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持統天皇と倭姫皇后と倭姫の接点

崩御の時まで持統天皇が胸に秘めていたこと
今日はそのお話です。では、最後の行幸からまいりましょう。
持統天皇の最後の行幸はお気に入りの人を連れての旅だった、と前回書きました

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最後の行幸に従駕した人・万葉集には
長忌寸奥麿(意吉麻呂)、高市連黒人、与謝女王、長皇子、舎人娘子

東国行幸に従駕したのは、持統天皇の信頼する人物だったようです。長忌寸奥麿(ながのいみきおきまろ)は、二度の紀伊国行幸(690年・701年)に従駕し歌を詠みました。有間皇子事件を見事に詠み上げたその歌は持統天皇を感動させ、大宝元年の行幸では詔で歌を所望したほどです。高市連黒人も近江朝を偲び荒れた大津京を読んでいます。二人は行幸に従駕し、先々で歌を詠んだのでしょう。(既に紹介済)

長皇子は、天智帝の娘・大江皇女の嫡子です。人麻呂が歌を奉った皇子で、持統帝は行幸にも連れて廻るほど気に入っていたか、頼りにしていたのでしょう。(長皇子についても、既に紹介しています。)

舎人娘子は舎人皇子の養育を受け持つ氏の女性でしょうか。この人は舎人皇子と恋歌をやり取りしています。それなら、持統帝が目をかけた舎人皇子の関係者となりますね。
東国へはお気に入りの人々を従えての行幸だったのです。

では、人麻呂は? 従駕していなかったのでしょうか。それは分かりませんが、持統天皇はこの行幸ですべてを成し遂げたのでしょう。環幸の後、ひと月で崩御となるのです。旅は疲れるものですが、従駕した人々の歌を読んみると、旅愁はありますが悲壮感など有りません。

前年の紀伊国行幸の意味深な歌とは違うのです。旅先で持統帝は元気だったのでしょうか。

旅から帰った十二月二日、「九月九日、十二月三日は、先帝の忌日なり。諸司、この日に当たりて廃務すべしと勅が出されています。何とも、急な勅です。十二月三日の前の日に出した勅で「次の日は仕事をするな」というのですから。

しかも、九月九日は天武天皇の命日ですが、十二月三日は天智天皇の命日なのです。急な勅は天武天皇のために出されたのではないのです。天智天皇の忌日のために出されたのです。すると、持統天皇の意思なのでね。最後まで天智天皇への思いを抱いていた、最晩年に「隠す必要はない」と判断した、それが持統帝の真実の姿でした。

(十二月)六日、星、昼に見る(あらわる) *星とは太白で金星のことです。太白が昼に現れるのは「兵革の兆し」とされます。

十三日、太上天皇、不豫(みやまいしたまう) *不豫とは天子の病気のことです

天下に大赦が行われ、百人が出家させられ、畿内では金光明経を講じられました。しかし二十二日、遺詔(いしょう)して「素服挙哀してはならない。内外の文武の官の仕事は常のようにせよ。葬送のことはできる限り倹約するように」と言い残し崩じられたのでした。

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天智天皇量の真南に天武持統陵・大友皇子の屋敷跡は石上神宮へ)

持統天皇は「仕事は怠るな。葬儀は簡単に」とは伝えましたが、その他の気がかりについては何も言ってはいません。東国行幸で全てやり終えたというのでしょうか。

ですから、東国行幸が非常に気になるのです。その目的が天の香久山を詠んだ女帝が、実は天照大神の神祭りの場を探していた、とは。

以前、持統六年(692)の伊勢行幸のとき大三輪高市麿が冠を捧げて天皇の伊勢行幸を諫めた話をしました。「大三輪」ですから高市麿は三輪山の神祀りをする氏族でした。『三月は農繁期ですから伊勢行幸はやめてください(我が三輪山は、天智天皇も大切にしておられた。その神山を捨てて伊勢に行かれるのか)』と諫言したのでしょう。
考えてみると、伊勢の神祭りを始めたのは天武天皇でした。

