渡来られた時、「とがみ岳」が神の山とされた時代はいつだろうか。それも九千部が聖地であった頃である。
高良大社に武内宿祢が祀られた時なら、渡神岳から渡ったのは武内宿祢となるのだろうか。武内宿祢を武人神と考えるなら、砥上山頂に今も武宮(たけみや)として武神がまつられているし、神功皇后が勧請したという武甕槌神とも重なってくる。砥上は「新羅征討の時、兵士を集め兵器を研がせた」ので砥上と呼んだそうだが。古代に祭られていた神は武神であり、武内宿祢か武甕槌の可能性があるとして、次に進もう。
では、他の砥上岳ラインからも神祭りの時期を探ってみよう。
おつぼ山神籠石→帯隈山神籠石→砥上岳→御所ヶ谷神籠石という砥上岳を通るラインがある。神籠石を結ぶラインである。神籠石とは、神籠石式山城と呼ばれる古代山城のことで、朝鮮式山城と呼ばれる椽肄城や大野城とは工法や仕組みが異なるとされる古代建造物であるが、書紀などの史書には登場しないので謎の古代建造物とされている。その三か所をつなぐラインが砥上山頂を通過することには何らかの意味があると考えられる。
が、ここではその築造時期を問題にしたい。神籠石が正史に記載がないとすれば、正史の編纂者はその建造物を知らなかったようだ。もしくは、知っていたが書かずに済ませることができたし、誰に咎められることもなかった。すると、政権側の建造物ではないのだろう。白村江敗戦時からずっと無視され続けたということは、その時点で築造されていたのであれば、政権側とは関わりないことは間違いない。人が踏み込まないような山の斜面に高さの揃った(規格品)切り石が隙間なく数キロにわたって並ぶなど、一部の人間の思い付きでつくれるものではない。国家的な事業であるというのは大方の見方である。が、目的や施行者が不明なのである。
神籠石は交通の要衝に置かれているし、いずれも同じ工法であるということから、国を挙げて築造したのは、白村江敗戦後ではなく、出土土器の編年から6世紀半までは遡るだろう。砥上岳が三か所の神籠石をつなぐとしたら、砥上山頂で神祭りも行われていたかもしれないが、目測して方向を決めるためには重要な地形・位置にあったためであるとも思われる。また、知られている神籠石は山城として必要な倉庫跡などの痕跡が見当たらないし、古墳を中に取り込んでいる例もあり、単なる山城とも考えられず神祭りの場としての視点も残されているようだ。この三か所の神籠石ラインは夏至の日の出ラインであり、その間に砥上岳は存在する。神の山・砥上から日が昇ることは信仰の対象だったのだろう。だから砥上を取り込んだライン上に神籠石を築造した・・・
神籠石の時代に砥上が聖地であったからこそ、九千部・基山から見た日の出の方向としても重要だったと思われる。ここで、九千部→基山→砥上のラインと神籠石→砥上ラインが、平行ではないことに疑問が出てくる。前者は九千部の山頂から見た場合の6月22日の日の出をパソコンで確認したものである。どちらのラインも太陽が山頂に来る。
図のように、黄色のラインも黄緑のラインも目測できる夏至の日の出のラインである。黄緑と黄色ラインは理論上では平行になりそうであるが、これらは平行ではない。雷山→若杉山、井原山→砥石山、九千部山→砥上山の黄緑ラインに共通するのは高い山からの目視ということであろうか。しかし、脊振→王塚古墳は黄色であるが、このラインは王塚が平地にあるので、王塚から見た冬至の日没のラインと考えることもできる。これは、夏至や冬至のラインが古墳時代には重視されていたことの証ともなるかもしれない。
念のために、北からライン上に乗る社寺や遺跡と山を上げておこう。
・大祖神社(糸島市)→灘山(糸島市)→志賀海神社の元宮(外海側)→宮地嶽神社の古宮
・一貴山銚子塚古墳→宮地岳(糸島市)→小戸→香椎宮本殿裏→遠見山→六嶽(遠賀川流域)
・飯盛山(山頂は伊弉冉命)→博多区の住吉神社(延喜式内社)→鉾立山(香椎宮の東)
・雷山(そそぎ山)→若杉山の太祖神社→若杉山
・井原山→須玖岡本遺跡の高地→砥石岳
・脊振山→観世音寺の講堂→天開稲荷神社(太宰府)→宝満山→寿命王塚古墳(主軸線)
・九千部山→基山→砥上岳
・おつぼ山神籠石→帯隈山神籠石→砥上岳→御所ヶ谷神籠石
他に、九千部からの6世紀より遡るラインがある。九千部は福岡平野の南に広がる山塊である。九千部からラインを北上させると、香椎宮に当たる。香椎宮は大嶽と鉾立山の東西ラインのほぼ中心に位置する。大嶽は磐座を持つ古代信仰の場であり、今も神社が祀られている。香椎宮は神功皇后伝承地・仲哀天皇の香椎宮跡伝承地で廟であり、今日でも官幣社ならぬ幣を奉られる神社である。香椎宮と九千部のほぼ中央に弥生時代の須玖岡本遺跡がある。
