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大化改新前に東国に入り込んだのは有明海文化圏の人たち・歴史カフェ阿蘇

立派な舟形石棺ですね。この展示品は、熊本県ではなく群馬県赤堀村の歴史資料館のものです。
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どう見ても、有明海文化圏の凝灰岩製の舟形石棺に似ています。
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群馬県は何処に行っても歴史資料館・博物館が充実しています。文化庁もふんだんにお金を使ってくれたのです。なぜか。
九州と違って、ここが畿内王権の下支えをしたと、歴史の方向性が造られつつあるからです。其の予備の仕事が終わったので、文化庁は、昨年から史跡・遺跡は各自治体が保存するかしないか決めるようにとして、その事業から手を引いたのです。畿内王権に関係ない地域は、そんな文化財保護事業にお金を出す余裕などありません。つまり、見捨てられたのです。それは、古代に夢を失った市民が何も言わなくなった結果なのです。
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然し、歴史はロマンでもなく、絵空事でもありません。私たちが凝視しなければならない事実です。
どんなに悲しくても辛くても、事実なら受け止めて、次にどう考えるか、行動するか、判断しなければなりません。うやむやにしてどうしますか?
さて、古代に話を戻しましょう。古代の豪族は、土地と人民と事業を求めていました。それが、自分に富を引き寄せるアイテムだったからです。だから、土地と人民が欲しかった。すると、彼らが東国の豊かさを見のがすはずはないでしょう。
広い耕地が広がる群馬県。古代の侵入者はこの豊かな土地が欲しかったはずです。
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古代、侵入者は何処を通って群馬に入ったのか、いうまでもありません。江戸湾から利根川をさかのぼったのです。利根川が霞が浦の方に流れるように河川の付け替えが行われたのは、江戸時代です。古代や中世には物流の要として利根川が大活躍していたのです。もちろん、江戸時代にも。ですから、此の大動脈を使って侵入者は、群馬に入ったのです。
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群馬県大泉の歴史資料館では、大甕を見ることができます。
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東国の歴史は特徴的です。長い縄文、短い弥生。そして、どっと流れ込んだ古墳文化です。
何故、そうなのか。弥生が短かったのは何故か、それが問題なのです。

9月23日の歴史カフェ阿蘇では「有明海の文化が常陸国の流れこんだ」というテーマでお話しすることにしています。

では、この辺りで。


# by tizudesiru | 2020-09-21 15:06 | 378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東 | Trackback

香春岳にアサギマダラが来る季節になりました。

秋になりました。アサギマダラが渡って来る時期です。福岡県田川市の香春岳の近くでは、公園にフジバカマを植えています。アサギマダラはこの花を頼りに南下して来ます。
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田川市には、ベビーパウダーの原料となる良質の石灰岩の山である香春岳があります。セメントの材料にするにはもったいないですね。でも、香春岳はすっかり削り取られて低く小さくなりました。この神山は、何処までも人間のために尽くしているのです。
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アサギマダラが渡って来る公園は鏡神社の近くにあります。
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蝶は一定の決まった植物にしか卵を産まないのですが、それはその植物しか餌にできないからです。ほかの植物では消化酵素がないので、幼虫が生きていけないのです。モンシロチョウがキャベツに卵を産み、アゲハ蝶がミカンの葉に卵を産むのはそのためです。
田川市はそこに目を付けてフジバカマを大量に植えたのですね。
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ここは古代官道の 田河道でもあります。
藤原広嗣の乱の時、広嗣は大宰府で兵を集め、彼の弟も兵を引き連れて此処を北上したのです。どんな思いだったでしょう。やがて斬刑になるなど考えていたでしょうか。
時の聖武天皇に弓を引いて、事が解決するはずもないし、罪が許されるはずもありません。
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ニノ岳、三ノ岳の方に行くと、銅を掘った跡の穴が見られます。採掘の穴を間歩と言いますね。
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お見事な羽を持った蝶ですね。彼らも必死で命をつないでいるのですね。
では、この辺で。
 
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# by tizudesiru | 2020-09-18 23:29 | 377花の写真はいかがですか | Trackback

万葉集と風土記から読む古代・有明海沿岸の文化が関東(吾姫国)に伝播

福岡県福津市の歴史資料館では、まだまだ面白いテーマをたくさん見つけられるのです。例えば、展示物の鉄刀、のこぎり、などから引き出される問題。古墳の形式、宗像型という横穴式石室、宗像型高坏、それぞれが意味深な問題や話題に包まれています。此処には、冠や沖ノ島の奉献品とつながる鏡が出土した勝浦峯ノ畑古墳があります。
もちろん、沖ノ島祭祀と福津市の勝浦・勝島・草崎・名児山の関わりもあるのです。
宗像のご祭神がなにゆえ三女神なのか、ゆゆしき問題が山のようにあります。
そのどれをとっても見逃せない事実が絡まっています。
最近、あらためてそのように思いました。
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いろいろ思いは広がるのですが。
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特に、関東(吾姫国・あづまのくに)と九州の有明海文化圏との関係に興味が湧きます。
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両者を結びつけたのは、舟の文化ですね。利根川こそ物流の要であり、侵入者の侵攻ルートでもあったのですね。写真は群馬県で撮った利根川の写真です。
もちろん、関東にも大甕が出土します。この文化はどこから入ったのでしょうか。気になるところです。
然し、ここでちょっと中断です。差し迫った問題を解決しなくてはなりません。
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もちろん、文化の伝播のことは更に考えていくつもりです。

このところ、少し忙しいので、関東とのつながりはひとまずお休みです。
今週は、万葉集についてまとめたものを読み返さねばなりません。

それから、
9月6日(日)にお話しする予定だった件ですが、台風で二週間延期になりました。次の日曜日に延びています。
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それから、
万葉集関係の本を10月に出す予定です。前後編で、後編は予定ですが1月に出すことにしています。これから、少し書いて紹介したいと思っています。

関東は、とても不思議で示唆にみちた古墳や遺跡がたくさんありました。またお話ししたいです。
では、この辺りで、失礼します。

# by tizudesiru | 2020-09-18 10:10 | 378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東 | Trackback

舟原3号墳の蛇行状鉄器と馬甲・将軍山古墳の馬甲と蛇行状鉄器

今日は「九州の古墳の不思議と謎」のクライマックスかも、知れません。
前回、蛇行状鉄器の出土遺跡の紹介で、船原古墳埋納抗がありました。馬甲が出土したことで有名になった古墳です。そこにも蛇行状鉄器が埋納されていた。では!まさか
関東の将軍山古墳と接点があるのでしょうか、船原3号墳は。
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説明パネルによれば倭国の八か所の●が、蛇行状鉄器の出土遺跡です。関東の●が、さきたま古墳群の将軍山古墳です。
将軍山古墳は資料館が併設されていて、内部の様子が復元されています。写真撮影はOKです。ここは大きな前方後円墳の横穴式石室です。写真を見ると、確かに蛇行状鉄器が副葬されています。それも別々に置かれている馬具セットで、二組あります。
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副葬品を見ると古い古墳には見えませんね。
倭国の蛇行状鉄器の出土遺跡は、手光南2号墳、大井三倉5号墳、船原古墳埋納坑(実は、これは未報告なのです。3点もあるのに)、塔ノ尾古墳、伝・朱千駄古墳、団栗山古墳、飛鳥寺塔心礎、将軍山古墳、となっていました。
この蛇行状鉄器の出土状況だけを見ると、韓半島と深くつながっていたのは北部九州だということになりますね。飛鳥寺を建立したという蘇我氏は、蛇行状鉄器を寿具として、奉献品として塔の心礎に埋めた、となりますね。そういう馬具の文化に目覚めていたのでしょうか。
更に、将軍山古墳の目玉出土品の馬甲です。
これも希少な出土品でしたが、私が面白いと思ったのは、遠く離れた関東と九州で同じようなものが副葬されていたということです。よく似た馬の装飾品が出土しているということです。それは、なぜなのか、いろいろ考えます。

では、2013年の現地説明会の写真で当時を思い出してみましょう。
現在の船原古墳は国指定遺跡となり公園に整備されています。
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埋納とは、副葬品を石室内に入れずに墓の近くに穴を掘って埋めることです。同じ幅に埋納されていますから木箱などに入れて埋めたということでしょうか。
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確かにいろいろ埋められているようですが、遺物の形があまり分かりません。
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仕方ないので、パネルを映しました。
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そして、須恵器の大甕もありました。この甕の文様は6世紀の物に多いと見学者に来た関係者が話して居られました。
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高杯もありました。
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こんな風景の中に船原古墳はありました、石室の中に副葬品を入れなかったのですね。
九州の宗像地方では、土器なども石室には入れずに墳丘の上に置くというのが特色らしいです。それと同じ慣習で副葬品を外に埋めたのでしょうか。
 
では、これにて、失礼します。

 
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# by tizudesiru | 2020-09-17 17:30 | 381九州の古墳の不思議と謎 | Trackback

福津市の手光古墳群の南2号墳・飛鳥寺塔心礎出土品と同じ蛇行状鉄器が出土した

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福岡県福津市の歴史資料館には、手光古墳群の南支群2号墳の蛇行状鉄器が展示されていました。私はこの古墳をまだ見に行ったことがありません。もう住宅の下になっているのかもしれません。
巨石の横穴式石室を持つ手光波切不動古墳は知っています。宮地嶽不動神社古墳の南にあり、宮地嶽古墳より時期が上る古墳でしょうか。でも、南2号墳はもっと古い古墳のようですね。
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この蛇行状鉄器の先端は筒がまとめられていて、旗竿を差し込むための穴があります。鞍に固定してひらひらと靡く旗を差し、華やかにかざったのでしょう。
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現在、弥生時代以前の遺跡からは馬の骨が見つかっていないことから、古墳時代になるまで日本列島に馬は生息していなかったと考えられている。
日本列島に騎馬文化が伝来したのは4世紀後半(約1600年前)ごろとされている。馬具には、足をかける鐙(あぶみ)馬の背に乗せる人がまたがる鞍(くら)、馬の口にかませて制御する轡(くつわ)、装飾を目的とした雲珠(うず)杏葉(ぎょうよう)、鈴などがある。
騎馬文化は日本列島で急速な広がりを見せ、金銅(銅に鍍金したもの)や銀で装飾したものが出現する。藤ノ木古墳(奈良県斑鳩町)では、石室内から金銅装の豪華な馬具が3セット分出土した。中でも、鞍金具には忍冬唐草文や動物の図像などが緻密に彫り込まれており、大陸文化の伝播と高度な金工技術を如実に示している。
福津市においては、津屋崎古墳群の勝浦井ノ浦古墳、宮地嶽古墳などから金銀で装飾された豪華な馬具が出土している。また、中小規模の古墳からもしばしば馬具が出土することから、中国・朝鮮半島との活発な交流がうかがえる。(パネルの説明文)
 
