石舞台は家形石棺・九州では石棺文化が消えたのに

石舞台古墳(蘇我馬子の墓)に家形石棺があった
九州の古墳から家形石棺・舟形石棺は消えました。然し、近畿には阿蘇石の石棺が出現します。普通に考えれば、故郷の墓制を持ち込んだのではありませんか。つまり、九州に所縁のある人が移動したということです。
あの石舞台古墳にも家形石棺がありました。
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(石舞台古墳・明日香村)
しかし、蘇我氏の家形石棺は「妻入横口式家形石棺」ではありません。密封型の刳抜式家形石棺(くりぬきしきいえがた石棺)です。つまり、筑紫君一族の直系ではなく、どうやら熊本県中南部の宇土半島の基部近くの系統のようですね。「畿内系刳抜式家形石棺は、本来宇土半島で5世紀後半に造られていた刳抜式舟形(くりぬきしきふながた)石棺の系譜を引くものであり、近畿地方の古墳時代後期の指標となるものである。」と新宇土市史に書いてあります。
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(石舞台古墳の石棺・石室に残された凝灰岩をもとに復元されている)
この復元は妥当なのかを、近くの都塚古墳(蘇我稲目の墓とされている)の石棺と比べましょう。
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確かに、縄掛突起(なわかけとっき)もある家形石棺です。
では、飛鳥から山田道を通り阿倍山を見ましょう。蘇我山田石川麻呂(持統天皇の祖父)とならぶ左大臣・阿倍倉橋麻呂の本貫の阿部山丘陵にある艸墓(くさはか)古墳の石棺を見ましょう。
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ここも、巨石の石室なのですね。その石棺は家形です。
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全て、既に紹介した写真です。
いま、考えているのは、この家形石棺のルーツがやはり熊本であれば…被葬者のルーツも熊本ですか、ということです。
推古天皇の改葬前の墓とされる植山古墳に熊本県宇土半島の馬門石(まかどいし)製の家形石棺が出土しています。二つの石室のうち、一方だけ石棺が残されたようです。屋根の部分が割れたので、そのまま残されたのでしょう。(下の写真)
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(「新宇土市史」の写真をデジカメで写したもの・馬門石製の家形石棺)
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馬門石と言えば、まさに熊本県宇土半島の阿蘇溶結凝灰岩・ピンク石です。

これらの家形石棺は、熊本の支配地から王権への献上品とされています。ですが、まだ、大化改新(645年)前の王権にです。中央集権ではない、公地公民の決まりもなかったころ、王権へ献上とは違和感があります。まだ、筑紫大宰もありません。王権にすれば、何の所縁も無い遠い田舎の石棺を永遠の眠りに使う意味は特にないはずです。

推古天皇は蘇我系の天皇で、蘇我馬子が大臣でした。その二人は、九州にルーツを持つ家形石棺と縁が深いのです。
推古天皇と蘇我馬子や稲目との共通点は、蘇我の血統以外にありません。蘇我系の人は家形石棺を用いた、それも熊本の鴨籠(かもご)古墳の石棺のように石棺には出入口がなく密封されている形式にした、ということです。
同族だったのではありませんか?
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石舞台古墳をラインで読みましょう。
石舞台古墳は、蘇我蝦夷や入鹿の墓とされる小山田遺跡・菖蒲池古墳を通り見瀬丸山古墳(真の欽明陵という)に届きます。なかなか意味深です。

蘇我氏は九州系の人である、すごく言いにくいことですが。然し、どう考えても見直してもその事は事実です。
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「八代市立博物館未来の森ミュージアム」の資料「火の君、海を征く!」から上の部分をデジカメで写しました。菊池川流域と宇土半島周辺の石材の移動が分かりますね。
ここまでにします。
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# by tizudesiru | 2018-06-15 21:00 | 349筑紫君一族は何処へ逃げたのか | Trackback

古墳から石棺が消える時、筑紫君は衰退した

舟形石棺・家形石棺がともに消えた理由は何か
それは、一地域だけの問題ではなく北部九州・中九州の石棺文化圏で起こりました。大きな変化があった証拠です。例えば、明治になってキリスト教が解禁されたから、十字架の墓も造られるようになりました。つまり、政治的な背景が墓制に変化をもたらす要素になると云うことです。
考えてみると、九州では弥生前期・弥生後期・古墳前期・古墳後期と墓制の変化がたびたび起きました。
佐賀県をみると、弥生時代には脊振の北唐津側(菜畑・宇木汲田・桜馬場遺跡)や、吉野ケ里のある南でも甕棺文化が栄えました。
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そこに石棺文化が入り込み首長墓は石棺となりました。
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佐賀県立博物館のパネルを見ると、圧倒的に有明海側に古墳が集中しています。ここが古墳時代の中心地だったのです。もちろん、海岸線もぐっと内陸に入っていました。
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が、そこへ横穴式石室に死床を持つ古墳が現れ、やがて巨石を積んだ横穴式石室が出現します。そこには壁面装飾がありました。
佐賀神崎の伊勢崎古墳(6世紀半ばころ)には、赤い円文が描かれていたそうです。装飾古墳が密集するのは、熊本の菊池川流域でした。熊本とのかかわりは当然ありました。佐賀県は、もともと火の国(肥の国)で、飛鳥時代に肥前と肥後に分かれたのです。肥国は、大きな国だったのです。
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(佐賀県神埼町の伊勢塚古墳・前方後円墳78m)
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伊勢崎古墳は、巨石の横穴式石室です。さて、この巨石文化の発祥は何処でしょうね。
石人山古墳・浦山古墳・乗場古墳・谷口古墳、石室はみんな小口の割石でした。それが、巨石の古墳に変わっていったのです。

これも以前に紹介しています。
カテゴリ「128倭国の墓制」倭国の墓制・家形石棺は熊本で発祥

カテゴリ「129?国の墓制・巨石横穴墓」俀国の墓制は巨石横穴墓か


今回は、佐賀でも墓制は熊本や福岡と同じように変化していったこと。舟形石棺・家形石棺ともに消えた行ったと云うことを紹介しました。このブログで何度も書きましたが、倭国は熊本がルーツであると云うこと。その倭国内の権力争いが磐井を滅ぼし、巨石横穴墓をもつ勢力に淘汰されたと云うことです。(それも、熊本と豊前が合体した勢力と思います。)
今日は、ここまでにします。
さて、衰退した筑紫君一族、一部は九州に残ったようですが、九州を追われた彼らは何処へ逃げたのでしょう。

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# by tizudesiru | 2018-06-14 15:54 | 349筑紫君一族は何処へ逃げたのか | Trackback

筑紫君一族の古墳文化は突然失われた

筑紫君磐井の墓とされる岩戸山古墳は、被葬者が特定される唯一の古墳
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(岩戸山古墳の別区の石人・その一部が展示されている。風土記によると、盗人が裁判にかけられている様子が石人たちで表現されていたようである。)
岩戸山古墳と言えば、石人石馬がすぐに思い出されます。岩戸山資料館のパネルには筑紫君一族のシンボルと書かれていました。
『5世紀前半頃、初代筑紫君と思われる石人山古墳の被葬者は石人に象徴的な意味合いを見出し、同族結束の証として石人を用い、視覚的にも結束を再確認することを目的として古墳祭祀に採用したものと考えられます。石人石馬は筑紫君一族のシンボルであり、有明海沿岸を拠点とする豪族たちのシンボルでもあったでしょう。』(資料館のパネル)
では、石人を持つ熊本の菊池・山鹿市周辺(清原古墳群・臼塚古墳・フタツカサン古墳・チブサン古墳)や八代海周辺(姫ノ城古墳・富ノ尾古墳・石ノ室古墳)などの古墳の被葬者も一族と考えていいのでしょうね。
また、八女丘陵の石人山古墳は妻入横口式家形石棺(つまいりよこぐちしきいえがたせっかん)で、そこに直弧文がありました。

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直弧文(ちょっこもん)も首長が用いた文様でしょうね。岩戸山古墳はまだ掘られていませんので、石棺があるかどうかは分かりません。しかし、石製の古墳装飾品の刀の勾金(まがりかね)に直弧文があります。
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勾金(まがりかね)とは、刀の束に用いられた飾りのようなものですが、そこに直弧文が装飾されています。このように石棺と石製装飾品が特色だった筑紫君一族の古墳文化が突然消えました。
磐井の乱(527年)で、筑紫君磐井は破れました。その後、磐井の墓は破壊されたのでした。
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古墳の築造の説明板をみると、6世紀に入り岩戸山古墳が築かれました。次が乗場古墳になりますね。この古墳は岩戸山古墳のほぼ隣にありますが、そこに石棺はありません。(下の写真・乗場古墳と久留米の寺徳、西館古墳)
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石棺はどこかへ持ち去られたのでしょうか。破戒されたのでしょうか。それとも、造られなかったのでしょうか。石人石馬も同時に姿を消したようです。
それは、八女丘陵ばかりではなく、佐賀の久保泉でも、久留米でも、熊本の八代海周辺でも連動して消えたと思います。と云うことは、単に筑紫君磐井一族の衰退という問題ではなかったと云うことです。大きな権力の交替があったので、墓制が変わった…

すると、筑紫君一族は、倭王権の一部だった可能性がありますね。
では、筑紫君の王権に代わったのは、何処の勢力でしょうか。日本書紀に云うように、継体天皇なのでしょうか。
それは、また、今度。


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# by tizudesiru | 2018-06-13 12:00 | 349筑紫君一族は何処へ逃げたのか | Trackback

倭王国の興亡を年表で読む・七支刀と稲荷山鉄剣の年代

邪馬台国・伊都国・奴国などの小国が、倭国になった?
そもそも、三世紀の邪馬台国の時代は小国が沢山ありました。それがいつ倭国にまとまったのか。これまでも繰り返し書いてきました。それを、年表で見直してみましょう。以前にも紹介した年表です。倭・倭女王・倭国・倭軍・倭人と、いろいろ書き分けてあります。
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百済の成立は346年、新羅の成立は356年、4世紀の後半以降倭国と交流が始まったのです。
書紀の「神功紀」の記述に120年を足せば、年表として読めると云うことです。
此処で分かること、百済のために出兵できたのは、倭王が税を取り立て戸籍のようなものを握っていたということです。それなくして何度も出兵はできません。
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七支刀の倭国への献上は468年である
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七支刀については、「神功皇后の七支刀は誰のものだったのか」(カテゴリ・325冊封体制下の倭王讃珍済興武の野望)で取り上げています。

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成立間もない百済を倭国が助けたので、369年に七支刀を献上したとは思えません。ともに戦ったことの証のようなものではないでしょうか。
やはり468年、
半島内の高句麗・新羅・百済の三つ巴の争いに対して、「百済に援助した倭国への篤い感謝の気持ちをあらわしたもの」で、当然、倭王が受け取ったものです。然し、天皇家ではなく物部氏の宝物、七支刀は石上神宮の宝物となっています。
倭王権が滅亡する時(辛亥の変・531年)、王家が守って東へ逃げた(東へ侵入した)としか考えられませんね。すると、物部氏は、先代旧事本記が言うように九州から移動したのですね。
また、上の年表で
382年、襲津彦が出兵していますが、彼は唐津から船出しました。マツウラサヨ姫の伝承が唐津の鏡山に在ります。
襲津彦は、何処の人ですか。

彼は畿内の兵を連れて行ったのではなく、九州の兵を連れていったのです。襲津彦は故郷の娘との別れがつらかったのです。彼は九州の人でしょうね。
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倭王達は懸命に宋の冊封体制に入ろうとしました。書紀の記述となかなかかみ合いませんね。しかも、埼玉県行田市の稲荷山鉄剣の辛亥年が471年であれば、倭王武はまだ「倭王」になっていません。武が倭王になるのは、478年ですから。
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稲荷山鉄剣の辛亥年は、531年である
書紀の雄略帝は479年に没していますから、武が即位した翌年が雄略帝の没年です。書紀と外国の史書は全くかみ合いませんね。
わたしは、稲荷山鉄剣の「辛亥年」は、531年だと思います。鉄剣が発見された当初の学者の見解通り「531年」です。考古学的な資料で読み解かれたもので、既にブログで紹介しています。
江田船山の鉄刀と稲荷山の鉄剣の銘文を比べました。両者は、文化圏を共有し同じ首長に仕えています。その首長は「治天下大王」なのです。その大王家に仕えることを誇りとして「江田船山の鉄刀」が造られ、その大王家が滅びた後に「稲荷山鉄剣は作られたのです。これは、兼川氏によって読み解かれました。
倭王家は滅びたのです。所縁の人々は王家の誇りと家宝を以って東へ逃げました。
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と、年表を見直しました。
今日のまとめ

年表を見る限り、倭王は中国の冊封体制に入り、百済・新羅・高句麗と競い合っています。然し、日本書紀にはその事は全く触れられていません。「天皇の祖先が中国の臣下であった」と認めたくないので、敢て書紀には書かなかったというのです。ほんとですか? そうではなくて、近畿とは直接関係ない九州のことだからから書けなかったのではないですか。
先代旧事本記を見直さなくてはなりませんね。
物部氏の歴史を正史にすることはできなかったと云うことですからね?

今日は、ここまでにしたいのですが、
まだ、筑紫君と倭王の関係が残っています。
倭王家が辛亥年(531)に滅びたことは、分かりました。倭王家をそのまま筑紫君としていいのでしょうか。


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# by tizudesiru | 2018-06-10 23:42 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback

熊本の鉄と石の文化が、弥生文化の破壊と進化をもたらした

さて、今日は「脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係」のまとめに入ります。倭国とは北部九州を中心とする国であろうと考えられます。確かに「旧唐書」には倭国が出てきますが、「新唐書」にはありません。中国の史書には「日本はもともと小国で、倭国を併合した」とか「倭国は名前がみじめなので日本に変えた」とか、いろいろな情報があります。白村江戦の後に倭国と云う国が消えたことは、事実のようです。


倭国は九州のどの当たりにあったのか、この事を調べるのに考古遺物は貴重ですが十分ではありません。物は移動できるからです。そこで、祭祀線を使い始めたのでした。その結果、
三世紀後半以降から4世紀に、北部九州に入った勢力は近畿ではなく、熊本だったのではないか。倭国は、熊本の勢力が中心になって造った国であろう。

となりました。

今回は、その事を脊振山の南の古墳から考えてきたのです。

弥生の甕棺・木棺の墓制が、墳丘墓と石棺の墓制に変わったのは何故か
わたしは北部九州(福岡・佐賀)の弥生文化を潰したのは、鉄(工具・武器)を大量に持っていた九州中部(熊本)の勢力と思っています。

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その事は、発掘された遺物からも分かります。

佐賀県の吉野ケ里遺跡の銅剣・銅矛・銅矛巴形銅器の鋳型ですが、吉野ケ里ではこれらを生産していたのです、それも弥生前期に。 ここで出土するのは、細形銅剣ですから、中広形や広型に発展する前の段階、弥生前期の銅製品なのです。
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このように、弥生前期から脊振山の南側は発展していました。
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そこへ、狗奴国との争いが起こり、弱体化した北部九州に熊本の勢力が侵入してきました。彼らは鉄を使い石を削ることができました。

鉄の工具を持った彼らの生産力は高かったし、農業生産だけではなく、交易も抑えたのではないでしょうか。彼らは航海技術にたけていて貝の交易をし、半島にも容易に渡ることができたと思います。

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関行丸古墳には、貝輪が出土しています。海の民がもたらしたものです。鹿児島県の種子島、熊本県の宇城市、玉名市の貝輪とも共通します。

ここには金銅製冠帽が出土していました。特別の首長だった証拠でしょう。


首長は死して神となった・関行丸古墳

「この関行丸古墳の所在地は、佐賀市久保泉町川久保字神上(かみあげ)所属し、俗称関行と称している。」と古墳の報告書に書かれています。何と、川久保の神上という地名なのです。

つまり、この地に眠る首長は「神」になった人なのですが、墓制は石棺ではありません。徐々に別の勢力が浸透していたのです。
日ノ隈山、帯隈山の辺りは佐賀の脊振山の南の古墳文化の中心地で、そこに「神上」の字名がありました。そして、関行丸古墳・熊本山古墳・浦山古墳は直線でつながりました。
浦山古墳の家形石棺には、直弧文(ちょっこもん)

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浦山古墳から祭祀線を引くと、地域を越えた古墳とつながりました。この時代の交流は大きかったのですね。直弧文を持つ首長墓として、石人山古墳(八女)・井寺古墳(熊本県・緑川流域)があります。千足(せんぞく)古墳は岡山県の古墳です。
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浦山古墳と石人山古墳は石棺に直弧文が彫られていますが、井寺古墳は石障です。同じ首長墓でも、ルーツがやや違っているのでしょう。
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そして、とうとう九州の家形石棺の墓制は消えていきます。石棺文化は東に大移動するのです。
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古墳時代には、鉄の工具で石を刻む王族が、石棺を発展させました。
つまり、石棺の発祥地は熊本でした。
倭国となった北部九州の勢力は、農業生産力と鉄の技術力を持ち、石を加工し大きな富を得たことでしょう。

