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法隆寺釈迦三尊像のクローンが語る歴史

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東京藝大のスーパークローン文化財展が福岡県大野城市のふるさと館であっています。法隆寺に行ってもなかなか近くで見ることはできません。まして、横からとか後ろからとか見ることはできません。藝大が製作したクローンですから、存分に見ることができました。
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もちろん横から見ました。驚いたことに、脇侍の仏像は耳から後ろはないのです。
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レリーフとは言いませんが、背中も後頭部もないのです。正面から見ると立派な金銅像ですが、横から見ると違うのです。
すごく感動しました。この合理性と技術は何処にあったのだろうと、俄かに興味をそそられました。
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優し気な微笑は、素晴らしいですね。美しい御手や御足の表現に感心するばかりです。
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優しいお姿は金具でしっかり留めてありました。よく見ると、木材でしょうか、留め金が緩まないように金銅像の内側には木材のようなものが見えました。この木部の材料は何だろうかと、またもや、興味が湧きました。

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左右対称のようで、若干変えてある微妙なひだの重なりもしみじみと見ました。
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釈迦三尊像の台座の請花と反花の部分はクスだそうです。なぜ一部分だけなのでしょうか。
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この仏像は、いつ、どこで、どのように造られたのか、きっと語っているはずです。
物言わぬ微笑の中に、像製作の技術の中に、そして光背の文様の中に、その答えがあるはずです。
ひとまず、質問を書いて帰りました。
答えがメールで送られるそうですが、楽しみです。久しぶりに外に出ました。楽しかったです。
では、またお会いしましょうね。




# by tizudesiru | 2021-02-11 22:47 | 法隆寺 | Trackback

纏向遺跡の大型建物は、東ではなく、西に向かって建てられていたのではないか

倭女王卑弥呼はどんなところに住んだのでしょう。
NHKが取り上げていた纏向遺跡の大型建物がありました。あの辺りは、始めは柿本人麻呂の屋敷跡ではないかと思って掘っていたそうですね。
細い柱の住居の復元図の柱跡が、たまたま東西に並ぶので「!!卑弥呼の住居ではないか?」として、マスコミを巻き込んで話題になったのでした。
もちろん、全て発掘したのではないし、建物があったと予想される場所は、後世に削平を受けていて大型建築物の大きさは想像なのです。また、大きな溝に大型建築物の柱跡そのものが切られていて、全貌はついに不明のままです。卑弥呼の館として人々が出入りしていたというのですが。まず、この建物を一連の構造物として認めたとしても、東の太陽を拝していたとは思えません。目印になる纏向山とはずれていますから。むしろ、逆で西の小建物が神殿で、拝殿が続き、神官の住まいや集会所が大型建物として続くと考えたが自然です。つまり、西向きの建物群と見えるのですが、どうでしょう。
又、大型建物の柱穴は小さいし、柱と柱の間が4m以上もあれば、大型建物を支え持ちこたえることはできないでしょう。だから、神殿というより住居としての建物だったと思うのですが。もちろん、祖先の為に祭礼をしていたと。
何より大型建物を支えた柱穴の深さが15cmから30cmと、非常に浅かったのです。是では建物を支えられないので、復元図には50cmの基壇が付けられています。当然、60cmくらいの深さが必要ということです。建築家の目を通しても、柱穴が浅いのです。
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報告書でも纏向遺跡のこの辺りには、「生活の跡」が ないそうです。だから、「ここは祭祀場だから人が住まなかった」大量の桃の実は「祭祀に使われた桃だ、きっと!」と、騒がれました。しかし、祭祀用の土器の器台とか、木製の器台とか、、発掘で出ていません。魏志倭人伝にも、桃の実を使って祭祀をしたとか、占いに使ったとか、一切書かれていません。占いに使ったのは、鹿の骨などです。「ゴミ捨て場」と言えば、それまでで気の毒ですが、それらは捨てられていたものです。近くに桃畑があったようで桃の花粉が出ています。纏向では、桃を祭祀に使ったとしてもいいのですが、倭人伝と齟齬が生じる結果になるので、まずいかなあと思うのです。
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しかし、私は纏向遺跡そのものを否定しているのではないのです。ただ、卑弥呼の館ではないと思います。上の画像は、最近整備された纏向遺跡です。もはや想像が形になっています。私は遺跡に二本のラインを入れてみました。赤はこの遺跡の東の建物から履中天皇陵に、ピンクのラインは近くの穴師坐兵主神社(式内名神大社)から仁徳天皇陵に引きました。東西のラインです。この二つの大型古墳が大型建物を知っていたらどうなるだろうと、思ったからです。
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庄内式土器が出るという辺りで、石塚古墳を横切りました。この赤とピンクのラインは、古代では東西ラインになりす。千年以上時間が立って居るので、真東が若干ずれているのです。このラインが有効なら、大型建築物は西に向かって石塚古墳や矢塚古墳を祭祀したとなりましょうか。
石塚古墳は全長約99mの前方後円墳で、墳丘盛り土や周濠から土器のほか、鋤・鍬・建築部材・鶏型木製品・弧文円板などの木製品が出土しています。埋葬は三世紀後半という見方もあるそうです。
石塚古墳の西隣にある矢塚古墳も纏向型前方後円墳です。埋葬施設など分かっていませんが、箱式石棺か竪穴式石室の可能性があるそうです。ここは須恵器が出ているので、古くはないでしょうね。楽浪系土器も韓系土器も出ない纏向に邪馬台国の可能性は薄いと近畿の方が言われていました。
それより、どうして王権が発生したのか、考えてほしいです。
五世紀までの大阪は水の底でした、大部分が。淀川をさかのぼった京都府山城も南には巨椋池があって、大湿地帯でした。そこで、人々はどのようにして権力を手にしたのでしょう。
人が住んでいなかった纏向に、急に人が集まったのは何故でしょう。移動するメリットがなくては、人は集まりません。
鉄は、人の移動と共に持ち込まれた。銅も大量に持ち込まれた。その原動力となったのは何なのでしょうね。
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これは、大阪のホームページの画像です。正直、上町台地に家があっても、農業はできません。水を抜いて田圃を手に入れるのが先です。それをやり遂げた者は、莫大な土地を手に入れたでしょうね。しかし、大阪は長い間大湿地地帯でした。五世紀の古墳時代になっても治水に苦労したでしょう。

