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柿本朝臣人麻呂と玉津島

玉津島磯の浦廻の真砂にもにほひてゆかな妹も触れけむ
この歌は、すでに紹介しました。万葉集巻九の挽歌の冒頭五首は「右五首、柿本朝臣人麻呂歌集に出」と左脚があり、人麻呂歌集(人麻呂自身の作歌)の歌です。それは、「宇治若郎子の宮所の歌一首」と「紀伊国に作る歌四首」の合わせて五首でしたね。
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宇治若郎子の宮所の歌は、
1795 妹らがり 今木の嶺に茂り立つ 嬬待つの木は古人見けむ
紀伊国に作る歌は、
1796 黄葉葉の過ぎにし児らと携はり 遊びし磯を見れば悲しも
1797 塩気立つ荒磯にはあれど往く水の過ぎにし妹が形見とそ来し
1798 いにしへに妹とわが見しぬばたまの黒牛形を見ればさぶしも

1799 
玉津島磯の浦廻(うらみ)の真砂(まなご)にもにほいて行かな妹も触れけむ
上記の四首は、持統天皇の死後に人麻呂が紀伊国を訊ね、持統天皇の形見の地で霊魂に触れ、元明天皇に『初期万葉集』の奏上をしてもいいのか(文武天皇が崩御された後なので元明天皇に)霊魂に訊ねに行った旅だと、わたしは書いています。その事は既に紹介しました。
人麻呂が紀伊国に旅したのは、「過ぎにし妹」の形見の地を訪ねた時ばかりではありません。大宝元年(701)辛丑冬十月、持統天皇と孫の文武天皇に従駕して紀伊國に来ています。この時は、有間皇子の所縁の地を訪ねる旅で「結松」を詠みました。人麻呂は有間皇子事件には遭遇していませんから、「又も見むかも」とは人麻呂の心境ではなく、皇子の所縁の人に代わって詠んだものとなります。つまり従駕した太上天皇の思いに重ねて詠んだのでした。

146 後見むと君が結べる磐代の子松がうれを又も見むかも
無事に還って来た後にまた見ようと、皇子が結ばれた磐代の松が枝、あの無念の結松の枝をわたしは再び見ることがあろうか

そして、最晩年の持統天皇の「最後の紀伊国行幸」は、有間皇子への別れの儀式でもありました。この旅には孫の文武天皇も同行しました。文武帝とは途中で合流したのかもしれませんが、一行は、黒牛方・藤白坂・白崎・牟婁の湯と所縁の地を訪ねています。玉津島は紀の川の河口にありますし、景勝地ですから、行幸の人々が立ち寄ったと思われます。小さな島には宿泊は無理でしょうから、行宮は湾の玉津島が見える辺りに作られたのでしょう。
山部赤人が「雑賀野ゆ そがひに見ゆる沖津島」と読んでいますので、聖武天皇の時代には雑賀崎側に行宮はあったのです。更に「神代よりしかぞ貴き玉津島山」とその長歌を結んでいますし、「和歌の浦に潮満ち来れば」と反歌も伴いますから、赤人の見ている風景と人麻呂が「玉津島磯の浦みの真砂にも」と詠んでいる風景は、重なるはずです。二人が詠んだのは、同じ風景でしょう。
「神代よりしかぞ貴き」とは、聖武天皇の先祖(天武・持統)の時代からずっと尊い地であるというのです。つまり神代である持統天皇の時代からこの地に天皇が代々訪れていたので、ここが尊ばれたということなのです。
妹も触れけむ」と詠まれた真砂は、塩気立つ片男波の砂嘴の砂だったのでしょうね。
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(古墳時代の紀ノ川)
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(今は紀ノ川の流路は変えられている)
万葉集には玉津島の辺りを詠んだ和歌は多く残されていますが、祀られた神に関するものは有りません。玉津島神社の信仰はいつ始まったか分かりませんが、万葉集巻七の1216に、
潮満たばいかにせむとか海神(わたつみ)の神が手渡る海人娘子(あまおとめ)ども
という歌があるように、もとは海神の男神が祭られていたのかも知れません。それが女神に代わったとなれば、神代(持統帝のころ)となるのでしょう。
わたしには持統帝か文武帝により衣通姫の伝承が持ち込まれ「稚日女尊」として祭られたのではないかと思えてなりません。もちろん、有間皇子を追ってきた間人皇后がモデルです。(紀伊國の道成寺の「安珍清姫伝承」にも、間人がモデルとなったのではないかと、間人皇后が追って来た話と重ねて読んでしまうのです。道成寺は文武天皇が藤原宮子のために建てた寺となっていますが、この寺のご本尊の視線は真っ直ぐ岩内一号墳に向いているというではありませんか。岩内一号墳は有間皇子の墓と言われている方形の古墳です。紀伊国行幸の後、文武天皇が有間皇子の墓を改装し、寺を建てたと考えられなくはありません。もちろん、ゆかりの人だからです。)
持統帝が紀伊国行幸で文武帝に見せたかったのは、有間皇子の所縁の地と結松、藤白坂でした(紀伊國十三首で紹介しました)。
稚日女尊が祭神であることを十分承知していた光孝天皇が、あえて衣通姫を合祀したのは、持統帝や文武帝の紀伊国行幸の故事を踏まえてのことだったと思うのです。
また。


