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大若子と倭姫の接点を知っていた野芥櫛田神社

福岡県福岡市早良区野芥の櫛田神社に参詣しました。以前の参詣とは違ったことに気が付きました。それは、ご祭神のことです。
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ご祭神は、天照皇大神・大若子命・天児屋根命・手力男命・倭姫命となっていました。

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由緒(古事記・続風土記拾遺、神社誌ヨリ抜粋要約)

皇譜十二代景行天皇十八年 此ノ地方二強賊蠻居シ在リ即チ勅シテ 大若子命ニ征誅セシメラレ コレガ縁起ニテ当地 能解(のけ)ニ勧請セラレ後チ天慶二年再建ノノチハ早良六郷ノ郷社トシテ鎮座シ給ヘリト傳承ス 即チ往古ニ算スレバ其ノ創祀ハ実ニ一千三百年ノ昔 大和朝時代ナリト

*能解=野芥 

野芥櫛田神社に上記のような由緒がありました。それで、佐賀県の櫛田神社を思い出したのです。御祭神はどうだったのかな…もう忘れていたので神崎の櫛田神社のホームページで確かめました。

「神埼の櫛田神社」のホームページ

(かんざき)」発祥の地 景行天皇が今から1930余年前に櫛田宮を創祀されて以来、荒廃した地が神の幸をうける平和郷となり、神幸(かむさき)と名付けられました。これが後に神埼となりました。〈肥前國風土記〉

御祭神の御神徳は、国土万民の安泰繁栄を守護し、あらゆる災難を除き給う事は「神代より末代の今に至る迄、霊験あらたにして威徳世に盛に、利生掲焉にして賞罰分明なり」と櫛田大明神縁起に明記され、厄はらい・車両はらい・地鎮祭・縁結び・安産・病気平癒等の神さまとして仰がれています。

櫛田神社の元宮(もとみや) 弘安4年(1281)蒙古襲来。神埼本宮より末社博多櫛田神社へ神剣を移して異賊退散を祈り、霊験あらたかなものがありました。

当宮と南北各1里へだてて鎮座する高志(たかし)神社(千代田町、田中豊宮司)・白角折(おしとり)神社(旧仁比山村朝日)とは三所一体の神社です。他にも『櫛田大明神』と刻まれた石祠などが筑紫山地などあちらこちらに祀られています。

御祭神
櫛田三柱大神
櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)正面鎮座、櫛田大明神
須佐之男命(スサノオノミコト)  東御座、高志大明神
日本武命 (ヤマトタケルノミコト)西御座、白角折大明神(おしとり)
と、上記のように書かれていました。

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野芥の櫛田神社は、明らかに大若子命が中心の神社です。由緒からそのようにしか読み取れません。他の四神(天照皇大神・天児屋根命・手力男命・倭姫命)は、後からくわえられた神々でしょうか。たぶん明治になって「大若子命」の関係から伊勢神宮の縁起に倣って四神が入って来たと思われます。
大若子は、ヤマトヒメが天照大神の鎮座地を求めてさまよっている時、土地を献上した豪族だったと思います。

こんな九州にまで倭姫は来られたのですか? ではなくて、あの話は九州で起こったことですか? と思いたくなりますね。
神社を巡っていると、ひよっこり、宇治稚郎子にあったり、仁徳天皇に会ったり、大若子に会ったりするので驚きます。伊勢神宮に伝わる「倭姫世紀」には、
十四年[乙巳]、伊勢国桑名野代宮(くはなのしろ のみや)に遷幸して、四年間奉斎。
 この時、国造大若子命〔一名大幡主命〕が現はれ参上して御共に仕へ奉ったので、国内の風俗を奏上させた。また、国造建日方命(たけひかた のみこと)が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと「神風の伊勢国」と申上げ、舎人弟 伊尓方命(いにかた のみこと)、また地口・神田・神戸を進った。若子命は、舎人弟 乙若子命を進った。

と、「大若子」の記述があるのです。
此処に出てくる大若子(大幡主命)は、国造です。倭姫世紀を知っていたので、早良の人たちがご祭神に加えたのでしょうか。
大変不思議です。
では、この辺で。



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# by tizudesiru | 2019-05-25 00:48 | 350九州神社の旅 | Trackback

博多湾の能古島はオノゴロ島だったのか

福岡市東区の志賀海神社の元宮は、玄界灘に向かって鎮座していました。現在は博多湾を向いていますが、古代には外海を見ていたのです。
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志賀海神社の元宮の沖津島を東に見て後ろ(西)に目を移すと、そこに玄海島が見えます。玄界島は将に博多湾の入口に控えています。
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志賀島と玄界島の間を通って船が行き来しています。
玄界島には鷹の緑丸の伝承があります。
玄海島を見て博多湾に入ると、能古島が浮かんでいます。ここにも面白い話が合って、神話時代のオノコロ島は、能古島(のこのしま)だというのです。

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能古島には防人も置かれました。国外から攻めてくるとしたら、必ず通る海峡に浮かぶ島なのです。
志賀島の高台・塩見公園の展望台からこの能古島を見ましょう。確かに、古代には防人を置いたでしょうね。能古島が重要な位置にあることは分かりました。ここがオノコロ島の可能性はあるでしょう。南の対岸には小戸があり青木ヶ原がありますからね…

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何と言っても「神話の時代の話」ですから、肯定も否定もしません。

神話の時代の話ですから、文字を手に入れた氏族が自分たちの知識と都合で「日本書紀」や「古事記」を編集したのでしょうから、それをマルマル信じようというのではないのです。
しかし、その編集は少し気になります。

国生み神話を日本書紀で見ると、イザナギとイザナミが生んだ順番は次のようになります。
①秋津島(本州) ➁伊予二名島(四国)③筑紫島(九州)④⑤隠岐島と佐度島 ⑥越洲(北陸)⑦大洲(周防大島)⑧吉備児島(児島半島)
古事記では次の通りです。

①淡路島 ➁伊予二名島(四国)③隠岐島 ④筑紫島(九州)⑤壱岐島 ⑥対馬島 ⑦佐度島 ⑧秋津島(本州)

どゆこと? と思いますよね。日本書紀と古事記では「秋津島(本州)」を生んだ順番が、一番と最後、全く違います。この違いは、編集する氏の考えと主張の違いなのでしょうね。
 
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博多湾の入口には万葉歌碑もありますが、蒙古塚もあります。
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故郷には家族も恋人もいたでしょうに、この海で失われた命がたくさんあったのですね。
失われた命を思うと、美しい海が悲しく思えます。
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では、又明日,と書いてしまいました。
またまた、大事なことを書きませんでした。
「志賀海神社の元宮が外海を向いているのは何故か」の答えです。
此の答えは分かり切ったことで、単純です。志賀海神社を祭祀した安曇氏に「渡海技術があったから」です。
彼らは外海に出ていたのです。ただの漁師なら博多七浦と呼ばれた安全な湾内の漁だけでやれたはずです。危険な玄界灘で漁をする必要はありません。
志賀海神社の神に守られて、多くの丈夫が渡海しました。

玄界灘を越えて行くからこそ海神に祈ることが重要でした。「何をしに行くのか」ですが、王家の使者として、兵隊を送る船頭として、又は自らも兵として出港したのかもしれません。
だから、古代の社は外海を向いていると、私は思います。


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# by tizudesiru | 2019-05-19 00:13 | 350九州神社の旅 | Trackback

志賀海神社の元宮が外海を向いていたのは何故か

平成最後の「山誉め祭り」(福岡市東区志賀島の志賀海神社)に行きました。4月15日のことです。既に令和になりましたが、平成最後の祭だと思っていきました。報告します。
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祭りは厳かですが、楽し気な雰囲気でした。
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祭りの後、志賀海神社の元宮を訪ねました。元宮は博多湾側ではなく、玄界灘側にあり外海を見ているのです。博多湾側に社が移ったのは、外海に出る仕事がなくなったためか、政治的な意味があるのでしょうか。地図上のピンクのポイントが沖津宮です。港の近くの水色のポイントが現在の志賀海神社です。
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沖津宮は勝馬にあります。海岸からこの少し離れた海の中です。この沖津宮と向き合っているのが中津宮で、ここは古墳になっています。この被葬者は海に関わりのある人だったのでしょう。海に突き出た岬の墓ですから。
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そして、辺津宮は中津宮とほとんど並んでいます。数年前に社は朽ちてしまい、その址だけが残されています。が、地域の人のお祀りは続いています。
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辺津宮はとても分かりにくいです。海辺の林に踏み分け路が続き、清められた空間があります。
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今は、ほんの少しの人だけが知っている聖地です。
元宮を訪ねて思うのですが、「安曇」は日本中に地名が広がりました。
魚を取って生業を立てるのであれば、博多湾側で神祭りをするでしょう。
しかし、元宮は外海を見ているのです。
神功皇后が安曇磯羅を呼び出したのは、渡海するためでした。航海技術があったのでしょう。
そうして、全国に地名が伝わった。さすれば、勝馬のどこかから船出したのでしょうか。
やはり、元宮の辺りでしょうね。
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此の浜辺は小舟を引き上げるにはいいかも知れません。奥に沖津宮が見えます。
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山誉め祭りで「君が代」と同じ言葉を今年も聞きました。毎回、不思議な感じがします。では、また。


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# by tizudesiru | 2019-05-18 01:37 | 350九州神社の旅 | Trackback

690年の紀伊国行幸で持統天皇は有間皇子の霊魂に対面した

元号が令和に代わって早くも11日が経ちました。今日に続く元号が初めて建てられた(建元という)のは、文武天皇五年・701年3月です。大宝」から慶雲・和銅・霊亀・養老・神亀・天平…と元号は改められて(改元という)きました。建元と改元は違うのです。

文武天皇は十五歳で即位していましたから、文武天皇五年=大宝元年(701年)には二十歳になっています。この年に、藤原宮子との間に首(おびと)皇子も生まれました。
大宝元年、都ではお祝いの連続だったでしょうね。更に、

大宝元年は、3月に大宝令が施行された記念すべき年でした。
律」が加わり「大宝律令」が成るのは、8月のことです。

大宝元年とは、大きな節目の年だったのです。
太上天皇に支えられて政治を行ってきた文武天皇も青年期を迎え、「大宝」と建元し、律令による政治を始動させました。太上天皇(持統天皇)としてはどんなにか喜ばしい年だったでしょう。
しかし、ほっとしている暇はありません。祖母として太上天皇として、孫の帝に伝えなければならないことがまだまだありました。そこで
大宝元年9月から10月にかけて、紀伊國行幸が敢行されました。
紀伊国行幸は持統太上天皇の望みで「敢行=あえて行われた」と思います。

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それにしても、紀伊国とは。そこは持統天皇にとって如何なる意味のある場所なのか。

紀伊国の白浜海岸は古代でも有名な観光地で、そこに牟婁温泉がありますが、有間皇子が牟婁温泉に護送された事件は紀伊国で起こりました。
天智天皇が孝徳天皇の長子である有間皇子を陥れ、命を奪った土地でありましたから、その卑怯な手口は長く難波宮の官人の口に上ったことでしょう。
そのため、天智天皇は間人皇后(孝徳天皇の皇后)に渡っていた「皇位継承の玉璽」を奪えず、難波宮にも近づけず、斉明帝が崩御しても長く即位できませんでした。

間人皇后が薨去して初めて天智帝が即位できた」という事実を、難波宮の官人も持統天皇も藤原氏も忘れてはいません。ですから、有間皇子事件は多くの官人にとっても触れたくない事件だったでしょう。
しかし、持統天皇は紀伊国行幸を敢行します。それはなぜか。
実は、大宝元年の紀伊国行幸の意味を解くカギは、690年の紀伊国行幸にあるのです。
701年、文武天皇と持統太上天皇はなぜ紀伊国に御幸したのかを解くカギです。

万葉集には「紀伊国行幸」は、690年と701年の二回敢行され、歌が残されています。
690年は、持統天皇にとって正念場、大変な年でした。
持統三年(689年)三月、草壁皇子が薨去
しました。
持統天皇の一人息子が亡くなったのです。
日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)と諡(おくりな)されたとおり、草壁皇子こそ極位に上ってほしいと持統天皇が望んだ人でした。
その皇子が薨去したのですから、持統四年一月に持統帝即位となり、七月に高市皇子を太政大臣、多治比嶋を右大臣に任命しました。
その後、9月に紀伊国行幸の敢行なのです。何を思っての旅だったのでしょうか。
そこで詠まれたのは、なんと有間皇子をしのぶ歌でした。
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川嶋皇子・長忌寸意吉麻呂が歌を献上しています。
持統四年(690年)、持統天皇は紀伊国に行幸し、有間皇子の所縁の地を訪ねているのです。そこで、従駕の者に歌を詠ませたのでした。
その中に川嶋皇子の歌があります。
「紀伊国に幸す時の御作歌」ですから公の場での詠歌です。
公の場で、有間皇子ゆかりの結松を詠みました。川嶋皇子は有間皇子事件の時はまだ生まれていません。彼は事件を知らないのです。
しかし、敢えて歌を詠んだのには、それなりの理由と意味があるはずです。


持統四年(690)の持統天皇には、強い決意がありました。
如何なることがあっても孫の軽皇子(草壁皇子の長子)を大王に育てなければならない。
今を乗り切るために、行政のトップは高市皇子に任せる以外ない。
そんな時に、有間皇子をしのぶ歌を詠んだのです。有間皇子の霊魂を鎮めて、何を願ったのでしょうか。
この行幸が、次の701年の紀伊国行幸の下地となるのです。


今度の火曜日、下記のようなことをお話ししたいと思います。
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有間皇子はなぜ殺されたのか。
有間皇子の自傷歌はなぜ『挽歌』に編集されたのか。

5月14日(火)の「筑紫古代文化研究会」(福岡市天神・光ビル)では、有間皇子の話と「690年の紀伊行幸」の話をする予定です。(「701年の紀伊国行幸」は、次にまわします。5月の4週(火)の予定です。)

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写真は和歌山県の11月の白崎。
その名の通り石灰岩の岬です。ここで詠まれた万葉集・巻九の歌。

1668 白崎者 幸在待 大船尓 真梶繁貫 又将顧 (原文)
1668 白崎は幸く在り待て 大船に真梶しじぬき 又かへりみむ (読み)
この歌が詠まれたのは、「大宝二年辛丑冬十月」でした。
この歌については、四週の「紀伊国行幸十三首」で話したいと思います。

上の写真は、白崎で11月に取ったものです。旧暦の冬十月は、今日では11月終わりから12月初めのころです。
1300年昔の白崎も、この写真のように海も空も青く晴れ挙げったいたのでしょうか。


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では、又、お会いしましょう。


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# by tizudesiru | 2019-05-12 11:24 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

神籠石系古代山城の築造時期の問題提起

元号の「平成」が「令和」に代わり、国内には新しいことが起きそうな期待感が高まっていますが、古代史の世界は残念なことが連続しています。
近畿の巨大古墳群が世界遺産に登録されることを目指すそうです。
あの古墳群が5世紀の王権の証明とでもいうのでしょうか。5世紀と言いたい、そのように5世紀であって欲しい、それは願望としては理解できます。しかし、史実としてはどうでしょうか
大化改新(645年)まで、豪族を抑えきれていなかった近畿です。戸籍も持たない、行政区もなかった、経済的に力を持った豪族が権力を握っていたと思われる地域です。そこで、中国の中央集権国家に倣って、新しい国家像を求めて蘇我氏を滅ぼしたのです。
統一政権=王権の確立は、まだなかったのです。
阿毎多利思北孤が畿内に居たのなら、行政区があり組織があり戸籍があって税もあり、王宮も王妃も後宮も皇太子もいたのですから、「大化改新」をする必要はありません。
何にもなかったから留学生が帰国した後に中央集権国家を目指そうと、彼ら学者と若者が軽皇子(孝徳天皇)を中心に集まったのです。