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纏向遺跡の大型建物の柱穴だけが四角なのは、神殿だったから。神殿の柱穴も特別に四角なのだという説明がされています。
柱穴が四角になるのは、八世紀。少なくとも七世紀の後半からだそうです。では、掘っ建て柱だった第一次難波宮の柱穴は、わざわざ四角にそろえてありますか?
むしろ、纏向の大型建物は、時期が新しいと考えたがいいのではありませんか。

城柵も物見やぐらもない卑弥呼の居館はありません。倭人伝には矛で厳重に守られた館に卑弥呼は住んでいた、と書かれています。
纏向の開放的な大型建物は、卑弥呼の館ではないと思うのです。


# by tizudesiru | 2021-01-08 14:56 | 384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ  | Trackback

筑紫平野に訪れた弥生時代の大型甕棺の消滅と古墳時代の異変・小郡埋蔵文化財センター

邪馬台国サミットで存在感を示していた片岡宏二さんが仕事をされているのは、筑紫平野の小郡市埋蔵文化財センターです。御顔は存じ上げていましたが。

小郡市は、津古生掛古墳という初期の古墳があったので有名です。近隣に住む人には、「ここが卑弥呼の墓だ」と言われる方もおられました。そのくらい古かったそうです。しかし、開発のために、もう破壊されています。私は「なんで壊したの?」と、学芸員さんに聞いたことがあります。答えは「残念です…」でした。
大事なものは、いい場所に在ります。大事な土地にあるのです。だから、残されません。残念ながら、各自治体には国の援助が少ないので残せません。
もちろん国の援助を潤沢に受けている遺跡はあります。しかし、九州には少ないのです。世界遺産に血道をあげるはずですね。遺跡も生き残らねばなりませんから。
小さな自治体は、既に金銭的に切られていますから。もう、埋蔵文化財に未来はありません。
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小郡市は、交通の要衝にあります。長崎佐賀方面、大分方面、熊本方面に向かうには通過点です。それは、古代にも同じだったでしょうね。
津古生掛古墳からは、埴輪は出ません。埴輪の前の段階の古墳なのです。ですが、鶏型二重口縁土器が出土しています。
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津古生掛古墳の後に続く時代は、実は、断絶しているのです。住居跡が忽然と消えて、人々がいなくなったのです。何かあったのですね。
もちろん弥生時代は、中期まで大型甕棺の時代で、大いに栄えていました。そのあと、大型甕棺が急速に消滅しています。筑紫平野は幾度となく大変化に襲われたのです。人々は何処へ移動したのでしょう。古墳時代にも同じようなことがあったのです。人々は、どうなったのでしょう。
津古生掛古墳の時代の後に空白があって、古墳時代がやって来るのですが。やっぱり、大型の須恵器の甕の時代です。
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では、弥生時代に戻りましょう。邪馬台国サミットの話のつづきをするつもりでした。
さて、片岡さんは邪馬台国連合の国は、北部九州だという主張をされていました。
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確かに倭人伝には、「絶えて、海中、洲島の上にあり。或いは絶え、或いは連なり、周旋、五千余里ばかりなり」とありますからね。北部九州にあった邪馬台国は狭いのです。
「女王国の東、海を渡って千里で倭種の国がある」とかいてあります。九州の東には、海を渡って倭種の国があるのです。
女王国の北には「伊都国があり、一大率の役所が置かれていた」し、中国や半島との往来、文書や賜遣のものなど検閲していたのです。
伊都国から遠すぎるところに女王国があるはずはないのです。伊都国の北は海です。女王国は伊都国の南に有ると魏書に書いてあります。

