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中元寺川を見つめる諏訪神社

福岡県添田町中元寺にある諏訪神社に行きました。ここは、二度目でした。コロナ禍の中、なかなか外出しませんでしたが9月19日(日)は、何処も人でいっぱいでした。
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地図を見ると二つの川があります。中元寺川も彦山川も遠賀川の支流です。古代には遠賀川流域には大きなネットワークがあったのでしょう。おおくの大河川と淡水湖がセットであれば。
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諏訪神社の御祭神は、建御名方神(たけみなかた神)、多力雄命(たぢからお命)、片闇邊命(かたくらべ命)、蛭子命(えびす命)の四神になっていて、建御名方神は大国主尊の第二子、蛭子命は大国主尊の第一子と書かれていました。
この神社は、諏訪神社のほかに「両神社」とも呼ばれるので、その縁起を詠みました。
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当神社は大和時代前期より古事記に散見する豊前、豊後・筑前三国および水分中元司川(早瀬川)彦山川流域の開拓神として大国主命に従いて瀬成大神と合い計りて治水、農耕開発、国土経営に当たられた出雲系氏族の氏神と崇められ延命長寿、子供達の守り神、祖霊鎮守の御社と郷の人々より御諏訪様・諏訪の大明神と称され氏子郷人の親愛の情深き尊崇敬神の誠により古来今に遷る事無き厚き護持により御鎮座す。

保元二年(西暦千百五十八年)平清盛大宰大弐鎮西下向を受け平弘依「生国信濃総社同一神成」と深く敬ひ宝ヶ岳一円を神領と定め本宮別所山中より現在地に御遷座社殿造営を成し地領不入及び制を定め以後、地主及び神武新としての性格を強め歴代の領主及び厚き信仰を受くる。

中世周防大内義興公の大造営により東西七百m南北二百mに及ぶ境内地も天正八年(西暦千五百八十年)大友、秋月、龍造寺等の兵火によりて大破。天正十五年(西暦千五百八十七年)豊前入国領主森壱岐守勝信公により城乃越蛭子堂に祭られし蛭子命を合祀社殿拝殿の御造営を受け両社大明神と称し奉り五十年毎の式年大祭の制が定まる 宝ヶ岳一帯を神地に供し以後、細川忠興公小笠原忠真公等、豊前入国に際しては、御社号奉納を礼として拝殿向拝には彰仁親王様御宸筆による「両社宮」宮后書額を始め 諏訪大明神御社号額等有し、以来豊前の国早瀬川流域の手長大社と称され、現在に至るも 古来遷る事無く社家相伝の治罹(ちり)切り神事を始め古式により年間七十有余にのぼる恒例の祭事が氏子中により今中に継承さる。

境内には景行天皇御手植えとされる樹齢千数百年に及ぶ天然記念物指定イチイ柏十数本が今尚樹勢盛りに鎮守の森の社叢を成し 古代の地叢を今に良くとどめ祖先先人達の営みを今にとどむる。

     宮司敬白 

鎮守の森 もっとも身近な環境でありながら忘れられゆく命の揺りかご産土の森

     平成十七年十一月吉日 

と案内板にありました。

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ご神文も二つありました。この日は、ちょうど宮司様が神社にお出でになったのでお話をお聞きすることができました。
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御神木はイチイの木で、以前は社の裏は昼も暗かったそうです。社殿の柱はケヤキでした。神社の財産として山林を所有していた頃に建てられたそうです。昭和二十年の全て国に没収されたので、今後の建て替えが難しいとのことでした。神社にはわずかな田が遺されただけだそうです。敗戦によって失った古来の文化もあるのです。
「失われた神社の行事にどんなものがありますか?」
「昔は、年間に七十あまりの行事が行われていました。今はほとんど行われてはいません。各集落に十人ほどのグループを作り「難しい課題」を設定して互いに競い合う行事もありました。お互いの結束を強めたのですね。」

