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飛鳥の明日香と呼ばれた霊魂の地が二ヵ所ある理由

飛鳥はいつからアスカと呼ばれたのか
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(藤原宮から天香具山)

和銅三年、「飛鳥の明日香の
里を置きていなば」と別れを惜しみ、元明天皇は明日香を去りました。

和銅三年(710)には、[飛鳥(とぶとり)の明日香]という言葉が定着していたのですね。
しかし、古事記(712年撰上)・日本書紀(720年撰進)では、アスカは「飛鳥」で統一されてます。712年頃までに「飛鳥」は、「とぶとり」ではなく「アスカ」に変わったのです。元明天皇は古風な言い回しを用いて古京を懐かしんだのでしょう。

それにしても、社会科では「あすか時代」を飛鳥時代と書き、博物館のこの時代の仏像にも「飛鳥仏」と書かれています。飛鳥(とぶとり)をアスカと読むようになったのは、いつからでしょう。

ブログにも書きましたように、万葉集には「飛ぶ鳥の明日香」は四例、それは柿本人麻呂の川嶋皇子の挽歌(持統五年・691年)、同じく人麻呂の明日香皇女の挽歌(文武四年・700年)、平城宮遷都の時の元明天皇の歌(和銅三年・710年)、巻十六の由縁雑歌(後期万葉)に一例です。

「飛ぶ鳥の明日香」は、限られた地域の限られた意味を持つ言葉となっています。しかも、挽歌と結びついた言葉です。元明天皇も死別した夫や息子を「君があたりは見えずかもあらむ」と偲びました。やはり亡き人につながります。「飛ぶ鳥の」を美称とかたずけるわけにはいかないでしょう。「アスカは亡き人を思い出させる地」として、霊魂の地「アスカ・飛鳥」となったのです。
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また、人麻呂が草壁皇子(持統三年・689年)の殯宮で詠んだ歌には「飛ぶ鳥の浄(きよみ)の宮」とありますから、「飛ぶ鳥の明日香」はまだ使われていません。
とすると、「飛ぶ鳥の明日香」が定着したのは、持統三年から五年の間となりましょう。「飛ぶ鳥の浄の宮」は、人麻呂にとっても、万葉集にとっても大変重要な言葉となります。

ただ、丁丑年(天武六年677年)十二月上旬に葬ったと記されている小野毛人墓誌銘に「飛鳥浄見原宮治天下天皇」とあり、丁丑は天武六年(677年)となるのです。が、この墓誌の作成年次には疑問が持たれています。後に作られた墓誌だというのです。
大方は、明日香が「飛鳥」と定着したのは、天武天皇の御病が重篤になった時、平癒を願って「朱鳥」と改元され、宮を飛鳥浄御原宮というようになったからだと日本書紀(720年)に書かれていますから、これを支持しています。


遠津飛鳥は捨てられた…蘇我氏の残像を払う為に
考えてみると、不比等はなぜ明日香を選ばなかったのでしょう。
平城宮遷都は「藤原不比等の暗躍の結果だった」と、このブログで書きましたが、明日香を捨てる理由は何でしょう。藤原氏所縁の談山神社も近くにあって、鎌足の産湯井戸跡もあるし、大原(小原)は藤原氏の出身地だったようですし。更に、中大兄皇子と藤原鎌足には「乙巳の変」の所縁の土地が方々にあります。でも、明日香は都として選択されなかった。
一つには、都を大きくするには飛鳥は狭かったし、水の供給に問題があったと云われています。確かに、明日香川の水では十分ではなかったでしょう。

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(明日香川のながれ・甘樫の丘の北)
しかし、飛鳥を切り捨てる理由はもっと他に、深い意味があったのではないでしょうか。そこには蘇我馬子も住んだという嶋荘には嶋宮という宮殿があり、岡宮があり、浄御原宮があり、天武朝の宮が集中していました。が、何より蘇我稲目以来の蘇我氏の影も強く残る土地だったというのが大きかったのではないでしょうか。昔は、大伴氏も中臣氏も蘇我氏の組織の中に組み込まれていたのですから。
だから、

