太宰府都府楼の隣・蔵司に王宮があったのか

福岡県太宰府市にヤマト王権の出先「大宰府政庁」址があります。私が子供のころは田畑や家屋の中に意味深な小字があったと思いますが、今はすっかり公園になっています。北に見えるのは大野山(大城山)で、大野城が置かれているのです。


a0237545_16033172.jpg
政庁跡をふつうに「都府楼」と呼んでいますが、古代も此処を都府楼と読んでいたのでしょうか。不思議な呼び名です。
a0237545_16262907.jpg
都府楼跡の東隣と西隣は小高くなって森になっています。西隣は蔵司(くらのつかさ)と呼ばれて、古代には武器庫だったといいます。新聞記事で焼けて溶けた鉄鏃の塊が大量に出土したと書かれていた記憶があります、ずいぶん前の話ですが。裏手は谷で池があります。
この蔵司に以前は料亭がありました。何時か行ってみようと思っていましたが料亭は無くなり、跡地は文化財として福岡県が管理しているのでしょう。発掘調査があっていますから、立ち入り禁止です。見学会があって何とか写真だけ取りました。

a0237545_16414795.jpg
蔵司は二段になって、下の段が発掘中でした。木々の奥(東側)が都府楼跡です。都府楼跡は更に大きく段が下がります。つまり、蔵司の方が都府楼の役所を見下ろす位置にあったのです。見晴らしもよくなりますが、高官に対して失礼ではなかったのですかね。
a0237545_16531923.jpg
上の段は広く礎石が並んでいますから大型建物はあったのです。江戸時代の絵からはもっと多くの礎石があったことが確認できるそうです。
a0237545_16551822.jpg
蔵司の礎石は他の遺構の礎石に比べて厚みがないそうです。つまり、薄い礎石では上に重い物は置けないというのです。ですから、倉庫とは思えないという話でした。
「ではでは、人間の住まいならOKなのですね! ふむふむ、それではここは王宮だったかもしれませんね、古代の」
しかし、肯定はされませんでした。が、ここが倉庫だとしたら確かに不自然です。隣の大宰府政庁を見下ろすことになりますし、倉庫を一等地に造る意味は何でしょう。迎賓館址はここから徒歩で15分くらい離れた二日市駅の近くにありますから、客館跡でもないでしょう。でも、大型建物跡があり、火事などで鉄鏃の焼け溶けた塊が出土したのです。
面白い事実です。

a0237545_17251390.jpg
a0237545_17273230.jpg
蔵司の敷地は決して狭くはありません。何らかの公的な建物があったでしょうね。
a0237545_16120394.jpg
観光地として知られる太宰府天満宮は、蔵司や都府楼跡の前の道を東に進み、突き当りに位置します。このあたりの建物は条坊に沿って作られているそうです。
藤原宮より大宰府の条坊が古いというのは、本当ですか?

では、この辺で。


日本史ランキング  歴史ランキング

# by tizudesiru | 2019-01-18 23:33 | 360太宰府は王城だったか、田舎だったか | Trackback

当時の太宰府は超田舎だったが、山城を築いた

「太宰府はヤマト王権の出先機関・大宰府が置かれるまでは、間違いなくど田舎でした」
と、ある学芸員さんが言われました。若い方ですので何処の誰かは言いませんが、これには「発掘の結果からそう思う」という付け加えがありました。
学芸員さんの話だと、大野城・基肄城は白村江敗戦後に造られたということです。水城・大野城の土木工事も一緒にやれたというのです。大野城は土塁が6キロほどあるそうです。
それも急な斜面にある、のです。そして、山地を削平して建物を建て米を運び入れねばなりません。同じ規格の建物だそうですから、設計図があったのです。それを読める人、指示する人、働く人の組織があって、その食料と寝床も確保しなければなりません。人のいないところで山城を造って、ヤマトを守ったのでしょうか・・・

a0237545_15552051.jpg
佐賀県にある基山です。土塁は山頂部から連なる尾根に造られているのです。
a0237545_15573386.jpg
辺りは平たんではありません。基肄城は、基山と坊住(ぼうじゅ)山にまたがりますので、間を谷川が流れています。
a0237545_16012635.jpg
a0237545_15590865.jpg
現在地と書かれているところに、谷水を排除する水門と城門がありました。
a0237545_16032464.jpg
a0237545_16041211.jpg
此の水門を通り抜けて基肄城の中に入った者は、大宝律令では一年の徒刑となっていたそうです。701年辺りでは此の山城が機能していて、都でも関心があったのですね。
a0237545_16045737.jpg
a0237545_16121263.jpg
10間×3間とは大きい建物ですね。
a0237545_16154446.jpg
今では、初期の出入り口の状況をうかがい知ることは難しいようです。
a0237545_16172744.jpg
基山山頂のの土塁をみましょう。
a0237545_16181655.jpg
a0237545_16194881.jpg
広い土塁はうねうねと続いています。
a0237545_16222643.jpg
a0237545_16234802.jpg
a0237545_16252818.jpg
見晴らしも抜群です。やはりここも、白村江敗戦後にいっきに造ったのでしょうか。
a0237545_16262554.jpg
a0237545_16322080.jpg
a0237545_16383896.png
a0237545_16391763.png
基山は大城山とほぼ南北に向かい合っています。真南の関係になるのは、基肄城の北帝門ではないでしょうか。天智天皇が基肄城を築く時、この基山で古代から祀っていた神が降ろされました。その時から筑紫神社に祭られているそうです。
ご祭神は変わった可能性もありますが。
 
山城のためにそれまで祀られていた神が山頂から降ろされる、という話が大野城・基肄城の朝鮮式山城に共通するのです。大きな土木工事が敗戦後の食糧難(働き手を失っている)の時代にできたのかという疑問は、全く解決されてはいませんが・・・双方で祭祀が行われていたことは確かです。
神を降ろされ土木工事に従事させられ、人々はどのように戦後を生き延びたのでしょうね。
基肄城が緊急時に倉庫として役に立つかどうかも疑問ですが、此処で大土木工事がなされたのは事実ですが・・その時期は問題だとはおもいます。白村江戦より前に山城があった可能性はないのですか?
それと、当時の人の考えが、今ひとつ分かりにくいのです。 

最初に書きましたが「当時は、太宰府辺りは超田舎だった」ということです。田舎で村も小さく、人も少ないのに大土木工事をしたとは、理屈があいません。人手・財力・必要性・技術・指導者・組織力、何が抜けても国家的な工事はできないのです。他所から人を呼んだのなら、何処で寝泊まりしたのか、やっぱり気になりますからね。
今日も疑問で終わりました。では、また。


日本史ランキング  歴史ランキング

# by tizudesiru | 2019-01-17 17:08 | 360太宰府は王城だったか、田舎だったか | Trackback

神武天皇が大城山で祭った神を、天智天皇が降ろした

a0237545_23412029.jpg
福岡県太宰府市の通古賀(とおのこが)に王城(おおぎ)神社という古社があります。そこに伝わる「王城大明神縁起」に『神武天皇が四王寺山の山頂に城を構え、大野の県主・田中熊別に警固させていた。神武天皇の山城があるので、時の人は王城(おおぎ)山と云った。詔してこの山に武甕槌と事代主を祭り、東夷を平らげることを祈らせた』この後『天皇は東夷征伐に出発し、熊別は天皇に従い東国に行った。熊別は一子熊則を残し置き、荒気武彦と蚊田王を警固させた。天皇は東征し大和国に内裏を建て橿原宮と名づけた云々』ということが書かれているのです。

王城神社の縁起によると、四王寺山に「大野城」が作られる前から、神武天皇の山城があったとなります。此の伝承が事実を反映しているのであれば、或権力者が山城を造りそこで神祭りをしていたことになります。或権力者が神武天皇かどうかは判断できませんが、宝満山やその周辺、更に西側の豊前にかけて神武天皇の伝承が散在するのも事実です。それも、神功皇后伝承地と重なるのですが。
a0237545_09523109.jpg
a0237545_09541847.jpg
a0237545_09531660.jpg
福岡県太宰府市・大野城市・宇美町にまたがる「大野城」山頂から東を見ると、宝満山と三郡山と若杉山が見えます。西を見ると背振山系の山々から糸島地方の山々まですっかり見えるのです。ここで神祭りをしたと考えるのは自然です。
私は、神山の信仰は弥生時代から始まっていた、と思っています。
宝満山と飯盛山(福岡市早良区)を直線で結ぶと、この大城山山頂と須玖岡本遺跡の高所を直線が通ります。その直線上に、須玖岡本遺跡の王墓、吉竹高木遺跡の王墓、更に飯盛山を越えて、糸島の三雲南小路王墓の三カ所の弥生王墓と、最後に一貴山銚子塚古墳の後円部が乗るのです。

これは偶然ではない、と何度も紹介しました。
春分秋分の太陽は宝満山から昇り、飯盛山に沈むのです。飯盛山こそ、つい最近まで福岡市ではなく「平群村」に在りました。ヤマトタケルや景行天皇が詠んだあの「平群の山」が「飯盛山」だったと思います。古代には、平群の山のいつ樫の葉を髪にさして祈ったのです。飯盛山は神山で、女性神・イザナミノミコトが祀られていました。
なぜ、イザナミノミコトだけ? 当然の疑問です。わたしは女神が飯盛山(平群の山)に、男神が宝満山に祭られていたのだと思うのです。東西の男女の神に見守られて、福岡平野の弥生時代は繁栄したと思っています。それが、信仰として残されたから宝満山の男神を祭祀する場だった大城山も祭場として聖地となったと思うのです。

a0237545_21540710.jpg

弥生の信仰が古墳時代に引き継がれ、さらに仏教が入ってきた時も聖地として仏堂が建てられた可能性があると思います。瓦は、その名残ではありませんか?

大城山の麓から延びる緑の帯は水城です。三郡山系と脊振山系の間の大きな断層地形を「水城」が横切っています。神山から延びる水城も、白村江敗戦後ではなくそれ以前から作られていた可能性があると、神社伝承と版築土塁の中に敷かれた樹木の炭素年代測定からも明らかだそうです。

大きな土木事業・版築土塁が造られるには、経済的バックと政治的意義が必要です。なによりそれを完成させる技術も必要です。一つ欠けても地域全体を巻き込むことはできません。「大野城や基椽城も取り込んだ羅城説」がありますが、それらがあったというならば壮大な権力があったということになります。

大きな権力があったなら、さて、何処にあったのでしょうね。ヤマトですか? ヤマトが白村江戦以前から羅城を造り始めていた、のですか? 無理がありますね。では
九州には大きな権力があったと、考える他ないでしょう。
彼らが大野城ができる前に、何らかの建物を建てていた…となります。
a0237545_01210325.jpg


a0237545_01230497.jpg


四王寺山=大野城の「瓦葺き建物」はどんな場所にあったのか、だいたいわかりました。発掘で瓦が採集されていたことは承知しています。では、瓦はどこで焼いたのでしょう。古代寺院では、寺の近くで鍛冶もするし瓦も焼くし、柱も組み立てます。ここもそうだったのか、瓦窯があるとしたら何処だろう、などなど思っていたのです。
そんなに簡単に見つかるわけはありませんが、近くに窯跡があってもいいはずです。

a0237545_10063820.jpg

これは、主城原を歩いていたとき礎石群の横に置かれていた新聞記事のパネルです。礎石の下を掘ったら掘立柱遺構が出たというのです。それは「官衙」址だというのです。
そうであれば、人が出入りしたのは北の宇美側と云うことになります。大宰府は南側ですから官人が大宰府に住んでいたのなら、通うには不便です。
a0237545_10212565.png

新聞を上のように要約しまた。
a0237545_10203107.png

主城原の官衙は博多側を向いています。古代の官人は博多側から四王寺山に入ったし、その入り口に大きな建物(官衙)があった、となります。掘立柱の柱穴は四角です。そこから単弁軒先瓦が出土したのです。すると、建物より瓦の方が古いのでしょうか。または、建物を建てる時、他から瓦を移したということでしょうか。では、何処から・・・

私は、「白村江敗戦後に倭国に入った郭務悰は、二千の兵を四王寺山に置いたのではないか」と思っています。書紀には「敗戦後、戦後処理のためと思われる二千の兵が倭国に来た」と書かれています。彼らは筑紫にとどまっていますが、郭務悰らが何処に駐留したか定かではありません。彼等が駐屯した安全な場所は何処でしょう。那の大津から遠くはない守りやすい場所ですから・・・四王寺山です。そこに駐屯のための掘立柱大型建物を建てた時、瓦を近くの寺院や館から集めた・・・これは無理ではないでしょう。
または、もともと掘立柱の権力者の館が博多湾側を向いて建てられていた、となりましょう。その建物を郭務悰が利用したのなら、自然な展開です。

さて、真相は。


日本史ランキング  歴史ランキング


# by tizudesiru | 2019-01-15 12:30 | 360太宰府は王城だったか、田舎だったか | Trackback

神在の神石は、古代祭祀の名残!

a0237545_11590851.jpg
話題の神石について質問がありました。「見たことがありますか?」

この写真は2016年11月のものですが、更に昔はここは畑(?)でした。背の高い草が茂って、この大石までたどり着けないほどでした。でも、畑の中に石の上部が見えていました。然し、今は竹が進出していて、スゴイ竹薮になっていました。しかし、大石までの道が作られているので、多分だれでもたどり着けます。
a0237545_12091141.jpg
a0237545_12094382.jpg
a0237545_12111786.jpg
近くには神社があります。神在神社です。「かみあり」とは、名前からして意味深です。
a0237545_12124915.jpg
a0237545_12151928.jpg
神在神社を訪ねて行けば、歩いて5分くらいの場所に神石はあります。
a0237545_12175029.jpg
a0237545_12154941.jpg
石が飛んでくるわけはありませんから、昔ここまで転がして運んだとか、ここが石原で他の石は排除できたがこの大石は動かせず残ったとか、いろいろでしょうが。長い間忘れられていたのは事実です。しかし、この石を見直す動きが高まってよかったです。
ここ神在は、古代には海がすぐ近くまで入り込んでいたので、他の地域との交流もあったと思います。人々は自分たちの結束を高めるために「神祭り」をしたでしょうから、この石が信仰の対象になった可能性はあると思います。
a0237545_12175029.jpg
カテゴリ172「糸島の神社」でもこの大石を紹介していました。他にも面白い神社が糸島にはあります。
では、また。


日本史ランキング  歴史ランキング

# by tizudesiru | 2019-01-13 12:28 | 172糸島の神社 | Trackback

羅城説のある大野城・古代瓦は倉庫に葺かれた!

