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倭姫

高市皇子を助けたのは渡会の神?

では、天照大神ではなく豊受大神だったというのですか?

十二年ほどまえ伊勢に入った時、下宮の傍のホテルに泊まりました。そこで自転車を借りて伊勢を廻ろうと思ったのですが、なかなかでした。その時、倭姫命神社に寄りました。そこで、創建についてお尋ねしました。すると、女性の神官の方が
「この神社は明治になって建造されました。伊勢を求めてお出でになった倭姫を祀る神社がないのはどうしたことかと、その時できたお宮ですので、まだ新しいのです」
と説明されました。
式年遷宮に合わせて御社は建てかえされているそうで、神殿は交互に建てかえられるように空聖地が社の隣に設けられていました。その時、思ったのは『倭姫命の宮地はどのように選ばれたのだろうか』ということでした。
それで、その時に持っていた或旅行雑誌の地図を広げて内宮・外宮・倭姫命神社の位置を当たりました。三社を結びつけたラインは三角形だったと思います。これは測量して聖地を選んだのかな?と思いました。(この時の写真は全部ないのです。パソコンのコードを愛犬が噛んでショートして、データが無くなりました。電気屋さんに見せたけどダメだと云われて、パソコンも廃棄にしたのです。こんなことは何度もありましたから…データが無くなることを常に考えておかなければなりませんが)

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(下宮の東に倭姫命神社は造られています)
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(内宮は五十鈴川のほとりにあります)

伊勢を廻っていた時は、内宮と外宮はずいぶん離れていることを何とも思わなかったのです。が、倭姫命を調べている時「万葉集の渡会の神は、豊受大神である」という文章を読みました。その時は読み過ごしたのですが、後になって気になり始めました。そうして、伊勢神道の五部書を見ると、内宮と外宮は二所大神としてセットになっているのです。しかし、「倭姫命世記」では、聖地を求めて歩くのは、天照大神の御為です。

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歌を読むと、たしかに伊勢の渡会の神が高市皇子を助けてくれていますね。
柿本人麻呂が高市皇子のために造った挽歌のはじめから途中までを掲載しました。(以前に紹介しています)
伊勢の内宮は五十鈴川の上流にあり、下宮の近くを流れるのは宮川です。二つの川はともに海に流れ込み、合流はしません。
高市皇子が渡会の神(豊受大神)に助けられたのだとすると、倭姫命は渡会の神より後に伊勢に入り、宮川は既に豊受大神が鎮座していたので、五十鈴川を遡ったことになりますが…
そうなのでしょうか。また明日。




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by tizudesiru | 2017-11-23 12:51 | Trackback | Comments(0)

キトラ古墳の被葬者は舎人皇子

キトラ古墳の被葬者は
舎人皇子
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古代史ファンの注目を集めた壁画を持つキトラ古墳の被葬者はだれでしょう。私は舎人皇子と思うのです。キトラは天武帝の家族の領域に位置しています。
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天武持統陵は藤原宮(白いポイント)の真南にあります。文武陵は天武陵のほぼ南にありますが、真の文武陵は中尾山古墳とされています。
高松塚古墳Ⓑは耳成山の真南にあり、藤原宮と結ぶと間に中尾山古墳が入ります。耳成山の真南に中尾山と高松塚古墳があるのです。
皇族のトップになる高貴な人の陵墓は、適当には造営されていません。ちなみにⒶ は菖蒲池古墳です。
同じ氏や家族の墓は意味のある場所に造られ、ゆかりの人の墓や寺とラインが引けます。すると、キトラ古墳の主は、天武朝の皇子ではないかと思うのです。
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(中尾山古墳)
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(高松塚古墳)
キトラ古墳は見晴らしのいい丘陵に造られた壁画を持つ古墳で、壁画も高松塚古墳に似ています。
キトラの被葬者も天武帝の皇子でしょう。それも皇位継承権があった皇子だと思います。
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天武天皇の皇子はあまた居ますが…
草壁皇子亡き後、持統天皇が皇位を受け、10年後に軽皇子(文武天皇)に譲位しました。軽皇子(文武帝)の立太子に異議を申し立てた弓削皇子は、文武三年(699)に薨じました。彼は兄の長皇子の方が軽皇子(文武天皇)より皇位継承の地位が高いと主張したのではないでしょうか。

若い文武天皇の崩御が慶雲四年(707)です。
持統天皇も既に崩御(702)されていたし、大変な事態となりました。しかし、文武天皇の母である元明天皇が即位したのです。孫の首皇子(聖武天皇)に皇位をつなぐためでした。

和銅七年(714)首皇子が元服

和銅八年(715)氷高皇女即位
いよいよと思われたこの年、有力皇子(親王)が次々と亡くなりました。
6月(長皇子)、7月(穂積皇子)、8月(志貴皇子)、そして9月に即位したのが、氷高皇女(元正天皇)だったのです。
(父の文武天皇も15歳で即位したのに、首皇子即位はかないませんでした。聖武天皇が即位したのは、10年後の養老八年(724)です)

和銅八年、有力皇子は次々と死亡しています。
長生きして50歳を超えたのは、新田部皇子と舎人皇子でしょうか。ふたりは、天平七年(735)に没しました。
二人の違いは母の出自でした。
新田部皇子の母は鎌足の娘・五百重娘ですが、舎人皇子の母は天智天皇の娘・新田部皇女です。二人の身分は全く違っているのです。長皇子も弓削皇子も母は天智帝の皇女でした。もちろん高市皇子の母も天智帝の皇女です。皇位継承権は天智・天武の皇統にこそあったのでしょう。
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(キトラ古墳)
発掘された歯のようすから50~60の皇子となれば
キトラに眠るべき皇子は舎人皇子(舎人親王)以外にはいないのです。
万葉集からも舎人皇子が皇位継承の立場にあったことが窺えます。
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人麻呂は708年に没した柿本佐留だと考えていますから、人麻呂の歌は舎人皇子の若い時に献じたものだとなります。
舎人皇子、皇子が皇位継承の対象である限り、ゆめゆめ油断召さるな。
多武峰の霧はいつでも厚く立ち込めて皇子を狙っているのですから。


長生きした舎人親王は王者として、しかし、こじんまりとしたキトラ古墳に葬られたと思うのです。薨去の時舎人皇子に残されていたのは、優良な皇位継承者だったという名誉だけだったのでしょうか。
だからこそ、舎人皇子の息子・大炊王(淳仁天皇)は藤原仲麻呂(恵美押勝)に担がれるのです。そして、父の舎人皇子に「天皇」の追号を望むのですが果たされませんでした。