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by tizudesiru | 2017-04-22 21:21 | 243 柿本人麻呂と玉津島 | Comments(0)

213柿本朝臣人麻呂、近江京を詠む

柿本朝臣人麻呂、近江京を詠む
人麻呂は持統天皇にすべてを捧げて尽くした官人でした。公の儀式の場で歌を詠み、皇族の葬儀でも挽歌を詠んでいます。
人麻呂が近江京を感傷する歌を詠んだのは、持統天皇の御代でした。
持統天皇はこの歌をどんな思いで、どんな顔をして聞いたのでしょう。微笑んだのか、涙を流したのか、知りたいものです。

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人麻呂が荒れた近江京を感傷する歌を詠んだのは、持統天皇の御代です。万葉集巻一「藤原宮御宇天皇代」の冒頭は、持統天皇の御製歌です。
28 
春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香来山
この歌に続くのが、29番の 「近江の荒都を過ぎる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」です。
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持統天皇が大津の宮を偲んだという、そこに込められた思いは何でしょうね。
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(大津の錦織遺跡の掘立柱跡)

人麻呂の歌から、中大兄が何者であったかが、読み取れます。では、
玉だすき畝傍の山の橿原の→神霊漂う畝傍山の聖なる橿原におられた
日知の御代ゆ→日を知る(暦を知る・聖ヒジリでもある)王の御代からずっと
あれましし神のことごと→お生まれになった神々(日知王)の悉くが
樛の木のいや継ぎ継ぎに→つがの木のように次々に続けて
天下知らしめししを→
大和で天の下をお治めになったのに
?????????そうです。
すると、天智天皇の皇統は
、いわゆる神武天皇に始まり、大和を治めて来たということです。

始まりは、天照大神だとは言っていません。
伊勢を目指した天武天皇とは祖先の扱いが違うのです。
どいうこと??
天智天皇は、カムヤマト磐余ビコの皇統だと、確認しておきましょうね。

これは、重要な歌ですね。人麻呂は、皇統の出自を歌っているのです。
そらみつ大和をおきて→それなのに、神武以来の大和を捨てて
あおによし平山(ならやま)を越え→
青土を平らに「ならす」と同じ「なら山」を越えて
いかさまに思ほしめせか→
いったい何と思われたのであろうか
天離ひなにはあれど石走る淡海国の楽浪の大津宮に天下知らしめしけむ→
都から遠い田舎の、水が滔々と流れる淡海国の楽浪郡の大津の宮で天の下をお治めになったという
天皇の神の御言の大宮はここと聞けども→
その天皇の神命の大宮はここだと聞くけれど
大殿はここと云えども春草の茂く生いたる→
大殿はここだというが、そこには春草が繁茂する
霞立つ春日の霧れる→
そこは、白く春霞がかかったように涙に曇ってよく見えない
百磯城の大宮処見れば悲しも→あの素晴らしかった大宮の址を見ると、万感の思いが寄せて来て悲しい
この後に「反歌」が二首続きます。人麻呂は、反歌と短歌を使い分けています。長歌の後に、長歌と同じ内容を繰り返し歌うときは、反歌です。内容が重複しないときは、短歌となります。
ここは、反歌ですから「大津宮とすぎにし大宮人を偲ぶ歌」として反復していることになります。
更に、題詞が「近江の荒都を過ぎる時」と地名が先に書かれ、人麻呂の名は後に有ります。
このように歌人が後にくる場合は、公の場での詠歌だそうです。
ですから、この歌は公の場で献じられたのです。もちろん、持統天皇に。
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持統天皇はこの歌をどんな思いで、どんな顔をして聞いたのでしょう。微笑んだのか、涙を流したのか、知りたいものです。
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また明日

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by tizudesiru | 2017-02-09 11:05 | 213人麻呂、近江京を詠む | Comments(0)

