白村江敗戦後の北部九州の混乱と疲弊を象徴する善一田

福岡県大野城市乙金の善一田古墳群の一部が公園として残されることになりました。
パンフレットもできています。

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報告を兼ねた講演会もありました。
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(画像は講演会のスライドをデジカメで許可を得て撮りました)
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善一田18号墳の被葬者は、副葬品に鉄滓が供献されていることから鉄器製作に携わった人であろうということでした。また、鉄器生産集団の古墳群であろうということでした。
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古墳群の特徴として、出土した三累環頭大刀の柄頭から新羅との交流がうかがえるということでした。
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また、新羅との交流をうかがわせる新羅系土器の出土は全国的にも突出しているそうです。それらは、瓶や壺と蓋という取り合わせなので、容器の中にあったものが大事だったらしく、それを運ぶために瓶や壺が使われたということでした。コンテナとして使われたものだということです。
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乙金古墳群(善一田古墳群・王城山古墳群・古野古墳群・原口古墳群)を造った人々の集落が薬師の森遺跡らしいのですが。そこにさりげなく「7世紀中頃~8世紀前半は断絶」という説明がありました。
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薬師の森遺跡に住んだ人々は、最新の技術を持って鉄の生産をしていたのでしょう。引き手数多の技術者集団だったかもしれません。そんな技術者集団の集落が7世紀の半ばに断絶するなんて…
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そこで、質問しました。「善一田に住んだ人々の断絶は、なぜ起きたのか。白村江戦とかかわりがあるのか」ということを。
次のような答えだったと思います。
かかわった可能性は否定できない。白村江戦には西日本各地から国造郡として動員されたと思われる。善一田の生産集団は那津の官家(みやけ)に管轄されていたと思われるから、白村江戦に動員されたかどうかわからない。白村江戦には地方のまつろわぬ人々を動員したという説があるので。
白村江戦後には大野城や水城の築造があったのでそれらの土木工事に駆り出されたと思われる。そのために集落が移動したのではないか。敗戦後には、大野城や水城をこの地域の人々が動員されて造ったと思われる』

そういえば、NHKで「白村江戦には九州のまつろわぬ豪族を派遣した」という展開の番組がありました。
そうじゃないだろう、と思いました。
「戦争に行け」と言われて、まつろわぬ人々が行きますか? 「いや、行きません」と答えるはずです。いうこと聞かない人たちなのですから。
わたしは畿内王権は「百済救援はしたいけど、戸籍がなかったので兵が集められなかった」と思います。
当時、戸籍を持っていた地域が兵を送れたのです。そこは九州と、遅れて吉備でした。


天智天皇は即位してすぐ「庚午年籍」を作りました。

それまで、戸籍をもたなかったに違いありません。戸籍がなくては、税も集められないし兵も出せません。当然、戸籍を持っていた豪族が兵を出せたと思います。
むずかしい話ではありません。戸籍を持っていたところが兵を組織し渡海したのです。


私の意見ですが。誰も海外派遣を喜ばないはずです。
国とか王権とかの権力と組織がなかったら二万もの出兵は無理です。
白村江敗戦後、東国から防人を出しました。九州の守りを東国の人にさせたのです。
つまり、東国にも戸籍があったことになりましょう。
誰が東国の戸籍を造ったのか。もちろん、九州の倭王権が造ったのです。歴史をしずかに眺めながら正史を読めば、自明のことでありましょう。
(畿内で戸籍を造ったのは、天智天皇と持統天皇です。二人は律令の基本は、まず戸籍だと思ったのです。)

ですから、善一田古墳を造った人々は薬師の森古墳に住み、白村江戦に動員され帰って来なかったかもしれません。新羅系の人々であれば、敵国の民となりますから、とても地域には住みづらかったでしょう。そうであれば、逃げるか移住するか、でしょうね。もちろん、引受先は東にちゃんとありました。
白村江敗戦の混乱と北部九州の疲弊を彼らが免れたとは思えません。


此処までにします。

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# by tizudesiru | 2019-03-23 09:05 | 363神籠石が歴史論争から外され、更に・ | Trackback

白村江敗戦後を語るのか善一田古墳群・大野城市

白村江敗戦後の北部九州を語るのか、善一田古墳群
善一田古墳群の現地説明会が、2016年2月に福岡県大野城市乙金でありました。
6世紀半ばからの群集墓ということでした。住宅地開発に伴う準備調査でしたから、遺跡は残されないと思われていました。
すごく心配していましたが、大野城市は残したのです。
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一部を大野城市が買い取り公園にするということです。
2019年4月27日に「善一田古墳公園」のお披露目があります。
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新羅系土器と新羅貴族の間で流行した「三累環頭大刀」の柄頭が並べて置いてありました。
あれから三年経ったのですね。
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この古墳群が大事なのは、地方豪族の生活というより一般の人々の生活が見えるからです。彼らは新羅と深くかかわっていました。5世紀後半はじまり、6世紀から7世紀の半ばまで造られ続け、祭祀は7世紀後半まで行われたそうです。
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18号墳は6世紀後半の福岡平野では最大級の大きさだそうですが、玄室長2・8m、幅2・2m、高さ3・5mと、決して大きくはありません。
那の大津を持ちながら、そのころの福岡はどうなっていたのでしょう。
磐井の乱で、糟谷の屯倉を献上した後、筑紫磐井の子・葛子の王家は滅びたのでしょうね。北部九州で最も早く福岡平野で大型古墳が造られなくなったそうです。


しかし、6世紀半ば、福岡では群集墓が画期を迎えます。平地の近くのあらゆる丘陵に古墳が造られました。大野城の乙金古墳群もその一つです。
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下は、乙金古墳群の中の古野古墳群で、5世紀後半という8号墳です。
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5世紀後半という8号墳は竪穴式石室ですか? では、もう少し古いでしょう・・・
そして、善一田古墳群の中の18号墳ですが。
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鏡はないけど馬具があります。鏡はいらなかったのでしょうか。
何年かの間に、人々の嗜好が変わったのです。それとも、この被葬者の仕事だったのでしょうか、馬具造が。
6世紀半ば、日本中が流通・政治経済・文化の面で画期を迎えます。群集墓が日本全国に造られました。
磐井の乱の後、何かが変わったのです。

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乙金古墳群では、6世紀から7世紀前半にかけて群集墓が造られましたが、7世紀半ば以降…断絶するのです。

えっ、それは何か原因あり、と思いますよね。

そう、恐ろしい政治的転換点がありましたね。7世紀半ば、あの白村江戦です。
7世紀半ば以降の大野城市の群集墓の消滅を他の事件に結びつけることはできません。
白村江戦に徴用された兵士は北部九州の人たちだったからです。
大野城の人々も無関係ではありますまい。敗戦後には、水城・大野城(山城)の築造と続くのです。彼らが戦争と何の関係もなく経済的な追及をしたはずはないのです。
では、その事は、また後で。 



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# by tizudesiru | 2019-03-22 15:52 | 363神籠石が歴史論争から外され、更に・ | Trackback

武内大臣の館址に北條英時が住んだ理由

福岡市西区の鷲尾山(愛宕山)に武内大臣(宿禰)の館址の伝承があります。
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赤丸で囲んだ愛宕山が、鷲尾山です。愛宕山と呼ばれるようになったのは、江戸時代に黒田藩が愛宕神社を勧請したからです。
(黒田藩は壱岐真根子神社などは大事にしましたが、他の神社を移動させたり祭神を変えたりしたそうです。)
『早良郡志(福岡早良郡役所編)』によれば、

「裏山の東南愛宕山に近き山上に在って、伏見院の永仁元年三月探題・北條兼時は、この地に館を構へ後醍醐院の時には英時も同じく此の所に居住して居た。傳説によれば此の地は、往古武内大臣の館のありし阯と謂って居る。而して正保慶安の頃迄には、山上より法華教(経)の文を刻んだ瓦出で山麓の田圃よりは骸骨を掘出すことが屢(しばしば)であった。」


北條兼時は元寇の後、正応6年(1293)に九州へ下向させられた鎮西探題(初代)で、英時は南北朝時代の悲劇の武将です。

北條英時(赤橋英時)は、元享元年(1322)鎮西探題として九州に下向し、兼時と同じく愛宕山(鷲尾山)の山頂近くの山上に住みました。

その地が「往古、武内大臣の館ありし址」と云われてる福岡市西区の鷲尾山(愛宕山)なのです。愛宕山は交通の要衝を見張るに十分な位置で、糸島方面、博多湾、福岡平野全体が見渡せる城塞のような山なのです。

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見張り台として、北條氏は「鎮西探題」を鷲尾山に置いたのでしょうか。
武内大臣の館跡! 北條英時はなぜそんな伝承の地に住んだのか、です。
実は、
北條時宗(元寇の時の執権)の時代に御家騒動がありました。正室とその長男を廃し、弟の時宗が執権になった騒動です。その後、得宗家による政治体制を強化確立させるために、祖にあたる北條義時を「武内宿禰」になぞらえる伝説が流布されました。
上のような状況からして、初代九州探題の北條兼時は、当然「武内宿禰の伝承の館跡」に居を構えたでしょう。
その後、北條英時も「武内宿禰の屋敷跡の伝承地」に住んだということです。
つまり、武内宿禰の館跡の伝承を北條氏も知っていた、その時代も武内宿禰の伝承が福岡市にあったということです。

(海岸から急にそそり立つ愛宕山にはなかなか足が向きませんが)
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愛宕神社へ行くのに南側の階段を上る元気のない人は、車で北側の道路を登りましょう。駐車場もあります。
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赤橋英時は女子に人気の武将です。彼は和歌も詠む教養人でしたし、何と言っても赤橋流の北條久時の男子で、最後の執権・北條守時の弟でした。名門の出であり、妹の赤橋登子は足利尊氏の正室でした。

南北朝時代の話は、わたしも子どものころから聞かされましたが、つらいエピソードの連続です。後醍醐帝の執念が多くの武将や皇子の命を奪い、日本を次のステージに連れていったと思います。
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今日はここまでにします。



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# by tizudesiru | 2019-03-21 11:09 | 362武内宿禰とは何者か | Trackback

武内宿禰の身代わりになった壱岐真根子を祀る神社(2)

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壱岐神社がある福岡市西区生の松原辺りは、昔は壱岐村でした。その前は額田郷で,生の松原辺りは「山門・ヤマト」と呼ばれていました。
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その昔この辺りはたいへん栄えたようで、弥生時代初期の細型銅剣など密集する地域でした。倭名類聚抄には、早良郡に「田部郷・能解郷・平群郷・野芥郷・額田郷・早良郷・曽我郷」など地名が残っています。人々は同じ地名に千数百年も住み続けているのです。同じ一族かどうかは分かりませんが、地名は受け継がれてきたのです。
では、壱岐真根子の伝承もまんざら・・・ではありますまい。

壱岐真根子が九州の人だとすると、武内宿禰は何処の人でしょうか。紀ノ國で生まれたことになっていますが。
武内宿禰の父親は、屋主忍男武雄心命(やぬしのおしをたけをこころのみこと)です。
この人は、景行天皇に仕えて天皇の命で紀伊国に行き、そこで影姫と結婚し武内宿禰をもうけたことになっています。
しかし、佐賀県には武雄市があり武雄神社があり、屋主忍男武雄心命をまつる武雄神社があります。この人は、紀ノ國に行ったのでしょうか。母のヤマシタ影姫を祀る神社もありますからね。紀伊国は和歌山県ではなく、佐賀県の基山の「き国」ではないですかね。
武内宿禰を祀る神社は圧倒的に福岡が多いそうです。

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紀伊と基、似ていますね。武内宿禰は九州にルーツがあるかもしれません。
蘇我氏も平群氏も石川氏も波多氏も、武内宿禰の子ども達から出ています。
武内宿禰の子どもに、7人の男子がいます。
羽田矢代宿禰・許勢小柄宿禰・平群木兎宿禰・蘇我石川宿禰・紀角宿禰・葛城襲津彦・若子宿禰です。女子は久米能摩伊刀比売・怒能伊呂比売の二人です。
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「古語拾遺」に書かれたように、蘇我氏は数字に強かったようですね。財源をにぎっていたのでしょう。学問と血統は古代の財産でした。祖先が誰かと云うことと、文字を使えることが重要だったのです。おまけに数字が使えるのであれば、鬼に金棒だったでしょう。

地名は千年以上昔から続いているものもありました。すると、
九州から地名が移動したということでしょうか。
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江戸や明治まで続いた地名は千年以上の歴史を秘めているものがあるということを倭名類聚抄で確かめました。
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地名で歴史が分かるわけではありませんが、それでも、歴史の一部を伝えていると思います。
明治以来、地名はどんどん変わりました。より新しい流行りの地名が付けられて歴史が見えなくなりました。
また、ここで思います。明治って何だったのでしょう。人々が泣きながら文明の坂道を転げていった時期なのでしょうか、夏目漱石が書いたように。

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福岡市西区の壱岐神社です。鳥居には「壱岐宮」と神額が掛けられています。
壱岐神社と壱岐宮では、意味が違ってきます。
「神社」は別の神社から勧請してきた社殿ということですが、「宮」はその地が発生の社殿だそうです。


壱岐真根子神社は、この地が本来の鎮座地だと主張しているのです。
「壱岐真根子身代わり事件」は、ここで起こったことだというのです。


武内宿禰の身代わりになったのですから、彼らはこのあたりに関わりが深かったのでしょうね


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# by tizudesiru | 2019-03-18 23:40 | 362武内宿禰とは何者か | Trackback

キトラ古墳が国宝になった背景は?

