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蘇我氏の本貫・寺と瓦釜と氏神

飛鳥寺の近くの窯跡と神社
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蘇我氏の宗家の寺は、飛鳥寺でした。この寺は官寺の役目を果たしたようで、公的な行事を寺の傍で行いました。ですから、蘇我入鹿はの首塚が飛鳥寺の裏に有ります。大化改新の事件後には、中大兄は飛鳥寺に籠りました。それを甘樫の丘から蘇我蝦夷は見たでしょう。吾子の悲惨な最後はすぐに伝わったはずですね。古人大兄は震撼しました。「韓人が鞍作を殺した。吾心痛し」と、自分の屋敷の門を閉ざしました。
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飛鳥寺の門前に道を挟んで小高い丘がありますが、そこは窯跡だそうです。ここで飛鳥寺の瓦を焼いたのです。古代寺には瓦窯跡が伴います。すぐ近くで必要なものを調達したのです。もちろん鍛冶も材木加工も寺の近くでしていました。釘も一緒に造ったのです。すると、木材も近くで調達したのでしょうね。
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そして、学問のすべてを併せ持つ仏教文化を取り入れて、最新の事業を展開していたのです。
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そして、飛鳥寺の西裏には甘樫の丘が横たわります。そこは蘇我氏本家の邸宅がありました。甘樫とは、『天のように畏し』だったのかも知れません。文字は変えられていますが、「天氏」のアマだった可能性はあります。樫は「アナかしこ」の「カシ」で、畏れ多いという意味です。つまり蘇我氏は「まるで大王のようにふるまった」のではなく、大王そのものだったのかも知れません。だからこそ、滅ぼされたと考えたが自然でしょう。最近、小山田古墳も蘇我氏の墓だった説が有力ですね。
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この甘樫の丘や飛鳥寺の一帯は、当時の権力を握っていた蘇我氏の本貫でした。その中に中臣氏の関係の土地も含まれています。と云うことは、両氏族は近い関係に在ったと云うことでしょうか。飛鳥坐神社は甘樫丘と向かい合っていますから、蘇我氏と中臣氏は同じ神社を祭祀していたのでしょうか。元は同族だった? かも知れません。相手の弱点を十分に承知した上で、乙巳の変は実行された。だから、成功したのでしょう。
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飛鳥坐神社と甘樫丘は一本の道で結ばれています。
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この道をまっすぐ進むと甘樫丘です。左に曲がると飛鳥寺です。
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ここには主要道路が交叉しています。
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近くには板蓋宮もありました。
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古代の権力に必要なものがここには揃っているようです。氏の寺、氏の山、氏の祭祀、氏の館、氏の権力の象徴である宮殿、そして、氏が支配する職人集団です。政治経済と文化を掌握しなければ、権力を集中することはできません。蘇我氏が持たなかったものは、軍事力かも知れません。蝦夷は自殺しましたが、兵は動かしませんでした。軍事力…次の権力者は滅びた蘇我氏からあらゆることを学んだのです……

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by tizudesiru | 2017-06-19 00:29 | 257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社 | Comments(0)

228 古代山城の瓦

228 公開セミナーで伝えたかったこと

2月25,26日、久留米大学比較文化研究所主催の公開セミナーに参加させていただきました。
そこで伝えたかったことは、古代瓦が九州で発掘されていること、そこは寺院ではなく山城であること、瓦伝来ルートは畿内経由と考えなくていいのではないかということです。

まず、 古代山城の瓦何処から来たのか??

朝鮮式古代山城は、天智天皇四年(665)に築造されたという。その古代山城に瓦が出土します。七世紀の山城に瓦です。仏教文化と共に我が国にもたらされたという瓦。寺院の屋根を荘厳した瓦が、寺ではなく山城に葺かれた? 驚きますよね。それも7世紀後半です。
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わが国最初の寺と言われる飛鳥寺(元興寺)ですが、ここに葺かれた単弁蓮華文軒丸瓦とは違う文様の瓦が山城から出土しました。新羅系という鎬(しのぎ)を持つ瓦と、花弁の先が反転するかえり弁を持つ百済系と云われる瓦。
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この古瓦が福岡県の大野城から出土しました。この写真は、九州歴史資料館の特別展「四王寺山の1350年」からデジカメで撮っています。となりは、昨年の「山城シンポジウム」で発表された九州歴史資料館の報告の図をデジカメで撮ったものです。

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では、飛鳥寺の瓦を見直してみましょう。花組・星組と呼ばれる瓦です。
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飛鳥寺の瓦は、山城の瓦とは文様が違いますね。大野城の瓦は、どのルートで福岡に入って来たものでしょうね?
そもそも山城に瓦とは不思議です。その事を、発表者に聞いてみました。
「なんのために山城に瓦を葺いたのでしょうか?」
「防火です」

では、防火のために、文様のある軒先瓦を葺いたのですね。
防火なら丸瓦だけでいいと思うのですが。
瓦の文様にこだわるのは、時代によって瓦当文様が変わっていくからです。

その事は、時間の流れだけではなく文化の伝播や政治の動向も教えてくれると思うからです。
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隋書によれば、7世紀初頭、阿毎多利思比弧が仏教を受け入れていたことが分かります。
おや、国家が受け入れていたのですか
確か、明日香では氏族が受け入れて氏族が寺を建てていました。
国家ではありません。それとも、蘇我氏が大王だったのでしょうか?

