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23 「日本書紀」の中の日本

23 日本書紀の中の日本 日本書紀には「倭王」という語は出て来ない。倭(やまと)は、日本列島を指すのではなく、大和地方のみを指している。これだけの事でも、郭務悰が進上した上表文に書かれた倭王は、畿内の大王ではないと言えないか。倭は何処なのか、改めて確かめたくなる。
 それにしてもなぜ、数年の間に古事記(七一二年)と日本書紀(七二〇年)と二つの歴史書が書かれたのだろう。古事記が不十分だったなら、それに筆を加えればいい。書き直しは出来るはずだ。書紀には古事記が作成されたという記録がない。国家的な仕事をしているのに、である。持統天皇の吉野宮行き(三十一回)は、書紀にかなり繰り返し書かれている。しかし、更に重要であろう「古事記」作成の事が書かれていない。不思議である。秘密裡に作成されたのだろうか。記述の詳しさの違いだけでない、大きな違いがあるようだ。古事記に一度も出て来ない「日本」という文字が、書紀にはかなり出て来る。古事記から日本紀に至る数年間に何があったのだろう。古事記偽書説は、ひとまず横に置いておく。

 まず「日本書紀」の中の日本について見てみよう。
 先の項目で取り上げた「大倭」であるが、書紀では、天皇の諡号にある「大倭」「倭」が「大日本」「日本」と変えられている。この事は、書紀編纂者が、古事記のことを熟知していた事に他ならない。目的があって、古事記に触れなかったのである。または、書紀編纂者は古事記を熟知していたとなろう。
 和風諡号の神倭伊波禮比古命が、神日本磐余彦天皇(一代神武天皇)である。「倭」が「日本」に変えられた理由はなんだろう。四代懿徳天皇は、大日本彦耜友天皇。六代孝安天皇は、日本足彦国押人天皇。七代孝麗天皇は、大日本根子彦太瓊天皇。八代孝元天皇は、大日本根子彦国牽天皇。九代開化天皇は、稚日本根子彦大日日天皇となる。他に日本の字を持つ天皇、二十二代清寧天皇は、白髪武広国押稚日本根子天皇となっている。書紀と古事記では、使われた漢字に大きな違いが出ている。その中で大倭も日本も「やまと」とは読めない。文字が入れ替わっただけでない。意味を背負っている文字に代わっているのだ。日子を彦に変えているのは、音が同じなので分かる。しかし、大倭が日本になるのは不自然な気分が残る。どんな歴史的な意味付けがあるのか。日本は古の倭国の延長にあるという表現だろうか。
 諡号とは、天皇が亡くなった時、その人にふさわしい名を贈るおくり名である。細心の注意を払って作られたと思う。正史編纂に取り掛かった天武天皇や持統天皇には、諡号に「天」が使われている。欽明天皇から「天」が天皇の諡号に使われ出している。二十九代欽明天皇は、天国排開広庭天皇となる。四十一代持統天皇は、高天原広野姫天皇である。高天原の天照大神を意識した諡号であろう。いろいろな方が指摘されているし、古事記にも天照大神の居られる所として高天原が書かれている。持統天皇こそ天照大神の末裔と主張しているのだ。
では、日本書紀の「日本」は、どんな時どんな意味に使われているのだろうか。索引を使って調べてみた。
『大日本』巻一神代「すなわち大日本豊秋津洲を生む」と出るのが最初である。巻一に四回「大日本豊秋津洲」が出て来る。後は、天皇の和風諡号として、巻四に一五回ほど出ている。また、『日本童男・日本武・日本武尊・日本武皇子』などの同一人物の名前として二〇回ほど、『日本足彦国押人』と名前で二回ほど出て来る。
 『日本大国魂神』と巻五の崇神天皇に一回出て来る。「また、日本大国魂神を渟名城入姫命に託して祭らせた。しかし渟名城入姫命は髪が抜け落ち身体が痩せ細って祀る事が出来なかった」とある。この文の前には「天照大神・倭大国魂の二神を同じように天皇の御殿のうちにお祭りしたが……二神とも住むことに不安があったので、天照大神を豊鍬入媛命に託して、倭の笠縫邑に祭り、堅固な神域(ひもろき)を立てた」と出ている。崇神天皇の巻の「日本大国魂」と「倭大国魂」の神は、別の神であろうか。同一神の扱いを受けているようだ。書き分けが分りにくかった。同じ巻に、「日本大国魂」「倭大国魂」と並行して使われているので、同じ神とは思えないのだが。
