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柿本人麻呂は宇治川に天智朝のはかなさを詠んだ

近江の国より上り来る時に、宇治の川辺に至りて作る歌
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人麻呂は近江の国を過ぎる時、十分に近江朝を偲びました。その帰り道、宇治川の川辺に到りました。当然、見て来たばかりの淡海の風景がよみがえり、あの都があった近江から流れてきた川なのだと思ったのです。しばし川面を眺めて、近江朝の為に戦い死んでいった武人のことを偲んだのでしょうか。
264
 もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも

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「近江の国より上り来る時に宇治の川辺に至りて作る歌一首」と書かれていますから、264の「もののふの」歌のみを指しているのは確かです。しかし、266番歌も人麻呂が近江朝を詠んだ歌です。なぜ、二首は離れているのでしょう。
264と266の二首は内容的にもつながっているように思うのですが、間に長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)の歌が挟まれています。
なぜ、奥麻呂の歌がここに置かれたのか、今でこそ編集の意図が分かりませんが、平安時代までは特別の地位の人はわかっていたのかも知れません。

『新古今集』藤原定家の「駒止めて袖うち払うかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ」の有名な歌は、奥麻呂の歌を「本歌」として『本歌取り』したものです。定家はこの歌に心惹かれたのです。
その隣に人麻呂の秀歌があるのに、敢て奥麻呂の歌を本歌取りして「名句」にして見せたのでしょうか… 
わたしは「古今伝授」の当事者であった藤原定家は『奥麻呂の歌が人麻呂歌の間に置かれた意味を知っていた』のだと思います。奥麻呂は歌人として持統天皇のお気に入りでした。
持統四年の紀伊国行幸で「有間皇子の鎮魂の為に結松の歌」を見事に詠んだことで奥麻呂は持統帝に認められたのでした。大宝元年の紀伊国行幸では天皇の詔に応えて「見る人なしに」と還らぬ人を詠みました。だからこそ、持統天皇の最後の行幸にも従駕しています。誰もが奥麻呂を羨んだと思います。人麻呂の歌の間に奥麻呂の歌を置いたのは、その辺の暗示があるのかも知れません。
佐野の渡り・みわの崎は和歌山県新宮市とされていますから「紀伊国」行幸を引き出しますね。

万葉集の編者は、何を伝えたかったのでしょう。
平安時代になって、万葉集を編集させた高貴な人の意思がそこにはあるはずです。その人は「古今伝授」により人麻呂と持統天皇の秘められた愛を知っていたでしょう。その愛に奥麻呂が入ってきたのだと、それは紀伊国行幸の時からはじまったのだと、藤原定家は読み解いたのでしょうか。それで、本歌取りの「佐野のわたりの雪の夕暮れ」を読んだのでしょうね。「雪の野原のような現実の中で心やすめる処すら持たなかった」人麻呂の心情をせつせつと。

初期万葉集を編纂・編集したのは人麻呂だと、わたしは幾度も言いました。人麻呂が持統天皇の遺勅に応えて、文武天皇のために力を尽くしたのだと…。そして、万葉集は文武天皇亡き後、元明天皇に献上されたのですが、それは元明天皇を激怒させ人麻呂は断罪されました。その後、大伴氏に預けられた万葉集は、晩年罪を得た大伴家持の遺体と共に彷徨っていましたが、平城天皇によって召し上げられ編集の手が加えられて世に出たと、紹介してきたのでした。
その決定的な平安時代の編集「あることを分かりにくくするための編集」が、数多くの万葉集の謎を造り出したのだと思います。手が入れられたのは、ほとんどが人麻呂編纂の部分に対してでしょう。後期の家持関係の歌にはほとんど編集の手は入っていないと思います。
ですから、初期万葉集と後期万葉集では、内容も編集意図も微妙に違うのです。
そういう目で、人麻呂の歌を詠むと長忌寸奥麻呂の歌が置かれた意味も想像できると思うのです。

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266 淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば こころもしのに古おもほゆ
この歌は、直接的に近江朝を偲んでいます。鳥は霊魂を運ぶ、または亡き人の霊魂そのものと思われていた時代です。いにしえの都の址にたたずんで淡海を眺めている時、夕暮れの中に飛び交う鳥は大宮人のあまたの霊魂と思われたことでしょう。
鳥と化した数多の霊魂が飛び交う岸辺、そこで鳴く鳥は滅びた王朝の物語を語るのでしょうか。それを聞くと心はしおれてしまい、王朝のはかなさと天智天皇を思って人麻呂は立ち尽くしたのでした。
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何故に、ここまで人麻呂は近江朝を思うのか、不思議ですよね。
人麻呂が近江朝を詠む時、天智天皇の傍にそっと立っているのは持統天皇の思いだったのではないでしょうか。わたしにはそう思えます。

では、また。



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by tizudesiru | 2017-11-08 00:14 | 299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ | Trackback | Comments(0)

柿本朝臣人麻呂・近江朝を偲ぶ

もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも
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(電車で宇治川を渡る時の一枚)
宇治川を渡る時に思い出すのが、万葉集巻三の264番歌・柿本朝臣人麻呂の歌です。しかし、考えてみると、ちょっと違和感というか、変ですよね。
宇治川を見て、天武朝に仕える人麻呂が偲ぶのは滅ぼした近江朝だったとは…ちょっと、不思議ではありませんか。
確かに、宇治川の上流には琵琶湖があり、広い淡海が少し狭くなる辺りに天智天皇の近江朝の都がありました。大津京が京だったのはほんの数年ですが、万葉集では深い哀悼の思いを込めて繰り返し詠まれました。
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万葉集巻一に、人麻呂は「天智天皇こそ日知王の皇統を継いだ大王だ」として歌に詠みました。そして、「その大王が石走る淡海国の楽浪の大津宮で天の下を統治したのに、その王朝は滅び、都は荒れ果てた」と嘆いたのでした。この歌は人麻呂の個人的な哀悼の歌ではなく、公的な場での歌です。
この歌が詠まれた時、持統帝も天武朝の皇族も、壬申の乱で天武側に加担した氏族も、その場にいたでしょう。人麻呂だけでなく誰もが近江朝を偲んだというのでしょうか。壬申の乱の功労者の高市皇子も…傍にいたのなら微妙ですね。