九州は去れ!! 古代史の論争に参加しないでいい、という宣告ですか?
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キトラ古墳が異例の速さで国宝になりました。

国宝になるまでには様々な検討がなされるのですが、耳目を疑うような速さで国宝の指定を受けたのです。
それは、来月の「文化財保護法改定」の前にどうしても国の指定が必要だったからです。私はキトラ古墳の被葬者は舎人皇子だと思い何度もブログに書きました。
檜前廃寺を見に行った時もキトラ古墳に行きました。きれいに整美され多大なお金をかけレガシィとしての資料館も完備しています。
資料館の運営を考えると、国宝とすれば観光客へのアピールも違ってきますからどうしても指定が欲しかったのですね。
此処で思うのは、明日香だから早急な要求が通ったということです。キトラを国宝にすることに異論はありません。しかし、それは全国のほかの遺跡との格差の推進であり、日本の歴史を奈良に固定する思惑の一部でありましょう。
国民の税金を使うのですから、広い視野で日本の歴史を構築してほしいのです。


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熊本城の復興はまだまだ道半ばですが、今年も熊本県民交流館・パレアホールで「鞠智城址『特別研究』成果発表会」がありました。2019年3月17日のことです。五年ほど通いましたが、今年は本当にショックでした。

九州を象徴する神籠石がすっかり消されていました。九州各地の自治体が長く調査研究をしてきたのに、神籠石は敵を欺くための「見せかけの山城」だというのです。それは、天武持統朝の遺構だというのです。
朝鮮式山城とは立地も築造技術も方法も違うのに、です。確かに神籠石は絶妙の立地で、交通の要衝にあります。

律令も整っていなかったらしい天武朝は、壬申の乱で権力を奪った王朝です。彼らが九州に重点を置いた山城を造ったというのでしょうか。


神籠石は「見せかけのための山城」と位置付ける論文や、神籠石は朝鮮式山城と同じ時期に造られた古代山城という定義の上での論文が出来上がっていました。
更に、「文化財保護法」が改正され「地方の発掘調査には予算が付かないことが喧伝されました。財政難の過疎化が進む地方は捨てられました、完全に。

今日まで、文化財保護法は「学者や市民が文化財の破壊を食い止めるわずかな後ろ盾だった」のですが、安倍首相の主導により今年の4月には改定されます。あと一月で変わるのです。
文化財活用は各市町村に任され、事もあろうに「観光に使って宜しい」と安倍さん自ら推奨したのです。それは表向きのことで、発掘調査には予算が付かないし、その遺物遺構を残し管理するお金が付かなくなるのです。つまり、地方の観光に使うどころか、維持管理費用・発掘費用が出ないのです。

この事が、発表会の前に基調提案されました。
「史跡をめぐる新しい文化財の保存・活用への動き」
という演題で、文化庁文化財第二課 埋蔵文化財部門 主任文化財調査官の禰冝田佳男氏の講演が一時間ありました。

その後、①古代の烽ネットワークと鞠智城 ➁平安時代の鞠智城周辺の国内情勢 ③日韓古代山城の水門構造からみた鞠智城 ④日本古代の兵庫と鞠智城 がそれぞれ40分の割り当てでしたが・・・・正直驚きました。

私たちは文化財保護法にわずかな望みをかけていたのでした、やはり。
文化財の発掘調査維持管理の予算はほとんど畿内など王権関係遺構に集中していましたから、地方はあまり関係なかったのですが・・・
今回、文化財保護法が改定されると重要遺跡に当たっても調査する前に壊されるかもしれません。遺跡の維持管理は予算不足で出来ませんから、遺跡が残されることはほとんどなくなるでしょう。第一遺跡の発見が報告されるでしょうか。

日本はこれから低成長に入って行くし、高齢化と少子化が進みましたから、もう打つ手はないのかと、黄砂に染まった春空を見ました。
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ここで、打つ手はありますか?
一人一人が節約することも大事ですが、市民のネットワークでしょうかね。



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# by tizudesiru | 2019-03-18 17:21 | 363神籠石が歴史論争から外され、更に・ | Trackback

武内宿禰の身代わりになった壱岐真根子を祀る神社

壱岐神社は福岡市西区に在ります。あたりは「生の松原」と呼ばれています。
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壱岐神社は壱岐直真根子(いきのあたいまねこ)を祀っています。
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御神文はサンガイマツ三階松です。松の枝が三段に重なる形で、九州では由緒ある神社のご神文です。
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手水にもご神文が彫られています。
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福岡市に合併される前ここは壱岐村でしたが、それまでは額田郷でした。額田郷から壱岐村になる時、此処に「壱岐真根子」を祀る神社があったので、「壱岐」という名を村に付けたそうです。江戸時代に藩黒田藩が「壱岐真根子の身代わり伝承」を持つ神社を厚く庇護したからです。
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壱岐神社の参道は博多湾まで延びて、海岸から能古島や志賀島を望むことが出来ます。
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それにしても、武内宿禰の身代わりになった壱岐真根子は武内宿禰にそっくりだったそうです。身代わりに死ぬ話は、歴史物語によくあります。昔は写真もないから似てると言ったら納得したようです。そして、武内宿禰の歴史物語は福岡が舞台だったのです。
武内宿禰の子孫に平群氏・蘇我氏がいますね。実は、曽我や平群という地名が、福岡市西区にはありました。壱岐神社あたりは山門(やまと)という地名でした。
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更に古い時代、平安時代の「倭名類聚抄」にも「額田・平群・曽我」などの地名がありました。どこかで聞いたような氏名ですね。
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さて、こんな地名を見ると、蘇我氏の祖先の武内宿禰は福岡の出身かしらと思います。
明日はそんなことを考えてみましょうね。


# by tizudesiru | 2019-03-16 23:15 | 362武内宿禰とは何者か | Trackback

筑後国分寺は四カ所の神籠石の交点に在る

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奈良時代の筑後国分寺は、久留米市国分町711-1・日吉神社の境内に在りました。
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礎石は若干ありますが見落としそうです。国分寺は10世紀以降は衰え、中世には筑後川河畔の久留米市宮ノ陣に護国山国分寺が建てられています。
此処日吉神社のご神文を見ましたが
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不思議な文様ですね。不思議なのはご神文ばかりではなく、此の筑後国分寺は四カ所の神籠石の交差点に在るのです。
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おつぼ山神籠石と高良山神籠石、宮地岳神籠石と女山神籠石の交点です。更におまけがついて、田代太田古墳(装飾古墳)と有名な岩戸山古墳を結ぶラインもここを通ります。そして、高良山神籠石とおつぼ山神籠石のラインの上に権現塚古墳が乗ります。
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きれいに墳丘の中心を通っています。横に在るのは御塚古墳です。
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筑後国分寺は選ばれた土地に建てられたということでしょうか。
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ついでに言うと、筑前観世音寺は背振山と宝満山の山頂を結んだライン上にあり、そのラインンを東に伸ばすと筑前大塚古墳の墳丘に届き、主軸戦にラインが重なります。
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寺院や墓や首長の館などのために土地が選ばれるとき、時の権力者の意思なりが働くと思います。首長は地域の神山や祖先の墓を意識したと思います。
神籠石は六世紀の遺構だという説は納得ですが、7世紀8世紀の遺構だという文化庁の最近の見解には疑問しかありません。長い間それぞれの地方で研究してきたことは何だったのでしょう。
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日吉神社の境内には「十三塚神社」という不思議な神社もあります。是って、もしや中国の十三部・・・なんて、想像がふくらみますね。


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# by tizudesiru | 2019-03-16 00:40 | 361 六世紀の筑後に王権があったのか | Trackback

天平二年の梅花の宴は前王朝の正月儀式の再現だった(2)

「天平二年の梅花の宴は前王朝の正月儀式の再現だった」の続きです。

天平二年正月、大宰府の帥の館に大弐・少弐から無位の役人まで集い宴が執り行われました。その宴では老いも若きも官位の高低もなく、ひとしく梅を詠んだのです。通常では考えられないことでした。身分を分けること、出自を明らかにすることなど、政治が目指していたことでした。律令も整えられ官位も細かく分けられて、秩序を重んじ身につけるものまで決められていましたから。
そんな風潮の中で席をほぼ同じくして歌を詠み合うなど、考えられないことだったでしょう。

もちろん、都では宮廷の正月儀式として宴(とよのあかり)が設けられ、身分・位に応じて各々に賜物がありました。しかし、身分の上下にかかわらずともに歌を詠んだりはしていません。

平安時代には宮廷で歌会があったでしょうが、「梅花の宴」は奈良時代の初めです。

旅人は思い付きで宴を開いたのでしょうか。 そんなことは有りません。
彼は、大宰帥として九州の正月儀式を再現したのです。

まず、そこで読まれた歌を詠んでみましょうか。

815 正月(むつき)たち春の来たらばかくしこそ梅を招()きつつ楽しき終へめ 

              大弐紀卿 だいにきのまえつきみ(従四位下)

816 梅の花今咲けるごと散り過ぎず我が家の園にありこせぬかも   

           少弐小野大夫 しょうにおののまえつきみ(従五位上)

817 梅の花咲きたる園の青柳は縵(かずら)にすべくなりにけらずや     

          少弐粟田大夫 しょうにあはたのまえつきみ(従五位上)

818 春さればまず咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日くらさむ   

 筑前守山上大夫 つくしみちのくちのかみやまのうえのまえつきみ(従五位下)

819 世の中は恋繁しゑやかくしあらば梅の花にもならましものを 
 豊後守大伴大夫  とよのみちのしりのかみおほとものまえつきみ(従五位下)

*大夫(だいぶ)とは、中国の周代から春秋戦国時代にかけての身分を表す言葉で、領地をもった貴族のことであった。大夫は卿の下、士の上に位した。日本でも律令制度に用いられ、太政官に於いては三位以上、寮に於いては四位以上、国司に於いては五位以上の官吏の称とされた。単に五位を意味する場合「たいふ」と詠み分ける。

820 梅の花今盛りなり思ふどちかざしにしてな今盛りなり     
筑後守藤井大夫 つくしのみちのしりのかみふじいのまえつきみ(外従五位下)

821 青柳梅と花とを折りかざし飲みての後は散りぬともよし

                    笠沙弥 かさのさみ(無位 僧)

822 わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れくるかも   

                  主人 あるじ(旅人)(正三位)

823 梅の花散らくはいずくしかすがにこの城()の山に雪は降りつつ 

          大監伴氏百代 だいげんばんじのももよ(正六位下)

824 梅の花散らまく惜しみ我が園の竹の林にうぐいす鳴くも    

          少監阿氏奥島 しょうげんあじのおきしま(従六位上)

825 梅の花咲きたる園の青柳を縵にしつつ遊び暮らさな     

          少監土氏百村 しょうげんとじのももむら(従六位上)

826 うちなびく春の柳と我がやどの梅の花とをいかにか別かむ  

           大典史氏大原 だいてんしじのおほはら(正七位上)

827 春されば木末(こぬれ)隠りてうぐいすそ鳴きて去()ぬなる梅が下枝(しづえ)

        少典山氏若麻呂 しょうてんさんじのわかまろ(正八位上)

828 人ごとに折りかざしつつ遊べどもいやめずらしき梅の花かも

         大判事丹氏麻呂 だいはんじたんじのまろ(従六位下)

829 梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや

       薬師張氏福子 くすりしちょうじのふくこ(正八位上)

830 万代に年は来()()とも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし

    筑前介佐氏子首 つくしみちのくちのすけさじのおびと(従六位上)

831 春なればうべも咲きたる梅の花君を思ふと夜眠(よい)も寝なくに 

         壱岐守板氏安麻呂 いきのかみはんじのやすまろ(従六位下)

832 梅の花折りてかざせる諸人は今日の間は楽しくあるべし

         神司荒氏稲布 かみつかさくわうじのいなしき(正七位下)

833 年のはに春の来たらばかくしこそ梅をかざして楽しく飲まめ

     大令史野氏宿奈麻呂 だいりょうしやじのすくなまろ(大初位上)

834 梅の花今盛りなり百(もも)(とり)の声の恋しき春来たるらし

      少令史田氏肥人 しょうりょうしでんじのこまひと(大初位下)

835 春さらば逢はむと思ひし梅の花今日の遊びに相見つるかも 

       薬師高氏義通 くすりしかうじのよしみち(正八位上)

836 梅の花手折りかざして遊べども飽き足らぬ日は今日にしありけり

          陰陽師磯氏法麻呂 おんやうしきじののりまろ(正八位上)

837 春の野に鳴くやうぐいす馴付けむと我が家の園に梅が花咲く

             算師志氏大道 さんししじのおほみち(正八位上)

838 梅の花散り粉(まが)ひたる岡びにはうぐいす鳴くも春かたまけて 

      大隅目榎氏鉢麻呂 おほすみのさくわんかじのはちまろ(大初位下)

839 春の野に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る  

   筑前目田氏真上 ちくしみちのくちのさくわんでんじのまかみ(従八位下)

840 春柳縵に折りし梅の花誰か浮かべし酒坏(さかづき)の上()に 

      壱岐目村氏彼方 いきのさくわんそんじのおちかた(少初位上)

841 うぐいすの音聞くなへに梅の花我家の園に咲きて散る見ゆ  

      対馬目高氏老 つしまのさくわんかうじのおゆ(少初位上)

842 我がやどの梅の下枝に遊びつつうぐいす鳴くも散らまく惜しみ 

         薩摩目高氏海人 さつまのさくわんかうじのあま(大初位下)

843 梅の花折りかざしつつ諸人の遊ぶを見れば都しぞ思ふ

             土師氏御通 はにしうぢのみみち(無位)

844 妹が家に雪かも振ると見るまでにここだも粉ふ梅の花かも

             小野氏国堅 をのうぢのくにかた(無位)

845 うぐいすの待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ児がため

  筑前掾門氏石足 つくしのみちのくちのじょうもんじのいそたり(従七位上) 

846 霞立つ長き春日をかざせれどいやなつかしき梅の花かも

           小野氏淡理 をのうぢのたもり (無位)

 

この正月儀式はたいへん文化的で華やかで、参加した人々や噂を聞いた都の人など多くの人に感銘を与えました。正月早々から上下を問わず歌を詠み合う儀式、それも梅の花を詠む宴、そこにある意味は何でしょう。

上下を重んじて身分や官位を細分化し「姓」を与えたりして氏の間に差別を持ち込み続けた当時の常識に反し、「王権を象徴する梅花の下に上下を問わず集い王朝の弥栄を寿ぐ正月儀式が九州にはありました」ということです。
当時の王朝の儀式ではないとすると、別の王家の儀式だったことになりましょう。

ちなみに日本書紀・持統紀などに見られる正月儀式は、「白馬節会(あおうまのせちえ))の原形や「射礼(じゃらい)」などが挙げられます。が、詩歌を詠む会ではありません。
正月七日の宴は「白馬節会・あおうまのせちえ」という行事に整えられていきましたが、これは天皇が白馬を見る儀式で「白馬を見ると縁起がいい」というのです。また、正月十七日に「射礼・じゃらい」という儀式は弓の音を立てて邪鬼を払うというものです。

平城天皇(在位806~9)の時代、正月儀式として詩文を作らせ御前で読み上げさせる儀式は「内宴」と云って正月二十日か二十一日に行われたのですが、その儀式が取り入れられたのはずっと後の時代です。

平城天皇とはこれまでも紹介した「大伴氏から万葉集を召し上げ、侍臣に編集させた天皇」で、万葉集に深い理解があった人です。ですから、正月儀式に詩文を詠む宴の意味を理解し、その意義を踏まえ儀式を再現したと思われます。
(平城天皇が罪人として官位も剥奪されていた家持の官位を戻した理由は何かですが、万葉集を召し上げるために他なりません。平城天皇は、万葉集の本質と意義を理解していました。だから、平安京から平城京に都を戻そうと言い出したのです。そのために嵯峨天皇と激しく対立したのです。)

