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241神籠石と古墳の石組みの技術

切り欠き加工が古墳に!
数年前に大野窟古墳のパンフレッツを見た時、え?と思いました。切り欠き加工が使われていたからです。
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パンフレットの画像を見たので、熊本県氷川町に古墳を訪ねました。この古墳は見学が可能です。なぜか説明板には円墳と書かれていますが、違っているようです。パンフレットでは前方後円墳ですね。
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入口
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羨道
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玄室の刳り貫きの家形石棺と石棚でしょう。
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側壁は少しずつせり出していて、持ち送りの技術が使われていますね。天井には巨石が置かれています。
井寺(いてら)古墳は同じような技術を使って、馬門石(ピンク石)=阿蘇溶結凝灰岩で石室が作られています。石室はベンガラが塗られているようです。井寺古墳の石室は鍵がかけられていて見学はできません。切り欠き加工を見つけやすいですね。側壁は持ち送りで石が組まれ、一番上には巨石が置かれています。
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この古墳は直弧文で有名ですね。画像は、古墳関係の本からいただきました。熊本ではかなり知られた古墳です。この紋様は石障に線彫され彩色されているのです。
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神籠石の水門に使われた切り欠き加工は、肥後の古墳の技術に使われていたのです。この石組みの技術が伝わったのは、もちろん両方の地域に深いつながりがあったからです。巨石の古墳も福岡に伝わっています。
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(番号はわたしがプレゼンする時に付けたものです)
福岡県の宮地嶽古墳は、6世紀後半の円墳です。相島の玄武岩を使った巨石の古墳です。欽明陵と言われる見瀬丸山古墳の次の長さをもと古墳で、日本では二番目に長いそうです。見学はできます、不動神社となっていますので。
大野窟古墳は、明日香の石舞台古墳より玄室の天井が高く、日本一だとか。

さて、今日は古墳の話ではなく、石組みの技術の話でしたね。古墳の石組が神籠石に使われたということは、肥後の技術が北部九州に伝わっていたということですが、それは、文化として伝わったのでしょうか。それとも、何らかの政治的変化の後に浸透していったのでしょうか。
気になりますね。鍵になるのは墓制でしょうか。先祖の霊を祀る方法が変わるとしたら、大きな社会的変革があったということでしょうから。わたしは、大きな変化が北部九州を襲ったと思います。
(旅行に行くので少しお休みです)


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by tizudesiru | 2017-04-09 23:59 | 241神籠石と横穴式古墳の共通点 | Comments(0)

240神籠石の水門の技術は共通する

神籠石・水門の石組みの技術は共通する
雷山・阿志岐・女山・おつぼ山・御所ヶ谷神籠石の水門を見ましょう。
雷山神籠石の北水門
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阿志岐神籠石の第一水門
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女山神籠石の水門
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おつぼ山の水門
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御所ヶ谷神籠石の水門
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御所ヶ谷神籠石の中門は、あまりにも有名です。この石組みは「布積の水門石積の後に、重箱積の石積が乗る」と報告者に書かれていました。つまり、途中で技術者の交替とか、時間の経過とか、指導者の交替とか、何らかの異変があったのでしょうか。長く忘れられていた遺構を別の時代になって再利用した時、前時代の技術は使わなかったなどなど考えられます。また、御所ヶ谷は列石でも不思議でしたね。切り石が版築の中に隠れている所と、版築の外に露出している所とありましたね。何らかの工事変更があるには、社会的な出来事がかかわったと思うのです。
それは何時の出来事か、そこはわかりませんが、少なくとも6世紀の出来事でしょう。6世紀の土器の欠片が出土するのですから。

