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橘諸兄左大臣の願い

玉津岡神社の御祭神は女神(下照比売)
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下照比売命(欽明天皇元年八月玉津岡の南に降臨され、聖武天皇天平三年九月井隄左大臣橘諸兄公が現在の地に遷座し今日に及ぶ。歌道女徳を養い家内の和合を守らせ給ふ御神なり)
摂社の祭神は次の通りです。 天兒屋根命(元 春日社)、少彦名命(元 田中社)、素盞鳴男命(元 八坂社)、味粗高彦根命(元 天神社)、明治十一年に四社をその時の八王子社殿(玉岡の社)に合祀し、翌年玉津岡神社と改称したと説明板がありました。
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本殿の千木は男性の神様の千木のようですね。ま、祭神の入れ替わりなどが在ったかも知れないから何とも言えませんね。明治になっても此処は残されたということはわかりました。
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参道の先には井出の玉川が見えています。いにしえの人はこの坂道を上って来たのでしょうね。諸兄は恭仁京を近くに建設しようとしました。
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(画像はNHKのテレビ)
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吉備真備が孝謙天皇を支え、橘左大臣が聖武天皇を支えました。藤原広嗣の乱後、聖武天皇は平城京に5年間戻りませんでした。左大臣として諸兄は天皇に仕え続けたのです。光明子はひとり平城宮に留まることもありました。夫婦にも大きな危機でもあったのですね。


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by tizudesiru | 2017-06-11 21:29 | 253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ | Comments(0)

橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ

橘諸兄左大臣、黄泉国に遊ぶ
井出の玉川は歌枕の地として有名ですが、橘諸兄左大臣の邸宅もありました。左大臣はこの地に山吹の花を植えました。なぜだと思いますか? 山吹は黄色で、あの世を意味するのです、黄泉を。
高市皇子の「十市皇女が薨去した時の歌」がありましたね。
158 やまぶきの立ちよそいたる山清水 汲みに行かめど道の知らなく (山吹が咲き乱れているという黄泉の国の山清水を酌んで貴女に差し上げたいのだけど、そこへ行く道が分からない)
山吹が「黄泉の国」を意味していると、当時の教養人は誰もが知っていました。
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(井出の玉川)
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この地に屋敷を構えた橘諸兄は、聖武天皇の皇后・光明子の実兄でした。県犬養美千代が美努王との間に産んだ子どもです。県犬養三代は藤原不比等との間に光明子を生みました。聖武天皇の乳母でもあった美千代は、光明子と共に首皇子(聖武天皇)にも授乳したのです。首(おびと)皇子の母の藤原宮子は、心の病になっていましたから、吾子を抱くこともできませんでした。首皇子にとって県犬養美千代は本当に母替わりだったのです。
そんな美千代の子どもが葛城王(橘諸兄)と佐為王でしたから、藤原四兄弟が流行り病で没した後は自然に諸兄が権力の座に登りました。諸兄は、参議、大納言、右大臣、左大臣と出世していきました。参議の時、『橘』姓を承けています。孤独な聖武天皇は諸兄を信頼し、諸兄も聖武帝を守りました。
聖武帝に後継者問題が出てきたとき、諸兄は阿倍内親王(孝謙天皇)ではなく、長屋王の残された子ども「黄文王」がふさわしいと考えたようです。阿倍内親王に独身を強要するより、天武朝の弥栄の為に高市皇子の系統の黄文王がふさわしいと考えたのでしょう。黄文王は藤原不比等の娘が生んだ子供だったので、藤原氏にとっても、そう悪くない話だと思ったのでしょうが…
結果として、阿倍内親王が立太子されました。宴席での諸兄の愚痴が告げ口されますが、聖武天皇は笑って相手にされません。しかし、それを知った諸兄は己を恥じて左大臣を辞職しました。

