タグ:有間皇子 ( 9 ) タグの人気記事

193人麻呂編集の万葉集

193人麻呂編集の万葉集

初期万葉集は有間(ありま)皇子事件を意識していると、既に書きました。

それは、巻一と巻二の冒頭を見ればわかってきます。


a0237545_13343079.png

1 雄略帝(
大泊瀬稚(おおはつせわか)(たけ)天皇)の歌

2 舒明帝((おき)長足(ながたらし)()(ひろ)(ぬか)天皇)の歌 *間人(はしひと)皇后の父

3 中皇(なかつすめら)(みこと)間人連(はしひとのむらじ)(おゆ)に献じさせた歌 *中皇命は間人皇后

4 反歌

(5 軍王の歌・6 反歌)この歌については別の機会に触れます

前記のように並んだ後に、一気に「有間皇子謀反事件」関係の歌に突入するという並びだったと思います。

つまり、1、2、3、4、(5、6)7、9、1011128、と並んでいたと思うのです。あくまで、そう思うだけです。時間軸で考えれば。ただ、熟田津が四国の港ではなく、難波のにぎやかしい港であったなら、この順番は変わるでしょう。

というのは、8番歌の左脚に類聚歌(るいじゅうか)(りん)からの長々とした説明が引用してあるからです。

内容は「舒明天皇がその元年(639)に大后と共に伊予の湯に行幸された。その後、斉明天皇七年(661)に熟田津の(いは)()の仮宮に泊まり、昔日の想い出のものを見て、(かん)(あい)(こころ)を起こされた。この故によりて天皇が御歌をつくり哀傷(かな)しまれた。

その哀傷の歌が「熟田津に船乗りせむと」という堂々とした歌だというのです。本当に、この歌なのでしょうか。

色々考えるべき点はあるのですが……



巻二は、仁徳天皇の皇后・磐之姫で始まりますが、その歌が仁徳天皇(難波高津宮御宇天皇)代ではなく孝徳天皇(難波長柄豊崎宮御宇天皇)代であったなら…と、両天皇が入れ替えられていたのなら、間人皇后が磐之姫皇后に、すり換えられていたら…やはり、有間皇子事件に行き着きます。

わたしは、後の世の人が、「難波天皇には違いないが、長柄を高津に入れ替えた。間人皇后とは書かず中皇命と書いた」と思うのです。

a0237545_13360903.png

更に巻二の挽歌の冒頭の扱いです。

もともと万葉集には、事件と人が分かるように歌が掲載されていたと思います。しかし、高貴な人の手により、主役が消された。

そこに、大きなスキャンダルが隠れていると、私は考えたのです。

中皇命の実名が一度も出てこないのは、高貴な女性だったからです。

天皇・皇太子・皇太后・帥・大臣・〇夫人などの表現も人名を裂けています。が、当時の人には人物が特定できたのでした。万葉集が分かりにくいのは、「いつ誰が何の(誰の)ために編纂したのか」見えにくいからです。これは、万葉集を読む時、常に大きな問題でした。

a0237545_13381897.png

持統天皇が人麻呂に詔して鎮魂の歌集を編纂させた」ようだと、ここまでは述べてきました。

誰のための歌集なのかも述べたつもりですが、まだしっかり伝え切れていないようですね。

万葉集の「柿本朝臣人麻呂歌集」の歌を読むと、持統天皇の物語が万葉集の中に展開します。

しかし、万葉集には他にもあまたの物語が組み込まれ埋め込まれ、隠されています。古代史の政変も王朝の光芒もスキャンダルも、勝者ばかりでなく敗者の物語も。


むしろ、敗者のための歌集であったのかも知れません、万葉集は。

しかも、万葉集を受け継いだ大伴家持は万葉集を男性の物語歌集に変えたのです。

そして、時代に翻弄された惜しむべき人々の運命と宿命を言霊として万葉集に託したのでした。





[PR]
by tizudesiru | 2017-01-07 13:54 | 193人麻呂編集の万葉集 | Comments(0)

192人麻呂の編集・軽太郎女皇女の歌

192人麻呂の編集・軽太郎女皇女の歌

有間(ありま)皇子と(こう)(とく)(36代天皇)の皇后だった間人(はしひと)皇女の物語を僅か首の歌に見ました。が、何度も言うように、この物語は万葉集ができた当初は隠されてはいなかったと私は思っています。

堂々と、しかも読み手に分かるように柿本人麻呂が編集していたと、私は考えているのです。

難波(なには)天皇の「難波長柄(ながらの)豊崎(とよさきの)宮御宇(みやにあめのしたしらしめす)難波高津(たかつ)宮御宇」仁徳天皇(16代天皇)に変えたのは、後の人です。

後の学者も各歌の信憑性を疑い、様々に検討を加えています。巻二の冒頭の「(いわの)(ひめ)皇后の歌」には納得しかねたのでしょうか。詳しい左脚があるのです。

磐姫皇后の御歌で85~89の歌の内、山上憶良(やまうえのおくら)の「類聚歌(るいじゅうか)(りん)」にあったのは、85だけだとを入れています。

それでは、86~89は誰がここに置いたのか。89は「古歌集」から選ばれたのですから、それは編集者の手元にあった「古歌集」からの引用に他なりません。

86~88の三首は、言葉と表現方法から「柿本人麻呂」の作だと云われています。

すると、人麻呂は熟慮の結果として「磐姫の四首を並べた」のでしょう。


さて、
(いわの)(ひめ)皇后の四首の後に、軽太郎女(かるのおほいらつめ)の歌(90)が置かれています。

この90番歌が、磐姫皇后の85番歌とそっくりなのです。

a0237545_23463643.png

これは、軽太郎女の決心を歌ったものです。

万葉集中の磐姫皇后は、大変けなげで書紀の磐之姫とはかなり違って、「どんなに年を取ろうと白髪になろうとあの方をお待ちしよう」と決心していました。


しかし、軽太郎女は違います。

軽太郎女は決然と立ち上がり、太子を迎えに行くのです。


軽太郎女(軽太娘)皇女の歌が語る政変

90 君が行き()長くなりぬ山たづの迎えを往かむ待つには待たじ

あの方がお出かけになってからずいぶん日が経った。お迎えに往こう。このまま待って、待ち続けるなんてできない。

万葉集には「右の一首は、古事記と類聚歌林というところに同じくあらず」と書かれ、磐姫皇后の御綱柏を海に投げ捨てた嫉妬の話が先に紹介された後、「また曰く」と、軽太子と軽太郎女の話が紹介されています。


a0237545_01310825.png

左脚には「遠つ飛鳥の宮に天の下知らしめす雄朝嬬稚子宿禰(をあさづまのわくごのすくねの)天皇(すめらみこと)(19代・允恭天皇)の二十三年の春三月、(きのえ)(うま)の朔の庚子(かのえね)に、()(なしの)軽皇子(かるのみこ)を太子となすてい