そして、反歌二首では「ささなみの志賀」と詠んでいます。使われたのは「楽浪」と「左散難弥乃」の漢字でしたが、「ささなみの」という枕詞は、近江朝を引き出す言葉として人々の胸に残りました。それまでは「天さかる夷(ひな)=遠い田舎」であった淡海の国でしたが、「ささなみ」の志賀といえば、滅びた王朝と深く結びつくようになったのでしょう。
「ささなみの」が一句目にある歌は、万葉集には11首あります。その中で「神」がつくささなみのが四首あります。154番の石川夫人の歌は「天智天皇の葬送儀礼に詠われた挽歌」です。206番の置始東人の歌は、弓削皇子の挽歌として詠んだ歌です。
「神楽浪」は、高貴な人の霊魂漂う地として「楽浪」に特別な場所と意味を与えているのでしょう。
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弓削皇子は大津京で薨去されたのではありません。しかし、ささなみの志賀のさざれ波に例えて「いつまでも生きながらえていたかった」という皇子の思いを詠んだのでした。母が天智帝の娘の大江皇女だったから、天智帝の皇統を継ぐ皇子だと、神楽浪の志賀の浪に例えているのでしょうか。
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そして、宇治川の歌です。人麻呂は宇治川を見ても近江朝を思い出したのでした。

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この人麻呂の秀歌については、また明日、語り合いましょう。




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by tizudesiru | 2017-11-07 00:43 | 299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ | Trackback | Comments(0)

人麻呂は弓削皇子の挽歌を詠まなかった!

人麻呂は弓削皇子の挽歌を詠まなかった!何ゆえ?
それは何故なのか、詠まなかったのか、詠めなかったのか、詠もうとしなかったのか?
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(香具山と藤原宮)

弓削皇子の挽歌を詠んだのは、置始東人(おきそめのあづまひと)でした。

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東人は「皇子はいつまでも生きていたいと願っていた」と詠みました。その通りだったのでしょう。弓削皇子は日頃から「我が命は長くはない」と話すことがあったようです。そんな不安を持って生きていたことが万葉集からも読み取れます。いつからそんな漠然とした不安を持つようになったのでしょう。
だいたんに想像するなら、軽皇子立太子の後ではないでしょうか。当時は二十歳ほどの若者でした。多少青臭い言動もあったでしょうが、賢い青年でした。その言動には藤原氏が鋭い視線を向けていたと思われます。
多感な青年は滅びた近江朝にも関心があったようです。天智天皇の葬儀に最後まで仕えた額田王に弓削皇子は親しく歌を贈っています。
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いにしへに恋ふる鳥かもゆづりはの御井の上より鳴き渡りゆく
吉野のゆづりはの繁る御井の上を鳴きながら飛び去って行ったあの鳥は、あの古を恋う鳥なのでしょうか。あんなに鳴いて飛んでいくから、わたしも古に思いをはせました。あなたは古を思う事はありますか。
弓削皇子は近江朝に最後まで仕えた額田王を信頼していたのです。あなたも昔(近江朝)が恋しいのではありませんか? と。
そのころの弓削皇子には、持統天皇の吉野行幸について行っても心に不安があったのです。額田王は若い皇子に歌を返しました。

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額田王は若い皇子に応えました。
まあ、殿下、古を恋うる鳥ですか、それは霍公鳥だったのではありませんか。その鳥はきっと昔を偲ぶように鳴いたのでしょうね、まるでわたくしの思いのような懐かしそうな鳴き方をして。


額田王は人生の辛苦をなめ尽くしていました。娘の夫(弘文天皇)は壬申の乱で殺され、娘は突然死(自死)し、孫(葛野王ら)を抱えて苦労したでしょうね。だからこそ、優しかったのかも知れません。

弓削皇子を取り巻く状況はどんどん変化していきました。軽皇子立太子の半年後、文武天皇の即位です。夫人となったのは、藤原宮子で不比等の娘でした。不比等は文武天皇の乳母だった犬養美千代を妻とします。文武天皇の周囲は藤原色に染まっていきました。

そして、弓削皇子の不安は現実となり、文武三年(699)薨去となりました。
この後ですが、不比等は美千代に女子を生ませ、その女子を文武天皇の皇子の夫人としていくのです。文武天皇の皇子の乳母はなんと犬養美千代でした!文武天皇と聖武天皇の双方の乳母は美千代だったのでした!)

持統天皇は自ら太上天皇となり、必死で文武天皇を支えていました。若い天皇が政治をするのは大変なことでしたから。文武天皇も必死で祖母に答えました。そして、大宝二年(702)持統天皇の崩御となったのです。

こんな状況では人麻呂は弓削皇子の挽歌を詠めなかったでしょうね。だけど、人麻呂が密かに挽歌を詠んだとすれば、万葉集のどこかに置かれているでしょうね。

(太上天皇亡き後(702年以降)、文武天皇も無理がこうじて倒れ長く臥せることになったのでしょう。
夫人の宮子も首皇子(701生)を生むと我が子を抱くこともできないほど精神的に追い詰められ、閉じこもって(閉じ込められて)いったのでした。)


人麻呂は世の移ろいを見ていたでしょう。持統天皇の遺勅を受けて、万葉集を完成させるために日を過ごしていたはずです。才能に恵まれながら若くして世を去った天武帝の男子を人麻呂は惜しんだのだと思います。
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万葉集編集者は弓削皇子の歌を多く残していますから、この若者の死を惜しんだに違いありません。編集者は誰ですか。
わたしは「初期万葉集を編纂させたのは持統天皇、実行したのは人麻呂だった」と思っています。その後いろいろあって万葉集は大伴氏から平城天皇に渡り、勅撰集のごとく編集されたと思っているのです。何度もしゃべりましたが。
なぜ、平城天皇は万葉集に興味を持ち、都を平城京に戻すように望みかつ実行したのか。それは、万葉集を読んで王朝の本当の姿が見えたから、桓武天皇が捨てた平城京こそ王朝のルーツであり意味があると理解したからと、わたしは思っているのです。