朝鮮式山城という大野城(福岡県太宰府市・大野城市・宇美町のまたがる山城)を訪ねました。なぜ山城に瓦が出土するのかという疑問があったからです。
前回訪ねた主城原には、礎石群がありました。朝鮮式山城は「神籠石系山城」と違って、削平された土地があり、建物群(倉庫という)が並び、それも三期にわたって建て替えが行われたということです。
神籠石系山城は、削平された土地はなく、古代の建物群もありません。なぜか生活用品も出土していないのです。朝鮮式山城とは違いすぎるのです。
a0237545_08513893.jpg
さて、大城山の山頂と毘沙門堂を目指しました。目的は「大野城の古代瓦はどんなところで出土したのか」、確かめたかったからです。その瓦は、いつどのような理由で山城に使われたのか、知りたいです。
歩きながら思ったことですが、尾根に倉庫群を造る意味は何でしょう。それも版築で造った土塁を歩いてたどり着くような所に造られていました。白村江敗戦後に造られたとなっていますが、敗戦後なら二万にも及ぶ男たちは戦に出ていましたから、残された女たちは必至で食糧生産をしていたでしょう。
そんな状況の所に、版築土塁の山城を築いて米を集めるなんて、無謀ではないでしょうか。同時に水城も築いていたとなると二重の土木工事とは狂気の沙汰、ではありませんか。

a0237545_20585149.jpg
四王寺川に沿って少し歩き、それから山道を毘沙門堂まで登ります。そこは、大城山の山頂近くです。つまり、「四王寺山」とも呼ばれる「大野城」は、いくつもの小さな山の連なった皿のような山塊で、中心部が谷底になって四王寺川が流れているのです。その中で標高が一番高い場所が「大城山」になります。
万葉集にも「大野山」と歌われたり、「大城山」と呼ばれたりしています。山としても、城としても認識されていたのです。

a0237545_21001099.jpg
地図で確認しますが、毘沙門堂のある大城山山頂辺りの「礎石群」は地図上に掲載されていません。発掘しにくい状況なのでしょうか。
ここは早くから人の手が入り、戦前は観光名所だったそうです。

a0237545_21034196.jpg
毘沙門堂への山道を歩いていると、道に須恵器の欠片や土師器の欠片が落ちていました。やっぱり、と思って写真を撮りました。
a0237545_21053615.jpg
更に歩いていると、何と瓦の欠片が土手に在りました。
a0237545_21065968.jpg
布目の後が見えますね。古代の平瓦ですかね。それで、辺りを見てみると、やはり土器片や丸瓦片などが落ちていました。証拠の写真を撮りました。
a0237545_21101224.jpg
そのまま目立つところに置いておきましたから、気になる人は見に行ってください。(遺物はその場にあってこそ意味がありますから、持って帰らないでね)
a0237545_21125558.jpg
何と、毘沙門堂の近くにも瓦片が落ちていました。
a0237545_21134813.jpg
瓦片には布目の後が見られます。ここには、礎石群は確認されていないのでしょうが、創建当時の古代瓦の欠片がバラバラ落ちています・・・ここには、瓦葺きの建物があったのです。7世紀の仏堂だったかもしれません。または、その後の8世紀の瓦でしょうか。
a0237545_21172120.jpg
毘沙門堂にお参りして、山頂に行きます。大城山の山頂は毘沙門堂の西隣りです。
a0237545_21192731.jpg
山頂は削平されたようには見えませんでした。では、瓦葺き建物は隣の毘沙門堂のあたりにあったのでしょうね。
a0237545_21203675.jpg
調査報告書によると、大野城で古代瓦が出土するのは、一期の掘っ建て柱の時期だそうです。つまり、建物に礎石が使われる前に、既に瓦を葺いていたということです。大野城も大宰府政庁と同じように現在「建て替えが三度(三期)あった」ことになっています。その一番古い時期に古代瓦が出るのです。
常識では、「瓦が重いので柱が土に沈まないように礎石を置いた」とされて、瓦と礎石と仏教文化はセットです。

a0237545_21303097.jpg
山頂の斜面にも瓦片が落ちていました。近くに古代の建物があったということです。瓦くずを麓から運ぶとは考えられません。仏教関係の御堂があったのでしょうか。
a0237545_21460721.jpg
(県民の森に採集された古代瓦が展示されていました)
倉庫の瓦葺きが「防火が目的(学芸員の説明では)」であれば、軒先瓦に蓮弁文様の装飾は必要ありません。屋根を飾るのは、その主人が高貴な人であるか、仏像が安置されていたか、等ではありませんか。そうでないなら…何でしょうか。
a0237545_21475699.jpg
(大城山山頂から、博多湾・糸島市・脊振山・九千部山が見える)
私は、弥生時代からここ大城山は神祭りをする聖地だった、と考えています。
白村江敗戦後にも「新羅を呪詛するため」に寺が造られたと、大野城の1350年記念誌に書かれていました。各峰に四天王を祀ったから、四王寺山なのです。それは、新羅からの呪詛を跳ね返すために必死だったそうです。昔からずっと聖地だったので、白村江敗戦後に大野城が築かれ、その後も四天王が各峰に祭られた、と思うのです。

a0237545_21555707.jpg
私は、神山の信仰は弥生時代から始まっていた、と思っています。
宝満山と飯盛山(福岡市早良区)を直線で結ぶと、この大城山山頂と須玖岡本遺跡の高所を直線が通ります。その直線上に、須玖岡本遺跡の王墓、吉竹高木遺跡の王墓、飯盛山を越えて、糸島の三雲南小路王墓の三カ所の弥生王墓と、最後に一貴山銚子塚古墳の後円部が乗るのです。
これは偶然ではない、と何度も紹介しました。
a0237545_21540710.jpg
弥生の信仰が古墳時代に引き継がれ、さらに仏教が入ってきた時も聖地として仏堂が建てられたと思います。
a0237545_01210325.jpg

a0237545_01230497.jpg

四王寺山=大野城の「瓦葺き建物」はどんな場所にあったのか、興味は尽きません。
発掘で瓦が採集されていたことは承知しています。では、瓦はどこで焼いたのでしょう。古代寺院では、寺の近くで鍛冶もするし瓦も焼くし、柱も組み立てます。ここもそうだったのか、瓦窯があるとしたら何処の斜面だろう、などなど思っていたのです。
そんなに簡単に窯跡見つかるわけはありませんが、近くに窯があってもいいはずです。

では、また。


日本史ランキング  歴史ランキング

# by tizudesiru | 2019-01-13 10:56 | 360太宰府は王城だったか、田舎だったか | Trackback

大野城の主城原に王権の宮があったのか?

天智天皇が築城させたという「大野城」は、福岡県の大野城市・太宰府市・宇美町の三つの自治体にまたがる古代山城です。
この大野城から古代瓦が出土していますが、その時代トップの文化的な建物に使われたはずの瓦が、なぜ山中の倉庫に使われているのでしょうか。はなはだ疑問です。
最近、「ヤマト王権による最初の大宰府は、大野城に置かれたのではないか」という考えも出て来たそうですが、他地方の官衙は平地に置かれていますから「大宰府」だけが山中に置かれたとは考えにくいです。
そして、大野城は百済の亡命貴族が指揮して作った「朝鮮式山城」であるというのが、歴史の定説でした。ですから、正史に記述がない「神籠石系山城」とは本質的に違うものだとされてきました。然し、ここ数年間に大きな修正がありました。「神籠石系山城」という用語が消滅したのです。

「朝鮮式山城・神籠石系山城」という古代史で使われていた言葉が「使われなくなって」数年経ちました。神籠石系山城は正史(日本書紀)に登場しません。謎の山城として、九州の王権が造ったものではないかという研究がなされていましたが。

九州の王権・・・これでは具合が悪かったのでしょうか。「すべて古代山城として国防のために造られた」という見解が出されました。
文化庁の発表以来、NHKも「古代山城」というひとくくりで、神籠石系山城を扱うようになりました。両者は同じものだというのです。更に、神籠石系山城は天武・持統朝に整えられたとなっています。
本当に朝鮮式山城と神籠石系山城は、ほぼ同じ時期に造られたのでしょうか。それに、文化庁の見解の通り「神籠石系山城の方が、朝鮮式山城より新しい」とは、本当でしょうか。
疑問符をつけたままの「大野城(朝鮮式山城・日本書紀に記載あり)」を歩いてみました。

a0237545_16364931.jpg
まず、神籠石系山城には、こんな大きな出入口はありません。古代ここには城門があったということです。百閒石垣と呼ばれています。
a0237545_16335399.jpg
北側の宇美町から大野城へ入ると、百閒(ひゃっけん)石垣が目に飛び込んできます。ここは昔から重要な出入り口とされていました。この横を流れる四王寺川の川底から城門の礎石が見つかり、県民の森に展示されています。
a0237545_20195778.jpg
大きな城門があったのです。
a0237545_16395022.jpg
百閒石垣にある案内板です。
a0237545_16403774.jpg
小さな四王寺川から三個もの礎石が見つかっているのです。では
県民の森公園の駐車場から主城原地区の礎石群をみに行きましょうか。駐車場から出てすぐに主城原地区の集落を通り抜けます。分かれ道を左に二度曲がると案内標識があります。
a0237545_16471686.jpg
神籠石系山城には、削平された平地はありません。もちろん礎石も建物跡もありません。しかし、大野城の主城原には、発掘されているだけでもかなりの礎石群があります。
a0237545_16480551.jpg
山道を下り始めると、礎石群が見えてきます。更に先に進むと、三間×五間の同じ規格の倉庫という礎石が見えます。大きな石ですから、重い物が上に乗ったということです。
a0237545_16504803.jpg
a0237545_16532537.jpg
礎石群を越えて先に進みます。陸橋のような狭い土塁の上を歩いて次の礎石群に進みます。主城原地区には広い範囲に礎石があるのです。
a0237545_16555993.jpg
大野城はせりあがるような高い土塁が取り巻いています。
a0237545_17071082.jpg
ここはずいぶん荒れた感じでした。が・・・先に進みます。
a0237545_17115811.jpg
視野が少し大きくなって二段に礎石群がありました。
a0237545_17142705.jpg
削平されていることがよくわかります。
a0237545_20282257.jpg
更に進んでいきました。
a0237545_20294162.jpg
この礎石群は視界が大きくなり大城山の山頂も見えました。
木がなければ互いの倉庫群(?)が見えたことでしょう。であれば、倉庫群を確認できる高所に設置したのは何故でしょう。米蔵を高い場所に置けば出し入れに多大な労力が必要です。それも、白村江敗戦後にたくさんの男たちを亡くした女子供が百済の指揮官の下に築城した…とは、とても考えにくいです。同じころ、水城も造られたとなれば…疑問しか残りません。ここには、「もともと山城があった」という王城神社の伝承が、心をよぎります。

a0237545_21001099.jpg
ここには、元々山城(?)があった、はずです。其処では、神祭りが行われていたそうです。
次は毘沙門堂のある大城山の山頂まで歩きましょう。そこに何があるのか、重要ですから。
それで、このまま西に進んで四王寺山の中心の谷部に降ります。遊歩道が分かりにくくなって、藪のようなところを降りました。
a0237545_20333190.jpg
ちなみに大野城で見つかった古代瓦は「県民の森の資料館」に展示されています。
a0237545_21460721.jpg
では、また明日。


日本史ランキング  歴史ランキング
# by tizudesiru | 2019-01-11 20:37 | 360太宰府は王城だったか、田舎だったか | Trackback

江田船山古墳の石棺がひび割れた・熊本県和水町

a0237545_14590638.jpg
なごみ町の皆様にこの度の地震のお見舞いを申し上げます。

写真は、2014年夏の熊本県和水(なごみ)町に在る江田船山古墳です。ここが2019年1月3日に地震にみまわれました。熊本地震による「ひずみ」の影響で震度6弱の地震がおこったらしいです。
a0237545_15080114.jpg
a0237545_15141360.jpg
江田船山古墳は豪華な副葬品とともに妻入横口式の石棺が有名です。
a0237545_15015848.jpg
a0237545_15185542.jpg
a0237545_15225996.jpg
新年早々に残念なニュースでしたが、被害が少なくて本当によかったです。然し、江田船山古墳の石棺にはひびが入りました。

江田船山古墳は熊本県菊池川流域に在りますが、不思議なことに菊池川流域の古墳は、バラエティに富んでいます。いろいろありの地域なのです。
a0237545_15280063.jpg
家形石棺だけではなく舟形石棺もありますし、石館の装飾古墳もあります。
a0237545_15320325.jpg
a0237545_15330356.jpg
菊池川中流域の山鹿市のチブサン古墳(石館の装飾古墳)が有名ですね。
江田船山古墳の近隣には塚坊主古墳もあります。同じく装飾古墳です。
a0237545_15411575.jpg
a0237545_16025426.jpg
a0237545_16040498.jpg
a0237545_16073654.jpg
a0237545_16085629.jpg
家形石棺から舟形石棺まで、菊池川流域にはいろいろあるんです。
a0237545_15382184.jpg
この流域の石棺が瀬戸内海を通って遠く関西にまで運ばれているのです。なぜ遠くまで運ばれたのでしょう。相当な人手と日数と船の技術が必要だったではずですね。運ぶ理由も。
a0237545_15310858.jpg
もちろん江田船山古墳の周囲には石人石馬も置かれていました。ここの公園に熊本各地の石製装飾品が置かれていますから、必見です。それにしても、石製古墳装飾品が置かれているということは、江田船山の被葬者も筑紫君磐井の関係者だったということになりますね。北熊本ばかりではなく中熊本も磐井の勢力範囲ということですが。

それにしても、気になることがあります。過去の自然災害です。
貞観6年(864)7月17日、富士山爆発(「日本三代実録」)
貞観11年(869)陸奥国で大地震と津波発生。
貞観13年(871)出羽国の鳥海山が噴火。
貞観16年(874)薩摩国の開聞岳が噴火。
「三代実録」は最近よく取り上げられますからご存知かもしれませんが、休火山の噴火は見逃せません。最近の火山の活動は活発だと思うのです。どのような対応を取ったらいいのか迷いますが、慌てずに行動しようとは思っています。

