万葉集は持統天皇の勅で編纂された史書だった

昨日、わたしも所属する筑紫古代史の会で、万葉集について話をする機会を戴きました。私としては万葉集を好きになってもらいたいという極めて単純な思いで話をさせていただきました。
その時のスライドをブログでも紹介したいと思います。

「すぎにし人の形見とぞ」
お話の題は、上記のように付けました。「すぎにし人の形見とぞ来し」の言葉は、人麻呂の歌に使われた万葉集を解く重要な「詞」です。
では、資料として作ったプリントの文章も紹介しましょう。
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もみじばのすぎにし人の形見とぞ

万葉集こそが歴史を解く鍵である。

わたしがこれから紹介するのは「万葉集の謎」であり、「秘密」なのであるが、もともと原万葉集には謎も秘密もなかったと思っている。

万葉集は持統天皇の詔勅により「皇統の正当性を示すために編纂された」帝紀であり、「若い文武天皇の精神的よりどころとなるよう、皇統の歴史を歌物語にした」史書だった。つまり、万葉集は読みやすく分かりやすい歴史書だったのである。更に、王家の出来事や先人の業績を語る叙事詩であり、婚礼・葬儀・即位の場で使われた儀式歌集であり、祖先霊を鎮める「鎮魂歌集」だったということもできる。また、現代の私たちにとっては、日本書紀では読めない歴史を知ることができる稀有の文学書でもある。

今日、万葉集は謎だらけになってしまっている。それは、後世に手が加えられたからで、時の為政者には不都合な内容だったようだ。皇統の正当性や歴史的な部分を再編集して真実が見えなくする必要があったのである。手を加えさせたのは平城天皇で、806年の即位の後、大伴家持の官位を復し「万葉集」を召し上げた。平城天皇(桓武天皇の長子)は「万葉集が如何なる歌集かうすうすしっていた」し、召し上げたのち十分に内容を理解したはずである。それが故に「奈良に京を戻すこと」を主張し、薬子の乱まで引き起こした。が、弟の嵯峨天皇に敗れ、平城天皇が出家したので、万葉集が勅撰集として世に出る機会は再度失われた。しかし、公に出せるように再編集して「万葉集」という形に整理されていたのである。

もちろん、大きく再編集されたのは「初期万葉集」である。可能な限りの配置換えと「題詞の書き換え」が行われ、家持が付け加えた「後期万葉集」に歌が移動したりしたと考えている。

それでも、万葉集で歴史を解くことはできるのである。歌は「言霊」であるから、むやみに歌を書き換えることはできなかった。できなかったからこそ、配置を入れ替えても題詞を操作しても歴史の真実が見え隠れするのである。

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➁だから、万葉集を読めば読むほど正史との間にズレが生じ、謎が膨らんでくる

持統天皇が「万葉集の編纂」の詔勅を出し、誰が実際に編纂したのか。人麻呂編集としても、勅撰歌集にはなっていないから、何があったのか。編纂を命じたのが持統天皇なら、なぜ夫の天武天皇に関する歌が少ないのか。持統帝は息子を失った後、何を目指したのか。心から愛したのは誰だったのか。なぜ天智天皇を偲び、有間皇子の霊魂を鎮め続けるのか。持統帝にとって高市皇子とは何者なのか。天武帝の皇子が極位に着けなかったのは何故か。孝徳天皇の御代の歌がないのは何故か。万葉集が謎の歌集となったのは何故か。後世、手を入れられた理由は何だったのか。などなど、次々に膨らんでくる。

今日は巻一を通して、万葉集の謎にせまりたいと思う。例えば、

万葉集の冒頭歌は、何故に雄略天皇の「乙女に呼び掛ける歌」なのか、中大兄が耳成山と争った女性はほんとうに額田王なのか、人麻呂は持統天皇の恋人だったのか……下世話な謎もあるけれど、舒明天皇の国見はなぜ香久山なのか、香具山は小さな150mほどの山なのだから天皇が国見するにしては低すぎる。なのに、持統天皇も香具山を詠んでいるが、それは何故なのか、など。

全てに上代という扉が閉まっていて謎すらも見えにくいのだが、持統天皇は誰の娘なのか、草壁皇子は何故薨じたのか、人麻呂の刑死のわけは何か、額田王は誰を本当に愛していたのか等々噂話の元本のようではあるが、しかし、これらはひたすら万葉集を読み込むことで解けてしまうのである。


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和歌山県の玉津島神社の写真を冒頭に持って来たのは、ここが万葉集を解く重要な鍵の一つだからである。持統天皇・元明天皇はもちろん、聖武天皇・元正天皇も行幸した場所であり、今は島ではないが、古代には連なる嶋のひとつだった。もちろん、柿本朝臣人麻呂も此処を訪れ、『こと上げ』の決心をしたところでもある。万葉集を解く鍵穴だと私は思っている。


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(のちの世の天皇が此の地を愛し、仮宮を作り、行幸を重ねた玉津嶋。光孝天皇(宇多天皇の父)が、我が子に皇位継承権を与えないようにすべての子女を臣籍降下した天皇だが、彼がわざわざここに衣通姫を祀ったのはなぜか。人麻呂と並ぶ歌の三神となった衣通姫、これは何を意味するのか。玉津嶋の意味も万葉集が教えてくれる。)万葉集を解く鍵であることを、今日の話の前に提起しておくことにする。


⑤ まず、心に停めてほしいのは、「万葉集は歴史書である」ということである。だから、政変・事件が記録されている。政変に巻き込まれた人の生の声が残されている、と。歴史上の人間の生の声がリアルタイムで残された比類なき歌集だとわたしは思っている。


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では。また明日
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# by tizudesiru | 2018-05-22 00:11 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

雄略天皇の御製歌は万葉集の冒頭歌

「すぎにし人の形見とぞ」2

では、万葉集の冒頭歌の紹介。泊瀬朝倉宮御宇天皇=雄略天皇の歌である。

この冒頭歌で雄略天皇は、菜を摘む娘に敬語を使っている。『菜摘ます子=菜をおつみになっている娘』と『家をおっしゃってください。名を名のってください』 求婚の儀式だろう。 

古代では名前を呼べるのは、特別な間柄か親族で、他人に名を知られるのを嫌った。

此の菜を摘む女性は高貴な家柄の姫で、儀式により婚姻が整おうとしている瞬間である。

これは「雑歌」=儀式歌の冒頭歌にふさわしい歌なのである。」

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万葉集巻一には、「雑歌」という「部立」があります。
「雑歌」とは、「雑なその他の歌」という意味ではないのです。「儀式歌・様々な公の場での歌」と云う内容の歌群をいいます。ですから、雄略天皇の万葉集1番歌も「雑歌」ですから個人的な歌ではなく、公的な場での歌になりますね。


万葉集の冒頭歌は、「こもよ。みこ持ち」この歌ですね。
 最近になって、平和で幸福な感じの婚礼の儀式歌だと、思えるようになりました。
もともと、万葉集は持統天皇が『平和で幸福な皇統の国造り』を願い、文武天皇のための教育書として作られたと、わたしは前回紹介しました。万葉集の性格からして、政変や悲運な出来事の歌が巻一の冒頭に置かれるはずはありません。特に巻一ですから、幸せと希望に満ちた冒頭歌のはずです。
 すると、巻一の最終歌も平安と希望に満ちたものになるでしょうね。そう思って巻一の最終歌を読むと、何だかまとまりのない形になっています。元々万葉集巻一最終歌には、別の「世を寿ぐ歌」があったでしょうに。
(他の巻は、様々な皇統の出来事・歴史に触れますから内容が重く苦しいものにもなるのは必然です。)
雄略帝の歌と対峙する巻一の最終歌は、どの歌だったのでしょうね。

 話は飛びますが、大伴家持が後期万葉集を編纂したと云われていますが、その最終歌「巻二十・4516 新しき年のはじめの初春の今日降る雪のいやしけよごと」となっています。家持は因幡守として詠んでいますが、この時の家持は失意のどん底にいました。それでも、寿歌を以って新年と国の平安を歌で祈り万葉集の最終歌としたのでした。なぜ、彼はこのように寿歌を持ってきたのでしょうか。

 それは、「初期万葉集」がそのような編集の仕方になっていたからです。彼は、人麻呂が編集したその形式を踏襲したと思うのです。後期万葉集の編纂・編集の仕方を見ると、初期万葉集の編纂編集の方向が見えると思います。
 わたしは、巻一は堂々と王統の歴史を語っていたと思いますから、雄略・舒明・皇極・(孝徳)・天智・天武・持統・文武の御代の歌が並んでいたと、思います。

巻一の冒頭歌をはじめて読んだ時、雄略天皇という存在がか細く思えたのでした。万葉集釋注(伊藤博著)では次のように解されています。
「おお、籠(かご)、立派な籠を持って、おお掘串(ふくし)、立派な掘串を持って、ここわたしの岡で名を摘んでおいでの娘さん、家をおっしゃい、名前をおっしゃいな。幸(さき)わうこの大和の国は、くまなくわたしが平らげているのだ。隅々までもこのわたしが治めているのだ。が、わたしの方からうち明けようか、家も名も。」

泊瀬朝倉宮天皇は、自分こそが大和を平らげていると娘さんに告げていますから、大和を統治していたのでしょう。でも、飛鳥にはまだ入っていなかったと云うことですかね。次の舒明天皇の歌を読むかぎり、そう云うことになりますね。
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日本書紀で雄略天皇の系譜をおさらいしてみよう
スタートは応神天皇でした。



応神 九州より攻め上る。忍熊、香坂皇子と戦って王位を奪う。
仁徳 大鷦鷯(おほさざき)天皇。菟道稚郎子の自殺により即位。
履中 去来穂別(いざほわけ)天皇。母、葛城襲津彦の娘・磐之媛。住江仲皇子の謀反。磐余の若桜宮に即位。平群・蘇我・物部が仕える。筑紫の三女神「どうして我が民を奪ったのか。わたしは今、お前をはじいらせよう」車持君が筑紫で罪を犯す(何故か、九州の神の話
反正 瑞歯別(みずはわけ)天皇。履中帝の同母弟。河内の丹比(たじひ)を都とする。柴籬宮(柴垣の宮)
允恭 雄朝津間稚子宿禰(おあさつまわくごのすくね)天皇。反正天皇の同母弟。太子木梨軽皇子の逸話(同母妹との姦通罪により追い詰められ自殺)
安康 穴穂天皇。木梨軽皇子の事件により即位。叔父の大草香皇子を殺し、その妻の中蒂姫(なかしひめ)を皇后に据え、その連れ子の眉輪王に殺される。
雄略 大泊瀬幼武天皇。吉備上道臣田狭を任那にやり、その妻を奪う。皇位継承者を次々に殺害。
清寧 白髪武広国押稚日本根子(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこの)天皇。母は、葛城韓媛。雄略帝の妃であった吉備の稚媛(もと吉備上道臣田狭の妻)が子(星川皇子)をそそのかし謀反を企てたが、共に焼き殺される。
顕宗 弘計(をけ)天皇 父親を殺され兄(仁賢)と与謝郡に逃げる。

仁賢 憶計(おけ)天皇。諱は大脚(おほし)、またの名は大爲(おほす)*旧本による。字名は島郎子(しまのいらつこ)、穴穂天皇(安康天皇)が崩御した時、丹波の余社郡(よさのこほり)に避難した。
武烈 無道の限りを尽くした (断絶) 


ふむふむ、なかなか大変な顔ぶれですね。ただ、此の天皇の宮は、橿原・桜井・大阪・天理・奈良に京を作り、允恭天皇(明日香村所在不明)顕宗天皇は(明日香村八釣)明日香に宮があったとされていますが、所在地は不明です。陵墓は羽曳野市・堺市・藤井寺・北葛城郡・奈良市などになっています。此の王朝は、香具山の王朝とは直接には結びつかないようですね。
 しかしながら、万葉集の冒頭には雄略天皇の名があります。此処に、どんな意味があるのでしょうね。
明日は、舒明天皇の国見歌(万葉集巻一・2番歌)を読みます。

では、明日。
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# by tizudesiru | 2018-05-22 00:10 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

万葉集の二番歌は舒明天皇の国見歌

「すぎにし人の形見とぞ」の続きです。
 此の話の主題は「万葉集は、持統天皇が孫の文武天皇のために皇統の正当性とその苦難の歴史を伝えるために、柿本人麻呂に編集させた皇統の歴史書であり、教育書である。」でした。
 では、万葉集巻一には、何が書かれているのか。その事で何が分かるのか、ですね。少しずつ紹介しています。

前回は、雄略天皇(泊瀬朝倉宮御宇天皇)の万葉集冒頭歌の紹介をしました。
この歌が本来の「初期万葉集の冒頭歌」であったのなら、泊瀬朝倉宮御宇天皇は持統天皇にとって意味があったのですね。
今日は、万葉集の2番歌・舒明天皇の国見歌です。

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今日は「すぎにしひとの形見とぞ」の⑦~⑮まで紹介します。

三人の天皇は、なぜ小さな香具山を詠んだのか
統治者として舒明天皇は天香具山から国見をした

⑦では万葉集の2番歌、舒明天皇の歌を読もう。舒明天皇は天智帝・天武帝・間人皇后の父であった。

舒明天皇の2番歌『国見歌』、天香具山に登って国見をしたという歌である。

香具山は、藤原宮の東の御門を守ると詠まれた山で、耳成・畝傍と並ぶヤマト三山と呼ばれる山の一つ。香具山を詠んだ天皇は、三人。舒明天皇・天智天皇・持統天皇、三人は香具山でつながるようだ。

 香具山の中腹には、舒明天皇の万葉歌碑がある。本格的に明日香に入った最初の男性天皇であるから、別に不思議ではない。つまり、歴代天皇の宮は明日香にはいなかったのである。舒明天皇の祖父の敏達帝は河内長野や桜井に宮があり、陵墓は河内磯長中尾陵である。敏達帝の皇后だった推古帝が蘇我氏との関係で明日香と橿原を宮とし、明日香に女帝の宮が造営されたと書かれている。

推古帝の遺言で大王となった舒明王家にとって、香具山は天降りの山・舒明皇統の始まりの聖地となったので、神聖な氏山として天の香具山と呼んだと思われる。

すると、舒明天皇が「香具山からの国見歌を読んだのは何故か」の答えは簡単に分かってしまった。秘密でも何でもない。もちろん、これは謎でも秘密でもない。ただ、舒明天皇は何処の出身だろうか。

簡単にいうと、舒明天皇はよそ者である。飛鳥の地に侵入して来たから「国見」をしたと、なる。

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舒明天皇の皇統は香具山を神山とした

⑧ 「天皇、香具山に登り国を望む時の御製歌」

2 ()はむら山あれど とりよろふ天の香具山のぼり立ち 国見をすれば国原は 煙立つたつ海原はかまめ立つたつ うまし国ぞ(あきづ)(しま)八間(やま)()の国は

「大和には群がるように山々があるけれど、鳥もよろけるという神の山・天の香具山に登り立ち、国見をすれば国原から煙が盛んに立ち上がっている。海原からはカモメが盛んに飛び立っている。豊かな素晴らしい国であるぞ。あきつしま大和の国は」

 足元に広がる国原を見渡す大王の国見歌である。 舒明天皇が詠まれた香具山は神山であるので、この天皇家は香具山を氏の守りの山としたといえる。今でも香具山に登ると山頂に)(とこ)(たち)命が祭られていて、中腹の説明板『名称大和三山・香久山』には、『(略)天香具山、畝傍山と耳成山、この三つの山は古来、有力氏族の祖神など、この地方に住み着いた神々が鎮まる地として神聖化され、その山中や麓に天香山神社、畝火山口坐神社、耳成山口神社などが祀られてきました。
天香具山は天から降ってきた(伊予国風土記逸文)
(略)香具山は伊予国風土記逸文に「天から降ってきた」という伝承が残っており、「天の香具山」とも呼ばれています。万葉集において「天」という美称がつけられた山は香久山だけで、このことから多くの山の中でも特別な位置付けを持っていたと考えられます』と案内板に書かれている。

案内板にあった伊予国風土記逸文にある「天から降ってきた」という文は気になる。(舒明天皇の出身地は伊予国だというのだろうか
また、萬葉集の巻一の6番歌の脚に「舒明天皇は讃岐に行幸されたことはないが、天皇の十一年に伊予の湯に行幸されたことはある」とあり、8番歌「熟田津に」の額田王の歌の左脚に、「御船、伊豫の熟田津の石湯行宮に泊られた。(斉明)天皇、昔日の物が猶ものこれるのを御覧になり、その時たちまちに感愛の情を起され、その故に歌を作り哀傷された」とある。斉明天皇が亡き夫を想い出して歌を詠んだというのである。舒明天皇と伊予の結びつきは深いのではなかろうか。(正史には出て来ないが、舒明天皇と伊予の縁は深いようである

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舒明天皇の百済大寺も天香具山の南に移された

 香具山の南に造営された寺だが、香具山の南に大官大寺跡がある。舒明天皇が建立したという百済大寺を、神聖なる香具山の南に移したと考えることができる。やはり、舒明天皇の皇統の寺として、移す必然性があったのだろう。

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「日本書紀」や「大安寺伽藍縁起」などによると、「だいかんだいじ」または「おおつかさのおおでら」と記されている。百済大寺から高市大寺から大官大寺に移り、平城京の大安寺へと変遷している。南から北へ中門・金堂・講堂が並び、中門と金堂をつなぐ回廊の中の東部に塔を配する伽藍配置であった。
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藤原宮御宇天皇の時代の官寺として活躍した

古代は、何処に墓を造るか、宮を建てるか、どの山を神山として祖先祭祀をするか、大事なことだったのです。
舒明天皇が国見をした天香具山を神山として、大官大寺は移されたと云うことですね。藤原宮御宇天皇の持統天皇と文武天皇にとって天香具山は神山でした。

伊予国風土記逸文に「香具山が天から降ってきた」と書かれたのですね。天香具山が伊予から来たのなら、舒明天皇の出身が伊予国だというのでしょうか。

万葉集に書かれていることと、日本書紀に書かれていることが食い違うので、脚注が入るのです。しかし、書かれてから数十年しかたっていないのに、もう分からないことだらけだったのですね。


では、中大兄の「三山歌」を読みます。

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「すぎにし人の形見とぞ」の⑪に戻ります。

⑪ さて、香具山が神の山であることはわかったが、他の畝傍と耳成はどう読まれているだろうか。

畝傍山は男性と解釈されたり、女性と解釈されたり、説が分かれる

原文では、「畝傍を惜し」を万葉仮名で「雲根火雄男志」と表記されている。故に、解釈が二通りある。

長歌の大意を日本古典文学大系の万葉集では、『香具山は畝火山(男性)を男らしく立派だと感じて、その愛を得ようと耳梨山と競争した。神代からこうであるらしい。昔もこのようであったから、現世でも一人の愛を二人で争うことがあるものらしい』となっている。

万葉集釋注では『香具山は、畝傍(女性)を失うには惜しい山だとして、耳成山と争った。神代からこんなふうであるらしい。いにしえもそんなふうであったからこそ、今の世の人も妻を取り合って争うのであるらしい』と解釈し、両者は男女が入れ替わる読み取りになっている。読みの都合上(男性)と(女性)の言葉をを挿入してみた。

中大兄のこの歌は本来二人の男性が争ったのか、二人の女性が争ったのか、気になるところであるが、中大兄の歌で見逃せないのは、三山を擬人化していることである。これは、たとえて遊んでいるのではなく、現実を表現しているはずである。

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香具山と耳成山が奪い合った畝傍山の姫は、いったい誰だったのか

⑫ つまり、三山に象徴される氏族があり、中でも香具山を神山とする新興勢力が政権を握っており、同じく耳成山を神山とする新興勢力と対峙している。そして、畝傍を神山する伝統的王族を取り込むことで権力が強固なものになろうという歌の意図なのだ。香久山は、畝部山一族の姫を妻に迎えようと耳成山と争っているのである。古代の権力の組み替えは、伝統的王家の血筋の娘を手に入れることで決まったというのだ。

たしかに、中大兄が額田王を大海人皇子と争ったという説がある。額田王は初め大海人皇子との間に娘をもうけ、後には天智帝のもとに仕え挽歌まで奉っている。すると、畝傍山に象徴される姫は額田王というのだろうか?