ところで、何故こんなに話が飛ぶのか
(古墳・神社・万葉集・近畿から大阪・熊本・福岡と話が飛ぶのは、何故なのか) 
是についての私の言い訳を書いて見ますと、わたしの中では全てつながっているのです。そんなこと当然のことですが、一つのことを書いていると関係ない事象が結びつくのです。そして、謎が解けていく…
例えば、万葉集の歌を和歌(倭歌)というなら、倭国の歌ではないか。倭国で生まれた歌なら、倭国は何処にあったのだ? 万葉集に倭国の地を探る手がかりがあるだろうか。万葉集の編纂者はどのような認識を持って編纂したのだろうか。となるのです。そして、倭国に徐々に近づいていくのです。まだ答は書いてはいませんが。
さらに、古墳ですが畿内の古墳は箸墓を基準に考えられています。明らかに三世紀の古墳ではありません。しかし、編年がぐちゃぐちゃで副葬品や墳丘の形が納得できるようになっていないのです。たとえば、有名なメスリ山古墳には鏡の副葬はありません。すると、鏡副葬の後の時代に造られた古墳となり、多くの副葬品はどこかからか運ばれたことになるでしょう。では、何処から?
一つ一つの事実は独立しているのではなく、必ずつながっています。
わたしは古代史のパーツを拾い集めています。ジグソーパズルのようにそれらはある結論を導き出すと信じて、ひたすらはめ込んでいるのです。


というわけで、次は黒塚古墳に飛びますね。
ミステリーは、人を引き付けてしまうものですね。


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by tizudesiru | 2017-10-16 20:58 | 290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達 | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂は舎人皇子に警告した!危機が迫っている!

柿本人麻呂は舎人皇子に警鐘の歌を献上

ご用心召され、皇子は狙われておいでです!
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天武帝にとって草壁皇子と大津皇子と、壬申の乱後に生まれた天武帝の皇子の中で天智帝の皇女を母に持つ男子が特別でした。
天武帝は近江朝の後宮の女性を外に出しませんでした。全部自分の後宮か家族の妃としたのでした。高貴な血をほかに伝えるのを避けたのです。次の火種となりますから。

それが、天武帝が天智帝の皇女を何人も妃にした理由なのです。大江皇女は長皇子(674?生)と弓削皇子を生み、新田部皇女は舎人皇子(676生)を生みました、壬申の乱後に。天智帝が弟との結びつきを深めるために娘を出したのではないのです。皇女が後宮に入れられたのは壬申の乱後で、天智帝は既に崩御していたのですから。皇女の運命を決めたのは天武帝、高貴な血統を守るために天武帝が判断したことです。
それは、孝徳朝から難波朝に移るときも、天智朝に移る時も実行されました。天武朝でも同じだったのです。


特別だった長皇子のことは、前回紹介しました。今日は舎人皇子のことを紹介します。
皇子、ご用心なさいませ!と人麻呂は詠む 
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天武帝に愛され朝政を聴くまで成長していた大津皇子(663~686)が謀反の罪で死を賜り、草壁皇子(662~689) が薨去した後、残された若い皇子の成長が待たれていました。人心は長皇子と舎人皇子に集まっていたでしょう。

ふさ手おり多武の山霧しげみかも細川の瀬に波の騒げる
この歌が詠まれたのはいつでしょう。多武の峰といえば藤原不比等と兄の定恵が父・鎌足の遺体を移し祀ったという寺のあった所です。藤原氏を象徴する山に霧が立ち込めている…霧や雲は霊魂や人の思いや下心の現れたものというのが古代人の認識でした。
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(別格官幣社 談山神社)


多武峰に厚く立ち込めた山霧だけではなく、細川の瀬も音が激しくなっていると、人麻呂は詠みます。山の上ではすでに嵐になっているのです。藤原氏が暗躍し不穏な空気が流れています。なぜでしょう?
もちろん、舎人皇子が人心を集めるほどに成長しているからです。だから、時間がないと軽皇子(草壁皇子の忘れ形見)を擁立しようとする藤原不比等が策を練っている、亡き父・鎌足の元で。だから、ご用心なさいませと、人麻呂は歌に託して危機を知らせたのです。

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おや?と、思いますよね。持統天皇の忠臣がなぜ長皇子を称えたり、舎人皇子に危機を知らせたりするのでしょうか。幼い軽皇子にとってはライバルではありませんか。
持統帝は軽皇子を後継者とするために即位したのではありませんでしたか?
そうなんです。これらの歌から読めるのは、持統天皇は長皇子に期待し舎人皇子も愛していたことになるのです。なぜ? それは、天智帝の血統の皇子だったからでしょう。
持統帝は常に天智帝につながる人を大事にしています。


冬こもり春部を恋ひて植し木の実のなる時を片待つ吾等ぞ
皇子の成長を待っていたのは人麻呂だけでなく、大勢いたようです。だからこそ、危険が迫った。その警鐘の歌を読んで、舎人皇子も歌を返します。

黒玉の夜霧はたちぬ衣手の高屋の上にたなびくまでに
人麻呂の意図は皇子にも伝わり、皇子もこたえました。真黒な夜霧がとうとう高屋(高貴な方がお住まい)の高殿の上にまでたなびいてしまった、わたしは心して日を過ごそう…これは、持統天皇も取り込まれたと舎人皇子が理解したということでしょうか。


人麻呂が二人の皇子に献じた歌を読む限り、持統天皇がはじめから軽皇子のみを後継者としていたとは思えないのです。女帝は天智帝の血統の子供たちを十分に愛していたと思うのです。


それにしても、「冬こもり春部を恋ひて」の歌、難波津の歌にイメージがにていませんか? 以前にも書きましたが、王朝の始まりを寿ぐ歌でしたね。人麻呂は同じような思いを舎人皇子に抱いていたのでしょうね。
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では、今日はここまで。




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by tizudesiru | 2017-10-15 11:59 | 290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達 | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂は長皇子を皇太子のごとく歌に詠んだ!何故?