井出の地で山吹を植え続けて、諸兄は黄泉の国を作りました。こんな父を見ていた息子の橘奈良麻呂です。彼が父の死後、謀反するなど考えられないことです。不満はあったでしょうが、父の姿を見ていたはずですから、孝謙天皇を守ろうとはしたでしょう…
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藤原広嗣の乱(740)の時、動揺した聖武天皇を諸兄は支えました。井手の玉川を取り込んだ恭仁京の建設もその一つだったのでしょう。頼りにしていた元正天皇崩御(748)の後も、しかし、諸兄は左大臣を辞任(756)しました。翌年(757)一月橘諸兄薨去。その七月、奈良麻呂謀反という思いもよらぬ展開になるのです
井出の玉川、ここが黄泉の国に遊んだ橘諸兄左大臣の住んだところだったからこそ、たくさんの文人、西行や芭蕉などを引き付けたのでしょう。彼らも黄泉の国を見たでしょう。今は、桜の名所ですが。
井出の玉川、清々しさと哀しさと、そんな思いが交錯するところです。


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では、橘諸兄が信仰した玉津岡神社に出かけてみましょうか。



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by tizudesiru | 2017-06-10 21:30 | 253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ | Comments(0)

186聖武帝の不運と不幸(3)

186聖武天皇の不運と不幸

聖武天皇の不幸は上げればきりがありませんが、その不幸の中で唯一心許せる人物がいたとしたら、橘諸兄でした。その変わらぬ忠誠心を信頼していたのです。「橘は」の歌は元正太上天皇の御製歌という説もあると左脚に注があります。

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1009 橘は実さえ花さえその葉さえ ()に霜降れどいや常葉(とこは)の木

橘は実も花も素晴らしい。その葉は霜が降っても決して変わらず青々としてますます栄えて行く木である。(まるで汝の変わらぬ忠誠心のようではないか)

その忠誠心のまま、諸兄は聖武帝に仕えました。ただ、聖武帝は娘の阿倍内親王に譲位しようと考えていました。そうすると、天武朝の皇統が消えてしまうと諸兄は心配していました。

天平十八年正月・太上天皇(元正)の御在所に雪を払いに行った後の宴席で

橘の諸兄が詔に応えて詠みました。

3922 降る雪の白髪までに大皇(おほきみ)もあ

降る白雪のように白髪になるまで大王にお仕えいたしますことは、何ともありがたく尊いことであります。

橘諸兄は元正太上天皇にも信頼されていました。太上天皇が天武帝の皇子に皇統を継がせたいと内心考えておられることも知っていました。

「天武朝の皇統を守りたい」というのは、壬申の乱で活躍した氏族の願いでした。当然、大伴氏もその考えでしたので、諸兄と親交があったのです。

しかし、藤原氏と光明子が許しません。聖武帝は、内親王に譲位しました。

その後、安堵した聖武太上天皇が諸兄宅に招かれました。

そこで、諸兄の子・橘奈良麻呂が詠みました。

1010 奥山の真木の葉しのぎ降る雪の降りは増すともつちに落ちめやも

奥山の雪は真木でさえ葉をしのぎ押伏せるでしょうが、どんなに雪が降り積んでも橘の実は土に落ちたりいたしません。

こんな橘氏が邪魔でないわけがありません、藤原氏にとって。

だから、橘奈良麻呂の謀反事件は起こりました。

748年 元正太上天皇没

756年 聖武太上天皇没 遺詔により道祖王を立太子

757年 一月橘諸兄没 七月橘奈良麻呂の謀反発覚

先手を打たねばなりません。やはり、諸兄(もろえ)半年後に陰謀の結果が出ました。半年後の法則です。拷問で自白させられた小野東人の告白により、有力者が獄に命を落としました。

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聖武太上天皇の遺言で皇太子になり廃太子されていた(ふな)()も 絶命

佐伯(さえき)大伴氏同族た。佐伯(さえきの)全成(またなり)顛末自白自害た。

大伴家持は既に藤原氏に近づいていました。


しかし、この事件は決定的に家持に深い傷を残したのです。

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奈良麻呂の謀反発覚の前の家持の歌

奈良麻呂の謀反発覚後の藤原の仲麻呂と淳仁天皇(まだ皇太子)の歌

ここに集約された藤原氏側の陰謀の証明

これらの歌については、いずれ触れましょうね。

そして、今年の最後の歌は、大伴家持の万葉集最終歌です。


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何もかも世の中は思い通りにはならず、大切にしていた友と主を亡くし、心あるものは命を奪われ、権力を振り回すものには物事の本質が読めず、弱いものは消されていく。

