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長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成

長屋王の亡骸を抱いた男・

平群廣成の慟哭


謀反罪で死を賜った長屋王


長屋王は高市皇子の長子でしたが、家族と共に死を賜わりました。その王の亡骸を埋葬したのは誰でしょう。
罪科ある人の墓はほとんどどこにあるかわかりません。しかし、長屋王の墓は伝承があり、その墓が明治になって整備されたのです。
明治までその墓を伝えたのは平群氏でしょう。

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(長屋王の墓は、奈良県生駒郡平群町にあります。江戸時代の文書に長屋王の墓という伝承が残されていたのです。)

長屋王墓の近所には夫人の吉備内親王の墓もあります。二人を近くに葬るには、それなりの努力と尽力があったと思います。続日本紀には、

「王をして自ら尽(し)なしむ。その室二品吉備内親王、男従四位下膳夫王、無位桑田王、葛木王、鉤取王ら同じく亦自ら経(くび)る」
「長屋王・吉備内親王を生馬山(いこまやま)に葬らしむ。」
「吉備内親王は罪無し。例になずらえて送り葬るべし。」
と書かれています。

この謀反事件で、現天皇の叔母の家族を断罪したのです。吉備内親王は前天皇の妹であり、前々天皇の娘なのです
内親王の家族を全て死なせた事件なのです
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平群氏は長屋王家に出入りしていた

奈良市の長屋王の屋敷後から、多くの木簡が出土しています。その中に、平群廣足(ひろたり)平群廣成(ひろなり)の名が書かれた木簡が見つかりました。

廣足は倭舞の名人だったようで、宮中の雅楽寮(ががくりょう)より派遣を要請されています。

廣成は天平五年遣唐使として唐に派遣されています。帰国後は順調に官位を進めて、最後には従四位上(長官クラスの官職)に任ぜられ、出世を果たしました。
ですから、長屋王の邸宅に出入りしていたのは若い頃でしょうが、その時、主人の難に遭遇しました


数多の兵と役人に囲まれた王の屋敷内に、従者が出入りすることはできなかったでしょう。
屋敷の召使たちも外でじっと邸宅を見つめ、畏れおののいていたことでしょう。
遂に、長屋王と吉備内親王と四人の男子は、死を撰ばされました。
大邸宅の周りの空気は、泣き叫ぶ召使たちの声で震えたことでしょう。
王の妻だった他の女性たちは、各々の実家で知らせを聞いたでしょうから、屋敷の周りにいたのは庶民だったようです。

続日本紀によれば、このあと、都では長屋王事件に
ついて噂と憶測と追悼の声が溢れ、長く終始が
つかなくなるのです。

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吉備内親王は罪無し、しかし、長屋王は…
平群廣成は長屋王の傍に生活したのです。主人を十分に知っています。
主人がいかがわしいことをする人物かどうか、知らないはずがありません。
彼は糾問される主人を待ち続け、死後はその亡骸を抱いて泣いたと思います。
罪無くして逝ったその人を。
だから、平群氏の本貫の地に長屋王の亡骸を葬ったと思うのです。

長屋王の墓は、「前方後円墳の後円部の上に造られている」と書かれた文を読んだことがあります。
罪科のある主人を小さな墓に埋葬しなければならないと十分知りつつ、せめて王墓のような大きさにしたいと、廣成は祖先の墓を長屋王のために提供したと…そう思いませんか。
吉備内親王の墓は少し離れた微高地にありますので、当時はまるで仲良く並んでいるように見えたことでしょう。
平群町の小さな墳丘には、平群廣成の思いが込められていると、わたしは思います。

長屋王の大邸宅は、光明子のものとなりました。

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ここからは、おさらい


なぜこのような悲惨な事件が起こったのか、以前もブログに書いたと思いますが、少しおさらいしてみましょう。事件が起こったのは、
長屋王が恵まれ過ぎていたからです。父母は御名部皇女(内親王)と高市皇子(親王)で、妻は元明天皇の娘であり、文武天皇の妹でした。多大な財力と権力を持ち、当代随一の名家であり、将来も揚々たるものだったのです。