私たちは、魏志に書いてあることをことごとく否定していいのでしょうか。魏志に真実はないというのでしょうか。まさか、中国の歴史書は、個人が勝手に書いたものではありません。皇帝の命令の下に編纂し、史書として皇帝に奏上したものです。いい加減なことを書いたら、首が飛びます。更に、歴史を書くのは名誉であり、誇りと人生を懸けて書き上げたのです。

史家の言葉は意味があるのです。自分が書き残したものを後の世の歴史家が参考にするのですから、正確に書こうと努力しています。自分も過去の歴史家の文章を吟味し、参考にしているのですから。それは、中国の歴史家の伝統だそうです。
倭人伝は正確ではないのでしょうか。半島の六国については、それぞれに国の特色が書かれていて、大変面白いです。

片岡さんの説は、次のように展開していました。
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生活した様子がない不思議な集落(?)跡があるが、それは監視するための場所だったのではないかというのです。そこで、狼煙などを炊いたのでしょうか。
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もし、監視する集落であったのなら、この範囲に女王国はあったのでしょうか。
彼らの国は、結束していた。連合国として、談合していた。そして、女性を共立した。のでしょうか。 

ありがとうございました。面白かったです。
この辺で、失礼します。


# by tizudesiru | 2021-01-03 20:00 | 384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ  | Trackback

何処の地域の人が大倭の覇者となったのか・助走を始めたNHK

1月1日のMHKの「邪馬台国論争」は、久しぶりに普通のテレビ番組でした。
しかし、もちろん「あれ?」と思うところはたくさんありました。それは、後で紹介させてください。
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昨今のテレビ業界の状況は、テレビを見ている人が少なく、古代史の番組を見る人は非常に限られるそうです。その中での番組ですからね、視聴者を考えると、邪馬台国論争のどちらも否定できないはずです。私もテレビは見ますが、ドラマやバラエティー番組はほとんど見ません。PCに向かっているか、本を読んでいるかですね。
しかし、邪馬台国論争は見ました。
「邪馬台国サミット」は、これまでのような近畿に偏った番組ではありませんでしたが、次を踏まえている「倭の覇者となったのは何処の地域の人か」に近づくための一歩であると、強く感じました。これから墓の副葬品で迫ろうというのです、きっと。今後のテレビ番組はそのようになっていくと思います。ホケノ山古墳を使って。恐ろしいことですが。
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 では、気になったことですが、上の画像のように日本列島は二世紀の終わりには既に中央集権の国になっていたのでしょうか。そうであれば、神武天皇も崇神天皇も饒速日も歴史的には不必要です。他所の地域から近畿へ入り込むために戦わなくてもいいのです。どんな形にしても侵入はあった、圧倒的な武力か、人力か、経済力でよそ者が近畿勢力を圧倒したということはあったと思います。
ですから、上の倭国の画像は{?不思議}となります。それに、「魏書」には朝鮮半島の国のことも書かれています。扶余・高句麗・東沃沮・?婁・?・韓の六国です。半島ではこの後も侵略と分裂を繰り返し、高句麗・新羅・百済となっていくのです。半島ですら少なくとも六国以上に分かれていたのです。なのに、弥生時代の列島は島国なのに「倭国」のみですか。嶋をつなぐ橋もないのに、中央集権は無理でしょう。

