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175草壁皇子の挽歌・2

175草壁皇子の挽歌・2

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この歌の大意は、次のようになります。

天と地が分かれた初めの時、久かたの天の河原に、八百万の神々が集まられて、その集まりの中で話合われた時に、天照らす日女(ひるめ)命は天を治めることになり
また、葦原の水穂の国を天と地の依りあう極みまでお治めになる神の命を、天雲の幾重にも重なった雲をかき分けて、神々がお下しになった。
その高い天から照らすように日の皇子が、飛鳥の浄の宮に神のようにおいでになったのに、この国は天皇のご統治になる国であると、自ら天の原の岩戸を開けて、現世から天界に神上がりされてしまわれた。

もし、我が大王である皇子尊が天の下を統治なさっていたら、春の花のように素晴らしく、満月のように欠けることなく、世の中のあらゆる地域の人は大船に乗ったようにすっかり安心して、天からの雨を空を仰ぐように待っていたのに、どのように思われたのであろうか、
何のゆかりもない真弓の岡に殯宮を高々と建てられ、
(あさ)(ごと)仰せもない、そんな日が長く重なり続いてしまった。そのために、皇子の宮人はこれからどうしていいか分からないのである。


長歌の内容を、次のように読むことができます。二種類考えました。

その(1)

①八百万の神が集まって決めたのは、天を治めるのは天照大神(神代の話)

②葦原の水穂国を治めるために天から下りて来たのは、神の命

日の皇子(草壁)はこの国は天皇が統治なさる国だと神上がりされた

④もし、皇子尊(草壁)が統治されていたら皆よろこんだろうに

(もがり)長くな、皇子(草壁)の宮人はこの先どうしていいか分からない

と、五つの内容で長歌は構成されています。


その(2)
大方の現代語訳は、日の皇子を天武帝としています。


①大昔、神々が集まって天照大神に天を治めさせ(神代の話)

➁葦原中津国を治めるために神の命として天より下されたのが(天武)

③浄の宮に統治された日の皇子(天武)は、天皇が統治される国と神上がりされた 天武帝が自ら神上がりした?

④もし、皇子尊(草壁)が統治されていたら、世の中の人も喜んだろうに

⑤殯の日が多く長くなると、皇子の宮人の不安も大きくなっていく


上(1)下(2)のどちらの現代語訳が人麻呂の歌に近い内容なのか、わたしには解けません。「持統帝と草壁皇子の歌のなぞ」誰か読み解いてください。


長歌に続くのは、反歌二首(反歌とは、長歌と同じ内容を繰り返す短歌のこと)

168 久かたの(あめ)見るごとく仰ぎ見し 皇子の御門(みかど)の荒れまく惜しも

遥かなる天空を見るように仰ぎ見た皇子の宮殿が荒れてしまうと思うとたまらなく寂しい


169 茜さす日は照らせれど 
(ぬば)(たま)の夜渡る月の(かく)らく惜しも


太陽は赤々と照り輝いているのに、真っ暗な夜を渡っていく月が隠れるように、お隠れになってしまったことが悲しくてたまらない

 或本の歌一首

170 島の宮まがりの池の(はな)ち鳥 人目に(こひ)て 池に(かづ)かず


皇子がお住まいになった島の宮の池の放ち鳥も、人の目が恋しいのか、池に潜ることもなく、池に浮かんでいる。皇子がいらっしゃらないからだろう。



草壁皇子こそが、天の神が決めた統治者である。せっかく神が天下りさせられたのに、冥界に上ってしまわれた。残念でたまらない。


と、柿本朝臣人麻呂の詠んだ挽歌からは読めるのです。


人麻呂の歌を見る限り「高市皇子や大津皇子は、天武天皇の皇位継承者としては選ばれていない」ということでしょうか。


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by tizudesiru | 2016-12-09 21:21 | 175草壁皇子の挽歌 | Comments(0)