霊亀元年(715)二月、元明天皇(草壁皇子の妃)は「勅して、三品吉備内親王の男女(子供たち)を皆皇孫の列(つら)」に入れたと続紀にあります。
長屋王の子どもたちの身分を三世王から二世王(天皇の孫)あつかいしたのです。

藤原不比等は「皇太子の首皇子が十五歳で即位すれば、外戚になれるから」と、長屋王家の特別待遇を容認していたでしょう。

しかし、元明天皇が譲位したのは皇太子の首皇子ではなく、娘の元正天皇でした。それは、政変のような衝撃だったのです。
元明天皇は、前年元服した皇太子・首皇子に不安を覚えていました。

養老二年(718)長屋王大納言。大伴旅人中納言。
     この年、養老律令を撰進(藤原不比等ら) 
     功績に関わらず不比等は右大臣のまま
養老四年(720)日本書紀撰進。藤原不比等没
養老五年(721)一月、長屋王右大臣。十二月、元明太上天皇崩御。

元明太上天皇は長屋王家へのレールを敷いて崩御されたのでした。が、チャンス到来と
藤原氏は着々と首皇子の即位に向けて準備をはじめました。

山上憶良ら当代の知識人を東宮(皇太子)の周りに集めます、そして、元正天皇に譲位を迫りました。元より中継ぎを承知だった元正天皇は、元明天皇の崩御の三年目の二月に首皇子(聖武天皇)に譲位されました。崩御からほとんど二年しかたっていなかったのですが。

この時(724年)、長屋王は左大臣となったのでした。
元明天皇の思いが元正天皇に引き継がれていたのでしょうか。
そして、この時、長屋王の運命は決まったのです。

引き金は、聖武天皇の皇太子(基王)が一歳で没したこと(728年)でした。
聖武天皇の皇位継承者より、長屋王の男子の方が有力だったのです。
神亀六年(729年)、基王の死から半年後、長屋王事件は起こりました。

長屋王がどんな左大臣だったか、都の庶民は知っていました。その事をめぐって様々な噂といざこざが起こり、殺人事件も起こりました。もちろん、聖武天皇は十分に知らされていなかったでしょうね。
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全ては、歴史の靄の中に。


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by tizudesiru | 2017-07-25 15:05 | 271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成 | Comments(0)

269彷徨える大国主命と宗像君徳善

彷徨える大国主命宗像君徳善
さて、彷徨える大国主命の話の方へ移りましょう。
万葉集巻六「冬十一月、大伴坂上郎女、帥の家を発ちて道に上がりて、筑前の国宗形郡名兒山を越える時に作る歌一首」におおなむちの神が歌われています。

963 おほなむち すくなひこなのかみこそは 名付けそめけめ 名のみを 名兒山とおいて あがこふる 千重の一重も なぐさめなくに

むかし、おおなむちとスクナヒコナの神がはじめて名付けられたという「名兒山」だけど、わたしが都に置いて来た娘を恋しく思う心に比べれば、「なごやま(汝の兒の山だよ)」と聞いても、千重の一重も少しの慰めにもならない。

幾度か取り上げた万葉集の大伴坂上郎女の歌です。
このブログ「大国魂神社は、大化改新後に総社になった」でも取り上げました。

おおなむちの神が古代の筑紫・和歌山紀ノ川流域・関東の国土創造の神だったと、既に紹介しています。
では、おおなむちとスクナヒコナの神は、宗像氏の支配地域の神だったのでしょうか。支配神でなくては、山の名付け等できないはずです。
しかし、三女神を「宗形氏などが祀る」と書紀にも書かれています。万葉集とほぼ同時代に、同じ地域で神の名がずれているのです。
考えられるのは、同じ八世紀にご祭神が入れ替わったと云うことです。
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宗像氏は日本書紀に出てきますが、特に天武天皇の嬪となった宗像君徳善の娘・尼子娘は、高市皇子を生んだと書かれています。その宗像君徳善の墓が宮地嶽神社にある宮地嶽不動古墳とされていますが、徳善の墓ではないという説もありますね。
幾度もこのブログでも取り上げましたが、その古墳の所在する宮地嶽神社を再訪してみましょう。