九千部が古い神祭りにかかわっていたと思われるのは、須玖岡本遺跡を通って香椎宮に届くからである。須玖岡本遺跡は弥生中期の中心地であったと考えられる。ここには中国と交流した王墓があり、鏡・銅矛・鏃の鋳型が出土する弥生の最先端の一大工業地帯である。この春日丘陵の南に九千部山頂があり、須玖岡本より基山山頂も望める。福岡平野をはさんで北に立花山と南に九千部山。立花山は本来「二神山」と呼ばれる香椎宮のご神体山である。
また、香椎宮の東にある鉾立山は、玉依姫伝承地である。玉依姫が宝満山に降りる前に鎮座地を探していた時、矛を立てて菅岳と高さを比べたという山である。この鉾立山から南北ラインを南下させると、鉾立山→砥石山→宝満山→宮地岳→高良大社と山頂を直線がつなぐ。まことに不思議な有難い太陽時計のラインができている。須玖岡本から見ると夏至の陽は砥石山から、春分秋分の陽は宝満山から、冬至の陽は宮地岳から昇る。宮地嶽は江戸時代までは「天の香久山」と呼ばれていたという。
九千部が古代の人々にとって重要な山であったことは、上記のことからもうなずけることだろう。
更に、基山と志賀海神社の元宮(勝間側の外海に面している)と結ぶ線上には、基山→日拝塚古墳→福岡城天守跡(築城前の赤坂山?)→志賀海神社元宮とならぶ。日拝塚古墳は春分秋分に大根地山から日が昇るのが見えるので命名された前方後円墳である。この日拝塚の位置は、焼ノ峠古墳→天拝山→日拝塚→愛宕神社とか、脊振山→日拝塚→(須玖岡本)→竹原古墳とか、平原王墓→飯盛山→日拝塚→観世音寺とかの様々なラインが通過する。まさに古代の信仰のラインの通過点となっている。
基山からのラインが日拝塚を通るのはそこに意味があったからである。日拝塚古墳が築造される時、重要だった山は、飯盛・脊振・天拝・大根地・基山の山々であった。そして、古墳築造に欠かせないのが過去の王墓や首長の墳丘墓であったようである。墳丘墓は盛り土のおかげで目印となりやすかったのだろう。
重要だったと思われる山々には、それぞれに神が祀られていた。イザナミ・五十猛・荒穂などその土地のゆかりの神であり、各地の首長が祀っていた神々だろう。
九千部南北ラインと宝満東西ラインの交点が須玖岡本遺跡であり、ここを中心に考えると、砥石・宝満・宮地岳(筑紫野)が太陽時計の山頂であり、重要だったことがうかがえる。そして、九千部は太陽が毎日かならず南中する山である。ここが信仰の対象になるのは想像に難くない。
さて、これまでの山々の連なりと寺社と古墳の状況から考えると、九千部・基山・砥上・宝満・飯盛・鉾立・宮地(筑紫野)の山頂が重要な意味を持っていた頃とは、古墳時代となるのだろう。もちろん、その時代前の弥生の風習や伝統も受け継いでいたのであろう。須玖岡本のある春日丘陵の状況からして、この時代には弥生の信仰や伝統が色濃く残り、そこに新しい人々(侵入者)により新しい神が持ち込まれたという構図になる。
2・入り乱れた神々の出自を少しだけ考える
では、侵入者が持ち込んだ信仰(神々)とはどんな様相を示していたのだろうか。これまでに侵入者としての可能性があるのは、高良大社の武内宿祢や宝満山の玉依姫である。
延喜式内社の志登神社(小社)が鎮座する糸島市の志登は、古来より玉依姫上陸の聖地とされてきた。ここでも、玉依姫は外から来た神のようだ。鉾立山の伝承は玉依姫が鎮座地を求めていた時、菅岳より気に入った山を見つけたので鉾立山に矛を立てて高さを図ったという。やはり外からの侵入した神であることがうかがえる。
また、平安時代(九世紀)の大宰府の官人は穂波の大分宮に幣を奉るため参詣しなければならなかったが、その為に伯母(玉依姫)の山・宝満山を越えるのは不敬であるとして、十世紀になって大分宮は筥崎宮(福岡市東区)に遷宮された。侵入した玉依姫は、長く宝満山に留まっていたようである。
玉依姫は何処からやって来たのか。菅岳や鉾立山を知っていて、穂波町など複数の町の町史に同じ伝承が書かれていることから、福岡県の東北部からの侵入ということになろうか。のちに、玉依姫は神武の母として「宝満大神」と呼ばれ、方々の宝満神社に祭られていく。平安時代になっても、宝満山は「伯母の山」として大宰府の官人に重要視され、穂波町の大分宮に国司が幣を捧げるのに宝満山を越えねばならないことが不敬であるとされたのである。
