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191間人皇后の難波宮脱出

191間人皇后の難波宮脱出

間人皇后の愛と悲劇・とりかえばや物語

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間人皇后が難波宮を去ったわけ

間人(はしひと)皇女が孝徳帝の大后(皇后)に立てられたのは、幾つの時でしょうね!

大化改新の時、中大兄皇子は十九歳(十八歳)くらいで、その妹ですから十五歳くらいでしょうか。そんな少女が初老も過ぎた男性に嫁がねばならないとはあまりに過酷な話です。

大后に昇れる女性は皇族に限られましたが、皇女とはいえ間人は子どもみたいなもので無理な話ですよね。


その皇后が、突然皇居を去るのです。皇后に立って九年目の出来事でした。

(はく)()四年(653)、(やまとの)(みやこ)に遷りたい」という中大兄皇子の申し出に対し、孝徳天皇は許しませんでした

しかし、中大兄皇子は母の皇祖母命と間人皇后を奉り、合わせて皇弟達を連れて、飛鳥の河辺(かわべの)行宮(かりみや)に移りました。すると、公卿大夫や百官の人も皆従て移った

中大兄皇子が突然言い出して、母と妹を引き連れて飛鳥に戻ったことになっています。理由は書かれていません。

皇后(きさき)皇祖母(すめみおやの)(みこと)・皇太子が揃って皇居を出て行くのはおかしな話です。何があったのでしょう。


少し大人になった皇女が、「倭京に戻る」と言い出した、皇后となって初めて恋をした、この展開なら納得できる話です。「難波宮を出たい」と言い出したのは皇后だったのではないか。斉明皇太后も中大兄皇子も、この妹に諦めさせる方法を持たなかった…

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万葉集に「中皇(なかのすめら)(みこと)間人連(はしひとのむらじ)(おゆ)(たてまつ)らしめたまふ歌」が掲載されています。父の(じょ)(めい)天皇に、幼い中皇(なかつすめら)(みこと)(間人皇女)が「自分は儀式歌を詠めない」ので、代わりに間人連(はしひとのむらじ)(おゆ)献上させた歌だというのです。

(じょ)(めい)天皇(641没)の在位は十三年間ですが、皇女はその間に生まれて歌を献上させるほどに成長したというのでしょうか。納得できない話ですね。

十歳くらいの少女が高貴な血をもってして巫女的な仕事をしていた(?)とは考えられません。巫女的な仕事をするべき皇后(皇極)は、お傍におられるのですから。

はたまた、ここで疑いの心が芽生えてしまうのです。

この歌は、舒明天皇のために献じられたのだろうか、と。

しかも、この歌は「()()の野に遊猟(みかり)したまう時」に献じさせた歌です。

おや!? ()()(奈良県旧宇智郡)ですか?

あの菟道稚郎子(うぢのわきのいらいこ)の宮処の比定地として、京都府宇治と奈良県宇智郡の二か所が候補地に挙げられています。

宇治若郎子(うぢのわきのいらつこ)とも書き仁徳帝と皇位を譲りあった皇太子です。

ここ巻一から、そこはかとなく菟道稚郎子の話「正式の皇太子の悲劇」がにおい立って来ました。

更によく見ると、万葉集・巻一の3番4番歌に続くのは、5讃岐(さぬき)国に(いでま)す時に、(いくさの)(きみ)が山を見て作る歌」6「反歌」ですが、おかしなことに舒明天皇の讃岐国行幸は日本書紀には書かれていないのです。軍王も何処のどんな人か不明です。一体どの天皇の話なのでしょう。

更に、7番歌は、額田王(ぬかたのおほきみ)のあの歌です。

 秋の野の()草刈(くさかり)()き宿れりし()()のみやこのかりほ(仮庵)し(おも)ほゆ

よくよく見ると、3・4・(5・6)・7と菟道稚郎子と共に悲劇の皇太子の事件を読み手に思い出させているようです。

8番歌は、額田王か斉明天皇御製歌とされる九州に向かう船出の歌ですね。

 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今はこぎでな

その後に、万葉集には、

有間皇子事件の目撃者としての「紀伊国に幸す時、額田王が造る歌」が置かれていましたね。(すでに、紹介しています)