さて、魏書には倭国と書かれているのではなく、「倭人」と書かれているのです。倭国と倭人は同じでしょうか。
半島の記述には、扶余人・高句麗人・東沃沮人・?婁人・?人・韓人と書かれているのではありません。それぞれの国としています。
倭人は、倭国ではありません。「魏志倭人伝」は、列島の状況そのままに表現されているのです。
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更に、「大きな銅鐸の出土範囲」の画像がありました。
弥生の銅剣や銅矛や銅戈や銅鏃や銅鏡が出土しない近畿に、忽然と大きな銅鐸が出現するでしょうか。
その原料を手に入れたのは、何処の誰でしょう。王権が配ったと言われましたが…。倭国だったという九州は避けたのでしょうか??不思議です。
もちろん、九州には福岡平野も筑後平野も熊本にも「小銅鐸」と鋳型が出土します、弥生時代に。銅鐸は早くから九州に有りました。しかし、大型化はしていません、弥生時代の九州では。音を鳴らす道具は、衣食住に必要ではないので、祭祀具だったのでしょうね。

では、近畿ではどうして急に銅鐸を大きくしたのでしょう。出雲にも銅鐸が出土(埋納されていた)します。それらは、大きくなる前に埋められています。
他の方も指摘されていましたが、正史には「草薙剣」のことは、詳しい物語として書かれていますが、銅鐸については何の記述もありません。
それは何故でしょうか。
これが、もし「倭国」のシンボルなら伝承や史書に書き残したでしょう。古代の近畿人も銅鐸が出てきた時、「なんだ、これは!」と驚いたのです。彼らは銅鐸のことは知らなかったのです。では、銅鐸の勢力はどうなったのか…滅ぼされたのでしょうか。
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さて、畿内勢力が銅の原料を大量に手に入れる方法は、銅製品を奪うか、提供を受けるか、何らかの方法で購入するか、でしょう。
北部九州にあった銅鏡や銅矛や銅戈や銅剣を熔かして再利用したと考えるのが穏当でしょう。
鉄も銅も出ない近畿に、急に銅鐸の文化が花開くのには、それなりの理由が必要でしょう。

2021年が始まりました。これからの古代史の進む道は決まりました。邪馬台国は決着しなくても、次の準備ができたのですね。近畿の縄文と東国の縄文が時期を同じくして収束し、弥生を迎えた。そして、圧倒的な副葬品を持った古墳時代に流れていくという展開なのでしょう、これから。
その始まりが箸墓のある纏向で、ホケノ山古墳が古墳時代に先駆けて、その古墳祭祀の在り方を導いていくという、そんな構図ですか。
重厚に色濃く塗りこめられたら、真実は見えなくなるのでしょう。既に、九州の弥生と近畿の古墳が同時代に設定されているのですから。実に、メディアの力は強いですから。よくできた番組でしたが、先が思いやられて複雑な気持ちになりました。


なにしろ、二時間の番組でしたので「そうかな?」「それでいいのかな」と思うところがたくさんありました。
よかったら、続きも書きます。また、読んでくださいね。


# by tizudesiru | 2021-01-02 11:53 | 384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ  | Trackback

国内最古の分銅を福岡県春日市で確認

明けましておめでとうございます。皆様今年もよろしくお願いいたします。
お逢いしてお話しできる日が一日も早く来ますように、と願う元旦になりました。
早速ですが、昨年の12月22日の新聞記事を紹介します。
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福岡県春日市で国内最古の分銅が確認されました。今までは何だったのかわからなかったものが、分銅だと分かったのです。
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その可能性は指摘されていたのですが、やはり分銅でした。弥生時代には税を取っていたのです。それを量る物がなくてはなりません。
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春日市の歴史資料館
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弥生時代には支配者がいました。それは、社会科でも習ったことです。しかし、何をもって支配するのでしょう。「聖地へは進入禁止」だとか「お前の家族から土木工事をするものを二人出せ」とか、「今年の作付けをはじめてくれ」だとか、支持を出す根拠が必要です。数も正しく数える必要があります。隅々まで支持を浸透させる必要があります。違反者は取り締まらねばなりません。人が逃げ出したら、財産が減るのと同じですから、「掟」も必要です。
弥生時代には大きさや重さの規格はあったはずです。
それがなくては指示が通りませんし、交流や物々交換もできません。もちろん、国際関係もぎくしゃくします。利害が伴うものはなおさらです。倭人伝によると、倭国は、税を取っていました。度量衡は浸透していたのです。