しかし、富は抗争を呼び起こし、石を使う勢力の内部分裂で石棺や鉄工具は全国に広がり、その権力争いや再編成が連続して起こり日本は政治的画期を迎えたのだと思うのです。その事が人口移動を引き起こしたと。結果、

鉄の技術を持った倭国の勢力は、日本海ルートを使って関東にまで進出した。

そのルートは鏡と鉄製品・文化や言葉や地名や食料の移動で辿れると思うのです。丹後半島から渥美半島へ陸路を通り、関東に北上したと思います。やがて、瀬戸内海の島々を抜けて、大阪・和歌山から畿内にも入ったと。それは、家形石棺の文化を伴った移動だったのです。

畿内勢力が九州に侵入したのではなく、九州勢力が畿内に侵入したのです。

邪馬台国の滅亡の時に先に東へ移動した人たちがいて、九州からの侵入者や移入者を受け入れたり抵抗したりして、様々に葛藤が起きたかも知れません。

それまでも人の交流は自然にあったと思いますが、支配者の移動は自然ではありません。
無理を通して、あるいは強引な方法で、武力を使っての侵入となりましょう。侵入した側が自分のルーツの石棺を望むのは自然な気がします。それが、熊本からの石棺の移入となったと。

今のところ、石棺は九州からの献上品とされて、一件落着となっています。
ホントですか? 蘇我氏も植山古墳(改葬前の推古天皇陵)も阿蘇石を使っていますよ。

では、推古天皇も、蘇我氏も、九州と関わりが深いと云うことですね。
この事に触れなければなりませんね。
今日は、ここまで

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# by tizudesiru | 2018-06-09 16:27 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback

浦山古墳・石人山古墳(八女)井寺古墳(熊本)は直弧文で結ばれる

浦山古墳は久留米成田山の本堂の隣にあります。
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本堂に参拝して、鍵と懐中電灯を借していただきまます。
それから、隣の小高い森に進みます。すると案内板と階段が見えます。
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階段の先に建物。これが石室を保護する建物です。トビラを開けます。
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石室を上からのぞくことになります。
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縄掛突起のある組み合わせ式の家形石棺です。石棺の内側に直弧文の彫があります。この紋様が上津校区の文化財マップの表紙を飾っています。
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浦山古墳は、5世紀後半に造られたとされる現存60mの帆立貝式(ほたてがいしき)前方後円墳で、後円部の横穴式石室に妻入横口式(つまいりよこぐちしき)の家形石棺が納められています。家形石棺の屋根には4個の環状縄掛突起があり、入口は「はめ込み扉」とそれを押さえる閂(かんぬき)を持った精巧な作りをしています。石棺の内面は赤く塗られ、直弧文が彫られています。

直弧文は、筑紫君一族の墓という筑後市の石人山古墳にも彫られています。同じ筑紫君一族なのでしょうね。

遺物についてはよくわかっていませんが、勾玉・金環・刀剣・甲冑が出土したと伝わります。
では、熊本山からの祭祀線以外も何処とつながるか見てみましょう。
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赤は、白鬚神社・関行丸・熊本山・浦山古墳のライン。
黄色は、風浪宮・(浦山古墳)・高良山・高住神社(英彦山)のラインで、夏至の日の出のライン。
緑色は、浦山古墳。石櫃山古墳(久留米市)・西館古墳(久留米市)・田主丸大塚古墳と筑後川流域の古墳を4か所つなぐ。
水色は、浦山古墳・丸山古墳(八女丘陵)・方保田(山鹿市)の古墳をつなぐ。
ピンクは、浦山古墳・江田船山古墳(菊池川流域)・井寺古墳(緑川流域)
ピンクラインの江田船山古墳には横穴式石室に妻入家形石棺が置かれ、井寺古墳には石障に見事な直弧文の装飾があります。まんざら無関係とは思えませんが、井寺古墳は関行丸古墳とおなじく石棺ではありません。石障(石の間仕切り)が在るのです。死床を持つ横穴式石室は熊本から入った文化でしょうか。

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成田山は「浦山古墳の主を慰め鎮めるために造られた」という話は、とうとう聞けませんでした。この話を知っている人、教えてくださいね。
この古墳はなぜ、「うらやま」と呼ばれるのですか? まさか恨み山ではありませんよね。
では、この辺で。


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# by tizudesiru | 2018-06-08 00:31 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback

倭王が佐賀に居た?関行丸古墳の金銅製冠帽は語る

謎の4世紀には舟形石棺が作られたが…
ヤマト朝廷の成立は4世紀とされています。ほぼ東日本から西日本まで統一していたと。ホントにそうでしょうか。謎の四世紀、卑弥呼や壱与の後の倭は、本当はどうなったのですかね。
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では、4世紀後半とされる熊本山古墳の祭祀線の様子を見ましょう。白鬚神社・関行丸古墳・熊本山古墳・浦山古墳の祭祀線です。
赤直線の起点は白鬚神社でした。久保泉の川久保にあります。
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此処に、滋賀県から白鬚大明神の分霊を勧請したそうです。為政者が変わったのでしょうね。境内から帯隈山がよく見えます。右には熊本山も見えるはずです。
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次が⑥の関行丸古墳ですね。ここは、前方後円墳(55m)で横穴式石室があります。熊本山の時代からすると、墓制が変わりました。為政者の交流が広がったのか、別の勢力が侵入してきたのか、どちらですね。
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この古墳には報告書が出されていますし、ネットでも読むことができます。

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石室の中には死床が三か所あり、4~5体の人骨が残されていました。老人から若者までの人骨です。

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金銅製冠帽を持っていたのは、倭国の重要な立場の人物だったからでしょう。石室の前や羨道に馬具が置かれていますから、馬具は重要だったけれど身分を示すものではなかったのですかね。決定的な身分を示すものは、やはり金銅製冠帽であり、金銅製半筒形装飾具、伝統的な鏡だったようです。それらは、黄金に輝く王の威信財だったのですね。

さて、関行丸古墳(6世紀初頭)で分かることは、倭国の中に別の勢力が侵入しつつあると云うことです。このままでは、いずれ衝突が起こりましょう。石棺の王族は追い詰められたのでしょうか。

次は、浦山古墳に行きましょう。成田山は「浦山古墳の主の霊魂を鎮め慰めるために造られたのだ」と、むかし聞いたことがありました。ほんとですか?
今になると、気になります。
では、また。



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# by tizudesiru | 2018-06-06 11:06 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback

熊本山は隈本山であり神本山だったのではないか!?

川久保を治めていたのは、神代(くましろ)氏だった
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熊本山が帯隈山神籠石の中に取り込まれていることは、既に紹介しました。地図の辺りは川久保と云う所です。江戸時代までここを治めていたのは、神代(くましろ)氏でした。神籠石の案内板に「勝宿神社」がありました。そこは神代(くましろ)氏を祀る神社です。川久保領主は、中世から神代氏だったようです。
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此の神社の脇を流れる小川に架かる橋が「大日橋」でしたが、架け替えられたためか「大日橋」となっていました。ここは「日」に所縁の深い神社なのです。
では、ここを治めた神代氏は、どうして「クマ代」なのでしょう。中世の武士は、自分の治める土地から霊力を得るために、その土地を氏名としました。神代氏も川久保に住んで「クマシロ」と名乗ったのです。
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つまり、ここがもともと「クマシロ」という地名だったからでしょう。熊本山も本来は「熊」ではなく帯隈の「隈」であり、その「くま」隈には「神」という意味があったのではありませんか。半島の「古代語」では、「クマ」は神のことだと書かれたのを読んだ記憶があります。
神代とは、神祭りをするところ、「依代」とか「田代」のように、神がいつく処ですね。ここで、帯隈山や日隈山の神を祀っていたとするのが自然でしょう。

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神代が勝宿神社の地点です。オレンジの直線は、帯隈山(おぶくまやま)から日隈山(ひのくまやま)を通り、吉野ケ里公園の北の神社に届きます。この神社は古墳ではないかと言われていますが…
赤い直線は、白鬚神社から⑥の関行丸古墳を通り、熊本山古墳から久留米市の浦山古墳に至ります。浦山古墳は家形石棺を持つ古墳です。

これらの直線に意味があるなら、熊本山石棺の被葬者は理由があって30mの円墳に埋葬されたか、事情があって他から移されたか、ですね。帯隈山の神籠石を築く時に、他の墳丘墓から石棺を移したかも知れないと思うのです。わたしは神籠石は山城というより祭祀場だったと思います。なぜなら壕がないからです。古代でも中世でも敵から住居などを守るために、ほとんど壕・濠を作りました。神籠石にはそれがありません。だから、単なる防御施設ではないと思うのです。

なぜ円墳なのか、について
向野田古墳(前回紹介した)は、すでに前方後円墳でした。その後の熊本山古墳が30mの円墳と言うのは、なにか違和感があります。それで、熊本山の石棺も近くの前方後円墳から運ばれたのではないかという気がするのです。それは何時か? 先に神籠石のことを書きましたが倭国が危機的状況になった時、神に国の守護を頼むために神籠石を築き、そこに霊力の強い祖先の石棺を運び国家の安泰を願った、と思うのです。
古代には祖先の靈力が信じられていました。
九州倭国の命運を神にゆだねた、その祈りの場が神籠石だとわたしは思います。
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神籠石と古墳と山頂を結ぶ祭祀線から得た結論です
祭祀線は、古代の支配者の所属や思想を今に伝えていると思います。1500年前の為政者の結びつきや勢力範囲が祭祀線で読めるのです。消されたはずの歴史の真実が、ゴーストとして祭祀線に残っていました。祭祀線は面白いだけではなく、思いもよらない結論にわたしを誘ったのです。

10年ほど前、それを分かってほしいと思って、このブログを始めたのでした。
若いころから、地図を見るのが好きだった私は、神社の並びや地名から歴史が分かると信じていました。然し、神社は建てかえられるし、為政者が変わるたびに合祀や遷座を繰り返し、祭神の入れ替えまであったことが分かり、古墳を調べ始めました。すると、動かない山頂と古墳が思いがけない事実を示しました。
祭祀線を引けば引くほど、4世紀にヤマト朝廷が成立したとは思えません。倭五王でさえ九州の為政者だったとなってきました。

T先生から「更に多くのデータが必要」と指摘され、F教授から「一つのルールが沢山集まれば、それは真実・定説になる」と言われました。祭祀線を引き続けてきましたが、やはり、ヤマト朝廷は4世紀には成立しません。近畿と九州に政治的な交流があったのは、5世紀以降です。
九州内の政変が人口の移動・文化の交流を導いたのでした。大陸や半島の政変が、列島への人口移動を引き起こしたように。同じことが倭国でも起こったのです。

今回はここまで


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# by tizudesiru | 2018-06-04 21:04 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback

熊本山古墳の被葬者は何者なのか

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日本一の舟形石棺の被葬者とは、何者か?!

日本一長い石棺の被葬者ですから、只者ではないでしょう。熊本山古墳の被葬者は、倭王の近親者だったのでしょうか。
そう思って副葬品の鉄剣を見ると、折り曲げられています。何故?

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何か理由があるでしょうね、日本一の長い石棺に副葬するのにわざわざ折り曲げるのですから。
この熊本山石棺より古い日本で二番目に長い舟形石棺が、熊本県宇土市で出土しています。あの阿蘇ピンク石=馬門石で有名な宇土市です。その向野田古墳の石棺を見ましょうか。

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向野田古墳の舟形石棺、被葬者は女性です。


石棺は、弥生時代後期の組み合わせ式箱形石棺から始まるのでしょうか。熊本では舟形石棺・家形石棺が多く造られています。石室も石棺直葬から竪穴式石室、横穴式石室と変化します。横穴式石室の時代には、装飾古墳が浸透してきます。この辺りで石棺から石屋形と呼ばれる様式に変化するようです。石室の石も小口から大石に変化していきます。それは、倭五王の時代と重なるのです。九州に倭五王がいたのなら、彼らは石棺に眠っていることでしょう。それも、倭王讃・倭王珍の時代は家形石棺になっているでしょうか。

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日本で二番目に長い「向野田(ムコウノダ)古墳」(前方後円墳・89m)の石棺は、小口の石を積み上げた竪穴式石室に置かれています。熊本県の宇土半島本部は、熊本では最も早く前方後円墳が築造された地域です。宇土市や八代市の博物館では、4世紀後半(350年以降)に向野田古墳を置いています。(ここには、まだ、三角縁神獣鏡が出現していません。)
そして、石棺直葬の熊本山石棺(4世紀末)より古い設定になってます。

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4世紀後半なら、熊本山石棺の被葬者は、倭五王の父や祖父の時代になるのでしょう。

長崎(壱岐・対馬をのぞく)佐賀・熊本は、古代の火の国(肥国・火国)でしたね。その頃の火国の中心は、古墳の状況から宇土半島基部から氷川流域だそうです。そうであれば、同じ文化圏ですから石棺は似たものが作られたでしょう。
 
それにしても、熊本山石棺の折り曲げられた鉄剣には、何か違和感があります。30mほどの円墳に石棺直葬というのも気になります。円墳の周囲には箱式石棺が何基も取り巻くように在ったのです。この人たちは、家臣か親族でしょう。ともに葬られたのは殉死でしょうか。それも前方後円墳でも竪穴式石室でもなく、30mの円墳の周りに埋葬、です。

こんな、謎だらけの熊本山古墳は、帯隈山神籠石に取り込まれています。しかも、「熊本山」だなんて、どんな伝承があるのでしょうね。
 

今日は。ここまでにします。

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# by tizudesiru | 2018-06-04 00:18 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback

日本一長い石棺を出土した熊本山は何処にある?

熊本山古墳の所在地を探しました! 何処ですか!
博物館で聞いても、地図やネットで調べても、熊本山古墳の所在地が分かりません。
でも、熊本山を見たいと思いました。分かっているのは、

「久保泉町川久保の熊本山は、清兵衛山から連なる丘陵で独立丘となっている。標高は55mくらいである。」

久保泉は何度も通ったところでした。帯隈山神籠石や神代神社がありますから。しかし、熊本山は聞いたことがありません。たぶん何気なく見過ごしていると思います。
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清兵衛山を見つけました。帯隈山神籠石の内側に!
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案内板は以前来た時には見ていませんから、別ルートで来たのでしょうね。
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帯隈山と神籠池の堤が見えます。
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帯隈山・神籠池・清兵衛山。そして、ミカン山として開発された熊本山、ありました。
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これが、熊本山に違いありません。何度も通っただろう道の横にありました。

出かけるので、また後で

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# by tizudesiru | 2018-06-02 09:45 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback

熊本山古墳(日本一長い石棺)の被葬者は何者なのか

日本一長い石棺を持つ熊本山古墳の不思議
前回、熊本山から出土した石棺の紹介をしました。石棺を見ると、古墳時代前期のように思えました。横穴式の石室ではありません。古墳に直葬されていたのですから。
博物館には、熊本山古墳と谷口古墳の副葬品が同じ所に展示されて「古墳時代中期」とされていました。
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(展示物の上部が熊本山古墳、下部が谷口古墳)
谷口古墳(佐賀県唐津市)は日本海側の玉島川の下流付近にある前方後円墳ですが、熊本山古墳は久保泉のの丘の上の30mほどの円墳だそうです。
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そうですか、これは熊本県八代市とつながる石棺なのですね、と思ったらどうしたことでしょうか。

石棺の石材の産地が違うのは、何故?
さがの歴史・文化お宝帳(佐賀市地域文化財データベースサイト)では、次のように説明されています。

熊本山古墳の説明文
佐賀市久保泉町川久保にある標高
55.5メートルの熊本山の北側高所から箱式石棺1、南側高所から箱式石棺5基と舟形石棺1基が昭和36(1961)に出土した。

舟形石棺は、径30メートル余りの円墳と思われる高まりの土中に直接埋置されていた。福岡県八女(やめ)地方産の阿蘇熔結凝灰岩を3室に刳りぬいた身と蓋(ふた)からなる石棺は、長さ4.3メートル、最大幅88センチメートル、身の最大高53センチメートルと長大で、内面は赤く塗彩されている。身・蓋とも刳り抜きや両端にある孔は対応し、身の両側面にも円孔が見られる。身の底部は、舟底形を呈しゆるやかな曲線をえがき、内部は、主室を中心に両端に副室を設けておりその構造は舟型石棺の名称にふさわしいものである。
中央室の刳り抜きは長さ2.03メートルで、造り出し枕に頭を置いた人骨1体と差し違えてもう1体の人骨があり、鉄剣2口・鉄刀1口が出土した。中央室の両側にある小形の刳り抜きのうち、枕側の北室に多くの副葬品が納められており、南室からは用途不明の鉄製工具1個が発見されたのみである。
北室からは、革綴(かわつづり)式の短甲(たんこう)1具、四獣鏡1面、鉄剣1口、釶(やりがんな)1個、鉄針1本、ヒスイ製とメノウ製の勾玉(まがたま)1個、碧玉製管玉(へいぎょくせいくだたま)18個、水色のガラス製小玉162個、碧玉製紡錘車(ぼうすいしゃ)2個が出土した。獣帯鏡(10.7センチメートル)徳島県節句山2号古墳出土鏡と同じ鋳型で鋳造されたもので、熊本山のものが後鋳品である。
この舟形石棺は、その構造および副葬品などからみても、畿内地方の文化の影響を強く受けた5世紀前半ごろの所産であると考えられる。


と、書かれています。重要な情報は、

① 箱式石棺と舟形石棺(4・3mで日本一の長さ)が出土。石材の産地は八女? 八代?