考えてみると、百済救援のための征西は斉明七年(661)で、有間皇子の事件は斉明四年(658)なので、8番歌より9101112番歌が時期的には早く詠まれた歌になります。しかし、時期を無視して、『熟田津』の歌が有間皇子事件の歌の前に挿入されているのです

額田王の歌が、7・9と並んだら、そこに有間皇子と菟道稚郎子があっさりと結びついてしまうでしょう。

7 秋の野の美草刈葺き宿れりし菟道のみやこの仮庵しおもほゆ

9 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣わが背子がい立たせりけむいつ橿が本

そして続いて、

10・11・12と中皇命の「紀伊国に往す時の歌」がくれば、有間皇子事件の歌が並ぶことになってしまうのです。

もともと巻一は有間皇子事件に向かって編集されていました。

それが、今日の結論です。

また、明日



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by tizudesiru | 2017-01-05 10:35 | 191間人皇后の難波宮脱出 | Comments(0)

171額田王の歌の紹介

額田王の歌を紹介します

額田王は天智天皇の嬪や夫人としての記述はありません。

でも、天智天皇を待つ歌がありますね。斉明天皇にも仕えています。

額田王とは如何なる人だったのでしょうか。

では、天智朝では、どんな立場だったのか。それは、後の時代の内侍などのような、政治的な女官でしょうか。
女性の任官記事がないので、何とも言えませんが、額田王の歌はかなり政治的ですね。

最晩年には粟原寺を建立したことになっています。

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では、額田王の歌の紹介です

額田王歌


7 秋の野の 美草刈り葺きやどれりし兎道のみやこのかりほしおもほゆ


 額田王歌


8 熟田津に船乗りせむと月待たば潮もかなひぬ今はこぎいでな


 紀温泉に幸す時に額田王の作る歌


9 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾が背子がい立たせりけむいつ橿が本


 


 天皇、内大臣藤原朝臣に(みことのり)して、春山の万花の(にほい)と秋山の千葉の(いろ)とを競ひ憐れびしめたまふ時に、額田王が歌をもちて(ことわ)る歌



16 冬こもり 春さり来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山を
()み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ぶ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山我れは 



額田王、近江の国に下る時に作る歌、井戸王、すなわち和ふる歌


17 
(うま)(さけ) 三輪の山 青丹吉 奈良の山の 山のまに いかくるまで 道の  (くま) い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見さけむやまを (こころ)なく雲の 隠そふべしや


反歌

18 三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠そうべしや


*井戸王(意のへの王)の歌は省略

神の山の三輪山、その三輪山が青丹よし奈良山の山の間に隠れてしまうまで、道の曲りが重なってしまうまでも、見ながら行きたいのに。何度でも見ておきたい山なのに。私の気持ちの分からない雲が隠してしまう。心無い雲が隠してもいいのだろうか。(17)

神山の三輪山を、よりによって何で隠すのか。雲にだって心があろうに。三輪山を隠したりしていいものだろうか。(18)

この二首を山上憶良は類聚歌林に「都を近江の国に移す時に三輪山を御覧になっての御歌」としています。つまり、天皇の歌だというのです。

 天皇、蒲生野に遊猟したまふ時に、額田王が造る歌


20 
あかねさす紫野行き標野ゆき野守は見ずや君が袖振る

額田王、(こた)へ奉る歌一首(倭京より(たてまつ)り入る)


112 
いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし我がもえるごと

吉野より(こけ)生す松が枝を折り取りて(おく)る時に、額田王が奉り入るる歌一首


113 
み吉野の玉松が枝ははしきかも君が御言を持ちて通はく


天皇の
大殯(おほあらき)の時の歌二首

151 かからむとかねて知りせば大御船()てし()まりに標結はましを

山科の御陵より退り散くる時に、 額田王が作る歌一首


155 
やすみしし 我ご大王の かしこきや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつありてや 百磯城の 大宮人は ゆき別れなむ

額田王、近江天皇を思いて作る歌一首


488 
君待つと吾が恋おれば我がやどの簾動かし秋の風吹く


*巻八・1606は、488と同じ題詞で同じ歌

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藤原宮・新益京




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by tizudesiru | 2016-11-28 17:02 | 171額田王の歌の紹介 | Comments(0)

170額田王が草壁皇子の為に寺院建立

170額田王は草壁皇子のために寺を建立した


明日香に帰って、額田王は何をしていたのか?


