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継体大王の物語を形象埴輪が語る

今城塚古墳の埴輪は素晴らしい。古墳時代を紹介する展示物として様々な博物館や歴史資料館に出張展示されたので、見る機会は度々あった。ていねいに復元されていて見ごたえもあった。
が、どのような場所にどのように並べられているか、イメージはつかめない。そこで、現地で確かめたいと思って今城塚古墳に出かけた。
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埴輪が置かれているのは、古墳の墳丘の上や作り出しではない。外堤の更に外の突堤である。
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模型を見るとよくわかるが、後円部に向かって左側の外堤に更に突堤が付いている。そこにあの有名な形象埴輪群が並べられている。とんでもない外側である。「とんでもない外側」と驚いた理由は、三段築成の前方後円墳の今城塚古墳は円筒埴輪で縁取られているが、墳丘のみならず外堤も二重に円筒埴輪で縁取られているのに、形象埴輪群は円筒埴輪列の外に並べられているからである。
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広場のような外堤横に造られた突堤。二重の円筒埴輪列の外側に造られた突堤に並べられた形象埴輪群。なぜに墳丘ではなく外堤の外に並べられているのか。当然、この埴輪を見せるためである。王家の人々の葬送儀礼としてではなく、一般の人に見せるためだったと思われる。何を見せたかったのだろう
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まず、畏れ多くて古墳に近づくことができない人々に、被葬者の偉大さを知らしめす為に造られたモニュメントとすれば、何を並べているだろう
高槻市今城塚古代歴史館が紹介しているように被葬者が継体天皇だとすると、継体大王に関する物語を形象埴輪が語っている、そう考えてもいいだろう。
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一番後ろに仕切りがあって、衣笠のような埴輪が置かれている。高床の大型の家や小型の家が並んだ後、仕切りがある。
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仕切りの向こうには、大刀の列があり一直線に並んでいる。儀仗兵を意味するのだろうか。大刀で何かを守って居るのか。大刀列の奥には大型家屋と男女の埴輪が置かれ何か儀式をしている。巫女らしい女性が立って胸の前で捧げ物を持つような姿勢をとって前方を向いている。そして、また仕切りがある。仕切りの向こうにも、巫女のような女性が同じポーズ同じ向きで立っている。ここは、たいそう賑やかである。
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大刀列の外側に大鳥の列が、これまた一直線に並んでいる。鎧を着けた兵隊も並んでいるが、彼らは前方を向かずに儀式が行われている方に躰を向けている。大事な儀式が行われて居るようである。
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巫女の集団は手を合わせたり、空に向かって手を上げたりして祈って居るらしい。今城塚の博物館の中に巫女の埴輪が再現されている。やはり魂振りの儀式のように見える。座っている男性は、この儀式に欠かせない人らしいが、躰は小柄で子供だろうか。
そして、また仕切りがある。仕切りの先には鳥列、横に並んだ力士達。力士達は、前方を向いてはいない。四股を踏んで、土地の神を鎮めて居るらしい。
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力士の前には、馬の群が前方に向かって進んでいる。兵士の集団も前方に向かって進んでいる。水鳥も鶏も居る。水鳥は死者を導くのだろう。鶏は時を告げる。先頭を行くのは、飾り馬である。
馬の群がシャンシャンと音を立て、力士がドスンと土を踏み、巫女が悲しみの挽歌を詠う。「こんな盛大な葬送の行列をしました」と、「この御方をいつまでも語り継ぎ忘れないように」と、突堤の埴輪は文字を読めない人々に知らしめたのだろう。

葬列が立派だったのは、十分に分かりました。葬送の儀式に必要だったのは、巫女と力士と兵隊。飾り馬と大刀と楯。殯の館と水鳥と鶏。などなど・・・
この後の有力者も、この葬列や葬送儀礼をしっかりと踏襲したでしょうね。

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# by tizudesiru | 2023-12-27 01:04 | 386今城塚古墳の謎・物語が見えない | Trackback