弥生時代の倭人は、距離を測れませんでした。ですから、一日で行けるとか、半日かかるとか、十日はかかるとか、日数で距離を表していたのです。

魏志「倭人」伝には、倭の地は「絶えて、海中、洲島の上に在り。あるいは絶え、あるいは連なり、周旋、五千余里ばかりなり」とありますから、九州の上に在って、周りが五千里あまりだったのです。とても、近畿には届きません。ここに里という長さの単位が出ています。これを倭国が取り入れるのです。
倭人伝によると、卑弥呼は、次のようなお土産をもらったのですが、それぞれに量の単位があります。
交竜模様の錦を五匹、ちぢみの毛織物十張(十枚)、茜色の絹五十匹、紺青の絹五十匹、…金八両、五尺のを二口(二振り)、銅鏡百枚、真珠・鉛丹をおのおの五十斤。
この時代を生きていた首長は、量の単位を定めていたはずです。人々もそれを知っていた。青銅器を造ったのですから、材料の重さは量ったでしょう。他人から手に入れるときも、正確に量って損をしないようにしたはずです。多鈕細文鏡の鋳型も出ていますから、良いと思うものはすぐに手に入れ試したのです。
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卑弥呼は多くのお土産をもらいましたが、受け取ったものがごまかすことはできません。目録があったし、粘土で結び目が封じられ、そこに印が押してあったのです。

そこに、匹・帳・両・口・枚・斤などの単位が出てきます。使者も御土産を検閲する者も、その意味を充分に知っていたでしょう。
つい先ごろまで、二次大戦後も使われていた単位です。未だに使われている単位もありますが。
「五尺刀」が出てきます。中国には尺という長さの単位があり、やがては倭国で使われるようになったでしょう。

出土物の面からも、邪馬台国は何処にあったか、わかります。
当然、周囲五千里の地域で、楽浪郡より万二千里の距離にあるのは、九州でしょう。
卑弥呼の墓だろうという憶測や推量で、歴史を決めていいのでしょうか。

では、皆さま、この辺りで失礼します。
2021年が素晴らしい年になりますようにお祈りいたします。



# by tizudesiru | 2021-01-01 14:22 | 384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ  | Trackback

平城天皇、万葉集を選ばしむ・2020年にありがとう、そしてサヨナラ

2020年がもうすぐ終わります。来年の幸を祈り、世界が人々が誰も豊かな気持ちで過ごせるように願っています。

昨日に続く朝が来て、いつものように今日も目覚めました。いつものような朝でした。
しかし、何かを変えていきましょう。世界はこのままでいいはずはありません。

古代史の世界でも、変化があるのでしょうか。来年早々に、「邪馬台国論争」がNHKテレビで取り上げられるそうです。結論は今回も設定されているのでしょうか。
「九州の人には、申し訳ないけど、箸墓が卑弥呼の墓ですからね」とか。
私の周りでは邪馬台国論争から離れていく人が増えました。生活の中で実感する遺跡の実情や古代史とは、あまりにかけ離れたところで論争があるからです。
 そうですね。もうすっかり、邪馬台国について 話さなくなった人の気持ちは分かります。
文献では邪馬台国は九州ですから。それをどう崩すのか、そこに集中してますからね、NHKもそこに参加している人も。
来年1月1日には、九州説の人も集めて、公平な雰囲気で「いつもの結論」に持っていくという企画でしょうか。
 そうではないことを心から願っています
邪馬台国を中心に交流があったとしたら、それはどの地域の交流だったのでしょう。
何か共通するものがあったはずです。同じ計量器、同じ目盛、同じ言葉、共通の神まつり、似たような道具、よく似た習慣、風俗、道具、土器。
いろいろあったでしょう。全く違う考えの人が話し合ってもまとまりませんね。
ですから、共通の利害があったでしょうし、そのことで対立もしたでしょう。
私は、いろいろな地方の博物館をめぐって、その共通点を見つけて驚きます。もちろん、九州内だけではありません。
それは、縄文・弥生の・時代から人々の交流があったということです。


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熊本県立博物館
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小郡市埋蔵文化財センター
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糸島歴史博物館
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糸島歴史博物館
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山鹿市埋蔵文化財センター
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来年のテレビで、、何が取り上げられ、どのように語られるのでしょう。やっぱり見てほしいですね。
それから、今年中に出版予定だった「梅花の宴と大伴旅人」ですが、約束が果たせませんでした。ごめんなさい。
次の出版は「持統天皇と初期万葉集」に関するものを考えていました。
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これも、急ぎたいのですが、何しろ忙しくて、なかなかです。
写真は和歌山県の白崎です。石灰岩の岬の向こうに青い海と四国の島影が見えています。
白崎を訪ねたのは、ここが有間皇子の所縁の地だからでした。
有間皇子こそ、万葉集の主役だったのです。皇子自身の詠歌は二首のみですが。
有間皇子の話をすることで、万葉集が解けるという展開です。