蘇我氏の残像を捨て去ること、それが遷都の最大の目的だった。
舒明天皇の墓を押坂内陵(八角墳)に改葬した理由も、「明日香からの切り離し」です。天智帝と同じ八角墳にしたのは、同じ皇統であることを強調するためです(元の陵墓は明日香にあったが改葬されたとすると、そこは…)。
推古帝と竹田皇子の合葬墓も明日香から「近津飛鳥」に改葬された(前方後円墳ではなく方墳として改葬した)ということです。方墳ですから、舒明帝の八角墳とは形式を変えています。選ばれたのは、近津飛鳥でした。

近津飛鳥と呼ばれるようになったのは、いつ?その理由はは何か?
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用明天皇陵(方墳)も、孝徳天皇陵(円墳)もなぜか近津飛鳥に在ります。それも、改葬されたからです。同じく王家の墓を「明日香」から切り離したかったからです。
かし、王墓の改葬ですから、簡単に実行できません。だから、人々を納得させる(欺く)ために、都に近い霊魂の地として「近津飛鳥」と呼んだのです。「飛鳥」は奈良朝が作りだした「当て字」でしょう。
要するに、明日香に残したのは、蘇我氏と天武朝の人々の墓だった(天武持統陵は「八角墳」)……それが奈良朝の藤原(不比等)氏の構想でした。

誰かが計画し実行しなければ、なんとなく墓が改葬されるはずがありません。すると、舒明・用明・推古の陵墓の改葬は、ある時期(それは奈良時代か)に一斉に実行されたと云うことになります。それは、「近つ飛鳥」という呼び名から分かります。近い遠いは都を基準に使われましたから、「近津飛鳥」は明日香より平城京に近い明日香の意味です。そして、飛ぶ鳥が「飛鳥(あすか)」となった。
理由は様々にあったでしょうが、ある権力者は藤原宮の人々(天武朝)の霊魂を明日香に残した(藤原氏が封じた)ままにしたかったのです。

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(叡福寺・聖徳太子陵墓)
とすると、聖徳太子陵が近津飛鳥に在ることは不思議なことになります。

孝徳天皇の墓は聖徳太子廟ではないか

大王ではないのですから、聖徳太子が実在でも改葬の必要はないのです。では、叡福寺の陵墓は、誰の墓なのか。それは、もちろん孝徳天皇の改葬墓です。他に該当する天皇はありません。石室の構造、石室の切り石からして終末期、石棺の台には格狭間(こざま)が彫られていました。明らかに後世の仏具の装飾でした。すると、聖徳太子墓では有りえません。更に、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后(聖徳太子の母)も一緒ですからね。
大胆な説ではなく、孝徳天皇の改葬墓と考えたが自然なのです。三骨一廟の三骨とは、孝徳天皇・間人(はしひと)皇后・斉明天皇以外には考えられません。二人の女性は斉明天皇と間人皇后で、牽牛子塚古墳からの改葬です。この二人を明日香に残したままにするとは考えられません。舒明天皇陵の改葬をしたのなら、其の皇后(斉明天皇)の墓も改葬するはずでしょう。

改葬されたのです、二人の女性も近つ飛鳥に、「孝徳天皇の玉璽を守り、天智天皇に渡した中宮天皇として」間人皇后も合葬されたと考えるのが自然です。同じ間人皇后ですから、後の人々は伝承としての「穴穂部間人皇后」と名前の点で混同したかも知れません。
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これで、昨年から書いて来た「永福寺の聖徳太子陵墓の謎」の一部を書いたと思います。叡福寺聖徳太子陵の不思議については、去年のブログを見ていただきたいです。
昨年は、謎だらけであることを紹介していました。

明日香はなぜ「飛鳥」となったのか、それは何時なのか、いかなる意図があったのか、それと「飛鳥」と呼ばれる「近津飛鳥」はどうつながるのか、書きました。

七世紀から八世紀の王墓の改葬がなぜ多いのかも絡んでいましたが、そこには大王家と結んだ藤原氏の大きな野望と創作したい物語があったのです。
その物語の創作は、日本書紀を正史にする上に欠かせない作業だったのかも知れませんね。



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by tizudesiru | 2018-01-05 14:22 | 315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬 | Trackback

天智九年法隆寺炎上、そして法隆寺は残った

天智九年夏四月法隆寺炎上
なぜこの事件が大きく取り上げられているのだろうか
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天智九年(670)夏四月三十日の夜明け、法隆寺は焼失しました。
書紀によると、「法隆寺に災(ひつ)けり。一屋ものこること無し。大雨ふり雷鳴る」全焼だったのです。五月に童謡(わざうた)がその意味を語りました。
内橋の つめの遊びに 出でませ子 玉手の家の 八重子の刀自 出ましの 悔いはあらじぞ 出でませ子 玉手の家の 八重子の刀自

