24 唐書から見た倭国と日本国
24 唐書から見た倭国と日本国
「新羅本紀」によると、国号を日本と改めたのは、六七〇年で七世紀の事ある。そこには、「自ら言うところでは、日の出る処に近いからこれをもって名とした」だけではない、天智帝の大きな意志が働いているはず。この年には、庚午年籍が造られている。前年に鎌足を亡くし、高安城を修理し、「長門一と筑紫二の城を築く」と重出の条もある。天皇の胸のうちには、不安のようなものがあったのだろうか。
「旧唐書」によれば、倭と日本という二国があったことになっている。倭国伝には白村江戦までの出来事が書かれ、日本伝には白村江戦後の事が書かれていると、ネットの情報にも詳しく書かれていう。
倭国伝には「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅の東南の大海の中にあり」「東西は五月行、南北は三月行、世々中国と通ず」「その王、姓は阿毎氏なり。一大率を置きて諸国を検察し、皆これを畏怖す」一大卒を置いていたのは、邪馬台国時代の伊都国である。では、卑弥呼の姓は阿毎だったのだろうか。世々中国と通じていたのだから、中国に遣使記事のある国である。「倭人伝」の萬二千里ではなく、萬四千里である。二千里増えているが、まだ畿内には届かない。百済・新羅の東南なら九州である。
日本伝には、「日本国は倭国の別種なり。その国、日の辺りにある故に日本をもって名となす。或いは、倭 国自らその名、雅ならざるをにくみ、改めて日本となすという」「或いは、日本はもと小国、倭の地を併せもつと言う」続けて「その入朝する者、多く自ら矜大、實を以って対(こた)えず。故に中国、これを疑う」とある。
後に編纂された「新唐書」では、「倭国」が消え「日本伝」のみである。
その新唐書「東夷伝」日本伝には、「日本は古の倭奴国なり。京師を去ること萬四千里、新羅の東南の海中にある」「東西五月行、南北三月行」と、「旧唐書」倭国伝と似ている。旧唐書の倭国伝と日本伝を合わせた文のようだ。率一人が検察する所も同じである。また、十二の官位があり、文字があり
「其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主」と書いてある。
王の姓は阿毎氏で、天御中主を祖先に持つと自分で言っている。
「皆以『尊』為號、居筑紫城」と書いてあるから、名前に「尊(みこと)」を付けて名乗り、筑紫城に住んでいたようだ。「彦瀲子神武立、更以『天皇』號、(行にんべんに歩)治大和州」彦瀲の子の神武は天皇と号し、大和州に移り治めた。そういえば、日本書紀を要約すれば、神武が東遷したという事になるそうだ。
天智帝の時代、筑紫にはまだ王城の跡が残り、その末裔が居たのだろうか。
「新唐書」には歴代天皇の漢風諡号が書かれていることから、日本国の資料をもとに編纂されたらしいが、阿毎氏の居城まで書かれている。阿毎氏は筑紫城に住み、神武天皇が移動して大和州を治めたと書かれているのだ。筑紫城とは、大宰府の事だろうか。他には考えられないが。日本国は、唐とはかなり交流があった。郭務悰も長く滞在し、遣唐使なども送られているし、中国語で会話もしたはずである。筑紫城や東遷を中国の知識人が空想して書いたとは考えられない。しかし、「新唐書」の資料的価値は低いとされる。
とにかく阿毎氏は筑紫城に住んでいた。では、あの有名な、「隋書」の倭王・姓は阿毎、名は多利思北孤も筑紫城に居たのだろうか。 隋書の「日出処天子」は、聖徳太子とされている。天智天皇より更に歴史をさかのぼらねばならない。
六〇〇年の遣隋使の事が書かれているのは、「隋書」の「東夷伝」である。
推古帝は遣使を隋王朝に出しているが、六〇〇年の遣隋使の記録は、日本書紀にはない。ただし、隋書には倭国ではなく「俀国(たいこく)」と書かれている。しかし、これは「倭国」の間違いであろうと、大方の人が言っている。ひとまず倭国として書いてみた。
