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間人皇后の愛・君が代も吾が代も知るや磐代の

中皇命は有間皇子を愛した中宮天皇
前回の「難波天皇の運命の人・間人皇后」が長くて分かりにくかったようなので、少し説明を捕捉しますので、過去のブログを思い出していただきたいと思います。

10 君之齒母 吾代毛所知 磐代乃 岡之草根乎 去来結手名(君がよも 吾代もしるや 岩代の 岡の草根を いざ結びてな)

ドラマチックなこの歌は、将に政変の歌であり、悲恋の歌でもありました。それも、万葉集の巻一の10番歌なのです。万葉集の重要な位置にあり、人麻呂が十分に配慮と校正を重ねた痕が残る部分なのです。万葉集の巻一が巻九と響き合うように構成されていることは、「紀伊國行幸の十三首」のところで既に書きました。
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中皇命は、紀伊温泉(きのゆ)に、斉明帝の行幸について行ったのではありません。目的があって自ら往(いでま)したのです。そこで詠まれた三首から一人の男性が浮かび上がりました。その人は「神に祈らねばおれない局面に立たされている人・それも命の危険にさらされていて、仮廬に夜を明かす旅寝の状況にある人」であり、「仮廬をお造りになるなら小松の下の草をお刈りくださいませ」と、中皇命が敬語を以って対する高貴な人であると読むことができました。

「吾が背子」が誰を意味するのか。有間皇子以外に選択肢はありません。間人皇后が中大兄の恋人という説で、兄に対して「貴方や私がいつまで生きるか分からないから」とか、「仮廬をお造りくださいませ」とか、詠んだとして、これらの歌の緊迫感と悲壮感は理解できません。中皇命がわざわざ紀伊国に出向いて歌を詠む意味も必要もありません。まして、草を結んで神に祈ろうなど、今を時めく中大兄皇子には不要です。
このように、中皇命の歌が有間皇子事件の時に詠まれたものであることは、何度も紹介したのです。それも、有間皇子を思って追いかけて来た間人皇后が詠んだ歌だと。
更に、今回、もう少し踏み込んだ紹介をしたいと思います。

更に、「岡の草根をいざ結びてな」という誘いに応じたのは、万葉集中にただ一首「磐代の濱松が枝を引き結び」と応えた有間皇子の歌以外にありません。中皇命の歌と有間皇子の歌は、本来は「相聞歌」ではなかったでしょうか。お互いの消息や愛を確かめる相聞歌です。しかし、「相聞」に掲載されなくて「雑歌」と「挽歌」に引き裂かれています。が、本来は並べられていたと思われます。人麻呂は並べていたと。
しかし、平城天皇に編纂を任された学者達がおもんばかって(忖度して)入れ替え差し替えたと思うのです。
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試しに有間皇子の自傷歌と、巻九の冒頭から二首目に置かれていた不思議な歌(1665歌)を並べてみました。1665番かは「岡本宮御宇天皇(斉明天皇)紀伊国に幸す時の歌」と題詞に有りますから、「妹が為吾玉拾う奥辺なる玉よせもち来奥津白浪」は、有間皇子事件の時、斉明帝と中大兄皇子が紀伊国にいた時の歌なのです。作者は未詳となっています。
そして、40年以上も経った大宝元年の持統太上天皇の「紀伊国行幸の時の十三首」の冒頭の歌に酷似しています。それが、次の歌です。
1667番歌「妹が為我玉もとむ おき辺なる白玉寄せ来 おきつ白浪
1667番歌は、1665番歌を意識して四十年以上も経った大宝元年に詠まれたのです。
紀伊国行幸の十三首の冒頭歌には、大きな意味があったでしょう。有間皇子の歌をそのまま「本歌取り」したと思うのです。
もちろん、紀伊国十三首の冒頭歌は、柿本人麻呂作だと思います。人麻呂でなくて、誰が冒頭歌に「有間皇子事件当時の歌」に似せた歌を掲載するでしょうか。
紀伊國行幸十三首は、有間皇子の歌を思い出すところから始まったのです。もともとは、見事な編集になっていたのでしょう。
しかし、現在の万葉集ではわかりにくくなっている…

ここに、のちの世の編集の作為や意図が見えませんか?


万葉集はあまりによくできた「魂鎮めの歌集」でした。非業の最後を遂げた有間皇子(難波天皇)の霊魂を慰め、皇子を追いかけた間人皇后の愛と献身に応えた歌集です。その歌集の編纂を望んだ人は、有間皇子・間人皇后に所縁の人、そう結論する以外にないのです。
明日も、もう少し捕捉する予定です。


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by tizudesiru | 2018-01-16 22:17 | 319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや | Trackback | Comments(0)

難波天皇と持統天皇の運命の人・間人皇后

持統天皇の難波宮行幸

持統天皇と難波宮とは深い因縁があるということでしょう。

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朱鳥元年に前期難波宮は全焼したと書かれていますし、発掘の結果でも掘立柱の焼け跡が確認されています。その後に建てかえられたのでしょう。持統天皇即位以後も、節目ごとに各天皇の難波宮行幸がありました。各天皇と難波宮のかかわりを見ましょう。
白雉三年~五年(652~654)孝徳天皇の皇居(五年に崩御)
斉明六年十二月(660) 斉明天皇行幸(百済救援の武器をそろえるため) 
天武八年十一月(679) 天武天皇、羅城を築く
天武十二年十二月(683) 天武天皇、難波宮を第一の陪都と定める
朱鳥元年正月(686) 難波宮全焼

持統六年四月(692) 有位の親王以下、少初位下相当に至るまでに、難波大蔵の鋤を賜う
持統□年 (69□)  持統太上天皇行幸(万葉集に行幸時の歌あり)
文武三年ー~二月(699) 文武天皇行幸(大宝令成定の前年)
慶雲三年九月(706) 文武天皇行幸(崩御の前年)
養老元年二月(717) 元正天皇行幸(即位三年目)
神亀二年十月(725) 聖武天皇行幸(即位二年目)
神亀四年二月(727) 聖武天皇、難波宮を造営(後期難波宮)

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難波長柄豊崎宮(なにわのながらのとよさきのみや)は、白雉三年(652)に完成しました。この都は経済的・政治的な面だけではなく、外交の面からも重要な港を持ち、選び抜かれた本格的な皇都だったのでした。「乙巳の変」後の新しい政治を象徴する都だったのです。
この皇都から、白雉四年に中大兄は母(斉明天皇)と妹(間人皇后)や役人らを率いて倭京に帰っています。東宮という立場でありながら、天皇の皇后まで連れて倭京に帰るとは、異常事態です。(天智天皇は難波宮を捨てたのです。だから、持統天皇が難波宮を重視するのは天智天皇との関わりからではありません。他に理由があるのです)
中大兄皇子の倭京への引き上げは、孝徳天皇にも信じられない状況でした。
孝徳天皇が間人皇后に贈った歌が書紀にありましたね。
金木つけ 吾が飼う駒は引き出せず 吾が飼う駒を人見つらむか
後宮の皇后を連れ出せる人とは、それは誰なのか、様々に取りざたされました。間人皇后と中大兄皇子が恋仲だったという説もあります。翌年の白雉五年に孝徳天皇が病に倒れたので、間人皇后は中大兄と難波宮に天皇を見舞いました。皇后はそのまま難波宮に残ったのでしょう。玉璽を預かり中宮天皇となったのですから。

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中宮天皇の存在については、これまでも紹介してきました。
難波宮天皇(孝徳天皇)は病が重篤となった時、間人皇后(はしひとのこうごう)=中宮天皇に玉璽を渡したので、「玉璽を持たない天智天皇は、中宮天皇が薨去するまで極位につけなかった」といいました。
また、中宮天皇の実在は、野中寺の小さな仏像の「野中寺弥勒菩薩半跏像銘(やちゅうじみろくぼさつはんかぞうめい」文の干支で確認されています
。この銘文の中宮天皇として斉明天皇と間人皇后が考えられていますが、さて銘文は、母の斉明帝(661年没)、娘の間人皇后(665年没)のどちらを指すのでしょうか。「丙寅年四月大旧癸卯」の丙寅癸卯が重なるのは、天智五年(666)だけです。
しかし、二人の没年を見ると、天智五年(666)に病気平癒をねがったのなら、どちらも没しているので該当しません。では、銘文を読みましょう。

