タグ:高市皇子 ( 5 ) タグの人気記事

214 天智天皇が建てた寺・崇福寺

天智天皇も寺を建てていた

扶桑略記によると崇福寺は668年建立です
写真は崇福寺です。下の写真は、大津市歴史博物館の売店で買った「かわら」から撮りました。
天智天皇はこんな山の中に寺を建てたのですね。持統天皇の御代に、山寺として万葉集にも出ています。崇福寺は尾根の上に寺院があり、深い谷が間にあります。
a0237545_22272142.png
万葉集巻二の115は、但馬皇女の歌です。
但馬皇女は天武天皇と藤原鎌足の娘(氷上娘)との間に生れました。穂積皇子は、天武天皇と蘇我赤兄の娘(太蕤娘おおぬいらつめ)との間に生れています。どちらも、祖父は天智天皇の腹心の部下でした。
それで、二人は近づいたのでしょうか。高市皇子は 当代きっての権力者であったはずなのに、です。高市皇子はどう思ったでしょうね。どうでもよかったのかな?

但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、穂積皇子を思いて作らす歌一首
114 
秋の田の穂向きの寄れる片寄りに君に寄りなな言痛(こちた)くありとも
  穂積皇子に勅して、近江の志賀に山寺に遣わす時に、但馬皇女の作らす歌一首
115 
後れいて 恋つつあらずは追いしかむ道の隈みに標結へわが背
  
但馬皇女、高市皇子の宮にいます時に、ひそかに穂積皇子に接い、事すでにあらわれて作らす歌一首
116 
人言を繁み言痛(こちた)み おのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る

但馬皇女は、高市皇子の妃となっていたのです。それなのに、穂積皇子に恋してしまった。皇女の恋歌は、高校でも学習するし、よく知られていますよね。
さて、滋賀の瓦ですが、天智天皇の崇福寺より古い寺があるんですが、実はその穴太廃寺を訪ねて行ったのですが、大雪だったしとうとうたどり着けませんでした。それで、大津市歴史博物館で本を買ったのです。では、穴太廃寺の瓦を見てみましょう。

7世紀前半の寺を近江京に合わせて造り変えた」? なんじゃ??意味不明の説明ですね。
これはですね、もともと古寺が穴太にあったのですが、天智天皇が近江に遷都した時、その古寺を造り変えて、方向を近江京に向けた伽藍にしたというのです。私は、向きを変える前の伽藍と瓦のことが知りたかったのです。
a0237545_22275875.png
百済系というより新羅系の古瓦です。多くのことが分かりました。もともとの伽藍は、東に塔、西に金堂でした。創建寺院を取り壊して、再建寺院を造らねければならなかった理由って何でしょう。東西に塔と金堂が並ぶ古代寺院の伽藍は、まるで九州ですよね。

a0237545_23473668.jpg

[PR]
by tizudesiru | 2017-02-11 00:06 | 214天智天皇が建てた寺 | Comments(0)