説明文では、馬具の文化が入ったのは古墳時代からで、豪華な馬具があるとのこと。
確かに、宮地嶽古墳の副葬品には、奈良の藤ノ木古墳より優れたものもあるそうですが、蛇行状鉄器はどうなのでしょうか。
では、この馬の装飾品の蛇行状鉄器は、何処の遺跡で出るのか、知りたくなります。資料館に説明のパネルがありましたが、福岡県の分しか遺跡名が分かりませんね。
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蛇行状鉄器の確認された遺跡は、日本に八か所あるそうです。福岡県が三か所です。
手光南2号墳 1点(福岡・福津市)
大井三倉5号墳 1点(福岡・宗像市)
船原3号墳の埋納抗 3点(福岡・古賀市)
塔ノ尾古墳  1点(山口)
伝・朱千駄古墳出土  1点(岡山・穂崎字安部)  
団栗山古墳  1点(奈良)
飛鳥寺塔心礎  1点(奈良)*古墳出土ではない
将軍山古墳A  1点(埼玉古墳群)
将軍山古墳B  1点(埼玉古墳群)*将軍山古墳の同じ石室内ということでしょう。

八か所の内、飛鳥寺だけは古墳ではなく、寺院の塔の心礎からの出土です。塔建立の時、発願成就や寺の栄を祈った寿具・奉献品として埋め込んだのでしょうか。すると、飛鳥寺が建立される時には、馬具の蛇行状鉄器は貴重なものと扱われていたということですね。粗末なものや余り物を奉献しないでしょうから。
韓半島にも多くの出土地がありますね。
韓半島 伽耶地方 10遺跡
    新羅地方 6遺跡
    百済地方 1遺跡
    高句麗地方 1遺跡

こうした出土状況を見ると、畿内で一極集中的に馬具製作が行われていたとか、王権からの下賜品だとかいう説は、揺らぐのではありませんか。
特に,馬鈴や馬鐸は九州に多く出土します。馬に鈴を飾る文化は、九州から広がったように思われるのですが。そうそう、将軍山古墳(埼玉)に馬鈴馬鐸もありました。すると、埼玉と福岡はどこかに接点があるということでしょうか。
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これらの文化も、やはり畿内からの伝播なのでしょうか。
気になりますね。
今日は、ここまでにさせていただきます。
 

# by tizudesiru | 2020-09-16 17:30 | 381九州の古墳の不思議と謎 | Trackback

日本で一番大きな金銅装頭槌太刀が副葬されていた宮地嶽不動神社古墳

福岡県福津市の新原・奴山古墳群と歴史資料館を紹介しました。この資料館には、あの宮地嶽神社の金銅装頭槌太刀のレプリカ(復元品)が、宮地嶽神社より寄贈されていました。この太刀は宮地嶽神社の不動神社古墳から出土したのです。宮地嶽神社は、この資料館から一キロほどの所に在って近いのです。
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久しぶりに宮地嶽神社に参詣しましょう。
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コロナ禍の中に神社を訪ねてみると、人通りはほとんどありませんでした。この階段の前の鳥居と石垣は、炭鉱王である伊藤伝衛門の寄贈だったと思います。あの柳原白蓮のご亭主です。飯塚の炭鉱王にとって、この宮地嶽神社は信仰の対象だったのでしょうね。
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さて、階段を上りつめて後ろを振り向くと、海と相之島が見えます。海まで続くこの道は、ミュージシャンの嵐が「光の道」としてJALのコマーシャルで紹介した宮地嶽神社の参道です。太陽がこの参道のラインに沈むのは、10月22日の夕方です。今では観光スポットになっていますが、今年はどうなるでしょうね。
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10月22日には、毎年、宮地嶽神社の神官や保存会の人によって「筑紫舞」が奉納されています。今年も奉納されます。そのあと、夕日を見て帰る人もいたようですが。

グーグルアースを使って、PC上でこの参道のラインをまっすぐ伸ばすと、相之島の積石塚古墳に届きます。それも、積石塚の古墳群の中で一番大きな前方後方墳にラインが当たるから不思議です。そのことは、もう何度もこのブログでも紹介しましたね。今回は、相之島がよく見えています。双眼鏡があれば前方後方墳がみえたでしょう。
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では、神社への参詣に戻ります。
階段を昇りつめるとまず見えるのが宮地嶽です。以前は、本宮はこの山の山頂にありました。山に一礼して右に曲がります。楼門の向こうに拝殿の注連縄が見えています。
参拝を済ませたら、奥の院に向かいます。
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奥の院は本殿の奥、宮地嶽の登山口に在ります。
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奥の院は、日本で二番目に長い横穴式石室で、巨石で作られています。
不動神社の中の写真を撮ることはできません。あの金銅装頭槌太刀はここから出土したのです。
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奥の院は宮地嶽不動神社古墳の石室ですから、当然、屋根はなく盛り土になっています。この古墳の主は、どんな人だったのでしょうね。とても一人では持てない太刀を造らせた人です。葬儀用として作らせたのでしょうか。儀式に使ったものを副葬したのでしょうか。
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宮地嶽神社は謎だらけですが、いろいろ考えさせてくれる神社です。

お天気が良くて、神社の写真がきれいだったので紹介しました。
すっかり秋の雲になりました。ずいぶん過ごしやすくなっています。
では、またお会いしましょう。
 
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# by tizudesiru | 2020-09-15 17:30 | 381九州の古墳の不思議と謎 | Trackback

新原奴山1号墳の大甕と雪辱を果たした宮地井出ノ上古墳

前回、福岡県福津市の新原奴山30号墳に多量の須恵器の大甕が出土したことに驚いたと書きました。30号墳は6世紀の中ごろの古墳だそうです。では、五世紀の古墳からはどんな大甕が出土するのか、気になりますね。新原奴山古墳群は発掘ができなくなっていますから、此の公園を整備する前に近くを道路が通ることになって、削られた前方後円墳があります。そこから出土した大甕が福津市の資料館に展示されていますから紹介します。
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新原奴山1号墳がその大甕出土古墳なのですが、上の写真の円墳(左前)と前方後円墳(右後ろ)の間に、見えないくらい遠い古墳があります。それが1号墳です。
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案内図でもわかるように、1号墳の前方部が道路にかかっています。道路ができる時に発掘された大甕が次の写真です。
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説明文に、「新原・奴山1号墳(前方後円墳・墳長54m)の墳頂上で出土した。底に穴を穿ち、一石を置いて据えられていた。高さ96cm、胴部直径92cm。」
と書かれていました。
聞くところによると、須恵器製作は葬送に用いる大物から始まったそうです。大甕を焼くために須恵器焼成の技術が必要だった。
葬送儀礼のための道具として須恵器が入ったというのです。それで、墓に「据えるもの」という意味で「すえき」と呼ぶのでしょうか。

それから、この資料館でも発見がありました。以前、福津市の発掘報告書を読んだ時、三角板革綴短甲について「副葬されていた短甲を復元したが、パーツに余りが出たり整合性が取れなかったりしたので、短甲の余りものを寄せ集めて作成し、首長としての体裁を整えたと思われる」という内容の報告が書かれていたので、田舎の豪族には短甲を副葬するのが憧れだったが、難しかったのだなと思っていました。ところが、違っていました。
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その後の調査研究により、完品であることが分かったのです
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感動でした。革綴ですから、初期の短甲ですね。この後は、鉄板を綴じ合わせる技術が鋲留に代わっていきますから。あまりものだとか、寄せ集めだとか、ちょっと寂しい評価でしたから、名誉回復というところでしょう。
報告書を読んだ時のがっかり感を思い出しました。でも、今回、ほっとしました。多分、福津市の学芸員さんもどこかで納得できない思いがあったのでしょうね。そこで再調査となった結果、真実が判明した、ということです。
再調査って大切なのですね。
今日は、これにて、失礼します。


# by tizudesiru | 2020-09-14 17:30 | 381九州の古墳の不思議と謎 | Trackback

須恵器の大甕がすべてのトレンチから出る? 新原奴山30号墳

やっと秋らしくなった9月13日の日曜日、福岡県福津市の津屋崎古墳群を訪ねました。奴山30号墳の現地説明会があったのです。ここは沖ノ島関連遺産群となっているのですが、宗像市ではなく福津市です。
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世界遺産に登録されているので、発掘はできません。雨などで古墳の斜面が流れたのを修復する名目で、そのために調査をすることはできても、現状を壊す石室の調査などはできないそうです。古墳の真実が明かされないまま蓋をする???ことでしょうか。
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壊れた南面と東面には石室の痕跡はないので、たぶん西面に入り口があるのでしょうね。墳丘の斜面が急こう配なので、天井の高い石室があるのでしょうね。でも掘れないそうです。
今回の説明会で面白いことに出会いました。それは、墳丘の大きさを調べるのにいくつかトレンチがありました。土を掘り下げて調べる溝ですが、溝の側面の土色が見分けられます。 淡黄色・オレンジ色・茶色・黒茶色と側面の色が変わっています。
淡黄色は、現在の畑の土、オレンジ色は畑の下の粘土層。
茶色から下が古代の土で、下に行くほど黒っぽい土になっています。此処が古墳の周りの周溝の部分で水が溜まっていたので、有機物が腐って黒い色がついているのです。
ただ、水がたまったのは後の時代で、始めは空濠だったそうです。
この溝ですが、そこに、墳丘から転がり落ちた葺石と須恵器の大甕があったのです。
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須恵器の大甕がすべてのトレンチから出る? 新原奴山30号墳_a0237545_00115394.jpg
灰色の破片が須恵器の大甕です。波のような模様がある面が甕の内側です。甕の内側に板をあてて粘土を外からたたいて叩きしめたのです。粘土が板にくっついて離れなくなると困るので、板に細かい模様を掘って粘土からはがれやすくしているのです。
須恵器の大甕がすべてのトレンチから出る? 新原奴山30号墳_a0237545_00342631.jpg
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須恵器の大甕がすべてのトレンチから出る? 新原奴山30号墳_a0237545_00411304.jpg
五か所くらいトレンチがあったのですが、そのいずれにも須恵器の大甕があったのです。ということは、この墳丘の周囲には須恵器の大甕が列をなして並べられていたということでしょうか。
つまり、大甕をふんだんに使っていた、その焼成技術もあったし、大量生産していた、ということですね。(これは、私の意見みたいなものです。学芸員さんは憶測で発言されることはありませんから。トレンチのいずれからも大甕の破片が出土するのに、私が驚いたということです)。
須恵器の大甕がすべてのトレンチから出る? 新原奴山30号墳_a0237545_00470523.jpg
須恵器の大甕がすべてのトレンチから出る? 新原奴山30号墳_a0237545_00480064.jpg
もちろん、学芸員さんはいろいろと丁寧に説明してくださいましたよ。

では、又、明日。

 
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# by tizudesiru | 2020-09-14 00:49 | 381九州の古墳の不思議と謎 | Trackback