日本書紀と隋書を読めば、自明のことです。アメノタリシホコは阿蘇山のある九州に居たのです。王権はそこに成立していた。ですから、大化改新の前に近畿王権が確立していたはずはありません。推古天皇は女性ですし、タリシホコではありえません。

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アメノタリシホコは佛教で国を教化しようとしていました。それを見た蘇我氏も物部氏も仏教とその文化にあこがれました。しかし、近畿に仏教を入れるには抵抗勢力が強かったのです。蘇我氏が私的に仏教を保護したのもそのためでした。
やがて、蘇我氏と物部氏は交易の利権を巡って対立し、蘇我氏が勝利しました。
そこで、蘇我氏は物部氏の莫大な土地と財産を奪いました。大阪市の上町台地の大阪城辺りには、古代の難波堀江がありました。そこは古代の流通の拠点だったのです。そして、その辺りは物部氏の私有地だったでしょう。

蘇我物部戦争に敗北した物部氏はすべてを失い、難波堀江辺りは蘇我氏の土地となりました。
が、ほどなく上町台地の一等地は、乙巳の変(645)で蘇我氏本家を滅ぼした孝徳帝の所有地となったのです。ですから、そこに難波名柄豊崎宮は造営されました。


単純な恐ろしい話です。政変のたびに莫大な財産の所有者が変わるのです。
孝徳天皇は理想に向かって難波宮を造営しました。しかし、律令を持たなかったので「詔勅」で政治を行いました。命令系統が整ってなかったのです。その痕跡もなかったので、過去の権力の組織を再利用することもできませんでした。ゼロからの出発でした。

何にもなかったのです。そして、そこには過去の大型古墳があった?
不自然で、違和感がありすぎです。王権の古墳ではないでしょう。
 
6世紀の半ば過ぎから7世紀初めにかけて、国内の流通が一変しました。その経済力をバックに大きな威信物を希望した新興豪族が作ったと考えることは出来ます。

以上、「古代史の残念」について一言書きました。
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令和元年、最初の投稿ですが、カテゴリ「363神籠石が歴史論争から外され‥」につながる内容になります。
古代山城についての昨今の動き・見解には、驚きあきれます。理解できない説が文化庁の説をはじめ諸説が横行しています。
「古代山城として朝鮮式山城が白村江敗戦後に造られ、その後、交通の発展に伴い神籠石系山城が作られた。唐・新羅に対しての防御の意味で造られたので、神籠石系山城は見せかけの山城で建物も何も作られなかった。ハリボテのようなものだった」
そうでしょうか。これまで、九州の地方自治体がコツコツと積み上げて来た研究はどうなるのでしょう。まるで、地方をないがしろにした言葉だけの説です。

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そこで思い出しました。今年三月の「善一田古墳と古代筑紫の世界」シンポジウムのスライドです。安閑紀の屯倉の位置を示した地図に、朝鮮式山城と神籠石系山城が一緒に示されていました。
すると、古代山城は安閑紀の屯倉(磐井の乱後の全国に造られた)と時期がリンクするのですね。

文化庁の見解とはぜんぜん食い違いますね。白村江敗戦よりも100年以上早くなりますから。文化庁は8世紀とか書いていましたからね。150年も時間差ができるわけです。
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2005年(平成17年)4月12日の読売新聞です。
少しアップします。
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6世紀後半から7世紀前半に造られていた可能性とあります。
私たちは自分たちに都合のいい情報で歴史を処理してはいけないと思います。説はいろいろでしょう。
しかし、経済効果や町おこしという目的で歴史を扱ってはいけないと思います。

歴史は個人や一地域のものではないと思うし、未来の人々に真実を見つけるチャンスを残したいと思います。
ではまた、明日。


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# by tizudesiru | 2019-05-11 21:53 | 363神籠石が歴史論争から外され、更に・ | Trackback

「平成」最後の日に「令和」の弥栄を願う

今日は平成最後の日になりました。
歴代の天皇の中でも国民に寄り添うことを願われたのは今上天皇でした。多くの国民に直接声をかけられた今上天皇が退位されました。平和な時代がこれからも続きますように。
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それにしても、次が「令和」という元号であると発表されたことには驚きました。
「令和」が万葉集・巻五の「梅花歌卅二首幷序」から採用されたと聞いて、更にびっくりしました。

確かに、大宰府の大伴旅人の館で催された正月儀式「梅花の宴」は華やかな宴会で、三十二首の梅を詠んだ歌会です。天平二年正月十三日無官の者から高官の大弐紀卿までが一同に会して「梅花の歌を詠む」という前代未聞の催し事でした。
遥かに離れた都にもその事は伝わり、噂を聞いて宮中はおどろきました。
それまでの都の正月儀式は一月七日の「白馬節会(あおうまのせちえ)」、十七日頃の「射礼(じゃらい)」などで優雅な歌を詠むなどという正月儀式はなかったのです。

同じ年三月に、聖武天皇は宴を開きました。『天皇松林宮に宴を催す。文章生「曲水の詩」を賦す』とあります。旅人が行ったような優雅な儀式をやりたかったのです。
しかし、前年の長屋王事件の後遺症はまだまだ残っていて、皇后に立った光明子は苦しみ続けていました。宴どころではなかったでしょう。

都では、長屋王事件の後にあらぬ噂が流れ、人々は混乱していました。
それなのに、大宰府では優雅な儀式をしていた…違和感があります。
なぜ、大伴旅人は「梅花の宴」をしたのでしょう。そこが重要です。その旅人の意図を解く鍵は、「梅花の宴」の序文にあるのです。

初春の令月にして、気淑く風和ぐ

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令月の「令」は、漢字本来は「おきて・法律」などのように『神の言葉を以って命ずる』という意味だったのです。後に、それが敬称として用いられるようになりました。今日、ご令息・ご令嬢などと使います。同じように「令月」=よい月 となりましょう。
しかし、もう一つの令月「陰暦二月の別名を忘れてはなりません。
旅人は正月(初春)の十三日に『令月』を使いました。「正月はよい月」という意味ではなく、「陰暦二月」として旅人は使ったのです。正月に「二月を意味する」のはおかしな話です。
二月…長屋王事件は前年の神亀六年の二月に起こりました。
旅人は神亀六年二月に薨去した長屋王を偲んだのです…「天平」に改元されたのは半年後の八月でした。神亀から天平(天が反逆者を倒し平らげたの意味)に改元されました。
つまり、天平二年は「天平に改元されて初めての正月』です。
旅人は大宰府で長屋王を偲び続けていたのです、おくびにも出さずに。

梅花の宴

そこにあるのは、前年二月に謀反のかどで死に追い込まれた長屋王への追悼の思いでした。九州の古代王権が行っていた正月儀式を、高市皇子の長子である長屋王の霊魂を鎮めるために再現したのです。そうして、九州に所縁のある長屋王を偲んだと、そうとしか思えません。


そもそも、「梅花歌卅二首」は万葉集・巻五置かれているのです。
巻五の冒頭歌は、旅人の名歌「絶望と怒りの歌」、『大宰帥大伴卿、凶問に報ふる歌一首』からはじまるります。その793番歌、

よのなかは 空しきものと しるときし いよよますます かなしかりけり


この歌の強さ「悲しかりけり」と感情を率直に述べながら、深く「世の中は空しきもの」と述懐する歌、このような歌はこれまでに有りませんでした。その歌の表現の新しさに、編者が感動したかもしれません。それで、冒頭に持って来た・・・
いえいえ、そうではなく、巻五には編者の思いがあふれています。
次に794番歌として、続くのは山上憶良の歌。旅人の妻への挽歌『日本挽歌』なのです。巻五はほとんど、挽歌と雑歌がないまぜ状態ですね。
憶良の「貧窮問答歌」も巻五です。巻五は、冒頭から最後まで重く悲しい歌が連続しています。(巻五の最後は、憶良の「死亡した我が子・古日を恋うる歌」なのですよ)

これで、巻五がどのような意図で編集されたか想像に難くないでしょう。「梅花歌三十二首」は、巻五に掲載されています。それが、重く沈む歌群の中に異彩を放っているのです。


少し長くなりました。
長屋王事件について、少しスライドで補足しました。
旅人については、このブログ「大伴旅人、水城にて乙女と別れの歌をかわす
に詳しく書いています。読んでみてください。

令和の弥栄を祈らずにはおれません。
大伴旅人も柿本人麻呂も、自分がどんなに苦しい立場に追い込まれても、人生が終わろうとしていても、世を寿ぎ世の弥栄を願う歌を詠みました。それは歌人として、言霊を信じる歌人として、当然のことだったのでしょうか。

敷島の倭の国は言霊のたすくる国ぞ真福(まさきく)在りこそ  (人麻呂)
新しき年の始めのはつはるの きょうふる雪の いやしけよごと (家持)

では、令和の佳き日にお会いしましょう。
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# by tizudesiru | 2019-04-30 12:47 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

那珂川の河内にある乙子神社

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乙子(おとご)神社は、福岡県那珂川町に在ります。昔から気になっていた神社です。
福岡市の二か所の住吉神社(名神大社)の延長線上にあるからです。更に、福岡市の飯盛山(旧平群村の神山)の日の出のライン上に在ります。飯盛山山頂ー荒平山山頂ー乙子神社とラインで結ばれます。
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どんな神社なのだろうと思っていました。さて、参拝しようと歩き出したら、地元の人に呼び止められました。「女人禁制の祠があるから、そこには行かないで」と言われます。
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それは、大変な禁忌です。「大丈夫、そこには行きません」
女人禁制の社殿は、本殿の横の階段を上った上宮でした。
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若い女性とか、家族に不幸があった人とか、参拝できない神社は、時々聞きますが、女性は上がれない社は珍しいですね。
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ここは背振の修験道に関係深い神社のようです。神社の近くを流れているのは、那珂川です。
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乙子神社がある辺りは、面白い地名が集まっています。
という
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京の隈という地名なのです。
ブログ「宮原誠一の神社見聞録」で宮原さんは、面白いこと書いていましたね。
那珂川町の此の辺りは、昔は河内という地名だったと老人が言われたらしいです。
そして、ここには高津神社があるのです。
おや、「河内・高津・京」が揃って、なんだか意味深だというのです。
では高津神社に参詣しましょう。
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ご神体は磐座のようです。
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高津神社の由緒は消されていたのか、消してあったのか、分かりません。ただ、元寇のころ、ここに岩門城があったのです。たぶん、那珂川の水量も多く、船が奥まで入り込めたのでしょう。攻めるにも守るにも良い場所だったのです。そして、博多湾まで見渡せたということです。
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高津神社の辺りが古代の神祭りの場であることはよく分かりました。しかし、神祀りをした場所は分かったけど、古代の支配者は何処に住んだのでしょう。宮原さんは「伏見宮」の辺りに住んだはずだと云われました。
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伏見宮は確かに那珂川のほとりにあります。交通の利便性のいいところに在りました。
伏見宮から川へ降りる階段があり、昔から利用されていたと思います。
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伏見宮の千木を見ると「平切り」になっていますから、女性神なのです。
「伏見宮」は「‥宮」ですから、この神社は、ここが発生の地だということになりますね。「伏見」とは「伏し身」なのでしょうか、気になりますね。
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神楽面からすると、天鈿女命と豊姫命が主祭神でしょうか。
那珂川には面白い所がたくさんあります。
神功皇后伝承の裂田の溝もありますからね。古代から神祭りの重要な場所だったのです。
では、また。

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# by tizudesiru | 2019-04-28 17:11 | 350九州神社の旅 | Trackback

卑弥呼が九州から消える日・縄文から始まる

とうとうその日が来るのですか。誤解から始まった邪馬台国近畿説が、国家の歴史として決定される日が。何と恐ろしい! 真実がみえなくなり、歴史はゆがみます。

箸墓が卑弥呼の墓だという信じられない説を一般化した畿内説学者は、文献や考古資料では「邪馬台国九州説を撲滅することは出来ない」と知っています。
「文献では邪馬台国は読めないから、読まない。」と言い出して半世紀以上が経ちました。
(文献で読むと九州説が有力だからです)
それで、考古資料で邪馬台国を探すとして、40年の長きにわたり奈良を掘り続けたのに、頼りの纏向遺跡ですら時期が怪しくなってきました。残念ながら。
そこで、登場したのが東北・関東の見事な縄文遺物でした。
長い縄文、短い弥生、そして、怒涛の如く古墳時代に突入する東国。「その状況が近畿と似ている」 として、ここに目が付けられました。

分かりますか? 豊かな東国の縄文文化と融合して畿内の弥生は花開き、卑弥呼の神祭りが生れた、と展開するのです。畿内で卑弥呼は生まれたとするのです。
身震いがします。
確かに東国・東北の縄文文化は素晴らしい。
その基礎があったから稲作が入り、古墳文化が怒涛のように入っても、消化し古墳文化を花開かせたのです。
明治の日本と同じです。江戸時代の寺子屋教育が浸透し国民が学問をしていたから、明治の教育は浸透し、近代国家へと移行できました。
文化の浸透⇒近代的国家は、基礎教育があったからこそ可能だったのです。
同じことが言えます。豊かな縄文があったからこそ、弥生と古墳文化が素早く入り込んだのです。もちろん、畿内にも基礎があったのです。
そこへ、九州の弥生後期の文化・更に古墳文化が入って、王権が誕生したのです。


令和元年に合わせて、いよいよ始まりました。あちこちで話をしてきました『縄文ブームは卑弥呼畿内説の準備である」と。
ついに「邪馬台国九州説」をつぶす時期だと考えたのですね、当局は。
このままでいいのですか?