175草壁皇子の挽歌

175・柿本人麻呂が詠んだ草壁皇子の挽歌

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壬申の乱後の天武朝で、謀反事件が次々と起こりました


壬申の乱
とは何だったのか。

この壬申の乱が天智朝と天武朝の間に大きく傷を残し、その亀裂に入り込んだ藤原氏が様々な策を講じて律令政治を掌握し、藤原氏族の横暴につながっていくと思うのですが…


壬申の乱そのものが謀反事件だった
(大友皇子が先に兵をあげたのではありません)のですが、これが天武朝の王子が次々に命を絶たれていくという結果に導いた大きな要因だと思うのです。万葉集を読むかぎり。

さて、7世紀の天武朝の謀反事件で、忘れてはならない事件がありました。

朱鳥元年の大津皇子謀反事件です。ここで、大津皇子が死を賜ったことが、結果的に天武朝の滅亡へと展開していくのですからね。

そして、大津皇子の死後三年、皇太子草壁皇子が薨去します。即位せず、皇太子のままでしたが。その死の顛末は何も語られていません。

人麻呂は挽歌を献じました。

草壁皇子こそが皇統を伝えるべき唯一の存在だったと、声を大にして歌い上げているのです。  


皇太子草壁皇子の挽歌


日並皇子尊の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首幷短歌


天地の初めの時の 久かたの天の河原に 
八百万(やおよろず) 千万(ちよろず)神の (かむ)(つど)い 
集いいまして 神はかり はかりし時に 天照らす 
日女(ひるめ)の命 天をば 知らしめせと 葦原の水穂の国を 天地の 依りあひの極み 知らしめす 神の尊を 天雲の八重かき分けて 神下し いませ(まつ)りし 高照らす 日の皇子は 飛ぶ鳥の (きよみ)の宮に 神ながら 太しきまして 天皇(すめろき)の しきます国と 天の原 岩門(いはと)を開き 神上がり 上がりいましぬ わご大王 皇子の命の 天の
下 知らしめしせば 春花の 貴くあらむと 望月の たたはしけむと 天の下 四方の人の 大船の 思いたのみて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに おもほしめせか つれもなき 真弓の岡に 宮柱 太しきいまし みあらかを 高知りまして あさことに 御言(みこと)はさず 日月の まねくなりぬる そこ故に 皇子の宮人 行方知らずも

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ここには、母の思いが切々と語られています。


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by tizudesiru | 2016-12-03 14:12 | 175草壁皇子の挽歌 | Comments(0)

170額田王が草壁皇子の為に寺院建立

170額田王は草壁皇子のために寺を建立した


明日香に帰って、額田王は何をしていたのか?


十市皇女の突然死で苦しんでいましたが、深く仏教に帰依し、藤原(中臣)大嶋と結婚し、大嶋亡き後は遺言を守り粟原寺(おうばらでら)を完成させました。

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草壁皇子の菩提を弔うために粟原寺を建立?

なぜ? 草壁皇子?

額田王は天武帝の皇子にも尊敬され、藤原氏とも交流があったようです。

中でも、藤原朝臣大嶋とは親密な仲だった、つまり結婚していたいう…

額田王は比売朝臣額田なのでしょうか。

談山神社に、元は粟原寺にあったという国宝の鉢が残されています。粟原寺の塔が完成した時に上げられた露盤で、そこに銘文があり、次のような記述があるのです。
談山神社は藤原氏所縁の神社です。

この粟原寺は、仲臣朝臣大嶋が、畏れ謹んで、大倭國浄美原で天下を治められた天皇の時、日並御宇東宮(草壁皇子)のために造った寺である。

この寺の伽藍を比売朝臣額田が敬造し、甲午年に始まり和銅八年までの二十二年間に、伽藍と金堂、及び釈迦丈六尊像を敬造した。

和銅八年四月、敬いて三重宝塔に七科の宝と露盤を進上した。

この功徳により仰ぎてお願いすることは

皇太子の神霊が速やかにこのうえない菩提果をえられること。

七世の祖先の霊が彼岸に登ることができること。

(中臣)大嶋大夫が必ず仏果を得られること。

様々なものが迷いを捨て悟りに到り正覚を成すことができること。

甲午年・持統八年は694年で、和銅八年は715年です。

日並御宇東宮(草壁皇子) このようは表現は、他の資料にはありません。

この年(694)の十二月に、藤原宮に遷都します。(しん)(やくの)(みやこ)藤原京)は、高市皇子が造り上げた初めての条坊を持つ都だと云われています。


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藤原宮大極殿跡
下は耳成山と藤原宮、南大門跡
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NHKのテレビ画面を撮影

