12 羽白熊鷲と古処山
12 羽白熊鷲の本拠地は古処山
(ア) 二つの三奈木神社
朝倉市三奈木には、神功皇后が「水清しと宣り給う」土地という伝承がある。熊鷲を滅ぼした皇后の伝承が、熊鷲の墓の近くにある三奈木神社にも残っている。皇后が三韓遠征の兵を集めようとしたが、全く集まらなかったので、三奈木の地に天神地祇を祀り神に祈ったところ、兵が集まったという。自分たちの領主(?)を殺されたのに兵がすぐに集まるとも考えられないが、何か強制されたのかも知れない。
三奈木神社は延喜式に名のある式内社である。そして、同じ字、同じ呼び名でもう一つ神社がある。林田の三奈木神社である。昔から、どちらが式内社か、地域を二分し論争が繰り広げられたとか。決着がつかないまま現在に至っているそうだ。
不思議な事がある。馬見山と寺内の三奈木神社を結ぶと、馬見山→羽白熊鷲の墓(水の文化村)→寺内の三奈木神社→林田の三奈木神社と、地図の上ではラインがつながるのである。地図記号の小さな神社。小さな点のような神社記号を通るとは、偶然にしても出来過ぎに思える。
寺内の三奈木神社は、元宮は裏山(大仏山)の頂上にあったそうだ。行ってみると、ゴルフ場の入口の辺りに案内板があって、確かに社があった。樹木がなければ、そこから熊鷲の墓の辺りを隣の山に見つけられたかも知れないが、木が多くて無理だった。つまり、元宮のままなら直線上には乗らないのだ。神社が移動した事は、由緒書きにも載せてある。しかし、移動した場所が的確(?)なので驚いてしまう。両方の三奈木神社では、お互いに「名前は同じだが、神社としては何の関係もない」と言われるが。
(イ) 馬見山
何故、起点が馬見山だろう。馬見山の伝承は、神武天皇が逃げた馬を捕まえられなくて、見逃したから「馬見」となったと聞いたと思う。あまり気にもならず聞き流していた。それにしても、熊鷲は古処山を本拠地としていたのに、その墓が馬見山と結びつくなんて不思議だ。馬見山と古処山は、地図上は東西の関係になりそうである。
古処山(北緯33度29分2秒)
屏山(北緯33度29分16秒)
馬見山(北緯33度29分10秒)
真東とは言い難いが、東にあるようである。熊鷲が古処山を本拠地にしたのは何故だろう。考えられるのは、彼はそこから東の馬見山を遥拝していた? である。彼の神は馬見山に鎮座しておられた? のではないか。と言うのは、遠賀川の源流は、馬見山だ。この辺りでは、大神様を「おんがさま」と呼ぶ。馬見山は「大神様」と呼ばれる信仰の対象だったのだ。だから、遠賀(おんが)川の流れも馬見山から始まっている。一人納得してしまった。
羽白熊鷲の神が馬見山だとすると、古処山は、地図の上では何処と結びつくだろう。
そう思って、古処山と甘木市の背後の大平山の山頂を結んでみた。
古処山・大平山ラインは、南西に傾き甘木市街の中心を貫いた。そのままラインは伸びると、平塚川添遺跡を横切るようである。遺跡が大きいのではっきりとは分からないが、祭祀点を通るのだろうか。ここは、筑紫平野では最大とも言われる遺跡で、二重三重どころではない、七重(?)の環濠を持つ祭祀場のような場所と、大型の建物を持っている。そして、大平山を底辺とし、小石原川と佐田川に囲まれた細長い土地で、川に囲まれた土地は三角形にすぼまり、両河川は筑後川に合流する。古処山・大平山ラインは、この細長い三角の土地の中心を通る。まるで、聖なるラインのようである。あまり触れたくはないが、甘木は、邪馬台国論争の渦中にある。何と言っても、最大の弥生遺跡といわれるほど、平塚川添遺跡は大きい。
よく見ると、古処山・大平山ラインは、先の馬見山ラインとほぼ並行である。二つのラインは並んでいる。
馬見と古処のあいだにある屏山は、どうなるのだろう。馬見・古処の東西ラインからは若干北側にずれる山である。屏山(926m)→上秋月の高倉山(285m)→安見ヶ城山(300m)の山頂ラインは、平塚川添の大きな環濠遺跡を横切る。他の二つのラインとほぼ並行である。そして、細長い三角地帯にある、日本では筑後にしかない地名、稲数という村を横切る。久留米の北野町の稲数は、古代の負祖である稲を貯蔵した稲置が置かれた処である。此処も同じ意味の場所であろう。また、筑後国史の「稲数村館跡」によると、「稲員(いなかず)氏は、高良山の神管領の職務を司り、玉垂命の裔孫にあたり、約五百年間稲数に居館した」とある。その稲員氏と関係のある土地らしい。