今年が良い年でありますように。


日本史ランキング  歴史ランキング

# by tizudesiru | 2019-01-05 16:30 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Trackback

宗像大社・三女神祭祀の始まりを語る大島の御嶽山

a0237545_09442045.jpg
何年前でしょうか、筑前大島の御岳山の山頂の発掘があったのは。わたしは、その事を新聞で知りました。そこで神湊(コウノミナト)から船に乗り大島へ出かけました。祭祀線を引くには祭祀場の位置は重要ですから、ぜひ現地を確かめたいと思ったのです。大島は私にとってなじみのリゾートです。夏は泳ぎに行きましたし、今はなくなっているのですが温泉施設で食事をしたり、大島マラソンの応援のためにお魚料理を食べに行ったり、なかなか面白い所なのです。
a0237545_09452211.jpg
関東の知人や客を三度ほど案内もしましたが、それは御岳山から北部九州の神山を紹介するためでした。御岳山の展望台からの眺めは最高で、晴れた日には背振・雷山・宝満・三郡・英彦山という霊山やその方向が一望できるのです。
もちろん宗像・津屋崎の山の説明をするには絶好の場所なのでした。「此処で神祭りをしないわけはない」と常に説明していたから、「なるほど」と納得してもらうのが嬉しかったのです。下の写真は、報告書をコピーしたものをデジカメで写したものです。わたしは展望台から沖ノ島を見たことはありません。見つけきれなかったのです。でも、見えるんですね、沖ノ島・壱岐・対馬が。
a0237545_09594486.jpg
御岳山の発掘場所を見学に行くと、一人の青年が黙々と仕事をしていました。誰もいないので彼に声をかけました。それから、聞いてみたのです。どんなやり取りだったのか定かではありませんが・・・
「この遺物は何時くらいですか、時代は?」
「奈良時代ですね」
「此の下には古い祭祀跡がありますか?」
「いや、此の下は岩盤ですから、是より下に遺構はありません」
私は驚くのと同時に安心しました。ここは神島で祭祀場があると思っていたからですが、同時に納得もしたのです。宗像氏の三女神祭祀が奈良時代辺りに成立したと思っていましたから。
数年たって出された報告書の最後に次のような「まとめ」がありました。
a0237545_09562613.jpg
沖ノ島祭祀の中の露天祭祀の時期と、大島御岳山の山上祭祀と、宗像大社辺津宮の祭祀期間が「7世紀から10世紀」という結果ですから、現在につながる祭祀の形は7世紀に成立したということです。そのころ「天孫を助け奉る神」となったのでしょう。
宗像大社は天孫を助け奉る神

a0237545_21241115.jpg
a0237545_21250565.jpg
天孫降臨の話が出来上がったのは奈良時代のはじめでした。その頃は三女神の話が出来上がっていました。宗像氏は高市皇子を通して祭祀に関わるようになったのですね。それまで、宗像氏は三女神を祀っていたのでしょうか。それは分かりませんが・・・

このブロブでも紹介しましたが、宗像大社の西側の「名兒山」の名を名付けたのは、「オオナムチ命とスクナヒコナ命」でした。
「おおなむち すくなひこなの神こそは 名付けそめけむ 名のみを 名兒山と…」いう大伴坂上郎女の歌があります。奈良時代にはこのように詠まれ、人々の認識だったのです。では、
この辺りで信仰されていた神は、古代にはオオナムチとスクナヒコナだったのではありませんか。
時代が変わり宗像氏が入って来て、三女神に御祭神が変わったのかもしれません。または、宗像氏はもともとオオナムチ命を祀っていた、ということでしょうか。
そういえば、宗像氏の祖先神は「大国主命」でしたね。初めは祖先神を祀っていたけれど、古代に天皇家とのかかわりにおいて御祭神を変えたということでしょうか。それは、どの時代にもあることですから、不思議ではありません。
沖ノ島が世界遺産となったその事はすごく意義深い事です。が、多くの人間が背負い続けて来た歴史とは何だったのか、庶民を抜きにして沖ノ島祭祀はあったのか、武器をもって奉献品としたのにはどんな意味があったのか、「いうべからず」を守ってきた海人の歴史を語ることができるのか、九州の歴史の真実を語ってくれるのか、沖ノ島は大きな位置にあるのです。
白石太一郎さんは「沖ノ島祭祀は、糸島の豪族とヤマト王権と宗像氏が始めたのではないか」と云われているらしいです、ご本人から聞いたことはありませんが。 

四世紀にヤマト王権ですか? 私にはここが不思議なのです。卑弥呼の次の世代か、その次の世代にはヤマトが沖ノ島祭祀をしていた? そんなわけはないでしょう。
奈良時代・平安時代だって、九州を治めきれていなかったのではありませんか?

私は、津屋崎古墳群の有力者が沖ノ島祭祀をしていたと思います。何のために? それは半島に渡るためです。新羅への侵攻には安全な航海が必須であり、戦勝祈願は当然でした。
つまり、倭五王は九州から船出したのです。初めは有明海からですが、北部九州に勢力を広げた狗奴国が勝浦から船出するようになり、5世紀には渡半島からの船出も多くなったと思います。現代の感覚では新羅への侵攻を支持するわけにはいきませんが、それは歴史の事実だと思います。
では、このへんで。

 歴史ランキング
神社・仏閣ランキング
# by tizudesiru | 2018-12-29 11:22 | 359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群 | Trackback

元は縫山だった?縫殿神社は奴山に在ります

先日、遠慮してお参りしなかった須多田天降天神社に行きました。
a0237545_22153778.jpg
ここは、須多田古墳群の一つです。
a0237545_22161024.jpg
a0237545_22172718.jpg
後円部が少し盛り上がって見えます。この古墳の正面に、須多田ミソ塚古墳があります。
a0237545_22190640.jpg
今日は奴山の正園古墳(円墳)を訪ねる予定でした。此処は、以前は奴山5号墳と呼ばれていました。あいにくの雨となったので、近くの縫殿神社に行きました。
a0237545_22305387.jpg
a0237545_22314536.jpg
a0237545_22321694.jpg
奴山は、元は縫山だったのでしょうね。
a0237545_22331951.jpg
更に上宮がありましたが、遠慮しました。
a0237545_22344809.jpg
あたりは静かすぎて、里山なのに深い山の中のように感じられました。
階段を下りようと下を見ると、黄葉が散り敷いていました。明日が冬至です。

a0237545_22364139.jpg
a0237545_22380568.jpg
優しい色合いに心慰められて、雨の中を帰りました。
古代にここを治めた首長は、正園古墳に眠っているのでしょうか。以後の写真は正園古墳の副葬品です。

a0237545_22441822.jpg
初期須恵器器台と鉄針及び筒形銅器片。
a0237545_22451195.jpg
三角板革綴短甲。では、古いタイプの甲冑になります。それと、鉄製農耕具。
a0237545_22460188.jpg
棺外に、鉄製武器がたくさんあります。
a0237545_22514885.jpg
a0237545_22531947.jpg
他に玉類もあります。
a0237545_22535726.jpg
a0237545_22541905.jpg
地方の豪族の小さな円墳(32m)ですが、副葬品がたくさんあるのですね。
晴れてる日に訪ねたいと思います。縫殿神社の近くです。

では、また。


日本史ランキング  歴史ランキング


# by tizudesiru | 2018-12-21 22:58 | 358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代 | Trackback

津屋崎古墳群・須多田、奴山の首長達は海を見ていた

津屋崎古墳群を訪ねたのは、須多田天降天神社を確かめるためでした。以前も集落内の道が分からなくて引き返したのです。今回は見つけられると思っていました。
a0237545_10144904.jpg

須多田古墳群の中ですぐに見つかるのは須多田ニタ塚古墳です。畑の中に取り残されています。
a0237545_14063872.jpg
此処は初期横穴式石室を持つ円墳で土師器が出土していますが、須恵器は見当たりません。鉄塊(鋳鉄)が出土しているのに、須恵器は見当たらないのです。
a0237545_14593466.jpg
上、報告書の写真「金属学的調査」を参考までにコピーしました。
a0237545_14073950.jpg
初冬の穏やかな光は、広々とした田園風景にあふれていました。
a0237545_10185712.jpg

西北には渡半島が見えています。古代、須多田と渡の集落の間には内海が入り込んでいましたから、一面青かったでしょうね。此処で、須多田集落の方を振り向くと、須多田ミソ塚古墳が見えました。前方後円墳であることは直ぐに分かりますが荒れた様子です。
a0237545_10244809.jpg
上の写真の右端の辺りに須多田天降天神社古墳があるはずです。
そのまま須多田集落にに向かうとすぐに須多田下ノ口古墳が見えます。須多田下ノ口古墳とミソ塚古墳からは、須恵器が出土しています。
a0237545_10285234.jpg
a0237545_10324439.jpg
須多田下ノ口古墳には仏堂は建てられていますので、発掘されたのは周囲だけでしょうか。
ここからは、須恵器の他に刀子・勾玉・土師紀が出土しています。
a0237545_14382336.jpg
a0237545_15044531.jpg
集落の中なので入りませんでしたが、須多田上ノ口古墳があります。
また、須多田宮ノ下古墳には土師器・鉄剣・直刀・鉄鏃・砥石が出土しています。鉄製品が多いのに、須恵器はないのでしょうか。
a0237545_14492937.jpg
須多田古墳群は上記のように、とても魅力的な処です。
a0237545_23595627.jpg
帰りに立ち寄ったのが、新原・奴山古墳群でした。奴山古墳群の22号墳の前から、須多田方面を眺めました。南奥から宮地岳・在自山・対馬見山と連なっています。山地の東は宗像市で、東郷辺りでしょうか。

津屋崎の山々は決して高くはありませんが、山を挟んで様子がやや違っています。もともと住んでいた人の首長が津屋崎古墳群を築いたとなっていますが、津屋崎側は決して広い土地ではありません。古墳を築く財力の基盤は何だったのだろうかと思います。

上の写真の左の林の中にある小さな墳丘は奴山古墳群・6世紀後半の群集墓だそうです。
では、奴山古墳群を少し散歩します。
a0237545_16093806.jpg
15号墳はまだ修復中でした。その隣は、22号墳です。
a0237545_11001246.jpg
22号墳(ホタテガイ式前方後円墳)には樹木が生い茂っています。此処には、縫殿(ぬいどの)神社がまつられています。
a0237545_16114548.jpg
縫殿神社と向かい合うのは、20号墳(円墳)です。
a0237545_16141015.jpg
a0237545_16133161.jpg
奥に、前方後円墳。
a0237545_16172468.jpg
24号墳でした。
a0237545_16183292.jpg
どんどん歩いて東側に戻り道路を渡ると、25号墳が見えます。
a0237545_16205618.jpg
a0237545_16231643.jpg
a0237545_16235719.jpg
25号墳は奴山古墳群中で最大(35m)だそうです。樹木がないので、ここから勝浦の集落・勝島・草崎が見えます。この丘は選ばれた場所なのでしょう。
a0237545_16265953.jpg
a0237545_16280949.jpg
更に、30号墳などが続きますが日も傾いたので帰ることにしました。
津屋崎古墳群が展開するのは、歩けばさわやかな風が通る台地です。
晴れた日は最高ですね。   では、又。


日本史ランキング  歴史ランキング

# by tizudesiru | 2018-12-17 16:33 | 358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代 | Trackback

津屋崎の新原・奴山古墳群は宗像氏の奥津城ですか?

福岡県福津市の津屋崎古墳群に行きました。最近、沖ノ島関連遺産群となったので、歩きやすいように整美されています。
a0237545_23422190.jpg
津羅崎海岸に立つと相ノ島が青く浮かんで見えて風は穏やかでしたし、海にはウィンドサーフィンを楽しんでる人がたくさんいました。
a0237545_23445931.jpg
西には福岡市の立花山や志賀島が見えていました。
a0237545_23471394.jpg
北西に連なるのは渡半島、東には津屋崎の山が南北に連なります。南から宮地岳・在自山・対馬見山と続きます。
a0237545_23524533.png
在自山(あらじやま)の麓には「在自剣塚古墳」がありまして、そこから北に向かって、津屋崎の山並みの麓には古墳群がつながります。
a0237545_23561658.png
その山並みは、東の名兒山・桂岳までつながるように見えますが、間に断層があり、ここから宗像側に入ることができます。津屋崎古墳群は断層地形を挟んで勝浦地域と津屋崎地域に広がっているのです。
奴山古墳群は勝浦側も津屋崎側も望む位置に造られています。
a0237545_00013943.jpg
写真では道沿いに連なるのが奴山古墳群の群集墓です。海に浮かぶのは左が大島、中央が勝島、右に見えるのは島ではなく草崎という岬です。
a0237545_00090976.jpg
奴山古墳群の眺望のきく場所に展望台が造られていました。
a0237545_00104088.jpg
a0237545_00112777.jpg
津屋崎山地がびっしりと連なるので宗像地域とはながく行政区は別でしたので、ここが宗像市の奥津城とは思えないのですが、世界遺産登録の時「関連遺産群」になりました。しかし、勝浦峯ノ畑古墳の副葬品は、沖ノ島と関係が深いので、関連遺産であることに間違いはないと思いますが、宗像市の奥津城と決めるには無理があるかなと思いました。
a0237545_00243789.jpg
展望所にはボランティアの方がおられて親切に案内されていました。遺跡で表採された須恵器と円筒埴輪の破片が置かれていて説明されていました。
a0237545_00290964.jpg
夕方近くなりましたが、そぞろ歩きしましょうか。
a0237545_00302959.jpg
a0237545_00311103.jpg
スタートは板碑となりましたが、あとは、また明日。
a0237545_23595627.jpg
スタート地点から南を見ると、対馬御山・在自山・宮地嶽が連なっていました。

日本史ランキング  歴史ランキング


# by tizudesiru | 2018-12-17 00:37 | 358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代 | Trackback

古墳の時期を決めるのは墳丘の形・副葬品・埴輪・須恵器・石室ですか

「須多田天降天神社の築造時期について」

須多田天降天神社古墳が6世紀半ばに築造されたという、公的機関の認定に私は疑問を持っているのです。それは、「須多田天降天神社古墳は6世紀半ばに築造」に対してだけではなく、津屋崎古墳群全体の築造時期について疑問があるのです。副葬品や出土物・須恵器や・装飾大刀などから新旧の順番は地域内で比較検討して古墳群の時間的位置付けは他地域と比べれば何らかの答えが見つかると思います。

とはいえ、時期が確定される古墳がないのです。いえ、たった一つ指標になる古墳があります。それが岩戸山古墳です。岩戸山古墳とその周辺の古墳を天降天神社古墳を比較して、その時期を考えてみましょう。
(1)須恵器を比べる

a0237545_23284629.png

確かに、①須多田ミソ塚と➁下ノ口と③天降天神社の須恵器には違いがあります。どれが古いタイプかと云うと③の須恵器です。時に、①ミソ塚の須恵器は全国に展開している「はそう」文字は(瓦+泉)が出土しています。この須恵器の胴に穿孔(せんこう)がありますから、儀式用に作られたものです。穿たれた穴に竹の筒を差し込み酒などの注ぎ口としたのだそうです。葬送の儀式が整ってきた時代にミソ塚古墳は造られたことになります。

では、①ミソ塚古墳が③天降天神社古墳より新しい古墳であることを、八女丘陵で確かめます。

岩戸山博物館に5世紀の丸山古墳(右)と6世紀の釘崎古墳(左)の須恵器を展示しています。

明らかに5世紀の丸山古墳が古く、形も天降天神社古墳の須恵器に似ています。

6世紀になると、須恵器の形式も複雑になり、かつ大量に副葬されるようになるのです。

更に、6世紀には特徴的な「はそう」が付いてきます。「はそう」を出土する古墳の方が新しいのですね。

a0237545_23300140.png
a0237545_23274539.png

6世紀の古墳には「はそう」が出土しますね。童男山古墳(左)や立山山13号墳(右)は「はそう」を伴い須恵器の種類も多いので、より新しい古墳になります。蓋つきの容器といい、焼成技術が上がっています。

 

これらの事実を総合的に見ると、天降天神社古墳の築造時期は6世紀ではなく、5世紀の様相です

(2)埴輪で時期を確かめる

では、次に埴輪をみましょう。

5世紀半ばとされる勝浦峯ノ畑古墳には形象埴輪は出ません。円筒埴輪の欠片がわずかに出ています。葺石はありますが、古い形式の古墳であることが分かります。次の写真が埴輪片です。

a0237545_23334833.jpg

峯ノ畑古墳には埴輪・葺石・革綴短甲などを出土していますが、須恵器は見当たりません。ですから。八女丘陵の丸山古墳(5世紀)より古い古墳になります。大量の鏡の副葬といい石室内の赤色顔料といい弥生の伝統を色濃く残しています。古墳としては、糸島市の一貴山銚子塚古墳(4世紀・柄鏡形前方後円墳)に続く時期となりましょう。(一貴山銚子塚には馬具の副葬はありません。)

また、峯ノ畑の墳形も方墳部があまりバチ形に開かない柄鏡形に近く、一貴山銚子塚古墳と似ています。峯ノ畑は葺石・埴輪はありますが、形象埴輪は確認されていません。まだ、初期の段階なのです。5世紀中頃とされる「勝浦峯ノ畑古墳」は、本当に5世紀中頃としていいのでしょうか。

では、天降天神社と比べましょう。此処には円筒埴輪と朝顔形埴輪(?)らしきものが出ています。須恵器の器台も出ていますから、峯ノ畑より新しい古墳となります。では築造時期は?