藤原大嶋は、藤原の姓を不比等の血統だけに限られて、中臣の姓に戻っています。
彼は藤原鎌足の亡き後、藤原祝詞をもって天智帝に仕えた藤原金の甥です。
藤原金は、壬申の乱で大友皇子が破れた後に斬られました。

天智帝に右大臣として仕えた叔父の冥福も祈りたかったのでしょう。
しかし、大嶋は持統八年に死去します。
その意志を額田王が受け継いだのでしょう。

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それにしても
なぜ、草壁皇子を「日並知皇子」ではなく、

日並御宇東宮(草壁皇子)
と表現したのでしょう。

傍から見ると、やたらゴマをすっているように見えますが、天武帝も持統帝も文武帝も全て鬼籍に入っています。ゴマをする相手は誰もおられません。

粟原寺の建立を待ち望んだ人は…額田王一人?

比売朝臣額田(女性です)が、伝承通り額田王だとすると、八十歳も過ぎた年齢となります。

ここにあるメッセージは、草壁皇子は特別大事な存在
ということでしょう。

何が特別だったのでしょう。

またあとで


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by tizudesiru | 2016-11-27 17:09 | 170額田王が建立した粟原寺 | Comments(0)

159草壁皇子の薨去の事情


159・草壁皇子の隠された薨去の事情 


日本書紀のおける草壁皇子の薨去の記事はわずかです
。亡くなったと書かれているのみです。

「御病したまう」とか、病気平癒を願って何人得度させたとか、記述はありません。草壁皇子の娘の氷高皇女が病気になった時、持統帝は140人を出家させました。明日香皇女(天智帝の娘)の病気にも104人を出家させています。

それなのに、草壁皇子のために出家した人はいません。

皇太子だったのに。

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草壁皇子は病弱だったのでしょうか


草壁皇子の挽歌に、舎人が詠んだ反歌二十三首が並んでいます。


173 高光る わが日の皇子のいましせば 嶋の御門は荒れずあらましを

174 よそに見し 檀の岡も 君ませば 常つ御門ととのいするかも

183 我が御門 千代とことばに栄えむと 想ひてありし 吾し悲しも

191 毛衣を ときかたまけていでましし 宇田の大野は 想ほえむかも


皇子を「日の皇子」と尊び、墓所となる「檀の岡」はよそ事だと思いたのに宿直することとなってしまって、「我が主人は千代に栄える」と思っていた自分が悲しい。狩の装いの毛衣を着て、宇多の大野にお出でになった時のお姿が忘れられない…と読みました。皇子は元気だった…

突然の薨去だったようです。

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草壁皇子のライバルは、大津皇子だったのか? 


女性問題に関しても、大津皇子にポイントを取られていたと解釈されています。
草壁皇子の歌は、集中に一首のみです。


日並皇子尊、石川郎女に贈り賜ふ御歌一首 郎女、
(あざな)を大名児といふ

110 大名児 彼方(おちかた)野辺に 刈る(かや)の (つか)の間も われ忘れめや

ああ大名児、彼方の野辺で刈る草の一束のツカのような、ほんの束の間もわたしはお前を忘れることはない。

この歌の前に、大津皇子の歌があります。


 大津皇子、ひそかに石川郎女に
()ふ時に、津守連通、その事を占へ(あら)はすに、皇子の作る御歌一首

109 大船の 津守が占に()らむとは まさしに知りて 我がふたり寝し

大船が泊まる津と同じ、津守の占いに現れるとは、将にこちらも承知のうえでふたりは寝たのだ。


こうしてみると、石川郎女を奪ったのは大津皇子で、草壁皇子はまだ未練がある、と読み取れるようです。しかし、もともと、大津皇子と石川郎女は恋仲だったようです。

 