(更に、15番歌は反歌として他者が付け加えたとされている。「渡津海の豊旗雲に」の歌は堂々としていて、これほどの歌を詠める歌人は誰なのか様々な説があるが、額田王詠歌という学者もいる。古典文学大系は大意を「大海の豊旗雲に入日の射すのを見た今夜は、月も清かに照ってほしいものだ」と、三山の争いが終わったので、海神がたなびかせた豊旗雲を見た印南国原の神は晴れ晴れとした気持ちになったというのだ。が、三山歌の反歌として「わたつみの豊旗雲」は不釣合な気もする。

また、この歌の題「中大兄、三山の歌」であるが、何故か「皇子」の文字が欠けていて、御製歌とも書かれていない。これは、中大兄皇子がぞんざいな扱いを受けたということか。または、「長子という立場をあらわす大兄(古人大兄皇子)」の次という「二番目の長子」という意味と位置を「中大兄」が表しているだけなのか…)

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畝傍山と本薬師寺の祭祀線と持統天皇

藤原宮の西に畝傍山。この山を神山とする氏の姫を迎えることが重要だと、「三山歌」には詠まれている。
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創建時の伽藍の大きさが想像できる礎石群。本薬師寺(もとやくしじ)は、奈良県橿原市の東南に位置する藤原京の薬師寺と呼ばれた寺院。後に持統天皇となる皇后の病気平癒を祈って天武天皇が建立を誓願した官寺である。平城京遷都で薬師寺が西ノ京に移ると、西ノ京の「薬師寺」と区別するために「 薬師寺」と称されるようになった。本薬師寺は「元薬師寺」とも記されるほか、平城京に造営された薬師寺(平城京薬師寺)に対して、「藤原京薬師寺」などとも呼ばれる。これまでの発掘調査により、およそ11世紀初頭まで存続していたことが認められている(ネットでは上記のように紹介されている)

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(東塔址)

⑮耳成と香久山が争った畝傍山。では、畝傍姫とは持統天皇なのか?

本薬師寺は、薬師寺が平城京に移動した後、11世紀まで残った。この寺が、持統皇后の病気平癒の為に建てられたのなら、持統その人は畝傍山系氏の所縁の姫であることになる。

なぜなら、現在は基壇しか残されてはいないが、その基壇は畝傍山と直線で結ばれるからである。本薬師寺の東西の塔は畝傍山の山頂と並ぶ。将に、畝傍の姫を争ったのは誰と誰なのか。(想像がつきますね。更に、畝傍の関係氏族は、東西の太陽を祀る人々だったと考えられる。)
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(西塔址と畝傍山

持統天皇は香久山を詠んで、文武天皇の皇統を示した

⑯ では、巻一28番歌。これが、持統天皇の香具山の歌である。持統天皇が畝傍姫だとしたら、何故香久山を詠んだのか、不思議である。考えられるのは、畝傍姫である持統帝が「香具山の皇統の世を寿いで詠んだ歌」でいるということだ。

28 春過ぎて夏来るらし 白妙の衣乾したり 天の香具山 

誰もが聞いたことがある持統天皇の御製歌であるが、この歌の解説を読むとなぜか頭の中がすっきりしない。「初夏の風の中に翻る真っ白い衣が、青々とした夏の香具山に映える様子を詠んだはつらつとした叙景歌」だという。『万葉集には叙景歌はほとんどなく、出来事や行事を詠んだ詩歌のほとんどが叙事詩である』といいながら、万葉学者は「春過ぎて」は叙景歌で『万葉集の中ではかなり異質の新しい作風である』というのである。いえいえ、この歌は叙景歌ではないと、わたしは思う。

この歌を詠んだ持統天皇は四五才過ぎの老婦人なのだから、はつらつとした歌を詠んだとしてもやや違和感は残る。持統天皇は壬申の乱・天武天皇の崩御・大津皇子謀反事件・息子草壁皇子の死・高市皇子の薨去などを乗り越えて即位した女帝である。やがては孫の軽皇子に譲位しなくてはならないという重責もあった。その女帝が、耳成山ではなく、藤原宮の東に位置する天の香具山を詠んだ。女帝と香久山、畝傍姫が何ゆえ香久山を詠んだのか。そこにあるのは、舒明・天智の皇統をつなぐのだという意思。それしかない。
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耳成山は藤原宮の北を守る守護神の山であり、高市皇子の神山である


⑰ 更に、耳成山である。

そもそも、持統帝の藤原の宮の北を守るのは、耳成山である。耳成山は何処からも見える神山である。
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⑱ 耳成山の真南に、二つの墳墓が造営された。耳成山の真南に在るには、中尾山古墳と高松塚古墳だが、中尾山古墳が、真の文武天皇陵なのであれば、高松塚を遮るように作られたといえるのではないだろうか。
このように、寺社や陵墓の位置から読めるのは、皇統の人間関係である地位なのである。
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⑲ では、天武持統陵はどのような位置に在るのか藤原宮大極殿の南に在るのは野口王墓。

野口王墓は京都府山城の天智天皇陵の真南に位置する。何も意識しないで、測量もしないで、離れた二つの墓を造営することはできない。これを実行したのは、文武天皇である。文武天皇も持統天皇も、天智天皇を大事にした。これは、ゆるぎない事実である。

「天の香具山を詠んだ三人の天皇」の結論として言えること

持統天皇・舒明帝・天智帝は同じ皇統を主張している。

確かに、この三人の天皇は八角墳に埋葬されているし、陵墓の形式も共通する。

壬申の乱を経て成立した天武朝は明日香に宮を造営したし、持統帝は藤原宮御宇天皇なのである。確かに畝傍を西に香具山を東に置いて藤原宮が造営されていると、万葉集にも長歌が残されている。だが、天武朝の氏山は耳成山のはずである。野口王墓(天武持統合葬陵)、高松塚古墳(高市皇子説)、キトラ古墳(舎人皇子説)などは、耳成山・藤原宮の真南を意識して造営されている。畝傍でも香久山でもないのである。

それなのに、持統天皇はなぜか政権を握った後に耳成山ではなく香具山を詠んだ。なぜ耳梨山を読まないのだ? そして即位の決意はどうなったのだ? なにゆえ持統帝は天智帝を大事にするのだ? と疑問が出てくるだろう。

香具山を「氏族の神祭りの山」とした舒明天皇(国見歌)、中大兄皇子(三山歌)持統天皇(香具山の歌)を紹介した後、香具山を氏のトーテムとする三人は同じ氏族とし、その結びつきは陵墓でもわかるとした。

しかし、持統天皇の漢風諡「持統」は、「天武天皇の皇統を草壁皇子から文武天皇につないだ」という意味とされている。だが、持統天皇自身は、天武朝ではなく舒明・天智の皇統であると「香具山の歌で」主張しているのである。すると、持統」という諡号は天武帝の皇統をつないだ意味ではなく、ほんとうは天智天皇の皇統をつないだ意味になってしまう。万葉集は、そのように解いてくれている。

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今日は。ここまでにします。

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畝傍山が象徴する姫が持統天皇だった?! そうすると、姫を争ったのは天香具山(天智)と耳成山(天武)だと云うことになりますね。
また、明日。


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# by tizudesiru | 2018-05-22 00:09 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

万葉集3・4番歌は、もともと難波天皇の儀式歌だったのではないか

「すぎにし人の形見とぞ」の続きです。
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「初期万葉集」を一言でいえば「皇統の歴史書」であり、持統天皇の意思が込められた教育書であります。それを人麻呂の歌に使われた詞、魂を呼び寄せる詞「すぎにし人の形見とぞ」が解き明かしてくれるのです。
今、読んでいるのは、万葉集の巻一です。皇統の歴史書として読んでいます。「舒明・天智・持統とつながる天香具山の皇統」を文武天皇につなげようとしていたと、理解して読みを進めています。

今日は、巻一の3・4番歌から始まります。

万葉集3・4番歌の中皇命とは間人皇后
中皇命(間人皇后)は、難波天皇への儀式歌を間人連老に献じさせた

⑳ 万葉集巻一の3番歌「天皇、宇智の野に遊猟(みかり)したまふ時に、中皇命の間人連老(はしひとのむらじおゆ)をして献(たてまつ)らしめたまふ歌」を読む。

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中皇命(なかつすめらみこと)とは誰か。舒明天皇の皇后の皇極天皇とも、娘の間人皇女とも、以前から様々な説がある。間人皇女であれば、十歳そこそこの少女と云うことになる。

うら若い姫だったので、代わりに間人連老に歌を献じさせたというのである。老(おゆ)は、同じ「はしひと」の姓を持つが、皇女の同族と云う意味ではない。間人皇女を守り育てる経済的支えを「間人氏」が担っていたので、皇女を「間人皇女」と詠んだのである。間人氏が、養育担当の壬生部だったのである。

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宇智の大野での遊猟(みかり)の儀式は、何だったのか

㉑ 万葉集の3番歌は、中皇命が奉らしめた歌である。高市岡本宮御宇天皇=舒明天皇への献上歌になっている。当然、公の儀式で使われた歌となる。何の儀式なのか? 単なる遊猟(みかり)には思えないが。 弓で中筈の音を立て邪気を払う儀式は、天皇即位の儀式で行われた。元明天皇の即位儀式の時の歌に「ますらおの鞆の音すなり もののべの大臣 楯立つらしも」という76番歌がある。

 ここで問題なのは、中皇命が本当は幾つなのかと云うことである。舒明天皇の遊猟ならば、十一、二歳である。其の年齢では幼ずぎるから、間人連老に代わりに献上させたという解説がある。だが、そもそも大切な儀式に若い姫を参加させたのなら、違和感がある。

題詞には「間人皇女」ではなく「中皇命」=「天皇の玉璽を預かった人」と書かれている。中皇命という立場の女性が歌を献じさせ儀式を行っているのなら、答えは一つ。これは、新大王の即位の行事の一つであるでは、誰の即位なのか。もちろん難波宮御宇天皇、有間皇子に他ならないだろう。

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㉒ わたしの読み取りでは、これは孝徳天皇より玉璽を預かった中皇命が「次の大王となるべき遊猟の儀式」をする時、唐から帰った間人老に奉らせたとなる。間人皇后=中皇命としての解釈した理由であるが、他の巻の歌とも関わるのでその事は後述したい。(このブログでは幾度か書いている)

巻一の5.6番歌は、讃岐国に幸す時に軍王が山を見て作る歌である

㉓ 次は、万葉集巻一の5~6番歌「讃岐国行幸」の時の歌である。ここは史実とのすり合わせが十分ではないので、紹介しない。しかし、この天皇と四国との縁は深いようだ。


額田王は皇極天皇の傍近くで大事件を目撃した

㉔7番歌は皇極天皇の御代の歌である。額田王は「宇治の京」を詠んでいるが、「京」とは天皇=大王の住いが在る処 のはずなのに、宇治天皇は歴史には登場しない。では、なぜ、額田王は「宇治の京」を詠んだのか。「あの時、あの方が秋の野の美草を刈り取り、一夜の仮庵の屋根を葺いて旅宿リされた。あの宇治の京の仮庵のことが思い出されてならない。」と詠んだ。どんなことがあったのか。

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架空の物語ではなく、ある出来事を詠んでいるのだが実態が見えないのである。脚注には「大化四年(648)年に皇極上皇が近江の比良の宮に行幸した時の歌の御製と類聚歌林にある」と書かれている。「宇治の京」の歌は額田王の作ではないかもしれないというのである。額田王の歌と題詞に書かれた四例のうち三例までが「或は天皇の御歌」となっている。

「宇治の京」の歌が額田王の歌だとしても、またもや年齢の問題が起こってくる。この時、十代の娘ということになるのである。額田王は非常に若い時から皇極天皇の傍で歌を詠み、この後は天智天皇の傍で歌を読み続けることになるという才女だったようだ。

7番歌に続く8・9番歌も、額田王の歌となっている。

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㉔ 巻1の7~9番歌は、額田王の歌になっているが、それぞれ詠まれた時期が違うのである。

7番歌では、皇極天皇の時、宇治の都を詠んでいた。

8番歌と9番歌は重祚した斉明天皇だが、時期が逆になっている。百済救援(661)に出かけたまま斉明天皇は崩御となられるから、斉明天皇の紀伊国行幸(658)は船出の前の有間皇子事件があった時の行幸になる。本来は、9番歌・8番歌の順であったはずである。意識して入れ替えているのだろう。

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㉕9番歌が入れ替えられたのは、次の10・11・12番歌と関わらせるためである。

 9番歌は紀伊国行幸の時の歌である。二句には定まった読みがない。


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読みが定まっていない漢字には「しづまりし うらなみさわく」という読みがつけられています。他に「ゆふつきの あふきてといし」「ゆうつきの かげふみてたつ」「みよしのの山みつつゆけ」「紀ノ國のやまこえてゆけ」「しづまりし 神ななりそね」「ゆうつきのかげふみてたつ」などなど。(紀ノ國のやまこえてゆけ? なぜこのように読めるのか、分からないのである。)


額田王は斉明天皇の傍近くに仕えていた時、大きな事件を歌に詠んだ

7番歌は「明日香川原宮天皇の御代」で、皇極天皇代である。「京」とは、天皇=大王の住いのある処のはずなのに。宇治天皇は歴史には登場しない。では、なぜ、額田王は宇治の都を詠んだのか。「あの時、あの方が秋の野の美草を刈り取り、一夜の仮廬の屋根を葺いて宿リされた」この天皇は果たして誰なのだろうか。

万葉集の巻一の7・8・9・10・11・12番歌から、万葉集が何を伝えようとしているのか。歴史の闇に消された事実が見えるのではないか。斉明天皇の御代の大事件は有間皇子事件であろう。それは、皇位継承にかかわる事件だったと思われる。


9番歌 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾が瀬子がい立たせりけむ いつかしが本


㉖ 9番歌は紀伊国行幸の時の歌である。二句には定まった読みがないというが、実は、額田王は故意に詠めなくしたのではないか、という解釈もある。此処に額田王の本音があるのではないか、というのである。 読めないような漢字を使ったのなら、漢字そのものを読んでみてもいいと思う。
(個人的な読みは既にブログで紹介している)

 忘れてはならないのは、この歌は「斉明天皇の紀伊国行幸に従駕しての歌」と云うことである。額田王の歌の題詞には「幸(みゆき)」と云う字があるから、天皇の行幸時の歌である。

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斉明天皇の「紀伊国行幸」時の額田王と中皇命の歌が並んでいる。10番歌~12番歌は中皇命の歌で、紀温泉に往った時の歌なのである。ただし「幸す」と「往す」と「いでます」の字が変えてある。「中皇命、紀温泉に往す時」は、天皇の行幸について行ったのではない。

では、中皇命は、何をしに紀伊温泉に往ったのか。(また、12番歌には「天皇の御製歌」という、異説があるが、誰天皇の御製なのか。)

玉璽を預かった間人皇后が、護送された有間皇子を紀伊温泉に追って往った時の歌が、3首も続けて巻一に掲載されている


㉗ 紀伊国行幸の10・11・12番歌の中皇命であるが、巻一には、中皇命という女性が二度登場する。同じ巻一に登場するので、同一人物と考えられる。別人であれば、脚注がつくはずだから、この巻一の中皇命は「斉明天皇」ではありえない。


そもそも、この歌の意味は、「あなたと私がいつまで生きられるか分からないけれど、この岩代の草はそれを知るかもしれない。さあ、草を結んで神に命永からんことを祈りましょう」という歌意である。「私の大切な方が借廬を作っておられます。草が足りないのであれば、先ほど神に祈った子松の下の草をお刈りくださいませ」この次に、12番歌がある。

しかし、後世の人は、12番歌の位置と意味が分からなかったらしい。「私が見せたいと思っていた野嶋は見せた。だが、底深い阿胡根の浦の真珠を拾いたかったのに拾わなかった」この歌は何だ? どういう意味で此処に置かれたのだ? と疑問を懐いたらしい。いえいえ、ここはポイントで、この歌を読んだのは「中皇命ではなく天皇だ」と脚注があるのをみのがしてはならない。ここには敬語も使われていないので、中皇命が目下の者に向かって詠んだと解すべきだろうか。いえ、ここは高貴な人(難波天皇)が中皇命に向かって読んだとするほかはない。

つまり、この三首は相聞歌であろう。岩代に護送されてきた難波天皇と中皇命の相聞歌なのである。

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(和歌山県・白浜海岸の有間皇子之碑)

㉘ 書紀では、斉明四年11月、有間皇子は蘇我赤兄の罠に落ちた。11月3日赤兄が有間皇子に近づき、5日密談をした夜中に、守君大石(もりのきみおほいは)、坂合部連薬(くすり)、塩屋連鯯魚(このしろ)と共に有間皇子は捕らえられ紀伊温泉に送られた。9日、牟婁の湯(和歌山県・白浜)での中大兄との会見の後、いったん許されたように見えたが追っ手がかけられ、11日に有間皇子は藤白坂で絞刑に処された。舎人新田部連米麻呂と孝徳帝の忠臣であった塩屋連鯯魚は藤白坂で斬られ、他は流罪になったと書かれている。

孝徳帝の忠臣であった塩屋連鯯魚は殺される時に『願わくは右手をして、国の宝器を作らしめよ』と言ったという。この書紀の記述の意味は何だろうか。文官の鯯魚(このしろ)がいう「国の宝器」とは、律令の仕事以外には考えられないではないか。彼は、文官として自分の仕事を続けたかった。それは、有間皇子に従って難波宮で行っていた仕事以外には考えられない。当然、有間皇子は文官をつかった行政のトップにいたと云うことになる。


7~12番歌(額田王と中皇命の歌)から読めることのまとめ

万葉集は「持統天皇が孫の文武天皇の為に皇統の正当性と歴史を分かりやすく編纂させた歌物語」歴史書であると、初めに述べている。すると、7~12番歌で詠まれた有間皇子事件は、皇統の歴史にとって重要だったと云うことになる。少なくとも、持統天皇はそのように考えたのである。


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この事件が、持統天皇の胸の裡から消えることはなかった。
持統天皇と有間皇子の縁は深いのである。

また、明日。
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# by tizudesiru | 2018-05-22 00:08 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

天智天皇御代には優雅な歌、天武天皇御代には壬申の乱の後遺症

万葉集は、文武天皇のために編纂された「皇統の正当性と歴史」を伝える教育書であり、歌物語であるという立場で「すぎにし人の形見とぞ」を紹介しています。
今日は、㉙から始めます。
16~21番歌が天智天皇の御代の歌であり、22~27番歌が天武天皇の御代の歌である。そこには、詩歌はどのように詠まれているのだろうか。


万葉集巻一・天智帝御代と天武帝御代では、詩歌の編集意図が異なる


16~21番歌は、額田王4首)大海人皇子(1首)井戸王(1首)が詠んだ天智天皇の御代の詩歌で、宮廷の文化行事と近江遷都が詠まれている

*ここには百済救援「白村江敗戦」は詠まれていない。

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㉙ 巻一の「近江大津宮御宇天皇代・天命開別天皇・諡して天智天皇という」という標でまとめられ、此処に置かれている詩歌は、16~21の額田王四首と大海人皇子一首と井戸王一首である。

16番歌 「天皇、内大臣藤原朝臣に詔して春山の万花の艶(にほ日)と秋山の千葉の彩(いろ)とを競(きほ)い憐れびしめたまふ時に、額田王が、歌をもちて判(ことわ)る歌 」

17番歌「額田王、近江国に下る時に作る歌」、18番歌 反歌 

19番歌「井戸王が即ち和(こた)ふる歌」

20番歌 「天皇、蒲生野に遊猟したまふ時に、額田王が作る歌」 21番歌「皇太子の答えたまう御歌」

額田王は天智天皇の御代で大きな活躍をしていたということである。娘の十市皇女は、大友皇子の妃となって御子をもうけていた。親子ともに近江朝では幸せだったのである。

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㉚ 17・18番歌。おや、近江遷都の時、額田王が別れを惜しんだのは、天香具山ではなく、三輪山である。では、王家の本貫の山は三輪山だったと云うことになろうか。

饒速日の山だったことに。

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㉛ 天智天皇代に、額田王と大海人皇子の有名な蒲生野の歌もここに掲載されている。

20 茜さす 紫野ゆき 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る 

21 紫の にほへる妹を にくくあらば 人嬬ゆへに 吾れ恋めやも 

この歌は、天智天皇の遊猟(御猟)の時の歌である。

天智天皇の御代には、宮廷の文化的な行事の歌が掲載されている。

次の天武天皇代に詩歌はどのように詠まれているか


㉜ 天武天皇御代。次の王朝の明日香清御原宮天皇代の歌は、22~27の六首で、十市皇女が伊勢神宮に参赴する時に吹芡刀自が作った歌、麻續王が流される時の人の哀傷歌、それに和する歌、天皇御製歌、或本の御製歌、更に天皇御製歌となっている。 

22番歌 「十市皇女、伊勢の神宮に参赴(まゐで)ます時に、波多の横山の巌(いはほ)を見て、吹芡刀自(ふぶきのとじ)が作る歌」で始まる。これを当時の読み手は、どう受け止めただろう。