古代文化も人も西から東へ。古墳人は西から東へ移動した。

最近の遺伝子の解析から分かること
大昔の人々がどのように移動したのか、私の知り合いは強い関心を持っています。それで、下のような資料を紹介してくれました。
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遺伝子レベルでみると、大陸の遼河文明と長江文明の両地域を通って、列島へ人が流れて来た事がわかります。
弥生時代の終焉は、大きな勢力交代によって引き起こされました。しかし、畿内が九州を席巻したとするのは早計ではありませんか。人の動きを見ると、東へ流れて居ますから、東に魅力的な土地があったという事でしょう。
文字の伝播も西から東でしょう
福岡市元岡出土の庚寅銘大刀にしても、古墳時代の大和王権との結びつきなど取り沙汰されていますが、ほんとうでしょうか。500年代です。
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ほとんど楷書ですね。隷書や草書ではありま読めます読めます。現在にも通じる楷書です。
この時期、漢字文化はかなり浸透していたのでしょうか。誰にも読めない字だったら呪術的な意味があっても、それだけです。読めて意味が分かる文字を象嵌すれば、彫らせた者も、彫った者も、読んだ者も満足したのではありませんか。漢字はもともと占いや呪術的な役目を持っていて、神に意思を伝え神の言葉を受け取るという役目がありました。文字を刻むのは神聖な行為だったことでしょう。

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文化は西から東ですから、最近、遺伝子の分野で研究が進んでいます。母系のミトコンドリアDNAの解析が世界中で行われていますが、外国人が出した日本での結果も人の流れは、西から東です。それも、古墳時代が激しく「古墳人」と呼ばれるほどです。弥生時代の終わりに日本では人の流れが始まり古墳時代に大きくなり、古墳人ができあがっていく。平安時代の前、つまり奈良時代までには基本的には日本人の遺伝子に関わるシャッフルは終わっているそうです。勿論、西から東への人の流れです。この事実を無視することはできません。古墳時代に大きく人が動き、文化も拡散したということです。

その後は、支配体制が変わり、人々の移動が為政者によってコントロールされるようになりますからね。人民は「おおみたから」つまり為政者の財産なのですから。人々がいなければ生産活動はできないのですし、国の取り合いは、土地の奪い合いというより、豊かな生産物と人民の奪い合いだったのですからね。
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北部九州の人はどこへ流れたのだろう
そこで、前回の話につなげるのですが、糸島の有力者は「お宝」を持って他地へ移動したのではないかと、書きました。しかし、彼らがお宝を持ちながら、次の為政者に近づき生き残ろうとしたと考えることもできます。
日本各地には、たいして平地も無く、生産力も少ない山がちな土地に古墳が所狭しと作られています。古墳時代に入ったら継続して古墳が作られていく。不思議です。しかし、古墳時代後期や終末期の古墳はほとんどありません。古墳時代の半ばに、ここ北部九州では再び何かがあったのです。そして、人々はよく働いたのです。
その古墳時代に何があったのか、それを知る糸口が残されています。「筑前国嶋郡戸籍川邊里」名前や男女別や年齢や嫡子・庶子などが記された戸籍です。大宝二年の戸籍ですが、その前の時代の様子を想像することができます。
(何故、そんな戸籍が残っていたか。そのことも重要です)
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これは、正倉院文書の裏です。紙は貴重なので再利用しているのです。
聖武天皇の后の光明子が写経させた紙が、大宝二年(702)の戸籍の裏紙だったらしいです。