「倭国は百済・新羅の東南にあり、水陸三千里である」魏と通じた事があり、里数を知らないので距離を日数でいい、「その国は東西五月行、南北三月行で、それぞれ海に至る。地形は東高西下で、都は邪靡堆で魏志にいう邪馬臺である。古に楽浪郡や帯方郡から一万二千里という。漢光武帝の時入朝し云々。倭奴国である」さらに、倭国大乱後「名を卑弥呼という女子があり、鬼道で衆を惑わしたが、この国の人は王に共立した」と続き、弟や宮室の様子は魏志と同じような描写である。開皇二十年(六〇〇年)、倭王の姓は阿毎、名は多利思北(比)孤で、阿輩雞彌(大王)と号し、隋の宮殿に遣使した。使者が言うには「倭王は天を兄とし、太陽(日)を弟とし、夜明け前に跏趺坐して政を聴き、日の出で務めを止め、弟に委ねる」、これを聞いた隋の高祖は、はなはだ「無義理」と言い、これを改めなさいと諭した。「王の妻は雞彌と号し、後宮に六、七百人の女性がいる。太子は利歌彌多弗利である。城郭はない。内官が十二ある」この後も服飾の説明が続き、武器の描写の後、「兵隊はいるが、征戦はせず、王の朝会で必ず儀式に武器を持ち連なり並び、その国の音楽を奏でる」と、驚くばかりである。その後、律による刑罰が書かれ、「沸騰中の湯の小石を探させる事」や「蛇甕の中に小石を取らせる事」など恐ろしい曲者の判別が書かれる。また、文字はなかったが、仏法を敬い百済に仏経を求めて、文字を使い始めたようである。
結婚については、「婚嫁不取同姓」とあり、同じ氏族から嫁を取るのを避けている。また、「婦、夫家に入るに、必ず先ず犬を跨ぎ、すなわち夫に相見ゆ」とあるので、嫁は夫の家で暮らしている。古代は妻問婚だったと聞いたが、違うようだ。葬送の仕方の後に「阿蘇山あり。その石は故なくして火起こり、天に接する」とある。固有名詞の山は、これのみである。阿蘇の字も現在使われているままである。火山であり、人々はこれを祭っている。また、百済・新羅は倭国を大国で珍物が多いとして、敬迎して常に使を通じて往き来している。
さて、大業三年(六〇七年)、多利思北孤が朝貢の使を遣わした。使者は言う「海西菩薩天子が重ねて仏法を興すと聞き、遣使して朝拝し、兼ねて沙門数十人が来て仏法を学ぶ」その国書には「日出処天子致書、日没処天子無恙云々」と、有名な文があった。帝はこれを悦ばず「蠻夷の書に無礼者あり。また聞くこと勿れ」と言った。翌年、文林朗輩清(裴世清)が倭国に使いしている。何のために来たのだろうか。倭王は、小徳阿輩臺に数百人を付けて鳴り物入りで出迎えさせた。十日後また大禮哥多田比に二百人余りの騎馬で町外れまで出迎えさせ、その都に向かえ、大悦びして「海西に大隋があり、礼儀の国と聞いていたので、朝貢しました。私は都に離れた海の隅の田舎者で礼儀を知りません」とへりくだって挨拶をしている。裴清も「皇帝の徳は二儀に並び、澤が四海に流れるように(四方に行き届いている)。王が(皇帝の徳)化を慕ったので、行人を遣わして此処に宣諭する」と言う。宣諭とは、何の事だろう。『天子の詔をさとす。申し渡す』という事だろうか。無礼な国書を出した倭国を諭しに来たのだろうか。「朝命はすでに達した」と、裴清は貢物と共に使に送られて帰国する。しかし、末文に「此後遂絶」(この後、国交は絶えた)となり、隋書「東夷伝」は終わる。この後、隋とは国交がなかったのか。
日本書紀によると、六一八年に隋が滅びるまでに四回の遣唐使の記述がある。遣隋使ではなく、書紀には遣唐使と書かれている。日本書紀編纂の時期の中国の国号は、唐であったからであろうという説がもっぱらである。また、六〇〇年(開皇二十年)の遣使の記述は隋書「東夷伝」にあるが、日本書紀「推古紀」には書かれていない。その理由は、はっきりしない。
(第一回は六〇〇年)、第二回は六〇七年から六〇八年小野妹子、第三回は六〇八年から六〇九年小野妹子・吉士雄成・倭漢直福因・高向漢人玄理・新漢人大圀・新漢人日文・南淵請安など活躍した人々である。彼らは十五年から三十二年間も中国にいたようである。第四回は六一〇年、第五回は六一四年から六一五年となっている。これらの遣使を命じたのは、書紀では推古帝となっているが、隋書の六〇〇年と六〇七年は阿毎多利思北孤である。
「百済本紀」には、六〇七年「隋が文林朗輩清を倭国に送る。我が国(百済)の南路を経由した」と記録されている。此処には、隋と書かれている。裴清は確かに百済を通り倭国に来ている。書記によると、筑紫に寄り畿内に入っている。彼は、時の天皇に会っている。会えば男性か女性かの区別もつくであろう。彼は、旅行記も残しているそうである。聖徳太子は天皇にはならなかったのだろうか。