175高市皇子の薨去と謀反事件

175・高市皇子の薨去と謀反事件


高松塚古墳が発掘された時、その埋葬の様子が問題になりました。


しかし、石室は狭いのですが、壁画があり、
それが大きな話題となったので、その為に他の事実が目立たなくなってしまいました。

当時、被葬者は「何か罰を受けるような、事件に巻き込まれた人」であるとされていました。

a0237545_09544084.png

わたしの記憶が確かであれば、遺体の様相が問題だったと思います。


頭蓋骨がなかった…首の骨は有ったので斬首ではない
と。この話題はいつの間にか消えたようですが、問題が解決されたのではありません。

埋葬当時から頭蓋骨が抜き取られていた(小さな骨、甲状軟骨・舌骨などは残る)? 筋骨の発育のいい壮年男性。7世紀末に死亡。

梅原氏は「人骨に頭蓋骨がない・鞘のみで、大刀の刀身が抜かれている・日月像と玄武の顔が削られていた」これは、呪いの封印で、被葬者のヨミガエリを阻止したのだという。

ですから、軽皇子(文武帝)の立太子に異議を申し立てた弓削皇子が被葬者と、梅原氏は主張されました。高市皇子だと言ったのは原田大六氏だけです。


わたしは、ずっと草壁皇子だと思っていました。それは、治田神社(岡宮跡・草壁皇子が育った)と、高松塚石室と、岡宮天皇陵が直線で結ばれるからでした。

所縁の宮と改葬前の墓とを結び、尚かつ耳成山の真南に位置するのは、草壁皇子の墓以外には考えられない
と思っていました。数年前に、ブログにもそう書きました。

しかし、出土した歯の鑑定が壮年男性となったので考え直したのです。

では、「後皇子尊」と尊称で呼ばれた高市皇子以外にないと結論しました。

a0237545_09562667.png

高市皇子ならヨミガエリを阻止された(天武朝の皇統が続くことを阻止した)ことは十分考えられます。

だからこそ、耳成山と高松塚古墳の間に文武陵を築造(改葬)したのです。そして、岡宮天皇陵(草壁皇子の陵)も束明神古墳に改葬した、と考えます。


本当に、高市皇子のヨミガエリは阻止されたのか?
それは何故か?
だからこそ、高市皇子の死は再検証しなければなりません。


謀反事件の共通点

①有間皇子の場合

658年 中大兄皇子の息子、建王没(5月)

半年後に、有間子に謀反の疑い(11月)有間皇子没


わたしが幾度も紹介したのは、有間皇子が有力な皇位継承者であったことです。有間皇子の存在が邪魔だったのは、鎌足や中大兄皇子側でした。
蘇我系女子(造子媛)が生んだ建王の死は、中大兄皇子サイドには、後継者を亡くしたことになった。大友皇子は後継者とはなれなかったから、中大兄は「不改常典」の法を考え、皇位継承の決め事を造ったと、展開していきます。

➁高市皇子の場合

太政大臣という最高位についていた。文武天皇の元服が近くなった。高市皇子にも王子がいて、有力な後継者だった。

696年 高市皇子没(7月)

半年後に、697年 軽皇子立太子(2月)、

半年後に、軽皇子即位(8月)


軽皇子の立太子と即位が滞りなく行われるには、高市皇子の存在が障害になっていた。次の段階に進むには、喪が終わる半年の時間が最低必要だった。文武天皇の15歳即位に合わせて、高市皇子の死は、すごく計画的に練られた事件だった、と言えるでしょう。

③氷高内親王の即位の場合? なぜ首皇子は即位できなかったか?

714年 首皇太子元服(14歳)*次の年の即位を考えていた

715年 長皇子(6月)穂積皇子(7月)志貴皇子(8月)没

 氷高内親王即位(9月)*元明天皇の配慮か


独身だった氷高皇女(元正天皇)には、身分が高すぎて嫁ぎ先がなかった。藤原氏としては、皇位継承者を拡散するつもりはなかったので、氷高皇女を結婚させなかったのでは…。
藤原氏としては、首皇子(文武天皇の子・聖武天皇)を元服させ、即位準備は十分に整っていたが元明天皇は娘の氷高皇女を即位させた。それは何故か?
元明天皇は、草壁皇子の妃です。夫の決意(自死)を十分に承知していたとしか思えません。皇統は長屋王に受け継がれてもいいと……

④長屋王の場合
妃は吉備内親王(文武天皇・元正天皇の妹)で後継の男子あり

727年 基王(母・光明子)生まれてひと月で立太子

728年 基皇太子一歳で没(9月)

半年後に、729年 長屋王、謀反の密告で自刃(2月)

聖武天皇と光明子の間に生まれた基王は、生後すぐに立太子されたが、一歳ほどで死亡。すると、皇位継承者として一番近かった長屋王一家を全滅させる謀略を、藤原氏は取ったのだった。


謀反事件の共通点

謀反事件は、有力な皇位継承者が死亡した時に起こる。
次の継承者とおぼしき人物が抹殺される

と考えられるのですが、

更に、「藤原氏がここまでのことがやれたのは何故か

なぜ、高市皇子は封じ込められなければならなっかったのか
をはっきりさせねばなりません。


[PR]
by tizudesiru | 2016-12-02 10:25 | 174高市皇子の死の真相 | Comments(0)