ちょっと、光明皇后の話
光明子は、天平元年(729)八月に皇后に立てられています。この年の二月に長屋王家を断絶して政敵を一掃した後に、はじめて皇族以外から皇后に立てられた人です。高市皇子の長子である長屋王が「立后に反対するだろう」ということで、長屋王家は滅ぼされ、王家の有力王子の命が絶たれたのでした。
故に、光明子皇后としては身内を断絶して内心には苦しい思いを抱えられていたでしょう。一家そろって死を賜った長屋王の邸宅跡に「皇后宮職」という役所が設けられ、二十年近く写経が続けられたのです。もちろん、長屋王家の供養であり、聖武天皇家や藤原氏の安泰を願っての写経でしょう。
今度は戸籍の話
その写経の紙に、九州の嶋国(福岡県糸島市)の戸籍の裏紙が使われたのです。702年の戸籍の紙が、730年以降に使われています。戸籍の紙を三十年保管した後に、捨てるのはもったいないから再利用しているのです。
もちろん、皇后宮職という皇后直轄の役所で使われたのですから、一級品の紙だったのです。正倉院文書は現在も修復が重ねられています。なにしろ触れないほど経年劣化でボロボロなのです。しかし、「筑前国嶋郡戸籍川邊里」(国宝)の紙は立派です。国宝展で実物を見ましたが、修復されているとはいえ、その状態に驚きました。戸籍は公文書ですから、良い紙が使われたのでしょうが、このような紙を作る技術が嶋郡にはあったということです。
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嶋郡の戸籍には様々な氏の人々が名を連ねているのです。方々から集まってきた人々でしょうか。伊都国や嶋国の地元の人々だけで無く、卜部、物部、中臣、火の君など他所から入った人々でしょうか・・・・
700年の大宝律令の時代には、他所から来た人が糸島に居たのか、糸島に住んでいた人々が、卜部や中臣や物部や火の君などの部民に組み込まれたのか、様々に考えられます。
飛鳥時代までに列島の大きな変化が終わっていたのでしたね。
それにしても
技術を持っているのは、為政者ではありません。働く市民です。
その土地の文化を引き継いだ人々の手に技術が残されたのです。特上の紙を作る技術も筑紫にはあったのです。そんな技術者を移動させるのは、為政者としては納得しないでしょう。財産ですから。
では、人々が移動しり、または、別の組織に組み込まれたりするのは、何故でしょうね。移動した人々には、やむにやまれぬ理由があったのでしょう。

今、世界は・・・難民が増え続けている
今、現在、世界は異常気象による乾燥や豪雨で住むところを失い、難民となって移動する人々が増えています。食べ物がないからです。移動しなければ生きてゆけない難民となった人々が、新天地で困窮しています。
また、紛争や戦争で難民となった人々も大変な数になっています。
彼らは自然の驚異にさらされたのではありません。





# by tizudesiru | 2023-12-25 22:08 | 384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ  | Trackback

弥生時代を生き残るための糸島の有力者の選択

古代の糸島について、もう少し考えましょう。弥生時代、半島や大陸との交流をする上では一等地だった糸島地方。魏志倭人伝の時代には、諸国を監視した一大率がおかれたというところです。渡海したい有力者は、博多湾と糸島地域に目を付けたでしょう。当然、生活用品以外の品物も作られ、交易品となったでしょう。糸島には水晶産地が多くあり、潤地頭給、泊、今宿五郎江、一の町遺跡などの、玉造遺跡が見つかっています。玉は装身具として、豊かな人が求めたでしょう。糸島の辺りでは、交易品として生産されていたのでしょう。元岡の丘陵地や海辺にも関係する多くの人が住んだのですね。
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ここで使う画像は、福岡市博物館や糸島市歴史博物館で買い求めた刊行物の図版です。
「弥生時代の青銅製武器の分布」をみると、そのころの有力者が住んだ地域がわかります。下の図は吉武高木の時代ですから、弥生前期、または弥生中期前半の細形銅剣の時代です。剣も鉾も戈も細形から中細形とか中広形とかになり、少しずつ大きくなっていきます。広形になると武器としては大き過ぎて使えなくなり、もっぱら祭祀具となるのでしたね。
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はじめは佐賀県に細形銅剣や多鈕細文鏡が伝来したようですが、弥生前期に豊かになったのは福岡市の早良地域だったようですね。その後、須玖岡本遺跡や糸島地域が力を持ってきて、弥生後期の卑弥呼の時代になるのです。
平原弥生周溝墓が、卑弥呼の墓ではないかという噂がありました。下のような多くの鏡が割られて副葬されていました。超大型の内向花文鏡が副葬され、その胸には素巻頭大刀がおかれていました。私は或る先生(平原王墓の発掘にかかわった学者)に「平原王墓は卑弥呼の墓と考えていいですか?」と聞いたことがあります。その方は「卑弥呼の時期より若干はやいが、巫女王の墓だと思う」と答えられました。私は、…ムムム…と言葉が続きませんでした。
すると、卑弥呼という鬼道を操る巫女王より前に、同じように鬼道に長けた巫女王がいたということですね。平原王墓の多くの副葬品を見ると、その巫女は只者ではありません。倭人伝では、卑弥呼の擁立の前は男性たちが覇権争いをしていたのです。でも、その男王が戦っている時、優秀な巫女女王がすでに存在していたとなります。この人を擁立しようとしたが死亡したので、卑弥呼を選んだということですかね。でも、そんな記述はないです。
卑弥呼が九州の人なら、平原王墓かなあと思います。
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もちろん、わたしは奈良の箸墓が卑弥呼の墓だとは思っていません。突然、大きな塚を造ったとしても、大きすぎます。纏向の大型建物も卑弥呼の神殿とは思っていません。魏志に書かれた記述とあまりに違うからです。卑弥呼の館は、城柵を巡らせ、兵士が鉾で守っていたのです。多くの鉾が必要です。
大型建物ならどこにあってもおかしくありません。大型建物を卑弥呼の館と決めるには、多くの条件をクリアしなければなりませんね。