書紀の允恭天皇紀(19代)によると、確かに、仁徳天皇(16代)の三子・允恭天皇(履中天皇の弟)の二十三年に、木梨軽皇子が皇太子(ひつぎのみこ)二十四年太郎女密通まいす。木梨皇子皇太子であったず、伊予皇女た。

安康(あんこう)天皇紀20代)によると、允恭天皇四十二年正月に天皇崩御。冬十月、皇太子暴虐(軽太郎女との問題)のため群臣の信頼を損ない、群臣が弟の(あな)()皇子ついった穴穂皇子とうし、穴穂皇子太子物部大前宿祢自害伊予


となっているのです。しかし、よく見ると木梨軽皇子は伊予には流されていません。物部大前宿祢の家に逃げ込んだのですから。事の発覚が允恭二十四年で、自害は天皇崩御の四十二年になっています。


このズレの意味は何でしょうか。

古事記では、軽太子は大前小前宿祢の家に逃げ兵器を備えたが、穴穂皇子が軍を興して大前小前宿祢の家を取り囲んだ。

しかし、宿祢は太子を説き伏せ「われ捕らえて貢進せん」と軽太子を差し出したので、太子は伊予に流された。

宿禰は、ほかに軽皇子を救う方法がなかったのでしょう。


そこで、軽太娘皇女が「君が行きけ長くなりぬ」と歌うのです。

皇女は軽皇子を追い到り、お互いに歌を交わしました。そして、「共に自ら死にたまひき」という結末になります。

 

古事記・日本書紀ともに、共通するのは「謀反」事件です。

それも、皇太子の謀反ではありません。皇位を奪ったのは、他の皇位継承者でした。軽太子をスキャンダルで追い詰め、流罪にし、死に到らしめたという…

どこかで見たような展開です。


そうです。
皇太子をスキャンダルで追い込み、死に至らしめる、まるで有間皇子事件にそっくりではありませんか。

軽太娘皇女の歌が万葉集に置かれた意味はここにあります。

当時の人には、万葉集・巻二の冒頭の五首の意味が全て分かったことでしょう。

驚きの編集と云わねばなりませんね。




[PR]
by tizudesiru | 2017-01-06 23:55 | Comments(0)

191 消された物語・有間と間人

191消された物語・有間皇子と間人皇后

有間皇子と間人皇太后の歌は、万葉集の扉を開ける鍵の一つです。

a0237545_21423541.png

中皇(なかつすめら)(みこと)は、有間皇子と自分とを同等に並べて歌を詠みました。

以前に紹介した時は、訳文に「陛下」とは書かず「殿下」を使い、皇太子として間人皇太后が有間皇子に接したように書きました。

しかし、今回は有間皇子を「難波長柄豊崎宮御宇天皇」の跡継ぎとして、ほとんど玉璽を渡された状態であるとして訳文を書きました。

つまり、有間皇子を追って来たのは中皇(なかつすめら)(みこと)(玉璽を預かっている人)なのです。これには重大な意味があります。

書紀では、斉明帝に玉璽(ぎょくじ)ったようてい中皇命存在以上大王(おおきみ)御璽(みしるし)孝徳帝ってい間人(はしひと)皇太后以外

10「陛下、お気持ちをお察しいたします。陛下がこの先どれほど命を永らえられるか、わたくしの命さえどれほどのものであるか、誰が知っているでしょう。ですが、岩代のあの岩ばかりの岡の草は根を深く下ろし、あのように命をしっかりとつないでおります。岩代の岡はその命運を知っているのでしょうか。さあ、あの岡の草根を結んで、互いの命の永からんことを祈りましょう。」

皇子も応えました。

「貴女の云う通り、この岩代に生える松は根を深く下ろし、これからも長く命をつないでいくのだろう。わたしもその永からん命を願って松の枝を引き寄せて結んでおこう。わたしに神の御加護があれば、再びここに還って来る。そして、この松を見たい。貴女も見たいのだ。」

皇后の歌は、他にも二首あります。若い有間皇子を間人皇太后は何故追いかけて来たのか。

皇子の紀伊国への護送(旅)がどんな意味を持っているのか、間人は十分に承知して追いかけて来たのです。


a0237545_21451184.png

11「陛下、白浜が見えております。明日、出立の松原を過ぎれば、太后のおられる白浜も遠くは有りません。太后はわたくしの母ではありますが、母の意にそわず難波宮に残ったわたくしの言葉など聞いては下さいますまい。まして、兄にすれば。…陛下、今夜はどうぞごゆっくりお休みくださいませ。草が足りなければ、陛下が結ばれたあの小松の下の草をお刈りくださいませ。必ず陛下のお体をお包みしてお慰めすることでしょう。」

間人皇太后は、有間皇子を「わが背子」と呼びました。

背子は特別な親しい間柄に使われる表現です。

有間皇子は間人皇太后にとって特に親しい男性だったことになります。

そして、次の日になりました。

12「陛下、今一度お声を聴きとうございます。わたくしがかねてより見たいと申し上げていた野島は見せていただきました。あの野島の海人が潜水して白玉を得ているのですね。願いを懸ける白玉を。でも、陛下は白玉を拾おうとはなさらなかった。底深い阿胡根の浦の白玉を拾って祈ろうとはなさらなかった。わたくしの心には深い恨みが残りました。ああ、白玉を拾って祈りたかったのに。」

以前は「陛下」とは書かず「殿下」と書きました。しかし、今は、夫の孝徳天皇が難波宮に倒れた時から「皇后」としての立場に戻った間人皇后は、孝徳天皇崩御の後は「中皇命」として難波宮に玉璽(ぎょくじ)を以って行政の処理をしていたと思います。昔も今もトップの死によって、行政がストップすることはないのです。百官がいましたから。