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㉝ 十市皇女が伊勢に参赴する時の歌

22 河の上の ゆつ磐むらに 草むさず 常にもがもな 常(とこ)処女(おとめ)にて

天武四年、大伯皇女が伊勢の斎宮となったので、阿閇皇女と共に十市皇女も伊勢を訪れた。この時、吹芡刀自が作って奉った歌である。壬申の乱後、近江朝の総大将の妃であった十市皇女が、夫を失い子の葛野王を連れて天武帝に引き取られた後に行われた伊勢神宮への参赴であった。「水量の多い河の中にある聖なる岩々には草も生えていない。その岩のように常に変わらずありたいものだ。ずっと乙女であるように」

十市皇女は常処女でいることはできなかった。それゆえ、天武7年に宮中で突然命を絶ったのだろう。天武天皇は、十市皇女の薨去に対し、嘆き悲しんだ。本来なら、近江朝の皇后となったかも知れない人の、はかない人生を嘆いたのかもしれない。天智朝を倒した天武帝は「敵将の妃だったとはいえ、娘に再び幸せになってほしい、やり直してほしい。」と願ったのか。十市皇女の運命を知る当時の人は、壬申の乱の悲劇を思い出し、胸を痛めたに違いない。


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㉞ 天武天皇の御製歌25・26番歌は、吉野からの逃亡の歌である。壬申の乱は、天武天皇にとって、人生最大の難局だったのである。

27番歌の『芳野よく見よ』の歌は、十市皇女の薨去の翌年の天武八年「吉野行幸」の時の歌である。皇太子決めをするための「吉野盟約」が行われたとされる時の歌である。然し、この後の歴史の展開を見ると「皇太子決め」だったとは読めない。ただ、天武天皇の大喜び・歓喜の歌から、吉野行幸は特別だったに違いない。それは、暗黙の裡に皇太子となっていた草壁皇子のみならず、天武と天智の双方の皇子が兄弟の契を交わして対等になった「喜びの会合」だったからではないだろうか。永年の重荷を下ろしたという…更に、大津皇子も極位を望むことができると、天武天皇は考えたとわたしは思う

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壬申の乱による後遺症の歌以外には、麻績王の流罪の時の哀傷歌がある。
麻績王がどんな罪だったのか分からないが、世の人は彼に同情したのである。
当時の人には、説明がなくとも事件の顛末は分かったであろう。このように、天武天皇代の歌に宮廷の華やかさはない。
むしろ、悲劇の歌が掲載されている。



天智帝と天武帝の御代では、編集意図が違いすぎる
天智帝と天武帝の御代で取り上げた歌の扱いは、真逆である。
短い天智朝では王家の行事が歌われ、長い天武帝の御代では「皇女の悲劇」など壬申の乱の後遺症が詠まれている。この編集の違い、これはどうしたことか。此処に、持統天皇の本音が見えてくる。


そして、これが文武天皇に伝えようとした皇統の歴史なのである。


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また、明日。

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# by tizudesiru | 2018-05-22 00:07 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

持統天皇の御代に人麻呂は登場し、天皇の傍近くで活躍した

 初期万葉集は、柿本人麻呂が編纂した。持統天皇の勅を受けて文武天皇のために「分かりやすい皇統の歴史書」として完成させたが、文武天皇の崩御により元明天皇に献上する他なかった。然し、元明天皇は激怒し、人麻呂は刑死することになった… という立場で、「すぎにし人の形見とぞ」を紹介しています。

今回は㉟からで、持統天皇の御代の歌になります。

持統天皇の御代にはどんな出来事があり、どんな歌が詠まれたのか

 持統天皇の天香具山の歌と在位中の行幸から浮かんでくる謎

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 持統天皇には常に謎が付きまとう。その代表歌を再確認してみよう。

巻一の28番歌の題詞には「藤原宮御宇天皇代、高天原廣野姫天皇、元年丁亥十一年 軽皇子に譲位  尊号太上天皇と曰」と書かれている。そして御製歌。

28 春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香久山

万葉集の秀歌であるが、叙事詩とすると『耐え忍んだ冬が終わりやっと春が来て、その春も過ぎいよいよ夏が来たらしい。氏神の香具山に神祭りのしろたえの衣を干しているではないか。やっとわたしの時代、天の香具山の皇統の時代になったのだ。』と読んだ。持統帝が実権を握ったのは晩年だったが、これから自分の思いを貫くのだという決意の表れた歌なのだ。だが、一体、いつ詠まれたのだろうか。歌の意味と即位後の持統帝の行動とがかなり結びつかないのである。


律令政治に切り替えた持統天皇は、吉野行幸を繰り返した
 持統四年(690)即位、持統帝はそれまでの天武天皇の皇親政治を止め律令による政治を目指したらしく、太政大臣(高市皇子)と右大臣(多治比嶋)の儀政官の任命をしている。自分の時代には天武天皇の政治は引き継がないと、やりたいように政(まつりごと)をするという決意の表れでもあろう。

だが、それにしては天皇が都に居ないのは何故だろうか。持統帝は常にお出かけしているのである。吉野行幸だけでも三十数回ある。他にも親しい明日香皇女の田荘に行幸、紀伊行幸や伊勢行幸と在位中に留守が多いのである。天皇が不在でも行政は役人が行うであろうが、宮廷の祭事や神事はどうだろうか。天皇の吉野行幸は多すぎて、即位後に持統帝による神事が定期的に行われたかどうか疑わしいのだ。即位は持統四年で称制期間の三年を経た後であるが、行幸の回数を見てみよう。

持統三年の三月から吉野行幸が記録されている。三年(1、8月)四年(2,5,8,10.12月)五年(1,4,7,10月)六年(5,7,10月)七年(3,5,7,8,11月)八年(1,4,9月)九年(2,3,6,8,12月)十年(2,4,6月)十一年(4月)、  年に三回から多い時には五回と、回数の多さに驚かされる。
持統天皇は、何を考えていたのだろう。


持統天皇が作ろうとした教育書は、軽皇子の為だった

草壁皇子が薨去した年、持統天皇は皇子達の教育のために「撰善言司」を置き教科書造りを始めた。何より軽皇子(文武天皇)の為であったと思われる。

持統天皇は皇子達に良い教科書を与えようとした⇒万葉集に発展したのではないか

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㊱ 
持統天皇が即位したのか、しなかったのか、様々な説がある。年表を見ると天武天皇崩御の後、三年間空位であった。そこで持統帝は何を考えたのか。持統三年「撰善言司」を置くとあるが、目的は何だろうか。

草壁皇子の死後、皇統のための歴史書・文武帝や他の皇族の為の教科書が必要だと持統帝は思った。完成しなかったのは、他の方法を考えたからではないか。持統帝は真剣に教育書が必要だと思っていたのである。万葉集は、この「教育書としての役割を担って編纂された」と私は思う。

年表から、高市皇子太政大臣に任じすべてを委ね、紀伊国へ行幸したと読むことができる。

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人麻呂は持統三年には登場し、持統天皇の傍近くで詩歌を献じ続けた

㊲ 持統天皇の御代は圧倒的に歌の数が多い。柿本人麻呂の活躍も大きい。
 柿本氏の出自は、天足彦国押人命の後、敏達天皇の御世家門に柿樹があったので氏名とした。(姓)祖は孝昭天皇皇子、天押帯日子命(記)。天武十年(681)十二月と、和銅元年(708)四月の柿本猿(佐留)との関係も論じられている。

万葉集で年次の明らかなものは、持統三年(689)の日並皇子殯宮挽歌、同十年、高市皇子殯宮挽歌、文武四年(700)明日香皇女殯宮挽歌が挙げられる。ただ、天皇に対する挽歌はない。また、人麻呂は、和銅三年以前に没したというのが定説である。

人麻呂作歌(長歌19、短歌69)人麻呂歌集(長歌2、短歌332、旋頭歌35)人麻呂の歌中(短歌3)此の数の多さから、万葉集の編纂者は人麻呂以外に考えられない。

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持統天皇の御製歌の次の歌は、近江朝を偲ぶ歌

持統天皇代、圧倒的にこの御代の歌が多いので、「持統万葉」などと「初期万葉」は呼ばれている。持統天皇代の歌を見てみよう。

「藤原宮御宇天皇代・高天原廣野姫天皇・元年丁亥十一年 軽皇子に譲位す・尊号を太上天皇と曰」とあり、「春過ぎて」の有名な歌に始まる持統天皇代の歌が並ぶ。持統帝代の詩歌の題詞をあげてみよう。{☆は、人麻呂の作歌 △は、慶雲三年(706)持統天皇崩御後の歌となる}

28番歌 天皇御製歌、

☆29番歌 近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌(長歌)と反歌二首(30,31番歌)

 32・33番歌 高市古人、近江の旧き都を感傷しびて作る歌 或る本には高市連黒人といふ

 34番歌 紀伊国に幸す時に、川島皇子の作らす歌 或は、山上臣憶良作るといふ

 35番歌 勢能山を越ゆる時に、阿閇皇女の作らす歌   ◎阿閇皇女は元明天皇

☆36・37番歌 吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌(長歌)と反歌 

◎持統三,四,五年のいずれかの従駕

☆38・39番歌(吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌)長歌と反歌 

☆40・41・42番歌 伊勢国に幸す時に、京に留まれる柿本朝臣人麻呂が作る歌 ・三首

43番歌 当麻真人が妻の作る歌

44番歌 石上大臣従駕にして作る歌

☆45・46・47・48・49番歌 軽皇子、安騎の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌 ・長歌と短歌四首

50番歌 藤原の宮の役民の作る歌

51番歌 明日香の宮より藤原の宮に遷りし後に、志貴皇子の作らす歌

52・53番歌 藤原の宮の御井の歌(長歌)と短歌

54・55・56番歌 大宝元年辛丑の秋の九月に、太上天皇、紀伊国に幸す時の歌・三首

57・58番歌  二年壬寅に、太上天皇、三河の国に幸す時の歌・二首(長忌寸意吉麻呂、高市連黒人)

59番歌  誉謝女王が作る歌

60番歌  長皇子の御歌

61番歌  舎人娘子、従駕にして作る歌

62番歌  三野連、入唐する時に、春日蔵首老が作る歌 ・大宝二年六月

63番歌  山上臣憶良、大唐に在る時に、 本郷を憶いて作る歌 ・大宝二年

64・65番歌 *慶雲三年丙午に、難波宮に幸す時 志貴皇子の作らす歌 長皇子の御歌 △  

66・67・68・69番歌 太上天皇、難波宮に幸す時の歌 ・四首(置始東人 高安大島、身人部王、清江娘子)・

70番歌  太上天皇、吉野の宮に幸す時に、高市連黒人が作る歌    ・大寶元年か?

71・72番歌  大行天皇、難波の宮に幸す時の歌・二首(忍坂部乙麻呂、式部卿藤原宇合)・文武三年

73番歌  長皇子の御歌

74・75番歌  大行天皇、吉野の宮に幸す時の歌 ・二首(或は天皇御製歌、長屋王)・大寶二年か?

  

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即位の年、持統天皇は紀伊国の有間皇子の所縁の地を訪ね、歌を詠ませた・人麻呂も紀伊国行幸に従駕していた?

 持統四年は即位の年だが九月には紀伊国行幸もしている。

持統四年(690)1月即位、2月吉野行幸、5月吉野行幸、6月泊瀬行幸、7月高市皇子太政大臣、多治比島真人を右大臣、八省百寮を選任。8月吉野行幸。9月戸籍を作らせ、紀伊国行幸。10月吉野行幸。11月元嘉暦と儀鳳暦を施行。12月吉野行幸。

 吉野行幸も不思議なのだが、持統四年(690)の紀伊国行幸も不思議である。持統帝の即位は四年一月、前年の四月に日並(ひなみしの)皇子(草壁皇子)を亡くした後、残された阿閇皇女を連れての行幸だった。

孫の軽皇子に皇統をつなぐには持統帝の即位しかなかったのである。が、その即位後の吉野行幸、紀伊國行幸とは、持統帝は即位後に何をしたかったのだろうか。行幸にどんな目的があったのだろうか。
(阿閇皇女にも有間皇子事件を知らせ、皇子の霊魂を共に鎮魂をするためだったのか)
では、朱鳥四年の紀伊国行幸を読んでみよう。
(紀伊国行幸の歌は、明日取り上げます)

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持統四年は即位の年だが九月には紀伊国行幸もしているので、ほとんど都にはいなかったことになろうか。これでは天皇としての仕事も滞ると思われ、「持統帝は即位していなかった説」も生まれようというものである。すべてが高市皇子にゆだねられ、太政大臣高市皇子が政権の中枢に座りほぼ天皇と同じ立場となっていたことになるのだろうか。そうなると、軽皇子(文武天皇)が成長した暁には高市皇子の存在がネックになるではないか。高市皇子はその権力の象徴として、耳成山を北にして藤原宮を造営している。絶大な財力も彼の手にあったのである。それが為に軽皇子の元服の半年前に薨去となったのだろうか。しかも、万葉集の高市皇子の扱いは微妙である。其の力を認めながらもどこかでおとしめているように思われるが、これは気のせいだろうか。
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また、明日。


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# by tizudesiru | 2018-05-22 00:06 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

万葉集の不思議・持統天皇は近江朝と有間皇子を偲び続けた

今日の辺りは、すでに何度か書いたことと70%ほど重なります。
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初期万葉集は、端的にいうと「持統天皇が編纂させた史書である」としてブログを進めています。長いので少しずつ紹介しています。今日は、「すぎにし人の形見とぞ」の㉟からです。
持統4年の紀伊国行幸は、草壁皇子の薨去の翌年ですから、妻の阿閇皇女は夫の草壁皇子を当然偲ぶでしょうね。

草壁皇子の妃・阿閇皇女・前年に薨去した夫を偲ぶ歌

㊵ 
持統四年の紀伊国行幸で有間皇子事件を詠んだ川嶋皇子と草壁皇子を偲んだ阿閇皇女

朱鳥四年(690)四月、持統天皇は草壁皇子妃の阿閇皇女を連れて紀伊國に行幸した。阿閇皇女は天智天皇と石川夫人(姪娘)の娘であり、後の元明天皇である。皇女は前年4月に夫・草壁皇子と死別していた。残された三人の子どもたちはまだ幼かったので、軽皇子が七歳、氷高皇女が十歳で末っ子の吉備皇女は五歳くらいだが、都に残しての行幸だったのだろうか。

 勢能山を越える時、阿閇皇女の御作歌

35 此れやこの倭にしては我()が恋ふる 木路()にありとふ 名に負ふ勢の山

 
 阿閇皇女は、背ノ山を越える時、草壁皇子を偲んだ。背ノ山を越えると紀伊国である。船で紀ノ川を下れば、背ノ山と妹山の間を抜けるとやがて川幅が広がり紀伊國の風景が広がる。

「紀伊国への路に有るという背ノ山のことは倭でも聞いていました。川を挟んで妹山と向き合っている背ノ山をぜひとも見たいと日頃から思っていたのです。これがその名のとおりの背ノ山、そうなのですね。(背ノ山をやっと見たのだが、我が身は背の君を失っているので、背ノ山と聞くと草壁皇子を思い出して切ない。紀伊國の背ノ山が川を挟んで妹山と向き合ってはいるのは、まるで川を渡れない私と夫のようではないか)」夫を失って一年、まだ皇女の歌には喪失感が漂っている。女帝と皇女は草壁皇子を偲んで紀伊国でともに泣いたのであろう。持統天皇が異母妹で息子の妻の阿閇皇女を連れて紀伊国に行幸したのは、皇女を励ますためでもあったろう。そして、もう一つ目的があった。

持統帝は未だ悲しみの癒えない嫁に、この行幸で伝えたいことがあったのだ。同じ持統四年の紀伊国行幸の時の川嶋皇子の歌が、その事を示している。川嶋皇子の歌は巻一の34首目で、阿閇皇女の歌の一首手前にある。そこには何と有間皇子事件が詠まれている。

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㊶ 
 紀伊国に幸す時、川嶋皇子の御作歌 或は山上臣憶良の作という

34 白波の濱松が枝()手向け草 幾代(いくよ)までにか年の経ぬらむ

川嶋皇子の父は天智天皇、母は色夫古(しこぶこの)(いらつめ)姉は大江皇女である。大江皇女は天武天皇の妃となり、長皇子・弓削皇子を生んでいる。

「懐風藻」伝によると川嶋皇子は大津皇子と莫逆(ばくぎゃく)の契を結んでいたが、天武天皇崩御の後の十月、大津謀反を朝廷に密告した。その事で大津皇子は死を賜っていた。この密告の年・朱鳥元年八月には、川嶋皇子は「封百戸」を与えられている。持統天皇の信任厚かったということだ。持統五年(691)にも「封百戸」を与えられているが、同年九月に薨去した。それは、上記の紀伊国行幸の翌年のことである。

皇子川嶋のこの歌は、明らかに有間皇子事件の悲劇性を詠み、御霊を慰めている。「白波が寄せる浜辺の松の枝を神に手向けるように結んで祈ったという有間皇子。あの事件からいったい何年たったことだろうか。皇子のことを思うと心が痛む。幾年過ぎても皇子を忘れることはない」という大意になる。然し…

川嶋皇子は三十年前の有間皇子事件を生まれていないので知らないはずである。が、「幾代までにか年の経ぬらむ」と有間皇子を偲んだ歌を詠み、「紀伊国に幸す時」だから公的な場で持統天皇に献じたのであろう。すると、はたまた違和感が漂う。川嶋皇子の御作歌が詠まれた持統四年(690)は、前年に皇太子である草壁皇子を失った後の行幸であるのに、草壁皇子ではなく有間皇子を偲ぶとはどういうことだろうか。

有間皇子事件を知らない川嶋皇子が、なぜ「結び松」を詠んだのか

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㊷ 川嶋皇子の歌は、天皇の行幸に従駕して献じたものであるなら、行幸先の土地を誉め旅の無事を祈る歌になるはずだが、持統四年の行幸では有間皇子の霊魂を鎮めているのだ。

この時の行幸に従駕して献じられた歌は巻二「挽歌」にも残されているが、やはり有間皇子を偲ぶ歌である。行幸の目的は、有間皇子の霊魂を鎮めるためだったことになる。題詞に『紀伊国に幸す時、川嶋皇子の御作歌。或は山上臣憶良作ると云う』とあり、歌の左下にも『日本紀には、朱鳥四年庚寅の秋九月に、天皇紀伊国に幸すという』という脚がある。『紀伊国行幸』が題詞と左脚の両方に書かれているのは、これが事実であることを強調しているのだろう。此処の朱鳥四年の紀伊国行幸に関しては、巻一には阿閇皇女の歌と二首だけしか見当たらないが、あとは巻二の「挽歌」に掲載されていて、この紀伊国行幸が有間皇子を偲ぶ旅だったのは揺るがないのである。

 また、川嶋皇子の一首(三四)とよく似た歌は、巻九の「山上の歌一首」である。

1716 白波の 浜松の木の 手むけ草 幾世までにか 年は経にけむ(巻九)

左下の脚に「或は川嶋皇子の御作歌という」とある。山上とは、山上臣憶良のことである。この年、憶良も持統天皇に従駕して紀伊国に旅をしているので、その時のものであろう。なぜ、二人の人物の名が必要だったのだろうか。元歌は山上の方だが、川嶋皇子の御作歌なら更に無実の有間皇子の悲劇性を強調する、と万葉集編者は考えたということか。川嶋皇子が有間皇子を思うという姿が必要だったということだろうか。

有間皇子の事件からは三〇年以上のかなりの時を経過しているが、大津皇子事件からはわずか四年である。その記憶は誰にも新しいはず、まして川嶋皇子には生々しい記憶のはずである。

万葉集の編集意図としては、有間皇子の無実を際立たせるために大津皇子謀反事件の密告者である川嶋皇子の歌が必要だと判断したから、巻一の「雑歌」34に川嶋皇子の歌が置かれたのだろう。それも、持統天皇の前で公的に詠んだというのである。

つまり、朱鳥四年の紀伊国行幸に従駕した川嶋皇子の歌には、『わたしは大津皇子の謀反を許さなかったが、有間皇子の謀反は無実であると知ったので、このようにあの結松を見て、何年たったのだろうかと古に思いをはせたのだ』と持統天皇に献じ、更に、『親友を裏切ったあの皇子川島でさえも有間皇子を偲んでいる。有間皇子事件は誰にも痛ましく思われるのだ』と周囲にも伝えているのだ。

それにしても、万葉集で「持統天皇の紀伊国行幸時」の詠歌となると従駕者が「有間皇子を悼む歌」となるのは、皇子の魂鎮めだけでなく、持統天皇との並々ならぬ因縁もありそうである。