   大津皇子、石川郎女に贈る御歌一首

107 あしひきの山のしづくに妹待つと吾立ち濡れぬ 山のしづくに

   石川郎女こたえ奉る歌一首

108 吾を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを


このように並んでいますから、二人はアツアツだったのです。石川郎女は、途中で草壁皇子に召されたのかも知れません。それで、密に大津にあったのだと。

この恋のバトルは大津皇子が優位だったという説が有力です。

確かに、大津皇子は魅力的な青年だったのでしょう。


懐風藻にも漢詩を残し、日本書紀にも「詩賦は大津より始まる」と書かれています。何より天武十二年(683)「朝政を聞く」とあり、朝政に参画しはじめていました。天武天皇の大きな期待が大津皇子に掛けられていたのは間違いないのです。

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当時の宮廷の官人も周囲の豪族も大津皇子に期待していた。

持統帝も草壁皇子もそれを知らないはずはありません。


上記の「大名児」の歌ですが、

大名児よ、わたしは何処か分からない彼方で刈り取られた草の一束のように、ほんの束の間もお前を忘れることはないが、それは、何処か分からない彼方の草だ。だから、お前も彼方の草と同じ、それでいい。

とも読めるかなア、これは読みすぎでしょうね。

しかし、草壁皇子は承知だったはずです。大名児とは、宮廷の侍女だったのでしょうから、豪族の娘だったのかも知れません。自由に恋ができない女性が大津皇子を愛しても許してあげたのではないでしょうか。


さて、草壁皇子は天武十年(681)か、十 二年(683)に皇太子になりました。

非常に遅い立太子です。

同時に、大津皇子は「朝政を聞く」となっています。

天武天皇としては、大津皇子に極位への道を用意しておきたかったのです

天武天皇崩御


朱鳥元年(686)五月、天皇の病を卜うと、草薙劔の祟りというので、熱田社に安置。

仏法にて病の平癒を誓願。

諸国は主な神社に幣を奉り、天皇の病の平癒を祈念。

「天下のことは全て皇后と皇太子に啓上せよ」の勅

朱鳥元年とする。

皇太子・大津皇子・高市皇子に封四百戸

9月4日・皇子・諸臣ことごとく川原寺で天皇の病平癒を誓願。

99日・天皇崩御

911日・殯宮を建てる

924日・殯の礼。大津皇子が謀反を起こす

102日・大津皇子の謀反が発覚

103日・大津皇子に賜死。山辺皇女が殉死


これらの出来事のことごとくを、草壁皇子は見聞きしていたのです。

草壁皇子が苦しまないはずはありません。

皇太子でありながら即位しなかった大きな理由は、ここにあると思います
大津を死なせてしまった

このことが、草壁皇子の心を縛り、即位を拒否したと思うのです。

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草壁皇子は苦しんだ挙句、高市皇子に皇位継承を託しますが、母が承知しません。群臣と母と高市皇子の取り巻き勢力の板挟みで、皇子は自ら命を絶ったと思います。
だから、書紀の記述は短く。万葉集の挽歌も「高市皇子の挽歌」より短いのです。人麻呂が崇拝する持統帝の息子の挽歌を粗末にするわけはありません。彼は、あれ以上書けなかった。
悲しすぎて、悔しすぎて書けなかったのです。

むしろ。草壁皇子は大津皇子に皇位が継承されることを考えていた。
彼の申し出を受けてもよかった。
大津皇子は姉にも相談し、決心を固めた。
しかし、事は謀反とされ、大津皇子は死を賜った。
草壁皇子は責任を感じたのです。
母との三年間の軋轢を経て、ついに…
これが、私が日本書紀から読んだことです。
あなたはどう思いますか?
つぎは、大津皇子について書きましょうか。