有間皇子の歌は、挽歌の二首だけです。歌の中では、皇子はへりくだってはいません。額田王が詠んだように「最後の瞬間まで皇子は凛としていた。「い立たせりけむいつ橿が本」凛としてお立ちになっていた厳橿の下に。死に臨んで木の下にお立ちになった時も。

有間と間人の二人の歌は、中皇命(間人皇太后)の歌3首。有間皇子の歌2首です。

僅か5首の歌が、なんと多くのことを教えてくれるのでしょう。

これら5首から読めるのは、二人は深く愛し合っていた、ことです。

理由は一つ、孝徳帝の崩御後、難波宮の後宮は皇太子が受け継いだのです。


それで、間人皇太后は難波長柄豊崎宮に残ったのでした。

有間皇子に玉璽が渡る。

世間はそう思ったでしょう。

その世間を欺くように、有間皇子は連れ去られた。

待つべきか、追いかけるべきか。いや、何があってもわたしが迎えに行く。


a0237545_21563860.png

しかし、その愛は有間皇子謀反事件によって断ち切られました。

間人皇太后の怒りと悲しみはいかばかりだったことでしょう。決して、兄・中大兄皇子を許さなかったと思います。

中皇命が玉璽を渡さなかったから、中大兄は皇位につけなかったのです。

中大兄は、皇祖母尊と間人皇太后の葬儀を済ませ陵墓に葬った後に即位しました。

また、有間皇子事件(658)後に、皇子の後宮は天智天皇の後宮へと変更された。

更に、壬申の乱後は、天武帝の後宮に変更されたのです。

それでなくては、宮廷に仕える女性たちは、政変の度に彷徨わねばなりません。

それがどんなに過酷でも、宮廷の女性も生きているのですから。

まず、間人皇太后の愛と、断たれてしまった思いについて書きました。

持統天皇はこの有間皇子を幾度も思い出し、その霊魂を慰め鎮めました。その意味は、まだ十分に書いていません。



[PR]
by tizudesiru | 2017-01-05 22:04 | 192有間皇子と間人皇后の物語 | Comments(0)

191間人皇后の難波宮脱出

191間人皇后の難波宮脱出

間人皇后の愛と悲劇・とりかえばや物語

a0237545_21414372.png


間人皇后が難波宮を去ったわけ

間人(はしひと)皇女が孝徳帝の大后(皇后)に立てられたのは、幾つの時でしょうね!

大化改新の時、中大兄皇子は十九歳(十八歳)くらいで、その妹ですから十五歳くらいでしょうか。そんな少女が初老も過ぎた男性に嫁がねばならないとはあまりに過酷な話です。

大后に昇れる女性は皇族に限られましたが、皇女とはいえ間人は子どもみたいなもので無理な話ですよね。


その皇后が、突然皇居を去るのです。皇后に立って九年目の出来事でした。

(はく)()四年(653)、(やまとの)(みやこ)に遷りたい」という中大兄皇子の申し出に対し、孝徳天皇は許しませんでした

しかし、中大兄皇子は母の皇祖母命と間人皇后を奉り、合わせて皇弟達を連れて、飛鳥の河辺(かわべの)行宮(かりみや)に移りました。すると、公卿大夫や百官の人も皆従て移った

中大兄皇子が突然言い出して、母と妹を引き連れて飛鳥に戻ったことになっています。理由は書かれていません。

皇后(きさき)皇祖母(すめみおやの)(みこと)・皇太子が揃って皇居を出て行くのはおかしな話です。何があったのでしょう。


少し大人になった皇女が、「倭京に戻る」と言い出した、皇后となって初めて恋をした、この展開なら納得できる話です。「難波宮を出たい」と言い出したのは皇后だったのではないか。斉明皇太后も中大兄皇子も、この妹に諦めさせる方法を持たなかった…

a0237545_10424149.png


万葉集に「中皇(なかのすめら)(みこと)間人連(はしひとのむらじ)(おゆ)(たてまつ)らしめたまふ歌」が掲載されています。父の(じょ)(めい)天皇に、幼い中皇(なかつすめら)(みこと)(間人皇女)が「自分は儀式歌を詠めない」ので、代わりに間人連(はしひとのむらじ)(おゆ)献上させた歌だというのです。

(じょ)(めい)天皇(641没)の在位は十三年間ですが、皇女はその間に生まれて歌を献上させるほどに成長したというのでしょうか。納得できない話ですね。

十歳くらいの少女が高貴な血をもってして巫女的な仕事をしていた(?)とは考えられません。巫女的な仕事をするべき皇后(皇極)は、お傍におられるのですから。

はたまた、ここで疑いの心が芽生えてしまうのです。

この歌は、舒明天皇のために献じられたのだろうか、と。

しかも、この歌は「()()の野に遊猟(みかり)したまう時」に献じさせた歌です。

おや!? ()()(奈良県旧宇智郡)ですか?

あの菟道稚郎子(うぢのわきのいらいこ)の宮処の比定地として、京都府宇治と奈良県宇智郡の二か所が候補地に挙げられています。

宇治若郎子(うぢのわきのいらつこ)とも書き仁徳帝と皇位を譲りあった皇太子です。

ここ巻一から、そこはかとなく菟道稚郎子の話「正式の皇太子の悲劇」がにおい立って来ました。

更によく見ると、万葉集・巻一の3番4番歌に続くのは、5讃岐(さぬき)国に(いでま)す時に、(いくさの)(きみ)が山を見て作る歌」6「反歌」ですが、おかしなことに舒明天皇の讃岐国行幸は日本書紀には書かれていないのです。軍王も何処のどんな人か不明です。一体どの天皇の話なのでしょう。

更に、7番歌は、額田王(ぬかたのおほきみ)のあの歌です。

 秋の野の()草刈(くさかり)()き宿れりし()()のみやこのかりほ(仮庵)し(おも)ほゆ

よくよく見ると、3・4・(5・6)・7と菟道稚郎子と共に悲劇の皇太子の事件を読み手に思い出させているようです。

8番歌は、額田王か斉明天皇御製歌とされる九州に向かう船出の歌ですね。

 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今はこぎでな

その後に、万葉集には、

有間皇子事件の目撃者としての「紀伊国に幸す時、額田王が造る歌」が置かれていましたね。(すでに、紹介しています)

