継体大王の物語を形象埴輪が語る
今城塚古墳の埴輪は素晴らしい。古墳時代を紹介する展示物として様々な博物館や歴史資料館に出張展示されたので、見る機会は度々あった。ていねいに復元されていて見ごたえもあった。埴輪が置かれているのは、古墳の墳丘の上や作り出しではない。外堤の更に外の突堤である。まず、畏れ多くて古墳に近づくことができない人々に、被葬者の偉大さを知らしめす為に造られたモニュメントとすれば、何を並べているだろう。 高槻市今城塚古代歴史館が紹介しているように被葬者が継体天皇だとすると、継体大王に関する物語を形象埴輪が語っている、そう考えてもいいだろう。 一番後ろに仕切りがあって、衣笠のような埴輪が置かれている。高床の大型の家や小型の家が並んだ後、仕切りがある。 仕切りの向こうには、大刀の列があり一直線に並んでいる。儀仗兵を意味するのだろうか。大刀で何かを守って居るのか。大刀列の奥には大型家屋と男女の埴輪が置かれ何か儀式をしている。巫女らしい女性が立って胸の前で捧げ物を持つような姿勢をとって前方を向いている。そして、また仕切りがある。仕切りの向こうにも、巫女のような女性が同じポーズ同じ向きで立っている。ここは、たいそう賑やかである。大刀列の外側に大鳥の列が、これまた一直線に並んでいる。鎧を着けた兵隊も並んでいるが、彼らは前方を向かずに儀式が行われている方に躰を向けている。大事な儀式が行われて居るようである。 巫女の集団は手を合わせたり、空に向かって手を上げたりして祈って居るらしい。今城塚の博物館の中に巫女の埴輪が再現されている。やはり魂振りの儀式のように見える。座っている男性は、この儀式に欠かせない人らしいが、躰は小柄で子供だろうか。 そして、また仕切りがある。仕切りの先には鳥列、横に並んだ力士達。力士達は、前方を向いてはいない。四股を踏んで、土地の神を鎮めて居るらしい。 力士の前には、馬の群が前方に向かって進んでいる。兵士の集団も前方に向かって進んでいる。水鳥も鶏も居る。水鳥は死者を導くのだろう。鶏は時を告げる。先頭を行くのは、飾り馬である。 馬の群がシャンシャンと音を立て、力士がドスンと土を踏み、巫女が悲しみの挽歌を詠う。「こんな盛大な葬送の行列をしました」と、「この御方をいつまでも語り継ぎ忘れないように」と、突堤の埴輪は文字を読めない人々に知らしめたのだろう。
葬列が立派だったのは、十分に分かりました。葬送の儀式に必要だったのは、巫女と力士と兵隊。飾り馬と大刀と楯。殯の館と水鳥と鶏。などなど・・・ この後の有力者も、この葬列や葬送儀礼をしっかりと踏襲したでしょうね。
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が、どのような場所にどのように並べられているか、イメージはつかめない。そこで、現地で確かめたいと思って今城塚古墳に出かけた。
模型を見るとよくわかるが、後円部に向かって左側の外堤に更に突堤が付いている。そこにあの有名な形象埴輪群が並べられている。とんでもない外側である。「とんでもない外側」と驚いた理由は、三段築成の前方後円墳の今城塚古墳は円筒埴輪で縁取られているが、墳丘のみならず外堤も二重に円筒埴輪で縁取られているのに、形象埴輪群は円筒埴輪列の外に並べられているからである。
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by tizudesiru
| 2023-12-27 01:04
| 386今城塚古墳の謎・物語が見えない
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古代文化も人も西から東へ。古墳人は西から東へ移動した。
最近の遺伝子の解析から分かること
大昔の人々がどのように移動したのか、私の知り合いは強い関心を持っています。それで、下のような資料を紹介してくれました。 遺伝子レベルでみると、大陸の遼河文明と長江文明の両地域を通って、列島へ人が流れて来た事がわかります。
弥生時代の終焉は、大きな勢力交代によって引き起こされました。しかし、畿内が九州を席巻したとするのは早計ではありませんか。人の動きを見ると、東へ流れて居ますから、東に魅力的な土地があったという事でしょう。
文字の伝播も西から東でしょう
福岡市元岡出土の庚寅銘大刀にしても、古墳時代の大和王権との結びつきなど取り沙汰されていますが、ほんとうでしょうか。500年代です。
この時期、漢字文化はかなり浸透していたのでしょうか。誰にも読めない字だったら呪術的な意味があっても、それだけです。読めて意味が分かる文字を象嵌すれば、彫らせた者も、彫った者も、読んだ者も満足したのではありませんか。漢字はもともと占いや呪術的な役目を持っていて、神に意思を伝え神の言葉を受け取るという役目がありました。文字を刻むのは神聖な行為だったことでしょう。
文化は西から東ですから、最近、遺伝子の分野で研究が進んでいます。母系のミトコンドリアDNAの解析が世界中で行われていますが、外国人が出した日本での結果も人の流れは、西から東です。それも、古墳時代が激しく「古墳人」と呼ばれるほどです。弥生時代の終わりに日本では人の流れが始まり古墳時代に大きくなり、古墳人ができあがっていく。平安時代の前、つまり奈良時代までには基本的には日本人の遺伝子に関わるシャッフルは終わっているそうです。勿論、西から東への人の流れです。この事実を無視することはできません。古墳時代に大きく人が動き、文化も拡散したということです。
その後は、支配体制が変わり、人々の移動が為政者によってコントロールされるようになりますからね。人民は「おおみたから」つまり為政者の財産なのですから。人々がいなければ生産活動はできないのですし、国の取り合いは、土地の奪い合いというより、豊かな生産物と人民の奪い合いだったのですからね。
そこで、前回の話につなげるのですが、糸島の有力者は「お宝」を持って他地へ移動したのではないかと、書きました。しかし、彼らがお宝を持ちながら、次の為政者に近づき生き残ろうとしたと考えることもできます。