とにかく、今年は終わりました。来年が充実した年になりますように。

# by tizudesiru | 2020-12-31 21:08 | 383令和三年の奇跡を祈りましょう | Trackback

熊本県立博物館のテーマは何かな・本日、縄文土器の紹介

旧石器時代は、最終氷期の頃とされています。氷が北半球の大陸の大部分を覆っていたのですね。大陸から日本列島に人や動物が渡って来たのは、暖かかったからでした。しかし、暖かくなると氷が溶けて海進が起こりました。縄文海進というのは、氷が溶けた縄文時代には海が深く内陸部まで進入したということです。
熊本の旧石器の遺跡分布を見ると、海の近くや平野部には遺跡が在りません。縄文時代には海底になったらしいのです。阿蘇のカルデラ内にも遺跡がありません。その頃までカルデラ湖だったのでしょうか。それが、「蹴破り伝説」がいうように、支配者が蹴ってカルデラ湖を大地にしたのでしょうか。一気に流れ出した水で大洪水になったようです。その伝承もありますから。人が住むようになったころ大地震が起きて立野の断層から水が流れだしたのだとすれば、現実味があって恐ろしい話です。
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縄文時代の貝塚が内陸部にあるのは、海が内陸まで進入していたためです。熊本市は半分以上海の底、米が飽きるほど取れたという旧飽田郡も海の底です。今、此処には白川と緑川が流れています。大分の別府湾から阿蘇山から宇土半島に続く大断層に、最近起こった熊本地震の震源があります。
悠久の昔、阿蘇の噴火が九州を造ったそうです。それまで、深い断層で九州は二つの島に分かれていたらしいです。月が地球を離れていく頃、九州はどうなっているのでしょうね。
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さて、熊本県立博物館には、縄文時代の早期・前期・中期・後期・晩期の土器が並んでいました。縄文早期と縄文前期の間には、鬼界カルデラ噴火があります。アカホヤ火山灰層と言って、マダラのように赤っぽい面が混じる地層です。層の上と下では時期が異なるのです。
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土器はよく似ていますが、土器の口がすぼんでいますかね…曾畑式土器と呼ばれる土器は、縄文前期のものです。
縄文中期になると、大胆な模様が入ります。阿高(あだか)式土器と呼ばれています。
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後期になると、三万田式とか、南福寺式とか、鐘ヶ埼式とか様々な土器が現れるようです。
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鳥井原式の土器は晩期になるそうです。この時代、どのように飢えや寒さや病気を乗り越えようとしていたのでしょう。食べるだけで必死だったでしょう。火山灰で作物も被害を受けたでしょうし、獲物になる動物も少なかったでしょうし…
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やっぱり土偶なんかを作って、神に祈りをささげたのでしょうね。
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そこへ米の文化が入ってきたら、人々は飛びついたでしょうね。弥生時代になると、似たような土器が離れた地域で出土しますから、人々の交流が一段と広がったということでしょう。
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すごく免田式土器に似ていますが、出土遺跡は球磨川流域ではありません。城南町の新御堂(しんみどう)遺跡の出土物です。緑川流域になりますかね、たしか…。
 今日は、縄文土器の紹介でした。両親が引っ越した熊本空港の近くの村には、畑や山に縄文土器がバラバラ落ちていて、大人であってもなかなか面白い体験をしました。
今も落ちていますが…では、この辺りで失礼します。



