25 文林朗裴清が見た倭王
25 文林朗輩清が見た倭王
阿毎多利思北孤は、聖徳太子ではないかも知れない。聖徳太子は、近畿王家の太子である。日本書紀によると、推古帝は隋の鴻鸕卿裴世清に対して丁寧に対応している。「鴻鸕卿」とは、外交官のようなものである。
推古一六年夏四月、小野妹子と裴清は筑紫に着いた。難波吉士雄成を遣わし唐の客を召された。客の為に新しい館を難波に造った。六月一五日、客達は難波津に泊まった。飾り船で迎えて、新館に入らせた。接待係は、中臣宮地連烏磨呂・大河内直糠手・船史王平である。この時、妹子は『帰還の時、百済で煬帝の国書をかすめ取られたので、届けられない』と言った。妹子を流刑に処すべきとの意見も出たが、天皇は『大唐への聞こえも良くない』と許した。
秋八月三日、唐の客は都に入った。七五匹の飾り馬で海石榴市の路上に客を迎えた。十二日、客を朝廷に召して使いの旨を述べさせられた。唐の進物を庭上に置き、使者裴世清は自ら書を持ち使いの旨を言上した。その書に「皇帝から倭皇にご挨拶を送る。使人の長吏大礼蘇因高らが訪れよく意を伝えた。自分は天命を受けて天下に臨んでいる云々。天皇は海の彼方にあって国民をいつくしみ、国内は平和で人々も融和し、深い至誠の心があって、遠く朝貢されることを知った。(略)鴻鸕寺の掌客裴世清を遣わして、送使の意を述べ、併せて別にある贈り物をお届けする」とあった。その時、阿倍鳥臣が進み出てその書を受け取り、大友クイ連が帝の机上に置いた。この時には皇子・諸王・諸臣は、みな冠に金の飾りをつけた。十六日、客達を朝廷で饗応した。九月五日、客達を難波の大郡でもてなした。十一日、裴世清たちは帰ることになった。小野妹子を大使、吉士雄成を小使として送らせた。天皇は「東の天皇が謹んで西の皇帝に申しあげます。使人鴻鸕寺の掌客裴世清らが我が国に来り、久しく国交を求めていた我が方の思いが解けました云々」と挨拶しているが、これまでの交流は無かったのか。この時の遣唐使が、福因・恵明・高向玄理・僧日文・南淵請安等々八人である。
この推古紀の記述の中には、聖徳太子の姿が見当たらない。文林朗輩清は、聖徳太子にあったのだろうか。歴史上の倭王は多利思北孤だけではないが、髄書を読む限り、倭国の所在地がはっきりしない。大和ではなく、九州のような読後感が残る。倭国は何処まで広がっていたのか。それに、都はどこだろう。宋書では、耶麻臺になっている。
26 倭国王の素顔
六〇〇年と六〇八年、隋の煬帝に遣使を出したのが聖徳太子なら、太子は天皇になっていなければならない。裴清は倭王(俀王)に会っているからだ。六〇〇年の倭王は男である。妻も世継もいる。聖徳太子は用明天皇と穴穂部間人皇后の皇子であり、推古天皇の太子である。太子は冠位十二階を定め、十七条憲法を作り、それは書紀に詳しく記載されている。太子が政治の中核にいたという事だ。六一三年には都と難波の間に大道(官道)も出来ている。太子が斑鳩に宮を建てたのは、六〇一年である。しかし、帝位にはついていない。
軍隊はどうかというと、任那を救うために新羅征討大将軍となって筑紫に下ったのは、太子の弟、久米皇子である。目的を達せぬまま久米皇子は筑紫に甍去(殯葬を長門でしたのは、仲哀天皇と同じである)したが、次に新羅大将軍に命じられたのは、久米皇子の兄の当麻皇子だった。太子一族が軍隊を掌握しようとしたのだろうか。
仏教を取り入れる努力をしたのも太子である。後ろ盾の蘇我氏は、引き続き大臣を引き継いでいる。叔母の推古帝が天皇でなければならない理由は、何だったのだろう。蘇我氏という後ろ盾の絶頂期でもあった。ミステリー小説のように、本当は聖徳太子が皇位を継いでいたのだろうか。法隆寺釈迦三尊像の光背の金石文のいうように素直に天皇になり、法王になっていたとしたら(太子の死亡年と死亡日が、銘文の法王とはずれているが)、歴史はどうなるのだろう。
NHKの番組で知ったことだが、最近の法隆寺の金堂の調査で明らかになったことがある。金堂が一番古い建築物になるのだが、釈迦三尊像の天井の木材の年輪で年代を追及したところ、六六八年に伐られたというものが見つかったそうだ。天智天皇の時代である。若草伽藍と呼ばれる元の法隆寺は、六七〇年に一宇も残さず焼失している。その前に、救世観音も玉虫厨子も釈迦三尊も新築の現法隆寺金堂に移されていたから、傷一つなく今に伝わったらしい。金堂建造の目的は、何? やはり祟り封じなのか。それとも太子の面影を残す像を移して祀りなおすことに、新政権として意味があったのか。たとえば、法隆寺の近くの「藤の木古墳」の被葬者として埋葬し直したとか。この古墳の副葬品があまりに優れた品々なので、王者のものとしか考えられない。しかし、馬子に暗殺された崇峻天皇の墓とは思えない。それで、ついつい素人は憶測してしまう。聖徳太子は最高の地位に居たのに、歴史的には太子としての地位に甘んじなければならなかった。それゆえに、祟りを恐れて祀りなおされたのではないかと。まさかの域を出ないが。
