香椎宮が教える倭女王の墓
橿日宮が教える倭女王の墓 紀伊国屋に本を探しに行きました。一日も早く香椎宮の謎を知りたかったからです。しかし、空振りです。見つかりませんでした。
古いはずの香椎宮があまり歴史的に取り上げられていないのは、不思議です。香椎宮をグーグルの画像で見ると、二つの森に分かれています。現香椎宮が左、仲哀天皇の訶志比宮跡が右で、ここは大本営址でもあります。香椎宮は古くは香椎廟と呼ばれ、延喜式では式内社に選ばれていません。しかし、日本書紀に出てくる地名で、今も同じ位置にあるらしいというのは珍しいのではないでしょうか。グーグルの画像にラインを入れてみました。。
さまざまなラインが入ります。東西ラインが2本。香椎宮からの放射ラインが7本。古宮跡からのラインが4本。そして、香椎宮裏を横切るラインが1本。合計15本のラインを引いてみました。番号を打ちます。東西ライン(上から1・2)放射ライン(反時計回り3・4・5・6・7・8・9)古宮後からのライン(反時計回り10・11・12・13・)その他(14)と、します。
1 大嶽神社の裏山―香椎宮(裏の社)―鉾立山 *大嶽山には岩座がある
2 大嶽神社(西戸崎)-香椎宮-鉾立山 *大嶽から二本目のラインを引いてみた
3 香椎宮―愛宕神社(福岡市西区)―高祖山(糸島市)
4 香椎宮―飯盛山―雷山
5 香椎宮―須玖岡本(王墓)-九千部山(香椎宮のほぼ真南)
6 香椎宮―筑紫神社―五郎山古墳―御勢大霊石神社
7 香椎宮―太祖神社―古処山
8 香椎宮―鹿毛馬神籠石―三ノ岳(香春岳)
9 香椎宮―若宮八幡神社(宮若市)-六嶽神社
10 古宮跡―熊野神社(須玖岡本)―九千部山 *香椎宮からのラインは、王墓を通る
11 香椎宮―竃神社(式内社)-林田の三奈木神社(式内社)
12 香椎宮―大根地神社―荷原の三奈宜神社(式内社)
13 古宮跡―若杉山―古処山
14 一貴山銚子塚―香椎宮―六嶽―(劔神社)
とりあえず14本です。この中に、背振のラインを入れていません。脊振との関係はなかったのかもしれませんが、まだ未発見の遺構があるのかもしれません。
さて、上記のラインから明らかになる「香椎宮」とは、いかなる神社なのでしょう。
(1)大嶽・鉾立山と香椎宮
1・2からわかることは、西の大嶽と東の鉾立山のほぼ中間に香椎宮があることです。グーグルによる測定では、大嶽・鉾立山間21.7km。大嶽・香椎宮間10.8km。香椎宮・鉾立間10.7kmで、その差はわずかです。高度な測量技術があったかのようです。
さて、大嶽のことですが、大嶽には岩座があります。岩座と神社の両方から鉾立山にラインを引くと、岩座を起点とするほうが古くなります。岩座から香椎宮本殿の裏を通り訶志比宮跡を通ります。が、大嶽神社からは香椎宮を通るので、神社という形ができてからのラインでしょう。大嶽から南にまっすぐラインを引くと、福岡市西区の愛宕山を通り脊振山地を越えて、帯隅山に届きます。帯隅山には、神籠石系山城があります。福岡市愛宕山のふもとの室見川流域は、吉武高木遺跡で知られる早良区です。紀元前に半島と交流があった遺跡です。
一方の鉾立山からラインを南下させると砥石山・宝満山・ 宮地岳(神籠石系山城)を通り、高良大社(久留米市)まで届きます。大嶽と鉾立山からのラインが、どちらも神籠石系山城に至るのがすごいです。何らかのかかわりがあることを示唆しています。
では、中心に来る香椎宮はどうでしょう。ここからラインを南下させると、九千部山に届きますが、間に春日市須玖岡本の弥生王墓と言われる地点を通ります。訶志比宮跡からのラインは、春日市の同じ地域の熊野神社を通り九千部に届きます。弥生時代の早良区が栄えた後に、春日市須玖岡本地区が栄えたそうです。両地区の首長は弥生時代のリーダーだったのでしょう。それにしても、香椎宮の南に弥生王墓と熊野神社が入る意味はなんでしょう。仲哀天皇の橿日宮は、九千部山の真北に作られています。間に、熊野神社と王墓が入る。つまり、香椎宮の関係者は、弥生の首長を意識していた。崇敬していた。そうなると、香椎宮の創建はかなり古くなります。王墓は大石の下にあり、長い間忘れられていた。しかし、熊野神社は、高台に忘れられず祭られていた。私がこのことにこだわるのには、理由があります。
春日市のこの地域は弥生遺跡密集地だけでなく、弥生のレイラインだからです。