有名だったのは「ちりきり」という神事だそうです。ここの社家に伝わる神事で、大分や宮崎や大宰府からも参加者があったそうです。骨折は某病院、やけどは某病院、治罹切は諏訪神社、と言われたほどだったそうです。
近隣だけではなく遠い地域にまで知られた諏訪神社の神事、つい最近まで続いたこの神社の影響力の大きさを感じました。
このような伝承は、やがて失われていくのでしょうか。それから、彦山川や中元寺川や遠賀川流域の神社に「諏訪神社」はほとんどないそうです。何故でしょう。
片闇邊命を祀るのも此処だけですし、もともとの主祭神は片闇邊命だそうです。後に入ってきた建御名方神と入れ替わったと、宮司様が云われました。
なんとも意味深なお話です。
支配者が変わると祭神が入れ替えられます。それは、有史以来ずっと行われてきました。九州の神社でも関東の神社でも、大化改新、壬申の乱後の天武朝、光仁天皇と桓武天皇、更に平城天皇、武士の世になると武神が入って来て、支配者の入れ替わりで目まぐるしく祭神が変わりましたね。
本来の神は、相殿に遷されたり摂社末社に遷されたり、色々あったそうです。
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諏訪神社には対岸の集落からも多くの参拝があるのでしょう。対岸には川に降りる階段が造られていました。
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大水の時には隠れてしまう小さな橋がかけられていました。この橋を渡って、子供達や昔を知る高齢者が参拝に来られることが長く続きますように。
たいへんな歴史とその意味に出会った一日でした。ありがとうございました。





# by tizudesiru | 2021-09-22 11:49 | 376神社一人旅はいかがですか | Trackback(32)

法隆寺釈迦三尊像のクローンが語る歴史

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東京藝大のスーパークローン文化財展が福岡県大野城市のふるさと館であっています。法隆寺に行ってもなかなか近くで見ることはできません。まして、横からとか後ろからとか見ることはできません。藝大が製作したクローンですから、存分に見ることができました。
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もちろん横から見ました。驚いたことに、脇侍の仏像は耳から後ろはないのです。
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レリーフとは言いませんが、背中も後頭部もないのです。正面から見ると立派な金銅像ですが、横から見ると違うのです。
すごく感動しました。この合理性と技術は何処にあったのだろうと、俄かに興味をそそられました。
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優し気な微笑は、素晴らしいですね。美しい御手や御足の表現に感心するばかりです。
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優しいお姿は金具でしっかり留めてありました。よく見ると、木材でしょうか、留め金が緩まないように金銅像の内側には木材のようなものが見えました。この木部の材料は何だろうかと、またもや、興味が湧きました。

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左右対称のようで、若干変えてある微妙なひだの重なりもしみじみと見ました。
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釈迦三尊像の台座の請花と反花の部分はクスだそうです。なぜ一部分だけなのでしょうか。
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この仏像は、いつ、どこで、どのように造られたのか、きっと語っているはずです。
物言わぬ微笑の中に、像製作の技術の中に、そして光背の文様の中に、その答えがあるはずです。
ひとまず、質問を書いて帰りました。
答えがメールで送られるそうですが、楽しみです。久しぶりに外に出ました。楽しかったです。
では、またお会いしましょうね。