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列石の写真で、共通する技術に気がつかれましたか?
それは幾度も出て来た「切り欠き加工」です。この技術は古代にしか使われていないそうです。それは何故でしょう。こうして千数百年も壊れずに残る技術なのに、何故伝わらなかったのでしょう。技術を必要とされる時代が終わったとか、別の地域に一斉に流れて行ったとか、技術者集団が全滅したとか、様々な理由があるのでしょうね。
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他にも、阿志岐神籠石(阿志岐古代山城)の水門には、階段状に少しずつずれて行く技法が使われています。「持ち送り」の逆ですね。持ち送りは徐々にせり出して最後に大石で抑えるという「古墳築造」の技術ですね。ただし、阿志岐山城の説明会の時、学芸員さんは「持ち送り」とか、「古墳の技術」とか、云われてません。これは、わたしのかってな意見です。「階段のように石組みがずれながら上がっていくのが特色」「切り欠き加工は古代にしか使われていない」「水門の石組みの技術で、鬼ノ城と共通するものもある」とは言われました。
では、次は古墳の技術と比べてみましょうね。
また、明日



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by tizudesiru | 2017-04-08 10:42 | 240神籠石の水門の技術 | Comments(0)

239神籠石は消されるのか

神籠石は何処へ消えた?!
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慣れ親しんだ神籠石系山城という歴史用語は、無くなるのでしょうか。確かに神籠石が世間に知られた時、高良大社の神域を囲む列石と古くから使われて来た「神籠石」という言葉が、混同して使われたので理解に混乱が生じたのでしょう。しかし、正史に登場する朝鮮式山城と区別するために、明治以来ずっと神籠石・神籠石系山城という用語が使われて来たのは事実です。しかし、何故か歴史学者の歯牙にはかかりませんでした。その存在を認めることは間違いでああるかのような意見は有りました。ほとんど地方(主に九州)の自治体が地域おこしのために時々使うマイナーな用語でもありました。もちろん、大野城や基肄城、鞠智城といった正史に残る山城のイベントとは比べられないほど小さなものだったと思います。
そのささやかな歴史さえも、突然、奪われようとしていると、わたしは思いました。つい一年前の山城シンポでさえ、若い研究者が馬鹿にした笑いで「僕は神籠石は大野城より新しいと思いますよ」と、これまた若い研究者仲間に喋り掛けているのを見ました。そばを通り抜ける時、「ああ、やはり神籠石について考えてくれる人はいないのかな。九州になんで神籠石が集中するのか、少しは考えてほしいな」と、非常に残念に思いました。しかし、一転、「古代山城」という一語で、朝鮮式山城も神籠石もひとくくりにされてしまったのです。いつの間に? 何があったというのでしょう。分けて考えて来たのではありませんか、今までは。なぜ、急に変わったのでしょう。それも、近畿政権の建造物だったとは、仰天の展開ですよ。つい昨年まで、下の画像のように、朝鮮式山城と神籠石系山城は分けて示されていました。資料は、山城シンポジウムだったと思います。
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列石と版築を持つ神籠石系山城は九州から瀬戸内に分布します。それも絶妙な位置に置かれているのです。例えば、おつぼ山神籠石、帯隈山(おぶくまやま)神籠石、御所ヶ谷神籠石は一本の直線で結ぶことができます。その山城の高所にピンを立て直線で結べばいいのです。誰にでもできます。
驚いたのは、この直線がほぼ夏至の日の出のラインだったからです。
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夏至の日の出は、冬至の日没のラインでもあります。東西のラインは春分秋分の日の出・日の入りのラインではありませんか。南北のラインは、太陽が毎日南中するラインです。そこに、神籠石系山城があるのは、非常に驚きでした。これは、自著「太宰府宝満沖ノ島」でも取り上げたと思います。
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これらの神籠石に共通する列石を見てみましょう。
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雷山神籠石の列石。番号は昨年の講座(市民センターであった)で、わたしが使ったスライドの番号です。写真の日付けは、撮影に行った2013年です。写真を撮るには冬がいいかなと思います。ただ、一人で行くのは危険だと思います。
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杷木神籠石の列石は、江戸時代に筑後川の工事に使われたらしくほとんど抜き取られています。大石堰は五庄屋の伝承と共に大変な工事だったようです。古墳の石室も壊されたとか…
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鹿毛馬(かけのうま)は歩きやすく、40分ほどで列石を一周できます。列石はほとんど残されています。