絶望に満ちた世で生きて行くのは、何のためなのか。


それでも、家持は言霊の力に一筋の望みを託して詠みました。

どうぞ良いお年を。


新しき年の初めの初春(はつはる)今日降()(ごと)








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by tizudesiru | 2016-12-31 14:32 | 186 聖武天皇の不運と不幸 | Comments(0)

186聖武帝の不運と不幸(2)

186 聖武天皇の不運と不幸(2)

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即位して間もない時に起こった「
長屋(ながやの)(おほきみ)の事件(729)」は、聖武天皇にとって衝撃だったでしょう。

太上天皇と長屋王の佐保(さほ)の新築の館に招かれて、楽しい宴会をした後の事件でしたから。元正太上天皇にとっても辛い出来事だったと思います。

それでも、元正太上天皇は聖武天皇を「我が子」として大事にしました。

太上天皇にとっては弟の文武天皇の忘れ形見であり、聖武天皇も優しい人がらだったようです。

元正太上天皇は、母の元明天皇の意思を甥に伝えることが使命でもありました。それは、確実に伝えられたと思われます。

それは、即位後の行幸を見ればわかります。

聖武天皇は即位(二月)

持統天皇の形見(かたみ)の地「吉野」に行幸(三月)

紀伊国行幸(十月)文武天皇・元明天皇、持統天皇・有間皇子の形見の地

聖武天皇の紀伊国行幸は「持統天皇最晩年の大宝(たいほう)元年(がんねん)(しん)(ちゅう)冬十月」と同じ季節に同じ場所を訪ねたのです。それも長い滞在でした。

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紀伊国では、頓宮(かりみや)位階名草(なぐさ)海部(あま)地名ゆえ手厚想像

そして、長屋王の変(729)

元正太上天皇と目指すべき方向を見定めていたのに、聖武天皇は残念だったと思います。

長屋王を(きゅう)(もん)した舎人(とねり)皇子・新田部(にいたべ)皇子・多治比(たじひの)池守(いけもり)藤原武智(むち)()()小野牛(おのうし)(かひ)す。吉備(きび)内親王・膳夫(かしはで)王・桑田(くわた)王・葛木(かつらぎ)王・(かぎ)(とり)四人男子た。「吉備内親王藤原氏の「藤氏家伝書」には、長屋王の変には一切触れていません。武智麻呂自分にかかわることなので書かなかったのです。

絶頂期に藤原四兄弟死す

天平七年(735)新田部皇子没・舎人皇子

天平八年(736)葛城王臣下に降下、橘氏の姓を賜う(橘諸兄)

天平九年(737)藤原房前・藤原麿・藤原武智麻呂・藤原宇合四兄弟没

光明子の兄の藤原四兄弟が天然痘で世を去ります。



聖武天皇と橘諸兄との蜜月


橘諸兄は、(あがた)犬養(いぬかいの)三千代(みちよ)()()二人た。父違光明子兄弟死後、橘氏当然


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葛城王が臣下に降下した時の聖武天皇の御製歌があります。

橘は実さえ花さえその葉さえ枝に霜降れどいや常葉(とこは)

天平勝四年(752)の御製歌は、阿倍内親王に譲位して太上天皇となった聖武帝が諸兄の宅で詠んだものです。

橘奈良麻呂(諸兄の子)と左大臣(橘諸兄)が応えて歌を詠みました。

大伴家持も同席していました。諸兄は左大臣まで上り詰めて、聖武帝を館に招くほど力もあったのです。

聖武帝と諸兄とを深く結びつけたのは、

天平十二年(740)藤原広嗣の乱だったでしょうか。

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広嗣の乱の後、聖武天皇は長く彷徨います。
平城宮を出て、紫香楽宮、恭仁宮…と京が変わるのでした。諸兄はその聖武帝を支え続けたのでした。

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もちろん、藤原氏は次の手を考えていました。




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by tizudesiru | 2016-12-31 01:22 | 186 聖武天皇の不運と不幸 | Comments(0)


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192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
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197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
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203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
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221斑鳩寺は若草伽藍
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251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホンマかいな?ホケノ山古墳
259王権と高市皇子の苦悩

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