キトラ古墳に戻りますが、皇子でなければ、天体図の元には眠れないと思うのです。舎人皇子は高市皇子と同じく行政のトップ(知太政官事)にありました。721~735の十五年間もです。その間には「長屋王の変」がありました。事件に遭遇した時、舎人皇子はどんなことを考えたのでしょうね。

もしかしたら、舎人親王は常々「皇位継承の正当性を正そう」と息子に語っていたのかも知れませんね。
大炊王はそれを現実のものにしたかったと…考えられないこともありません。


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by tizudesiru | 2017-09-17 00:26 | 281終末期古墳・キトラの被葬者 | Trackback | Comments(1)

長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成

長屋王の亡骸を抱いた男・

平群廣成の慟哭


謀反罪で死を賜った長屋王


長屋王は高市皇子の長子でしたが、家族と共に死を賜わりました。その王の亡骸を埋葬したのは誰でしょう。
罪科ある人の墓はほとんどどこにあるかわかりません。しかし、長屋王の墓は伝承があり、その墓が明治になって整備されたのです。
明治までその墓を伝えたのは平群氏でしょう。

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(長屋王の墓は、奈良県生駒郡平群町にあります。江戸時代の文書に長屋王の墓という伝承が残されていたのです。)

長屋王墓の近所には夫人の吉備内親王の墓もあります。二人を近くに葬るには、それなりの努力と尽力があったと思います。続日本紀には、

「王をして自ら尽(し)なしむ。その室二品吉備内親王、男従四位下膳夫王、無位桑田王、葛木王、鉤取王ら同じく亦自ら経(くび)る」
「長屋王・吉備内親王を生馬山(いこまやま)に葬らしむ。」
「吉備内親王は罪無し。例になずらえて送り葬るべし。」
と書かれています。

この謀反事件で、現天皇の叔母の家族を断罪したのです。吉備内親王は前天皇の妹であり、前々天皇の娘なのです
内親王の家族を全て死なせた事件なのです
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平群氏は長屋王家に出入りしていた

奈良市の長屋王の屋敷後から、多くの木簡が出土しています。その中に、平群廣足(ひろたり)平群廣成(ひろなり)の名が書かれた木簡が見つかりました。

廣足は倭舞の名人だったようで、宮中の雅楽寮(ががくりょう)より派遣を要請されています。

廣成は天平五年遣唐使として唐に派遣されています。帰国後は順調に官位を進めて、最後には従四位上(長官クラスの官職)に任ぜられ、出世を果たしました。
ですから、長屋王の邸宅に出入りしていたのは若い頃でしょうが、その時、主人の難に遭遇しました


数多の兵と役人に囲まれた王の屋敷内に、従者が出入りすることはできなかったでしょう。
屋敷の召使たちも外でじっと邸宅を見つめ、畏れおののいていたことでしょう。
遂に、長屋王と吉備内親王と四人の男子は、死を撰ばされました。
大邸宅の周りの空気は、泣き叫ぶ召使たちの声で震えたことでしょう。
王の妻だった他の女性たちは、各々の実家で知らせを聞いたでしょうから、屋敷の周りにいたのは庶民だったようです。

続日本紀によれば、このあと、都では長屋王事件に
ついて噂と憶測と追悼の声が溢れ、長く終始が
つかなくなるのです。

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吉備内親王は罪無し、しかし、長屋王は…
平群廣成は長屋王の傍に生活したのです。主人を十分に知っています。
主人がいかがわしいことをする人物かどうか、知らないはずがありません。
彼は糾問される主人を待ち続け、死後はその亡骸を抱いて泣いたと思います。
罪無くして逝ったその人を。
だから、平群氏の本貫の地に長屋王の亡骸を葬ったと思うのです。

長屋王の墓は、「前方後円墳の後円部の上に造られている」と書かれた文を読んだことがあります。
罪科のある主人を小さな墓に埋葬しなければならないと十分知りつつ、せめて王墓のような大きさにしたいと、廣成は祖先の墓を長屋王のために提供したと…そう思いませんか。
吉備内親王の墓は少し離れた微高地にありますので、当時はまるで仲良く並んでいるように見えたことでしょう。
平群町の小さな墳丘には、平群廣成の思いが込められていると、わたしは思います。

長屋王の大邸宅は、光明子のものとなりました。

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ここからは、おさらい


なぜこのような悲惨な事件が起こったのか、以前もブログに書いたと思いますが、少しおさらいしてみましょう。事件が起こったのは、
長屋王が恵まれ過ぎていたからです。父母は御名部皇女(内親王)と高市皇子(親王)で、妻は元明天皇の娘であり、文武天皇の妹でした。多大な財力と権力を持ち、当代随一の名家であり、将来も揚々たるものだったのです。

霊亀元年(715)二月、元明天皇(草壁皇子の妃)は「勅して、三品吉備内親王の男女(子供たち)を皆皇孫の列(つら)」に入れたと続紀にあります。
長屋王の子どもたちの身分を三世王から二世王(天皇の孫)あつかいしたのです。

藤原不比等は「皇太子の首皇子が十五歳で即位すれば、外戚になれるから」と、長屋王家の特別待遇を容認していたでしょう。

しかし、元明天皇が譲位したのは皇太子の首皇子ではなく、娘の元正天皇でした。それは、政変のような衝撃だったのです。
元明天皇は、前年元服した皇太子・首皇子に不安を覚えていました。

養老二年(718)長屋王大納言。大伴旅人中納言。
     この年、養老律令を撰進(藤原不比等ら) 
     功績に関わらず不比等は右大臣のまま
養老四年(720)日本書紀撰進。藤原不比等没
養老五年(721)一月、長屋王右大臣。十二月、元明太上天皇崩御。

元明太上天皇は長屋王家へのレールを敷いて崩御されたのでした。が、チャンス到来と
藤原氏は着々と首皇子の即位に向けて準備をはじめました。

山上憶良ら当代の知識人を東宮(皇太子)の周りに集めます、そして、元正天皇に譲位を迫りました。元より中継ぎを承知だった元正天皇は、元明天皇の崩御の三年目の二月に首皇子(聖武天皇)に譲位されました。崩御からほとんど二年しかたっていなかったのですが。