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元のお社は階段を上り詰めたこの辺りに在りました。背面の山は神社のご神体山です。拝殿の大注連縄は、直系2.5m、重さ5t、日本一だということです。
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山門をくぐったこの境内で、毎年筑紫舞が(10月22日)奉納されます。
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特別の舞である「磯良の舞」が舞われた年もありました。安曇磯良は安曇氏の祖先神です。白装束で顔を隠して登場します。安曇氏は海神を祀っています。
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この宮地嶽神社のご祭神は三女神ではありません。また、宗像氏ともかかわりのないご祭神でもあります。
息長足比売命(神功皇后)

勝村大神(かつむらおおかみ)

勝頼大神(かつよりおおかみ)


神社の創建は1600年前とされ、1200年前に神功皇后が遷座されたと云うことです


ご遷座された日が10月22日と云うことで、御遷座記念祭が行われているのです。

平たく言えば、神功皇后は後の世に入って来られた神なのですね。

宮地嶽神社古墳は、相島(神社の正面の海に横たわる島)
の玄武岩で造られた巨石の横穴式石室の古墳です。

(日本で二番目に長い巨石の羨道をもっています)。

以上のことから、この神社の古墳が宗像君徳善の墓であると思いますか?
素人は、違うのではないかと疑ってしまいますね。
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このブログの『148光の道は弥生から』を見ていただくと、宮地嶽神社と古墳のことが分かるのではないかと思います。光の道で有名になった神社です。

さて、再度「彷徨える大国主命」の話の方へ移りましょう。

このブログ「大国魂神社は、大化改新後に総社になった」でも取り上げました。大国主は関東地方の神にもなっていたのだと。

おおなむちの神が古代の筑紫・和歌山紀ノ川流域・関東の国土創造の神
でした。
すると、おおなむちとスクナヒコナの神は、もとは古代宗像氏の支配地域の神だったのでしょう。(支配神でなくては、山河の名付け等できないからです)

永く神として祭られていた大国主(おおなむち)の神、しかし、歴史のどこかで主祭神ではなくなっていったようです。
おおなむち神は北部九州辺りの神だったのに、その後、何処に行かれたことになります。
古事記によると、おおなむち(大国主)は多くの妃との間に多くの子どもをもうけています。

須佐之男命の娘・須勢理毘賣(嫡妻)
八上比賣ーー木俣神
高志国の沼河比賣
宗像の奥津宮の多紀理比賣ーー阿遅鉏高日子根神(迦毛大御神)・高比賣(下照比賣)
神屋の楯比賣ーー事代主神
八島牟遅神の娘・鳥耳の神ーー鳥鳴海神(とりなるみ)


広範囲から妻を迎えていますね。出雲のスセリヒメ、越の国のヌナカワヒメ、宗像のタギリヒメなどなど、日本海ルートの国と深いつながりがあるのですね。そして、関東にまで手をのばしていた、ということです。

子孫も古事記で辿ってみましょう。
スセリ姫には子が書かれていません。スサノウの娘で、しかも嫡妻ですから、オオナムチ(大国主)が出雲に入るには、出雲の支配者の娘を娶る必要があったと云うことです。もしかしたら、スセリ姫は年齢が高くて子供が産めなかったのかも知れませんね。それでも、嫡妻にしなければならなかった…
この掟(慣習)は、古代国家にもその後にも受け継がれる「王権の条件」ですね。古代では、皇后には皇女でなければなれなかったのですから。


では、大国主の子孫たち、鳥鳴海神から続きます。
鳥鳴海神
と日名照額田毘道男伊許知邇神ーー国忍富神(くにおしとみ)
国忍富神と葦那陀迦神(八河江比賣)ーー速甕の多氣波夜遅奴美神
多氣波夜遅奴美神天の御仲主の娘・前玉比賣ーー甕主日子神(みかぬしひこ)
甕主日子と於加美神の娘・比那良志毘賣ーー多比理岐志麻流美神
多比理岐志麻流美神と比比羅木の其花麻豆美神の娘・活玉前玉比賣神ー美呂浪神
美呂浪神と敷山主神の娘・青沼馬沼押比賣ーー布忍富鳥鳴海神
布忍富鳥鳴海神と若盡女神ーー天日腹大科度美神
天日腹大科度美神と天の狭霧神の娘・遠津待根神ー遠津山岬多良斯神