考えてみると、百済救援のための征西は斉明七年(661)で、有間皇子の事件は斉明四年(658)なので、8番歌より9101112番歌が時期的には早く詠まれた歌になります。しかし、時期を無視して、『熟田津』の歌が有間皇子事件の歌の前に挿入されているのです

額田王の歌が、7・9と並んだら、そこに有間皇子と菟道稚郎子があっさりと結びついてしまうでしょう。

7 秋の野の美草刈葺き宿れりし菟道のみやこの仮庵しおもほゆ

9 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣わが背子がい立たせりけむいつ橿が本

そして続いて、

10・11・12と中皇命の「紀伊国に往す時の歌」がくれば、有間皇子事件の歌が並ぶことになってしまうのです。

もともと巻一は有間皇子事件に向かって編集されていました。

それが、今日の結論です。

また、明日



[PR]
by tizudesiru | 2017-01-05 10:35 | 191間人皇后の難波宮脱出 | Comments(0)

154有間皇子は無実だった

有間皇子は無実だった

a0237545_00262418.jpg
a0237545_19375200.png

大宝元年は西暦七〇一年、持統帝は大宝二年十二月の崩御であるから、最後の一年に力を振り絞って紀伊国の旅に出たということです。そこで献じられた十三首に何が読み込まれていましたか。

 まず、紀伊国海岸の白玉が詠まれ、黒牛潟、白崎、由良の埼、南部の浦、出立と有間皇子の護送の道を辿り、皇子の終焉の地・藤白坂に到達しました。そこで、有間皇子の無実と無念とが語られ、持統太上天皇と文武天皇は都へと還幸されました。行幸の行程は有間皇子の死出の旅路を辿るという、鎮魂の思いが凝縮された十三首なのです。

持統天皇の有間皇子への深い思いを陳べた万葉集・巻九の「紀伊國行幸の十三首」、その十三首の内、十一首まで紹介しました。


次は、十二首目です。

万葉集・巻九の冒頭歌の仕掛け

十二首目の歌に入る前に、巻九の冒頭歌の話をしなければなりません。

そこには、寓意が込められているのです。


巻九の冒頭歌は、大泊瀬稚武天皇(雄略天皇)の御製歌です。


1664 ゆうされば小掠の山に臥す鹿は今宵は鳴かずいねにけらしも


 左脚に、「或本に岡本天皇の御製というが分からないので再度のせた」


 これは、舒明天皇(岡本天皇)御製歌として、巻八に「ゆうされば小倉の山に鳴く鹿は今宵は鳴かずいねにけらしも」という歌と重複していることの説明です。どちらも天皇御製歌とされています。


さて、「今宵は鳴かず」の鹿はどうなったのか、ですが、万葉集では殺されたことを暗示しているのです。

当時の人なら誰もが思い出した鹿の物語は、日本書紀の仁徳紀の「菟餓野の鹿」と続日本紀の「摂津国風土記」逸文の「夢野の鹿」の物語でしょう。これらの物語が何時成立したのか定かではありませんが、少なくとも7世紀末か8世紀初めには物語があったのです。そして、どちらも狩人に殺された話です。


巻九の冒頭の二首目・三首目は、岡本宮御宇天皇の紀伊國行幸の時の歌です。


1665 妹がため吾玉拾う沖辺なる玉寄せもちこ沖津白波


1666 朝霧に濡れにし衣干さずしてひとりか君が山路越ゆらむ


と、このように三首が並んだ後に、「大宝元年の紀伊國行幸の十三首」が置かれているのです。巻九は、

雄略天皇・舒明天皇・天皇に従駕した者の歌(十三首の冒頭は白玉の歌)

どこかで見た並びです。

そう、万葉集・巻一が、

雄略天皇御製歌・舒明天皇御製歌・天皇に従駕した者の歌

雄略・舒明の御製歌に続くのは、「中皇命が間人連老に献じさせた歌」なのです。この並び……巻一と同じだ、冒頭歌には意味があると、ふっと思います。


巻九を読んでいた人は、この並びは偶然ではないと気が付くのです。

巻九の白玉と、巻一の中皇命の歌が共鳴します。


ここで中皇命が登場することで、斉明天皇の紀伊國行幸の時の「君が代もわが代も」の歌、「わが瀬子は仮廬作らす」の歌、「吾ほりし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の珠ぞ拾りはぬ」の歌がすっと顕れて、この玉の歌が、巻九の白玉につながってしてしまう。そういう仕掛けになっているのです。

巻九は、巻一と同じように大事なのだと。
九は「ここのへ」宮廷の話を象徴しているのかも知れません。

中皇命の必死の嘆願にもかかわらず、有間皇子は絞殺されました。本当に謀反であったなら、絞殺ではなく最高刑の斬刑でしょう。しかし、斬刑ではなかった。そこに、皇子は無罪だった匂いがします。

a0237545_09431935.jpg

紀伊國行幸の時の十三首に戻ります


1678 
紀伊国の昔弓雄の鳴り矢持ち鹿猪取り靡べし坂の上にぞある


その昔、紀伊國のあの剛の者弓雄が、鳴り矢をうならせて鹿猪を退治し一帯を平定した、その坂の上であるぞ、此処は。


上記のように、これまでも岩波や集英社に紹介されている現代語訳を紹介してきました。しかし、ここで現代語訳を紹介すると、意味が取りにくくなるので、原文を紹介します。

1678木國尓  昔弓雄之  響矢用  鹿取靡  坂上尓曽安留

きのくにに むかしさつおの なりやもち しかとりなべし さかのうえにぞある


むかしむかし、紀伊國にいた猟師が鳴り矢で鹿を取り抑え、辺りを平らげたという、まるで鹿のように皇子はここで取り押さえられ命を奪われた。そうして、皇子の勢力を平らげ政変は成し遂げられた。ここは、その政変により皇子が最期を遂げられた坂の上であるぞ。(一同そろって、心から皇子のご冥福を祈ろう)

a0237545_10573095.jpg

十二首目のこの歌は、有間皇子事件を象徴する歌です。

その悲しみも、皇子の無念も、事件の残酷さも、持統帝の内に秘めた思いも、すべてを象徴した歌なのです。

万葉集には、罠にかかって命を奪われた皇子の歌が、寓意を以って編集されています、他にも。

a0237545_12292245.jpg
次は十三首目、紀伊國行幸の最後の歌です。
a0237545_00262418.jpg
また後で


[PR]
by tizudesiru | 2016-11-11 12:44 | 154 有間皇子は無実だった | Comments(0)