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by tizudesiru | 2016-11-16 11:44 | 159・草壁皇子の薨去の事情 | Comments(0)

158草壁皇子の形見の地で霊魂に触れる



158
・草壁皇子の霊魂に触れるために、

軽皇子も形見の地を訪れた

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東の太陽・西の月が象徴する譲位

柿本朝臣人麻呂は、天武朝の皇子・皇女のために歌を献じています。

草壁皇子や高市皇子の挽歌も詠んでいます。

人麻呂の歌の中で最も有名なのは「東の野にかぎろいの立つ見えてかえり見すれば月かたぶきぬ」でしょう。これは、万葉集・巻一の「(かる)皇子、安騎(あき)()に宿リます時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」の後についている短歌四首の内にある一首です。軽皇子(文武天皇)は、皇太子になるために父(草壁皇子)の霊魂に触れねばなりませんでした


その為に、
阿騎(あき)()宿リに出かけたのでした。

阿騎野は、草壁皇子の形見の地だったのです。

形見の地で亡き人の霊魂に触れる儀式をしたのです。

人麻呂が紀伊国で持統帝の霊魂に再会しようとしたことと同じです。

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万葉集巻一 


「軽皇子、安騎の野に宿リます時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」は、長歌です。この後に続く短歌四首


46 阿騎乃野尓 宿旅人 打靡 寐毛宿良目八方 古部念尓

安騎の野に 宿る旅人 うち靡き 寐も寝らめやも いにしへ思ふに

あきののに やどるたびびと うちなびき いもぬらめやも いにしへおもふに


日並皇子の想い出の阿騎の野に来て、旅寝をする者たちは、手足を伸ばしてぐっすり寝られはしないだろう。日並皇子が狩をされたころのことを思い出すと、なかなか眠れないのだ。


4
7 真草刈 荒野者雖有 葉 過去君之 形見跡曽来師

ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とぞ来し

まくさかる あらのにはあれど もみじばの すぎにしきみがかたみとぞこし


ま草を刈るような荒野ではあるけれど、黄葉のようにはかなく亡くなってしまわれた日並皇子の形見の地だからこそ、跡継ぎの皇子も我々もここに来たのだ。

皇子の霊魂にお逢いするために、冬の阿騎野に来たのだ。


48 東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡

東の 野に炎の 立つ見えて かへり見すれば 月西渡る

ひむがしの のにかぎろいの たつみえて かへりみすれば つきにしわたる(つきかたぶきぬ) 


夜が明けて来て、東の空にかぎろいが立ち始めた。清々しい朝日が昇って来るのだろう。西の空を振り返ると、一晩中若い軽皇子を照らしていた月が、西に渡り沈もうとしている。月が隠れ、朝日が昇る。ああ、日並皇子が息子の軽皇子に太子位を譲られたのだ。


49 日
雙斯 皇子命乃 馬副而 御獦立師斯 時者来向

日並の 皇子の命の 馬並めて み狩立たしし 時は来向ふ

ひなみしの みこのみことの うまなめて みかりたたしし ときはきむかふ


あの日、御狩が始まろうとしたあの時、日並皇子命が馬を一斉に並べて、御狩の壮麗な装いと凛々しいお姿でお立ちになった、あの瞬間がもうすぐやって来る。その瞬間に、今、軽皇子が立ち向かわれるのだ。


人麻呂は「葉」のみを「もみじば」と読ませました。

『葉』は此処だけの表現と思います。

上の四首に詠まれているのは父の草壁皇子。軽皇子の姿は見えにくい。人麻呂は心ゆくまで、在りし日の凛々しい草壁皇子の姿を詠みました。

草壁皇子は、持統称制(しょうせい)三年(689)四月に亡くなりました。

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皇太子でありながら即位せず、母の持統帝が代わりに政務を取る『称制(しょうせい)』という政治体制になっていました。