おおなむちの神が妻を迎えた地域は、広範囲にわたりました。
途中から「天御中主神」が入ってきますね。甕(みか)・日子・天など九州に所縁の深い詞が子孫の名についています。九州の勢力が大国主の勢力に浸透していったと云うことでしょうか。
その後、オオナムチ神は摂社や境内社へと遷座されていったようです。または、名前を変えて…
時々、思わぬ場所で「大国主」が祭られている神社に出会います。
そんな小さな祠にも、村社の摂社にも、知られざる歴史の面白さを感じますね。
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(関東平野の最奥の筑波山とつくし池です。写真をお借りしました)
(古事記では、多岐理比賣がオオナムチの妻になっていますが、書紀には市杵嶋姫という一書もあります。また、宗像大社の辺津宮の女神でもあります。「宗形三女神のお仕事」で祭神はとりあげています)


今回も長くなりました。読みづらいでしょうね。
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by tizudesiru | 2017-07-20 11:20 | 269彷徨える大国主命 | Comments(0)

199光明皇后の病・既に年月を経たり

199光明皇后の病・既に年月を経たり

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天平元年(729)、八月に藤原夫人・光明子は、皇后となりました。六月が長屋王事件でしたのに、事の運びが早すぎました。光明子が思い悩んだのは当然だったかも知れません。そのための病だったのでしょう。

天平五年(733)、皇后の病により大赦(たいしゃ)がありました。

長屋王の事件以来、皇后はうつ状態だったのかも知れません。


(みことのり)
には、『
皇后、枕席安(しむせきやす)からむこと、すでに年月(としつき)()たり』光明皇后は、長い間何年も寝込んでいたのです。枕席(ちんせき)とは枕と寝床のことす。百方(ひゃくはう)治療(いや)せども、その可なることを見ず』いろいろ手を尽くしたけれど、よくなりそうな気配がない。『この(ぼん)()を思ひて、(しん)(そん)とを忘る』この苦しみのために眠ることも食べることもできないので、『天下に大赦して、この(やまひ)()()ふべし』大赦を行い病気を治そうというのです。『常赦(じょうしゃ)(ゆる)さぬも、(みな)(ことごと)くゆるせ』 ふつうは許さない者も全て許せというのです。そして、強窃(ごうせつ)の二の外は軽重をつけてみな赦したのです。


大赦を考えたほど、光明皇后の病は深刻でした。



独り雪を見た光明皇后の孤独


巻八 1658
は、(とう)皇后(こうごう)(光明皇后)、(聖武)天皇(すめらみこと)に奉る御歌一首

吾が背子とふたり見ませば幾ばくかこの降る雪のうれしくあらまし

雪が降っております。わが背の君とふたりで一緒にこの雪を見ることができましたなら、この寂しい雪もどんなにか嬉しく思われたでしょうに。

この歌は、広嗣の乱(740)の後の詠歌ですね。

四十歳の光明皇后は独り都に残り、聖武天皇は広嗣(ひろつぐ)の乱(740)の後東国への旅の途中でした。この時、天皇は()()京におられたのでしょう。一人雪を見ていた皇后は、何を思っていたのでしょうね。

亡くした基王のこと、その為に滅ぼした長屋王家のこと、聖武天皇が心許した長屋王、その死(身内の陰謀)に目をつぶったこと…

夫が太上天皇と共に長屋王の新室(にいむろ)まで訪ねたのに、長屋王家の後継者の全てが自刃という結末。藤原氏が長屋王に手を下したことは、世間には周知のことだったでしょう。ですから、藤原四兄弟の死は、長屋王の祟りと思われたかも知れません。