聖徳太子と蘇我馬子は天皇記と国記、臣・連・伴造・国造・百八十部並びに公民達の本記を記録編纂している。(蘇我氏滅亡の折に天皇記・国記及び珍宝を全て焼くとあり、船史恵尺が素早く国記を取って中大兄皇子に献じたという。太子の国記は、日本書紀編纂の時に役立ったはず)太子は極めて天子に近い条件に囲まれている。
稲目、馬子、蝦夷、入鹿と続く大臣に集中した権力は、近畿王家には邪魔だったはずである。蘇我入鹿が、聖徳太子の子、山城大兄一族を追い詰め自殺させたのは、蘇我氏への権力集中に対する豪族達の不満を解消し、蘇我氏の権力を維持する為に、入鹿が選んだ苦渋の選択だったのかも知れない。継体→欽明→敏達とつながった直系皇統が、用眀→崇峻→推古と蘇我氏の勢力に取り込まれそうになっていた。そこで、推古→聖徳太子→山背大兄と歪んでしまっては、かろうじて皇統を継いだ継体天皇の意味が失われてしまう。聖徳太子は、天子であってはならなかった。敏達天皇の直系に皇統を戻す為とはいえ、然るべき地位にあった聖徳太子の存在の抹殺は、天智天皇としても後ろめたかったに違いない。太子一族の霊を慰める事、それが、法隆寺建立の目的だったのではないか。そして、近畿王家の繁栄を願った。となると、太子は天子になっていたかも知れない。
六四〇年に、唐から高向玄理や南淵請安などが帰った。
彼らに学んだ人々が国の在り方を考え直し、計画したという出来事が、六四五年の蘇我大臣一家を滅ぼした「大化の改新」である。皇位継承の争いではない。此処に大きな意味があったとすれば、中国に学んだ人々の力を借り、蘇我氏が持っていた権力を奪った事になる。(たとえば「大倭」という権力の象徴、税を集めるトップの組織だったのではないだろうか)そして、天子の治める国家を目指した。皇位を継いだのは、天智の叔父の孝徳天皇であった。この天皇の時代に、公地公民・班田収受が始まるなど、国家の基本的な骨格が出来ている。実行されたかどうかは分からないが。「大化」「白雉」という年号もある。この後、年号が使われないのは何故だろう。この天皇が排除されたので使われなかったからだろうか。留学から戻った日文(僧・旻)は、「大化改新」の孝徳帝を思想的に支えた人である。日文(僧・旻)が亡くなる時、孝徳帝がその死を惜しみ悲しんでいる。孝徳帝は理想の中に滅び、中大兄の理想に取って代わられた。そして、王家の理想と野望は、壬申の乱までもつれた。
しかしながら、再び疑問が生まれた。遣唐使(遣隋使)が帰るまで、国家としての組織が十分でなかったとしたら、「倭王は近畿にはいなかった」ことにならないか。天子がいて、府を開き、国の組織があり、王城があったのなら、留学生の帰国を待って改新する必要はない。そうなると、六世紀末の「日出処天子(阿毎多利思北孤)」は、誰だろう。
阿毎多利思北孤は、聖徳太子ではないかも知れない。聖徳太子は、近畿王家の太子である。日本書紀によると、推古帝は隋の鴻鸕卿裴世清に対して丁寧に対応している。「鴻鸕卿」とは、外交官のようなものである。
推古一六年夏四月、小野妹子と裴清は筑紫に着いた。難波吉士雄成を遣わし唐の客を召された。客の為に新しい館を難波に造った。六月一五日、客達は難波津に泊まった。飾り船で迎えて、新館に入らせた。接待係は、中臣宮地連烏磨呂・大河内直糠手・船史王平である。この時、妹子は『帰還の時、百済で煬帝の国書をかすめ取られたので、届けられない』と言った。妹子を流刑に処すべきとの意見も出たが、天皇は『大唐への聞こえも良くない』と許した。