人麻呂が称えた長皇子
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持統天皇の即位は、将来的に孫の軽皇子(文武天皇)に譲位するためだったと、史家は語ります。事実、歴史はそのように動きました。

万葉集も確かに歴史書の通りに読めますが、ところどころに「おや? なぜ?」と歴史の流れと反すると思う箇所があります。
天武朝の皇子に対する柿本朝臣人麻呂の歌もしかり、それは何か所もありますが、今日は人麻呂が長皇子に献じた歌を詠んでみましょう。
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やすみししわご吾大王高光る日の皇子
とたたえる言葉が続きます。まるで皇太子のようです。

更に、「あめゆく月を網に刺し、キヌガサにした」大王だと反歌に詠みました。長歌に重ねて、反歌でも「大王」と飾りたてたのでした。この御猟は天皇の儀式のように馬を並べて行われ、狩場の鹿も鶉もはいつくばって大王を敬ったと詠んだのですから、驚きます。
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「或本の反歌」として、
おほきみは神にしませば真木のたつ荒山中に海を成すかも
の歌が付けたされています。「おほきみは神にしませば」の修飾詞は「天武朝の皇子達と天武朝にしか使われていない」と、万葉学者の指摘です。
天武朝の皇族は「神である」という思想を強く打ち出したのです。だから祖先の時代を神代として正史に残したのでしょう。

皇子の高貴な血統
長皇子は天武天皇と大江皇女(天智天皇の娘)に生れた男子です。弟に弓削皇子がいて、母の弟・叔父は川嶋皇子(天智帝の男子)です。天智帝と天武帝の血統だから長皇子に人麻呂が歌を献じたのでしょう。もちろん、この歌が詠まれた時点では持統帝も認める皇子だったので、公の場で称えられたのです。ほとんど次の皇太子的存在だったのでしょうか。
大津・草壁皇子が没したあと、周囲の目は天智帝と天武帝の二人の血統の男子に向いていたと思います。
長皇子、弓削皇子、舎人皇子は特別な存在だったでしょう。


持統十一年(697)軽皇子立太子(14歳)
人麻呂の歌が献じられた皇子や皇女は特別な存在だったとなると、では何故、長皇子は皇太子にならず軽皇子(文武天皇)が立太子したのでしょう。

軽皇子は14歳でしたが、長皇子は8歳年上ですから凛々しい青年になっていたはずです。持統天皇が孫を愛していても、周囲の豪族や高官を納得させることは難しい状況だったかもしれません。

弓削皇子は「軽皇子の立太子」に異議を申し立てました。
それは、当時の状況を反映してのことでしょう。彼は「兄の長皇子がより皇太子にふさわしい」と思っていたかもしれません。しかし、弓削皇子の異議申し立ては葛野王(大友皇子の子)に一喝されました。


長皇子の立太子を望んでいた勢力は、権力が何処に動いたのか思い知らされたでしょうね。

この後、高貴な皇子たちがどうなるか想像できますね。
弓削皇子は三年後寂しく薨去し、長皇子は文武天皇崩御後に再度脚光を浴びるのですが……舎人皇子は自分の立場を理解し一歩下がり臣下のように振る舞うという……

その歌の紹介は、また。


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by tizudesiru | 2017-10-15 01:10 | 290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達 | Trackback | Comments(0)

人麻呂の妻は火葬された

人麻呂の妻は火葬された!
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「柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血哀働して作る歌二首併せて短歌」

の続きです。
巻二「挽歌」

210 うつせみと思いし時に 取り持ちて 吾がふたり見し 走り出の 堤に立てる 槻の木の こちごちの枝の 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど たのめりし 子らにはあれど 世間(よのなか)を 背きしえねば かぎるひの 燃ゆる荒野に 白妙の 天ひれ隠り 鳥じもの 朝だちいまして 入日なす 隠りにしかば 吾妹子が 形見に置ける 若兒(みどりご)の 乞い泣くごとに 取り与ふ ものしなければ 男じもの 脇ばさみ持ち 吾妹子と ふたり吾が寐し 枕付く 嬬屋のうちに 昼はも うらざび暮し 夜はも いきづきあかし 嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども あふよしもなみ 大鳥の 羽がひの山に 吾戀ふる 妹はいますと 人のいへば 石根さくみて なづみこし よけくもぞなく うつせみと 思いし妹が たまかぎる ほのかげだにも 見へなく思へば 

211 去年(こぞ)見てし 秋の月夜は 照らせれど 相見し妹は いや年さかる

212 衾道(ふすまぢ)を 引手の山に 妹を置きて 山道を往けば 生けるともなし

210 あの人は現世の人だと思っていた時に、手を取りあって二人で見た 突き出した土手の槻の木の枝のあちこちに春の葉が茂っているように 深く思っていたあの人であるが、頼りにしていたあの人なのに、常ならぬ世の中の掟に背くことはできないので、かげろうが燃える荒野に、真っ白な天女のヒレに隠れて 鳥でもないのに朝早くから家を出て、入日のように隠れてしまったので、あの人が形見に残して行った幼な兒がものほしさに泣いても与えられる物もなく、男だけれど小脇に幼兒を抱いて、あの人とふたり寝た 嬬屋の中で、昼はうらさび暮し、夜はため息をついて夜を明し、どんなに嘆いてもどうしょうもなく、どんなに恋しく思っても もう会うこともできない。羽がいの山に恋しいあの人がいますと人が言うので、岩根を押し分けてやって来たのに、その甲斐もなかった。この世の人だと思っていたあの人が死んでしまって、ほんの少しほのかな影すら見えないと思うと…