丙寅(ひのえとら)四月大旧(だいきゅう)八日 癸卯開に記す。栢寺(かしわてら)の知識等、中宮天皇の大御身、労(いたづ)き坐(ま)しし時にいたり、誓願し奉る弥勒像也。友等人数一百十八、是に依りて六道の四生の人等、此の数に相(あ)うべき也。

「栢寺」について*何処にあったのか不明です。
「大旧」について*持統四年に採用された新暦では四月は29日で、旧暦(元嘉暦)では30日となり、29日を「小の月」30日を「大の月」ということで、「大旧」とは「四月が旧暦では大の月だった」という意味だそうです。(では、旧暦と新暦が同時に使われている時期に銘文が彫られた弥勒像だとなりますね。すると、銘文は持統四年より後の時代のものです。)
癸卯開の「開」について*「開」は暦用語で、造営・治病に良いとされる日だそうです。

「大旧」が「旧暦の大の月」であれば、銘文が持統四年より後に彫られたとなり、中宮天皇の病が重篤になった時に像が作られ、銘文はその後に由来を知る人により彫り込まれたとなりますね。では、誰が彫ったのか。そもそもどなたの病気平癒を願って、誰が造らせたものなのでしょう。
仏像が間人皇后のために造られたのであれば、天智天皇の時代の誰か、中宮天皇の身近な人が造ったとなりましょう。さて、間人皇后の没年ですが、野中寺の銘文が正しいとすると、書紀の没年とは一年ずれることになりますが、そのずれの原因は書紀の記述の混乱かも知れません。その例を書紀から探してみましょう。

日本書紀の斉明紀・天智紀には一年ずれる重出記事がある
一つ例を挙げてみました。
斉明六年(660)の十二月に、斉明天皇は難波宮に行幸しますが、それは百済救援のための武器を調達するためでした。660年に百済の王たちは唐に連行されていますから、事実上百済は滅びました。王家の血族でもあった鬼室福伸が救援軍を要請したので、斉明帝が難波行幸したとなっています。そして、七年(661)の正月に出航して三月に筑紫の娜大津(なのおおつ)に到着するのです。(斉明帝の行動が早すぎます。)
高句麗の僧・道顕の「日本世記」によれば、七年(661)四月に鬼室福伸より「王子・豊璋を迎えることを乞う」と使いが来ています。斉明天皇は朝倉宮に遷り、七月には崩御となるのです。中大兄皇子が称制し、九月に豊璋に五千の護衛の兵をつけて百済に送りました。そして、明日香に戻り、天皇の殯宮は川原宮で行われました。一旦、明日香に引き揚げたということです。(この後、中大兄皇子は筑紫に行かなかったのでしょうか)
天智一年(662)五月に安曇比羅夫が軍船百七十艘を率い、
豊璋を百済に送りました。
百済の王子・豊璋は百済に二度も帰国したことになります。
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(福岡の恵蘇八幡神社・木の丸殿の址といわれています)

書紀の記述に重出があることはよく知られています。記録が二重にあって、どちらが正しいか分からないのでしょうか。そうであれば時期の整合性も無くなります。わたしは「間人皇后の没年記事も、一年早いのではないか」と思うのです。
斉明天皇の筑紫への征西(661正月)は早すぎます。難波宮で調達した武器はあっても、船も兵もないのです。書紀では、百済救援の武器を修繕し、船舶を準備し、軍兵の食料を蓄えるのは、天智一年(662)になっています。二万七千人の出兵は天智二年(663)のことです。


間人皇后の没年は正確ではない可能性があると思うのです。
野中寺の仏像は、中宮天皇の関係者が病気平癒を弥勒像に祈ったか、平癒を願って仏像を造らせたか、です。白村江敗戦後に手に入れた仏像に、中宮天皇の病気平癒を祈っただけかも知れません。その事を後の時代になって、「この仏像には高貴な方との特別な関わりがあることを忘れてはならない」として彫らせたものかも知れません。仏像と銘文の製作は一致しないと思うのです。ただ、中宮天皇という女性の実在は動かせないのです。

中宮天皇は誰だったのか、それが問題です。万葉集には「中宮天皇」という言葉はありません。中皇命とはありますが、それは、間人皇后を置いてほかにはないのです。玉璽を預かる立場の后と考えるならば。

他に、中皇命と同じ立場の女性を表す詞として、次のような資料があります。
「仲天皇」・天平九年『大安寺伽藍縁起幷流記資財帳』天智后倭大后
「中都天皇」・『続紀』巻三〇、神護景雲三年十月詔  草壁皇子妃、のち元明天皇
「中宮天皇」・河内野中寺弥勒菩薩像台座銘 (斉明天皇・間人皇后)


「中・仲・中都・中宮」天皇という言葉には、中継ぎとして玉璽を受け継ぐべき立場の女性という意味があります。しかも、間人皇后=中皇命=中宮天皇 を指すという、理由がまだ野中寺にあります。
この寺は「中の太子」と呼ばれ、「聖徳太子の命によって蘇我馬子が建立した」と伝えられています。叡福寺が「上の太子」、八尾市の大聖将軍寺が「下の太子」と呼ばれています。この辺りを本拠地としていた船史(ふなのふひと)氏の氏寺として創建されたそうです。創建当時は、東西に金堂と塔が並ぶ伽藍であったそうです。
百済系渡来人の船史氏の寺が、何ゆえ「聖徳太子と結びついた」のでしょう。ここで、叡福寺古墳の三骨一廟が思い出されます。穴穂部間人皇后が共に埋葬されているという伝承です。この事は以前にも書きました。(穴穂部間人皇后は、義理の息子と再婚しているのです。聖徳太子の母として同じ墓に入る理由はうすいのです。既に、大后ではありません。玉璽を預かる立場ではないのです。)
最近のブログで、叡福寺古墳は孝徳天皇と間人皇后と斉明天皇の墓であると紹介しました。そうです、同じ間人皇后に関わるのです。野中寺は間人皇后の病気平癒を願い、薨去の後は菩提を弔ったのかも知れません。聖徳太子信仰の高まりにより、同じ名を持つ間人皇后の関係で「中の太子」と呼ばれるようになったのでしょう。
伝承には深い意味があると思います。

持統天皇は、大宝律令が完成する前に難波宮に行幸した

行幸の目的は、亡き難波天皇への報告ではないでしょうか。いよいよ律令が完成し、元号も建てることになりましたと、それまでの天皇ができなかった建元をしたのです。画期的な事だったはずです。だからこそ、文武天皇も行幸したのです。
前回に万葉集巻二の冒頭歌の題詞に出てくる「難波高津宮天皇」について紹介しました。
この難波天皇は、大方の解説者のいうように「仁徳天皇、または孝徳天皇」とは考えられないと書きました。難波天皇は「ある日出かけたまま帰って来ない天皇」で、その帰りを待ち続ける皇后(磐姫)がいて、「白髪になるまでも待ち続けよう」という歌でした。続く軽太郎女皇女の歌は、皇位継承事件を詠んだものでした。「皇太子が行ってしまってから日が経ってしまったが、迎えに行こう、待ち続けることはできない。」と進みだした歌でした。
巻二の冒頭歌六首は、有間皇子事件を知らしめる歌だった。そのように編集されたのが巻二だったのです。と、紹介しています。


難波天皇に所縁の深い乙女(持統天皇)を救ったのは、中皇命(中宮天皇)を置いて、他にはないでしょう。将に、中皇命が持統天皇の命運を握り、守ったと思います。なぜなら、愛する人の忘れ形見だったから、ではありませんか。

持統天皇は難波宮に行幸していますし、その時の歌が万葉集に残されているのです。しかも歴代の天皇は、必ず難波宮に行幸していますから
難波宮とは深い因縁があったということです。この深い因縁は尋常ではありません。歴史の闇に取り残された事実を、「万葉集・野中寺の仏像・難波宮への行幸」が語り続けていると思います。