② 舟形石棺は周囲の箱式石棺とは違う30mの墳丘に直葬されていた。

③ 造り出し枕に頭を置いた人骨1体、差し違えて人骨1体。同じ石棺に2体

④ 皮綴短甲の副葬、四獣鏡・鉄剣・ヤリガンナ。

⑤ 獣帯鏡は徳島県節句山2号墳と同范鏡。
⑥ この舟形石棺は、構造・副葬品から見ても、畿内地方の文化の影響を強く受けた5世紀後半の所産である


⑥は驚きました、舟形石棺の構造と副葬品が畿内の影響
そうですか? 古墳時代となるので畿内が出てきますか? 大きな違和感がありますね。畿内が入り込むなら、何らかの闘争があったでしょうね?
無理がありませんか?
それで、畿内の影響とするために「熊本県八代地方」から「福岡県八女地方」に説明文が書き換えられたのですね。わたしの目には、熊本山石棺は普通に熊本県の舟形石棺がルーツだと見えますが。
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あらためて、谷口古墳と比べてみなくてはなりませんね。
谷口古墳は、竪穴系横口式石室で、熊本山古墳は舟形石棺直葬です。大いに違いますし、古いのは熊本山古墳の方ですね。
それは、次回に。




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# by tizudesiru | 2018-06-01 11:10 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback

日本最長の舟形石棺は、佐賀県立博物館に在る

脊振山地の南・佐賀県の古代豪族と倭国の関係
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(背振山地は南の有明海と北の玄界灘の間に連なる山塊で、南北では気候も生活環境も違いますが、南では古代から吉野ケ里のような弥生文化が開け、北では伊都国が目を光らせていました。) 
 
 倭国と日本国の関係はよく話に出ますが、倭国内の関係、つまり九州内の豪族の興亡や関係についてはあまり話に出ません。わたしは、倭国内の結びつきが気になるのです。九州で倭の五王の時代となると、石棺の時代になります。弥生の甕棺から組み合わせ式石棺となり、舟形石棺の直葬が現れて、家形石棺、横穴式石室、装飾古墳と変化していきます。順番がだいたい決まっているのですが、装飾古墳は6世紀とされています。石棺の時代から装飾古墳の時代なったのは、何か大きな出来事が起こり墓制が変化したのではないかと思うのです。
5世紀のおわりから6世紀初めにかけて、何かがあった……
つまり、舟形石棺の時代は倭の五王と重なるのですね。

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 わたしは舟形石棺の大きいものは熊本に在ると思っていましたが、10年ほど前「日本最長の舟形石棺は、佐賀県出土のものだと聞いたのです。佐賀県立博物館のロビーに置いてあるのを見たことはありましたが、今回改めて見せてもらいに行きました。
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熊本山古墳(佐賀県・久保泉町川久保字熊本山)の舟形石棺です。石棺の側面が底に向かってカーブしてます。それで、舟形と云うのでしょうね。博物館の展示室には、もう一つ石棺が在りました。
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写真の状態で発掘されたのですね。被葬者の横に鉄剣があります。
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 こちらは蓋の様子から家形石棺だと思ったのですが、舟形石棺となっています。ロビーに置かれていた舟形石棺と同じ佐賀市久保泉の川久保の「久保泉丸山3号墳」の石棺です。二つの古墳は同じ地域の古墳ですね。
久保泉丸山3号墳には、人骨が三体とは…被葬者の足元に固めてあったのですね。
更に、熊本県の菊池川流域の玉名市宮ノ後古墳の石棺とよく似ているそうです。


そうですよね。菊池川流域には家形石棺・舟形石棺、いろいろ出ていますからね。この辺りの豪族も熊本の豪族と親戚関係にあったのですかね。

彼らは何かあったら共に戦ったのでしょうか。それとも敵対したのでしょうか。気になります。それから、前回紹介した白山神社があった福岡県糸島市二丈町にも、舟形石棺が出土しています。糸島高校博物館に置かれていました。
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 御見事な石棺ですね。加工がきれいで中には丹が塗られていたそうです。

 ふうむ、なるほど、ですね。三例の舟形石棺を見ました。
 然し、三例の舟形石棺は、「舟形石棺」としてまとめられていますが、違いがありすぎますね。
 どのように理解すればいいですかね。どう見ても、一番古いのは、熊本山石棺のように思います。次は丸山古墳で、最後が二丈町のものですかね。タガネの技術がスゴイですね。熟練工が何処にもいた時代なのでしょうね。
 
こうしてみると、熊本と脊振山地の南側は早くから結びつき、その力は脊振の北にも広がったのですね。では、倭の五王の時代には、熊本の勢力の影響が脊振の南側から北側に広がり、石棺の文化は畿内まで伝播した、ということですか。

石棺はいろいろ語ってくれますね。佐賀県立博物館は、佐賀市の中央・城内に在ります。
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また、明日。

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# by tizudesiru | 2018-05-26 23:19 | 348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係 | Trackback

白山神社は菊理姫(白山姫)を祀る

福吉は白山神社で、白山宮ではありませんでした。
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明治になって神楽の奉納が始まったようですね。白山神社だから「福井神楽」と読んでるんですかね? それは、筑前の田島郷から伝えられたというのですか? では、福井県とは直接の関係はないのですね。ここには、ひっきりなしに参拝者が在りました。
神社の傍をちいさな小川が流れていて、静かな集落です

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此の神社から浮嶽は見えませんが、後ろの山を地域の人に訊ねると「浮嶽です」と答えてくださいました。二丈町や唐津氏の人には、浮嶽は特別大事な信仰の山のようでした。
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しかし、この白山神社から浮嶽は見えません。神社の横に見えるのは、十坊(トンボ)山です。修験道の坊が十カ所もあったから着いた名前なのだそうです。
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此処も、境内社が沢山ありました。おや、前回の「白山宮」と比べると末社のご祭神がかなり違いますね。白山宮とはあまり離れていないのに、違いが大なのですね。

白山宮の御祭神の写真を見直しましょうか。(白山宮に合祀されていた神社)
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末社のご祭神は、本当に違いますね。二つの神社は距離的には近いのに、住んでいる人の考え方が違っていたのでしょうかね。
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この白山神社にも千木はありませんね。
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拝殿の階段の横に注連縄を掛けた石が在りました。何処の石でしょうか。十坊山か、浮嶽か、どちらでしょうか。
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白山神社から少し離れなければ、浮嶽は見えませんけどね。
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然も、この白山神社は糸島市の加也山と十坊山をつないだ直線上に乗ります。
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神楽殿に「福井大神楽」の看板がありました。福井じゃなくて筑前田島からの伝播でしたね。然し、白山のある福井の名を冠したのです。気持ちは分かりますよね。

すると、前回の白山宮の方がここより古いと云うことですかね。共通するのは、菊理(くくり)姫です。
では、また、明日。

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# by tizudesiru | 2018-05-26 11:07 | 347白山神社そぞろ歩き・福岡県 | Trackback

白山神社の御神体山は浮嶽ですか

白山神社(福岡県二丈町)に行きました
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725年(神亀二年)に白山比咋(咩?)大神=しらやまひめのおおかみ=菊理姫命(くくりひめのみこと) を勧請したと、由緒に在ります。
 かなり昔の人が福井県の白山を知っていて、自分たちの神を捨てて祭神を入れ替えたというのでしょうか。それとも、福井の人が故郷の神を連れて来たのでしょうか。
 はたまた、白山姫を勧請したのは、朝廷の意向でしょうか。
神亀元年(724年)は、元正天皇が甥の聖武天皇に譲位し改元した年です。その翌年、新しい平安な世を築くために朝廷の意向にかなった神を九州に持ってきたとか、九州の神の力を抑えようとしたとか、そのための政治的な意味での勧請だったのでしょうか。

二丈町の白山神社から見える山の名は、浮嶽です。

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沖の船からのランドマークとして浮嶽は有名です。陸に近づいて浮嶽を見ると沈むように見え、離れると浮き上がるように見えるので「浮嶽」という名がついてるのです。山頂には浮嶽神社があります。それにしても、その麓に「白山神社」とは、なんとなく地方信仰の神社としては違和感がありますね。
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近くの雷山山頂から浮嶽方面を見ると、羽金山・浮だけ・十坊山の山頂が連なっているのが分かります。ここは、三連山の信仰の山です。
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羽金山・浮嶽・十坊山(とんぼやま)は、ほぼ東西にならぶ三連山です。信仰の対象になる条件のひとつでしょうね。

浮嶽山頂には浮嶽神社がありますが、麓には白山神社があるのです。
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地図には、白山神社が三社あります。吉井宮ノ上の白山神社は、三社の真ん中です。
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此処には「白山宮」と書かれています。神社とは違うのですね。
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合祀社にたくさんの神様がおられました。
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本殿の屋根には五三桐の神文が在りました。
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此の神社を丁寧に掃除されていたご婦人に山の名前を訪ねましたが「知らない」という答えでした。
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この狛犬さんは、浮嶽を見ているのに…
明日は、もう一つの白山神社を訪ねます。
では、明日。

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# by tizudesiru | 2018-05-25 16:35 | 347白山神社そぞろ歩き・福岡県 | Trackback

有間皇子と柿本朝臣人麻呂は自傷歌を詠んだ

有間皇子と柿本朝臣人麻呂は自傷歌を詠んだ
「自傷歌」というキーワードがありますが、共通するものは何でしょう。
有間皇子・自傷歌と共通するのは、「刑死」ではありませんか。

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万葉集によれば「本朝臣人麻呂は石見国で死に臨んだ」という
死因は何か? 行き倒れか? 刑死か? 自然死か?
死に臨んでの「自ら傷みて作る歌」が223番歌です。有間皇子と同じように人麻呂も「自傷歌」を残しました。旅の途中で「人麻呂は行き倒れ」死したという説がありますが、そうでしょうか。
「自傷歌」という文字からして死に臨まされて、有間皇子と同じように刑死となったと、わたしは思います。万葉集の人麻呂の挽歌を読んでみましょう。

万葉集・巻二の223番歌
  柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に望む時、自ら傷みて作る歌一首
223 鴨山の磐根し巻ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ

  柿本朝臣人麻呂が死にし時、妻依羅娘子(よさみのをとめ)が作る歌二首
224 今日今日と吾が待つ君は石水(いしかわ)のかいに交じりて有りと云わずやも 
225 直(ただ)の相は相かつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ

 丹比真人、柿本朝臣人麻呂が意(こころ)に擬(なずら)へて報ふる歌一首
226 荒浪により来る玉を枕に置き吾ここに有りと誰か告げなむ

  或本の歌に曰く
227 天離る鄙(ひな)の荒野に君を置きて想いつつあれば生けるとも無し


 上の歌から分かることは、
人麻呂は石見国で死んだ。
その妻の依羅娘子は、夫の死に目には会えず死の知らせを聞いた。直に会えないから魂が雲となって石川に立ち上ってくれれば、それを見て偲びたいと詠んだ。(
不思議なことに、依羅娘子は石見の国に住んでいたはずである。人麻呂の131~139番歌は、石見国の依羅娘子と別れる時の歌である。二人は同じ石見国に在りながら逢うことができず、死後でさえ亡骸にも面会できなかった…その死を知っているにかかわらず、面会できていない。これも、人麻呂の死は尋常ではなく、刑死と考える所以である
。)
人麻呂終焉の地は 石見国の海か、はたまた荒野のどちらかだろう。
 224~7の一連の歌、人麻呂の死に対する三人の挽歌が万葉集に残されたのには、必ず意味がある。(死に臨んで自傷歌を詠んだ人麻呂に対して、少なくとも三者が時期を遅れて場所は違うが挽歌を詠んだ。このような例は、「有間皇子の挽歌」以外にあっただろうか。わたしは、記憶していない。)

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妻の依羅娘子(よさみのをとめ)と丹比真人(名は不明)と或本の歌の三人は、人麻呂の地位と身分と状況を十分に知って歌を詠んだ。*丹比真人の「真人」は、八色の姓の第一位であるから、この人は高貴な家柄で身分の高い人となる。
依羅娘子は、人麻呂が「石見国より妻と別れて上り来る時の歌二首、併せて短歌」(131~9)の歌群の後にある140番歌の女性である。
「柿本朝臣人麻呂が妻依羅娘子、人麻呂に与うる相別るる歌一首」
な念(おも)ひと君は言えども相はむ時何時と知りてか吾が恋ずあらむ
依羅娘子は相聞歌が詠める身分の高い女性であろう。

以上のことは読み取れます。




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死に臨んだ人麻呂。彼の死は「刑死」だった
もちろん、「人麻呂が自然死した」のなら、万葉集の理解が違ってきます。
万葉集を読む中で理解したのは「その編纂の時期と目的」でした。
「持統天皇が文武天皇の皇統を守る為に、その正当性と歴史」を叙事詩にした」と万葉集を理解しましたが、持統天皇と文武天皇の死後、即位した元明天皇にとってそれは毒薬となりました。

草壁皇子の出自が公表されれば、天武系の皇子達に謀反の糸口を与えかねなかったのです。そんな内容の歌集を編纂編集した人物だから、人麻呂は断罪されたのでした。そう読めるように編纂されていた重い歌集だったのですから。

この事は、前回までの「柿本朝臣人麻呂は何故死んだのか」で説明しています。

天武系の皇統を全て滅ぼした平安時代の天皇家にも万葉集は不都合だった。

 天智帝の皇統に戻った平安時代に「今更、蒸し返してほしくない事実が書かれていた」、それは、草壁・文武・聖武の皇統はもともと天智帝の皇統だったと云うことです。草壁皇子・文武天皇・聖武天皇の皇統こそ正統だったと、万葉集は主張していました。この事を理解した 平城天皇は、「平城京こそわが王統が引く継ぐべき京だ」と主張したのでした。
 父の桓武天皇が「極位が天智天皇の皇統に戻ったことは易姓革命だ」としたことは、平城天皇も承知していました。然し、実はそうではなかったと気がついたからこそ、奈良の都(平城宮)に戻ることを望まれたと思います。
平城天皇は万葉集を理解していたのです。然し、公表には躊躇された、今さら公にできない事実だったのです。
皇位継承に関して多くの旧臣を断罪し、多くの皇族の命を奪った後では、はなはだ不都合だったので、内容を分かりにくくするための編集の手を入れて世に出した、という次第です。

 天智天皇に引き上げられた藤原氏にとって、天武帝の皇統に極位を渡すことなどありえなかった、高市皇子や長皇子や新田部皇子に譲ることなど絶対にするはずがなかったのです。



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# by tizudesiru | 2018-05-23 17:19 | 346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ | Trackback

万葉集は持統天皇の勅で編纂された史書だった

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# by tizudesiru | 2018-05-22 00:11 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか

雄略天皇の御製歌は万葉集の冒頭歌

「すぎにし人の形見とぞ」2

では、万葉集の冒頭歌の紹介。泊瀬朝倉宮御宇天皇=雄略天皇の歌である。

この冒頭歌で雄略天皇は、菜を摘む娘に敬語を使っている。『菜摘ます子=菜をおつみになっている娘』と『家をおっしゃってください。名を名のってください』 求婚の儀式だろう。 

古代では名前を呼べるのは、特別な間柄か親族で、他人に名を知られるのを嫌った。

此の菜を摘む女性は高貴な家柄の姫で、儀式により婚姻が整おうとしている瞬間である。

これは「雑歌」=儀式歌の冒頭歌にふさわしい歌なのである。」

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万葉集巻一には、「雑歌」という「部立」があります。
「雑歌」とは、「雑なその他の歌」という意味ではないのです。「儀式歌・様々な公の場での歌」と云う内容の歌群をいいます。ですから、雄略天皇の万葉集1番歌も「雑歌」ですから個人的な歌ではなく、公的な場での歌になりますね。


万葉集の冒頭歌は、「こもよ。みこ持ち」この歌ですね。
 最近になって、平和で幸福な感じの婚礼の儀式歌だと、思えるようになりました。
もともと、万葉集は持統天皇が『平和で幸福な皇統の国造り』を願い、文武天皇のための教育書として作られたと、わたしは前回紹介しました。万葉集の性格からして、政変や悲運な出来事の歌が巻一の冒頭に置かれるはずはありません。特に巻一ですから、幸せと希望に満ちた冒頭歌のはずです。
 すると、巻一の最終歌も平安と希望に満ちたものになるでしょうね。そう思って巻一の最終歌を読むと、何だかまとまりのない形になっています。元々万葉集巻一最終歌には、別の「世を寿ぐ歌」があったでしょうに。
(他の巻は、様々な皇統の出来事・歴史に触れますから内容が重く苦しいものにもなるのは必然です。)
雄略帝の歌と対峙する巻一の最終歌は、どの歌だったのでしょうね。