この時(724年)、長屋王は左大臣となったのでした。
元明天皇の思いが元正天皇に引き継がれていたのでしょうか。
そして、この時、長屋王の運命は決まったのです。

引き金は、聖武天皇の皇太子(基王)が一歳で没したこと(728年)でした。
聖武天皇の皇位継承者より、長屋王の男子の方が有力だったのです。
神亀六年(729年)、基王の死から半年後、長屋王事件は起こりました。

長屋王がどんな左大臣だったか、都の庶民は知っていました。その事をめぐって様々な噂といざこざが起こり、殺人事件も起こりました。もちろん、聖武天皇は十分に知らされていなかったでしょうね。
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全ては、歴史の靄の中に。


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by tizudesiru | 2017-07-25 15:05 | 271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成 | Trackback | Comments(0)

269彷徨える大国主命と宗像君徳善

彷徨える大国主命宗像君徳善
さて、彷徨える大国主命の話の方へ移りましょう。
万葉集巻六「冬十一月、大伴坂上郎女、帥の家を発ちて道に上がりて、筑前の国宗形郡名兒山を越える時に作る歌一首」におおなむちの神が歌われています。

963 おほなむち すくなひこなのかみこそは 名付けそめけめ 名のみを 名兒山とおいて あがこふる 千重の一重も なぐさめなくに

むかし、おおなむちとスクナヒコナの神がはじめて名付けられたという「名兒山」だけど、わたしが都に置いて来た娘を恋しく思う心に比べれば、「なごやま(汝の兒の山だよ)」と聞いても、千重の一重も少しの慰めにもならない。

幾度か取り上げた万葉集の大伴坂上郎女の歌です。
このブログ「大国魂神社は、大化改新後に総社になった」でも取り上げました。

おおなむちの神が古代の筑紫・和歌山紀ノ川流域・関東の国土創造の神だったと、既に紹介しています。
では、おおなむちとスクナヒコナの神は、宗像氏の支配地域の神だったのでしょうか。支配神でなくては、山の名付け等できないはずです。
しかし、三女神を「宗形氏などが祀る」と書紀にも書かれています。万葉集とほぼ同時代に、同じ地域で神の名がずれているのです。
考えられるのは、同じ八世紀にご祭神が入れ替わったと云うことです。
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宗像氏は日本書紀に出てきますが、特に天武天皇の嬪となった宗像君徳善の娘・尼子娘は、高市皇子を生んだと書かれています。その宗像君徳善の墓が宮地嶽神社にある宮地嶽不動古墳とされていますが、徳善の墓ではないという説もありますね。
幾度もこのブログでも取り上げましたが、その古墳の所在する宮地嶽神社を再訪してみましょう。

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元のお社は階段を上り詰めたこの辺りに在りました。背面の山は神社のご神体山です。拝殿の大注連縄は、直系2.5m、重さ5t、日本一だということです。
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山門をくぐったこの境内で、毎年筑紫舞が(10月22日)奉納されます。
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特別の舞である「磯良の舞」が舞われた年もありました。安曇磯良は安曇氏の祖先神です。白装束で顔を隠して登場します。安曇氏は海神を祀っています。
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この宮地嶽神社のご祭神は三女神ではありません。また、宗像氏ともかかわりのないご祭神でもあります。
息長足比売命(神功皇后)

勝村大神(かつむらおおかみ)

勝頼大神(かつよりおおかみ)


神社の創建は1600年前とされ、1200年前に神功皇后が遷座されたと云うことです


ご遷座された日が10月22日と云うことで、御遷座記念祭が行われているのです。

平たく言えば、神功皇后は後の世に入って来られた神なのですね。

宮地嶽神社古墳は、相島(神社の正面の海に横たわる島)
の玄武岩で造られた巨石の横穴式石室の古墳です。

(日本で二番目に長い巨石の羨道をもっています)。

以上のことから、この神社の古墳が宗像君徳善の墓であると思いますか?
素人は、違うのではないかと疑ってしまいますね。
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このブログの『148光の道は弥生から』を見ていただくと、宮地嶽神社と古墳のことが分かるのではないかと思います。光の道で有名になった神社です。

さて、再度「彷徨える大国主命」の話の方へ移りましょう。

このブログ「大国魂神社は、大化改新後に総社になった」でも取り上げました。大国主は関東地方の神にもなっていたのだと。

おおなむちの神が古代の筑紫・和歌山紀ノ川流域・関東の国土創造の神
でした。
すると、おおなむちとスクナヒコナの神は、もとは古代宗像氏の支配地域の神だったのでしょう。(支配神でなくては、山河の名付け等できないからです)

永く神として祭られていた大国主(おおなむち)の神、しかし、歴史のどこかで主祭神ではなくなっていったようです。
おおなむち神は北部九州辺りの神だったのに、その後、何処に行かれたことになります。
古事記によると、おおなむち(大国主)は多くの妃との間に多くの子どもをもうけています。

須佐之男命の娘・須勢理毘賣(嫡妻)
八上比賣ーー木俣神
高志国の沼河比賣
宗像の奥津宮の多紀理比賣ーー阿遅鉏高日子根神(迦毛大御神)・高比賣(下照比賣)
神屋の楯比賣ーー事代主神
八島牟遅神の娘・鳥耳の神ーー鳥鳴海神(とりなるみ)


広範囲から妻を迎えていますね。出雲のスセリヒメ、越の国のヌナカワヒメ、宗像のタギリヒメなどなど、日本海ルートの国と深いつながりがあるのですね。そして、関東にまで手をのばしていた、ということです。

子孫も古事記で辿ってみましょう。
スセリ姫には子が書かれていません。スサノウの娘で、しかも嫡妻ですから、オオナムチ(大国主)が出雲に入るには、出雲の支配者の娘を娶る必要があったと云うことです。もしかしたら、スセリ姫は年齢が高くて子供が産めなかったのかも知れませんね。それでも、嫡妻にしなければならなかった…
この掟(慣習)は、古代国家にもその後にも受け継がれる「王権の条件」ですね。古代では、皇后には皇女でなければなれなかったのですから。


では、大国主の子孫たち、鳥鳴海神から続きます。
鳥鳴海神
と日名照額田毘道男伊許知邇神ーー国忍富神(くにおしとみ)
国忍富神と葦那陀迦神(八河江比賣)ーー速甕の多氣波夜遅奴美神
多氣波夜遅奴美神天の御仲主の娘・前玉比賣ーー甕主日子神(みかぬしひこ)
甕主日子と於加美神の娘・比那良志毘賣ーー多比理岐志麻流美神
多比理岐志麻流美神と比比羅木の其花麻豆美神の娘・活玉前玉比賣神ー美呂浪神
美呂浪神と敷山主神の娘・青沼馬沼押比賣ーー布忍富鳥鳴海神
布忍富鳥鳴海神と若盡女神ーー天日腹大科度美神
天日腹大科度美神と天の狭霧神の娘・遠津待根神ー遠津山岬多良斯神