板を渡した仮橋のたもとの 歌垣の遊びに 出ておいでなさい。立派な玉手の家の貴人よ、八重子の奥様よ、出ておいでなさい。後悔することはないはずです。出ておいでなさい。玉手の家の 八重子の奥様。(立派なお霊屋(たまや)の素晴らしい仏たちよ。早く出てお出でなさい。そこは火事になりますから、出てきて後悔することはありません。さ、出ていらっしゃい。お霊屋のたくさんの仏たちよ

童謡は世相を表し、人の本音や事件の真相を謡ったのです。それも影口のような、云いにくいことを謡ったのです。立派な玉手の家の女主人を歌垣に誘うなんて、とんでもないことですが、後悔することはないと教えました。
どうやら、「火つけ・つけ火」だったようです。では、若草伽藍に誰が火をつけたのでしょう?!

決断したのは、天智天皇でしょうか。
西院伽藍の金堂は天智九年の再建だと紹介してきましたし、施主は天智天皇だと書きましたし、みなさん認める所です。
その人がなぜ? 
それは… 
白村江敗戦後に俀国(倭国)から運ばれたのは、一流の仏像ばかりではなく、仏具、荘厳具、侠侍・台座など様々あったと思います。高貴な人の貴重品などは川原寺に、個人の念持仏は橘寺に運ばれたとして、残りの諸々があったでしょうから。運び込まれた斑鳩寺も困っていたでしょうね。
だから、いっきに焼いて処理した…大事な仏は再建法隆寺に運び終わった後に、です。吟味してえり分けていたと思うのです。
ですから、冷静に判断した後に焼いたと思います。

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そうでなくては、天智九年(670)以前の釈迦三尊像(623年造)の仏像は残りません。
そして、釈迦三尊像より古い金銅仏があります。仏の御姿もよく似ていますから同じ工房・時期に造られたものでしょう。
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池邊大宮治天下大王天皇とは、用明天皇のことです。小治田大宮治天下大王天皇とは、推古天皇を指し、東宮聖王とは聖徳太子のことと読まれます。

おや? ここでは東宮聖王と書かれていますから歴史とは矛盾しません。
聖徳太子は法王でも大王でもなく、東宮=皇太子でした。書紀とは人間関係では矛盾しませんが、釈迦三尊像の銘文とは大きく違います。さらに、大王天皇と彫られていて、天皇という称号が使われています。用明天皇の時代にはまだ「天皇」号はなかったはずです。ですから、この銘文は明らかに後世の彫り物です。漢文の日本語化も釈迦三尊の漢文より進んでいるそうですから、あきらかに釈迦三尊像より新しい銘文であることは定説です。では、誰が、いつ何のために彫った、彫らねばならなかったのでしょう。法隆寺の仏像に銘文を彫らせた人物は、権力者・高貴な人と考えられます。

すると、銘文が作られ彫られたわけは?
もちろん、彫らせたのは天智天皇でしょう。彼は聖徳太子と同じく長く皇太子のままでしたから、深く共感していた。そこに、銘文を彫る理由があったと思います。
銘文にある、聖徳太子が薬師如来を造ったという六〇七年(丁卯)は隋の裴世清が倭国を訪れた年です。そして、六〇年後の六六七年(丁卯)は近江大津に遷都した年です。そして、翌年六六八年一月に天智天皇は即位しました。丁卯に意味があったのです。

天智帝が即位できなかったのは、中宮天皇(間人皇后)の存在があったからでした。孝徳天皇の皇后だった間人皇后(中宮天皇)は玉璽を持っていました。その間人皇后が六六五年に薨去し、殯宮の儀式が終わり母の斉明帝と同じ陵墓に埋葬した後の近江遷都でした。


近江遷都の年、天智天皇の万感の思いを込めて銘文は彫られたと思いました。東宮聖王(聖徳太子)と同じく困難な政治を補佐し続けた二十数年、やっと即位の時が巡ってきた、そういう意味で彫られたのです。東宮としての最後の年(丁卯)に、推古女帝と同じように中継ぎの女帝がいて、皇太子としての自分がいる、そこに、改めて意味を見つけたのです。
そこで、法隆寺の仏に銘文を彫らせた、釈迦三尊像の銘文に合わせて。しかし、誰が像を造ったのか書かれていません。それは、不明だったからでしょう。何しろ、運んできた仏像だったのですから。