174高市皇子の死の真相・1

174高市皇子とは何者か


万葉集の謎の一つに「高市皇子の挽歌」は何故あれほど長いのか」という謎というか、疑問がありました。


持統帝が愛した草壁皇子より弔いの歌が長いのです。

もちろん、天武帝の長男である太政大臣(高市)の葬儀の歌です。長いのは当然かも知れませんが、皇太子より2倍以上長いのは誰が見ても不思議です。

a0237545_12013998.jpg


しかし、よく読み直してみると、先に紹介した通り(「高松塚古墳の被葬者」で読んだ通り)、多くの詞が使われているのは、


壬申の乱
(夏の戦を冬の厳しい戦いとして表現されていますが)と


天武天皇の意志と功績
、其の命を受けた皇子、そして、


「結う花の栄ゆる時に」お元気で今も盛りの時に、「皇子の御門を神宮に装い」皇子自身の御殿を霊殿に飾ったこと。


高市皇子の棺を挽き、神として城上の宮に祀ったということ、です。

 

冷静に読むと、高市皇子の権力者としての姿は見えにくいですね。

人麻呂は「時の最高権力者に敬意」を払ったけれど、その真の姿を現さなかった…


では、高市皇子の本当の姿は読めないのでしょうか。

高市皇子の挽歌は、長歌と短歌からなっています。長歌は紹介しましたから、短歌を見てみましょう。


短歌二首


200 久かたの 
(あめ)() ゆえ 日月


地上ではなく天上世界をお治めになることになった皇子ゆえに、残された者は日月が立つのも分からないほど嘆き皇子を慕い続けている


201 
埴安(はにやす)  (こもり)() 舎人(とねり)(まど)


埴安の池の堤に囲まれた出口のない隠れ沼のように、水の行き先が分からないように、舎人たちはただ迷い嘆くだけである


  或書の反歌一首


202 
哭沢(なきさわ)の 神社(もり)三輪(みわ)須江(すえ) いも 我が(おほきみ) 

 右一首は、類聚歌林に檜隈女王が泣沢(なきさわ)神社


哭き沢の神社に神祭りの酒の甕を据えて、皇子の蘇生をお祈りしたけれど、その甲斐もなく、とうとう我が王は天上をお治めになることになってしまった。なんということだろう。


高市皇子は何故死なねばならなかったのでしょうか。
上記の短歌三首の内の二首は人麻呂作です。人麻呂は、天武朝の皇子に対して、その立場や位置を的確な言葉で表現しています。

「高市皇子は地上を治めるのではなく天上をお治めになられた」
元来『地上を治める人だった❓』けれど、天上を治めることに成った…と、人麻呂は表現しています。
長歌の詞でも『わご大王の天の下申し給えば』とは、高市皇子が天下の政治を執り行っていた、と読めます。
高市皇子は、太政大臣以上の立場だったのでしょうか。

a0237545_12031581.png
それで、気になることがあります。大化改新後の謀反事件には、ある共通点があるのです

その事を考えてみたいと思います。


[PR]
by tizudesiru | 2016-12-01 12:03 | 174高市皇子の死の真相 | Comments(0)

166・高市皇子・万葉集で一番長い挽歌

166・高松塚古墳の被葬者と耳成



持統天皇は、高市皇子をどのように葬ったのでしょうか。


死後の葬儀や陵墓はその被葬者の立場をそのまま示すものです。

a0237545_21335032.png

万葉集で一番長い挽歌を奉られたのは、高市皇子です。



高市皇子は、
天武天皇の第一子・妻は天智帝の皇女でした。
草壁皇子の死後、後皇子尊(のちのみこのみこと)とされ、権力の中枢に入りました。
 持統天皇十年(696)七月・薨去



高市皇子の陵は、高松塚古墳という説があります。


壁画装飾で知られる高松塚古墳の被葬者は誰なのでしょう。


高松塚古墳は、耳成山の真南に位置します。将に、


「耳に成す山」の真南です。時の最高権力者の墓と言う場所です。

a0237545_15135705.png

発掘された骨は、40才過ぎの壮年の男性でした。

では、高市皇子となります。


高市皇子は最高権力者となったことになります。書紀では「太政大臣」となっています。妃は御名部皇女(天智天皇の娘・蘇我石川麿の孫)でした。

高市皇子の挽歌は、長歌は草壁皇子の2倍以上あります。

a0237545_15153963.jpg

高市皇子尊の城上(きのへ)(あらき)(のみや)の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首併せて短歌