わたしは度々持統天皇と有間皇子の関係を取り上げている。如何なる縁があるのかを。

持統天皇は天智天皇の近江朝を偲び、その霊魂を鎮め続けた


㊸ 
漂う霊魂を鎮めたのは持統天皇

 阿閇皇女と川嶋皇子の歌は重いが、これだけが重たいのではない。川嶋皇子の歌の前には、高市古人の二首があり近江朝を偲ぶ歌となっていて、その前には「近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂が造る歌」の長歌と反歌が置かれている。持統天皇の御製歌「春過ぎて」の後には、何と近江朝を偲ぶ歌が続くのである。そして、阿閇皇女の歌に至る。勢能山(背の山)の歌まで「失った人=すぎにし人」を偲ぶ歌が続くのである。

  高市古人(黒人)、近江の旧(ふる)き都(みやこ)を感傷(かな)しびて作る歌

32 古(いにしえ)の人にわれあるや 楽浪(ささなみ)の故(ふる)き京(みやこ)見れば悲しき

33 楽浪の 国つみ神の うらさびて 荒れたる京(みやこ) 見れば悲しも

34 白浪の 濱松が枝の 手向け草 幾代までにか 年の経ぬらむ

35 これやこの倭(やまと)にしては我が恋ふる 木路(きぢ)に有りとふ名に負ふ勢の山

高市古人は「私は昔の人なのであろうか、まるで昔の人のように昔のものを見ると様々に思い出されて悲しい気持ちになる」と近江朝を追慕した。

32~35までの歌は、古の人を思うという意味で並べられたものだろう。ここに云う古とは、「近江朝の天智天皇」と「紀伊国に護送された有間皇子」と「阿閇皇女の夫である草壁皇子」の時代で、持統天皇が繰り返し懐かしんだのはこの三人であり、近江国と紀伊国だったということ、それは万葉集の中で一貫している。持統天皇はひたすら近江朝を懐かしむのである。

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㊹ 
人麻呂は、公的な場で近江朝を偲んだ。そして、個人的にも近江朝を偲び続けた。本来なら、現王朝の臣下として前王朝を偲び続けるなんてありえない。然し、誰にも遠慮する必要がなかった。持統天皇が望んでいたのだから。


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㊺ 
巻三の人麻呂の歌の隣にある歌。264,265,266番歌を見よう。

真ん中に挟まれるのは、長忌寸意吉麻呂の歌になる。歌の中身も、場所も前後の人麻呂の歌とずれている。編集の仕方がイビツで、何らかの編集意図が働いていると思われる。人麻呂の歌は、何故か、万葉集中にバラバラになっているのである。

持統天皇の絶大な信頼を得ていた柿本朝臣人麻呂。だが、集中の人麻呂の歌はバラバラにされている。人麻呂の歌がバラバラにされた理由は、後世に再編集した為に他ならない。


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人麻呂は近江朝と難波朝の歌物語を万葉集に展開していたと、わたしは思うのです。それが分からないように、歌はバラバラにされていると思うのです。
明日は、初期万葉集のクライマックスです。そこに掲載された歌は、万葉集を考えるうえで大切なポイントなのです。
では。また明日。


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# by tizudesiru | 2018-05-22 00:06 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

柿本朝臣人麻呂が詠んだ「安騎野の冬猟」すぎにし人の形見とぞ

㊻ 人麻呂こそが勅を受けて万葉集の編纂をした。いよいよ、この事に迫らなければならない。


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万葉集巻一の主題は「軽皇子、安騎の野に宿リます時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」に込められた


㊼ 
万葉集の中心歌は45~49番歌である。原万葉集=初期万葉集は、この歌がクライマックスとなるように編集されていた。

「やすみしし我が大王 高照らす日の皇子」と、軽皇子を詠んでいる。「高光る」ではなく「高照らす」だから、統治者であると云っているのである。人麻呂は皇子や皇女のおかれた位置をはっきりと読み分けている。彼は、皇統とその継承者の立場と順位、すべてを承知していた、のである。

黄葉(もみじば)葉(もみじば)が意味する呪歌「安騎の野の冬猟」の歌は、草壁皇子と軽皇子結ぶ詞=霊的な言葉 である

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葉を「もみじば」と詠んだ歌は一首のみ
㊽ 
人麻呂の歌・人麻呂歌集の歌に「もみじば」は下記の14首に使われているが、そのうち6首は挽歌★である。また、万葉集の挽歌に使われた「もみじば」は12首で、12首のうちの6首が人麻呂の歌である。

38春へは花かざしもち 秋立てば黄葉(もみじば)かざせり  

47ま草刈る荒野にはあれど(もみじば)の過ぎにし君が形見とぞ来し  

135大船の渡りの山の黄葉(もみじば)の散りのまがひに

★137秋山に落つる黄葉(もみじば)しましくは な散りまがひそ 妹があたり見む 

★196春へは花折りかざし秋立てば黄葉(もみじば)かざし   

★207奥津藻のなびきし妹は黄葉(もみじば)の過ぎていにきと  

★208秋山の黄葉(もみじ)を茂みまどいぬる 妹を求めむ 山道知らずも  

★209黄葉(もみじば)の散りゆくなえに玉梓の使いを見れば逢いし日おもほゆ  

★423九月(ながつき)のしぐれの時は黄葉(もみじば)を折りかざさむと  

1094我が衣色取染めむ うま酒三室の山は黄葉(もみじ)しにけり  

1306この山の黄葉(もみじ)が下の花を我 はつはつに見て さらに恋ふるも  

1676背の山に黄葉(もみじ)常しく 神丘の山の黄葉(もみじ)は今日か散るらむ (人麻呂?)  

1703雲隠り雁鳴く時は 秋山の黄葉(もみじ)かた待つ 時は過ぐれど  

1796黄葉(もみじば)の過ぎにし子らと携わり 遊びし磯を見れば悲しも (★) 

2178(題)黄葉を詠む *題のみ
(妻ごもる矢野の神山 露霜に にほひそめたり散らまく惜しも)

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人麻呂が「葉」を「もみじば」と詠んだ人=葉のすぎにし君=草壁皇子
「葉」に、万葉集の主題が込められている


㊾ 
『葉(もみじば)の過ぎにし君が形見とぞ』この言葉に集約する万葉集の主題。45~49番歌こそが、万葉集巻一のクライマックスの五首なのである。
もみじば=葉 集中には一か所しかつかわれていない。まさに、草壁皇子を象徴する詞である。人麻呂が魂をこめた神降しの語なのである。そして、詠みあげた。

 日並皇子の命の馬なめて み狩立たしし 時は来向かう


日並皇子尊の皇統を受け継ぐべき軽皇子(文武天皇)のために、草壁皇子の霊魂に触れる儀式が執り行われた。皇統の正当性を此処で証明したのである。

その皇統は、草壁皇子につながるものである。草壁皇子こそが日並皇子である。


45 国の四方をお治めになるわが大王であり、高くより統治なさる日の皇子が、神でありながらより神らしくなって、治めておられた都から、人郷を離れた泊瀬の山、その真木が立ち並ぶ荒れた山道を岩や木の根がさえぎるのを踏み越え、朝早くから夕方になるまでかかって、雪がちらつくような阿騎の大野に来て、ススキや小竹を押なべて旅の宿リとなさった。いにしえをお思いになりながら。


46 阿騎の野に宿りする旅人は、すっかり手足を伸ばして寐ることなどできないなあ。いにしえをいろいろ思うので眠ることはできはしない。


47 ま草を刈るような荒れた野ではあるけれど、ここは黄葉のようにお亡くなりになったあの方の形見の地。形見の地だからこそ、我々は此処に来たのだ。


48 東の野にかぎろいが立ち始めた。いよいよ日が昇り始める。振り返ると月が将に沈もうとしている。まるで、月があの方の魂で、皇子の魂である新しい日に全てを委ねるように、月が沈もうとしている。


49 日並の皇子の命が馬を並べて、遊猟の儀式にお立ちになった、あの瞬間が近づいた。あの時と同じ瞬間に、今まさに対面する。いよいよ皇太子霊を受け継ぐのだ。


 文武天皇は即位し、その御代は充実していた…人麻呂編集の万葉集は、着々と出来上がっていた。だが、しかし…

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やがて終焉の時…が、持統天皇の崩御により王朝は揺らいだ。人麻呂は万葉集の奏上の時期を逸した。天武天皇の皇子が生存している中での、若い文武天皇の政治には困難が無いはずはない。
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後ろ盾の持統太上天皇を亡くした文武天皇の悩みも深く大きかっただろう。天武帝の功臣と皇子達が生き残っている状況では、草壁皇子の後継者としての立場は弱かっただろう。こんな時の為に、持統天皇は「万葉集」を残したかったのだが。


㊿万葉集は、草壁皇子の御子・文武天皇の為に編纂されたのである。皇統の正当性、皇統の歴史を歌物語にし、 15歳で即位した文武天皇の心の拠所となるように、持統天皇が勅により編纂させた、という他はない。だから、万葉集には「語られなかった歴史の真実」が散らばっている。

歴史書として、万葉集を読みなおせば、巻一に何が書かれているか。
「草壁皇子の霊魂を受けるべき人は、軽皇子ただ一人」と書いてあるのだ。
49 日並皇子の命の馬なめて み狩立たしし 時は来向かう
日並皇子がなさった儀式を、同じ時刻に同じように執り行ったと。

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その皇統は、草壁皇子につながるものである。草壁皇子こそが日並皇子である。もともとの万葉集巻一は、ここでクライマックスを迎えたのである。

当然、ここに至るまでの歌が天皇の御代の順に並べられていたと思われる。

然しながら、後世に再編集されてしまったと、万葉集を読んで思うのである。

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今日のまとめ
日並皇子尊の皇統を受け継ぐべき軽皇子(文武天皇)のために「万葉集」は編纂された! それを解き明かすのが「もみじばのすぎにし君」と詠んだ人麻呂の歌である。


そして、万葉集を編纂したが故に人麻呂は死を賜った。
次回は「人麻呂の刑死」について書く予定です。

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# by tizudesiru | 2018-05-22 00:05 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

万葉集を編纂した柿本人麻呂は何故死んだのか

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柿本朝臣人麻呂こそが持統天皇の詔を受けて万葉集を編纂した。と、いう立場で、万葉集巻一に何が書かれていたのか、紹介してきました。「すぎにし人の形見とぞ」の最終回です。今日は50~57までです。

宜しくお願いします。


万葉集の編纂の意図を、万葉集そのものが語る

㊿万葉集は、草壁皇子の御子・文武天皇の為に編纂されたのである。皇統の正当性、皇統の歴史を歌物語にし、 15歳で即位した文武天皇の心の拠所となるように、持統天皇が勅により編纂させた、という他はない。皇統の歴史として、万葉集には「語られなかった歴史の真実」が散らばっている。


歴史書として、万葉集を読みなおせば、そこに何が書かれているか分かるのである

書かれているのは、草壁皇子の後継者は軽の皇子より他にはいない。軽皇子こそ統治者であり、日の皇子・大王である。その皇統は正統である。
 
編纂の勅を出した持統天皇、勅に従った柿本人麻呂
初期万葉集は、持統天皇・文武天皇の時代にまとめられたものである。巻一には長歌・短歌あわせて84首あるが、うちわけは、
雄略(1)舒明(5)皇極(1)斉明(8)天智(6)天武(6)持統(34)文武・持統太上(14) 元明(8)奈良宮(1)となっている。

巻一には、「挽歌」の部立はない。だから、どの天皇の御代の歌が多いのか、挽歌を含んだ巻二の数も必要であろうか。巻二の全150首のうちわけ、

仁徳天皇代(6)斉明(2)天智(21)天武(9)持統(105)奈良宮(7)

やはり、圧倒的に持統天皇代の歌が多い。

では、持統天皇代に活躍した歌人といえば、柿本朝臣人麻呂である。やはり、編集をした人物は人麻呂以外に考えられない。

持統天皇の崩御(702)後、人麻呂は初期万葉集の編集に励んだが、数年後に文武天皇の崩御(707)となった。人麻呂は「万葉集」を献上すべき帝までうしなったのである。


文武天皇崩御後、初期万葉集は行き場を失った

52 初期万葉集の終焉

文武天皇の崩御(707年6月)の後、元明天皇即位(707年7月)。この時、天武朝は皇位継承問題で揺らいだことだろう。そこで、元明天皇が極位に着くには、相当の政治的困難があったと思われる。天武帝の皇子は多く健在であり、高市皇子の王子達もいるからである。頼みの持統天皇も既になく、元明天皇を支えた御名部皇女(高市皇子の妃)の力は大きかったことだろう。

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78(元明天皇)79(御名部皇女)の歌

和銅元年(708)戊申(つちのえさる)に天皇としての儀式をするにあたって、元明天皇は不安に襲われたようだ(78番歌)。それを支えたのは姉の御名部皇女で、大王を支えた歌(79番歌)を詠んだのである。

この年、和銅元年4月、柿本朝臣佐留が没している。

柿本佐留が人麻呂であるのなら、和銅元年に人麻呂を罰したのは元明天皇であろう。

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元明天皇は奏上された万葉集を見て動揺したと思われる。

そこに書かれていたのは、草壁皇子につながる皇統の正当性であり皇統の歴史だった。天武帝の皇子達にはゆゆしき歌集であったはずである。この時、元明天皇を支えた御名部皇女は、高市皇子の妃であった。どんなに元明天皇は支えられたか。姉の御名部皇女は「ご心配なさいますな」と妹を励まし、諸臣を抑えたことだろう。
そして、人麻呂には厳罰が下され、人麻呂は受け止めたのである。

人麻呂刑死後、初期万葉集は彷徨った

53 
万葉集の巻一の終わり方は不自然である。元明天皇の御代の歌は、即位と「平城宮遷都」関係の歌である。

巻一の最終歌は「寧樂の宮」となっていて、歌は「長皇子、志貴皇子と佐紀宮にしてともに宴する歌」の一首のみである。

 長皇子と志貴皇子の歌が並んでいたというが、志貴皇子の歌が欠けている。突然の終焉ではなく、ここにもこれ以外にも歌があったのかもしれない。巻一は最後まで第三の編集が行われているようだ。他の巻の歌の総数を見ると、

巻一(84首)、巻2(150首)、巻三(252首)、巻四(309首)、巻五(116首)、巻六(160首)、巻七(350首)、巻八(246首) 、巻九(148首)、巻十(539首)、巻十一(490首)などなど、数だけを見ると、巻一は少なすぎる。

このことから何らかの編集の手が入った結果と考えられる。それは、単なる歌の並べ替えではなく、大きな権力を持った人の意思と思考による改造であったと思う。歌を変えることはできないので並べ変えと、若干の題詞の改竄だと思われる。では、誰が手を入れたのか?


54
 
初期万葉集の編纂者は誰か、一次は人麻呂だが

二次、旅人・家持の手を経て、三次、806年平城天皇の元へ召し上げられ編集しなおされたと、考えている。

平城天皇は、万葉集の意義と歌の意味を深く知り、世に出す為に「編集して人麻呂の編纂の意味を隠した」となる。その時点では世に明らかにできないことが多く含まれていたからである。この再編集によって「人麻呂があえて編集し(事上げし)、文武天皇に歌で皇統の歴史の真実を知らしめようとしていた」肝心の皇統の正当性と歴史が読めなくなったのである。

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55 人麻呂が万葉集を編集した
その時期を元明天皇即位後と決めた理由は、文武天皇が「大行天皇」と書かれているからである。

サキノスメラミコト(大行天皇)、天皇位を下りた天子のことをそう呼ぶ。文武天皇崩御後、正式の諡が定まらない時期の奏上であったと思われる。しかし、元明天皇は拒否し、人麻呂を罰した。人麻呂はその事を受け入れた。


56
 
多くの事実が書き残され奏上された初期万葉集を、元明天皇は大伴安麻呂に託したのではないか。蘇我系の石川郎女を妻にしていた大伴安麻呂に。参議大伴安麿が薨去(和銅7年)した後、子の大伴旅人の手に渡った(旅人は父から万葉集の意図を聞き、晩年に歌に目覚める)。旅人の薨去(731)後、家持が受け取る(家持も、大伴坂上郎女と父の手ほどきで歌の道を知り、まい進する)。

家持は自家歌集を編纂し、初期万葉集のように年代順に歌を並べ、同じように歴史書として鎮魂歌集としての体裁とする。政変の為(藤原種継暗殺事件)、家持は冠位を剥奪され、死後に息子と共に島流しになる(万葉集は大伴氏の手により守られる)。

806年、平城天皇が家持の官位を復し、噂の『万葉集』を召し上げる。侍臣に命じて「万葉集」の編纂をするが、この時、家持編集の「後期万葉集」にはほとんど興味をしめさなかったので、そのまま年代順に編集されている。平城天皇の譲位により、万葉集は宙に浮いたが、長くその存在は語り継がれ、多くの文人・学者の耳目を集め、細々と書写され続けた。そうして、「古今伝授」により多くの噂と混然一体となって、「謎の歌集・万葉集」は平安時代を生き延びた。

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巻一の話のまとめ

万葉集巻一は、皇統の正当性と皇統の歴史を文武天皇に教え諭すために編纂編集された教育書である。編纂を命じたのは持統天皇であり、作り上げたのは人麻呂である。ここで、人麻呂個人だったかどうか問題であるが、彼のみが刑死していると思われるので、その罪を一身に受けたと考えている。

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終わりに

57 人麻呂の詠んだ「阿騎野の冬猟歌」が初期万葉集のクライマックスである。そして、巻一の最終歌には何が置かれていたのだろうか。

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現在残されている「万葉集」で巻一の最後を飾るにふさわしい歌は、78番歌ではないだろうか。

この歌をここに置いたのは、大伴家持か平城天皇か、それは分からないが。


「和銅三年庚戌(かのえいぬ)春二月藤原宮より寧樂宮に遷る時、御輿を長屋の原に停め、故郷を廻望みて作らす歌」

一書に云う 太上天皇御製(編集した時点で元明天皇は既に譲位していたことになる)と

78 飛ぶ鳥の明日香の里を置きていなば 君があたりは見えずかもあらむ

    一に云う 君があたりを見ずてかもあらむ    

 長屋の原は、中津道の平城京と藤原京の中間点である。そこで、御輿を停めて明日香に別れの儀式をする。でき過ぎの演出であった。

この時、左大臣石川麻呂は藤原宮に残されていた。元明天皇に従ったのは、藤原不比等右大臣である。「此処で元明天皇に泣いてもらって、藤原宮への未練を断とう」という……その演出をしたのは、藤原不比等を置いて他にはない。


 元明天皇は夫草壁皇子と吾子文武天皇の墓のある明日香を捨て平城宮へ遷都(710)した。藤原宮と平城宮の中間点の長屋の原で、元明天皇は十分に涙を流されたはずである。大きな時代の流れを元明天皇は感じられたことだろう。
 こうして、明日香は「霊魂の漂う京」となった。

時代はこのように変わっていったのである。


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と云うことで、「すぎにし人の形見ぞと」を終わります。
万葉集巻一について、何が書かれているか、十分ではありませんが紹介したつもりです。

後程、詠みやすいように「人麻呂は何故死んだのか」の掲載順を入れ替えます。

また、明日。
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# by tizudesiru | 2018-05-20 21:16 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

丹後半島・竹野川下流に間人皇后は身を隠したのか

古代の丹後半島は、高貴な人が身を隠す場所だった?
雄略天皇が兄の市辺押磐(いちのへのおしは)皇子を射殺したので、その遺児の憶計(おけ)と弘計(をけ)王が、真っ先に逃げた所が丹波国の余社(よさ)郡でした。ここから播磨の赤石郡に行き、名を「丹波小子(たにはのわらは)」と改めて、針間の縮見(しじみ)の屯倉の首(おびと)に仕えた(日本書紀)、とあります。

間人皇后も丹波国に逃げた
丹後半島の間人(たいざ)に在るのが、聖徳太子の母・穴穂部間人(はしうど)皇后の避難の伝承です。
丹後半島の北の景勝地、間人(たいざ)に行きました。

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砂浜の先に見えるのが竹野川の下流にある立岩です。
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立岩の辺りの海、夏はこのような美しい海になるのです。
立岩と向き合うのが穴穂部間人皇后の母子像です。
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用明天皇の皇后だった穴穂部間人皇后は「蘇我物部戦争」を避けてこの地に避難したと云うことです。
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まず、間人(たいざ)の役所に行きました。そこで、間人皇后の伝承と祭について聞きました。知っている人が少ないようでした。
皇后伝承の祭りは、間人町(たいざまち)の祭りではなく「個人的な、少数の家の人が続けている祭」だそうです。