ならのみかど・平城天皇が在位三年でやりたかったことは何だろう

今日は、平城天皇の御代のお話です。
五一代平城天皇の在位は三年間でした。その短い在位中に、平城天皇は何をしようとされたのでしょう。気になります。
皇太子時代には、父の桓武天皇の病気平癒を願って赦(ゆるし)を行い、大伴家持が「藤原種次暗殺事件に連座」して、死後であったにもかかわらず官位をはく奪され、息子の大伴永主と共に流罪になっていたのですが、家持の官位を従三位に戻しました。そして、万葉集を召し上げたのです。
この平城天皇の名を関東の神社で見つけました。
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香取神宮・鹿島神宮と並ぶ東国三社と呼ばれた息栖神社に、平城天皇の名前がありました。息栖神社は香取・香島の神社とセットとして位置付けられていたのでしょうね。
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礎石の説明文に
息栖神社の御本殿は、平城天皇の御代(大同二年四月十三日)806(年)奈良時代に此の地に遷宮されました。以来、貞観八年一月(876)、宝永三年(1704)、京保八年(1723)、弘化四年(1848)と数回に及ぶ建て替えがありました。此の五個の石は、そのいずれの時かに礎石として使用されて以来、昭和35年迄、その務めを果たしました。

延暦二五年(806)三月に桓武天皇崩御となり、五月に平城天皇が即位し、改元して大同元年となったのです。其の祈念事業だったのでしょうか。大同二年に、息栖神社を遷座したというのです。何の目的のためでしょう、こんな遠い東国の神社の遷座だなんて。

同じように、銚子市猿田町の猿田神社にも平城天皇の大同二年を見つけました。
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猿田彦神社本殿の説明に、次のような文があります。
「猿田神社は、社殿によると平安時代初期の大同二年(807)に社殿が建立され、猿田彦大神、天鈿女命、菊理姫命を祀っている。」
ならのみかど・平城天皇が在位三年でやりたかったことは何だろう_a0237545_20114307.jpg
此処にも、大同二年が出てきました。

譲位したあと、平城天皇は、平安京から奈良の都の平城京に戻ることを主張されました。病気を理由に弟の嵯峨天皇に譲位したにも関わらず、奈良遷都を主張して嵯峨天皇と対立したのです。
結果、薬子の乱に敗れて出家されるのです。
それにしても、平城天皇は短い在位期間で何を考えて居られたのでしょうか。
東国経営に力を入れようとしていた、是は確かでしょう。では、なぜ? それは
東国が皇統の権力の基盤だったから、または、東国がもともとまつろわぬ民であったから、どちらかでしょう。神祭りを強化して天智系の皇統の繁栄を祈願した、と思います。

万葉集を侍臣に編集させた平城天皇ですから、関東の神社に何を願っていたのか、気になります。
では、今日はこの辺りで。

# by tizudesiru | 2020-09-08 17:00 | 380関東の神社は、政変を示しているのか | Trackback

下総国の松崎神社の勧請が、光仁天皇の即位の後だったのはなぜ

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千葉県多古町に、稲荷宮ともよばれる松崎神社があります。
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千葉県の北になります。利根川の南ですから香取神宮も千葉県ですね。
鹿島神宮や童子女の松原は、利根川の北ですから茨城県です。この辺りは下総国と常陸国が接するところで、風土記でもわかるように深いつながりのある地域です。
松崎神社に参詣した時、気になる由緒を拝読したのでお知らせいたします。
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この松崎神社の後ろの杜は小高くなっていて古墳です。北条塚古墳というそうです。
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気になったのは、この古墳の事ではありません。
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松崎神社御社殿修復の記に、次のように書かれていたことです。
松崎神社は、光仁天皇の宝亀二年に勧請 其の後建久二年社殿を新たに造営 旧号を坂東稲荷本宮と称し 広く関東一圓にわたり尊崇する者が多く 明治六年八月郷社に列せられて居る。近年社殿の老朽のため(略)
宝亀二年は、771年です。前年の神護景雲四年(770)八月に称徳天皇が崩御となり、忠臣吉備真備が、称徳天皇の後継者として文屋浄三(智努王)を推すのですが、藤原百川の陰謀により阻止されます。そして、百川らによって白壁王が立太子され、称徳天皇に仕えた道鏡を造下野国薬師寺別当に任じ、左遷します。

文屋浄三(智努王)は三か月もしない十月に没しました。何かあったのでしょうね。
智努王は、天智天皇の娘・大江皇女が天武天皇との間に産んだ長親王の男子になります。天智のひ孫、天武の孫になる人です。
学問をおさめ教養もあり、称徳(孝謙)天皇や光明子からも信頼されていました。聖武天皇の遺言で、女帝の孝謙(称徳)天皇の後継者に道祖王(ふなどのおほきみ)が立太子されたのを、光明子や藤原氏と共に引きずり降ろしたりしていますから、智努王には発言力があったのです。だから、当然、藤原氏には邪魔でした。

神護景雲四年の十月に、百川の策略で白壁王(光仁天皇)が即位し、改元され「宝亀元年」となったのです。
ですから、宝亀二年は光仁天皇が即位したすぐ後の年で政治的な変わり目ですから、天智天皇の皇統に皇位継承権が移ったこともあり、それまでの天武天皇の皇統とは違ったことを始めたでしょう。
松崎神社が宝亀二年の勧請なら、中央の政治の動きに連動しての事でしょうね。
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更に、延暦十六年(797)の出来事に関わる「木鼓」の話もありました。
光仁天皇の皇子・桓武天皇の御代の出来事です。『坂上田村麿は征夷大将軍となり東征の途次、松崎神社に(旧号坂東稲荷本宮)に参詣、戦勝を祈願して鏡一面及び征矢を献じ木鼓一箇を奉納したと伝えられる。
鏡、征矢はその後兵火によって失ったが、木鼓は焼失をまぬがれ現在社宝として保存されている(略)』
以上の文面から察すれば、坂上田村麿の時代にも、光仁天皇の御代に勧請されたこの神社の立ち位置が高かったということでしょうね。更に言えば、ここは光仁天皇にゆかりのある土地だったということでしょうか。逆に、ゆかりもなく反対勢力に近い土地だったから、政治体制が替わったので危険を感じて、光仁天皇の世を寿ぐために勧請したということでしょうか。中央寄りの神様を。

この地の人は光仁天皇の世を喜んだと周囲には知られた。田村麿もそれを知っていた。
関東には、光仁・桓武・平城の親子孫三代の天皇に関わる神社の伝承があちこちにあるのです。
其の意味を考えてみました。
 今日はここまでにします。

# by tizudesiru | 2020-09-06 21:42 | 380関東の神社は、政変を示しているのか | Trackback

鹿島神宮の近くに藤原鎌足の神社がある

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常陸国には藤原鎌足の生誕地という伝承があるようです。江戸時代にはそのような伝承があったようです。そこで、鹿島市の鎌足神社をたずねてみました。
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この鎌足神社は、常陸国一之宮の鹿島神宮の近くにあります。 
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小さな祠ですが、案内板がありました。
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私は奈良県の飛鳥の小原に、鎌足の産湯の井戸を訪ねたことがあります。そこにも社がありました。次の写真です。産湯の井戸の案内がありました。
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ここは、大伴夫人の墓の前に在ります。大伴夫人とは鎌足の母親である知仙娘(ちせのいらつめ)の事です。鎌足は知仙娘と中臣御食子(みけこ)の間にうまれたとされています。
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明日香村には、このような説明版もありました。いずれにしても中臣鎌足の存在は大きかったということですかね。
 以前、この案内の説明文を読んだ時、私はちょっと不思議に思いました。
万葉集でも、藤原夫人(ふじはらのぶにん)などのように、夫人(ぶにん)という称号は、天皇の後宮の女性の称号ですからね。光明子が嬪(ひん)から夫人(ぶにん)になったのは、聖武天皇が即位した時でした。
それで、明日香村役場に行ったついでに、大伴夫人に「ぶにん」とルビを付けてもいいのですか? この時代は区別がなかったのですか? と聞きました。答えはよく覚えていませんが、問題ないということだったと思います。

常陸国風土記には、鹿島の神の社の周囲には「占部氏」が多く住んでいると書かれています。
占部氏と中臣氏は同族ですから、占部氏が鎌足を常陸国で誕生したとしたのも理解できます。確か、「藤氏家伝書」にも中臣氏が常陸の占部氏と近い関係であることは書かれていたと記憶しています。「家伝」を読む限り、中臣氏は正直に出自についても述べていたと思います。もう、昔読んだもので忘れていますが。

では、今日はこの辺で、失礼します。
 
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# by tizudesiru | 2020-09-05 00:49 | 378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東 | Trackback

上総国の一宮玉前神社の玉砂利と講座の延期のお知らせ

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上総の国の一之宮が玉前神社です。此処には、裸足で塚の周りを歩いて心をリフレッシュすることができる浄めの道があります。
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ご一緒に廻りましょう。でも、お話ししてはなりません。
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わたしも心身を浄めるために歩きました。心身に新たな気が沸き上がるように無心になって歩きました。
この頃の私は、たぶん東国の旅が実りあるものになるようにとか、万葉集にたいする関心が広く世にしみわたりますようにとか、このようなことを心には懐いていたと思いますが。
そうしたら、令和になって急に万葉集への注目度が上がりましたね。黙して歩いたあの時間と玉前神社を思い出しました。上総国は常陸国の南隣の国です。
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三周目を廻ると、気が満ちたのか、清々しい気持ちになりましたね。
あの2019年の台風が来た時、この神社は大丈夫だったのでしょうか。千葉県を大きな災害が襲いました。
本当に、日本中が度重なる自然災害に苦しめられています。
今年も、2020年のコロナ禍の中、台風が続けて接近しています。長崎県が被害を受けたばかりなのに、また台風10号が近づいています。風水害に備えての買い物客で、北部九州の大型店は混雑しています。

こんな状況ですから、久留米の公開講座は9月6日から、9月20日に延期になりました。
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風土記と万葉集から見える常陸の国というテーマで「杵島山と筑波山」を取り上げる予定でした。
が、延期になりました。
こんな状況では、安全が一番ですからね。お知らせが今日になりました。ごめんなさい。
9月20日にお会いできれば幸せです。
 
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# by tizudesiru | 2020-09-04 14:39 | 378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東 | Trackback