平城天皇は、旅人が執り行った梅花の宴を「王朝の寿ぎの儀式」の再現だと理解したので、自らの世(70年以上後)に儀式化したのでした。理想の王家の正月儀式を大伴旅人が大宰府で再現していたと理解したからです。


当時の旅人としては、長屋王の父・高市皇子の血縁になる九州の王家の儀式をなぞり、長屋王の霊魂を鎮めたいと願ったと思います。もちろん、その事は決して表には出さなかったでしょうし、気づかれないようにしたでしょう。旅人の内心を理解した人物が居たとしたら、山上憶良をおいて他には居りません。


「後に梅の歌に追和する四首(849~51)」が巻五に掲載されていますが、旅人が追和したのであろうと云われています。が、そうであれば、「梅花の宴を懐かしんで作る」という題詞があってもおかしくありません。が、それはないので何ともいえませんが、旅人も思わぬ反響に驚いたのかもしれません。宴の成功に感動した別人の可能性もありましょう。

他にも「諸人、梅花の歌にこたえ奉る一首(856)」があります。

巻十七には、「大宰の梅花の時に追和する新しき歌六首(3901~6)」と題詞があり、「右、十二年十二月九日、大伴宿祢書持が作る」と左脚が付いています。大伴家持の弟・書持が父を偲んで十年後に追和したとわかります。

梅花の宴は、このように人々の心に残りました。なぜなら、非常に文化的な行事で都にはなかったのです。家持も弟の書持も「大宰府の梅花の宴」を深く心に刻み、誇りに思っていたのでした。




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# by tizudesiru | 2019-03-01 22:03 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

天平二年の梅花の宴は前王朝の正月儀式の再現だった(1)

大伴旅人が太宰帥として九州に来たのは、神亀四年の暮れか、神亀五年(728)のはじめと云われていますが、彼が九州に来たのはこの時が最初ではありません。
元正天皇の養老四年(720)三月には、「征隼人持節大将軍として九州に来ています。隼人が反乱を起こしたのです。(この時、武人だけでなく神官も宇佐の神も総動員して隼人討伐に動員されますから、当時の戦いに呪詛力は必要だったのです。)
同じ養老四年八月に、右大臣原不比等が没しました。それで旅人は都に呼び戻されます。それは、大伴氏から鎌足の母が出ていますし、大伴坂上郎女が穂積皇子(母は藤原氏)に嫁していましたから氏として姻戚関係にもあった為の召喚なのでしょうが、それより行政のトップ藤原不比等の死亡に対して不穏な動きが起こらないように呼び戻されたと思います。旅人は武人のトップでしたから兵を動かせたし、都の平安の為に必要でした。

ですから、神亀四年の暮に武人のトップである中納言大伴旅人を太宰帥として下向させたとは、どこか不自然でした。(または、神亀五年のはじめに大宰府へ下向)
神亀五年はじめ、大宰府帥となっていた中納言・大伴旅人は妻の大伴郎女(大伴坂上郎女ではない)を亡くしました。たぶん無理な大宰府への旅がこたえたのでしょう。大宰府まで同行した妻の死、遠い都で弟が死亡したという知らせ、旅人は愕然としました。
そんな旅人に異常接近したのが、山上憶良でした。
憶良は、旅人に代わって「大伴郎女の挽歌」を詠み、国司として大宰府の歴史や文化を伝えたり、あまたの長歌や紀行文や詩文を献じたりしました。憶良の教示のおかげで、旅人の知見は広がり歌は急激に変化しています。
それにしても、職を辞した後に皇太子(後の聖武天皇)の教育係でもあった山上憶良が、筑前国国司として大宰府に来ていたのは、大伴旅人の動向を見張るためだったという説がありますが、そうかもしれません。憶良の旅人に対する奉仕の度合はまるでゴマスリ・忖度にしか見えませんから、そこに何らかの下心があったとも考えられます。
(私は、旅人の監視役だったのは小野老、「青丹よし奈良の都は咲く花のにおへるがごと今盛なり」と詠んだ小野老と思っているのですが。)

そして、神亀六年(729)二月、長屋王の変が起こりました。
長屋王は左大臣、当代随一の権力と経済を握っていたでしょう。当然、藤原四兄弟とは意見の対立がありました。火種があったことを旅人は承知していました。
もともと藤原氏は天智天皇によって引き上げられて氏族でした。壬申の乱で後退したものの、藤原不比等によって文武・元明・元正朝において力をつけていました。養老元年(717)不比等は『議政官」として朝議に参加できる者は各氏族より一名』という原則を破り、息子の房前を参議に加えていました。その批判をかわすためでしょうか、養老二年に長屋王が大納言、大伴旅人が中納言として議政官に加えられました。そのあたりの事情を旅人は十分に知っていました。

長屋王の変は、当時の人々が大いに驚いた大事件でした。都には「長屋王事件」に対する同情と哀悼が混じりあった噂話があふれ、混乱を極めていました。流言飛語を止めようとする勅も出されたほどです。しかし、混乱と人々の同情は収まりませんでした。
都からの親族の便りもあるし、太宰帥として旅人は成り行きを把握していました。

長屋王賜死の理不尽を旅人が憤らなかったはずは有りません。彼は激怒し慟哭し悲嘆にくれたことでしょう。しかし、大宰府に送られた官人の中に都の藤原氏と直結している者がいるのです。義憤や同情など表に出してはなりません。
どうしても都に帰らねばならないから下手なことは出来ないと、旅人は思ったことでしょう。
身動きの取れない圧迫感のある追い詰められた状況で、旅人が詠んだのは「酔っぱらいの歌・十三首』なのです。
武人である丈夫が、酒を飲んで泣くなど普通の状況ではありえません。(その歌を万葉集に残した人物も旅人の置かれた立場と心情を理解していた、となると、息子の大伴家持以外には考えられません。)旅人の「大宰帥大伴卿讃酒歌十三首」を読みましょう。
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大伴旅人がここまで長屋王事件に揺り動かされたのは何故? でしょうか。
大伴氏は古代有力豪族でしたが、孝徳天皇の右大臣大伴長徳(ながとこ)以来、議政官への道は遠のいていました。
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 大伴氏は「壬申の乱」で活躍し、大伴御行(みゆき)に続いて大伴安麿(やすまろ)が大宝元年(701)から和銅七年(714)まで大納言を務めました。
大伴氏は、天武朝の忠臣となりましたから、天智朝の忠臣だった藤原氏には不快な存在に思えたでしょう。
大伴氏は奈良時代を通じて藤原氏の横暴に釘を刺し続けましたから、謀判事件にかかわることも多くついには「悪逆の氏族」とも評されたのです。然し、その姿勢は「天武朝の繁栄を守る」ということだったと思います。
天武天皇の長子・高市皇子への忠誠心も大きかったでしょうから、その御子の「長屋王の変」は、旅人にとって衝撃となったのです。

ですから、「長屋王の賜死」を知った旅人の無念はいかばかりだったでしょう。
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作者の分からない「世の中は空しきものとあらむとぞ この照る月は満ちかけしける」の歌を詠んだのは、大伴旅人をおいて他にはないでしょう。
旅人だからこそ、その名はふされたのです。


では、長屋王事件の翌年の正月に行われた「梅花の宴」とは何だったのか、言及しなくてもいいくらいはっきりしていますね。カモフラージュです。本心を隠して、『京都のみなさん、大宰府では「長屋王事件」とは関係なく「宴会」を楽しみました。大伴卿も楽しんでいましたよ』という報告を導くための偽装だった、と思います。
次は、梅花の宴の歌を紹介しましょう。


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# by tizudesiru | 2019-02-22 10:42 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

万葉の歌人・大伴旅人は大宰府の歴史を知った

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もしかしたら、大宰府政庁が置かれる前に九州の権力者の王都が大宰府にあったのではないか、大宰府王都説や白村江敗戦後の筑紫都督府説、など様々な説がありますが、その可能性はどれほどでしょうか。


前回までに、福岡県太宰府市の大野城や蔵司(くらのつかさ)の紹介をしました。そこで出土した古いタイプの瓦の出土を紹介していますが、草創期の瓦は何処で焼かれたのか分かりません。その瓦は、太宰府だけでなく大野城市や宇美町にまたがる四王寺山(大野城にほぼ重なる)の多くの地点から出土しているのに、何処で焼かれたかわからないままです(Ⅱ期Ⅲ期の瓦が焼かれた場所はほぼ分かっています)。それにしても山城の倉庫に草創期から瓦があることを、大宰府の官人たちはどう思っていたのか、気になります。
山城の倉庫建物に瓦を葺くなど7世紀という時代を考えると異様で、大宰府に赴任した官人たちもそれを知っていたし、山城を見たはずです。政庁の裏山なのですから。

彼らが大野城や大城山をどう思っていたのか探れる資料としての万葉集、その歌で考えてみましょう。まず、「大城山」を詠んだものです。
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明らかに大宰府の住んでいる人の歌で、政庁の裏山が色づいたというのです。
大宰府政庁からは背振山地・三郡山地が見えるし、遠く筑後の山々も見えます。それらの名の知れた神山が林立する中で「大城山だけは冷たい雨に濡れたわけでもないのに色づいた」というのです。これは自然にはない珍しい? ことで、つまり標高の高い背振山から色づくのが当たり前です。なのに大城山が色づいた…そこに此の歌の意味と作者の思いがあるのです。

「はっきりと時雨が降ったわけでもないのに、さすがはあの大城山、昔から王城として崇められてきた大城山だからこそ、いち早く色づいたのだな。さすがに神山なのだ」

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大伴坂上郎女は兄嫁が大宰府で没したので、兄・大伴旅人の家族の面倒を見るために都から大宰府に来ていました。旅人が大納言となり都に呼び戻されたので、坂上郎女も都へ帰りました。都で筑紫のことを思いだして詠んだのが「今もかも・・」の歌です。
霍公鳥は不如帰とも書き夏鳥です。私は不如帰=郭公と思っていましたが、違うそうです。鳴き声を聞いたら霍公鳥の声は寂しくはありませんでした。私はきっと寂しい声だと思い込んでいたのです。万葉集辞典には「かほと=ほととぎすか。郭公。カッコウと鳴くのでこの名がある。初夏、南から渡ってくる。略」とあり、「ほととぎす=霍公鳥。やまほととぎすとも。渡り鳥。夏鳥。夏の到来を告げて鳴く。背は灰青色。略」とあるのです。


では、坂上郎女の歌です。彼女が「大城山が古代の権力者が造ったものだった」と思っていたのなら、このような意味を込めたでしょうか。 
「あの誰もが毎日のように眺めた大城の山に夏が来て、今頃たくさんの霍公鳥が鳴いているのだろう。霊魂は鳥となって夏になると大城山に戻ってくるのだろうが、私はもう筑紫に戻ることはない。」

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山上臣憶良は大宝元年(701)に無位で遣唐使として唐に渡りました。帰国後徐々に出世し、霊亀二年(716)には伯耆守。養老五年(721)に退朝した後に東宮に仕え、皇太子(聖武天皇)の教育係になりました。そして、神亀三年(726)に筑前国司となったのですが、既に退朝しているのですから、かなり変です。何か政治的な裏工作でもあったのでしょうか。
大伴旅人が都から遠い筑紫に赴任した後、旅人のいない都で「長屋王の変」が起きました。長屋王は左大臣、旅人は中納言としてともに中央で活躍していたのですから二人は親密だったようです。武人である旅人が都にいる間は、事が起こせなかったのではないか、と考えます。
憶良の筑前守就任は、大伴旅人の監視であったのでしょう。大宰府の旅人に対して山上憶良は異常に接近し、徹底的にご機嫌を伺いました。旅人の妻の法事には『日本挽歌』を献じ、大伴氏の祖先の大伴佐堤比古朗子(おおともさでひこのいらつこ)の物語を徹底的に取材し、見送った松浦佐用比賣に関する歌や神功皇后にまつわる伝承を取材し、肥後の大伴熊凝(18歳で死亡)に代わって歌を詠んだり「貧窮問答歌」など多くの長歌を謹上したりしたのは、旅人に接近するためだったのではないでしょうか。 

そんな憶良が旅人の妻の法事に捧げた長歌「日本挽歌」に付けられた反歌五首の最後の歌が「大野山きりたちわたる・・」の歌ですから、次のように読みます。

「古の王城だった大野山に霧が立ち渡っている。霊魂が現れたものが霧や雲だというが古の霊魂が大野山に漂っているのだ。更に、私の嘆きのため息が霧となって、大野山に深く霧が立ち込める。」
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大宰府の官人たちは、毎日眺める大野城に畏怖の念を持ったと私は思います。


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# by tizudesiru | 2019-01-24 16:11 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

大伴旅人が太宰帥だった時代、大野城の城門に鬼瓦があった

福岡県の太宰府市や大野城市宇美町にまたがる「大野城」は天智天皇が築城させた古代山城として知られるが朝鮮式山城として大野城が白村江敗戦後に築城される前から或権力者が作った山城が四王寺山にはあったのではないか、というお話をしてきました。
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そもそも大宰府の都府楼跡(政庁跡)に露出している礎石は、創建時(Ⅰ期)のものではありません。Ⅱ期Ⅲ期の瓦葺の建物時代のものです。
Ⅰ期は掘立柱建物で礎石はなく、この都府楼のⅠ期に出土する瓦が「主城原」のⅠ期で出土する単弁の瓦と共通します。両者は同時期なのです。

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大野城築城から1350年の節目に「四王寺山の1350年」という図録が出されました。
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そこに、大野城のⅠ期遺構で出土した瓦の写真があり、三種類の単弁の軒先丸瓦が紹介されています。上の写真が主城原で出土した瓦で、三種類の瓦が出土したのは主城原のみです。
Ⅱ期になると、瓦当文様が違ってきます。鴻臚館式と老次式の華やかな瓦当文様になります。下の「老司系軒丸瓦」で単弁のようだけど複弁八葉蓮華文軒丸瓦だそうです。
一番外側の外区外縁に陽起鋸歯文(ようききょしもん)ギザギザの△文様がつながって取り巻いているのが、老次式の特徴です。鴻臚館式にはこの鋸歯文がありません。
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Ⅰ期の瓦とはかなり違っています。これほど変化するには、文化的な変革があったということです。それは、文化の変化だけでしょうか。何らかの政治的社会的変化があったことになりませんか。礎石建物に瓦が葺かれた「大野城の太宰府口城門」址からの出土です。
山城には大きな城門が作られたのです。
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此の鬼瓦は第Ⅱ期大宰府政庁の造営に伴って造られた「大宰府式鬼瓦Ⅰ式A」で、大宰府の中枢施設からのみ出土する、そうです。これは、大野城の大宰府口城門から出土したものですから、大野城はさぞや立派だったことでしょう。