そんな女王国にも終わりが来ました。
そのことを示すのが、甕棺文化の終焉なのではないでしょうか。
北部九州の弥生時代の象徴的な墓制が甕棺文化でしょうか。その甕棺は最も大型化した最盛期に、突然衰退します。それも、甕棺文化の中心地から衰退しはじめます。周辺部に小型化した甕棺の墓制が残るという…不思議な事態になるのです。その甕棺文化衰退に連動するのが、青銅器の埋納ではないでしょうか。「武器型青銅器埋納遺跡位置図」を見ると、埋納した地域は、甕棺文化圏とほぼ重なります。が、糸島地方や豊前地域には青銅器埋納は、きわめて少ないのです。同じ文化圏でありながら、別の道を選択したということでしょう。糸島地方や須玖岡本のある福岡平野や栗田遺跡がある筑後平野などから出土する丹塗の祭祀土器はよく似ています。同じような器物を使い神祭りを行っていたのです。しかし、弥生時代の後期、青銅器を埋納する地域とそれをしなかった地域に分かれた。それは、なぜでしょう。かの時代、大きな分岐点に立って、生きるための選択が行われたということでしょう。
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黄丸がが銅鉾・銅戈埋納、赤丸が銅鉾埋納、青丸が銅戈埋納、黒丸が銅剣埋納、白丸が多紐細文鏡の埋納地です。これら行為は、埋納祭祀と理解されています。集落の目立たない土地に埋めて、掘り出しては祭祀を行い、再び埋納したと。それが何ゆえか忘れられて、現在に至ったと説明されています。はなはだ不思議です。
当時の価値観からすれば、貴重な金属であり祭祀用具である青銅器、それを土中に埋めるでしょうか。
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細形銅剣・細形銅矛など初期の青銅製武器の集中は、福岡市の早良平野でした。その後、中広形から広形へ変化していきますよね。糸島地方や春日市の須玖岡本地方などに工業地帯が広がってさかえていきました。しかし、なんらかの異変、政変など変化が起こり、今までの繁栄が失われようとする時、彼らはどのような選択をしたのでしょう。
先祖の地を捨てて移動した、祖先の地で戦った、変化を受け入れて財を失った、より強い権力にすがった、技術を売って生き延びようとした、などなど。
移動するとき青銅器は金品として持ち運んだ。運べないものは、目立たないところに埋めた。金目のものなら運び、それを糧に生き延びますよね。青銅器の埋納がない地域の人々は、苦渋の選択をしたのではないでしょうか。
九州から大量に持ち込まれた青銅製品が、弥生時代後期の銅鐸や古墳時代の鏡の大量生産につながったのだと、私は思っています。
卑弥呼の墓も邪馬国も日本中の至る所にあります。どうしてでしょうね。


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# by tizudesiru | 2023-01-30 15:50 | 366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない? | Trackback