十市皇女の突然死で苦しんでいましたが、深く仏教に帰依し、藤原(中臣)大嶋と結婚し、大嶋亡き後は遺言を守り粟原寺(おうばらでら)を完成させました。

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草壁皇子の菩提を弔うために粟原寺を建立?

なぜ? 草壁皇子?

額田王は天武帝の皇子にも尊敬され、藤原氏とも交流があったようです。

中でも、藤原朝臣大嶋とは親密な仲だった、つまり結婚していたいう…

額田王は比売朝臣額田なのでしょうか。

談山神社に、元は粟原寺にあったという国宝の鉢が残されています。粟原寺の塔が完成した時に上げられた露盤で、そこに銘文があり、次のような記述があるのです。
談山神社は藤原氏所縁の神社です。

この粟原寺は、仲臣朝臣大嶋が、畏れ謹んで、大倭國浄美原で天下を治められた天皇の時、日並御宇東宮(草壁皇子)のために造った寺である。

この寺の伽藍を比売朝臣額田が敬造し、甲午年に始まり和銅八年までの二十二年間に、伽藍と金堂、及び釈迦丈六尊像を敬造した。

和銅八年四月、敬いて三重宝塔に七科の宝と露盤を進上した。

この功徳により仰ぎてお願いすることは

皇太子の神霊が速やかにこのうえない菩提果をえられること。

七世の祖先の霊が彼岸に登ることができること。

(中臣)大嶋大夫が必ず仏果を得られること。

様々なものが迷いを捨て悟りに到り正覚を成すことができること。

甲午年・持統八年は694年で、和銅八年は715年です。

日並御宇東宮(草壁皇子) このようは表現は、他の資料にはありません。

この年(694)の十二月に、藤原宮に遷都します。(しん)(やくの)(みやこ)藤原京)は、高市皇子が造り上げた初めての条坊を持つ都だと云われています。


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藤原宮大極殿跡
下は耳成山と藤原宮、南大門跡
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NHKのテレビ画面を撮影

藤原大嶋は、藤原の姓を不比等の血統だけに限られて、中臣の姓に戻っています。
彼は藤原鎌足の亡き後、藤原祝詞をもって天智帝に仕えた藤原金の甥です。
藤原金は、壬申の乱で大友皇子が破れた後に斬られました。

天智帝に右大臣として仕えた叔父の冥福も祈りたかったのでしょう。
しかし、大嶋は持統八年に死去します。
その意志を額田王が受け継いだのでしょう。

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それにしても
なぜ、草壁皇子を「日並知皇子」ではなく、

日並御宇東宮(草壁皇子)
と表現したのでしょう。

傍から見ると、やたらゴマをすっているように見えますが、天武帝も持統帝も文武帝も全て鬼籍に入っています。ゴマをする相手は誰もおられません。

粟原寺の建立を待ち望んだ人は…額田王一人?

比売朝臣額田(女性です)が、伝承通り額田王だとすると、八十歳も過ぎた年齢となります。

ここにあるメッセージは、草壁皇子は特別大事な存在
ということでしょう。

何が特別だったのでしょう。

またあとで


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by tizudesiru | 2016-11-27 17:09 | 170額田王が建立した粟原寺 | Comments(0)

169・額田王の恋歌と素顔

169額田王の恋歌と素顔


額田王は恋多き女性だったのでしょうか。
美女だったようですが。


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万葉集にも額田王の恋の歌はあります。巻四と巻八に。

額田王、近江天皇を思いて作る歌一首

488 君待つと吾が恋おれば我がやどの簾動かし秋の風吹く

*巻八1606は、巻四488と同じ題詞で同じ歌


あなたが何時お出でになるかと待っていると、わたしが恋しく思っているからでしょうか、わたしの館の簾を動かして秋風が吹いてきました。簾をうごかしたのは、あなたではなかった…


額田王の歌は、
78916171820112113151155488・(1606)の13首 のうち1首は重複してるので、12首。


内容を見ると、非常に政治的な歌が多いようですね。

488と1606以外の歌を見てみましょう。

7は、額田王(兎道若郎子の京を歌った・悲運な皇太子を暗示

8は、額田王(百済救援軍として熟田津を出航する時の歌

9は、紀温泉に幸す時に額田王の作る歌(有間皇子事件当時の詠歌


8は、斉明天皇御製歌とも「類聚歌林」にかかれているという。天皇に代わって額田王が歌を詠んだと云われているのです。いずれも斉明天皇の時代の歌です。

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額田王は若かったのに、上の三首は恋愛とは関係ないようですね。