隋書では、国家の組織ができ上がり、80戸ごとに伊尼翼(いなぎ)を置き、10の伊尼翼は一つの軍尼(くに)に属しているというのです。
人々は税を取り立てられる体制に組み込まれているのです。
仏教は人々に浸透し人々が信仰したとも書かれています。
大化改新などしなくていいほど、国家の体制ができていたのです。

そして、その国には阿蘇山がありました。
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これは、熊本地震の十日前の阿蘇です。阿蘇山と云えば、この山しかありません。隋書に詳しい「阿蘇山」表記も発音も、九州の阿蘇山ですね。
 
素直に隋書を読むと、九州にも天子がいて隋と交流していた。日本書紀を素直に読むと、近畿にも大王がいて隋と交流していた。

別々に交流していてもいいんじゃないの!! と、なるのです。
九州のタリシヒコ側は隋に絶縁されますが、近畿王権は交流が続きましたから。

瓦の話はまだまだ続きます。
画像の①②などの番号は、セミナーでお配りした文章に対応するので消さずに残しました。
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by tizudesiru | 2017-02-26 23:05 | 228古代山城の瓦 | Comments(12)

208飛鳥寺は面白いけど…真実は何?

208 飛鳥寺は面白い
明日香寺は、蘇我氏の氏寺だったが、官寺の役目を果たした。なぜ?
公私混同でしょう? いや、そうではなくて蘇我氏こそが公だった!?

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飛鳥寺は、冬の日差しの中で、ほんのり古代が漂っていました。

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写真撮影もOKでした。ここは、何度も訪れている寺院でしたが、やっぱりいいですね。
西門の外に蘇我入鹿の首塚があり、645年の大事件が偲ばれました。
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昔、ずいぶん前に来たときは、首塚は道端にあり、云われなければ見逃すほどでした。その後、整備されてきれいな石敷きができた時、歴史がぼやけたように思いましたが、こうして更に年月が過ぎると、入鹿の無念でしょうか、そこはかとなく寂しさが漂っていました。
ここは、飛鳥寺の西の広場(公の広場)、外地の客人をもてなす場、辺地の民の服属儀礼をおこなった場所だったそうです。そこは神聖な神に見守られた場所です。そして、仏も見守る場となっていたのでしょう。
中大兄皇子と藤原鎌足が知り合ったのも此処、法興寺(飛鳥寺)の槻木の下です。
そこに入鹿の首が捨てられた。蘇我氏が滅びたのは、その絶頂期だったのです。

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蘇我氏の寺には、どんな瓦が葺かれたのか。
蘇我氏は何処とつながっていたのか。飛鳥大仏の屋根を飾った瓦の文様を知りたいです。
今回は瓦を見るのが目的でした。飛鳥寺の瓦は、ほとんどの
博物館や資料館に置かれていますが、やはり飛鳥寺で見たかったのです。
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飛鳥寺の創建瓦の文様は、蓮弁(花びら)の数が10枚とか11枚とかです。百済瓦の蓮弁には10とか11は有りません。真似して造ったのでしょうが、10や11とは、造りにくいでしょうね。
飛鳥寺の伽藍は一塔三金堂で、金堂が三つあるのは珍しく、ここだけです。NHKは百済の王興寺の影響だと云ってました。でも、王興寺は三金堂ではないらしいですね。
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飛鳥寺の創建瓦には二種類の瓦当文様があるそうです。いわゆる星組と呼ばれる瓦と、花組と呼ばれる瓦です。どちらかというと、花組の方が古いそうです。
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創建瓦は、どちらも「素弁蓮華文軒丸瓦」と同じ名称ですね。
だけど、蓮弁の先が違います。花弁の端に丸い珠が置かれているものと、花弁の先がハート型に割れているものと、微妙にちがいますね。
飛鳥寺の瓦は、当時の職人が丁寧に試行錯誤しながら造り上げたのがよくわかります。
どの瓦もきちんと作られています。
蘇我氏の氏寺として、馬子はさぞや財力を投じたことでしょう。
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でもね。わたしは我が国に仏教が受け入れられた初めての地域は、明日香ではなくて、九州だったと思っているんです。
その話は、また明日。
ああ、万葉集も書きたいのです。人麻呂歌集の物語を、ですが…瓦も。




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by tizudesiru | 2017-02-03 13:59 | 208飛鳥寺は面白い | Comments(0)


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