(3)峯ノ畑古墳の副葬品で築造時期を探る。

この峯ノ畑古墳は確かに横穴式石室ですが、石室に石柱が建てられた国内ただ一つの古墳です。
a0237545_23353173.png

然も、数多くの鏡と鉄刀を副葬する古墳で、この時期の古墳では最大級の量です。

更に、ここでは挂甲が出土していませんから、同じ古墳群の勝浦井ノ浦古墳(挂甲出土)より古いと判断されています。そして、何かわからなかった金属片が精査の結果「龍文透彫金銅製冠帽」「銅釧」であることが判明しました。疑いもなく首長の墓だったのです。

a0237545_23353173.png

この古墳には三角板革綴短甲が確認されていますが、革綴りですから時期は古くなります。首長は最新のものを手に入れたでしょうから。革綴短甲は重要な手掛かりです。

副葬品の多さを見ると力のある首長であることが分かります。その人が海を臨む地に埋葬されたのですから海外と関わりがあったことになり、それも大量の武器武具からして武力をもって渡海したことになりましょう。彼は倭五王時代の人で、5世紀半ばではなく副葬品から見ると4世紀の人でしょう。4世紀の短甲には既に「鋲留」の技術が施されていますから、「革綴」短甲の時期はその前の技術なのです。遅くとも4世紀末でしょうか、5世紀初頭では技術的な面で不合理です。

峯ノ畑古墳の築造時期は4世紀の中頃か、4世紀の末になるでしょうね。

天降天神社古墳は峯ノ畑古墳より新しいけれど、6世紀半ばまで下がることはないと思います。

(4)墳形で天降天神社古墳を考える

さて、一貴山銚子塚古墳と勝浦峯ノ畑古墳は、前方部が広がっていないと書きました。然し、天降天神社古墳の前方部は裾が広くなっています。図14を見ると、新原・奴山12号墳とほぼ同じ形です。天降天神社古墳は、ほぼ同じ時期の築造と考えていいと思います。新原・奴山12号墳はほぼ5世紀中頃だそうですから、天降天神社古墳も5世紀に入れてもいいでしょうか。

墳丘の形を見ると、天降天神社古墳は5世紀築造の古墳に入ると思われます。

a0237545_23380022.jpg
勝浦峯ノ畑古墳の墳丘測量図も見ましょう。何カ所かトレンチして、図面におこしてありますから、全くこの通りだったかは分かりませんが、残っている地形も反映されているでしょう。前方部の裾がだんだん広がっていくと後期の古墳になると思います。

a0237545_23395297.jpg
須恵器と埴輪と副葬品と墳丘の形で、古墳の築造時期を考えることは可能だと思います。
と、いうわけで、須多田の天降天神社古墳の築造時期は、6世紀半ばではなく5世紀に入ると思います。
それが、今日の結論です。
では、この辺で。



日本史ランキング  歴史ランキング

# by tizudesiru | 2018-12-11 00:25 | 358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代 | Trackback

津屋崎古墳群・天降天神社古墳の築造年代を考える

たいへん面白い質問をいただきました。

旧津屋崎町の須多田天降天神社古墳は如何なる古墳ですか?

福岡県福津市にある津屋崎古墳群の中の天降天神社古墳が「どんな意味を持つ古墳か」というご質問ですが、一言では言いにくいですね。

まず、津屋崎古墳群が宗像氏の奥津城であるかという疑問もありますし、耕地面積の少ない(勝浦・津屋崎地域には内海が深く入り込み田畑の面積が極端に少なく、古代の海岸線に古墳が築造されている)土地で何をして財政の基盤としたのか、人はどのように食料を得たのか、首長は何を以って統治しえたのか、等々疑問がありすぎるのです。

何もわからないのに、古墳だけ見るわけにもいきませんからね…

a0237545_22281652.jpg
a0237545_22292248.jpg

「図2」でも分かるように、古代の福津市も宗像市も内陸に海が入り込んでいます。この後、陸化していくのですが、奈良時代になっても津屋崎から勝浦にかけて海でした。この状況では耕作地はほとんどなく、この土地で大きな人口を養うことはできません。では、大きな古墳を作った首長は何を握っていたのでしょうか。墳丘墓を作るには経済力が必要ですから。そして、津屋崎を選んで墳丘墓を築いた理由は何だったのでしょうか。この疑問を持ちながら、須多田天降天神社について考えます。
(1)須多田天降天神社は、何処に何時築造されたのか

津屋崎古墳群では、北の勝浦古墳群から南に下るにしたがって時期が下ります。南に降りるにしたがって新しい古墳になるそうです。須多田古墳群(天降天神社・あもりてんじんじゃ)は南側にありますね。6世紀の古墳になるそうです。

a0237545_22343529.png

津屋崎古墳群の中で、天降天神社は⑦の位置に有ります。

古代にはすぐそばに海があったでしょう。近くに4基の前方後円墳があり、近くに在自剣塚古墳があります。

古代の須多田の地は内海に面しますから波は穏やかで船を停留するには良い所だったでしょう。東西1キロ~南北1キロの狭い範囲にある須多田の4基の前方後円墳は同じ一族の墳墓と思います。

近くに新原奴山古墳群がありますが、須多田古墳群との関係はどうなるでしょうね。親族関係もあったかもしれませんね。

さて、これらの古墳の築造時期は何時とされているのでしょう。

「国指定史跡 津屋崎古墳群 保存管理計画」(福津市教育委員会)によれば、次のような時期が提示されています。

a0237545_22363059.png

津屋崎古墳群は大型化する中期(5世紀)から造営された、となりますね。それも、勝浦峰ノ畑古墳は横穴式石室で100mの前方後円墳とは、いったい何が起こりこの結果となったのでしょう。しかも、沖ノ島の奉献品の鏡と同笵鏡を副葬しています。航海の安全を願った奉献品と同笵鏡です。

此処で考えられるのは、「勝浦峯ノ畑古墳の被葬者が沖ノ島祭祀をしていた」でしょう。何のための航海だったか、それは新羅への侵攻です。新羅本紀にある「倭兵・倭・倭軍・倭国」の進行です。5世紀に倭兵は勝浦から船出した、となります。

a0237545_22374354.png

それは、勝浦の地名からも容易に想像できます。外海に面して長く伸びた半島は「渡(わたり)半島」、大陸や新羅に渡るという意味です。勝浦港の岬は「草崎(くさざき)」、戦崎(いくさざき)ともいえましょう。草崎の先に浮かぶ島は「勝島」で、勝浦集落の背後の山は桂(かつら)岳。漢字が桂になっていますが、もとは「勝浦岳」でしょうね。

此処にそろっているのは「勝」という言葉です。戦いに勝つと云う強い願いが込められていると思います。5世紀、半島に侵攻したのは倭の五王でしたね。

a0237545_22385444.png

そうして、勝浦古墳群、新原・奴山古墳群は造られたのです。

さて、6世紀になって須多田古墳群の時代になるのですが、天降天神社古墳には須恵器と人物埴輪が出土しています。勝浦峯ノ畑古墳からは円筒埴輪の欠片が出土していますから、埴輪はあったのです。

然し、形象埴輪(人物や動物、道具などの埴輪)はありません。

つまり、後期の古墳から形象埴輪は出土するのです。ほぼ6世紀の古墳から様々な形象埴輪が出土すると、考えていいでしょう。

天降天神社の人物埴輪は椅子に腰かけています。このスタイルは明らかに支配者のようです。然し、6世紀の他の地域の首長の埴輪のように冠や甲や鎧や祭祀具や大刀は見当たりません。そういうものを持たない時期の埴輪でしょうか。然し、意味もなく人物埴輪を作っていないはずです。有力者の家族だったのかもしれません。または、大人になる前、武人になる前に死亡したのかもしれません。

a0237545_22412081.png

更に、須多田天降天神社からは、初期須恵器が出土していますが、これも重要です。須恵器は畿内から広がったとされますが、そうでしょうか。新原・奴山古墳群では1号・7号・12号・22号・30号から須恵器が採集され、1号から鍛冶具が出土しています。高温で焼ける窯はあったのです。6世紀の天降天神社古墳の時代に須恵器がないわけはないでしょう。

福岡県の須恵器は6世紀からというのが定説のようですが、それは違うでしょう。この事については、また明日。

a0237545_22412081.png

資料として『津屋崎古墳群Ⅱ』勝浦峯ノ畑古墳、などの報告書を使わせていただきました。

a0237545_22472707.jpg



日本史ランキング  歴史ランキング



# by tizudesiru | 2018-12-09 22:52 | 358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代 | Trackback

群馬県藤岡市の古墳文化はいつ始まったのか

古墳文化の始まりと終焉を群馬の古墳群が教えてくれる、と旅をしながら思いました。
藤岡歴史博物館も指摘している通り「群馬の縄文時代は長く続き、弥生時代は短い。そこへ古墳文化が流入する」という状況なのです。

群馬における目覚ましい古墳文化の発展と浸透から、何かが起こった、と私は思います。
少し、思い出しましょう。
初めに訪問した藤岡市の白石稲荷山古墳の主体部は竪穴式礫槨でした。同じ前方後円墳の七輿山古墳は横穴式石室らしい(新聞記事)ですから、藤岡の場合、古墳文化は白石稲荷山辺りから始まったのでしょうか。猿田川の水系は古代の人たちの重要な足(交通手段)だったのですね。藤岡の古墳群はほとんど川沿いに在ります。
川沿いの豪族が力を持ったのでした。
a0237545_11415132.png
猿田川流域の白石稲荷山・皇子塚・平井1号・七輿山古墳とめぐってきました。
a0237545_11421290.png
四か所の古墳はすでに紹介しています。では、伊勢塚古墳を紹介します。
a0237545_10263319.jpg
藤岡市上落合字岡三一八 に有ります。七輿山古墳(上落合)と同じ上落合です。
a0237545_10273294.jpg
小さな古墳ですが、川原石を積み上げています。川を交通路として使うためにも川原石は除かねばなりませんからね。人手をかけて、川から運んだのですね。石室の中もびっしり川原石です。
a0237545_10304203.jpg
a0237545_10312747.jpg
墳形は、円墳ではなく二段築造の不正八角形墳だそうです。玄室は胴張(どうばり)で丸く膨らんでいます。九州のある地域も石室が胴張です。出土物は、須恵器と埴輪。6世紀後半の古墳だそうです。伊勢塚古墳の石室入口から七越山古墳が南に見えます。同じ氏族の墓でしょうか。副葬品は見つかっていません。持ち出されたのでしょうね。
藤岡の古墳文化は短い時間で瞬く間に変化したことになりましょうか?

群馬の文化度が高かったことは理解できますが、変化の速さには違和感があります。他からの影響があったとしても、ほぼ中期・後期の古墳文化が一度に流入するとは理解しがたいです。
弥生後期の墳丘墓から初期古墳へと云う変化の過程が見えないのも不思議、それだけに興味がわきます。
a0237545_11290235.png
それにしても、5世紀前半という白石稲荷山古墳(175m)の前方部は横幅が広いですね。初期期の古墳は、もうこんなに裾が広がっていたのですかね? 更に、陪冢(ばいちょう)は、四角の方墳です。臣下や一族の人は、方墳を作ったのですね。主人は前方後円墳、その下につながる者は方墳、そんなルールがすぐにできていたということですか?
a0237545_11305743.png
円墳の皇子塚古墳は六世紀で、横穴式石室でしたね。 
a0237545_12070424.png
a0237545_12063055.png
須恵器が置かれますから、6世紀と考えられたのでしょうね。
須恵器と横穴式石室は6世紀? 何を基準に古墳をみたらいいのか考えます。
平井一号墳の須恵器は、関東での生産ですよね。では、埴輪窯がその技術を進化させて作ったということでしょうか。

そうそう、気になるのは埴輪です。初期の白石稲荷山の時代に、葺石・朝顔形円筒埴輪・形象埴輪は始まりから古墳の必需品として存在した、のですね? 
形象埴輪が現れるのは6世紀からだと教えられてきたのですが・・・すっかり5世紀になっていますね。
a0237545_11402939.png
藤岡は埴輪の供給地だったそうで、各地に埴輪を出荷しているそうです。大きな供給地だったらしく、地域の一大産業になっていたのですね。その後、須恵器窯から瓦窯へと発展し近代まで瓦製造業が継承された、となります。千年以上産業が続いたとは、なかなかないこと、スゴイことです。

古代には埴輪産業で築いた富で、古墳が作られたのでしょうか。つまり、一斉に大きな古墳が作られて大きな需要があり、それが産業になった…どちらが先でしょうね。
埴輪造りの技術を持ち込んだ人たちは猿田彦を祀る人々で、墓制は舟形石棺を持ち込んだ、と思うのです。
更に言えば、その人たちは近畿の人ではないと思います。九州の人たちだと思うのです。

古墳文化が何時、群馬に入ったのか、それを考える手がかりが平井1号墳に有ります。勾金の大刀の時代です。
a0237545_23150074.jpg
束にサーベルのような金具が付いている大刀です。埴輪になっていますから、権力者の象徴的な持ち物だったのでしょう。

