平原王墓ラインから分かること
6 平原王墓ラインから分かること
東西ライン(宝満・飯盛ライン)の上に乗らない有名弥生王墓がある。それは、著書『実在した神話』で有名な原田大六氏が発掘した弥生墓、平原王墓である。弥生後期の方形周溝墓で、国内最大の大きさを誇る仿製鏡(内向花文鏡)五面を入れて四十面の銅鏡(いずれも国宝)を出土している。素環頭太刀やガラス製の勾玉や管玉。漢の高貴な女性が身につけたというピアス(耳とう)も出土している。この、コハク蛋白石のピアス。これは、国内唯一だとか。女性とされるこの王は、どんな環境の中に眠っているのだろうか。
平原王墓の位置
平原王墓から見える南の脊振山地の中で、井原山(982m)と雷山(955m)が、この地域から見える象徴的な山である。これらの山々との関係はどうだろうか。
井原山と平原王墓をつなぐと、ラインは北側に伸びて糸島半島(いにしえの志摩国)の天ヶ岳(250m)に届く。王は、二つの山の間に眠っているようだ。
また、佐賀県との県境に位置する羽金山(900m)と平原王墓を結んでみる。羽金山は、埋蔵金伝説の残る山である。天草の乱制圧に向かう黒田藩の軍用金の一部十万両が、長野峠で賊に奪われたという。それが、山中に隠されているというので、埋蔵金を探す人もいるらしい。その羽金山と平原王墓を結ぶと、ラインは北に伸びて、糸島半島(いにしえの志摩国)の浜崎山(97m)につながる。浜崎山は、博多湾側にある今津湾の入り口の山である。平原の王は、今回も二つの山を結ぶライン上に眠っている。彼女は、井原山ラインと羽金山ラインの交点に、日向峠に向かって横たわっている。が、それだけで今のところ何も分からない。
伊都国の他の弥生墓には、このような状況は認められるのだろうか。
たとえば、羽金山ラインは、古墳時代の一貴山銚子塚古墳を通り、志摩国側の彦山(231m)に届く。浮岳(805m)ラインは、宮地岳、志登支石墓1、志登支石墓2を通り、毘沙門山に少しずれて届く。獅子舞岳(841m)ラインは、釜塚古墳を通り志摩国の大葉山に届く。脊振山(1055m)ラインは、三雲王墓を通り志摩国の火山(244m)に届く。火山には、神功皇后伝説がある。新羅遠征の時、山に火を焚いたのでその名がつくという。
山→古墳→山の信仰が、弥生にはあったのだ……。力のある王は、高い山を背負っている。二つの山に見守られて眠る事は、首長達のスティタスシンボルだったのだろうか。
井原山→平原王墓→天ヶ岳
脊振山→三雲王墓→火山
羽金山→平原王墓→浜崎山
羽金山→銚子塚古墳→彦山
浮岳→宮地岳→志登支石墓→毘沙門山
獅子舞岳→釜塚古墳→大葉山
雷山と平原王墓
さて、雷山である。この山を通る墳丘墓はないのだろうか。
平原王墓の存在が、伊都国で絶大だったのは、疑う余地はないが、雷山との関係はどうだろう。定規を当ててみたが、雷山と平原王墓を結ぶラインは、何故かどの山頂にも当たらない。雷山は、雷山神籠石のある山である。伊都国から見ると、井原山より若干低いのに雷山の方が高く思える。その山と平原王墓は、何故結びつかないのだろうか。平原王墓は、直接的に雷山と結びつくのを避けたのか。様々に憶測してしまう。平原の王が、より近くにそびえる雷山に何も思いを抱かなかったとは思えないのである。
しかし、雷山からのラインが三雲南小路王墓を通ると、丸隈山古墳に届く。宝満・飯盛ラインのように、王墓や首長墓を結んでいる。三雲南小路の時代、雷山は大切な山だったようである。丸隈山の王は雷山への信仰心を持ち、三雲王を崇敬していたのだろう。可也山からのラインも、志登支石墓1を通り、此処から鋤崎古墳へと続く。王墓どうしが結びつく例は、ありそうだ。しかし、平原古墳と雷山の関係はない。弥生後期には雷山への信仰が薄れたのか。または、雷山と結びつく権力が交替したので、平原の被葬者は故意に雷山ラインを避けたのか、である。
雷山と可也山
では、他に雷山からどんな事実が導き出されるだろう。