16は、天皇、内大臣藤原朝臣に(みことのり)して、春山の万花の(にほい)と秋山の千葉の(いろ)とを競ひ憐れびしめたまふ時に、額田王が歌をもちて(ことわ)る歌天皇の詔で判定する歌

17は、額田王、近江の国に下る時に作る歌、井戸王、すなわち和ふる歌(近江遷都の時の詠歌

18は17の反歌

20は、天皇、蒲生野に遊猟したまふ時に、額田王が造る歌(天皇の宴席での詠歌


16は、非常に文化的な内容での天皇の詔です。春と秋のどちらが優位なのかを、額田王が判定するのです。次は、遷都の時の詠歌と「類聚歌林」に書かれているので、公的な詠歌です。その次も、天皇の前で詠んだもの。

額田王は、立場的に公の場で活躍していた、常に政治の表に立っていたようです。


額田王はただの美女ではなかった!?

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額田王こたへ奉る歌一首

112は、額田王、(こた)へ奉る歌一首倭京より(たてまつ)り入る弓削皇子に奉る歌

113は、吉野より(こけ)生す松が枝を折り取りて(おく)る時に、額田王が奉り入るる歌一首弓削皇子に奉る歌

年を取った額田王に若い皇子が様々に問いかけたのでしょう。

公的な舞台から身を引いても、若い皇子に頼りにされる存在だったことが分かります。学識経験者として、政治的相談役だったのでしょうか

151は、天皇の大殯(おほあらき)の時の歌二首天皇の葬儀の挽歌

155は、山科の御陵より退り散くる時に、 額田王が作る歌一首(天皇の葬送儀礼の挽歌


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この二首は、天智天皇の葬送儀礼の時の挽歌です。倭姫皇后や石川夫人(蘇我石川麿の娘の姪娘)と共に、額田王の挽歌も残されています。


額田王は天智天皇の嬪や夫人としての記述はありません。では、天智朝では、どんな立場だったのか。
それは、後の時代の内侍などのような、政治的な女官でしょうか。

女性の任官記事がないので、何とも言えませんが、額田王の歌からかなり政治的なものが読み取れます。しかも、才能ある美女だった、そんな額田王を天智天皇も愛したに違いありません。
 
葬儀の最後まで額田王は、山城陵にいたのですから。
明日香に帰った額田王は何をしたのか、そこに、大きなメッセージが残されているのです。



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by tizudesiru | 2016-11-26 22:43 | 169額田王の恋歌と素顔 | Comments(0)

168・額田王は天智天皇を愛し続けた

168・額田王は天智帝を愛し続けた

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112 (いにしえ)霍公(ほととぎ)()(もえ)


過ぎた昔を懐かしむ鳥は、それは霍公鳥でしょう。霍公鳥は蜀魂とも云われていて、亡き皇帝の魂が鳥となった姿だそうですよ。あなたが見たその鳥は不如帰です。きっと私が昔のことを懐かしく思うように、懐かしそうな声でその鳥も鳴いたことでしょうね。
 


額田王は、王朝が変わっても、幾つになっても、天智天皇を偲びました。


額田王は天智帝の崩御・葬送儀礼の最後まで仕えた人です。

書紀には初めは天武帝(大海人皇子)に召され十市皇女をもうけたと書かれています。万葉集の「中大兄の三山歌」は、大海人皇子と中大兄が額田王を争った歌だとも解釈されています。

その額田王の歌です。(額田王については「144・有間皇子事件の目撃者」で既に紹介していますが、斉明帝にも仕えていました)

ここでは、額田王自身が最後まで愛した人は誰かということです。

それは、天武天皇(大海人皇子)ではありません。

明日香での額田王の暮らしは、天智天皇を偲ぶ毎日だったのでしょう。

額田王の歌・万葉集巻二にある112番歌は、弓削皇子(699没)とのやり取りの歌です。

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若い弓削皇子は、父の天武帝より先の帝の方を愛しているに違いない額田王に興味を覚えたのでしょうか。

ゆづるはの三井の上を鳴き渡って行った鳥がいましたが、あれは昔を懐かしむという例の鳥でしょうか。どうでしょう?