甥の広嗣の乱の結末や、一人で旅をしている夫のことも…思い出すと耐えられなかったでしょう。

四月、七月、八月と、兄たち四兄弟が死没した後、大倭(やまと)大養(やま)()文字

この数年にいろいろありました

天平十年(738)阿倍内親王の立太子、(たちばなの)諸兄(もろえ)右大臣

長屋王事件から十年経っていました。

この年になっても、長屋王事件は人々の記憶から消えていませんでした。大伴子(おおとものこ)(むし)長屋王でいる」密告中臣(なかとみの)東人(あずまひと)た。年経ていず、長屋王に恩を受けていた子虫には恨みが残っていました。

続日本紀に子虫の事件が書き残されたということは、事件に世間の風潮が反映しているということでしょう。

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木津川が大きく蛇行し北上する地に恭仁京が造営されました。

天平十二年(740)広嗣の乱

四兄弟没後、聖武天皇が頼りにしているのは、橘諸兄(もろえ)葛城(かつらぎ)王でした。諸兄を退けようと広嗣は立ち上がったのです。皇后の甥だという甘えがあったのかも知れません。

しかし、皇后にも分かっていました。藤原氏が築いた権力構造に、橘氏が入り込む隙を作ってはならなかったのだと。諸兄(もろえ)ら、皇后った

そして、この後もことが起こりました

天平十五年(744)

光明皇后が夫に尽くそうと思っても、当の聖武天皇は都から遠ざかっていきます。()()難波京官人民意安積(あさか)皇子薨去た。突然た。

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光明皇后の娘の阿倍内親王が立太子していたとはいえ、藤原氏側には安積皇子(744没)は大きな存在だったのでしょう。光明皇后は、経論を書写させました。こんな時こそ、経論を唐より持ちかえった玄昉に頼りたくなったでしょうね。しかし、広嗣の乱を見て来た藤原氏は、玄昉を大宰府に左遷(745)しました。光明皇后に安易に近づいてもらっては困るのでしょう。玄昉は、翌年没(746)しています。
尋常な死ではなかったでしょう。
光明子の心を癒すことができた人はいなかったのでしょうね。
光明子は強い人でしたから耐えられましたが…大変気の毒な人だと思います。

また明日




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by tizudesiru | 2017-01-14 00:51 | 199光明皇后の深い憂鬱 | Comments(0)

197 光明子の苦悩と懺悔

197光明皇后の苦悩と懺悔        

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701年生まれの光明子は、夫の聖武天皇(首皇子)と同じ齢でした。

(おびと)皇子(聖武天皇)の乳母は光明子の母・犬養三千代です。

首皇子と光明子は、生まれた時から運命の糸に縛られていました。

県犬養橘宿祢(あがたのいぬかいのたちばなのすくね)三千代(みちよ)(県犬養命婦(みょうぶ)

東人の娘。()(のの)(おほきみ)に嫁し、葛城(かつらぎ)王(橘諸兄)()()王・牟漏(むろ)女王)を生む。

後に藤原不比等の室となり光明子(光明皇后)を生む。

養老(ようろう)元年(717)従四下より従三位、養老五年(721)正三位になるが、同年5月に元明天皇不予(ふよ)により入道。天平五年(733)の薨去。

葬儀は散一位で行われ、同じ年に贈従一位。

天平八年(736)葛城王・佐為王に橘の姓を下賜。

(おびと)親王は三千代と藤原不比等に深宮の奥で大事に育てられました。

成人した首親王と光明子は結婚させられました。

光明子が阿倍(あへ)内親王(こう)(けん)天皇)を生んだのは、十七歳か十八歳の時です

幼いまま母となりました。

皇后になるための特訓は受けていたはずですが、まだ精神的には子供だったと思います。

夫の聖武天皇には犬養広刀自という女性が仕えて、三人(安積(あさかの)皇子(みこ)・井上内親王・不破(ふは)内親王)の男女に恵まれました。安積皇子が生まれたのは、光明子が生んだ皇太子・(もとい)王(九月没)が薨去した翌月でした。

自分が産後の憂鬱にイライラしている時に犬養(いぬかいの)(ひろ)()()懐妊し、更に自分が愛息を亡くした時に広刀自が出産するという現実、後宮の女性の言の葉に上った噂はどんことだったでしょうね。