153有間皇子の終焉の地を訪ねた持統太上天皇

有間皇子の終焉の地を訪ねた

持統太上天皇

大宝元年辛丑冬十月・大行天皇を伴っての紀伊國行幸のクライマックス

a0237545_10573095.jpg

1675 藤白の御坂を越ゆと白栲の我が衣手は濡れにけるかも

 藤白の御坂は有間皇子の終焉の地であれば、その坂を越える時に皇子の姿を思い出し、四十年経っていても私の衣手は流れる涙に濡れてしまう。私には忘れることのできない出来事なのである。私がこの坂を訪れるのも、これが最後かも知れない


牟婁の温泉まで連れていかれて尋問を受けた有間皇子は、藤白坂で追っ手により絞殺されてしまいました。伴の者や同行した家族が泣き叫び、無実を訴える中から皇子は引き離され、斎橿の下へ連れていかれたのでしょう。

その理不尽、不条理、家族の嘆きを一身に受けて皇子は橿の樹の本に立たれたのでしょう。その姿は凛としていた……その最後の姿を伝え聴いた額田王が「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 我が背子がい立たせりけむ厳橿が本」と読んだのだと、すでに紹介しました。


藤白坂で、最後に皇子の瞳に焼き付いた人物は誰だったのか。それはわかりませんが、皇子の最後の言葉を親族は聞き、心の裡に深く残したことでしょう。この藤白坂で四十年後も涙を流す人こそ、有間皇子に所縁の人ではないでしょうか。

a0237545_11001877.jpg
藤白の御坂を越ゆと白栲にわが衣手は濡れにけるかも……の歌碑
a0237545_19375200.png



藤白坂で鎮魂の儀式をすませた行幸の人々は、都を目指して進み始めます。

暖かい紀伊国に秋が深まり、平地も紅葉し始めていました。


1676 背の山に黄葉常敷く神岳の山の黄葉は今日か散るらむ


 紀ノ川の北岸にある背の山の黄葉は今散っている。これから帰る都の神岳(かむおか)の黄葉は今日あたりに散ってしまうであろうか。思えば、皇子がお亡くなりになったのは、黄葉が散り敷くちょうど今頃であった。背の山の黄葉を皇子はご覧になれなかったであろう。


1677 大和には聞こえも行くか大我野の竹葉刈り敷き廬せりとは


 明日辺りは都も見えて来よう。行幸の一行が大我野まで帰ったことは都にも伝わったことだろう。大我野には家もあろうに、わざわざ竹の葉を刈りとって旅の宿りとしたこと。有間皇子が草を刈って仮廬となさった最後の夜を偲んで、竹葉の廬で一夜を過ごしたことを知ったら都の人には分かるだろう。この旅は、文武天皇にとっても大事だったということが。


いよいよ紀伊国行幸も終盤、最後まで皇子を偲んだというのです。

ここまで、紀伊国行幸の十三首の内、十一首まで紹介してきました。

持統太上天皇は紀伊國を訪ね、有間皇子を偲びながらその霊魂を鎮魂し、藤白坂に至って号泣されたのでしょう。「我が衣手は濡れにけるかも」と書かれています。持統帝に成り代わって従駕の者が詠んだのでしょう。では、誰が?


長忌寸意吉麻呂は詔に応えて「風なしの浜の白波いたずらにここに寄せ来る見る人なしに」と詠みました。

巻二では、柿本人麻呂が「大宝元年辛丑紀伊国に幸す時」に

「後見むと君が結べる岩代の子松がうれを又も見むかも」

後に見ようとあの方が結ばれた岩代の子松の枝、その松のうれを私は今日見た…だが、この後、私は結松を再び見ることができるのだろうか。(私も年を重ねた…この後、再び松を見ることはできないかもしれない。)

と詠みました。

紀伊国に人麻呂も従駕していたのです。「我が衣手」の歌は、人麻呂が太上天皇に寄り添って読んだのかも知れません。人麻呂は女帝の心緒を述べた歌を万葉集に残しています。

a0237545_00093073.png
次が、皇子の無実を陳べる紀伊国行幸の総括の歌です。

 

また後で


[PR]
by tizudesiru | 2016-11-10 11:06 | 153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇 | Comments(0)

152有間皇子の霊魂に別れの儀式

有間皇子の霊魂への別れの儀式


大宝元年辛丑冬十月の紀伊國行幸の真実

a0237545_19371663.jpg
大宝(大寶)元年は「大宝律令」が完成した年で、律令の施行は大宝二年になります。

「大宝」と年号を建てた記念すべき年の行幸です。

それも、時の最高権力者が二人も揃っての行幸。

持統帝の崩御は大宝二年ですから、女帝は思いでの地への最後の旅と意識して、有間皇子の霊魂に別れの儀式をするために行幸したのです。


「大宝元年辛丑冬十月、太上天皇・大行天皇、紀伊国に幸す時の歌十三首
 


実は、この十三首の前に、巻九の冒頭には三首置かれています。この巻九の編集にはおおいなる編者の意図があるのですが、その話は別の機会にまわします。

太上天皇(持統帝)と大行天皇(文武帝)の冬の行幸は、単なる物見遊山ではないのです。

では、十三首を率直に読み、そこに込められた意味を考えてみましょう。

a0237545_09371959.jpg

1667 妹が為 我が玉求む 沖辺なる白玉よせ来 沖つ白波


 大事な人のために私は白玉を求める。わたしは白玉にどうしても託したい願いがある。遠くの沖にある白玉をここに寄せて来てくれ、沖の白波よ。


沖には白波が立っていて波が荒いのです。その強い波の力で白玉を寄せて来てくれと願う歌から、十三首が始まります。

ここには、左脚があって「右の一首は先に載せているが、ただ、歌意が少し違い、年代も違っているので、重ねて載せた」と書かれています。

つまり、巻九の冒頭の三首の中に、「妹が為 吾玉拾ふ 沖辺なる 玉寄せ持ち来 沖つ白波」があって、すぐ後に同じような歌が掲載されているので、理由を説明したのです。

それにしても、紀伊國行幸の冒頭歌が「白玉」の歌なのです。


紀伊國の白玉と言えば、誰もが「我が欲りし野島は見せつ 底深き阿胡根の浦の珠ぞ拾はぬ」中皇命の歌を思い出すから、紀伊國行幸の冒頭にこの歌が置かれたのです。


四十年前、中皇命は有間皇子を追って紀伊國まで来ました。

冒頭歌は、四十年前のあの哀しい別れ、有間皇子事件にタイムスリップする歌なのです。

有間皇子事件には中皇命は欠かせない。

ただの悲しいドラマではないのです。

持統帝は孫の文武帝にどうしても紀伊國行幸で伝えたいことがあったのです。


「帰り見む・帰り来む」は、生きて還り、大切な人に再び会うこと

a0237545_15270088.jpg













1668 白崎は幸く在り待て大船に真梶しじ貫き又帰り見む


 紀伊國の美しい白崎の岬よ、そこでそのまま待っていてくれ。大船はたくさんの梶を取り付けているから、きっと無事に帰って来る。そうしたら、白崎よ、再びお前を見たい。

「帰り見む」とは、強い意志を表した言葉です

a0237545_20442120.jpg

白崎と白崎海岸の万葉歌碑

a0237545_20453510.jpg
由良の埼

1669 みなへの浦 潮な満ちそね鹿島在る 釣する海人を見て帰り来む


 みなへの浦の潮よ、そんなに満ちて来ないでくれ。鹿島で釣する海人を見て帰って来たいから。


1670 朝開き漕ぎ出て我は由良の埼釣する海人を見て帰り来む


 
朝早く漕ぎ出して、由良の埼で釣をしている海人を見て、帰って来たいのだ。

真梶をたくさん取り付けて、大船で何処へ行くというのでしょう。
みなへの海で釣する海人を見るだけで、帰って来るのです。
朝早く、由良の埼の海人を見て帰って来るのです。
そう遠くはない所に行くのに、まるで帰って来れないかのような歌になっています。


紀伊國行幸で、従駕の者が歌を詠みました。有間皇子が見た風景を、「再び帰って来て逢いたい人がいる。どうしても帰って来るのだ」という強い意志を、行幸に従った者が詠みました。「帰り見む」と望んでも果たせなかった皇子の霊魂を、歌で鎮めたのでした。
持統太上天皇も文武天皇も、じっと耳を傾けたことでしょう。

5首~7首目・潮が引いた浜辺に寄せ来る波・あの日のことが波が寄せるように繰り返し思い出される

a0237545_17285179.jpg

1671 由良の埼潮干にけらし白神の磯の浦みをあへて漕ぐなり

 
由良の埼は潮が引いたようで船が進みにくいのに、それでも白神の磯の辺りを船が漕いで行くようだ。(なぜに、そんなにまでして舟は離れて行かなければならなかったのだ。皇子を船に乗せて)


1672 黒牛潟(方)潮干の浦を紅の玉裳裾引き行は誰が妻


 潮はますます引いて黒牛方が見えている。その広い浜辺を紅の美しい裙を引きずりながら歩いて行くのは、誰の妻だというのだ。(あの美しい高貴な夫人は皇子の所縁の人。連れていかれた皇子の姿を最後まで見送り、一人残されて放心したように歩いていたあの方の姿が今も目に焼き付いている。)


1673 風なしの浜の白波いたづらにここに寄せ来る見る人なしに


 風が止まったように静かな浜辺に、白波だけは繰り返し寄せて来る。この美しい浜辺を一緒に見たかったあの方はいないのに、波だけが空しく寄せて来る。


この歌には左脚がついています。「右の一首、山上臣憶良の類聚歌林には「長忌寸意吉麻呂が詔に応えてこの歌を作る」といふ」と。この歌は、持統天皇が望んで意吉麻呂に詠ませたと書かれているのです。「見る人なしに」の見る人とは、当然、有間皇子のことになりましょう。皇子は帰って来なかった、この浜辺を共に見るべき人はいないのに波は空しく寄せて来る、という歌意になります。

八首目・出立の松原を過ぎて行く人

a0237545_17345203.jpg
a0237545_17364623.jpg
a0237545_17354561.jpg
1674 我が背子が使ひ来むかと出立のこの松原を今日か過ぎなむ

 この出立の松原は、あの日大事なあの方が使いを待っておられた松原なのだ。四十年たった今日、その松原を私は通り過ぎて行く。あの方を偲んで通り過ぎて行くだけなのだ。(この後、この松原に来てあの方を偲ぶことはないのだろう)

現在は、出立の松原の痕跡を辿ることはできません。しかし、熊野九十九王子社の一つとして、出立王子(田部王子)という社と名が残されています。
a0237545_20325241.jpg

出立で、四十年前の有間皇子との別れを十分に偲んだ後、白浜にも牟婁の湯にも行幸されたことでしょう。
持統太上天皇と文武天皇の旅は、いよいよ帰路になります。

それにしても
これほどまでに、有間皇子の悲劇の跡を訪ねる人、持統天皇とはどのような宿命を持った人なのでしょう。

如何なる宿命の人なのでしょう。
では次回へ。



[PR]
by tizudesiru | 2016-11-08 11:19 | 152有間皇子の霊魂に別れの儀式 | Comments(0)

151・有間皇子を偲ぶ歌

有間皇子を偲ぶ歌

皇子を偲んだのは持統天皇
a0237545_09124182.jpg
結松の記念碑のある岩代からみなべの海と白浜方面を望みます。


持統帝は有間皇子を偲んだ

朱鳥四年(690)紀伊國行幸の一行は、岩代の海岸に至ります。そこで、川嶋皇子の御歌が詠まれました。他にもこの時詠まれた歌が、巻二の挽歌にあります。行幸に従駕した長忌寸意吉麻呂の歌です。


143 岩代の岸の松が枝結びけむ人は返りてまたも見むかも(長忌寸意吉麻呂)