試しに、雷山から真北へ定規を置いてみると、柑子岳(254m)に当たった。
この南北ラインに、式内社の志登神社が乗っている。十世紀になって志登神社の神は、雷山を意識して鎮座されたか。今は、田んぼの中に取り残されたように見えるが、昔はこの地方の大事な神社だったはずである。志登神社の南に志登支石墓群1(この番号は勝手につけている)も乗っている。また、この支石墓群の真西に可也山の山頂が見える。可也山東西ライン上にこの支石墓群1があり、そこは雷山南北ラインとの交点になるのである。東西ラインと南北ラインの交点に、渡来系人の墓と聞いている支石墓群1がある。雷山は、彼らにとって祖霊が集まる山だったのだろうか。それにしても、地域のシンボルの雷山の活躍の場が少ないようだ。何故か? この疑問は後に残しておこう。
可也山は、韓国の慶尚南道の加耶に由来する山名である。その東にある墓。そうすると、彼らは、先祖の土地を懐かしみながら、地元の山から天に昇ったのだろうか。ちなみに、支石墓はこの地ばかりではなく、方々にある。近くにも残っているが、そこは、浮岳→一貴山銚子塚古墳→志登支石墓群2→志登神社(式内社)→毘沙門山と、浮岳ライン上に並ぶのである。しかし、並ぶからといって、これらの墓や神社の歴史的背景は、同じではない。それぞれが出来た時間は大きくずれる。ずっと存在するのは、山くらいだ。たとえ西九州にたくさんある支石墓群の中の二つが、ラインに並ぶように見えても、それは、ただの偶然かも知れない。偶然を見つけて、古代人の思いや信仰を捻じ曲げても悪い気がする。だが、地域の山に対して聖なるものを感じたり、自分の心のよりどころとする信仰はあったと思われる。
平原王墓と可也山 更に、糸島富士とも呼ばれている加也山と平原王墓の関係はどうなるだろう。可也山から平原に向かって線を引くと、平原王墓を通り南東の三雲南小路王墓に届く。宝満・飯盛ライン上の三雲王墓である。二つの弥生の王墓を、可也山が結びつけている。近くには狐塚とか、割れ塚古墳、築山古墳、端山古墳など多くの古墳があるが、それらには結びつかず三雲南小路の王墓に当たる。平原王墓は、三雲南小路王墓を意識し、王権を継承しようとしたのだろうか。
高祖山と平原王墓
では、高祖神社があり古墳のメッカでもあるという高祖山から直線を伸ばしてみよう。ラインは平原王墓を通り、西に伸びて一貴山銚子塚古墳に当たる。前に紹介した糸島地方最大の前方後円墳である。さすが高祖山、平原王墓と一貴山銚子塚を結びつけたのである。銚子塚の主人は、平原の王権を意識し受け継ごうとした。と、考えられないだろうか。宝満・飯盛ライン上の三雲南小路王墓の継承ばかりでなく、平原からも王の威力を継承しようとしたのだろうか。
可也山→平原王墓→三雲南小路王墓(矢印の向きは、逆であろう)
高祖山→平原王墓→一貴山銚子塚古墳 王墓や古墳を、山が結び着ける。有名王墓は、有名王墓に結びつく。こんな例が、他にもあるのだろうか。
もし、この直観が有効だとすれば、江戸時代に発見されたが、埋め戻されて所在が分からなくなった、多くの銅鏡が副葬されていた井原鑓溝遺跡も、このようなライン上に隠れているのではないだろうか。平原古墳が、答えを教えてくれるかも知れない。
魏志倭人伝の中で、伊都国の紹介に『世王あり』と書かれている。此処には、王がいた。彼らは、伊都国に眠っている。王の埋葬の仕方も、文化として受け継がれたであろう。伊都国では、甕棺墓が比較的早く始まり、早く終わっているという。三雲王墓は甕棺墓である。しかし、平原王墓は割竹型木棺墓である。弥生後期に、同じ地域内で、葬送文化が変化した事になる。それは、他文化との交流だけでなく、歴史上の変化も示しているのだろうか。それでも、鏡、太刀、勾玉、豪華な装身具などを副葬する埋葬の仕方は、先祖や祖霊を大切にする古代人の考えの表れに違いない。彼らは、日常生活の中でも祖先を敬い畏れていたと思う。だからこそ、国内最大の内行花文鏡を量産し、何らかの意味を持って、それを破壊し埋葬したのだ。内行花文鏡の時代の終焉? なのか。三角縁神獣鏡の時代の始まりか。