古墳を眺め見ているだけの私ですが、古墳時代の始まりが近畿の箸墓だとはどうしても思えません。

各地の古墳を見ても、遺物や副葬品が交差している上に時期の特定が資料館ごとに差があるので、何処が発生なのか出土遺物を頼りに古墳を考えることもできません。
さらに、古墳の形から考えることも、大きさから考えることも、できません。
畿内の大型でバチ形に後円部が広がる箸中山古墳を三世紀としたので、全国の古墳の時期時代を図る目安がなくなったのです。

ピラミッドにしても、武器型祭祀品にしても、弥生墳丘墓にしても、忽然と超大型が現れることはありません。ほとんど、だんだん大型化し最盛期を迎え、終末期に向かって小さくなり少数になっていく、それが自然だと思います。
そんな基本的な流れを遮断するのが、政変であり内乱でありましょうが。
群馬の古墳はそのあたりを解明するカギを持っていると思うのです。

群馬の旅は、まだまだ続くのです。

此処で「七輿山古墳の羊太夫伝承」について少し紹介したいことがあります。
羊大夫は実在の人ではないか、それも奈良時代の多胡碑に名のある人ではないか、ということ。
a0237545_11465286.png
上野の三碑は有名ですね。中でも一番古いのが多胡碑です。
a0237545_21592620.jpg
次のように文が残されています。


弁官符上野國片罡郡緑野郡甘  良郡并三郡内三百戸郡成給羊 成多胡郡和銅四年三月九日甲寅 宣左中弁正五位下多治比真人 太政官二品穂積親王左太臣正二 位石上尊右太臣正二位藤原尊

訳すると、

弁官局からの命令である。上野国の片岡郡緑野(みどの)郡甘良(かんら)郡の三郡の中から三百戸を分けて新しい郡を作り、羊に支配を任せる。郡の名前は多胡郡とせよ。これは和銅4年3月9日甲寅711年4月1日に宣べられた。左中弁正五位下多治比真人。

知太政官事二品穂積親王、左大臣正二位石上麻呂、右大臣・正二位藤原不比等。

碑銘文に「多治比真人・穂積親王・石上麻呂・藤原不比等」のことが彫られていますから、碑文が彫られたのは奈良時代になります。この四人は万葉集に名前がありますね。
七輿山古墳の伝承は何時の時代だったのかというと、多胡碑の時代であれば「羊(ひつじ)太夫の伝承は奈良時代」になり、羊太夫その人に悲劇が訪れたとなります。彼等は七輿山古墳の被葬者の親族だったので先祖の墓に来て自害したとなります。・・・落合の地名も納得です。
多胡郡を賜わった羊は、「よう」と読まれ、渡来人説が有力です。然し、女房を七輿山古墳に葬ったのですから、古墳の被葬者一族と無関係とは思えません。やはり、「よう」ではなく伝承のように「ひつじ」太夫なのでしょう。
そして、近くの舟形石棺の主もこの一族の祖先でしょうね・

a0237545_11570438.png
此処でもう一つ、気になる遺物「評首と彫られた土器」があります。

a0237545_11593760.png
平安時代の住居跡から出て来たという土器に刻まれていた「評首」こおりのおびと。評(こおり)と呼んでいますが正確な読みは不明で「こおり」と読んだであろうという説で「評」は「こおり」となっています。「評」は701年の大宝律令が成立するまでの行政区と云われています。評が「郡」に変わったのだそうです。
平安時代は大宝律令から70年以上たっていますから、当然「評」という行政区はありません。
然し、「評首」という名称なり役職の呼び名が残っていたということでしょうか。
刻書土器の持ち主は「こおりのおびと」に格別な思い入れがあった、その呼び名を使うことが誇りだった、ということでしょうか。または、奈良時代の後期・平安時代の初期になっても「評」という行政区が使われ続いていた、のでしょうか。

ふむ、群馬はなかなかミステリアス。
長い群馬のたびに御付き合いくださってありがとうございます。
では、また明日。

日本史ランキング  歴史ランキング


# by tizudesiru | 2018-12-06 23:54 | 357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎 | Trackback

七輿山で落ち合った7人の女房伝説と宗永寺舟形石棺

群馬の古墳探訪の旅、藤岡市を歩いているところです。
皇子塚古墳のある丘を北に降りると、くぼ地が見えました。そこは七輿山古墳の周濠でした。
a0237545_20313032.jpg
七輿山古墳(145m・前方後円墳)大きいので全体がつかみにくいですね。濠は内と外に二重に巡り、その堤には、円筒・朝顔形円筒・人物・馬・盾などの埴輪、他にも須恵器や土師器が置かれていました。
a0237545_20374254.jpg
a0237545_20415343.jpg
藤岡歴史資料館に七輿山古墳の埴輪が展示されていました。
a0237545_20452754.jpg
館長さんのお話によると、「円筒埴輪に七本の筋があります。これは、被葬者の身分が高いことの証」ということでした。七条凸帯というそうです。6世紀前半の古墳だそうです。後円部は東、西の前方部が広いですね。
a0237545_20504649.jpg
七輿山古墳には「羊太夫(ひつじだゆう)」の伝承があります。

奈良時代に新設された多胡郡(たごぐん)を賜わった羊太夫は、八束小脛(やつかのこはぎ)という神童の引く天馬に乗って朝廷に日参していました。ある日羊太夫は悪ふざけで小脛の両脇に一本ずつ生えている白羽を抜いてしまいました。すると、神通力を失い天馬が走らず、朝廷に日参できなくなりました。朝廷は羊太夫が謀叛(むほん)を計っているとして討伐軍を派遣しました。八束城を追われた羊太夫一族が落ち合った場所が「落合」という地名になり、羊太夫の女房ら7人がここで自害し、それぞれ輿に乗せて葬ったので「七輿山」という名前が伝えられているのです。

羊大夫一族は、ここまで逃げてきて落ち合ったのに、7人の女房は自害したのですか。なんとも悲しい伝承です。七輿山古墳の東にお寺があって、そこに舟形石棺があります。舟形石棺と云えば、九州の熊本が発生でしょうか。気になる伝承と舟形石棺ですよ。
a0237545_22393529.png
a0237545_20450488.jpg
a0237545_23100445.jpg
a0237545_23144927.jpg
a0237545_23220555.png
舟形石棺は、古老の伝えでは宗永寺裏東塚古墳にあったのもだそうです。それが宗永寺山門の西南方向35mにあった天神山古墳の墳頂に移され、現在は寺の境内に置かれているのです。転々としたのですね。
凝灰岩で作られていますから、石棺製作の石材の伝統が伝播しています。
最初に作られたのは、小さな古墳だったのでしょう。それでも、石材の伝統は守ったということですね。
それにしても、宗永寺の石棺は熊本の舟形石棺に形が似ていますね。
a0237545_23453331.jpg
a0237545_23481291.jpg
七輿山古墳、なかなか面白かったですね。地名は、上落合字七輿です。
では、又明日。


日本史ランキング  歴史ランキング

# by tizudesiru | 2018-12-05 00:00 | 357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎 | Trackback

九州と共通する葬送儀礼と石積み技術を持つ皇子塚古墳と平井1号墳

古墳時代の時間迷路の中、導かれるままに群馬の旅を続けています。藤岡歴史博物館の正面に見える皇子塚(おうじつか)古墳に立ち寄りました。中央の丸い木の後ろの古墳がが皇子塚古墳になります。その左横が平井地区1号古墳です。この双方の古墳から装飾大刀が出土しています。
皇子塚古墳には、単龍環頭大刀(たんりゅうかんとうたち)が石室の外に置かれていました。この大刀は、何を教えてくれるのでしょう。
a0237545_22445186.jpg
藤岡歴史博物館に、二つの古墳の紹介がありました。
a0237545_14351014.jpg

皇子塚(おうじつか)古墳は、径31mの小さな円墳です。横穴式石室(全長8.33m)があります。玄室は3.52mの長さがあります。
皇子塚古墳の墳丘には、円筒埴輪のほか、朝顔型・人物・馬・盾・靫(ゆぎ)・大刀・鞆(とも)などの埴輪が出土しています。石室から、人骨・馬具・ビーズ玉・鉄鏃・耳環が出土し、前庭から単龍環頭大刀の柄頭、須恵器、甕、坏などの土師器(はじき)6世紀後半とのことです。
単龍環頭大刀(たんりゅうかんとうたち)は、石室内ではなく、外の前庭にあったのです。この頃は、大事な宝物と云うより、魔除けの道具だったのでしょうか
a0237545_14390328.jpg
径31mの円墳で四段築造、葺石と埴輪・周濠が確認され、南東に開口する両袖型の横穴式石室(8.33m)、前室(1.89m)玄室(3.52m)のある副室構造で、羨道(せんどう、2.64m)の前には細長い墓道状の前庭が付設していました。
a0237545_21210991.png
群馬では、切り石の横穴式石室でも副葬品に飾大刀(装飾大刀)なのですね。6世紀後半の四段築造の皇子塚古墳に、形象埴輪と飾大刀と横穴式石室が伴うのですね。玄室は凝灰岩の切り石の互目積(ごのめづみ)、前室は川原石の乱石積です。凝灰岩が石室に使われた理由は何でしょう? 九州の石棺が凝灰岩であることとつながるのでしょうね

さて、隣の平井1号墳(径24m)は、横穴式石室を持つ円墳です。
玄室の壁は、凝灰岩の切り石で、互目積(ごのめづみ)で「随所に稚拙な切込みの手法を取り入れています。」と図録に有りますから、切り欠き加工を取り入れようとしていたのでしょう。
ますます、九州の6世紀の技術と共通しますね。
a0237545_22565195.png
皇子塚古墳の隣の平井1号墳は二段築造の円墳ですが、二本の装飾大刀が石室の奥壁から並んで出土しています。
金銅装単鳳環頭大刀(こんどうそうたんほうかんとうたち)、柄の環に鳳凰の飾りがあります。
もう一つは、銀象嵌円頭大刀(ぎんぞうがんえんとうたち)で、柄の頭が丸く膨れ、そこに銀線で象嵌が施されています。

皇子塚古墳の方が格式が高いのでしょうか、墳丘が四段築造ですから。それに、装飾大刀は石室の外に在りましたし、特別の宝物だったとは思えません。然し、平井1号墳の二本の大刀は、石室の奥壁から出土しています。完全な形での出土でした。
a0237545_23012873.jpg
藤岡歴史資料館の図録を見ると、家形埴輪にカツオギがあります。神祭りの館なのでしょうね、更に、大刀形埴輪には、勾金が付いています。群馬の古墳では、この勾金のつく大刀の埴輪がいたるところで出土しています。
これは、実に意味深です。
平井1号墳が造られた時、勾金の大刀は古墳の大刀の象徴になっていた。大刀・盾・靫・鞆・家・
歴史資料館にあった大甕は、この平井1号墳の墳頂から出土したものでした。墳頂に甕が置かれるのは、九州と同じです。勾金のついた大刀の細かな描写といい、実に興味深い図録でした。
a0237545_23413265.jpg
皇子塚古墳の西は広い芝生になっていて、藤岡歴史資料館(右)が見え、中央奥に白石稲荷山古墳が見えています。この広場の西の端では、発掘が行われていました。

掘っ建て柱の跡と土器片が見えました。地面からさほど深くないところにこの遺跡はあるのですね。
a0237545_23461228.jpg
では、いよいよ七輿山古墳を見に行きましょう。発掘の行われている処の奥、竹林の向こうの崖下に、七輿山古墳はあるのです。
では、また明日。
a0237545_14420337.jpg
a0237545_23175341.jpg


日本史ランキング  歴史ランキング

# by tizudesiru | 2018-12-04 00:08 | 357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎 | Trackback

白石稲荷山古墳の家形埴輪は倉庫ですか?

古代史の迷路を辿って群馬を旅しました。群馬には古墳時代の始まりと終焉を解くカギがあります。
a0237545_09415767.jpg
此処は、群馬県藤岡市の白石稲荷山古墳(前方後円墳・175m)です。
a0237545_09433078.jpg
白石稲荷山古墳は、藤岡歴史資料館と同じ丘陵・台地上に在ります。白石古墳群の中心的位置に在るのが、白石稲荷山古墳でしょうか。この古墳のすぐ横、眼下を流れるのが猿田川です。なんとも意味深な川名です。古代にはこの辺りの神が猿田彦だった? 猿田彦を祀る人たちがここを開拓した? 小さい川ですがすぐ近くの大きな川と合流するので、川舟が行き来したのでしょう。この川を使って埴輪が他へ運ばれたらしいです。橋が見えますが、これが猿田川。左奥の林の当たりは落合といい、川の合流点です。
a0237545_09554451.jpg
では、白石稲荷山古墳(175m)にお邪魔しましょう。
白石稲荷山古墳の北側の広い空間には陪冢がありました。十二天塚古墳・十二天塚北古墳です。
a0237545_09572370.jpg
この前方後円墳は、辺りから目立つ場所に在ることが分かります。眼下に猿田川がありますが、古墳のすそを通るのでここからは見えません。
a0237545_10581122.jpg
家形埴輪が出土しています。屋根の形が立派ですね。
a0237545_09580870.jpg
a0237545_14024602.jpg
後円部の墳頂には説明板がありました。前方部はこの墳丘の南にあります。
a0237545_10024337.jpg
全長175m、後円部92m、くびれ部幅50m、前方部148m。墳頂部に二つの竪穴式礫槨、出土遺物は鏡・直刀・装飾品類・石製模造品(石枕・刀子・案・杵・坩・箕・剣・勾玉・履(げた)など)ほかに、家・短甲などの埴輪が出土しています。
写真は、埴輪寄棟倉庫と書かれています。倉庫にしては立派です。倉庫であれば、屋根を立派にする必要はありません。この「寄棟倉庫」は窓がないので、「倉庫」と判断されたのでしょうね。薄暗い空間で神祭りの儀式などやっていたような気がしました。神や祖霊は暗い所に居て姿を見せませんから・・・
a0237545_11293955.jpg
墳丘の北は平らな丘ですが、ここには陪冢である十二天塚・十二天塚北古墳があったのです。ですから、猿田川にかかる橋名は「十二天橋」でした。
a0237545_11431468.jpg
猿田川の水量は多くはありませんが、ゆったりと流れていました。
a0237545_11453404.jpg
右の斜面は、白石稲荷山古墳の前方部です。
a0237545_11442236.jpg
猿田川は落合に向かって流れていきます。
a0237545_11463495.jpg
南から北に流れる猿田川。左岸の林が皇子塚古墳です。
明日は、皇子塚古墳を訪ねます。では、また。


