22 天智天皇の十年間
22 「書紀」に書かれた天智天皇の十年間
日本書紀の天智紀の十年を見ようと思うが、遣唐使や、諸外国の遣使等は省いた。大まかな流れを抜粋している。気になるのは、記事の正確さである。「旧唐書」や「三国史記」には、白村江戦は六六二年(天智元年)と書かれているが、書紀では六六三年(天智二年)である。また、天智紀であるが、解説書を読むと重出事項が多いようである。複数の資料をもとに書かれているためであるらしい。伊岐(壱岐)連博徳の文を掲載しているし、高麗の僧道顕の「日本世紀」も取れ入れている。(六六〇年、壱岐連博徳は唐に軟禁中に、滅ぼされた百済の王室・重臣たちが洛陽に送られて来たのを目撃したようである。白村江戦後は外交官を務めたのか、唐の使者を送ったりしている。天智天皇と大友皇子に仕えたらしく、壬申の乱では流罪になり、その後は天武に仕え、書紀編纂に尽力したようである)他にも資料があるようで、内容が交錯したのだろうか。
*斉明七年八月の救援軍の将軍
前将 大花下安曇比羅夫連、小花下河辺百枝臣
後将 大花下阿部引田比羅夫臣、 大山上物部連熊、大山上守君大石
ただし、この将軍達の派遣はなかったようだと専門家は考えているそうだ。七月二四日に斉明天皇崩御、皇太子素服称制で「次第に海外の軍政に着手した」頃である。
書紀には「或本に、別に、大山下狭井連檳樃、小山下秦造田来津(朴市田来津)を派遣した」と付け加えられている。
*天智元年五月
大将軍 大錦中安曇比羅夫連等が、軍船百七十艘で百済王子・豊璋(扶余豊)を百済に送る。
*天智二年三月の救援軍の将軍(この将軍たちには冠位が書かれていない)
前将 上毛野君稚子、間人連大蓋
中将 巨勢神前臣訳語、三輪君根麻呂
後将 阿倍引田臣比羅夫、大宅臣鎌柄
百済の地を踏んだ将軍は誰なのだろう。狭井連と田来津は、当地で軍議に参加しているし、毛野君稚子も攻撃に参加している。
八月、百済王子・豊璋が讒言を聞き入れ良将鬼室福信を斬ったことを知り、新羅軍はただちに攻撃しようと城を囲む。百済軍は、日本の救将廬原君臣を白村江に待とうとした。しかし、白村江には、大唐の将軍が軍船百七十艘を率いて構えていた。八月二七日・二八日、百済救援軍は白村江戦に敗れ、王子豊璋は高麗へ逃げた。前述のように、「旧唐書」や「三国史記」には、白村江戦は六六二年(天智元年)となっているが、書紀では天智二年である。この戦は悲惨で、朴市田来津の戦死も悲壮である。豊璋を送った安曇比羅夫も戦死したようだ。長野県安曇野市の穂高神社(式内社)には、白村江戦で戦死した安曇比羅夫を若宮として祀り、九月二七日に御舟神事を行っている。これは、気になる情報である。福岡県久留米市の風浪神社の伝承と比較すれば、神功皇后伝説に新たな視点が生まれて来る。神功皇后が斉明女帝と重なってくる。これは後に回そう。
天智三年二月、大皇弟(大海人皇子)に命じて、冠位の階名を増し定め換える。百済亡命貴族らを受け入れる為であろうと、注釈がある。
白村江戦後処理の為か、「五月一七日、百済の鎮将(占領司令官)劉仁願は、唐の武官・朝散大夫郭務悰を遣わして、表函と献上品を進上した」郭務悰の入国の目的は、書かれていない。表函とは、上表文の入っている函である。冬十月一日になって、郭務悰等を遣わす勅があった。郭務悰に中臣鎌足より賜物があり、四日に一行は帰国している。彼は畿内に入らず、筑紫に留まったままだった。天智帝が、大唐の武官郭務悰を畿内に入れなかった理由は何だろうか。畿内には天皇が不在だからだろうか、皇太子称制の時である。筑紫で郭務悰は何をしていたのだろう。彼は十二月十二日に帰国している。
『海外国記』(善隣国宝記)によると、唐に「郭務悰を遣わす勅」とはせず、筑紫大宰の言葉として伝達したそうである。この「善隣国宝記」は、一五世紀前半、京都五山の僧だった周鳳が、日本・中国・朝鮮との関係を内外の文書から集めた外交史書である。この時、「海外国記」に見える郭務悰に授けた劉仁願への牒書には「日本鎮西筑紫大将軍牒 在百済国 大唐行軍摠管」と書かれていたそうだ。郭務悰は百済都督府(占領政府)からの使者である。白村江敗戦の責任を、唐が問わないはずはない。しかし、郭務悰を畿内に入れなかったという事は、責任を逃れか、筑紫のみに責任を押し付けたか、であろう。
この年、対馬・壱岐・筑紫に防人と烽火を置き、筑紫に水城(大堤)を築く。
天智四年八月、長門に一城、筑紫に大野・椽の二城を築かせる。築いたのは、百済の亡命貴族や天智朝の兵法指南をした百済人である。この年二月、孝徳帝の皇后だった間人大后が薨去。
同じ年九月二十三日、唐国が、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高や、右戎衛郎将上柱国百済禰軍朝散大夫柱国郭務悰を遣わした(七月二十八日に対馬に着き、九月二十日に筑紫に着き、二十二日に表函を進上した。全部で二百五十四人である)。郭務悰は、唐からの使者である。此処でも、国書を筑紫で進上している。十月十一日、菟道(宇治)で大がかりな閲兵を行った。(宇治に招待されたのか)十二月十四日に劉徳高らに賜物があり、この月に彼らは帰国した。「この年に、小錦守君大石・小山坂井部連石積・大乙吉士岐弥・吉士針間が唐国に遣わされる。唐の使者を送ったのであろうか」と、書紀は書く。守君大石の小錦という位は、送使としては高いそうである。彼らの遣唐使としての目的を書紀の編纂者は知らなかったのか。この時、朝廷から勅はなかったのか。唐国からの客が、筑紫から畿内にまで来たにも関わらず、である。