「大宰府」が置かれるまで、太宰府には大きな施設はなかったかもしれません。然し、その田舎に瓦葺の掘立柱の建物はあったのです。そんな建築物を造った人は何処に住んだのでしょう。「大野城」の城門址を見ると北と南の双方に集中しています。北の糟谷・博多側と、南の太宰府側に。大宰府側が未開発であったなら、宇美町側(粕屋郡側)博多側から主に出入りしたとなります。だから、主城原に官衙も建てられていたのでしょう。

でも、宇美側の有力者が大野城を利用していたと考えると、矛盾が生じます。
水城の築造の意味がなくなるからです。水城は「博多側からの侵入を防いでいる」そうですから。

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全く、謎だらけの大野城です。だけど現実には、大伴旅人が大宰府に赴任していたころ、大野城はあったのです。都から来た官人は、大野城をどんな目で見たのでしょうね。
又、明日。



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# by tizudesiru | 2019-01-21 23:57 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

太宰府都府楼の隣・蔵司に王宮があったのか

福岡県太宰府市にヤマト王権の出先「大宰府政庁」址があります。私が子供のころは田畑や家屋の中に意味深な小字があったと思いますが、今はすっかり公園になっています。北に見えるのは大野山(大城山)で、大野城が置かれているのです。


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政庁跡をふつうに「都府楼」と呼んでいますが、古代も此処を都府楼と読んでいたのでしょうか。不思議な呼び名です。
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都府楼跡の東隣と西隣は小高くなって森になっています。西隣は蔵司(くらのつかさ)と呼ばれて、古代には武器庫だったといいます。新聞記事で焼けて溶けた鉄鏃の塊が大量に出土したと書かれていた記憶があります、ずいぶん前の話ですが。裏手は谷で池があります。
この蔵司に以前は料亭がありました。何時か行ってみようと思っていましたが料亭は無くなり、跡地は文化財として福岡県が管理しているのでしょう。発掘調査があっていますから、立ち入り禁止です。見学会があって何とか写真だけ取りました。

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蔵司は二段になって、下の段が発掘中でした。木々の奥(東側)が都府楼跡です。都府楼跡は更に大きく段が下がります。つまり、蔵司の方が都府楼の役所を見下ろす位置にあったのです。見晴らしもよくなりますが、高官に対して失礼ではなかったのですかね。
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上の段は広く礎石が並んでいますから大型建物はあったのです。江戸時代の絵からはもっと多くの礎石があったことが確認できるそうです。
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蔵司の礎石は他の遺構の礎石に比べて厚みがないそうです。つまり、薄い礎石では上に重い物は置けないというのです。ですから、倉庫とは思えないという話でした。
「ではでは、人間の住まいならOKなのですね! ふむふむ、それではここは王宮だったかもしれませんね、古代の」
しかし、肯定はされませんでした。が、ここが倉庫だとしたら確かに不自然です。隣の大宰府政庁を見下ろすことになりますし、倉庫を一等地に造る意味は何でしょう。迎賓館址はここから徒歩で15分くらい離れた二日市駅の近くにありますから、客館跡でもないでしょう。でも、大型建物跡があり、火事などで鉄鏃の焼け溶けた塊が出土したのです。
面白い事実です。

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蔵司の敷地は決して狭くはありません。何らかの公的な建物があったでしょうね。
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観光地として知られる太宰府天満宮は、蔵司や都府楼跡の前の道を東に進み、突き当りに位置します。このあたりの建物は条坊に沿って作られているそうです。
藤原宮より大宰府の条坊が古いというのは、本当ですか?

では、この辺で。


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# by tizudesiru | 2019-01-18 23:33 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

当時の太宰府は田舎だったが、山城を築いた

「太宰府はヤマト王権の出先機関・大宰府が置かれるまでは、間違いなくど田舎でした」
と、ある学芸員さんが言われました。若い方ですので何処の誰かは言いませんが、これには「発掘の結果からそう思う」という付け加えがありました。
学芸員さんの話だと、大野城・基肄城は白村江敗戦後に造られたということです。水城・大野城の土木工事も一緒にやれたというのです。大野城は土塁が6キロほどあるそうです。
それも急な斜面にある、のです。そして、山地を削平して建物を建て米を運び入れねばなりません。同じ規格の建物だそうですから、設計図があったのです。それを読める人、指示する人、働く人の組織があって、その食料と寝床も確保しなければなりません。人のいないところで山城を造って、ヤマトを守ったのでしょうか・・・

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佐賀県にある基山です。土塁は山頂部から連なる尾根に造られているのです。
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辺りは平たんではありません。基肄城は、基山と坊住(ぼうじゅ)山にまたがりますので、間を谷川が流れています。
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現在地と書かれているところに、谷水を排除する水門と城門がありました。
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此の水門を通り抜けて基肄城の中に入った者は、大宝律令では一年の徒刑となっていたそうです。701年辺りでは此の山城が機能していて、都でも関心があったのですね。
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10間×3間とは大きい建物ですね。
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今では、初期の出入り口の状況をうかがい知ることは難しいようです。
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基山山頂のの土塁をみましょう。
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広い土塁はうねうねと続いています。
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見晴らしも抜群です。やはりここも、白村江敗戦後にいっきに造ったのでしょうか。
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基山は大城山とほぼ南北に向かい合っています。真南の関係になるのは、基肄城の北帝門ではないでしょうか。天智天皇が基肄城を築く時、この基山で古代から祀っていた神が降ろされました。その時から筑紫神社に祭られているそうです。
ご祭神は変わった可能性もありますが。
 
山城のためにそれまで祀られていた神が山頂から降ろされる、という話が大野城・基肄城の朝鮮式山城に共通するのです。大きな土木工事が敗戦後の食糧難(働き手を失っている)の時代にできたのかという疑問は、全く解決されてはいませんが・・・双方で祭祀が行われていたことは確かです。
神を降ろされ土木工事に従事させられ、人々はどのように戦後を生き延びたのでしょうね。
基肄城が緊急時に倉庫として役に立つかどうかも疑問ですが、此処で大土木工事がなされたのは事実ですが・・その時期は問題だとはおもいます。白村江戦より前に山城があった可能性はないのですか?
それと、当時の人の考えが、今ひとつ分かりにくいのです。 

最初に書きましたが「当時は、太宰府辺りは超田舎だった」ということです。田舎で村も小さく、人も少ないのに大土木工事をしたとは、理屈があいません。人手・財力・必要性・技術・指導者・組織力、何が抜けても国家的な工事はできないのです。他所から人を呼んだのなら、何処で寝泊まりしたのか、やっぱり気になりますからね。
今日も疑問で終わりました。では、また。


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# by tizudesiru | 2019-01-17 17:08 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

神武天皇が大城山で祭った神を、天智天皇が降ろした

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福岡県太宰府市の通古賀(とおのこが)に王城(おおぎ)神社という古社があります。そこに伝わる「王城大明神縁起」に『神武天皇が四王寺山の山頂に城を構え、大野の県主・田中熊別に警固させていた。神武天皇の山城があるので、時の人は王城(おおぎ)山と云った。詔してこの山に武甕槌と事代主を祭り、東夷を平らげることを祈らせた』この後『天皇は東夷征伐に出発し、熊別は天皇に従い東国に行った。熊別は一子熊則を残し置き、荒気武彦と蚊田王を警固させた。天皇は東征し大和国に内裏を建て橿原宮と名づけた云々』ということが書かれているのです。

王城神社の縁起によると、四王寺山に「大野城」が作られる前から、神武天皇の山城があったとなります。此の伝承が事実を反映しているのであれば、或権力者が山城を造りそこで神祭りをしていたことになります。或権力者が神武天皇かどうかは判断できませんが、宝満山やその周辺、更に西側の豊前にかけて神武天皇の伝承が散在するのも事実です。それも、神功皇后伝承地と重なるのですが。
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福岡県太宰府市・大野城市・宇美町にまたがる「大野城」山頂から東を見ると、宝満山と三郡山と若杉山が見えます。西を見ると背振山系の山々から糸島地方の山々まですっかり見えるのです。ここで神祭りをしたと考えるのは自然です。
私は、神山の信仰は弥生時代から始まっていた、と思っています。
宝満山と飯盛山(福岡市早良区)を直線で結ぶと、この大城山山頂と須玖岡本遺跡の高所を直線が通ります。その直線上に、須玖岡本遺跡の王墓、吉竹高木遺跡の王墓、更に飯盛山を越えて、糸島の三雲南小路王墓の三カ所の弥生王墓と、最後に一貴山銚子塚古墳の後円部が乗るのです。

これは偶然ではない、と何度も紹介しました。
春分秋分の太陽は宝満山から昇り、飯盛山に沈むのです。飯盛山こそ、つい最近まで福岡市ではなく「平群村」に在りました。ヤマトタケルや景行天皇が詠んだあの「平群の山」が「飯盛山」だったと思います。古代には、平群の山のいつ樫の葉を髪にさして祈ったのです。飯盛山は神山で、女性神・イザナミノミコトが祀られていました。
なぜ、イザナミノミコトだけ? 当然の疑問です。わたしは女神が飯盛山(平群の山)に、男神が宝満山に祭られていたのだと思うのです。東西の男女の神に見守られて、福岡平野の弥生時代は繁栄したと思っています。それが、信仰として残されたから宝満山の男神を祭祀する場だった大城山も祭場として聖地となったと思うのです。

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弥生の信仰が古墳時代に引き継がれ、さらに仏教が入ってきた時も聖地として仏堂が建てられた可能性があると思います。瓦は、その名残ではありませんか?

大城山の麓から延びる緑の帯は水城です。三郡山系と脊振山系の間の大きな断層地形を「水城」が横切っています。神山から延びる水城も、白村江敗戦後ではなくそれ以前から作られていた可能性があると、神社伝承と版築土塁の中に敷かれた樹木の炭素年代測定からも明らかだそうです。

大きな土木事業・版築土塁が造られるには、経済的バックと政治的意義が必要です。なによりそれを完成させる技術も必要です。一つ欠けても地域全体を巻き込むことはできません。「大野城や基椽城も取り込んだ羅城説」がありますが、それらがあったというならば壮大な権力があったということになります。

大きな権力があったなら、さて、何処にあったのでしょうね。ヤマトですか? ヤマトが白村江戦以前から羅城を造り始めていた、のですか? 無理がありますね。では
九州には大きな権力があったと、考える他ないでしょう。
彼らが大野城ができる前に、何らかの建物を建てていた…となります。
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四王寺山=大野城の「瓦葺き建物」はどんな場所にあったのか、だいたいわかりました。発掘で瓦が採集されていたことは承知しています。では、瓦はどこで焼いたのでしょう。古代寺院では、寺の近くで鍛冶もするし瓦も焼くし、柱も組み立てます。ここもそうだったのか、瓦窯があるとしたら何処だろう、などなど思っていたのです。
そんなに簡単に見つかるわけはありませんが、近くに窯跡があってもいいはずです。

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これは、主城原を歩いていたとき礎石群の横に置かれていた新聞記事のパネルです。礎石の下を掘ったら掘立柱遺構が出たというのです。それは「官衙」址だというのです。
そうであれば、人が出入りしたのは北の宇美側と云うことになります。大宰府は南側ですから官人が大宰府に住んでいたのなら、通うには不便です。
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新聞を上のように要約しまた。
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主城原の官衙は博多側を向いています。古代の官人は博多側から四王寺山に入ったし、その入り口に大きな建物(官衙)があった、となります。掘立柱の柱穴は四角です。そこから単弁軒先瓦が出土したのです。すると、建物より瓦の方が古いのでしょうか。または、建物を建てる時、他から瓦を移したということでしょうか。では、何処から・・・

私は、「白村江敗戦後に倭国に入った郭務悰は、二千の兵を四王寺山に置いたのではないか」と思っています。書紀には「敗戦後、戦後処理のためと思われる二千の兵が倭国に来た」と書かれています。彼らは筑紫にとどまっていますが、郭務悰らが何処に駐留したか定かではありません。彼等が駐屯した安全な場所は何処でしょう。那の大津から遠くはない守りやすい場所ですから・・・四王寺山です。そこに駐屯のための掘立柱大型建物を建てた時、瓦を近くの寺院や館から集めた・・・これは無理ではないでしょう。
または、もともと掘立柱の権力者の館が博多湾側を向いて建てられていた、となりましょう。その建物を郭務悰が利用したのなら、自然な展開です。

さて、真相は。


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# by tizudesiru | 2019-01-15 12:30 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

神在の神石は、古代祭祀の名残!

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話題の神石について質問がありました。「見たことがありますか?」

この写真は2016年11月のものですが、更に昔はここは畑(?)でした。背の高い草が茂って、この大石までたどり着けないほどでした。でも、畑の中に石の上部が見えていました。然し、今は竹が進出していて、スゴイ竹薮になっていました。しかし、大石までの道が作られているので、多分だれでもたどり着けます。
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近くには神社があります。神在神社です。「かみあり」とは、名前からして意味深です。
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神在神社を訪ねて行けば、歩いて5分くらいの場所に神石はあります。
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石が飛んでくるわけはありませんから、昔ここまで転がして運んだとか、ここが石原で他の石は排除できたがこの大石は動かせず残ったとか、いろいろでしょうが。長い間忘れられていたのは事実です。しかし、この石を見直す動きが高まってよかったです。
ここ神在は、古代には海がすぐ近くまで入り込んでいたので、他の地域との交流もあったと思います。人々は自分たちの結束を高めるために「神祭り」をしたでしょうから、この石が信仰の対象になった可能性はあると思います。
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カテゴリ172「糸島の神社」でもこの大石を紹介していました。他にも面白い神社が糸島にはあります。
では、また。


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# by tizudesiru | 2019-01-13 12:28 | 172糸島の神社 | Trackback

羅城説のある大野城・古代瓦は倉庫に葺かれた!