元岡古墳群を尋ねました・2014年のパンフレット

福岡県福岡市西区の元岡古墳群の話の続きです。元岡は今は陸奥に見えますが、古代には海が入り込んでいました。2914年に、デジカメで元岡の紹介をしたパンフレットの写真を撮っていました。
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平安時代だけではなく、古代には博多湾は絶好の交易路だったはずです。
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やはり大学の敷地内にはたくさんの前方後円墳や円墳・方墳があったのですね。
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古墳の被葬者の経済を支えたのは何だったのでしょうね。財力無くして、権力を手に入れることはできません。彼らは経済力を背景に影響力を高め権力を手にしたのでしょう。
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糸島地方は、海とのかかわりが深いのです。制海権を廻っても、他の氏と競ったでしょうね。
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糸島半島や北部九州の鉄生産は、いつ始まったのでしょう。需要があるから供給があるのです。生産された鉄製品は、何処へ運ばれたのでしょうね。


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# by tizudesiru | 2023-01-24 17:01 | 366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない? | Trackback

元岡古墳群を尋ねました

元岡古墳群を尋ねました。九州大学が建設された時に前方後円墳は残されず消滅していますが、庚寅銘大刀が出土した元岡G6号墳は残されたそうです。二年くらい前に訪ねたのですが、探せませんでした。急いでいたのもありますが、糸島の人も知らなかったのです。そうそう、元岡は糸島半島にありますが、福岡市に合併しているので、すぐ隣の糸島の人は知らなかったのでしょう。今回分かったのですが、道路を挟んですぐ近くにあったのです。
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今回は近くのコンビニで仕事してる人に調べてもらいました。
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九州大学の南西のゲートの横の駐車スペースに車を止めて20mくらい西に歩くと、それらしい盛り土がありました。これではないなと思って、柵の横を進んでいくと、それらしい盛り土が見えました。
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周りは荒れて竹や木々が倒れていましたが、盛り土はひとまず確認できました。福岡市から報告書がネットに上げられていますので、切り取りました。
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とても、大事な古墳ですね。私も、このブログで何度も取り上げています。カテゴリ「366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?」(2019年7月)記事を4篇挙げているので見ていただければと、思います。私はこの大刀は国産だと思っています。6世紀の元岡には製鉄窯跡が28基(と、記億してますが)見つかったと思います。
ブログには、7月5日「庚寅銘大刀は倭国ではなく百済産?」 7月7日「大型鋳造鈴は何処で造られたのか」 7月8日「古墳時代、鋳造馬鈴の文化は何処から広がったのか」 7月12日「馬鈴を表現した馬形埴輪を持つ古墳の被葬者は王か、臣下か」など、カテゴリ366の中に入れています。
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G6号墳から遠く東南に背振山の山頂が見えました。きっと、消滅した前方後円墳からも見えたでしょう。九州大学の敷地内では4基(5基だったかな?)の前方後円墳が破壊されたそうです。
その墳丘の上から背振山を見てみたかったなあ、と思いました。
キャンパスのデザインに古墳は必要なかったのでしょうね。G6号墳が残ってよかったです。福岡の人は新しいものが好きなんだと、聞きました。古いものは、次々に壊されていきますからね、そうかも知れません。



# by tizudesiru | 2023-01-23 10:20 | 366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない? | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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41祭祀線と神籠石から分かること(6)
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44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
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59続石上神宮の視線(祭祀線)
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67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
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70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
104安心院の佐田神社
386今城塚古墳の謎・物語が見えない
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授柿本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける
373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ
374令和元年こそ万葉集を読み解こう
375大伴家持、万葉集最終歌への道
376神社一人旅はいかがですか
377花の写真はいかがですか
378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東
379万葉集巻二十は鎮魂と告発の歌巻
380関東の神社は、政変を示しているのか
381九州の古墳の不思議と謎
382松浦佐用姫は何故死んだのか
383令和三年の奇跡を祈りましょう
384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ 
法隆寺
大塚初重氏の仕事
385万葉集を片手に旅ゆけば
386今城塚古墳の謎・物語が見えない
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