 話は飛びますが、大伴家持が後期万葉集を編纂したと云われていますが、その最終歌「巻二十・4516 新しき年のはじめの初春の今日降る雪のいやしけよごと」となっています。家持は因幡守として詠んでいますが、この時の家持は失意のどん底にいました。それでも、寿歌を以って新年と国の平安を歌で祈り万葉集の最終歌としたのでした。なぜ、彼はこのように寿歌を持ってきたのでしょうか。

 それは、「初期万葉集」がそのような編集の仕方になっていたからです。彼は、人麻呂が編集したその形式を踏襲したと思うのです。後期万葉集の編纂・編集の仕方を見ると、初期万葉集の編纂編集の方向が見えると思います。
 わたしは、巻一は堂々と王統の歴史を語っていたと思いますから、雄略・舒明・皇極・(孝徳)・天智・天武・持統・文武の御代の歌が並んでいたと、思います。

巻一の冒頭歌をはじめて読んだ時、雄略天皇という存在がか細く思えたのでした。万葉集釋注(伊藤博著)では次のように解されています。
「おお、籠(かご)、立派な籠を持って、おお掘串(ふくし)、立派な掘串を持って、ここわたしの岡で名を摘んでおいでの娘さん、家をおっしゃい、名前をおっしゃいな。幸(さき)わうこの大和の国は、くまなくわたしが平らげているのだ。隅々までもこのわたしが治めているのだ。が、わたしの方からうち明けようか、家も名も。」

泊瀬朝倉宮天皇は、自分こそが大和を平らげていると娘さんに告げていますから、大和を統治していたのでしょう。でも、飛鳥にはまだ入っていなかったと云うことですかね。次の舒明天皇の歌を読むかぎり、そう云うことになりますね。
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日本書紀で雄略天皇の系譜をおさらいしてみよう
スタートは応神天皇でした。



応神 九州より攻め上る。忍熊、香坂皇子と戦って王位を奪う。
仁徳 大鷦鷯(おほさざき)天皇。菟道稚郎子の自殺により即位。
履中 去来穂別(いざほわけ)天皇。母、葛城襲津彦の娘・磐之媛。住江仲皇子の謀反。磐余の若桜宮に即位。平群・蘇我・物部が仕える。筑紫の三女神「どうして我が民を奪ったのか。わたしは今、お前をはじいらせよう」車持君が筑紫で罪を犯す(何故か、九州の神の話
反正 瑞歯別(みずはわけ)天皇。履中帝の同母弟。河内の丹比(たじひ)を都とする。柴籬宮(柴垣の宮)
允恭 雄朝津間稚子宿禰(おあさつまわくごのすくね)天皇。反正天皇の同母弟。太子木梨軽皇子の逸話(同母妹との姦通罪により追い詰められ自殺)
安康 穴穂天皇。木梨軽皇子の事件により即位。叔父の大草香皇子を殺し、その妻の中蒂姫(なかしひめ)を皇后に据え、その連れ子の眉輪王に殺される。
雄略 大泊瀬幼武天皇。吉備上道臣田狭を任那にやり、その妻を奪う。皇位継承者を次々に殺害。
清寧 白髪武広国押稚日本根子(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこの)天皇。母は、葛城韓媛。雄略帝の妃であった吉備の稚媛(もと吉備上道臣田狭の妻)が子(星川皇子)をそそのかし謀反を企てたが、共に焼き殺される。
顕宗 弘計(をけ)天皇 父親を殺され兄(仁賢)と与謝郡に逃げる。

仁賢 憶計(おけ)天皇。諱は大脚(おほし)、またの名は大爲(おほす)*旧本による。字名は島郎子(しまのいらつこ)、穴穂天皇(安康天皇)が崩御した時、丹波の余社郡(よさのこほり)に避難した。
武烈 無道の限りを尽くした (断絶) 


ふむふむ、なかなか大変な顔ぶれですね。ただ、此の天皇の宮は、橿原・桜井・大阪・天理・奈良に京を作り、允恭天皇(明日香村所在不明)顕宗天皇は(明日香村八釣)明日香に宮があったとされていますが、所在地は不明です。陵墓は羽曳野市・堺市・藤井寺・北葛城郡・奈良市などになっています。此の王朝は、香具山の王朝とは直接には結びつかないようですね。
 しかしながら、万葉集の冒頭には雄略天皇の名があります。此処に、どんな意味があるのでしょうね。
明日は、舒明天皇の国見歌(万葉集巻一・2番歌)を読みます。

では、明日。
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# by tizudesiru | 2018-05-22 00:10 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

万葉集の二番歌は舒明天皇の国見歌

「すぎにし人の形見とぞ」の続きです。
 此の話の主題は「万葉集は、持統天皇が孫の文武天皇のために皇統の正当性とその苦難の歴史を伝えるために、柿本人麻呂に編集させた皇統の歴史書であり、教育書である。」でした。
 では、万葉集巻一には、何が書かれているのか。その事で何が分かるのか、ですね。少しずつ紹介しています。

前回は、雄略天皇(泊瀬朝倉宮御宇天皇)の万葉集冒頭歌の紹介をしました。
この歌が本来の「初期万葉集の冒頭歌」であったのなら、泊瀬朝倉宮御宇天皇は持統天皇にとって意味があったのですね。
今日は、万葉集の2番歌・舒明天皇の国見歌です。

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今日は「すぎにしひとの形見とぞ」の⑦~⑮まで紹介します。

三人の天皇は、なぜ小さな香具山を詠んだのか
統治者として舒明天皇は天香具山から国見をした

⑦では万葉集の2番歌、舒明天皇の歌を読もう。舒明天皇は天智帝・天武帝・間人皇后の父であった。

舒明天皇の2番歌『国見歌』、天香具山に登って国見をしたという歌である。

香具山は、藤原宮の東の御門を守ると詠まれた山で、耳成・畝傍と並ぶヤマト三山と呼ばれる山の一つ。香具山を詠んだ天皇は、三人。舒明天皇・天智天皇・持統天皇、三人は香具山でつながるようだ。

 香具山の中腹には、舒明天皇の万葉歌碑がある。本格的に明日香に入った最初の男性天皇であるから、別に不思議ではない。つまり、歴代天皇の宮は明日香にはいなかったのである。舒明天皇の祖父の敏達帝は河内長野や桜井に宮があり、陵墓は河内磯長中尾陵である。敏達帝の皇后だった推古帝が蘇我氏との関係で明日香と橿原を宮とし、明日香に女帝の宮が造営されたと書かれている。

推古帝の遺言で大王となった舒明王家にとって、香具山は天降りの山・舒明皇統の始まりの聖地となったので、神聖な氏山として天の香具山と呼んだと思われる。

すると、舒明天皇が「香具山からの国見歌を読んだのは何故か」の答えは簡単に分かってしまった。秘密でも何でもない。もちろん、これは謎でも秘密でもない。ただ、舒明天皇は何処の出身だろうか。

簡単にいうと、舒明天皇はよそ者である。飛鳥の地に侵入して来たから「国見」をしたと、なる。

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舒明天皇の皇統は香具山を神山とした

⑧ 「天皇、香具山に登り国を望む時の御製歌」

2 ()はむら山あれど とりよろふ天の香具山のぼり立ち 国見をすれば国原は 煙立つたつ海原はかまめ立つたつ うまし国ぞ(あきづ)(しま)八間(やま)()の国は

「大和には群がるように山々があるけれど、鳥もよろけるという神の山・天の香具山に登り立ち、国見をすれば国原から煙が盛んに立ち上がっている。海原からはカモメが盛んに飛び立っている。豊かな素晴らしい国であるぞ。あきつしま大和の国は」

 足元に広がる国原を見渡す大王の国見歌である。 舒明天皇が詠まれた香具山は神山であるので、この天皇家は香具山を氏の守りの山としたといえる。今でも香具山に登ると山頂に)(とこ)(たち)命が祭られていて、中腹の説明板『名称大和三山・香久山』には、『(略)天香具山、畝傍山と耳成山、この三つの山は古来、有力氏族の祖神など、この地方に住み着いた神々が鎮まる地として神聖化され、その山中や麓に天香山神社、畝火山口坐神社、耳成山口神社などが祀られてきました。
天香具山は天から降ってきた(伊予国風土記逸文)
(略)香具山は伊予国風土記逸文に「天から降ってきた」という伝承が残っており、「天の香具山」とも呼ばれています。万葉集において「天」という美称がつけられた山は香久山だけで、このことから多くの山の中でも特別な位置付けを持っていたと考えられます』と案内板に書かれている。

案内板にあった伊予国風土記逸文にある「天から降ってきた」という文は気になる。(舒明天皇の出身地は伊予国だというのだろうか
また、萬葉集の巻一の6番歌の脚に「舒明天皇は讃岐に行幸されたことはないが、天皇の十一年に伊予の湯に行幸されたことはある」とあり、8番歌「熟田津に」の額田王の歌の左脚に、「御船、伊豫の熟田津の石湯行宮に泊られた。(斉明)天皇、昔日の物が猶ものこれるのを御覧になり、その時たちまちに感愛の情を起され、その故に歌を作り哀傷された」とある。斉明天皇が亡き夫を想い出して歌を詠んだというのである。舒明天皇と伊予の結びつきは深いのではなかろうか。(正史には出て来ないが、舒明天皇と伊予の縁は深いようである

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舒明天皇の百済大寺も天香具山の南に移された

 香具山の南に造営された寺だが、香具山の南に大官大寺跡がある。舒明天皇が建立したという百済大寺を、神聖なる香具山の南に移したと考えることができる。やはり、舒明天皇の皇統の寺として、移す必然性があったのだろう。

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「日本書紀」や「大安寺伽藍縁起」などによると、「だいかんだいじ」または「おおつかさのおおでら」と記されている。百済大寺から高市大寺から大官大寺に移り、平城京の大安寺へと変遷している。南から北へ中門・金堂・講堂が並び、中門と金堂をつなぐ回廊の中の東部に塔を配する伽藍配置であった。
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藤原宮御宇天皇の時代の官寺として活躍した

古代は、何処に墓を造るか、宮を建てるか、どの山を神山として祖先祭祀をするか、大事なことだったのです。
舒明天皇が国見をした天香具山を神山として、大官大寺は移されたと云うことですね。藤原宮御宇天皇の持統天皇と文武天皇にとって天香具山は神山でした。

伊予国風土記逸文に「香具山が天から降ってきた」と書かれたのですね。天香具山が伊予から来たのなら、舒明天皇の出身が伊予国だというのでしょうか。

万葉集に書かれていることと、日本書紀に書かれていることが食い違うので、脚注が入るのです。しかし、書かれてから数十年しかたっていないのに、もう分からないことだらけだったのですね。


では、中大兄の「三山歌」を読みます。

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「すぎにし人の形見とぞ」の⑪に戻ります。

⑪ さて、香具山が神の山であることはわかったが、他の畝傍と耳成はどう読まれているだろうか。

畝傍山は男性と解釈されたり、女性と解釈されたり、説が分かれる

原文では、「畝傍を惜し」を万葉仮名で「雲根火雄男志」と表記されている。故に、解釈が二通りある。

長歌の大意を日本古典文学大系の万葉集では、『香具山は畝火山(男性)を男らしく立派だと感じて、その愛を得ようと耳梨山と競争した。神代からこうであるらしい。昔もこのようであったから、現世でも一人の愛を二人で争うことがあるものらしい』となっている。

万葉集釋注では『香具山は、畝傍(女性)を失うには惜しい山だとして、耳成山と争った。神代からこんなふうであるらしい。いにしえもそんなふうであったからこそ、今の世の人も妻を取り合って争うのであるらしい』と解釈し、両者は男女が入れ替わる読み取りになっている。読みの都合上(男性)と(女性)の言葉をを挿入してみた。

中大兄のこの歌は本来二人の男性が争ったのか、二人の女性が争ったのか、気になるところであるが、中大兄の歌で見逃せないのは、三山を擬人化していることである。これは、たとえて遊んでいるのではなく、現実を表現しているはずである。

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香具山と耳成山が奪い合った畝傍山の姫は、いったい誰だったのか

⑫ つまり、三山に象徴される氏族があり、中でも香具山を神山とする新興勢力が政権を握っており、同じく耳成山を神山とする新興勢力と対峙している。そして、畝傍を神山する伝統的王族を取り込むことで権力が強固なものになろうという歌の意図なのだ。香久山は、畝部山一族の姫を妻に迎えようと耳成山と争っているのである。古代の権力の組み替えは、伝統的王家の血筋の娘を手に入れることで決まったというのだ。

たしかに、中大兄が額田王を大海人皇子と争ったという説がある。額田王は初め大海人皇子との間に娘をもうけ、後には天智帝のもとに仕え挽歌まで奉っている。すると、畝傍山に象徴される姫は額田王というのだろうか?

(更に、15番歌は反歌として他者が付け加えたとされている。「渡津海の豊旗雲に」の歌は堂々としていて、これほどの歌を詠める歌人は誰なのか様々な説があるが、額田王詠歌という学者もいる。古典文学大系は大意を「大海の豊旗雲に入日の射すのを見た今夜は、月も清かに照ってほしいものだ」と、三山の争いが終わったので、海神がたなびかせた豊旗雲を見た印南国原の神は晴れ晴れとした気持ちになったというのだ。が、三山歌の反歌として「わたつみの豊旗雲」は不釣合な気もする。

また、この歌の題「中大兄、三山の歌」であるが、何故か「皇子」の文字が欠けていて、御製歌とも書かれていない。これは、中大兄皇子がぞんざいな扱いを受けたということか。または、「長子という立場をあらわす大兄(古人大兄皇子)」の次という「二番目の長子」という意味と位置を「中大兄」が表しているだけなのか…)

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畝傍山と本薬師寺の祭祀線と持統天皇

藤原宮の西に畝傍山。この山を神山とする氏の姫を迎えることが重要だと、「三山歌」には詠まれている。
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創建時の伽藍の大きさが想像できる礎石群。本薬師寺(もとやくしじ)は、奈良県橿原市の東南に位置する藤原京の薬師寺と呼ばれた寺院。後に持統天皇となる皇后の病気平癒を祈って天武天皇が建立を誓願した官寺である。平城京遷都で薬師寺が西ノ京に移ると、西ノ京の「薬師寺」と区別するために「 薬師寺」と称されるようになった。本薬師寺は「元薬師寺」とも記されるほか、平城京に造営された薬師寺(平城京薬師寺)に対して、「藤原京薬師寺」などとも呼ばれる。これまでの発掘調査により、およそ11世紀初頭まで存続していたことが認められている(ネットでは上記のように紹介されている)

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(東塔址)

⑮耳成と香久山が争った畝傍山。では、畝傍姫とは持統天皇なのか?