211 去年見ていた秋の月は今も照らしているけれど、一緒にこの月をみたあの人は年と共に遠ざかっていく

212 衾道の引手の山にあの人を置いて山道を帰って来る時、とても生きている心地がしない。

前回の挽歌の妻とは別の女性でしょうか。この女性と人麻呂は一緒に暮らしていたのでしょう。死亡した女性は朝から白栲の布につつまれて家を出て行ったのだが、もう帰ることはないと嘆いています。そして、一人の幼兒を残していたので、その子が泣いても何もしてやれない男であることを人麻呂は嘆いています。女性は引手の山に葬られたのでしょうか。妻を置いて山から帰るのですから、葬儀を済ませたと云うことです。「使いが来て妻の死を知った」というなかなか会えない207番歌の「天飛ぶや軽の道」の妻とはかなり身分の違う女性のようです。


この挽歌には、異伝があるのです。
表現も大変良く似ています。が、見逃せない言葉があります。

210の最後に「うつせみ(打蝉)と おもひし妹が たまかぎる ほのかにだにも 見えなく思へば

213の最後に「うつそみ(宇都曽臣)と おもひし妹が 灰にて坐せば

これは、大変な違いです。213の女性は、「灰にてませば」と火葬されているからです。

この時代、火葬は一般的ではありませんでした。

火葬された人の名は、書紀にも取り上げられています。火葬の初出は、700年の道照で「粟原にて火葬」とあります。702年没の持統天皇も火葬でした。

では、213番歌を読みましょう。
或本の歌に曰

213 うつそみと おもいし時に 携はり 吾ふたり見し 出立の ももへ槻の木 こちごちに 枝させるごと 春の葉の 茂れるがごと 思へりし 妹にはあれど たのめりし 妹にはあれど 世の中を 背きしえねば かぎる火の 燃ゆる荒野に 白栲の 天ひれがくり 鳥じもの 朝立ちい行きて 入日なす 隠りにしかば 吾妹子が 形見における 緑子の 乞いなくごとに 取りあたふ 物しなければ 男じもの 脇挟み持ち 吾妹子と 二人わがねし 枕つく つまやの内に ひるはも うらさびくらし 夜はも 息づきあかし 嘆けども せむすべしらに 恋ふれども あふよしもなみ 大鳥の 羽がひの山に なが恋ふる 妹はいますと 人の云へば 岩根さくみて な積みこし よけくもぞなき うつそみと 念ひし妹が 灰にてませば

短歌三首

214 去年(こぞ)見てし 秋の月夜は わたれども あいみし妹は いや年離(さか)る

215 衾路(ふすまぢ)を 引出の山に 妹を置きて 山路おもふに 生けるともなし

216 家に来て 吾がやを見れば 玉床の 外に向きけり 妹が木枕(こまくら)

さて、人麻呂は210と213の挽歌のどちらを先に詠んだのでしょう。

わたしは、213が先だと思います。「灰にて坐せば」が先だと思うのです。

火葬とは、由々しきことです。こんな行為を受け入れた女性として、読み手は誰を思い出すでしょう。

平城天皇に万葉集が召し上げられて(806年)、編集を担当した学者は、ここを詠んで愕然としたでしょう。「これは、高貴なあの方を導き出す言葉だ」と。
だから、210を挿入し、213を「或本の歌」としたと、大胆にもわたしは思うのです。
そうでなければ、210と213はあまりにも似ています。手直しをする必要はないほど似ているのです。なのに、敢て手直しをしたのは何処か、「灰にて坐せば」以外にありません。

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「灰」になってヨミガエリを拒否した持統天皇の思いを感じずにはおれません。
では、ここに出て来る「幼兒」とは…あの古今伝授に残された人なのでしょうか。
わたしにはわかりません。
古今伝授と207番歌(人麻呂の妻の挽歌)については、このブログの「264古今伝授に柿本人麻呂と持統天皇の秘密が」を読んでくだされば、少しは説明不足を補えると思います。

それから、前回は「飛鳥と明日香」の紀行文的だったのに、今回は「万葉集」の人麻呂の挽歌について書いているという……ブログの内容があちこちに飛びますね。
ごめんなさい。読みにくいブログになっていることでしょう。
わたしは古代史の謎に興味があるのですが、謎を解く鍵として地図があると考えています。それに、書紀や古事記、先代旧事本記や古語拾遺などの文献、寺社の由緒なども面白いと思うのです。それらのバラバラなパーツを一つずつ拾ってジグソーパズルのようにはめ込んでいるつもりです。だんだんバラバラだったものが、一定の方向に導いてくれるのではないかと、発見したことを書いているのですが。
パーツが多すぎて分かりにくいですよね。
これからも「丁寧に説明していく」つもりです。105.png112.png119.pngよろしくおねがいします。



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by tizudesiru | 2017-07-19 01:35 | 268人麻呂の妻は火葬された | Trackback | Comments(0)

264古今伝授に柿本人麻呂と持統天皇の秘密が

古今伝授に書かれた秘密
柿本人麻呂は持統天皇の恋人(?ホント?

という内容の本を10年位前に読んだことがあります。書名をどうしても思い出せないのですが、「古今伝授」を受けた公家の書き残したものを紹介した本でした。そこには、古今集の序文の読み解きが書かれていました。


古今和歌集・仮名序「二歌聖評」

いにしへより かくつたはるうちにも、ならの御時よりぞ ひろまりにける。かのおほむ世や、うたの心をしろしめしたりけむ。かのおほむ時に、おほきみのくらゐ かきのもとの人まろなむ、うたのひじりなりける。これはきみもひとも身をあはせたりといふなるべし。秋のゆふべ、竜田河にながるる もみぢをば、みかどのおほむために にしきと見たまひ、春のあした、よしのの山のさくらは、人まろが心には くもかとのみなむおぼえける。


昔からこのように伝わって来た中でも、奈良の帝の時代より特にひろまって来たのです。その御代には、歌の心を理解なさっていたのでしょう。その御代には、正三位柿本人麻呂が歌の聖でありました。これは帝も臣下もよく心を合わせ、同体であったと云えるのでしょう。秋の夕暮れ、竜田川に流れる黄葉を帝の目には錦と御覧になり、春の朝、吉野山の桜は人麻呂の心には雲ではないかと思われたのです。


古今伝授とは歌の世界の秘密や言い伝えを伝授することですが、「これはきみもひとも身をあはせたりといふなるべし」の箇所が人麻呂と持統帝の関係を暗示(暴露)した文だというのです。そして、子までなしたと…

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(軽の路は、奈良県橿原市の大軽・見瀬・五条野辺りで下ツ道はそのなごり?)