昨年2018年の夏、

東京国博で「縄文展」開催され、噂の縄文のビーナスが展示された。 周囲では、ビーナスが揃う機会はめったにないから見に行ったという話が流れていた。
私は見に行くつもりはなかった。

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本当に縄文の土偶だろうか、という思いと、急な縄文ブームにいささかの疑問を感じていたからです。なぜ、縄文が急に脚光を浴びるようになったのか。

当局の意図は、素人の私にも分かりました。準備のための印刷物が出回っていました。
図版・図録・パンフ・すべて、当局の物は同じ方向を向いています。
ですから、素人にも分かりやすいのです。


(写真は縄文展の図録をデジカメで撮ったものです)
貴方は、この写真を見て不思議に思いませんか?
私は縄文のビーナスに対して非常に違和感を覚えていました。


「土偶は不思議だ。大量に発見されているのに、完品はない。体の一部が必ず失われている。それは病気などで体の悪い所を治すためのまじないの為らしい。遮光土器もあれもまじないの一種だろうか」という話は昔からありました。

土偶の前面に付けられた文様が深い祈りと結びついていたと、私はそう思っていましたから、文様がほとんど彫り込まれていない、然も、土偶として割損部のないビーナスを『縄文土器』として認識するのに抵抗がありました。
青森の飛行場で売っていた土産物の遮光土器も片足が欠けていたし・・・文様に覆われた完品ではない土偶が「土偶」の本来の姿ではないでしょうか。

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遮光土器には文様の窪みに朱が残っていますから、本来は赤い色が塗られていたのです。そうしてみると、ビーナスには朱の後は有りません。高温で焼しめられた土の肌は黒光りさえしています。
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はっきり言えば、焼成温度が高いのです。そういう技術があった時期のものです。
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形の完璧さからして、時期が古くは有りません。
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見事な造形美を堪能できます。しかし、文化のレベルは古式ではありません。
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それにしても高い芸術性と焼成技術が備わっています。
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群馬県藤岡市の博物館の耳飾りを見ても、細かな細工が壊れていません。完形で風化もほとんどありません。これは、焼成温度が高く、製作技術も工具も充実していた証拠です。簡単なことです。いわゆる縄文時代とはいえ、新しいのです。長く縄文が続き熟成していた証拠です。
そこへ、九州の文化が入って来た。古墳時代になって更に色濃く九州の文化が入って来た、のです。
畿内王権が入って来た時、戸籍や行政区などの基礎ができていたから、たやすく統治できたのです。関東の文化は、九州の影響を色濃く受けています。

そんな分析は抜きで、畿内と東国を結びつけた。
その作業が続いていましたが、いよいよその路線が国民に向かって披露される。
日本の歴史の書き換えと上塗りが始まるのです。

その情報発信に駆り出されているのは、NHKです。最近のNHKには、公平さが無くなりました。もともと公平ではなかったけれど。小泉政権の頃から極端になったと思いますが。
当局に都合のいいところだけ放送する。国民の目と耳を一定の方向にもっていく、朝飯前の仕事です。


今日は、心からがっかりしたので、ブログを書きました。
先ほど、
「水曜日の『英雄たちの選択』は縄文だったよ。近畿の縄文は長くゆっくり続いたんだって」と、一言聞きました。
私は出かけていたので、そのTVを見ていません。


かねてより危惧していた事態が、いよいよ現実になると思いました。
若者も老人も「令和で新しいことが起こる」と期待しています。
そこへ、この「九州説つぶし」の激震が用意されているのです。
そう思ったのは、私だけでしょうか。これを読んで、あなたはどう思いましたか。


このような事態にならないようにと、私は願っています。どうぞ、的外れでありますようにと。TVの再放送を見て、再度かんがえるつもりです。では。


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# by tizudesiru | 2019-04-27 16:08 | 365令和元年・卑弥呼が九州から消える | Trackback

令和元年・万葉集を読む in 西原村

歴史カフェ阿蘇「令和元年、万葉集を読む」は、明日です。
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今回は、万葉集の編集についてのお話です。
万葉集は、誰が何のために編纂編集させたのか。
もちろん、持統天皇が人麻呂に編集を詔したのですが。
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持統天皇が孫の軽皇子を即位させるには困難がありました。
軽皇子には多くのライバルがいました。天武天皇の皇子達です。
そして、皇位継承者選びや方法に問題があったのです。
それをクリアするには、皇位継承の正統性を主張する必要がありました。
・・・・万葉集で読み解きましょう。

では、熊本の西原村でお会いしましょう。場所は、西原村萌の里の近く、平田庵というソバ屋さんの隣です。
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では、明日。

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# by tizudesiru | 2019-04-23 22:55 | 364 令和元年、万葉集を読む | Trackback

継体天皇御一家の悲劇は起きたのか

継体紀に、恐ろしく悲しい「結婚初夜」の歌があります。
それは、継体天皇の長子・勾大兄(まがりのおおえ)皇子=安閑天皇の結婚初夜の歌です。
八洲(やしま)国では妻を娶ることができなかったので、春日の国で美しい女性がいると聞いて妻にしたというのですが・‥読んでみてください。

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美しい妻を迎えたのに、何とかしようとしたのに、何もことが起こらないうちに夜が明けてしまった…という結婚初夜の歌なのです。
勾大兄皇子に何があったのでしょう。この事態に、妻となった春日山田皇女も困惑しました。
そこで、皇女は歌で答えました。

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「やすみしし我が大君が着けていらっしゃる、細かい模様の御帯が結び垂れ、誰もがみな声を出して賛嘆しています」と訳文がつけれれていますが、賛嘆、それはないでしょう。
勾大兄皇子の御帯は垂れているのです。これは暗喩です。何を暗喩しているか、言わずもがな。勾大兄皇子は結婚初夜を悲しい結果に終わらせたのです。
それを責めなかったのか、嘆いたのか、春日山田皇女は「御帯の結び垂れ」と表現しました。


二人になぜこんな悲しい結果が訪れたのか、そこが問題です。
勾大兄皇子=安閑天皇には、子どもがいません。ほかの女生徒の間にも子どもをもうけることができなかったのでした。
それはなぜか。わたしにも不思議でした。
その事に、一つの答えを示唆してくれた本を紹介します。わたしには考えても見ないことがかかれていましたので。

『不実考』続外道まんだら (徳永裕二 著) 不知火書房(出版社)
「継体天皇が皇統を継ぐに相応しい人物であることを武威や血統によってではなく信仰上において他の皇族・豪族等に納得させるためには、かっての古代首長の表徴として抜箭信仰を保持していることを示すことである。つまり継体自らは抜箭することはなかったにせよ、長子の安閑には抜箭を施したとみられる。あたかも、『旧約聖書』創世記で父・アブラハムが庶兄・イシュマエルと嫡男・イサクに割礼(ベリトミラフ)を施したように。なお、割礼は抜箭の擬きである。

信仰とは、言い難く恐ろしいものではあります。継体天皇が自分の長子を犠牲にして、権力を手に入れたという展開は、恐ろしくも実感がありました。

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ではまた。


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# by tizudesiru | 2019-04-21 22:17 | 361 六世紀の筑後に王権があったのか | Trackback

継体天皇御一家の悲劇は起きたのか

後、二週間しないうちに元号が令和に変わります。今日まで使われている元号は、701年・文武天皇5年の「大宝」からで、以来切れ間なく続いてきました。
巷では「では、大宝までは元号がなかったのか」という問題が議論されてきました。
法隆寺の釈迦三尊像の光背には「法興」という元号が彫られています。飛鳥時代の金文ですから、その意味は大きいのです。
元号を決めることができるのは天子のみですから、元号があったとしたら「天子」という最高権力者が居たということにもなりましょう。自称「天子」だとしても、その人物は一定の領土を治め、人民の戸籍を握り税を取り、役人を任命し、律と令で政治を行っていたことになります。当然、歴史書を作ろうとしたでしょうし、文化や経済の振興にも力を入れたでしょう。
そういう人物でなければ、天子とは言えません。

隋書に見える『日いずる処の天子』は存在したのです。中国の史書が日本のためにでたらめを書く意味・必要は有りません。
隋書に書かれていることは、事実です。しかし、日本書紀と食い違います。

日本書紀は推古天皇ですから、アメノタリシホコは出て来ないのです。では、彼は何処にいたのか?

阿蘇山のある地域に居たに違いありません。彼は、6世紀末から7世紀初頭の人です。
600年(髄の開皇二十年)に、タリシホコは遣隋使船を出しました。
その頃は、天である兄・タリシホコが夜の明けないうちに政治を行い、夜が明けると政務を取りやめ、あとは弟の太陽に任せるという、道理のない状況でした。
隋の煬帝がその理不尽な状況を変えさせました。隋書には「俀国を諭してこれを改めさせた」とあります。
ますます、日本書紀の王権とは食い違います。

更に、俀国の場所は九州の熊本を含んだ地域でありました。
「阿蘇山あり。その石ゆえなくして火起こり、天に接する者(こと)あり、俗、以って異となし、因って禱祭(とうさい)を行う。」
この文面からも俀国の位置が想定できます。
阿蘇山が突然噴火するので、人々が異変だとして祈り祀っているというのですから。
まさか、関係ない地域のことは書きません。

隋の使者は阿蘇山を見たのでしょう。七世紀初めの俀国には使者が来たのですから。
では、俀国は何時生まれ、その後どうなったのでしょう。六世紀半ば以降には俀国は確実にあったのです。

行政区(軍尼・稲置・八十戸)を持っていた隋書の俀国。王宮も後宮もあったし、皇太子も居た。天子は男性。
内官(中央の役人)には十二等あった。大徳・小徳・大仁・小仁・大義・小義・大礼・小礼・大智・小智・大信・小信 の十二等。
俀国には、
戸籍・行政区があり、役人もいて、タリシホコは仏教によって国政を運営したいと思っていたのです。
(ちなみに、聖徳太子の官位十二階は、徳・仁・礼・信・義・智の順に大小が付きます。)
近畿の王権にここまで行政組織が整っていたのなら、『大化改新』の必要はありません。
大化改新が必要だったのは、国の行政組織が不十分で、権力が各豪族に拡散していたからでしょう。やはり、タリシホコの国は近畿ではありません。

しかし、歴史書では近畿に聖徳太子が居たことになっています。
八世紀の日本国には、「聖徳太子は九州ではなく近畿にいた」という歴史が必要だったのです。新しい国でしたから、古い長い歴史が必要だった。
または、倭国の一部が近畿で王権を樹立し、祖先の歴史を九州から移動させた…

もともと列島は一つの国だったと、書紀は真実を曲げる必要があったのです。
しかし、それは無理です。新唐書は「日本」ですが、旧唐書には「倭国」があるではありませんか。両者はもともと別国だったと書かれているのです。
それでも、日本書紀が事実を曲げたので、あちこちにヒズミが出ているのです。

「倭国と日本は元々一つの国だった」を主張した日本書紀は、罪深い史書ではありますが、倭国の歴史も取り込んでいるので、あちこちに齟齬は有りますが、重要な語り部でもあるのです。過去を探査するための資料でもあるのです。


そうなると、磐井の乱は「磐井の反乱」ではありません。反乱を起こしたのは、オホド王(継体天皇)側ではありませんか。

磐井が滅びて、六世紀は大事な変わり目となりました。
六世紀のはじめ、書紀によると北部九州で「磐井の乱」という内乱が起りました。その後、屯倉が置かれ始め、そうして、列島各地が活気づいたというが定説です。


また、各地に屯倉が置かれたのは、近畿の王権の進出を意味すると歴史家がいわれますが。
それにしても、
日本書紀の継体紀をそのまま読めば「長門より西は、汝が統治せよ」と、継体天皇が言ったことになっていますから、磐井の乱後に長門より西を支配したのは物部麁鹿火となります。
磐井の乱後、物部政権が北部九州を支配した、それが近畿の王権だというのです。
では、磐井の乱後の九州の屯倉の位置を見ましょう。
安閑紀ですから、継体天皇の息子の時代になります。磐井の乱の後で6世紀前半~半ばです。

6世紀・安閑紀につくられた九州の屯倉の位置を①➁③④⑤⑥⑦⑧とおさえて見ました。「糟谷」という文字のポイントは、磐井の息子・葛子が献上したという「糟谷屯倉」です。こうしてみると、①~⑦までの屯倉はなぜか北九州に偏っています。⑧は熊本県の熊本市辺りです。ここは、いきなり離れています。

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(黄色のポイントは、神籠石系山城の位置です)

①~⑧は、滅びた豪族の領地だったので没収したということでしょう。
つまり、そこは筑紫君磐井の領地だった…しかし、岩戸山古墳のある辺りは無傷だから、その本拠地は手放していない、となります。
屯倉が豊前と筑前のに一部に集中しているのは、逆にそこまで磐井が入り込んでいた証拠…風土記によれば、「磐井は豊前の山中に入り込んで行方不明になった」ですから、豊前との関係が深かった証拠にもなります。

磐井の乱とは何だったのか、歴史的にまだはっきりしていません。
しかし、筑紫君磐井の子・葛子が父に連座することを畏れて糟屋屯倉を献上したと、書紀に有ります。葛子の領地が削られたのは事実でしょう。
発掘された糟屋の屯倉は、新宮町の辺りで遺構も発掘されている、というのです。
こうして、継体天皇の王朝は確立したかに見えますが、そうでもなかった…

此処で、日本書紀の不思議な記述に出くわします。継体天皇の崩御の記述です。
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辛亥年(531年)、磐井を倒したという継体天皇とその一家に何が起こったようです。
『日本の天皇と太子・皇子、倶に崩薨りますと聞けり』という百済本記の記述は事実でしょう。一家そろって死亡するのは異常事態です。

筑紫君磐井を滅ぼしたという継体天皇、その王朝も滅びたかも知れない、ということです。これは…どうなっているのでしょう。安閑天皇は、継体天皇の子どもですが、書紀では父と共にに崩御されてはいません…が、天皇と皇后と天皇の妹を合葬したと記述が有ります。
次の宣化天皇紀でも、天皇と皇后とその児を合葬したと書かれています。

継体天皇の長子・安閑天皇と弟・宣化天皇は、どちらも家族と合葬になっているのです。
やはり、継体天皇の家族に何事かあったのでしょう。
これには、「宣化天皇は欽明天皇によって殺された説」も想定される、おかしな状況です。次の欽明天皇には合葬記事は有りません。次の敏達天皇も、馬子に殺された崇峻天皇にも。推古天皇は早くに薨去した児の竹田皇子との合葬を望みましたが。

また、日本書紀の安閑紀には、屯倉を置いた理由も書かれてています。
伊甚(いじみ)屯倉は、伊甚国造が皇后を驚かせたことの購いに献上されました。
このように罪の購いに献上させたものと、単に置かれたものです。他人の土地を勝手に屯倉にすることは出来ませんから、「置いた」と書かれた屯倉は磐井の乱後に没収された土地である可能性が大きいと思います。
政変があったからこそ、屯倉が置かれたなら尚更のことです。安閑二年の屯倉を書紀から拾ってみました。
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北部九州以外で「置かれた屯倉」の中で、阿波・紀・丹波・近江・尾張・上野・駿河は、大変意味深な地域です。6世紀の九州の倭国と関係深い地域だったからです。
これらの屯倉は、磐井の乱後に没収された土地に置かれた可能性があるでしょう。
安閑紀の屯倉設置状況を見ると、王権側からの要求で設置されているものがあり、豪族が渋ると「反抗だ」として処罰されています。つまり、屯倉は、他者の土地に置かれているのです。

やはり、没収した土地に屯倉が置かれたと思います。

安閑(広国押武金日)天皇には四人の妃がいますが、世継ぎがいませんでした。(子の無い天皇は何人か書紀に登場しますが、安閑天皇もその一人です)
そこで、天皇は世継ぎがいないので死後に名が忘れられることを嘆いて大臣に相談し、名を残すために屯倉が置かれるようになったというのです。
皇后・春日山田皇女(山田赤見皇女)を別にすれば、許勢男人の娘・狭手媛、その妹・香香有媛、物部木蓮子の娘・宅媛の名に関わる屯倉はないようです。


書紀は屯倉の設置理由をあいまいにしていますが、政変も何もないのに土地の所有者が急に変わることは考えられません。

安閑天皇には、まだまだ不思議な話がありますが、又、後日。


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# by tizudesiru | 2019-04-20 16:38 | 363神籠石が歴史論争から外され、更に・ | Trackback

歴史カフェ阿蘇「令和元年・万葉集を読む」

今年も、「歴史カフェ」を熊本県西原村でします。
今年は、5回計画しています。昨年はつめて4回やりましたが、今年は4月・5月・7月・8月・9月に予定しています。

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昨年の最終回に「次の歴史カフェは、万葉集です」とお知らせはしていましたが、みなさんあまり興味のある様子ではありませんでした。

元号が「令和」に変わりますので、万葉集に興味を持っていただいたかもしれません。今は、万葉集にしていてよかったと思ってます。

1回目のテーマは、「万葉集とはそもそも何のために誰が編纂編集したのか」、ということです。
もちろん、万葉集は柿本人麻呂の編集です。その為に、彼は刑死したのです。

その辺りをお話ししたいと思っています。

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内容を少し紹介します。

持統天皇は香久山を詠んで、文武天皇の皇統を示した

 巻一28番歌。これが、持統天皇の香具山の歌である。持統天皇は即位した後、何故香久山を詠んだのか、不思議である。持統天皇が高市皇子に造営させた藤原宮は、明らかに北に耳成山を取り込み、守りの山・象徴の山としている。28番歌は、持統帝が「香具山の皇統の世を寿いで詠んだ歌」ということになる。耳成山ではなく、香久山なのである。