童子女の松原の歌垣で松の樹になった二人・常陸国風土記

鹿島神宮の杜の中へ神職の方が歩いて行かれました。三笠山か、要石に向って。
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常陸国の一之宮は、鹿島神宮です。
常陸国風土記の地図で見ると、赤の▲の山が筑波山で、赤の●が香島神宮のあるあたりです。ちなみに青の●は、香取神宮(千葉県)があるあたりです。香島神宮は、香島郡(かしまのこほり)のほぼ中心辺りにありますね。
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常陸国の一番東に香島郡はあります。香島が鹿島となるのは、何時ごろか といえば、和名抄の郡名に鹿島(加之末)と見え、続日本紀によれば、養老七年が初見で、以降、鹿島の文字を用いています。香島は旧用字ということです。元正天皇の養老七年(723)は、翌年の二月に聖武天皇の即位を控えた年で、藤原氏としてはいよいよ藤原系の天皇が誕生するというので、準備万端整えていた時期でしょう。
しかし、この頃はまだ春日大社はできていなかったようです。藤原氏として神祭りはしていたでしょうけれど。社が建てられたのは、聖武天皇崩御の十年後なのです。
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香島の神が平城宮に迎えられて春日大社となったのは、何時でしょうね。平城京の東の御蓋山(みかさやま)の麓に社殿が造られたのは、天平神護二年(766年)の事だと春日大社の社伝に在ります。
そのころの藤原氏は、失った権威と権力の回復に腐心していました。つまり、藤原仲麻呂の乱の後だったのです。766年の二年前、
天平宝字八年(764)九月、称徳天皇と対立していた藤原恵美押勝仲麻呂が謀反を企て、兵を起こしました。
仲麻呂の謀反を知らされた称徳天皇は、すばやく造東大寺長官だった吉備真備を呼び藤原仲麻呂討伐の全権を託しました。その結果、
真備の知略により仲麻呂は琵琶湖河畔に斬られました。彼の息子の真光、訓儒麿、巨勢麿、朝獦もみんな被斬となったのです。彼らは議政官となっていましたから、権力の中枢にいたのですが、父の大師・藤原恵美押勝と共に命を落としたのです。
然し、是で藤原氏がへこむわけはありません。藤原豊成(仲麻呂の兄)が右大臣となり、藤原永手が大納言となり、藤原縄麿が参議に入りました。
一族が謀反を起こしても、藤原氏は潰されません。何とも不思議です。ほかの一族は、連座というかたちで断罪されますが、藤原氏は残ります。
藤原氏への牽制でしょうか、孝謙天皇は僧道鏡を大臣禅師に任じます。
天平神護元年(765)道鏡は太政大臣禅師に任じられ、行政のトップに立てられました。
そんなわけで、藤原氏としては、強力な後ろ盾が必要でした。強くたくましい武人としての神が必要だったでしょう。仏教ではなく神道の氏神です。
そこで、「鹿島の神が都まで鹿に乗って来られた。その神こそ建甕槌命である」となったのでしょうか。766年に、社殿が建てられたのです。

神も仏も権力者が必要としなければ世に浸透しない…とは悲しいですが。
しかし、
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今日のお話は権力者に関わることではありません。香島郡の少女と少年の幼い恋の物語です。それは、悲劇でもありました。常陸国鹿島郡にある歌垣の物語です。
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童子女(うなゐ)の松原は、鹿島の郡の一番南の、下総の国との境にある松原です。
その南に童子女の松原あり。古(いにしへ)年少(としわか)き僮子(うなゐ)あり。俗、神の男・神の乙女といふ。(神に奉仕している男女。うなゐ髪にして髪を垂らしている。) 
男を那珂の寒田の朗子(いらつこ)といい、女を海上の安是(あぜ)の嬢子(いらつめ)となづく。ともに形容端正(かたちきらきら)しく、郷里にかがやけり。名を相聞きて、望念(ねがひ)を同じくし、つつしむ心うせぬ。月を経、日をかさねて、嬥歌(うたがき)の會(つどひ)、俗に宇太我岐(うたがき)といひ、又、加我毗(かがひ)といふに、たまさかに邂逅(あひあ)へり。時に、郎子歌ひけらく
いやぜる 安是の 小松に 木綿(ゆう)垂(し)でて 吾を振り見ゆも 安是小島はも
安是の小松に木綿をかけ垂らし、それを手草に舞いながら、私に向かって振っているのが見える。安是の小島さんは。(いやぜるは地名安是に冠する称辞)
 
嬢子、こたへ歌ひけらく、
潮(うしほ)には 立たむと言へど 汝夫(なせ)の子が 八十島隠り 吾を見さ走り
潮の押し寄せる浜辺にたっていようと言ったけれど、多勢の間に隠れている私を見て、あなたは走り寄って来る。
 
即ち、相語らまくおもひ、人の知らむことを恐りて、遊(うたがき)の場より避け、松の下にかくれて、手携わり、膝をつらね、懐(おもひ)を陳べ、憤(いきどほり)を吐く。すでに古き恋の積もれる疹(やまい)をとき、また、新しき歓びのしきりなる咲(ゑまひ)を起こす。時に、玉の露こぬれ(梢)にやどる時、金(あき)の風をふきなすをりなり。あきらけき桂月(つき)の照らす処は、鳴く鶴がかへる洲なり。さやげる松風の吟(うた)ふ処は、わたる雁がゆく山なり。山はしづかにして巌の泉 奮(ふ)り。夜はさびしくして烟(けぶ)れる霜あらたなり。近き山には、自づから黄葉の林に散る色を見、はるけき海には、ただ蒼波の磯にたぎつ声をきくのみなり。今宵ここに、楽しみこれより楽しきはなし。ひとへに語らひの甘き味(あじはひ)に沈(おぼ)れ、ひたぶるに夜の明けむことを忘る。にはかにして、鶏鳴き、狗(いぬ)吠えて、空暁け日明らかなり。ここに、僮子たち、為むすべを知らず。遂に人の見むことをはじて、松の樹と化成(な)れり。郎子を奈美松といひ、嬢子を古津松といふ。古より名を着けて、今に至るまで改めず。

歌垣に出会った二人が松の樹になった、なんて、ありえません。二人は松に下がって命を絶ったということでしょう。でも、何故でしょう。
当時の歌垣は、男女の出会いの場でもあったのです。恋する二人が互いを認めたのですから、何も死んでしまうことはないのに、二人は死んだのです。なぜ、二人が幼かったから? いえ、二人は世間に認められた美男美女だったのです。その二人が何故? 二人は何を恥じ、何を恐れ、何を思って死んだのでしょう。
そこに、歌垣の意味が、本当の意味がかくれているのではないでしょうか。
 
このことについては、また。
 
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# by tizudesiru | 2020-09-04 00:17 | 378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東 | Trackback

舩塚山古墳は東国2位・常陸国茨城郡の国府の近くにある

「常陸国風土記」の茨城郡。「和名抄」の郡名に茨城(牟波良岐、国府)と見えます。国庁及び郡家は石岡市茨城(ばらき)にありました。
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国庁は高島神社の近くでした。神祭りもかねて、そこにはみんなが集まって、楽しい時を過ごしたそうです。
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さて、この旅は、この辺りの首長墓である舩塚山古墳を訪ねていたのでした。
何とか、舩塚山古墳に辿り着きましたが、畑があって近づけないのです。藪の中を歩く勇気もなく、空き地も見つけられなかったので写真を撮るのもままならず、周りをうろうろするだけでした。鹿島神社の近くの古墳の説明文をカメラに収めただけで、残念ながらそこまで、だったのです。
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帰ってグーグルで調べてみました。
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グーグルで見たら分かりやすく、写真も撮りやすい古墳に見えますね。
古墳に造られた神社は、鹿島神社でした。
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鹿島神社は鹿島神宮から勧請されたのでしょう。
茨城県の一之宮・鹿島神宮のご祭神は、今でこそ「建甕槌命」となっていますが、常陸国風土記には「天の大神」とあるのみで、神様の名は分かりません。
香島郡は「下総国の海上(うなかみ)と、常陸国の那賀」から里を分けて、神のための郡を置いたと、風土記に書かれています。
「別きて神の郡を置きき。其処に有(い)ませる 天の大神の社・坂戸の社・沼尾の社、三所を合わせて、すべて香島の天の大神と稱ふ。因りて郡に名づく。風俗(くにぶり)の説(ことば)に、霰降る香島の国といふ。」
香島郡ができたのは、孝徳天皇の大化五年に、中臣部兎子(うのこ)等が、惣領の高向臣に願い出て許されたからで、鹿島の天の大神というので「香島郡」と名付けたのだから、神の名が「かしま」だった可能性がありましょうか。
八百万の神たちを高天の原に会集(つど)へたまひし時、諸祖神、のりたまひしく、「今、我が御孫の命のしらさむ(統治する)豊葦原の水穂の国」とのりたまひき。高天の原より降り来し大神のみ名を、香島の天の大神と稱ふ。天にては即ち、日の香島の宮と号(なづ)け、地にては即ち、豊香島の宮と名づく。俗(くにひと)いへらく、豊葦原の水穂の国を依さしまつらむと詔りたまへるに、荒ぶる神等、又、岩根・木立・草の片葉も辞語(ことど)ひて、昼は狭蝿(さばへ)なす音声(おとな)ひ、夜は火の光明(かがや)く国なり。此を事向け平定(やは)さむ大御神と、天下り仕えまつりき。
荒ぶる神たちや、岩や草木のことごとくがうるさく昼も夜も騒ぐので、それらを平定するように天より降ってきた。
将に、御孫が統治すべき水穂の国ために、平定すべく先立って高天原から降りてきたという。この神の名は「香島の天の大神」という以外、その名は風土記のどこにも書かれていないのです。さすれば、香島の天の大神、という神名だったのではないでしょうか。
霰降る香島とは、霰降る杵島からみちびかれた言葉ですよね。
霰降る 杵島が岳を さかしみと 草取りかねて 妹が手を取る
あられふる杵島の山は急峻なので、草をつかもうとしたが、思わず愛しい人の手を取ってしまった
上は、肥前の国風土記逸文にある歌です。肥前国(佐賀県)の杵島山は、杵島郡にあり「かしましま」とも呼ばれていたと、将に、風土記に書かれています。今日、杵島山の南は鹿島町で、地名も共通するのです。
さらに、常陸国の行方郡のあたりを平定した建借間(たけかしま)命は、神八井耳命の子孫でした。つまり、神八井耳命は、阿蘇の神です。
常陸国と肥後国と肥前国は、深くつながっているのです。
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常陸国の古墳のなかには、有明海文化圏の影響を受けた彩色装飾古墳が何か所もあります。
ちょっと、気になりますね。こんなに遠く離れているのに。
杵島岳は、阿蘇にもありましたよね。


 