朝鮮式山城という大野城(福岡県太宰府市・大野城市・宇美町のまたがる山城)を訪ねました。なぜ山城に瓦が出土するのかという疑問があったからです。
前回訪ねた主城原には、礎石群がありました。朝鮮式山城は「神籠石系山城」と違って、削平された土地があり、建物群(倉庫という)が並び、それも三期にわたって建て替えが行われたということです。
神籠石系山城は、削平された土地はなく、古代の建物群もありません。なぜか生活用品も出土していないのです。朝鮮式山城とは違いすぎるのです。
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さて、大城山の山頂と毘沙門堂を目指しました。目的は「大野城の古代瓦はどんなところで出土したのか」、確かめたかったからです。その瓦は、いつどのような理由で山城に使われたのか、知りたいです。
歩きながら思ったことですが、尾根に倉庫群を造る意味は何でしょう。それも版築で造った土塁を歩いてたどり着くような所に造られていました。白村江敗戦後に造られたとなっていますが、敗戦後なら二万にも及ぶ男たちは戦に出ていましたから、残された女たちは必至で食糧生産をしていたでしょう。
そんな状況の所に、版築土塁の山城を築いて米を集めるなんて、無謀ではないでしょうか。同時に水城も築いていたとなると二重の土木工事とは狂気の沙汰、ではありませんか。

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四王寺川に沿って少し歩き、それから山道を毘沙門堂まで登ります。そこは、大城山の山頂近くです。つまり、「四王寺山」とも呼ばれる「大野城」は、いくつもの小さな山の連なった皿のような山塊で、中心部が谷底になって四王寺川が流れているのです。その中で標高が一番高い場所が「大城山」になります。
万葉集にも「大野山」と歌われたり、「大城山」と呼ばれたりしています。山としても、城としても認識されていたのです。

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地図で確認しますが、毘沙門堂のある大城山山頂辺りの「礎石群」は地図上に掲載されていません。発掘しにくい状況なのでしょうか。
ここは早くから人の手が入り、戦前は観光名所だったそうです。

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毘沙門堂への山道を歩いていると、道に須恵器の欠片や土師器の欠片が落ちていました。やっぱり、と思って写真を撮りました。
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更に歩いていると、何と瓦の欠片が土手に在りました。
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布目の後が見えますね。古代の平瓦ですかね。それで、辺りを見てみると、やはり土器片や丸瓦片などが落ちていました。証拠の写真を撮りました。
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そのまま目立つところに置いておきましたから、気になる人は見に行ってください。(遺物はその場にあってこそ意味がありますから、持って帰らないでね)
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何と、毘沙門堂の近くにも瓦片が落ちていました。
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瓦片には布目の後が見られます。ここには、礎石群は確認されていないのでしょうが、創建当時の古代瓦の欠片がバラバラ落ちています・・・ここには、瓦葺きの建物があったのです。7世紀の仏堂だったかもしれません。または、その後の8世紀の瓦でしょうか。
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毘沙門堂にお参りして、山頂に行きます。大城山の山頂は毘沙門堂の西隣りです。
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山頂は削平されたようには見えませんでした。では、瓦葺き建物は隣の毘沙門堂のあたりにあったのでしょうね。
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調査報告書によると、大野城で古代瓦が出土するのは、一期の掘っ建て柱の時期だそうです。つまり、建物に礎石が使われる前に、既に瓦を葺いていたということです。大野城も大宰府政庁と同じように現在「建て替えが三度(三期)あった」ことになっています。その一番古い時期に古代瓦が出るのです。
常識では、「瓦が重いので柱が土に沈まないように礎石を置いた」とされて、瓦と礎石と仏教文化はセットです。

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山頂の斜面にも瓦片が落ちていました。近くに古代の建物があったということです。瓦くずを麓から運ぶとは考えられません。仏教関係の御堂があったのでしょうか。
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(県民の森に採集された古代瓦が展示されていました)
倉庫の瓦葺きが「防火が目的(学芸員の説明では)」であれば、軒先瓦に蓮弁文様の装飾は必要ありません。屋根を飾るのは、その主人が高貴な人であるか、仏像が安置されていたか、等ではありませんか。そうでないなら…何でしょうか。
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(大城山山頂から、博多湾・糸島市・脊振山・九千部山が見える)
私は、弥生時代からここ大城山は神祭りをする聖地だった、と考えています。
白村江敗戦後にも「新羅を呪詛するため」に寺が造られたと、大野城の1350年記念誌に書かれていました。各峰に四天王を祀ったから、四王寺山なのです。それは、新羅からの呪詛を跳ね返すために必死だったそうです。昔からずっと聖地だったので、白村江敗戦後に大野城が築かれ、その後も四天王が各峰に祭られた、と思うのです。

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私は、神山の信仰は弥生時代から始まっていた、と思っています。
宝満山と飯盛山(福岡市早良区)を直線で結ぶと、この大城山山頂と須玖岡本遺跡の高所を直線が通ります。その直線上に、須玖岡本遺跡の王墓、吉竹高木遺跡の王墓、飯盛山を越えて、糸島の三雲南小路王墓の三カ所の弥生王墓と、最後に一貴山銚子塚古墳の後円部が乗るのです。
これは偶然ではない、と何度も紹介しました。
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弥生の信仰が古墳時代に引き継がれ、さらに仏教が入ってきた時も聖地として仏堂が建てられたと思います。
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四王寺山=大野城の「瓦葺き建物」はどんな場所にあったのか、興味は尽きません。
発掘で瓦が採集されていたことは承知しています。では、瓦はどこで焼いたのでしょう。古代寺院では、寺の近くで鍛冶もするし瓦も焼くし、柱も組み立てます。ここもそうだったのか、瓦窯があるとしたら何処の斜面だろう、などなど思っていたのです。
そんなに簡単に窯跡見つかるわけはありませんが、近くに窯があってもいいはずです。

では、また。


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# by tizudesiru | 2019-01-13 10:56 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

大野城の主城原に王権の宮があったのか?

天智天皇が築城させたという「大野城」は、福岡県の大野城市・太宰府市・宇美町の三つの自治体にまたがる古代山城です。
この大野城から古代瓦が出土していますが、その時代トップの文化的な建物に使われたはずの瓦が、なぜ山中の倉庫に使われているのでしょうか。はなはだ疑問です。
最近、「ヤマト王権による最初の大宰府は、大野城に置かれたのではないか」という考えも出て来たそうですが、他地方の官衙は平地に置かれていますから「大宰府」だけが山中に置かれたとは考えにくいです。
そして、大野城は百済の亡命貴族が指揮して作った「朝鮮式山城」であるというのが、歴史の定説でした。ですから、正史に記述がない「神籠石系山城」とは本質的に違うものだとされてきました。然し、ここ数年間に大きな修正がありました。「神籠石系山城」という用語が消滅したのです。

「朝鮮式山城・神籠石系山城」という古代史で使われていた言葉が「使われなくなって」数年経ちました。神籠石系山城は正史(日本書紀)に登場しません。謎の山城として、九州の王権が造ったものではないかという研究がなされていましたが。

九州の王権・・・これでは具合が悪かったのでしょうか。「すべて古代山城として国防のために造られた」という見解が出されました。
文化庁の発表以来、NHKも「古代山城」というひとくくりで、神籠石系山城を扱うようになりました。両者は同じものだというのです。更に、神籠石系山城は天武・持統朝に整えられたとなっています。
本当に朝鮮式山城と神籠石系山城は、ほぼ同じ時期に造られたのでしょうか。それに、文化庁の見解の通り「神籠石系山城の方が、朝鮮式山城より新しい」とは、本当でしょうか。
疑問符をつけたままの「大野城(朝鮮式山城・日本書紀に記載あり)」を歩いてみました。

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まず、神籠石系山城には、こんな大きな出入口はありません。古代ここには城門があったということです。百閒石垣と呼ばれています。
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北側の宇美町から大野城へ入ると、百閒(ひゃっけん)石垣が目に飛び込んできます。ここは昔から重要な出入り口とされていました。この横を流れる四王寺川の川底から城門の礎石が見つかり、県民の森に展示されています。
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大きな城門があったのです。
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百閒石垣にある案内板です。
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小さな四王寺川から三個もの礎石が見つかっているのです。では
県民の森公園の駐車場から主城原地区の礎石群をみに行きましょうか。駐車場から出てすぐに主城原地区の集落を通り抜けます。分かれ道を左に二度曲がると案内標識があります。
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神籠石系山城には、削平された平地はありません。もちろん礎石も建物跡もありません。しかし、大野城の主城原には、発掘されているだけでもかなりの礎石群があります。
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山道を下り始めると、礎石群が見えてきます。更に先に進むと、三間×五間の同じ規格の倉庫という礎石が見えます。大きな石ですから、重い物が上に乗ったということです。
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礎石群を越えて先に進みます。陸橋のような狭い土塁の上を歩いて次の礎石群に進みます。主城原地区には広い範囲に礎石があるのです。
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大野城はせりあがるような高い土塁が取り巻いています。
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ここはずいぶん荒れた感じでした。が・・・先に進みます。
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視野が少し大きくなって二段に礎石群がありました。
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削平されていることがよくわかります。
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更に進んでいきました。
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この礎石群は視界が大きくなり大城山の山頂も見えました。
木がなければ互いの倉庫群(?)が見えたことでしょう。であれば、倉庫群を確認できる高所に設置したのは何故でしょう。米蔵を高い場所に置けば出し入れに多大な労力が必要です。それも、白村江敗戦後にたくさんの男たちを亡くした女子供が百済の指揮官の下に築城した…とは、とても考えにくいです。同じころ、水城も造られたとなれば…疑問しか残りません。ここには、「もともと山城があった」という王城神社の伝承が、心をよぎります。

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ここには、元々山城(?)があった、はずです。其処では、神祭りが行われていたそうです。
次は毘沙門堂のある大城山の山頂まで歩きましょう。そこに何があるのか、重要ですから。
それで、このまま西に進んで四王寺山の中心の谷部に降ります。遊歩道が分かりにくくなって、藪のようなところを降りました。
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ちなみに大野城で見つかった古代瓦は「県民の森の資料館」に展示されています。
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では、また明日。


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# by tizudesiru | 2019-01-11 20:37 | 360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた | Trackback

江田船山古墳の石棺がひび割れた・熊本県和水町

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なごみ町の皆様にこの度の地震のお見舞いを申し上げます。

写真は、2014年夏の熊本県和水(なごみ)町に在る江田船山古墳です。ここが2019年1月3日に地震にみまわれました。熊本地震による「ひずみ」の影響で震度6弱の地震がおこったらしいです。
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江田船山古墳は豪華な副葬品とともに妻入横口式の石棺が有名です。
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新年早々に残念なニュースでしたが、被害が少なくて本当によかったです。然し、江田船山古墳の石棺にはひびが入りました。

江田船山古墳は熊本県菊池川流域に在りますが、不思議なことに菊池川流域の古墳は、バラエティに富んでいます。いろいろありの地域なのです。
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家形石棺だけではなく舟形石棺もありますし、石館の装飾古墳もあります。
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菊池川中流域の山鹿市のチブサン古墳(石館の装飾古墳)が有名ですね。
江田船山古墳の近隣には塚坊主古墳もあります。同じく装飾古墳です。
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家形石棺から舟形石棺まで、菊池川流域にはいろいろあるんです。
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この流域の石棺が瀬戸内海を通って遠く関西にまで運ばれているのです。なぜ遠くまで運ばれたのでしょう。相当な人手と日数と船の技術が必要だったではずですね。運ぶ理由も。
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もちろん江田船山古墳の周囲には石人石馬も置かれていました。ここの公園に熊本各地の石製装飾品が置かれていますから、必見です。それにしても、石製古墳装飾品が置かれているということは、江田船山の被葬者も筑紫君磐井の関係者だったということになりますね。北熊本ばかりではなく中熊本も磐井の勢力範囲ということですが。

それにしても、気になることがあります。過去の自然災害です。
貞観6年(864)7月17日、富士山爆発(「日本三代実録」)
貞観11年(869)陸奥国で大地震と津波発生。
貞観13年(871)出羽国の鳥海山が噴火。
貞観16年(874)薩摩国の開聞岳が噴火。
「三代実録」は最近よく取り上げられますからご存知かもしれませんが、休火山の噴火は見逃せません。最近の火山の活動は活発だと思うのです。どのような対応を取ったらいいのか迷いますが、慌てずに行動しようとは思っています。

今年が良い年でありますように。


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# by tizudesiru | 2019-01-05 16:30 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Trackback

宗像大社・三女神祭祀の始まりを語る大島の御嶽山

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何年前でしょうか、筑前大島の御岳山の山頂の発掘があったのは。わたしは、その事を新聞で知りました。そこで神湊(コウノミナト)から船に乗り大島へ出かけました。祭祀線を引くには祭祀場の位置は重要ですから、ぜひ現地を確かめたいと思ったのです。大島は私にとってなじみのリゾートです。夏は泳ぎに行きましたし、今はなくなっているのですが温泉施設で食事をしたり、大島マラソンの応援のためにお魚料理を食べに行ったり、なかなか面白い所なのです。
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関東の知人や客を三度ほど案内もしましたが、それは御岳山から北部九州の神山を紹介するためでした。御岳山の展望台からの眺めは最高で、晴れた日には背振・雷山・宝満・三郡・英彦山という霊山やその方向が一望できるのです。
もちろん宗像・津屋崎の山の説明をするには絶好の場所なのでした。「此処で神祭りをしないわけはない」と常に説明していたから、「なるほど」と納得してもらうのが嬉しかったのです。下の写真は、報告書をコピーしたものをデジカメで写したものです。わたしは展望台から沖ノ島を見たことはありません。見つけきれなかったのです。でも、見えるんですね、沖ノ島・壱岐・対馬が。
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御岳山の発掘場所を見学に行くと、一人の青年が黙々と仕事をしていました。誰もいないので彼に声をかけました。それから、聞いてみたのです。どんなやり取りだったのか定かではありませんが・・・
「この遺物は何時くらいですか、時代は?」
「奈良時代ですね」
「此の下には古い祭祀跡がありますか?」
「いや、此の下は岩盤ですから、是より下に遺構はありません」
私は驚くのと同時に安心しました。ここは神島で祭祀場があると思っていたからですが、同時に納得もしたのです。宗像氏の三女神祭祀が奈良時代辺りに成立したと思っていましたから。
数年たって出された報告書の最後に次のような「まとめ」がありました。
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沖ノ島祭祀の中の露天祭祀の時期と、大島御岳山の山上祭祀と、宗像大社辺津宮の祭祀期間が「7世紀から10世紀」という結果ですから、現在につながる祭祀の形は7世紀に成立したということです。そのころ「天孫を助け奉る神」となったのでしょう。
宗像大社は天孫を助け奉る神

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天孫降臨の話が出来上がったのは奈良時代のはじめでした。その頃は三女神の話が出来上がっていました。宗像氏は高市皇子を通して祭祀に関わるようになったのですね。それまで、宗像氏は三女神を祀っていたのでしょうか。それは分かりませんが・・・

このブロブでも紹介しましたが、宗像大社の西側の「名兒山」の名を名付けたのは、「オオナムチ命とスクナヒコナ命」でした。
「おおなむち すくなひこなの神こそは 名付けそめけむ 名のみを 名兒山と…」いう大伴坂上郎女の歌があります。奈良時代にはこのように詠まれ、人々の認識だったのです。では、
この辺りで信仰されていた神は、古代にはオオナムチとスクナヒコナだったのではありませんか。
時代が変わり宗像氏が入って来て、三女神に御祭神が変わったのかもしれません。または、宗像氏はもともとオオナムチ命を祀っていた、ということでしょうか。
そういえば、宗像氏の祖先神は「大国主命」でしたね。初めは祖先神を祀っていたけれど、古代に天皇家とのかかわりにおいて御祭神を変えたということでしょうか。それは、どの時代にもあることですから、不思議ではありません。
沖ノ島が世界遺産となったその事はすごく意義深い事です。が、多くの人間が背負い続けて来た歴史とは何だったのか、庶民を抜きにして沖ノ島祭祀はあったのか、武器をもって奉献品としたのにはどんな意味があったのか、「いうべからず」を守ってきた海人の歴史を語ることができるのか、九州の歴史の真実を語ってくれるのか、沖ノ島は大きな位置にあるのです。
白石太一郎さんは「沖ノ島祭祀は、糸島の豪族とヤマト王権と宗像氏が始めたのではないか」と云われているらしいです、ご本人から聞いたことはありませんが。 

四世紀にヤマト王権ですか? 私にはここが不思議なのです。卑弥呼の次の世代か、その次の世代にはヤマトが沖ノ島祭祀をしていた? そんなわけはないでしょう。
奈良時代・平安時代だって、九州を治めきれていなかったのではありませんか?