光明子の嘆きと恨みは大きかったと思います。

基王の没年(728)の年、長屋王家の殲滅計画がなされたとしても、光明子は反対しなかったでしょう。

聖武天皇はそれを知らずに、安積皇子の誕生を喜んでいたでしょうね。

藤原氏にとっても、ゆくゆくは広刀自の生んだ皇子皇女の権力への道は閉ざさねばなりませんでした。

そして、藤原氏にとって気になることは、聖武天皇のまじめさでした。

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聖武天皇は叔母の元正天皇と約束を交わしていたようで、即位の年(724)には紀伊国行幸をしました。その時、冬十月、

山部赤人(やまべのあかひと)の長歌に「やしみしし 我ご大王の常宮(とこみや)と仕え奉れる」

という詞が使われています。聖武天皇は、紀伊国の雑賀(さいか)の宮を仮宮ではなく常宮として使うつもりだったようです。紀伊国には特別の思い入れがあった、特別の所縁の地としていた、ということです。

何のための行幸か、すでに何度も述べた通り、「大宝元年辛丑冬十月の持統太上天皇の紀伊国行幸」は「有間皇子の所縁の地への鎮魂のための行幸」でしたから、聖武天皇もその行幸をなぞり亡き人を偲んだのです。

そして、紀伊国には「止まず往来」しょうと、常宮としたのでした。

持統帝の死後の柿本人麻呂の紀伊国の旅も、亡き人をしのぶ旅でした。

亡き人の所縁の地を訪ねることは、霊魂に触れるための行為でした。

聖武天皇は那珂(なか)郡と海部(あま)郡に長逗留し、名草(なぐさ)と海部の二郡の田租を許し、(わかの)(うら)明光(あか)浦と地名も変えました。

聖武天皇は誠実だったのです。気弱とか意志薄弱とか云われますが、権力におごらず心優しい人だったのでしょう。三十年以上も母の藤原宮子にも会えず、寂しかったと思います。

そんな聖武天皇が安積皇子や長屋王の王子達を皇太子としないように、藤原氏はことを急ぎました。

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神亀六年(729)

二月十日に密告があり「ひそかに()(どう)を学びて国家を傾けむとす」

その夜、兵が長屋王の宅を囲みました。

指図したのは藤原武智麻呂、長屋王宅に向かったのは式部卿の藤原宇合、その他もろもろの官人、そして長屋王の館を囲ませたのです。王家の人々に、逃げる道は何処にも有りませんでした。

*左道とは、良くない道、邪道ということで、長屋王が何か具体的にしたというのではありません。何もなかったのです。

二月十一日、取り急ぎ官の人事を仮に済ませ、

朝十時には、舎人(とねり)親王、新田部(にいたべ)親王と皇族のトップをそろえ、大納言・多治比(たじひの)真人(まひと)池守(いけもり)、中納言・藤原(ふじはらの)武智(むち)麻呂(まろ)長屋王の罪を(きゅう)(もん)しました。

長屋王には、もはや妻や子を救うことはできません。

たぶん、王は自分の身と引き換えに妻子の命乞いをしたと思います。

神亀六年(729)長屋王の謀反の密告は二月十日

二月十二日、王をして自ら()なしむ。その室二品吉備(きび)内親王、男従四位下膳夫(かしはで)王、無位桑田(くはた)王、葛木(かつらぎ)王、(かぎ)(とり)王ら同じく亦自ら(くび)る。

身分の高い皇族を手に掛けることはできませでした。自ら死なせたというのです。男子四人は立派な皇位継承者でした。

続日本紀には、長屋王についてはさんざん誹謗していますが、吉備内親王については『罪無し』と書いています。

事は起ってしまいました。聖武天皇がどんなに嘆かれたか知れません。

長屋王家の滅亡の後、光明子は皇后となれたのです。

長屋王事件は、光明子の中に何を残したでしょう。

光明子の業績を見れば、その事が分かります。

天平二年(730)、興福寺の五重塔の建立を発願し、年の暮には完成させた。

五重塔建立は長屋王事件の翌年でした。

五重塔を造らねば落ち着いておれなかったのです。

天平五年(733)、興福寺の東金堂に対面する西金堂は、橘三千代の一周忌に間に合うように造りました。

天平五年~八年には、多数の財物を法隆寺に施入しました。

天平十一年(739)、法隆寺の東院を建立

天平十九年(747)、聖武天皇のために新薬師寺を建立

中でも

天平八年(736)、僧玄昉が持ち帰った経論の書写を発願し、皇后宮職の写経所で写経させました。写経は天平勝宝元年(749)まで続きました。

この皇后宮職が置かれた場所は、何処でしょう!