204淳仁天皇の甥・和気王の謀反

204政変の果てに


藤原仲麻呂のの反乱で、藤原氏の氏族内の権力争いが決着したのではありません。まだ、聖武天皇と犬養広刀自との間に生まれた三人の子どもたちが残っています。称徳天皇には後継者はいませんから、誰が次の玉座に昇るのか、都には噂ばかりではなく呪詛も充満したことでしょう。

天武系の王子達も、密かな期待を持ちました。
和気王も舎人皇子の孫であり、淳仁天皇の甥であることから皇位を望んだようです。

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天平宝字八年(764)仲麻呂の乱は鎮圧されました。
和気王は淳仁天皇の甥でしたが、臣籍降下していました。
舎人親王に崇道盡敬皇帝の尊号が追贈されると、和気王は皇籍に戻っています。

淳仁天皇としては舎人親王に「天皇」と追贈したかったのですがかなわなかったのです。天皇と皇帝では、意味が違ったということです。

祖父の舎人親王の歌は万葉集に三首残されています。
万葉集の時代には、叙景歌はほとんどないとされます。純粋に景色や風景のみを詠むことはないのです。詞の中に意味があり、出来事や神事が詠みこまれて叙事詩となっているのです。すると、舎人親王の歌も、ただの叙景詩ではありませんね。

1706 黒玉の夜霧ぞ立てる衣手の高屋の上にたなびくまでに

この歌は、「右、柿本朝臣人麻呂の歌集に所出」と書かれた歌群(1682~1709)の中にあります。1704と1705は、人麻呂が舎人皇子に献じたものです。次が、1706で舎人皇子の歌と続いています。

    
「舎人皇子に献ずる歌二首」
1704 
ふさ手折り多武の山霧繁みかも細川の瀬に波の騒げる
1705 
冬こもり春へを恋ひて植えし木の実になる時を片待つ吾ぞ
人麻呂は舎人皇子に何を伝えようとしているのでしょうね。

1704 
木の枝をためるという「たむ」と同じ多武の山の霧が深いからだろうか、細川の瀬の波が立ち激しい音を立てている。
1705 
冬の間に春になったらと期待して植えた木に、花が咲いて実がなる時をただ待ち続ける私なのだ。
多武の峯には藤原氏ゆかりの談山神社があります。多武山は藤原氏を意味しているのでしょう。藤原氏の権力への欲望はその山霧のように深く、細い山川は瀬の音高く事件が起こりそうだと騒いでいる、とでも読めそうです。

更に、まるで冬のような時に何をしてもうまくいかない、春になったらと期待して実のなる木を植えておいて、花が咲いて実になるまでただひたすら待ち続ける以外に道はない、それが生き残る道なのだから、と人麻呂が伝えていると読めませんか。

そうして、次に舎人皇子の1706の歌です。
1706 ぬばたまのように黒い夜の暗闇に霧が立ち込め、高い館の上までも包みたなびいている。こんなに夜霧が深ければ、私には何も見えないし、何もすることはできない。
舎人皇子は、自分の置かれた状況を冷静にしかも正確に把握していたのでしょう。
しかし、子の淳仁天皇も孫の和気王も的確な判断ができなかったのか、または藤原氏の方が一枚上手だったのか。
哀しい結果となりました。

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また、明日






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by tizudesiru | 2017-01-25 00:59 | 204和気王の謀反 | Comments(0)

193人麻呂編集の万葉集

193人麻呂編集の万葉集

初期万葉集は有間(ありま)皇子事件を意識していると、既に書きました。

それは、巻一と巻二の冒頭を見ればわかってきます。


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1 雄略帝(
大泊瀬稚(おおはつせわか)(たけ)天皇)の歌

2 舒明帝((おき)長足(ながたらし)()(ひろ)(ぬか)天皇)の歌 *間人(はしひと)皇后の父

3 中皇(なかつすめら)(みこと)間人連(はしひとのむらじ)(おゆ)に献じさせた歌 *中皇命は間人皇后

4 反歌

(5 軍王の歌・6 反歌)この歌については別の機会に触れます

前記のように並んだ後に、一気に「有間皇子謀反事件」関係の歌に突入するという並びだったと思います。

つまり、1、2、3、4、(5、6)7、9、1011128、と並んでいたと思うのです。あくまで、そう思うだけです。時間軸で考えれば。ただ、熟田津が四国の港ではなく、難波のにぎやかしい港であったなら、この順番は変わるでしょう。