おおなむちの神が妻を迎えた地域は、広範囲にわたりました。
途中から「天御中主神」が入ってきますね。甕(みか)・日子・天など九州に所縁の深い詞が子孫の名についています。九州の勢力が大国主の勢力に浸透していったと云うことでしょうか。
その後、オオナムチ神は摂社や境内社へと遷座されていったようです。または、名前を変えて…
時々、思わぬ場所で「大国主」が祭られている神社に出会います。
そんな小さな祠にも、村社の摂社にも、知られざる歴史の面白さを感じますね。
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(関東平野の最奥の筑波山とつくし池です。写真をお借りしました)
(古事記では、多岐理比賣がオオナムチの妻になっていますが、書紀には市杵嶋姫という一書もあります。また、宗像大社の辺津宮の女神でもあります。「宗形三女神のお仕事」で祭神はとりあげています)


今回も長くなりました。読みづらいでしょうね。
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by tizudesiru | 2017-07-20 11:20 | 269彷徨える大国主命 | Trackback | Comments(0)

太政大臣高市皇子を苦しめた皇女達

太政大臣高市皇子の苦悩 
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持統天皇と吉野行幸の不思議
やっと春が来て、その春も過ぎ夏が来たらしい。神祭りのしろたえの衣を干しているではないか。やっとわたしの時代、天の香具山の時代になったのだ』はつらつとした歌ですが、持統帝が実権を握るのは晩年でしたから、これは初老の婦人の歌です。これから自分の思いを貫くのだという決意の表れた歌なのですが。一体、いつ詠まれたのでしょうね。歌の意味と即位後の吉野行幸が結びつかないのです。

日本書紀の持統天皇の吉野行幸を見ると30回以上あり、即位しても仕事していたのかどうか疑いたくなります。即位は称制期間の三年を経ての持統四年1月ですが、吉野行幸がつづきます。行幸の月は、持統三年(1、8月)四年(2,5,8,10.12月)五年(1,4,7,10月)六年(5,7,10月)七年(3,5,7,8,11月)八年(1,4,9月)九年(2,3,6,8,12月)十年(2,4,6月)十一年(4月)ですから在位中の行幸の多さには驚きますね。これで、天皇としての仕事ができたでしょうか。持統天皇は即位していなかったか(太上天皇と称されているが)、すべてを高市皇子にゆだねていたのかなど疑う人もいますが、高市皇子が政権の中枢にいたとしか考えられません。
天皇が旅行している間は政治を留守司がやっていたことになりますが、その立場にあったのは高市皇子でしょう。持統四年(690)に高市皇子は太政大臣になっていますが、天武帝は天皇親政をしていた(議政官の任命はない)のですから、天武帝存命中から高市皇子が行政のトップだったのでしょう。

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高市皇子が造営した藤原宮
高市皇子が行政のトップとして政治を行っていたところへ「天武十二(683)大津皇子、朝政を聴く」状況が入ってきました。藤原宮が耳成山の南の地に造営されたのは、大津皇子の政治参画によって候補地が変えられたためだそうです。都地を選んだのは大津皇子だったというのです。と云うことは、大津皇子(686没)が大きな存在だったと云うことです。高市皇子はどう思ったでしょうね。
確か、新益京(藤原宮)は「周易」で造られたのでしたね。条坊の真ん中に宮殿があるという京で、平城宮のように北に宮殿が置かれた都とは造営の思想が違っています。
都の中央に宮殿があり耳成山の南の平地に広がる都が…広大な条坊を持った瓦葺の宮殿を持った「新益あらましき」の都が、なぜ捨てられたのか、不思議でなりません。藤原宮は15年で捨てられているのです。
万葉集には藤原宮の「藤原宮御井の歌」など寿ぐ歌がありますが…
遷都の理由は何か、答は少ないでしょう。高市皇子が造った京だから破棄された、藤原宮とは別の思想で造られた都が欲しかった、ここが呪われた京だと思われた、この都を支えた氏族が離反した、謀反者・大津皇子が望んだ都地だったから破棄した、などなど考えられますが。
(藤原宮の瓦も見事です。九州の観世音寺と同じ瓦当文様です。元明天皇の時代になっても60年ほど完成されなかった観世音寺と同じです。この瓦は、この後全国に広がる瓦当文様のモデルとなったようです)。

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ここで思うのは、持統天皇と高市皇子の確執です。ほとんどの権力を掌握していたであろう高市皇子が太政大臣に留まり、称制していた持統天皇が持統四年に即位するという展開は、次の天皇の出現を待っていたためでした。その事は、高市皇子を苦しめなかったのでしょうか。頼りの女帝は留守で、天智朝の皇子皇女が大勢いる中での政治ですから、困難がなかったとは思えません。

大津皇子を死に至らしめたのは、持統天皇の草壁皇子に対する愛の結果だと噂されています。が、天武朝の他の謀反事件を見ても「謀反の判断を下したのは議政官」でした。藤原広嗣の乱も橘諸兄が謀反と判断、長屋王事件も密告を受けて動いたのは藤原氏でした。天皇に直接密告することはできません。間に議政官がいるのです。

ですから、大津皇子を断罪したのは、持統天皇というより高市皇子だったと考えたが自然です。

天武朝の期待の星・大津皇子を断罪(686年)しなければならなかったのが高市皇子だったとすると、その心中はいかばかりだったのか。
そして、高市皇子を苦しめたのは、これだけではありませんでした。高市皇子は壬申の乱の後遺症も残る新政権のトップだったのですから。
妃の御名部皇女は天智帝の皇女ですし、壬申の乱後に妃に迎えた十市皇女(大友皇子の妃だった)は、天武帝が斎宮に向かった後に自殺しています。異母姉・十市皇女の死に高市皇子は苦しみました。その時の歌が、万葉集の挽歌に残されています。さらに、天武帝の皇女で鎌足の娘の氷上娘の生んだ但馬皇女は、高市皇子を裏切り穂積皇子に走りました。これらのことは既に書いていますが。