天智帝・天武帝の二人ともすでに鬼籍に入っているのです。どちらを霍公鳥にたとえてもいいのでしょうが、額田王は「ゆづるはの(王朝を譲った)三井」の上を鳴き渡った「その鳥は不如帰」と答えました。あっさりと「わたしも昔のあの方が懐かしい」と返したのでした。


弓削皇子はこの後も額田王と歌のやり取りを続けたようです。

さて、
額田王と大海人皇子とのやり取りで有名なのは、「天智天皇が、
(かま)生野(ふの)遊猟(みかり)(668年)された時の歌」がありますね


天皇、
(かま)生野(ふの)遊猟(みかり)したまふ時に、額田王が作る歌


20 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る


紫草の生える野には標が張られ立ち入りが禁止されている、その紫野を行きながら貴方がそんなことしては野守に見られないでしょうか、わたくしに袖を振るなんてこと。

皇太子の答へたまふ御歌


21 
(むら)(さき)のにほへる妹をにくくあらば人嬬(ひとづま)ゆえに吾恋めやも


まるで紫草のように美しい貴女を心憎く思っていたら、人妻のあなたに惹かれたりはしないでしょう。


四十歳近くの額田王としては余裕の歌なのでした。

額田王と皇太子(大海人皇子)は、天智天皇の宴の席で歌のやり取りをしているのです。衆人が見ている中で。

二人は、かっては子ども(十市皇女)までもうけた仲。誰もが知っていました。


今( 668)は、額田王は天智に仕えていて、娘(十市皇女)は天智帝の後継者である大友皇子の妃となっていました。

大友皇子と十市皇女の間に葛野王が生まれるのは、次の年(669)です。

やがて、天智十年(671)天皇崩御

そして、壬申の乱(672)大友皇子敗れる

その後、額田王と十市皇女は明日香に帰った


額田王は、明日香に帰っても天智帝を想いつづけていました
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額田王の気持ちは当然弓削皇子にも伝わったことでしょう


弓削皇子は天武天皇の息子であり、天智天皇の孫、母も天智帝皇女でした。
皇統を継げる血統だったのです。
それが故に、軽皇子(文武天皇)の立太子に異議を申し立てたのです。
それを、十市皇女の息子の葛野王に叱責され止められました。

弓削皇子が言いたかったのは何だったのか。葛野王が弓削皇子を𠮟った理由は何だったのか。気になる所です。
それが為の、弓削皇子の早世(文武三年)でしょうか

またあした




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by tizudesiru | 2016-11-25 15:24 | 168額田王は天智天皇を愛し続けた | Comments(0)

156・人麻呂は女帝のために生きた

156・持統天皇のために

柿本朝臣人麻呂は生きた


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宇治若郎子は悲劇の皇子


宇治若郎子の宮所を詠んだ人麻呂


宇治若郎子の宮所の歌一首


1795 妹らがり今木の嶺に茂り立つ嬬待つの木は古人見けむ


いもらがり いまきのみねに しげりたつ つままつのきは ふるひとみけむ 

愛するあの子のもとへ「今来た」という意味になる今木の嶺に、茂り立っている松の木は、嬬(つま)を「待つ」の木であろうが、此処に住んでいた古人もこの松を見たのであろうか。


おや?

宇治若郎子は仁徳天皇の弟でしたね。

応神天皇の末子で、仁徳天皇と極位を譲りあった末に自ら命を絶つという悲劇の人。有名な自殺した皇太子の話でしたね。そして、此処には松が詠まれているのです。


これは、挽歌の冒頭です。

仁徳天皇の弟の宇治若郎子の宮所とは、何処でしょう。仁徳天皇は時代がかなり上り、日本書紀の記述で見ると4世紀となります。卑弥呼の少し後の時代です…? 

人麻呂はそんな古い時代の宮所の松を詠んだのでしょうか?


宇治若郎子自身の歌は日本書紀にも万葉集にもありません。

宇治若郎子は皇太子でしたが即位せず、三年間も兄と極位を譲りあい、ついに亡くなったのです。不自然でしょう。


ここに寓意が込められているのです

どんな?