「新羅本紀」によると、国号を日本と改めたのは、六七〇年で七世紀の事ある。そこには、「自ら言うところでは、日の出る処に近いからこれをもって名とした」だけではない、天智帝の大きな意志が働いているはず。この年には、庚午年籍が造られている。前年に鎌足を亡くし、高安城を修理し、「長門一と筑紫二の城を築く」と重出の条もある。天皇の胸のうちには、不安のようなものがあったのだろうか。
「旧唐書」によれば、倭と日本という二国があったことになっている。倭国伝には白村江戦までの出来事が書かれ、日本伝には白村江戦後の事が書かれていると、ネットの情報にも詳しく書かれていう。
倭国伝には「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅の東南の大海の中にあり」「東西は五月行、南北は三月行、世々中国と通ず」「その王、姓は阿毎氏なり。一大率を置きて諸国を検察し、皆これを畏怖す」一大卒を置いていたのは、邪馬台国時代の伊都国である。では、卑弥呼の姓は阿毎だったのだろうか。世々中国と通じていたのだから、中国に遣使記事のある国である。「倭人伝」の萬二千里ではなく、萬四千里である。二千里増えているが、まだ畿内には届かない。百済・新羅の東南なら九州である。
日本伝には、「日本国は倭国の別種なり。その国、日の辺りにある故に日本をもって名となす。或いは、倭 国自らその名、雅ならざるをにくみ、改めて日本となすという」「或いは、日本はもと小国、倭の地を併せもつと言う」続けて「その入朝する者、多く自ら矜大、實を以って対(こた)えず。故に中国、これを疑う」とある。
後に編纂された「新唐書」では、「倭国」が消え「日本伝」のみである。
その新唐書「東夷伝」日本伝には、「日本は古の倭奴国なり。京師を去ること萬四千里、新羅の東南の海中にある」「東西五月行、南北三月行」と、「旧唐書」倭国伝と似ている。旧唐書の倭国伝と日本伝を合わせた文のようだ。率一人が検察する所も同じである。また、十二の官位があり、文字があり
「其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主」と書いてある。
王の姓は阿毎氏で、天御中主を祖先に持つと自分で言っている。
「皆以『尊』為號、居筑紫城」と書いてあるから、名前に「尊(みこと)」を付けて名乗り、筑紫城に住んでいたようだ。「彦瀲子神武立、更以『天皇』號、(行にんべんに歩)治大和州」彦瀲の子の神武は天皇と号し、大和州に移り治めた。そういえば、日本書紀を要約すれば、神武が東遷したという事になるそうだ。
天智帝の時代、筑紫にはまだ王城の跡が残り、その末裔が居たのだろうか。
「新唐書」には歴代天皇の漢風諡号が書かれていることから、日本国の資料をもとに編纂されたらしいが、阿毎氏の居城まで書かれている。阿毎氏は筑紫城に住み、神武天皇が移動して大和州を治めたと書かれているのだ。筑紫城とは、大宰府の事だろうか。他には考えられないが。日本国は、唐とはかなり交流があった。郭務悰も長く滞在し、遣唐使なども送られているし、中国語で会話もしたはずである。筑紫城や東遷を中国の知識人が空想して書いたとは考えられない。しかし、「新唐書」の資料的価値は低いとされる。
とにかく阿毎氏は筑紫城に住んでいた。では、あの有名な、「隋書」の倭王・姓は阿毎、名は多利思北孤も筑紫城に居たのだろうか。 隋書の「日出処天子」は、聖徳太子とされている。天智天皇より更に歴史をさかのぼらねばならない。
六〇〇年の遣隋使の事が書かれているのは、「隋書」の「東夷伝」である。
推古帝は遣使を隋王朝に出しているが、六〇〇年の遣隋使の記録は、日本書紀にはない。ただし、隋書には倭国ではなく「俀国(たいこく)」と書かれている。しかし、これは「倭国」の間違いであろうと、大方の人が言っている。ひとまず倭国として書いてみた。