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by tizudesiru | 2018-01-16 03:04 | 318難波宮の運命の人・間人皇后 | Trackback | Comments(1)

万葉集巻二の難波天皇・持統天皇の出自を暗示する

皇都の遷都は政変と重なる
欽明・敏達・推古・舒明帝の時代は、大王の館が政治の中心でしたから皇居は次々に変わりました。が、難波宮・近江京・藤原宮・平城京・長岡京・平安京などの遷都は、いずれも政治の転換点であり、政変が絡んでいました。また、最初の皇都である孝徳天皇の難波宮(652年完成)は、先達として後世の都のモデルとなりました。天武十二年(683年)、天武天皇は難波宮を第一の陪都と定めました。難波宮に持統天皇や文武天皇が何度も行幸しましたが、それは何を意味したのでしょうか。藤原宮は難波宮をモデルに作られたのです。朝堂院内の堂の並びや数、敷地の東西の幅など、両者には共通点があります。高市皇子や持統帝の意思で作られた藤原宮には難波宮への特別な思いが窺えますが、それは何ゆえに生まれたのでしょうか。
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難波宮大極殿と天香具山をラインでつなぐと、直線は藤原宮の大極殿を通りました。孝徳天皇が難波宮に暮らしたのは、白雉三年から五年の間(652~654)わずか二年です。藤原宮が難波宮を意識して造営されたとしても、白雉五年での持統天皇は九歳くらいで高市皇子は生まれたばかりですから、関わりがあっても高市皇子ではないでしょう。では、藤原宮御宇天皇である持統天皇にとって、難波宮はどんな意味があったのでしょう。
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難波宮天皇と持統天皇陵のつながりは?

藤原宮は15年(足かけ17年)で捨てられましたが、難波宮は百年以上使われました。この違いはなんでしよう。難波宮は持統天皇にとってどんな意味があったのか、ラインでも見ます。
難波宮から天武持統陵(野口王墓)にラインを引きました。すると、ラインは真の欽明陵といわれている見瀬丸山古墳(五条野丸山)を通り野口王墓に届きました。
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このラインが王墓造営の時に意識されたと、断定はできません。しかし、持統天皇と難波宮には何かしらつながりがあると、思いました。宮殿にしても陵墓にしても、造営する時に何の意味もない土地が選ばれることはないと思うのです。
そこには、陵墓を造った人の意思、宮殿を造った人の思いが絡んでいるはずです。
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天智陵を天武持統陵と結ぶ(ピンクのライン)と、藤原宮の大極殿を通ることは、何度も紹介しました。王墓はその位置に意味がある、都も然りです。

では、難波宮と持統天皇とを結びつけるものは、何なのか。
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ここで、万葉集の巻二に気になる天皇の存在があります。
万葉集巻二の冒頭歌に「難波高津宮天皇」が登場するのですが、(その皇后の歌・四首は既にブログでも紹介しています。)難波天皇は仁徳天皇とされ、その皇后・磐姫が「帰って来ない天皇を待ちのぞむ」歌でした。しかし、古事記や日本書紀では逆で「出て行って帰って来なかったのは磐姫皇后」の方で、皇后に「帰って来てほしい」と歌を詠み続けるのは仁徳天皇の方なのです。二人の状況が記紀と万葉集では逆転しているのです。
万葉集の歌は叙事詩と云われていますから、物語を創作してお話の世界を詠んだ歌とは考えられません。それも、巻二の冒頭歌ですから、ただ偶然に掲載されたのではないでしょう。(万葉集の各巻の冒頭歌には深い意味があります)
すると、難波天皇は何かの事情で長い間不在と云うことになります。しかも、仁徳天皇ではない可能性が大きいと思います。(仁徳天皇の難波高津宮はまだ不明です、長い間探し続けられていますが。)

いったい、万葉集の難波天皇は何処へ行かれたのでしょう。

当時、万葉集を読んだ人たちには、巻二の冒頭歌の意味も、難波天皇の不在の理由も分かったのでしょうか。分からなかったなら、脚注などが付けられたでしょうから。

 難波の高津宮に天の下知らしめす天皇の代(大鷦鷯天皇、諡して仁徳天皇という)
 磐姫皇后(いわのひめのおほきさき)、天皇を思(しいの)ひて作らす歌四首

85 君が行き けながくなりぬ 山たづね 迎えか行かむ 待ちにか待たむ

磐姫皇后の四首(85・86・87・88)に続けて、「或本の歌一首」が古歌集より載せられています。「89 居明して君をば待たむ ぬばたまの吾黒髪に霜はふるとも」、白髪になっても待ち続けますというのです。そこまで長い不在なんて、状況として考えにくいです。

難波天皇の長い不在の理由は何でしょうか。実は、その理由が暗示されていると思うのです、次の歌を使って。ある事件が暗示されていると…

そこに、政権に巻き込まれた高貴な人の運命が
次にあるのは、軽太郎女(かるのおおいらつめ)=衣通姫(そとほりひめ)の歌です。

90番の歌の前後に長い題詞と長い左脚があり、この歌について説明されています。
古事記に曰く
軽太子(かるのひつぎのみこ)、軽太郎女に姧(たは)く。その故にその太子を伊予の湯に流す。この時に、衣通王(そとほりのおおきみ)恋慕(しのひ)に堪(あ)へずして追い往く時に、歌ひて曰く


90 君が行き けながくなりぬ 山たづの 迎えを行かむ 待つには待たじ


まるで磐姫皇后の歌に似ています。
古事記によると、軽太郎女皇女は木梨軽皇子の妹で、その美しさのために同母兄の木梨軽皇子に愛されてしまった人でした。木梨軽皇子は皇位継承者でしたが、禁断の愛の為にその権利を奪われ、遂には軽太郎女と共に自殺してしまうのです。

不思議な運命の糸が絡む歌・巻二の冒頭歌に続く「木梨軽皇子の事件」の歌
木梨軽皇子は允恭天皇の皇太子で、允恭天皇は仁徳天皇の御子ですから、軽皇子は仁徳天皇(難波天皇)の孫になります。つまり難波高津宮天皇の孫の皇位継承者の悲劇的な事件の歌なのです。その事件の歌が、磐姫皇后の歌に並べられているのです。よく似た歌として。
木梨軽太子は皇太子ですから、めったなことでは皇位継承権を奪われることはありません。そこへ「禁断の愛」です、書紀では「汁物が凝ったので占ったら、事が明らかになった」というのです。古事記では、「皇子が二人の関係を歌にした」から人々が知ったことになっています。
占いと歌でしたから証拠は曖昧なもので、弟の穴穂皇子側の陰謀の臭いもしてきます。


万葉集巻二の冒頭歌(85~90)は、難波天皇の事件にかかわる歌ではないか

万葉集が持統天皇の意思を汲んで編纂されたものであるなら、そこに女帝の願いや思いがあるでしょう。難波天皇と呼ばれる人は決して架空の天皇ではない、とわたしは思います。
その人は、皇位継承者であり、近親者によりおとしめられ、陰謀により皇位継承権を奪われ、そして命も奪われた。更に、彼を愛した女性は皇女であり(皇后でもあった)、更に、帰らぬ天皇を追って迎えに行った人、となるのです。
すると、難波天皇は仁徳天皇ではない。難波天皇は実在した人であるが、孝徳天皇でもない。