 

かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに(かしこ)き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天御門を かしこくも定めたまいて 神さぶと 磐隠ります 八隅しし わが大王の

 

ことばに出すこともはばかれる、言葉にして言うことも何とも畏れ多い、明日香の真神の原に ひさかたの天上の聖なる御殿を畏れ多くもお定めになって、神として窟におられる 世をお治めになった我が大王の


ここに歌われているのは、天武天皇のことです。人麻呂は、挽歌の冒頭には天武天皇のことを述べ、高市皇子の血統を示しました。


(わが大王の)きこしめす 
背面(そとも)の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の 行宮(かりみや)に 天降りいまして 天の下治めたまひ ()す国を 定めたまふと (とり)が鳴く 東の国の 御軍士(みいくさ) 召したまひて ちはやぶる 人を(やは)せと (まつ)ろはぬ 国を治めと 皇子ながら (よさ)したまへば 大御身に 太刀取り()かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士(みいくさ)を (あども)ひたまひ 


我が大王のお治めになる北の(美濃)の国の 真木の立つ不破山を越えて、和佐射見の原の 行宮に 神のように天降りおいでになって 天の下をお治めになって、統治なさる国を鎮めようと、鶏が鳴く東の国の 軍勢をお集めになって、荒れる人々をおさえ鎮め、従わない国を治めよと、皇子であるからこそお任せになったので、皇子はその御身に太刀をお佩きになり、その御手に弓をお持ちになり、軍勢を率いられた。 


ここも、ほとんどが天武帝の命令を高市皇子が受けたことが語られているようです。

この後に、戦で高市皇子が活躍したことが述べられています。

要約すれば・


鼓の音は雷の声かと聞き違えるほど

兵士が掲げる軍旗の靡きは、野火が風にあおられるように見え

弓はずの音は、大雪の降る冬の林につむじ風が吹き渡るように聞こえ

飛んでくる矢があまりに多く、大雪が飛んでくるようだった

立向かう兵士も命がけで戦っていた時、

渡会の伊勢の宮から神風が吹いてきて、その天雲で敵を覆ってしまった

そうして、水穂の国を 神として大いにお治めになった


高市皇子の壬申の乱での活躍が語られました。
要約しましたが、壬申の乱は夏だったはずですが、ここではま冬の厳しい戦いとして書かれています。

 長いのでここで一休み。

a0237545_16263377.jpg

さて、続きです。

やすみしし 我が大王の 天の下 申したまへば 万代に しかしもあらむと 
()綿花(ふばな)の 栄ゆる時に 我が大王 皇子の御門を 神宮に (よそ)い奉りて (つか)はしし 御門の人も 白妙の 麻衣着て 埴安(はにやす)の 御門の原に あかねさす 日のことごと 鹿じもの いはひ伏しつつ (ぬば)(たま) ゆうべになれば 大殿を 振りさけ見つつ (うずら)なす いはいもとほり さもらへど さもらひえねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも 未だ過ぎぬに おもいも 未だ尽きねば 


天下をお治めになった我が大王(天武帝)に、我が大王(高市皇子)が天下のことを申しあげられたので、いつまでもそうであろうと、結う花のように栄えていた時に、我が大王の皇子の御殿を 神殿(御霊殿)として飾りたて 仕えていた御殿の人も真っ白な麻の喪服を着て、埴安の御殿の庭に 一日中を鹿ではないが腹這い伏して、暗い夜になれば 御殿を仰ぎ見ながら 鶉ではないが 這うようにうろうろし、お仕えしているけれど、お仕えするかいはなく、春の鳥のように鳴き迷っているのに 悲しみも未だおわってはいないのに、皇子を想うこともまだ尽きてはいないのに


何もかも受け入れがたく、気持ちの整理がつかないままなのに、皇子の霊殿から殯宮へと亡骸をお送りすることになってしまった、のです。
次は、殯宮の様子です。


言さえく 百済の原ゆ 
神葬(かむはぶり) て あし   て ら ぬ も 大王

万代(よろづよ)に て し 香久山宮   と つ き む 


あの百済の原を通り抜けて、神として葬り奉り、城上の殯宮を 常にお住まいになる宮として 高くお祀りし 神としてお鎮まりされてしまった。しかれども、我が大王が「万代までも」と思われてお造りになった香久山の宮(藤原宮)、この宮は、いつまでも残って行くと思われただろう。