# by tizudesiru | 2020-09-02 13:02 | 378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東 | Trackback

大化改新前に東国に入り込んだのは有明海文化圏の人たちだった。3

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この広い水面は海ではありません。波も静かですね。茨城県の霞が浦のあたりだと思います。車の中からシャッターを切ったので、景色を確認することができませんでした。ひたすら前を見ていますからね。カメラをオンにしていて、橋の上でプッシュしたのですが、なかなか難しいですね。流海(ながれうみ)と呼ばれた霞が浦は、昔は海で塩水だったのです。今は海水が入らないようにしていますから、淡水になりました。この霞ガ浦の最奥に信筑(しづく)川が流れ込んでいます。信筑川は、茨城県石岡市高浜で霞ガ浦に注ぐ恋瀬川の事です。本流は筑波山から更に北の山に発源するのですが、常陸国風土記には筑波山が源だと書いています。
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河口の石岡市高浜には、高浜神社があります。風情のあるお社です。
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舩塚古墳を訪ねている途中でしたが立ち寄りました。恋瀬川の河口地でもありますが、何より1300年前の常陸国の国庁にもっと近い景勝地でした。
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ここに、案内板があり、常陸国風土記「茨城郡」の文が掲載されていました。
「そもそもこの地は、花かおる春、また木の葉の色づき散りしく秋になると、あるいは駕を命じて出向き、また舟を漕ぎ出して遊ぶ。春の浦々には花が千々に咲き乱れ、秋には岸という岸の木の葉色づく。春はさえずる鶯の声を野のほとりで耳にし、秋は宙に舞う鶴の姿を海辺のなぎさで目にする。農夫の若者と海人の娘は、浜辺を追い走って群れつどい、商人と農夫は、小舟に竿さして行きかう。
まして真夏の暑い朝、陽光でむっと暑い夕暮れになると、友を呼びしもべを引き連れて浜陰に並んで腰を下ろし、海上はるかにながめやる。少し波立ち夕風が静かに吹き出すと、厚さを避けて集まった者は、晴れやらぬ心の憂さを風に払い、岡を照らしていた日影が、次第に動いていくにつれ、涼を求める者は、喜びの心を動かすのである。」
の風土記の「茨城郡」の記述には、この後に歌が書かれています。
 「詠へる歌にいはく」
 高浜の 来寄する浪の 沖つ浪 寄すとも寄らじ 子らにし寄らば
 高浜の浜辺に沖の浪が寄せてくる。その寄せるではないが、わたしにいくら心を寄せる他女があっても、その方へ心を寄せて靡いたりはしますまい。私があなたに心を寄せましたら。
 又いはく
 高浜の 下風騒ぐ(したかぜさやぐ) 妹を恋ひ 妻といはばや しことめしつも
 高浜の浜辺の下の方を吹き渡る風が騒ぐ。そのように貴女を恋して私の心が騒ぐ。妻と呼びたいものだ。わたしをシコといって喚んでくれたよ。
なるほど、なかなか情熱的ですね、下吹く風に、下心をかけていますし、シコ=シコオ=醜男 自分を卑下しているのです。強い男という意味もありましょうね。国庁の人も駕(のりもの)ででかけたものでしょう。
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集会には水が必要ですね。高浜神社には湧水がありました 。この水辺に夏越の小屋をかけて、夜を過ごし飲食したのでしょうか。
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高浜神社の近くに目的の舩塚山古墳があるのです。グーグルで見るとすぐなのですが、なかなか行きつけず、地域の方に登り口まで案内していただきました。古墳はみんな丘の上に在りますから、海がすぐ近くまで迫っていたのでしょうね、古代には。


 
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# by tizudesiru | 2020-09-01 15:46 | 378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東 | Trackback

大化改新前に東国に入り込んだのは有明海文化圏の人たちだった。2

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茨城県の大洗磯前神社の鳥居です。この鳥居は太平洋の荒波に毎日洗い浄められています。
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鳥居から岡に向かって道を渡り階段を上ると拝殿が見えます。

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是は、2019年の台風の前の画像です。
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ご祭神は、大己貴命と少彦名命です。二神はこの国を造り終えたので、安心して東国の方へ去っていたのですが、再び民を救おうと戻ってこられたということです。大洗磯前神社のご本殿です。美しく清楚で見事な建物です。近くに名前がよく似た磯前神社があります。ご由緒もそっくりです。
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グーグルで見ると、大洗磯前神社と酒列磯前神社は、同じように海に面した神社です。酒列は「さかつら」と読みます。どちらも大己貴命と少彦名命がご祭神です。ただ、酒列磯前神社の方は、少彦名命の方が主祭神になります。
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ここらあたりは1300年前の常陸国風土記が書かれたころは、那賀郡「なかのこおり」と呼んでいました。
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「常陸国風土記」の那賀の郡に、不思議な物語が残されています。紹介しましょう。
茨城の里。ここより北に高き丘あり。名を晡時臥(くれふし)の山といふ。古老のいへらく、兄と妹と二人ありき。兄の名は努賀毗古(ぬかびこ)、妹の名は努賀毗咩(ぬかびめ)といふ。時に、妹、室にありしに、人あり、名を知らず、常にきて求婚(よば)ひ、夜来たりて昼かヘリぬ。遂に夫婦となりて、一夜に懐妊(はら)めり。産むべき月になりて、終に小さき蛇をうめり。明ければ言とはぬがごとく、闇(く)るれば母と語る。ここに、母と伯(をぢ)驚きあやしみ、心に神の子ならんと思ひ、即ち、清き杯に盛りて、壇(うてな)を設けて置けり。
一夜のほどに、すでに杯の中に満ちぬ。また、瓮(ひらか)をかへて置けば、また、瓮、の内に満ちぬ。かかること三度四度して、器を用ゐあへず。母、子に告げていへらく、「汝(いまし)が器ものを量るに、おのずから神の子なることを知りぬ。我が属(うから・一族)勢いは、養長すべからず。父の在す所に行きね。此処にあるべからず」といへり。時に、子哀しみ泣き、面を拭ひて答へけらく、「慎みて母の命を承りぬ。敢へて 辞(いな)ぶるところなし。然れども、一身の独りゆきて、人の共にゆくものなし。願はくは、あわれみて一人の小子(わらは)を副へたまへ」といへり。母のいへらく「我が家にあるところは、母と伯父とのみなり。是もまた、汝が明らかに知るところなり。人の相従ふべきもの無けむ」ここに、子恨みを含みて、物いはず。決別(わか)るる時に臨みて、怒恨(いかり)に勝へず、伯父を震殺して天に昇らむとする時に、母驚きて、盆(ひらか)を取りて投げあてければ、子え昇らず。因りて、この峯に留まりき。盛し瓮と甕(みか)とは、今も片岡の村に在り。其の子孫(このすゑ)、社を立てて祭をいたし、相継ぎて絶えず。下ははぶく。

夜な夜な通ってくる男性の身元が分からない話がお話の中にはたくさんありますが、これも、その中の一つでしょうか。それにしても、相手は、何処の誰だったのでしょう。父の所へ行けと言われた子供は、家を出る以外に何もできなかったようですが、何処へ行くつもりだったのでしょうか。
母も伯父も、この父親が誰なのか確かめてはいません。ただ、天に昇ろうとしたようですが、「天」とは、まさか「空の上」ではありますまい。
こんな物語が生まれたのは、それなりの支配の構造があったから、それを反映しての事でしょうが、不思議ですね。
この地方の伝承の神が支配者だったのなら、子の父は「大己貴命」だったということになるのでしょうか。それとも、大己貴命を祀る首長がいるということでしょうか。

常陸国風土記は、古代を考える時たくさんのヒントを与えてくれますね。


# by tizudesiru | 2020-09-01 00:29 | 378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東 | Trackback

大化改新前に東国に入り込んだのは有明海文化圏の人たちだった。

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 大きな舟形石棺です。凝灰岩で作られています。縄掛突起も付いていています。この舟形石棺が置かれているのは、群馬県のお寺の敷地内です。
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敷地内の岡が古墳なのです。写真の案内板の上に見える倉庫状の建物に石棺が置かれています。
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上野国保渡田薬師塚古墳出土品(昭和十四年・国指定重要文化財)
この古墳は前方後円墳でかなり変形を受けているが、発掘調査の結果では三段に築かれ、斜面には石垣をふき平坦面には円筒埴輪を巡らすことが判明した。全長105m、高さ6mで、周囲は二重に堀を巡らし、堀を含めた全長は約165mを測る。保渡田古墳群の中で最後に造られ、五世紀末~六世紀初頭の年代が推定される。後円部には凝灰岩をくりぬいた舟形石棺があり、出土品は江戸時代にこの中から発見された伝承がある。出土品は、小型の国産鏡、装身具の各種玉類・儀式の際に馬を飾る馬具類があり、中でも馬具は二例を除き鋳造品で、国内に類例のない特殊なものと言える。
   (平成十五年三月三十日・群馬町教育委員会)
舟形石棺ですから、熊本県の菊池川流域の舟形石棺を思いだします。
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こちらも舟形石棺です。群馬県藤岡市の七輿山古墳の近くのお寺に置かれています。
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宗永寺石棺
この石棺は凝灰岩を刳り抜いて作った舟形石棺の身部である。長さ二‣三五メートル幅八六~九一センチ高さ六〇センチの大きさで、一方がやや幅広く作られている。身部の長側面には楕円形の縄掛突起が二個ずつ付いているが、先方が欠けている。蓋も凝灰岩で、天井部を深く刳り抜いて作られていて縄掛突起も付いているが、一部しか残っていない。これは、昭和八年頃には本寺山門の西南方焼く三五メートルの所に存在した天神山古墳の墳頂にあったが、住職や地元古老の伝えによれば、前方後円墳である宗永寺裏東塚古墳に存在したもののようである。製作年代は六世紀前半とみられ、このような舟形石棺は県内では十例余りと極めて少なく、五~六世紀代の豪族の墳墓の主体部と考えられている。
「石棺棟寄付者 多胡氏」の名がある。あの有名な上野三碑のひとつ、「多胡碑」を思い出した。 
まさか、あの多胡碑とゆかりの方では…まさか、だが。そうであれば、七輿山古墳が宗永寺から見えている。
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未発掘の七輿山古墳に、羊大夫の伝承があり、それが多胡碑の金石文とかかわって来るのですが。
以前、七輿山古墳の紹介をしたと思うのですが。その時、多胡氏が宗永寺石棺の棟を寄進されていたことには気が付きませんでした。
いやあ、なにか因縁を感じました。
そのお話は、また今度。

 
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# by tizudesiru | 2020-08-22 00:53 | 378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東 | Trackback

防人の歌が、万葉集・巻二十に収載されたのはなぜか

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大化改新前の東国は、吾姫(吾妻)の国と呼ばれていました。それが、大化改新後(645年)武蔵国、上野国、下総国、常陸国などと呼ばれるようになったのです。
大きく八国に分けられたのが、大化改新後なのです。
そのことに触れたお話は、九月に久留米ですることにしています。

さて、歴史カフェの事ですが、この度のコロナ禍のみぎり、この夏はなかなか集まって話をすることはできませんでした。
ですから、今年は五月から「歴史カフェ・阿蘇」は休止中です。
それでも、八月の後半にコロナ対策をとって、少人数で「歴史カフェ」をしようということになりました。
 
お客様は、十人以下になります。 
 時間は8月26日午後一時半~四時まで、です。
場所は、いつもの熊本県西原村のそばや「平田庵」の隣です。
平田庵は水曜日が、休みなので、その駐車場に車が停められるのです。
 