では、誰なのですか? 答は既に何度も何度も書いてきました。

難波天皇と呼ばれる人物は、有間皇子事件の当時者=有間皇子以外にいないのです
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その人は、持統天皇の所縁の人です。持統天皇は難波宮に行幸していますし、その時の歌が万葉集に「太上天皇、難波行幸の時の歌」掲載されているのです。持統天皇は難波宮を特別に思っていたのです。しかも、
万葉集巻二の冒頭は、「有間皇子事件」に関わる歌となっています。そして、同じ巻二の「挽歌」の冒頭も「有間皇子の自傷歌」です。
万葉集の巻二の編集の目的、それは「有間皇子事件」の告発なのかも知れません。誰もが知っている「事件」だったのでしょう。事件は歌の形を借りて、文武帝に伝達されようとしたのです。が、文武帝は奏上の前に崩御されました。
難波天皇が有間皇子を想定しているのなら、皇子は即位していたか、即位してもいい状態だったか、皇太子として準備をしていたか、いずれでしょうか。その皇子が突然あらぬ疑いをかけられて、連行された。誰もが心配したでしょう。
孝徳天皇の後宮は有間皇子の後宮に移動していたでしょうから、間人皇后は当然『次の天皇の後宮に遷る』ことを承知していたはずです。

だから、間人皇后は有間皇子の後を追いかけて行ったのでした。「君が行き日(け)ながくなりぬ」だったからです。
しかし、事件は悲惨な結果となり、間人皇后は、しばらく日本海側の間人(たいざ)という港に隠れたのです。一人ではなかったでしょう。後宮の女性たちが一緒だったでしょうし、その中に有間皇子の子女もいたと思います。
そして、皇后は玉璽を守っていたのです。
やがて、皇后は摂津に返ります(難波宮かもしれません)が、そこで病に倒れたのでした。
人々は勇気のある、しかも賢く美しい皇后=中宮天皇の病気平癒を願ったことでしょう。
皇后が摂津に戻った時、鵜野皇女が間人皇后から引き離されていたかも知れません。
高貴な乙女であれば、後宮に召される他に選択肢はありませんでした。だから、当然、天智帝の後宮に入れられたのです。


藤原宮は捨てたのに難波宮は大事にされるとは
更に、727年に聖武天皇は難波宮を瓦葺の宮殿に建てかえました。その理由は、簡単です、所縁の宮殿だったからです。聖武天皇と難波宮との深い因縁無くして、考えられないことです。

その難波宮を捨てるのは桓武天皇で、延暦のころ、平安京遷都(延暦十三年・794年)の二年ほど前です。桓武天皇はどんなに立派でも難波宮はいらなかったのです。

持統天皇は、大宝律令が完成する前に難波宮に行幸しています。しかも歴代の天皇は、必ず難波宮に行幸しています。行幸の目的は古を偲ぶことでしょうか。
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難波宮と持統天皇は深い因縁があったということです。
ここで、これまでに書いて来たことを確認しました。次は、持統天皇の難波行幸の歌を詠みましょう。
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では、また後で。




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by tizudesiru | 2018-01-12 17:32 | 318難波宮の運命の人・間人皇后 | Trackback | Comments(1)

持統天皇と呼子鳥をめぐる謎

続・持統天皇を呼び続ける呼子鳥
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歴史書を無視した話になってしまいました? 持統天皇の出自について、
前回のブログを見てびっくりですか? 確かに、無茶な展開でしょうね。

鵜野皇女は正史では蘇我石川麿右大臣の娘と天智天皇の間に生まれた皇女となっています。が、巻九の「紀伊国行幸の時の十三首」を繰り返し読んで、わたしには疑問が湧いて来たのです。持統天皇は何故にこれほど「有間皇子」を偲び続けるのかと。
はじめは、十三歳の鵜野皇女は有間皇子の許婚者だと思いました。孝徳天皇の跡を継ぐべき有間皇子と鵜野皇女は孝徳天皇の意思で婚約し、有間皇子は極位を継ぐべき立場にあったと思いました。そうなると、岩代まで有間皇子を追ってきた中皇命の歌の意味が分かりにくくなります。なぜに、父親の皇后という立場の女性が有間皇子を追って岩代まで来たのか、不思議です。兄の中大兄皇子の為に有間皇子に付き添ってきたという通説が成り立つでしょうか。

巻九と巻一と巻二(挽歌)を読むかぎり、中皇命は自分の意思で有間皇子を追って兄や母とは別に紀伊国に入っていたのです。「幸す」と「往く」と使われた漢字が違っていますから、それは揺るぎません。

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有間皇子に玉璽を伝えようと思っていたから、有間皇子が追っ手によって殺された後、中皇命(間人皇后)は逃げたと思います。日本海側の間人(たいざ)と呼ばれる港町に。間人(たいざ)に難を逃れた間人皇后は聖徳太子の母ではなく、孝徳天皇の間人皇后が追っ手から逃れたのだと思います。同じ「間人」ですから、聖徳太子信仰と結びついて伝承が残されたのだろうと。
だから、天智天皇は妹の間人皇太后が薨去した後、母の斉明天皇と合葬した後でなければ、即位できなかったのではないでしょうか。玉璽が手元にないのだから。
天智天皇は玉璽を得て初めて正式の大王になったのでした。

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では、持統天皇の母は誰でしょう。山田寺に封が下されたり見事な瓦が葺かれたり、天武朝の手厚い扱いを見ると持統天皇が蘇我系の女子であることは間違いないでしょう。

それでも、有間皇子が薨じた時十九歳だったという日本書紀の記述が、「持統帝は有間皇子の家族」説の大変な障害となりました。

それで、「日本書紀」が意図的に有間皇子の年齢を一回り(十二年)操作したという怪しげな説を持ちだす以外にないのですが…

あえて、次のような内容をブログに紹介してきたのです。ほとんど、去年から書いていることです。


・孝徳天皇の四十歳すぎに生れた後継者としては遅すぎるので、有間皇子はもっと早くに生れていたのではないか。
・中大兄皇子(三十歳過ぎ)がライバル視する年齢なら有間皇子は同年代に近いのではないか。
・難波宮には後宮も東宮もあったようだが、中大兄皇子は東宮には入らなかったし、妹も母も連れてヤマトへ戻っているので、皇太子ではなかっただろう。
・政権が変われば、後宮の女性たちは次の後継者の後宮に入れられたのではないか。孝徳朝の女性は有間皇子の後宮へ。有間皇子の後宮の女性は天智朝へ。天智朝の女性は天武朝へ。政権が変わるたびに女性は次の政権に引き継がれることになっていたので、十市皇女や吉備采女(近江朝の采女)の悲劇となった。
・中皇命は次の後継者である有間皇子の妃となることを承知していた。
・十市皇女の自殺によって後宮の中に不安が広がったので、天武天皇は「吉野の盟約」と呼ばれる儀式で、天智朝の皇子も含めて「家族になる儀式(謀反は起こさない)」をしたのではないか。それによって、天武天皇は満足して「吉野よく見よ」の歌を詠んだのではないか。

などなど、少しずつ書いて来ました。それは、有間皇子が十九歳ではないという前提によって引き出されたことですが、万葉集を読むかぎりこのようなことになってしまうのです。

わたしは古代史研究家ではないので平気で「とんでも説」を書けますが、日本書紀を読めるような研究者は「とんでも説」は出されませんね
もちろん、わたしも長い間「正史」に書かれていることを疑うなんてことはありませんでした。
しかし、元々好きだった万葉集を時々読むうちに疑問に思う事が次々に出て来たのです。「なぜ」を重ねていくうちに「持統天皇の出自って正史の通りなのかな?」という気分になったのでした。
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(紀伊国の春)
そして、巻九を何度も読むうちに「もしかしたら持統天皇は有間皇子の所縁の人!」ではないかと思うようになったのでした

だって、持統天皇は草壁皇子を亡くした翌年に息子の妃を連れて紀伊國行幸に出たのに、有間皇子の岩代の海岸を訪れ結松に涙しているのです。息子を思って泣くならともかく、三〇年も前に謀反の罪で刑死した有間皇子の謂れある地を訪ねて涙するなんて、所縁の人ではなくて考えられなかったのです。草壁皇子を偲んで泣いたのは、嫁の阿閇皇女(元明天皇)でした。嫁はむしろ他人でしょうに、母は息子ではなく更に縁の薄い有間皇子の霊魂を鎮めようとするなんて。
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更に、四〇年後、大宝令の完成した大宝元年に持統太上天皇は文武天皇と紀伊国行幸に出ますが、徹底して有間皇子を偲ぶ旅でした。若い文武天皇に伝えたいことがあった行幸で、有間皇子事件を辿るなんて信じられない展開です。
しかも、皇子終焉の地・藤白坂では涙を流し「皇子は無実だった」と読み、紀伊國には「止まず通わん」と十三首を締めくくったのでした。
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もちろん、天智天皇の罠に落ちた悲劇の皇子(皇位継承者だった)の霊魂を慰めることは、これから築こうとしている王朝の繁栄を盤石なものとするための儀式だったと考えられなくもありません。文武天皇にも祟り神としての有間皇子を祀らせ、先々の災難を避けようとしたと。