# by tizudesiru | 2021-02-11 22:47 | 法隆寺 | Trackback(47)

纏向遺跡の大型建物は、東ではなく、西に向かって建てられていたのではないか

倭女王卑弥呼はどんなところに住んだのでしょう。
NHKが取り上げていた纏向遺跡の大型建物がありました。あの辺りは、始めは柿本人麻呂の屋敷跡ではないかと思って掘っていたそうですね。
細い柱の住居の復元図の柱跡が、たまたま東西に並ぶので「!!卑弥呼の住居ではないか?」として、マスコミを巻き込んで話題になったのでした。
もちろん、全て発掘したのではないし、建物があったと予想される場所は、後世に削平を受けていて大型建築物の大きさは想像なのです。また、大きな溝に大型建築物の柱跡そのものが切られていて、全貌はついに不明のままです。卑弥呼の館として人々が出入りしていたというのですが。まず、この建物を一連の構造物として認めたとしても、東の太陽を拝していたとは思えません。目印になる纏向山とはずれていますから。むしろ、逆で西の小建物が神殿で、拝殿が続き、神官の住まいや集会所が大型建物として続くと考えたが自然です。つまり、西向きの建物群と見えるのですが、どうでしょう。
又、大型建物の柱穴は小さいし、柱と柱の間が4m以上もあれば、大型建物を支え持ちこたえることはできないでしょう。だから、神殿というより住居としての建物だったと思うのですが。もちろん、祖先の為に祭礼をしていたと。
何より大型建物を支えた柱穴の深さが15cmから30cmと、非常に浅かったのです。是では建物を支えられないので、復元図には50cmの基壇が付けられています。当然、60cmくらいの深さが必要ということです。建築家の目を通しても、柱穴が浅いのです。
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報告書でも纏向遺跡のこの辺りには、「生活の跡」が ないそうです。だから、「ここは祭祀場だから人が住まなかった」大量の桃の実は「祭祀に使われた桃だ、きっと!」と、騒がれました。しかし、祭祀用の土器の器台とか、木製の器台とか、、発掘で出ていません。魏志倭人伝にも、桃の実を使って祭祀をしたとか、占いに使ったとか、一切書かれていません。占いに使ったのは、鹿の骨などです。「ゴミ捨て場」と言えば、それまでで気の毒ですが、それらは捨てられていたものです。近くに桃畑があったようで桃の花粉が出ています。纏向では、桃を祭祀に使ったとしてもいいのですが、倭人伝と齟齬が生じる結果になるので、まずいかなあと思うのです。
纏向遺跡の大型建物は、東ではなく、西に向かって建てられていたのではないか_a0237545_12432354.png
しかし、私は纏向遺跡そのものを否定しているのではないのです。ただ、卑弥呼の館ではないと思います。上の画像は、最近整備された纏向遺跡です。もはや想像が形になっています。私は遺跡に二本のラインを入れてみました。赤はこの遺跡の東の建物から履中天皇陵に、ピンクのラインは近くの穴師坐兵主神社(式内名神大社)から仁徳天皇陵に引きました。東西のラインです。この二つの大型古墳が大型建物を知っていたらどうなるだろうと、思ったからです。
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庄内式土器が出るという辺りで、石塚古墳を横切りました。この赤とピンクのラインは、古代では東西ラインになりす。千年以上時間が立って居るので、真東が若干ずれているのです。このラインが有効なら、大型建築物は西に向かって石塚古墳や矢塚古墳を祭祀したとなりましょうか。
石塚古墳は全長約99mの前方後円墳で、墳丘盛り土や周濠から土器のほか、鋤・鍬・建築部材・鶏型木製品・弧文円板などの木製品が出土しています。埋葬は三世紀後半という見方もあるそうです。
石塚古墳の西隣にある矢塚古墳も纏向型前方後円墳です。埋葬施設など分かっていませんが、箱式石棺か竪穴式石室の可能性があるそうです。ここは須恵器が出ているので、古くはないでしょうね。楽浪系土器も韓系土器も出ない纏向に邪馬台国の可能性は薄いと近畿の方が言われていました。
それより、どうして王権が発生したのか、考えてほしいです。
五世紀までの大阪は水の底でした、大部分が。淀川をさかのぼった京都府山城も南には巨椋池があって、大湿地帯でした。そこで、人々はどのようにして権力を手にしたのでしょう。
人が住んでいなかった纏向に、急に人が集まったのは何故でしょう。移動するメリットがなくては、人は集まりません。
鉄は、人の移動と共に持ち込まれた。銅も大量に持ち込まれた。その原動力となったのは何なのでしょうね。
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これは、大阪のホームページの画像です。正直、上町台地に家があっても、農業はできません。水を抜いて田圃を手に入れるのが先です。それをやり遂げた者は、莫大な土地を手に入れたでしょうね。しかし、大阪は長い間大湿地地帯でした。五世紀の古墳時代になっても治水に苦労したでしょう。

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纏向遺跡の大型建物の柱穴だけが四角なのは、神殿だったから。神殿の柱穴も特別に四角なのだという説明がされています。
柱穴が四角になるのは、八世紀。少なくとも七世紀の後半からだそうです。では、掘っ建て柱だった第一次難波宮の柱穴は、わざわざ四角にそろえてありますか?
むしろ、纏向の大型建物は、時期が新しいと考えたがいいのではありませんか。

城柵も物見やぐらもない卑弥呼の居館はありません。倭人伝には矛で厳重に守られた館に卑弥呼は住んでいた、と書かれています。
纏向の開放的な大型建物は、卑弥呼の館ではないと思うのです。