天智天皇とは何者だったのか。これから、まだまだ書くことはあるのですが…

ですから、鬼前太后・上宮法皇・干食王后は実在したのです
光背銘文と日本書紀は、なぜ矛盾するのか。それは、もともと安置されていた場所から移動したからでしょう。

止利仏師は、上宮王家の三人を知っている…
仏師といえば、鎌倉時代の仏師の運慶・快慶のような慶派が有名ですが、古代の司馬鞍首止利の時代には「仏師」という職名は使われていないそうです。それで、この銘文に仏師があることから、銘文は後世のものという説もあるのです。銘文が後の世のものとしたら、なぜ「正史とは矛盾する人物」のことを彫り込まねばならなかったのでしょうか。おかしなことです。
前回も再建法隆寺に残された623年造の釈迦三尊像のことを考えましたが、この金銅仏の光背には、鞍首止利仏師が造ったと彫られていました。
止利仏師は何処に住んでいたのか。飛鳥なのか、九州なのか、興味の湧くところです。日本書紀に「鞍作・鞍部・鞍・鞍部司馬」が出てくるのは推古朝です。斉明朝の「鞍作臣」は、全て蘇我臣入鹿のことです。つまり、鞍作の活躍は推古朝にしか書かれていません。活躍の場は或所で切れるのです。飛鳥仏の作風が途切れるのもそのためかもしれません。古事記も先代旧事本記も推古朝で終わりますから、ここが一つの変わり目だったのでしょうね。

止利仏師は、上宮王家の三人を知っていた…

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此の願力を蒙り、病を転じて寿を延べ、世間に安住せむ。
若し是れ定業にして以って世に背かば、往きて浄土に登り、すみやかに妙果に昇らんことを」と。二月二十一日癸酉、王后即世す。翌日法皇登遐(とうか)す。
癸未年三月中、願いの如くつつしみて釈迦尊像併せて侠侍、及び荘厳具を造りおわる。その微福に乗じ、道を信ずる知識、現在安穏にして、生を出て死に入り、三主(太后・王后・法皇)に随い奉り、三宝を紹隆し、遂には彼岸を共にし、六道に普遍せる、法界の含識、苦縁を脱するを得て、同じく菩提におもむかんことを。司馬鞍首止利仏師をして造らしむ。
それにしても、書紀には法隆寺の建立の記事はありません。法隆寺がいつ建てられたのか、記録としては分からないのです。炎上の記事はあるのに、です。


天智九年(670)というのは、「金堂の本尊の天井に張られた板の年輪年代で導きだした」年代なのです。樹木が切られた年を年輪で探る方法です。
金堂建立時期は670年でも、本尊は古い(623年)と云うことでした。
釈迦三尊像より古いとされる金銅仏(607年)がありました。が、それは、技術的にも漢文としても釈迦三尊像より新しいというのです。


参考までに釈迦三尊の銘文(漢文)
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天智天皇にとって、法隆寺は自分の王朝の弥栄を願う為の寺でした。そして、過去の王朝の菩提を弔う寺でもありました。本尊に彫られた銘文の意味を天智天皇は熟知していたでしょう。しかし、それを消し去ることはなく、むしろ大王になれなかった皇太子霊を供養したのです。
その天智天皇の思いをヤマトヒメである持統天皇は承知していました。だから、法隆寺を大事にしたのです。

司馬鞍首止利仏師は、過去の王朝を証明する人である、それが今日の結論です



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by tizudesiru | 2017-12-21 16:41 | 312法隆寺に残る日出処天子の実像 | Trackback

聖徳太子の存在は証明できたのか?ヒストリア

NHK歴史ヒストリアは、聖徳太子の実在を証明したのか?
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(最近、教科書ではこの画像を聖徳太子と教えていません)
聖徳太子は実在しなかったという説もあります。
また、隋書のアメノタリシホコは奈良の聖徳太子ではないという説もあります。
だって、日出処天子は男性でその姓は阿毎(アメ)、あざなは多利思北弧(タリシホコ・タリシヒコ)。彼には妻がいて、その号は阿輩鶏弥(アハキミ)です。