天武十四年(685)初めて伊勢神宮に式年遷宮の制を定める
  
諸国の歌男・歌女らに命じ、歌笛を子孫に伝習さす。
     

 

壬申の乱に勝利したのは伊勢の神のおかげだとすると、天武十四年の「はじめて式年遷宮」は遅すぎです。神への御礼は一番でなければなりません。
また、天武天皇が伊勢神宮の神祭りを始めたのであれば、その皇后の持統天皇が伊勢に行くのを止める大義名分は誰にもありません。まして、大三輪高市麿にも。
上代の三月が今の四月くらいだとすると、農作業が忙しいのは上代の四月から(五月六月)でしょうね。

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最後まで天智天皇を慕いつづけた持統天皇が、三輪山ではなく伊勢に神祭りの場を求めたのは何故でしょうね。その聖地求めの旅が平安時代~鎌倉時代初期に「倭姫の伝承」として『倭姫命世記』に書き残されたのではないかと思ったのです。

すると、持統天皇こそが倭姫皇后だったのではないか。父は有間皇子で、皇位継承者の妃となるべき立場に生れた姫だった。有間皇子事件の後は間人皇后かくまわれたが見つけ出され、古人大兄皇子の娘として天智帝の妃とされた。
そう仮定すると、紀伊国行幸の歌で有間皇子を偲び続けることも、天智・天武の陵墓が同じ経度にあることも、難波宮に重要なことを決める時に行幸があることも、有間皇子事件に類似した宇治若郎子の事件が額田王や人麻呂によって歌われるわけも、天智天皇の葬送儀礼の歌が天武帝より多く残されていることも、天智帝の血統の草壁皇子が薨去した理由も、額田王と中臣大嶋が草壁皇子の菩提を弔ったわけも、持統帝が天智帝が築いた高安城に行幸する理由も、倭姫皇后が忽然と消えた理由も、大津宮を持統帝が懐かしむ理由も、事実を歌として「万葉集」に編集した柿本人麻呂が刑死した理由も、人麻呂に対して元明天皇が激怒したわけも、平城天皇が「万葉集」を編集しなおして事実が分からないようにした理由も……ほとんど同じ糸で結ばれていたので、意味がつながり謎が解け理解できるのです。

倭姫命が天智天皇の皇后と同じ称号で呼ばれているのなら、何らかの接点があると思いませんか。
いよいよ、倭姫命世記を読まなければならなくなりましたね。
長い物語ではありません。近くの図書館にも関係書はあると思います。
では、また。




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by tizudesiru | 2017-11-21 23:49 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback | Comments(0)

持統天皇の最後の行幸と伊勢神宮

もうこの海を見ることもないだろう
あの方の霊魂を鎮める最後の旅となるだろう
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大宝元年の紀伊国行幸(秋九月、冬十月)は、万葉集の巻一、巻二、巻九に歌が乗せられています。大宝元年辛丑冬十月の紀伊国行幸は、女帝の心にあった永年の苦しみを払う行幸でした。文武天皇が持統天皇と合流したのは、十月だったのでしょう。その時、紀伊国での出来事を全て孫に伝えたのです。

持統天皇は、九月に孫の文武天皇より先に紀伊国に来ていました。その時の歌が巻一にありますが、巻九の「紀伊国十三首」と比べて軽いのですが、旅先の土地を誉め、旅の安全を祈ったのでしょう。
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大宝元年辛丑冬十月の紀伊国行幸は、特別でした。紀伊国の郡司をねぎらいながら一重に有間皇子の霊魂を慰め鎮めました。それが巻九の「紀伊国行幸十三首」でした。そのひと月前の持統太上天皇の紀伊国行幸、この時の歌を読んでみましょう。

54 巨勢の山のつらつら椿はさいてはいないけれど、つらつら思い偲んでみようか。巨勢山に椿が咲き乱れるその美しい春野を。
秋なので椿は咲いていませんからね。春野を想像して詠んだのです。