さて、その人麻呂と持統天皇の秘密は万葉集で読めるのでしょうか。
子どもまでいたというのですが…吉野に頻繁に出かけていた頃の持統天皇はすでに初老の婦人です。健気に有間皇子を追慕し続けた女帝から想像することはできないのですが。万葉集巻二に「妻の死を詠んだ」挽歌があります。

柿本人麻呂の妻死し後に泣血哀働して作る歌二首幷短歌

207 天飛ぶや 軽の路は 吾もこが 里にしあれば ねもころに見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み まねく行かば 人知りぬべし さね葛 のちもあわむと 大船の 思いたのみて 玉かぎる 磐垣ふちの 隠のみ 恋つつあるに 渡る日の くれぬるがごと 照る月の 雲隠るごと 奥津藻の なびきし妹は 黄葉の過ぎていにきと 玉梓の 使いの言えば 梓弓 おとに聞きて いはむすべせむすべしらに おとのみを 聞きてありえねば 吾戀ふる 千重の一重も なぐさもる こころ(情)もありやと 吾もこが 止まず出で見し 軽の市に 吾立ち聞けば 玉だすき 畝火の山に 鳴く鳥の声も聞こえず 玉鉾の 道行く人も 独りだに 似てしゆかねば すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる 


208
 秋山の 黄葉をしげみ まといぬる 妹を求めむ 山道知らずも

209 黄葉の ちりゆくなえに 玉梓の 使いを見れば 相し日おもほゆ


ここで読める「人麻呂の妻の姿は」
妻の里は軽の路の近くで、妻の許に何度も通って逢いたいのだが、止まずに通えば人目に付き、多く通えば人に知られてしまう。今は控えて後に逢おうと思ってひっそりと隠れるように恋しく思っていた…
人麻呂の妻は、人目があって簡単に会えない女性だった、高貴な人?
日が沈むように月が雲に隠れるように、あの人はもみじばのように亡くなったと使いが来ていうので、知らせだけ聞いてもどうしょうもなく、知らせだけきいても何の慰めにもならず…
人麻呂は妻の死に目にもあえず、知らせを受けただけというのです
そして、軽のちまたに在りし日のあの人の姿をもとめても、似た人もいなくて、畝傍山でいつも泣いていた鳥の声も聞こえず、あの子の名を呼んで袖を振った…
妻の面影を求めてただただ軽の巷を彷徨った人麻呂。どうして直に会えないのでしょうね。妻は簡単には会えない人だったのです。

次も、妻の死を傷んだ挽歌です。長歌と短歌ですが、これは、次回にまわします

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古今伝授は、わたしには懐かしい詞です。熊本市の水前寺公園に茶室がありました。そこは細川幽斎の「古今伝授の間」であると、社会科の先生が紹介してくれました。幽斎は肥後藩主細川忠興の父で、忠興の妻はガラシャ・明智光秀の娘です。


細川幽斎は武芸・和歌・茶道・連歌・蹴鞠などのわざを修め、囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深く、当代随一の教養人だったそうです。ですから、公家と交流も深く、三条西実枝に古今伝授を承けました。古今伝授とは古代から伝えられている和歌に関わる秘密を伝授するのですが、内容を書き残してはならず、むやみに漏らしてもなりません。それも、一対一で伝授するという掟がありました。


徳川家光が後水尾天皇に古今伝授のなかみを教えてほしいと頼んで断られて話は有名ですね。


また、幽斎が古今伝授のおかげで命拾いをした話も有名です。

1600年、息子の忠興が会津征伐に出た後に、幽斎は三男幸隆と500ほどの手勢で田辺城を守っていました。石田三成が徳川を討たんと兵をあげ、田辺城は1万5000の兵に囲まれました。幽斎は籠城します。包囲軍には幽斎の歌道の弟子も多く居て、彼らも攻めきれませんので長期戦となっていました。幽斎の弟子でもあった八条宮智仁親王は、2度にわたり講話を働きかけますが、幽斎は受け付けません。ついに智仁親王は兄・後陽成天皇に奏請し、勅使が田辺城に下され、関ヶ原の戦いの二日前に勅命による講和が結ばれました。理由はもちろん、幽斎が死亡すれば「大事な古今伝授が失われる」からです。古今伝授が天皇を動かしたと云うことです。

幽斎は三条西実枝からうけた古今伝授を実枝の子三条西公国と孫・三条西実条に返しました。また、八条宮智仁親王が幽斎から古今伝授を受けた「古今伝授の間」が、大正時代に熊本市の水前寺成趣圓(公園)に移築されたのです。


熊本地震で水前寺公園の湧き水が一時的に止まりましたが、今は回復しているそうです。
遅くなりましたが、明日のお知らせです。北部九州では記録的な大雨で大変な被害が出ていますので、お知らせするのに躊躇しました。が、明日のことですので少し報告します。明日7月8日(土)、久留米大学での公開講座です。

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時間は8日13時からで、今回は事前申し込みが必要でした。
開催されるのかというおたずねがありましたのでお知らせしました。
講座は一時間半ほどですから、万葉集の謎の一部のお話になると思います。
では、明日。


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by tizudesiru | 2017-07-07 00:19 | 264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密 | Trackback | Comments(0)

柿本朝臣人麻呂と玉津島

玉津島磯の浦廻の真砂にもにほひてゆかな妹も触れけむ
この歌は、すでに紹介しました。万葉集巻九の挽歌の冒頭五首は「右五首、柿本朝臣人麻呂歌集に出」と左脚があり、人麻呂歌集(人麻呂自身の作歌)の歌です。それは、「宇治若郎子の宮所の歌一首」と「紀伊国に作る歌四首」の合わせて五首でしたね。
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宇治若郎子の宮所の歌は、
1795 妹らがり 今木の嶺に茂り立つ 嬬待つの木は古人見けむ
紀伊国に作る歌は、
1796 黄葉葉の過ぎにし児らと携はり 遊びし磯を見れば悲しも
1797 塩気立つ荒磯にはあれど往く水の過ぎにし妹が形見とそ来し
1798 いにしへに妹とわが見しぬばたまの黒牛形を見ればさぶしも