私は、津屋崎古墳群の有力者が沖ノ島祭祀をしていたと思います。何のために? それは半島に渡るためです。新羅への侵攻には安全な航海が必須であり、戦勝祈願は当然でした。
つまり、倭五王は九州から船出したのです。初めは有明海からですが、北部九州に勢力を広げた狗奴国が勝浦から船出するようになり、5世紀には渡半島からの船出も多くなったと思います。現代の感覚では新羅への侵攻を支持するわけにはいきませんが、それは歴史の事実だと思います。
では、このへんで。

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# by tizudesiru | 2018-12-29 11:22 | 359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群 | Trackback

元は縫山だった?縫殿神社は奴山に在ります

先日、遠慮してお参りしなかった須多田天降天神社に行きました。
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ここは、須多田古墳群の一つです。
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後円部が少し盛り上がって見えます。この古墳の正面に、須多田ミソ塚古墳があります。
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今日は奴山の正園古墳(円墳)を訪ねる予定でした。此処は、以前は奴山5号墳と呼ばれていました。あいにくの雨となったので、近くの縫殿神社に行きました。
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奴山は、元は縫山だったのでしょうね。
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更に上宮がありましたが、遠慮しました。
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あたりは静かすぎて、里山なのに深い山の中のように感じられました。
階段を下りようと下を見ると、黄葉が散り敷いていました。明日が冬至です。

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優しい色合いに心慰められて、雨の中を帰りました。
古代にここを治めた首長は、正園古墳に眠っているのでしょうか。以後の写真は正園古墳の副葬品です。

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初期須恵器器台と鉄針及び筒形銅器片。
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三角板革綴短甲。では、古いタイプの甲冑になります。それと、鉄製農耕具。
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棺外に、鉄製武器がたくさんあります。
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他に玉類もあります。
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地方の豪族の小さな円墳(32m)ですが、副葬品がたくさんあるのですね。
晴れてる日に訪ねたいと思います。縫殿神社の近くです。

では、また。


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# by tizudesiru | 2018-12-21 22:58 | 358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代 | Trackback

津屋崎古墳群・須多田、奴山の首長達は海を見ていた

津屋崎古墳群を訪ねたのは、須多田天降天神社を確かめるためでした。以前も集落内の道が分からなくて引き返したのです。今回は見つけられると思っていました。
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須多田古墳群の中ですぐに見つかるのは須多田ニタ塚古墳です。畑の中に取り残されています。
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此処は初期横穴式石室を持つ円墳で土師器が出土していますが、須恵器は見当たりません。鉄塊(鋳鉄)が出土しているのに、須恵器は見当たらないのです。
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上、報告書の写真「金属学的調査」を参考までにコピーしました。
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初冬の穏やかな光は、広々とした田園風景にあふれていました。
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西北には渡半島が見えています。古代、須多田と渡の集落の間には内海が入り込んでいましたから、一面青かったでしょうね。此処で、須多田集落の方を振り向くと、須多田ミソ塚古墳が見えました。前方後円墳であることは直ぐに分かりますが荒れた様子です。
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上の写真の右端の辺りに須多田天降天神社古墳があるはずです。
そのまま須多田集落にに向かうとすぐに須多田下ノ口古墳が見えます。須多田下ノ口古墳とミソ塚古墳からは、須恵器が出土しています。
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須多田下ノ口古墳には仏堂は建てられていますので、発掘されたのは周囲だけでしょうか。
ここからは、須恵器の他に刀子・勾玉・土師紀が出土しています。
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集落の中なので入りませんでしたが、須多田上ノ口古墳があります。
また、須多田宮ノ下古墳には土師器・鉄剣・直刀・鉄鏃・砥石が出土しています。鉄製品が多いのに、須恵器はないのでしょうか。
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須多田古墳群は上記のように、とても魅力的な処です。
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帰りに立ち寄ったのが、新原・奴山古墳群でした。奴山古墳群の22号墳の前から、須多田方面を眺めました。南奥から宮地岳・在自山・対馬見山と連なっています。山地の東は宗像市で、東郷辺りでしょうか。

津屋崎の山々は決して高くはありませんが、山を挟んで様子がやや違っています。もともと住んでいた人の首長が津屋崎古墳群を築いたとなっていますが、津屋崎側は決して広い土地ではありません。古墳を築く財力の基盤は何だったのだろうかと思います。

上の写真の左の林の中にある小さな墳丘は奴山古墳群・6世紀後半の群集墓だそうです。
では、奴山古墳群を少し散歩します。
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15号墳はまだ修復中でした。その隣は、22号墳です。
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22号墳(ホタテガイ式前方後円墳)には樹木が生い茂っています。此処には、縫殿(ぬいどの)神社がまつられています。
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縫殿神社と向かい合うのは、20号墳(円墳)です。
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奥に、前方後円墳。
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24号墳でした。
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どんどん歩いて東側に戻り道路を渡ると、25号墳が見えます。
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25号墳は奴山古墳群中で最大(35m)だそうです。樹木がないので、ここから勝浦の集落・勝島・草崎が見えます。この丘は選ばれた場所なのでしょう。
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更に、30号墳などが続きますが日も傾いたので帰ることにしました。
津屋崎古墳群が展開するのは、歩けばさわやかな風が通る台地です。
晴れた日は最高ですね。   では、又。


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# by tizudesiru | 2018-12-17 16:33 | 358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代 | Trackback

津屋崎の新原・奴山古墳群は宗像氏の奥津城ですか?

福岡県福津市の津屋崎古墳群に行きました。最近、沖ノ島関連遺産群となったので、歩きやすいように整美されています。
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津羅崎海岸に立つと相ノ島が青く浮かんで見えて風は穏やかでしたし、海にはウィンドサーフィンを楽しんでる人がたくさんいました。
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西には福岡市の立花山や志賀島が見えていました。
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北西に連なるのは渡半島、東には津屋崎の山が南北に連なります。南から宮地岳・在自山・対馬見山と続きます。
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在自山(あらじやま)の麓には「在自剣塚古墳」がありまして、そこから北に向かって、津屋崎の山並みの麓には古墳群がつながります。
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その山並みは、東の名兒山・桂岳までつながるように見えますが、間に断層があり、ここから宗像側に入ることができます。津屋崎古墳群は断層地形を挟んで勝浦地域と津屋崎地域に広がっているのです。
奴山古墳群は勝浦側も津屋崎側も望む位置に造られています。
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写真では道沿いに連なるのが奴山古墳群の群集墓です。海に浮かぶのは左が大島、中央が勝島、右に見えるのは島ではなく草崎という岬です。
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奴山古墳群の眺望のきく場所に展望台が造られていました。
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津屋崎山地がびっしりと連なるので宗像地域とはながく行政区は別でしたので、ここが宗像市の奥津城とは思えないのですが、世界遺産登録の時「関連遺産群」になりました。しかし、勝浦峯ノ畑古墳の副葬品は、沖ノ島と関係が深いので、関連遺産であることに間違いはないと思いますが、宗像市の奥津城と決めるには無理があるかなと思いました。
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展望所にはボランティアの方がおられて親切に案内されていました。遺跡で表採された須恵器と円筒埴輪の破片が置かれていて説明されていました。
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夕方近くなりましたが、そぞろ歩きしましょうか。
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スタートは板碑となりましたが、あとは、また明日。
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スタート地点から南を見ると、対馬御山・在自山・宮地嶽が連なっていました。

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# by tizudesiru | 2018-12-17 00:37 | 358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代 | Trackback

古墳の時期を決めるのは墳丘の形・副葬品・埴輪・須恵器・石室ですか

「須多田天降天神社の築造時期について」

須多田天降天神社古墳が6世紀半ばに築造されたという、公的機関の認定に私は疑問を持っているのです。それは、「須多田天降天神社古墳は6世紀半ばに築造」に対してだけではなく、津屋崎古墳群全体の築造時期について疑問があるのです。副葬品や出土物・須恵器や・装飾大刀などから新旧の順番は地域内で比較検討して古墳群の時間的位置付けは他地域と比べれば何らかの答えが見つかると思います。

とはいえ、時期が確定される古墳がないのです。いえ、たった一つ指標になる古墳があります。それが岩戸山古墳です。岩戸山古墳とその周辺の古墳を天降天神社古墳を比較して、その時期を考えてみましょう。
(1)須恵器を比べる

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確かに、①須多田ミソ塚と➁下ノ口と③天降天神社の須恵器には違いがあります。どれが古いタイプかと云うと③の須恵器です。時に、①ミソ塚の須恵器は全国に展開している「はそう」文字は(瓦+泉)が出土しています。この須恵器の胴に穿孔(せんこう)がありますから、儀式用に作られたものです。穿たれた穴に竹の筒を差し込み酒などの注ぎ口としたのだそうです。葬送の儀式が整ってきた時代にミソ塚古墳は造られたことになります。

では、①ミソ塚古墳が③天降天神社古墳より新しい古墳であることを、八女丘陵で確かめます。

岩戸山博物館に5世紀の丸山古墳(右)と6世紀の釘崎古墳(左)の須恵器を展示しています。

明らかに5世紀の丸山古墳が古く、形も天降天神社古墳の須恵器に似ています。

6世紀になると、須恵器の形式も複雑になり、かつ大量に副葬されるようになるのです。

更に、6世紀には特徴的な「はそう」が付いてきます。「はそう」を出土する古墳の方が新しいのですね。

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6世紀の古墳には「はそう」が出土しますね。童男山古墳(左)や立山山13号墳(右)は「はそう」を伴い須恵器の種類も多いので、より新しい古墳になります。蓋つきの容器といい、焼成技術が上がっています。

 

これらの事実を総合的に見ると、天降天神社古墳の築造時期は6世紀ではなく、5世紀の様相です

(2)埴輪で時期を確かめる

では、次に埴輪をみましょう。

5世紀半ばとされる勝浦峯ノ畑古墳には形象埴輪は出ません。円筒埴輪の欠片がわずかに出ています。葺石はありますが、古い形式の古墳であることが分かります。次の写真が埴輪片です。

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峯ノ畑古墳には埴輪・葺石・革綴短甲などを出土していますが、須恵器は見当たりません。ですから。八女丘陵の丸山古墳(5世紀)より古い古墳になります。大量の鏡の副葬といい石室内の赤色顔料といい弥生の伝統を色濃く残しています。古墳としては、糸島市の一貴山銚子塚古墳(4世紀・柄鏡形前方後円墳)に続く時期となりましょう。(一貴山銚子塚には馬具の副葬はありません。)

また、峯ノ畑の墳形も方墳部があまりバチ形に開かない柄鏡形に近く、一貴山銚子塚古墳と似ています。峯ノ畑は葺石・埴輪はありますが、形象埴輪は確認されていません。まだ、初期の段階なのです。5世紀中頃とされる「勝浦峯ノ畑古墳」は、本当に5世紀中頃としていいのでしょうか。

では、天降天神社と比べましょう。此処には円筒埴輪と朝顔形埴輪(?)らしきものが出ています。須恵器の器台も出ていますから、峯ノ畑より新しい古墳となります。では築造時期は?

(3)峯ノ畑古墳の副葬品で築造時期を探る。

この峯ノ畑古墳は確かに横穴式石室ですが、石室に石柱が建てられた国内ただ一つの古墳です。
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然も、数多くの鏡と鉄刀を副葬する古墳で、この時期の古墳では最大級の量です。

更に、ここでは挂甲が出土していませんから、同じ古墳群の勝浦井ノ浦古墳(挂甲出土)より古いと判断されています。そして、何かわからなかった金属片が精査の結果「龍文透彫金銅製冠帽」「銅釧」であることが判明しました。疑いもなく首長の墓だったのです。

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この古墳には三角板革綴短甲が確認されていますが、革綴りですから時期は古くなります。首長は最新のものを手に入れたでしょうから。革綴短甲は重要な手掛かりです。

副葬品の多さを見ると力のある首長であることが分かります。その人が海を臨む地に埋葬されたのですから海外と関わりがあったことになり、それも大量の武器武具からして武力をもって渡海したことになりましょう。彼は倭五王時代の人で、5世紀半ばではなく副葬品から見ると4世紀の人でしょう。4世紀の短甲には既に「鋲留」の技術が施されていますから、「革綴」短甲の時期はその前の技術なのです。遅くとも4世紀末でしょうか、5世紀初頭では技術的な面で不合理です。

峯ノ畑古墳の築造時期は4世紀の中頃か、4世紀の末になるでしょうね。

天降天神社古墳は峯ノ畑古墳より新しいけれど、6世紀半ばまで下がることはないと思います。

(4)墳形で天降天神社古墳を考える

さて、一貴山銚子塚古墳と勝浦峯ノ畑古墳は、前方部が広がっていないと書きました。然し、天降天神社古墳の前方部は裾が広くなっています。図14を見ると、新原・奴山12号墳とほぼ同じ形です。天降天神社古墳は、ほぼ同じ時期の築造と考えていいと思います。新原・奴山12号墳はほぼ5世紀中頃だそうですから、天降天神社古墳も5世紀に入れてもいいでしょうか。

墳丘の形を見ると、天降天神社古墳は5世紀築造の古墳に入ると思われます。

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勝浦峯ノ畑古墳の墳丘測量図も見ましょう。何カ所かトレンチして、図面におこしてありますから、全くこの通りだったかは分かりませんが、残っている地形も反映されているでしょう。前方部の裾がだんだん広がっていくと後期の古墳になると思います。

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須恵器と埴輪と副葬品と墳丘の形で、古墳の築造時期を考えることは可能だと思います。
と、いうわけで、須多田の天降天神社古墳の築造時期は、6世紀半ばではなく5世紀に入ると思います。
それが、今日の結論です。
では、この辺で。



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# by tizudesiru | 2018-12-11 00:25 | 358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代 | Trackback

津屋崎古墳群・天降天神社古墳の築造年代を考える

たいへん面白い質問をいただきました。

旧津屋崎町の須多田天降天神社古墳は如何なる古墳ですか?