秋八月三日、唐の客は都に入った。七五匹の飾り馬で海石榴市の路上に客を迎えた。十二日、客を朝廷に召して使いの旨を述べさせられた。唐の進物を庭上に置き、使者裴世清は自ら書を持ち使いの旨を言上した。その書に「皇帝から倭皇にご挨拶を送る。使人の長吏大礼蘇因高らが訪れよく意を伝えた。自分は天命を受けて天下に臨んでいる云々。天皇は海の彼方にあって国民をいつくしみ、国内は平和で人々も融和し、深い至誠の心があって、遠く朝貢されることを知った。(略)鴻鸕寺の掌客裴世清を遣わして、送使の意を述べ、併せて別にある贈り物をお届けする」とあった。その時、阿倍鳥臣が進み出てその書を受け取り、大友クイ連が帝の机上に置いた。この時には皇子・諸王・諸臣は、みな冠に金の飾りをつけた。十六日、客達を朝廷で饗応した。九月五日、客達を難波の大郡でもてなした。十一日、裴世清たちは帰ることになった。小野妹子を大使、吉士雄成を小使として送らせた。天皇は「東の天皇が謹んで西の皇帝に申しあげます。使人鴻鸕寺の掌客裴世清らが我が国に来り、久しく国交を求めていた我が方の思いが解けました云々」と挨拶しているが、これまでの交流は無かったのか。この時の遣唐使が、福因・恵明・高向玄理・僧日文・南淵請安等々八人である。
この推古紀の記述の中には、聖徳太子の姿が見当たらない。文林朗輩清は、聖徳太子にあったのだろうか。歴史上の倭王は多利思北孤だけではないが、髄書を読む限り、倭国の所在地がはっきりしない。大和ではなく、九州のような読後感が残る。倭国は何処まで広がっていたのか。それに、都はどこだろう。宋書では、耶麻臺になっている。
26 倭国王の素顔
六〇〇年と六〇八年、隋の煬帝に遣使を出したのが聖徳太子なら、太子は天皇になっていなければならない。裴清は倭王(俀王)に会っているからだ。六〇〇年の倭王は男である。妻も世継もいる。聖徳太子は用明天皇と穴穂部間人皇后の皇子であり、推古天皇の太子である。太子は冠位十二階を定め、十七条憲法を作り、それは書紀に詳しく記載されている。太子が政治の中核にいたという事だ。六一三年には都と難波の間に大道(官道)も出来ている。太子が斑鳩に宮を建てたのは、六〇一年である。しかし、帝位にはついていない。
軍隊はどうかというと、任那を救うために新羅征討大将軍となって筑紫に下ったのは、太子の弟、久米皇子である。目的を達せぬまま久米皇子は筑紫に甍去(殯葬を長門でしたのは、仲哀天皇と同じである)したが、次に新羅大将軍に命じられたのは、久米皇子の兄の当麻皇子だった。太子一族が軍隊を掌握しようとしたのだろうか。
仏教を取り入れる努力をしたのも太子である。後ろ盾の蘇我氏は、引き続き大臣を引き継いでいる。叔母の推古帝が天皇でなければならない理由は、何だったのだろう。蘇我氏という後ろ盾の絶頂期でもあった。ミステリー小説のように、本当は聖徳太子が皇位を継いでいたのだろうか。法隆寺釈迦三尊像の光背の金石文のいうように素直に天皇になり、法王になっていたとしたら(太子の死亡年と死亡日が、銘文の法王とはずれているが)、歴史はどうなるのだろう。
NHKの番組で知ったことだが、最近の法隆寺の金堂の調査で明らかになったことがある。金堂が一番古い建築物になるのだが、釈迦三尊像の天井の木材の年輪で年代を追及したところ、六六八年に伐られたというものが見つかったそうだ。天智天皇の時代である。若草伽藍と呼ばれる元の法隆寺は、六七〇年に一宇も残さず焼失している。その前に、救世観音も玉虫厨子も釈迦三尊も新築の現法隆寺金堂に移されていたから、傷一つなく今に伝わったらしい。金堂建造の目的は、何? やはり祟り封じなのか。それとも太子の面影を残す像を移して祀りなおすことに、新政権として意味があったのか。たとえば、法隆寺の近くの「藤の木古墳」の被葬者として埋葬し直したとか。この古墳の副葬品があまりに優れた品々なので、王者のものとしか考えられない。しかし、馬子に暗殺された崇峻天皇の墓とは思えない。それで、ついつい素人は憶測してしまう。聖徳太子は最高の地位に居たのに、歴史的には太子としての地位に甘んじなければならなかった。それゆえに、祟りを恐れて祀りなおされたのではないかと。まさかの域を出ないが。
聖徳太子と蘇我馬子は天皇記と国記、臣・連・伴造・国造・百八十部並びに公民達の本記を記録編纂している。(蘇我氏滅亡の折に天皇記・国記及び珍宝を全て焼くとあり、船史恵尺が素早く国記を取って中大兄皇子に献じたという。太子の国記は、日本書紀編纂の時に役立ったはず)太子は極めて天子に近い条件に囲まれている。