役場で「間人皇后に所縁ある場所かも知れない」ところ、「御所の坪」という意味ありげな場所を教えてもらいました。
役所の方とお寺の方に教えてもらった場所は、家一軒ほどずれたでしょうか。でも、ほぼ同じ所でした。

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早速、行ってみました。
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祭の御神輿は、三柱神社から出るそうです。
奥の鳥居が三柱神社です。海からの斜面を上り詰めた所に神社があります。
「御所の坪」は、だいたい海と神社の間にあるようです。海に向かって降りましょう。

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「御所の坪」という小字(こあざ)の地名に付きました。
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そこは狭い空き地でした。集められたお地蔵さんが置かれていました。
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阿波国二拾三箇所の石塔が建てられていたので、ここにお詣りすれば二十三カ所を巡礼したことになったのでしょうね。

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お寺の奥様のお話によると、伝統の祭りを行っているのは、東さんと言う方々だそうです。祭の案内板は、先ほどの役所の筋向いにありました。

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小さな祠が水無月神社のようです。謂れが書かれていました。
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川すそ祭りは、ここの「水無月神社」で行われているようです。

祭を執り行っている人達は、竹野川を中心とした交通運輸の仕事をしていて、その神として水無月神社を祀って来たそうです。

此処に用明天皇の皇后・穴穂部間人皇后が「蘇我物部の乱」を避けて、大浜の地に避難したという伝承があると書かれていました。祭を執り行っているのは、皇后について来た供人だと云うことです。

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間人の川すそ祭の謂(案内板に書かれていること)
間人と書きて、タイザと読む

不思議のいわれを調べ、我が東氏の由来を探求しここに明文にする。水無月神社は内外の浜なる後ヶ浜川尻に鎮座す。東氏の祭神たる水無月神社は、東氏の遠い先祖より毎年七月二十八日(旧暦六月二十八日)に竹野川の川尻松林に同族相集い、夜を徹して神前に篭り、立岩厳頭に御幣を掲げ、かがり火をこうこうとたき盛大にして賑々しく、斎宮神社の桜井宮司の司祭にて祭神せるものなり。竹野川の川尻松林に大太鼓を叩く響きはしょうらい(松風の音)と共に木霊し、善男善女の参拝は引きも切らず、また妊産婦の参拝は特にに多し、露天は軒を並べ、客を呼ぶ声も高く世の更けるを忘るる程なりしが、敗戦後は髪を軽んずる風潮を生み我が水無月祭も疎となりたり。されども、東氏の遠き祖先より祭事せるものを廃断するは誠に遺憾にして、祖先に対し相済まぬ儀と心得、またこの伝統ある祭事を子孫に伝える義務ありと思料し(中略)神社を行者岩の境内地に昭和51年11月6日千遷宮せるものなり。

間人に於いて各種氏姓あれど一つの氏のみが一つの神事をし、年に一度同族が相集う行事は吾ら東氏のみにして他姓にはなし。

東氏のみが何故何時のころからかかる行事を行いしにや不明なれど、古き昔より口伝を以って相伝え今日に至れるものなり。水無月神社は東氏のみにて祭事せるも、その講中に只一人異姓に者あり。泊氏なり。何故泊氏が東氏請中に加わりしにや不明なれど、往古よりともに祭事す。‥‥我が間人は第31代用明天皇の御后穴穂部間人皇后を通じ大和の国斑鳩の宮との所縁あり。東氏の祖先を明らかにするため古事記、日本書紀またその他の文献より左に明文する。

10世紀の和名抄には間人、大日本地名辞典には「間人は愛人のこと」、土師人の意かとも言い、15世紀の一色軍記には「対座」とあり、丹後旧記には田伊佐津とある。現在の定説は、間人村濫觴記なり。(前掲)東氏の鼻祖は東漢直駒の後胤にして、千余その血脈は二流三流に別れ連綿として繁茂せり。また木目見宿祢は相見となり、浦田麿の子孫は谷、上谷、下谷、小谷と称し、下戸部は下戸に、穂見中江麿は中江に、中臣スグリは中村となる。その外記するに枚をもて挙げるべからず。千余連綿として子孫の繁茂黄するはみな鼻祖の余訳なるべし。水無月神社の祭りを司っている。
上記のように案内板に書かれていました。

「間人(たいざ)がに」で有名な「間人(たいざ)」ですが、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)ゆかりの旧跡であると、「丹後町史・間人村濫觴記録」が伝えているそうです。

聖徳太子の母であり、用命天皇の后であった間人皇后が、夫の死後、蘇我馬子と物部守屋の争いに巻き込まれ、丹後の地に難を避けて、大浜の里(現在の間人村)に滞在したそうです。
この時、間人皇后に仕えて同行した中に、後に蘇我馬子の命令で崇峻天皇を暗殺し、その後天皇殺しの罪で蘇我馬子に惨殺される東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)がいました。東さんはその末裔と称されているそうです。

聖徳太子と蘇我馬子に物部守屋が滅ぼされて、間人皇后は大和の地へ戻ることになり、その時、大浜の里を離れる時に三首の歌を残されました。

大浜の あら塩風に 馴れし身の またも日嗣(ひつぎ)の ひかり見るかな

大浜の 里にむかしを とどめてし 間人村と 世々につたへん

大浜に つとふみやこの ことの葉は 行末栄ふ 人の間人

間人皇后が大浜の里を退座するのに因んで、間人(退座)村と宛名したと、「間人村濫觴記録」が伝えています。間人=はしうど(はしひと)と呼んでは失礼だというので、「退座された地」と云う意味で「たいざ」とよぶことにしたのだそうです。
残された三首を見ると、後の世の人が作歌したとも思えますが。

日本書紀では、
敏達天皇の十四年(585)八月、敏達天皇崩御。九月、用明天皇即位。
用明天皇一年(586)穴穂部間人皇女を立てて皇后と為す。
  二年(587)四月、天皇、仏教への帰依を詔す。天皇崩御。

   六月、蘇我馬子、炊屋姫尊を奉じ、穴穂部皇子と宅部皇子を殺させる。
   七月、蘇我馬子、物部守屋を滅す。
   八月、泊瀬部皇子(崇峻天皇)即位。

上のように展開していますから、穴穂部間人皇女が間人(たいざ)に逃げたのは、587年の5月(6月)から8月の間と云うことになりますね。
皇后が大浜の里に滞在したとしても、三ヵ月ほどになるでしょう。

間人(たいざ)の間人(はしひと)皇后は、用明天皇の妃でしょうか。

穴穂部間人皇后は、直接「日嗣・皇位継承」に関わってはいないように思います。馬子は後の推古天皇を奉じていますし、間人皇后は用明天皇崩御後に用明帝の長子の田目皇子の妃になっているからです。

田目皇子の母は、蘇我稲目の娘・石寸名(いしきな)です。用明天皇の母は稲目の娘・堅塩(きたし)媛でした。用明天皇は、叔母を殯として迎えたのですね。蘇我系の皇子に皇位継承権があったようですね。
 
欽明天皇の有力な皇子皇女の出自は、ほとんどが蘇我氏となっています。

欽明紀では、蘇我稲目の娘・小姉君が生んだのが、埿部(はしひと)穴穂部皇子で兄、即位した崇峻天皇=泊瀬部(はつせべ)皇子は弟になります。書紀の欽明紀では「はしひと」を埿部と表記しています。

古事記では、間人穴太部(はしひとのあなほべ)王、長谷部若雀(はつせべのわかさざき)命となっていますが、埿部穴穂部皇女に当たる女性としては三枝部穴太部(さえぐさのあなほべ)王=須賣伊呂杼(すめいろど)、ですかね。
 
古事記・日本書紀では、人名表記に差異があります。これは、元の資料が違っていると云うことですね。

では、本題です
間人皇后はなぜ丹後半島に逃げたのか
確かに、穴穂部間人皇女も、兄と弟の皇位継承問題にかかわって身の危険を感じたかも知れませんね。それで、三カ月ほど逃げた…ですかね。
(それにしても、田目皇子の妃となったのは何故でしょうか。蘇我系の皇女は外に出さない、外の氏に「皇位継承者の血統」は渡さないという蘇我氏の意思なのでしょうか。「血統こそが財産」の時代ですからね。)

それとも、穴穂部間人皇后ではなく、有間皇子事件を目撃した中皇命(間人皇后)が皇位継承の御璽を持って、兄の中大兄皇子から逃げたのでしょうか。
数年後、見つけ出されて連れ戻されて、その後…薨去となり、葬儀の後に母の斉明帝と合葬され、遂に中大兄皇子が即位した、と云うことでしょうか。
そうであれば、
大浜の あら塩風に 馴れし身の またも日嗣の ひかり見るかな

「またも日嗣のひかり見る」この別れの歌の意味も分かる気がするのですが。

では、この辺で。


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# by tizudesiru | 2018-04-27 20:30 | 346丹後半島に間人皇后の足跡を追う | Trackback

古代の丹後半島に残された宝物がささやく真実

丹後半島には古墳時代前期からの墳丘墓が残っているそうです。
その初期古墳には、木棺に丹が使われ、鏡が副葬されています。つまり、それらの古墳は「鏡文化圏」の墓だと云うことです。
もちろん、近畿には弥生時代の鏡は出土しませんから、古墳時代前期に「鏡文化圏」の影響を受けたと云うことになります。
では、

丹後半島の初期古墳「赤坂今井墳墓」を紹介します
墳墓と呼ぶのは「この墓は、古墳時代のものではない。もっと古い墓だから古墳とは区別するので墳丘墓だ」の意味があるからです。
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さて、そこまで古いのでしょうか。

方形の墳丘に竪穴慕があり、木簡に朱が用いられ、勾玉の装飾品を身に着けた人が眠っているという、赤坂今井墳墓です。

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墳丘の上には伐られた木の切り株が残っていました。

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副葬品を見ると、鉄刀がありますが、「素環頭大刀」でも「素環頭刀子」でもありません。鉄刀です。
ですから、ここは弥生の墳丘墓ではありません。
然し、朱を用いているので、九州の弥生文化の影響を受けていると思います。

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丹後半島やもっと広い範囲の丹波國の墓から出土した鏡は、「倭製鏡」とされています。国産なのです。鏡を欲しがった人の為に、何かを熔かして作ったのです。丹波國の近くにこの時代の銅山はありませんから、手持ちの銅製品を熔かして国産の鏡をつくったのです。

その製作時期ですが、大量に銅製品が丹波に持ち込まれた可能性として「女王国と狗奴国の戦争」の後が考えられます。敗者が船で祖先から伝世の銅製品を持って移動したと。

鏡制作者は、景初三年(239)の女王卑弥呼の魏への遣使を知っていました。丹波国で出土する「青龍三年」銘の画文帯環状乳四神鏡、「景初四年」銘の斜縁盤龍鏡など、その知識を持って製作したのでしょう。
(斜縁盤龍鏡の「斜縁」とは、「三角縁神獣鏡」のように縁が三角になったもので、三角縁との違いはあまり分かりません。)

しかし、卑弥呼の遣使年・景初三年(239)に少し遅れるという意味で「景初四年」としたのでしょうが、実は景初四年は存在せず「正始元年」に変わっていたという事実を鏡制作者は知らなかったのです。


「景初四年」銘の鏡が出土したのは、由良川流域の「広峯15号墳」(前方後円墳40m)です。副葬品が多いわけでもなく鏡・玉・鉄剣などで、埴輪も葺石もありません。
専門家は、首長墓かどうかも疑わしい、としています


でも、由良川は福知山から大阪に通じ、昔は勅使も通う交通の要衝でした。古代も重要な交通網に入れられていたと思います。ここを拠点にした豪族は豊かだったのです。
古墳時代の豪族が、最高の物を墓に入れようとして手に入れた「鏡・玉・剣(鉄)」は三種の神器に通じ、九州の弥生文化にルーツがある三点でした、ということですね。

丹後半島の旅で最初に訪れた元伊勢の皇大神社も豊受大神社も由良川流域にありました。
由良川水系には、大川神社もあります。
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(由良川流域の大川神社
立派な社殿の大川神社(延喜式内名神大社)です。由良川が、古代より「大川」と呼ばれたと云うことですかね。では、ここが幹線道路の拠点であり、由良川が最重要河川だったことになりますね。

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豊かさを象徴する社殿でした。

甕棺・壺棺を持つ墳丘墓
由良川水系の前期古墳には、組み合わせ式石棺のみではなく、木棺、壺棺、何と甕棺があるのです。宝蔵山4号墳(方墳・東西25m南北20m)など。

何と甕棺です。それも4世紀後半です。
九州の甕棺の伝統がここまで及んでいるのです。
わたしは納得しました。
丹波国は海運を通して、北部九州と深い関係にあったと。九州からの大きな波は、3世紀後半から4世紀前半にかけて押し寄せた。それから、5~6世紀にかけて大きな波が押し寄せた、と。
まず、由良川水系に入り、それから竹野川水系の奥深くにも入り込んだ。その中で有力者が丹後半島の有力者と結びついて阿蘇海にも顔を出したのではないか。
色々なことを思いました。
丹波国には歴史のトビラを開く大きなカギが散らばっていましたね。
温泉も豊かだし、景色もよかったですね。

明日は、間人の穴穂部間人皇后伝承についての紹介です。
では、また。
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# by tizudesiru | 2018-04-26 12:10 | 丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

網野銚子山古墳と福田川流域の浦嶋子伝承と宇良神社

網野銚子山古墳に道案内をしてくれたのは、竹野の姫達でした
竹野川と福田川流域の大型古墳の距離は10キロ
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道案内のおかげで、どうやら辿りつきました。
網野銚子山古墳は発掘中でしょうか。ブルーシートがかかっていました。
前方部にトレンチを入れているようです。改葬されたのかや、もともとの墳形や版築技術などいろいろ分かることでしょう。

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(網野銚子塚古墳・前方部)
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前方部の木立の中を歩くと、後円部が見えてきます。
発掘調査のトレンチに被せたシートが見えています。
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後円部に着くと網野町が一望できました。
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此処からも日本海が見えます。古代には傍まで海が迫っていました。
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ここからは、丹後地域特有の円筒埴輪が出土しています。
丹後地方に特有の円筒埴輪です。
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網野銚子山古墳は、神明山古墳から10キロ、黒部銚子山古墳や大田南古墳から6キロ、赤坂今井古墳から5キロほど離れているだけです。

埴輪を持つ古墳は、竹野川・福田川・野田川流域にあります。

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地図を見ると、野田川流域に特に「埴輪を持つ古墳」が集中していますね。
天橋立のある阿蘇海に流れ込む野田川流域の人が、より多くの富を築いたのです。
浦島児(うらのしまこ)伝承や羽衣伝承は、阿蘇海周辺以外の丹後地方の伝承ですから、阿蘇海の人々を見た人々は別世界へのあこがれを強く持ったのでしょうね。

網野銚子山古墳の傍にも、浦嶋子伝承地

此処にも竹野川の羽衣伝承と同じような「浦嶋子伝承」があります。
網野銚子山古墳の前方部の前の空き地は、「浦島児の宅址の伝承地」となっていました。この古墳の西を流れる福田川の河口には、浦嶋子を祀る「島子神社」がありました。

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浦島児は此処で玉手箱を開けたのだそうです。
古墳の前方部の裾の空き地です。


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此の空き地が浦島児(うらのしまこ)の住いの址なら、彼の系譜は網野銚子山古墳の関係者なのですかね? 
豊かな世界を夢見て船出して乙姫様の愛を得たのに、約束を破って失敗してしまった…この辺りの首長の話なのでしょうか。
では、海の向こうの豊かな国とは何処なのでしょう。

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網野町の島児神社は、海辺の小さな社でした。
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浦嶋子を祀る神社は丹後半島にもありました。
伊根町の浦島神社です。
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ここは式内社ですね。
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元宮はこの田んぼの水溜まりの辺りに在りました。現在の社殿と50mほど離れています。立派な社殿を建てかえられた宇良神社は、大事にされているのですね。
相殿神は、月讀命・祓戸大神でした。

海辺ではなく高所に社殿を置いたのは、津波や高潮を避けたのでしょうか。


丹後地方の伝承は、風土記ができる以前の状況を反映しているのです。古代、素晴らしい国が何処かにあって、人々はあこがれていた。その国の王は海神だった。豊玉彦なのですかね?

豊玉彦って、九州の神話の神様ではありませんか? 
鏡だけではなく伝承も神様も、九州とのかかわりは深かったと思います。
では、今日はここまで。

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# by tizudesiru | 2018-04-25 12:00 | 丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

羽衣伝承の天女は天(あまくに)から来た! 竹野川流域の伝承

竹野川流域の羽衣伝承と奈具神社
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羽衣伝承が、天の橋立のある宮津市の奈具神社に残っています。ここが延喜式内「奈具神社」だと主張されています。

丹後国には、同じ名の神社が竹野郡(京丹後市)にもあります。

『延喜式神名帳』にある「奈具神社(丹後国・竹野郡)」に比定される式内社は、どちらで、本当は何処にあったのでしょうね。

伝承は、天から下りて来た女性のかわいそうな物語です。
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上は、「丹後古代の里資料館」の紹介文です。
他にも、丹後半島を紹介した本には、次のように書かれていました。


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『丹後国風土記』の羽衣説話の舞台は、丹波郡の比治里にある真名井と名づけられた清泉である。ここに天女が八人降りて来て水浴したというのである。これを目にした老夫婦が一人の天女の羽衣を奪ってしまい、自分たちの娘になることを強要する。その後、老夫婦と共に暮らすことになった天女は、万病に効く酒をつくり、そのことによって老夫婦を豊かにさせる。すると、老夫婦はもう娘は不要であるといって天女を追い出してしまうのである。天女は怒りにふるえ各地を放浪し、最後に竹野郡船木里の奈具村にきて、『此処にして、我が心なぐしく成りぬ』といって、ここに留まった、というのである。そして、これが竹野郡の奈具社に鎮座している豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)であるとしている。

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さて、
竹野郡の奈具社に鎮座としても、加佐郡(宮津市)に鎮座としても、加佐郡と竹野郡(京丹後市)では離れすぎているのです。そこで、二つの神社を直線で結んでみました。


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すると…驚きました。
籠(この)神社の奥宮真名井神社の清水の辺りを通り、驚いたことに眞名井神社の裏山の成相寺の本堂を直線が通りました。そうだったのかと思って、画像を紹介しました。
籠神社の元宮は奥宮真名井神社でしたよね。
祭祀線を引く場合、棒は立てますが古代は当然目測です。見晴らしのいい場所が選ばれると思います。成相寺の辺りは、祭祀線を引く場合の祭祀点となったのでしょうね。

後の世になって、その神聖な場所にお堂が建てられた思います。
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(成相寺の本堂・このお堂の上をラインが通ります)

さて、羽衣伝承の意味ですが…
羽衣伝承は日本各地にあります。大分県日出(ひじ)町真那井にもあります。
共通しているのは、天女はその土地の生まれではなく他所(天アマ)から来たと云うことです。天の羽衣ですから、「天国(あまくに)」から高貴な女性が来たと云うことです。アマ国は特別の国であり、憧れの国でした。

そんな憧れの国から、姫たちは何ゆえに全国に散らばったのか!?
高貴な女性が婚姻という理由でもなく移動した、何とも意味深です。
彼女たちが天(アマ)国から各地へ散らばった理由として考えられるのは、避難か逃亡か亡命などでしょう。

アマ国に何事か起きたので移動を余儀なくされたと、わたしは考えました。

高貴な姫を迎えた人々は、「この娘は使い勝手がいいか」を判断したのです。


自家の血統を高貴なものとするために子どもを産ませるか・自家の経済を支える技術を提供させるか・娘として有力者の嫁に出し我が身の出世の道具に使うか、などなど。

わたしには美しい羽衣伝承など考えられませんでした。
アマ国の姫たちは若い時は大事にされたけれど年を取ったら不要になった話と、縁を切って自国に帰った話など、似た話が各地に在るのですが、共通するのは姫達がよそ者ということです。


では、姫たちの出身地・天国は何処なのか。わたしの答えは一つです。

そこは九州から山口県にかけての倭国。姫達は、倭国の政変と王家の滅亡と言う困難に出くわした倭五王家の関係者です。
わたしはそう思います。


羽衣伝承について、あなたは、どう思いますか?