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しかし、考えてみてください。有間皇子の「まさきくあればまたかえり見む」の歌を思い出してください。「命永らえて戻ってきたら、また、お前を見よう。おまえに会いたい」と詠まれています。皇子は独りではなかったのです。再会したい人や家族があったから濱松が枝を結んだのでした。
皇子が再会したかった家族はどうなったのか。わたしはそれが気になりました。
もし連座をまぬかれるとしたら、誰が守ったのか、それは有りえるのか、などなど考え続けたのです。そして、

藤白坂でその運命を受け入れた有間皇子は霊魂となって、忘れかたみの娘を呼び続けた呼子鳥である、わたしにはそう思えたのでした。

では、天智天皇の皇女だという正史はどうなる? という段階ですね。実は、このことも万葉集を読むかぎり「一つの答え」しかないのです。




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by tizudesiru | 2017-11-13 01:47 | 300持統天皇を呼び続ける呼子鳥 | Trackback | Comments(0)

謎の鳥・喚子鳥は持統天皇を呼び続ける

300万葉集に詠まれた謎の鳥・呼兒鳥
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持統天皇が吉野に行幸した時、高市黒人が「呼兒鳥」を詠む。
「よぶこどり」を万葉集事典で調べると「かっこうか。郭公、渡り鳥、夏鳥。ほととぎすより大きい。灰青色。尾が長く白斑。蛾の幼虫などを捕食。おおよしきり、ほおじろ、もずなどの巣に托卵。声は人を呼び人恋しさを誘う。カッコウと鳴く。他に容鳥(かおどり)は霍公鳥などの説も。」と書かれています。

実は、呼子鳥とはどんな鳥なのか分からないのです。万葉集の謎の鳥です。その鳴き声が「アコー=吾子」と聞こえるので、呼子鳥と呼ばれたというのです。呼子鳥は夫が妻(又は恋人)を呼ぶ鳥ともされますが、わたしには親が吾子を呼ぶイメージしかありません。 

ではでは、高市連黒人の「呼子鳥よぶこどり」を読んでみましょう。だって、この歌は「持統天皇の吉野行幸」で献じられた歌なのです。持統天皇の為に詠まれたとしたら、そこにどんな意味があるのでしょう。公的な場で、謎の鳥を詠んだ高市黒人は、何を考えていたのでしょう。


70 倭には鳴きてか来らむ呼子鳥きさの中山呼びぞ越ゆなる

倭には鳴きながら来たでしょうか、呼子鳥は。ここ吉野では、さきの中山を吾子と呼びながら越えていきます。

この歌が詠まれたのは吉野、それも持統天皇の行幸時で、公的な場と既に言いました。「呼子鳥は大和に向かって吾子を呼びながら越えて行く。よほど吾子を恋しく思っているのでしょうね」と高市黒人は詠んでいるのです。
それは霍公鳥ではなく、呼子鳥と呼ばれる鳥…ということは、呼子鳥が何なのか、その場にいる持統太上天皇をはじめ従駕の人々は知っていたと云うことですね。
鳥は亡き人の霊魂と古代の人は考えていたと、何度も書きました。この呼子鳥も誰かの霊魂なのでしょうね。

吉野で「あこー」と吾子を呼びながら、その吾子のいる倭へ向かう鳥とは誰なのか。そして、その鳥となった霊魂が恋しく思うのは誰なのか?


呼子鳥となった霊魂は〇〇、呼ばれているのは持統天皇だと、わたしは思います。
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(紀ノ川・妹背の山の辺り)
呼子鳥となった人物は、吉野川・紀ノ川につながる人です。
吉野川は、紀伊国では紀ノ川と呼ばれます。(下流と上流では呼び名が違っているのです。持統天皇の吉野離宮はこの川の上流に、聖武天皇の離宮は河口の玉津嶋の辺りに後世造られました。吉野川は天武朝の人々には所縁の深い河なのです。)
持統天皇が在位中に三十回以上も行幸した吉野、その離宮で詠まれた歌は沢山ありますが、「呼子鳥」の歌は、持統天皇が譲位した後の行幸で詠まれたものです。
譲位した太上天皇が心行くまで自分の時間を過ごした時、呼子鳥がよまれた…

紀伊國といえば、持統四年と大宝元年の紀伊國行幸を思い出しませんか。
15歳で即位した文武天皇(大宝元年には19歳)を連れて、持統太上天皇は紀伊国に行幸しました。そこで詠まれた「紀伊国行幸時の十三首」(既にこのブログで何度も取り上げました。)それ以前には、草壁皇子の妃の阿閇皇女(元明天皇)を連れて、持統四年に紀伊国に行幸しています。この時も、有間皇子の鎮魂の為に結松をよんでいます。
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山上憶良は「結松」の歌を知って、後で追和しました。長忌寸意吉麻呂の歌に触発されたのでした。
憶良は、「鳥となった霊魂が何度も何度も通って見ているのを人は誰も気が付かないけれど、松はちゃんと知っている」と詠みました。
憶良が詠んだ鳥となった霊魂は、有間皇子でしょう。有間皇子の霊魂は、愛する人と結んだ「結松」を何度も何度も見に来た、または、松の場所にくれば愛する人に会えると思って見に来たと詠んでいるのです。
有間皇子が愛したのは、松が枝を共に結んだ中皇命(間人皇后)でありついてきていた家族だと思います。

また、高市黒人は32「いにしへの人に吾ありや楽浪のふるき京を見れば悲しき」、33「楽浪の国つ御神のうらさびて荒れたる京見れば悲しも」と詠んだ高市古人と同人とされます。また、持統太上天皇最後の行幸(大宝二年)にも従駕し歌を詠んでいます。長忌寸奥麻呂と並んで、持統天皇のお気に入りだったと云うことです。ですから、

高市黒人は持統天皇の気持ちに沿って、常に歌を詠めたということでしょうね。

呼子鳥となった霊魂は有間皇子、呼ばれているのは持統天皇だと、わたしは思います。
吾子と呼ばれているのですから、持統天皇は有間皇子の子どもだとわたしは思います。(何度か書きましたが)その物語も万葉集で読みましょうね。
その数奇な運命を物語る歌集を。

参考の為に、呼子鳥の歌を探してみましょう。

下の四首で「呼子鳥」が詠まれていますが、この内の二首が吉野宮で詠まれています。やはり、公的な場で女帝の為に詠まれているのです。
呼子鳥を詠めば、太上天皇の心を慰めたのでしょうね。

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呼子鳥は謎の鳥ではありません。
万葉集はその鳥が誰を呼んでいるのか、ちゃんと教えているのです。

また、あした。



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by tizudesiru | 2017-11-10 01:59 | 300持統天皇を呼び続ける呼子鳥 | Trackback | Comments(0)

193人麻呂編集の万葉集

193人麻呂編集の万葉集

初期万葉集は有間(ありま)皇子事件を意識していると、既に書きました。

それは、巻一と巻二の冒頭を見ればわかってきます。


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1 雄略帝(
大泊瀬稚(おおはつせわか)(たけ)天皇)の歌

2 舒明帝((おき)長足(ながたらし)()(ひろ)(ぬか)天皇)の歌 *間人(はしひと)皇后の父

3 中皇(なかつすめら)(みこと)間人連(はしひとのむらじ)(おゆ)に献じさせた歌 *中皇命は間人皇后

4 反歌

(5 軍王の歌・6 反歌)この歌については別の機会に触れます

前記のように並んだ後に、一気に「有間皇子謀反事件」関係の歌に突入するという並びだったと思います。

つまり、1、2、3、4、(5、6)7、9、1011128、と並んでいたと思うのです。あくまで、そう思うだけです。時間軸で考えれば。ただ、熟田津が四国の港ではなく、難波のにぎやかしい港であったなら、この順番は変わるでしょう。