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御所ケ谷神籠石は、様々な時代がごちゃ混ぜに盛り込まれた神籠石です。途中で工事の変更もあったとか…

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女山(ぞやま)神籠石には切り欠き溝がはっきりと残っています。

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高良山神籠石が、神籠石という用語の発祥の地です。列石は高良大社(延喜式内社・筑後国一宮)の神域にほぼ重なるそうです。

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阿志岐神籠石(阿志岐古代山城)の列石は、二段に積まれている場所があります。丁寧に敷石もしかれています。急斜面を列石が滑り落ちないようにしているのでしょう。もちろん、一段の列石もあります。
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唐原神籠石は見学できませんでした。ここは列石が抜き取られた跡が残っていました。抜き取られた石が中津城の石垣に転用されているということでした。


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列石の共通点は見つかりましたか。いずれも切り石でした。切り欠き溝がありましたね。版築のための木材を据えるて見のものだそうです。
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雷山神籠石の説明板によると、切り欠き溝が彫られた理由が分かります。下は、御所ヶ谷神籠石の報告書の中の説明図です。イラストををデジカメで撮りました。
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次は、水門をみましょう。
また明日。




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by tizudesiru | 2017-04-08 00:23 | 239神籠石は消された? | Comments(0)

235 基肄城の水門石組

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235 基肄城の石組み

   そして、瓦のなぞ
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絵地図の現在地と云う所に来ました。*基肄城は福岡・佐賀の両県に属しています。
日本書紀には「天智四年秋八月(665)に、逹率億礼福留(だちそちおくらいふくる)・達率四比福夫(だちそちしひふくぶ)を筑紫国に遣わして、大野及び椽(き)、二城を築かしむ」と記録があります。
達率とは百済の冠位(高官)です。
さて、百済は660年には滅びていましたが、救援を求められた倭国は出兵し大敗したのが663年でした。664年に水城を大宰府に築き、翌年に大野・基肄城を築いたとなっています。
では、百済の高官の指導で作られた石垣を見てみましょう。

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石組みはこの狭い谷に在ります。右は急な崖で間に谷川が流れ、左に石垣があります。
この川は高原(たから)川と云います。高良山神籠石の高良川とも似てますね。

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これは案内板の写真です。修復前でしょうかね? 
数年前に修復されていますので、下が現時点での写真です。
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水門です。人が通り抜けできるほどの広さがあります。この石組みは山側と麓側の間に柵のようになっているのです。山側に入り石組みの裏を見ると、人家があり石垣が組まれていました。
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昔は、谷全体に橋のように石柵があったのでしょうか。分かりません。
裏側(山側)から水門を見ました。大きな底石が見えます。きちんと大石を組んで
作られていました。
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麓側の人影が見えますね。
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山側から水門を見た写真です。小石が多く積まれているのは、人力で運ぶのによい大きさだったからでしょうか。あまり上手な組み方には見えませんね。神籠石の水門や列石はなかなか丈夫にできていますからね。
これを見ると大野城の百間石垣が浮かんできますね。あれは、確か「白村江敗戦後に慌てて作ったので石組みが乱雑になっている」と中学社会科で教わりました。ここも同じく乱雑なのでしょうか。
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ここには米倉もありました。倉庫群と呼ばれるところの礎石群です。郡衙も掘立柱建物だったのに、山城は礎石建ちだったのですね。 むむむ…
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というわけで、小郡市の埋蔵文化センターに展示されている基肄城の瓦の写真に戻ってきました。これを見るたびに、山城に瓦を葺く不思議を思うのです。
大事な役所を飾るのではありません。誰も見ない(?)山城を飾るのです。
山城で鍛冶を行ったという事実もありますし、山城の不思議はまだ続くのでしょうね。

では、大野城の百間石垣もついでに見ましょうか。
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ここにも川が流れています。
では、また
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by tizudesiru | 2017-03-06 11:27 | 235 基肄城の水門石組み | Comments(0)

223古代山城シンポジウム

223 ほんとに変わりました!