天智五年、高麗からの朝貢が続くが、六月には唐が高句麗征討を始める。耽羅の朝貢もあるが、どちらも畿内に入ったのだろうか。他国からの朝貢が、他の年にもたびたびある。
天智六年二月、斉明帝と間人大后の合葬の記事。前天皇の葬儀・陵墓造営を取り仕切ったという事は、次の即位への道を仕上げた事になろう。三月、近江に遷都。孝徳帝を難波に置き去りにしてまで帰った倭京ではなく、新しい土地を都とした。ここは、天智帝の理想の土地だったのだろうか。
この年、二年前に劉徳高を送ったらしい遣唐使が帰国し、筑紫に到着する。十一月九日に「百済鎮将劉仁願が、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡らを遣わして、大山下境部連石積らを筑紫都督府に送った」と、書かれている。守君大石は帰って来なかった。唐で死亡したのだろうか。
境部連石積が送られた「筑紫都督府」は、この文のみに出て来る。都督府とは、敗戦国に置く占領政府の事である。太宰府を唐が一時「占領」してこの官を置いたとする説もある。気になる文である。この月の十三日、司馬法聡らは帰国する。一週間も筑紫に留まらず帰っている。石積を送れば、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡の用は済んだのだろうか。彼らを送ったのは、小山下伊吉連博徳らである。博徳には小山下と官位が付いている。白村江戦後に、天智帝に仕え役人となっている。その後は、天武帝にも仕えて賞与を得ている。境部連石積も天智朝で仕事をしているから、この時は留学後の帰国だったのだ。
天智七年正月、天智天皇即位。皇后は、倭姫王。舒明帝の皇子である古人大兄の娘だが、詳しい記録は無く、万葉集に歌が残されている。ここには、天智紀の后妃子女が記されているが、四人の嬪と四人の宮人である。天皇の配偶者の中で皇族・朝廷貴族の出身者は三位以上を夫人、四位・五位を嬪と称している。天智帝の配偶者に夫人はいない事になる。しかし、天武帝は妃は四人、夫人が三人である。天智帝の方が低く扱われているようだ。
壬申の乱に敗死する大友皇子は、宮人・伊賀采女宅子娘が生んだ皇子であり、志紀皇子も宮人・越道君伊羅都売が生んでいる。志紀皇子は、後の光仁天皇の父である。ちなみに、漢風諡号に「光」の字が用いられるのは、出自が庶子の天皇という。
天智七年七月には、舎人等に命じてあちこちで宴を催しているが、時の人は「天皇の世が終わろうとしているのだろうか」と言ったと書かれている。即位の年に、時の人は何を言いたいのだろうか。
天智八年正月、蘇我赤兄臣を筑紫率に任じた。赤兄は、天智帝の重臣である。目的なしには筑紫率とはならないはずである。それも、天智の即位後である。天皇の勅を持って何をしたか、書かれてはいない。彼は天皇の命令を持って、大野城と椽城の山頂から事代主・武??槌・天御中主を、王城神社と筑紫神社に降ろした。天皇でなければ、神を移すなど出来ない仕事である。何のために? 筑紫の王都を守る神を排除する事は、天智政権の為には重要だった。(後世、『天武帝は筑紫神社を起点に使って、筑前・筑後・肥前の国境を定めた』(講演会で田中氏)。こうして、筑紫王都は破壊されていったのではないか。
冬十月十日、天皇は鎌足内大臣の病気を見舞う。十六日、内大臣薨去。十九日、天皇は内大臣の家に行幸、大錦上蘇我赤兄に恩詔を奉宣させ、金の香鑢を下賜された。(赤兄臣は緊急事態で急ぎ召還されたか。または、目的を達したので帰ったのか)藤原鎌足内大臣の死は、天智朝にとって大きな痛手だったらしく、「日本世紀」の文を引用して表現している。「強いてこの老人を世に残さなかったのか。ああ哀しいことだ」
十二月大蔵火災。この冬に高安城を修理し、畿内の田税をおさめた。斑鳩寺火災。この年、大唐が郭務悰ら二千人を派遣(十年十一月の派遣の重出か)
天智九年二月「甲午年籍」を作る。日本最初の全国的な戸籍で、特に氏姓の基本台帳とされ、永久保存が大宝令に定められた。本籍地を離れる事を禁じたのである。戸籍がなければ、税も集められない。やっと戸籍が出来たのである。近隣の国にはすでにあったのに……
高安城修理、モミと塩を積む。長門城一・筑紫城二を築く(重出か)。鎌足臣の死後、高安城を充実させたのは、内乱への天智帝の不安だろうか。四月に法隆寺が一屋も残さず焼ける。法隆寺の火災は、王朝倒壊の兆しとして記述されたのだろう。
天智十年正月、大錦上蘇我赤兄臣らが、賀正の礼を述べ、中臣金連が神事(天皇の長寿を祝う言葉・後の『中臣寿詞』これに続いて即位の儀がある)を述べた。大友皇子が太政大臣となり、蘇我赤兄臣が左大臣になり、中臣金連が右大臣となる。次の日、官位・法度の施行・大赦と続く大きなイベントがあった。この月、多数の亡命百済人に叙爵がある。その中の文化人数名は大友皇子の賓客となる。学者として次期天皇を支えられるように、基盤を作り始めたのである。天智帝は、人材を政権に取り込む才能があったようだ。此処に、天智帝の望みは半ば達せられた。後は、大友皇子の即位と、東宮大皇弟大海人皇子の排斥である。しかし、天智帝自身の死も近づいていた。