馬見山・屏山・古処山からそれぞれに三本のラインが同じような角度に伸びた。それは甘木の市街地を横切った。この三本のラインと直角に交差するラインがある。
まず、筑後平野の東側に位置する朝倉の宮地岳と、筑紫野の宮地岳(古代山城)の山頂を結ぶと、ラインは北西に伸びて弥永(いやなが)の大己貴(おほなむち)神社を横切る。宮地岳・大己貴神社ラインは、古処山ライン・馬見山ラインとほぼ垂直に交わるのである。聖なるラインを中にして、甘木は四角形に取り囲まれそうである。神社は建て替えの度に場所がずれるので何とも言えない面もあるが。
更に、地図上の甘木市の道路は、古処山を向いている。近隣の町と比べて、明らかに道路網の碁盤の目が、傾いている。甘木は、大平山に向かい、その裏の古処山に向かって出来た集落だろうか。そういえば、久留米も古い道路が高良山を向いている。基本の道路がそうなると、後から造られる道路も向きが決まるのだろう。久留米の近くの福島は東西ライン・南北ラインが交差する碁盤の目になっている。中世に城が築かれたので、それに倣って道路が出来たのだろう。ちなみに、京都や奈良の地図は、綺麗な碁盤の目の道路になっている。古代から都が置かれたので、道路も東西南北のはっきりしたものになったのだろう。
とにかく、古処山と羽白熊鷲の伝承に、馬見山と塀山が結びつき、更に平塚川添が結びつく。とは言え、平塚川添はあまりに大きな遺跡である。的が大きすぎる。当たるのは、当然と言える。ここは、他にも様々な遺跡や、墓や、山などと結びつく可能性がある。
(ウ) 朝倉と甘木
以前から面白いとおもっていた事がある。筑紫平野の東の朝倉に「朝闇(あさくら)神社」という小さな社があるが、此処を起点に平塚川添遺跡を通りラインを西に延ばすと、田代太田古墳に当たる。東西の関係である。朝闇神社を見に出かけたら、辺りには何もなく斉明天皇の「橘の広庭」という伝承があるのみだった。土地の人もよく分からない様子だったので、写真も取らずに帰った。考古学関係の方からも「あの辺からは何も出なかった」という話を聞いた事がある。しかし、平塚川添の東西ライン上の一点のように思えて気にはなっている。
平塚川添の北には、何があるだろう。定規を当てると、目配(めくばせ)山が来る。「武内宿禰と神功皇后が、荷持田村(のとりたふれ)の羽白熊鷲を退治するための討伐軍をすすめ、敵の形勢を見渡したところだそうである、熊鷲を滅ぼした後『わが心安し』と言ったので夜須(安)の地名がうまれた」とか。前述の書紀とは微妙に違うが、ほとんど重なる話である。この辺りは、神功皇后伝説が至る所にある。少々、食傷気味にもなる。昔の人は、伝説の中に自分たちの先祖の地を組み込んで何か誇りを持ちたかったのだろうか。
ついでだが、もし卑弥呼の時代と甘木の辺りが重なるとしたら、古処・馬見のラインと、無縁ではないだろうと思う。筑紫平野にも東西ラインはあっただろう、宝満山ラインのように。東西線の上に卑弥呼の墓は来るだろうか。しかし、馬見・古処ラインは、山が重なりあい、墓を作ろうと思っても筑紫の宮地岳の南裾野辺りになってしまうので、無理。では、古処・大平ラインはどうだろう。これは、神聖なラインで平塚川添の祭祀を行った辺りには、墓らしいものが見つからないとか。残りは、脊振ラインとかになるが、それは、当然、熊鷲の墓の西側ライン上になる。持丸の浄水場の盛土のような小山とか、大塚という地名の辺り。特に、大己貴神社の南に伸びるラインの交点とか、どうだろうか。かろうじて、小石原川の東に入る地点でも、例の三角地帯に入るから可能性があるのではないか。もしくは、どんと離れて、やはり先の筑紫野の宮地岳の裾野に行ってしまうか。古処・馬見ラインと宮地岳ラインの交点が筑前山家の北にある。何処にあっても、三世紀の墳墓である。何らかの伝承と共に残っているはずである。日本のどこかに。
熊鷲から卑弥呼へ飛んでしまった。
(エ)雲仙ライン