天子と名乗る以上、それなりの財力・統制力・組織力・元号・税制など持たねばならないものが多々ありますが、隋書の天子は持っているのです。また、天子が男性であるか女性であるかも重要でしょう。隋書に書かれた天子は男性です。

「倭王は天を以って兄と為し、日を以て弟と為す。天いまだ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺(かふ)して坐す。日いづれば、すなわち理務をとどめ、わが弟にゆだねんと言う」とかかれています。


奈良の推古天皇は女帝で、夜のうちに仕事をし昼は弟に任せるなんてことは、一つもありません。全く違うシステムで政治をしているのです。


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更に、釈迦三尊の光背の銘文です。
光背の裏に銘文があり、字はタガネで彫ったのではなく、蝋書きし(蝋に字をほり土で固め)熱で蝋を溶かしたところに銅が流れ込むという技法で作られています。でも、その技法で時代を特定できるでしょうか。
以前から、光背の銘文は後にはめ込まれたもので太子の時代の事ではないという説が有力で、研究者の間でも問題になっていました。

わたしは十数年前に「銘文は本物だ」という説を読んだことがあります。研究者の名も本も忘れましたが、その中で印象に残っている箇所があります。
銘文の真偽を十分に展開したあと、
光背にはめ込まれた銅板に銘文は彫られている。文章を彫り込んだ板を出来上がった光背に後世はめ込んだということは、十分に考えられることである。しかし、光背には鍍金(金メッキ)が施してある。それが何時為されたのか、それがはっきりすれば問題は解決する。
光背と銘文銅板の間の永年の汚れを取り除けば、光背に鍍金が成された時、銅板が既にはめ込まれていたのか、銅板の鍍金が後の時代のものか、光背完成時期か、明らかになるだろう。
国宝に手を入れるのではなく、光背と銅板の間の一部の付着物を取り除けば鍍金の時期を確定できるのではないか。それを実行してほしい」

という内容でした。わたしは感激したので、よく覚えています。図書館で借りた本なので探せば分かると思います。
問題はこの後です。この銘文の主人公は最高位についた人なのです。皇太子ではありません。日本書紀の聖徳太子ではなく、極位についた天子であり法皇となった人なのです。

是が本物なら、新しい歴史上の問題となるのです。

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尺寸王身であれば、法隆寺の夢殿の秘仏「救世観音」とよく似た体形だとか…
そして、叡福寺古墳(聖徳太子の廟)の棺の話でした。棺は漆塗の挟紵棺ということでした。その破片が石室内から出土しているのです。わたしはこの石室も挟紵棺(きょうちょかん)も、後の時代のものと思っていました。
NHKもその辺りを取材していました。野口王墓や牽牛子塚古墳(斉明天皇陵と考えられている)の漆塗り木棺・挟紵棺が取り上げられていました。つまり、後の時代になって、聖徳太子が取り上げられ、棺が作り直されたという説の紹介でした。

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しかし問題はそのあと、明日香のそれらは麻布に漆を重ねた棺ですが、叡福寺古墳のものは麻ではなく絹だったのです。それも漆を塗った棺は100Kgあったというのです。
絹の消費量を考えると、何処で調達したのでしょうね。飛鳥・奈良時代ですら絹の産地は筑紫です。万葉集にも「筑紫のわた(絹)」の歌があります。叡福寺の棺だけ特別調達したのでしょうか? 何ゆえに?
そのうえ、光背銘文と日本書紀が大きく食い違うのは何故でしょう。隋書とは食い違ってはいませんよね。


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それに棺が乗せられた棺台(石材)ですが、そこに格狭間(こざま)という仏具につく文様があるのです。
わたしはこの紋様を持つから、叡福寺の石室は新しいと思って、ある大学で質問をしました。答は、
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この格狭間(こざま)は、中国では早い段階に使われているから、後代の文様とは入ってきた経路が違うと、答えていただきました。
そうなんですか。
太子町では、叡福寺古墳の棺を早い段階における技術の導入だと、主張していたと思います。現に漆棺の破片が出ていて、聖徳太子伝承があるからです。その伝承がどのような経緯で出来上がったのか、問題にならないまま信仰と結びついて、真実が見えなくなったと、思うのですが。