とにもかくにも、南北ラインと東西ラインの交点という新しい視点を見つけた事で、これから先がもっと面白くなる気がしている。嬉しいことである。
しかしである。
ここでいう東西ライン、南北ラインが、不正確で意味をなさないとしたら、これからの追及も意味をなさなくなる。そこで、国土地理院の地図検索を使って、緯度と経度を測定してみようと思ったのである。
*宝満・飯盛 東西ライン(大ライン)
宝満山上宮(北緯33度32分23秒)
大城山頂(北緯33度32分19秒)
須玖岡本遺跡(北緯33度32分17秒)
須玖岡本・神社(北緯33度32分20秒
吉武高木遺跡(北緯33度32分13秒)
飯盛山頂(北緯33度32分13秒)
三雲南小路王墓(北緯33度32分12秒)
一貴山銚子塚古墳(北緯33度32分11秒*可也山 東西ライン(小ライン)
可也山頂(北緯33度34分20秒)
志登支石墓群1(北緯33度34分20秒)
カーソルで数字を出してみると、平野の両端では若干のずれを生じる。定規を使って引いた宝満ラインは、真東真西の関係と地図上では確認したつもりだったが、パソコンで調べた数字では数秒傾いたラインになる。それは、地形の関係や、目測で測量した関係でもあろうが、出発点と到着点が数十キロ離れている事も関係していると思う。それとも、ここ二千年の間に、真東がずれたのだろうか。
*雷山 南北ライン
雷山山頂(東経130度13分24秒)
志登支石墓群1(東経130度13分20秒)
志登神社(東経130度13分20秒)
柑子岳山頂(東経130度13分18秒
地図に直線を引くと、真北にまっすぐラインが通ったかに思えたが、数字を見るとやや傾いている。山頂の何処かに目印を設定したのだろうが、面になる山頂と墓とを結ぶラインは微妙にずれて来たのだろうか。それとも、この二千年の間に、真北が若干ずれて来たのだろうか? 平原王墓が避けた雷山を取り込んだ十世紀の志登神社の文化は、弥生時代とつながらないかもしれない。
此処では、山と墓をつなぐラインが存在するらしいと、ひとまず結論を出しておこう。弥生時代から古墳時代にかけて、その時代の首長達は選ばれた地に眠っている。地域のシンボルの山に挟まれて眠るのは王候クラスである。他の首長達も権力を継承するためや、王族とのつながりを示すため、または墓から霊力を得ようとしたのか、山を媒介にしたライン上に眠っている。
まだまだ編集中 つづく
東西ライン(宝満・飯盛ライン)の上に乗らない有名弥生王墓がある。それは、著書『実在した神話』で有名な原田大六氏が発掘した弥生墓、平原王墓である。弥生後期の方形周溝墓で、国内最大の大きさを誇る仿製鏡(内向花文鏡)五面を入れて四十面の銅鏡(いずれも国宝)を出土している。素環頭太刀やガラス製の勾玉や管玉。漢の高貴な女性が身につけたというピアス(耳とう)も出土している。この、コハク蛋白石のピアス。これは、国内唯一だとか。女性とされるこの王は、どんな環境の中に眠っているのだろうか。
平原王墓の位置
平原王墓から見える南の脊振山地の中で、井原山(982m)と雷山(955m)が、この地域から見える象徴的な山である。これらの山々との関係はどうだろうか。
井原山と平原王墓をつなぐと、ラインは北側に伸びて糸島半島(いにしえの志摩国)の天ヶ岳(250m)に届く。王は、二つの山の間に眠っているようだ。
また、佐賀県との県境に位置する羽金山(900m)と平原王墓を結んでみる。羽金山は、埋蔵金伝説の残る山である。天草の乱制圧に向かう黒田藩の軍用金の一部十万両が、長野峠で賊に奪われたという。それが、山中に隠されているというので、埋蔵金を探す人もいるらしい。その羽金山と平原王墓を結ぶと、ラインは北に伸びて、糸島半島(いにしえの志摩国)の浜崎山(97m)につながる。浜崎山は、博多湾側にある今津湾の入り口の山である。平原の王は、今回も二つの山を結ぶライン上に眠っている。彼女は、井原山ラインと羽金山ラインの交点に、日向峠に向かって横たわっている。が、それだけで今のところ何も分からない。