28 春過ぎて夏来るらし 白妙の衣乾したり 天の香具山 
誰もが聞いたことがある持統天皇の御製歌であるが、この歌の解説を読むとなぜか頭の中がすっきりしない。「初夏の風の中に翻る真っ白い衣が、青々とした夏の香具山に映える様子を詠んだはつらつとした叙景歌」だという。『万葉集には叙景歌はほとんどなく、出来事や行事を詠んだ詩歌のほとんどが叙事詩である』といいながら、万葉学者は「春過ぎて」は叙景歌で『万葉集の中ではかなり異質の新しい作風である』というのである。いえいえ、この歌は叙景歌ではないと、わたしは思う。
この歌を詠んだ持統天皇は四五才過ぎの老婦人なのだから、はつらつとした歌を詠んだとしてもやや違和感は残る。持統天皇は壬申の乱・天武天皇の崩御・大津皇子謀反事件・息子草壁皇子の死・高市皇子の薨去などを乗り越えて即位した女帝である。やがては孫の軽皇子に譲位しなくてはならないという重責もあった。その女帝が、耳成山ではなく、藤原宮の東に位置する天の香具山を詠んだ。女帝と香久山、畝傍姫が何ゆえ香久山を詠んだのか。そこにあるのは、舒明・天智の皇統をつなぐのだという意思。それしかない。
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よかったらおいでください。熊本県西原村は、まだ熊本地震からの復興の途上にありますが、西原村で歴史カフェをしたいと思っています。

それから、個人的に4月は万葉集のお話が三回重なりました。

福岡市の百道パレスでは、九州古代史の会主催で「万葉集に見る倭国の痕跡」のお話をしました。もう、4月7日に済んでいます。忙しくて、お知らせしておりませんでした。

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次は、
4月23日(火)13時半~16時まで。筑紫古代史の会(天神・光ビル)で「万葉集と古代史・難波宮と間人皇后」のお話をする予定です。

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孝徳天皇の皇后だった間人皇后の波乱の半生を万葉集からと丹後半島の伝承から読み解きます。4月23日です。

ご興味のある方は、どうぞおいでください。
では、また、後日、お会いしましょう。



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# by tizudesiru | 2019-04-17 20:33 | 345柿本人麻呂は何故死んだのか | Trackback

大伴卿の最後の日・初期万葉集が家持に渡る

大納言大伴旅人は、天平三年七月に没しました。
大宰府を離れたのは、天平二年の十二月でしたから、自宅に帰って半年後に薨去となったのでした。
万葉集には旅人の最後の歌が残されています。

三年辛未(かのとひつじ)に、大納言大伴卿、寧楽の家に在りて、故郷を思ふ歌二首

969 しましくも行きて見てしか神なびの淵は浅せにて瀬にかなるらむ
970 さすすみの来栖(くるす)の小野の萩の花散らむ時にし行て手向けむ


天平三年の秋七月二十五日、旅人は永眠しました。六十七才だったようです。
萩の花が詠まれていますから、詠歌の時は秋であり、病床にあったのでしょう。自分が生まれ育った故郷・明日香を懐かしんで詠んだものです。故郷の飛鳥の川の淵は、浅くなって瀬になっているのでなないだろうか、と。
あの懐かしい小野の萩の花を手向けたいものだと、旅人は詠んだのでした。


巻三には
「天平三年辛未秋七月大納言大伴卿薨の時歌六首」があります。余明軍の五首と県犬養宿祢人上の一首です。

454 はしきやし栄えし君の居ましせば 昨日も今日も吾を召さましを
455 かくのみにありけるものを萩の花咲てありやと問ひし君はも
456 君に恋 痛(いた)もすべなみ蘆鶴(あしたづ)の ねのみし泣かゆ朝夕にして
457 遠長く仕へむものと思へりし君にしまさねば こころどもなし
458 みどり子のはひたもとほり朝夕(あさよい)に ねのみぞ吾泣く君なしにして
 
459 見れどあかず居ましし君が紅葉(もみじば)の 移りいゆけば悲しくもあるか


旅人の薨去は、息子の家持にとって将に人生を変える出来事・大事件でした。父の永眠と共に「初期万葉集」が家持の手に渡りそれを読み理解し守る役目が回ってきたのですから。
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そもそも、万葉集は持統天皇の詔勅により柿本人麻呂が編纂編集したものだと、紹介してきました。孫の文武天皇に「皇統の正統性と歴史を伝えるための教科書」として、持統天皇が作らせたものであると。
それが持統天皇の遺詔となり、人麻呂は主人の思いに応えようと努力したのでした。
しかし、文武帝に進呈する前に、当の帝の崩御となったのです。
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人麻呂は母の元明天皇に献上しましたが、それが元明天皇の逆鱗に触れたのでした。万葉集には皇統の真実が記されていましたから、元明天皇には許しがたい内容でした。
天智天皇の娘として、草壁皇子の妃として、文武天皇の母として極位には着きましたが、天武天皇の皇子皇女があまた存在する中での即位でしたので、何かと臣下の動きが気になっていた時期でもあったのです。
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どこかに不安を抱えていた元明天皇。そこで、御名部皇女が支えます。
周囲も二人の堅い結びつきを疑いませんでした。
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天武朝と元明天皇を支え助けたのが、姉の御名部皇女です。御名部皇女は高市皇子の妃、薨去していたとはいえ太政大臣であった高市皇子の正室なのです。高市皇子は天武天皇の長子で、財力権力を掌握していた人でした。その絶大な財力も大きな支えとなったでしょう。

しかし、二人がこの世を去ると皇位を巡って政変が続きました。
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待っていたように政変が続いたのでした。 
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そうして、天武朝の皇統は消えていきました。
それが万葉集の時代です。その時代を目撃したのが、大伴家持。


こんな万葉集のお話をしようと計画しました。「令和元年・万葉集を読む」
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会場は、熊本県西原村・萌の里の近く、平田庵の隣です。昨年の「歴史カフェ・聖徳太子の謎」と同じ場所です。
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赤い道路が高森線のバイパスです。
宜しくお願いします。


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# by tizudesiru | 2019-04-15 00:49 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

大伴旅人・水城にて乙女と別れ歌を交わす

万葉集・巻五は、大伴旅人の絶望の歌ではじまります。
     大宰帥大伴卿、凶問に報(こた)ふる歌一首  
禍故(かこ)重畳し、凶問累集す。ひたぶるに崩心の悲しびを懐き、もはら断腸の涙を流す。ただ、両君の大助によりて、傾命(けいめい)をわずかに継げらくのみ。筆の言(こと)を尽くさぬは、古今歎くところ。
792 余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理
        神亀五年六月二十三日


妻を亡くしたばかりの旅人の所へ、京から悲しい知らせが届きました。そのとき詠んだのが
「大宰帥大伴卿、凶問に報ふる歌」です。

不幸が重なり、悪い知らせが続きます。ずっと崩心の悲しみに沈み、独り断腸の涙を流しています。ただただ、両君のこの上ないお力添えによって、いくばくもない余命をようやく繋ぎ留めているばかりです。<筆では言いたいことも充分尽くせないのは、昔も今も一様に嘆くところです>*訳文は、集英社「万葉集釋注」より

792 よのなかは むなしきものと しるときし いよよますます 悲しかりけり
        神亀五年六月二十三日

『かなしかりけり』とは、まあ見事な詠嘆です。この時代「悲しかりけり」と沈痛な悲しみを込めて述懐する歌は、万葉集中にはこれ以外にはない(「万葉集釋注」伊藤博)そうです。なるほど、万葉集・巻五の冒頭を飾る名歌です。更に「世の中は空しきもの」とは、仏教語の「世間虚仮」の翻案で万葉集中最初の用例だとか。

旅人の歌は当時の人には衝撃的に新しかったのでした。つまり、「世の中」を人麻呂も歌に読んでいないし、都の人もこの言葉を使ってはいなかったことになります。(その言葉が使われていた地域は筑紫ですね。そこには仏教が浸透し、仏教語が日常的に使われていたと、私はそう思います。早い時期に仏教が入っていた地域だと)
        

大伴旅人が大宰府に任ぜられたのは、六十三歳の時でした。時に、旅人は中納言、行政のトップは左大臣の長屋王でした。大宰府に赴任して間もなく妻の大伴郎女を亡くし、ほどなく悪い知らせを受けたのです。

更に、翌年の二月に長屋王事件が起きました。皇位継承権をもった長屋王の男子四人すべてが、長屋王と妃の吉備内親王とともに命を奪われました。誰が聞いてもおかしな事件でした。長屋王の四人の王子を抹殺したかった藤原氏が仕組んだ事件だと都の人々も思ったようです。事件後、都は怪しげな噂で混乱しました。

旅人は遠く大宰府にいて、どう思ったでしょう。
  神亀六年己巳、左大臣長屋王賜死の後に「膳部(かしはで)王を悲傷する歌一首」があります。巻三に、
442 世間は空しきものとあらむとぞ この照る月は満ちかけしける
     右一首、作者未詳 *膳部王は長屋王の長子でした。万葉集にも歌が掲載されています。

442番歌の作者は誰でしょう。長屋王やその王子達を知る人物で、身分も高かったはずです。更に、その名が知られると困る立場の人。そうでああれば、旅人をおいて他にないと思います。
旅人は大宰府に帥として下向していました。武人とはいえ、六十五近くの老人です。
旅人は、何より早く都に戻りたかったのです。
そんな人が、膳部王の悲劇を堂々と詠めたでしょうか。藤原氏に長屋王への同情が伝わってはなりません。せめて、名前は隠したと私は思いますが、旅人は心から無念だったのです。壬申の乱以来、大伴氏を取り立ててくれた天武朝に対する忠誠心からして、壬申の乱の英雄・高市皇子の長子である長屋王の受難を見過ごすことなどできなかったでしょう。
とはいえ、長屋王を断罪したのは聖武天皇です。

聖武天皇は我が子・基王(もといおう)が一歳で死亡したショックから、長屋王が呪詛したという讒言を信じたのでした。その事は旅人も知っていましたが、無念だったし、世の中は空しい=世間空=世間虚仮=世の無常 を感じたのです。 


こんな旅人が長屋王事件の翌年、天平では初めての正月に「梅花の宴」を執り行ったのでした。
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「時に初春の令月にして、気淑く風和ぐ」
折しも、初春の佳き月で、気は清く澄み渡り風は柔らかにそよいでいる…と旅人は書きました。
新春の『令月』の意味は何でしょう。ただ、「よい月」なのでしょうか。
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漢和辞典にあるように「のり、おきて、いいつけ、いましめ、法令の発布、命令する」でしょうか。『他人の親族への敬称』でしょうか…令嬢や令子、令夫、令主などのように「よい○○」という意味もありましょうが、「令月が陰暦の二月の別名」というのは、大変意味深です。
なぜなら、大伴旅人にとって「二月」は、前年に長屋王事件があった月だからです。
神亀六年二月に長屋王事件が起きました。そして、半年後の八月に「天平」に改元されました。天平二年は、改元されて初めての正月です。長屋王と親しく天武朝の忠臣だった大伴旅人が、この正月を穏やかな心で迎えたでしょうか。
そうは思えません。
旅人は長屋王事件を忘れてはいません。ただ、都へ帰るためには従順でなければなりません。
長屋王への同情などみじんも見せず、優雅に梅花の宴を開きました。それは、官人たちを感動させ、都までその噂は飛びました。人が追和するほどの反響だったのです。

だからこそ、旅人は大納言として都に呼び戻されました。
天平二年十二月、旅人は大宰府を発ちました。府のはずれ、水城の門まで来て「別れの儀式」をします。
都へ帰れる喜びと安堵感で、旅人は笑顔だったことでしょう。しかし、別れの儀式は静粛に行われました。
筑紫の乙女・児島が詠みます。
965 おおならばかもかもせむを かしこみとふりたき袖を 忍びてあるかも
966 倭路は雲隠りたり しかれども 我が振る袖を なめしともふな


965 貴方が並の方であったなら、別れに際して ああもしようこうもしよう思うのですが、恐れ多い方なので振りたい袖もふらずに忍んでおります。
966 あなたがお帰りになる倭路は、はるか遠くに続きます。私が振るのを忍んでいた袖を振ってしまったとしても、無礼だとは思わないでくださいませ。

旅人は娘子の歌に応えて、大宰府の人々へ別れの歌を詠ました。
967 日本路の吉備の児島を過ぎてゆかば 筑紫の子島 おもほえむかも
968 丈夫と思へる吾や 水茎の水城の上に なみだのごはむ


967 日本(やまと)へ帰る道にある吉備の小島、あの小島を過ぎて行くとき、わたしはきっと筑紫の児島を思うだろうな
968 私は自分を丈夫だと思っているのだが、その私が水城での別れに涙を流すとは何ということだ

大伴旅人と筑紫の児島の歌は「冬十二月、大宰帥大伴卿の上京」の時の歌です。行事の歌であり儀式の歌です。
二人は意を尽くした歌を詠みあいました。
ここで思うのは、筑紫の娘子はうかれめ(遊行女婦)なのでしょうか。
うかれめが、大宰帥の上京の儀式で歌を詠むのでしょうか。児島はたいへん教養のある女性ですが、遊行女婦とはたいへん疑問です。
更に、旅人と児島は「やまとじ」の漢字を倭と日本に使い分けています。
旅人は山上憶良から提案された通り「これからは倭国ではなく日本国になったのだから、そのように漢字を使い、心して日本国に帰って行こう」と心に刻んだのでした。児島は倭国の人として見送ったのでした。
大伴旅人は山上憶良から献じられた「日本挽歌」に深く感動し、忘れることはなかったのです。

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旅人は都に帰りますが、翌年、天平三年の七月に没します。
旅人は大宰府での生活をどう思ったのでしょう。妹の大伴坂上郎女は大宰府の大野山(大城山)を思い出していますが。
     「大伴坂上郎女、筑紫大城山を思う歌一首」
1474 今もかも 大城の山に ほととぎす 鳴きとよむらむ 吾なけれども


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# by tizudesiru | 2019-04-08 00:56 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

新年号・令和、平城天皇の思いが叶った瞬間

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新年号が令和と決まり、万葉集の梅花の宴の序文から「令」と「和」がとられたと聞いて、一瞬「その時が来た」と思いました。平城天皇の深い思いが叶ったと。

平城天皇は桓武天皇の皇太子で、延暦二十五年(806年)に即位されました。
その平城(へいぜい)天皇は、即位するとすぐに、大伴家持(すでに20年前に死亡)の官位を復し「万葉集」を召し上げられました。
万葉集、そこに書かれていることを、すでに十分に理解されていたのです。だからこそ、侍臣に編集させ「万葉集」を世に出されました。その後、「奈良の都に戻ること」を強く提唱し、譲位した弟の嵯峨天皇と対立されました。

(それにしても、譲位していたにも関わらず、なぜ奈良遷都を強行しようとされたのでしょうと、万葉集を知らない人には不思議な上皇の判断です。平城上皇のその思いは、ついに「薬子の変」となり、破れた上皇は出家されました。その影響で、息子の阿保親王は大宰府で14年間も過ごされることになりました。)

平城天皇の奈良の都への深い思いは、万葉集と無縁ではありません。万葉集の内容を読み解いたからこそ「奈良遷都」を固執されたのです。万葉集には、皇統の正統性とその歴史が歌物語として編集されていました。
編集を命じたのは持統天皇、編纂者は柿本人麻呂を中心とした歌人学者でしょう。
しかし、そこに書かれた史的な内容はインパクトが大きく、元明天皇の逆鱗に触れ人麻呂の刑死となりました。