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その後、十市皇女は祟り神になったと思います。過酷な皇女の人生とその結末を考えると、人々は畏れたことでしょう。ひそかに祟り神を慰めたり鎮めたり、守護神として頼りにしたり、南都・鏡神社の辺りに天満宮信仰(菅原道真の祟りを鎮める)の原型として、比賣塚信仰が潜伏していたのだと思います。

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以前に紹介した新薬師寺の門前の「比賣神社」は、鏡神社の摂社でした。
この南都・鏡神社は、806年に唐津の鏡神社(藤原広嗣を祀る)からの勧請です。

806年は桓武天皇の崩御年で、平城天皇の即位年です。平安京の平安の為に南都の新薬師寺の守護神として、強い祟り神を選んだのです。祟りが強ければ強いほど霊力が強力だったし、守護神として頼りになったのです。

比賣塚
にもそういう祟り神としての伝承があったので、鏡神社の宮司様が十市皇女を改めて祭られたのだと思います。
わたしがこの比賣塚を十市皇女と結びつけたのは、比賣塚の横に「神像石」があったからです。弘文天皇(大友皇子)の在りし日を顕彰し、四代にわたる御姿石を長く祀ったと書かれていたからです。隣り合い身を寄せ合う塚と石がある、それは何を意味するのでしょう。比賣塚は十市皇女以外に考えられません。
それは、祟り神となった悲しみの王妃を偲ぶ縁となっていたのです。


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by tizudesiru | 2017-06-24 00:05 | 259王権と高市皇子の苦悩 | Trackback | Comments(0)

高松塚古墳の被葬者は高市皇子

再度、高松塚古墳の被葬者
NHKの番組「歴史秘話ヒストリア」で、高松塚の被葬者について追及していました。石棺・壁画とその陵墓の位置を分析しながら。面白く拝見しました。最後まで視聴者を引っ張って面白かったのですが、最後に疑問が残りました。被葬者が高市皇子ではなく刑部(忍壁)皇子となったからです。わたしは被葬者は高市皇子だと思っています。彼こそ新益京(藤原京)を造営した人だからです。最高権力者としてその大極殿と朱雀大路の南の直線上に眠るべくして永眠したと思うからです。
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画像はNHKテレビをデジカメで撮りました。
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藤原宮(新益京)は耳成山の南に作られた最初の条坊を持つ都とされ、藤原宮は初めて瓦が葺かれた宮殿とされています。その藤原宮の大極殿の南に野口王墓(持統・天武陵)があり、その南に中尾山古墳と高松塚古墳があることは、今までに繰り返しお知らせしてきました。
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高松塚古墳は石室(石槨)の壁に人物像や四神の玄武と青龍がえがかれ、被葬者が権力者であることは間違いありません。
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更に、さしかけられた笠が深緑であることから、被葬者が一位であることが分かりました。やはり最高権力者です。そこで,被葬者の候補が忍壁(刑部)皇子と高市皇子にしぼられたのです。また、「海獣葡萄鏡」が副葬されていたことから、遣唐使が持ち帰った鏡ではないかということで、705年没の刑部皇子と決まったという展開でした。
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それでは、四神が描かれたキトラ古墳が高市皇子の陵墓というのでしょうか。しかし、キトラ古墳は藤原宮より伸びたラインからずれています。大極殿を通るラインのみが、中尾山古墳と高松塚古墳を通るのです
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天智陵から南下したピンクのラインに乗るのは、菖蒲池古墳・天武持統合葬墓です。藤原宮から熊野大社に引いたラインにはキトラは乗るかもしれませんが、他の陵墓はラインからずれます。
耳成山から南下した緑ラインには、中尾山古墳と高松塚古墳が乗ります。赤いラインを藤原宮から高松塚古墳までひきました。すると、ラインは大極殿から朝堂院南門を通りました。高松塚古墳は正確に測量して作られたということがわかるのです。

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ここまで藤原宮にこだわった被葬者です。高市皇子以外に考えられないのです。それに、被葬者は頭蓋骨がなく抜き取られた可能性がある(首を斬られたのではない。下あごの骨はのこっていたので40歳~60歳の男性の骨とわかった)、大刀の刀身が抜かれ、玄武の顔が削られていたと、調査報告がありました。そんな仕打ちを受けた可能性のある一位の人物は、高市皇子以外に考えられません。長屋王事件の後、謀反の罪が埋葬されていた父親の高市皇子まで及んだとも考えられるし、軽皇子(文武天皇)の立太子に対して何らかの咎を受けたかも知れません。軽皇子は高市皇子薨去後半年で立太子、その後半年で即位してるのですから。
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ヒストリアで最後にラインを熊野大社に持っていくという不思議な画面の挿入がありました。藤原宮と熊野大社を結びつけるなんて、何か意図があったのでしょうか。平安時代から確かに熊野は聖地となり、あまたの皇族貴族が詣でました。テレビでは意味が分からないまま終わったのですが、わたしは日頃から三本の棒があれば測量し直線を引けると言っているので、ラストの熊野ラインはちょっとおもしろかったです。しかし、正確に言うと、藤原ぐうから熊野まで直線を引くと、天武持統陵や高松塚はラインに乗りません。大雑把なことでいいなら別ですが…
古代は建築や墳丘造営や旅行や意味づけをする時、方角を大事にしました。命や運勢に関係すると思っていたからです。ですから、いい加減な測量はしなかったと思います。
だからこそ、高松塚古墳の位置は大事で、なぜその地が選ばれたか考えなければならないと思います。


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by tizudesiru | 2017-05-22 21:32 | 249再び高松塚古墳の被葬者 | Trackback | Comments(0)

214 天智天皇が建てた寺・崇福寺

天智天皇も寺を建てていた

扶桑略記によると崇福寺は668年建立です
写真は崇福寺です。下の写真は、大津市歴史博物館の売店で買った「かわら」から撮りました。
天智天皇はこんな山の中に寺を建てたのですね。持統天皇の御代に、山寺として万葉集にも出ています。崇福寺は尾根の上に寺院があり、深い谷が間にあります。
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万葉集巻二の115は、但馬皇女の歌です。
但馬皇女は天武天皇と藤原鎌足の娘(氷上娘)との間に生れました。穂積皇子は、天武天皇と蘇我赤兄の娘(太蕤娘おおぬいらつめ)との間に生れています。どちらも、祖父は天智天皇の腹心の部下でした。
それで、二人は近づいたのでしょうか。高市皇子は 当代きっての権力者であったはずなのに、です。高市皇子はどう思ったでしょうね。どうでもよかったのかな?