本薬師寺は、薬師寺が平城京に移動した後、11世紀まで残った。この寺が、持統皇后の病気平癒の為に建てられたのなら、持統その人は畝傍山系氏の所縁の姫であることになる。

なぜなら、現在は基壇しか残されてはいないが、その基壇は畝傍山と直線で結ばれるからである。本薬師寺の東西の塔は畝傍山の山頂と並ぶ。将に、畝傍の姫を争ったのは誰と誰なのか。(想像がつきますね。更に、畝傍の関係氏族は、東西の太陽を祀る人々だったと考えられる。)
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(西塔址と畝傍山

持統天皇は香久山を詠んで、文武天皇の皇統を示した

⑯ では、巻一28番歌。これが、持統天皇の香具山の歌である。持統天皇が畝傍姫だとしたら、何故香久山を詠んだのか、不思議である。考えられるのは、畝傍姫である持統帝が「香具山の皇統の世を寿いで詠んだ歌」でいるということだ。

28 春過ぎて夏来るらし 白妙の衣乾したり 天の香具山 

誰もが聞いたことがある持統天皇の御製歌であるが、この歌の解説を読むとなぜか頭の中がすっきりしない。「初夏の風の中に翻る真っ白い衣が、青々とした夏の香具山に映える様子を詠んだはつらつとした叙景歌」だという。『万葉集には叙景歌はほとんどなく、出来事や行事を詠んだ詩歌のほとんどが叙事詩である』といいながら、万葉学者は「春過ぎて」は叙景歌で『万葉集の中ではかなり異質の新しい作風である』というのである。いえいえ、この歌は叙景歌ではないと、わたしは思う。

この歌を詠んだ持統天皇は四五才過ぎの老婦人なのだから、はつらつとした歌を詠んだとしてもやや違和感は残る。持統天皇は壬申の乱・天武天皇の崩御・大津皇子謀反事件・息子草壁皇子の死・高市皇子の薨去などを乗り越えて即位した女帝である。やがては孫の軽皇子に譲位しなくてはならないという重責もあった。その女帝が、耳成山ではなく、藤原宮の東に位置する天の香具山を詠んだ。女帝と香久山、畝傍姫が何ゆえ香久山を詠んだのか。そこにあるのは、舒明・天智の皇統をつなぐのだという意思。それしかない。
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耳成山は藤原宮の北を守る守護神の山であり、高市皇子の神山である


⑰ 更に、耳成山である。

そもそも、持統帝の藤原の宮の北を守るのは、耳成山である。耳成山は何処からも見える神山である。
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⑱ 耳成山の真南に、二つの墳墓が造営された。耳成山の真南に在るには、中尾山古墳と高松塚古墳だが、中尾山古墳が、真の文武天皇陵なのであれば、高松塚を遮るように作られたといえるのではないだろうか。
このように、寺社や陵墓の位置から読めるのは、皇統の人間関係である地位なのである。
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⑲ では、天武持統陵はどのような位置に在るのか藤原宮大極殿の南に在るのは野口王墓。

野口王墓は京都府山城の天智天皇陵の真南に位置する。何も意識しないで、測量もしないで、離れた二つの墓を造営することはできない。これを実行したのは、文武天皇である。文武天皇も持統天皇も、天智天皇を大事にした。これは、ゆるぎない事実である。

「天の香具山を詠んだ三人の天皇」の結論として言えること

持統天皇・舒明帝・天智帝は同じ皇統を主張している。

確かに、この三人の天皇は八角墳に埋葬されているし、陵墓の形式も共通する。

壬申の乱を経て成立した天武朝は明日香に宮を造営したし、持統帝は藤原宮御宇天皇なのである。確かに畝傍を西に香具山を東に置いて藤原宮が造営されていると、万葉集にも長歌が残されている。だが、天武朝の氏山は耳成山のはずである。野口王墓(天武持統合葬陵)、高松塚古墳(高市皇子説)、キトラ古墳(舎人皇子説)などは、耳成山・藤原宮の真南を意識して造営されている。畝傍でも香久山でもないのである。

それなのに、持統天皇はなぜか政権を握った後に耳成山ではなく香具山を詠んだ。なぜ耳梨山を読まないのだ? そして即位の決意はどうなったのだ? なにゆえ持統帝は天智帝を大事にするのだ? と疑問が出てくるだろう。

香具山を「氏族の神祭りの山」とした舒明天皇(国見歌)、中大兄皇子(三山歌)持統天皇(香具山の歌)を紹介した後、香具山を氏のトーテムとする三人は同じ氏族とし、その結びつきは陵墓でもわかるとした。

しかし、持統天皇の漢風諡「持統」は、「天武天皇の皇統を草壁皇子から文武天皇につないだ」という意味とされている。だが、持統天皇自身は、天武朝ではなく舒明・天智の皇統であると「香具山の歌で」主張しているのである。すると、持統」という諡号は天武帝の皇統をつないだ意味ではなく、ほんとうは天智天皇の皇統をつないだ意味になってしまう。万葉集は、そのように解いてくれている。

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今日は。ここまでにします。

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畝傍山が象徴する姫が持統天皇だった?! そうすると、姫を争ったのは天香具山(天智)と耳成山(天武)だと云うことになりますね。
また、明日。


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# by tizudesiru | 2018-05-22 00:09 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

万葉集3・4番歌は、もともと難波天皇の儀式歌だったのではないか

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# by tizudesiru | 2018-05-22 00:08 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか

天智天皇御代には優雅な歌、天武天皇御代には壬申の乱の後遺症

万葉集は、文武天皇のために編纂された「皇統の正当性と歴史」を伝える教育書であり、歌物語であるという立場で「すぎにし人の形見とぞ」を紹介しています。
今日は、㉙から始めます。
16~21番歌が天智天皇の御代の歌であり、22~27番歌が天武天皇の御代の歌である。そこには、詩歌はどのように詠まれているのだろうか。


万葉集巻一・天智帝御代と天武帝御代では、詩歌の編集意図が異なる


16~21番歌は、額田王4首)大海人皇子(1首)井戸王(1首)が詠んだ天智天皇の御代の詩歌で、宮廷の文化行事と近江遷都が詠まれている

*ここには百済救援「白村江敗戦」は詠まれていない。

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㉙ 巻一の「近江大津宮御宇天皇代・天命開別天皇・諡して天智天皇という」という標でまとめられ、此処に置かれている詩歌は、16~21の額田王四首と大海人皇子一首と井戸王一首である。

16番歌 「天皇、内大臣藤原朝臣に詔して春山の万花の艶(にほ日)と秋山の千葉の彩(いろ)とを競(きほ)い憐れびしめたまふ時に、額田王が、歌をもちて判(ことわ)る歌 」

17番歌「額田王、近江国に下る時に作る歌」、18番歌 反歌 

19番歌「井戸王が即ち和(こた)ふる歌」

20番歌 「天皇、蒲生野に遊猟したまふ時に、額田王が作る歌」 21番歌「皇太子の答えたまう御歌」

額田王は天智天皇の御代で大きな活躍をしていたということである。娘の十市皇女は、大友皇子の妃となって御子をもうけていた。親子ともに近江朝では幸せだったのである。

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㉚ 17・18番歌。おや、近江遷都の時、額田王が別れを惜しんだのは、天香具山ではなく、三輪山である。では、王家の本貫の山は三輪山だったと云うことになろうか。

饒速日の山だったことに。

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㉛ 天智天皇代に、額田王と大海人皇子の有名な蒲生野の歌もここに掲載されている。

20 茜さす 紫野ゆき 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る 

21 紫の にほへる妹を にくくあらば 人嬬ゆへに 吾れ恋めやも 

この歌は、天智天皇の遊猟(御猟)の時の歌である。

天智天皇の御代には、宮廷の文化的な行事の歌が掲載されている。

次の天武天皇代に詩歌はどのように詠まれているか


㉜ 天武天皇御代。次の王朝の明日香清御原宮天皇代の歌は、22~27の六首で、十市皇女が伊勢神宮に参赴する時に吹芡刀自が作った歌、麻續王が流される時の人の哀傷歌、それに和する歌、天皇御製歌、或本の御製歌、更に天皇御製歌となっている。 

22番歌 「十市皇女、伊勢の神宮に参赴(まゐで)ます時に、波多の横山の巌(いはほ)を見て、吹芡刀自(ふぶきのとじ)が作る歌」で始まる。これを当時の読み手は、どう受け止めただろう。


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㉝ 十市皇女が伊勢に参赴する時の歌

22 河の上の ゆつ磐むらに 草むさず 常にもがもな 常(とこ)処女(おとめ)にて

天武四年、大伯皇女が伊勢の斎宮となったので、阿閇皇女と共に十市皇女も伊勢を訪れた。この時、吹芡刀自が作って奉った歌である。壬申の乱後、近江朝の総大将の妃であった十市皇女が、夫を失い子の葛野王を連れて天武帝に引き取られた後に行われた伊勢神宮への参赴であった。「水量の多い河の中にある聖なる岩々には草も生えていない。その岩のように常に変わらずありたいものだ。ずっと乙女であるように」

十市皇女は常処女でいることはできなかった。それゆえ、天武7年に宮中で突然命を絶ったのだろう。天武天皇は、十市皇女の薨去に対し、嘆き悲しんだ。本来なら、近江朝の皇后となったかも知れない人の、はかない人生を嘆いたのかもしれない。天智朝を倒した天武帝は「敵将の妃だったとはいえ、娘に再び幸せになってほしい、やり直してほしい。」と願ったのか。十市皇女の運命を知る当時の人は、壬申の乱の悲劇を思い出し、胸を痛めたに違いない。


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㉞ 天武天皇の御製歌25・26番歌は、吉野からの逃亡の歌である。壬申の乱は、天武天皇にとって、人生最大の難局だったのである。

27番歌の『芳野よく見よ』の歌は、十市皇女の薨去の翌年の天武八年「吉野行幸」の時の歌である。皇太子決めをするための「吉野盟約」が行われたとされる時の歌である。然し、この後の歴史の展開を見ると「皇太子決め」だったとは読めない。ただ、天武天皇の大喜び・歓喜の歌から、吉野行幸は特別だったに違いない。それは、暗黙の裡に皇太子となっていた草壁皇子のみならず、天武と天智の双方の皇子が兄弟の契を交わして対等になった「喜びの会合」だったからではないだろうか。永年の重荷を下ろしたという…更に、大津皇子も極位を望むことができると、天武天皇は考えたとわたしは思う

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壬申の乱による後遺症の歌以外には、麻績王の流罪の時の哀傷歌がある。
麻績王がどんな罪だったのか分からないが、世の人は彼に同情したのである。
当時の人には、説明がなくとも事件の顛末は分かったであろう。このように、天武天皇代の歌に宮廷の華やかさはない。
むしろ、悲劇の歌が掲載されている。



天智帝と天武帝の御代では、編集意図が違いすぎる
天智帝と天武帝の御代で取り上げた歌の扱いは、真逆である。
短い天智朝では王家の行事が歌われ、長い天武帝の御代では「皇女の悲劇」など壬申の乱の後遺症が詠まれている。この編集の違い、これはどうしたことか。此処に、持統天皇の本音が見えてくる。


そして、これが文武天皇に伝えようとした皇統の歴史なのである。


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また、明日。

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# by tizudesiru | 2018-05-22 00:07 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

持統天皇の御代に人麻呂は登場し、天皇の傍近くで活躍した

 初期万葉集は、柿本人麻呂が編纂した。持統天皇の勅を受けて文武天皇のために「分かりやすい皇統の歴史書」として完成させたが、文武天皇の崩御により元明天皇に献上する他なかった。然し、元明天皇は激怒し、人麻呂は刑死することになった… という立場で、「すぎにし人の形見とぞ」を紹介しています。

今回は㉟からで、持統天皇の御代の歌になります。

持統天皇の御代にはどんな出来事があり、どんな歌が詠まれたのか

 持統天皇の天香具山の歌と在位中の行幸から浮かんでくる謎

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 持統天皇には常に謎が付きまとう。その代表歌を再確認してみよう。

巻一の28番歌の題詞には「藤原宮御宇天皇代、高天原廣野姫天皇、元年丁亥十一年 軽皇子に譲位  尊号太上天皇と曰」と書かれている。そして御製歌。

28 春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香久山

万葉集の秀歌であるが、叙事詩とすると『耐え忍んだ冬が終わりやっと春が来て、その春も過ぎいよいよ夏が来たらしい。氏神の香具山に神祭りのしろたえの衣を干しているではないか。やっとわたしの時代、天の香具山の皇統の時代になったのだ。』と読んだ。持統帝が実権を握ったのは晩年だったが、これから自分の思いを貫くのだという決意の表れた歌なのだ。だが、一体、いつ詠まれたのだろうか。歌の意味と即位後の持統帝の行動とがかなり結びつかないのである。


律令政治に切り替えた持統天皇は、吉野行幸を繰り返した
 持統四年(690)即位、持統帝はそれまでの天武天皇の皇親政治を止め律令による政治を目指したらしく、太政大臣(高市皇子)と右大臣(多治比嶋)の儀政官の任命をしている。自分の時代には天武天皇の政治は引き継がないと、やりたいように政(まつりごと)をするという決意の表れでもあろう。

だが、それにしては天皇が都に居ないのは何故だろうか。持統帝は常にお出かけしているのである。吉野行幸だけでも三十数回ある。他にも親しい明日香皇女の田荘に行幸、紀伊行幸や伊勢行幸と在位中に留守が多いのである。天皇が不在でも行政は役人が行うであろうが、宮廷の祭事や神事はどうだろうか。天皇の吉野行幸は多すぎて、即位後に持統帝による神事が定期的に行われたかどうか疑わしいのだ。即位は持統四年で称制期間の三年を経た後であるが、行幸の回数を見てみよう。

持統三年の三月から吉野行幸が記録されている。三年(1、8月)四年(2,5,8,10.12月)五年(1,4,7,10月)六年(5,7,10月)七年(3,5,7,8,11月)八年(1,4,9月)九年(2,3,6,8,12月)十年(2,4,6月)十一年(4月)、  年に三回から多い時には五回と、回数の多さに驚かされる。
持統天皇は、何を考えていたのだろう。


持統天皇が作ろうとした教育書は、軽皇子の為だった

草壁皇子が薨去した年、持統天皇は皇子達の教育のために「撰善言司」を置き教科書造りを始めた。何より軽皇子(文武天皇)の為であったと思われる。

持統天皇は皇子達に良い教科書を与えようとした⇒万葉集に発展したのではないか

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㊱ 
持統天皇が即位したのか、しなかったのか、様々な説がある。年表を見ると天武天皇崩御の後、三年間空位であった。そこで持統帝は何を考えたのか。持統三年「撰善言司」を置くとあるが、目的は何だろうか。

草壁皇子の死後、皇統のための歴史書・文武帝や他の皇族の為の教科書が必要だと持統帝は思った。完成しなかったのは、他の方法を考えたからではないか。持統帝は真剣に教育書が必要だと思っていたのである。万葉集は、この「教育書としての役割を担って編纂された」と私は思う。

年表から、高市皇子太政大臣に任じすべてを委ね、紀伊国へ行幸したと読むことができる。

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人麻呂は持統三年には登場し、持統天皇の傍近くで詩歌を献じ続けた

㊲ 持統天皇の御代は圧倒的に歌の数が多い。柿本人麻呂の活躍も大きい。
 柿本氏の出自は、天足彦国押人命の後、敏達天皇の御世家門に柿樹があったので氏名とした。(姓)祖は孝昭天皇皇子、天押帯日子命(記)。天武十年(681)十二月と、和銅元年(708)四月の柿本猿(佐留)との関係も論じられている。

万葉集で年次の明らかなものは、持統三年(689)の日並皇子殯宮挽歌、同十年、高市皇子殯宮挽歌、文武四年(700)明日香皇女殯宮挽歌が挙げられる。ただ、天皇に対する挽歌はない。また、人麻呂は、和銅三年以前に没したというのが定説である。

人麻呂作歌(長歌19、短歌69)人麻呂歌集(長歌2、短歌332、旋頭歌35)人麻呂の歌中(短歌3)此の数の多さから、万葉集の編纂者は人麻呂以外に考えられない。

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持統天皇の御製歌の次の歌は、近江朝を偲ぶ歌

持統天皇代、圧倒的にこの御代の歌が多いので、「持統万葉」などと「初期万葉」は呼ばれている。持統天皇代の歌を見てみよう。

「藤原宮御宇天皇代・高天原廣野姫天皇・元年丁亥十一年 軽皇子に譲位す・尊号を太上天皇と曰」とあり、「春過ぎて」の有名な歌に始まる持統天皇代の歌が並ぶ。持統帝代の詩歌の題詞をあげてみよう。{☆は、人麻呂の作歌 △は、慶雲三年(706)持統天皇崩御後の歌となる}

28番歌 天皇御製歌、

☆29番歌 近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌(長歌)と反歌二首(30,31番歌)

 32・33番歌 高市古人、近江の旧き都を感傷しびて作る歌 或る本には高市連黒人といふ

 34番歌 紀伊国に幸す時に、川島皇子の作らす歌 或は、山上臣憶良作るといふ

 35番歌 勢能山を越ゆる時に、阿閇皇女の作らす歌   ◎阿閇皇女は元明天皇

☆36・37番歌 吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌(長歌)と反歌 

◎持統三,四,五年のいずれかの従駕

☆38・39番歌(吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌)長歌と反歌 

☆40・41・42番歌 伊勢国に幸す時に、京に留まれる柿本朝臣人麻呂が作る歌 ・三首

43番歌 当麻真人が妻の作る歌

44番歌 石上大臣従駕にして作る歌

☆45・46・47・48・49番歌 軽皇子、安騎の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌 ・長歌と短歌四首

50番歌 藤原の宮の役民の作る歌

51番歌 明日香の宮より藤原の宮に遷りし後に、志貴皇子の作らす歌

52・53番歌 藤原の宮の御井の歌(長歌)と短歌

54・55・56番歌 大宝元年辛丑の秋の九月に、太上天皇、紀伊国に幸す時の歌・三首

57・58番歌  二年壬寅に、太上天皇、三河の国に幸す時の歌・二首(長忌寸意吉麻呂、高市連黒人)

59番歌  誉謝女王が作る歌

60番歌  長皇子の御歌

61番歌  舎人娘子、従駕にして作る歌

62番歌  三野連、入唐する時に、春日蔵首老が作る歌 ・大宝二年六月

63番歌  山上臣憶良、大唐に在る時に、 本郷を憶いて作る歌 ・大宝二年

64・65番歌 *慶雲三年丙午に、難波宮に幸す時 志貴皇子の作らす歌 長皇子の御歌 △  

66・67・68・69番歌 太上天皇、難波宮に幸す時の歌 ・四首(置始東人 高安大島、身人部王、清江娘子)・

70番歌  太上天皇、吉野の宮に幸す時に、高市連黒人が作る歌    ・大寶元年か?

71・72番歌  大行天皇、難波の宮に幸す時の歌・二首(忍坂部乙麻呂、式部卿藤原宇合)・文武三年

73番歌  長皇子の御歌

74・75番歌  大行天皇、吉野の宮に幸す時の歌 ・二首(或は天皇御製歌、長屋王)・大寶二年か?