宝満・飯盛ライン(弥生レイライン)の説明を少々
この東西二つの山について繰り返し説明してきたのでかなり御存じと思います。このライン上に、宝満山を起点→大城山(古代山城跡)→春日市須玖岡本遺跡(1世紀)・熊野神社→吉武高木遺跡(紀元前1)→飯盛神社→飯盛山→細石神社→一貴山銚子塚古墳(4世紀)が連なっているのです。または、須玖岡本王墓(1世紀)→飯盛神社→三雲南小路王墓(2世紀)→一貴山銚子塚古墳となります。宝満山を起点にするか、王墓を起点にするかで、少しラインがずれますが、宝満・飯盛に守られたライン上に首長たちが眠っているようです。何より橿日宮からのラインが南下して、宝満・飯盛ライン上の熊野神社と王墓を通過する。このことは、何を意味するのでしょう。香椎宮からのライン上には、重要な弥生の真実が隠れていることになりませんか。まさに、熊野神社に。
この熊野神社を斜めに横切る赤ラインは、愛宕・鉾立ラインの愛宕山と、宮地岳(阿志伎山城)を結んだものです。熊野神社をしっかりとらえています。やはり、古代山城が築かれた時代、熊野神社は重要な位置にあったようです。
もったいぶっても仕方ないですね。唐突ですが、弥生の重要人物と言えば、倭の女王です。もし、倭の女王が九州に住んでいたとしたら、やはり多くの王が眠る弥生のレイライン上に永眠しているのではないでしょうか。しかし、春日の岡本地域は那国と目されているようです。女王国ではないです。それでも、倭女王が眠ると考えられる根拠は、最近の考古学による古墳の被葬者の骨の分析結果です。男女を問わず、同じ墓に埋葬されているのは、血縁者だそうです。女性も実家の墓に埋葬されているのです。遺体が戻って来たのでしょう。倭女王も実家に帰ったと思われます。もちろん、仮にほかの地に埋葬されていたとしても、結果的には戻されたことでしょう。その場所が熊野神社だと考えられると思います。気になるのは、そのことが長く伝わっていたようだということです。
と、結論めいた事を書きました。ブログを読んだ人の「疑問符」や「感嘆符」がどっと届きそうです。
なんで、女性の墓だとわかるの? 「塚}を築いたはずなのに、どうして熊野神社になったの? まだ、女王は熊野神社におられるの? 墓には「親魏倭王」の金印は埋葬されているの?
まだまだ疑問はあるでしょう。それに、上記のラインのうち、まだ1・2までしか、説明をしていません。3から14までの説明も必要でしょう。それは、また、次の機会に。
古いはずの香椎宮があまり歴史的に取り上げられていないのは、不思議です。香椎宮をグーグルの画像で見ると、二つの森に分かれています。現香椎宮が左、仲哀天皇の訶志比宮跡が右で、ここは大本営址でもあります。香椎宮は古くは香椎廟と呼ばれ、延喜式では式内社に選ばれていません。しかし、日本書紀に出てくる地名で、今も同じ位置にあるらしいというのは珍しいのではないでしょうか。グーグルの画像にラインを入れてみました。。
さまざまなラインが入ります。東西ラインが2本。香椎宮からの放射ラインが7本。古宮跡からのラインが4本。そして、香椎宮裏を横切るラインが1本。合計15本のラインを引いてみました。番号を打ちます。東西ライン(上から1・2)放射ライン(反時計回り3・4・5・6・7・8・9)古宮後からのライン(反時計回り10・11・12・13・)その他(14)と、します。
1 大嶽神社の裏山―香椎宮(裏の社)―鉾立山 *大嶽山には岩座がある
2 大嶽神社(西戸崎)-香椎宮-鉾立山 *大嶽から二本目のラインを引いてみた
3 香椎宮―愛宕神社(福岡市西区)―高祖山(糸島市)
4 香椎宮―飯盛山―雷山
5 香椎宮―須玖岡本(王墓)-九千部山(香椎宮のほぼ真南)
6 香椎宮―筑紫神社―五郎山古墳―御勢大霊石神社
7 香椎宮―太祖神社―古処山
8 香椎宮―鹿毛馬神籠石―三ノ岳(香春岳)
9 香椎宮―若宮八幡神社(宮若市)-六嶽神社
10 古宮跡―熊野神社(須玖岡本)―九千部山 *香椎宮からのラインは、王墓を通る
11 香椎宮―竃神社(式内社)-林田の三奈木神社(式内社)
12 香椎宮―大根地神社―荷原の三奈宜神社(式内社)
13 古宮跡―若杉山―古処山
14 一貴山銚子塚―香椎宮―六嶽―(劔神社)
とりあえず14本です。この中に、背振のラインを入れていません。脊振との関係はなかったのかもしれませんが、まだ未発見の遺構があるのかもしれません。