稲目、馬子、蝦夷、入鹿と続く大臣に集中した権力は、近畿王家には邪魔だったはずである。蘇我入鹿が、聖徳太子の子、山城大兄一族を追い詰め自殺させたのは、蘇我氏への権力集中に対する豪族達の不満を解消し、蘇我氏の権力を維持する為に、入鹿が選んだ苦渋の選択だったのかも知れない。継体→欽明→敏達とつながった直系皇統が、用眀→崇峻→推古と蘇我氏の勢力に取り込まれそうになっていた。そこで、推古→聖徳太子→山背大兄と歪んでしまっては、かろうじて皇統を継いだ継体天皇の意味が失われてしまう。聖徳太子は、天子であってはならなかった。敏達天皇の直系に皇統を戻す為とはいえ、然るべき地位にあった聖徳太子の存在の抹殺は、天智天皇としても後ろめたかったに違いない。太子一族の霊を慰める事、それが、法隆寺建立の目的だったのではないか。そして、近畿王家の繁栄を願った。となると、太子は天子になっていたかも知れない。
六四〇年に、唐から高向玄理や南淵請安などが帰った。
彼らに学んだ人々が国の在り方を考え直し、計画したという出来事が、六四五年の蘇我大臣一家を滅ぼした「大化の改新」である。皇位継承の争いではない。此処に大きな意味があったとすれば、中国に学んだ人々の力を借り、蘇我氏が持っていた権力を奪った事になる。(たとえば「大倭」という権力の象徴、税を集めるトップの組織だったのではないだろうか)そして、天子の治める国家を目指した。皇位を継いだのは、天智の叔父の孝徳天皇であった。この天皇の時代に、公地公民・班田収受が始まるなど、国家の基本的な骨格が出来ている。実行されたかどうかは分からないが。「大化」「白雉」という年号もある。この後、年号が使われないのは何故だろう。この天皇が排除されたので使われなかったからだろうか。留学から戻った日文(僧・旻)は、「大化改新」の孝徳帝を思想的に支えた人である。日文(僧・旻)が亡くなる時、孝徳帝がその死を惜しみ悲しんでいる。孝徳帝は理想の中に滅び、中大兄の理想に取って代わられた。そして、王家の理想と野望は、壬申の乱までもつれた。
しかしながら、再び疑問が生まれた。遣唐使(遣隋使)が帰るまで、国家としての組織が十分でなかったとしたら、「倭王は近畿にはいなかった」ことにならないか。天子がいて、府を開き、国の組織があり、王城があったのなら、留学生の帰国を待って改新する必要はない。そうなると、六世紀末の「日出処天子(阿毎多利思北孤)」は、誰だろう。
by tizudesiru
| 2011-09-06 20:48
| 25/26文林朗裴清が見た倭王
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20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
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35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
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125「新・奴国展」博物館の諦め
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127倭国を滅ぼした?国
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129?国の墓制・巨石横穴墓
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131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授柿本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける
373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ
374令和元年こそ万葉集を読み解こう
375大伴家持、万葉集最終歌への道
376神社一人旅はいかがですか
377花の写真はいかがですか
378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東
379万葉集巻二十は鎮魂と告発の歌巻
380関東の神社は、政変を示しているのか
381九州の古墳の不思議と謎
382松浦佐用姫は何故死んだのか
383令和三年の奇跡を祈りましょう
384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ
法隆寺
大塚初重氏の仕事
385万葉集を片手に旅ゆけば
386今城塚古墳の謎・物語が見えない
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