# by tizudesiru | 2021-01-08 14:56 | 384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ  | Trackback(52)

筑紫平野に訪れた弥生時代の大型甕棺の消滅と古墳時代の異変・小郡埋蔵文化財センター

邪馬台国サミットで存在感を示していた片岡宏二さんが仕事をされているのは、筑紫平野の小郡市埋蔵文化財センターです。御顔は存じ上げていましたが。

小郡市は、津古生掛古墳という初期の古墳があったので有名です。近隣に住む人には、「ここが卑弥呼の墓だ」と言われる方もおられました。そのくらい古かったそうです。しかし、開発のために、もう破壊されています。私は「なんで壊したの?」と、学芸員さんに聞いたことがあります。答えは「残念です…」でした。
大事なものは、いい場所に在ります。大事な土地にあるのです。だから、残されません。残念ながら、各自治体には国の援助が少ないので残せません。
もちろん国の援助を潤沢に受けている遺跡はあります。しかし、九州には少ないのです。世界遺産に血道をあげるはずですね。遺跡も生き残らねばなりませんから。
小さな自治体は、既に金銭的に切られていますから。もう、埋蔵文化財に未来はありません。
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小郡市は、交通の要衝にあります。長崎佐賀方面、大分方面、熊本方面に向かうには通過点です。それは、古代にも同じだったでしょうね。
津古生掛古墳からは、埴輪は出ません。埴輪の前の段階の古墳なのです。ですが、鶏型二重口縁土器が出土しています。
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津古生掛古墳の後に続く時代は、実は、断絶しているのです。住居跡が忽然と消えて、人々がいなくなったのです。何かあったのですね。
もちろん弥生時代は、中期まで大型甕棺の時代で、大いに栄えていました。そのあと、大型甕棺が急速に消滅しています。筑紫平野は幾度となく大変化に襲われたのです。人々は何処へ移動したのでしょう。古墳時代にも同じようなことがあったのです。人々は、どうなったのでしょう。
津古生掛古墳の時代の後に空白があって、古墳時代がやって来るのですが。やっぱり、大型の須恵器の甕の時代です。
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では、弥生時代に戻りましょう。邪馬台国サミットの話のつづきをするつもりでした。
さて、片岡さんは邪馬台国連合の国は、北部九州だという主張をされていました。
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確かに倭人伝には、「絶えて、海中、洲島の上にあり。或いは絶え、或いは連なり、周旋、五千余里ばかりなり」とありますからね。北部九州にあった邪馬台国は狭いのです。
「女王国の東、海を渡って千里で倭種の国がある」とかいてあります。九州の東には、海を渡って倭種の国があるのです。
女王国の北には「伊都国があり、一大率の役所が置かれていた」し、中国や半島との往来、文書や賜遣のものなど検閲していたのです。
伊都国から遠すぎるところに女王国があるはずはないのです。伊都国の北は海です。女王国は伊都国の南に有ると魏書に書いてあります。

私たちは、魏志に書いてあることをことごとく否定していいのでしょうか。魏志に真実はないというのでしょうか。まさか、中国の歴史書は、個人が勝手に書いたものではありません。皇帝の命令の下に編纂し、史書として皇帝に奏上したものです。いい加減なことを書いたら、首が飛びます。更に、歴史を書くのは名誉であり、誇りと人生を懸けて書き上げたのです。

史家の言葉は意味があるのです。自分が書き残したものを後の世の歴史家が参考にするのですから、正確に書こうと努力しています。自分も過去の歴史家の文章を吟味し、参考にしているのですから。それは、中国の歴史家の伝統だそうです。
倭人伝は正確ではないのでしょうか。半島の六国については、それぞれに国の特色が書かれていて、大変面白いです。

片岡さんの説は、次のように展開していました。
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生活した様子がない不思議な集落(?)跡があるが、それは監視するための場所だったのではないかというのです。そこで、狼煙などを炊いたのでしょうか。
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もし、監視する集落であったのなら、この範囲に女王国はあったのでしょうか。
彼らの国は、結束していた。連合国として、談合していた。そして、女性を共立した。のでしょうか。 

ありがとうございました。面白かったです。
この辺で、失礼します。


# by tizudesiru | 2021-01-03 20:00 | 384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ  | Trackback(70)

何処の地域の人が大倭の覇者となったのか・助走を始めたNHK

1月1日のMHKの「邪馬台国論争」は、久しぶりに普通のテレビ番組でした。
しかし、もちろん「あれ?」と思うところはたくさんありました。それは、後で紹介させてください。
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昨今のテレビ業界の状況は、テレビを見ている人が少なく、古代史の番組を見る人は非常に限られるそうです。その中での番組ですからね、視聴者を考えると、邪馬台国論争のどちらも否定できないはずです。私もテレビは見ますが、ドラマやバラエティー番組はほとんど見ません。PCに向かっているか、本を読んでいるかですね。
しかし、邪馬台国論争は見ました。
「邪馬台国サミット」は、これまでのような近畿に偏った番組ではありませんでしたが、次を踏まえている「倭の覇者となったのは何処の地域の人か」に近づくための一歩であると、強く感じました。これから墓の副葬品で迫ろうというのです、きっと。今後のテレビ番組はそのようになっていくと思います。ホケノ山古墳を使って。恐ろしいことですが。
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 では、気になったことですが、上の画像のように日本列島は二世紀の終わりには既に中央集権の国になっていたのでしょうか。そうであれば、神武天皇も崇神天皇も饒速日も歴史的には不必要です。他所の地域から近畿へ入り込むために戦わなくてもいいのです。どんな形にしても侵入はあった、圧倒的な武力か、人力か、経済力でよそ者が近畿勢力を圧倒したということはあったと思います。
ですから、上の倭国の画像は{?不思議}となります。それに、「魏書」には朝鮮半島の国のことも書かれています。扶余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・韓の六国です。半島ではこの後も侵略と分裂を繰り返し、高句麗・新羅・百済となっていくのです。半島ですら少なくとも六国以上に分かれていたのです。なのに、弥生時代の列島は島国なのに「倭国」のみですか。嶋をつなぐ橋もないのに、中央集権は無理でしょう。