九月、天智帝は病に伏し、十月十七日には重くなってしまう。勅して東宮を呼びだし後事を頼むが、東宮は出家して吉野に入るのである。
十一月十日、対馬から筑紫大宰に連絡が入る。「唐国から沙門道久・筑紫君薩野馬・韓島勝娑婆・布師首磐の四人が来て、『唐国使者郭務悰ら六百人、送使沙宅孫登ら千四百人、船四十七隻で比知島まで来た。我らは人数も船も多いので、突然入港すれば防人が驚いて矢を射かけるだろう』と相談があったので、あらかじめ来朝の意図を知らせるよう申しました」二千人の来朝とは尋常ではない。しかし、近江朝もそれどころではなかった。大友皇子を囲んで内裏の西殿で誓盟の儀式をしていたのである。大友皇子は香鑢を手にして誓いの言葉を言う。「六人心を同じくして天皇の詔に従おう。もし背くことがあれば必ず天罰を受けるだろう」赤兄は泣いて誓う。「臣等五人、殿下に随い、天皇の詔に従います」次の日、大津宮火災。五日後、六人はまた天皇の前で誓約をする。
十二月三日、天皇が近江宮に崩御。新宮で殯をする。
翌年・天武元年三月一八日、内小七位安曇連稲敷を筑紫に遣わし、郭務悰らに天皇の喪を告げた。郭務悰等はみな喪服を着て、三度挙哀(みね)の礼を奉り、東に向かって深く首を垂れた。二一日、郭務悰らは再拝して書函と進物を献上した。「善隣国宝記」によると、書函の上書に「大唐皇帝 敬問倭王 書」と書かれていたという。唐国は「日本」国王に国書を奉ったのではなく、倭王に奉ったのである。倭王宛の国書が筑紫で進呈されたとしたら、倭王は何処に居たのか。もし、天智帝に出したのなら、その死を承知しているので矛盾する。崩御した天皇には国書等を進呈せずに、弔辞とか仏事に関する物になると思う。次の天皇は決まっていないのだから。
五月、甲・冑・弓矢・あしぎぬ・布・綿が郭務悰に下され、三十日に彼らは帰国した。前年の十一月から五月までの半年間、郭務悰は筑紫でどんな事をしていたのか。やはり、占領政府の仕事をしていたのだろうか。畿内の出先・筑紫大宰ではない。筑紫大宰は郭務悰に連絡をしたり、勅を出したり、それなりの仕事をしている。郭務悰関係者が常駐したところは、別であろう。書紀に言うように、二千人規模の軍人達が入国していたら、衣食住の問題は大きいはずである。受け入れる組織無くして、何処にでも駐留できない。畿内の王権が、何のお世話もしなかったとは思えないが。
斉明帝崩御後、天智帝は上記のようにして即位への道を作りあげ、玉座につき、天命により崩御
天智帝は冷静で賢く、重臣の心を深く捉えた人だった。鎌足にしても、彼は初め孝徳帝と仲が良かったが、だんだん中大兄に引かれて行ったのではなかろうか。そして、孝徳帝を離れ排除し、中大兄を支え続けた。
「大化改新」で租税のもとになる公地公民・班田収受等の改革を行い、元号(大化・白雉)を持っている孝徳帝は、まさに天子となった人である。また、「万葉集」巻一は、雄略天皇御製歌に始まるが、次は舒明天皇である。三番目は舒明帝の皇女・中皇命(間人皇女)が間人連老に献じさせた歌となる。斉明天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇のそれぞれの代の歌は残されているが、孝徳天皇の歌 はない。書紀に残された歌はあるが、万葉集では意識的に外されている。万葉集は明らかに、雄略帝の血統・舒明帝の血筋・天智帝天武帝の皇統を歌いあげているのだろう。(たとえ筑紫に王朝があったとしても、九州に関する歌は入れられないはずである)
天子となった(?)孝徳帝から、何故か中大兄に乗り換えた鎌足。内大臣となり最期を迎える時、「生きては軍国に務め無し」と軍事に責任を果たさなかったのに、死んでまでどうしてわずらわす事が出来ましょうかと、薄葬を願っている。では、鎌足は何をして天智帝に仕えたのか。それは、中臣氏の仕事・神事・神祀りの仕事であろう。天神地祇を祀り、風人・水神を祭るのは天皇の大事な仕事である。占いのような神事もあるだろう。中臣祝詞として出来上がっていく言霊の世界を、鎌足は極めていたのだろう。書紀の天智紀には、神事の記録が少ない。天武紀・持統紀には、毎年四月・七月に広瀬大忌神と竜田の風神を祭っている記録がある。(この神祀りが行われないのは、持統天皇の称制の時である)他に壬申の乱の時、伊勢の天照大神が天武帝に味方したというので、大伯皇女を斎宮に立てたりしている。
天智朝では、天皇の側近として内大臣が天皇に代わって神事を行っていたのだ。鎌足の死後「内大臣」の位は、長く任命がない。鎌足の仕事は大きかったはずである。その存在の大きさは、鎌足の病気を天皇自ら見舞ったり、東宮を遣わし大職冠や大臣の位を授けたり、「藤原」の氏名を与えたりしている事でも分かる。壬申の乱後、蘇我赤兄は流罪であるが、鎌足の子・中臣金は斬られた。天智への貢献度は赤兄の方が大きいと思うが、刑は金の方が重かった。それは、彼が神事を取り扱っていたからである。国家の守りの神事・豊作祈願神事は、神官の大きな仕事だったはずである。祀られる神も氏族により異なっていたので、戦争に負け氏族・滅びた集団に祭られた神は、他の氏族からは祟り神として恐れられたであろう。祟りを祓い清めるのもまた神だったであろう。神祀りは、古代の首長者の重要な役目だったはずである。どの神を祀りどの神を祓い清めるか、大事な判断であろうし、その判断も神に任せたのだろう。