というのは、8番歌の左脚に類聚歌(るいじゅうか)(りん)からの長々とした説明が引用してあるからです。

内容は「舒明天皇がその元年(639)に大后と共に伊予の湯に行幸された。その後、斉明天皇七年(661)に熟田津の(いは)()の仮宮に泊まり、昔日の想い出のものを見て、(かん)(あい)(こころ)を起こされた。この故によりて天皇が御歌をつくり哀傷(かな)しまれた。

その哀傷の歌が「熟田津に船乗りせむと」という堂々とした歌だというのです。本当に、この歌なのでしょうか。

色々考えるべき点はあるのですが……



巻二は、仁徳天皇の皇后・磐之姫で始まりますが、その歌が仁徳天皇(難波高津宮御宇天皇)代ではなく孝徳天皇(難波長柄豊崎宮御宇天皇)代であったなら…と、両天皇が入れ替えられていたのなら、間人皇后が磐之姫皇后に、すり換えられていたら…やはり、有間皇子事件に行き着きます。

わたしは、後の世の人が、「難波天皇には違いないが、長柄を高津に入れ替えた。間人皇后とは書かず中皇命と書いた」と思うのです。

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更に巻二の挽歌の冒頭の扱いです。

もともと万葉集には、事件と人が分かるように歌が掲載されていたと思います。しかし、高貴な人の手により、主役が消された。

そこに、大きなスキャンダルが隠れていると、私は考えたのです。

中皇命の実名が一度も出てこないのは、高貴な女性だったからです。

天皇・皇太子・皇太后・帥・大臣・〇夫人などの表現も人名を裂けています。が、当時の人には人物が特定できたのでした。万葉集が分かりにくいのは、「いつ誰が何の(誰の)ために編纂したのか」見えにくいからです。これは、万葉集を読む時、常に大きな問題でした。

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持統天皇が人麻呂に詔して鎮魂の歌集を編纂させた」ようだと、ここまでは述べてきました。

誰のための歌集なのかも述べたつもりですが、まだしっかり伝え切れていないようですね。

万葉集の「柿本朝臣人麻呂歌集」の歌を読むと、持統天皇の物語が万葉集の中に展開します。

しかし、万葉集には他にもあまたの物語が組み込まれ埋め込まれ、隠されています。古代史の政変も王朝の光芒もスキャンダルも、勝者ばかりでなく敗者の物語も。


むしろ、敗者のための歌集であったのかも知れません、万葉集は。

しかも、万葉集を受け継いだ大伴家持は万葉集を男性の物語歌集に変えたのです。

そして、時代に翻弄された惜しむべき人々の運命と宿命を言霊として万葉集に託したのでした。





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by tizudesiru | 2017-01-07 13:54 | 193人麻呂編集の万葉集 | Trackback | Comments(0)

192人麻呂の編集・軽太郎女皇女の歌

192人麻呂の編集・軽太郎女皇女の歌

有間(ありま)皇子と(こう)(とく)(36代天皇)の皇后だった間人(はしひと)皇女の物語を僅か首の歌に見ました。が、何度も言うように、この物語は万葉集ができた当初は隠されてはいなかったと私は思っています。

堂々と、しかも読み手に分かるように柿本人麻呂が編集していたと、私は考えているのです。

難波(なには)天皇の「難波長柄(ながらの)豊崎(とよさきの)宮御宇(みやにあめのしたしらしめす)難波高津(たかつ)宮御宇」仁徳天皇(16代天皇)に変えたのは、後の人です。

後の学者も各歌の信憑性を疑い、様々に検討を加えています。巻二の冒頭の「(いわの)(ひめ)皇后の歌」には納得しかねたのでしょうか。詳しい左脚があるのです。

磐姫皇后の御歌で85~89の歌の内、山上憶良(やまうえのおくら)の「類聚歌(るいじゅうか)(りん)」にあったのは、85だけだとを入れています。

それでは、86~89は誰がここに置いたのか。89は「古歌集」から選ばれたのですから、それは編集者の手元にあった「古歌集」からの引用に他なりません。

86~88の三首は、言葉と表現方法から「柿本人麻呂」の作だと云われています。

すると、人麻呂は熟慮の結果として「磐姫の四首を並べた」のでしょう。


さて、
(いわの)(ひめ)皇后の四首の後に、軽太郎女(かるのおほいらつめ)の歌(90)が置かれています。

この90番歌が、磐姫皇后の85番歌とそっくりなのです。

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これは、軽太郎女の決心を歌ったものです。

万葉集中の磐姫皇后は、大変けなげで書紀の磐之姫とはかなり違って、「どんなに年を取ろうと白髪になろうとあの方をお待ちしよう」と決心していました。


しかし、軽太郎女は違います。

軽太郎女は決然と立ち上がり、太子を迎えに行くのです。


軽太郎女(軽太娘)皇女の歌が語る政変

90 君が行き()長くなりぬ山たづの迎えを往かむ待つには待たじ

あの方がお出かけになってからずいぶん日が経った。お迎えに往こう。このまま待って、待ち続けるなんてできない。

万葉集には「右の一首は、古事記と類聚歌林というところに同じくあらず」と書かれ、磐姫皇后の御綱柏を海に投げ捨てた嫉妬の話が先に紹介された後、「また曰く」と、軽太子と軽太郎女の話が紹介されています。


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左脚には「遠つ飛鳥の宮に天の下知らしめす雄朝嬬稚子宿禰(をあさづまのわくごのすくねの)天皇(すめらみこと)(19代・允恭天皇)の二十三年の春三月、(きのえ)(うま)の朔の庚子(かのえね)に、()(なしの)軽皇子(かるのみこ)を太子となすてい

書紀の允恭天皇紀(19代)によると、確かに、仁徳天皇(16代)の三子・允恭天皇(履中天皇の弟)の二十三年に、木梨軽皇子が皇太子(ひつぎのみこ)二十四年太郎女密通まいす。木梨皇子皇太子であったず、伊予皇女た。

安康(あんこう)天皇紀20代)によると、允恭天皇四十二年正月に天皇崩御。冬十月、皇太子暴虐(軽太郎女との問題)のため群臣の信頼を損ない、群臣が弟の(あな)()皇子ついった穴穂皇子とうし、穴穂皇子太子物部大前宿祢自害伊予


となっているのです。しかし、よく見ると木梨軽皇子は伊予には流されていません。物部大前宿祢の家に逃げ込んだのですから。事の発覚が允恭二十四年で、自害は天皇崩御の四十二年になっています。


このズレの意味は何でしょうか。

古事記では、軽太子は大前小前宿祢の家に逃げ兵器を備えたが、穴穂皇子が軍を興して大前小前宿祢の家を取り囲んだ。

しかし、宿祢は太子を説き伏せ「われ捕らえて貢進せん」と軽太子を差し出したので、太子は伊予に流された。

宿禰は、ほかに軽皇子を救う方法がなかったのでしょう。


そこで、軽太娘皇女が「君が行きけ長くなりぬ」と歌うのです。

皇女は軽皇子を追い到り、お互いに歌を交わしました。そして、「共に自ら死にたまひき」という結末になります。

 

古事記・日本書紀ともに、共通するのは「謀反」事件です。

それも、皇太子の謀反ではありません。皇位を奪ったのは、他の皇位継承者でした。軽太子をスキャンダルで追い詰め、流罪にし、死に到らしめたという…

どこかで見たような展開です。


そうです。
皇太子をスキャンダルで追い込み、死に至らしめる、まるで有間皇子事件にそっくりではありませんか。

軽太娘皇女の歌が万葉集に置かれた意味はここにあります。

当時の人には、万葉集・巻二の冒頭の五首の意味が全て分かったことでしょう。

驚きの編集と云わねばなりませんね。




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by tizudesiru | 2017-01-06 23:55 | Trackback | Comments(0)