さて、魏書には倭国と書かれているのではなく、「倭人」と書かれているのです。倭国と倭人は同じでしょうか。
半島の記述には、扶余人・高句麗人・東沃沮人・挹婁人・濊人・韓人と書かれているのではありません。それぞれの国としています。
倭人は、倭国ではありません。「魏志倭人伝」は、列島の状況そのままに表現されているのです。
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更に、「大きな銅鐸の出土範囲」の画像がありました。
弥生の銅剣や銅矛や銅戈や銅鏃や銅鏡が出土しない近畿に、忽然と大きな銅鐸が出現するでしょうか。
その原料を手に入れたのは、何処の誰でしょう。王権が配ったと言われましたが…。倭国だったという九州は避けたのでしょうか??不思議です。
もちろん、九州には福岡平野も筑後平野も熊本にも「小銅鐸」と鋳型が出土します、弥生時代に。銅鐸は早くから九州に有りました。しかし、大型化はしていません、弥生時代の九州では。音を鳴らす道具は、衣食住に必要ではないので、祭祀具だったのでしょうね。

では、近畿ではどうして急に銅鐸を大きくしたのでしょう。出雲にも銅鐸が出土(埋納されていた)します。それらは、大きくなる前に埋められています。
他の方も指摘されていましたが、正史には「草薙剣」のことは、詳しい物語として書かれていますが、銅鐸については何の記述もありません。
それは何故でしょうか。
これが、もし「倭国」のシンボルなら伝承や史書に書き残したでしょう。古代の近畿人も銅鐸が出てきた時、「なんだ、これは!」と驚いたのです。彼らは銅鐸のことは知らなかったのです。では、銅鐸の勢力はどうなったのか…滅ぼされたのでしょうか。
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さて、畿内勢力が銅の原料を大量に手に入れる方法は、銅製品を奪うか、提供を受けるか、何らかの方法で購入するか、でしょう。
北部九州にあった銅鏡や銅矛や銅戈や銅剣を熔かして再利用したと考えるのが穏当でしょう。
鉄も銅も出ない近畿に、急に銅鐸の文化が花開くのには、それなりの理由が必要でしょう。

2021年が始まりました。これからの古代史の進む道は決まりました。邪馬台国は決着しなくても、次の準備ができたのですね。近畿の縄文と東国の縄文が時期を同じくして収束し、弥生を迎えた。そして、圧倒的な副葬品を持った古墳時代に流れていくという展開なのでしょう、これから。
その始まりが箸墓のある纏向で、ホケノ山古墳が古墳時代に先駆けて、その古墳祭祀の在り方を導いていくという、そんな構図ですか。
重厚に色濃く塗りこめられたら、真実は見えなくなるのでしょう。既に、九州の弥生と近畿の古墳が同時代に設定されているのですから。実に、メディアの力は強いですから。よくできた番組でしたが、先が思いやられて複雑な気持ちになりました。


なにしろ、二時間の番組でしたので「そうかな?」「それでいいのかな」と思うところがたくさんありました。
よかったら、続きも書きます。また、読んでくださいね。


# by tizudesiru | 2021-01-02 11:53 | 384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ  | Trackback(47)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
未分類
97宇佐神宮と北部九州・2
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授柿本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける
373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ
374令和元年こそ万葉集を読み解こう
375大伴家持、万葉集最終歌への道
376神社一人旅はいかがですか
377花の写真はいかがですか
378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東
379万葉集巻二十は鎮魂と告発の歌巻
380関東の神社は、政変を示しているのか
381九州の古墳の不思議と謎
382松浦佐用姫は何故死んだのか
383令和三年の奇跡を祈りましょう
384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ 
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