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225 鞠智城の八角形鼓楼

225 鞠智八角形鼓楼
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八角形の鼓楼と言われています。構造上からも人が住むところではありません。ここは熊本県の鞠智城です。
八角形建物と言えば、難波の宮がすぐ浮かびます。

大阪の博物館から大阪城と難波宮が見えます。
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難波宮の朝堂院と内裏の境目に東西に八角形の建物が置かれています。使用目的は何だったのでしょうね。
前期難波宮で孝徳天皇は崩御されましたね。
その後、内裏には誰が住んでいたのでしょうね。わたしは孝徳天皇から玉璽を預かった中皇命(間人皇后)が住んでいたと思います。
その宮殿の内裏への入口の八角形の建物は見事だったでしょうね。
難波の人々はその素晴らしさをほめたたえたことでしょう。
それにしても、鞠智城は山城です。山の中の山城です。(私は菊池で育ったので、そう思うのです)そこに太鼓をたたく八角形の建物が必要だったのでしょうか。誰が見てくれるのでしょうか。そこに住んでる少数の人が見て満足したのでしょうか。
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山城を装飾する理由は何だろうと思うのです。高貴な方がおられたのでしょうか?
難波宮のような宮殿なら私も納得するのですが。
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木が茂っている所が建物跡。異様なほど大きな八角形の建物だったそうです。
また明日。









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by tizudesiru | 2017-02-23 01:04 | 225 古代山城・鞠智城 | Comments(0)

190間人皇后の愛と悲劇(2)

190間人皇后の恋

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なぜ、間人(はしひと)皇后(こう)(とく)ったしょう

書紀によると、孝徳帝は皇后に歌を送って言われました。

金木(かなき)()(こま)()()吾が人見(ひとみ)

あれほど大事に後宮の奥深くに置いて人目に触れないようにしていたのに、貴女を人が見たというのか(誰かがあなたに手を出したというのか、その事で貴女は後宮を去ったのか)

「見る」という行為は、万葉集の時代「眺める」ではないのです。皇后が誰かを愛したのではないかと、後宮であってはならないことを問いかけている歌です。世間では、間人皇后が愛したのは中大兄皇子だと云われています。

そうでしょうか。

であれば、大スキャンダルで中大兄皇子は極位には着けません。

わたしは、皇后の愛した相手は兄ではないと思います。

中大兄はそんな危ない橋は渡らない、用意周到な計算高い人で、あの藤原鎌足が見込んだ男です。鎌足は孝徳帝から中大兄皇子に乗り換えたのですから。

間人皇后の相手は中大兄皇子ではありえません。

大后(おほきさき)は、後宮中宮トップ地位にあ

その大后が仕えていた者を引き連れて、(さい)明皇太后(めいこうたいごう)難波宮内裏(だいり)ガランしょう。のお引越ん。孝徳帝絶望し、国位たい山崎(やまさき)山城(やましろ)乙訓(おとくに)山崎(やまさき)郷)す.

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白雉年(651)、難波宮はその異様なまでの大きさで人々の前に顕れていました。この年、孝徳天皇は新宮に遷り、難波(なにわの)長柄(ながらの)豊崎宮(とよさきのみや)(なづ)けました。難波は、大変ったしょうね。

大化改新(645)(みことのり)により新体制の政治が始まり、人々は期待っていしょう大スキャンダルってた。

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(この大極殿の北に内裏がありました)


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by tizudesiru | 2017-01-04 12:24 | 189間人皇后の愛と悲劇 | Comments(0)

188孝徳天皇の難波宮を寿ぐ

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188孝徳天皇の難波長柄豊崎宮を寿ぐ歌

わたしには、大化の改新の中心的存在であった孝徳天皇の御代の歌が万葉集中に一つもないことに疑問を持っていました。それは、何故か?

①孝徳天皇に歌の素養が無く、残されるべき歌がなかった。

しかし、書紀には孝徳天皇自身の歌が残されている。

➁万葉集編集者は、孝徳天皇の御代の歌を取り上げたくなかった。

孝徳帝の息子の有間皇子は繰り返し追慕され、後の世まで偲ばれている。

③孝徳天皇の御代の歌がないのは、単なる偶然である。

4500首の中に一首も無いのは偶然だろうか。

④元は孝徳天皇の御代の歌はあったが、後の世に意図的に削られた。

意図的に削ったのは誰か。その人物の削りたい理由は何か。

①②③④のいずれも問題あり、ですね。

しかし、わたしは④だと思っているのです。平城(なら)(みかど)万葉集と、文献てい万葉集編集の手を入れることができた人は、平城天皇です。家持死して二十年後のことでした。


そこで、平城天皇は確認されたでしょう、万葉集編纂の意図を。

元明天皇が激怒した理由も十分に承知されたでしょう。

そこに書かれていたのは、「天武から天智の皇統に皇位が戻ったことを易姓革命」と認識している桓武天皇の皇統にも、触れたくなかった何かということでしょうか。


そこで、桓武帝の皇子である
平城天皇が、万葉集に詔により大きな編集のメスを入れさせた、と思います。結果として、孝徳天皇の御代の歌が消えた。


しかし、です。

そのゴースト(影)は残ったのです。

孝徳天皇の名前が、仁徳天皇にすり替えられた。

何と畏れ多い、しかもゾッとするスリリングな話、と思われたでしょうか?