今回の話は「万葉集・巻二十の防人の歌」についてです。
防人の歌は、高校社会科などでも学習します。古文でも習ったでしょうか。
4346 父母が 頭掻き撫で 幸くあれて 言ひし言葉(けとば)せ 忘れかねつる
4373 今日よりは かへり見なくて 大君の 醜(しこ)の御楯と 出で立つ我れは
4401 韓衣(からころむ) 裾に取り付き 泣く子らを 置きてぞ来ぬや 母(おも)なしにして
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だんだん思い出しますよね。むかし学習させられた防人の歌です。
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そもそも、防人とは何だったのでしょう。その防人の歌を、大伴家持は何のために集めたのでしょう。
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防人の歌からは、学校の歴史では習わない様々な歴史上の事実が読み取れるのです。
そして、その時代を生きた人たちの喜びや悲しみがしのばれます。
もちろん、大伴家持は防人の歌に感動したのです。
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その後、彼がどんな行動をしたのか、お話ししたいと思います。
猛暑が襲っています。
被災地の皆さま、どうぞお体に気を付けられてお過ごしください。


# by tizudesiru | 2020-08-19 16:54 | 379万葉集巻二十は鎮魂と告発の歌巻 | Trackback

常陸の国に杵島曲を持ち込んだのは、何処の誰だったのか

前年度に、久留米でのお話をいただきました。郷土と結びついたお話ということで、肥前国風土記逸文に取り上げられている「杵島曲・きしまぶり」についてお話しさせていただくことにしました。「杵島山と筑波山・万葉集と風土記から見える常陸の国」という題のお話になります。
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5月になって、阿蘇に杵島岳の写真を撮りに行きました。なぜなら、
あられふる 杵島が岳をさかしみと 草取りかねて 妹が手を取る
「杵島曲」と呼ばれるこの歌にある「杵島岳」をグーグルアースで検索すると、阿蘇の杵島岳しか出てこないからです。
肥前国風土記(佐賀県の事を報告した風土記)に書かれているのは、杵島山です。杵島岳とどこが違うのか見ておきたいですからね。
杵島岳は、肥後大津の瀬田から見える山です。中岳は噴煙を上げていますが、その左の山です。阿蘇から流れ出す白川(断層地形に沿って流れている)の奥に、杵島岳が見えています。
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緑の美しい山ですが、もちろん火山です。登れば阿蘇の全景が見渡せます。右隣(杵島岳の南)には、阿蘇中岳の河口が見えます。今回は上りませんでしたが。
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さて、こんな風景と地形の中にあるのが、杵島岳です。むかし、ここで歌垣をしたとしたら、ちょっと納得ですね。
この阿蘇山の神に祈りをささげるには、適当でいい場所ですから。春と秋に二度登って、みんなで飲食して楽しむには。然し、ここには「歌垣」の伝承はありません。
しかしながら、阿蘇と常陸の国には微妙な接点があるのです。
常陸国で建借間命(たけかしまみこと)が国栖を平らげようとするのですが、彼らは逃げかえり、むろを固く閉じてしまいました。そこで、建借間命は謀をめぐらせて、兵を山に隠し、武器を美しく飾り、絹張の笠をひらひらさせ、美しい旗をなびかせ、琴や笛を使い、杵島の唱曲(うたぶり)
を歌い、七日七夜遊び楽しんでみせたのです。盛んな音楽を聴いた男も女もことごとく出てきて、浜いっぱいに広がって大喜びしていたのですが、その人たちを、建借間命は一網打尽にとらえ、もろともに焼き殺したという…話が、行方郡の段にあるのです。
この建借間命は、神武天皇の皇子で、神八井耳命の子孫だというのです。
神八井命は、阿蘇の神でしたね。そして、杵島曲を使っておびき出したのです。七日も音楽を使って宴会をしたのですから、多くの曲や歌を知っていたということでしょう。常陸の国の国栖達にはそれが珍しく面白かったのです。




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風土記の話は、侵略や侵攻、征服話が続きますね。
それでも、私たちの歴史がどんなものだったか、知りたいですね。
五月の阿蘇はミヤマキリシマが咲き乱れていました。


# by tizudesiru | 2020-08-11 01:41 | 378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東 | Trackback

天平二年十二月、大伴旅人は水城にて別れの儀式に臨んだ・家持十三歳

今日は太宰府市水城の紹介です。桜の頃、水城の土塁の上から万葉歌碑を撮りました。
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もう七月。桜もすっかり青々とした葉桜になりました。
水城はまっすぐ背振に向かっています。土塁に登ると、それがよく分かります。
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ここは交通の要衝です。国道も県道も高速道路もJRの線路も私鉄の線路もみんなここを通ています。古代の人もここを通りました。
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此処を遮断すれば、福岡平野と筑紫平野を遮断できると古代の人は考えたのです。それで水城は造られました。土塁に登ると
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今年の桜は何となく寂しいですね。
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土手を下りてみましょう。
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ここには大宰府に出入りするための門がありました。天平二年十二月、ここで旅人は多くの官人に見送られて、大納言として都へ帰っていきました。大納言だった多治比池守が九月に没したので、十月に大伴旅人が大納言に任命されて、十二月に帰京したのです。
この時の天平二年の議政官は、知太政官事に舎人親王、大納言に藤原武智麻呂、中納言に安倍広庭、参議に藤原房前という顔ぶれでした。すると、トップスリーとして旅人は都に帰ることになったのですね。そのことは、送るものも承知していました。
山上憶良が「春になったら貴方のご温情で都に呼び戻してください」などと、本音も漏らしたのも理解できますね。
882 吾が主の 御魂(みたま)たまひて 春さらば 奈良の都に 召(め)さげたまはね  (山上憶良)
大宰府で死去した大伴女郎を偲びながら、やっと都へ帰った旅人は心身共に疲れていたのでしょうか。死期を悟っていたのでしょう。
親しくしていた高安王に真新しい盛装用の着物を贈ります。形見分けだったようです。ほかの親族にも形見分けをしたでしょうね。
   三年辛未に、大納言大伴卿、寧楽(なら)の家に在りて、故郷を思う歌二首
969 しましくも 行きて見てしか 神なびの 淵は浅せにて 瀬にかなるらむ (大伴旅人)
970 さすすみの 来栖(くるす)の小野の 萩の花 ちらむ時にし 行きて手向けむ  (大伴旅人)
・ほんのすこしの間だけでも、行って見たいものだ。故郷の神なび山に沿って流れる飛鳥川は、淵が浅くなって瀬になっているのではないだろうか。
・故郷の来栖の小野の萩の花が散る頃には、そのころには必ず行って花を手向けて神祭りをしたいものだ。
旅人は大伴大連金村の家系であることに誇りと責任を感じていた。名を汚してはならない、名を絶やさせてはならない、祖先を粗末にしてはならないと繰り返し子どもたちにも伝えていました。
萩の花が咲いて散ることなら秋ですね。旅人は、天平三年秋七月二十五日に薨去しました。上記の歌を詠んでやがて没したのです。大宰府から戻って、半年後のことでした。
旅人には、子どもたちにも様々に言い残すことがあったでしょう。そして、最後まで歌が詠めるほど、脳はしっかりしていたのですね。
旅人の絶唱となった「萩の花散らむ時にし」の歌は、家持の心に深く入り込みます。家持と弟の書持は、父の残した歌を胸にこれから生きて行くのです。



 
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# by tizudesiru | 2020-07-12 00:52 | 375大伴家持、万葉集最終歌への道 | Trackback

天平二年十一月・大伴旅人は香椎廟に参詣した

天平二年九月に、大納言多治比池守が薨去しました。この十月に、大伴旅人は大納言に進み都に呼び戻されることになりました。旅人は十一月に香椎廟を訪ねました。
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香椎宮は、この頃には神社ではなく「廟」とよばれ、死者の霊を祭る所。御霊矢(おたまや)墓所という扱いでした。
『冬の十一月に、大宰の官人等、香椎の廟を拝みまつることを吃(おは)りて、退(まか)り帰る時に、馬を香椎の浦に駐めて、おのもおのも懐(おもひ)を述べて作る歌』が万葉集巻六に在ります。
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    帥大伴卿が歌一首
937 いざ児等(子供) 香椎の潟に 白妙の 袖さえ濡れて 朝菜摘みてむ  
 さあさ者ども、香椎潟で白妙の袖も濡らして朝菜を摘もうではないか。都へ戻ることになったから、こうして朝菜を摘むことも、この先もないであろうから。
    大弐小野老朝臣が歌一首
938 時津風 吹くべくなりぬ 香椎潟 潮干のうちに 玉藻刈りてな
 ちょうど時津風が吹いて来そうな気配になりました。香椎潟の潮が引いている間に、玉藻を刈りましょう。何事も時が大事でございます。都にお戻りになっても、良い時津風が吹きますように、お祈りいたします。   
   豊前守宇努首男人が歌一首
939 往き還り 常に我が見し 香椎潟 明日ゆ後には 見むよしもなし 
 豊前から大宰府への行き帰りにいつも見ていた香椎の潟を、明日よりは見る機会もなくなるのでしょうか。帥殿とお別れするのは真に寂しく思われてなりません。
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福岡市東区の香椎宮の一の鳥居の西の高地に、上の三首の万葉歌碑があります。
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上の写真は今年写したものです。この歌碑は香椎宮の境内には在りません。参道を香椎駅の方に歩いていくと西側(左手)の坂の上に在ります。
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香椎宮に参拝して、綾杉に手を合わせて、帰りに歌碑にも立ち寄ってくださいね。
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旅人の時代にも綾杉はあったのでしょうか。一の鳥居のあたりまで、昔は海が迫っていたようです。今はすっかり埋め立てがすすみ、潮の香りも遠くなっています。松本清張の「点と線」の時代は、まだ海が近かったのです。
ひさしぶりにブログを更新しました。



# by tizudesiru | 2020-06-28 21:21 | 375大伴家持、万葉集最終歌への道 | Trackback

天平二年正月十三日、大伴旅人は帥宅に梅花の歌の宴を設けた・家持十三歳

天平二年正月の梅花を詠んだ宴については、今までにも取り上げてきました。写真は大宰府の昨年の夏の坂本八幡宮の写真です。平日でも参拝者が多いので夕暮れ近くに行ったのですが、それでも参拝者がありました。
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梅歌の宴は、大宰帥の旅人の自宅(帥老宅)で催された宴でした。帥宅ですから「老」は敬称の類になるので『梅歌丗二首』の序文は旅人の作ではないという説もあるそうですが(つまり自分に敬称を用いないだろうということで)、今までも旅人の作だと思って書き進めてきました。

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旅人の梅花の歌は、太宰府天満宮横から国立博物館への移動するとき見つかります。エスカレーターの入り口にあるのです。
822 わが苑に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも (大伴旅人)
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同じ敷地内に、筑前介佐氏子首(ちくしみちのくちのすけ さじのこおびと)の歌碑もあります。
830 よろずよに 年は来経(きふ)とも 梅の花 たゆることなく 咲き渡るべし
このよき年が万代に渡って続き経てゆくだろう。同じように梅の花よ、ずっと何年も咲き続いて欲しい。
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梅花歌の宴が開かれた日が雨でなくてよかったですね。正月十三日に大勢の客を呼ぶにはそれなりの準備もありましょうから、雨だったらすべての計画がダメになりますからね。
そこで、読まれたのが梅花歌丗二首でした。
大伴旅人はこんな宴をどんな意図で、何のために計画したのでしょうね。
この宴は、息子の家持にも弟の書持にも大変意味のある催しでした。二人はいつまでも梅花歌を語り合いました。
この時の家持は十二歳ほどで、弟は十歳以下でしょうか。幼い二人が宴に参加したはずはありませんが、語り継がれるべき中身があったのですね。