というのは、8番歌の左脚に類聚歌(るいじゅうか)(りん)からの長々とした説明が引用してあるからです。

内容は「舒明天皇がその元年(639)に大后と共に伊予の湯に行幸された。その後、斉明天皇七年(661)に熟田津の(いは)()の仮宮に泊まり、昔日の想い出のものを見て、(かん)(あい)(こころ)を起こされた。この故によりて天皇が御歌をつくり哀傷(かな)しまれた。

その哀傷の歌が「熟田津に船乗りせむと」という堂々とした歌だというのです。本当に、この歌なのでしょうか。

色々考えるべき点はあるのですが……



巻二は、仁徳天皇の皇后・磐之姫で始まりますが、その歌が仁徳天皇(難波高津宮御宇天皇)代ではなく孝徳天皇(難波長柄豊崎宮御宇天皇)代であったなら…と、両天皇が入れ替えられていたのなら、間人皇后が磐之姫皇后に、すり換えられていたら…やはり、有間皇子事件に行き着きます。

わたしは、後の世の人が、「難波天皇には違いないが、長柄を高津に入れ替えた。間人皇后とは書かず中皇命と書いた」と思うのです。

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更に巻二の挽歌の冒頭の扱いです。

もともと万葉集には、事件と人が分かるように歌が掲載されていたと思います。しかし、高貴な人の手により、主役が消された。

そこに、大きなスキャンダルが隠れていると、私は考えたのです。

中皇命の実名が一度も出てこないのは、高貴な女性だったからです。

天皇・皇太子・皇太后・帥・大臣・〇夫人などの表現も人名を裂けています。が、当時の人には人物が特定できたのでした。万葉集が分かりにくいのは、「いつ誰が何の(誰の)ために編纂したのか」見えにくいからです。これは、万葉集を読む時、常に大きな問題でした。

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持統天皇が人麻呂に詔して鎮魂の歌集を編纂させた」ようだと、ここまでは述べてきました。

誰のための歌集なのかも述べたつもりですが、まだしっかり伝え切れていないようですね。

万葉集の「柿本朝臣人麻呂歌集」の歌を読むと、持統天皇の物語が万葉集の中に展開します。

しかし、万葉集には他にもあまたの物語が組み込まれ埋め込まれ、隠されています。古代史の政変も王朝の光芒もスキャンダルも、勝者ばかりでなく敗者の物語も。


むしろ、敗者のための歌集であったのかも知れません、万葉集は。

しかも、万葉集を受け継いだ大伴家持は万葉集を男性の物語歌集に変えたのです。

そして、時代に翻弄された惜しむべき人々の運命と宿命を言霊として万葉集に託したのでした。





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by tizudesiru | 2017-01-07 13:54 | 193人麻呂編集の万葉集 | Comments(0)

175草壁皇子の挽歌

175・柿本人麻呂が詠んだ草壁皇子の挽歌

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壬申の乱後の天武朝で、謀反事件が次々と起こりました


壬申の乱
とは何だったのか。

この壬申の乱が天智朝と天武朝の間に大きく傷を残し、その亀裂に入り込んだ藤原氏が様々な策を講じて律令政治を掌握し、藤原氏族の横暴につながっていくと思うのですが…


壬申の乱そのものが謀反事件だった
(大友皇子が先に兵をあげたのではありません)のですが、これが天武朝の王子が次々に命を絶たれていくという結果に導いた大きな要因だと思うのです。万葉集を読むかぎり。

さて、7世紀の天武朝の謀反事件で、忘れてはならない事件がありました。

朱鳥元年の大津皇子謀反事件です。ここで、大津皇子が死を賜ったことが、結果的に天武朝の滅亡へと展開していくのですからね。

そして、大津皇子の死後三年、皇太子草壁皇子が薨去します。即位せず、皇太子のままでしたが。その死の顛末は何も語られていません。

人麻呂は挽歌を献じました。

草壁皇子こそが皇統を伝えるべき唯一の存在だったと、声を大にして歌い上げているのです。  


皇太子草壁皇子の挽歌


日並皇子尊の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首幷短歌


天地の初めの時の 久かたの天の河原に 
八百万(やおよろず) 千万(ちよろず)神の (かむ)(つど)い 
集いいまして 神はかり はかりし時に 天照らす 
日女(ひるめ)の命 天をば 知らしめせと 葦原の水穂の国を 天地の 依りあひの極み 知らしめす 神の尊を 天雲の八重かき分けて 神下し いませ(まつ)りし 高照らす 日の皇子は 飛ぶ鳥の (きよみ)の宮に 神ながら 太しきまして 天皇(すめろき)の しきます国と 天の原 岩門(いはと)を開き 神上がり 上がりいましぬ わご大王 皇子の命の 天の
下 知らしめしせば 春花の 貴くあらむと 望月の たたはしけむと 天の下 四方の人の 大船の 思いたのみて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに おもほしめせか つれもなき 真弓の岡に 宮柱 太しきいまし みあらかを 高知りまして あさことに 御言(みこと)はさず 日月の まねくなりぬる そこ故に 皇子の宮人 行方知らずも