日本各地には、たいして平地も無く、生産力も少ない山がちな土地に古墳が所狭しと作られています。古墳時代に入ったら継続して古墳が作られていく。不思議です。しかし、古墳時代後期や終末期の古墳はほとんどありません。古墳時代の半ばに、ここ北部九州では再び何かがあったのです。そして、人々はよく働いたのです。
その古墳時代に何があったのか、それを知る糸口が残されています。「筑前国嶋郡戸籍川邊里」名前や男女別や年齢や嫡子・庶子などが記された戸籍です。大宝二年の戸籍ですが、その前の時代の様子を想像することができます。
(何故、そんな戸籍が残っていたか。そのことも重要です)
聖武天皇の后の光明子が写経させた紙が、大宝二年(702)の戸籍の裏紙だったらしいです。
ちょっと、光明皇后の話
光明子は、天平元年(729)八月に皇后に立てられています。この年の二月に長屋王家を断絶して政敵を一掃した後に、はじめて皇族以外から皇后に立てられた人です。高市皇子の長子である長屋王が「立后に反対するだろう」ということで、長屋王家は滅ぼされ、王家の有力王子の命が絶たれたのでした。
故に、光明子皇后としては身内を断絶して内心には苦しい思いを抱えられていたでしょう。一家そろって死を賜った長屋王の邸宅跡に「皇后宮職」という役所が設けられ、二十年近く写経が続けられたのです。もちろん、長屋王家の供養であり、聖武天皇家や藤原氏の安泰を願っての写経でしょう。
今度は戸籍の話
その写経の紙に、九州の嶋国(福岡県糸島市)の戸籍の裏紙が使われたのです。702年の戸籍の紙が、730年以降に使われています。戸籍の紙を三十年保管した後に、捨てるのはもったいないから再利用しているのです。
もちろん、皇后宮職という皇后直轄の役所で使われたのですから、一級品の紙だったのです。正倉院文書は現在も修復が重ねられています。なにしろ触れないほど経年劣化でボロボロなのです。しかし、「筑前国嶋郡戸籍川邊里」(国宝)の紙は立派です。国宝展で実物を見ましたが、修復されているとはいえ、その状態に驚きました。戸籍は公文書ですから、良い紙が使われたのでしょうが、このような紙を作る技術が嶋郡にはあったということです。
もちろん、皇后宮職という皇后直轄の役所で使われたのですから、一級品の紙だったのです。正倉院文書は現在も修復が重ねられています。なにしろ触れないほど経年劣化でボロボロなのです。しかし、「筑前国嶋郡戸籍川邊里」(国宝)の紙は立派です。国宝展で実物を見ましたが、修復されているとはいえ、その状態に驚きました。戸籍は公文書ですから、良い紙が使われたのでしょうが、このような紙を作る技術が嶋郡にはあったということです。
嶋郡の戸籍には様々な氏の人々が名を連ねているのです。方々から集まってきた人々でしょうか。伊都国や嶋国の地元の人々だけで無く、卜部、物部、中臣、火の君など他所から入った人々でしょうか・・・・
700年の大宝律令の時代には、他所から来た人が糸島に居たのか、糸島に住んでいた人々が、卜部や中臣や物部や火の君などの部民に組み込まれたのか、様々に考えられます。
飛鳥時代までに列島の大きな変化が終わっていたのでしたね。
それにしても
技術を持っているのは、為政者ではありません。働く市民です。
その土地の文化を引き継いだ人々の手に技術が残されたのです。特上の紙を作る技術も筑紫にはあったのです。そんな技術者を移動させるのは、為政者としては納得しないでしょう。財産ですから。
では、人々が移動しり、または、別の組織に組み込まれたりするのは、何故でしょうね。移動した人々には、やむにやまれぬ理由があったのでしょう。
今、世界は・・・難民が増え続けている
今、現在、世界は異常気象による乾燥や豪雨で住むところを失い、難民となって移動する人々が増えています。食べ物がないからです。移動しなければ生きてゆけない難民となった人々が、新天地で困窮しています。
また、紛争や戦争で難民となった人々も大変な数になっています。
彼らは自然の驚異にさらされたのではありません。
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by tizudesiru
| 2023-12-25 22:08
| 384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ
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弥生時代を生き残るための糸島の有力者の選択
黄丸がが銅鉾・銅戈埋納、赤丸が銅鉾埋納、青丸が銅戈埋納、黒丸が銅剣埋納、白丸が多紐細文鏡の埋納地です。これら行為は、埋納祭祀と理解されています。集落の目立たない土地に埋めて、掘り出しては祭祀を行い、再び埋納したと。それが何ゆえか忘れられて、現在に至ったと説明されています。はなはだ不思議です。
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by tizudesiru
| 2023-01-30 15:50
| 366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
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元岡古墳群を尋ねました・2014年のパンフレット
福岡県福岡市西区の元岡古墳群の話の続きです。元岡は今は陸奥に見えますが、古代には海が入り込んでいました。2914年に、デジカメで元岡の紹介をしたパンフレットの写真を撮っていました。
平安時代だけではなく、古代には博多湾は絶好の交易路だったはずです。やはり大学の敷地内にはたくさんの前方後円墳や円墳・方墳があったのですね。
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平安時代だけではなく、古代には博多湾は絶好の交易路だったはずです。
古墳の被葬者の経済を支えたのは何だったのでしょうね。財力無くして、権力を手に入れることはできません。彼らは経済力を背景に影響力を高め権力を手にしたのでしょう。 糸島地方は、海とのかかわりが深いのです。制海権を廻っても、他の氏と競ったでしょうね。