天智帝は、来朝した唐の船を利用して「遣唐使}を送り出しているが、白村江戦後すぐから亡命百済人を積極的に取り込んで、海外の文化、政治組織や政策を学んだ。百済の多くの学者・技術者に、冠位を増して与えている。筑紫は敗戦の混乱で亡命した人々を受け入れるゆとりはなかった。しかし、天智帝は敗戦の責任を筑紫に任せた。「大王の遠の朝廷としらぬい筑紫」が、唐新羅連合軍とたたかった倭国だったのだろうか。
この時、天智帝の時代、「倭国」はまだ存在していた。
「旧唐書」によると、唐の高宗は麟徳元年(六六四年)七月に『三年正月を期して泰山に封禅の儀を挙げる旨を天下に知らせた。「諸王は二年(六六五年)十月に洛陽へ集まり、諸州刺史は同十二月に泰山に集まる事」を命じた。また、「同二年(六六五年)八月以後、百済の劉仁軌も新羅・百済・耽羅・倭人ら四国の使を領して西還し、泰山に赴いた」と、旧唐書の外臣部にある。また、同じ旧唐書の帝王部には「十月に洛陽を発った高宗に従駕した諸蕃酋長の中に、東南アジア諸国と並べて倭国をあげている」と、岩波文庫「日本書紀」の補注にある。六六四年には、倭国が存在し、倭王が居たのである。彼は高宗に従い泰山に行き、当然六六六年正月の封禅の儀に参列した。または、代表が参列した。
封禅の儀とは、「帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が太平であることを感謝する儀式」だそうである。泰山の頂に壇を作り天に感謝する儀式を「封」と言い、泰山の下にある小山の地を平にして地を祭り感謝する儀式を「禅」という。泰山は中国道教の聖地である。秦の始皇帝も、此処で封禅の儀を行っている。唐の高宗も、周到な準備をして取り組んだ儀式である。参列した倭王は誰で、何処の人だろう。
六六五年は、天智四年である。書紀によれば、この年、小錦守君大石らが唐に使わされた年である。十二月に唐の劉徳高が帰国したのについて、送使として大石らが遣わされたのではないかと書紀にある。十二月の船出なら、大石らは泰山の封禅の儀には間に合わない。早めに発って劉徳高とは別に唐に遣わされたのなら、倭国王の代わりに参列したとも考えられる。それにしても、「参列要請」は、前年に受けているはずである。参列を予定していれば、劉徳高の出入国とは関係なく出かけなければならない。それとも代理参加の守君大石とは関係なく、倭国王は別にいたのだろうか。唐で死亡したのか守君大石は帰らず、二年後、境部連石積らに送史がついて、筑紫都督府に送られたのは気になるところである。境部連石積は封禅の儀に参列した後、唐で学問をしていたのだろうか。彼らが倭国の代表であれば、倭国範囲は全国に広がっていたことになる。すると、「旧唐書」の「倭国伝」と「日本伝」はどうなるのだろう。何故、二つの国名が同じ歴史書に残されているのか。それは、その頃、日本列島に二つの国があったとしか言いようがない。
それにしても、もし、天智帝が倭国王として、守君大石を封禅の儀に参列させたのなら、それは日本(やまと)の王として、倭国を併合した証拠になるのだろうか。
「旧唐書」によると、唐の時代にあった二つの国が、それが一つの日本に併合。それがどのようにして「日本」になったのか、歴史に痕跡がほとんどない。曖昧な中に国名の変更が起こってしまっている。郭務悰が進上した函の上表文には、「倭王」とあったのだ。日本王ではない。しかも、日本書紀では、古事記の倭(やまと)が日本(やまと)と変わる。「倭(わ)」は消えている。消したのではなく、はじめから書かれなかった。倭国(わこく)は別にあったから、書紀には書けなかった。倭国を併合したのは、天智天皇である。だからこそ、彼は、即位出来た。当時の有力者の誰も異論を唱える事は出来なかったのだ。と、いえるのではないか。
白村江敗戦後、天智帝は称制の六年間と即位後の四年間で、神祀りを整え、亡命百済人を受けいれ近代化を図り、筑紫大宰を造りあげ、倭国を大和に併合し、近江令を作り始め、中臣祝詞を使い即位の儀の形式も作り上げ、国の体裁を整えた。舒明帝の嫡子でなくても、即位を主張できる体制を作り上げた。大海人皇子も皇太子に甘んじざるを得なかったのだ。
天智紀を読むと、ひとまずこのような結論になってしまった。
このような天智天皇が、何故に太宰府の王城としての姿を破壊し、何故に大城山や基山から神々を下ろし、新しい大宰府を築いたのか。筑紫を否定する事は、何を意味したのか、まだ漠然としている。三国史記「新羅本紀」に書かれた「六七〇年、倭国が国号を日本とかえる」は、天智帝の大きな決断だったのか、勝利の宣言だったのか。
日本書紀の天智紀の十年を見ようと思うが、遣唐使や、諸外国の遣使等は省いた。大まかな流れを抜粋している。気になるのは、記事の正確さである。「旧唐書」や「三国史記」には、白村江戦は六六二年(天智元年)と書かれているが、書紀では六六三年(天智二年)である。また、天智紀であるが、解説書を読むと重出事項が多いようである。複数の資料をもとに書かれているためであるらしい。伊岐(壱岐)連博徳の文を掲載しているし、高麗の僧道顕の「日本世紀」も取れ入れている。(六六〇年、壱岐連博徳は唐に軟禁中に、滅ぼされた百済の王室・重臣たちが洛陽に送られて来たのを目撃したようである。白村江戦後は外交官を務めたのか、唐の使者を送ったりしている。天智天皇と大友皇子に仕えたらしく、壬申の乱では流罪になり、その後は天武に仕え、書紀編纂に尽力したようである)他にも資料があるようで、内容が交錯したのだろうか。