 『神日本』巻二・巻三に「神日本磐余彦尊」「神日本磐余彦火火出見尊」という和風諡号として五回、後は祖先の名として巻一七と巻二八に一回ずつ。
 『日本国』巻一に大三輪の神が「日本国の三諸山に住みたいと思う」と言った。巻三に饒速日命が「そらみつ日本の国と言った」巻六に「日本国に聖王がおいでになると」と二回。巻九・神功皇后に「新羅王が常に八十艘の貢物を日本国に奉るのであるが」新羅王が「日本国に坐します神の……」巻十・応神天皇に「上表文に、高麗王が日本国に教えるとあった」
 『日本』巻九「東方に神国があって、日本といい」同じく巻九「百済王は、東方に日本という大国があると聞いて」巻一四では、雄略天皇に妻を取られた田狭臣が「百済を踏まえて日本に通じてはならない」と我が子に言った。「百済王は、日本の諸将、小事が原因で不仲になったと聞き」同じく巻一四に「采女大海は小弓宿禰の喪に服するため日本に帰って来た」巻一六・武烈「日本には必ず君主がおられます」など二回。
 巻一七・継体天皇「百済本記に…日本からやって来たと」継体天皇の言葉に「日本は平和であり」「任那の日本の県邑に住む百済の人民で」「この四県は百済に近く日本から遠く」「のろし台、軍用倉庫を置いて、日本の攻撃に備えた」「加羅は新羅と友好を結び、日本に恨みを抱くことになった」「日本人と任那人との間にさかんに子どもが生まれ」継体二八年天皇の崩御を継体二五年とした理由を、百済本記により変えたと書かれている。「また聞くところでは、日本の天皇と太子・皇子は共に薨去されたという」
このように、巻九、巻一六、巻一七では、日本(やまと)を国号として扱っている。特に、外国から見た時の我が国を「やまと(日本)」と総称しているようである。決して畿内の一地方の事ではない。七二〇年前に何らかの国外の資料があり、それを元に国司を編纂したのだろうか。
 日本という名称が最も多く使われているのは、巻一九の欽明天皇の巻である。「日本の天皇の詔は、任那を復権せよと」「永く父兄として日本にお仕えしよう」「また日本の卿たちは長らく任那の国に住んで」「弥麻沙らは、日本から帰り」「使者を日本にむけて……日本に行かせ」「日本の官人に混じって」「日本から帰還した」など、この後も日本は七,八回ほど延々と続く。欽明天皇は継体天皇と手白香姫皇女の皇子であり、継体天皇は筑紫の磐井を倒した天皇である。継体紀の中には「日本の天皇と太子・皇子は共に薨去」という事件も含まれる。継体の代に、大きな事件があったのだ。
推古天皇の巻二十二「高麗国の大興王、日本国の天皇の仏像を造りたまふと聞きて」「日本国に聖人がおり、上宮豊聡耳皇子と申し上げる……玄聖の徳を以ちて日本国にお生まれになられた」「我が王は日本の天皇が賢哲であられると聞いて」
孝徳天皇の巻「明神御宇日本天皇のお言葉があり……」と二回出て来る。「我が日本国の誉田(応神)天皇の御世に」とある。
天智天皇の巻二十七に「また高麗救援に向かった日本の将軍たちが」「高麗は日本に救援を乞うてきたので、将軍を遣わし」「日本の船軍の最初に到着した者と、大唐の船軍とが交戦した。日本は負けて引いた」「日本の諸々の将軍と百済王とは」「混乱している日本の中軍の兵士を率いて」「日本の将軍たちに会って、事を行うよい時機についての相談」「二十四日に日本の船軍と……翌日に出航して初めて日本へ向かった」以上のように、白村江の戦いのとき「日本」がやたら出て来る。敗戦後、百済の人々が渡って来た国が日本である。
 この後に「日本」がでてくるのは、持統天皇の三十巻である。
 「新羅が奏上しては、我が国は、日本の遥か昔の皇祖の御世から……」を二回、これで「日本」という言葉は終わっている。持統紀で日本書紀が終わる。