糸島半島や北部九州の鉄生産は、いつ始まったのでしょう。需要があるから供給があるのです。生産された鉄製品は、何処へ運ばれたのでしょうね。
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by tizudesiru
| 2023-01-24 17:01
| 366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
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元岡古墳群を尋ねました
元岡古墳群を尋ねました。九州大学が建設された時に前方後円墳は残されず消滅していますが、庚寅銘大刀が出土した元岡G6号墳は残されたそうです。二年くらい前に訪ねたのですが、探せませんでした。急いでいたのもありますが、糸島の人も知らなかったのです。そうそう、元岡は糸島半島にありますが、福岡市に合併しているので、すぐ隣の糸島の人は知らなかったのでしょう。今回分かったのですが、道路を挟んですぐ近くにあったのです。今回は近くのコンビニで仕事してる人に調べてもらいました。 九州大学の南西のゲートの横の駐車スペースに車を止めて20mくらい西に歩くと、それらしい盛り土がありました。これではないなと思って、柵の横を進んでいくと、それらしい盛り土が見えました。 周りは荒れて竹や木々が倒れていましたが、盛り土はひとまず確認できました。福岡市から報告書がネットに上げられていますので、切り取りました。
とても、大事な古墳ですね。私も、このブログで何度も取り上げています。カテゴリ「366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?」(2019年7月)記事を4篇挙げているので見ていただければと、思います。私はこの大刀は国産だと思っています。6世紀の元岡には製鉄窯跡が28基(と、記億してますが)見つかったと思います。
ブログには、7月5日「庚寅銘大刀は倭国ではなく百済産?」 7月7日「大型鋳造鈴は何処で造られたのか」 7月8日「古墳時代、鋳造馬鈴の文化は何処から広がったのか」 7月12日「馬鈴を表現した馬形埴輪を持つ古墳の被葬者は王か、臣下か」など、カテゴリ366の中に入れています。
その墳丘の上から背振山を見てみたかったなあ、と思いました。
キャンパスのデザインに古墳は必要なかったのでしょうね。G6号墳が残ってよかったです。福岡の人は新しいものが好きなんだと、聞きました。古いものは、次々に壊されていきますからね、そうかも知れません。
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by tizudesiru
| 2023-01-23 10:20
| 366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
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地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史
by tizudesiru
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202藤原仲麻呂暗殺計画
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204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
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212中大兄の遅すぎる即位
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218熊本の古代寺院・浄水寺
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221斑鳩寺は若草伽藍
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224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
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232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
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238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授柿本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける
373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ
374令和元年こそ万葉集を読み解こう
375大伴家持、万葉集最終歌への道
376神社一人旅はいかがですか
377花の写真はいかがですか
378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東
379万葉集巻二十は鎮魂と告発の歌巻
380関東の神社は、政変を示しているのか
381九州の古墳の不思議と謎
382松浦佐用姫は何故死んだのか
383令和三年の奇跡を祈りましょう
384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ
法隆寺
大塚初重氏の仕事
385万葉集を片手に旅ゆけば
386今城塚古墳の謎・物語が見えない
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