*斉明七年八月の救援軍の将軍
前将 大花下安曇比羅夫連、小花下河辺百枝臣
後将 大花下阿部引田比羅夫臣、 大山上物部連熊、大山上守君大石
ただし、この将軍達の派遣はなかったようだと専門家は考えているそうだ。七月二四日に斉明天皇崩御、皇太子素服称制で「次第に海外の軍政に着手した」頃である。
書紀には「或本に、別に、大山下狭井連檳樃、小山下秦造田来津(朴市田来津)を派遣した」と付け加えられている。
*天智元年五月
大将軍 大錦中安曇比羅夫連等が、軍船百七十艘で百済王子・豊璋(扶余豊)を百済に送る。
*天智二年三月の救援軍の将軍(この将軍たちには冠位が書かれていない)
前将 上毛野君稚子、間人連大蓋
中将 巨勢神前臣訳語、三輪君根麻呂
後将 阿倍引田臣比羅夫、大宅臣鎌柄
百済の地を踏んだ将軍は誰なのだろう。狭井連と田来津は、当地で軍議に参加しているし、毛野君稚子も攻撃に参加している。
八月、百済王子・豊璋が讒言を聞き入れ良将鬼室福信を斬ったことを知り、新羅軍はただちに攻撃しようと城を囲む。百済軍は、日本の救将廬原君臣を白村江に待とうとした。しかし、白村江には、大唐の将軍が軍船百七十艘を率いて構えていた。八月二七日・二八日、百済救援軍は白村江戦に敗れ、王子豊璋は高麗へ逃げた。前述のように、「旧唐書」や「三国史記」には、白村江戦は六六二年(天智元年)となっているが、書紀では天智二年である。この戦は悲惨で、朴市田来津の戦死も悲壮である。豊璋を送った安曇比羅夫も戦死したようだ。長野県安曇野市の穂高神社(式内社)には、白村江戦で戦死した安曇比羅夫を若宮として祀り、九月二七日に御舟神事を行っている。これは、気になる情報である。福岡県久留米市の風浪神社の伝承と比較すれば、神功皇后伝説に新たな視点が生まれて来る。神功皇后が斉明女帝と重なってくる。これは後に回そう。
天智三年二月、大皇弟(大海人皇子)に命じて、冠位の階名を増し定め換える。百済亡命貴族らを受け入れる為であろうと、注釈がある。
白村江戦後処理の為か、「五月一七日、百済の鎮将(占領司令官)劉仁願は、唐の武官・朝散大夫郭務悰を遣わして、表函と献上品を進上した」郭務悰の入国の目的は、書かれていない。表函とは、上表文の入っている函である。冬十月一日になって、郭務悰等を遣わす勅があった。郭務悰に中臣鎌足より賜物があり、四日に一行は帰国している。彼は畿内に入らず、筑紫に留まったままだった。天智帝が、大唐の武官郭務悰を畿内に入れなかった理由は何だろうか。畿内には天皇が不在だからだろうか、皇太子称制の時である。筑紫で郭務悰は何をしていたのだろう。彼は十二月十二日に帰国している。
『海外国記』(善隣国宝記)によると、唐に「郭務悰を遣わす勅」とはせず、筑紫大宰の言葉として伝達したそうである。この「善隣国宝記」は、一五世紀前半、京都五山の僧だった周鳳が、日本・中国・朝鮮との関係を内外の文書から集めた外交史書である。この時、「海外国記」に見える郭務悰に授けた劉仁願への牒書には「日本鎮西筑紫大将軍牒 在百済国 大唐行軍摠管」と書かれていたそうだ。郭務悰は百済都督府(占領政府)からの使者である。白村江敗戦の責任を、唐が問わないはずはない。しかし、郭務悰を畿内に入れなかったという事は、責任を逃れか、筑紫のみに責任を押し付けたか、であろう。
この年、対馬・壱岐・筑紫に防人と烽火を置き、筑紫に水城(大堤)を築く。
天智四年八月、長門に一城、筑紫に大野・椽の二城を築かせる。築いたのは、百済の亡命貴族や天智朝の兵法指南をした百済人である。この年二月、孝徳帝の皇后だった間人大后が薨去。
同じ年九月二十三日、唐国が、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高や、右戎衛郎将上柱国百済禰軍朝散大夫柱国郭務悰を遣わした(七月二十八日に対馬に着き、九月二十日に筑紫に着き、二十二日に表函を進上した。全部で二百五十四人である)。郭務悰は、唐からの使者である。此処でも、国書を筑紫で進上している。十月十一日、菟道(宇治)で大がかりな閲兵を行った。(宇治に招待されたのか)十二月十四日に劉徳高らに賜物があり、この月に彼らは帰国した。「この年に、小錦守君大石・小山坂井部連石積・大乙吉士岐弥・吉士針間が唐国に遣わされる。唐の使者を送ったのであろうか」と、書紀は書く。守君大石の小錦という位は、送使としては高いそうである。彼らの遣唐使としての目的を書紀の編纂者は知らなかったのか。この時、朝廷から勅はなかったのか。唐国からの客が、筑紫から畿内にまで来たにも関わらず、である。
天智五年、高麗からの朝貢が続くが、六月には唐が高句麗征討を始める。耽羅の朝貢もあるが、どちらも畿内に入ったのだろうか。他国からの朝貢が、他の年にもたびたびある。
天智六年二月、斉明帝と間人大后の合葬の記事。前天皇の葬儀・陵墓造営を取り仕切ったという事は、次の即位への道を仕上げた事になろう。三月、近江に遷都。孝徳帝を難波に置き去りにしてまで帰った倭京ではなく、新しい土地を都とした。ここは、天智帝の理想の土地だったのだろうか。