事の顛末の全てを承知して、大伴氏が元「万葉集」を引き受け、保麿・旅人・家持と受け継がれました。
平城天皇はその「曰く付きの歌集」を召し上げたのです。そこに、どんな天皇の思いがあったのでしょう。それは、平城天皇の元号で想像することができましょう。それは、「大同」です。

大同…意味深な元号です。前王朝も現王朝も本当は変わりはないのだと、根は同じなのだという意味です。
父の桓武天皇は、天武朝から天智朝の皇統に皇位が戻ったことを「易姓革命」だとされました。
しかし、その長子である平城天皇は、「大いに同じ」だとされたのです。
それは、万葉集を既に知っていたための元号の選択だったと思います。しかし、失意のうちに出家した上皇に従うものは有りません。万葉集もほとんど日の目を見ずに細々と受け継がれました。

「万葉集は残したい」という平城天皇の無念が、今日晴れたと思います。
なぜなら、万葉集「梅花の宴」の序文から元号の言葉が選ばれたからです。是から万葉集の姿が明らかにされていくことでしょう。万葉集に掲載されていたのは、王朝の歴史歌であり、その正当性と弥栄を願う詩歌です。
平城天皇は承知されていました。天智朝も天武朝も違って見えているが同じなのだ、それが皇統の歴史だったのだと。(さて、何処が同じだったのか、これからは書こうとは思っていますが。)

 
大伴旅人も「万葉集」を理解し、晩年に歌に目覚めました。息子の家持は、父と柿本人麻呂と山上憶良を敬愛し、初期「万葉集を」守りました。後に付け加えたのは、万葉集の編集方針に倣った後期『万葉集」です。

さて。
梅花の宴は、天平二年の正月に、大伴旅人の館で行われた宴ですが、「古王朝の正月儀式」だったとこのブログにも書いたと思います。旅人は大宰府に来て、古王朝の正月儀式を知り、再現したと思います。
前年の神亀六年、長屋王の変(二月)があり、長屋王家に悲劇が訪れ、半年後に改元(八月)されて『天平』となったのです。天平二年は、改元後の初めての正月です。そこで、行われた梅花の宴。

梅花の宴はただの遊びではありません。尊敬していた天武朝の高市皇子の跡継ぎである長屋王の悲劇を胸にしながら、九州にあった古王朝の正月儀式を大伴旅人が再現したのです。
そこには、長屋王へ深い追悼の思いがあったはずです。


梅花の宴は、正月に、役人のトップから無官の者までが集まって「王朝を寿ぐ歌を詠む」という前代未聞の正月儀式でした。その頃の都にはない儀式だったのです。人々は驚き、その宴を称賛し、息子の家持(やかもち)も書持(ふみもち)も長く誇りにしていました。

今日は本当に、万葉集を残してくださった平城天皇に感謝を申し上げ、悪逆の氏族とまで言われた大伴氏にお祝いの言葉を述べたいと思います。本当に宜しゅうございました。
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筑紫古代史の会の例会にて「万葉集と古代史:大宰府と梅花の宴」という題目で、上記のことは取り上げました。その他のこともいろいろお話しました。
よかったら、筑紫古代史の会にもおいでになりませんか。



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# by tizudesiru | 2019-04-01 14:56 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

建元とは初めて年号を立てること、改元は年号がかわるという意味

明日は、新元号が発表される。どんな文字が使われ、いかなる意味が込められるのだろう。
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思えば、今日に続く元号が建てられたのは、文武天皇の五年(701年)の大宝元年でありました。
持統天皇が太上天皇として孫の文武天皇を支え、大宝令が完成し国家の体制も整いつつあった時期です。


それまでの日本には、元号はありませんでした。なぜなら、続日本紀に「建元」の文字が使われているからです。建元とは「初めて元号をったてる」という意味です。以来、「改元」され続けて今日に至っているのです。

それでは、「大化改新」の「大化」はどうなるのでしょう。「白鳳や白雉」はどうなる。孝徳天皇の「大化と白雉」はなかったのだろうか、という疑問が生れます。
「白雉」については、白雉では小さな瑞兆でしかないので、もっと大きな瑞兆が望ましいということで、後の世に「白雉」を「白鳳」にすり替えた、国として過去の元号を差し替えたのだと、日本書紀の講座で習いました。

天武天皇崩御の年には「朱鳥(あかみどり・あけとり)」という元号も顔を出しています。
では、大化・白雉・朱鳥はなぜ続かなかったのでしょう。万葉集には「朱鳥」の元号が記述されていますが。

続かない元号には、政治的理由があったでしょう。そこには残されなかった歴史があるでしょう。
今がどんな時代なのか、日記の隅にでも一言書き残しておきましょうか。
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今日は、女帝神社に行きました。福岡県みやこ町にあります。神社の御神体は、大きな円墳です。なかには家形石棺があり、縄掛突起のある家形石棺で溶結凝灰岩製です。
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それにしても、女帝神社ですか。昔の人は、何を頼りに「女帝」という言葉を選んだのでしょう。近くに円墳が並んでいました。
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6世紀後半の群集墓でしょうか。いずれも大きな石で造っていました。
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この時代、列島中、各地で巨石の横穴式石室が大量に出現します。
時代は変わったのです。王家でなくとも横穴式石室が造れたのです・・・

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明日、新元号にどんな文字が選ばれるのでしょう。
ちなみに、私は過去の元号の中で、平城天皇の「大同」が意味も深く、ゆかしいと思っています。


元号と云えば、
もちろん、「九州年号」と呼ばれる年号があることも知っています。子どものころ住んでいた熊本の寺や神社に九州年号と呼ばれる年号が使われていました。それが、「私年号」と呼ばれるものだそうです。
何で、そんな年号を使う必要があったのか、使いたかったのか、その辺りを知りたいと思いました。
では、また。

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# by tizudesiru | 2019-03-31 22:17 | 361 六世紀の筑後に王権があったのか | Trackback

磐井の乱後の倭国の変貌

磐井の乱後の倭国の変貌(その1)
6世紀後半には人々の暮らしが急激に変わり、列島各地で群集墓が造られました。
人々は横穴式石室を持つ墳墓を丘陵に大量に造ったのです。

なぜ人々の生活が変わったのか。それは「屯倉(みやけ)」が日本中に置かれたため物流のネットワークができて経済が活性化したためだというのです。

では、列島に「屯倉」が急速に置かれた時期は何時かというと、

それは、磐井の乱の後です。
磐井の乱後に、列島に画期が訪れました。
磐井が殺されると、息子の葛子は糟谷屯倉を献上しました。

(その糟谷屯倉に置かれたらしい役所建物・倉庫群が、福岡県古賀市の鹿部田淵(ししぶたぶち)遺跡として紹介もされ、一部が公園として残されています。)
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磐井の乱後に、世の中が変わったのです。

それにしても、磐井の乱についての書紀の記述は不思議が多いのです。
まず、磐井の乱が起こった理由。
近江の毛野臣(建内宿禰の子・波多八代宿祢は、淡海臣らの祖)が六万の兵を率いて任那に往き、新羅に敗れていた南加羅などを復興して任那に合併しようとしました。これを知った新羅は、もともと反逆を考えていた磐井をそそのかしたのです。
そこで、磐井は毛野臣の軍を遮りました。継体天皇二十一年のことです。


その時、磐井が毛野臣に対して乱暴に事挙げした言葉が意味深です。
「昔は、同じ仲間として肩を並べ肘を触れ合わせて一つ器でともに食べたものだ。(おまえが)使者になった途端に私をお前に従わせるなどどうしてできようか」
近江の毛野臣と磐井は知り合いでした。
(不思議ではありません。倭王権は近江を抑えていたし、三野・尾張と九州は深い関係にありました。毛野臣が途中で磐井に阻止されたのは、もともと磐井の知り合いだったので磐井の言い分を理解し、任那行きを止めたのかも知れません。しかし、継体天皇二十三年、毛野臣は再び使者として渡海します。二年滞在しさんざん悪評を立てられ召喚され、帰りに病没しました)

そこで、継体天皇は誰が磐井を討つのか相談して、選ばれたのが物部大連麁鹿火でした。
麁鹿火は詔を受け、はりきって応えますが、祖先の名を間違えます。

「確かに磐井は狡猾で地の利を利用して反乱し、驕慢でうぬぼれです。昔から道臣より室屋に至るまで、帝を助けて戦い、民を苦しみから守ってきました・・・」

「道臣から室屋まで・・」とは、大伴氏の業績のことです。
大伴氏の遠祖が「神武天皇東征に従い、道案内をした功績により『道臣』の名を賜わった」し、室屋は大伴金村の祖父です。

(物部大連麁鹿火が大伴氏の名を持ち出すはずがありません。書紀を編纂する時使った資料に書いてあった通りに写したのでしょう)

「国家の存亡は此処にある。力を尽くせ。」
と、麁鹿火を励ました継体天皇は、斧鉞(ふえつ)を授けておかしなことを言いました。
長門より以東は朕制らむ(私が統御しよう)筑紫より以西は汝制れ(お前が統御せよ)」

磐井を討てば筑紫以西が麁鹿火の手に入るというのです。継体天皇は「長門以東」だけでいいと云うのです。
そして、大将軍物部麁鹿火と賊帥磐井が筑紫の御井郡で戦いました。
両軍は必死に戦い、ついに磐井が斬られて、果たして疆埸(きょうえき)が定まりました。疆埸とは、境界のことです。
(磐井が斬られて「境が定まる」とは、ひとつの国が奪われたということでしょう。)


十一月に磐井が斬られた後、十二月に筑紫君葛子が父に連座して誅殺されることを恐れ、糟谷屯倉を献上して死罪を免除されるように願いました。

磐井の乱(528年)について諸説ありますが、日本書紀の「磐井の子・葛子が連座して殺されることを恐れて糟屋屯倉を献上した」ことは事実だとされています。

(筑紫君葛子が屯倉を献上したということは、『筑紫より以西』は物部麁鹿火のものになっていなかったのでしょうか。筑紫より以西とは、何処を指すのでしょう)

この後、屯倉が全国に置かれました。

屯倉が急速に置かれるのは、継体天皇の長子・安閑天皇の時代です。
つまり、継体天皇は磐井の乱の三年後に崩御となりましたので、屯倉の設置は息子の安閑天皇の時代になったということです。

継体天皇二十五年に、天皇崩御です。
継体天皇はその出自も、行動も、崩御も、すべて不思議な人です。さらにその家族もなにやら変です。
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一体、何があったというのでしょうね。
継体天皇の一家に…


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# by tizudesiru | 2019-03-27 15:03 | 361 六世紀の筑後に王権があったのか | Trackback

白村江敗戦後の北部九州の混乱と疲弊を象徴する善一田

福岡県大野城市乙金の善一田古墳群の一部が公園として残されることになりました。
パンフレットもできています。

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報告を兼ねた講演会もありました。
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(画像は講演会のスライドをデジカメで許可を得て撮ったものです)
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善一田18号墳の被葬者は、副葬品に鉄滓が供献されていることから鉄器製作に携わった人であろうということでした。また、鉄器生産集団の古墳群であろうということでした。
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古墳群の特徴として、出土した三累環頭大刀の柄頭から新羅との交流がうかがえるということでした。
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また、新羅との交流をうかがわせる新羅系土器の出土は全国的にも突出しているそうです。それらは、瓶や壺と蓋という取り合わせなので、容器の中にあったものが大事だったらしく、それを運ぶために瓶や壺が使われたということでした。コンテナとして使われたものだということです。
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乙金古墳群(善一田古墳群・王城山古墳群・古野古墳群・原口古墳群)を造った人々の集落が薬師の森遺跡らしいのですが。そこにさりげなく「7世紀中頃~8世紀前半は断絶」という説明がありました。
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薬師の森遺跡に住んだ人々は、最新の技術を持って鉄の生産をしていたのでしょう。引き手数多の技術者集団だったかもしれません。そんな技術者集団の集落が7世紀の半ばに断絶するなんて…
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そこで、質問しました。「善一田に住んだ人々の断絶は、なぜ起きたのか。白村江戦とかかわりがあるのか」ということを。
次のような答えだったと思います。
かかわった可能性は否定できない。白村江戦には西日本各地から国造郡として動員されたと思われる。善一田の生産集団は那津の官家(みやけ)に管轄されていたと思われるから、白村江戦に動員されたかどうかわからない。白村江戦には地方のまつろわぬ人々を動員したという説があるので。
白村江戦後には大野城や水城の築造があったのでそれらの土木工事に駆り出されたと思われる。そのために集落が移動したのではないか。敗戦後には、大野城や水城をこの地域の人々が動員されて造ったと思われる』

そういえば、NHKで「白村江戦には九州のまつろわぬ豪族を派遣した」という展開の番組がありました。
そうじゃないだろう、と思いました。
「戦争に行け」と言われて、まつろわぬ人々が行きますか? 「いや、行きません」と答えるはずです。いうこと聞かない人たちなのですから。
わたしは畿内王権は「百済救援はしたいけど、戸籍がなかったので兵が集められなかった」と思います。
当時、戸籍を持っていた地域が兵を送れたのです。そこは九州と、遅れて吉備でした。


天智天皇は即位してすぐ「庚午年籍」を作りました。

それまで、戸籍をもたなかったに違いありません。戸籍がなくては、税も集められないし兵も出せません。当然、戸籍を持っていた豪族が兵を出せたと思います。
むずかしい話ではありません。戸籍を持っていたところが兵を組織し渡海したのです。


私の意見ですが。誰も海外派遣を喜ばないはずです。
国とか王権とかの権力と組織がなかったら二万もの出兵は無理です。
白村江敗戦後、東国から防人を出しました。九州の守りを東国の人にさせたのです。
つまり、東国にも戸籍があったことになりましょう。
誰が東国の戸籍を造ったのか。もちろん、九州の倭王権が造ったのです。歴史をしずかに眺めながら正史を読めば、自明のことでありましょう。
(畿内で戸籍を造ったのは、天智天皇と持統天皇です。二人は律令の基本は、まず戸籍だと思ったのです。)

ですから、善一田古墳を造った人々は薬師の森古墳に住み、白村江戦に動員され帰って来なかったかもしれません。新羅系の人々であれば、敵国の民となりますから、とても地域には住みづらかったでしょう。そうであれば、逃げるか移住するか、でしょうね。もちろん、引受先は東にちゃんとありました。
白村江敗戦後の混乱と北部九州の敗戦後の疲弊を彼らが免れたとは思えません。


此処で、善一田古墳群で明らかになった重大なことを考えなければなりません。
そこに住んだ人々は何者だったのかということです。
彼らはに渡来人だったのか、渡来系の人なのか、在地の人なのか、です。



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# by tizudesiru | 2019-03-23 09:05 | 363神籠石が歴史論争から外され、更に・ | Trackback

白村江敗戦後を語るのか善一田古墳群・大野城市

白村江敗戦後の北部九州を語るのか、善一田古墳群
善一田古墳群の現地説明会が、2016年2月に福岡県大野城市乙金でありました。
6世紀半ばからの群集墓ということでした。住宅地開発に伴う準備調査でしたから、遺跡は残されないと思われていました。
すごく心配していましたが、大野城市は残したのです。
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一部を大野城市が買い取り公園にするということです。
2019年4月27日に「善一田古墳公園」のお披露目があります。
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新羅系土器と新羅貴族の間で流行した「三累環頭大刀」の柄頭が並べて置いてありました。
あれから三年経ったのですね。
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この古墳群が大事なのは、地方豪族の生活というより一般の人々の生活が見えるからです。彼らは新羅と深くかかわっていました。5世紀後半はじまり、6世紀から7世紀の半ばまで造られ続け、祭祀は7世紀後半まで行われたそうです。
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18号墳は6世紀後半の福岡平野では最大級の大きさだそうですが、玄室長2・8m、幅2・2m、高さ3・5mと、決して大きくはありません。
那の大津を持ちながら、そのころの福岡はどうなっていたのでしょう。
磐井の乱で、糟谷の屯倉を献上した後、筑紫磐井の子・葛子の王家は滅びたのでしょうね。北部九州で最も早く福岡平野で大型古墳が造られなくなったそうです。