皇太子でありながら、即位できなかった。身内により皇位を奪われた皇子である。誰かに似た状況ではありませんか。そう、有間皇子に、よく似ています。


有間皇子事件を宇治若郎子になぞらえて、人麻呂は挽歌に詠んだのです。


ここは、あの方がお住まいになっていた宮だが、もうあの方はいない。今木の丘に松が茂り立っている。愛しい人の許へ来たという「今来」という名は今となっては空しいが、今木の丘の上に……。松の木さえ、あの方を「いつまで待つ松の木」であろうが、あの松をあの方もごらんになったのだ。

 

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柿本人麻呂は、ちまたの噂通り、持統天皇を崇拝し愛していました。それは深い敬愛でありました。持統天皇の崩御後も霊魂に話しかけ、面影を追い続けました。

人麻呂の愛の証、それは万葉集の編纂と献上でした。人麻呂こそ初期万葉集を編纂した人なのです。
持統天皇のために編纂し、約束を守って万葉集を献上し、それが故に刑死したのです。

「すぎにし人の形見とぞ」 

すぎにし人の形見とぞ……これが人麻呂の歌を解く鍵になる詞です

人麻呂を想うと、この言葉が胸に突きあげます。
彼がいかに持統帝と萬葉集を愛したか。
それが故の刑死を甘んじて受けたのですから。刑死の年は、和銅元年(708)、刑を執行させたのは、元明天皇(阿閇皇女)でした。あの草壁皇子の妃であり、文武天皇の母、心優しい人でした。しかし、人麻呂に死を賜った…その事情は、おいおいお話ししましょう。万葉集を読みながら。
今は、人麻呂の話です。

さて、人麻呂は持統太上天皇崩御の後、再び紀伊國を訪ねました。なぜ?
もちろん「すぎにし人の形見」の地だから、その霊魂に会いに行ったのです。愛する持統天皇の霊魂に


万葉集・巻九の挽歌の冒頭歌

大宝元年(701)紀伊國行幸の歌は、巻九にありました。冒頭から有間皇子を偲ぶための編集になっていました。
同じく巻九の挽歌の冒頭の五首は、「右五首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出る」と説明されています。もちろん、人麻呂自身の歌です。
『宇治若郎子の宮所の歌一首』『紀伊国に作る歌四首』の五首です。

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宇治の都を詠んだ額田王 


宇治若郎子につながるような歌を額田王も読んでいます。二つの歌の『宇治』には共通点があるのでしょうか。


  額田王の歌(または皇極上皇の歌ともいう)


7 金野の 美草刈葺き やどれりし 兎道の宮子の かりほし念ほゆ

 あきののの みくさかりふき やどれりし うじのみやこの かりほしおもほゆ


「金」とは秋のことです。中国の五行説に基づいて秋を表した文字です。

秋の野で草を刈り取って屋根を葺き、仮廬をお作りになって、あの方が宿となさった、あの宇治の都の仮廬をずっと思い続けている


額田王が詠んだ宇治の宮子とはどこでしょう。

宇治若郎子に所縁の宮であれば、額田王も皇子の悲劇を詠んだと思われます。有間皇子を宇治若郎子に擬して、牟婁温泉に護送された時に草を刈り取って仮廬とした、あの悲劇の旅を詠んだとしたら、どうでしょう。

あの秋の出来事、もう寒くなっていたのに野宿のために草を刈り仮廬の屋根を葺かれた、高貴な方にはお辛い旅の宿であったろうに。秋になると、宇治の若郎子のように命を絶たれたあの方の仮宮を思い出してしまう。

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次は、人麻呂が紀伊国で詠んだ歌です。
彼が愛していたのは……


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by tizudesiru | 2016-11-13 12:32 | 156人麻呂は女帝のために生きた | Comments(0)