古代山城シンポ!

2017年2月18日~19日の九州国立博物館と熊本県境域委員会の合同シンポジウム、ほんとに変わりました。今まで、まともに取り挙げられて来なかった神籠石について論議されていました。

それも、王権側の公的な遺構だとして。
驚き桃の木!!!でした。あれほど言及を避けて来た神籠石が、一転ヤマト王権側の山城だった!!??
驚きませんか?

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昨年も、熊本のパレアホールでこのシンポジウムはありました。発表者が若い研究者だったので非常に面白かったです。それで、今年も参加しました。今回も若い研究者の発表で内容的にもすごく面白かったですね。ただ、急に神籠石を論議に入れた経過は何も語られませんでした。
むしろ神籠石という呼び名を早く無くさねばならない、古代山城として「ひとくくり」にすべきだという言葉が飛び交いました。
神籠石・古代山城については、わたしも何度もブログに取り上げ、自著「太宰府・宝満・沖ノ島」でも自分なりの考えを紹介しています。
しかし、ヤマト王権側の遺構だということは書いていません。思ってもいないからです。
朝鮮式山城の前身として、同じ地に山城が造営されていた可能性は指摘しています。そこに、後にヤマト王権側が朝鮮式山城を築いたのだと。
そこは、もともと九州の権力者の山城として築造されていた可能性があると。

昨日は撮影可能でしたので、デジカメ写真を使いながら内容を少し紹介しましょう。

今回のシンポジウムは「徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生」という表題でした。
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正史に出てこない神籠石は〇で、朝鮮式山城は■でポイントされています。これは、斉明天皇の橘廣庭宮は大宰府にあったという説を出された研究者の基調講演での画像です。
大野城の太宰府口城門址から出土した木柱の年輪年代についての確認がありました。わたしも自著に書きましたが、既に多くの人が650年ごろの伐採の木(コウヤマキ)であることは知っています。水城の築造年代(665年)と15年のズレがありました。しかし、切った後に他の部材として使われていた可能性、伐採後に乾燥のために数年ねかされていた可能性も否定できません。
しかし、木柱には他の部材としての加工跡が見られなかったこと、コウヤマキは木の特色として伐採後にすぐ使える材だそうで、乾燥時間を取る必要はいらない、ということでした。では、大野城築造のために伐採した木材と云うことですね。
また、このコウヤマキの年輪は近畿地方の気候の変動にぴったり重なるそうです。もしかして、近畿から運ばれた木材ではないかということでした。はあ? では、いかなる理由でわざわざ城門の木材を運んだのでしょうね。
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(版築で水城を築いている想像図です。)
同じ研究者から次のような指摘があります。「昨年、筑紫野市の前畑遺跡が羅城の土塁ではないかという見方がだされた。羅城とは都城の外城である。仮にその羅城が大宰府地域に囲繞されていたとすると、水城から大野城・基肄城などを取り込んだ都城の構想が664年段階ですでに実現されていたことになる。そのようなマスタープランはいつ構想されたことになるのだろうか。また、羅城で守護される主体はどのような人たちであったのかという興味がますます湧いて来る。」 全く納得の御指摘です。続いて、次のように書かれています。
大宰府は百済の泗沘東羅城の敷葉工法が水城土塁の工法にも共通することからも、強い関連性が指摘される。一方で、新羅の王都である慶州にもその山城の配置など類似点を指摘でき、羅城は設けられていないことを以前に指摘した。今後も構想だけではなく明瞭な羅城遺構の存在によって議論は深めなければならないと思う」
大変面白いですね。王都とはその国の首長が住む宮殿がある場所です。首長は畿内にいたのに、王都は九州なのですか? 理解しかねますけど、面白いですね。
この話は、基調講演なのです。このシンポジウムはいろいろな意味で大変素晴らしかったです。

ご希望があれば、山城シンポ、また書きましょうね。



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by tizudesiru | 2017-02-20 11:30 | 223古代山城シンポジウム | Comments(0)


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150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる

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