私たちにもこの「梅花歌丗二首」は大事です。「令和」という元号のもとになった序文を伴うのですから。


# by tizudesiru | 2020-04-23 12:00 | 375大伴家持、万葉集最終歌への道 | Trackback

長屋王家の悲報を旅人は毅然として受け取った・家持十二歳

神亀六年(729)は、八月に天平元年となりました。長屋王の変が二月に起こり、半年後に改元となったのです。
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元号がかわる時、全国の国庁に知らせがいきます。八月から変わるのですから朝廷で決定されたのはそれ以前です。理由は神亀六年二月に長屋王事件が起きたからでした。ですから、半年後に改元したのです。
かだましき人物を誅殺して、天下は平らかになったという意味でしょうか。
おぞましい元号なのですね、天平とは。しかし、天下が平和であることは万民の願いですから、そのことを強調した聖武天皇の決意を反映しているのでしょう。
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改元されたのは秋八月、今なら九月か、十月のはじめの頃でしょうか。写真は二年ほど前の九月の終わりの大宰府政庁跡です。
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改元に先立つ長屋王の大事件についても大宰府には知らせが届いていたはずです。左大臣の賜死ですから、官職の任命にも交代がありました。
太宰府は公的な機関ですから、中央の大事件は駅馬を使って即知らされたはずです。
それらは正式な文書で知らされた。使者は大宰府政庁の正殿で勅を伝えた。事件の結果と新たな議政官の任命は、必ず正殿で伝えられたはずです。それは、数多の官人が居並ぶ中で読み上げられた。その時、大伴旅人がどんな表情で何と言ったのか、それはわかりません。しかし、多くの官人と同じく居ずまいを正し盛装して深く頭を下げたのです。
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長屋王の変は二月に起きました。立春から約ひと月半で起きた事件、事件は梅の花散る時期だったことでしょう。
その王家の受難の知らせが大宰府にももたらされたとき、大宰府の官人たちはどう思ったでしょうね。
大伴旅人は長屋王と親しかったといわれ、王家の断絶に関する異議の申したてや不穏な動きをさせないために前もって大宰府に下向させられていたというのが専らの説です。そうだと思います。そうであれば、誰に何も悟られないようにいっそう無表情で文書を受け取ったことでしょう。
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旅人は事件の顛末を予知できていたというか、前もって事を知っていたというか、大宰府に下向した時から予測できていたと思うのです。だからこそ、みじんも取り乱してはならなかった。
しかし
長屋王家の受難に対して、大伴旅人が悲傷しなかったはずはありません。彼は帥の宅で怒りと悲しみの涙を流したのです。


では、また。


# by tizudesiru | 2020-04-22 10:08 | 375大伴家持、万葉集最終歌への道 | Trackback

大伴卿、基山にて悲しみの霍公鳥を読む・家持十一歳

神亀五年(728)年、大伴旅人は正妻の大伴女郎を亡くしました。
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旅人は三位以上の卿でありましたから、妻の死去に対して朝廷から勅使がたてられました。
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勅使が喪を弔った後、大宰府の官人や諸卿もろもろが基山に勅使を案内して饗応したようです。儀式が終った後に、勅使を基肄城(基山)に案内し眺望をたのしんだのです。そこには大宰府を守る古代山城(朝鮮式山城)がありました。
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基肄城・基山には土塁が築かれ、瓦ふきの城門もありました。
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・確かに、筑後も筑前も肥前も眺めることができます。
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勅使が歌を詠んでいます。旅人も答えました。
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旅人は基山で何を思ったでしょう。
写真は2016年ごろのものですから、少し古いです。ご容赦。

基肄城

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# by tizudesiru | 2020-04-20 09:10 | 375大伴家持、万葉集最終歌への道 | Trackback

神亀五年、大宰帥大伴旅人は妻と弟を失った・家持十一歳

神亀五年(728)都から大宰府の旅人のもとへ便りが届きました。
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(太宰府政庁跡)

大伴旅人は都の便りを読んで驚愕しました。
都からの便りには、つい数か月前に別れてきた弟の大伴宿奈麿の逝去が書かれていたのです。怒りと絶望と悲しみが一度に旅人を襲いました。
あれほど、後を頼むと念を押して別れてきた弟だったのに、なんということでしょう。旅人はこの春に、正妻の大伴女郎を亡くしたばかりでした。長旅をさせたことを後悔していた旅人にダメ押しのように弟の死が伝えられたのです。
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弟の死に、旅人は怒りました。諦めとかではなく、ただあまりの無常と無念に怒りました。
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大宰府は深い闇と雨に閉ざされたようでした。
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そんな旅人のところへ、都から妹の大伴坂上郎女が駆けつけました。何事でしょうか。
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坂上郎女は藤原氏の事も十分に知っていました。

では、また明日。




# by tizudesiru | 2020-04-16 21:22 | 375大伴家持、万葉集最終歌への道 | Trackback

名神大社・箱崎八幡宮のクスと桜と

福岡市の箱崎八幡宮は十世紀の延喜式の名神大社です。創建がはっきりしている神社です。穂波の大分(だいぶ)の大分八幡宮から遷宮されました。国家の平安を祈る神社として、菅原道真の祟りをおそれた醍醐天皇の御代に遷宮されたのです。当然、祟りを抑えるためでしょう。
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太宰府に赴任した役人や国司は、927年までは大分宮(だいぶぐう)に奉幣していました。それは、国司の仕事でもありました。国司の奉幣はいつから始まったのでしょうね。山上憶良も筑前守となったので、大分宮に奉幣したのでしょう。ですから、憶良や旅人の時代には箱崎八幡宮はありません。
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地図を見ると、大分宮に奉幣するには、宝満山と山大根地山の間を通っていかなければなりません。峠越えは大変でした。
そこで、海の近くの箱崎宮に遷宮されたというのです。
では、筥崎宮の紹介です。
参道には人もまばらで犬を連れた散歩の人が人ゆっくり歩いていました。
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クスが陽に輝いていました。
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国道三号線に面して常夜灯があります。つい60年ほど前は海岸だったのです。
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10年ほど前の放生会の写真で、大鳥居が映っています。
ここには最近まで大鳥居がありました。しかし、大きすぎるというので撤去されました…
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花庭園の桜は一番に咲くので盛りを過ぎていました。
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以下は、最近の写真です。
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本殿にお参りしましょう。
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筥松です。応神天皇伝承の筥松です。
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奉安殿があり、ここには亀山上皇の木造が祭られています。
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元寇のみぎり、上皇は神に祈られました。
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大クスは樹齢八百年だそうです。
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謡曲「唐船」のゆかりの石塔もあります。
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帰りは海に向かって一礼しましょうか。
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この参道の直線状に、夏至を挟んで年に二回太陽が沈みます。よく晴れていれば圧巻です。ちなみに、神社の裏の参道は、冬至の日の出のラインだそうです。山の上から日が出るのですが、冬至には裏の参道から朝日を拝むことができるそうです。
では、また明日。



# by tizudesiru | 2020-04-15 16:30 | 376神社一人旅はいかがですか | Trackback

神亀四年、光明子に皇子が誕生し、旅人は大宰帥に・家持十歳

神亀三年(726)に山上憶良は筑前守として、大宰府に旅人を待っていました。神亀四年早々にも、旅人も大宰府に遣られる予定だったでしょう。しかし、光明子が懐妊したのです。この喜びの時に、血なまぐさい事件は禁物です。
神亀四年(727)年は、光明子に男子が生まれた慶びの年となりました。安倍内親王を出産して十年、待ちに待った待ち慶事でした。
幼い親王は、三か月で立太子されました。三か月での立太子は、史上初めての事でした。
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都は一挙にお祝いモードとなりました。光明子はお褒めの言葉とともに多大なご褒美を与えられました。ひと安心となったので、大伴旅人に大宰帥が任じられました。
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神亀四年の暮れ、または神亀五年そうそうに、大伴旅人は都を離れました。
その時、旅人は何を思っていたでしょう。
都の状況は決して平安とは言えません。左大臣として脚光を浴び続ける長屋王に対して藤原氏は不快感をあらわにしていたのです。
藤原氏は天武天皇の皇子たちに近づき親しくしていました。知太政官事の舎人(とねり)親王、そして天武天皇の末子の新田部(にいたべ)親王です。特に、新田部親王は藤原麿の異父兄弟でした。新田部親王の母は藤原夫人(ふじはらのぶにん)で天武天皇の夫人でしたが、藤原不比等との間に男子(藤原麿)をもうけていました。藤原麿が新田部親王に親しくするのは当然でした。麿は光明子の兄でもあるのです。
この状況で都を離れるのは、旅人としても気がかりだったでしょう。
妹の大伴坂上郎女とその夫の大伴宿奈麿によくよく後を頼んで都を離れたことでしょう。決して、のんびり都を発ったのではないのです。もちろん、子供たちを連れて出発しました。残しておいては危険ですから。
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遠い九州への旅は、都人には過酷だったでしょう。旅人の正妻の大伴女郎は病に倒れてしまいました。
古代の旅ですから…か弱い女性には過酷だったのです。

では、また明日。




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# by tizudesiru | 2020-04-14 20:00 | 375大伴家持、万葉集最終歌への道 | Trackback

豊前国分寺跡のクスの若葉

都から九州に入るのに、何処を通るでしょうか。関門海峡を越えて鐘の岬をまわって博多湾から大宰府に入るか、豊前に上陸して陸路を太宰府に入るか、ですね。地図を見ると豊前に上陸するのが便利なようにも思えます。この道筋には、古代寺院も、国分寺も、豊前国府も、首長の古墳群も、そろっています。神籠石もあるので、古代から重要な交通路だったことがわかります。
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では、豊前の国分寺を紹介しましょう。

福岡県京都郡みやこ町豊津国分280-1 に在ります。
豊前国分寺の春、クスの若葉が美しい時です。
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九州の福岡市の立花山がクスの北限です。福岡市より南にはクスが山野のどこにも在ります。
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豊前の国分寺址を歩きましょう。ここは京都郡、「みやこぐん」と読みます。
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礎石の並びはバラバラですから、古代の面影はありません。
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この三重塔は明治29年に建てられたそうです。
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ここは、今も国分寺。名称に古代の面影を残しています。
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豊前の人々は国分寺が懐かしく、心のよりどころとしたかったのでしょう。
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聖武天皇の勅により国分寺が建てられましたが、律令政治の崩壊で廃れていきました。それでも何とか保ち続けていたのに、天正年間に大友氏の兵火に焼かれたのです。大伴宗麟はキリスト教徒になったので、寺社に未練はなく寺社を燃やしたのです。
残念ですが。
地元の人は復興を願ったのでしょうね。この赤い三重塔は明治に建てられ、昭和六十二年に修復工事を行ったそうです。