この年、二年前に劉徳高を送ったらしい遣唐使が帰国し、筑紫に到着する。十一月九日に「百済鎮将劉仁願が、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡らを遣わして、大山下境部連石積らを筑紫都督府に送った」と、書かれている。守君大石は帰って来なかった。唐で死亡したのだろうか。
境部連石積が送られた「筑紫都督府」は、この文のみに出て来る。都督府とは、敗戦国に置く占領政府の事である。太宰府を唐が一時「占領」してこの官を置いたとする説もある。気になる文である。この月の十三日、司馬法聡らは帰国する。一週間も筑紫に留まらず帰っている。石積を送れば、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡の用は済んだのだろうか。彼らを送ったのは、小山下伊吉連博徳らである。博徳には小山下と官位が付いている。白村江戦後に、天智帝に仕え役人となっている。その後は、天武帝にも仕えて賞与を得ている。境部連石積も天智朝で仕事をしているから、この時は留学後の帰国だったのだ。
天智七年正月、天智天皇即位。皇后は、倭姫王。舒明帝の皇子である古人大兄の娘だが、詳しい記録は無く、万葉集に歌が残されている。ここには、天智紀の后妃子女が記されているが、四人の嬪と四人の宮人である。天皇の配偶者の中で皇族・朝廷貴族の出身者は三位以上を夫人、四位・五位を嬪と称している。天智帝の配偶者に夫人はいない事になる。しかし、天武帝は妃は四人、夫人が三人である。天智帝の方が低く扱われているようだ。
壬申の乱に敗死する大友皇子は、宮人・伊賀采女宅子娘が生んだ皇子であり、志紀皇子も宮人・越道君伊羅都売が生んでいる。志紀皇子は、後の光仁天皇の父である。ちなみに、漢風諡号に「光」の字が用いられるのは、出自が庶子の天皇という。
天智七年七月には、舎人等に命じてあちこちで宴を催しているが、時の人は「天皇の世が終わろうとしているのだろうか」と言ったと書かれている。即位の年に、時の人は何を言いたいのだろうか。
天智八年正月、蘇我赤兄臣を筑紫率に任じた。赤兄は、天智帝の重臣である。目的なしには筑紫率とはならないはずである。それも、天智の即位後である。天皇の勅を持って何をしたか、書かれてはいない。彼は天皇の命令を持って、大野城と椽城の山頂から事代主・武??槌・天御中主を、王城神社と筑紫神社に降ろした。天皇でなければ、神を移すなど出来ない仕事である。何のために? 筑紫の王都を守る神を排除する事は、天智政権の為には重要だった。(後世、『天武帝は筑紫神社を起点に使って、筑前・筑後・肥前の国境を定めた』(講演会で田中氏)。こうして、筑紫王都は破壊されていったのではないか。
冬十月十日、天皇は鎌足内大臣の病気を見舞う。十六日、内大臣薨去。十九日、天皇は内大臣の家に行幸、大錦上蘇我赤兄に恩詔を奉宣させ、金の香鑢を下賜された。(赤兄臣は緊急事態で急ぎ召還されたか。または、目的を達したので帰ったのか)藤原鎌足内大臣の死は、天智朝にとって大きな痛手だったらしく、「日本世紀」の文を引用して表現している。「強いてこの老人を世に残さなかったのか。ああ哀しいことだ」
十二月大蔵火災。この冬に高安城を修理し、畿内の田税をおさめた。斑鳩寺火災。この年、大唐が郭務悰ら二千人を派遣(十年十一月の派遣の重出か)
天智九年二月「甲午年籍」を作る。日本最初の全国的な戸籍で、特に氏姓の基本台帳とされ、永久保存が大宝令に定められた。本籍地を離れる事を禁じたのである。戸籍がなければ、税も集められない。やっと戸籍が出来たのである。近隣の国にはすでにあったのに……
高安城修理、モミと塩を積む。長門城一・筑紫城二を築く(重出か)。鎌足臣の死後、高安城を充実させたのは、内乱への天智帝の不安だろうか。四月に法隆寺が一屋も残さず焼ける。法隆寺の火災は、王朝倒壊の兆しとして記述されたのだろう。
天智十年正月、大錦上蘇我赤兄臣らが、賀正の礼を述べ、中臣金連が神事(天皇の長寿を祝う言葉・後の『中臣寿詞』これに続いて即位の儀がある)を述べた。大友皇子が太政大臣となり、蘇我赤兄臣が左大臣になり、中臣金連が右大臣となる。次の日、官位・法度の施行・大赦と続く大きなイベントがあった。この月、多数の亡命百済人に叙爵がある。その中の文化人数名は大友皇子の賓客となる。学者として次期天皇を支えられるように、基盤を作り始めたのである。天智帝は、人材を政権に取り込む才能があったようだ。此処に、天智帝の望みは半ば達せられた。後は、大友皇子の即位と、東宮大皇弟大海人皇子の排斥である。しかし、天智帝自身の死も近づいていた。
九月、天智帝は病に伏し、十月十七日には重くなってしまう。勅して東宮を呼びだし後事を頼むが、東宮は出家して吉野に入るのである。
十一月十日、対馬から筑紫大宰に連絡が入る。「唐国から沙門道久・筑紫君薩野馬・韓島勝娑婆・布師首磐の四人が来て、『唐国使者郭務悰ら六百人、送使沙宅孫登ら千四百人、船四十七隻で比知島まで来た。我らは人数も船も多いので、突然入港すれば防人が驚いて矢を射かけるだろう』と相談があったので、あらかじめ来朝の意図を知らせるよう申しました」二千人の来朝とは尋常ではない。しかし、近江朝もそれどころではなかった。大友皇子を囲んで内裏の西殿で誓盟の儀式をしていたのである。大友皇子は香鑢を手にして誓いの言葉を言う。「六人心を同じくして天皇の詔に従おう。もし背くことがあれば必ず天罰を受けるだろう」赤兄は泣いて誓う。「臣等五人、殿下に随い、天皇の詔に従います」次の日、大津宮火災。五日後、六人はまた天皇の前で誓約をする。