# by tizudesiru | 2020-12-04 11:55 | 381九州の古墳の不思議と謎 | Trackback

熊本県立博物館には鍍金された神獣鏡がある

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熊本県立博物館は、熊本城内にあります。熊本地震で被害を受けた熊本城は修復の真っただ中です。
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今日は、熊本市博物館の金メッキの銅鏡を紹介します。日本には金メッキされた銅鏡が三面あります。一つは福岡県の一貴山銚子塚古墳出土の鏡、二つ目は熊本県のあさぎり町の才園(さいぞん)古墳出土の銅鏡、三つ目は出土地の分からない銅鏡で大阪にあったと思います。そのなかで、八面の鏡を出土した一貴山銚子塚古墳は未盗掘でしたが、被葬者の頭の近くに置かれていたのが鍍金の銅鏡でした。足元に置かれていたのが三角縁神獣鏡でした。
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才園古墳の鏡は、見ての通り画文帯神獣鏡ですか。小さいです。初期の古い鏡はみんな小さいですね。是もそうでしょうか。三角縁神獣鏡のように大きな鏡は、後の時代の鏡なのでしょうね、と、素人は思います。そこで、説明版を読んでみました。
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才園古墳出土鏡は直径11・7cmの「鍍金求心式神獣鏡」です。昭和33年(1958)に国重要文化財に指定された時に「鎏金獣帯鏡」の名称がつけられましたが、現在の鏡式名としては求心式神獣鏡に該当します。
特徴として、乳を伴わない神獣像配置、画文帯の中に存在する銘帯、鍍金などが挙げられます。神獣像配置は全体として「伯牙弾琴」の故事を描いた構図とみなされます。銘文は時計回りに半円方形帯の方形銘に「吾作明竟 幽涷三商 彫刻無師」の文字があり、外区の銘文帯には「吾作:明竟 幽涷三商 彫刻無・ 大吉羊 宜候王 ・富昌 師 百牙楽衆神見容 命長」と刻まれています。
鍍金は鏡面側を除く鈕上面から縁の側面まで鏡背全体にあります。
この鏡は中国鏡で、三世紀ごろの鏡を元に五世紀代に鋳型をつくって新たに製作されたものでしょう。小型鏡ですが、鍍金鏡という点で小型鏡全般より上位に格付けされていたとみられます。豪華な金銅製馬具類にも遜色のない、貴重な鏡として九州南部の内陸交通の要衝である人吉盆地の有力者に、近畿中央政権から贈与されたと考えられます。

そ、そ、そうですか。どんなにお金持ちの政権だったのでしょうね。こんなものを簡単に贈れるなんて。
求心式とは、神と神獣の像が放射状に配置されているということです。三角縁神獣鏡などは一方向に向けて像が配置された上下が判る鏡があります。求心式はどのような方向にも向けてもいいということですかね。
画文帯とは、漢字が模様のように並んで鈕の周りに配置された帯状の区域です。漢字は、この鏡を持つ王には幸せが訪れ長生きするという内容です。鍍金は鏡面にはないそうです。鏡面まで鍍金してしまったら、鏡の用はなくなりますからね。
そういえば、一貴山銚子塚古墳の鍍金鏡が、京都大学から福岡県に里帰りしていました。小林行雄さんが発掘に関わったので、福岡のお宝を京都大学が持って行ったのですね。地元に返すべきだとは思いますが、ひとまず、里帰りしていました。写真はダメでしたが、しっかり見せていただきました。
昔の発掘では、他者の土地を発掘しても所有権は発掘した側にあったのでしょうか。土地の所有者にも自治体にも何の権利もないのでしょうか…それなら、発掘した側の姿勢によっては、地域の宝は流出してしまうということですかね。
糸島市の平原王墓は、原田大六氏が掘ったので、遺物は糸島市に残って国宝になりましたね。
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才園古墳は小円墳で、内部の横穴式石室からは金色に耀く鍍金鏡や多数の馬具、玉類などの装身具、直刀、刀子、土器など全体で130点以上の遺物が出土しました。それらは昭和33年(1958)に、国指定重要文化財になりました。
熊本県内では黄金製品の出土例として、国宝の銀象嵌銘大刀や金製垂飾付耳飾、金銅製の冠帽や飾履、銅鏡、甲冑類、馬具等が出土した和水町の江田船山古墳があります。時代が進むにしたがって、金銅製品が出土する古墳は多くなります。
上記のように、パネルに説明されていました。
才園古墳は、小円墳なのですね。鍍金鏡が小さな古墳にあったことに驚きますが、その意味を考えると、王権からの下賜品ですか……。
大きな水害をもたらした球磨川の上流の盆地に、弥生時代の遺跡から見事な免田式土器が出土しています。此処には、縄文・弥生からの文化と経済基盤があったのですね。それは、食料を中心とした経済ではないでしょう。宮崎と鹿児島と熊本をつなぐ流通の基点というのは確かでしょうね。
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ではこの辺りで、失礼します。

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# by tizudesiru | 2020-12-02 10:12 | 381九州の古墳の不思議と謎 | Trackback

菱形八幡宮が日本最初の八幡宮と肥後国史にあり(2)