さて、上記のラインから明らかになる「香椎宮」とは、いかなる神社なのでしょう。
(1)大嶽・鉾立山と香椎宮
1・2からわかることは、西の大嶽と東の鉾立山のほぼ中間に香椎宮があることです。グーグルによる測定では、大嶽・鉾立山間21.7km。大嶽・香椎宮間10.8km。香椎宮・鉾立間10.7kmで、その差はわずかです。高度な測量技術があったかのようです。
さて、大嶽のことですが、大嶽には岩座があります。岩座と神社の両方から鉾立山にラインを引くと、岩座を起点とするほうが古くなります。岩座から香椎宮本殿の裏を通り訶志比宮跡を通ります。が、大嶽神社からは香椎宮を通るので、神社という形ができてからのラインでしょう。大嶽から南にまっすぐラインを引くと、福岡市西区の愛宕山を通り脊振山地を越えて、帯隅山に届きます。帯隅山には、神籠石系山城があります。福岡市愛宕山のふもとの室見川流域は、吉武高木遺跡で知られる早良区です。紀元前に半島と交流があった遺跡です。
一方の鉾立山からラインを南下させると砥石山・宝満山・ 宮地岳(神籠石系山城)を通り、高良大社(久留米市)まで届きます。大嶽と鉾立山からのラインが、どちらも神籠石系山城に至るのがすごいです。何らかのかかわりがあることを示唆しています。
では、中心に来る香椎宮はどうでしょう。ここからラインを南下させると、九千部山に届きますが、間に春日市須玖岡本の弥生王墓と言われる地点を通ります。訶志比宮跡からのラインは、春日市の同じ地域の熊野神社を通り九千部に届きます。弥生時代の早良区が栄えた後に、春日市須玖岡本地区が栄えたそうです。両地区の首長は弥生時代のリーダーだったのでしょう。それにしても、香椎宮の南に弥生王墓と熊野神社が入る意味はなんでしょう。仲哀天皇の橿日宮は、九千部山の真北に作られています。間に、熊野神社と王墓が入る。つまり、香椎宮の関係者は、弥生の首長を意識していた。崇敬していた。そうなると、香椎宮の創建はかなり古くなります。王墓は大石の下にあり、長い間忘れられていた。しかし、熊野神社は、高台に忘れられず祭られていた。私がこのことにこだわるのには、理由があります。
春日市のこの地域は弥生遺跡密集地だけでなく、弥生のレイラインだからです。
宝満・飯盛ライン(弥生レイライン)の説明を少々
この東西二つの山について繰り返し説明してきたのでかなり御存じと思います。このライン上に、宝満山を起点→大城山(古代山城跡)→春日市須玖岡本遺跡(1世紀)・熊野神社→吉武高木遺跡(紀元前1)→飯盛神社→飯盛山→細石神社→一貴山銚子塚古墳(4世紀)が連なっているのです。または、須玖岡本王墓(1世紀)→飯盛神社→三雲南小路王墓(2世紀)→一貴山銚子塚古墳となります。宝満山を起点にするか、王墓を起点にするかで、少しラインがずれますが、宝満・飯盛に守られたライン上に首長たちが眠っているようです。何より橿日宮からのラインが南下して、宝満・飯盛ライン上の熊野神社と王墓を通過する。このことは、何を意味するのでしょう。香椎宮からのライン上には、重要な弥生の真実が隠れていることになりませんか。まさに、熊野神社に。
この熊野神社を斜めに横切る赤ラインは、愛宕・鉾立ラインの愛宕山と、宮地岳(阿志伎山城)を結んだものです。熊野神社をしっかりとらえています。やはり、古代山城が築かれた時代、熊野神社は重要な位置にあったようです。
もったいぶっても仕方ないですね。唐突ですが、弥生の重要人物と言えば、倭の女王です。もし、倭の女王が九州に住んでいたとしたら、やはり多くの王が眠る弥生のレイライン上に永眠しているのではないでしょうか。しかし、春日の岡本地域は那国と目されているようです。女王国ではないです。それでも、倭女王が眠ると考えられる根拠は、最近の考古学による古墳の被葬者の骨の分析結果です。男女を問わず、同じ墓に埋葬されているのは、血縁者だそうです。女性も実家の墓に埋葬されているのです。遺体が戻って来たのでしょう。倭女王も実家に帰ったと思われます。もちろん、仮にほかの地に埋葬されていたとしても、結果的には戻されたことでしょう。その場所が熊野神社だと考えられると思います。気になるのは、そのことが長く伝わっていたようだということです。
と、結論めいた事を書きました。ブログを読んだ人の「疑問符」や「感嘆符」がどっと届きそうです。