なぜ、皇太子でありながら草壁皇子は即位しなかったのか。

歴史上の大きな疑問です。

持統帝は草壁皇子が即位するのを待って称制を続けていました。

そこに、皇太子草壁皇子の薨去(689)でした。

持統帝は必至で耐え、ついに即位(690年)したのです。

草壁皇子の忘れ形見の軽皇子の成長を待って。

 

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軽皇子(文武天皇)は十歳になり、帝王学を学ぶ時期になりました。

皇太子になるために、父の草壁皇子の霊魂に触れなければなりません。

それが為の、阿騎野における冬の狩でした。

父の草壁皇子の狩場で一晩過ごし、霊魂に触れたのです。


父の霊魂に触れた軽皇子(文武天皇)は十五歳で元服し、即位(697年)します。嬪は藤原宮子(藤原不比等のむすめ)でした。


草壁皇子は病弱であったので即位できなかったというのが定説です。
そうでしょうか? 
狩が好きで何度も狩場に出かけたようで、その姿を皇子の
舎人(とねり)(近習のひと・御付きの人)も歌に詠んでいます。皇太子として即位できないほど病弱ではなかったのです。

万葉集の数多くの謎は、有間皇子(658年没)を読まなければ解けません。更に、草壁皇子(689年没)も重要な鍵を持っているのです。

この二人の存在が持統天皇を生かし動かし続けたのでした。

そこには、草壁皇子の苦悩もあったでしょう


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by tizudesiru | 2016-11-15 13:37 | 158草壁皇子の形見の地・阿騎野 | Comments(0)

150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女の歌

阿閉皇女が草壁皇子を偲ぶ歌

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紀伊に旅して印象に残った白崎。ここで「白崎は幸くありまて」の万葉歌碑を見て、思わず涙しました。この美しい風景には様々な悲話が重なるのですから。


紀伊國の旅はなんといっても持統天皇の大宝元年の「紀伊國行幸」の時の歌群が内容的にも圧巻です。持統天皇の紀伊国行幸は数度あるようですが、二度は万葉集で誰にも確認できます。


その一度目は、朱鳥4年(690)持統帝が草壁皇子を亡くした翌年です。
草壁皇子の妃の阿閇皇女を伴っての行幸です。阿閇皇女は夫を失って失意のうちにありました。持統帝はこのとき息子の嫁を元気づけようとしていたのです。皇女には草壁皇子の遺児が三人いて、
中でも跡取りの軽皇子の成長を待って皇位継承を成さねばならなかったのです。その為に堅い決心を促すために、旅にさそった…それが「紀伊國行幸」です。そこで持統帝が見せたもの、それには重大な意味がありました。

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阿閇皇女は愛情深い優しい人でありました。

阿閉皇女は天智天皇と蘇我石川麿の娘の姪郎女の娘です。持統天皇の母も蘇我石川麿の娘の越智娘となっていますから、持統帝とって、息子の嫁は妹であり姪であり非常に近い間柄です。


「勢能山を越ゆる時の阿閇皇女の作らす歌」巻一の35

 
これやこの倭にしては我が恋ふる紀伊路にありという 名に負う背ノ山

この歌は、単なる土地褒めの歌でしょうか。阿閇皇女は夫の突然の死によって深く傷ついていました。この紀伊國行幸は物見遊山というより、この先どのように生きるのか、何をしなければならないのかを義母から諭された旅であったのです。

「これがそうですか。お母さま、いえ、陛下から常々お聞きしていた勢能山は。紀伊路の紀ノ川(吉野川)を挟んで背ノ山と妹山が向かい合っています。わたくしは織姫と彦星のように離れていても心から慕いあうお話を聞いて、ぜひとも背ノ山を見たいと倭から恋焦がれておりました。今日、とうとう背ノ山を見ました。お別れした我が背の君を思い出させる背ノ山。わたくしは、これから織姫のように我が背の君との逢瀬を待ち続けましょう、ずっと。」