熊本市植木大円寺の菱形八幡宮の裏は洞窟になっています。
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龍が住むという洞穴です。そこから水が湧いていて菱形池を作っていたのです。氏子の方に案内していただきました。確かに水が流れ出していました。ここは立ち入り禁止でした。上から今にも岩が落ちて来そうでした。
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ここから手水の水が引かれているのです。つまり神の水で、手口を漱ぐのです。水辺の小さな穴は沢蟹の住かです。清流に沢蟹も住んでいるのです。
しかし、今にも落ちそうな岩の下に長居はできません。
実際に熊本地震で大岩が落ちて社殿をつぶしたのですから、立ち入り禁止は当然です。社殿をつぶした大岩は残されていました。他の小岩は除かれていましたが。
再建された社殿は元の場所より数メートル前に出したそうです。まだ岩は落ちそうですから。大岩の下に元の社殿の屋根の銅板がありました。今も屋根の一部が大岩の下敷きになっています。
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阿蘇の凝灰岩層の下から地下水が染み出す場所は、熊本の何処にもあります。豊かな水が湧きだすので社が建てられたり、水の取水口になったりしています。田畑も実り豊かです。熊本市は水道水を地下水で賄っています。火の国じゃなくて水の国なのでしょうね。
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神仏習合の時代は、ここはにぎわったのです。熊ノ岳で修行する修験道が立ち寄ったのです。
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 では、この辺りで、失礼します。
# by tizudesiru | 2020-12-01 12:00 | 376神社一人旅はいかがですか | Trackback

菱形八幡宮が日本最初の八幡宮と肥後国史にあり

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熊本市植木大円寺の菱形八幡宮に行きました。熊本地震で裏山の大石が落ちて社殿が壊れたのですが、建て直されました。当時は、氏子が少ないので再建はあきらめていたそうです。ここは、この辺りの地名にもなっている由緒ある神社です。菱形小学校、菱形郵便局などがありますから。
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国の支援と大工さんの努力により再建がかなったのです。その大工さんが「二十八体の神像があって、県が国立博物館に依頼して修復したけれど、神社には神像は戻って来なかった」と、言われました。そのうちの九体が熊本県立博物館に展示されていると教えられたので出かけました。しかし、既に展示期間が終わっていて見ることはできませんでした。神社に戻って来たのは写真だけだったと聞いて、その写真だけでも見たいと思って出かけたのですが、写真は神主さんのもとに置かれているそうで結局見ることはできませんでした。
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大工さんから菱形八幡宮の氏子さんを紹介していただいていました。その方がわざわざ神社に出向いてくださって、私たちに説明をしてくださいました。
北畠親房が記した「人皇正統記」には、欽明天皇の御代に、筑紫肥後の国の菱形の池に現れ『我は人皇十六代誉ぬたの八幡丸と給う」と明記されています。
と案内板に書かれていました。
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狛犬が鳥居の前に置かれていました。鳥居が動かされたのでしょうね。氏子さんの説明で知りましたが、狛犬の雌雄は逆になっているそうです。正面の左が雄ですが、本来は雌の狛犬が置かれるのだそうです。何故、雌雄が逆になっているのか、理由は分からないそうです。案内板の辺りにもともとの菱形池があったようですが、道路に沿って移動されていました。菱形池も訪ねてみました。
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天保十七年、でしょうか。刻まれたのが天保なら、この時代に池が移されていたことになりますね。
それから「えな」塚にも行きました。
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氏子の皆さんが何とか守って来た伝承の石ですね。
これから見学に行かれる方、どうぞ小さな集落の財産を大事に見守ってくださいね。
菱形八幡宮の石造の首がおられてなくなっていました。この半年の間に、摩崖仏などに様々な被害があったとか…残念です。
神社は、一般的にも信仰の対象であり、文化財であり、歴史の一部であり、民間の伝承も含めて地域の財産ですから大事にしてほしいです。

日本の神社が寂しくなっていくのは、止められないことなのでしょうか。

では、今日はこの辺りで失礼します。

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# by tizudesiru | 2020-11-30 21:42 | 376神社一人旅はいかがですか | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授柿本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける
373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ
374令和元年こそ万葉集を読み解こう
375大伴家持、万葉集最終歌への道
376神社一人旅はいかがですか
377花の写真はいかがですか
378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東
379万葉集巻二十は鎮魂と告発の歌巻
380関東の神社は、政変を示しているのか
381九州の古墳の不思議と謎
382松浦佐用姫は何故死んだのか
383令和三年の奇跡を祈りましょう
384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ 
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