なんで、女性の墓だとわかるの? 「塚}を築いたはずなのに、どうして熊野神社になったの? まだ、女王は熊野神社におられるの? 墓には「親魏倭王」の金印は埋葬されているの?
まだまだ疑問はあるでしょう。それに、上記のラインのうち、まだ1・2までしか、説明をしていません。3から14までの説明も必要でしょう。それは、また、次の機会に。
by tizudesiru
| 2012-11-08 19:55
| 80倭女王墓を教える香椎宮
|
Trackback(2)
Tracked
from buy hydroxyc..
at 2020-08-10 01:54
Tracked
from Www.Youtube...
at 2022-12-07 16:53
地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史
by tizudesiru
記事ランキング
タグ
祭祀線 邪馬台国 卑弥呼 大伴旅人 万葉集 天智天皇 神籠石 聖武天皇 古代山城 三角縁神獣鏡 大伴家持 持統天皇 聖徳太子 法隆寺 岩戸山古墳 天武天皇 大野城 柿本人麻呂 丹後半島 常陸国風土記 舟形石棺 田主丸 稲荷山古墳 津屋崎古墳群 元岡古墳群 文武天皇 三国志 高市皇子 神籠石系山城 西原村 家形石棺 江田船山古墳 杵島曲 NHK 宮地嶽神社 長屋王 倭五王 倭国 庚寅銘大刀 雄略天皇 熊本山古墳 倭王武 沖ノ島 継体天皇 石人石馬 装飾古墳 遠賀川 磐井の乱 藤原仲麻呂 元正天皇 平原王墓 朝鮮式山城 宇佐神宮 原田大六 蘇我馬子 藤岡 白村江敗戦 難波宮 群馬 光明皇后 武内宿禰 平群 太宰府 梅花の宴 藤原不比等 吾妻の国 黒塚古墳 山上憶良 井上内親王 叡福寺 元明天皇 令和元年 石人山古墳 藤原広嗣 大化改新 九州説 伊弉諾神宮 新田神社 筑紫君 筑紫君磐井 三輪町 高松塚古墳 箸墓 弥生時代 筑紫舞 熊本地震 藤原宮 筑前町 中大兄皇子 切り欠き加工 基肄城 志賀海神社 歴史カフェ阿蘇 磐座 纏向遺跡 玄昉 ホケノ山古墳 古事記 一貴山銚子塚古墳 橘諸兄最新の記事
御霊神社・祟り神となった井上皇后 |
at 2024-08-17 16:35 |
祟り神となった井上皇后・御霊神社 |
at 2024-08-16 16:21 |
継体大王の物語を形象埴輪が語る |
at 2023-12-27 01:04 |
古代文化も人も西から東へ。古.. |
at 2023-12-25 22:08 |
弥生時代を生き残るための糸島.. |
at 2023-01-30 15:50 |
元岡古墳群を尋ねました・20.. |
at 2023-01-24 17:01 |
元岡古墳群を尋ねました |
at 2023-01-23 10:20 |
法隆寺釈迦三尊像クローンが語.. |
at 2023-01-09 00:23 |
玉津島は持統天皇の形見の地 |
at 2023-01-04 23:23 |
栄山寺の国宝の八角堂は吉野川.. |
at 2022-12-17 15:30 |
光仁天皇の皇后であった井上内.. |
at 2022-12-16 21:00 |
真の斉明天皇陵とも言われる牽.. |
at 2022-12-14 23:51 |
大塚初重先生、ありがとうござ.. |
at 2022-07-23 22:13 |
中元寺川を見つめる諏訪神社 |
at 2021-09-22 11:49 |
法隆寺釈迦三尊像のクローンが.. |
at 2021-02-11 22:47 |
纏向遺跡の大型建物は、東では.. |
at 2021-01-08 14:56 |
筑紫平野に訪れた弥生時代の大.. |
at 2021-01-03 20:00 |
何処の地域の人が大倭の覇者と.. |
at 2021-01-02 11:53 |
国内最古の分銅を福岡県春日市.. |
at 2021-01-01 14:22 |
平城天皇、万葉集を選ばしむ・.. |
at 2020-12-31 21:08 |
ブログジャンル
ブログパーツ
カテゴリ
全体初めての地図旅
地図のたのしみ
1祭祀線で読む大宰府の位置
2祭祀線で見る竹原古墳
3祭祀線が交叉する間夫という山
4祭祀線で知る筥崎八幡宮
5祭祀線で弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