55 麻裳で知られる国、紀伊国の人がうらやましいことだ。この真土山をいつもいつも眺めることができる。わたしは旅の行き帰りに見るのだが、紀伊国の人は本当に羨ましいなあ。
真土山を越えると大和から紀伊國に入ります。その境の山を見ると旅情が高まるのでしょう。

56 川岸に咲き乱れるつらつら椿、巨勢の春の野はつらつら見ても見飽きないことだろうなあ、巨勢の春野は、きっと。
まだ、春は遠いけれど椿咲き乱れる春野を偲びながら、一行は紀伊国の行幸の安からんことを祈ったのでしょう。土地を誉めることがその地の神々に祈ることでもあったそうです。以前紹介した「紀伊国十三首」の重く切ない歌と比べると、九月の歌はかなり軽く感じますね。文武天皇を伴った行幸は特別だったことが分かります。


そして、最後の行幸が大宝二年
持統天皇の最後の行幸・美濃・三河・伊勢・伊賀

大宝二年、東国へ持統太上天皇は行幸しました。
大宝二年は女帝の崩御の年です。崩御のひと月前まで女帝は行幸の輿の上に在ったのです。行幸とは「幸を行う」ことでした。行く先々で、人々を労い褒美を与えることなのです。持統天皇も先々で褒美を与えて回りました。
その最晩年の行幸時の歌が万葉集に残されています。


大宝元年辛丑冬十月の紀伊国行幸では、紀伊国の郡司をねぎらいながら一重に有間皇子の霊魂を慰め鎮めました。もう思い残すことはないだろうと周囲は思ったでしょう。
しかし、持統天皇は旅に出ました。それも、特別のお気に入りを連れての行幸です。

今度の旅の目的は何でしょうか。

冬十月十日、太上天皇参河国に行幸 *今年の田租を出さなくて良しとする

十一月十三日、行幸は尾張国に到る *尾治連若子麻呂・牛麻呂に姓宿禰を賜う                                       *国守従五位下多治比真人水守に封一十戸

同月十七日、行幸は美濃国に到る *不破郡の大領宮勝木実に外従五位下を授ける *             
 *国守従五位上石河朝臣子老に封一十戸 

同月二十二日、行幸は伊勢国に到る *守従五位上佐伯宿禰石湯に封一十戸を賜う

同月二十四日、行幸は伊賀国に至る 

同月二十五日、車駕(行幸の一行)参河より至る(帰ってきた)

東国行幸では、尾張・美濃・伊勢・伊賀と廻り、郡司と百姓のそれぞれに位を叙し、禄を賜ったのでした。それが目的だったのでしょうか。大宝律令により太上天皇として叙位も賜封もできるようになっていました。太上天皇は新しい大宝令を十分につかったのです。

この行幸は、壬申の乱の功労者を労うことが目的だったと言われています。確かに天武軍は東国で兵を集め整えました。

行幸の目的については気になることがありますが、行幸で詠まれた歌を見ましょう。
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この行幸時の女帝のようすにただならぬ気配はなかったのでしょうか。十月から十一月まで五か国をめぐる旅が続きました。お疲れだったと思いますが。

歌に出てくる地名です。
引馬野(ひくまの)愛知県宝飯郡御津町御馬の地・音羽川河口付近に引馬神社がある。他に豊川市や静岡県浜松市の曳馬町付近とする説もある。
阿礼の崎(あれのさき)所在地未詳
隠(なばり)三重県名張市のあたり。
円方(まとかた)三重県松阪市の東部。東黒部町一帯後。「逸文風土器」に『地形が的に似る』とある。


持統天皇の行幸は「倭姫命世記」の倭姫の歩いた道と重なります。それは何故か、気になっていました。
それは、また明日。




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by tizudesiru | 2017-11-21 00:10 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback | Comments(0)

持統天皇は天智帝と草壁皇子の皇統を守ると決意した

持統天皇の御製歌の意味は…
ずっと引き延ばしてきたこと、持統天皇がなぜ香久山を詠んだのか、このことについて書かなくてはなりませんね。前回の三輪朝臣高市麻呂の諫めが農繁期の「伊勢行幸」に対する抗議というより、「三輪山が見捨てられること、王朝の神祭りが伊勢に移ることへの深い憤り」から来たものであると書きました。
三輪山はもともと饒速日を祀る山でしたから、天氏系の氏の大切な聖地でしたからね。