「倭国は百済・新羅の東南にあり、水陸三千里である」魏と通じた事があり、里数を知らないので距離を日数でいい、「その国は東西五月行、南北三月行で、それぞれ海に至る。地形は東高西下で、都は邪靡堆で魏志にいう邪馬臺である。古に楽浪郡や帯方郡から一万二千里という。漢光武帝の時入朝し云々。倭奴国である」さらに、倭国大乱後「名を卑弥呼という女子があり、鬼道で衆を惑わしたが、この国の人は王に共立した」と続き、弟や宮室の様子は魏志と同じような描写である。開皇二十年(六〇〇年)、倭王の姓は阿毎、名は多利思北(比)孤で、阿輩雞彌(大王)と号し、隋の宮殿に遣使した。使者が言うには「倭王は天を兄とし、太陽(日)を弟とし、夜明け前に跏趺坐して政を聴き、日の出で務めを止め、弟に委ねる」、これを聞いた隋の高祖は、はなはだ「無義理」と言い、これを改めなさいと諭した。「王の妻は雞彌と号し、後宮に六、七百人の女性がいる。太子は利歌彌多弗利である。城郭はない。内官が十二ある」この後も服飾の説明が続き、武器の描写の後、「兵隊はいるが、征戦はせず、王の朝会で必ず儀式に武器を持ち連なり並び、その国の音楽を奏でる」と、驚くばかりである。その後、律による刑罰が書かれ、「沸騰中の湯の小石を探させる事」や「蛇甕の中に小石を取らせる事」など恐ろしい曲者の判別が書かれる。また、文字はなかったが、仏法を敬い百済に仏経を求めて、文字を使い始めたようである。
結婚については、「婚嫁不取同姓」とあり、同じ氏族から嫁を取るのを避けている。また、「婦、夫家に入るに、必ず先ず犬を跨ぎ、すなわち夫に相見ゆ」とあるので、嫁は夫の家で暮らしている。古代は妻問婚だったと聞いたが、違うようだ。葬送の仕方の後に「阿蘇山あり。その石は故なくして火起こり、天に接する」とある。固有名詞の山は、これのみである。阿蘇の字も現在使われているままである。火山であり、人々はこれを祭っている。また、百済・新羅は倭国を大国で珍物が多いとして、敬迎して常に使を通じて往き来している。
さて、大業三年(六〇七年)、多利思北孤が朝貢の使を遣わした。使者は言う「海西菩薩天子が重ねて仏法を興すと聞き、遣使して朝拝し、兼ねて沙門数十人が来て仏法を学ぶ」その国書には「日出処天子致書、日没処天子無恙云々」と、有名な文があった。帝はこれを悦ばず「蠻夷の書に無礼者あり。また聞くこと勿れ」と言った。翌年、文林朗輩清(裴世清)が倭国に使いしている。何のために来たのだろうか。倭王は、小徳阿輩臺に数百人を付けて鳴り物入りで出迎えさせた。十日後また大禮哥多田比に二百人余りの騎馬で町外れまで出迎えさせ、その都に向かえ、大悦びして「海西に大隋があり、礼儀の国と聞いていたので、朝貢しました。私は都に離れた海の隅の田舎者で礼儀を知りません」とへりくだって挨拶をしている。裴清も「皇帝の徳は二儀に並び、澤が四海に流れるように(四方に行き届いている)。王が(皇帝の徳)化を慕ったので、行人を遣わして此処に宣諭する」と言う。宣諭とは、何の事だろう。『天子の詔をさとす。申し渡す』という事だろうか。無礼な国書を出した倭国を諭しに来たのだろうか。「朝命はすでに達した」と、裴清は貢物と共に使に送られて帰国する。しかし、末文に「此後遂絶」(この後、国交は絶えた)となり、隋書「東夷伝」は終わる。この後、隋とは国交がなかったのか。
日本書紀によると、六一八年に隋が滅びるまでに四回の遣唐使の記述がある。遣隋使ではなく、書紀には遣唐使と書かれている。日本書紀編纂の時期の中国の国号は、唐であったからであろうという説がもっぱらである。また、六〇〇年(開皇二十年)の遣使の記述は隋書「東夷伝」にあるが、日本書紀「推古紀」には書かれていない。その理由は、はっきりしない。
(第一回は六〇〇年)、第二回は六〇七年から六〇八年小野妹子、第三回は六〇八年から六〇九年小野妹子・吉士雄成・倭漢直福因・高向漢人玄理・新漢人大圀・新漢人日文・南淵請安など活躍した人々である。彼らは十五年から三十二年間も中国にいたようである。第四回は六一〇年、第五回は六一四年から六一五年となっている。これらの遣使を命じたのは、書紀では推古帝となっているが、隋書の六〇〇年と六〇七年は阿毎多利思北孤である。
「百済本紀」には、六〇七年「隋が文林朗輩清を倭国に送る。我が国(百済)の南路を経由した」と記録されている。此処には、隋と書かれている。裴清は確かに百済を通り倭国に来ている。書記によると、筑紫に寄り畿内に入っている。彼は、時の天皇に会っている。会えば男性か女性かの区別もつくであろう。彼は、旅行記も残しているそうである。聖徳太子は天皇にはならなかったのだろうか。
by tizudesiru
| 2011-09-07 13:17
| 24唐書から見た倭国と日本国
|
Trackback(12)
Tracked
from viagra for s..