しかし、6世紀半ば、福岡では群集墓が画期を迎えます。平地の近くのあらゆる丘陵に古墳が造られました。大野城の乙金古墳群もその一つです。
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下は、乙金古墳群の中の古野古墳群で、5世紀後半という8号墳です。
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5世紀後半という8号墳は竪穴式石室ですか? では、もう少し古いでしょう・・・
そして、善一田古墳群の中の18号墳ですが。
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鏡はないけど馬具があります。鏡はいらなかったのでしょうか。
何年かの間に、人々の嗜好が変わったのです。それとも、この被葬者の仕事だったのでしょうか、馬具造が。
6世紀半ば、日本中が流通・政治経済・文化の面で画期を迎えます。群集墓が日本全国に造られました。
磐井の乱の後、何かが変わったのです。

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乙金古墳群では、6世紀から7世紀前半にかけて群集墓が造られましたが、7世紀半ば以降…断絶するのです。

えっ、それは何か原因あり、と思いますよね。

そう、恐ろしい政治的転換点がありましたね。7世紀半ば、あの白村江戦です。
7世紀半ば以降の大野城市の群集墓の消滅を他の事件に結びつけることはできません。
白村江戦に徴用された兵士は北部九州の人たちだったからです。
大野城の人々も無関係ではありますまい。敗戦後には、水城・大野城(山城)の築造と続くのです。彼らが戦争と何の関係もなく経済的な追及をしたはずはないのです。
では、その事は、また後で。 



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# by tizudesiru | 2019-03-22 15:52 | 363神籠石が歴史論争から外され、更に・ | Trackback

武内大臣の館址に北條英時が住んだ理由

福岡市西区の鷲尾山(愛宕山)に武内大臣(宿禰)の館址の伝承があります。
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赤丸で囲んだ愛宕山が、鷲尾山です。愛宕山と呼ばれるようになったのは、江戸時代に黒田藩が愛宕神社を勧請したからです。
(黒田藩は壱岐真根子神社などは大事にしましたが、他の神社を移動させたり祭神を変えたりしたそうです。)
『早良郡志(福岡早良郡役所編)』によれば、

「裏山の東南愛宕山に近き山上に在って、伏見院の永仁元年三月探題・北條兼時は、この地に館を構へ後醍醐院の時には英時も同じく此の所に居住して居た。傳説によれば此の地は、往古武内大臣の館のありし阯と謂って居る。而して正保慶安の頃迄には、山上より法華教(経)の文を刻んだ瓦出で山麓の田圃よりは骸骨を掘出すことが屢(しばしば)であった。」


北條兼時は元寇の後、正応6年(1293)に九州へ下向させられた鎮西探題(初代)で、英時は南北朝時代の悲劇の武将です。

北條英時(赤橋英時)は、元享元年(1322)鎮西探題として九州に下向し、兼時と同じく愛宕山(鷲尾山)の山頂近くの山上に住みました。

その地が「往古、武内大臣の館ありし址」と云われてる福岡市西区の鷲尾山(愛宕山)なのです。愛宕山は交通の要衝を見張るに十分な位置で、糸島方面、博多湾、福岡平野全体が見渡せる城塞のような山なのです。

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見張り台として、北條氏は「鎮西探題」を鷲尾山に置いたのでしょうか。
武内大臣の館跡! 北條英時はなぜそんな伝承の地に住んだのか、です。
実は、
北條時宗(元寇の時の執権)の時代に御家騒動がありました。正室とその長男を廃し、弟の時宗が執権になった騒動です。その後、得宗家による政治体制を強化確立させるために、祖にあたる北條義時を「武内宿禰」になぞらえる伝説が流布されました。
上のような状況からして、初代九州探題の北條兼時は、当然「武内宿禰の伝承の館跡」に居を構えたでしょう。
その後、北條英時も「武内宿禰の屋敷跡の伝承地」に住んだということです。
つまり、武内宿禰の館跡の伝承を北條氏も知っていた、その時代も武内宿禰の伝承が福岡市にあったということです。

(海岸から急にそそり立つ愛宕山にはなかなか足が向きませんが)
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愛宕神社へ行くのに南側の階段を上る元気のない人は、車で北側の道路を登りましょう。駐車場もあります。
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赤橋英時は女子に人気の武将です。彼は和歌も詠む教養人でしたし、何と言っても赤橋流の北條久時の男子で、最後の執権・北條守時の弟でした。名門の出であり、妹の赤橋登子は足利尊氏の正室でした。

南北朝時代の話は、わたしも子どものころから聞かされましたが、つらいエピソードの連続です。後醍醐帝の執念が多くの武将や皇子の命を奪い、日本を次のステージに連れていったと思います。
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今日はここまでにします。



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# by tizudesiru | 2019-03-21 11:09 | 362武内宿禰とは何者か | Trackback

武内宿禰の身代わりになった壱岐真根子を祀る神社(2)

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壱岐神社がある福岡市西区生の松原辺りは、昔は壱岐村でした。その前は額田郷で,生の松原辺りは「山門・ヤマト」と呼ばれていました。
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その昔この辺りはたいへん栄えたようで、弥生時代初期の細型銅剣など密集する地域でした。倭名類聚抄には、早良郡に「田部郷・能解郷・平群郷・野芥郷・額田郷・早良郷・曽我郷」など地名が残っています。人々は同じ地名に千数百年も住み続けているのです。同じ一族かどうかは分かりませんが、地名は受け継がれてきたのです。
では、壱岐真根子の伝承もまんざら・・・ではありますまい。

壱岐真根子が九州の人だとすると、武内宿禰は何処の人でしょうか。紀ノ國で生まれたことになっていますが。
武内宿禰の父親は、屋主忍男武雄心命(やぬしのおしをたけをこころのみこと)です。
この人は、景行天皇に仕えて天皇の命で紀伊国に行き、そこで影姫と結婚し武内宿禰をもうけたことになっています。
しかし、佐賀県には武雄市があり武雄神社があり、屋主忍男武雄心命をまつる武雄神社があります。この人は、紀ノ國に行ったのでしょうか。母のヤマシタ影姫を祀る神社もありますからね。紀伊国は和歌山県ではなく、佐賀県の基山の「き国」ではないですかね。
武内宿禰を祀る神社は圧倒的に福岡が多いそうです。

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紀伊と基、似ていますね。武内宿禰は九州にルーツがあるかもしれません。
蘇我氏も平群氏も石川氏も波多氏も、武内宿禰の子ども達から出ています。
武内宿禰の子どもに、7人の男子がいます。
羽田矢代宿禰・許勢小柄宿禰・平群木兎宿禰・蘇我石川宿禰・紀角宿禰・葛城襲津彦・若子宿禰です。女子は久米能摩伊刀比売・怒能伊呂比売の二人です。
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「古語拾遺」に書かれたように、蘇我氏は数字に強かったようですね。財源をにぎっていたのでしょう。学問と血統は古代の財産でした。祖先が誰かと云うことと、文字を使えることが重要だったのです。おまけに数字が使えるのであれば、鬼に金棒だったでしょう。

地名は千年以上昔から続いているものもありました。すると、
九州から地名が移動したということでしょうか。
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江戸や明治まで続いた地名は千年以上の歴史を秘めているものがあるということを倭名類聚抄で確かめました。
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地名で歴史が分かるわけではありませんが、それでも、歴史の一部を伝えていると思います。
明治以来、地名はどんどん変わりました。より新しい流行りの地名が付けられて歴史が見えなくなりました。
また、ここで思います。明治って何だったのでしょう。人々が泣きながら文明の坂道を転げていった時期なのでしょうか、夏目漱石が書いたように。

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福岡市西区の壱岐神社です。鳥居には「壱岐宮」と神額が掛けられています。
壱岐神社と壱岐宮では、意味が違ってきます。
「神社」は別の神社から勧請してきた社殿ということですが、「宮」はその地が発生の社殿だそうです。


壱岐真根子神社は、この地が本来の鎮座地だと主張しているのです。
「壱岐真根子身代わり事件」は、ここで起こったことだというのです。


武内宿禰の身代わりになったのですから、彼らはこのあたりに関わりが深かったのでしょうね


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# by tizudesiru | 2019-03-18 23:40 | 362武内宿禰とは何者か | Trackback

キトラ古墳が国宝になった背景は?

九州は去れ!! 古代史の論争に参加しないでいい、という宣告ですか?
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キトラ古墳が異例の速さで国宝になりました。

国宝になるまでには様々な検討がなされるのですが、耳目を疑うような速さで国宝の指定を受けたのです。
それは、来月の「文化財保護法改定」の前にどうしても国の指定が必要だったからです。私はキトラ古墳の被葬者は舎人皇子だと思い何度もブログに書きました。
檜前廃寺を見に行った時もキトラ古墳に行きました。きれいに整美され多大なお金をかけレガシィとしての資料館も完備しています。
資料館の運営を考えると、国宝とすれば観光客へのアピールも違ってきますからどうしても指定が欲しかったのですね。
此処で思うのは、明日香だから早急な要求が通ったということです。キトラを国宝にすることに異論はありません。しかし、それは全国のほかの遺跡との格差の推進であり、日本の歴史を奈良に固定する思惑の一部でありましょう。
国民の税金を使うのですから、広い視野で日本の歴史を構築してほしいのです。


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熊本城の復興はまだまだ道半ばですが、今年も熊本県民交流館・パレアホールで「鞠智城址『特別研究』成果発表会」がありました。2019年3月17日のことです。五年ほど通いましたが、今年は本当にショックでした。

九州を象徴する神籠石がすっかり消されていました。九州各地の自治体が長く調査研究をしてきたのに、神籠石は敵を欺くための「見せかけの山城」だというのです。それは、天武持統朝の遺構だというのです。
朝鮮式山城とは立地も築造技術も方法も違うのに、です。確かに神籠石は絶妙の立地で、交通の要衝にあります。

律令も整っていなかったらしい天武朝は、壬申の乱で権力を奪った王朝です。彼らが九州に重点を置いた山城を造ったというのでしょうか。


神籠石は「見せかけのための山城」と位置付ける論文や、神籠石は朝鮮式山城と同じ時期に造られた古代山城という定義の上での論文が出来上がっていました。
更に、「文化財保護法」が改正され「地方の発掘調査には予算が付かないことが喧伝されました。財政難の過疎化が進む地方は捨てられました、完全に。

今日まで、文化財保護法は「学者や市民が文化財の破壊を食い止めるわずかな後ろ盾だった」のですが、安倍首相の主導により今年の4月には改定されます。あと一月で変わるのです。
文化財活用は各市町村に任され、事もあろうに「観光に使って宜しい」と安倍さん自ら推奨したのです。それは表向きのことで、発掘調査には予算が付かないし、その遺物遺構を残し管理するお金が付かなくなるのです。つまり、地方の観光に使うどころか、維持管理費用・発掘費用が出ないのです。

この事が、発表会の前に基調提案されました。
「史跡をめぐる新しい文化財の保存・活用への動き」
という演題で、文化庁文化財第二課 埋蔵文化財部門 主任文化財調査官の禰冝田佳男氏の講演が一時間ありました。

その後、①古代の烽ネットワークと鞠智城 ➁平安時代の鞠智城周辺の国内情勢 ③日韓古代山城の水門構造からみた鞠智城 ④日本古代の兵庫と鞠智城 がそれぞれ40分の割り当てでしたが・・・・正直驚きました。

私たちは文化財保護法にわずかな望みをかけていたのでした、やはり。
文化財の発掘調査維持管理の予算はほとんど畿内など王権関係遺構に集中していましたから、地方はあまり関係なかったのですが・・・
今回、文化財保護法が改定されると重要遺跡に当たっても調査する前に壊されるかもしれません。遺跡の維持管理は予算不足で出来ませんから、遺跡が残されることはほとんどなくなるでしょう。第一遺跡の発見が報告されるでしょうか。

日本はこれから低成長に入って行くし、高齢化と少子化が進みましたから、もう打つ手はないのかと、黄砂に染まった春空を見ました。
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ここで、打つ手はありますか?
一人一人が節約することも大事ですが、市民のネットワークでしょうかね。



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# by tizudesiru | 2019-03-18 17:21 | 363神籠石が歴史論争から外され、更に・ | Trackback

武内宿禰の身代わりになった壱岐真根子を祀る神社

壱岐神社は福岡市西区に在ります。あたりは「生の松原」と呼ばれています。
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壱岐神社は壱岐直真根子(いきのあたいまねこ)を祀っています。
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御神文はサンガイマツ三階松です。松の枝が三段に重なる形で、九州では由緒ある神社のご神文です。
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手水にもご神文が彫られています。
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福岡市に合併される前ここは壱岐村でしたが、それまでは額田郷でした。額田郷から壱岐村になる時、此処に「壱岐真根子」を祀る神社があったので、「壱岐」という名を村に付けたそうです。江戸時代に藩黒田藩が「壱岐真根子の身代わり伝承」を持つ神社を厚く庇護したからです。
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壱岐神社の参道は博多湾まで延びて、海岸から能古島や志賀島を望むことが出来ます。
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それにしても、武内宿禰の身代わりになった壱岐真根子は武内宿禰にそっくりだったそうです。身代わりに死ぬ話は、歴史物語によくあります。昔は写真もないから似てると言ったら納得したようです。そして、武内宿禰の歴史物語は福岡が舞台だったのです。
武内宿禰の子孫に平群氏・蘇我氏がいますね。実は、曽我や平群という地名が、福岡市西区にはありました。壱岐神社あたりは山門(やまと)という地名でした。
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更に古い時代、平安時代の「倭名類聚抄」にも「額田・平群・曽我」などの地名がありました。どこかで聞いたような氏名ですね。
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さて、こんな地名を見ると、蘇我氏の祖先の武内宿禰は福岡の出身かしらと思います。
明日はそんなことを考えてみましょうね。


# by tizudesiru | 2019-03-16 23:15 | 362武内宿禰とは何者か | Trackback

筑後国分寺は四カ所の神籠石の交点に在る

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奈良時代の筑後国分寺は、久留米市国分町711-1・日吉神社の境内に在りました。
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礎石は若干ありますが見落としそうです。国分寺は10世紀以降は衰え、中世には筑後川河畔の久留米市宮ノ陣に護国山国分寺が建てられています。
此処日吉神社のご神文を見ましたが
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不思議な文様ですね。不思議なのはご神文ばかりではなく、此の筑後国分寺は四カ所の神籠石の交差点に在るのです。
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おつぼ山神籠石と高良山神籠石、宮地岳神籠石と女山神籠石の交点です。更におまけがついて、田代太田古墳(装飾古墳)と有名な岩戸山古墳を結ぶラインもここを通ります。そして、高良山神籠石とおつぼ山神籠石のラインの上に権現塚古墳が乗ります。
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きれいに墳丘の中心を通っています。横に在るのは御塚古墳です。
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筑後国分寺は選ばれた土地に建てられたということでしょうか。
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ついでに言うと、筑前観世音寺は背振山と宝満山の山頂を結んだライン上にあり、そのラインンを東に伸ばすと筑前大塚古墳の墳丘に届き、主軸戦にラインが重なります。
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寺院や墓や首長の館などのために土地が選ばれるとき、時の権力者の意思なりが働くと思います。首長は地域の神山や祖先の墓を意識したと思います。
神籠石は六世紀の遺構だという説は納得ですが、7世紀8世紀の遺構だという文化庁の最近の見解には疑問しかありません。長い間それぞれの地方で研究してきたことは何だったのでしょう。
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日吉神社の境内には「十三塚神社」という不思議な神社もあります。是って、もしや中国の十三部・・・なんて、想像がふくらみますね。