  

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即位の年、持統天皇は紀伊国の有間皇子の所縁の地を訪ね、歌を詠ませた・人麻呂も紀伊国行幸に従駕していた?

 持統四年は即位の年だが九月には紀伊国行幸もしている。

持統四年(690)1月即位、2月吉野行幸、5月吉野行幸、6月泊瀬行幸、7月高市皇子太政大臣、多治比島真人を右大臣、八省百寮を選任。8月吉野行幸。9月戸籍を作らせ、紀伊国行幸。10月吉野行幸。11月元嘉暦と儀鳳暦を施行。12月吉野行幸。

 吉野行幸も不思議なのだが、持統四年(690)の紀伊国行幸も不思議である。持統帝の即位は四年一月、前年の四月に日並(ひなみしの)皇子(草壁皇子)を亡くした後、残された阿閇皇女を連れての行幸だった。

孫の軽皇子に皇統をつなぐには持統帝の即位しかなかったのである。が、その即位後の吉野行幸、紀伊國行幸とは、持統帝は即位後に何をしたかったのだろうか。行幸にどんな目的があったのだろうか。
(阿閇皇女にも有間皇子事件を知らせ、皇子の霊魂を共に鎮魂をするためだったのか)
では、朱鳥四年の紀伊国行幸を読んでみよう。
(紀伊国行幸の歌は、明日取り上げます)

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持統四年は即位の年だが九月には紀伊国行幸もしているので、ほとんど都にはいなかったことになろうか。これでは天皇としての仕事も滞ると思われ、「持統帝は即位していなかった説」も生まれようというものである。すべてが高市皇子にゆだねられ、太政大臣高市皇子が政権の中枢に座りほぼ天皇と同じ立場となっていたことになるのだろうか。そうなると、軽皇子(文武天皇)が成長した暁には高市皇子の存在がネックになるではないか。高市皇子はその権力の象徴として、耳成山を北にして藤原宮を造営している。絶大な財力も彼の手にあったのである。それが為に軽皇子の元服の半年前に薨去となったのだろうか。しかも、万葉集の高市皇子の扱いは微妙である。其の力を認めながらもどこかでおとしめているように思われるが、これは気のせいだろうか。
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また、明日。


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# by tizudesiru | 2018-05-22 00:06 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

万葉集の不思議・持統天皇は近江朝と有間皇子を偲び続けた

今日の辺りは、すでに何度か書いたことと70%ほど重なります。
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初期万葉集は、端的にいうと「持統天皇が編纂させた史書である」としてブログを進めています。長いので少しずつ紹介しています。今日は、「すぎにし人の形見とぞ」の㉟からです。
持統4年の紀伊国行幸は、草壁皇子の薨去の翌年ですから、妻の阿閇皇女は夫の草壁皇子を当然偲ぶでしょうね。

草壁皇子の妃・阿閇皇女・前年に薨去した夫を偲ぶ歌

㊵ 
持統四年の紀伊国行幸で有間皇子事件を詠んだ川嶋皇子と草壁皇子を偲んだ阿閇皇女

朱鳥四年(690)四月、持統天皇は草壁皇子妃の阿閇皇女を連れて紀伊國に行幸した。阿閇皇女は天智天皇と石川夫人(姪娘)の娘であり、後の元明天皇である。皇女は前年4月に夫・草壁皇子と死別していた。残された三人の子どもたちはまだ幼かったので、軽皇子が七歳、氷高皇女が十歳で末っ子の吉備皇女は五歳くらいだが、都に残しての行幸だったのだろうか。

 勢能山を越える時、阿閇皇女の御作歌

35 此れやこの倭にしては我()が恋ふる 木路()にありとふ 名に負ふ勢の山

 
 阿閇皇女は、背ノ山を越える時、草壁皇子を偲んだ。背ノ山を越えると紀伊国である。船で紀ノ川を下れば、背ノ山と妹山の間を抜けるとやがて川幅が広がり紀伊國の風景が広がる。

「紀伊国への路に有るという背ノ山のことは倭でも聞いていました。川を挟んで妹山と向き合っている背ノ山をぜひとも見たいと日頃から思っていたのです。これがその名のとおりの背ノ山、そうなのですね。(背ノ山をやっと見たのだが、我が身は背の君を失っているので、背ノ山と聞くと草壁皇子を思い出して切ない。紀伊國の背ノ山が川を挟んで妹山と向き合ってはいるのは、まるで川を渡れない私と夫のようではないか)」夫を失って一年、まだ皇女の歌には喪失感が漂っている。女帝と皇女は草壁皇子を偲んで紀伊国でともに泣いたのであろう。持統天皇が異母妹で息子の妻の阿閇皇女を連れて紀伊国に行幸したのは、皇女を励ますためでもあったろう。そして、もう一つ目的があった。

持統帝は未だ悲しみの癒えない嫁に、この行幸で伝えたいことがあったのだ。同じ持統四年の紀伊国行幸の時の川嶋皇子の歌が、その事を示している。川嶋皇子の歌は巻一の34首目で、阿閇皇女の歌の一首手前にある。そこには何と有間皇子事件が詠まれている。

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㊶ 
 紀伊国に幸す時、川嶋皇子の御作歌 或は山上臣憶良の作という

34 白波の濱松が枝()手向け草 幾代(いくよ)までにか年の経ぬらむ

川嶋皇子の父は天智天皇、母は色夫古(しこぶこの)(いらつめ)姉は大江皇女である。大江皇女は天武天皇の妃となり、長皇子・弓削皇子を生んでいる。

「懐風藻」伝によると川嶋皇子は大津皇子と莫逆(ばくぎゃく)の契を結んでいたが、天武天皇崩御の後の十月、大津謀反を朝廷に密告した。その事で大津皇子は死を賜っていた。この密告の年・朱鳥元年八月には、川嶋皇子は「封百戸」を与えられている。持統天皇の信任厚かったということだ。持統五年(691)にも「封百戸」を与えられているが、同年九月に薨去した。それは、上記の紀伊国行幸の翌年のことである。

皇子川嶋のこの歌は、明らかに有間皇子事件の悲劇性を詠み、御霊を慰めている。「白波が寄せる浜辺の松の枝を神に手向けるように結んで祈ったという有間皇子。あの事件からいったい何年たったことだろうか。皇子のことを思うと心が痛む。幾年過ぎても皇子を忘れることはない」という大意になる。然し…

川嶋皇子は三十年前の有間皇子事件を生まれていないので知らないはずである。が、「幾代までにか年の経ぬらむ」と有間皇子を偲んだ歌を詠み、「紀伊国に幸す時」だから公的な場で持統天皇に献じたのであろう。すると、はたまた違和感が漂う。川嶋皇子の御作歌が詠まれた持統四年(690)は、前年に皇太子である草壁皇子を失った後の行幸であるのに、草壁皇子ではなく有間皇子を偲ぶとはどういうことだろうか。

有間皇子事件を知らない川嶋皇子が、なぜ「結び松」を詠んだのか

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㊷ 川嶋皇子の歌は、天皇の行幸に従駕して献じたものであるなら、行幸先の土地を誉め旅の無事を祈る歌になるはずだが、持統四年の行幸では有間皇子の霊魂を鎮めているのだ。

この時の行幸に従駕して献じられた歌は巻二「挽歌」にも残されているが、やはり有間皇子を偲ぶ歌である。行幸の目的は、有間皇子の霊魂を鎮めるためだったことになる。題詞に『紀伊国に幸す時、川嶋皇子の御作歌。或は山上臣憶良作ると云う』とあり、歌の左下にも『日本紀には、朱鳥四年庚寅の秋九月に、天皇紀伊国に幸すという』という脚がある。『紀伊国行幸』が題詞と左脚の両方に書かれているのは、これが事実であることを強調しているのだろう。此処の朱鳥四年の紀伊国行幸に関しては、巻一には阿閇皇女の歌と二首だけしか見当たらないが、あとは巻二の「挽歌」に掲載されていて、この紀伊国行幸が有間皇子を偲ぶ旅だったのは揺るがないのである。

 また、川嶋皇子の一首(三四)とよく似た歌は、巻九の「山上の歌一首」である。

1716 白波の 浜松の木の 手むけ草 幾世までにか 年は経にけむ(巻九)

左下の脚に「或は川嶋皇子の御作歌という」とある。山上とは、山上臣憶良のことである。この年、憶良も持統天皇に従駕して紀伊国に旅をしているので、その時のものであろう。なぜ、二人の人物の名が必要だったのだろうか。元歌は山上の方だが、川嶋皇子の御作歌なら更に無実の有間皇子の悲劇性を強調する、と万葉集編者は考えたということか。川嶋皇子が有間皇子を思うという姿が必要だったということだろうか。

有間皇子の事件からは三〇年以上のかなりの時を経過しているが、大津皇子事件からはわずか四年である。その記憶は誰にも新しいはず、まして川嶋皇子には生々しい記憶のはずである。

万葉集の編集意図としては、有間皇子の無実を際立たせるために大津皇子謀反事件の密告者である川嶋皇子の歌が必要だと判断したから、巻一の「雑歌」34に川嶋皇子の歌が置かれたのだろう。それも、持統天皇の前で公的に詠んだというのである。

つまり、朱鳥四年の紀伊国行幸に従駕した川嶋皇子の歌には、『わたしは大津皇子の謀反を許さなかったが、有間皇子の謀反は無実であると知ったので、このようにあの結松を見て、何年たったのだろうかと古に思いをはせたのだ』と持統天皇に献じ、更に、『親友を裏切ったあの皇子川島でさえも有間皇子を偲んでいる。有間皇子事件は誰にも痛ましく思われるのだ』と周囲にも伝えているのだ。

それにしても、万葉集で「持統天皇の紀伊国行幸時」の詠歌となると従駕者が「有間皇子を悼む歌」となるのは、皇子の魂鎮めだけでなく、持統天皇との並々ならぬ因縁もありそうである。

わたしは度々持統天皇と有間皇子の関係を取り上げている。如何なる縁があるのかを。

持統天皇は天智天皇の近江朝を偲び、その霊魂を鎮め続けた


㊸ 
漂う霊魂を鎮めたのは持統天皇

 阿閇皇女と川嶋皇子の歌は重いが、これだけが重たいのではない。川嶋皇子の歌の前には、高市古人の二首があり近江朝を偲ぶ歌となっていて、その前には「近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂が造る歌」の長歌と反歌が置かれている。持統天皇の御製歌「春過ぎて」の後には、何と近江朝を偲ぶ歌が続くのである。そして、阿閇皇女の歌に至る。勢能山(背の山)の歌まで「失った人=すぎにし人」を偲ぶ歌が続くのである。

  高市古人(黒人)、近江の旧(ふる)き都(みやこ)を感傷(かな)しびて作る歌

32 古(いにしえ)の人にわれあるや 楽浪(ささなみ)の故(ふる)き京(みやこ)見れば悲しき

33 楽浪の 国つみ神の うらさびて 荒れたる京(みやこ) 見れば悲しも

34 白浪の 濱松が枝の 手向け草 幾代までにか 年の経ぬらむ

35 これやこの倭(やまと)にしては我が恋ふる 木路(きぢ)に有りとふ名に負ふ勢の山

高市古人は「私は昔の人なのであろうか、まるで昔の人のように昔のものを見ると様々に思い出されて悲しい気持ちになる」と近江朝を追慕した。

32~35までの歌は、古の人を思うという意味で並べられたものだろう。ここに云う古とは、「近江朝の天智天皇」と「紀伊国に護送された有間皇子」と「阿閇皇女の夫である草壁皇子」の時代で、持統天皇が繰り返し懐かしんだのはこの三人であり、近江国と紀伊国だったということ、それは万葉集の中で一貫している。持統天皇はひたすら近江朝を懐かしむのである。

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㊹ 
人麻呂は、公的な場で近江朝を偲んだ。そして、個人的にも近江朝を偲び続けた。本来なら、現王朝の臣下として前王朝を偲び続けるなんてありえない。然し、誰にも遠慮する必要がなかった。持統天皇が望んでいたのだから。


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㊺ 
巻三の人麻呂の歌の隣にある歌。264,265,266番歌を見よう。

真ん中に挟まれるのは、長忌寸意吉麻呂の歌になる。歌の中身も、場所も前後の人麻呂の歌とずれている。編集の仕方がイビツで、何らかの編集意図が働いていると思われる。人麻呂の歌は、何故か、万葉集中にバラバラになっているのである。

持統天皇の絶大な信頼を得ていた柿本朝臣人麻呂。だが、集中の人麻呂の歌はバラバラにされている。人麻呂の歌がバラバラにされた理由は、後世に再編集した為に他ならない。


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人麻呂は近江朝と難波朝の歌物語を万葉集に展開していたと、わたしは思うのです。それが分からないように、歌はバラバラにされていると思うのです。
明日は、初期万葉集のクライマックスです。そこに掲載された歌は、万葉集を考えるうえで大切なポイントなのです。
では。また明日。


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# by tizudesiru | 2018-05-22 00:06 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

柿本朝臣人麻呂が詠んだ「安騎野の冬猟」すぎにし人の形見とぞ

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# by tizudesiru | 2018-05-22 00:05 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか

万葉集を編纂した柿本人麻呂は何故死んだのか

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柿本朝臣人麻呂こそが持統天皇の詔を受けて万葉集を編纂した。と、いう立場で、万葉集巻一に何が書かれていたのか、紹介してきました。「すぎにし人の形見とぞ」の最終回です。今日は50~57までです。

宜しくお願いします。


万葉集の編纂の意図を、万葉集そのものが語る

㊿万葉集は、草壁皇子の御子・文武天皇の為に編纂されたのである。皇統の正当性、皇統の歴史を歌物語にし、 15歳で即位した文武天皇の心の拠所となるように、持統天皇が勅により編纂させた、という他はない。皇統の歴史として、万葉集には「語られなかった歴史の真実」が散らばっている。


歴史書として、万葉集を読みなおせば、そこに何が書かれているか分かるのである

書かれているのは、草壁皇子の後継者は軽の皇子より他にはいない。軽皇子こそ統治者であり、日の皇子・大王である。その皇統は正統である。
 
編纂の勅を出した持統天皇、勅に従った柿本人麻呂
初期万葉集は、持統天皇・文武天皇の時代にまとめられたものである。巻一には長歌・短歌あわせて84首あるが、うちわけは、
雄略(1)舒明(5)皇極(1)斉明(8)天智(6)天武(6)持統(34)文武・持統太上(14) 元明(8)奈良宮(1)となっている。

巻一には、「挽歌」の部立はない。だから、どの天皇の御代の歌が多いのか、挽歌を含んだ巻二の数も必要であろうか。巻二の全150首のうちわけ、

仁徳天皇代(6)斉明(2)天智(21)天武(9)持統(105)奈良宮(7)

やはり、圧倒的に持統天皇代の歌が多い。

では、持統天皇代に活躍した歌人といえば、柿本朝臣人麻呂である。やはり、編集をした人物は人麻呂以外に考えられない。

持統天皇の崩御(702)後、人麻呂は初期万葉集の編集に励んだが、数年後に文武天皇の崩御(707)となった。人麻呂は「万葉集」を献上すべき帝までうしなったのである。


文武天皇崩御後、初期万葉集は行き場を失った

52 初期万葉集の終焉

文武天皇の崩御(707年6月)の後、元明天皇即位(707年7月)。この時、天武朝は皇位継承問題で揺らいだことだろう。そこで、元明天皇が極位に着くには、相当の政治的困難があったと思われる。天武帝の皇子は多く健在であり、高市皇子の王子達もいるからである。頼みの持統天皇も既になく、元明天皇を支えた御名部皇女(高市皇子の妃)の力は大きかったことだろう。

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78(元明天皇)79(御名部皇女)の歌

和銅元年(708)戊申(つちのえさる)に天皇としての儀式をするにあたって、元明天皇は不安に襲われたようだ(78番歌)。それを支えたのは姉の御名部皇女で、大王を支えた歌(79番歌)を詠んだのである。

この年、和銅元年4月、柿本朝臣佐留が没している。

柿本佐留が人麻呂であるのなら、和銅元年に人麻呂を罰したのは元明天皇であろう。

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元明天皇は奏上された万葉集を見て動揺したと思われる。

そこに書かれていたのは、草壁皇子につながる皇統の正当性であり皇統の歴史だった。天武帝の皇子達にはゆゆしき歌集であったはずである。この時、元明天皇を支えた御名部皇女は、高市皇子の妃であった。どんなに元明天皇は支えられたか。姉の御名部皇女は「ご心配なさいますな」と妹を励まし、諸臣を抑えたことだろう。
そして、人麻呂には厳罰が下され、人麻呂は受け止めたのである。

人麻呂刑死後、初期万葉集は彷徨った

53 
万葉集の巻一の終わり方は不自然である。元明天皇の御代の歌は、即位と「平城宮遷都」関係の歌である。

巻一の最終歌は「寧樂の宮」となっていて、歌は「長皇子、志貴皇子と佐紀宮にしてともに宴する歌」の一首のみである。

 長皇子と志貴皇子の歌が並んでいたというが、志貴皇子の歌が欠けている。突然の終焉ではなく、ここにもこれ以外にも歌があったのかもしれない。巻一は最後まで第三の編集が行われているようだ。他の巻の歌の総数を見ると、

巻一(84首)、巻2(150首)、巻三(252首)、巻四(309首)、巻五(116首)、巻六(160首)、巻七(350首)、巻八(246首) 、巻九(148首)、巻十(539首)、巻十一(490首)などなど、数だけを見ると、巻一は少なすぎる。

このことから何らかの編集の手が入った結果と考えられる。それは、単なる歌の並べ替えではなく、大きな権力を持った人の意思と思考による改造であったと思う。歌を変えることはできないので並べ変えと、若干の題詞の改竄だと思われる。では、誰が手を入れたのか?