7祭祀線で読める八女丘陵の古墳のライン
8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
104安心院の佐田神社
386今城塚古墳の謎・物語が見えない
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授柿本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける
373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ
374令和元年こそ万葉集を読み解こう
375大伴家持、万葉集最終歌への道
376神社一人旅はいかがですか
377花の写真はいかがですか
378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東
379万葉集巻二十は鎮魂と告発の歌巻
380関東の神社は、政変を示しているのか
381九州の古墳の不思議と謎
382松浦佐用姫は何故死んだのか
383令和三年の奇跡を祈りましょう
384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ
法隆寺
大塚初重氏の仕事
385万葉集を片手に旅ゆけば
386今城塚古墳の謎・物語が見えない
未分類
画像一覧
フォロー中のブログ
絵本ぶろぐ以前の記事
2024年 08月2023年 12月
2023年 01月
2022年 12月
2022年 07月
2021年 09月
2021年 02月
2021年 01月
2020年 12月
2020年 11月
2020年 10月
2020年 09月
2020年 08月
2020年 07月
2020年 06月
2020年 04月
2020年 03月
2020年 01月
2019年 12月
2019年 11月
2019年 10月
2019年 09月
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2014年 07月
2013年 10月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 05月
2013年 02月
2012年 11月
2012年 09月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
最新のコメント
WEB小説「北円堂の秘密.. |
by omachi at 12:25 |
観世音寺絵図に、碾磑(み.. |
by 尊敬します at 19:36 |
oh! 「すべて」展や「.. |
by 尊敬します at 23:30 |
筑紫野市さんへお伝えくだ.. |
by 尊敬します at 23:36 |
何時もありがとうございま.. |
by tizudesiru at 21:33 |
拝殿でお神楽をやっていた.. |
by 尊敬します at 23:00 |
> 宮原さん ありがと.. |
by tizudesiru at 20:17 |
宮地嶽神社の扁額の文字は.. |
by 宮原 at 10:33 |
たぶん、夾紵棺の技術、大.. |
by 尊敬します at 22:58 |
もう読まれましたか。 .. |
by 大町阿礼 at 21:21 |
> 名無しさん ほんと.. |
by tizudesiru at 11:55 |
> aさん コメントあ.. |
by tizudesiru at 11:20 |
郭務宗が二千人の人々を率.. |
by 名無し at 09:10 |
間夫という山名は鉱山に関.. |
by a at 01:51 |
いつも楽しく拝見させてい.. |
by 尊敬します at 23:15 |
>いつもありがとうござい.. |
by tizudesiru at 20:27 |
弥生の風公園のわら細工の.. |
by 尊敬します at 22:29 |
> コメントありがとうご.. |
by tizudesiru at 23:06 |
建物の遺構もさることなが.. |
by 暇人 at 22:48 |
ごめんなさい。 楼閣じ.. |
by 尊敬します at 00:10 |