144・有間皇子事件の目撃者

有間皇子事件の目撃者
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この理不尽な事件を目撃したのは額田王中皇命
二人は紀伊温泉に来ていました。額田王は斉明天皇の行幸に従って、間人皇后(中皇命)は有間皇子に付き添って。
二人の歌が万葉集に残されています。
まず、「紀伊温泉に幸す時、額田王の作れる歌」です。
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾が瀬子が い立たせりけむ いつかしが本
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣には、読みの定説がありません。
ゆふつきの あふきてとひし
ゆふつきし おほひなせそくも
きのくにの やまこえてゆけ
みもろの やまみつつゆけ
まつちやま みつつこそゆけ
さかどりの おほふなあさゆき
ふけひのうらに しつめにたつ
しづまりし かみななりそね
みよしのの やまみつつゆけ
ゆふつきの かげふみてたつ
しづまりし うらなみさわく
どれもピタリと、意味と読みが合致せず、定説がないのです。云うに言えない心のうちを意味不明の漢字に託して、額田王は読んだのでしょう。
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莫・日暮れ・広い大きい・寂しい→計り知れない寂しさの中
囂・かまびすしい・うるさい、やかましい→うるさく騒ぐ人や
圓・まどい・おだやか→穏やかな人も
隣・となり、集落に家がある→集まって
之・漢文に用いられる日本独特の終助詞・強めの助詞
大相・大きな会見→尋問がおこなわれた
七・一の中からわずかな変化が斜めに芽を出すこと→些細な事で
兄・あに・二つのものを比べて、その中ですぐれたほう→年上の人が。
爪.つめ、爪の先でつまむ→あの方は小さな望みを以って
謁・目上の者に申し上げる→潔白を陳べた
氣・目に見えない力→あの方は凛としておられた
漢字だけで考えると上記のようになります。

わが瀬子とは、有間皇子のことだとしても良い(当の有間皇子を擬する道がありそうである)と、万葉集釋注で伊藤博は書いています。事件は斉明天皇の紀伊國行幸の時に起こったのですから、額田王が知らずに過ごすことはないでしょう。
蘇我赤兄が奏上してきた「有間皇子の謀反」、額田王は斉明天皇の傍近くに居たと思われますから、事の重大さと急変を感じないはずは有りません。「わが瀬子」とは、親しい男性に対する気持ちを込めた言葉です。額田王にとって、有間皇子はどのような存在だったのでしょうね。斉明天皇にとっては、実弟の孝徳天皇の皇子です。甥の姿を見て動揺されたことでしょう。
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 わが背の君がお立ちになったであろう、この聖なる橿の木の根元よ(万葉集釋注)
「あの方は独り、大臣諸侯の前に連れ出され尋問を受けられた。あの方に掛けられた嫌疑はささやかなことであったが年上の方は詰め寄って…あの方はわずかな望みを以って申し開きをされたが、そのお姿は凛としていた。その場は許されたかに見えたのに、追っ手の手に掛かって、あの方は命を落とされたと聞いた。最後まで、命を奪うために縄がかけられた橿の樹の本に立たれたあの方の姿は毅然としていたという。ああ、私がこのことを忘れることがあろうか。あの方を忘れることはない。」と、私は読みたいと思います。
読めない部分にこそ、本音が隠れているのですね。
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次は、「中皇命、紀伊の温泉に往すの御歌」
君が代も我が代も知るや 岩代の岡の草根をいざ結びてな
わが背子は仮廬(かりいお)作らす 草(かや)なくは 小松が下の草を刈らさね
我がほりし野島は見せつ 底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ
中皇命は間人皇后とされ、『有間皇子がこの温泉に護送された時、間人皇后がつきそって行く途中での歌とされる説がある(田中卓)』と岩波の「古典文学大系」に書かれています。私も、そう思います。
間人皇后と兄の中大兄皇子は、同母の兄妹という関係を越えて恋仲だったという説もあります。
舒明帝の娘だった間人皇女が、孝徳天皇の皇后に立てられた時、二人には年の差がありました。それで、孝徳帝は大事にしていたのですが、中大兄皇子が母の斉明皇太后と妹の間人皇后を連れて明日香に帰ってしまいます。孝徳帝との間に意見の違いがあったのでしょう。更に、中大兄皇子は、ずっと皇太子のままで二十年以上も即位していません。それは、妹との道ならぬ関係を断つことができなかったからだというのです。果たして、そうでしょうか。私は、別の意見を持っていますが、それは後で。
貴方の寿命もわたしの寿命も知っているであろうか、岩代の岡のしっかり根を下ろした松の枝を、さあ結びましょう。
我が背子が仮廬を作っていらっしゃる。カヤがないのなら、子松の下のカヤをお刈りなさいませ。
わたしが見たいと思っていた野島は見せてくれた。でも、阿胡根の浦の玉は拾わなかった。玉こそ拾いたかったのに。
此処に、中皇命の歌が三首もあり、それも有間皇子の歌と対応するのです。
 岩代の濱松が枝を引き結び 真幸くあらばまた還り見む
 



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by tizudesiru | 2016-11-01 16:47 | 144有間皇子事件の目撃者 | Comments(0)


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