日本史ランキング  歴史ランキング

# by tizudesiru | 2018-12-02 11:49 | 357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎 | Trackback

藤岡歴史資料館・藤岡の特別な物語を須恵器大甕がかたる

群馬を訪ねた理由は、群馬が古代史のトビラを開くカギを握っているからにほかなりません。関東と遠く離れた九州の接点を見つけるための旅です。わたしは九州の古墳文化が群馬に伝播したと思っていますが、それを確かめるための旅でした。
11月27日の穏やかな火曜日、群馬県藤岡市を訪ねました。
a0237545_22445186.jpg
藤岡市の歴史資料館は、緩やかな丘陵の上に有ります。広い駐車場の奥に見えているのは、皇子塚古墳です。左奥の林の向こうは斜面になっていて、坂を下りたところに七輿山古墳があります。
a0237545_22473897.jpg
資料館ロビーの壁には、七輿山古墳の新聞記事が張られていました。
a0237545_22483036.jpg
東日本最大級の横穴式石室が地中レーダーで分かったというのです。わくわくするような記事です。
a0237545_22541663.jpg
興味をそそられましたが、まず、藤岡の豊かな縄文文化と大量の遺物をみましょう。
a0237545_23303031.jpg
a0237545_23305677.jpg
a0237545_23325769.jpg
a0237545_23333878.jpg
a0237545_23350794.jpg
旧石器から縄文へと豊富な遺物がびっしりと並んでいます。しかし、弥生の遺物は少ないのです。長く続いた縄文が終わると、短い弥生時代が訪れ、古墳時代に入るのです。
つまり、弥生の文化は鉄を以って入って来たということです。世の中をいっきに変えたのでしょう。
a0237545_23422096.jpg
a0237545_23433363.jpg
そして、古墳時代に突入するようです。
a0237545_23441061.jpg
a0237545_23452015.jpg
a0237545_23460739.jpg
弥生時代が充実して必然的に古墳時代に移行したのではなく、他の地域の文化が入って来て急激に変わった、豊かな縄文文化の下敷きがあったので急激な変化を遂げた、のです。受け入れる文化が豊かだった証拠でもあります。
a0237545_23500105.jpg
藤岡には半地下式の埴輪を焼いた窯跡がありました。この窯の伝統は近代まで残り、瓦窯が何十件もあったのだそうです。今では、一軒が残るのみと云うのですが、驚きました。古代の伝統的な仕事が営々と受け継がれたとは。
a0237545_23363912.jpg
a0237545_23353710.jpg
何より嬉しかったのは、資料館の館長さんに親切に展示物の説明をして戴きました。そこで、
「藤岡で特徴的な事、ここだけでしか見られない物は何ですか?」
とお尋ねしました。
「それは、大甕です。大甕は他の地域では出土しません。藤岡だけです。」
という答えでした。これは、大変重要な事実です。
a0237545_00341456.jpg
a0237545_00350899.jpg
似たような大甕を福岡県朝倉市甘木の歴史資料館で先日見ていましたので、写真があります。
a0237545_00420767.jpg
上の写真が、九州の福岡県の甘木歴史資料館の大甕です。これは、古墳の墳丘の上に置かれていたものです。
双方のよく似た大甕は、同じような目的で作られていたのでしょうか。興味が湧きました。
須恵器大甕を焼くには、それなりの技術と高温を保つ窯が必要です。その技術はこの時代、拡散していなかったということですね、群馬では。
九州では、熊本でも福岡でも須恵器の大甕が古墳の周囲や墳丘から出土しています。
a0237545_00503334.jpg
群馬に出かけるようになって40年近くなりますが、古墳を訪ねる旅はほとんどしませんでした。今回、面白い旅をすることができました。
明日は、藤岡の資料館近くの白石稲荷山古墳を訪ねます。では、明日。


日本史ランキング  歴史ランキング

# by tizudesiru | 2018-12-02 01:02 | 357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎 | Trackback

宗像の弥生遺跡・田熊

宗像市の友人宅を訪ねた帰りに田熊遺跡に寄りました。
古墳時代には、釣川を使った交易があっていたそうで、掘っ建て柱の建物跡がありました。この遺跡は、古墳時代に栄えたのですね。
a0237545_00243191.jpg
釣川はさほど大きな川ではありませんが、船が昇って来ていたのでしょう。河口の近くは水量もありますが、田熊石畑の辺りは、かなり浅くなっています。古代には船が上がれるほど手入れをしていたでしょうか。
a0237545_00263323.jpg
a0237545_00195687.jpg
古墳時代の遺跡分布図を見ると、氾濫域に遺跡があるように見えます。この頃は陸化していたのでしょうか。福津市の勝浦潟の方は奈良時代まで水上交通が盛んだったらしく、入り江の奥に「船つなぎ石」が残されています。今はすっかり陸化していますが。
a0237545_00032155.png
宗像地域は、縄文・弥生・古墳時代と、同じ場所に人々は住み続けることができたのですね。宗像氏がこの地に入ってきたのはいつでしょうね。宗像市の祖先神は大国主となっていますが、途中から「天孫を助ける神」を祭祀するようになりました。では、三女神が海路を守るようになったのは何時なのでしょうか。宗像市は謎の多い氏族ですね。書紀には三女神の記述がありますから、8世紀には天孫を守る祭祀は始まっています。
天武天皇13年(684)に胸形氏は「朝臣」姓を賜わりました。
天武天皇の長子の高市皇子が宗像君の娘でしたから、朝臣賜姓となったのでしょう。

a0237545_00352746.jpg
それにしても、ここを大船が上ったのですかね。浅い川ですが。
a0237545_00365557.jpg
この盛り土は何でしょうか。
a0237545_00403177.jpg
田熊石畑遺跡には環濠もありましたし、貯蔵穴もありました。
a0237545_00414801.jpg
群馬に出かけていたので、ブログもしばらく休んでいました。
では、また明日。


日本史ランキング  歴史ランキング


# by tizudesiru | 2018-12-01 09:06 | 356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡 | Trackback

甕棺墓がほとんど出ない宗像の弥生遺跡

a0237545_23270524.jpg
宗像の弥生から古墳時代にかけての遺跡(田熊石畑遺跡)に行きました。数年前、現地説明会があった時、武器型青銅器が出土した木簡慕の出土場所は、写真の奥の三角の山の方角でした。
山の名は許斐山で、近世には許斐氏の城がありました。英彦山の伝承では、英彦山の北山三御前が許斐山に下り、その後、宗像大社に祭られたとか。古代には神山だったのです。神山であるからこそ許斐氏も城を築いたのでしょう。
a0237545_00032155.png
釣川は深く内陸まで入り込んでいました。古代には釣川だけではなく、遠賀川も深き内陸に入り込む大きな湖のようになっていました。同じように、宗像市の隣の福津市の勝浦も今では広い田畑が広がっていますが、古代には内海でした。
奈良時代まで船が入り江の奥に入っていて、大伴坂上郎女も船で来て陸に上がり宗像神社に参拝しています。
大伴坂上郎女は都に上る途中だったので、釣川を小舟で下ったかもしれません。
a0237545_00455767.jpg
奥の三角の山が許斐山です。左上の森は、東郷高塚古墳です。
a0237545_00172261.jpg
宗像市の東には、湯川山・弘大師山・金山・城山と呼ばれる四塚山があります。
a0237545_00343942.png
田熊石畑遺跡から四塚山が見えることを、遺跡の事務室の方がわざわざ説明されました。宗像の人には大事な山だということでしょうか。
a0237545_00405276.jpg
a0237545_00413244.jpg
武器型青銅器が出土したのは木簡慕でした。
a0237545_00450492.jpg
a0237545_00210053.jpg
a0237545_00491790.jpg
a0237545_00503456.jpg
広い敷地に竪穴住居はほとんどありません。わずかな二棟は「墓守」のものではないかということです。

ではまた、明日。


日本史ランキング  歴史ランキング


# by tizudesiru | 2018-11-24 00:54 | 356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡 | Trackback

邪馬台国の滅亡を再検討する・弥生遺跡消息一覧表

此処で、私自身うっかり見過ごしそうになりました。早まってはなりません。日本史の根幹にかかわる「邪馬台国の滅亡」です。それが起きたのは、弥生中期でしたか?
「卑弥呼以って死す」は、248年でした。弥生の後期ですから、あの一覧表を見直してみましょう。
a0237545_11301496.jpg
確かに、弥生中期で一斉に集落の衰退が起きています。そして、徐々に回復したのに、弥生後期に再び衰退期が来ています。
では、祭祀具の破棄を故意におこなったという栗田遺跡と七板遺跡を見ましょう。一覧表には七坂となっていますが、筑前町の文化財課に問い合わせたら「七板」の誤りでした。この七板遺跡は後期後葉で集落が途切れています。
a0237545_11383285.jpg
では、重要文化財を出土した栗田遺跡です。この祭祀具一式はほぼ完形で同じ場所で発掘されました。意図的な廃棄・埋納と考えられています。では、その時期は①➁③の何処でしょう。➁か③のどちらでしょうね。①では祭祀具の出現はまだないそうです。
a0237545_21170054.png
同じような祭祀具の意図的な破棄・埋納があった七板遺跡と同じような状況です。「足の踏み場もないような多数の甕棺墓とともに、調査参加者の眼瞳に焼き付くような鮮明に丹を塗られた精製胎土の磨研土器群の発見により他に比類なきものであることが確認された。」と、栗田遺跡の報告書(1974年)に在る通りです。
a0237545_11385106.jpg
ほぼ完形で見つかった!! 偶然ではありません。七板遺跡でも同じ状況なのですから。ほぼ同じ時期に意図的に埋納破棄された、としか思えません。すると、弥生後期にそれが起こったことになりましょう。
a0237545_22233215.png
実は、筑前町の柏木宮ノ元遺跡・宮ノ前遺跡は、弥生後期の遺跡です。つまり、土器の大量廃棄は弥生中期ではなく後期の出来事です。阪井田遺跡も弥生後期の遺跡で、溝に大量の土器が捨てられていました。
何か大きな事件があったのは弥生後期となり、邪馬台国の滅亡はこの時期と思われます。
a0237545_22164085.png
そして、「邪馬台国の滅亡は弥生中期だった」説は、消滅します。邪馬台国の滅亡は、発掘の状況からして弥生後期でした。
では、弥生中期の集落の衰退消滅は何だったのでしょうか。なぜ集落は消滅したのか、災害でもなく飢饉でもなく国を左右する大事件・・・考えられるのは、ひとつ。
倭国大乱です。
a0237545_22253020.png
明らかに、黄色ラインの弥生中期後葉に集落が一斉に消滅衰退しています。
此処で国を揺るがす大事件が起こりました。そして、卑弥呼の登場で乱はおさまります。回復の兆しが見えた時、狗奴国との争いが起きたのでした。祭祀具が捨てられたのは、文化や思想の違う社会になったからで、邪馬台国時代の祭祀は破棄され、人々はそれまでの祭祀を捨てて他所に去ったか、祭祀を変えて集落に残ったか、となるのです。
a0237545_22510335.jpg
ところで、これらの出土物の中で、他を圧しているものに丹塗磨研の筒型土器がある。器高80cm内外で、口径約15cm、上方に鍔(つば)を有するもので、北部九州独特の器制をなすものである。現在までの出土例は20例ぐらいであるが、当遺跡では、以前4個体分出土しており、今回を加えると10個体以上の出土をみたことになる。この筒形土器はSO1・SO5・SO6号の各祭祀遺構から検出された。その中で、SO6号祭祀遺構は、当遺跡の中で最大の祭祀遺構で、完形品およびこれに近いものだけで(基本個体)20個体を数えるほどである。」(栗田遺跡報告書・1974年)

更に驚いたことに、「最大の祭祀遺構であるSO6号を中心に、他の祭祀遺構が南北に連なり、ひとつの流れのようになっている。そして、この祭祀遺構集合線を境として、それぞれの甕棺墓群が対峙している。」と書かれています。
この筑前町の弥生遺跡は葬送文化を持ち、その文化圏には強い結びつきがあったのです。
此の丹塗磨研土器が卑弥呼の時代の祭祀だとしたら、この土器の最大の出土地は、女王国と深い関係にあったことになりましょう。卑弥呼、その人の出身地かもしれません。
この祭祀具は、伊都国でも春日の奴国でも出土しています。卑弥呼の時代の祭祀具には違いありませんからね。
a0237545_22502470.jpg
では、また明日。


日本史ランキング  歴史ランキング


# by tizudesiru | 2018-11-19 23:33 | 355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡 | Trackback

筑前町・弥生時代の遺跡消息一覧表から読めること=邪馬台国の滅亡

筑前町の弥生遺跡の光芒は、邪馬台国の運命を示唆する
a0237545_21214667.jpg
福岡県朝倉郡筑前町(旧 三輪町と夜須町)の東小田峯遺跡を訪ねましたので、大事なことをお知らせしています。前回「筑前町の弥生遺跡が消滅したのは、邪馬台国滅亡という大事件に関係する」と書きましたので、その事を重ねて紹介します。
a0237545_22085697.jpg
この写真は「東小田峯遺跡の発掘報告書」の大溝の写真です。この遺跡では大溝を全て発掘したのではなく、たまたまトレンチしたところに大溝がかかった、ということです。その写真ですが、各層のところどころに割れた土器片が見られます。つまり長い間かかって溝が徐々に浅くなり捨てられた土器が年月とともに各層に残っている状況です。
この大溝は、平和な日常が営まれていた証拠にもなりましょう。
然し、ここにも集落の消滅は起こっています。では、たまたま土器を大溝に廃棄した場所が掘られていないだけでしょうか。
筑前町の他の遺跡では、大溝のある地点に土器が固まって捨てられていました。
a0237545_23020545.png
a0237545_23014439.png
柏木宮ノ本遺跡も、阪井田遺跡も大溝に捨てられた土器でした。それも、同じ面(層)にかたまっていますから、ほぼ同じ時期に一斉に捨てられたということです。各層に点在するのではなく、土器は積み重なって出土しましたから。
柏木宮ノ元遺跡も、下の写真のように集落が同じ場所に続けて営まれ繁栄していましたが、大溝に土器を一斉に捨てるという状況になったのでした。
a0237545_22221528.jpg
a0237545_22243932.jpg
a0237545_22275208.jpg
a0237545_22284688.jpg
様々な生活用品が出土しています。この豊かな生活が、突然断ち切られたということです。次の表を見てください。驚くべき事実が判明します。筑前町の弥生集落に何が起きたのでしょうか。
a0237545_00145781.png
筑前町の「弥生時代遺跡の消息一覧表」です。驚くべきことが読み取れます。つまり、どの集落もある時期に「消えた」消滅した、または衰退したということです。存続したように見える遺跡が若干ありますが、ほとんどいったん途切れています。
a0237545_00193165.png
a0237545_00222096.png
私の理解では、Ⅰa・Ⅰbの時期に甕棺墓が作られますが、Ⅱaになると急に作られなくなる、ということです。しかし、住居はⅡaⅡbまでは、たくさん作られています。
すると、事件は、ⅡaⅡbの時期に突然起こったということです。人がこの地を去ったので、家が残されたが墓はない、人々は他所の土地に行って最後を迎えた、ということになります。