九州で最も大きい平野に、何らかの勢力が起こらなかったはずはない。筑紫野市、小郡市、鳥栖市、那珂川町、神崎町など、筑紫平野の西側は、古墳と遺跡の密集地帯である。特に、神崎の吉野ケ里遺跡は有名である。新聞に取り上げられる遺跡の中でも回数の多い地名であろう。「吉野ケ里遺跡北側の墳丘墓と、北内閣と、大型建物の中心線が、雲仙山頂と直線でつながる」という新聞記事を読んだ時は、とにかく嬉しかった。やはり、霊力を持つと思われる山を頂いて、宮殿や墓を作っていたのだと確認できたからである。同時に、雲仙を向いているとしたら、吉野ヶ里は、邪馬台国ではないとも思った。女王国が伊都国に一大率を置いている以上、その視線は九州北部に向けられているだろうし、「信仰の対象として、雲仙は遠すぎる」と。しかし、はるか遠くに見える山に畏怖の念を抱くのは当然でもあろうし、雲仙への信仰心が生まれたかも知れないとも思う。
(ア) 二つの三奈木神社
朝倉市三奈木には、神功皇后が「水清しと宣り給う」土地という伝承がある。熊鷲を滅ぼした皇后の伝承が、熊鷲の墓の近くにある三奈木神社にも残っている。皇后が三韓遠征の兵を集めようとしたが、全く集まらなかったので、三奈木の地に天神地祇を祀り神に祈ったところ、兵が集まったという。自分たちの領主(?)を殺されたのに兵がすぐに集まるとも考えられないが、何か強制されたのかも知れない。
三奈木神社は延喜式に名のある式内社である。そして、同じ字、同じ呼び名でもう一つ神社がある。林田の三奈木神社である。昔から、どちらが式内社か、地域を二分し論争が繰り広げられたとか。決着がつかないまま現在に至っているそうだ。
不思議な事がある。馬見山と寺内の三奈木神社を結ぶと、馬見山→羽白熊鷲の墓(水の文化村)→寺内の三奈木神社→林田の三奈木神社と、地図の上ではラインがつながるのである。地図記号の小さな神社。小さな点のような神社記号を通るとは、偶然にしても出来過ぎに思える。
寺内の三奈木神社は、元宮は裏山(大仏山)の頂上にあったそうだ。行ってみると、ゴルフ場の入口の辺りに案内板があって、確かに社があった。樹木がなければ、そこから熊鷲の墓の辺りを隣の山に見つけられたかも知れないが、木が多くて無理だった。つまり、元宮のままなら直線上には乗らないのだ。神社が移動した事は、由緒書きにも載せてある。しかし、移動した場所が的確(?)なので驚いてしまう。両方の三奈木神社では、お互いに「名前は同じだが、神社としては何の関係もない」と言われるが。
(イ) 馬見山
何故、起点が馬見山だろう。馬見山の伝承は、神武天皇が逃げた馬を捕まえられなくて、見逃したから「馬見」となったと聞いたと思う。あまり気にもならず聞き流していた。それにしても、熊鷲は古処山を本拠地としていたのに、その墓が馬見山と結びつくなんて不思議だ。馬見山と古処山は、地図上は東西の関係になりそうである。
古処山(北緯33度29分2秒)
屏山(北緯33度29分16秒)
馬見山(北緯33度29分10秒)
真東とは言い難いが、東にあるようである。熊鷲が古処山を本拠地にしたのは何故だろう。考えられるのは、彼はそこから東の馬見山を遥拝していた? である。彼の神は馬見山に鎮座しておられた? のではないか。と言うのは、遠賀川の源流は、馬見山だ。この辺りでは、大神様を「おんがさま」と呼ぶ。馬見山は「大神様」と呼ばれる信仰の対象だったのだ。だから、遠賀(おんが)川の流れも馬見山から始まっている。一人納得してしまった。
羽白熊鷲の神が馬見山だとすると、古処山は、地図の上では何処と結びつくだろう。
そう思って、古処山と甘木市の背後の大平山の山頂を結んでみた。
古処山・大平山ラインは、南西に傾き甘木市街の中心を貫いた。そのままラインは伸びると、平塚川添遺跡を横切るようである。遺跡が大きいのではっきりとは分からないが、祭祀点を通るのだろうか。ここは、筑紫平野では最大とも言われる遺跡で、二重三重どころではない、七重(?)の環濠を持つ祭祀場のような場所と、大型の建物を持っている。そして、大平山を底辺とし、小石原川と佐田川に囲まれた細長い土地で、川に囲まれた土地は三角形にすぼまり、両河川は筑後川に合流する。古処山・大平山ラインは、この細長い三角の土地の中心を通る。まるで、聖なるラインのようである。あまり触れたくはないが、甘木は、邪馬台国論争の渦中にある。何と言っても、最大の弥生遺跡といわれるほど、平塚川添遺跡は大きい。