54
 
初期万葉集の編纂者は誰か、一次は人麻呂だが

二次、旅人・家持の手を経て、三次、806年平城天皇の元へ召し上げられ編集しなおされたと、考えている。

平城天皇は、万葉集の意義と歌の意味を深く知り、世に出す為に「編集して人麻呂の編纂の意味を隠した」となる。その時点では世に明らかにできないことが多く含まれていたからである。この再編集によって「人麻呂があえて編集し(事上げし)、文武天皇に歌で皇統の歴史の真実を知らしめようとしていた」肝心の皇統の正当性と歴史が読めなくなったのである。

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55 人麻呂が万葉集を編集した
その時期を元明天皇即位後と決めた理由は、文武天皇が「大行天皇」と書かれているからである。

サキノスメラミコト(大行天皇)、天皇位を下りた天子のことをそう呼ぶ。文武天皇崩御後、正式の諡が定まらない時期の奏上であったと思われる。しかし、元明天皇は拒否し、人麻呂を罰した。人麻呂はその事を受け入れた。


56
 
多くの事実が書き残され奏上された初期万葉集を、元明天皇は大伴安麻呂に託したのではないか。蘇我系の石川郎女を妻にしていた大伴安麻呂に。参議大伴安麿が薨去(和銅7年)した後、子の大伴旅人の手に渡った(旅人は父から万葉集の意図を聞き、晩年に歌に目覚める)。旅人の薨去(731)後、家持が受け取る(家持も、大伴坂上郎女と父の手ほどきで歌の道を知り、まい進する)。

家持は自家歌集を編纂し、初期万葉集のように年代順に歌を並べ、同じように歴史書として鎮魂歌集としての体裁とする。政変の為(藤原種継暗殺事件)、家持は冠位を剥奪され、死後に息子と共に島流しになる(万葉集は大伴氏の手により守られる)。

806年、平城天皇が家持の官位を復し、噂の『万葉集』を召し上げる。侍臣に命じて「万葉集」の編纂をするが、この時、家持編集の「後期万葉集」にはほとんど興味をしめさなかったので、そのまま年代順に編集されている。平城天皇の譲位により、万葉集は宙に浮いたが、長くその存在は語り継がれ、多くの文人・学者の耳目を集め、細々と書写され続けた。そうして、「古今伝授」により多くの噂と混然一体となって、「謎の歌集・万葉集」は平安時代を生き延びた。

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巻一の話のまとめ

万葉集巻一は、皇統の正当性と皇統の歴史を文武天皇に教え諭すために編纂編集された教育書である。編纂を命じたのは持統天皇であり、作り上げたのは人麻呂である。ここで、人麻呂個人だったかどうか問題であるが、彼のみが刑死していると思われるので、その罪を一身に受けたと考えている。

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終わりに

57 人麻呂の詠んだ「阿騎野の冬猟歌」が初期万葉集のクライマックスである。そして、巻一の最終歌には何が置かれていたのだろうか。

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現在残されている「万葉集」で巻一の最後を飾るにふさわしい歌は、78番歌ではないだろうか。

この歌をここに置いたのは、大伴家持か平城天皇か、それは分からないが。


「和銅三年庚戌(かのえいぬ)春二月藤原宮より寧樂宮に遷る時、御輿を長屋の原に停め、故郷を廻望みて作らす歌」

一書に云う 太上天皇御製(編集した時点で元明天皇は既に譲位していたことになる)と

78 飛ぶ鳥の明日香の里を置きていなば 君があたりは見えずかもあらむ

    一に云う 君があたりを見ずてかもあらむ    

 長屋の原は、中津道の平城京と藤原京の中間点である。そこで、御輿を停めて明日香に別れの儀式をする。でき過ぎの演出であった。

この時、左大臣石川麻呂は藤原宮に残されていた。元明天皇に従ったのは、藤原不比等右大臣である。「此処で元明天皇に泣いてもらって、藤原宮への未練を断とう」という……その演出をしたのは、藤原不比等を置いて他にはない。


 元明天皇は夫草壁皇子と吾子文武天皇の墓のある明日香を捨て平城宮へ遷都(710)した。藤原宮と平城宮の中間点の長屋の原で、元明天皇は十分に涙を流されたはずである。大きな時代の流れを元明天皇は感じられたことだろう。
 こうして、明日香は「霊魂の漂う京」となった。

時代はこのように変わっていったのである。


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と云うことで、「すぎにし人の形見ぞと」を終わります。
万葉集巻一について、何が書かれているか、十分ではありませんが紹介したつもりです。

後程、詠みやすいように「人麻呂は何故死んだのか」の掲載順を入れ替えます。

また、明日。
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# by tizudesiru | 2018-05-20 21:16 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

丹後半島・竹野川下流に間人皇后は身を隠したのか

古代の丹後半島は、高貴な人が身を隠す場所だった?
雄略天皇が兄の市辺押磐(いちのへのおしは)皇子を射殺したので、その遺児の憶計(おけ)と弘計(をけ)王が、真っ先に逃げた所が丹波国の余社(よさ)郡でした。ここから播磨の赤石郡に行き、名を「丹波小子(たにはのわらは)」と改めて、針間の縮見(しじみ)の屯倉の首(おびと)に仕えた(日本書紀)、とあります。

間人皇后も丹波国に逃げた
丹後半島の間人(たいざ)に在るのが、聖徳太子の母・穴穂部間人(はしうど)皇后の避難の伝承です。
丹後半島の北の景勝地、間人(たいざ)に行きました。

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砂浜の先に見えるのが竹野川の下流にある立岩です。
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立岩の辺りの海、夏はこのような美しい海になるのです。
立岩と向き合うのが穴穂部間人皇后の母子像です。
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用明天皇の皇后だった穴穂部間人皇后は「蘇我物部戦争」を避けてこの地に避難したと云うことです。
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まず、間人(たいざ)の役所に行きました。そこで、間人皇后の伝承と祭について聞きました。知っている人が少ないようでした。
皇后伝承の祭りは、間人町(たいざまち)の祭りではなく「個人的な、少数の家の人が続けている祭」だそうです。

役場で「間人皇后に所縁ある場所かも知れない」ところ、「御所の坪」という意味ありげな場所を教えてもらいました。
役所の方とお寺の方に教えてもらった場所は、家一軒ほどずれたでしょうか。でも、ほぼ同じ所でした。

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早速、行ってみました。
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祭の御神輿は、三柱神社から出るそうです。
奥の鳥居が三柱神社です。海からの斜面を上り詰めた所に神社があります。
「御所の坪」は、だいたい海と神社の間にあるようです。海に向かって降りましょう。

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「御所の坪」という小字(こあざ)の地名に付きました。
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そこは狭い空き地でした。集められたお地蔵さんが置かれていました。
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阿波国二拾三箇所の石塔が建てられていたので、ここにお詣りすれば二十三カ所を巡礼したことになったのでしょうね。

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お寺の奥様のお話によると、伝統の祭りを行っているのは、東さんと言う方々だそうです。祭の案内板は、先ほどの役所の筋向いにありました。

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小さな祠が水無月神社のようです。謂れが書かれていました。
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川すそ祭りは、ここの「水無月神社」で行われているようです。

祭を執り行っている人達は、竹野川を中心とした交通運輸の仕事をしていて、その神として水無月神社を祀って来たそうです。

此処に用明天皇の皇后・穴穂部間人皇后が「蘇我物部の乱」を避けて、大浜の地に避難したという伝承があると書かれていました。祭を執り行っているのは、皇后について来た供人だと云うことです。

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間人の川すそ祭の謂(案内板に書かれていること)
間人と書きて、タイザと読む

不思議のいわれを調べ、我が東氏の由来を探求しここに明文にする。水無月神社は内外の浜なる後ヶ浜川尻に鎮座す。東氏の祭神たる水無月神社は、東氏の遠い先祖より毎年七月二十八日(旧暦六月二十八日)に竹野川の川尻松林に同族相集い、夜を徹して神前に篭り、立岩厳頭に御幣を掲げ、かがり火をこうこうとたき盛大にして賑々しく、斎宮神社の桜井宮司の司祭にて祭神せるものなり。竹野川の川尻松林に大太鼓を叩く響きはしょうらい(松風の音)と共に木霊し、善男善女の参拝は引きも切らず、また妊産婦の参拝は特にに多し、露天は軒を並べ、客を呼ぶ声も高く世の更けるを忘るる程なりしが、敗戦後は髪を軽んずる風潮を生み我が水無月祭も疎となりたり。されども、東氏の遠き祖先より祭事せるものを廃断するは誠に遺憾にして、祖先に対し相済まぬ儀と心得、またこの伝統ある祭事を子孫に伝える義務ありと思料し(中略)神社を行者岩の境内地に昭和51年11月6日千遷宮せるものなり。

間人に於いて各種氏姓あれど一つの氏のみが一つの神事をし、年に一度同族が相集う行事は吾ら東氏のみにして他姓にはなし。

東氏のみが何故何時のころからかかる行事を行いしにや不明なれど、古き昔より口伝を以って相伝え今日に至れるものなり。水無月神社は東氏のみにて祭事せるも、その講中に只一人異姓に者あり。泊氏なり。何故泊氏が東氏請中に加わりしにや不明なれど、往古よりともに祭事す。‥‥我が間人は第31代用明天皇の御后穴穂部間人皇后を通じ大和の国斑鳩の宮との所縁あり。東氏の祖先を明らかにするため古事記、日本書紀またその他の文献より左に明文する。

10世紀の和名抄には間人、大日本地名辞典には「間人は愛人のこと」、土師人の意かとも言い、15世紀の一色軍記には「対座」とあり、丹後旧記には田伊佐津とある。現在の定説は、間人村濫觴記なり。(前掲)東氏の鼻祖は東漢直駒の後胤にして、千余その血脈は二流三流に別れ連綿として繁茂せり。また木目見宿祢は相見となり、浦田麿の子孫は谷、上谷、下谷、小谷と称し、下戸部は下戸に、穂見中江麿は中江に、中臣スグリは中村となる。その外記するに枚をもて挙げるべからず。千余連綿として子孫の繁茂黄するはみな鼻祖の余訳なるべし。水無月神社の祭りを司っている。
上記のように案内板に書かれていました。

「間人(たいざ)がに」で有名な「間人(たいざ)」ですが、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)ゆかりの旧跡であると、「丹後町史・間人村濫觴記録」が伝えているそうです。

聖徳太子の母であり、用命天皇の后であった間人皇后が、夫の死後、蘇我馬子と物部守屋の争いに巻き込まれ、丹後の地に難を避けて、大浜の里(現在の間人村)に滞在したそうです。
この時、間人皇后に仕えて同行した中に、後に蘇我馬子の命令で崇峻天皇を暗殺し、その後天皇殺しの罪で蘇我馬子に惨殺される東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)がいました。東さんはその末裔と称されているそうです。

聖徳太子と蘇我馬子に物部守屋が滅ぼされて、間人皇后は大和の地へ戻ることになり、その時、大浜の里を離れる時に三首の歌を残されました。

大浜の あら塩風に 馴れし身の またも日嗣(ひつぎ)の ひかり見るかな

大浜の 里にむかしを とどめてし 間人村と 世々につたへん

大浜に つとふみやこの ことの葉は 行末栄ふ 人の間人

間人皇后が大浜の里を退座するのに因んで、間人(退座)村と宛名したと、「間人村濫觴記録」が伝えています。間人=はしうど(はしひと)と呼んでは失礼だというので、「退座された地」と云う意味で「たいざ」とよぶことにしたのだそうです。
残された三首を見ると、後の世の人が作歌したとも思えますが。

日本書紀では、
敏達天皇の十四年(585)八月、敏達天皇崩御。九月、用明天皇即位。
用明天皇一年(586)穴穂部間人皇女を立てて皇后と為す。
  二年(587)四月、天皇、仏教への帰依を詔す。天皇崩御。

   六月、蘇我馬子、炊屋姫尊を奉じ、穴穂部皇子と宅部皇子を殺させる。
   七月、蘇我馬子、物部守屋を滅す。
   八月、泊瀬部皇子(崇峻天皇)即位。

上のように展開していますから、穴穂部間人皇女が間人(たいざ)に逃げたのは、587年の5月(6月)から8月の間と云うことになりますね。
皇后が大浜の里に滞在したとしても、三ヵ月ほどになるでしょう。

間人(たいざ)の間人(はしひと)皇后は、用明天皇の妃でしょうか。

穴穂部間人皇后は、直接「日嗣・皇位継承」に関わってはいないように思います。馬子は後の推古天皇を奉じていますし、間人皇后は用明天皇崩御後に用明帝の長子の田目皇子の妃になっているからです。

田目皇子の母は、蘇我稲目の娘・石寸名(いしきな)です。用明天皇の母は稲目の娘・堅塩(きたし)媛でした。用明天皇は、叔母を殯として迎えたのですね。蘇我系の皇子に皇位継承権があったようですね。
 
欽明天皇の有力な皇子皇女の出自は、ほとんどが蘇我氏となっています。

欽明紀では、蘇我稲目の娘・小姉君が生んだのが、埿部(はしひと)穴穂部皇子で兄、即位した崇峻天皇=泊瀬部(はつせべ)皇子は弟になります。書紀の欽明紀では「はしひと」を埿部と表記しています。

古事記では、間人穴太部(はしひとのあなほべ)王、長谷部若雀(はつせべのわかさざき)命となっていますが、埿部穴穂部皇女に当たる女性としては三枝部穴太部(さえぐさのあなほべ)王=須賣伊呂杼(すめいろど)、ですかね。
 
古事記・日本書紀では、人名表記に差異があります。これは、元の資料が違っていると云うことですね。

では、本題です
間人皇后はなぜ丹後半島に逃げたのか
確かに、穴穂部間人皇女も、兄と弟の皇位継承問題にかかわって身の危険を感じたかも知れませんね。それで、三カ月ほど逃げた…ですかね。
(それにしても、田目皇子の妃となったのは何故でしょうか。蘇我系の皇女は外に出さない、外の氏に「皇位継承者の血統」は渡さないという蘇我氏の意思なのでしょうか。「血統こそが財産」の時代ですからね。)

それとも、穴穂部間人皇后ではなく、有間皇子事件を目撃した中皇命(間人皇后)が皇位継承の御璽を持って、兄の中大兄皇子から逃げたのでしょうか。
数年後、見つけ出されて連れ戻されて、その後…薨去となり、葬儀の後に母の斉明帝と合葬され、遂に中大兄皇子が即位した、と云うことでしょうか。
そうであれば、
大浜の あら塩風に 馴れし身の またも日嗣の ひかり見るかな

「またも日嗣のひかり見る」この別れの歌の意味も分かる気がするのですが。

では、この辺で。


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# by tizudesiru | 2018-04-27 20:30 | 346丹後半島に間人皇后の足跡を追う | Trackback

九州の影響を受けた赤坂今井墳丘墓・古代の丹後半島に残された謎

丹後半島には古墳時代前期からの墳丘墓が残っているそうです。
その初期古墳には、木棺に丹が使われ、鏡が副葬されています。つまり、それらの古墳は「鏡文化圏」の墓だと云うことです。
もちろん、近畿には弥生時代の鏡は出土しませんから、古墳時代前期に「鏡文化圏」の影響を受けたと云うことになります。
では、

丹後半島の初期古墳「赤坂今井墳墓」を紹介します
墳墓と呼ぶのは「この墓は、古墳時代のものではない。もっと古い墓だから古墳とは区別するので墳丘墓だ」の意味があるからです。
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さて、そこまで古いのでしょうか。

方形の墳丘に竪穴慕があり、木簡に朱が用いられ、勾玉の装飾品を身に着けた人が眠っているという、赤坂今井墳墓です。

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墳丘の上には伐られた木の切り株が残っていました。

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副葬品を見ると、鉄刀がありますが、「素環頭大刀」でも「素環頭刀子」でもありません。鉄刀です。
ですから、ここは弥生の墳丘墓ではありません。
然し、朱を用いているので、九州の弥生文化の影響を受けていると思います。

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丹後半島やもっと広い範囲の丹波國の墓から出土した鏡は、「倭製鏡」とされています。国産なのです。鏡を欲しがった人の為に、何かを熔かして作ったのです。丹波國の近くにこの時代の銅山はありませんから、手持ちの銅製品を熔かして国産の鏡をつくったのです。