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# by tizudesiru | 2019-03-16 00:40 | 361 六世紀の筑後に王権があったのか | Trackback

天平二年の梅花の宴は前王朝の正月儀式の再現だった(2)

「天平二年の梅花の宴は前王朝の正月儀式の再現だった」の続きです。

天平二年正月、大宰府の帥の館に大弐・少弐から無位の役人まで集い宴が執り行われました。その宴では老いも若きも官位の高低もなく、ひとしく梅を詠んだのです。通常では考えられないことでした。身分を分けること、出自を明らかにすることなど、政治が目指していたことでした。律令も整えられ官位も細かく分けられて、秩序を重んじ身につけるものまで決められていましたから。
そんな風潮の中で席をほぼ同じくして歌を詠み合うなど、考えられないことだったでしょう。

もちろん、都では宮廷の正月儀式として宴(とよのあかり)が設けられ、身分・位に応じて各々に賜物がありました。しかし、身分の上下にかかわらずともに歌を詠んだりはしていません。

平安時代には宮廷で歌会があったでしょうが、「梅花の宴」は奈良時代の初めです。

旅人は思い付きで宴を開いたのでしょうか。 そんなことは有りません。
彼は、大宰帥として九州の正月儀式を再現したのです。

まず、そこで読まれた歌を詠んでみましょうか。

815 正月(むつき)たち春の来たらばかくしこそ梅を招()きつつ楽しき終へめ 

              大弐紀卿 だいにきのまえつきみ(従四位下)

816 梅の花今咲けるごと散り過ぎず我が家の園にありこせぬかも   

           少弐小野大夫 しょうにおののまえつきみ(従五位上)

817 梅の花咲きたる園の青柳は縵(かずら)にすべくなりにけらずや     

          少弐粟田大夫 しょうにあはたのまえつきみ(従五位上)

818 春さればまず咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日くらさむ   

 筑前守山上大夫 つくしみちのくちのかみやまのうえのまえつきみ(従五位下)

819 世の中は恋繁しゑやかくしあらば梅の花にもならましものを 
 豊後守大伴大夫  とよのみちのしりのかみおほとものまえつきみ(従五位下)

*大夫(だいぶ)とは、中国の周代から春秋戦国時代にかけての身分を表す言葉で、領地をもった貴族のことであった。大夫は卿の下、士の上に位した。日本でも律令制度に用いられ、太政官に於いては三位以上、寮に於いては四位以上、国司に於いては五位以上の官吏の称とされた。単に五位を意味する場合「たいふ」と詠み分ける。

820 梅の花今盛りなり思ふどちかざしにしてな今盛りなり     
筑後守藤井大夫 つくしのみちのしりのかみふじいのまえつきみ(外従五位下)

821 青柳梅と花とを折りかざし飲みての後は散りぬともよし

                    笠沙弥 かさのさみ(無位 僧)

822 わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れくるかも   

                  主人 あるじ(旅人)(正三位)

823 梅の花散らくはいずくしかすがにこの城()の山に雪は降りつつ 

          大監伴氏百代 だいげんばんじのももよ(正六位下)

824 梅の花散らまく惜しみ我が園の竹の林にうぐいす鳴くも    

          少監阿氏奥島 しょうげんあじのおきしま(従六位上)

825 梅の花咲きたる園の青柳を縵にしつつ遊び暮らさな     

          少監土氏百村 しょうげんとじのももむら(従六位上)

826 うちなびく春の柳と我がやどの梅の花とをいかにか別かむ  

           大典史氏大原 だいてんしじのおほはら(正七位上)

827 春されば木末(こぬれ)隠りてうぐいすそ鳴きて去()ぬなる梅が下枝(しづえ)

        少典山氏若麻呂 しょうてんさんじのわかまろ(正八位上)

828 人ごとに折りかざしつつ遊べどもいやめずらしき梅の花かも

         大判事丹氏麻呂 だいはんじたんじのまろ(従六位下)

829 梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや

       薬師張氏福子 くすりしちょうじのふくこ(正八位上)

830 万代に年は来()()とも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし

    筑前介佐氏子首 つくしみちのくちのすけさじのおびと(従六位上)

831 春なればうべも咲きたる梅の花君を思ふと夜眠(よい)も寝なくに 

         壱岐守板氏安麻呂 いきのかみはんじのやすまろ(従六位下)

832 梅の花折りてかざせる諸人は今日の間は楽しくあるべし

         神司荒氏稲布 かみつかさくわうじのいなしき(正七位下)

833 年のはに春の来たらばかくしこそ梅をかざして楽しく飲まめ

     大令史野氏宿奈麻呂 だいりょうしやじのすくなまろ(大初位上)

834 梅の花今盛りなり百(もも)(とり)の声の恋しき春来たるらし

      少令史田氏肥人 しょうりょうしでんじのこまひと(大初位下)

835 春さらば逢はむと思ひし梅の花今日の遊びに相見つるかも 

       薬師高氏義通 くすりしかうじのよしみち(正八位上)

836 梅の花手折りかざして遊べども飽き足らぬ日は今日にしありけり

          陰陽師磯氏法麻呂 おんやうしきじののりまろ(正八位上)

837 春の野に鳴くやうぐいす馴付けむと我が家の園に梅が花咲く

             算師志氏大道 さんししじのおほみち(正八位上)

838 梅の花散り粉(まが)ひたる岡びにはうぐいす鳴くも春かたまけて 

      大隅目榎氏鉢麻呂 おほすみのさくわんかじのはちまろ(大初位下)

839 春の野に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る  

   筑前目田氏真上 ちくしみちのくちのさくわんでんじのまかみ(従八位下)

840 春柳縵に折りし梅の花誰か浮かべし酒坏(さかづき)の上()に 

      壱岐目村氏彼方 いきのさくわんそんじのおちかた(少初位上)

841 うぐいすの音聞くなへに梅の花我家の園に咲きて散る見ゆ  

      対馬目高氏老 つしまのさくわんかうじのおゆ(少初位上)

842 我がやどの梅の下枝に遊びつつうぐいす鳴くも散らまく惜しみ 

         薩摩目高氏海人 さつまのさくわんかうじのあま(大初位下)

843 梅の花折りかざしつつ諸人の遊ぶを見れば都しぞ思ふ

             土師氏御通 はにしうぢのみみち(無位)

844 妹が家に雪かも振ると見るまでにここだも粉ふ梅の花かも

             小野氏国堅 をのうぢのくにかた(無位)

845 うぐいすの待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ児がため

  筑前掾門氏石足 つくしのみちのくちのじょうもんじのいそたり(従七位上) 

846 霞立つ長き春日をかざせれどいやなつかしき梅の花かも

           小野氏淡理 をのうぢのたもり (無位)

 

この正月儀式はたいへん文化的で華やかで、参加した人々や噂を聞いた都の人など多くの人に感銘を与えました。正月早々から上下を問わず歌を詠み合う儀式、それも梅の花を詠む宴、そこにある意味は何でしょう。

上下を重んじて身分や官位を細分化し「姓」を与えたりして氏の間に差別を持ち込み続けた当時の常識に反し、「王権を象徴する梅花の下に上下を問わず集い王朝の弥栄を寿ぐ正月儀式が九州にはありました」ということです。
当時の王朝の儀式ではないとすると、別の王家の儀式だったことになりましょう。

ちなみに日本書紀・持統紀などに見られる正月儀式は、「白馬節会(あおうまのせちえ))の原形や「射礼(じゃらい)」などが挙げられます。が、詩歌を詠む会ではありません。
正月七日の宴は「白馬節会・あおうまのせちえ」という行事に整えられていきましたが、これは天皇が白馬を見る儀式で「白馬を見ると縁起がいい」というのです。また、正月十七日に「射礼・じゃらい」という儀式は弓の音を立てて邪鬼を払うというものです。

平城天皇(在位806~9)の時代、正月儀式として詩文を作らせ御前で読み上げさせる儀式は「内宴」と云って正月二十日か二十一日に行われたのですが、その儀式が取り入れられたのはずっと後の時代です。

平城天皇とはこれまでも紹介した「大伴氏から万葉集を召し上げ、侍臣に編集させた天皇」で、万葉集に深い理解があった人です。ですから、正月儀式に詩文を詠む宴の意味を理解し、その意義を踏まえ儀式を再現したと思われます。
(平城天皇が罪人として官位も剥奪されていた家持の官位を戻した理由は何かですが、万葉集を召し上げるために他なりません。平城天皇は、万葉集の本質と意義を理解していました。だから、平安京から平城京に都を戻そうと言い出したのです。そのために嵯峨天皇と激しく対立したのです。)

平城天皇は、旅人が執り行った梅花の宴を「王朝の寿ぎの儀式」の再現だと理解したので、自らの世(70年以上後)に儀式化したのでした。理想の王家の正月儀式を大伴旅人が大宰府で再現していたと理解したからです。


当時の旅人としては、長屋王の父・高市皇子の血縁になる九州の王家の儀式をなぞり、長屋王の霊魂を鎮めたいと願ったと思います。もちろん、その事は決して表には出さなかったでしょうし、気づかれないようにしたでしょう。旅人の内心を理解した人物が居たとしたら、山上憶良をおいて他には居りません。


「後に梅の歌に追和する四首(849~51)」が巻五に掲載されていますが、旅人が追和したのであろうと云われています。が、そうであれば、「梅花の宴を懐かしんで作る」という題詞があってもおかしくありません。が、それはないので何ともいえませんが、旅人も思わぬ反響に驚いたのかもしれません。宴の成功に感動した別人の可能性もありましょう。

他にも「諸人、梅花の歌にこたえ奉る一首(856)」があります。

巻十七には、「大宰の梅花の時に追和する新しき歌六首(3901~6)」と題詞があり、「右、十二年十二月九日、大伴宿祢書持が作る」と左脚が付いています。大伴家持の弟・書持が父を偲んで十年後に追和したとわかります。

梅花の宴は、このように人々の心に残りました。なぜなら、非常に文化的な行事で都にはなかったのです。家持も弟の書持も「大宰府の梅花の宴」を深く心に刻み、誇りに思っていたのでした。




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# by tizudesiru | 2019-03-01 22:03 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

天平二年の梅花の宴は前王朝の正月儀式の再現だった(1)

大伴旅人が太宰帥として九州に来たのは、神亀四年の暮れか、神亀五年(728)のはじめと云われていますが、彼が九州に来たのはこの時が最初ではありません。
元正天皇の養老四年(720)三月には、「征隼人持節大将軍として九州に来ています。隼人が反乱を起こしたのです。(この時、武人だけでなく神官も宇佐の神も総動員して隼人討伐に動員されますから、当時の戦いに呪詛力は必要だったのです。)
同じ養老四年八月に、右大臣原不比等が没しました。それで旅人は都に呼び戻されます。それは、大伴氏から鎌足の母が出ていますし、大伴坂上郎女が穂積皇子(母は藤原氏)に嫁していましたから氏として姻戚関係にもあった為の召喚なのでしょうが、それより行政のトップ藤原不比等の死亡に対して不穏な動きが起こらないように呼び戻されたと思います。旅人は武人のトップでしたから兵を動かせたし、都の平安の為に必要でした。

ですから、神亀四年の暮に武人のトップである中納言大伴旅人を太宰帥として下向させたとは、どこか不自然でした。(または、神亀五年のはじめに大宰府へ下向)
神亀五年はじめ、大宰府帥となっていた中納言・大伴旅人は妻の大伴郎女(大伴坂上郎女ではない)を亡くしました。たぶん無理な大宰府への旅がこたえたのでしょう。大宰府まで同行した妻の死、遠い都で弟が死亡したという知らせ、旅人は愕然としました。
そんな旅人に異常接近したのが、山上憶良でした。
憶良は、旅人に代わって「大伴郎女の挽歌」を詠み、国司として大宰府の歴史や文化を伝えたり、あまたの長歌や紀行文や詩文を献じたりしました。憶良の教示のおかげで、旅人の知見は広がり歌は急激に変化しています。
それにしても、職を辞した後に皇太子(後の聖武天皇)の教育係でもあった山上憶良が、筑前国国司として大宰府に来ていたのは、大伴旅人の動向を見張るためだったという説がありますが、そうかもしれません。憶良の旅人に対する奉仕の度合はまるでゴマスリ・忖度にしか見えませんから、そこに何らかの下心があったとも考えられます。
(私は、旅人の監視役だったのは小野老、「青丹よし奈良の都は咲く花のにおへるがごと今盛なり」と詠んだ小野老と思っているのですが。)

そして、神亀六年(729)二月、長屋王の変が起こりました。
長屋王は左大臣、当代随一の権力と経済を握っていたでしょう。当然、藤原四兄弟とは意見の対立がありました。火種があったことを旅人は承知していました。
もともと藤原氏は天智天皇によって引き上げられて氏族でした。壬申の乱で後退したものの、藤原不比等によって文武・元明・元正朝において力をつけていました。養老元年(717)不比等は『議政官」として朝議に参加できる者は各氏族より一名』という原則を破り、息子の房前を参議に加えていました。その批判をかわすためでしょうか、養老二年に長屋王が大納言、大伴旅人が中納言として議政官に加えられました。そのあたりの事情を旅人は十分に知っていました。

長屋王の変は、当時の人々が大いに驚いた大事件でした。都には「長屋王事件」に対する同情と哀悼が混じりあった噂話があふれ、混乱を極めていました。流言飛語を止めようとする勅も出されたほどです。しかし、混乱と人々の同情は収まりませんでした。
都からの親族の便りもあるし、太宰帥として旅人は成り行きを把握していました。

長屋王賜死の理不尽を旅人が憤らなかったはずは有りません。彼は激怒し慟哭し悲嘆にくれたことでしょう。しかし、大宰府に送られた官人の中に都の藤原氏と直結している者がいるのです。義憤や同情など表に出してはなりません。
どうしても都に帰らねばならないから下手なことは出来ないと、旅人は思ったことでしょう。
身動きの取れない圧迫感のある追い詰められた状況で、旅人が詠んだのは「酔っぱらいの歌・十三首』なのです。
武人である丈夫が、酒を飲んで泣くなど普通の状況ではありえません。(その歌を万葉集に残した人物も旅人の置かれた立場と心情を理解していた、となると、息子の大伴家持以外には考えられません。)旅人の「大宰帥大伴卿讃酒歌十三首」を読みましょう。
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大伴旅人がここまで長屋王事件に揺り動かされたのは何故? でしょうか。
大伴氏は古代有力豪族でしたが、孝徳天皇の右大臣大伴長徳(ながとこ)以来、議政官への道は遠のいていました。
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 大伴氏は「壬申の乱」で活躍し、大伴御行(みゆき)に続いて大伴安麿(やすまろ)が大宝元年(701)から和銅七年(714)まで大納言を務めました。
大伴氏は、天武朝の忠臣となりましたから、天智朝の忠臣だった藤原氏には不快な存在に思えたでしょう。
大伴氏は奈良時代を通じて藤原氏の横暴に釘を刺し続けましたから、謀判事件にかかわることも多くついには「悪逆の氏族」とも評されたのです。然し、その姿勢は「天武朝の繁栄を守る」ということだったと思います。
天武天皇の長子・高市皇子への忠誠心も大きかったでしょうから、その御子の「長屋王の変」は、旅人にとって衝撃となったのです。