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ここには、母の思いが切々と語られています。


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by tizudesiru | 2016-12-03 14:12 | 175草壁皇子の挽歌 | Comments(0)

164・持統天皇との約束・柿本人麻呂ことあげす

164・持統天皇との約束・柿本人麻呂事挙げす

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「柿本人麻呂が初期万葉集の編纂者」と以前のブログ(157・持統帝の霊魂に再会した人麻呂)に書きました。

人麻呂の紀伊國の旅は、持統天皇との思い出の地を訪ねる旅愁を求める旅ではありませんでした。

形見の地(亡き人の霊魂が漂う地)を訪ね、霊魂に触れる為の旅でした。黒牛方は、有間皇子の終焉の地、藤白坂の近くの海岸です。その海岸に、

女帝との約束を果たすべきか否か、人麻呂は、女帝の霊魂に確かめに行ったのです。

「お言葉のままに、事挙げしてよろしいのでしょうか。わたくしは決心がつきかねております」

人麻呂が迷っていたのは、万葉集の編纂を続け、それを文武天皇に奏上することでした。

答は「詔のままにせよ」だったのです。

無念の最後を遂げたゆかりの人、滅ぼされてしまったゆかりの人を追慕し、その霊魂を鎮め、鎮魂歌集として末永く朝廷に伝えること。

それが、持統帝の詔でした。

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人麻呂は命を賭して「事挙げ」の決心をしました。


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葦原の水穂の国は、この国を支配する神様としては言葉にして言い立てたりはしない国だ。

だが、わたしはあえて言葉にして言うのだ。どうぞご無事で、真にお幸せにと、障りもなくご無事であれば、荒磯浪のアリのように在りし時にお逢いしたかった。

百重浪、千重浪のような後から後から押し寄せて来る波のように、私は何度でも事挙げする。

わたしは亡き帝のために何度も何度も事挙げする。

反歌(長歌と同じような中身を繰り返す短歌という意味)

敷島のの倭の国は、言霊の霊力によって幸をもたらす國である。私は、言霊によってこの国の幸を願う。どうぞ末永く、無事でおいで下さい。


人麻呂が決心して「万葉集」を奉ろうとしたのですが、そこに、

文武天皇(持統天皇の孫・42代天皇)の突然の崩御でした。

やむを得ず、母の元明天皇(草壁皇子の妃・43代天皇)に奏上したのでした。

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元明天皇は激怒しました。

そこに皇統の秘密が書かれていたのです

それは、誰にも知られていることだったと思います。が、

それをわざわざ事挙げする人麻呂を許せなかったと思います。
それが故に、草壁皇子が苦しみ、持統天皇が文武天皇のために身を挺して政を支え力尽きたことを、元明天皇は承知していました。
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人麻呂は流罪になりましたが、さらに刑死となりました。

それを甘んじて受けたことが、万葉集でも読み取れるのです。


またあとで





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by tizudesiru | 2016-11-21 11:33 | 164・持統天皇との約束・人麻呂ことあげ | Comments(0)

158草壁皇子の形見の地で霊魂に触れる



158
・草壁皇子の霊魂に触れるために、

軽皇子も形見の地を訪れた

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東の太陽・西の月が象徴する譲位

柿本朝臣人麻呂は、天武朝の皇子・皇女のために歌を献じています。

草壁皇子や高市皇子の挽歌も詠んでいます。

人麻呂の歌の中で最も有名なのは「東の野にかぎろいの立つ見えてかえり見すれば月かたぶきぬ」でしょう。これは、万葉集・巻一の「(かる)皇子、安騎(あき)()に宿リます時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」の後についている短歌四首の内にある一首です。軽皇子(文武天皇)は、皇太子になるために父(草壁皇子)の霊魂に触れねばなりませんでした


その為に、
阿騎(あき)()宿リに出かけたのでした。

阿騎野は、草壁皇子の形見の地だったのです。

形見の地で亡き人の霊魂に触れる儀式をしたのです。

人麻呂が紀伊国で持統帝の霊魂に再会しようとしたことと同じです。

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万葉集巻一 


「軽皇子、安騎の野に宿リます時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」は、長歌です。この後に続く短歌四首