at 2020-03-27 20:48
Tracked
from chloroquine ..
at 2020-03-30 07:15
Tracked
from viagra
at 2020-04-22 23:08
Tracked
from buy ciproflo..
at 2020-04-23 14:40
Tracked
from buy naltrexo..
at 2020-04-28 04:59
Tracked
from how long doe..
at 2020-05-12 23:51
Tracked
from order viagra..
at 2020-08-05 21:30
Tracked
from viagra best ..
at 2020-09-09 20:25
Tracked
from viagra alter..
at 2020-09-22 10:01
Tracked
from cost of cialis
at 2020-10-17 18:59
Tracked
from www.youtube...
at 2022-11-02 09:02
Tracked
from www.youtube...
at 2022-11-04 08:04
地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史
by tizudesiru
記事ランキング
タグ
祭祀線 邪馬台国 卑弥呼 大伴旅人 万葉集 天智天皇 神籠石 聖武天皇 古代山城 三角縁神獣鏡 大伴家持 持統天皇 聖徳太子 法隆寺 岩戸山古墳 天武天皇 大野城 柿本人麻呂 丹後半島 常陸国風土記 舟形石棺 田主丸 稲荷山古墳 津屋崎古墳群 元岡古墳群 文武天皇 三国志 高市皇子 神籠石系山城 西原村 家形石棺 江田船山古墳 杵島曲 NHK 宮地嶽神社 長屋王 倭五王 倭国 庚寅銘大刀 雄略天皇 熊本山古墳 倭王武 沖ノ島 継体天皇 石人石馬 装飾古墳 遠賀川 磐井の乱 藤原仲麻呂 元正天皇 平原王墓 朝鮮式山城 宇佐神宮 原田大六 蘇我馬子 藤岡 白村江敗戦 難波宮 群馬 光明皇后 武内宿禰 平群 太宰府 梅花の宴 藤原不比等 吾妻の国 黒塚古墳 山上憶良 井上内親王 叡福寺 元明天皇 令和元年 石人山古墳 藤原広嗣 大化改新 九州説 伊弉諾神宮 新田神社 筑紫君 筑紫君磐井 三輪町 高松塚古墳 箸墓 弥生時代 筑紫舞 熊本地震 藤原宮 筑前町 中大兄皇子 切り欠き加工 基肄城 志賀海神社 歴史カフェ阿蘇 磐座 纏向遺跡 玄昉 ホケノ山古墳 古事記 一貴山銚子塚古墳 橘諸兄最新の記事
御霊神社・祟り神となった井上皇后 |
at 2024-08-17 16:35 |
祟り神となった井上皇后・御霊神社 |
at 2024-08-16 16:21 |
継体大王の物語を形象埴輪が語る |
at 2023-12-27 01:04 |
古代文化も人も西から東へ。古.. |
at 2023-12-25 22:08 |
弥生時代を生き残るための糸島.. |
at 2023-01-30 15:50 |
元岡古墳群を尋ねました・20.. |
at 2023-01-24 17:01 |
元岡古墳群を尋ねました |
at 2023-01-23 10:20 |
法隆寺釈迦三尊像クローンが語.. |
at 2023-01-09 00:23 |
玉津島は持統天皇の形見の地 |
at 2023-01-04 23:23 |
栄山寺の国宝の八角堂は吉野川.. |
at 2022-12-17 15:30 |
光仁天皇の皇后であった井上内.. |
at 2022-12-16 21:00 |
真の斉明天皇陵とも言われる牽.. |
at 2022-12-14 23:51 |
大塚初重先生、ありがとうござ.. |
at 2022-07-23 22:13 |
中元寺川を見つめる諏訪神社 |
at 2021-09-22 11:49 |
法隆寺釈迦三尊像のクローンが.. |
at 2021-02-11 22:47 |
纏向遺跡の大型建物は、東では.. |
at 2021-01-08 14:56 |
筑紫平野に訪れた弥生時代の大.. |
at 2021-01-03 20:00 |
何処の地域の人が大倭の覇者と.. |
at 2021-01-02 11:53 |
国内最古の分銅を福岡県春日市.. |
at 2021-01-01 14:22 |
平城天皇、万葉集を選ばしむ・.. |
at 2020-12-31 21:08 |
ブログジャンル
ブログパーツ
カテゴリ