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# by tizudesiru | 2018-04-24 12:00 | 丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

丹後半島の大田南古墳・方格規矩四神鏡に青龍三年の文字あり

青龍三年(235)が刻まれた鏡は、竹野川流域で出土した
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この鏡は、卑弥呼の時代のものでしょうか。
この地の豪族の墓からの出土ですから、この鏡は卑弥呼の時代の状況を教えてくれるのでしょうか。
では、鏡の出ない畿内と結びついたのではなく直接中国と交流した? または、北部九州を通して交流した? それとも、後世に「青龍三年」という年号を刻んだ紀年銘鏡を造った?…いずれでしょうか。

大田南古墳(京丹後市弥栄町・峯山町)を訪ねましょう。
そこは、竹野川の河岸の丘にありました。

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川岸の丘陵の上に大田南古墳群25基がありました。
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大田南5号墳は残されているのですが、土取り作業があっていて見学不能でした。事業者の方に古墳の位置を教えてもらいました。

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(指先の木立の丘に大田南5号墳があります)

この丘陵には、近世の砦址(矢田城跡)があるという認識で土取りの前に調査をしたのだそうです。
すると、近世の柱の下から古代の石棺が出土し、そこに鏡があったので急きょ土取り箇所が変更され、大型古墳を潰して小型の大田南5号墳が残されることになったのだそうです。
「で、その大型古墳は何処にあったのですか?」
「そこですね。」
と教えられた場所は、大きな空間でした。つまり、もうすでに消滅し空中に幻の古墳(大田南6号墳)となっていました。


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(消滅した6号墳・古墳時代前期後半・石釧・鉄製刀子・ノミ、針状の鉄製品を出土)
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(レンタカーの後ろの空間に幻の大田南6号墳があった)

というわけで、案内板をカメラに納めました。

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残された写真を見ると、大田南5号墳が一番高所に在ります。最高の待遇と云うことでしょうか。ここではほぼ同じ氏族の古墳が営まれたということですね。一族の最高位を5号墳の被葬者に譲った、となります。

2号墳からも画文帯環状乳神獣鏡が出土していますが、やや低い位置に墓が造られていますね。

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5号墳の方格規矩四神鏡については、現在では日本製との見方が有力です。
同じ鏡が、安満宮山(あまみややま)古墳・大阪府高槻市からも出土しています。


確かに、文様も日本的だと思います。ですが、「青龍三年」という紀年に意味を見出した豪族だったと云うことです、5号墳の被葬者は。

後の世になって「青龍三年」を選んで鏡に刻ませたのですから、その年号の意味を承知していたのではないでしょうか。

2号墳の被葬者も画文帯神獣鏡を得ています。この鏡の鈕は、「龍」なのです。ただの紐を通すだけの「鈕」ではありません。このような鈕は他に例がないそうです。

竹野川を治めたであろう豪族は、過去の権力者の動向について知識があったと思います。もちろん、北部九州の出来事も権力の移動や興亡も知っていたでしょう。
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(大田南2号墳から出土した画文帯環状乳神獣鏡)

大田南古墳群の被葬者達は、支配していた竹野川を見下ろし、自分の領地(弥栄町と峯山町)をみて長い間そこに眠っていました。

5号墳は組み合わせ式石棺で、2号墳は木棺です。彼らの時代、竹野川中流域の豪族は、鏡の文化にあこがれていたのでした。すると、どの地域から手に入れた鏡でしょうか。
気になるところですね。

明日は、竹野川流域の羽衣伝説を紹介します。
では、また。

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# by tizudesiru | 2018-04-23 11:58 | 丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

竹野川流域の古墳・黒部銚子山古墳

丹後半島の竹野川流域に、大型古墳を見ました。
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黒部銚子山古墳でした。そばを竹野川がゆっくりと流れていました。
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案内板がありました。黒部銚子山古墳は、古墳時代中期の築造、105mでした。
ここに大型古墳四基の紹介がありました。黒部銚子山古墳以外は、
神明山古墳(190m)、蛭子山古墳(145m)、網野銚子山古墳(198m)でした。神明山と黒部山は中期古墳で、蛭子山と網野銚子塚古墳は前期だそうです。前期と中期の違いは、何から導かれたのでしょうか。

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四基の古墳を比べると、前方部がバチ型に広がっている古墳が中期とされ、柄鏡形のように前方部が広がっていない古墳が前期とされています。
 
この形態の変化は九州と同じです。九州も柄鏡形の古墳が古く、前方部がバチ型に広がる古墳の方が新しいのです。


しかし、近畿では一番古い古墳とされるのは「箸中山古墳」いわゆる箸墓ですが、バチ型の古墳として有名ですね。箸墓は発掘されていませんから何とも言えませんが、バチ型より柄鏡形の墳形の方が古いので、箸墓は前期ではなく中期の古墳だとわたしは思います。

網野銚子山古墳の近くに在るのが、大将軍(だいじょうご)遺跡でしたね。
昨日の続きですが、ここは「埴輪の捨て場」とされる遺跡です。

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網野銚子山古墳の400mに位置する遺跡です。
埴輪が壊れたので捨てられたという遺跡は珍しいですね。写真を見ると、なるほど大量に捨てられています。これは、埴輪造りの技術者が製作に失敗したというのですが、わたしは古墳の改葬があり、装飾品の入れ替えがあったと思うのです。被葬者の交替もあったかも知れません。
つまり、網野銚子山古墳や神明山古墳の築造時期は、大将軍遺跡から分かるかも知れませんね。


見ると、キヌガサ(蓋)形埴輪も出土もあります。この大型のものがメスリ山古墳にもありましたし、九州では磐井の墓と云う岩戸山古墳にも石製品(博物館所蔵)としてありました。

円筒埴輪に直弧文が描かれていますね。九州では石棺や石障に直弧文が刻まれた例が、福岡・熊本に数例ずつあります。
石人山古墳・浦山古墳・井寺古墳などの有名古墳です。
直弧文は首長墓に使われた文様だと思います。

九州では弥生後期に環濠集落が突然終わる時、環濠に完品を含む大量の土器が捨てられるという多数の例がありますが、埴輪の破棄は驚きです。


それにしても、気になるのは、竹野川流域の古墳は、上・中流の方が古いと云うことです。

竹野川の上流から先に発展したようです。
竹野川の上流は、山を越えると宮津湾側に出ることができます。阿蘇海側の有力者が竹野川に進出したのかも知れませんね。
大宮賣神社のある大宮町の「大谷古墳」中期前葉古墳、弥栄町の「大田南古墳」前期古墳です。


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(大谷古墳の副葬品と石棺)
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(大田南5号墳の石棺)
大田南5号墳からは、「青龍三年」(西暦235年)の年号がある方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)が出土しています。将に卑弥呼の時代の鏡ですね。

大田南古墳にも行ってみました。
明日、報告しましょう。
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# by tizudesiru | 2018-04-22 19:33 | 丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

斎宮竹野神社の横の神明山古墳は日葉酢媛陵古墳と同型だった

竹野川の下流に竹野神社=延喜式内名神大社
まだ、桜が残っていました。
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竹野神社のご祭神 天照大神
摂社斎宮神社の御祭神 日子坐王命 建豊波豆良和気命 竹野媛命


竹野媛は、丹波大県主由碁理の娘で、九代開化天皇の妃となったと、古事記・日本書紀にも記述があります。年老いた竹野姫が「天照大神」を祀ったのが竹野神社の始まりだそうです。

斎宮神社には代三十一代用明天皇の皇子・麻呂子親王も祭られ、鬼賊退治と丹後七仏薬師の伝承もあります。

斎宮神社という名称は、潔斎した神に仕える高貴な女性を祀る神社と云うことですね。ということは、主祭神は竹野姫(たかのひめ)なのでしょうか。竹野媛は、ここで神に仕えていた、その神は祖先神の「神明古墳の被葬者」じゃありませんかね。

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立派な門を通り抜けて拝殿に進みました。
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ご本殿の背後に檜が植えられていて、その幹の赤い色が御見事でした。
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千木は、雄千木ですかね。すると、竹野神社は男神を祀っていた? ことになりませんか。やはり、祖神としての神明山古墳の被葬者でしょうか。

では、門を出て神明山古墳に向かいましょう。

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神明山古墳の墳頂まで170mと云うことでしょうね。隣ですから。
石仏が集められていました。これも明治の神仏分離の名残でしょうか。

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では、墳丘に登ります。
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春の芽吹きのなか、足元は野草で埋められた素晴らしい前方部を歩きます。
やがて、後円部に届きます。
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ここから日本海が見えます。古代には、海からも葺石の古墳がくっきりと見えたのです。
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上の写真、岩場の隣に見える屋根が博物館の屋根です。
下の写真、古代の神明山古墳を葺石で覆って復元した画像です。


見えている大きな岩場は立岩で、竹野川が日本海とぶつかる接点にあります。古代は此処から広く大きな潟湖(せきこ)が内陸深く入っていました。
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ところで、神明山古墳は奈良の日葉酢媛陵古墳(207m)と同型だと書かれていました。
えッ? 奈良市の北に在る佐紀盾列(さきたたなみ)の大型古墳ですか?
佐紀陵山古墳=日葉酢媛陵古墳は、神明山古墳と相似形だそうです。
すると、両者には緊密な関係があり、築造時期も前後すると云うことになりますね。


資料には、『古墳は桜井市や天理市⇒ 佐紀盾列古墳群(4世紀後半)⇒ 大阪・古市古墳群・百舌鳥古墳群(5世紀) へ移動した』と書かれています。
すると、この神明山古墳は四世紀代の古墳だと云うことになるのですか?

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そうですか…では、4世紀の丹後地方は、技術的文化的にも人口の面でも権力の巨大化の面からも、大型古墳を築くことができる状況だったのですね。
 
なんだか狐につままれたような気分になりました。神明山古墳の少し前の古墳は小さいからです。わたしの印象では、突然大型化したのではなく、後世に改葬したのだと思いました。

それは、「壊れた埴輪の捨て場? 大将軍(だいしょうご)遺跡」を知ったからです。古墳に使われる予定だった、又は既に使われていた埴輪が大量に捨てられていたのです。これまで、聞いたことがありません。

つまり、それまでの古墳の装飾を捨て、新しく改葬したと云うことです。だから、神明山古墳からの円筒埴輪の出土は極めて少なく、欠片が二、三個という具合なのです。
何らかの事情で改葬されたと思うのです。
その時に、日葉酢媛陵古墳と同じ形にされた…と思いました。


では、次は、
大将軍遺跡の気になる埴輪を紹介しましょう。


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# by tizudesiru | 2018-04-21 16:52 | 丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

大型古墳が集中する竹野川流域に豊受大神を祭る神社

大宮売神社の例祭にも大刀振り神事と笹囃し
大宮売神社は、延喜式内名神大社です。ここでも、籠神社と同じ神事が古くより執り行われています。

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案内板を見ると、大宮売神社のご祭神は、大宮売神・若宮売神です。
(この神社の説明板には、「六世紀の頃、大和王朝に統一された大宮売神は、宮中八神の一柱で造酒司(みきつかさ)にも奉斎され…」とありました。「四世紀に、ヤマト王権が日本を統一した」という認識ではないのですね。)
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石碑を見ると、大宮賣神=あめのうずめの神、若宮賣=とようけの神
と彫られています。古い神が天鈿女神で、新しい神(若宮)が豊受大神というのです。そうですか…ここも、豊受大神が祀られているのですか。
籠(この)神社の元宮は、奥宮の真名井神社でしたね。

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前回、籠神社の奥宮眞名井神社(比沼眞名井神社)の紹介をしましたが、比沼麻奈為神社が京丹後市に在ります。比沼麻奈為神社も延喜式内社ですが大社ではありません。同じ「ひぬまない神社」というので、双方の社殿を直線で結んでみました。
すると、大宮売神社がラインに乗るので「これは祭祀線なのかな」と思いましたが、ラインは大宮売神社本殿の南の参道を通っていたのです。
大宮売神社は本殿が動いていますが、大幅に移動したとは思えませんので祭祀線と断定することはできません。
が、三か所共に「豊受大神を祭っている」のは、意味深だと思います。

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比沼麻奈為神社にも行きました。
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さて、ここにも他の豊受大神を祭る神社と同じよう伝承が残されていました。
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本殿にもお詣りしました。
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籠神社の奥宮でも、ここでも「豊受大神」を祭っていた
或る時同時に「豊受大神」を祭れなくなった。それでも、ここは分霊を祀ることを願ったのですね。籠神社は祖先神に祭神を変えましたが、ここは変えなかったのです。
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いにしえの御祭神の逸話の虚実は、今では判断できません。
然し、ここが「ひぬまない神社」と呼ばれて、豊受大神を祭っていることは重要だと思います。天照皇大神を祭る神社は日本中に広がりましたが、ここは古代から豊受大神を祭ったのですから、そこには歴史の重みがあると思うのです。
大宮売神社の傍を流れる竹野川は高低差がほとんどなく海までが緩やかに流れています。竹野川流域は、この川によって潤ったでしょう。農作物だけではなく物流も、竹野川が左右したと思います。この地の豪族は大きな富を得ていたようです。
丹後半島の大型古墳は竹野川沿いに集中するのですから。

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大宮売神社の近くにも古墳群が集中します。群衆墓ですね。
力を持った集団がいたと云うことです。
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上の地図を見ると、中央を南北に流れる竹野川に大型古墳や古墳群が集中することが分かります。

ここに、文化と経済が発達してのです。政治の中心は何処でしょう。丹波道主は、主要河川・主要道路を抑えていたのですから、この竹野川沿いにも一族が住んだでしょうね。群衆墓の集中からして、大宮売神社の近くに住んだかも知れません。

その宗家が海部直氏なのでしょうか。丹波国という広い地域を治めていた氏族は、いつどのように消えて行ったのでしょうね。

次は、この地の伝承と古墳を訪ねます。

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# by tizudesiru | 2018-04-20 11:05 | 丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

前漢鏡を伝世する籠神社は、北部九州とつながっていた

籠神社の祭祀を司る祀職に在るのは海部(あまべ)氏
祝部(はふり)家の神殿深くに秘められた後漢鏡と前漢鏡
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天の橋立に守られた阿蘇海は天然の良港です。籠神社の祝部(はふり)の海部氏は古代よりこの地に住み、歴史の紆余曲折を見て来た家系なのです。
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この宮司家には、二面の伝世鏡がありました。前環境と後漢鏡です。将に、北部九州の弥生の甕棺の副葬品です。近畿では弥生の漢鏡は出土しませんから、北部九州と結びついていたという他ありません。
丹波国の国造であった海部直(あまべのあたい)氏は、海運によって九州と結びつていたのです。
然し、その事は秘されていた? 古代にも、公表するには問題があったのでしょう。「海部氏勘注系図」には、その鏡の由緒が書かれています。

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海部氏の系図(国宝)
平安時代には、海部直氏の系図は検閲されていたのです。余計なこと書かせない為でしょうか。系図(国宝)に押された丹後國印は、検閲の証拠と思います。
海部直氏が系図を残したのは、その出自に対する並々ならぬ思い入れがあったからです。丹波国の主であった宗家が祝(はふり)に落とされる時の無念が込められていると思います。では、その事態をなぜ受け入れたのでしょうか。

その答えは、籠神社の祭事から読めそうです。

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四月二十四日(古来、四月の二の午の日)例祭は、葵祭とよばれていますが、元は「藤祭」といいました。この神事を御蔭祭や御あれ祭とも呼んでいます。

山城(京都市)の一宮「賀茂別雷神社」や「賀茂御祖神社」でも、四月の二の午の日に御陰祭が行われ、四月の二の酉の日に「葵祭」が行われますが、共通しています。

ただ、籠神社の「葵祭」は「二の午の日」ですから、賀茂別雷神社の「二の酉の日」より、午(うま)未(ひつじ)申(さる)酉(とり)ですから三日早いのです。つまり、籠神社の方が「葵祭」が早いので格上だとわたしは思います。
一般的に、神社で「神楽」が奉納される日も、格上の神社からほぼ順番に日が下がっていますから。


では、籠神社の祭事に戻ります。
奥宮眞名井神社の例祭は十月十五日(古くは、九月十五日の満月の日)であり、豊受大神には「月神」としての一面もあると云うことです。また、五節句(一月七日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日)のうち、七七,九九との深い結びつきがあるとか…古来中国に於いては奇数が陽、偶数が陰ですから、その思想と結びついているのですね。

御蔭神事(「元伊勢籠神社御由緒略記」より)
『海部直氏の極秘伝によれば、之は奥宮の元初の御祭神豊受大神の御生まれの祭りとして発祥したが、後に豊受大神を祭った海部直氏に祖神彦火明命が、宿縁により現身の丹波道主命となって天下蒼生御稜威(みいづ)を垂れ給う神事と伝えられる。
此の御神事(御渡り)には、大刀振神事と云う典雅勇壮な特殊神事が遠く貞観年中から行われている。更に、神代から伝えられている鶺鴒囃し(ささばやし)の古儀も行われるが、これは爺と孫(男子)、即ち祖孫共演の篠竹のはやしであり、弥生期農耕社会の一つの習俗を伝える極めて貴重な神事であると云われている。
また、現在は中絶しているが、塩土の神が彦火火出見の為に籠船を造られた故事によって、「塩土の舞」と稱された神楽、また、彦火火出見と浦島太郎に因んだ「兒の舞」という神楽のあったことが古記により知られる。
また、眞名井神社の例祭には豊受大神に深い由縁を持つ、五穀神事という古儀が伝わっている。』


大刀振神事とは、意味深ですね。そして、塩土の神ですか。なるほど。
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今日は、籠神社と海部直氏の深い縁を紹介しました。
何より北部九州とのただならぬ結びつきを確認いたしました。
では、また。

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# by tizudesiru | 2018-04-18 23:00 | 丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

丹後半島の籠神社の祭神の交替は倭五王時代とリンクするのか

五王時代の痕跡を求めて、丹後半島を旅しました。
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古代においても大型古墳を築くには、経済力と統率力と技術力と人口密度などが関係してくるはずです。何の権力も経済力も無い地では大型古墳は造れません。
と、云うことで、丹波の国の古代の中心地を見ています。


丹波国のころ、古代の中心地は何処だったのかというと、律令時代は籠神社・国分寺のある国分や府中の辺でした。そこは天橋立の北の浜近くです。(7世紀になって急に中心地になったのではなく、古くから栄えていたのです。)

古代からの中心地に在る籠神社の現在の祭神は、彦火明命、相殿に豊受大神、天照大神、海神、天水分神となっています。

吉佐宮(よさのみや)と呼ばれた頃の主祭神は、豊受大神。天照大神と共に四年間祭祀し、天照大神に続いて豊受大神が伊勢に移った後、天孫彦火明命を祀ったと案内板にありました。
元々の祭神は、豊受大神だったのです。(主祭神が何度も変わったのですね。)
元宮は奥宮真名井神社ですが、何故かごたごたしています。
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「神代の昔より奥宮真名井原に豊受大神を祀って来た」と案内板に書かれていたので、籠神社より徒歩で10分ほど離れている奥宮眞名井神社に行きました。
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奥宮真名井神社が、籠神社の元宮です。

この地の籠神社を守って来たのは海部氏で、大化改新までは「丹波国造家」でした。つまり、大化改新によって国造から「祝部(はふり)」へと変えられたのです。更に、その系譜を残した「海部氏の系図」(国宝)に押された印は、「丹後國印」であることが判明し、丹後国庁に提出して認知を受けたものであることが分かりました。祝部家系図が検閲を受けていた理由は何でしょう。
系図に高貴な出自であると書かれることを畏れたのでしょうか。それとも、海部氏の系図には重要なことは省かれ、公にしてもいいことが書かれていたのでしょうか。

系図によれば、海部直氏の始祖とされるのは「天照国照彦火明命」、籠神社の主祭神です。

天照国照彦火明命は『先代旧事本記』によると、彦火明命=饒速日命であり、天磐船に乗って河内の哮峯(いかるがのみね)に天下ったとされています。
籠神社の伝承と共通点がありますね。では、海部氏も「物部氏」の系譜と云うことでしょうか。
ここは饒速日の神社、石上神宮や大神神社ともつながりがあるのですね。

眞名井神社にも、「天岩船」という磐座が祀られています。

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元々の祭神は、豊受大神でしたね。
元宮は奥宮真名井神社だったと書かれていました。
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眞名井神社は、ちょうど工事中でした。これ以上神域には進みませんでしたので、ご神体の磐座に参拝しませんでした。

もともと眞名井神社には本殿はなく、磐座を直接祀っていました。
現在は、磐座の近くに寄ることも、写真撮影も禁じられているのです。心無い行為をした人がいた為に、このような残念なことになったと云うことでした。

丹後国一之宮・総社「元伊勢籠神社御由緒略記」を見ましょう。

眞名井神社=匏宮(よさのみや)吉佐宮・与謝宮・久志濱宮)
   別稱 豊受第神宮・比沼眞名井・下宮元宮・元伊勢大元宮)

『神代より、奥宮の真名井原に
匏宮(よさのみや)といい豊受大神が鎮座していたが、十代崇神天皇の三十九年に大和笠縫邑から天照皇大神が遷座したので豊受け大神と共に祭祀していた。
十一代垂仁天皇の二十五年に天照皇大神が伊勢に遷座した後、二十一代雄略天皇二十二年に伊勢度会郡の山田原に豊受大神も遷座となった。


眞名井原の吉佐宮は、大化改新まで丹波国造家であった海部氏が、大化改新以降「祝部(はふり)」として守って来た。

天武天皇の白鳳十一年に、海部氏が宮名を「与謝宮(よさのみや)」から「籠宮(このみや)」に改名し、彦火火出見尊を主神として祀っていた。

元正天皇の養老三年に、本宮を奥宮眞名井神社の地から現在の本宮の地へ遷し、海部直愛志(えし)が祖神・彦火明命を主祭神とし、天照・豊受の両大神、及び海神を相殿に祀り、天水分神を合わせて祭るようになった。』


以上が、おおよその縁起の内容です。

眞名井原縁起に書かれていること、意味深ですね

①豊受大神が伊勢に遷る…天照は他所から来た神で伊勢に移ってもいいのでしょうが、豊受大神は本来眞名井原の祭神だから、神が奪われたことになりますね


➁大化改新まで丹波国造家であった海部氏が、大化改新以降「祝部(はふり)」として吉佐宮を守って来た…海部氏は国造家の地位を奪われたのでしょうか。


③天武天皇の時代に、海部氏が宮名を「与謝宮(よさのみや)」から「籠宮(このみや)」に改名したとは、変更したのか、変更させられたのか、どちらでしょう。

④元正天皇の養老三年、奥宮眞名井神社の地から現在の本宮の地へ遷った…丹波国の重要な神社となったのでしょうか?