46 阿騎乃野尓 宿旅人 打靡 寐毛宿良目八方 古部念尓

安騎の野に 宿る旅人 うち靡き 寐も寝らめやも いにしへ思ふに

あきののに やどるたびびと うちなびき いもぬらめやも いにしへおもふに


日並皇子の想い出の阿騎の野に来て、旅寝をする者たちは、手足を伸ばしてぐっすり寝られはしないだろう。日並皇子が狩をされたころのことを思い出すと、なかなか眠れないのだ。


4
7 真草刈 荒野者雖有 葉 過去君之 形見跡曽来師

ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とぞ来し

まくさかる あらのにはあれど もみじばの すぎにしきみがかたみとぞこし


ま草を刈るような荒野ではあるけれど、黄葉のようにはかなく亡くなってしまわれた日並皇子の形見の地だからこそ、跡継ぎの皇子も我々もここに来たのだ。

皇子の霊魂にお逢いするために、冬の阿騎野に来たのだ。


48 東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡

東の 野に炎の 立つ見えて かへり見すれば 月西渡る

ひむがしの のにかぎろいの たつみえて かへりみすれば つきにしわたる(つきかたぶきぬ) 


夜が明けて来て、東の空にかぎろいが立ち始めた。清々しい朝日が昇って来るのだろう。西の空を振り返ると、一晩中若い軽皇子を照らしていた月が、西に渡り沈もうとしている。月が隠れ、朝日が昇る。ああ、日並皇子が息子の軽皇子に太子位を譲られたのだ。


49 日
雙斯 皇子命乃 馬副而 御獦立師斯 時者来向

日並の 皇子の命の 馬並めて み狩立たしし 時は来向ふ

ひなみしの みこのみことの うまなめて みかりたたしし ときはきむかふ


あの日、御狩が始まろうとしたあの時、日並皇子命が馬を一斉に並べて、御狩の壮麗な装いと凛々しいお姿でお立ちになった、あの瞬間がもうすぐやって来る。その瞬間に、今、軽皇子が立ち向かわれるのだ。


人麻呂は「葉」のみを「もみじば」と読ませました。

『葉』は此処だけの表現と思います。

上の四首に詠まれているのは父の草壁皇子。軽皇子の姿は見えにくい。人麻呂は心ゆくまで、在りし日の凛々しい草壁皇子の姿を詠みました。

草壁皇子は、持統称制(しょうせい)三年(689)四月に亡くなりました。

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皇太子でありながら即位せず、母の持統帝が代わりに政務を取る『称制(しょうせい)』という政治体制になっていました。

なぜ、皇太子でありながら草壁皇子は即位しなかったのか。

歴史上の大きな疑問です。

持統帝は草壁皇子が即位するのを待って称制を続けていました。

そこに、皇太子草壁皇子の薨去(689)でした。

持統帝は必至で耐え、ついに即位(690年)したのです。

草壁皇子の忘れ形見の軽皇子の成長を待って。

 

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軽皇子(文武天皇)は十歳になり、帝王学を学ぶ時期になりました。

皇太子になるために、父の草壁皇子の霊魂に触れなければなりません。

それが為の、阿騎野における冬の狩でした。

父の草壁皇子の狩場で一晩過ごし、霊魂に触れたのです。


父の霊魂に触れた軽皇子(文武天皇)は十五歳で元服し、即位(697年)します。嬪は藤原宮子(藤原不比等のむすめ)でした。


草壁皇子は病弱であったので即位できなかったというのが定説です。
そうでしょうか? 
狩が好きで何度も狩場に出かけたようで、その姿を皇子の
舎人(とねり)(近習のひと・御付きの人)も歌に詠んでいます。皇太子として即位できないほど病弱ではなかったのです。

万葉集の数多くの謎は、有間皇子(658年没)を読まなければ解けません。更に、草壁皇子(689年没)も重要な鍵を持っているのです。

この二人の存在が持統天皇を生かし動かし続けたのでした。

そこには、草壁皇子の苦悩もあったでしょう


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by tizudesiru | 2016-11-15 13:37 | 158草壁皇子の形見の地・阿騎野 | Comments(0)

157・持統帝の霊魂に再会した人麻呂

万葉集集・巻九の挽歌の冒頭の五首 

ここには、人麻呂の想いが凝縮されています。



157・人麻呂が偲んだ持統天皇 

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万葉集・巻九「挽歌」の冒頭の五首 


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挽歌の冒頭は『宇治若郎子の宮所』の歌でした。高貴な方の歌を冒頭に置くという形式を踏襲するための配置だったのでしょうか。いえ、人麻呂歌集に置かれた五首はセットです。一緒に並べたから意味があるのです。
そして、宇治若郎子の運命を有間皇子の運命と重ね、皇子が皇太子だったこと、父王に極位を譲られていたこと、無情にもその命を政敵により奪われたことを伝えたのです。
一首目は、寓意のある歌でした。
次が、