さらに、時間をおいて人が住み始めたが、その人々はかなり違った文化の人になっていた、ということでしょうか。
此処でおきた事は、何だったのか、です。そして、その時期は弥生の何時なのか。天変地異が起きた? 大飢饉があった? でしょうか。生活道具ばかりではなく、祭祀道具も捨てたのです。この時、起こったのは人々を恐怖に陥れた国家的な混乱だったでしょう。
それは邪馬台国が滅亡したこと。
その余波で周辺地域や関係の深い国は大混乱した、と思います。人がいなくなった証拠が筑前町の「弥生時代遺跡の消息一覧表」から分かるのです。
それでなくては、人々は豊かな災害の少ない一等地を捨てていくでしょうか。
では、又明日。


日本史ランキング  歴史ランキング

# by tizudesiru | 2018-11-19 00:48 | 355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡 | Trackback

弥生集落を去る時、人々は祭祀具も土器も捨てた

福岡県朝倉郡筑前町に出かけました。何度出かけても東小田峯遺跡の場所を探せませんでしたが、今回は筑前町役場の方にお世話になって、地図を用意していただきました。
a0237545_21021856.png
筑前町の北には神山がずらりと並んでいます。全て信仰の山です。東小田峯遺跡はすべてが見渡せる平野に在ります。
a0237545_21080867.jpg
a0237545_21065940.jpg
遺跡は大根地山を背景に田んぼの中にポツンとあります。
a0237545_21112004.jpg
遠く地平線の向こうは福岡平野・博多湾です。この幅が数キロの地溝帯を、鹿児島本線・国道・県道・高速道路が南北に通っています。古代にも、ここを攻めあがった兵(いくさ)がいました。地溝帯が危険だと思った武士軍団は背振山地を越えましたが。
中世、後醍醐天皇が挙兵した時、肥後の菊池武時入道は背振越えして早良(福岡市)に入りましたが、幼子たちは此の平地を通って博多に入ろうとしましたから、横隈の辺りで見つかり武時の孫たちは討たれました。此処を通るたびに、わたしは肥後菊池家の幼子を思い出しました。筑前町にはあまたの物語がうずもれています。
大昔から此処は人と文化の通り道でしたから、天下人も庶民も通りました。
a0237545_21270909.jpg
此処からは、基山や九千部山も見えます。背振は九千部に重なります。
古代から博多湾に上陸した人は、ここを通って筑紫平野に入ったのでした。反対に有明海に上陸した人も此処を通って博多湾側へ入ったのです。
此処には文物があふれ、文化の華が開いたのです。それは、弥生時代も同じでした。その弥生時代の全盛期にこの辺りの弥生集落は急速に消滅したのでした。なぜでしょう?
a0237545_22590389.png
それは、ここ東小田峯遺跡だけの個別の出来事・偶然の事件ではありません。筑前町全体で起こったのです。ほとんど同時に。
a0237545_23014439.png
a0237545_23020545.png
a0237545_23023487.png
これらの大事件は、偶然ではなく必然でした。それは、邪馬台国の滅亡にかかわる北部九州の悲劇の証明なのです。
今日はここまで、また、明日。



日本史ランキング  歴史ランキング

# by tizudesiru | 2018-11-17 23:15 | 355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡 | Trackback

邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡(三輪町と夜須町)

a0237545_09204351.jpg
福岡県朝倉郡筑前町の東小田峰遺跡を訪ねました。
福岡平野と筑紫平野を結ぶこの辺りは、1800年前・弥生(中期)の集落が密集した豊かな大地でした。北側には三郡山地が、南側には耳納山地が見えます。筑紫平野はここからゆったりと末広がりに大きく広がり、すそには筑後川が流れています。
a0237545_09325596.jpg
 ここは、旧三輪町です。40年前ほど前になりますが「三輪町史」を借りたことがありました。そこには、近畿の地名と地形と位置関係が言及されていて、地名の移動について書かれていました。奈良の三輪山はこの地の「三輪山」の山名の移動と云うものでした。面白かったので、コピーして地図を知り合いに見せたのでした。その「三輪町」の地名を「筑前町」という近代の地名に変えてしまったのですね。夜須町にしても、古代の伝承に因む名前だったのに、もったいない気がしました。それでも、筑前町は魅力的な処です。
a0237545_23431502.jpg
ほんとに、見える範囲の小さな町ですが、一面弥生遺跡が広がる地域なのです。わたしも歩いていて「石包丁」を拾ったことがあります。畦におちていたのです。教材として学校の関係者にあげたので手元にはありませんが、道端で拾ったものは埋蔵文化財にはならないのでただの拾い物だそうです。が、驚くべきことです。
a0237545_00003827.jpg

ここ筑前町には、発掘されただけでも100カ所をはるかに超える遺跡があります。
a0237545_09310099.png
a0237545_09353954.jpg
黒点の一つ一つが発掘された遺跡です。そこに住居跡や墓群があります。
その中で、Eグループには20~27の8カ所の遺跡が発掘されていますが、東小田峯遺跡は、23の番号の点になります。拡大すると下の画像(東小田峯遺跡)のようになります。
a0237545_01111913.png

23、この小さな点の中には、おびただしい住居跡が重なり、甕棺墓群があるのです。
a0237545_01141620.jpg

甕棺墓群は、次のようになっています。
a0237545_01151935.jpg

甕棺が列になっているように見えます。ここには一定の決まりを以って墓域が作られているのです。そして、「K10」と番号を打たれた甕棺が、王墓ではないかと云われる10号甕棺です。(Kの記号は、甕棺・カメカン(KAMEKANN)の意味で、Kです。)
a0237545_01212284.jpg

筑前町史に掲載されている写真です。ここ10号甕棺にはガラス壁が再加工されて副葬されていました。
こんなに、たくさんの人が住んだ東小田峯遺跡ですが、なぜか突然、最盛期に消滅するのです。何故だと思いますか。
そこには、弥生中期の大事件が絡んでいるのです。邪馬台国の滅亡と云う・・・
ではまた、明日。



日本史ランキング  歴史ランキング

# by tizudesiru | 2018-11-17 01:27 | 355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡 | Trackback

伊豆神社の本宮・久我神社の創建は上代、其のルーツは!

前回の「厳神社」の本宮も、前々回の伊豆神社の本宮も久我神社と由緒にありました。その本宮を訪ねました。
a0237545_09311881.jpg
鳥居には確かに「久我宮」と掲げられています。ここは神社ではなく、「宮」と主張しているようです。しかし、由緒には「久我神社」と書かれています。鳥居の左後ろの由緒を読んでみましょう。
a0237545_09361104.jpg
神社創建時期は不詳であるが、社伝によれば、神功皇后征韓の途次、筑紫岡湊(おかのみなと)に御滞在の折、当古賀村に三神鎮座を聞召し、今の字、惣仙洞にて釣り上げられた鱸(スズキ)を蓼(タデ)の穂と共に神前に供えられ征討の勝利を祈られたとある。この遺風が穂蓼の神事である。これは神前において蓼の葉を刻みて顔面に塗り皮膚への滲み具合によって、其歳の豊凶を占う神事であるが、現在は途絶えている。
この神社は中古の御世 古賀・朳(えぶり)・頃末(ころすえ) の三村の産土神として広く崇められ、又筑前山鹿城主麻生氏の出城が久我嶽の山頂にあり、その崇敬殊に厚く郡中七大社の一つであった。当時本社は区の南方久我嶽の麓にあったが、落石による社殿の破壊度々なるをもって三村に分祀される事となり、頃末には元亀二年(1571)に、朳には天正十六年(1588)社殿が設けられた。同時に本社も字 亀の甲に御遷座申し上げた。又、宝暦九年(1758)、それまで伊豆神社と称していたのを久我神社と改めた。明治四十三年本社を今の地に御遷座併せて、豊前坊山にあった高住神社(旧 豊日別神社)及び相殿疫神斎、字 京原鎮座の多賀神社 字 惣仙洞鎮座の貴船神社及び各神社の境内社を合倂合祀した。
この神社は古来安産の神として崇められ古賀村には難産の煩いがないと云われる。

a0237545_10273926.jpg
中世の武士は出城を築くのに神の御加護のある土地を選びましたから、山頂の神社が他に移されることは多々ありました。ここも古代から霊力があると信じられていた場所なのですね。
a0237545_10283980.jpg
拝殿にはヤタガラスの神幕が張られていましたが、ここは羽を広げていませんね。ここに留まるということでしょうね。前回までの神社のヤタガラスは羽を広げて飛んでいましたから、他から飛んできて鎮座したと説明しているのでしょうか。三社の関係がよくできています。感心しました。ですから、「郡中央鎮守」と神額を掲げたのでしょう。
a0237545_10313611.jpg
本殿の裏には急階段があり豊前坊に昇ることができそうでした。
a0237545_10363974.jpg
然し、ちょっと急な傾斜が怖い感じでした。
a0237545_12550824.jpg
豊前坊を遠賀川の堤防から見ると、円錐形に見えます。山頂下のくぼ地に久我神社(旧伊豆神社)があるのです。
では、これまでに見た伊豆神社を祭祀線で確かめましょう。
a0237545_14353441.png
嶋門本社と書かれていた島津の伊豆宮を起点に祭祀線を引きました。そもそも伊豆神社と伊豆宮は違います。「神社」は他からの遷座とかありますが、「宮」はその地がその神の発祥地と云うことです。ですから、ここでは島津の伊豆宮(嶋門本社)が、神の発生の地ということになるのです。
a0237545_13404016.png
a0237545_22112009.jpg
島津に鎮座する嶋門本社(伊豆宮)は、イズノメ神がご祭神でした。然し、其処を起点に祭祀線を引くと、丸山古墳を通り、豊前坊を通り、明神ヶ辻を通り、中間市の高尾山まで行きつきます。豊前坊と明神ヶ辻はもともと聖地で後の世に社を置いたと思いますが、その山頂はつながりました。古代には同じ神をまつる共同体だったかもしれませんね。
高尾山の麓には犬王(INUO)というバス停があります。山の西には永犬丸(EINOMARU)という住宅地もあります。急に作られた地名ではないのです。

ここは、委(伊・井)王、又は「委奴王」という首長が居たのかもしれません。其の首長は海を渡る力を持ち、農業開発もしたでしょう。島津は首長の船着き場だったでしょうね。そこには、海の神が祀られたと思います。海難を避けるための「伊豆=いつ=神がいつく=浄められた場所」だったでしょうね。
時代や為政者が変わり、元の祭祀は変化し原型をとどめていません。然し、わずかに祭祀線が過去を語ってくれる、そう思います。

伊豆神社を訪ねる旅、面白かったです。
a0237545_13020665.jpg
では、遠賀川を渡って帰りましょう。
古代に、この広い流域が開発された時、肥沃な農地が生れたでしょう。首長は大きな力を持ったはずです。もちろん、鉄の道具が大量に必要ですが。  では、また。



日本史ランキング  歴史ランキング


# by tizudesiru | 2018-11-02 09:25 | 354遠賀川河口の伊豆神社 | Trackback

明神ヶ辻から降りて来た厳神社の神は、久我神社から来られた

朳(えぶり)の厳(いず)神社を訪ねました。
a0237545_20564860.jpg
ちょうど、朳(えぶり)神社御遷座記念の「なおらい」があっていて、みなさんお祭りの宴たけなわで楽しそうでした。神社と同じ敷地に公民館があり、そこに地域の方が集まっておられました。500年の歴史がある神社でした。
a0237545_20590685.jpg
ここにもヤタガラスが社の神幕に染め抜かれていました。
a0237545_21023624.jpg
a0237545_21054850.jpg
神額には、「厳神社」とありますが、天正年間に久我神社から勧請した時は「伊豆神社」だったそうです。
a0237545_21150317.jpg
以前の社は明神ヶ辻の山頂よりやや下がったところにあったそうですが、この地に移したそうです。
a0237545_21185037.jpg
厳神社の境内からは元の社があった場所は見えないとのことでした。写真の高竿の旗と森が交差する辺りに、元の社があったようです。更に、天正年間に移し奉ったという伊豆神社の御祭神は、集落の左奥の豊前坊におられたそうです。
a0237545_21103642.jpg
a0237545_21222020.jpg
左端に飛び出た山頂が、豊前坊と呼ばれる久我神社の神山です。久我神社はそこにあるそうです。

a0237545_21330467.jpg
秋の日差しにきらめく田の向こうは遠賀川の堤防で、道路になっています。その奥には宗像の山が見えます。
ではでは、久我神社を訪ねなければなりませんね。次回は。


日本史ランキング  歴史ランキング


# by tizudesiru | 2018-11-01 12:00 | 354遠賀川河口の伊豆神社 | Trackback

遠賀川流域の水巻町の伊豆神社の祭神はヒコホホデミノ命

福岡県遠賀川流域の水巻町の伊豆神社には、ヤタガラスを染め抜いた旗がずらりと並んでいました。
前回の伊豆神社の近くで、同じ伊豆神社という名前ですが、ご祭神は女性(イズノメ神)ではなく男性(ヒコホホデミノ命)でした。全く別系統の神社なのでしょうか
a0237545_23024716.jpg
石段にもヤタガラスの旗がはためいていました。足がそろっているので三本足なのかどうかは分かりませんが、『ヤタガラス』だそうです。三本足のヤタガラス=太陽、「太陽の黒点」を意味するのです。其のカラスが太陽を背負って飛んでいる『陽負いガラス』の文様ですね、この神社は。
a0237545_23053835.jpg
a0237545_23114767.jpg
大きなしめ縄が下げられていました。
a0237545_23130293.jpg
伊豆神社由緒によると、ご祭神は彦火々出見命、玉依姫尊、塩土老翁、でした。元亀二年(1571)頃、古賀鎮座の伊豆大明神(今の久我神社)より御分霊を受け、山頂に神殿を建立。よって、この山を明神ヶ岳という。大正三年(1914)にこの地に遷座、現在に至っている、そうです。
大明神とは、仏教と神が結びついたのですね。しかし、神として山頂に祀っていた。分霊を受けたのは「古賀」という地名だったが、時代を経て「久我」となまったというのです。KO→KUとなった、よくある地名の変化です。
a0237545_00044635.jpg
此処に来られたのは大正時代ということですが、それにしては様々な摂社末社がありました。
a0237545_00094733.jpg
a0237545_00104832.jpg
a0237545_00134749.jpg
a0237545_00162512.jpg
(唐熊宮・唐と熊を祀る? 唐の熊を祀る?)
伊豆神社の拝殿前に『逆立ち狛犬』があり、安産祈願で有名だそうです。
a0237545_00182524.jpg
今年の9月の新聞ですね。
a0237545_00172513.jpg
ちょっと恥ずかしくないですか? ま、いいか神様のなさることだから。
それにしても、拝殿の塗り物は立派な陽負いカラスでしたね。
a0237545_00202607.jpg
では、次も伊豆神社です。あ、でも「厳神社」でした。それは、また次回に。
a0237545_00224442.png
今回は、遠賀川の岸の水巻町の伊豆神社でしたが、近くにも伊豆神社があります。ここは「伊豆」が「厳」になっています。次回、訪ねます。グーグルの地図を載せました。
おや、明神ヶ岳ではなく、明神ヶ辻になっています。何故でしょうね。では、また。


日本史ランキング  歴史ランキング

# by tizudesiru | 2018-10-31 12:00 | 354遠賀川河口の伊豆神社 | Trackback

遠賀川河口・柿本人麻呂の嶋門はここですか?