1799 
玉津島磯の浦廻(うらみ)の真砂(まなご)にもにほいて行かな妹も触れけむ
上記の四首は、持統天皇の死後に人麻呂が紀伊国を訊ね、持統天皇の形見の地で霊魂に触れ、元明天皇に『初期万葉集』の奏上をしてもいいのか(文武天皇が崩御された後なので元明天皇に)霊魂に訊ねに行った旅だと、わたしは書いています。その事は既に紹介しました。
人麻呂が紀伊国に旅したのは、「過ぎにし妹」の形見の地を訪ねた時ばかりではありません。大宝元年(701)辛丑冬十月、持統天皇と孫の文武天皇に従駕して紀伊國に来ています。この時は、有間皇子の所縁の地を訪ねる旅で「結松」を詠みました。人麻呂は有間皇子事件には遭遇していませんから、「又も見むかも」とは人麻呂の心境ではなく、皇子の所縁の人に代わって詠んだものとなります。つまり従駕した太上天皇の思いに重ねて詠んだのでした。

146 後見むと君が結べる磐代の子松がうれを又も見むかも
無事に還って来た後にまた見ようと、皇子が結ばれた磐代の松が枝、あの無念の結松の枝をわたしは再び見ることがあろうか

そして、最晩年の持統天皇の「最後の紀伊国行幸」は、有間皇子への別れの儀式でもありました。この旅には孫の文武天皇も同行しました。文武帝とは途中で合流したのかもしれませんが、一行は、黒牛方・藤白坂・白崎・牟婁の湯と所縁の地を訪ねています。玉津島は紀の川の河口にありますし、景勝地ですから、行幸の人々が立ち寄ったと思われます。小さな島には宿泊は無理でしょうから、行宮は湾の玉津島が見える辺りに作られたのでしょう。
山部赤人が「雑賀野ゆ そがひに見ゆる沖津島」と読んでいますので、聖武天皇の時代には雑賀崎側に行宮はあったのです。更に「神代よりしかぞ貴き玉津島山」とその長歌を結んでいますし、「和歌の浦に潮満ち来れば」と反歌も伴いますから、赤人の見ている風景と人麻呂が「玉津島磯の浦みの真砂にも」と詠んでいる風景は、重なるはずです。二人が詠んだのは、同じ風景でしょう。
「神代よりしかぞ貴き」とは、聖武天皇の先祖(天武・持統)の時代からずっと尊い地であるというのです。つまり神代である持統天皇の時代からこの地に天皇が代々訪れていたので、ここが尊ばれたということなのです。
妹も触れけむ」と詠まれた真砂は、塩気立つ片男波の砂嘴の砂だったのでしょうね。
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(古墳時代の紀ノ川)
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(今は紀ノ川の流路は変えられている)
万葉集には玉津島の辺りを詠んだ和歌は多く残されていますが、祀られた神に関するものは有りません。玉津島神社の信仰はいつ始まったか分かりませんが、万葉集巻七の1216に、
潮満たばいかにせむとか海神(わたつみ)の神が手渡る海人娘子(あまおとめ)ども
という歌があるように、もとは海神の男神が祭られていたのかも知れません。それが女神に代わったとなれば、神代(持統帝のころ)となるのでしょう。
わたしには持統帝か文武帝により衣通姫の伝承が持ち込まれ「稚日女尊」として祭られたのではないかと思えてなりません。もちろん、有間皇子を追ってきた間人皇后がモデルです。(紀伊國の道成寺の「安珍清姫伝承」にも、間人がモデルとなったのではないかと、間人皇后が追って来た話と重ねて読んでしまうのです。道成寺は文武天皇が藤原宮子のために建てた寺となっていますが、この寺のご本尊の視線は真っ直ぐ岩内一号墳に向いているというではありませんか。岩内一号墳は有間皇子の墓と言われている方形の古墳です。紀伊国行幸の後、文武天皇が有間皇子の墓を改装し、寺を建てたと考えられなくはありません。もちろん、ゆかりの人だからです。)
持統帝が紀伊国行幸で文武帝に見せたかったのは、有間皇子の所縁の地と結松、藤白坂でした(紀伊國十三首で紹介しました)。
稚日女尊が祭神であることを十分承知していた光孝天皇が、あえて衣通姫を合祀したのは、持統帝や文武帝の紀伊国行幸の故事を踏まえてのことだったと思うのです。
また。


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by tizudesiru | 2017-04-22 21:21 | 243 柿本人麻呂と玉津島 | Trackback | Comments(0)

213柿本朝臣人麻呂、近江京を詠む

柿本朝臣人麻呂、近江京を詠む
人麻呂は持統天皇にすべてを捧げて尽くした官人でした。公の儀式の場で歌を詠み、皇族の葬儀でも挽歌を詠んでいます。
人麻呂が近江京を感傷する歌を詠んだのは、持統天皇の御代でした。
持統天皇はこの歌をどんな思いで、どんな顔をして聞いたのでしょう。微笑んだのか、涙を流したのか、知りたいものです。

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人麻呂が荒れた近江京を感傷する歌を詠んだのは、持統天皇の御代です。万葉集巻一「藤原宮御宇天皇代」の冒頭は、持統天皇の御製歌です。
28 
春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香来山
この歌に続くのが、29番の 「近江の荒都を過ぎる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」です。
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持統天皇が大津の宮を偲んだという、そこに込められた思いは何でしょうね。
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(大津の錦織遺跡の掘立柱跡)