これは過去の話ですが、今にも通じるかもしれません。歴史が軽んじられ、寺社がさびれています。米が忘れられ、パンがもてはやされる今日です。
もちろん、パンもおにぎりもおいしいですが。  



# by tizudesiru | 2020-04-13 20:30 | 376神社一人旅はいかがですか | Trackback

「ぶらタモリ」で古代史・法隆寺の謎を解かないままでした

4月の「ぶらタモリ」で「法隆寺」をたずねるので楽しみにしていました。若草伽藍の紹介があって面白かったのですが、探求や追及の過程でむしろ真実が見えなくなったかなと思いました。ちょっと、残念でした。
まず、誰でも社会科で習った法隆寺の釈迦三尊像の拝観から始まりました。アルカイックスマイルとか、今でも学校で教えているのでしょうか。私たちは教わりましたが、この釈迦三尊像は、国宝です。
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そして、仏像の光背に金石文があるのです。
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この国宝の光背の銘文には歴史的な意義があります。そして、この銘文には、たくさんの謎があるのです。
法興元丗一年・西暦621年には、まだ日本国には元号がないのですが、銘文には彫られています。
この銘文の「法興元丗一年」、どう読むのでしょう? 法興元年から31年目ということでしょうか。
621年のこの年、「鬼前太后」が崩じた。「鬼前」と読むと、よくわかりませんね。仏教では亡くなった人を「鬼籍に入った」とか言いますね。すると、鬼籍に入った前の太后(おおきさき)ということですか、天皇のお母さんの事ですね。その翌年正月廿二日、上宮法王が聖体不予(危篤状態)となってしまった。
次に、「上宮法王」という称号の問題です。
「上宮法王」が病に倒れて重篤となったとありますが、この方が聖徳太子だというのです。誰もが知っているように、聖徳太子は「太子」であって天皇ではありません。だから法王にもなっていないはずですが、銘文には「上宮法王」と書かれています。亡くなった後に名誉の称号が与えられたというのでしょうか。そんなことをすれば、息子の山背王に皇位継承権を認めたことになりましょう。あり得ません。

「釈像の尺寸王身なるをつくるべし」法王と等身の釈迦像を作ったのですから、手本となる釈迦像も十分にあり、人々がそれを知っていたということです。すると、釈迦三尊のように三体の仏像がそろった形式の寺や仏像がすでにそこには在り、世間に知られていたということです。斑鳩にそんな文化がすでにあった? 仏教文化圏でなければ、「尺寸王身の仏像を作ろう」など思いつかないでしょう。

ここで、ぶらタモリで問題にしたのは、「太子は建てた寺のご本尊を自分の尺寸の仏にしたのか?」ということでした。そんな不遜なことはないだろう。さすれば、寺を建て替えたときに、ご本尊が替わったのだろうという展開です。そこで、元の寺は、何処にあったのか?
当然の疑問です。そこで、「太子が建てたもともとの寺があって焼失し、再建されたとき太子の尺寸王身の仏像が本尊となった」という結論が用意されていました。
すると、天智天皇の御代にあった一宇も残さず焼失したという法隆寺、その寺の造仏の技術を瞬く間に復活させたということでしょうか。金銅仏のみならず、木造仏も、荘厳する品々も再生再現できたのでしょうか。鞍作止利をはじめとした仏師が、アッという間に集まって、さっさと再現したと、いうことですか?
あり得ません。
しかも、その技術はその後に継承されていないのです。飛鳥時代の後の仏像は、飛鳥仏とは違う顔立ち・様式です。しかも、木造の飛鳥仏の素材は、そろって全てクスです。瞬く間に九州産のクスを運ばせて造立したというのでしょうか。あり得ません。
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そもそも、法隆寺の釈迦三尊像銘文には、622年に造立の発願
がされたと書かれていました。
正史では、法隆寺が燃えたのは天智天皇の670年とされています。燃えた後に、622年の法王の病気平癒を願った仏像を作ったとは考えられません。燃える45年以上前に、尺寸王身の仏像はできていたのです。つまり、燃えたから釈迦三尊像を造立してご本尊にしたのではなく、622年に発願し造立されていた仏像を、法隆寺の西院伽藍に運んだということになります。どこから持ち込まれたのでしょう? 誰がそれを指示して、誰が仕事したのでしょう。天智天皇の御代であれは、命令は天智帝です。
 しかし、ぶらタモリではここに触れていませんでした。それどころか、若草伽藍の塔礎石を紹介して、燃えた法隆寺が若草伽藍で、再建法隆寺が今の西院伽藍だという急展開でした。釈迦三尊像の問題はパスされました。
若草伽藍が元の法隆寺だったという、それは全て焼失したという。
ちなみに、NHKの昔の番組で紹介されたのですが、西院伽藍の金堂の木材から法隆寺金堂建立の時期は670年より前の668年ころでした、記憶が正しければ。
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その時のその内容は、若草伽藍からの仏像移動説でした。
670年に焼ける前に、仏像をほとんど西院伽藍に移していた。だから飛鳥仏は残されたという内容でした。正史では、一宇も残さず燃えたことになっています。
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そして
若草伽藍の発掘は、かつて法隆寺の謎のひとつを解いていました。西院伽藍には焼失の跡がなかったのですが、若草伽藍は激しい火災に遭遇した跡がありました。そこで、正史の法隆寺炎上は若草伽藍の炎上であり、正史は正しいと落着したのでした。その若草伽藍の跡が、塔礎石のある場所だというのです。ここは通常は公開されていませんが。

次の謎が、飛鳥時代の寺をなぜ飛鳥から遠く離れた斑鳩に造ったのか、でした。
そこで、大阪平野と奈良盆地の境目の山の上に案内されました。なぜなら、そこから大阪側も奈良側も見えるからです。そして、大和川を遡る外国の使者に法隆寺を見せたのだという展開でした。大阪の巨大古墳の立地の説明と同じですね。答えが外国の人に見せるために、ですか。
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ここでも「ぶらタモリ」は、奇妙な答えを出していました。大和川を上ってくる外国の使者に立派な寺院を見せて国力や文化力をアピールするためだという答えですが、それで、倭国にどんな利益がありますか? それに、隋の使者が来ると前もってわかっていたというのですか? 隋の裴世清が倭国に来たのは、正史では607年ごろでしたかね。600年の遣隋使は、アメノタリシホコが隋に出した使者なのです。そこで仏教を学ぶための学僧を送っています。
つまり、
法隆寺ができる前に隋の使者が来たのではありませんか? なんだかつじつまが合いませんね。
 
飛鳥仏をご本尊とした法隆寺が、飛鳥ではなく斑鳩にあるのは何故か? その本当の答えは何でしょう。それは、川が物流の主要機関だったからです。
他所から仏像や資材を運ぶとしたら、飛鳥は遠すぎるのです。川も細く浅く狭いので、船底が川底に当たり通行できません。運ぼうにも運べなかった、のです。
つまり、技術も様式も素材も異なる仏教文化は、他所(九州)のものだったのです。それらが、近畿に運ばれたのは大きな国難と政変があったからです。
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法隆寺のように塔と金堂が東西に並ぶ寺院の伽藍は、なぜ機内には少ないのでしょう。それは、初めて仏教を伝えたときの、国と文化が違うからでしょう。
飛鳥の河原寺は東西に塔と金堂が並びます。そこは、九州に征西に出かけた斉明天皇の宮跡であり、崩御後に殯(もがり)をした場所です。その後に寺にしたのです。当然、九州のどこかの寺の様式に倣ったでしょう。九州の古代寺は、ほとんど塔と金堂が東西に並びます。
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つまり、法隆寺の塔と金堂が東西に並ぶのは、仏教文化を入れたときの状況を反映しているということです
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せっかくの「ぶらタモリ」でしたが、法隆寺の謎は解決できませんでしたね。残念です。
なぜ、法隆寺の謎や矛盾は解決できないのでしょうか。
「法隆寺の建物も仏像も飛鳥仏も、他に類例がないもので、何処とも比べられない」から、真相解明できないそうです。
なんと法隆寺は他に類例がなく、他とは比べられないから諸問題の解決できないと、謎は謎のままであると、逃げられました。(言い忘れましたが、私は「ぶらタモリ」のファンです。)
しかし、どのようにしても事実は事実として存在します。たくさんの事実が集まって、一つの真実に導いてくれると、私は思います。
今まで、繰り返し法隆寺を取り上げてこのブログにアップしてきました。紹介しましょう。

カテゴリ:219法起寺式伽藍は九州に多い( 2 )

カテゴリ220斑鳩の法輪寺の瓦(1 )

カテゴリ221斑鳩寺は若草伽藍(1 )

カテゴリ224樟が語る古代( 1)  

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カテゴリ310法隆寺は怨霊の寺なのか( 1 )

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カテゴリ312法隆寺に残る日出処天子の実像( 3 )

カテゴリ280聖徳太子の伝承の嘘とまこと( 3 )

カテゴリ237パルメットの謎( 1)

よかったら読んでみてくださいね。今日もブログを読んでくださってありがとうございます。



# by tizudesiru | 2020-04-13 15:18 | 312法隆寺に残る日出処天子の実像 | Trackback

神亀三年・第二次難波宮が華やかな瓦ぶきに改築された・藤原宇合が知造難波宮事

難波宮をたずねます。孝徳天皇の宮殿が作られ、天武天皇が羅城を築いて副都としました。聖武天皇も瓦ぶきの宮殿に改築しました。
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大阪の上町台地の大阪城の南に難波宮跡があります。
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八角形の建物跡があるのは、第一次難波宮です。

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孝徳天皇の難波宮は本当に大きかったのですね。

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瓦ぶきの建物には礎石が必要です。瓦の重さで柱が沈むからです。

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基壇は板石で化粧されていたのですね。

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聖武天皇が難波に行幸したとき、宇合が歌を詠んでいます。
312 昔こそ難波田舎と言われけめ 今は都引き 都びにけり
いえいえ、難波は決して田舎ではありませんでした。外国の品も、日本各地の品もみんな難波に集まりました。防人も難波に集結して九州に立って行ったのです。ですから、難波は都会でした。
しかし、聖武天皇の御代になっていよいよ華やかになったと言いたかったのでしょう。
神亀三年・第二次難波宮が華やかな瓦ぶきに改築された・藤原宇合が知造難波宮事_a0237545_11433922.png

山上憶良も難波から船で九州に赴任していったのでしょうね。相当の老人ですから、船で行かなければ途中で倒れるでしょうから。しかも、憶良はある密命を受けていたのです。

今日は、ここまでにします。また、明日。

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# by tizudesiru | 2020-04-12 20:20 | 375大伴家持、万葉集最終歌への道 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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