『日本府』欽明記では、「日本府(やまとのみこともち)」が、二〇回以上出て来る。初出は雄略天皇の「伏して日本府の行軍元帥たちに救援をお頼みします」で、一回のみ。ほとんどは欽明天皇の巻一九に出ている。これは、日本の将軍たちの軍府であったらしいが、後に常設的な政治機関となったらしいと日本書紀の注釈にあった。
『大日本国』巻二七の天智天皇に、百済王が語る言葉に「大日本国の救将庵原君臣…」と出て来る。この大日本は、百済王の外交辞令であろうか。
 日本書紀の作者たちは、明らかに「日本」を国名・外交用語として使っているのである。
しかし、「日本」と並行して、天皇の名前としてだけでなく、「大倭・倭・大和」も使われている。日本と倭とを書き分けた理由があると思うが、「倭」についても書紀を調べてみた。
 人名ではなく地名として「大倭」が頻繁に使われるのは、雄略天皇の辺りからであるが、「倭」としてなら、神武天皇から使われている。
神武紀「倭国の磯城邑に磯城八十梟帥(しきのやそたける)」*梟帥は強い指揮官の意味
安寧紀「父の天皇を倭の桃花鳥田丘上陵に葬る」
崇神紀「倭の笠縫邑にまつり、磯堅城のひもろぎを」
垂仁紀「倭の狭城池と迹見池(とみのいけ)」
景行紀・日本武「倭は国のまほろば、たたなづく青垣山こもれる倭しうるわし」「海路より倭に向い、吉備について」「白鳥になって倭国を指して飛ばれた」「東より帰り伊勢に…伊勢より倭にかえって」
成務紀「大足彦天皇を倭国の山辺道上の陵に葬る」
仲哀紀「天皇を倭国の狭城盾列陵に葬り祀る」「船頭の倭国の菟田の人伊賀彦を祝として」
仁徳紀「倭の屯田と屯倉を掌握しようと」「倭直の祖、麻呂をたずねて」「山背をまわって倭に向かわれた」「秋津島倭の国に雁が子を産むと聞いた事があるか」「秋津島倭の国で雁が子を産むと聞いた事がない」
履中紀「すぐさま大坂より倭に急行し、飛鳥山に着くと」「その日に倭へ向かい、夜中に石上に到着し」
允恭紀「倭の春日について」「弟姫を倭直吾子籠の家に留め」
雄略紀「倭の采女日媛に酒を献じてお迎えさせた」「秋蛉島倭・倭国を秋蛉島という」「倭のヲムラの峰に鹿や猪が伏して」「倭国の吾トの広津邑に職人を住まわせ」
顕宗紀「倭はさやさやと音を立てている茅原である」
武烈紀「琨支が倭に参向した時に筑紫島に到着して」
欽明紀「倭の国の添上郡の山林に住まわせた」「倭国の今来郡が」「安羅にいる倭の諸臣ら任那諸国の旱岐らが」「蘇我大臣稲目宿禰らと倭国の高市郡に遣わして」
推古紀「この年の冬に倭国に高市池、藤原池、肩岡池」
皇極紀「倭国が、言いました。『近頃菟田郡の人押坂直が一人の子供を連れて』」
孝徳紀「さて、倭国の六県に遣わされる使者は戸籍を作り」「次に、倭国で他人に刀を盗まれた」「涯田臣の過失は倭国にあって官の刀を盗まれた」「茅渟道から逃げて、倭国の境に向かった」「鼠が倭都に向かって移動した」「鼠が、倭都に向ったのは」
天智紀「この月に倭国の高安城」「古人大兄皇子の娘、倭姫王を立てて皇后とする」「病と称して倭の家に退出した」
天武紀「伊勢の大山を越えて倭へ向かわせ」「将軍吹負は、倭の地をすっかり平定して」「およそ銀が倭に出たのは、この時が最初である」「倭国の添下郡の鰐積吉事が珍しい鶏を献上」「明神御八洲倭根子天皇」「倭の葛城下郡が、四本足の鶏がおりましたと」「次に、大隅、阿多の隼人及び倭、河内の馬飼部造」
皇極天皇の巻には、倭の代わりに大和が使われている。「大和の忍の広瀬を渡ろうと」
仁徳天皇にも「那羅を過ぎ、小楯、大和を過ぎ」
 この他にも、倭京は孝徳天皇で一回、天智天皇で一回、天武天皇で四回出て来る。倭京として機能したのは七世紀の半ば以降のようである。倭都は孝徳天皇で二回くらい。時代が遡ると、人名として倭が出て来る。倭姫とか倭彦命、倭媛、倭君、倭彦王、倭川辺行宮、倭鍛部天津真浦とかである。