福岡県福津市にある津屋崎古墳群の中の天降天神社古墳が「どんな意味を持つ古墳か」というご質問ですが、一言では言いにくいですね。

まず、津屋崎古墳群が宗像氏の奥津城であるかという疑問もありますし、耕地面積の少ない(勝浦・津屋崎地域には内海が深く入り込み田畑の面積が極端に少なく、古代の海岸線に古墳が築造されている)土地で何をして財政の基盤としたのか、人はどのように食料を得たのか、首長は何を以って統治しえたのか、等々疑問がありすぎるのです。

何もわからないのに、古墳だけ見るわけにもいきませんからね…

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「図2」でも分かるように、古代の福津市も宗像市も内陸に海が入り込んでいます。この後、陸化していくのですが、奈良時代になっても津屋崎から勝浦にかけて海でした。この状況では耕作地はほとんどなく、この土地で大きな人口を養うことはできません。では、大きな古墳を作った首長は何を握っていたのでしょうか。墳丘墓を作るには経済力が必要ですから。そして、津屋崎を選んで墳丘墓を築いた理由は何だったのでしょうか。この疑問を持ちながら、須多田天降天神社について考えます。
(1)須多田天降天神社は、何処に何時築造されたのか

津屋崎古墳群では、北の勝浦古墳群から南に下るにしたがって時期が下ります。南に降りるにしたがって新しい古墳になるそうです。須多田古墳群(天降天神社・あもりてんじんじゃ)は南側にありますね。6世紀の古墳になるそうです。

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津屋崎古墳群の中で、天降天神社は⑦の位置に有ります。

古代にはすぐそばに海があったでしょう。近くに4基の前方後円墳があり、近くに在自剣塚古墳があります。

古代の須多田の地は内海に面しますから波は穏やかで船を停留するには良い所だったでしょう。東西1キロ~南北1キロの狭い範囲にある須多田の4基の前方後円墳は同じ一族の墳墓と思います。

近くに新原奴山古墳群がありますが、須多田古墳群との関係はどうなるでしょうね。親族関係もあったかもしれませんね。

さて、これらの古墳の築造時期は何時とされているのでしょう。

「国指定史跡 津屋崎古墳群 保存管理計画」(福津市教育委員会)によれば、次のような時期が提示されています。

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津屋崎古墳群は大型化する中期(5世紀)から造営された、となりますね。それも、勝浦峰ノ畑古墳は横穴式石室で100mの前方後円墳とは、いったい何が起こりこの結果となったのでしょう。しかも、沖ノ島の奉献品の鏡と同笵鏡を副葬しています。航海の安全を願った奉献品と同笵鏡です。

此処で考えられるのは、「勝浦峯ノ畑古墳の被葬者が沖ノ島祭祀をしていた」でしょう。何のための航海だったか、それは新羅への侵攻です。新羅本紀にある「倭兵・倭・倭軍・倭国」の進行です。5世紀に倭兵は勝浦から船出した、となります。

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それは、勝浦の地名からも容易に想像できます。外海に面して長く伸びた半島は「渡(わたり)半島」、大陸や新羅に渡るという意味です。勝浦港の岬は「草崎(くさざき)」、戦崎(いくさざき)ともいえましょう。草崎の先に浮かぶ島は「勝島」で、勝浦集落の背後の山は桂(かつら)岳。漢字が桂になっていますが、もとは「勝浦岳」でしょうね。

此処にそろっているのは「勝」という言葉です。戦いに勝つと云う強い願いが込められていると思います。5世紀、半島に侵攻したのは倭の五王でしたね。

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そうして、勝浦古墳群、新原・奴山古墳群は造られたのです。

さて、6世紀になって須多田古墳群の時代になるのですが、天降天神社古墳には須恵器と人物埴輪が出土しています。勝浦峯ノ畑古墳からは円筒埴輪の欠片が出土していますから、埴輪はあったのです。

然し、形象埴輪(人物や動物、道具などの埴輪)はありません。

つまり、後期の古墳から形象埴輪は出土するのです。ほぼ6世紀の古墳から様々な形象埴輪が出土すると、考えていいでしょう。

天降天神社の人物埴輪は椅子に腰かけています。このスタイルは明らかに支配者のようです。然し、6世紀の他の地域の首長の埴輪のように冠や甲や鎧や祭祀具や大刀は見当たりません。そういうものを持たない時期の埴輪でしょうか。然し、意味もなく人物埴輪を作っていないはずです。有力者の家族だったのかもしれません。または、大人になる前、武人になる前に死亡したのかもしれません。

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更に、須多田天降天神社からは、初期須恵器が出土していますが、これも重要です。須恵器は畿内から広がったとされますが、そうでしょうか。新原・奴山古墳群では1号・7号・12号・22号・30号から須恵器が採集され、1号から鍛冶具が出土しています。高温で焼ける窯はあったのです。6世紀の天降天神社古墳の時代に須恵器がないわけはないでしょう。

福岡県の須恵器は6世紀からというのが定説のようですが、それは違うでしょう。この事については、また明日。

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資料として『津屋崎古墳群Ⅱ』勝浦峯ノ畑古墳、などの報告書を使わせていただきました。

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# by tizudesiru | 2018-12-09 22:52 | 358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代 | Trackback

群馬県藤岡市の古墳文化はいつ始まったのか

古墳文化の始まりと終焉を群馬の古墳群が教えてくれる、と旅をしながら思いました。
藤岡歴史博物館も指摘している通り「群馬の縄文時代は長く続き、弥生時代は短い。そこへ古墳文化が流入する」という状況なのです。

群馬における目覚ましい古墳文化の発展と浸透から、何かが起こった、と私は思います。
少し、思い出しましょう。
初めに訪問した藤岡市の白石稲荷山古墳の主体部は竪穴式礫槨でした。同じ前方後円墳の七輿山古墳は横穴式石室らしい(新聞記事)ですから、藤岡の場合、古墳文化は白石稲荷山辺りから始まったのでしょうか。猿田川の水系は古代の人たちの重要な足(交通手段)だったのですね。藤岡の古墳群はほとんど川沿いに在ります。
川沿いの豪族が力を持ったのでした。
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猿田川流域の白石稲荷山・皇子塚・平井1号・七輿山古墳とめぐってきました。
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四か所の古墳はすでに紹介しています。では、伊勢塚古墳を紹介します。
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藤岡市上落合字岡三一八 に有ります。七輿山古墳(上落合)と同じ上落合です。
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小さな古墳ですが、川原石を積み上げています。川を交通路として使うためにも川原石は除かねばなりませんからね。人手をかけて、川から運んだのですね。石室の中もびっしり川原石です。
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墳形は、円墳ではなく二段築造の不正八角形墳だそうです。玄室は胴張(どうばり)で丸く膨らんでいます。九州のある地域も石室が胴張です。出土物は、須恵器と埴輪。6世紀後半の古墳だそうです。伊勢塚古墳の石室入口から七越山古墳が南に見えます。同じ氏族の墓でしょうか。副葬品は見つかっていません。持ち出されたのでしょうね。
藤岡の古墳文化は短い時間で瞬く間に変化したことになりましょうか?

群馬の文化度が高かったことは理解できますが、変化の速さには違和感があります。他からの影響があったとしても、ほぼ中期・後期の古墳文化が一度に流入するとは理解しがたいです。
弥生後期の墳丘墓から初期古墳へと云う変化の過程が見えないのも不思議、それだけに興味がわきます。
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それにしても、5世紀前半という白石稲荷山古墳(175m)の前方部は横幅が広いですね。初期期の古墳は、もうこんなに裾が広がっていたのですかね? 更に、陪冢(ばいちょう)は、四角の方墳です。臣下や一族の人は、方墳を作ったのですね。主人は前方後円墳、その下につながる者は方墳、そんなルールがすぐにできていたということですか?
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円墳の皇子塚古墳は六世紀で、横穴式石室でしたね。 
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須恵器が置かれますから、6世紀と考えられたのでしょうね。
須恵器と横穴式石室は6世紀? 何を基準に古墳をみたらいいのか考えます。
平井一号墳の須恵器は、関東での生産ですよね。では、埴輪窯がその技術を進化させて作ったということでしょうか。

そうそう、気になるのは埴輪です。初期の白石稲荷山の時代に、葺石・朝顔形円筒埴輪・形象埴輪は始まりから古墳の必需品として存在した、のですね? 
形象埴輪が現れるのは6世紀からだと教えられてきたのですが・・・すっかり5世紀になっていますね。
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藤岡は埴輪の供給地だったそうで、各地に埴輪を出荷しているそうです。大きな供給地だったらしく、地域の一大産業になっていたのですね。その後、須恵器窯から瓦窯へと発展し近代まで瓦製造業が継承された、となります。千年以上産業が続いたとは、なかなかないこと、スゴイことです。

古代には埴輪産業で築いた富で、古墳が作られたのでしょうか。つまり、一斉に大きな古墳が作られて大きな需要があり、それが産業になった…どちらが先でしょうね。
埴輪造りの技術を持ち込んだ人たちは猿田彦を祀る人々で、墓制は舟形石棺を持ち込んだ、と思うのです。
更に言えば、その人たちは近畿の人ではないと思います。九州の人たちだと思うのです。

古墳文化が何時、群馬に入ったのか、それを考える手がかりが平井1号墳に有ります。勾金の大刀の時代です。
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束にサーベルのような金具が付いている大刀です。埴輪になっていますから、権力者の象徴的な持ち物だったのでしょう。

古墳を眺め見ているだけの私ですが、古墳時代の始まりが近畿の箸墓だとはどうしても思えません。

各地の古墳を見ても、遺物や副葬品が交差している上に時期の特定が資料館ごとに差があるので、何処が発生なのか出土遺物を頼りに古墳を考えることもできません。
さらに、古墳の形から考えることも、大きさから考えることも、できません。
畿内の大型でバチ形に後円部が広がる箸中山古墳を三世紀としたので、全国の古墳の時期時代を図る目安がなくなったのです。

ピラミッドにしても、武器型祭祀品にしても、弥生墳丘墓にしても、忽然と超大型が現れることはありません。ほとんど、だんだん大型化し最盛期を迎え、終末期に向かって小さくなり少数になっていく、それが自然だと思います。
そんな基本的な流れを遮断するのが、政変であり内乱でありましょうが。
群馬の古墳はそのあたりを解明するカギを持っていると思うのです。

群馬の旅は、まだまだ続くのです。

此処で「七輿山古墳の羊太夫伝承」について少し紹介したいことがあります。
羊大夫は実在の人ではないか、それも奈良時代の多胡碑に名のある人ではないか、ということ。
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上野の三碑は有名ですね。中でも一番古いのが多胡碑です。
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次のように文が残されています。


弁官符上野國片罡郡緑野郡甘  良郡并三郡内三百戸郡成給羊 成多胡郡和銅四年三月九日甲寅 宣左中弁正五位下多治比真人 太政官二品穂積親王左太臣正二 位石上尊右太臣正二位藤原尊

訳すると、

弁官局からの命令である。上野国の片岡郡緑野(みどの)郡甘良(かんら)郡の三郡の中から三百戸を分けて新しい郡を作り、羊に支配を任せる。郡の名前は多胡郡とせよ。これは和銅4年3月9日甲寅711年4月1日に宣べられた。左中弁正五位下多治比真人。

知太政官事二品穂積親王、左大臣正二位石上麻呂、右大臣・正二位藤原不比等。

碑銘文に「多治比真人・穂積親王・石上麻呂・藤原不比等」のことが彫られていますから、碑文が彫られたのは奈良時代になります。この四人は万葉集に名前がありますね。
七輿山古墳の伝承は何時の時代だったのかというと、多胡碑の時代であれば「羊(ひつじ)太夫の伝承は奈良時代」になり、羊太夫その人に悲劇が訪れたとなります。彼等は七輿山古墳の被葬者の親族だったので先祖の墓に来て自害したとなります。・・・落合の地名も納得です。
多胡郡を賜わった羊は、「よう」と読まれ、渡来人説が有力です。然し、女房を七輿山古墳に葬ったのですから、古墳の被葬者一族と無関係とは思えません。やはり、「よう」ではなく伝承のように「ひつじ」太夫なのでしょう。
そして、近くの舟形石棺の主もこの一族の祖先でしょうね・

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此処でもう一つ、気になる遺物「評首と彫られた土器」があります。

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平安時代の住居跡から出て来たという土器に刻まれていた「評首」こおりのおびと。評(こおり)と呼んでいますが正確な読みは不明で「こおり」と読んだであろうという説で「評」は「こおり」となっています。「評」は701年の大宝律令が成立するまでの行政区と云われています。評が「郡」に変わったのだそうです。
平安時代は大宝律令から70年以上たっていますから、当然「評」という行政区はありません。
然し、「評首」という名称なり役職の呼び名が残っていたということでしょうか。
刻書土器の持ち主は「こおりのおびと」に格別な思い入れがあった、その呼び名を使うことが誇りだった、ということでしょうか。または、奈良時代の後期・平安時代の初期になっても「評」という行政区が使われ続いていた、のでしょうか。

ふむ、群馬はなかなかミステリアス。
長い群馬のたびに御付き合いくださってありがとうございます。
では、また明日。

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# by tizudesiru | 2018-12-06 23:54 | 357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎 | Trackback

七輿山で落ち合った7人の女房伝説と宗永寺舟形石棺

群馬の古墳探訪の旅、藤岡市を歩いているところです。
皇子塚古墳のある丘を北に降りると、くぼ地が見えました。そこは七輿山古墳の周濠でした。
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七輿山古墳(145m・前方後円墳)大きいので全体がつかみにくいですね。濠は内と外に二重に巡り、その堤には、円筒・朝顔形円筒・人物・馬・盾などの埴輪、他にも須恵器や土師器が置かれていました。
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藤岡歴史資料館に七輿山古墳の埴輪が展示されていました。
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館長さんのお話によると、「円筒埴輪に七本の筋があります。これは、被葬者の身分が高いことの証」ということでした。七条凸帯というそうです。6世紀前半の古墳だそうです。後円部は東、西の前方部が広いですね。
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七輿山古墳には「羊太夫(ひつじだゆう)」の伝承があります。

奈良時代に新設された多胡郡(たごぐん)を賜わった羊太夫は、八束小脛(やつかのこはぎ)という神童の引く天馬に乗って朝廷に日参していました。ある日羊太夫は悪ふざけで小脛の両脇に一本ずつ生えている白羽を抜いてしまいました。すると、神通力を失い天馬が走らず、朝廷に日参できなくなりました。朝廷は羊太夫が謀叛(むほん)を計っているとして討伐軍を派遣しました。八束城を追われた羊太夫一族が落ち合った場所が「落合」という地名になり、羊太夫の女房ら7人がここで自害し、それぞれ輿に乗せて葬ったので「七輿山」という名前が伝えられているのです。