よく見ると、古処山・大平山ラインは、先の馬見山ラインとほぼ並行である。二つのラインは並んでいる。
馬見と古処のあいだにある屏山は、どうなるのだろう。馬見・古処の東西ラインからは若干北側にずれる山である。屏山(926m)→上秋月の高倉山(285m)→安見ヶ城山(300m)の山頂ラインは、平塚川添の大きな環濠遺跡を横切る。他の二つのラインとほぼ並行である。そして、細長い三角地帯にある、日本では筑後にしかない地名、稲数という村を横切る。久留米の北野町の稲数は、古代の負祖である稲を貯蔵した稲置が置かれた処である。此処も同じ意味の場所であろう。また、筑後国史の「稲数村館跡」によると、「稲員(いなかず)氏は、高良山の神管領の職務を司り、玉垂命の裔孫にあたり、約五百年間稲数に居館した」とある。その稲員氏と関係のある土地らしい。
馬見山・屏山・古処山からそれぞれに三本のラインが同じような角度に伸びた。それは甘木の市街地を横切った。この三本のラインと直角に交差するラインがある。
まず、筑後平野の東側に位置する朝倉の宮地岳と、筑紫野の宮地岳(古代山城)の山頂を結ぶと、ラインは北西に伸びて弥永(いやなが)の大己貴(おほなむち)神社を横切る。宮地岳・大己貴神社ラインは、古処山ライン・馬見山ラインとほぼ垂直に交わるのである。聖なるラインを中にして、甘木は四角形に取り囲まれそうである。神社は建て替えの度に場所がずれるので何とも言えない面もあるが。
更に、地図上の甘木市の道路は、古処山を向いている。近隣の町と比べて、明らかに道路網の碁盤の目が、傾いている。甘木は、大平山に向かい、その裏の古処山に向かって出来た集落だろうか。そういえば、久留米も古い道路が高良山を向いている。基本の道路がそうなると、後から造られる道路も向きが決まるのだろう。久留米の近くの福島は東西ライン・南北ラインが交差する碁盤の目になっている。中世に城が築かれたので、それに倣って道路が出来たのだろう。ちなみに、京都や奈良の地図は、綺麗な碁盤の目の道路になっている。古代から都が置かれたので、道路も東西南北のはっきりしたものになったのだろう。
とにかく、古処山と羽白熊鷲の伝承に、馬見山と塀山が結びつき、更に平塚川添が結びつく。とは言え、平塚川添はあまりに大きな遺跡である。的が大きすぎる。当たるのは、当然と言える。ここは、他にも様々な遺跡や、墓や、山などと結びつく可能性がある。
(ウ) 朝倉と甘木
以前から面白いとおもっていた事がある。筑紫平野の東の朝倉に「朝闇(あさくら)神社」という小さな社があるが、此処を起点に平塚川添遺跡を通りラインを西に延ばすと、田代太田古墳に当たる。東西の関係である。朝闇神社を見に出かけたら、辺りには何もなく斉明天皇の「橘の広庭」という伝承があるのみだった。土地の人もよく分からない様子だったので、写真も取らずに帰った。考古学関係の方からも「あの辺からは何も出なかった」という話を聞いた事がある。しかし、平塚川添の東西ライン上の一点のように思えて気にはなっている。
平塚川添の北には、何があるだろう。定規を当てると、目配(めくばせ)山が来る。「武内宿禰と神功皇后が、荷持田村(のとりたふれ)の羽白熊鷲を退治するための討伐軍をすすめ、敵の形勢を見渡したところだそうである、熊鷲を滅ぼした後『わが心安し』と言ったので夜須(安)の地名がうまれた」とか。前述の書紀とは微妙に違うが、ほとんど重なる話である。この辺りは、神功皇后伝説が至る所にある。少々、食傷気味にもなる。昔の人は、伝説の中に自分たちの先祖の地を組み込んで何か誇りを持ちたかったのだろうか。
ついでだが、もし卑弥呼の時代と甘木の辺りが重なるとしたら、古処・馬見のラインと、無縁ではないだろうと思う。筑紫平野にも東西ラインはあっただろう、宝満山ラインのように。東西線の上に卑弥呼の墓は来るだろうか。しかし、馬見・古処ラインは、山が重なりあい、墓を作ろうと思っても筑紫の宮地岳の南裾野辺りになってしまうので、無理。では、古処・大平ラインはどうだろう。これは、神聖なラインで平塚川添の祭祀を行った辺りには、墓らしいものが見つからないとか。残りは、脊振ラインとかになるが、それは、当然、熊鷲の墓の西側ライン上になる。持丸の浄水場の盛土のような小山とか、大塚という地名の辺り。特に、大己貴神社の南に伸びるラインの交点とか、どうだろうか。かろうじて、小石原川の東に入る地点でも、例の三角地帯に入るから可能性があるのではないか。もしくは、どんと離れて、やはり先の筑紫野の宮地岳の裾野に行ってしまうか。古処・馬見ラインと宮地岳ラインの交点が筑前山家の北にある。何処にあっても、三世紀の墳墓である。何らかの伝承と共に残っているはずである。日本のどこかに。