但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、穂積皇子を思いて作らす歌一首
114 
秋の田の穂向きの寄れる片寄りに君に寄りなな言痛(こちた)くありとも
  穂積皇子に勅して、近江の志賀に山寺に遣わす時に、但馬皇女の作らす歌一首
115 
後れいて 恋つつあらずは追いしかむ道の隈みに標結へわが背
  
但馬皇女、高市皇子の宮にいます時に、ひそかに穂積皇子に接い、事すでにあらわれて作らす歌一首
116 
人言を繁み言痛(こちた)み おのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る

但馬皇女は、高市皇子の妃となっていたのです。それなのに、穂積皇子に恋してしまった。皇女の恋歌は、高校でも学習するし、よく知られていますよね。
さて、滋賀の瓦ですが、天智天皇の崇福寺より古い寺があるんですが、実はその穴太廃寺を訪ねて行ったのですが、大雪だったしとうとうたどり着けませんでした。それで、大津市歴史博物館で本を買ったのです。では、穴太廃寺の瓦を見てみましょう。

7世紀前半の寺を近江京に合わせて造り変えた」? なんじゃ??意味不明の説明ですね。
これはですね、もともと古寺が穴太にあったのですが、天智天皇が近江に遷都した時、その古寺を造り変えて、方向を近江京に向けた伽藍にしたというのです。私は、向きを変える前の伽藍と瓦のことが知りたかったのです。
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百済系というより新羅系の古瓦です。多くのことが分かりました。もともとの伽藍は、東に塔、西に金堂でした。創建寺院を取り壊して、再建寺院を造らねければならなかった理由って何でしょう。東西に塔と金堂が並ぶ古代寺院の伽藍は、まるで九州ですよね。

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by tizudesiru | 2017-02-11 00:06 | 214天智天皇が建てた寺 | Trackback | Comments(0)

175高市皇子の薨去と謀反事件

175・高市皇子の薨去と謀反事件


高松塚古墳が発掘された時、その埋葬の様子が問題になりました。


しかし、石室は狭いのですが、壁画があり、
それが大きな話題となったので、その為に他の事実が目立たなくなってしまいました。

当時、被葬者は「何か罰を受けるような、事件に巻き込まれた人」であるとされていました。

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わたしの記憶が確かであれば、遺体の様相が問題だったと思います。


頭蓋骨がなかった…首の骨は有ったので斬首ではない
と。この話題はいつの間にか消えたようですが、問題が解決されたのではありません。

埋葬当時から頭蓋骨が抜き取られていた(小さな骨、甲状軟骨・舌骨などは残る)? 筋骨の発育のいい壮年男性。7世紀末に死亡。

梅原氏は「人骨に頭蓋骨がない・鞘のみで、大刀の刀身が抜かれている・日月像と玄武の顔が削られていた」これは、呪いの封印で、被葬者のヨミガエリを阻止したのだという。

ですから、軽皇子(文武帝)の立太子に異議を申し立てた弓削皇子が被葬者と、梅原氏は主張されました。高市皇子だと言ったのは原田大六氏だけです。


わたしは、ずっと草壁皇子だと思っていました。それは、治田神社(岡宮跡・草壁皇子が育った)と、高松塚石室と、岡宮天皇陵が直線で結ばれるからでした。

所縁の宮と改葬前の墓とを結び、尚かつ耳成山の真南に位置するのは、草壁皇子の墓以外には考えられない
と思っていました。数年前に、ブログにもそう書きました。

しかし、出土した歯の鑑定が壮年男性となったので考え直したのです。

では、「後皇子尊」と尊称で呼ばれた高市皇子以外にないと結論しました。

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高市皇子ならヨミガエリを阻止された(天武朝の皇統が続くことを阻止した)ことは十分考えられます。

だからこそ、耳成山と高松塚古墳の間に文武陵を築造(改葬)したのです。そして、岡宮天皇陵(草壁皇子の陵)も束明神古墳に改葬した、と考えます。


本当に、高市皇子のヨミガエリは阻止されたのか?
それは何故か?
だからこそ、高市皇子の死は再検証しなければなりません。


謀反事件の共通点

①有間皇子の場合

658年 中大兄皇子の息子、建王没(5月)

半年後に、有間子に謀反の疑い(11月)有間皇子没


わたしが幾度も紹介したのは、有間皇子が有力な皇位継承者であったことです。有間皇子の存在が邪魔だったのは、鎌足や中大兄皇子側でした。
蘇我系女子(造子媛)が生んだ建王の死は、中大兄皇子サイドには、後継者を亡くしたことになった。大友皇子は後継者とはなれなかったから、中大兄は「不改常典」の法を考え、皇位継承の決め事を造ったと、展開していきます。

➁高市皇子の場合

太政大臣という最高位についていた。文武天皇の元服が近くなった。高市皇子にも王子がいて、有力な後継者だった。

696年 高市皇子没(7月)

半年後に、697年 軽皇子立太子(2月)、

半年後に、軽皇子即位(8月)


軽皇子の立太子と即位が滞りなく行われるには、高市皇子の存在が障害になっていた。次の段階に進むには、喪が終わる半年の時間が最低必要だった。文武天皇の15歳即位に合わせて、高市皇子の死は、すごく計画的に練られた事件だった、と言えるでしょう。

③氷高内親王の即位の場合? なぜ首皇子は即位できなかったか?

714年 首皇太子元服(14歳)*次の年の即位を考えていた

715年 長皇子(6月)穂積皇子(7月)志貴皇子(8月)没

 氷高内親王即位(9月)*元明天皇の配慮か


独身だった氷高皇女(元正天皇)には、身分が高すぎて嫁ぎ先がなかった。藤原氏としては、皇位継承者を拡散するつもりはなかったので、氷高皇女を結婚させなかったのでは…。
藤原氏としては、首皇子(文武天皇の子・聖武天皇)を元服させ、即位準備は十分に整っていたが元明天皇は娘の氷高皇女を即位させた。それは何故か?
元明天皇は、草壁皇子の妃です。夫の決意(自死)を十分に承知していたとしか思えません。皇統は長屋王に受け継がれてもいいと……

④長屋王の場合
妃は吉備内親王(文武天皇・元正天皇の妹)で後継の男子あり

727年 基王(母・光明子)生まれてひと月で立太子

728年 基皇太子一歳で没(9月)

半年後に、729年 長屋王、謀反の密告で自刃(2月)