その製作時期ですが、大量に銅製品が丹波に持ち込まれた可能性として「女王国と狗奴国の戦争」の後が考えられます。敗者が船で祖先から伝世の銅製品を持って移動したと。

鏡制作者は、景初三年(239)の女王卑弥呼の魏への遣使を知っていました。丹波国で出土する「青龍三年」銘の画文帯環状乳四神鏡、「景初四年」銘の斜縁盤龍鏡など、その知識を持って製作したのでしょう。
(斜縁盤龍鏡の「斜縁」とは、「三角縁神獣鏡」のように縁が三角になったもので、三角縁との違いはあまり分かりません。)

しかし、卑弥呼の遣使年・景初三年(239)に少し遅れるという意味で「景初四年」としたのでしょうが、実は景初四年は存在せず「正始元年」に変わっていたという事実を鏡制作者は知らなかったのです。


「景初四年」銘の鏡が出土したのは、由良川流域の「広峯15号墳」(前方後円墳40m)です。副葬品が多いわけでもなく鏡・玉・鉄剣などで、埴輪も葺石もありません。
専門家は、首長墓かどうかも疑わしい、としています


でも、由良川は福知山から大阪に通じ、昔は勅使も通う交通の要衝でした。古代も重要な交通網に入れられていたと思います。ここを拠点にした豪族は豊かだったのです。
古墳時代の豪族が、最高の物を墓に入れようとして手に入れた「鏡・玉・剣(鉄)」は三種の神器に通じ、九州の弥生文化にルーツがある三点でした、ということですね。

丹後半島の旅で最初に訪れた元伊勢の皇大神社も豊受大神社も由良川流域にありました。
由良川水系には、大川神社もあります。
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(由良川流域の大川神社
立派な社殿の大川神社(延喜式内名神大社)です。由良川が、古代より「大川」と呼ばれたと云うことですかね。では、ここが幹線道路の拠点であり、由良川が最重要河川だったことになりますね。

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豊かさを象徴する社殿でした。

甕棺・壺棺を持つ墳丘墓
由良川水系の前期古墳には、組み合わせ式石棺のみではなく、木棺、壺棺、何と甕棺があるのです。宝蔵山4号墳(方墳・東西25m南北20m)など。

何と甕棺です。それも4世紀後半です。
九州の甕棺の伝統がここまで及んでいるのです。
わたしは納得しました。
丹波国は海運を通して、北部九州と深い関係にあったと。九州からの大きな波は、3世紀後半から4世紀前半にかけて押し寄せた。それから、5~6世紀にかけて大きな波が押し寄せた、と。
まず、由良川水系に入り、それから竹野川水系の奥深くにも入り込んだ。その中で有力者が丹後半島の有力者と結びついて阿蘇海にも顔を出したのではないか。
色々なことを思いました。
丹波国には歴史のトビラを開く大きなカギが散らばっていましたね。
温泉も豊かだし、景色もよかったですね。

明日は、間人の穴穂部間人皇后伝承についての紹介です。
では、また。
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# by tizudesiru | 2018-04-26 12:10 | 335丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

網野銚子山古墳と福田川流域の浦嶋子伝承と宇良神社

網野銚子山古墳に道案内をしてくれたのは、竹野の姫達でした
竹野川と福田川流域の大型古墳の距離は10キロ
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道案内のおかげで、どうやら辿りつきました。
網野銚子山古墳は発掘中でしょうか。ブルーシートがかかっていました。
前方部にトレンチを入れているようです。改葬されたのかや、もともとの墳形や版築技術などいろいろ分かることでしょう。

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(網野銚子塚古墳・前方部)
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前方部の木立の中を歩くと、後円部が見えてきます。
発掘調査のトレンチに被せたシートが見えています。
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後円部に着くと網野町が一望できました。
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此処からも日本海が見えます。古代には傍まで海が迫っていました。
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ここからは、丹後地域特有の円筒埴輪が出土しています。
丹後地方に特有の円筒埴輪です。
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網野銚子山古墳は、神明山古墳から10キロ、黒部銚子山古墳や大田南古墳から6キロ、赤坂今井古墳から5キロほど離れているだけです。

埴輪を持つ古墳は、竹野川・福田川・野田川流域にあります。

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地図を見ると、野田川流域に特に「埴輪を持つ古墳」が集中していますね。
天橋立のある阿蘇海に流れ込む野田川流域の人が、より多くの富を築いたのです。
浦島児(うらのしまこ)伝承や羽衣伝承は、阿蘇海周辺以外の丹後地方の伝承ですから、阿蘇海の人々を見た人々は別世界へのあこがれを強く持ったのでしょうね。

網野銚子山古墳の傍にも、浦嶋子伝承地

此処にも竹野川の羽衣伝承と同じような「浦嶋子伝承」があります。
網野銚子山古墳の前方部の前の空き地は、「浦島児の宅址の伝承地」となっていました。この古墳の西を流れる福田川の河口には、浦嶋子を祀る「島子神社」がありました。

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浦島児は此処で玉手箱を開けたのだそうです。
古墳の前方部の裾の空き地です。


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此の空き地が浦島児(うらのしまこ)の住いの址なら、彼の系譜は網野銚子山古墳の関係者なのですかね? 
豊かな世界を夢見て船出して乙姫様の愛を得たのに、約束を破って失敗してしまった…この辺りの首長の話なのでしょうか。
では、海の向こうの豊かな国とは何処なのでしょう。

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網野町の島児神社は、海辺の小さな社でした。
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浦嶋子を祀る神社は丹後半島にもありました。
伊根町の浦島神社です。
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ここは式内社ですね。
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元宮はこの田んぼの水溜まりの辺りに在りました。現在の社殿と50mほど離れています。立派な社殿を建てかえられた宇良神社は、大事にされているのですね。
相殿神は、月讀命・祓戸大神でした。

海辺ではなく高所に社殿を置いたのは、津波や高潮を避けたのでしょうか。


丹後地方の伝承は、風土記ができる以前の状況を反映しているのです。古代、素晴らしい国が何処かにあって、人々はあこがれていた。その国の王は海神だった。豊玉彦なのですかね?

豊玉彦って、九州の神話の神様ではありませんか? 
鏡だけではなく伝承も神様も、九州とのかかわりは深かったと思います。
では、今日はここまで。

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# by tizudesiru | 2018-04-25 12:00 | 335丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

羽衣伝承の天女は天(あまくに)から来た! 竹野川流域の伝承

竹野川流域の羽衣伝承と奈具神社
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羽衣伝承が、天の橋立のある宮津市の奈具神社に残っています。ここが延喜式内「奈具神社」だと主張されています。

丹後国には、同じ名の神社が竹野郡(京丹後市)にもあります。

『延喜式神名帳』にある「奈具神社(丹後国・竹野郡)」に比定される式内社は、どちらで、本当は何処にあったのでしょうね。

伝承は、天から下りて来た女性のかわいそうな物語です。
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上は、「丹後古代の里資料館」の紹介文です。
他にも、丹後半島を紹介した本には、次のように書かれていました。


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『丹後国風土記』の羽衣説話の舞台は、丹波郡の比治里にある真名井と名づけられた清泉である。ここに天女が八人降りて来て水浴したというのである。これを目にした老夫婦が一人の天女の羽衣を奪ってしまい、自分たちの娘になることを強要する。その後、老夫婦と共に暮らすことになった天女は、万病に効く酒をつくり、そのことによって老夫婦を豊かにさせる。すると、老夫婦はもう娘は不要であるといって天女を追い出してしまうのである。天女は怒りにふるえ各地を放浪し、最後に竹野郡船木里の奈具村にきて、『此処にして、我が心なぐしく成りぬ』といって、ここに留まった、というのである。そして、これが竹野郡の奈具社に鎮座している豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)であるとしている。

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さて、
竹野郡の奈具社に鎮座としても、加佐郡(宮津市)に鎮座としても、加佐郡と竹野郡(京丹後市)では離れすぎているのです。そこで、二つの神社を直線で結んでみました。


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すると…驚きました。
籠(この)神社の奥宮真名井神社の清水の辺りを通り、驚いたことに眞名井神社の裏山の成相寺の本堂を直線が通りました。そうだったのかと思って、画像を紹介しました。
籠神社の元宮は奥宮真名井神社でしたよね。
祭祀線を引く場合、棒は立てますが古代は当然目測です。見晴らしのいい場所が選ばれると思います。成相寺の辺りは、祭祀線を引く場合の祭祀点となったのでしょうね。

後の世になって、その神聖な場所にお堂が建てられた思います。
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(成相寺の本堂・このお堂の上をラインが通ります)

さて、羽衣伝承の意味ですが…
羽衣伝承は日本各地にあります。大分県日出(ひじ)町真那井にもあります。
共通しているのは、天女はその土地の生まれではなく他所(天アマ)から来たと云うことです。天の羽衣ですから、「天国(あまくに)」から高貴な女性が来たと云うことです。アマ国は特別の国であり、憧れの国でした。

そんな憧れの国から、姫たちは何ゆえに全国に散らばったのか!?
高貴な女性が婚姻という理由でもなく移動した、何とも意味深です。
彼女たちが天(アマ)国から各地へ散らばった理由として考えられるのは、避難か逃亡か亡命などでしょう。

アマ国に何事か起きたので移動を余儀なくされたと、わたしは考えました。

高貴な姫を迎えた人々は、「この娘は使い勝手がいいか」を判断したのです。


自家の血統を高貴なものとするために子どもを産ませるか・自家の経済を支える技術を提供させるか・娘として有力者の嫁に出し我が身の出世の道具に使うか、などなど。

わたしには美しい羽衣伝承など考えられませんでした。
アマ国の姫たちは若い時は大事にされたけれど年を取ったら不要になった話と、縁を切って自国に帰った話など、似た話が各地に在るのですが、共通するのは姫達がよそ者ということです。


では、姫たちの出身地・天国は何処なのか。わたしの答えは一つです。

そこは九州から山口県にかけての倭国。姫達は、倭国の政変と王家の滅亡と言う困難に出くわした倭五王家の関係者です。
わたしはそう思います。


羽衣伝承について、あなたは、どう思いますか?


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# by tizudesiru | 2018-04-24 12:00 | 335丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

丹後半島の大田南古墳・方格規矩四神鏡に青龍三年の文字あり

青龍三年(235)が刻まれた鏡は、竹野川流域で出土した
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この鏡は、卑弥呼の時代のものでしょうか。
この地の豪族の墓からの出土ですから、この鏡は卑弥呼の時代の状況を教えてくれるのでしょうか。
では、鏡の出ない畿内と結びついたのではなく直接中国と交流した? または、北部九州を通して交流した? それとも、後世に「青龍三年」という年号を刻んだ紀年銘鏡を造った?…いずれでしょうか。

大田南古墳(京丹後市弥栄町・峯山町)を訪ねましょう。
そこは、竹野川の河岸の丘にありました。

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川岸の丘陵の上に大田南古墳群25基がありました。
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大田南5号墳は残されているのですが、土取り作業があっていて見学不能でした。事業者の方に古墳の位置を教えてもらいました。

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(指先の木立の丘に大田南5号墳があります)

この丘陵には、近世の砦址(矢田城跡)があるという認識で土取りの前に調査をしたのだそうです。
すると、近世の柱の下から古代の石棺が出土し、そこに鏡があったので急きょ土取り箇所が変更され、大型古墳を潰して小型の大田南5号墳が残されることになったのだそうです。
「で、その大型古墳は何処にあったのですか?」
「そこですね。」
と教えられた場所は、大きな空間でした。つまり、もうすでに消滅し空中に幻の古墳(大田南6号墳)となっていました。


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(消滅した6号墳・古墳時代前期後半・石釧・鉄製刀子・ノミ、針状の鉄製品を出土)
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(レンタカーの後ろの空間に幻の大田南6号墳があった)

というわけで、案内板をカメラに納めました。

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残された写真を見ると、大田南5号墳が一番高所に在ります。最高の待遇と云うことでしょうか。ここではほぼ同じ氏族の古墳が営まれたということですね。一族の最高位を5号墳の被葬者に譲った、となります。

2号墳からも画文帯環状乳神獣鏡が出土していますが、やや低い位置に墓が造られていますね。

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5号墳の方格規矩四神鏡については、現在では日本製との見方が有力です。
同じ鏡が、安満宮山(あまみややま)古墳・大阪府高槻市からも出土しています。


確かに、文様も日本的だと思います。ですが、「青龍三年」という紀年に意味を見出した豪族だったと云うことです、5号墳の被葬者は。

後の世になって「青龍三年」を選んで鏡に刻ませたのですから、その年号の意味を承知していたのではないでしょうか。

2号墳の被葬者も画文帯神獣鏡を得ています。この鏡の鈕は、「龍」なのです。ただの紐を通すだけの「鈕」ではありません。このような鈕は他に例がないそうです。

竹野川を治めたであろう豪族は、過去の権力者の動向について知識があったと思います。もちろん、北部九州の出来事も権力の移動や興亡も知っていたでしょう。
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(大田南2号墳から出土した画文帯環状乳神獣鏡)

大田南古墳群の被葬者達は、支配していた竹野川を見下ろし、自分の領地(弥栄町と峯山町)をみて長い間そこに眠っていました。

5号墳は組み合わせ式石棺で、2号墳は木棺です。彼らの時代、竹野川中流域の豪族は、鏡の文化にあこがれていたのでした。すると、どの地域から手に入れた鏡でしょうか。
気になるところですね。

明日は、竹野川流域の羽衣伝説を紹介します。
では、また。

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# by tizudesiru | 2018-04-23 11:58 | 335丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

竹野川流域の古墳・黒部銚子山古墳

丹後半島の竹野川流域に、大型古墳を見ました。
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黒部銚子山古墳でした。そばを竹野川がゆっくりと流れていました。
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案内板がありました。黒部銚子山古墳は、古墳時代中期の築造、105mでした。
ここに大型古墳四基の紹介がありました。黒部銚子山古墳以外は、
神明山古墳(190m)、蛭子山古墳(145m)、網野銚子山古墳(198m)でした。神明山と黒部山は中期古墳で、蛭子山と網野銚子塚古墳は前期だそうです。前期と中期の違いは、何から導かれたのでしょうか。

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四基の古墳を比べると、前方部がバチ型に広がっている古墳が中期とされ、柄鏡形のように前方部が広がっていない古墳が前期とされています。
 
この形態の変化は九州と同じです。九州も柄鏡形の古墳が古く、前方部がバチ型に広がる古墳の方が新しいのです。


しかし、近畿では一番古い古墳とされるのは「箸中山古墳」いわゆる箸墓ですが、バチ型の古墳として有名ですね。箸墓は発掘されていませんから何とも言えませんが、バチ型より柄鏡形の墳形の方が古いので、箸墓は前期ではなく中期の古墳だとわたしは思います。

網野銚子山古墳の近くに在るのが、大将軍(だいじょうご)遺跡でしたね。
昨日の続きですが、ここは「埴輪の捨て場」とされる遺跡です。

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網野銚子山古墳の400mに位置する遺跡です。
埴輪が壊れたので捨てられたという遺跡は珍しいですね。写真を見ると、なるほど大量に捨てられています。これは、埴輪造りの技術者が製作に失敗したというのですが、わたしは古墳の改葬があり、装飾品の入れ替えがあったと思うのです。被葬者の交替もあったかも知れません。
つまり、網野銚子山古墳や神明山古墳の築造時期は、大将軍遺跡から分かるかも知れませんね。


見ると、キヌガサ(蓋)形埴輪も出土もあります。この大型のものがメスリ山古墳にもありましたし、九州では磐井の墓と云う岩戸山古墳にも石製品(博物館所蔵)としてありました。

円筒埴輪に直弧文が描かれていますね。九州では石棺や石障に直弧文が刻まれた例が、福岡・熊本に数例ずつあります。
石人山古墳・浦山古墳・井寺古墳などの有名古墳です。
直弧文は首長墓に使われた文様だと思います。

九州では弥生後期に環濠集落が突然終わる時、環濠に完品を含む大量の土器が捨てられるという多数の例がありますが、埴輪の破棄は驚きです。


それにしても、気になるのは、竹野川流域の古墳は、上・中流の方が古いと云うことです。

竹野川の上流から先に発展したようです。
竹野川の上流は、山を越えると宮津湾側に出ることができます。阿蘇海側の有力者が竹野川に進出したのかも知れませんね。
大宮賣神社のある大宮町の「大谷古墳」中期前葉古墳、弥栄町の「大田南古墳」前期古墳です。


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(大谷古墳の副葬品と石棺)
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(大田南5号墳の石棺)
大田南5号墳からは、「青龍三年」(西暦235年)の年号がある方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)が出土しています。将に卑弥呼の時代の鏡ですね。

大田南古墳にも行ってみました。
明日、報告しましょう。
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# by tizudesiru | 2018-04-22 19:33 | 335丹後半島に古代の謎を追う | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
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159草壁皇子の薨去の事情
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163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
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168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
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179天武帝と持統帝の溝
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181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
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183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
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191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
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318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか

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