 
 岩代の結松を見ると、松が枝を結んで再び帰って来ることを祈られた皇子が思い出される。皇子は帰りにこの結松を再びご覧になったのであろうか。


144 岩代の野中に立てる結松 心も解けずいにしえ思ほゆ
(同上)


 岩代の野中に立っている有間皇子が結ばれたという結松、この松のように私の心も結ばれたようになって、昔の出来事がしきりに思い出される。


意吉麻呂の歌に山上臣憶良が追和しています。追和ですから、別の機会の歌でしょうか。



145 天翔りあり通ひつつ見らめども 人こそ知らね松は知るとも
(山上臣憶良)

「鳥翔成」は「天翔り」と読んでありますが、この読みには定説がありません。


鳥となった皇子の魂は、何度も何度も通って松をご覧になったことでしょう。その事を人は気が付かず知らないでしょうが、松は皇子が来られることを知っているのです。

a0237545_15195461.jpg

上記の三首の後に左脚があり「これは、柩を挽く時の歌(挽歌)ではないけれど、歌意が挽歌の類に入るのでここに掲載した」と書かれています。
三首に続いて柿本朝臣人麻呂の歌が載せられています。「大宝元年辛丑に紀伊國に幸す時、結松を見ての歌一首」と題があります。

146 後見むと君が結べる磐代の子松がうれを又も見むかも(人麻呂)

 無事に帰って来て再び見よう、後に見ようと、皇子が結ばれた子松の枝。その松が枝を私も後も見たいが、再び見ることができるのだろうか。*大宝元年(701)は、持統帝崩御の前年です。

人麻呂は、持統帝に成り代わってこの歌を読んだのでしょう。大宝元年に文武帝を連れての紀伊國行幸です。将に、「またも見むかも」の心情をくみ取っての歌と言えます。

名だたる歌人が詠んだ、結松の歌。これらは、紀伊国に旅をして気ままに詠んだ歌ではありません。従駕したお供の者が献上した歌の類です。

有間皇子を偲んだのは、もちろん持統帝です。なぜに、ここまで? 当然の疑問が生まれますね。

 

a0237545_12384714.png



[PR]
by tizudesiru | 2016-11-07 15:51 | 151有間皇子を偲ぶ歌 | Comments(0)

144・有間皇子事件の目撃者

有間皇子事件の目撃者
a0237545_15091471.jpg
この理不尽な事件を目撃したのは額田王中皇命
二人は紀伊温泉に来ていました。額田王は斉明天皇の行幸に従って、間人皇后(中皇命)は有間皇子に付き添って。
二人の歌が万葉集に残されています。
まず、「紀伊温泉に幸す時、額田王の作れる歌」です。
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾が瀬子が い立たせりけむ いつかしが本
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣には、読みの定説がありません。
ゆふつきの あふきてとひし
ゆふつきし おほひなせそくも
きのくにの やまこえてゆけ
みもろの やまみつつゆけ
まつちやま みつつこそゆけ
さかどりの おほふなあさゆき
ふけひのうらに しつめにたつ
しづまりし かみななりそね
みよしのの やまみつつゆけ
ゆふつきの かげふみてたつ
しづまりし うらなみさわく
どれもピタリと、意味と読みが合致せず、定説がないのです。云うに言えない心のうちを意味不明の漢字に託して、額田王は読んだのでしょう。
a0237545_16343623.png

莫・日暮れ・広い大きい・寂しい→計り知れない寂しさの中
囂・かまびすしい・うるさい、やかましい→うるさく騒ぐ人や
圓・まどい・おだやか→穏やかな人も
隣・となり、集落に家がある→集まって
之・漢文に用いられる日本独特の終助詞・強めの助詞
大相・大きな会見→尋問がおこなわれた
七・一の中からわずかな変化が斜めに芽を出すこと→些細な事で
兄・あに・二つのものを比べて、その中ですぐれたほう→年上の人が。
爪.つめ、爪の先でつまむ→あの方は小さな望みを以って
謁・目上の者に申し上げる→潔白を陳べた
氣・目に見えない力→あの方は凛としておられた
漢字だけで考えると上記のようになります。

わが瀬子とは、有間皇子のことだとしても良い(当の有間皇子を擬する道がありそうである)と、万葉集釋注で伊藤博は書いています。事件は斉明天皇の紀伊國行幸の時に起こったのですから、額田王が知らずに過ごすことはないでしょう。
蘇我赤兄が奏上してきた「有間皇子の謀反」、額田王は斉明天皇の傍近くに居たと思われますから、事の重大さと急変を感じないはずは有りません。「わが瀬子」とは、親しい男性に対する気持ちを込めた言葉です。額田王にとって、有間皇子はどのような存在だったのでしょうね。斉明天皇にとっては、実弟の孝徳天皇の皇子です。甥の姿を見て動揺されたことでしょう。
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 わが背の君がお立ちになったであろう、この聖なる橿の木の根元よ(万葉集釋注)
「あの方は独り、大臣諸侯の前に連れ出され尋問を受けられた。あの方に掛けられた嫌疑はささやかなことであったが年上の方は詰め寄って…あの方はわずかな望みを以って申し開きをされたが、そのお姿は凛としていた。その場は許されたかに見えたのに、追っ手の手に掛かって、あの方は命を落とされたと聞いた。最後まで、命を奪うために縄がかけられた橿の樹の本に立たれたあの方の姿は毅然としていたという。ああ、私がこのことを忘れることがあろうか。あの方を忘れることはない。」と、私は読みたいと思います。
読めない部分にこそ、本音が隠れているのですね。
a0237545_15133662.jpg
次は、「中皇命、紀伊の温泉に往すの御歌」
君が代も我が代も知るや 岩代の岡の草根をいざ結びてな
わが背子は仮廬(かりいお)作らす 草(かや)なくは 小松が下の草を刈らさね
我がほりし野島は見せつ 底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ
中皇命は間人皇后とされ、『有間皇子がこの温泉に護送された時、間人皇后がつきそって行く途中での歌とされる説がある(田中卓)』と岩波の「古典文学大系」に書かれています。私も、そう思います。
間人皇后と兄の中大兄皇子は、同母の兄妹という関係を越えて恋仲だったという説もあります。
舒明帝の娘だった間人皇女が、孝徳天皇の皇后に立てられた時、二人には年の差がありました。それで、孝徳帝は大事にしていたのですが、中大兄皇子が母の斉明皇太后と妹の間人皇后を連れて明日香に帰ってしまいます。孝徳帝との間に意見の違いがあったのでしょう。更に、中大兄皇子は、ずっと皇太子のままで二十年以上も即位していません。それは、妹との道ならぬ関係を断つことができなかったからだというのです。果たして、そうでしょうか。私は、別の意見を持っていますが、それは後で。
貴方の寿命もわたしの寿命も知っているであろうか、岩代の岡のしっかり根を下ろした松の枝を、さあ結びましょう。
我が背子が仮廬を作っていらっしゃる。カヤがないのなら、子松の下のカヤをお刈りなさいませ。
わたしが見たいと思っていた野島は見せてくれた。でも、阿胡根の浦の玉は拾わなかった。玉こそ拾いたかったのに。
此処に、中皇命の歌が三首もあり、それも有間皇子の歌と対応するのです。
 岩代の濱松が枝を引き結び 真幸くあらばまた還り見む
 