紀伊国に作る歌四首
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黄葉(もみじば)は、故人・亡き人のことです。人麻呂は、他にも『葉』と書いて、葉(もみじば)とも読ませています。

では、二首目


1796・黄葉の過ぎにし子らと携はり遊びし磯を見れば悲しも

もみじばのすぎにしこらとたづさはりあそびしいそをみればかなしも


亡くなってしまった愛する人と手を取り合って遊んだ磯を見ると悲しくて仕方ない。あの人は、確かにここに来た。
 

紀伊国で、愛する人と遊んだとき、その人は独りではなかったのでしょうね。


1797・塩気立つ荒磯にはあれど往く水の過ぎにし妹が形見とぞ来し

しおけたつありそにはあれどゆくみずのすぎにしいもがかたみとぞこし


浪が荒くて潮の香り立つ荒磯ではあるけれど、流れ去った水のように鮮やかに亡くなってしまったあの人の形見だからこそ、わたしは此処へ来た。

あの人の形見のこの地で、あの人の霊魂に会い、あの人の意思を確かめる為に、此処に来た。

更に、

塩気立つ荒磯に流れ去る水ののように亡くなってしまったあの人は、昔ここに来た。有間皇子の形見の地として、あの人はここへ来た。しかし、今わたしはあの人の形見の地として、ここへ来たのだ。

 

「形見とぞ来し」は重要な言葉です。霊魂に出会うための詞であり、行為なのです。次の「文武天皇の冬猟」のところでお話しましょう。

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1798・いにしへに妹と吾が見し黒玉の黒牛方を見ればさぶしも 

いにしへにいもとわがみしぬばたまのくろうしがたをみればさぶしも

以前、あの人と黒牛方を見た時、その真っ黒な岩を見ても寂しくはなかったが、今はあの人がいないことで、こんなにも悲しく寂しいのだ。

黒牛方の痕跡があるのは、和歌山県黒江です。藤白坂を下りたあたりの海に、人麻呂は来ているのです。 


1799・玉津嶋磯の浦みの真砂にもにほいにゆかな妹も触れけむ 

たまつしまいそのうらみのまなごにもにほいにゆかないももふれけむ 

紀伊川の下流域に浮かぶ数々の島の浦の真砂にもしっかり触れて行こう。その砂は、むかしあの人が何度も何度も触れて涙を流した真砂なのだから。私も真砂にふれて、あの人の想いを染みこませて帰ろう。

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人麻呂は、なぜ紀伊国に旅をしたのか。

愛する人を亡くした後に、その形見の地を訪ねたのか。

その思い出は、海で遊んだこと・黒牛方を見たこと。

このくらいの思い出の地を形見とするのは不思議です。

いえ、人麻呂は『故人が形見の地としていたところ』に来たのです。

同じ形見の地に。
持統帝が常に心を置いていた海辺に。


人麻呂は故人の心の裡に触れてしまっていたのです

二人が愛し合ったとは書いてない。

敬愛する人が触れた真砂にも触れて行こう、あの人が触れたに違いないから。

持統帝崩御後、人麻呂は万葉集の編纂をして、文武天皇(持統天皇の孫)に献上する約束を果たそうとしていた。しかし、人麻呂は躊躇していたのです。

なぜなら、そこに皇統の秘密が書かれていたから。
だから

文武帝に万葉集を献上してもいいのか、持統天皇の霊魂に確かめるために紀伊国に来たのでした。


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果たして、持統帝のこたえは?

このことは『人麻呂の我は事挙げす』で触れましょうね。




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by tizudesiru | 2016-11-14 11:17 | 157持統帝の霊魂に再会した人麻呂 | Comments(2)

156・人麻呂は女帝のために生きた

156・持統天皇のために

柿本朝臣人麻呂は生きた


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宇治若郎子は悲劇の皇子


宇治若郎子の宮所を詠んだ人麻呂


宇治若郎子の宮所の歌一首


1795 妹らがり今木の嶺に茂り立つ嬬待つの木は古人見けむ


いもらがり いまきのみねに しげりたつ つままつのきは ふるひとみけむ 

愛するあの子のもとへ「今来た」という意味になる今木の嶺に、茂り立っている松の木は、嬬(つま)を「待つ」の木であろうが、此処に住んでいた古人もこの松を見たのであろうか。


おや?