ですから、「長屋王の賜死」を知った旅人の無念はいかばかりだったでしょう。
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作者の分からない「世の中は空しきものとあらむとぞ この照る月は満ちかけしける」の歌を詠んだのは、大伴旅人をおいて他にはないでしょう。
旅人だからこそ、その名はふされたのです。


では、長屋王事件の翌年の正月に行われた「梅花の宴」とは何だったのか、言及しなくてもいいくらいはっきりしていますね。カモフラージュです。本心を隠して、『京都のみなさん、大宰府では「長屋王事件」とは関係なく「宴会」を楽しみました。大伴卿も楽しんでいましたよ』という報告を導くための偽装だった、と思います。
次は、梅花の宴の歌を紹介しましょう。


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# by tizudesiru | 2019-02-22 10:42 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback(67)

万葉の歌人・大伴旅人は大宰府の歴史を知った

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もしかしたら、大宰府政庁が置かれる前に九州の権力者の王都が大宰府にあったのではないか、大宰府王都説や白村江敗戦後の筑紫都督府説、など様々な説がありますが、その可能性はどれほどでしょうか。


前回までに、福岡県太宰府市の大野城や蔵司(くらのつかさ)の紹介をしました。そこで出土した古いタイプの瓦の出土を紹介していますが、草創期の瓦は何処で焼かれたのか分かりません。その瓦は、太宰府だけでなく大野城市や宇美町にまたがる四王寺山(大野城にほぼ重なる)の多くの地点から出土しているのに、何処で焼かれたかわからないままです(Ⅱ期Ⅲ期の瓦が焼かれた場所はほぼ分かっています)。それにしても山城の倉庫に草創期から瓦があることを、大宰府の官人たちはどう思っていたのか、気になります。
山城の倉庫建物に瓦を葺くなど7世紀という時代を考えると異様で、大宰府に赴任した官人たちもそれを知っていたし、山城を見たはずです。政庁の裏山なのですから。

彼らが大野城や大城山をどう思っていたのか探れる資料としての万葉集、その歌で考えてみましょう。まず、「大城山」を詠んだものです。
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明らかに大宰府の住んでいる人の歌で、政庁の裏山が色づいたというのです。
大宰府政庁からは背振山地・三郡山地が見えるし、遠く筑後の山々も見えます。それらの名の知れた神山が林立する中で「大城山だけは冷たい雨に濡れたわけでもないのに色づいた」というのです。これは自然にはない珍しい? ことで、つまり標高の高い背振山から色づくのが当たり前です。なのに大城山が色づいた…そこに此の歌の意味と作者の思いがあるのです。

「はっきりと時雨が降ったわけでもないのに、さすがはあの大城山、昔から王城として崇められてきた大城山だからこそ、いち早く色づいたのだな。さすがに神山なのだ」

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大伴坂上郎女は兄嫁が大宰府で没したので、兄・大伴旅人の家族の面倒を見るために都から大宰府に来ていました。旅人が大納言となり都に呼び戻されたので、坂上郎女も都へ帰りました。都で筑紫のことを思いだして詠んだのが「今もかも・・」の歌です。
霍公鳥は不如帰とも書き夏鳥です。私は不如帰=郭公と思っていましたが、違うそうです。鳴き声を聞いたら霍公鳥の声は寂しくはありませんでした。私はきっと寂しい声だと思い込んでいたのです。万葉集辞典には「かほと=ほととぎすか。郭公。カッコウと鳴くのでこの名がある。初夏、南から渡ってくる。略」とあり、「ほととぎす=霍公鳥。やまほととぎすとも。渡り鳥。夏鳥。夏の到来を告げて鳴く。背は灰青色。略」とあるのです。


では、坂上郎女の歌です。彼女が「大城山が古代の権力者が造ったものだった」と思っていたのなら、このような意味を込めたでしょうか。 
「あの誰もが毎日のように眺めた大城の山に夏が来て、今頃たくさんの霍公鳥が鳴いているのだろう。霊魂は鳥となって夏になると大城山に戻ってくるのだろうが、私はもう筑紫に戻ることはない。」

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山上臣憶良は大宝元年(701)に無位で遣唐使として唐に渡りました。帰国後徐々に出世し、霊亀二年(716)には伯耆守。養老五年(721)に退朝した後に東宮に仕え、皇太子(聖武天皇)の教育係になりました。そして、神亀三年(726)に筑前国司となったのですが、既に退朝しているのですから、かなり変です。何か政治的な裏工作でもあったのでしょうか。
大伴旅人が都から遠い筑紫に赴任した後、旅人のいない都で「長屋王の変」が起きました。長屋王は左大臣、旅人は中納言としてともに中央で活躍していたのですから二人は親密だったようです。武人である旅人が都にいる間は、事が起こせなかったのではないか、と考えます。
憶良の筑前守就任は、大伴旅人の監視であったのでしょう。大宰府の旅人に対して山上憶良は異常に接近し、徹底的にご機嫌を伺いました。旅人の妻の法事には『日本挽歌』を献じ、大伴氏の祖先の大伴佐堤比古朗子(おおともさでひこのいらつこ)の物語を徹底的に取材し、見送った松浦佐用比賣に関する歌や神功皇后にまつわる伝承を取材し、肥後の大伴熊凝(18歳で死亡)に代わって歌を詠んだり「貧窮問答歌」など多くの長歌を謹上したりしたのは、旅人に接近するためだったのではないでしょうか。 

そんな憶良が旅人の妻の法事に捧げた長歌「日本挽歌」に付けられた反歌五首の最後の歌が「大野山きりたちわたる・・」の歌ですから、次のように読みます。

「古の王城だった大野山に霧が立ち渡っている。霊魂が現れたものが霧や雲だというが古の霊魂が大野山に漂っているのだ。更に、私の嘆きのため息が霧となって、大野山に深く霧が立ち込める。」
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大宰府の官人たちは、毎日眺める大野城に畏怖の念を持ったと私は思います。


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# by tizudesiru | 2019-01-24 16:11 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

大伴旅人が太宰帥だった時代、大野城の城門に鬼瓦があった

福岡県の太宰府市や大野城市宇美町にまたがる「大野城」は天智天皇が築城させた古代山城として知られるが朝鮮式山城として大野城が白村江敗戦後に築城される前から或権力者が作った山城が四王寺山にはあったのではないか、というお話をしてきました。
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そもそも大宰府の都府楼跡(政庁跡)に露出している礎石は、創建時(Ⅰ期)のものではありません。Ⅱ期Ⅲ期の瓦葺の建物時代のものです。
Ⅰ期は掘立柱建物で礎石はなく、この都府楼のⅠ期に出土する瓦が「主城原」のⅠ期で出土する単弁の瓦と共通します。両者は同時期なのです。

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大野城築城から1350年の節目に「四王寺山の1350年」という図録が出されました。
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そこに、大野城のⅠ期遺構で出土した瓦の写真があり、三種類の単弁の軒先丸瓦が紹介されています。上の写真が主城原で出土した瓦で、三種類の瓦が出土したのは主城原のみです。
Ⅱ期になると、瓦当文様が違ってきます。鴻臚館式と老次式の華やかな瓦当文様になります。下の「老司系軒丸瓦」で単弁のようだけど複弁八葉蓮華文軒丸瓦だそうです。
一番外側の外区外縁に陽起鋸歯文(ようききょしもん)ギザギザの△文様がつながって取り巻いているのが、老次式の特徴です。鴻臚館式にはこの鋸歯文がありません。
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Ⅰ期の瓦とはかなり違っています。これほど変化するには、文化的な変革があったということです。それは、文化の変化だけでしょうか。何らかの政治的社会的変化があったことになりませんか。礎石建物に瓦が葺かれた「大野城の太宰府口城門」址からの出土です。
山城には大きな城門が作られたのです。
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此の鬼瓦は第Ⅱ期大宰府政庁の造営に伴って造られた「大宰府式鬼瓦Ⅰ式A」で、大宰府の中枢施設からのみ出土する、そうです。これは、大野城の大宰府口城門から出土したものですから、大野城はさぞや立派だったことでしょう。

「大宰府」が置かれるまで、太宰府には大きな施設はなかったかもしれません。然し、その田舎に瓦葺の掘立柱の建物はあったのです。そんな建築物を造った人は何処に住んだのでしょう。「大野城」の城門址を見ると北と南の双方に集中しています。北の糟谷・博多側と、南の太宰府側に。大宰府側が未開発であったなら、宇美町側(粕屋郡側)博多側から主に出入りしたとなります。だから、主城原に官衙も建てられていたのでしょう。

でも、宇美側の有力者が大野城を利用していたと考えると、矛盾が生じます。
水城の築造の意味がなくなるからです。水城は「博多側からの侵入を防いでいる」そうですから。

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全く、謎だらけの大野城です。だけど現実には、大伴旅人が大宰府に赴任していたころ、大野城はあったのです。都から来た官人は、大野城をどんな目で見たのでしょうね。
又、明日。



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# by tizudesiru | 2019-01-21 23:57 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

太宰府都府楼の隣・蔵司に王宮があったのか

福岡県太宰府市にヤマト王権の出先「大宰府政庁」址があります。私が子供のころは田畑や家屋の中に意味深な小字があったと思いますが、今はすっかり公園になっています。北に見えるのは大野山(大城山)で、大野城が置かれているのです。


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政庁跡をふつうに「都府楼」と呼んでいますが、古代も此処を都府楼と読んでいたのでしょうか。不思議な呼び名です。
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都府楼跡の東隣と西隣は小高くなって森になっています。西隣は蔵司(くらのつかさ)と呼ばれて、古代には武器庫だったといいます。新聞記事で焼けて溶けた鉄鏃の塊が大量に出土したと書かれていた記憶があります、ずいぶん前の話ですが。裏手は谷で池があります。
この蔵司に以前は料亭がありました。何時か行ってみようと思っていましたが料亭は無くなり、跡地は文化財として福岡県が管理しているのでしょう。発掘調査があっていますから、立ち入り禁止です。見学会があって何とか写真だけ取りました。

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蔵司は二段になって、下の段が発掘中でした。木々の奥(東側)が都府楼跡です。都府楼跡は更に大きく段が下がります。つまり、蔵司の方が都府楼の役所を見下ろす位置にあったのです。見晴らしもよくなりますが、高官に対して失礼ではなかったのですかね。
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上の段は広く礎石が並んでいますから大型建物はあったのです。江戸時代の絵からはもっと多くの礎石があったことが確認できるそうです。
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蔵司の礎石は他の遺構の礎石に比べて厚みがないそうです。つまり、薄い礎石では上に重い物は置けないというのです。ですから、倉庫とは思えないという話でした。
「ではでは、人間の住まいならOKなのですね! ふむふむ、それではここは王宮だったかもしれませんね、古代の」
しかし、肯定はされませんでした。が、ここが倉庫だとしたら確かに不自然です。隣の大宰府政庁を見下ろすことになりますし、倉庫を一等地に造る意味は何でしょう。迎賓館址はここから徒歩で15分くらい離れた二日市駅の近くにありますから、客館跡でもないでしょう。でも、大型建物跡があり、火事などで鉄鏃の焼け溶けた塊が出土したのです。
面白い事実です。

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蔵司の敷地は決して狭くはありません。何らかの公的な建物があったでしょうね。
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観光地として知られる太宰府天満宮は、蔵司や都府楼跡の前の道を東に進み、突き当りに位置します。このあたりの建物は条坊に沿って作られているそうです。
藤原宮より大宰府の条坊が古いというのは、本当ですか?

では、この辺で。


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# by tizudesiru | 2019-01-18 23:33 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

当時の太宰府は田舎だったが、山城を築いた

「太宰府はヤマト王権の出先機関・大宰府が置かれるまでは、間違いなくど田舎でした」
と、ある学芸員さんが言われました。若い方ですので何処の誰かは言いませんが、これには「発掘の結果からそう思う」という付け加えがありました。
学芸員さんの話だと、大野城・基肄城は白村江敗戦後に造られたということです。水城・大野城の土木工事も一緒にやれたというのです。大野城は土塁が6キロほどあるそうです。
それも急な斜面にある、のです。そして、山地を削平して建物を建て米を運び入れねばなりません。同じ規格の建物だそうですから、設計図があったのです。それを読める人、指示する人、働く人の組織があって、その食料と寝床も確保しなければなりません。人のいないところで山城を造って、ヤマトを守ったのでしょうか・・・

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佐賀県にある基山です。土塁は山頂部から連なる尾根に造られているのです。
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辺りは平たんではありません。基肄城は、基山と坊住(ぼうじゅ)山にまたがりますので、間を谷川が流れています。
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現在地と書かれているところに、谷水を排除する水門と城門がありました。
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此の水門を通り抜けて基肄城の中に入った者は、大宝律令では一年の徒刑となっていたそうです。701年辺りでは此の山城が機能していて、都でも関心があったのですね。
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10間×3間とは大きい建物ですね。
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今では、初期の出入り口の状況をうかがい知ることは難しいようです。
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基山山頂のの土塁をみましょう。
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広い土塁はうねうねと続いています。
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見晴らしも抜群です。やはりここも、白村江敗戦後にいっきに造ったのでしょうか。
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基山は大城山とほぼ南北に向かい合っています。真南の関係になるのは、基肄城の北帝門ではないでしょうか。天智天皇が基肄城を築く時、この基山で古代から祀っていた神が降ろされました。その時から筑紫神社に祭られているそうです。
ご祭神は変わった可能性もありますが。
 
山城のためにそれまで祀られていた神が山頂から降ろされる、という話が大野城・基肄城の朝鮮式山城に共通するのです。大きな土木工事が敗戦後の食糧難(働き手を失っている)の時代にできたのかという疑問は、全く解決されてはいませんが・・・双方で祭祀が行われていたことは確かです。
神を降ろされ土木工事に従事させられ、人々はどのように戦後を生き延びたのでしょうね。
基肄城が緊急時に倉庫として役に立つかどうかも疑問ですが、此処で大土木工事がなされたのは事実ですが・・その時期は問題だとはおもいます。白村江戦より前に山城があった可能性はないのですか?
それと、当時の人の考えが、今ひとつ分かりにくいのです。 

最初に書きましたが「当時は、太宰府辺りは超田舎だった」ということです。田舎で村も小さく、人も少ないのに大土木工事をしたとは、理屈があいません。人手・財力・必要性・技術・指導者・組織力、何が抜けても国家的な工事はできないのです。他所から人を呼んだのなら、何処で寝泊まりしたのか、やっぱり気になりますからね。
今日も疑問で終わりました。では、また。


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# by tizudesiru | 2019-01-17 17:08 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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地図のたのしみ
1祭祀線で読む大宰府の位置
2祭祀線で見る竹原古墳
3祭祀線が交叉する間夫という山
4祭祀線で知る筥崎八幡宮
5祭祀線で弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6祭祀線と平原王墓ラインから分かること
7祭祀線で読める八女丘陵の古墳のライン
8祭祀線で分かる高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山の祭祀線
11羽白熊鷲と脊振山を結ぶ祭祀線
12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
44祭祀線がつなぐ江田船山と筑紫君磐井
45不思議な祭祀線・筥崎宮と太宰府天満宮
46祭祀線で結ぶ高千穂の峰から阿蘇へ
47祭祀線で分かる雲仙が守った首長
48祭祀線で神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50祭祀線を使った醍醐天皇の都の守り
51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
103安心院の妻垣神社
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える

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