伊都国の他の弥生墓には、このような状況は認められるのだろうか。
たとえば、羽金山ラインは、古墳時代の一貴山銚子塚古墳を通り、志摩国側の彦山(231m)に届く。浮岳(805m)ラインは、宮地岳、志登支石墓1、志登支石墓2を通り、毘沙門山に少しずれて届く。獅子舞岳(841m)ラインは、釜塚古墳を通り志摩国の大葉山に届く。脊振山(1055m)ラインは、三雲王墓を通り志摩国の火山(244m)に届く。火山には、神功皇后伝説がある。新羅遠征の時、山に火を焚いたのでその名がつくという。
山→古墳→山の信仰が、弥生にはあったのだ……。力のある王は、高い山を背負っている。二つの山に見守られて眠る事は、首長達のスティタスシンボルだったのだろうか。
井原山→平原王墓→天ヶ岳
脊振山→三雲王墓→火山
羽金山→平原王墓→浜崎山
羽金山→銚子塚古墳→彦山
浮岳→宮地岳→志登支石墓→毘沙門山
獅子舞岳→釜塚古墳→大葉山
雷山と平原王墓
さて、雷山である。この山を通る墳丘墓はないのだろうか。
平原王墓の存在が、伊都国で絶大だったのは、疑う余地はないが、雷山との関係はどうだろう。定規を当ててみたが、雷山と平原王墓を結ぶラインは、何故かどの山頂にも当たらない。雷山は、雷山神籠石のある山である。伊都国から見ると、井原山より若干低いのに雷山の方が高く思える。その山と平原王墓は、何故結びつかないのだろうか。平原王墓は、直接的に雷山と結びつくのを避けたのか。様々に憶測してしまう。平原の王が、より近くにそびえる雷山に何も思いを抱かなかったとは思えないのである。
しかし、雷山からのラインが三雲南小路王墓を通ると、丸隈山古墳に届く。宝満・飯盛ラインのように、王墓や首長墓を結んでいる。三雲南小路の時代、雷山は大切な山だったようである。丸隈山の王は雷山への信仰心を持ち、三雲王を崇敬していたのだろう。可也山からのラインも、志登支石墓1を通り、此処から鋤崎古墳へと続く。王墓どうしが結びつく例は、ありそうだ。しかし、平原古墳と雷山の関係はない。弥生後期には雷山への信仰が薄れたのか。または、雷山と結びつく権力が交替したので、平原の被葬者は故意に雷山ラインを避けたのか、である。
雷山と可也山
では、他に雷山からどんな事実が導き出されるだろう。
試しに、雷山から真北へ定規を置いてみると、柑子岳(254m)に当たった。
この南北ラインに、式内社の志登神社が乗っている。十世紀になって志登神社の神は、雷山を意識して鎮座されたか。今は、田んぼの中に取り残されたように見えるが、昔はこの地方の大事な神社だったはずである。志登神社の南に志登支石墓群1(この番号は勝手につけている)も乗っている。また、この支石墓群の真西に可也山の山頂が見える。可也山東西ライン上にこの支石墓群1があり、そこは雷山南北ラインとの交点になるのである。東西ラインと南北ラインの交点に、渡来系人の墓と聞いている支石墓群1がある。雷山は、彼らにとって祖霊が集まる山だったのだろうか。それにしても、地域のシンボルの雷山の活躍の場が少ないようだ。何故か? この疑問は後に残しておこう。
可也山は、韓国の慶尚南道の加耶に由来する山名である。その東にある墓。そうすると、彼らは、先祖の土地を懐かしみながら、地元の山から天に昇ったのだろうか。ちなみに、支石墓はこの地ばかりではなく、方々にある。近くにも残っているが、そこは、浮岳→一貴山銚子塚古墳→志登支石墓群2→志登神社(式内社)→毘沙門山と、浮岳ライン上に並ぶのである。しかし、並ぶからといって、これらの墓や神社の歴史的背景は、同じではない。それぞれが出来た時間は大きくずれる。ずっと存在するのは、山くらいだ。たとえ西九州にたくさんある支石墓群の中の二つが、ラインに並ぶように見えても、それは、ただの偶然かも知れない。偶然を見つけて、古代人の思いや信仰を捻じ曲げても悪い気がする。だが、地域の山に対して聖なるものを感じたり、自分の心のよりどころとする信仰はあったと思われる。