人麻呂の歌から、中大兄が何者であったかが、読み取れます。では、
玉だすき畝傍の山の橿原の→神霊漂う畝傍山の聖なる橿原におられた
日知の御代ゆ→日を知る(暦を知る・聖ヒジリでもある)王の御代からずっと
あれましし神のことごと→お生まれになった神々(日知王)の悉くが
樛の木のいや継ぎ継ぎに→つがの木のように次々に続けて
天下知らしめししを→
大和で天の下をお治めになったのに
?????????そうです。
すると、天智天皇の皇統は
、いわゆる神武天皇に始まり、大和を治めて来たということです。

始まりは、天照大神だとは言っていません。
伊勢を目指した天武天皇とは祖先の扱いが違うのです。
どいうこと??
天智天皇は、カムヤマト磐余ビコの皇統だと、確認しておきましょうね。

これは、重要な歌ですね。人麻呂は、皇統の出自を歌っているのです。
そらみつ大和をおきて→それなのに、神武以来の大和を捨てて
あおによし平山(ならやま)を越え→
青土を平らに「ならす」と同じ「なら山」を越えて
いかさまに思ほしめせか→
いったい何と思われたのであろうか
天離ひなにはあれど石走る淡海国の楽浪の大津宮に天下知らしめしけむ→
都から遠い田舎の、水が滔々と流れる淡海国の楽浪郡の大津の宮で天の下をお治めになったという
天皇の神の御言の大宮はここと聞けども→
その天皇の神命の大宮はここだと聞くけれど
大殿はここと云えども春草の茂く生いたる→
大殿はここだというが、そこには春草が繁茂する
霞立つ春日の霧れる→
そこは、白く春霞がかかったように涙に曇ってよく見えない
百磯城の大宮処見れば悲しも→あの素晴らしかった大宮の址を見ると、万感の思いが寄せて来て悲しい
この後に「反歌」が二首続きます。人麻呂は、反歌と短歌を使い分けています。長歌の後に、長歌と同じ内容を繰り返し歌うときは、反歌です。内容が重複しないときは、短歌となります。
ここは、反歌ですから「大津宮とすぎにし大宮人を偲ぶ歌」として反復していることになります。
更に、題詞が「近江の荒都を過ぎる時」と地名が先に書かれ、人麻呂の名は後に有ります。
このように歌人が後にくる場合は、公の場での詠歌だそうです。
ですから、この歌は公の場で献じられたのです。もちろん、持統天皇に。
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持統天皇はこの歌をどんな思いで、どんな顔をして聞いたのでしょう。微笑んだのか、涙を流したのか、知りたいものです。
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また明日

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by tizudesiru | 2017-02-09 11:05 | 213人麻呂、近江京を詠む | Trackback | Comments(0)

204淳仁天皇の甥・和気王の謀反

204政変の果てに


藤原仲麻呂のの反乱で、藤原氏の氏族内の権力争いが決着したのではありません。まだ、聖武天皇と犬養広刀自との間に生まれた三人の子どもたちが残っています。称徳天皇には後継者はいませんから、誰が次の玉座に昇るのか、都には噂ばかりではなく呪詛も充満したことでしょう。

天武系の王子達も、密かな期待を持ちました。
和気王も舎人皇子の孫であり、淳仁天皇の甥であることから皇位を望んだようです。

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天平宝字八年(764)仲麻呂の乱は鎮圧されました。
和気王は淳仁天皇の甥でしたが、臣籍降下していました。
舎人親王に崇道盡敬皇帝の尊号が追贈されると、和気王は皇籍に戻っています。

淳仁天皇としては舎人親王に「天皇」と追贈したかったのですがかなわなかったのです。天皇と皇帝では、意味が違ったということです。

祖父の舎人親王の歌は万葉集に三首残されています。
万葉集の時代には、叙景歌はほとんどないとされます。純粋に景色や風景のみを詠むことはないのです。詞の中に意味があり、出来事や神事が詠みこまれて叙事詩となっているのです。すると、舎人親王の歌も、ただの叙景詩ではありませんね。

1706 黒玉の夜霧ぞ立てる衣手の高屋の上にたなびくまでに

この歌は、「右、柿本朝臣人麻呂の歌集に所出」と書かれた歌群(1682~1709)の中にあります。1704と1705は、人麻呂が舎人皇子に献じたものです。次が、1706で舎人皇子の歌と続いています。

    
「舎人皇子に献ずる歌二首」
1704 
ふさ手折り多武の山霧繁みかも細川の瀬に波の騒げる
1705 
冬こもり春へを恋ひて植えし木の実になる時を片待つ吾ぞ
人麻呂は舎人皇子に何を伝えようとしているのでしょうね。

1704 
木の枝をためるという「たむ」と同じ多武の山の霧が深いからだろうか、細川の瀬の波が立ち激しい音を立てている。
1705 
冬の間に春になったらと期待して植えた木に、花が咲いて実がなる時をただ待ち続ける私なのだ。
多武の峯には藤原氏ゆかりの談山神社があります。多武山は藤原氏を意味しているのでしょう。藤原氏の権力への欲望はその山霧のように深く、細い山川は瀬の音高く事件が起こりそうだと騒いでいる、とでも読めそうです。

更に、まるで冬のような時に何をしてもうまくいかない、春になったらと期待して実のなる木を植えておいて、花が咲いて実になるまでただひたすら待ち続ける以外に道はない、それが生き残る道なのだから、と人麻呂が伝えていると読めませんか。

そうして、次に舎人皇子の1706の歌です。
1706 ぬばたまのように黒い夜の暗闇に霧が立ち込め、高い館の上までも包みたなびいている。こんなに夜霧が深ければ、私には何も見えないし、何もすることはできない。
舎人皇子は、自分の置かれた状況を冷静にしかも正確に把握していたのでしょう。
しかし、子の淳仁天皇も孫の和気王も的確な判断ができなかったのか、または藤原氏の方が一枚上手だったのか。
哀しい結果となりました。

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また、明日






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by tizudesiru | 2017-01-25 00:59 | 204和気王の謀反 | Trackback | Comments(0)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
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30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
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37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
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118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
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122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
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129?国の墓制・巨石横穴墓
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131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城に瓦があった
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
261隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵善寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた

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