羊大夫一族は、ここまで逃げてきて落ち合ったのに、7人の女房は自害したのですか。なんとも悲しい伝承です。七輿山古墳の東にお寺があって、そこに舟形石棺があります。舟形石棺と云えば、九州の熊本が発生でしょうか。気になる伝承と舟形石棺ですよ。
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舟形石棺は、古老の伝えでは宗永寺裏東塚古墳にあったのもだそうです。それが宗永寺山門の西南方向35mにあった天神山古墳の墳頂に移され、現在は寺の境内に置かれているのです。転々としたのですね。
凝灰岩で作られていますから、石棺製作の石材の伝統が伝播しています。
最初に作られたのは、小さな古墳だったのでしょう。それでも、石材の伝統は守ったということですね。
それにしても、宗永寺の石棺は熊本の舟形石棺に形が似ていますね。
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七輿山古墳、なかなか面白かったですね。地名は、上落合字七輿です。
では、又明日。


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# by tizudesiru | 2018-12-05 00:00 | 357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎 | Trackback

九州と共通する葬送儀礼と石積み技術を持つ皇子塚古墳と平井1号墳

古墳時代の時間迷路の中、導かれるままに群馬の旅を続けています。藤岡歴史博物館の正面に見える皇子塚(おうじつか)古墳に立ち寄りました。中央の丸い木の後ろの古墳がが皇子塚古墳になります。その左横が平井地区1号古墳です。この双方の古墳から装飾大刀が出土しています。
皇子塚古墳には、単龍環頭大刀(たんりゅうかんとうたち)が石室の外に置かれていました。この大刀は、何を教えてくれるのでしょう。
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藤岡歴史博物館に、二つの古墳の紹介がありました。
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皇子塚(おうじつか)古墳は、径31mの小さな円墳です。横穴式石室(全長8.33m)があります。玄室は3.52mの長さがあります。
皇子塚古墳の墳丘には、円筒埴輪のほか、朝顔型・人物・馬・盾・靫(ゆぎ)・大刀・鞆(とも)などの埴輪が出土しています。石室から、人骨・馬具・ビーズ玉・鉄鏃・耳環が出土し、前庭から単龍環頭大刀の柄頭、須恵器、甕、坏などの土師器(はじき)6世紀後半とのことです。
単龍環頭大刀(たんりゅうかんとうたち)は、石室内ではなく、外の前庭にあったのです。この頃は、大事な宝物と云うより、魔除けの道具だったのでしょうか
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径31mの円墳で四段築造、葺石と埴輪・周濠が確認され、南東に開口する両袖型の横穴式石室(8.33m)、前室(1.89m)玄室(3.52m)のある副室構造で、羨道(せんどう、2.64m)の前には細長い墓道状の前庭が付設していました。
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群馬では、切り石の横穴式石室でも副葬品に飾大刀(装飾大刀)なのですね。6世紀後半の四段築造の皇子塚古墳に、形象埴輪と飾大刀と横穴式石室が伴うのですね。玄室は凝灰岩の切り石の互目積(ごのめづみ)、前室は川原石の乱石積です。凝灰岩が石室に使われた理由は何でしょう? 九州の石棺が凝灰岩であることとつながるのでしょうね

さて、隣の平井1号墳(径24m)は、横穴式石室を持つ円墳です。
玄室の壁は、凝灰岩の切り石で、互目積(ごのめづみ)で「随所に稚拙な切込みの手法を取り入れています。」と図録に有りますから、切り欠き加工を取り入れようとしていたのでしょう。
ますます、九州の6世紀の技術と共通しますね。
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皇子塚古墳の隣の平井1号墳は二段築造の円墳ですが、二本の装飾大刀が石室の奥壁から並んで出土しています。
金銅装単鳳環頭大刀(こんどうそうたんほうかんとうたち)、柄の環に鳳凰の飾りがあります。
もう一つは、銀象嵌円頭大刀(ぎんぞうがんえんとうたち)で、柄の頭が丸く膨れ、そこに銀線で象嵌が施されています。

皇子塚古墳の方が格式が高いのでしょうか、墳丘が四段築造ですから。それに、装飾大刀は石室の外に在りましたし、特別の宝物だったとは思えません。然し、平井1号墳の二本の大刀は、石室の奥壁から出土しています。完全な形での出土でした。
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藤岡歴史資料館の図録を見ると、家形埴輪にカツオギがあります。神祭りの館なのでしょうね、更に、大刀形埴輪には、勾金が付いています。群馬の古墳では、この勾金のつく大刀の埴輪がいたるところで出土しています。
これは、実に意味深です。
平井1号墳が造られた時、勾金の大刀は古墳の大刀の象徴になっていた。大刀・盾・靫・鞆・家・
歴史資料館にあった大甕は、この平井1号墳の墳頂から出土したものでした。墳頂に甕が置かれるのは、九州と同じです。勾金のついた大刀の細かな描写といい、実に興味深い図録でした。
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皇子塚古墳の西は広い芝生になっていて、藤岡歴史資料館(右)が見え、中央奥に白石稲荷山古墳が見えています。この広場の西の端では、発掘が行われていました。

掘っ建て柱の跡と土器片が見えました。地面からさほど深くないところにこの遺跡はあるのですね。
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では、いよいよ七輿山古墳を見に行きましょう。発掘の行われている処の奥、竹林の向こうの崖下に、七輿山古墳はあるのです。
では、また明日。
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# by tizudesiru | 2018-12-04 00:08 | 357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎 | Trackback

白石稲荷山古墳の家形埴輪は倉庫ですか?

古代史の迷路を辿って群馬を旅しました。群馬には古墳時代の始まりと終焉を解くカギがあります。
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此処は、群馬県藤岡市の白石稲荷山古墳(前方後円墳・175m)です。
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白石稲荷山古墳は、藤岡歴史資料館と同じ丘陵・台地上に在ります。白石古墳群の中心的位置に在るのが、白石稲荷山古墳でしょうか。この古墳のすぐ横、眼下を流れるのが猿田川です。なんとも意味深な川名です。古代にはこの辺りの神が猿田彦だった? 猿田彦を祀る人たちがここを開拓した? 小さい川ですがすぐ近くの大きな川と合流するので、川舟が行き来したのでしょう。この川を使って埴輪が他へ運ばれたらしいです。橋が見えますが、これが猿田川。左奥の林の当たりは落合といい、川の合流点です。
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では、白石稲荷山古墳(175m)にお邪魔しましょう。
白石稲荷山古墳の北側の広い空間には陪冢がありました。十二天塚古墳・十二天塚北古墳です。
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この前方後円墳は、辺りから目立つ場所に在ることが分かります。眼下に猿田川がありますが、古墳のすそを通るのでここからは見えません。
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家形埴輪が出土しています。屋根の形が立派ですね。
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後円部の墳頂には説明板がありました。前方部はこの墳丘の南にあります。
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全長175m、後円部92m、くびれ部幅50m、前方部148m。墳頂部に二つの竪穴式礫槨、出土遺物は鏡・直刀・装飾品類・石製模造品(石枕・刀子・案・杵・坩・箕・剣・勾玉・履(げた)など)ほかに、家・短甲などの埴輪が出土しています。
写真は、埴輪寄棟倉庫と書かれています。倉庫にしては立派です。倉庫であれば、屋根を立派にする必要はありません。この「寄棟倉庫」は窓がないので、「倉庫」と判断されたのでしょうね。薄暗い空間で神祭りの儀式などやっていたような気がしました。神や祖霊は暗い所に居て姿を見せませんから・・・
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墳丘の北は平らな丘ですが、ここには陪冢である十二天塚・十二天塚北古墳があったのです。ですから、猿田川にかかる橋名は「十二天橋」でした。
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猿田川の水量は多くはありませんが、ゆったりと流れていました。
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右の斜面は、白石稲荷山古墳の前方部です。
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猿田川は落合に向かって流れていきます。
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南から北に流れる猿田川。左岸の林が皇子塚古墳です。
明日は、皇子塚古墳を訪ねます。では、また。


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# by tizudesiru | 2018-12-02 11:49 | 357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎 | Trackback

藤岡歴史資料館・藤岡の特別な物語を須恵器大甕がかたる

群馬を訪ねた理由は、群馬が古代史のトビラを開くカギを握っているからにほかなりません。関東と遠く離れた九州の接点を見つけるための旅です。わたしは九州の古墳文化が群馬に伝播したと思っていますが、それを確かめるための旅でした。
11月27日の穏やかな火曜日、群馬県藤岡市を訪ねました。
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藤岡市の歴史資料館は、緩やかな丘陵の上に有ります。広い駐車場の奥に見えているのは、皇子塚古墳です。左奥の林の向こうは斜面になっていて、坂を下りたところに七輿山古墳があります。
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資料館ロビーの壁には、七輿山古墳の新聞記事が張られていました。
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東日本最大級の横穴式石室が地中レーダーで分かったというのです。わくわくするような記事です。
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興味をそそられましたが、まず、藤岡の豊かな縄文文化と大量の遺物をみましょう。
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旧石器から縄文へと豊富な遺物がびっしりと並んでいます。しかし、弥生の遺物は少ないのです。長く続いた縄文が終わると、短い弥生時代が訪れ、古墳時代に入るのです。
つまり、弥生の文化は鉄を以って入って来たということです。世の中をいっきに変えたのでしょう。
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そして、古墳時代に突入するようです。
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弥生時代が充実して必然的に古墳時代に移行したのではなく、他の地域の文化が入って来て急激に変わった、豊かな縄文文化の下敷きがあったので急激な変化を遂げた、のです。受け入れる文化が豊かだった証拠でもあります。
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藤岡には半地下式の埴輪を焼いた窯跡がありました。この窯の伝統は近代まで残り、瓦窯が何十件もあったのだそうです。今では、一軒が残るのみと云うのですが、驚きました。古代の伝統的な仕事が営々と受け継がれたとは。
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何より嬉しかったのは、資料館の館長さんに親切に展示物の説明をして戴きました。そこで、
「藤岡で特徴的な事、ここだけでしか見られない物は何ですか?」
とお尋ねしました。
「それは、大甕です。大甕は他の地域では出土しません。藤岡だけです。」
という答えでした。これは、大変重要な事実です。
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似たような大甕を福岡県朝倉市甘木の歴史資料館で先日見ていましたので、写真があります。
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上の写真が、九州の福岡県の甘木歴史資料館の大甕です。これは、古墳の墳丘の上に置かれていたものです。
双方のよく似た大甕は、同じような目的で作られていたのでしょうか。興味が湧きました。
須恵器大甕を焼くには、それなりの技術と高温を保つ窯が必要です。その技術はこの時代、拡散していなかったということですね、群馬では。
九州では、熊本でも福岡でも須恵器の大甕が古墳の周囲や墳丘から出土しています。
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群馬に出かけるようになって40年近くなりますが、古墳を訪ねる旅はほとんどしませんでした。今回、面白い旅をすることができました。
明日は、藤岡の資料館近くの白石稲荷山古墳を訪ねます。では、明日。


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# by tizudesiru | 2018-12-02 01:02 | 357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎 | Trackback

宗像の弥生遺跡・田熊

宗像市の友人宅を訪ねた帰りに田熊遺跡に寄りました。
古墳時代には、釣川を使った交易があっていたそうで、掘っ建て柱の建物跡がありました。この遺跡は、古墳時代に栄えたのですね。
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釣川はさほど大きな川ではありませんが、船が昇って来ていたのでしょう。河口の近くは水量もありますが、田熊石畑の辺りは、かなり浅くなっています。古代には船が上がれるほど手入れをしていたでしょうか。
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古墳時代の遺跡分布図を見ると、氾濫域に遺跡があるように見えます。この頃は陸化していたのでしょうか。福津市の勝浦潟の方は奈良時代まで水上交通が盛んだったらしく、入り江の奥に「船つなぎ石」が残されています。今はすっかり陸化していますが。
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宗像地域は、縄文・弥生・古墳時代と、同じ場所に人々は住み続けることができたのですね。宗像氏がこの地に入ってきたのはいつでしょうね。宗像市の祖先神は大国主となっていますが、途中から「天孫を助ける神」を祭祀するようになりました。では、三女神が海路を守るようになったのは何時なのでしょうか。宗像市は謎の多い氏族ですね。書紀には三女神の記述がありますから、8世紀には天孫を守る祭祀は始まっています。
天武天皇13年(684)に胸形氏は「朝臣」姓を賜わりました。
天武天皇の長子の高市皇子が宗像君の娘でしたから、朝臣賜姓となったのでしょう。

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それにしても、ここを大船が上ったのですかね。浅い川ですが。
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この盛り土は何でしょうか。
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田熊石畑遺跡には環濠もありましたし、貯蔵穴もありました。
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群馬に出かけていたので、ブログもしばらく休んでいました。
では、また明日。


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# by tizudesiru | 2018-12-01 09:06 | 356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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12祭祀線が明かす羽白熊鷲と古処山
13祭祀線が秘密を示す・九千部山と香椎宮
14国守りの山を祭祀線で考える
15神籠石が教えてくれる古代
16祭祀線で探る六世紀の都
17なぜか神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20魏志倭人伝に出てくる「大倭」とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32祭祀線と阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36祭祀線と神籠石から分かること(1)
37祭祀線と神籠石から分かること(2)
38祭祀線と神籠石からわかること(3)
39祭祀線と神籠石から分かること(4)
40祭祀線と神籠石から分かること(5)
41祭祀線と神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43祭祀線が解く仲哀天皇の宮殿
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51祭祀線で十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社の祭祀線
53祭祀線で空海の霊力を知る
54出雲大社と熊野本宮大社の祭祀線
55祭祀線と大山古墳の謎
56天智天皇陵と天武天皇陵の祭祀線
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線(祭祀線)
59続石上神宮の視線(祭祀線)
60祭祀線で守る藤原京
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮の祭祀線
63あおによし奈良の都の祭祀線
64続・あおによし奈良の都の祭祀線
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実を教える祭祀線
67石城山神籠石の祭祀ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社の祭祀線
71尾張国の式内社の祭祀線
72紀伊国の式内社の祭祀線
73近江国の式内社の祭祀線
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮の祭祀線
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳の祭祀ライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社と宇佐神宮の祭祀線
92薦神社の不思議な祭祀線
93金富神社と鉾立山の祭祀線
94 金富神社と鉾立山の祭祀線 2
95 金富神社と鉾立山の祭祀線3
96宇佐神宮と北部九州
未分類
97宇佐神宮と北部九州・2
98北部九州のミステリー
102安心院の二女神社
101宇佐神宮と九州の神々
103安心院の妻垣神社
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
351 九州寺院の旅
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び祭祀線
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇の祭祀線
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ・樟
131素材が語る古代Ⅱ・石加工技術
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・

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