他でもありません。

あの長屋王の邸宅跡でした。

あの忌まわしい事件の館跡に、光明子は「皇后宮職」という役所を置いたのでした。そこで、玄昉の持ち帰った経論を十年以上もかけて写経させたのです。なんということ、長屋王の屋敷は官に没収され光明子のために使われたのです。

懺悔のつもりの写経でしょうか。

僧玄昉は、光明子の心の闇を解きほぐしたのかも知れません。

光明子も藤原氏という権力者集団を背負って、時折、心が折れそうになったことでしょう。


また明日


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by tizudesiru | 2017-01-11 16:41 | 197光明子の苦悩と懺悔 | Comments(0)

185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇

185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇

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長屋王の館は平城宮の南東にあり、宮城のすぐ近くでした。大規模な発掘があって大量の遺物・遺構が発見され、木簡も出ています。その木簡には『長屋親王』と書かれていて、元明天皇の「吉備内親王の男女を皇孫」としたことを裏づけるものでしょう。


万葉集の巻三に長屋王(
268番)の歌があります。非常に意味深な掲載の仕方になっています。人麻呂(266番)志貴皇子(267番)の後です。

266 (あふ)()夕浪(ゆふなみ)千鳥(ちどり)()(こころ)しの(いにしへ)

267 むささびは()(ぬれ)とあ()()()(あい)

268 ()背子古家(ふるへ)明日香千鳥(つま)

このように並ぶと、非常に悲しい出来事が浮かんできます。

この歌を詠む人たちには、淡海から近江朝の都の址を思い出させ、志貴皇子の歌から(子が光仁天皇として近江朝の皇統を取り戻したことを思い出させ)何も知らないムササビ(長屋王)が罠にかかって山の猟師(政敵)に殺されたことを思い出させる。そして、長屋王の歌。

父の高市皇子が造営した新益京はすっかり古くなってしまったが、たくさんの鳥が今でも主が帰って来るのを待っているのだろうなあ、と読めるのです。


この三首を読むと、いつもゾッとするのです。

万葉集に驚かされるのですが、ここは人麻呂の編集ではありません。人麻呂(柿本左留708没)、志貴皇子(716没)、長屋王(729没)の死後、時も変わり、事件の真相もほぼ明らかになった後に、すべてを知ることのできた人が編集したとしか考えられません。

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441番歌の倉橋部女王は長屋王の娘とされています。
442番歌は作者不明。これは大伴旅人の作と私は思っています。

次は、いろいろありますが、安積親王の毒殺事件ですかねえ…
お正月には きれいな歌にしたいですが…


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by tizudesiru | 2016-12-28 10:50 | 185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇 | Comments(0)

184氷高内親王(元正天皇)の孤独

184氷高内親王(元正天皇)の孤独


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元正天皇の御製歌は、集中に八首ありますが、中でも巻八1637はドラマチックです。太上天皇とは譲位した元正天皇のことで、天皇とは聖武天皇です。


二人が揃って新築した長屋王の屋敷に招かれての御製歌です。


太上天皇


はだすすきや尾花をさかさまに葺き黒木を用いて作った新築の館は、万代までも長く栄えるだろう(栄えてほしい)


聖武天皇


奈良の山にある黒木を持ちて造った新築の館、此処はいつまでいても飽きることはない


聖武天皇の即位は、神亀元年(724)で、長屋王の変は神亀六年(729)です。太上天皇と聖武天皇が揃って長屋王の佐保の新室に訪問し、宴を楽しんだのは、この五年間のいずれかの日でしょう。