では、持統天皇の御製歌を読みましょう。既に紹介したカードを使います。

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春過ぎて…冬という困難な時代を一人息子を守りながら耐え忍び、やっと春が来たと思ったら夏になってしまった…ついに、わたしがあの香具山の神祭りを引き継ぐ時がきたのだなあ
しかし
持統天皇は、「天武天皇の神祭りを引き継いでこれから自分が政をしよう」と歌ったのではありません。
引き継ごうとしたのは天智帝と舒明帝の「まつりごと」なのです。
香具山を詠んだのは三人の天皇、天智帝(中大兄)と舒明帝と持統帝でしたね。
その舒明帝や天智帝と同じ祭祀で、国の「まつりごと(政)」を行うと持統天皇は歌ったのでした。


持統天皇がこれほどまでに「天智天皇」の天香具山にこだわるのは何故でしょう。

壬申の乱という、まるで革命のような政権交代を成し遂げた天武天皇の皇后は「天智天皇のまつりごと」に倣おうとしました。天智天皇がつくりあげた戸籍「庚午年籍」を使い、天武天皇の皇親政治を止め、議政官を任命し律令政治を目指しました。夫の仕事をひっくり返したのです。でも、高市皇子に最高位を預け、内部の混乱を避けようとしたのだと考えます。

皇位継承に関しては「直系に継承」という天智天皇の意思に沿いました。具体的には天智天皇の「不改常典」(改めまじし常ののり)として、元明天皇の詔に登場します。天武朝の皇位継承を天智帝の法で縛ろうとするなんて、考えられないことでしょう。持統天皇をはじめ、まつりごとの基本は天智朝を手本としたと云うことです。なぜに?
持統天皇は心から天智天皇を慕い尊敬していたのです。それは、持統天皇の崩御の年まで続きました。
続日本紀からも、その思いが伝わります。
大宝二年(702)十一月二十五日、持統天皇は尾張・美濃・伊勢・伊賀への行幸から戻りました。その翌月の十二月二十二日に崩御となっているのです。
そんな大変な時期、崩御の二十日前、十二月二日に持統天皇は詔を出しました。
「九月九日、十二月三日は先帝の忌日(いみび)なり。諸司、この日に当たりて廃務すべし」
先帝とは天武天皇と天智天皇です。


九月九日は天武天皇の命日、十二月三日は天智天皇の命日。
その命日には仕事をしてはならないという詔ですが、十二月二日に次の日の仕事を休めという、かなり急な詔ではありませんか。それも、この勅は天武天皇の為に出されたのではありません。次の日の天智天皇の命日のために出されたのです。
崩御の二十日前までも、持統天皇は天智天皇を思い続けました。


その理由はもう分かりますね。
天智帝への愛以外にはありません。
今まで、万葉集で確かめてきたことが事実なら、持統天皇は有間皇子の所縁の人、妹か、許婚者か、娘です。となると、鵜野皇女こそ天智天皇に召された畝傍の媛だったと云うことになりますね。
ここで、持統天皇の一人息子・草壁皇子の父親は天智天皇だった、という天武朝にとって大変な展開となるのです。
しかし、考えてみると少しも矛盾はありません。天武天皇は「吉野盟約」で、自分の皇子と同じく天智帝の皇子も我が子として扱おうと約束します。おかしな話です。本当は自分の直系の皇子に皇位継承権を与えたかったでしょうに。天智系の皇子も我が子のように扱うと誓い、大喜びしたのでした。
吉野の盟約は、鵜野皇女の連れ子を我子とするための儀式だったと思います。

