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続・筥崎宮の「敵国降伏」その2

地図で楽しむ古代史
 (3)東西ラインは弥生時代の信仰のなごりか
ア 宝満山と飯盛山ラインの遺跡
前の「筥崎宮・太祖宮・大分宮」で紹介した福岡平野を東西から見守る山、飯盛山と宝満山ですが、両山頂を結ぶと間に「須玖岡本遺跡」と「吉武高木遺跡」が来るのです。5万分の一の国土地理院の地図では、見事に連なります。この弥生の代表遺跡が飯盛・宝満ラインに乗る事が、地図に興味を持つようになったきっかけの一つです。まず、宝満山を起点にした西に伸びる白ラインをみてください。須玖岡本遺跡は有名ですが、此処は広い遺跡です。ガラス工房・青銅器工房と工場地帯になっています。銅鏡30面以上を副葬していた王墓は、青印を入れています。他にも、地域の首長墓があります。
須玖坂本(銅生産工房・鏡、銅矛など)
須玖五反田(ガラス工房・玉磨きの砥石出土・ガラス勾玉など)
王墓(甕棺・中国鏡30面以上・銅剣・胴鉾・銅戈・ガラス璧・ガラス玉・勾玉・管玉・甕棺上4tの大石)
須玖岡本(甕棺・弥生住居・小銅鐸鋳型)
岡本(甕棺墓群)
赤井手(鉄器工房・青銅器工房・ガラス鋳型・6世紀初頭古墳に鏡、武具、工具、須恵器)
竹ヶ本(弥生から古墳までの集落・前方後円墳)
宝満山からの白ラインは、大城山・須玖岡本遺跡・吉武高木遺跡・飯盛山・糸島市の三雲南小路・一貴山銚子塚古墳とつながります。須玖岡本王墓から引いたピンクラインですが、須玖岡本王墓・吉武高木(はっきりしませんが大型建物)・飯盛山・三雲南小路王墓とつながります。春日市の須玖岡本王墓は、30面以上の漢鏡や王侯クラスに与えられるガラス璧を副葬し、吉武高木は半島と関係の深い多紐細文鏡を副葬していました。三雲南小路王墓も、35面の漢鏡とガラス璧が出土しているそうです。時代的には、紀元前2世紀から紀元2世紀の首長墓ですが、宝満・飯盛ラインに並んでいます。福岡市早良区が衰えた後、春日市須玖岡本地区が栄え、その後糸島地区が栄えたのでしょうか。弥生の首長は何処かでつながっていたようです。甕棺や鏡など葬送の品物が似ていますから。半島や中国と交流のあった王墓とつながるため、東西の信仰の山の間に眠る事が重要だった弥生時代の首長達。一貴山銚子塚は、古墳時代になりますが。
一貴山銚子塚古墳は4世紀築造の前方後円墳で、珍しい金メッキの方格規矩四神鏡を副葬しています。8面の三角縁神獣鏡は棺外の足元に置かれていた事でも有名です。糸島で最大の古墳で、宝満・大城山・飯盛山のラインに連なっていますから、4世紀でも王墓が信仰の山を頂く事が重要視されたのかも知れません。
他の首長墓や山岳を強く意識し、墳丘墓を造るようになったのでしょう。飯盛・宝満ラインには、弥生時代に栄えた早良国、那国、伊都国の中心地域が載っています。そこは選ばれた土地だったのではないでしょうか。その伝承は、古墳時代にも残っていたと思われます。
つまり、このラインから弥生時代から古墳時代への転換期が見えるという事です。
転換期と言えば、三雲南小路王墓の後、平原王墓になるとそれがよくわかります。この弥生墳丘墓は、可也山(糸島富士)と三雲南小路王墓の間にあり、糸島から見える山の最高峰の井原山と、天ヶ岳の山頂を結んだライン上にあります。平原の王は三雲南小路王墓を崇拝し、地域の山々に畏敬の念を持っていたことになりませんか。しかし、宝満・飯盛ラインに葬られなかった…彼女はただ地域の首長にすぎなかったのでしょうか。
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この平原王墓には、漢鏡と日本最大の内向花文鏡(いずれも国宝)が割られた状態で副葬されていたそうです。今日、これらの銅鏡の内二枚以外、全て国産だったという研究が発表されています。「糸島市の平原弥生王墓(原田大六氏が発掘)の舶載鏡、国産と言われる内向花文鏡は、国産鏡だ」と柳田康雄氏は述べています。また、「古代の鏡と東アジア(学生社)」のなかで、新井宏氏は「鉛同位体から見た三角縁神獣鏡」を発表し、三角縁神獣鏡のほとんどが国産鏡だとしています。更に、平原弥生王墓の鏡も国産としています。見事な中国鏡と思われていた鏡が国産なら、そのころの鋳物技術は優れていた事になります。それから、百年もすれば、鉄を溶かして刀を造ることくらいは出来たと思います。最古の暦を刻んだ鉄剣も、近畿で造らなくてもいいでしょう。近畿王家からの下賜品と、初めから決めている最近の論調に、素人なので意味がわかりません。