191 消された物語・有間と間人

191消された物語・有間皇子と間人皇后

有間皇子と間人皇太后の歌は、万葉集の扉を開ける鍵の一つです。

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中皇(なかつすめら)(みこと)は、有間皇子と自分とを同等に並べて歌を詠みました。

以前に紹介した時は、訳文に「陛下」とは書かず「殿下」を使い、皇太子として間人皇太后が有間皇子に接したように書きました。

しかし、今回は有間皇子を「難波長柄豊崎宮御宇天皇」の跡継ぎとして、ほとんど玉璽を渡された状態であるとして訳文を書きました。

つまり、有間皇子を追って来たのは中皇(なかつすめら)(みこと)(玉璽を預かっている人)なのです。これには重大な意味があります。

書紀では、斉明帝に玉璽(ぎょくじ)ったようてい中皇命存在以上大王(おおきみ)御璽(みしるし)孝徳帝ってい間人(はしひと)皇太后以外

10「陛下、お気持ちをお察しいたします。陛下がこの先どれほど命を永らえられるか、わたくしの命さえどれほどのものであるか、誰が知っているでしょう。ですが、岩代のあの岩ばかりの岡の草は根を深く下ろし、あのように命をしっかりとつないでおります。岩代の岡はその命運を知っているのでしょうか。さあ、あの岡の草根を結んで、互いの命の永からんことを祈りましょう。」

皇子も応えました。

「貴女の云う通り、この岩代に生える松は根を深く下ろし、これからも長く命をつないでいくのだろう。わたしもその永からん命を願って松の枝を引き寄せて結んでおこう。わたしに神の御加護があれば、再びここに還って来る。そして、この松を見たい。貴女も見たいのだ。」

皇后の歌は、他にも二首あります。若い有間皇子を間人皇太后は何故追いかけて来たのか。

皇子の紀伊国への護送(旅)がどんな意味を持っているのか、間人は十分に承知して追いかけて来たのです。


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11「陛下、白浜が見えております。明日、出立の松原を過ぎれば、太后のおられる白浜も遠くは有りません。太后はわたくしの母ではありますが、母の意にそわず難波宮に残ったわたくしの言葉など聞いては下さいますまい。まして、兄にすれば。…陛下、今夜はどうぞごゆっくりお休みくださいませ。草が足りなければ、陛下が結ばれたあの小松の下の草をお刈りくださいませ。必ず陛下のお体をお包みしてお慰めすることでしょう。」

間人皇太后は、有間皇子を「わが背子」と呼びました。

背子は特別な親しい間柄に使われる表現です。

有間皇子は間人皇太后にとって特に親しい男性だったことになります。

そして、次の日になりました。

12「陛下、今一度お声を聴きとうございます。わたくしがかねてより見たいと申し上げていた野島は見せていただきました。あの野島の海人が潜水して白玉を得ているのですね。願いを懸ける白玉を。でも、陛下は白玉を拾おうとはなさらなかった。底深い阿胡根の浦の白玉を拾って祈ろうとはなさらなかった。わたくしの心には深い恨みが残りました。ああ、白玉を拾って祈りたかったのに。」

以前は「陛下」とは書かず「殿下」と書きました。しかし、今は、夫の孝徳天皇が難波宮に倒れた時から「皇后」としての立場に戻った間人皇后は、孝徳天皇崩御の後は「中皇命」として難波宮に玉璽(ぎょくじ)を以って行政の処理をしていたと思います。昔も今もトップの死によって、行政がストップすることはないのです。百官がいましたから。

有間皇子の歌は、挽歌の二首だけです。歌の中では、皇子はへりくだってはいません。額田王が詠んだように「最後の瞬間まで皇子は凛としていた。「い立たせりけむいつ橿が本」凛としてお立ちになっていた厳橿の下に。死に臨んで木の下にお立ちになった時も。

有間と間人の二人の歌は、中皇命(間人皇太后)の歌3首。有間皇子の歌2首です。

僅か5首の歌が、なんと多くのことを教えてくれるのでしょう。

これら5首から読めるのは、二人は深く愛し合っていた、ことです。

理由は一つ、孝徳帝の崩御後、難波宮の後宮は皇太子が受け継いだのです。


それで、間人皇太后は難波長柄豊崎宮に残ったのでした。

有間皇子に玉璽が渡る。

世間はそう思ったでしょう。

その世間を欺くように、有間皇子は連れ去られた。

待つべきか、追いかけるべきか。いや、何があってもわたしが迎えに行く。


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しかし、その愛は有間皇子謀反事件によって断ち切られました。

間人皇太后の怒りと悲しみはいかばかりだったことでしょう。決して、兄・中大兄皇子を許さなかったと思います。

中皇命が玉璽を渡さなかったから、中大兄は皇位につけなかったのです。

中大兄は、皇祖母尊と間人皇太后の葬儀を済ませ陵墓に葬った後に即位しました。

また、有間皇子事件(658)後に、皇子の後宮は天智天皇の後宮へと変更された。

更に、壬申の乱後は、天武帝の後宮に変更されたのです。

それでなくては、宮廷に仕える女性たちは、政変の度に彷徨わねばなりません。

それがどんなに過酷でも、宮廷の女性も生きているのですから。

まず、間人皇太后の愛と、断たれてしまった思いについて書きました。

持統天皇はこの有間皇子を幾度も思い出し、その霊魂を慰め鎮めました。その意味は、まだ十分に書いていません。



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by tizudesiru | 2017-01-05 22:04 | 191有間皇子と間人皇后の物語 | Trackback | Comments(0)

191間人皇后の難波宮脱出

191間人皇后の難波宮脱出

間人皇后の愛と悲劇・とりかえばや物語

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間人皇后が難波宮を去ったわけ

間人(はしひと)皇女が孝徳帝の大后(皇后)に立てられたのは、幾つの時でしょうね!

大化改新の時、中大兄皇子は十九歳(十八歳)くらいで、その妹ですから十五歳くらいでしょうか。そんな少女が初老も過ぎた男性に嫁がねばならないとはあまりに過酷な話です。

大后に昇れる女性は皇族に限られましたが、皇女とはいえ間人は子どもみたいなもので無理な話ですよね。


その皇后が、突然皇居を去るのです。皇后に立って九年目の出来事でした。

(はく)()四年(653)、(やまとの)(みやこ)に遷りたい」という中大兄皇子の申し出に対し、孝徳天皇は許しませんでした

しかし、中大兄皇子は母の皇祖母命と間人皇后を奉り、合わせて皇弟達を連れて、飛鳥の河辺(かわべの)行宮(かりみや)に移りました。すると、公卿大夫や百官の人も皆従て移った

中大兄皇子が突然言い出して、母と妹を引き連れて飛鳥に戻ったことになっています。理由は書かれていません。

皇后(きさき)皇祖母(すめみおやの)(みこと)・皇太子が揃って皇居を出て行くのはおかしな話です。何があったのでしょう。


少し大人になった皇女が、「倭京に戻る」と言い出した、皇后となって初めて恋をした、この展開なら納得できる話です。「難波宮を出たい」と言い出したのは皇后だったのではないか。斉明皇太后も中大兄皇子も、この妹に諦めさせる方法を持たなかった…

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万葉集に「中皇(なかのすめら)(みこと)間人連(はしひとのむらじ)(おゆ)(たてまつ)らしめたまふ歌」が掲載されています。父の(じょ)(めい)天皇に、幼い中皇(なかつすめら)(みこと)(間人皇女)が「自分は儀式歌を詠めない」ので、代わりに間人連(はしひとのむらじ)(おゆ)献上させた歌だというのです。

(じょ)(めい)天皇(641没)の在位は十三年間ですが、皇女はその間に生まれて歌を献上させるほどに成長したというのでしょうか。納得できない話ですね。

十歳くらいの少女が高貴な血をもってして巫女的な仕事をしていた(?)とは考えられません。巫女的な仕事をするべき皇后(皇極)は、お傍におられるのですから。

はたまた、ここで疑いの心が芽生えてしまうのです。

この歌は、舒明天皇のために献じられたのだろうか、と。

しかも、この歌は「()()の野に遊猟(みかり)したまう時」に献じさせた歌です。

おや!? ()()(奈良県旧宇智郡)ですか?