十二月三日、天皇が近江宮に崩御。新宮で殯をする。
翌年・天武元年三月一八日、内小七位安曇連稲敷を筑紫に遣わし、郭務悰らに天皇の喪を告げた。郭務悰等はみな喪服を着て、三度挙哀(みね)の礼を奉り、東に向かって深く首を垂れた。二一日、郭務悰らは再拝して書函と進物を献上した。「善隣国宝記」によると、書函の上書に「大唐皇帝 敬問倭王 書」と書かれていたという。唐国は「日本」国王に国書を奉ったのではなく、倭王に奉ったのである。倭王宛の国書が筑紫で進呈されたとしたら、倭王は何処に居たのか。もし、天智帝に出したのなら、その死を承知しているので矛盾する。崩御した天皇には国書等を進呈せずに、弔辞とか仏事に関する物になると思う。次の天皇は決まっていないのだから。
五月、甲・冑・弓矢・あしぎぬ・布・綿が郭務悰に下され、三十日に彼らは帰国した。前年の十一月から五月までの半年間、郭務悰は筑紫でどんな事をしていたのか。やはり、占領政府の仕事をしていたのだろうか。畿内の出先・筑紫大宰ではない。筑紫大宰は郭務悰に連絡をしたり、勅を出したり、それなりの仕事をしている。郭務悰関係者が常駐したところは、別であろう。書紀に言うように、二千人規模の軍人達が入国していたら、衣食住の問題は大きいはずである。受け入れる組織無くして、何処にでも駐留できない。畿内の王権が、何のお世話もしなかったとは思えないが。
斉明帝崩御後、天智帝は上記のようにして即位への道を作りあげ、玉座につき、天命により崩御
天智帝は冷静で賢く、重臣の心を深く捉えた人だった。鎌足にしても、彼は初め孝徳帝と仲が良かったが、だんだん中大兄に引かれて行ったのではなかろうか。そして、孝徳帝を離れ排除し、中大兄を支え続けた。
「大化改新」で租税のもとになる公地公民・班田収受等の改革を行い、元号(大化・白雉)を持っている孝徳帝は、まさに天子となった人である。また、「万葉集」巻一は、雄略天皇御製歌に始まるが、次は舒明天皇である。三番目は舒明帝の皇女・中皇命(間人皇女)が間人連老に献じさせた歌となる。斉明天皇・天智天皇・天武天皇・持統天皇のそれぞれの代の歌は残されているが、孝徳天皇の歌 はない。書紀に残された歌はあるが、万葉集では意識的に外されている。万葉集は明らかに、雄略帝の血統・舒明帝の血筋・天智帝天武帝の皇統を歌いあげているのだろう。(たとえ筑紫に王朝があったとしても、九州に関する歌は入れられないはずである)
天子となった(?)孝徳帝から、何故か中大兄に乗り換えた鎌足。内大臣となり最期を迎える時、「生きては軍国に務め無し」と軍事に責任を果たさなかったのに、死んでまでどうしてわずらわす事が出来ましょうかと、薄葬を願っている。では、鎌足は何をして天智帝に仕えたのか。それは、中臣氏の仕事・神事・神祀りの仕事であろう。天神地祇を祀り、風人・水神を祭るのは天皇の大事な仕事である。占いのような神事もあるだろう。中臣祝詞として出来上がっていく言霊の世界を、鎌足は極めていたのだろう。書紀の天智紀には、神事の記録が少ない。天武紀・持統紀には、毎年四月・七月に広瀬大忌神と竜田の風神を祭っている記録がある。(この神祀りが行われないのは、持統天皇の称制の時である)他に壬申の乱の時、伊勢の天照大神が天武帝に味方したというので、大伯皇女を斎宮に立てたりしている。
天智朝では、天皇の側近として内大臣が天皇に代わって神事を行っていたのだ。鎌足の死後「内大臣」の位は、長く任命がない。鎌足の仕事は大きかったはずである。その存在の大きさは、鎌足の病気を天皇自ら見舞ったり、東宮を遣わし大職冠や大臣の位を授けたり、「藤原」の氏名を与えたりしている事でも分かる。壬申の乱後、蘇我赤兄は流罪であるが、鎌足の子・中臣金は斬られた。天智への貢献度は赤兄の方が大きいと思うが、刑は金の方が重かった。それは、彼が神事を取り扱っていたからである。国家の守りの神事・豊作祈願神事は、神官の大きな仕事だったはずである。祀られる神も氏族により異なっていたので、戦争に負け氏族・滅びた集団に祭られた神は、他の氏族からは祟り神として恐れられたであろう。祟りを祓い清めるのもまた神だったであろう。神祀りは、古代の首長者の重要な役目だったはずである。どの神を祀りどの神を祓い清めるか、大事な判断であろうし、その判断も神に任せたのだろう。
天智帝は、来朝した唐の船を利用して「遣唐使}を送り出しているが、白村江戦後すぐから亡命百済人を積極的に取り込んで、海外の文化、政治組織や政策を学んだ。百済の多くの学者・技術者に、冠位を増して与えている。筑紫は敗戦の混乱で亡命した人々を受け入れるゆとりはなかった。しかし、天智帝は敗戦の責任を筑紫に任せた。「大王の遠の朝廷としらぬい筑紫」が、唐新羅連合軍とたたかった倭国だったのだろうか。
この時、天智帝の時代、「倭国」はまだ存在していた。