平原王墓と可也山 更に、糸島富士とも呼ばれている加也山と平原王墓の関係はどうなるだろう。可也山から平原に向かって線を引くと、平原王墓を通り南東の三雲南小路王墓に届く。宝満・飯盛ライン上の三雲王墓である。二つの弥生の王墓を、可也山が結びつけている。近くには狐塚とか、割れ塚古墳、築山古墳、端山古墳など多くの古墳があるが、それらには結びつかず三雲南小路の王墓に当たる。平原王墓は、三雲南小路王墓を意識し、王権を継承しようとしたのだろうか。
高祖山と平原王墓
では、高祖神社があり古墳のメッカでもあるという高祖山から直線を伸ばしてみよう。ラインは平原王墓を通り、西に伸びて一貴山銚子塚古墳に当たる。前に紹介した糸島地方最大の前方後円墳である。さすが高祖山、平原王墓と一貴山銚子塚を結びつけたのである。銚子塚の主人は、平原の王権を意識し受け継ごうとした。と、考えられないだろうか。宝満・飯盛ライン上の三雲南小路王墓の継承ばかりでなく、平原からも王の威力を継承しようとしたのだろうか。
可也山→平原王墓→三雲南小路王墓(矢印の向きは、逆であろう)
高祖山→平原王墓→一貴山銚子塚古墳 王墓や古墳を、山が結び着ける。有名王墓は、有名王墓に結びつく。こんな例が、他にもあるのだろうか。
もし、この直観が有効だとすれば、江戸時代に発見されたが、埋め戻されて所在が分からなくなった、多くの銅鏡が副葬されていた井原鑓溝遺跡も、このようなライン上に隠れているのではないだろうか。平原古墳が、答えを教えてくれるかも知れない。
魏志倭人伝の中で、伊都国の紹介に『世王あり』と書かれている。此処には、王がいた。彼らは、伊都国に眠っている。王の埋葬の仕方も、文化として受け継がれたであろう。伊都国では、甕棺墓が比較的早く始まり、早く終わっているという。三雲王墓は甕棺墓である。しかし、平原王墓は割竹型木棺墓である。弥生後期に、同じ地域内で、葬送文化が変化した事になる。それは、他文化との交流だけでなく、歴史上の変化も示しているのだろうか。それでも、鏡、太刀、勾玉、豪華な装身具などを副葬する埋葬の仕方は、先祖や祖霊を大切にする古代人の考えの表れに違いない。彼らは、日常生活の中でも祖先を敬い畏れていたと思う。だからこそ、国内最大の内行花文鏡を量産し、何らかの意味を持って、それを破壊し埋葬したのだ。内行花文鏡の時代の終焉? なのか。三角縁神獣鏡の時代の始まりか。
とにもかくにも、南北ラインと東西ラインの交点という新しい視点を見つけた事で、これから先がもっと面白くなる気がしている。嬉しいことである。
しかしである。
ここでいう東西ライン、南北ラインが、不正確で意味をなさないとしたら、これからの追及も意味をなさなくなる。そこで、国土地理院の地図検索を使って、緯度と経度を測定してみようと思ったのである。
*宝満・飯盛 東西ライン(大ライン)
宝満山上宮(北緯33度32分23秒)
大城山頂(北緯33度32分19秒)
須玖岡本遺跡(北緯33度32分17秒)
須玖岡本・神社(北緯33度32分20秒
吉武高木遺跡(北緯33度32分13秒)
飯盛山頂(北緯33度32分13秒)
三雲南小路王墓(北緯33度32分12秒)
一貴山銚子塚古墳(北緯33度32分11秒*可也山 東西ライン(小ライン)
可也山頂(北緯33度34分20秒)
志登支石墓群1(北緯33度34分20秒)
カーソルで数字を出してみると、平野の両端では若干のずれを生じる。定規を使って引いた宝満ラインは、真東真西の関係と地図上では確認したつもりだったが、パソコンで調べた数字では数秒傾いたラインになる。それは、地形の関係や、目測で測量した関係でもあろうが、出発点と到着点が数十キロ離れている事も関係していると思う。それとも、ここ二千年の間に、真東がずれたのだろうか。