しかし、吾子・大津皇子への愛は断ちがたく、天武帝は「朝政を聴く」立場まで引き上げました。大津皇子の即位への道を開けて置いたのです。
草壁皇子は自分の出自を承知していたので、皇太子でありながら極位には着きませんでした。もちろん、草壁皇子は病弱ではありませんでした。万葉集の挽歌に詠まれた通り、狩が好きで阿騎野では御猟を楽しんでいたのです。健康な草壁皇子は大津皇子が極位に着くことを承知していたと思います。

その事は、大津皇子にも伝わっていて、草壁の意思を受けてもいいのか、天武帝の崩御後、伊勢の姉に相談に行ったのです。大伯皇女の不安は的中し、大津皇子は死を賜りました。その政治的判断は高市皇子がしたと思います。行政のトップは太政大臣の高市皇子でしたから。
高市皇子は最高権力を握った持統天皇に畏敬の念を抱き、その胸の裡を察したのでしょう。天智系の皇統を残したいと思っていることを。

大津皇子の死後、自責の念で草壁皇子は苦しみました。そのために、自死を選んだと思います。日本書紀は「薨去」のみしか伝えていません。病気平癒のために誰も出家していないし、大赦もなく、その葬儀をどのようにしたのか、一切書かれていません。(万葉集でその様子を知る以外にないのです。)
「乙未、皇太子草壁皇子尊薨」の一行のみです。弔いの使いの描写一つありません。

常々、持統天皇は、特定の皇子や皇女を大事にしています。
特に、明日香皇女の病の時は、沙門一〇四人を出家させました。人麻呂に挽歌も詠ませました。既に、紹介した通りです。しかし、大事な草壁皇子には沙門の出家はないのです。
特に寺を建立したとかもありません。草壁皇子の為に寺を建てたのは、中臣大嶋と比米額田です。
中臣大嶋は壬申の乱で斬られた中臣金の甥です。比米額田は額田王とされています。
二人は、なぜ草壁皇子の菩提を弔ったのか、答は一つです。草壁皇子が本来の主人・天智天皇の血統だからこそ菩提を弔う寺を建てたのです。
どの事実も、草壁皇子の出自と死の真実を指し示しているのです。
持統天皇は草壁皇子を失いました。その落胆と絶望はどんなに大きかったか。
しかし、残された道は一つしかありません。天智天皇の皇統・草壁皇子の皇統を守る以外にないのです。その決意の歌が「春過ぎて夏来るらし白妙のころもほしたり天の香具山」なのです。

つまり、持統天皇の御製歌は草壁皇子の出自を明かす歌なのです

持統帝が大事にした皇子・皇女は、長皇子(母・大江皇女)や舎人皇子(母・新田部皇女)、明日香皇女や阿
閇皇女・御名部皇女でした。
このような扱いをした理由はひとつ、なぜなら、彼らは天智帝の子孫だったからです。

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ですから、当然、持統天皇が大事にしたのは、先祖とつながる山田寺・川原寺・飛鳥寺・橘寺など蘇我氏・舒明帝や天智帝の所縁の寺院となりましょう。それは、同じ様式の瓦(山田寺式の瓦)が使用されていることでもわかります。
川原寺は九州で朝倉宮で崩御された斉明天皇の葬儀を天智天皇が執り行ったところでした。もともと宮殿で、後の世に寺とされたのです。橘寺は川原寺の正面の岡にある聖徳太子ゆかりの寺です。
吉備池廃寺も奥山廃寺も山田寺式の瓦が出土していますから、関係の深い寺だと云うことになりますね。
瓦は別の機会に紹介します。特に、奥山廃寺について紹介したいことがあります。

持統天皇の時代、大事にされた山田寺です。
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(冬の山田寺)
ここ山田寺は、蘇我倉山田石川麻呂の終焉の地です。其の霊魂は鎮められなければなりませんでした。

また、あした。



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by tizudesiru | 2017-11-16 00:42 | 302草壁皇子の出自を明かす御製歌 | Trackback | Comments(0)

「中大兄三山歌」の畝傍山は倭姫を意味する

持統天皇の祖先の山は三輪山ではない
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昨日のブログでわたしはこのように言いました。もちろん、万葉集を読む中で導き出されたことです。