天を仰ぐように皇子を振り仰ぎながら、玉だすきを懸けるように、皇子のことを心にかけてお偲びしたい。畏れ多いことだけれど。


さて、人麻呂は高市皇子を如何に詠み奉ったでしょうか。

天武天皇が天下を治めた

その皇子は天皇のために戦の前線にたった

その戦いは、敵を圧倒した

すっかり皇子の代になると思っていたのに

皇子は亡くなり、誰もが混乱した

皇子は城上の宮にお住まいになるが、お造りになった藤原宮は万代まで栄えてほしいだろう

皇子をこれからも偲んでいこう


という内容です。


あまた言葉が並んでいますが……

高市皇子は、確かに大王だったようです。天武天皇と同じ文字「大王」を同じ詩篇の中に使われていますから。

a0237545_15180993.png

高市皇子は、耳成山の真南に葬られた方のようです。

a0237545_21335032.png

しかし、その耳成山との霊力は断たれます。

なぜ?

それは、明日

a0237545_16355916.jpg


[PR]
by tizudesiru | 2016-11-23 15:20 | 166・高市皇子と高松塚古墳 | Comments(0)

161・天武朝の女性たちの悲劇・その1

161・天武朝の後宮の女性達の悲劇 その1

a0237545_11005406.jpg

壬申の乱で勝利した天武天皇は、滅ぼした王朝の天智天皇の皇女を後宮に入れました。特に有力氏族の皇女は、外に出しませんでした。

なぜなら、女性たちが血統を伝える皇位継承者を生んでくれるからです。

高貴な血統を他に渡すことはしなかったのです。

女性には辛い束縛だったのではないでしょうか。


十市皇女(大友皇子の妃)の薨去


天武天皇と額田王の娘である十市皇女は、壬申の乱の総大将・大友皇子の妃でした。葛野王を生んでいます。乱の後は、母と明日香へ帰り、高市皇子の妃となっていたようです。

天武7年(678)に薨去しています。突然の死でありました。

a0237545_10550228.png
三輪山


十市皇女が亡くなった時の高市皇子の歌が、万葉集巻二・挽歌にあります。

十市皇女の薨ぜし時に、高市皇子尊の作らす歌三首


156 三諸の神の神すぎ巳具耳矣自得見監乍共い寝ぬ夜ぞ多き


みもろの みわのかむすぎ巳具耳矣自得見監乍共いねぬよぞおおき

あなたはあの三輪山の神の杉のように思えた。巳具耳矣自得見監乍共 わたしはよく眠れない日が続いています。あなたを理解してやれなかった私です。

この時、十市皇女は30歳過ぎくらいで、高市皇子は24歳です。子連れの敵将の女性に高市皇子は近づき難かったのでしょう。しかも、自分は壬申の乱の総大将でした。十市の夫の大友皇子を殺させ、その首も見たのです。皇女に対して恐れがなかったとは言えないでしょう。

だから、高市皇子は嘆きました。


157 神山の山辺
()()()木綿(ゆふ)


みわやまのやまべまそゆふ みじかゆふ かくのみからに ながくとおもひき

三輪山の麓の神社の神に奉るまそ木綿(ゆふ)ったに、ってい

高市皇子の後悔が伝わります。


158 山ぶきの立よそいたる山清水酌みに行かめど道のしらなく


やまぶきの たちよそひたる やましみず くみにゆかめど みちのしらなく

山吹の花が咲き乱れているという山奥の山清水を酌んであなたに捧げたいけれど、そこはこの世ではないらしく、私には道が分からない。

埋葬の後でしょうか。少し落ち着いて皇女のことを偲んでいます。

a0237545_10544080.png
石上神宮

十市皇女は伊勢神宮に参詣したりして、精神的再生を心していたのでしたが、耐えられない日々だったのでしょう。当然、後宮の女性にも不安が走ります。

十市皇女の突然の死(678)は、自死だったと思われます。
母である額田王はどれほど悲しんだでしょう。
息子の葛野王は、しみじみと自分の立場を感じたでしょう。
夫の高市皇子も責任を感じていたし、
父である天武帝にしても、深い自責の念にかられたでしょう。