[PR]
by tizudesiru | 2016-11-01 16:47 | 144有間皇子事件の目撃者 | Comments(0)


地図で分かる生活と歴史


by tizudesiru

プロフィールを見る
画像一覧

最新の記事

香具山を詠んだ三人の天皇(2)
at 2017-09-22 11:15
天の香具山を詠んだ三人の天皇..
at 2017-09-21 15:12
檜隈寺跡は天皇の宮跡
at 2017-09-21 11:36
呉音と漢音で「倭人伝」の役職..
at 2017-09-18 16:23
キトラ古墳の被葬者は舎人皇子
at 2017-09-17 00:26
キトラ古墳の主は星空と四神と..
at 2017-09-14 15:40
キトラ古墳の被葬者
at 2017-09-13 09:36
聖徳太子の墓と似ている飛鳥岩..
at 2017-09-08 15:40
明治まで石室内を見られた聖徳..
at 2017-09-07 17:04
聖徳太子の陵墓は、三骨一廟
at 2017-09-06 23:39
西原の縄文土器の出現と退去
at 2017-09-05 09:58
無理が通れば・小水城の不思議..
at 2017-09-03 01:31
西原村は旧石器と縄文のタイム..
at 2017-09-01 20:15
黒曜石・白滝の赤と腰岳の黒
at 2017-08-29 22:36
前畑遺跡は羅城の土塁?版築の..
at 2017-08-27 21:35
さらば愛しき小物たち
at 2017-08-26 23:05
稲荷山鉄剣の辛亥年=531年..
at 2017-08-26 00:15
稲荷山古墳の築造は六世紀(1)
at 2017-08-24 00:34
稲荷山古墳の被葬者と雄略天皇
at 2017-08-19 13:31
稲荷山古墳鉄剣銘文・乎獲居臣..
at 2017-08-17 22:22

記事ランキング

カテゴリ

全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1大宰府の位置
2竹原古墳
3間夫という山
4筥崎八幡宮
5弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6平原王墓ラインから分かること
7八女丘陵の古墳のライン
8高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山
11羽白熊鷲と脊振山
12羽白熊鷲と古処山
13九千部山と香椎宮
14国守りの山は何処に?
15神籠石が教えてくれる古代
16六世紀の都
17神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
39神籠石から分かること(4)
40神籠石から分かること(5)
41神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43古代の宮殿は何処に?(1)
44江田船山と筑紫君磐井
45筥崎宮から見た太宰府天満宮
46高千穂の峰から阿蘇へ
47雲仙が守った首長は、何処
48神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50醍醐天皇の都の守り
51十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社
53空海の霊力
54出雲大社と熊野本宮大社
55大山古墳の謎
56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線
59続石上神宮の視線
60藤原京の守り
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮
63あおによし奈良の都は
64続・あおによし奈良の都は
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実とは
67石城山神籠石ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社
71尾張国の式内社
72紀伊国の式内社
73近江国の式内社
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳のライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社の不思議
92薦神社の不思議2
93金富神社と鉾立山
94 金富神社と鉾立山 2
95 金富神社と鉾立山3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
101宇佐神宮と九州の神々
278西原村の旧石器・縄文・弥生の資料
256平城京と平安京
219法起寺式伽藍
207中大兄とは何者か
149有間皇子を愛した間人皇后
102安心院の二女神社
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264柿本人麻呂と持統天皇
265消された饒速日の王権
266大宰府・宝満・沖ノ島
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んんだ倭建命
273大型甕棺の時代
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラ
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
284明日香川原寺の万葉歌の謎
285天香具山と所縁の三人の天皇

画像一覧

以前の記事

2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2014年 07月
2013年 10月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 05月
2013年 02月
2012年 11月
2012年 09月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月

タグ

フォロー中のブログ

絵本ぶろぐ

最新のコメント

たぶん、夾紵棺の技術、大..
by 尊敬します at 22:58
もう読まれましたか。 ..
by 大町阿礼 at 21:21
> 名無しさん ほんと..
by tizudesiru at 11:55
> aさん コメントあ..
by tizudesiru at 11:20
郭務宗が二千人の人々を率..
by 名無し at 09:10
間夫という山名は鉱山に関..
by a at 01:51
いつも楽しく拝見させてい..
by 尊敬します at 23:15
>いつもありがとうござい..
by tizudesiru at 20:27
弥生の風公園のわら細工の..
by 尊敬します at 22:29
> コメントありがとうご..
by tizudesiru at 23:06
建物の遺構もさることなが..
by 暇人 at 22:48
ごめんなさい。 楼閣じ..
by 尊敬します at 00:10
> 読んでくださってあり..
by tizudesiru at 23:59
邪馬台国がどこにあったか..
by 尊敬します at 18:44
お答え頂きありがとうござ..
by 尊敬します at 21:46
> そうですよね。長い参..
by tizudesiru at 23:01
長い参道があるところには..
by 尊敬します at 22:06
なるほど、「変化」を知る..
by 尊敬します at 19:41
読んでくださってありがと..
by tizudesiru at 10:08
いつもお世話になります ..
by 尊敬します at 23:32

検索

メモ帳

その他のジャンル

外部リンク

ファン

ブログジャンル

歴史
旅行・お出かけ