(余談)しかし、鏡の研究はずいぶん変わってきたと思います。研究家(王仲殊氏や徐苹芳氏)が指摘されているそうですが、卑弥呼が貰った鏡として可能性が大きい物は、「蝙蝠紐座内行花文鏡・双頭竜鳳文鏡・方格規矩鳥文鏡・方格規矩鏡(漢鏡6期)・キ鳳鏡・獣首鏡・竜鳳鏡(三角縁盤竜鏡を除く)・飛禽鏡・円圏鳥文鏡・位至三公鏡」の十種類であるとか。蝙蝠紐座内向花文鏡は、紐の周りにコウモリの文様が見られし、位至三公鏡は文字で分かるのですが、他は名前しかわかりません。これらの鏡のほとんどは北部九州で出ているそうです。
また、日本で出土する「位至三公鏡」はその形式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じで、中国の北方からしか入ってこないそうです。魏晋時代に都があった洛陽市で発掘された洛陽晋墓54基中、主流になる鏡式(ネットの情報)だそうです。晋代に流行した「位至三公鏡」は、我が国では北九州(佐賀県谷口古墳・糸島市井原など)を中心に分布しています。もちろん、弥生時代の漢鏡はほとんど北九州を中心に出土しています。鏡の出土状況からして、265年から316年の晋代まで、倭国の中心は、北九州にあったとしか考えられないそうです。だから、邪馬台国は、当然、北九州にあったようです。4世紀に何があったのでしょう。
イ 大分宮と愛宕山
大分宮の北側の森は小高い丘になっていて、宮内庁管轄の陵墓です。白い筋は階段です。陵墓から出ている紺ラインは、これより真西にある福岡市早良区愛宕山に届きます。大分宮と愛宕山の間に、式内社(明神大)住吉神社と、舞鶴城・鴻臚館が入ります。式内社が間に入る意味は、筥崎宮と同じでしょうか。愛宕山は、早良区を流れる室見川河口にあります。室見川沿いには吉武高木遺跡や、野方遺跡など有名な弥生の遺跡(卑弥呼の時代の漢鏡出土)があり、はやくから半島・中国と交流を持っていました。吉武高木の首長墓から多紐細文鏡が出土した事はすでに書きましたが、三種の神器(玉・鏡・剣)の副葬の原型がみられる事でも知られています。早良地区の入り口にある愛宕山が、弥生の信仰の山だとしても不思議ではありません。
大分宮と愛宕山は東西の関係になりますが、その役割は何だったのでしょう。大分宮が朝廷から奉幣を受けるべき条件を持ちながら、式内社(明神大)とならなかった理由があるはずです。大分宮を筥崎に遷宮しなければならなかった理由が。それは、愛宕山と東西に並んでいたからではないでしょうか。弥生から続く東西の神祭りの場がそこにあったから、そのまま使えなかった。愛宕山は重要な位置にあります(多数のラインが通過することを考えるとそうなります)。南北朝の頃、愛宕山には九州探題が置かれています。古代から中世まで、ただの田舎ではなかったのです。大分・愛宕ライン上に、住吉神社(式内・明神大)が鎮座していますが、式内社として、住吉神社は何をしているのでしょう。筥崎宮のようにこの地に鎮座する意味を担っていたはずです。東西ラインと関係があるとすれば、大分宮と愛宕山の間に入り込んでいる意味が限られます。それは、大分宮や愛宕山を支える為とは思えません。逆に大分宮と愛宕山の結びつきを断つためと考えると、納得できます。そこが過去の権力者とかかわる場所だとしたら、当然です。更に、鴻臚館まで通過します。大分陵墓・愛宕山の位置を考慮して鴻臚館が造られたのなら、築造年代はさかのぼる可能性があります。鴻臚館も文献に出るより、古くから存在していたとも聞きました。鴻臚館が始まったころ、大分宮はなかったのでしょうか。ここの陵墓が何時の時代か分かれば、大分宮についても理解が深まると思います。
東西に相対する山や墳墓や祭祀場が意味を持っていた時代は、いつまで続いたのでしょう。
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ウ 筥崎宮と宝満山をつなぐと、間に宇美八幡がきて、宝満山を越え大根地山山頂にラインが届きます。大根地山は、春日市の日拝塚古墳から見ると春分秋分に陽が昇る山です。山頂近くに大根地神社があります。つまり、両者は東西の位置にあり、大根地は被葬者の信仰の山だったようです。筥崎宮の遷座地からも選ばれた山になります。そうなると、大根地山も大根地神社も朝廷に協力的な立場にあるのでしょうか。一方では「敵国降伏」を目的とし、一方では「崇敬」の態度をとる…考えられません。大根地山も「敵国」とかかわる山なのでしょう。筥崎宮にとって、宝満山は大事な山です。任命された国司が大分宮に奉幣するのに、伯母の宝満山を越えるのが不敬になるので、筥崎に遷宮したのですから。間に入る宇美神社も応神天皇生誕の伝承地ですが、もともと敵国にかかわる神社だったのでしょうか。では、太祖宮・大分宮はどうでしょう。朝廷の国守りに一役を担っているとは、考えられません。大分宮は愛宕山と東西に相対していますから。