あの菟道稚郎子(うぢのわきのいらいこ)の宮処の比定地として、京都府宇治と奈良県宇智郡の二か所が候補地に挙げられています。

宇治若郎子(うぢのわきのいらつこ)とも書き仁徳帝と皇位を譲りあった皇太子です。

ここ巻一から、そこはかとなく菟道稚郎子の話「正式の皇太子の悲劇」がにおい立って来ました。

更によく見ると、万葉集・巻一の3番4番歌に続くのは、5讃岐(さぬき)国に(いでま)す時に、(いくさの)(きみ)が山を見て作る歌」6「反歌」ですが、おかしなことに舒明天皇の讃岐国行幸は日本書紀には書かれていないのです。軍王も何処のどんな人か不明です。一体どの天皇の話なのでしょう。

更に、7番歌は、額田王(ぬかたのおほきみ)のあの歌です。

 秋の野の()草刈(くさかり)()き宿れりし()()のみやこのかりほ(仮庵)し(おも)ほゆ

よくよく見ると、3・4・(5・6)・7と菟道稚郎子と共に悲劇の皇太子の事件を読み手に思い出させているようです。

8番歌は、額田王か斉明天皇御製歌とされる九州に向かう船出の歌ですね。

 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今はこぎでな

その後に、万葉集には、

有間皇子事件の目撃者としての「紀伊国に幸す時、額田王が造る歌」が置かれていましたね。(すでに、紹介しています)

考えてみると、百済救援のための征西は斉明七年(661)で、有間皇子の事件は斉明四年(658)なので、8番歌より9101112番歌が時期的には早く詠まれた歌になります。しかし、時期を無視して、『熟田津』の歌が有間皇子事件の歌の前に挿入されているのです

額田王の歌が、7・9と並んだら、そこに有間皇子と菟道稚郎子があっさりと結びついてしまうでしょう。

7 秋の野の美草刈葺き宿れりし菟道のみやこの仮庵しおもほゆ

9 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣わが背子がい立たせりけむいつ橿が本

そして続いて、

10・11・12と中皇命の「紀伊国に往す時の歌」がくれば、有間皇子事件の歌が並ぶことになってしまうのです。

もともと巻一は有間皇子事件に向かって編集されていました。

それが、今日の結論です。

また、明日



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by tizudesiru | 2017-01-05 10:35 | 190間人皇后の難波宮脱出 | Trackback | Comments(0)

154有間皇子は無実だった

有間皇子は無実だった

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大宝元年は西暦七〇一年、持統帝は大宝二年十二月の崩御であるから、最後の一年に力を振り絞って紀伊国の旅に出たということです。そこで献じられた十三首に何が読み込まれていましたか。

 まず、紀伊国海岸の白玉が詠まれ、黒牛潟、白崎、由良の埼、南部の浦、出立と有間皇子の護送の道を辿り、皇子の終焉の地・藤白坂に到達しました。そこで、有間皇子の無実と無念とが語られ、持統太上天皇と文武天皇は都へと還幸されました。行幸の行程は有間皇子の死出の旅路を辿るという、鎮魂の思いが凝縮された十三首なのです。

持統天皇の有間皇子への深い思いを陳べた万葉集・巻九の「紀伊國行幸の十三首」、その十三首の内、十一首まで紹介しました。


次は、十二首目です。

万葉集・巻九の冒頭歌の仕掛け

十二首目の歌に入る前に、巻九の冒頭歌の話をしなければなりません。

そこには、寓意が込められているのです。


巻九の冒頭歌は、大泊瀬稚武天皇(雄略天皇)の御製歌です。


1664 ゆうされば小掠の山に臥す鹿は今宵は鳴かずいねにけらしも


 左脚に、「或本に岡本天皇の御製というが分からないので再度のせた」


 これは、舒明天皇(岡本天皇)御製歌として、巻八に「ゆうされば小倉の山に鳴く鹿は今宵は鳴かずいねにけらしも」という歌と重複していることの説明です。どちらも天皇御製歌とされています。


さて、「今宵は鳴かず」の鹿はどうなったのか、ですが、万葉集では殺されたことを暗示しているのです。

当時の人なら誰もが思い出した鹿の物語は、日本書紀の仁徳紀の「菟餓野の鹿」と続日本紀の「摂津国風土記」逸文の「夢野の鹿」の物語でしょう。これらの物語が何時成立したのか定かではありませんが、少なくとも7世紀末か8世紀初めには物語があったのです。そして、どちらも狩人に殺された話です。


巻九の冒頭の二首目・三首目は、岡本宮御宇天皇の紀伊國行幸の時の歌です。


1665 妹がため吾玉拾う沖辺なる玉寄せもちこ沖津白波


1666 朝霧に濡れにし衣干さずしてひとりか君が山路越ゆらむ


と、このように三首が並んだ後に、「大宝元年の紀伊國行幸の十三首」が置かれているのです。巻九は、

雄略天皇・舒明天皇・天皇に従駕した者の歌(十三首の冒頭は白玉の歌)

どこかで見た並びです。

そう、万葉集・巻一が、

雄略天皇御製歌・舒明天皇御製歌・天皇に従駕した者の歌

雄略・舒明の御製歌に続くのは、「中皇命が間人連老に献じさせた歌」なのです。この並び……巻一と同じだ、冒頭歌には意味があると、ふっと思います。


巻九を読んでいた人は、この並びは偶然ではないと気が付くのです。

巻九の白玉と、巻一の中皇命の歌が共鳴します。


ここで中皇命が登場することで、斉明天皇の紀伊國行幸の時の「君が代もわが代も」の歌、「わが瀬子は仮廬作らす」の歌、「吾ほりし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の珠ぞ拾りはぬ」の歌がすっと顕れて、この玉の歌が、巻九の白玉につながってしてしまう。そういう仕掛けになっているのです。

巻九は、巻一と同じように大事なのだと。
九は「ここのへ」宮廷の話を象徴しているのかも知れません。

中皇命の必死の嘆願にもかかわらず、有間皇子は絞殺されました。本当に謀反であったなら、絞殺ではなく最高刑の斬刑でしょう。しかし、斬刑ではなかった。そこに、皇子は無罪だった匂いがします。

a0237545_09431935.jpg

紀伊國行幸の時の十三首に戻ります


1678 
紀伊国の昔弓雄の鳴り矢持ち鹿猪取り靡べし坂の上にぞある


その昔、紀伊國のあの剛の者弓雄が、鳴り矢をうならせて鹿猪を退治し一帯を平定した、その坂の上であるぞ、此処は。


上記のように、これまでも岩波や集英社に紹介されている現代語訳を紹介してきました。しかし、ここで現代語訳を紹介すると、意味が取りにくくなるので、原文を紹介します。

1678木國尓  昔弓雄之  響矢用  鹿取靡  坂上尓曽安留

きのくにに むかしさつおの なりやもち しかとりなべし さかのうえにぞある


むかしむかし、紀伊國にいた猟師が鳴り矢で鹿を取り抑え、辺りを平らげたという、まるで鹿のように皇子はここで取り押さえられ命を奪われた。そうして、皇子の勢力を平らげ政変は成し遂げられた。ここは、その政変により皇子が最期を遂げられた坂の上であるぞ。(一同そろって、心から皇子のご冥福を祈ろう)

a0237545_10573095.jpg

十二首目のこの歌は、有間皇子事件を象徴する歌です。

その悲しみも、皇子の無念も、事件の残酷さも、持統帝の内に秘めた思いも、すべてを象徴した歌なのです。

万葉集には、罠にかかって命を奪われた皇子の歌が、寓意を以って編集されています、他にも。

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次は十三首目、紀伊國行幸の最後の歌です。
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また後で


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by tizudesiru | 2016-11-11 12:44 | 154 有間皇子は無実だった | Trackback | Comments(0)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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218熊本の古代寺院・浄水寺
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