今日のテーマに入る前に、中大兄の三山歌を思い出してみましょう。この歌には、大事なヒントと意味があるのです。
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前回、持統天皇の祖先が神祭りをした山は何処か、それは畝傍山ではないかと書きました。カムヤマト磐余彦の山です。『先代旧事本記』では、この王統が饒速日の王統を滅ぼしたことになっていますね。
以前、「中大兄の三山歌」で述べたように、ヤマト三山は三つの氏族のシンボルの山で、それぞれの氏が祭祀をしていたと紹介しました。中でも新興勢力の二つの王統は伝統的な畝傍の王統の姫を妃にすることでその血筋の尊さを保とうとした、と紹介しましたね。それが耳成山と香具山が、畝傍山を争う歌となったのでした。

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三山歌を読むと、高貴な姫をめぐって争われたのが何時か分かりますね。神代である過去と現在です。過去にもあったでしょうが、現在も同じことが起こりました…それは、中大兄の時代です。
すると、中大兄が皇后にした倭姫皇后がまさに「高貴な血統の姫」となるのでしょう…
では、耳成山側の争いの当事者は誰でしょう。耳成山は藤原宮の北にランドマークのようにそそり立つ山です。藤原宮を造営した天武朝の象徴的山なのです。それでは、耳成山が象徴するのは天武天皇だと云うことになりましょうか。
では、では、通説のように「三山歌の畝傍の姫」は額田王で、中大兄と大海人が額田を争ったというほぼ定説になっている説は成り立つでしょうか? 


それは、歴史の結果で見てみましょう。天智天皇が皇后にしたのは倭姫で、天武帝が皇后にしたのは鵜野皇女(持統帝)でした。選ばれたのが倭姫と持統帝だと云うことは、大変重要なことです。額田王ではないのです。

三山歌が叙事詩だとすれば、この歌を知れば誰にも登場人物が分かったのです。
誰が高貴な姫かを世間が知っていたのであれば、天智天皇崩御の後「倭姫皇后が行方知れず」になるはずはありません。
高貴な姫を他の氏に奪われてななりませんからね。もちろん、高貴な姫ならば額田王もそれなりに大事にされたはずでしょう。しかし、天武帝の後宮には入れられていません。

更に、歴史の結果を見ると、天武天皇崩御後に称制(皇位継承の玉璽を手にした)したのは、持統天皇その人でした。行方知れずの倭姫皇后は何処へ行ったのか、なぜ鵜野皇女が皇后になれたのか、もうわかりましたね。高貴な畝傍の姫だったから、鵜野皇女は皇后に選ばれたのです。
額田王は中臣大嶋と結婚し、晩年は草壁皇子の為に菩提寺造りに励みました。
更に、面白いことに、「万葉集の人麻呂歌集」を読むかぎり、倭姫皇后は生き残り、天武帝に懇願されてその皇后となったとなります。その歌集も紹介するつもりですが。
結果、畝傍之姫・ヤマトヒメこそ持統天皇かも知れないと思うようになったのです、ある日、突然。
たぶん、わたしの思いは孤立しているでしょう。こんな出鱈目な解釈は、私自身が意外だったし、詠み続けている正史からは許されないでしょうから。
しかし、万葉集を読んでいると、出鱈目な発想が次々に生まれるのです。
そうして、だんだん「歌には言霊が宿るから、めったに書き直しは出来なかっただろう」という気分になりました。だから、平城天皇は侍臣に詔して『万葉集を撰ばしむ』と、編集によって攪乱したのだろうと想像したのでした。
最近、わたし自身も、万葉集はかなり事実を記録していると、確信するようになりました。
わたしは長い間書きたかったことをやっと少し書きました。
すべて万葉集を繰り返し読んで、ある日突然分かったことです。一つの仮説からすべての謎が解かれていった、そんな感じです。