「大倭(国)やまと」大が付く倭は、聖地として扱われているようである。「大倭大神」とか、雄略紀「大倭に参向して天皇に仕え」安閑紀「都を大倭国勾金橋に」「天皇を大倭国の身狭桃花鳥坂上陵に」孝徳紀「百済の明王が仏法を我が大倭に」斉明紀「大倭の天の報いは早い」天武紀「大倭国が珍しい鳥を」持統紀「美濃の将軍達と大倭の豪族とは、共に大友皇子を誅殺し」「伊勢・大倭・住吉・紀伊の大神に幣を奉納」「新羅の調を五社、伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足に奉納」こうして見ると、日本書紀の中で「倭」の指し示す場所は、国内の一地域である。それも畿内の一地域になっている。大をつける時は、聖地という意味を持つ。「日本」と「倭」の使われ方は、国名と地方名くらいの違いがある。書記は国号としての「倭国」という表現を捨てているが、それは何故だろう
 歴史書の作り方は、たぶん近隣の先進国から学んだと思うが、中国や韓国では、我が国の「倭」のように、大きな民族の単位としての名前を使って交流していただろうか。韓半島では辰韓・馬韓・弁韓とかの表現を自らしていたのか。それとも、百済や新羅や高句麗という国号を使っていたのか。中国から見た民族集団として、倭国や倭人、倭種という表現はあっただろう。しかし、日本列島全体が「倭国」を国号として使っていたのだろうか。「倭」とは別に国号を持ちたいと願っていたのではないだろうか。
 畿内の王が古の倭国(女王国)の末裔と主張したいのなら、何故に国号を変え、書紀にも「日本」を使用したのだろう。古事記のように「倭・やまと」のままでいいではないか。中国からみた時「日本」より「倭国」の方が、倭国の末裔としての主張と合致するはず。
 天智帝は、何故「日本」を国号として選んだのか。それとも、日本と字を変えても、日本が倭国を意味したので問題なかったのだろうか。それなら、先に日本と国号を変えたのは、倭国だった事になる。そんな仮説が成立するのだろうか。そうでなければ、倭国とは関係ない「日本」を六七〇年に国号とした訳は何か。そもそも、倭国は、いつまで存続したのだろうか。郭務悰の国書は倭国に届けられているのだ。公式には、白村江戦後も倭国のままである。
by tizudesiru | 2011-09-08 11:46 | 23日本書紀の中の日本 | Trackback(7)
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地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
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166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授柿本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける
373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ
374令和元年こそ万葉集を読み解こう
375大伴家持、万葉集最終歌への道
376神社一人旅はいかがですか
377花の写真はいかがですか
378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東
379万葉集巻二十は鎮魂と告発の歌巻
380関東の神社は、政変を示しているのか
381九州の古墳の不思議と謎
382松浦佐用姫は何故死んだのか
383令和三年の奇跡を祈りましょう
384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ 
法隆寺
大塚初重氏の仕事
385万葉集を片手に旅ゆけば
386今城塚古墳の謎・物語が見えない
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