ほかにも、延喜式内社の名神大社としてより、宗像三女神の神社として有名になっている宗像大社は、基山のほぼ北になる。三重県の伊勢神宮のほぼ真北にある気多神社は、もともと伊勢神宮の北の神社として作られたという。気多とは北のなまったものであるとか。とすると、宗像大社も「ある神社(地点)」の北を意識して造営されたのだろうか。宗像大社そのものにも、もともとの祭神は大国主命だったという説もある。万葉集を詠む限り、その可能性もかなりありそうである。
近隣では祭神のほかに大国主命を密かに祀る神社が点在する。三女神も他からの侵入した神の可能性も高い。もとは三女神ではなかったという話も方々でなされている。祭神の入れ替えは政変時の条件であろう。
紫色(基山→宗像大社)
薄茶色(基山→日拝塚古墳→舞鶴城天守→志賀海神社元宮)
黄緑色?(基山→英彦山・高住神社→宇佐神宮の旧社→熊野本宮大社・大祓)*有名どころを結ぶ?
基山のほぼ真南に荒穂神社があるのは気になるところである。荒穂神社→基山→天拝山の荒穂神社と、基山は南北の荒穂神社を結びつける。
次に、渡神岳に渡った神であるが、江田船山古墳→国見山→渡神岳のラインから察すると、肥後から渡り来られた可能性がある。
渡神岳→英彦山の北岳→御所が嶽(神籠石がある)
渡神岳→鷹取山→基山(すでに紹介している)
渡神岳→釈迦岳→御前岳→高良大社(すでに紹介している)
渡神岳に渡来た神は北部九州に浸透したことがうかがえるだろう。渡神がその侵入の起点となった。まさに渡神岳なのである。また、その出発地として菊池川流域が考えられるということである。江田船山古墳からのラインがそれを示す。
さて、肥後の勢力と言ってもそれは江田船山古墳が在る菊池川の下流域のみではない。次の図でも分かるように、阿蘇の神もかかわっているようである。
①八方ヶ岳→男岳→岩戸山古墳
②草壁吉見神社→阿蘇中岳→八方ヶ岳→脊振
③八方ヶ岳→国見岳→鷹取山→大巳貴神社→宮地嶽古墳(福津市)
④高千穂神宮→阿蘇中岳→高良大社
⑤阿蘇中岳→釈迦岳→熊渡山→宮地嶽古墳
こうしてみると、肥後の神々が侵入した跡がうかがえそうである。そして、古墳時代に入って更に広い範囲からの侵入となったと想像される。
3 基山とは何か
基山のことを考えるとき、近隣周辺の神社や山との関係のみに注目すると「基山」を見失う。脊振山系の端に何気なく存在する山だが、古代の祭祀線を求めるときに目視するために使われたようである。つまり、神の通過された場所である。ラインをたどるためには重要な位置にあり、神が通過された土地として後々までも払い清めたのであろう、と想像するのである。その根拠は、山頂と神社、山頂と墳丘墓を結びつけるラインである。
時を経て、聖地として伝えられ土地に地元の神が祀られたり、政権交代により新しい神が渡来られたりしたのであろう。そこが聖地であることは、長く人々の生活や気持ちの中に残っていたということでもある。だからこそ、白村江敗戦の大転換期に古来からの神が降ろされた。いや、聖地であるからこそ、国守り(政権を守る)の山城が築かれたのである。他の神籠石も神祭りを背景に築造されたようである。朝鮮式の山城も、基本的には神籠石と同じ思想の基に築造されたとしたら、それも十分に理解できるし考えられることである。
「基山とは何か」という問いに対する私の答えは「古来より基山は聖地であった。神が渡るときに通過する神の道の通過点であった。」となる。
ひとまず、ここまでにします。
by tizudesiru
| 2015-09-25 23:40
| 119基山とは何か
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204吉備真備の挫折と王朝の交替
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221斑鳩寺は若草伽藍
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382松浦佐用姫は何故死んだのか
383令和三年の奇跡を祈りましょう
384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ
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385万葉集を片手に旅ゆけば
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