⑤彦火火出見尊を主祭神としていたが、祖神・彦火明命に主祭神を変えた…祭神を変え、宮地を変える理由があったはずです。


現在に至るまでの間に、籠神社には祭神の入れ替えなどの大変革が何度もあったのです。そこに政権交代が見え隠れしませんか。
神代・古代・大化改新・天武天皇代・元正天皇代と、幾度もありましたね。

その事を伝える貴重な神社なのですね、籠神社は。

神代・古代の変化は、倭五王とリンクするのでしょうか。
祀職の海部(あまべ)氏は、系図では「海部直(アマベノアタイ)氏」となっています。直(アタイ)という姓(かばね)を持っていますから、古代の有力氏です。
大化改新の頃、確かに大変革ですが、丹波国造は黙って従ったのですね。

(余談ですが)
元宮の眞名井神社は工事中でしたので、参詣は遠慮しました。

が、眞名井神社の噂の石碑は見ました。確かに「三つ巴」の神紋がはめ込まれ、元の神紋は替えられていました。

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2013年くらいまでは、「三つ巴」ではなく「籠目紋」=「六芒星」の神紋が彫られていたそうです。イスラエルの六芒星と似ているというので「日本人とイスラエル人の祖先が同じ証拠」という話をする人もいたようです。
(岩手県のヘライ(?)神社でも「六芒星」の神紋を見ましたね。30年前に)

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丹後半島と倭五王との接点を探し続けています。
では、今日はここまで。


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# by tizudesiru | 2018-04-17 23:20 | 丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

丹後半島の大型古墳は倭五王の時代とリンクするのか

丹後半島に出かけたのは、元伊勢皇第神社や元伊勢豊受神社に参詣するためではありません。何より、気になっていたのは「丹後半島の大型古墳は、古墳時代前期で突然消滅する」という博物館側の説明を、確かめに行ったのです。

丹波国と九州の結びつきは、何時?どのように?
とても気になりました。なぜ、突然消滅したのか、何があったのか。大型古墳の消滅と倭五王家の滅亡とリンクするのか。何処に住み、何を経済的背景に持ち、いかにして権力を築いたのか…考える糸口を見つけたかったからです。
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(阿蘇海とは、天橋立の内海の名称です。古代はこの辺りが中心地でした。この広い内海は、天然の良港だったのでしょう)

籠神社や国分寺跡も天橋立の付け根にあります。国分寺跡を訪ねてみましょうか。
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直線的に画面を横切る緑は天の橋立の砂嘴(さし)です。内海が阿蘇海。奥は宮津湾になります。
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国分寺跡の横の寺院で写真を撮りました。
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写真は丹後半島ですが、山地が多く平地が少ないので食料生産では、米以外が考えられますね。それでも、ここは古代の中心地で国分寺も造られました。

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国分寺の基壇が芝生の奥に見えます。

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聖武天皇の天平13年(741)以降、ここに国分寺が建てられたとはいえ、それ以前から人口も集中した場所だったのは間違いありません。
雪舟は、古代の伝承の残るこの地を克明に書き残したのです。

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古代~聖武天皇御代~雪舟の時代と、時は変わっても、ここは丹後の中心地でした。
何ゆえに、かくも長く栄えたのか…それは、やはり海運でしょうか。


すぐ近くに、籠神社がります。もちろん丹後国一宮ですが、「海部氏の系図(国宝)」が有名ですね。
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(籠神社)
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(博物館に「海部氏(かいふし)系図」の複製がありました。この系図には、朝廷に提出した時「改竄無し・偽りなし」などを証明する印がうたれていました。)
当時は、系譜や系図は厳しく検閲されたのですね。
籠神社は海部氏(海人族)の神社だと云うことです。その神社が、阿蘇海の一番奥に鎮座するということは、海運を握った人々が反映させた地域だとなりますね。

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ところで、前々回に紹介した「元伊勢豊受大神社」と同じようなことが、この神社の説明板にも書かれていました。
さて、どちらが「吉佐宮(よさのみや)」なのでしょう。
確かに、ここには奥宮真名井神社がありますね。


では、そこにも行ってみましょうね。また、次回に。
古墳にたどり着くのは、もう少し後になりそうです。

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# by tizudesiru | 2018-04-16 11:36 | 丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

元伊勢内宮皇大神社も式内名神大社と結ばれる

元伊勢内宮皇大神宮に行きました。
伊勢の内宮皇大神宮になぞらえて、裏の川には五十鈴川と名付けられていました。この川を渡れば、天岩戸神社に行きます。しかし、渡らずに皇大神社に向かいました。
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この元伊勢内宮と外宮は、地図上でも余り離れていません。電車の一駅ほどの距離にあります。
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西参道は山道です。途中に神籬山の遥拝所があります。地図上の名は城山。

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神籬山を見て、本殿に参詣しました。
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元伊勢内宮の紹介文がありました。
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ご祭神は 天照皇大神
ご由緒  人皇第十代崇神天皇三十九年に、「別に大宮地を求めて鎮め奉れ」との皇大神の御教えに従い、永遠にお祀りする聖地を求め、皇女豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)御杖代(みつえしろ)となり給い、それまで奉斎されていた倭の笠縫邑を出御されたのが、今を去る二千四十九 年の遥か昔であった。そして、まず最初にはるばると丹波(後に分国して丹後となる)へ御遷幸になり、其の由緒により当社が創建されたと伝えられている。
皇大神人皇第十一代垂仁天皇二十六年に伊勢の五十鈴川上(今の伊勢神宮)に永遠に御鎮座になった。
然し、天照皇大神のご神徳を仰ぎ慕う崇敬者は、引き続いて当社を伊勢神宮の元宮として「元伊勢(内宮)さん」などと呼び親しみ、今に至るも、庶民の篤い信仰が続いている。


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摂社・末社も多く、境内は静かでした。然し、かっては賑わったと思われます。
参道には旅館や料理屋が建ち並んでいたことでしょうね。
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この神社は、あまり祭祀線が引けませんでした。若干ずれるからです。本殿の建て替えやその他の事情があって、伝承地からずれてるのかも知れませんが。
京都の守りの貴船神社と大江山を結ぶと、皇大神社本殿が乗ります…
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雷神社とはじか神社と元伊勢内宮は、いずれも本殿を結びました。と云うことは、古代より建て替えの時、祭殿は同じ所におかれたということでしょうか。
雷神社もはじかみ神社も、延喜式内名神大社ですから、少なくとも十世紀の始めから、同じ地に社殿が置かれたと云うことですね。

元伊勢信仰は江戸時代に盛り上がったのではなく、古代からあったと云うことでしょうか。

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# by tizudesiru | 2018-04-15 12:00 | 丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

下り宮の山神社は、丹波国の衰退を伝えるのか

山神社は下り宮なのでしょうか?
山神社は、兵庫県豊岡市にある延喜式内名神大社です。
鳥居をくぐると階段を降ります。本殿はがけ下に見えています。
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ここ山神社は、下り宮です。名神大社ですが。
「下り宮」で有名なのは、熊本県の南阿蘇の草部吉見神社ですね。祭事の御輿が鳥居をくぐってはならない、という不思議な神社です。
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山神社のご神木は、ケヤキでしょうか。本殿の近くの大木は、ケヤキでした。

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山神社の横を小河が流れています。つまり、集落より低い所に「延喜式内名神大社」はあるのです。なんとなく変です。毎日、神様を見下ろすことになりますね。
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集落の北は山地で、南に向かう傾斜に山宮地区はあります。
画像の左(西)のゆるやかな斜面に集落があり、右(東)道下の畑は段が下がります。
その畑より神社は低い土地に在りますから、集落のどこよりも低い所が社地になります。
何で、こんな土地が選ばれたのでしょうね。
山神社は、前回紹介した「元伊勢外宮豊受大神社」の祭祀線上の神社です。
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そして、
山神社が下り宮だとすると、祀られているのは意味深な神様だとなりますね。

祭神 句句廼馳命(くくのちのみこと)
『国司文書・但馬神社系譜伝』には、天皇の皇子で山ノ公の祖・五十日帯彦命。

国司文書 但馬故事記』(第一巻・気多郡故事記)
人皇35代舒明天皇の3年秋8月、垂仁天皇の皇子 五十日帯彦命の裔 山公峯男をもって、多遅麻国造となす。山部をつかさどる山公峯男は、その祖 五十日帯彦命を太多村に祀り、山宮と称え祀る。

『国司文書・但馬神社系譜伝』(巻一・気多郡神社系譜伝)
山ノ神社 気多郡山守部村鎮座。 祭神 五十日帯彦命 人皇十六代応神天皇の御代、但馬国気多郡に山守部を置く。人皇三十五代舒明天皇の三年秋八月、但馬山守部の山公峯男これを祀る。垂仁天皇は、丹波道主命の娘 畑入姫命を娶り、五十日帯彦を生む。山ノ公の祖なり。

と云うことは、
祭神 句句廼馳命(くくのちのみこと)
は、五十日帯彦命のことで、垂仁天皇の皇子である。母は、丹波道主命の娘 畑入姫命である。
ここは、後の世まで「山ノ公が治めていた」という伝承があり、舒明天皇の時代になっても山ノ公は残っていて、国造に任命された。

えっ? かなり意味深です。

だって、ここは但馬国の式内社ですよ。丹波国ではありません。
丹波国は、和銅六年(713)に、丹波国と丹後国に分けられていますが、但馬国は、その隣の国です。
では、古代の丹波国を 治めた丹波道主命は、娘を天皇の妃に出せる家柄であったのに、娘が生んだ皇子は但馬国の山中深くに住んだ、と言うのですか。まるで、丹波国から追い出されたか、隠れたように。
しかも、山公峯男の時代になって、はじめて祖先の神を祀ることができたが、その宮地は非常にふさわしくない山水に襲われそうな傾斜地の川の傍だった、しかも、集落のはずれのくぼ地だった…
但馬国の式内名神大社は河の傍が多かったけれど、水運とも耕作とも関係ない式内名神大社は、山神社くらいではありませんかね。
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それも、祭神が句句廼馳命(くくのちのみこと)
わたしは、菊池川流域のククチを思い出しました。魏志倭人伝の時代の卑弥弓呼、ククチヒコ を思い出したのです。ククノチとククチ、双方とも無関係ではない気がしました。丹後半島には、天橋立と阿蘇海がありますからね。九州とつながるでしょう。

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古代の丹波国の中心地は、天の橋立のある与謝郡でした。丹後半島を取り巻くように、古代の遺跡や古墳は集中しています。
しかし、ここで栄えた丹波道主命の首長家は、古墳時代の或る時に消滅したようです。なぜか、大型古墳が急に造られなくなるそうです。
突然、何かがあったのです。

その衰退消滅の時期は、何時か。九州の政変と連動するのか。
そこに興味があったので、今回の旅となったのでした。

山神社の伝承と丹波と九州と、何処か何かが重なる気がしませんか。

山神社の近くに「戸神社」という、これまた変な神社があります。ここも延喜式内名神大社なのです。「万葉集を読む会」の同行者は、山神社・戸神社について、
「これって、ヤマトのヤマとトを分けたんではないの?」
と言いました。なかなかインパクトのあるご指摘です。
現時点では、追及が難しいのですが、頭の隅に留めておきましょうね。

今回は、ここまで。
明日は、元伊勢内宮皇大大神社か、戸神社の紹介か、どちらかにしましょう。
では。

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# by tizudesiru | 2018-04-14 11:44 | 丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

元伊勢下宮豊受大神社・福知山市の元伊勢神社

伊丹から高速道(大阪宮津道)を使って、元伊勢と言われる豊受大神社に行きました。
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(伊丹空港に到着5分前の大阪)
晴れていましたが、気温は低かったです。
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元伊勢下宮豊受大神宮。旧号を、与佐宮。
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ご祭神 豊受(とようけ)大神  相殿 日子番能邇々杵(ほのににぎ)命

四所別宮 多が神社・土之神社・月読宮・風之神社

本殿の周りに摂社がずらりとありました。
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この豊受大神社は、京都府福知山市に在ります。日本海にそそぐ由良川の支流の宮川沿いに。更に上流は二瀬川となり、二瀬川を上りつめると「大江山の鬼退治」で有名な「酒呑童子の里」に届き、そこには「日本の鬼の交流博物館」があります。酒呑童子の里近くに、元伊勢外宮豊受神社と元伊勢内宮皇大神社があるのは、なかなか意味深ですね。

元伊勢外宮豊受大神社が、ここに祀られた意味は何でしょうね。
そこで、青・ピンク・黄色の三本の祭祀線を引いてみました。
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「延喜式」とは、醍醐天皇の延喜年間に作られた「式」と呼ばれる行政の細則のことです。その中で、神社の取り扱いも細かく決められました。
朝廷から幣を奉られるべき神社を「式内社」として、神名が書き込まれ、中でも大社・中社・小社など、社格が決められていました。

神社の取り扱いや、神官などについての決まりごとがありましたが、
名神大社となると、国司や勅使が幣を捧げる重要な神社と云うことです。

元伊勢豊受大神社がいくつもの名神大社とつながるのは、ここが重要な神社である証拠とも言えます。

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神社が鎮守の森に隠れると分かりにくい時がありますが、石上神宮と摩氣神社は本殿を通るのが分かりますね。

丹後半島は今でこそ高速道路で簡単に行けますが、昔は遠い異界だったのでしょうか。酒呑童子の鬼退治の話や、小式部内侍の「大江山 いく野の道の遠ければ まだ文も見ず 天のはし立」という歌もあります。遠い所だったのですね。
春の丹後半島は本当にきれいでした。


明日は、不思議な「山神社」について報告しましょう。
丹後半島の温泉、最高に良かったです。


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# by tizudesiru | 2018-04-13 12:04 | 丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

丹後半島の古墳時代

丹後半島周辺を旅行中です。

丹後半島は古墳もなかなか面白いですね。
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この辺りの埴輪は、ちょっと違ってます。何処から伝わった形でしょうね。
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自宅に帰ったら、紹介したいと思います。


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# by tizudesiru | 2018-04-10 12:00 | 丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

丹後半島を旅行中です

丹後半島に来ています
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日本三景のひとつ天橋立。
このみごとな砂嘴の内海は、阿蘇海です。外海が宮津湾。

天の橋立の付け根には、元伊勢籠神社があります。
なんだか、いろいろな意味がありそうですね。


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半島を廻って間人にも行きます。

ここが、伝承通りに穴穂部間人皇后が一時隠れた場所なのか、又は、わたしが主張するように孝徳天皇の皇后、間人皇后が隠れた場所なのか、確かめに行くのですが。
果たして、どうなりますか。


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# by tizudesiru | 2018-04-09 12:00 | 丹後半島に古代の謎を追う | Trackback

辛亥の変とは、倭五王家の滅亡だった!

稲荷山古墳鉄剣と江田船山古墳鉄刀の銘文から
「辛亥の変」を読み取れるのでしょうか

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(さきたま古墳群の中で、最初に作られたのは「稲荷山古墳」)
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熊本県の鉄刀と埼玉県の鉄剣の銘文には多くの共通点、対応点が見られると、「百済の王統と日本の古代」(兼川晋著)指摘されていました。
①金象眼と銀象眼
➁杖刀人と典曹人
③百練(錬)と八十錬
④奉事と奉事
⑤獲加多支鹵大王と獲■■■鹵大王
⑥七月中と八月中
⑦吉祥句の有無

両者が大きく違っているのは⑦の吉祥句の有無です。
縁起のいい詞があるか無いかで、両者が造られた目的が違って来ます。兼川さんは、稲荷山の鉄剣銘文を次のように読まれました。ここだけ書き写しますと、前後が分かりにくいのですが、敢て写しましょう。


「百済の王統と日本の古代」155ページ『鉄剣銘を読み直す』


「辛亥の年七月中に記す。(五三一年の七月に記す。)この年は三月に、筑紫の武王家を嗣いだ葛子天皇が物部麁鹿(あらかい)に討たれて光栄ある倭の五王家の一族は滅ぼされてしまった。だから、わたし=乎獲居臣は、ここに自分の一族のことと倭の五王家との所縁について記すのであるが)乎獲居臣の上祖の名は意冨比垝、其の児の名は多加利足尼、其の児の名は弖已加利獲居、其の児の名は多加披次獲居、其の児の名は多沙鬼獲居、其の児の名は半弖比、其の児の名は加差披余、其の児の名は乎獲居臣。世々、杖刀人の首と為り、(筑後の五王家)に奉事し来り今に至る。獲加多支鹵大王の寺(武王が関東に巡狩に見えた時、こちらでは倭武天皇とお呼びしたものだが、その寺が)斯鬼宮(現栃木県藤岡町大崎。現在の大前神社)に在りし時、吾、(獲加多支鹵大王の)天下を佐治せり。(思えば、この地にあって、武王が討たれたときは何のお力にもなれず、この度はまた物部麁鹿のために滅亡したと云うことである。遥かに冥福を祈り)此の百錬の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也」
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江田船山の鉄刀の方は、
「天下を治められていた獲多支鹵大王の治世に典曹仁としてお仕えした私、名は无利弖が、八月のさなかに大鋳釜を用いて四尺の廷刀せた八十錬、九十振、三寸上好の刊刀である。此の刀を服する者、長寿にして子孫洋々、■恩を得ることができ、其の統べる所を失うことはない。作刀者の名は伊太和、書者は張安である。」
と、刀の力によってますます幸運に恵まれるというのです。



この銘文の違いとその意味を、兼川さんの読みが言い当てていると思いました。
稲荷山鉄剣に込められたのは、深い悲しみと、倭王武への追慕の気持ちです。
兼川さんは、武が討たれただけではなく、其の王家の滅びたと読み取ったのです。

圧巻の解説でした。


ではまた次回


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# by tizudesiru | 2018-04-08 12:00 | 334辛亥年に滅びた倭五王家 | Trackback

縄文土器や石器との別れの朝の深い霧

報告します。
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「西原村は旧石器、城門のタイムカプセル」として、このブログで紹介しました考古遺物を、熊大に引き取っていただきました。
ほとんどが我が家の庭や、向こう三軒両隣といったご近所の空き地や草地や畑の畔、道端で表採したものでした。
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(深い霧に立つ送電線:熊本地震で壊れたので建て替えられました)

わたしの家族が西原に家を建てて引っ越してからの30年間、父が考古遺物を拾ったことが契機となり、辺りを歩いて拾ったものでした。父が他界しました後は、余り熱心に探さなく無くなりましたが。
それでも、歩いていると目に着くのです。なんとなく拾ってしまって…

西原の台地が守り続けて来たこれらを、父は村起こしや村の紹介の為に使いたいと言い続けていました。しかし、その話はなかなかまとまらず、父も故人となりました。そして、20年経ちました。

わたしも石や土器を採集するようになって、不思議なことに出会うようになりました。「出てお出で、2000年も土の中にいて寂しくない?私の前に出ておいでよ」と、心に思うと石器が目に入るのです。不思議と、たいして時間を掛けずに拾ってしまうのでした。しかし、最近は「もういいよ。そこにいなさいね。静かに眠っていなさい。」と言うことにしています。

4月5日、旧石器の石器や縄文土器との別れの日がついにやって来ました。

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熊大の小畑先生が、家族が長い間表採して来た考古遺物を引き受けてくださると云うことで、二人の学生と一緒に調査に来てくださいました。