背の山を見た皇女は草壁皇子を思い出して、十分に涙を流したことでしょう。皇女は夫を愛していたし、三人の子どもたちを心から愛しているのです。

やがて、始めて背ノ山を見て涙を流した阿閇皇女が連れていかれたのは、
有間皇子が浜松が枝を結んだ岩代だったのです。その地を見せるのが持統帝の目的でしたから。
朱鳥四年九月の行幸の目的は、岩代の結松に手向けすることでした。この年の一月に、持統天皇は即位していました。

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阿閇皇女の『これやこの』の歌の前にあるのは、川嶋皇子の「紀伊国に幸す時、川嶋皇子の作らす歌」です。川嶋皇子は翌年に薨去していますから、死の一年前の歌です。


白波の 浜松が枝の手向け草 幾代までにか年の経ぬらむ



明らかに有間皇子の「岩代の浜松が枝を」の歌を踏まえた歌です。有間皇子の刑死の年(658)から朱鳥四年は三十年余りたっていますが、祈りをささげた結松は残っていたというのでしょうか。

「白波が打ち寄せる岩代の浜辺の結松は、あの有間皇子が祈りを込めて結ばれた手向け草だった。皇子は無事を祈られたのに帰路で追っ手により亡くなってしまった、無実だったのに。あの有間皇子事件からどのくらい年月が経ったというのだろうか。何年も年月が流れたが、結松を見ると胸が痛む。

川嶋皇子は親友だった大津皇子の謀反を密告した人です。
「吉野の盟約」にも参加した、天智天皇の皇子で、姉の大江皇女は天武天皇の妃になり、長皇子と弓削皇子を生んでいます。
川嶋皇子が有間皇子を悼み、結松を読むことは意味のあることでした。

川嶋皇子は、大津皇子の謀反を許さなかったが、有間皇子は無実だったので、

その運命の過酷さを悼み、皇子を偲んでいる…となるのです。

皇子川嶋に「結松」を読ませたい人は、誰か? もちろん、此の行幸の主人でしょう。

朱鳥四年の紀伊国行幸で詠まれたと思われる歌がまだありますが、それは、また今度。
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また後で



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by tizudesiru | 2016-11-06 15:48 | 150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女 | Comments(0)


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久邇京の夢さめて
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静かなる高麗寺跡
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高松塚古墳の被葬者は高市皇子
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続々・岩戸山古墳と八女丘陵
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続・岩戸山古墳と八女丘陵
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初めての地図旅
地図のたのしみ
1大宰府の位置
2竹原古墳
3間夫という山
4筥崎八幡宮
5弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6平原王墓ラインから分かること
7八女丘陵の古墳のライン
8高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山
11羽白熊鷲と脊振山
12羽白熊鷲と古処山
13九千部山と香椎宮
14国守りの山は何処に?
15神籠石が教えてくれる古代
16六世紀の都
17神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
39神籠石から分かること(4)
40神籠石から分かること(5)
41神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43古代の宮殿は何処に?(1)
44江田船山と筑紫君磐井
45筥崎宮から見た太宰府天満宮
46高千穂の峰から阿蘇へ
47雲仙が守った首長は、何処
48神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50醍醐天皇の都の守り
51十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社
53空海の霊力
54出雲大社と熊野本宮大社
55大山古墳の謎
56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線
59続石上神宮の視線
60藤原京の守り
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮
63あおによし奈良の都は
64続・あおによし奈良の都は
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実とは
67石城山神籠石ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社
71尾張国の式内社
72紀伊国の式内社
73近江国の式内社
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳のライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社の不思議
92薦神社の不思議2
93金富神社と鉾立山
94 金富神社と鉾立山 2
95 金富神社と鉾立山3
96宇佐神宮と北部九州
未分類
97宇佐神宮と北部九州・2
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
100日知王の山々
101宇佐神宮と九州の神々
261大化改新後、大国魂神社は総社となる
256平城京と平安京
219法起寺式伽藍
207中大兄とは何者か
149有間皇子を愛した間人皇后
102安心院の二女神社
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる

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