多くの検討がないまま様々な主張がなされているので、NHKはよく検討して番組を作ってほしいと思いましたね。

日本書紀の聖徳太子のところは、後からの挿入と考えられる漢文的にもちぐはぐであると読んだことがあります。書紀の推古朝には多くの問題があるのです。
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髄は使者を倭国に送りましたから、使者である文林朗裴世清は倭国王に会いました。まさか、女帝が宮室に隠れて代わりに皇太子が使者に会ったなど、想像できますか?
そんなことできるわけがないでしょう。ですから
日出処の天子は書紀の聖徳太子ではない、と思います。

ヒストリアでは、阿武山古墳の藤原鎌足の挟紵棺の画像や、明日香の岩屋山古墳(聖徳太子の墓に似ている)の紹介もありました。
わたしもこのブログで、紹介しています。
カテゴリ 240「藤原鎌足の墓」
藤原鎌足の墓は何処か 
カテゴリ 280「聖徳太子伝承の嘘とまこと」
 ~聖徳太子の陵墓は三骨一廟、明治まで石室内を見られた聖徳太子陵墓、聖徳太子の墓と似ている飛鳥岩屋山古墳

良かったら、ブログを見ていただければ嬉しいです。

では、また。


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by tizudesiru | 2017-10-14 01:09 | 289聖徳太子の実在は証明されたのか? | Trackback

聖徳太子の墓と似ている飛鳥岩屋山古墳

聖徳太子の陵墓の石室は、飛鳥岩屋山古墳に似る

この夏、飛鳥の岩屋山古墳を訪ねてみました。
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明日香駅から線路を渡ります。
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古墳があるのは細い坂道の途中です。
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道なりに進むと、道標が見えます。
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線路を渡って、5分ほどで岩屋山古墳に着きます。
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みごとな切石の石室です。叡福寺の聖徳太子の墳墓の石室もこのようになっているのでしょうか。
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外観は削平されていて墳丘のかたちははっきりしません。
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小高い丘陵の途中なので辺りの景色がよく見えます。
この岩屋山古墳の主はどんな人だったのでしょう。
似ている石室だから、聖徳太子と同じ時代に活躍した人なのでしょうか。
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叡福寺の棺は漆塗でした。「藤原鎌足と阿武山古墳」の図によると、叡福寺は脱乾漆棺になっています。要するに布に漆を塗って固まったら、枠組を抜いていっそう軽くしたものです。
ということは、皇太子のために最高の技術を用いて棺を造ったのか、後世の人が棺を変えたか、または皇太子ではなく後世の人の墓だったのか、いずれでしょうね。

野口王墓(天武・持統陵)は切り石の石室でした
そこに、脱乾漆の天武帝の棺があります。脱乾漆は最高の技術だったのでしょうね。
図によると、終末期古墳の棺に漆がつかわれたようです。
叡福寺も漆塗りの棺ですから、高貴な人で最高の棺に葬られたということです。 
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聖徳太子は実在しなかったのか?と聞かれたことがあります。

どうでしょうか? 平安時代の一般の人は日本書紀など読みませんから、そう云うもので太子を知ったのではないでしょう。
しかし、太子信仰は平安時代に盛り上がり、所縁の寺や太子創建という伝承の寺があちこちに現れてもてはやされました。太子の誕生から逝去までの物語が広く世間に広がりました。信仰上の物語は太子の実像とずれるかも知れませんが、世の中が変わり始めた時に新しいものを取り入れていく人がいて、高貴な男性だったとしても、何の不思議もありません。

ただ、隋書の「日出る処の天子」は男性で、最高の身分だったはずですが、書紀によれば隋書に書かれたその時は女帝(推古天皇)になっています。皆さん十分にご存知です。

でも、なぜ? 

本当は、聖徳太子は皇太子ではなく天皇になっていた(この場合書紀と矛盾する、書紀は女帝)か、
または、「日出る処天子」は別の地域の天子だった(この場合よその地域の話を取り込んだことになる)か、
便宜上、聖徳太子が天子として国書を書いた(これだと、裴世清が倭国に来ているから嘘が露見したはず)か、


聖徳太子の話は、なかなか虚実ないまぜで、分かりにくいのです。

貴方はどう思いますか?