全体初めての地図旅
地図のたのしみ
1祭祀線で読む大宰府の位置
2祭祀線で見る竹原古墳
3祭祀線が交叉する間夫という山
4祭祀線で知る筥崎八幡宮
5祭祀線で弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
7祭祀線で読める八女丘陵の古墳のライン
8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
104安心院の佐田神社
386今城塚古墳の謎・物語が見えない
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授柿本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける
373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ
374令和元年こそ万葉集を読み解こう
375大伴家持、万葉集最終歌への道
376神社一人旅はいかがですか
377花の写真はいかがですか
378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東
379万葉集巻二十は鎮魂と告発の歌巻
380関東の神社は、政変を示しているのか
381九州の古墳の不思議と謎
382松浦佐用姫は何故死んだのか
383令和三年の奇跡を祈りましょう
384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ
法隆寺
大塚初重氏の仕事
385万葉集を片手に旅ゆけば
386今城塚古墳の謎・物語が見えない
未分類
画像一覧
フォロー中のブログ
絵本ぶろぐ以前の記事
2024年 08月2023年 12月
2023年 01月
2022年 12月
2022年 07月
2021年 09月
2021年 02月
2021年 01月
2020年 12月
2020年 11月
2020年 10月
2020年 09月
2020年 08月
2020年 07月
2020年 06月
2020年 04月
2020年 03月
2020年 01月
2019年 12月
2019年 11月
2019年 10月
2019年 09月
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2014年 07月
2013年 10月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 05月
2013年 02月
2012年 11月
2012年 09月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
最新のコメント
WEB小説「北円堂の秘密.. |
by omachi at 12:25 |
観世音寺絵図に、碾磑(み.. |
by 尊敬します at 19:36 |
oh! 「すべて」展や「.. |
by 尊敬します at 23:30 |
筑紫野市さんへお伝えくだ.. |
by 尊敬します at 23:36 |
何時もありがとうございま.. |
by tizudesiru at 21:33 |
拝殿でお神楽をやっていた.. |
by 尊敬します at 23:00 |
> 宮原さん ありがと.. |
by tizudesiru at 20:17 |
宮地嶽神社の扁額の文字は.. |
by 宮原 at 10:33 |
たぶん、夾紵棺の技術、大.. |
by 尊敬します at 22:58 |
もう読まれましたか。 .. |
by 大町阿礼 at 21:21 |
> 名無しさん ほんと.. |
by tizudesiru at 11:55 |
> aさん コメントあ.. |
by tizudesiru at 11:20 |
郭務宗が二千人の人々を率.. |
by 名無し at 09:10 |
間夫という山名は鉱山に関.. |
by a at 01:51 |
いつも楽しく拝見させてい.. |
by 尊敬します at 23:15 |
>いつもありがとうござい.. |
by tizudesiru at 20:27 |
弥生の風公園のわら細工の.. |
by 尊敬します at 22:29 |
> コメントありがとうご.. |
by tizudesiru at 23:06 |
建物の遺構もさることなが.. |
by 暇人 at 22:48 |
ごめんなさい。 楼閣じ.. |
by 尊敬します at 00:10 |