そこで、一年後天武八年(679)に
「吉野の盟約」と言われる「新王朝の家族となる儀式」をしたのです。


吉野の盟約は「草壁を皇太子とするための盟約」ではありません。

天武帝は、「家族となろう」と呼びかけた。

新家族結成の儀式をしたのです。
後宮の女性たちの不安を除くために。

後にも先にも、天武帝の吉野行幸はこの一回のみです。


吉野盟約の次の年に、草壁皇子に長女の氷高皇女が生まれています。

草壁は安心して、天智帝の娘の阿閇皇女と結婚したのです。

a0237545_11080994.jpg
a0237545_10591710.jpg

しかし、天武朝の中の火種が消えたのではありませんでした。

後宮の女性たちの悲劇はまだまだ続きます。

また後で


[PR]
by tizudesiru | 2016-11-18 11:07 | 161・天武朝の女性たちの悲劇 | Comments(0)


地図で分かる生活と歴史


by tizudesiru

プロフィールを見る
画像一覧

最新の記事

柿本朝臣人麻呂と玉津島
at 2017-04-22 21:21
玉津島神社の春・衣通姫の歌
at 2017-04-17 13:56
紀伊国・玉津島神社の春
at 2017-04-16 00:42
241神籠石と古墳の石組みの技術
at 2017-04-09 23:59
240神籠石の水門の技術は共..
at 2017-04-08 10:42
239神籠石は消されるのか
at 2017-04-08 00:23
240藤原鎌足の墓は何処か
at 2017-04-07 20:54
238米原長者伝説の鞠智城
at 2017-03-12 22:12
237パルメット文様は何処から?
at 2017-03-08 17:32
236藤ノ木古墳の築造時期の謎
at 2017-03-07 22:09
235 基肄城の水門石組
at 2017-03-06 11:27
234 小郡官衙の見学会
at 2017-03-05 21:53
233 耳飾のルーツは何処?
at 2017-03-04 21:55
232岩戸山歴史資料館の新館..
at 2017-03-03 12:05
231雷山神籠石は国家的事業..
at 2017-03-01 11:17
229 残された上岩田遺跡
at 2017-03-01 00:55
228 古代山城の瓦
at 2017-02-26 23:05
227 大野城から神山を遥..
at 2017-02-24 22:22
226 基肄城の不思議
at 2017-02-23 21:57
225 鞠智城の八角形鼓楼
at 2017-02-23 01:04

記事ランキング

カテゴリ

全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1大宰府の位置
2竹原古墳
3間夫という山
4筥崎八幡宮
5弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6平原王墓ラインから分かること
7八女丘陵の古墳のライン
8高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山
11羽白熊鷲と脊振山
12羽白熊鷲と古処山
13九千部山と香椎宮
14国守りの山は何処に?
15神籠石が教えてくれる古代
16六世紀の都
17神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
39神籠石から分かること(4)
40神籠石から分かること(5)
41神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43古代の宮殿は何処に?(1)
44江田船山と筑紫君磐井
45筥崎宮から見た太宰府天満宮
46高千穂の峰から阿蘇へ
47雲仙が守った首長は、何処
48神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50醍醐天皇の都の守り
51十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社
53空海の霊力
54出雲大社と熊野本宮大社
55大山古墳の謎
56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線
59続石上神宮の視線
60藤原京の守り
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮
63あおによし奈良の都は
64続・あおによし奈良の都は
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実とは
67石城山神籠石ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社
71尾張国の式内社
72紀伊国の式内社
73近江国の式内社
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳のライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社の不思議
92薦神社の不思議2
93金富神社と鉾立山
94 金富神社と鉾立山 2
95 金富神社と鉾立山3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
101宇佐神宮と九州の神々
100日知王の山々
219法起寺式伽藍
207中大兄とは何者か
149有間皇子を愛した間人皇后
102安心院の二女神社
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島

画像一覧

以前の記事

2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2014年 07月
2013年 10月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 05月
2013年 02月
2012年 11月
2012年 09月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月

タグ

フォロー中のブログ

絵本ぶろぐ

検索

メモ帳

その他のジャンル

外部リンク

ファン

ブログジャンル

歴史