「旧唐書」によると、唐の高宗は麟徳元年(六六四年)七月に『三年正月を期して泰山に封禅の儀を挙げる旨を天下に知らせた。「諸王は二年(六六五年)十月に洛陽へ集まり、諸州刺史は同十二月に泰山に集まる事」を命じた。また、「同二年(六六五年)八月以後、百済の劉仁軌も新羅・百済・耽羅・倭人ら四国の使を領して西還し、泰山に赴いた」と、旧唐書の外臣部にある。また、同じ旧唐書の帝王部には「十月に洛陽を発った高宗に従駕した諸蕃酋長の中に、東南アジア諸国と並べて倭国をあげている」と、岩波文庫「日本書紀」の補注にある。六六四年には、倭国が存在し、倭王が居たのである。彼は高宗に従い泰山に行き、当然六六六年正月の封禅の儀に参列した。または、代表が参列した。
封禅の儀とは、「帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が太平であることを感謝する儀式」だそうである。泰山の頂に壇を作り天に感謝する儀式を「封」と言い、泰山の下にある小山の地を平にして地を祭り感謝する儀式を「禅」という。泰山は中国道教の聖地である。秦の始皇帝も、此処で封禅の儀を行っている。唐の高宗も、周到な準備をして取り組んだ儀式である。参列した倭王は誰で、何処の人だろう。
六六五年は、天智四年である。書紀によれば、この年、小錦守君大石らが唐に使わされた年である。十二月に唐の劉徳高が帰国したのについて、送使として大石らが遣わされたのではないかと書紀にある。十二月の船出なら、大石らは泰山の封禅の儀には間に合わない。早めに発って劉徳高とは別に唐に遣わされたのなら、倭国王の代わりに参列したとも考えられる。それにしても、「参列要請」は、前年に受けているはずである。参列を予定していれば、劉徳高の出入国とは関係なく出かけなければならない。それとも代理参加の守君大石とは関係なく、倭国王は別にいたのだろうか。唐で死亡したのか守君大石は帰らず、二年後、境部連石積らに送史がついて、筑紫都督府に送られたのは気になるところである。境部連石積は封禅の儀に参列した後、唐で学問をしていたのだろうか。彼らが倭国の代表であれば、倭国範囲は全国に広がっていたことになる。すると、「旧唐書」の「倭国伝」と「日本伝」はどうなるのだろう。何故、二つの国名が同じ歴史書に残されているのか。それは、その頃、日本列島に二つの国があったとしか言いようがない。
それにしても、もし、天智帝が倭国王として、守君大石を封禅の儀に参列させたのなら、それは日本(やまと)の王として、倭国を併合した証拠になるのだろうか。
「旧唐書」によると、唐の時代にあった二つの国が、それが一つの日本に併合。それがどのようにして「日本」になったのか、歴史に痕跡がほとんどない。曖昧な中に国名の変更が起こってしまっている。郭務悰が進上した函の上表文には、「倭王」とあったのだ。日本王ではない。しかも、日本書紀では、古事記の倭(やまと)が日本(やまと)と変わる。「倭(わ)」は消えている。消したのではなく、はじめから書かれなかった。倭国(わこく)は別にあったから、書紀には書けなかった。倭国を併合したのは、天智天皇である。だからこそ、彼は、即位出来た。当時の有力者の誰も異論を唱える事は出来なかったのだ。と、いえるのではないか。
白村江敗戦後、天智帝は称制の六年間と即位後の四年間で、神祀りを整え、亡命百済人を受けいれ近代化を図り、筑紫大宰を造りあげ、倭国を大和に併合し、近江令を作り始め、中臣祝詞を使い即位の儀の形式も作り上げ、国の体裁を整えた。舒明帝の嫡子でなくても、即位を主張できる体制を作り上げた。大海人皇子も皇太子に甘んじざるを得なかったのだ。
天智紀を読むと、ひとまずこのような結論になってしまった。
このような天智天皇が、何故に太宰府の王城としての姿を破壊し、何故に大城山や基山から神々を下ろし、新しい大宰府を築いたのか。筑紫を否定する事は、何を意味したのか、まだ漠然としている。三国史記「新羅本紀」に書かれた「六七〇年、倭国が国号を日本とかえる」は、天智帝の大きな決断だったのか、勝利の宣言だったのか。
by tizudesiru
| 2011-09-09 23:09
| 22天智天皇の十年間
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155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授柿本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける
373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ
374令和元年こそ万葉集を読み解こう
375大伴家持、万葉集最終歌への道
376神社一人旅はいかがですか
377花の写真はいかがですか
378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東
379万葉集巻二十は鎮魂と告発の歌巻
380関東の神社は、政変を示しているのか
381九州の古墳の不思議と謎
382松浦佐用姫は何故死んだのか
383令和三年の奇跡を祈りましょう
384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ
法隆寺
大塚初重氏の仕事
385万葉集を片手に旅ゆけば
386今城塚古墳の謎・物語が見えない
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