半年前に現地を調査するという約束していただいたので、それが実現したのです。大変うれしく思いましたが、同時に深い寂しさに襲われました。家族中で石鏃や石匙に驚いたり喜んだりしたのですから。
其の一つ一つは、父や妹や吾子や甥っ子たちが手にしたものでした。
拾い上げて微笑んだものばかりです。
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石斧も庭の駐車場から妹が拾ったのです。
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まず、自宅の駐車場がA地点となりました。西隣のアイスクリーム屋さんの駐車場がB地点。東隣の牧場がC地点で、道路を挟んで北側がD地点とされました。
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それから、道路沿いに歩いてE地点、F地点と、歩きました。
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ここは、昔からの信仰の場所で、今も掃除されています。

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旧石器の遺跡だという土橋はこの辺りでしょうか。むかし、この道や畔からスクレイパーを拾いました。
桑鶴遺跡や土橋遺跡の近くにも行きました。地震の後、住居が無くなっています。この近くの空き地で、やっぱり土器を拾いました。
二人の学生さんも袋いっぱい拾っていました。ソハタ式の文様の縄文土器が多かったし、黒曜石の破片もたくさんありました。今でも20分ほどでたくさん拾えるのです。
小畑先生も「この面は遺跡だね」と言われました。

学生さんが楽しそうに拾っていたので、わたしも嬉しくなりました。

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地震で、揺ぎヶ池の水は枯れました。

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水源と呼ばれた池も枯れました。
中央の木の根元から湧き続けていた水が枯れたのです。
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青い水も、大きかった鯉も、過去のものとなりました。この豊かな水があったから、ここに縄文人も住んだのでしょう。
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さようなら、愛しきもの。
長い間、村を見て来たね。ありがとう、ご苦労さん。
彼らは、もう私たちの傍にはありません。
何時か、西原のどこかで村の人に見てもらえると嬉しいです。調査をしてもらって、少しでも村の展示室に帰って来てほしいです。

小畑先生、後は宜しくお願いいたします。
学生さん、考古学は楽しいでしょう。頑張ってくださいね。

ではまた、次回。

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# by tizudesiru | 2018-04-07 12:00 | 278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル | Trackback

社会科では習わない「辛亥の変」を知っていますか

倭王武の足跡は、502年で消えた…
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倭五王の年表は、ここで途切れます。倭王武がこの後どうなったのか。わかりません、新羅本紀も「663年、倭の水軍が百済を援ける」まで、空白(記述がない)なのです。なぜ何も書かれなかった、又は書かなかったのでしょうか。
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500年代、6世紀の初めに何かあったのでしょうか。

社会科では習わない倭王権の滅亡なのでしょうか?
531年、辛亥の変

あなたは、知っていましたか?
日本書紀では、継体天皇の後、息子の安閑天皇(2年在位)、宣化天皇(4年在位)、欽明天皇(32年在位)が順に即位したことになっています。531年は安閑天皇の即位年に当たります。

書紀の継体天皇は、25年(531)歳次辛亥に崩御です。

継体25年とされたのは、百済本記に「531年に、日本の天皇と太子・皇子が共に崩薨した」と書かれていたからです。

えっ、では、継体天皇は25年崩御ではないのですか。
では、再度、書紀『或本』を確かめましょう。

(書紀には)或本には(継体天皇は)28年歳次甲寅に崩御という。しかし、ここで25年歳次辛亥に崩御としたのは、百済本記に『太歳辛亥の三月に、進軍して安羅に着き、乞乇(こつとく)城を造営した。この月に、高麗はその王安を殺した。また聞くところでは、日本の天皇と太子・皇子は共に薨去された』と書かれているからである。これによると、辛亥の年(531)は(継体)25年に当たる。この事は、後の人が明らかにするだろう。』
このような割注があります。

継体天皇の死亡年は、531年か、534年か判断しない。ひとまず、こ
のように記述したが、後世に勘合する者が明らかにするだろう、と判断を避けたのです。

辛亥年(531)に何かあったのでしょうか。

「上宮聖徳法王帝説」では、『志帰嶋(しきしま)天皇の治天下四一年』とあり、在位は41年で書紀の『在位32年』と合いません。*欽明天皇=志帰嶋天皇

法王帝説の在位期間が41年では、日本書紀の32年とで10年の差があるのです。安閑・宣化の在位を足してもまだ足りません。欽明天皇の崩御年は、571年ですから、531年に即位しなければ数が合わないのです。
継体天皇崩御後、直ちに欽明天皇が即位したことになります。
ということは、安閑・宣化天皇の即位はなかったことになります
書紀の安閑紀も宣化紀もなんとなく変ですからね。


安閑天皇二年12月 崩御、この月に旧市高屋丘陵に葬る。70歳。皇后も天皇の妹も合葬する。

宣化天皇四年二月天皇崩御 11月身狭桃花鳥坂上陵に葬る。73歳。皇后とその子も合葬する。


合葬とは…… 崩御後の同月に埋葬とか、家族を合葬とか、天皇の葬儀とは思えないです。この辺りで何か事件を意味しているのでしょうか。

531年は、稲荷山鉄剣の「辛亥年」に重なります
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稲荷山鉄剣の銘文から、辛亥の変を読み取った人がいました。江田船山古墳の鉄刀と稲荷山古墳の鉄剣を読み比べた結果、そこに倭王家の運命を読み取ったのです。
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このことは、また次回に。


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# by tizudesiru | 2018-04-06 12:00 | 334辛亥年に滅びた倭五王家 | Trackback

卑弥呼も倭五王もタリシホコの登場しない「日本書紀」と「日本旧記」

倭五王の五人目の「倭王武」の行方を捜していました…
倭王興の弟で、478年に宋に上表した倭王武の行方、です。
これまで、倭五王の行方を探してきましたが、結局、影も形もないのです。
なぜ、倭五王の痕跡がないのか。わたしの結論は次の①~⑤のなかの⑤なのです。

①日本書紀の編纂者は、宋書の倭五王をまったく知らなかった。故に、書紀には書かれていない。
➁編纂者は倭五王を知っていたが、8世紀の近畿の王権とは無関係なので正史に書かなかった。
③編纂者は倭五王を知っていたが、書けば歴史上矛盾が生じるのでほのめかすことも避けた。
④編纂者は倭五王のことを史書に書いているが、現代の学者も見いだせない
⑤「日本書紀」は、「日本は白村江戦で唐と戦った倭国とは別国である」と主張し、
唐との外交回復を願って編纂されたものである。当時、敗戦後の倭国関係者もこぞって歴史の改竄に賛同する立場をとり倭国を隠した。故に、倭国関係の卑弥呼・倭五王・タリシホコは、書紀に登場するはずはない。

わたしは⑤を主張しているのです。
自著「太宰府・宝満・沖ノ島」(不知火書房)で、書いています。


そもそも、倭五王は「日本書紀」に登場してはならなかった、のです。

書紀によると、倭王興は雄略天皇と時期が重なります。が、他の倭王達は誰とも重なりません。いずれの天皇にも当てはまらないのです。倭五王の活躍は全く無視された形で、8世紀に歴史書「日本書紀」は編纂されたのです。ですから、後世の学者にとっては、外国の資料と合致しない部分が多い「日本書紀」を読み解くことは難解な仕事でした。

そして、一定の学者たちは、地方の神社仏閣にも「大宝律令(701年)が施行された大宝元年(701年)以前の元号」があることを当然だと思っていたのです。
だから、外国の史書を読んだ江戸時代の学者は「卑弥呼も倭五王もタリシホコもいない日本国」と、別の歴史を持った倭国が日本の古代にあった、と考えたのです。


鎌倉・室町・江戸時代は武家政治でしたが、天皇制も残っていたので、同時に別の王朝が存在するという発想は容易でした。つまり、江戸時代までの学者は「九州年号とよぶ年号を持った王朝があった」と考えることができる状況にいた、明治までは。

もちろん、一般の人々も、古代の王朝を信じていたと思います。古い神社仏閣に「九州年号」と呼ばれた年号を残したからです。それらは、上の命令で書き残されたのではありません。

つい最近まで、人々は自家の歴史や系譜や口伝を持っていました。それらは歴史に揉まれながら、変形したり、ほとんど消えたり、何度か書き写されたり、片言だけ残ったりして現在に至っていました。もちろん、中には何の伝承も無い氏が、祖先を立派な歴史上人物に仕立てたり等、あったでしょう。が、無視できない伝承があることも忘れてはなりません。


問題は明治に在るのです! 明治に、九州の王朝説が消えた
二つ以上の王朝があったと考えることができなくなったのは、明治からです。薩長土肥の功罪は大きすぎました。神社を合祀させ、神宮寺を潰し、修験の山々をはげ山にしました。人々は新政府を信じて「廃仏毀釈」に走り、伝統と文化を破壊しました。そうして、大戦まで走ったのです。
明治を思うと悲しくなりそうです。薩長土肥の暴挙が無くても、日本人は「新世界」を開いたかも知れません。わたしはそのように思っています。ペリーも100年後の日本人を恐れました。「江戸時代の日本人は清潔感と激しい向上心と勤勉さ」を持っていたのですから。
(余計な感傷に浸りました。倭王に戻りましょう)

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歴史を考え直すチャンスは何度もありました

江田船山古墳の「鉄刀の銘文」の発見でも、転機を逃した
熊本県菊池川流域の小さな前方後円墳から鉄刀が出土し、そこに「治天下大王」の金石文が見つかりました。これは、古代史を考え直す大きな転機だったのですが、見過ごされました。
すっかり、九州にあった王朝関係の墓と云う考え方は消えて、近畿の天皇に「大王」を当てようとしたのでした。
「治天下大王」は、「瑞歯別天皇」だとされ、いの一番に「日本書紀」の天皇があてはめられました。
その後、埼玉県で稲荷山古墳より鉄剣が出土して銘文に「左治天下」があったのです。「治天下」「大王」「ワカタケル大王」が共通するとして、「瑞歯別」も「ワカタケル」と訂正されました。5、6世紀に、熊本県と埼玉県のように離れた地域を治めていたのは、奈良県の大王だとなったのです。
ホントでしょうか?


では、奈良県の勢力が埼玉や熊本に入った時期は、いつなのでしょうか? 
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(さきたま古墳群の中で、最も早く造られたという稲荷山古墳)
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稲荷山鉄剣と江田船山の鉄刀には共通点があった「人制」という役職

何度も書きましたが、埼玉の鉄剣と熊本の鉄刀に共通するのは、治天下やワカタケル大王だけではありません。「杖刀」「典曹」と言う役職の「〇〇」が共通します。

「〇〇人」と言う役職は、何処で生まれたのでしょう。列島の西と東で共通するのは、支配者が同じだったからです。「雄略十年に筑紫国には身狭村主青(むさのすぐりあお)が呉が献じたガチョウを土産に帰って来た。ところが水沼君(みぬまのきみ)の飼い犬がガチョウを噛み殺した。そこで、水沼君は鴻(おおとり)十羽と養鳥人を奉って、罪をあがないたいと申し出た。」
と書かれていて、ここにも「養鳥
」と言う役職が出てきます。

養鳥人を献じた水沼君(*)は筑紫の人です。「人」のつく役職は、九州でうまれたのでしょうね。
*別本では、水沼君ではなく筑紫の嶺県主(みねのあがたぬし)泥麻呂(ねまろ)という。
いずれにしても、北部九州の人です。更に、呉の使いは、有明海から筑紫に上陸したことになりますね。

有明海とは、近畿王権の使いとしては、異例のコースになりましょう。
身狭村主青は、九州の勢力の使者だったと考えた方がいいのでしょうか。
それとも、ここは書紀編纂者のうっかりミスなのでしょうか。そして、雄略紀には「日本旧記」という史書が出てくるのです。これもミスでしょうか。

百済との友好関係、高句麗との敵対と「日本旧記」
雄略二十一年条に「日本旧記」に曰く『久麻那利を持ちて末多王(またおう)に賜う』と書かれています。
「日本旧記」という史書があったようですね。末多王とは東城王のことで、雄略二十三年には「百済の文斤王(もんこんおう)が薨じたので、昆支王(こんきおう)の子の中から聡明な末多王を選んで王となして、武器と筑紫の兵士五百人を護衛として(百済に)送らせた」と書かれています。筑紫の兵士とは…

更に続けて「この年に、百済の調賦は例年より多かった。筑紫の安致(あち)臣、馬飼臣等船軍(ふないくさ)を率いて高麗を撃った。」

高麗に兵が出ています。筑紫の兵が。
突然「高麗を撃った」と書かれているのです。「百済の貢」の後につづけて、です。


もしかしたら、この辺りには「倭の五王の歴史が隠れているかも知れませんね。
雄略紀には妙に百済との親密な関係が書かれていて、高麗を撃つともあるのです。
ここには、百済本紀からの引用と、日本旧記からの引用があるのです。
「万葉集の冒頭歌」は雄略天皇だし、ここに何かがありそうですね。
この事は、別の機会にふれます。

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まだまだ続きます。
今日は、次のことを云いたかったのです。
日本書紀が正史であるなら、「中国の史書に出てくる卑弥呼も倭五王もタリシホコ」も登場させないはずはありません。中国に見せるために造った正史であるなら、なおさらでしょう。しかし、日本書紀が「日本は倭国ではない」という前提のもとに編纂されたから、中国の歴史書とリンクしないのです。
それが、日本国の出発の基本姿勢だったと思います。亡命百済人を山深くの「こもりく」に隠したのも、中国に見つからないようするためだった、と思います。



ただ、卑弥呼より前の「委奴国」の時代は否定していません。でも、神武東遷は北部九州を避けて、宮崎県の美々津の浜からの出発とした、筑紫には寄り道したとの記述にして、はぐらかしたのかも知れませんね。そこにも、王国はあったのですから。

白村江敗戦後、倭国は占領されました。多くの人は東に逃げたことでしょう。そうして、日本が唐と国交を回復する時が来たのです。
列島の人々は「倭国ではなく日本」として、何処までも考え尽くして、日本書紀を編纂したと思います。

その結果、歴史が混乱したのです。

次は、日本書紀「雄略紀」編纂の秘密についてかきましょう。

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# by tizudesiru | 2018-04-04 12:00 | 333倭五王の行方を捜してみませんか | Trackback

倭王武は雄略天皇ではないが、応神・仁徳王朝は滅亡した

倭王武は雄略天皇ではない
前回のブログで、「倭王武は雄略天皇ではない」と書きました。更に、辛亥年は471年ではなく531年だとも書きました。最近の定説を否定しましたから、大方の人は「嘘だろう!」と思われたでしょう。ですが、

普通に「宋書」を読むと、倭王興が活躍した時期に471年は入ります。ですから、辛亥年が471年なら、稲荷山鉄剣にかかれた大王は「興」だとなるのです。(前回のブログ)
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「稲荷山古墳」鉄剣が秘めた古代の謎
ホントに、謎でしょうか。謎としたのは、歴史学者ではありませんか?
「宋書」に倭五王の記述があるので、日本書紀の編纂をする学者は参考にしたでしょう。でも、なぜか倭五王と対応する天皇は存在しません。なぜでしょうか? 「新羅本紀」にも侵攻したのは、倭人・倭兵と書かれていました。「三国史記」の中の『新羅本紀』は14世紀に編纂されたものです。歴史の流れを承知した上で、倭について「倭国・倭兵・倭人」と書き分けていて、すべてが倭国ではないのです。
つまり、「過去において新羅にたびたび侵攻した倭は、倭人であって倭国ではない」と発言してくれたのでした。

すると、「歴史上の某天皇が新羅に侵攻したのは事実であるが、ひとまず友好国として言及を避けた」というのでしょうか。
そうであれば、倭五王をいずれかの天皇に比定することはできるでしょう。その中で、倭王が大泊瀬稚武(オオハツセノワカタケル)天皇となります。

倭王興が活躍していたのは460~478年であり、辛亥年が定説どおり471年であるなら稲荷山鉄剣の「ワカタケル大王」は倭王興となる、自明のことです。倭王興=雄略天皇=ワカタケル大王

しかし、埼玉新聞社発刊の『稲荷山古墳』では、辛亥年=531年としています。
稲荷山鉄剣が発掘された当初は、ほとんどの学者が「辛亥年は531年」を支持していたのです。
531年なら、倭王興とワカタケル大王は時代がずれるので別人です。
倭王(478~)がワカタケル大王の可能性があるなら、定説の471年ではなく531年しかありません。

しかし、いつの間にか「辛亥年は471年で、倭王武は雄略天皇である」が定説になってしまいました。これが謎ですね。

金石文である埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文「辛亥年七月中」という干支は、歴史上の事実です。そこに「ワカタケル大王」という人名があるのなら、この大王も実在の人です。
この人が書紀の天皇の誰かと一致するのか、しないのか。王権の支配地域を考えるうえにも重要です。
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(稲荷山古墳)

中国の史書である「宋書」には、倭国王が五人登場しました。
ところが、五人そろって何処の誰だか分からないのです。この五人も書紀の天皇と一致するのかしないのか、重要です。
書紀の記述の年代は虚実ないまぜで、明らかに時代がずれていたりしますが、倭五王と対応するのなら中国の干支により実際の年代が導き出される可能性が高いからです。
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日本書紀の編纂には40年ほどかかったそうです。学者たちは、漢書・後漢書・三国志(魏志倭人伝)も宋書・隋書も読んだ上で編纂したでしょう。漢文を読める学者が、外国の史書を参考資料としながら日本書紀を編纂したと考えます。それらを参考にしなかったと考える方が無理でしょう。書紀の引用文には「〇書に曰」と出典が示され、百済本記や個人の日誌など実際に参考にされています。

それなのに、卑弥呼も倭五王もタリシホコも記紀には登場しません。これは変です。
四世紀には畿内の王権が列島を支配していたのなら、五,六世紀の倭五王が史書の中で行方不明になるわけはありません。
また、王権が列島に少なくとも二ヵ所以上あったにしても、倭王が史書から漏れることはないでしょう。敵対するなり、無視するなり、何らかの影響があるはずで、全く消えることはないと思います。

今回は倭王武の行方を捜していますが…
倭王興の弟で、478年に宋に上表した倭王武の行方

倭王武の前後には、日本史を揺るがしかねない大きな歴史の転換点がある、のです。
だからこそ、ここを素通りはできません。


雄略天皇の弟は、天皇になっていないのです。書紀編纂者が歴史を知っているなら、「興の弟の武が即位した」と天皇位の継承で臭わせるでしょう。しかし、「宋書」を読んでいても、「宋書」に合わせることはなかった。倭五王の皇統の存在を残さなかった…故意に残さなかったのかも知れません。
ここは大事なところです。

日本書紀の編纂者は、「宋書の五王と畿内王権は無関係という事実」と「もう一つの真実」を知っていた。だから、畿内の王権と直接の関係を造作しなかった、と思うのです。
其の真実とは、「倭五王の系譜は断絶した」こと、と思います。
倭五王の皇統は、倭王武の後、いくらも経たないうちに滅びた、と思うのです。
自然に滅びたのではなく、何らかの政変があったと。
では、五世紀末~六世紀初めに、政変があった?
 
それは、ありました。九州の「磐井の乱」です。

もう一つ、日本書紀の中で滅びたと思われる皇統は、応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈の皇統です。この皇統が、継体天皇にとって代わられるという事件が、六世紀の前半に起こりました。

さて、ここでまた問題です。わたしは、倭五王は畿内の天皇には見当たらないと書いてきました。倭王武の上表文から、倭王達は九州にいたのではないかと書きました。倭王が九州にいて、「磐井の乱」が九州で起こったのなら、「うちわもめ」のようなものだったのでしょうか。

すると、九州の事件「磐井の乱」と滅びた応神朝はどのようにかかわるのでしょうか。遠く離れて、連動するのでしょうか。

その辺りは、解決しなければなりません。

以前「宋書」倭国伝の武の上表文を読みました。
倭王が九州にいて、上表文の通りだとすると、478年まで畿内への東遷はなかったことになると、書きました。武が「治天下」を目指したのは、478年以降だとも書きました。

日本書紀は自ら「雄略天皇は倭王興である」として、武だとは書いていません。一方では「列島は近畿の王に九州から関東までに支配されていた」ように書かれています。

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では、滅びた応神天皇の皇統について見直しましょうね。
また、次回。

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# by tizudesiru | 2018-04-03 12:00 | 333倭五王の行方を捜してみませんか | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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192軽太郎女皇女の歌
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202藤原仲麻呂暗殺計画
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204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
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209石舞台・都塚・坂田寺
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212中大兄の遅すぎる即位
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214天智天皇が建てた寺
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216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
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243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
314草壁皇子と天智天皇の関係
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ

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