熊鷲から卑弥呼へ飛んでしまった。
(エ)雲仙ライン
九州で最も大きい平野に、何らかの勢力が起こらなかったはずはない。筑紫野市、小郡市、鳥栖市、那珂川町、神崎町など、筑紫平野の西側は、古墳と遺跡の密集地帯である。特に、神崎の吉野ケ里遺跡は有名である。新聞に取り上げられる遺跡の中でも回数の多い地名であろう。「吉野ケ里遺跡北側の墳丘墓と、北内閣と、大型建物の中心線が、雲仙山頂と直線でつながる」という新聞記事を読んだ時は、とにかく嬉しかった。やはり、霊力を持つと思われる山を頂いて、宮殿や墓を作っていたのだと確認できたからである。同時に、雲仙を向いているとしたら、吉野ヶ里は、邪馬台国ではないとも思った。女王国が伊都国に一大率を置いている以上、その視線は九州北部に向けられているだろうし、「信仰の対象として、雲仙は遠すぎる」と。しかし、はるか遠くに見える山に畏怖の念を抱くのは当然でもあろうし、雲仙への信仰心が生まれたかも知れないとも思う。
by tizudesiru
| 2011-09-19 16:02
| 12羽白熊鷲と古処山
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2祭祀線で見る竹原古墳
3祭祀線が交叉する間夫という山
4祭祀線で知る筥崎八幡宮
5祭祀線で弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
7祭祀線で読める八女丘陵の古墳のライン
8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
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40祭祀線と神籠石から分かること(5)
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43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
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47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
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121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授柿本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける
373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ
374令和元年こそ万葉集を読み解こう
375大伴家持、万葉集最終歌への道
376神社一人旅はいかがですか
377花の写真はいかがですか
378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東
379万葉集巻二十は鎮魂と告発の歌巻
380関東の神社は、政変を示しているのか
381九州の古墳の不思議と謎
382松浦佐用姫は何故死んだのか
383令和三年の奇跡を祈りましょう
384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ
法隆寺
大塚初重氏の仕事
385万葉集を片手に旅ゆけば
386今城塚古墳の謎・物語が見えない
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