ですが、仁徳天皇を孝徳天皇に変えて読むと、万葉集の歌が生き生きとある歴史的な事件を伝えていることに気が付くのです。

それは、興味本意な面白さを追求した読み方になるのでしょうか。

この万葉集に込められた鎮魂の思いとドラマに、わたしは何度も泣きました。

万葉集は高貴な女性のために編まれた歌集です。

持統天皇の思いが溢れています。そして、額田王や鏡女王や元明天皇の切なる思いが、愛するものを奪われた悲しみが、読み手の胸を打つのです。


大伴家持は初期万葉集の意図と意義を十分に分かったうえで、藤原氏の陰謀を告発したのです。

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ということで、以前紹介した大阪城の前に広がる難波宮を思い出してください。難波宮は何度も皇居となりました。孝徳天皇・天武天皇・聖武天皇の御代に。


特に、
孝徳天皇の時代には、掘立柱の巨大な宮殿が造られました。

藤原宮や平城宮のような形式の宮殿なのです。

「形容のしようがないほどすばらしい」と云われた孝徳天皇の難波長柄豊崎宮を寿ぐ歌こそ、難波津の歌なのです。

文化の起点は難波宮に在ったからこそ、難波津の歌が古今集に取り上げられ、かるた競技の始めに詠まれるようになったのです.



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では、孝徳天皇の物語も紐解いていかなければなりませんね。そして、家持が告発した藤原氏の悪行にも迫らねばなりません。政変のはざまではかない命を燃やした美しき女性たちの物語を、やはり共有したいと思います。
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誤解を招きそうなので、付け加えます。難波津の歌は、古今集の仮名序に紹介されている歌です。仁徳天皇の御代の始まりの歌とされています。ここにも、仁徳帝の名が使われていますが、(それなら、万葉集に掲載されてもいいでしょう)歌の通りに天皇の御代の始まりの歌なら、孝徳帝の難波の宮こそふさわしいと、わたしが思ったということです。
では、また明日



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by tizudesiru | 2017-01-02 15:32 | 188孝徳帝の難波宮を寿ぐ | Comments(0)

187難波宮を寿ぐ歌

187孝徳帝の難波津の歌



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「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の歌は、

孝徳天皇の難波長柄豊崎の宮を寿ぐ歌ですよね!」

というと、こんな返事が帰って来ます。

「嘘! 難波津の歌は、仁徳朝を寿ぐ歌でしょう?!」

さて、どうなのでしょう。


聖帝としておなじみの仁徳帝の都は難波高津宮でした。それは、大阪城の辺りと言われています。確かに、孝徳帝の難波長柄豊崎宮に遺跡が重なるようにも見えます。


仁徳天皇の高津宮は何処だったのか、平安時代にも分からなかったのです。

貞観八年(866)、勅命により難波高津宮跡が探索され、その地に(今の大阪城の辺り)に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったという。しかし、豊臣秀吉が大阪城を築城する際に、現在地(比売古曽神社の境内に遷座し、比売古曽神社を地主神として摂社とした)に遷し難波高津神社とした。

平安時代の発掘調査が現代のような信頼のおけるものでなかったことはわかりますが。それにしても、大阪城の辺りにそれらしい遺構があったということですかねえ。


仁徳天皇の出自・父は応神天皇

仁徳天皇は、応神天皇(誉田(ほんだ)(わけ)天皇)の第四子でした。

仁徳(にんとく)天皇(なかつ)(ひめ)す。

誉田別天皇は、(じん)(ぐう)皇后のおなかの中に長くとどまらせ出産を遅れさせて生まれた天皇として知られています。

誉田別天皇(誉田天皇)宮・明宮(大隅(おおすみ)宮)軽島(かるしまの)豊明宮(とよあきらのみや)(奈良県橿原市大軽町に比定)難波にも大隅宮(東淀川区大隅・または中央区)古事記には軽島之明宮となっている。七一歳で即位百十一歳で崩御。


父の誉田天皇は、末子の
菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)皇子皇太子大山守(おおやまもり)皇子不服謀反大鷦鷯(おおさざき)皇子謀反を知り郎子郎子大山守た。皇子書紀てい


兄を倒したにもかかわらず、三年間も大鷦鷯尊と皇位を譲りあい菟道稚郎子は即位しませんでした。そして、ついに自殺してしまいました。

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このような不可解な事件後に仁徳天皇が即位したのです。


民の
竈門(かまど)ない御覧った仁徳帝三年間ったという聖帝てい


仁徳帝の宮の修理は、仁徳十年からです。

さて、「難波津に」の歌は、仁徳帝のどの時点で詠まれたものでしょうか。

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ボロボロの宮室を見ながら、「さあ春になりました。ここ難波津に咲いている木の花は、長い冬をじっと耐えていましたが、春になったので今こそ良い時期だと咲き香っているのです。この花のように咲きほこってくださいませ」と帝の御代を詠んだというのでしょうか。


これも若干…不可解な話ですね。



今年は難波宮でスタートです。また後で
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by tizudesiru | 2017-01-01 12:46 | 187難波宮を寿ぐ歌 | Comments(0)


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