*雷山 南北ライン
雷山山頂(東経130度13分24秒)
志登支石墓群1(東経130度13分20秒)
志登神社(東経130度13分20秒)
柑子岳山頂(東経130度13分18秒
地図に直線を引くと、真北にまっすぐラインが通ったかに思えたが、数字を見るとやや傾いている。山頂の何処かに目印を設定したのだろうが、面になる山頂と墓とを結ぶラインは微妙にずれて来たのだろうか。それとも、この二千年の間に、真北が若干ずれて来たのだろうか? 平原王墓が避けた雷山を取り込んだ十世紀の志登神社の文化は、弥生時代とつながらないかもしれない。
此処では、山と墓をつなぐラインが存在するらしいと、ひとまず結論を出しておこう。弥生時代から古墳時代にかけて、その時代の首長達は選ばれた地に眠っている。地域のシンボルの山に挟まれて眠るのは王候クラスである。他の首長達も権力を継承するためや、王族とのつながりを示すため、または墓から霊力を得ようとしたのか、山を媒介にしたライン上に眠っている。
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8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
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37祭祀線と神籠石から分かること(2)
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39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
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43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
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46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
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54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
104安心院の佐田神社
386今城塚古墳の謎・物語が見えない
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授柿本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける
373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ
374令和元年こそ万葉集を読み解こう
375大伴家持、万葉集最終歌への道
376神社一人旅はいかがですか
377花の写真はいかがですか
378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東
379万葉集巻二十は鎮魂と告発の歌巻
380関東の神社は、政変を示しているのか
381九州の古墳の不思議と謎
382松浦佐用姫は何故死んだのか
383令和三年の奇跡を祈りましょう
384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ
法隆寺
大塚初重氏の仕事
385万葉集を片手に旅ゆけば
386今城塚古墳の謎・物語が見えない
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