宇治若郎子は仁徳天皇の弟でしたね。

応神天皇の末子で、仁徳天皇と極位を譲りあった末に自ら命を絶つという悲劇の人。有名な自殺した皇太子の話でしたね。そして、此処には松が詠まれているのです。


これは、挽歌の冒頭です。

仁徳天皇の弟の宇治若郎子の宮所とは、何処でしょう。仁徳天皇は時代がかなり上り、日本書紀の記述で見ると4世紀となります。卑弥呼の少し後の時代です…? 

人麻呂はそんな古い時代の宮所の松を詠んだのでしょうか?


宇治若郎子自身の歌は日本書紀にも万葉集にもありません。

宇治若郎子は皇太子でしたが即位せず、三年間も兄と極位を譲りあい、ついに亡くなったのです。不自然でしょう。


ここに寓意が込められているのです

どんな?

皇太子でありながら、即位できなかった。身内により皇位を奪われた皇子である。誰かに似た状況ではありませんか。そう、有間皇子に、よく似ています。


有間皇子事件を宇治若郎子になぞらえて、人麻呂は挽歌に詠んだのです。


ここは、あの方がお住まいになっていた宮だが、もうあの方はいない。今木の丘に松が茂り立っている。愛しい人の許へ来たという「今来」という名は今となっては空しいが、今木の丘の上に……。松の木さえ、あの方を「いつまで待つ松の木」であろうが、あの松をあの方もごらんになったのだ。

 

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柿本人麻呂は、ちまたの噂通り、持統天皇を崇拝し愛していました。それは深い敬愛でありました。持統天皇の崩御後も霊魂に話しかけ、面影を追い続けました。

人麻呂の愛の証、それは万葉集の編纂と献上でした。人麻呂こそ初期万葉集を編纂した人なのです。
持統天皇のために編纂し、約束を守って万葉集を献上し、それが故に刑死したのです。

「すぎにし人の形見とぞ」 

すぎにし人の形見とぞ……これが人麻呂の歌を解く鍵になる詞です

人麻呂を想うと、この言葉が胸に突きあげます。
彼がいかに持統帝と萬葉集を愛したか。
それが故の刑死を甘んじて受けたのですから。刑死の年は、和銅元年(708)、刑を執行させたのは、元明天皇(阿閇皇女)でした。あの草壁皇子の妃であり、文武天皇の母、心優しい人でした。しかし、人麻呂に死を賜った…その事情は、おいおいお話ししましょう。万葉集を読みながら。
今は、人麻呂の話です。

さて、人麻呂は持統太上天皇崩御の後、再び紀伊國を訪ねました。なぜ?
もちろん「すぎにし人の形見」の地だから、その霊魂に会いに行ったのです。愛する持統天皇の霊魂に


万葉集・巻九の挽歌の冒頭歌

大宝元年(701)紀伊國行幸の歌は、巻九にありました。冒頭から有間皇子を偲ぶための編集になっていました。
同じく巻九の挽歌の冒頭の五首は、「右五首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出る」と説明されています。もちろん、人麻呂自身の歌です。
『宇治若郎子の宮所の歌一首』『紀伊国に作る歌四首』の五首です。

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宇治の都を詠んだ額田王 


宇治若郎子につながるような歌を額田王も読んでいます。二つの歌の『宇治』には共通点があるのでしょうか。


  額田王の歌(または皇極上皇の歌ともいう)


7 金野の 美草刈葺き やどれりし 兎道の宮子の かりほし念ほゆ

 あきののの みくさかりふき やどれりし うじのみやこの かりほしおもほゆ


「金」とは秋のことです。中国の五行説に基づいて秋を表した文字です。

秋の野で草を刈り取って屋根を葺き、仮廬をお作りになって、あの方が宿となさった、あの宇治の都の仮廬をずっと思い続けている


額田王が詠んだ宇治の宮子とはどこでしょう。

宇治若郎子に所縁の宮であれば、額田王も皇子の悲劇を詠んだと思われます。有間皇子を宇治若郎子に擬して、牟婁温泉に護送された時に草を刈り取って仮廬とした、あの悲劇の旅を詠んだとしたら、どうでしょう。

あの秋の出来事、もう寒くなっていたのに野宿のために草を刈り仮廬の屋根を葺かれた、高貴な方にはお辛い旅の宿であったろうに。秋になると、宇治の若郎子のように命を絶たれたあの方の仮宮を思い出してしまう。

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次は、人麻呂が紀伊国で詠んだ歌です。
彼が愛していたのは……


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by tizudesiru | 2016-11-13 12:32 | 156・人麻呂は女帝のために生きた | Comments(0)


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