突然ですが、ここは伊豆宮です。福岡県の遠賀川の河口の西川(遠賀川の支流)と遠賀川にはさまれたところに在ります。伊豆宮の社殿神額の上に「嶋門本社」と書かれています。不思議なことに、伊豆宮というこの神社は嶋門社の本社なのです。もとは、嶋門社と書かれていたのでしょうか。
嶋門本社とは、どういう意味でしょうね。他に嶋門社があるということですか
a0237545_10352711.jpg
西川は水量の豊かな川で、この先で遠賀川に合流します。
a0237545_10401033.jpg
河口に向かう流れはゆったりしていて、上流には筑豊三山が遥かに遠く見えます。広いマッ平らな遠賀川流域、弥生時代には遠賀湖という広い湖だったそうです。何処までも平らなので、おかげで最近まで遠賀川はかなり上流まで船が上りました。
a0237545_10492328.jpg
a0237545_11205501.jpg

遠賀川と西川に挟まれて島津という集落があります。この辺りは、昔は二つの川が合流する中州(島)だったのでしょう。

島津の伊豆宮はここに在ります。ここは氾濫原の中の微高地で古墳になっています。
a0237545_13011018.jpg
この嶋門本社は、島津丸山古墳を祀っているのでしょうか。伊豆宮となっていますが、伊豆とは「いつ」「浄められた神聖な」という意味でしょうか。そして、「神社」ではなく「宮」ですから、他からの遷座や勧請ではないようですね。ここが「嶋戸宮」の発祥の地というのですね。
a0237545_13031078.jpg
a0237545_13432593.jpg
御祭神は伊豆能賣神で、境内摂社が九社ありました。それぞれに所縁の深い神なのです。
a0237545_11225056.jpg
嶋門本社と島津丸山古墳を川向うから見ると、なだらかな三角形に見えます。
a0237545_13053364.jpg
そして
嶋門(しまど)と聞くと、すぐに思い出すのが柿本人麻呂の「大王の遠の朝廷とあり通う嶋門をみれば神代しおもほゆ」です。ここが嶋門だったのか! ということです。人麻呂がここへ来た可能性はあるのでしょうか。では、万葉の時代にはここは交通の要衝だったのでしょうか。
a0237545_11360161.png
人麻呂の時代に大宰府に入るのに、ここを通った可能性は有ります。コースを四本用意しました。右から①~④
a0237545_12563845.png
①豊前から入るには、瀬戸内を島伝いに来て南下します。➁関門海峡を越えれば、すぐに陸路を南下することもできます。しかし、③洞海湾を西に進み遠賀川につながる堀のような運河を通れば、遠賀川を王塚古墳のある飯塚市桂川町まで船で進めます。大宰府へは、宝満山と大根知山の間の米の山峠を越えればいけます。もちろん、ここは官道です。時間をかけて④博多湾から上陸し官道を筑紫平野に入ることもできます。一番楽な旅となりましょう。
a0237545_13263731.png
洞海湾から遠賀川に船で来れるかという疑問ですが、赤ラインで示したコースであれば、大丈夫です。
さて、人麻呂の時代はどうだったのでしょうね。神功皇后伝説もありますから、嶋戸までの運河は有効ですね。関門海峡の出入り口は門司ですから、役所があったに違いありませんね。門(出入り口)の司(つかさ)ですから、役人がいたでしょう。其の役所は入るのを取り締まったのでしょうが、さて何処を守ったのでしょうね。
a0237545_14001353.png
今日は、遠賀川河口の伊豆宮を紹介しました。次も「伊豆神社」を紹介しましょうね。忙しかったので、ちょっとブログを休んでいました。また、書かなくちゃ。宜しくお願いします。

日本史ランキング  歴史ランキング

# by tizudesiru | 2018-10-30 14:02 | 354遠賀川河口の伊豆神社 | Trackback

法隆寺釈迦三尊像の台座の落書きが教えてくれること

あまたのなぞに包まれた法隆寺は、ミステリーワールドですね。
a0237545_21075573.png
さて、法隆寺金堂のご本尊と、東の間に安置された薬師如来像の台座のお話です。こちらの二つの台座はたいへん有名です。それで、1994年の法隆寺展でも展示されました。
a0237545_21081577.png
薬師如来像の台座は二段になっていて、上段と下段では製作時期が違うそうです。下段が古いのですが、それは台座の請花(うけばな)反花(かえりばな)の花びらが単弁と複弁で違うから判断されたのです。単弁(下座)の方が古い様式です。そして、この請花反花の部分だけがクスノキで造られています。
それは、ご本尊の釈迦三尊像台座でも同じなのです。二つの台座はほぼ同じ時に同じ方法で造られたのです。
つまり、下の古い台座の上に上座を造り、ご本尊を安置したのです。
a0237545_12421743.png
然も、下座の框(かまち)の大きな檜は建築物の扉の再利用となっています。もともとは扉だったとは・・・いったいどこの建築物だったのでしょう。其の下座の裏側に墨書が見つかりました。落書きと書きましたが、らくがきと云うにはあまりに貴重な絵と文字があったのです。
a0237545_12435086.png
①は「相見る可陵の面、未だ識らず可陵の心」美しい女性の心のうちはわからないという意味らしいです。
➁には、辛巳年八月九日作 と書かれていますから、この台座は、辛巳年(621年)に作られたのでしょうか。
すると、聖徳太子の没年より早くなりますから、当然、釈迦三尊像はまだできていません。
まだ見ぬ仏像の為に台座を造るのは可能でしょうか。計画通りにといえば、それまでですが。
③には、何かの分量のことが書かれています。つまり、倉庫に使われていた部材で、その品物の量が板に書かれていたとのことです。ふううむ・・・なんの量か見当がつかなかったということは、書紀にも他の文献にもない分量の言葉だったのですね。
それは、違う文化圏から運ばれてきた部材だったということでしょうか。
法隆寺の木造飛鳥仏のすべてがクスノキで造られていました。
クスは古代には九州にしかありませんでした。福岡市の立花山が北限なのです。もちろん、韓国にもありません。
何度も書きましたが、百済観音も樟材ですから、百済から来たとは言えないのです。
a0237545_21090930.png
法隆寺のあまたのなぞ、それは、九州とのつながりを考えれば解けるとおもうのです。あの夢殿の救世観音もクスノキなのですから。あれほどの仏像を造れたのは、何処の工人たちなのか。聖徳太子に似せて作られたという救世観音は、いったいどこで造られ、何処から運ばれてきて、夢殿の秘仏となったのでしょう。
a0237545_21083459.png
こんな不思議な話、何処にもありませんよね。
歴史カフェ・阿蘇で「聖徳太子のなぞ」を考えています。


日本史ランキング  歴史ランキング

# by tizudesiru | 2018-09-03 13:12 | 353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」 | Trackback

法隆寺は藤ノ木古墳をミササギ山と呼んだ

a0237545_11394839.jpg
藤ノ木古墳は法隆寺の西350mの位置に在ります。きれいに整美されて、昔の面影は有りません。初めて藤ノ木古墳を見た時は、北の丘陵からでしたから下の写真のようでした。辺りもすっかり様子が変わりました。
a0237545_11403498.jpg
a0237545_11302912.png
a0237545_11464669.jpg
石棺の外側も内側も赤く塗られた家形石棺でした。写真は、十年ほど前に図録をデジカメで撮ったものです。
a0237545_11263590.png
その図録の後ろのページに解説が掲載されていて、そこを読んで大いに驚き、想像が膨らんだのです。なぜなら、藤ノ木古墳の副葬品は一級品でしたし、そんなものを手にする人は、造る技術・大きな財力と権力を持った人である、そんな人にしか持ちえない物だったからです。
石棺の二人の被葬者は、いかなる身分の人なのかと、興味が湧いたのです。然し・・・
葬儀用の金銅製飾履は片方ずつしかなく、一方の被葬者の物は破損していました。飾履とは飾りを針金で取り付けた沓ですが、ほとんどは二足揃っているのです。それが、片方ずつ・・・
書き忘れていましたが、この家形石棺は、未盗掘・未開放だったのです。
つまり、飾履は、遺体が納められる時、既に片方ずつで、一つは破損していたのです。しかも飾履内には麻布が敷かれ、足を入れる所には縁取りの繊維跡があったので、死者の足にはかされていたものでしょう。すると、片方の足のみ飾履をはいていたとは考えにくいです。

(どういうこと? 被葬者は別のところから運ばれたの? その時、片方が失われたとして、何のために移動した? 改葬ならその理由は何か・・・)
そして、権威の象徴たる金銅製冠は折られていました。同じく権威の象徴たる大帯も三つに曲げられ、中に刀子が挟まれていました。副葬品の解説にも、冠の位置など「不自然」とされ、藤ノ木古墳が一般的風習とは言えない特殊性を持っていると指摘されていました。
a0237545_12294548.jpg
(見事な飾履です)
発掘前の藤ノ木古墳は、5世紀代の古墳とされていました。それは、出土した埴輪から判断されていたのでした。しかし、発掘してみると6世紀後半の墳丘だと変わりました。
そうですか、埴輪の形で古墳の年代は特定できないのですね。
改めて確認しました。とても、大事なことだと思います。

a0237545_11314587.png
それに、藤ノ木古墳には排水施設がありました。排水施設は7世紀から8世紀の古墳に有りますね。キトラ古墳とか、マルコ山古墳、高松塚古墳とか、でしたかね。
そうそう、あの石舞台古墳にも排水施設があったのでしょうか。確か、石舞台には家形石棺が置かれていたと云うことでした。
a0237545_11364626.png
さて、藤ノ木古墳の見事な副葬品に目を奪われていましたが、その築造年代は何時なのでしょうね。6世紀後半でいいのでしょうか。
a0237545_11291045.png
スパンコールの豪華な布が二人の被葬者を包んでいたのです。その布の一部が残っていたとは不思議です。被葬者はかなり腐敗して残りが少なかったのに、薄い布が残ったのですから。
法隆寺は「ミササギ山」としてこの古墳を守って来ています。ミササギですから「王家の陵墓」という意味です。
そうであれば、誰が何の理由でどなたの墓を此処に造ったのでしょう。
わたしには、7世紀に何処かの古墳を此処に移動したと思えるのですが。

a0237545_11282223.png
何もかも不思議で、面白い古墳です。

日本史ランキング
 歴史ランキング

# by tizudesiru | 2018-08-31 13:18 | 353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


by tizudesiru

プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る

記事ランキング

最新の記事

太宰府都府楼の隣・蔵司に王宮..
at 2019-01-18 23:33
当時の太宰府は超田舎だったが..
at 2019-01-17 17:08
神武天皇が大城山で祭った神を..
at 2019-01-15 12:30
神在の神石は、古代祭祀の名残!
at 2019-01-13 12:28
羅城説のある大野城・古代瓦は..
at 2019-01-13 10:56
大野城の主城原に王権の宮があ..
at 2019-01-11 20:37
江田船山古墳の石棺がひび割れ..
at 2019-01-05 16:30
宗像大社・三女神祭祀の始まり..
at 2018-12-29 11:22
元は縫山だった?縫殿神社は奴..
at 2018-12-21 22:58
津屋崎古墳群・須多田、奴山の..
at 2018-12-17 16:33
津屋崎の新原・奴山古墳群は宗..
at 2018-12-17 00:37
古墳の時期を決めるのは墳丘の..
at 2018-12-11 00:25
津屋崎古墳群・天降天神社古墳..
at 2018-12-09 22:52
群馬県藤岡市の古墳文化はいつ..
at 2018-12-06 23:54
七輿山で落ち合った7人の女房..
at 2018-12-05 00:00
九州と共通する葬送儀礼と石積..
at 2018-12-04 00:08
白石稲荷山古墳の家形埴輪は倉..
at 2018-12-02 11:49
藤岡歴史資料館・藤岡の特別な..
at 2018-12-02 01:02
宗像の弥生遺跡・田熊
at 2018-12-01 09:06
甕棺墓がほとんど出ない宗像の..
at 2018-11-24 00:54

カテゴリ

全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1祭祀線で読む大宰府の位置
2祭祀線で見る竹原古墳
3祭祀線が交叉する間夫という山
4祭祀線で知る筥崎八幡宮
5祭祀線で弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
7祭祀線で読める八女丘陵の古墳のライン
8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
未分類
97宇佐神宮と北部九州・2
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
103安心院の妻垣神社
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360太宰府は王城だったか、田舎だったか

画像一覧

以前の記事

2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2014年 07月
2013年 10月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 05月
2013年 02月
2012年 11月
2012年 09月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月

タグ

フォロー中のブログ

絵本ぶろぐ

最新のコメント

WEB小説「北円堂の秘密..
by omachi at 12:25
観世音寺絵図に、碾磑(み..
by 尊敬します at 19:36
oh! 「すべて」展や「..
by 尊敬します at 23:30
筑紫野市さんへお伝えくだ..
by 尊敬します at 23:36
何時もありがとうございま..
by tizudesiru at 21:33
拝殿でお神楽をやっていた..
by 尊敬します at 23:00
> 宮原さん ありがと..
by tizudesiru at 20:17
宮地嶽神社の扁額の文字は..
by 宮原 at 10:33
たぶん、夾紵棺の技術、大..
by 尊敬します at 22:58
もう読まれましたか。 ..
by 大町阿礼 at 21:21
> 名無しさん ほんと..
by tizudesiru at 11:55
> aさん コメントあ..
by tizudesiru at 11:20
郭務宗が二千人の人々を率..
by 名無し at 09:10
間夫という山名は鉱山に関..
by a at 01:51
いつも楽しく拝見させてい..
by 尊敬します at 23:15
>いつもありがとうござい..
by tizudesiru at 20:27
弥生の風公園のわら細工の..
by 尊敬します at 22:29
> コメントありがとうご..
by tizudesiru at 23:06
建物の遺構もさることなが..
by 暇人 at 22:48
ごめんなさい。 楼閣じ..
by 尊敬します at 00:10

検索

メモ帳

その他のジャンル

外部リンク

ファン

ブログジャンル

歴史
旅行・お出かけ