聖武天皇と光明子の間に生まれた基王は、生後すぐに立太子されたが、一歳ほどで死亡。すると、皇位継承者として一番近かった長屋王一家を全滅させる謀略を、藤原氏は取ったのだった。


謀反事件の共通点

謀反事件は、有力な皇位継承者が死亡した時に起こる。
次の継承者とおぼしき人物が抹殺される

と考えられるのですが、

更に、「藤原氏がここまでのことがやれたのは何故か

なぜ、高市皇子は封じ込められなければならなっかったのか
をはっきりさせねばなりません。


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by tizudesiru | 2016-12-02 10:25 | 174高市皇子の死の真相 | Trackback | Comments(0)

174高市皇子の死の真相・1

174高市皇子とは何者か


万葉集の謎の一つに「高市皇子の挽歌」は何故あれほど長いのか」という謎というか、疑問がありました。


持統帝が愛した草壁皇子より弔いの歌が長いのです。

もちろん、天武帝の長男である太政大臣(高市)の葬儀の歌です。長いのは当然かも知れませんが、皇太子より2倍以上長いのは誰が見ても不思議です。

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しかし、よく読み直してみると、先に紹介した通り(「高松塚古墳の被葬者」で読んだ通り)、多くの詞が使われているのは、


壬申の乱
(夏の戦を冬の厳しい戦いとして表現されていますが)と


天武天皇の意志と功績
、其の命を受けた皇子、そして、


「結う花の栄ゆる時に」お元気で今も盛りの時に、「皇子の御門を神宮に装い」皇子自身の御殿を霊殿に飾ったこと。


高市皇子の棺を挽き、神として城上の宮に祀ったということ、です。

 

冷静に読むと、高市皇子の権力者としての姿は見えにくいですね。

人麻呂は「時の最高権力者に敬意」を払ったけれど、その真の姿を現さなかった…


では、高市皇子の本当の姿は読めないのでしょうか。

高市皇子の挽歌は、長歌と短歌からなっています。長歌は紹介しましたから、短歌を見てみましょう。


短歌二首


200 久かたの 
(あめ)() ゆえ 日月


地上ではなく天上世界をお治めになることになった皇子ゆえに、残された者は日月が立つのも分からないほど嘆き皇子を慕い続けている


201 
埴安(はにやす)  (こもり)() 舎人(とねり)(まど)


埴安の池の堤に囲まれた出口のない隠れ沼のように、水の行き先が分からないように、舎人たちはただ迷い嘆くだけである


  或書の反歌一首


202 
哭沢(なきさわ)の 神社(もり)三輪(みわ)須江(すえ) いも 我が(おほきみ) 

 右一首は、類聚歌林に檜隈女王が泣沢(なきさわ)神社


哭き沢の神社に神祭りの酒の甕を据えて、皇子の蘇生をお祈りしたけれど、その甲斐もなく、とうとう我が王は天上をお治めになることになってしまった。なんということだろう。


高市皇子は何故死なねばならなかったのでしょうか。
上記の短歌三首の内の二首は人麻呂作です。人麻呂は、天武朝の皇子に対して、その立場や位置を的確な言葉で表現しています。

「高市皇子は地上を治めるのではなく天上をお治めになられた」
元来『地上を治める人だった❓』けれど、天上を治めることに成った…と、人麻呂は表現しています。
長歌の詞でも『わご大王の天の下申し給えば』とは、高市皇子が天下の政治を執り行っていた、と読めます。
高市皇子は、太政大臣以上の立場だったのでしょうか。


半年後の法則・高市皇子の薨去・長屋王の変

それで、気になることがあります。大化改新後の謀反事件には、ある共通点があるのです

その事を考えてみたいと思います。
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高市皇子没(696年7月)→軽皇子立太子(697年2月)→軽皇子即位(697年8月)
基王没(728年9月)→長屋王の変(729年2月)→光明子立后・改元(729年8月)

二つの事件は、半年後にきちんと次の段階に進んでいます。つまり、計画されて実行されたことだったと云えないでしょうか。もちろん計画したのは、実利を得た人物・氏族ですね。
藤原氏によって、用意周到に計画されたことだったと思うのです。

なぜ、そのような計画を立てたのか、ですね、もちろん高市皇子が絶大な権力と財力を手にしていたからです。皇親政治という天武天皇の意思に従った政治を行っていたのですから。
持統天皇が即位しても、高市皇子の権力に陰りはなかったでしょう。


なぜなら、持統天皇は在位中にずっと吉野などに行幸していたのですから。
持統帝は、ほとんど都にはいなかったのです。称制のときから在位期間、ずっとです。
その間、誰が行政と神祭りのトップだったか! 高市皇子以外にはないでしょう。

大津皇子の熟慮の上での皇位継承への望みを謀反と決断したのも、高市皇子かも知れませんね。

彼こそ最高権力者だったのですから。
皇親政治家から権力を奪う方法は、ひとつです。律令による政治をすること。
藤原氏はそれを着々と実行したのです。外戚となり、律令と陰謀とを以てして。
もしかしたら、高市皇子の死も誰かが関わったかも知れません。屈強な男性にしては、早すぎる死ですからね。


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by tizudesiru | 2016-12-01 12:03 | 174高市皇子の死の真相 | Trackback | Comments(0)

166・高市皇子・万葉集で一番長い挽歌

166・高松塚古墳の被葬者と耳成



持統天皇は、高市皇子をどのように葬ったのでしょうか。


死後の葬儀や陵墓はその被葬者の立場をそのまま示すものです。

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万葉集で一番長い挽歌を奉られたのは、高市皇子です。



高市皇子は、
天武天皇の第一子・妻は天智帝の皇女でした。
草壁皇子の死後、後皇子尊(のちのみこのみこと)とされ、権力の中枢に入りました。
 持統天皇十年(696)七月・薨去



高市皇子の陵は、高松塚古墳という説があります。


壁画装飾で知られる高松塚古墳の被葬者は誰なのでしょう。


高松塚古墳は、耳成山の真南に位置します。将に、


「耳に成す山」の真南です。時の最高権力者の墓と言う場所です。

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発掘された骨は、40才過ぎの壮年の男性でした。

では、高市皇子となります。


高市皇子は最高権力者となったことになります。書紀では「太政大臣」となっています。妃は御名部皇女(天智天皇の娘・蘇我石川麿の孫)でした。

高市皇子の挽歌は、長歌は草壁皇子の2倍以上あります。

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高市皇子尊の城上(きのへ)(あらき)(のみや)の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首併せて短歌

 

かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに(かしこ)き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天御門を かしこくも定めたまいて 神さぶと 磐隠ります 八隅しし わが大王の

 

ことばに出すこともはばかれる、言葉にして言うことも何とも畏れ多い、明日香の真神の原に ひさかたの天上の聖なる御殿を畏れ多くもお定めになって、神として窟におられる 世をお治めになった我が大王の


ここに歌われているのは、天武天皇のことです。人麻呂は、挽歌の冒頭には天武天皇のことを述べ、高市皇子の血統を示しました。


(わが大王の)きこしめす 
背面(そとも)の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の 行宮(かりみや)に 天降りいまして 天の下治めたまひ ()す国を 定めたまふと (とり)が鳴く 東の国の 御軍士(みいくさ) 召したまひて ちはやぶる 人を(やは)せと (まつ)ろはぬ 国を治めと 皇子ながら (よさ)したまへば 大御身に 太刀取り()かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士(みいくさ)を (あども)ひたまひ 


我が大王のお治めになる北の(美濃)の国の 真木の立つ不破山を越えて、和佐射見の原の 行宮に 神のように天降りおいでになって 天の下をお治めになって、統治なさる国を鎮めようと、鶏が鳴く東の国の 軍勢をお集めになって、荒れる人々をおさえ鎮め、従わない国を治めよと、皇子であるからこそお任せになったので、皇子はその御身に太刀をお佩きになり、その御手に弓をお持ちになり、軍勢を率いられた。 


ここも、ほとんどが天武帝の命令を高市皇子が受けたことが語られているようです。

この後に、戦で高市皇子が活躍したことが述べられています。

要約すれば・


鼓の音は雷の声かと聞き違えるほど

兵士が掲げる軍旗の靡きは、野火が風にあおられるように見え

弓はずの音は、大雪の降る冬の林につむじ風が吹き渡るように聞こえ

飛んでくる矢があまりに多く、大雪が飛んでくるようだった

立向かう兵士も命がけで戦っていた時、

渡会の伊勢の宮から神風が吹いてきて、その天雲で敵を覆ってしまった

そうして、水穂の国を 神として大いにお治めになった


高市皇子の壬申の乱での活躍が語られました。
要約しましたが、壬申の乱は夏だったはずですが、ここではま冬の厳しい戦いとして書かれています。

 長いのでここで一休み。

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さて、続きです。

やすみしし 我が大王の 天の下 申したまへば 万代に しかしもあらむと 
()綿花(ふばな)の 栄ゆる時に 我が大王 皇子の御門を 神宮に (よそ)い奉りて (つか)はしし 御門の人も 白妙の 麻衣着て 埴安(はにやす)の 御門の原に あかねさす 日のことごと 鹿じもの いはひ伏しつつ (ぬば)(たま) ゆうべになれば 大殿を 振りさけ見つつ (うずら)なす いはいもとほり さもらへど さもらひえねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも 未だ過ぎぬに おもいも 未だ尽きねば 


天下をお治めになった我が大王(天武帝)に、我が大王(高市皇子)が天下のことを申しあげられたので、いつまでもそうであろうと、結う花のように栄えていた時に、我が大王の皇子の御殿を 神殿(御霊殿)として飾りたて 仕えていた御殿の人も真っ白な麻の喪服を着て、埴安の御殿の庭に 一日中を鹿ではないが腹這い伏して、暗い夜になれば 御殿を仰ぎ見ながら 鶉ではないが 這うようにうろうろし、お仕えしているけれど、お仕えするかいはなく、春の鳥のように鳴き迷っているのに 悲しみも未だおわってはいないのに、皇子を想うこともまだ尽きてはいないのに


何もかも受け入れがたく、気持ちの整理がつかないままなのに、皇子の霊殿から殯宮へと亡骸をお送りすることになってしまった、のです。
次は、殯宮の様子です。


言さえく 百済の原ゆ 
神葬(かむはぶり) て あし   て ら ぬ も 大王

万代(よろづよ)に て し 香久山宮   と つ き む 


あの百済の原を通り抜けて、神として葬り奉り、城上の殯宮を 常にお住まいになる宮として 高くお祀りし 神としてお鎮まりされてしまった。しかれども、我が大王が「万代までも」と思われてお造りになった香久山の宮(藤原宮)、この宮は、いつまでも残って行くと思われただろう。

天を仰ぐように皇子を振り仰ぎながら、玉だすきを懸けるように、皇子のことを心にかけてお偲びしたい。畏れ多いことだけれど。


さて、人麻呂は高市皇子を如何に詠み奉ったでしょうか。

天武天皇が天下を治めた

その皇子は天皇のために戦の前線にたった

その戦いは、敵を圧倒した

すっかり皇子の代になると思っていたのに

皇子は亡くなり、誰もが混乱した

皇子は城上の宮にお住まいになるが、お造りになった藤原宮は万代まで栄えてほしいだろう

皇子をこれからも偲んでいこう


という内容です。


あまた言葉が並んでいますが……

高市皇子は、確かに大王だったようです。天武天皇と同じ文字「大王」を同じ詩篇の中に使われていますから。

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高市皇子は、耳成山の真南に葬られた方のようです。

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しかし、その耳成山との霊力は断たれます。

なぜ?

それは、明日

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by tizudesiru | 2016-11-23 15:20 | 166高市皇子と高松塚古墳 | Trackback | Comments(0)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
39神籠石から分かること(4)
40神籠石から分かること(5)
41神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43古代の宮殿は何処に?(1)
44江田船山と筑紫君磐井
45筥崎宮から見た太宰府天満宮
46高千穂の峰から阿蘇へ
47雲仙が守った首長は、何処
48神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50醍醐天皇の都の守り
51十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社
53空海の霊力
54出雲大社と熊野本宮大社
55大山古墳の謎
56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線
59続石上神宮の視線
60藤原京の守り
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮
63あおによし奈良の都は
64続・あおによし奈良の都は
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実とは
67石城山神籠石ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社
71尾張国の式内社
72紀伊国の式内社
73近江国の式内社
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳のライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社の不思議
92薦神社の不思議2
93金富神社と鉾立山
94 金富神社と鉾立山 2
95 金富神社と鉾立山3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
101宇佐神宮と九州の神々
278西原村の旧石器・縄文・弥生の資料
289人麻呂が見た王朝の皇子達
256平城京と平安京
219法起寺式伽藍
149有間皇子を愛した間人皇后
102安心院の二女神社
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城に瓦があった
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
261隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵善寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた

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