では、今日のテーマ「持統天皇の祖先の山は三輪山ではない」に入りましょうか。
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これは、万葉集巻一の「伊勢国行幸時の歌」です。柿本人麻呂はこの時の行幸に従駕していません。しかし、都に残って行幸の持統天皇を思っています。行幸先の伊勢では、大宮人は毎日のように船に乗っているようですが、海は荒れるのにと人麻呂は心配しました。大宮人は船で何をしているのでしょうか、遊んでいるとは思えないのですが。歌の意味はそのまま理解してください。

この行幸が朱鳥六年(692)ならば、従駕した石上麻呂はまだ大臣になっていません。が、万葉集には最終の官職で「大臣」と書かれています。石上麻呂が大納言に任官されるのは大宝元年(701)で、右大臣になるのは慶雲元年(704)でした。没年は養老元年(717)で、左大臣にまで上り詰めました。持統・文武・元明・元正と四人の天皇に仕えた多分有能な人だったのでしょう。
その有能な人材が従駕して、伊勢に行幸したのですね。目的があったはずです。それは、伊勢行幸時の歌五首に付けられた「脚」から想像することができるでしょう。

次のような「脚」がつけられています。
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三輪朝臣高市麻呂は、持統天皇の伊勢行幸を諫めました。後世『霊異記』は、高市麻呂の農民愛撫の様を讃え、諸天も感応すると書きました。
では、高市麻呂は本当に「農民愛撫の立場」で天皇を諫めたのでしょうか。わたしにはそうは思えません。三輪朝臣
間違いなく三輪山につながる氏族です。彼が心から怒ったのは、三輪山ではなく伊勢に神祭りを求めた持統天皇に対してだったと思います。「我が三輪山を見捨てて、伊勢に神祭りの場を求めるとは何事ですか」女帝に対して、すべてを投げ打ち抗議したのでしょう。
彼は冠を脱いで天皇に捧げましたから職を賭したのです。事実、大宝二年、長門守に起用されるまで官位はなかったそうです。
それほど、三輪山が大事だったのです。
確かに、このあと三輪山は第一の神祭りの場ではなくなりましたからね。

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藤原宮から耳梨山を見る
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藤原宮から香具山を見る
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藤原宮から畝傍山を見る

藤原宮は、三山に守られていますね。
それにしても、なぜ持統天皇は「春過ぎて夏来るらし白妙の衣ほしたり天香具山」と、堂々とした香久山を詠んだのでしょうか。もちろん、これは大事な話です。
また、あした。
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by tizudesiru | 2017-11-15 00:26 | 302草壁皇子の出自を明かす御製歌 | Trackback | Comments(0)

持統天皇と呼子鳥をめぐる謎

続・持統天皇を呼び続ける呼子鳥
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歴史書を無視した話になってしまいました? 持統天皇の出自について、
前回のブログを見てびっくりですか? 確かに、無茶な展開でしょうね。

鵜野皇女は正史では蘇我石川麿右大臣の娘と天智天皇の間に生まれた皇女となっています。が、巻九の「紀伊国行幸の時の十三首」を繰り返し読んで、わたしには疑問が湧いて来たのです。持統天皇は何故にこれほど「有間皇子」を偲び続けるのかと。
はじめは、十三歳の鵜野皇女は有間皇子の許婚者だと思いました。孝徳天皇の跡を継ぐべき有間皇子と鵜野皇女は孝徳天皇の意思で婚約し、有間皇子は極位を継ぐべき立場にあったと思いました。そうなると、岩代まで有間皇子を追ってきた中皇命の歌の意味が分かりにくくなります。なぜに、父親の皇后という立場の女性が有間皇子を追って岩代まで来たのか、不思議です。兄の中大兄皇子の為に有間皇子に付き添ってきたという通説が成り立つでしょうか。

巻九と巻一と巻二(挽歌)を読むかぎり、中皇命は自分の意思で有間皇子を追って兄や母とは別に紀伊国に入っていたのです。「幸す」と「往く」と使われた漢字が違っていますから、それは揺るぎません。