聖徳太子の実在と物語の接点にある叡福寺古墳の実態がはっきりしてくれば、これらの事のいくつかは解決されるかも知れませんね。

また、明日。


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by tizudesiru | 2017-09-08 15:40 | 280聖徳太子の伝承の嘘とまこと | Trackback

明治まで石室内を見られた聖徳太子の陵墓

上之太子叡福寺の聖徳太子御廟
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叡福寺に太子の御廟があります。
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明治の初めの頃までは、この御廟の石室内に入ることができたそうです。
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御陵内を実検せり。即ち隧道の口を開くれば、

大沢清臣の実検記

「…御陵内を実検せり。即ち隧道の口を開くればその高さ六尺四寸、広さ6億尺、長さ二丈四尺許にして奥に石室あり。高さ広さ各一丈、長さ一丈八尺許なり。

而してしの隧道の左右は大石四枚を以って築並べ蓋うに三石を以ってせり。また、石室は左右大石各五枚、奥は二枚を以って築上げ蓋うに亦大石二枚を以ってせり。

而してその最奥の正面及び左右に石三枚を据えたり。正面の一枚は高さ一尺六寸、長さ六尺六寸、幅二尺五寸許あり。

その平面の正中を手水鉢のごとく深さ六寸許に彫り左右漸く深くして八寸余りあり。左右の横方に水抜きのごとく孔をえぐりたり、その仔細詳らかならず。又、右に据えたる一個は正面の石より三尺五寸許離れて前方によせて西面にすえたり。高さ二尺二寸、長さ八尺、幅三尺六寸五分、左にある一個は西方によせて、右なるに相対して東西に居たり。高さ二尺二寸、長さ七尺一寸五分・幅三尺あり。この左右に相対する二個は上面平らなり。ただし、この三箇の石は皆切り石にて側面は礼盤の側面如く彫れり。

又、この石の辺りに箱の破砕したるごとき板の腐朽せるあり。掻き集むるに凡そ二斗許あり。日光に照らし見るに布張黒漆の箱の腐朽してこの如くなれるなり。

是、全く御棺の破砕せるもの与」

上の実検記を検討した梅原末治の「聖徳太子磯長の御廟」で、問題点を提示しています。

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梅原末治は石室の様子を図にしたのです。それが上の第2図です。棺台が三箇あり、いわゆる三骨一廟。
奥が太子の母・穴穂部間人皇后、前面向かって左に膳郎女、右に聖徳太子の棺で、穴穂部間人皇后は石棺、他の二人は夾紵棺で、仏具の装飾などに用いられた格狭間を刻した石製の棺台にのせられていたそうです。


以上の資料を信頼すると、石室の構造は大和飛鳥の岩屋山古墳と似た切り石石室に、格狭間を刻した棺台を有し、漆塗りの棺をおさめる点では、磯長の御廟より北西2kmの御嶺山古墳と類似、これらから太子墓内部のようすを類推することができます。
ただ、石室が岩屋山式の切り石造りの横穴式石室であることは確実と思われますが、内部の棺および棺台については問題もあり、三骨一廟についても鎌倉時代の「聖徳太子伝私記」には記録されていますが古事記・日本書紀・延喜式などは全く触れておらず、果たして本当に三骨一廟であるかなど、問題点も多くあります。
このような問題点があるにも関わらず、被葬者=聖徳太子の最も確実性の高い古墳で、類似古墳の年代決定の拠所となる重要な古墳であるといえます。

以上、「王陵の谷・磯長谷古墳群」(竹内街道歴史資料館)の資料と文章を書き写させていただきました。

面白く読ませていただきましたし、大変参考になりました。
太子信仰の盛り上がりは理解できたのですが、太子の御廟かどうかには疑問が残りました。

太子の御廟ではないとなると、これは大変なことですね。

驚きました…では済まなくなりますね。

この古墳が類似古墳の年代決定の拠所となるのでしたら、安易な妥協はいけませんよね。

これらの問題点については、また、次に。


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by tizudesiru | 2017-09-07 17:04 | 280聖徳太子の伝承の嘘とまこと | Trackback

聖徳太子の陵墓は、三骨一廟

聖徳太子が眠るのは叡福寺

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この夏、叡福寺を訪ねました。磯長山叡福寺は聖徳太子の御墓がある寺院です。
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「河内国 上之太子 磯長山叡福寺縁起」には次のようにかかれています。

叡福寺は聖徳太子の墓前に営まれた寺院で磯長山と号する。この寺は戦後単立寺院となったが、もとは古義真言宗金剛峯寺の末寺で、所在地であるかっての郡名や地名に因んで石川寺・磯長寺などと称されていた。