参列した長屋王家の人々は笑顔で高貴な二人を迎え、幸せを噛みしめたことでしょう。しかし、数年後には長屋王家の滅亡となるのです。


この時、吉備内親王と氷高内親王の姉妹は、お互いの幸せを喜び合ったのでしょうに。長屋王が無罪だったことを知らされた聖武天皇は、さめざめと泣かれたそうです。


氷高内親王は、草壁皇子と阿閇皇女の長女で文武天皇の姉です。

美しく賢い人で、幼い時から天武天皇に愛されたようです。

天武十一年八月()(たか)皇女(新家(にひのみ)皇女)の病のために、死罪以下の男女、合わせて百九十八人全員を赦免。翌日、百四十人余りを大官大寺で出家させた。


まだ三歳くらいの皇女のために百四十人も出家とは。この皇女が特別の位置にいたとしか考えられません。

これほど愛されながら、生涯独身で誰にも嫁いでいません。文武天皇が即位した時、十八歳の娘盛りだったので、結婚話があってもいいはずですが…

*内親王:大宝律令より皇子と皇女を親王・内親王と称した。

 奈良時代後半には、親王宣下のあった子女のみに使われた。

日高(氷高)皇女が結婚できなかった理由は、率直に考えて周囲の思惑が影響したこと以外に考えられません。天武天皇なら長屋王に嫁がせることを考えたと思います。しかし、天武帝は皇女が七歳の時崩御。

周囲の皇族が氷高皇女をゆくゆくは天皇位につけたいと考えての独身だったとしても、まだ、皇女の即位は例がない時期ですから、この説には無理があります。聖武天皇の皇女(阿倍内親王=孝謙天皇)は、天皇位に昇るということで独身でしたが。これは、日高皇女の例があったので、皇女からの極位に昇る条件のようにされたという説があります。


わたしには、
(すめろぎ)の血統を他に分けない為の手段のように思えてなりません。誰の意思だったのか、その人物は特定できるのではないでしょうか。



天皇の子女と後宮の女性は狭い世界に閉じ込められ、相手も自分で選ぶこともできず、権力者の意向に左右されて生きていたと思います。

その苦しさのために病気になるのは当然で、唯一近づけたのが学問を修めた僧であり、宮中に出入りできた僧正に後宮の女性は走ったのだと思います。光明子も僧玄昉との間によからぬ噂が立ちました。それを諫めたのが、甥の藤原広嗣の乱でした。後に光明子の娘の孝謙天皇も銅鏡との噂を立てられました。(しかし、銅鏡は罰されていないと思います。)

閉じられた世界には、悲惨な噂が立つものです。



藤原宮子が病気では後宮は不安定です。早く首皇子を即位させて光明子を入内させようと不比等は焦っていたでしょう。


藤原氏は首皇子の即位に向けて着々と準備を進めていました。


和銅七年(714)

六月、皇太子(首皇子十四歳)元服。立太子。天下に大赦す

和銅八年(715)

正月、皇太子、初めて礼服で拝朝(みかどおがみ)東方に慶雲あらわる

白狐献上、白はと献上。「元日に皇太子始めて拝朝して、瑞雲あらわる。天下に大赦すべし」の詔。(皇太子の拝朝を慶祝する瑞兆とした)

九月、元明天皇、氷高皇女に譲位。霊亀と改元



皇太子のために和銅七年と八年の二回、大赦を行っています。


次は即位だろうと、誰もが思うでしょう。しかし、即位したのは、氷高内親王だった。


元明天皇の決断でした。     


続日本紀には文武帝以下各天皇の即位の宣命を収載しているが、元正天皇の受禅(位を譲られること)、即位に関してのみは、漢文体の詔を載せるに過ぎない。これは元正即位の特異性を物語るか。(岩波・続日本紀・脚注)



日高内親王には母から託された使命があったと思います。


それは何だったのか。その使命を持って皇位につき、長屋王と聖武天皇を結びつけようとしたのでしょう。しかし、辛い結果になってしまった。


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次は、長屋王の悲劇



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by tizudesiru | 2016-12-27 22:38 | 184氷高内親王の孤独 | Comments(0)


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232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
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240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
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