筥崎宮は式内社として「国を守っていた」というより、近畿の朝廷を守っていました。筥崎宮以外の他の式内社はどうでしょう。九州の式内社も、地方の豪族の墓や、信仰の山を朝廷の神の力によって抑え込むために定められたと思うのです。地図で見る限り、九州の他の式内社は、9世紀以前の神祭りの山や、有力豪族の墓を封じ込めるような位置に造られています。その話は、別の機会に。

 
「続々筥崎宮の敵国降伏」に続きます
by tizudesiru | 2012-07-23 15:20 | 76筥崎宮の「敵国降伏」その2 | Trackback(5)
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地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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197光明子の苦悩と懺悔
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199光明皇后の深い憂鬱
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202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
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211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
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215中大兄の三山歌を読む
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217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
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233似ている耳飾のはなし
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235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
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243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
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248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授柿本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける
373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ
374令和元年こそ万葉集を読み解こう
375大伴家持、万葉集最終歌への道
376神社一人旅はいかがですか
377花の写真はいかがですか
378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東
379万葉集巻二十は鎮魂と告発の歌巻
380関東の神社は、政変を示しているのか
381九州の古墳の不思議と謎
382松浦佐用姫は何故死んだのか
383令和三年の奇跡を祈りましょう
384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ 
法隆寺
大塚初重氏の仕事
385万葉集を片手に旅ゆけば
386今城塚古墳の謎・物語が見えない
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