また、聖徳太子の磯長墓を祭祀守護する性格の寺院であるところから太子寺・御廟寺・聖霊院の号もあり、四天王寺・法隆寺と並んで太子信仰の中核をなした寺院である。

なお、一連の太子建立伝説を持つ八尾市大聖勝軍寺の「下の太子」羽曳野市野中寺の「中の太子」に対し、「上の太子」と俗称されしたしまれている。

寺院の創立は明らかではないが、寺伝によると推古天皇三十年(622)聖徳太子の陵墓を守護し永く追福を営むために一堂を構えたのが当時の始まりで、神亀元年(724)聖武天皇の勅願によって伽藍を造営されたといわれ、もとは法隆寺のように東西両院からなり、東の伽藍を転法輪寺、西の伽藍を叡福寺と称したと伝えられている

現在の伽藍は天正二年(1574)織田信長の兵火で焼失したあと相前後して再建されたもので広大な境内には金堂、聖霊殿、宝塔などの同塔が建ち並び由緒ある寺院としての風格を保っている。

また、境内北方の高所に営まれた磯長墓は、推古天皇二十九年(621)崩御の聖徳太子の生母穴穂部間人皇后、翌年二月大和斑鳩宮において、時を同じくして、亡くなられた聖徳太子、同妃膳部大郎子の三人が一か所に葬られているところから、三骨一廟とよばれ、この墓前には空海・親鸞・良忍・一遍・日蓮・證空の諸賢聖のほか、名僧知識の参籠が多く、現在も太子に会わんがために善男善女の参詣が絶えることがない。

当寺には重要文化財に指定された絹本着色文殊渡海図、高屋連枚人(ひらひと)墓誌の他、数多くの貴重な文化財を所蔵している。精霊殿(太子堂)は慶長八年(1603)豊臣秀頼が伊藤左馬頭(さまのかみ)則長を奉行として再建したもので、桃山時代の特長をよく示しており、宝塔は承応元年(1652)に建立されたもので、いずれも昭和五十二年一月重要文化財の指定を受けている。

棟札によって競歩十七年(1732)の再建が明確な金堂(附棟札)、肘木絵様と木鼻が聖霊殿とよく似ており十七世紀前半を下らない建築と考えられる鐘楼は、共に平成十三年二月二日に大阪府指定文化財となっている。

また明治初期に塔頭、石塔律院跡から客殿庭園内に移建された巨大な石造五輪塔は、源頼朝の供養塔と伝えられ、鎌倉末期の優作として、昭和五十二年三月大阪府有形文化財の指定を受けている。

 聖徳皇太子御廟所 磯長山叡福寺

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階段を登ります。
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「縁起」を読みましょう。先に全文を紹介しています。
a0237545_21391015.jpg

宝塔です。

横を通り過ぎて、まっすぐ廟に向かいます。

階段を上ると廟所です。

a0237545_21410266.jpg

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此処に三人の棺があるのです。穴穂部間人皇后と膳部大郎女と聖徳太子。
「穴穂部間人皇后のために墓所を太子町太子の北側の丘陵斜面に決め、石室を築いた」との伝承があり、元々は母のために切り石の横穴式の墓を造っていたのです。

ふうん、すると推古天皇より古いタイプの陵墓となるはずですね。
叡福寺の寺伝では、「上宮太子を磯長陵に葬めまつる(書紀)」のあと、推古天皇の勅により、御廟を守るために叡福寺が建立されたとなっています。
しかし、古瓦や瓦器などは後世の物で、飛鳥から奈良時代のものは今のところ出土しておらず、7世紀前半に叡福寺が建立された証拠はないそうです。
更に
明治のはじめのころまでは廟内に入ることができたようです。明治12年に宮内庁から来て内部を記録した実検記が残されています。
それを読むと、聖徳太子の墓と決めてしまっていいのかなあと思います。もちろん、信仰上の廟所でもいいのですが、太子信仰とは切り離して考えると、この陵墓は新しいと思えるのです。


聖霊殿です。

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帰りの石段です。正面に何があるのかな?
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静かなたたずまいの町屋があります。
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聖徳太子信仰は今も根強いようです。
また、明日に続きます。



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by tizudesiru | 2017-09-06 23:39 | 280聖徳太子の伝承の嘘とまこと | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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204吉備真備の挫折と王朝の交替
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257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
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263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
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275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
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282呉音で書かれた万葉集と古事記
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