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有間皇子に玉璽を伝えようと思っていたから、有間皇子が追っ手によって殺された後、中皇命(間人皇后)は逃げたと思います。日本海側の間人(たいざ)と呼ばれる港町に。間人(たいざ)に難を逃れた間人皇后は聖徳太子の母ではなく、孝徳天皇の間人皇后が追っ手から逃れたのだと思います。同じ「間人」ですから、聖徳太子信仰と結びついて伝承が残されたのだろうと。
だから、天智天皇は妹の間人皇太后が薨去した後、母の斉明天皇と合葬した後でなければ、即位できなかったのではないでしょうか。玉璽が手元にないのだから。
天智天皇は玉璽を得て初めて正式の大王になったのでした。

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では、持統天皇の母は誰でしょう。山田寺に封が下されたり見事な瓦が葺かれたり、天武朝の手厚い扱いを見ると持統天皇が蘇我系の女子であることは間違いないでしょう。

それでも、有間皇子が薨じた時十九歳だったという日本書紀の記述が、「持統帝は有間皇子の家族」説の大変な障害となりました。

それで、「日本書紀」が意図的に有間皇子の年齢を一回り(十二年)操作したという怪しげな説を持ちだす以外にないのですが…

あえて、次のような内容をブログに紹介してきたのです。ほとんど、去年から書いていることです。


・孝徳天皇の四十歳すぎに生れた後継者としては遅すぎるので、有間皇子はもっと早くに生れていたのではないか。
・中大兄皇子(三十歳過ぎ)がライバル視する年齢なら有間皇子は同年代に近いのではないか。
・難波宮には後宮も東宮もあったようだが、中大兄皇子は東宮には入らなかったし、妹も母も連れてヤマトへ戻っているので、皇太子ではなかっただろう。
・政権が変われば、後宮の女性たちは次の後継者の後宮に入れられたのではないか。孝徳朝の女性は有間皇子の後宮へ。有間皇子の後宮の女性は天智朝へ。天智朝の女性は天武朝へ。政権が変わるたびに女性は次の政権に引き継がれることになっていたので、十市皇女や吉備采女(近江朝の采女)の悲劇となった。
・中皇命は次の後継者である有間皇子の妃となることを承知していた。
・十市皇女の自殺によって後宮の中に不安が広がったので、天武天皇は「吉野の盟約」と呼ばれる儀式で、天智朝の皇子も含めて「家族になる儀式(謀反は起こさない)」をしたのではないか。それによって、天武天皇は満足して「吉野よく見よ」の歌を詠んだのではないか。

などなど、少しずつ書いて来ました。それは、有間皇子が十九歳ではないという前提によって引き出されたことですが、万葉集を読むかぎりこのようなことになってしまうのです。

わたしは古代史研究家ではないので平気で「とんでも説」を書けますが、日本書紀を読めるような研究者は「とんでも説」は出されませんね
もちろん、わたしも長い間「正史」に書かれていることを疑うなんてことはありませんでした。
しかし、元々好きだった万葉集を時々読むうちに疑問に思う事が次々に出て来たのです。「なぜ」を重ねていくうちに「持統天皇の出自って正史の通りなのかな?」という気分になったのでした。
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(紀伊国の春)
そして、巻九を何度も読むうちに「もしかしたら持統天皇は有間皇子の所縁の人!」ではないかと思うようになったのでした

だって、持統天皇は草壁皇子を亡くした翌年に息子の妃を連れて紀伊國行幸に出たのに、有間皇子の岩代の海岸を訪れ結松に涙しているのです。息子を思って泣くならともかく、三〇年も前に謀反の罪で刑死した有間皇子の謂れある地を訪ねて涙するなんて、所縁の人ではなくて考えられなかったのです。草壁皇子を偲んで泣いたのは、嫁の阿閇皇女(元明天皇)でした。嫁はむしろ他人でしょうに、母は息子ではなく更に縁の薄い有間皇子の霊魂を鎮めようとするなんて。
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更に、四〇年後、大宝令の完成した大宝元年に持統太上天皇は文武天皇と紀伊国行幸に出ますが、徹底して有間皇子を偲ぶ旅でした。若い文武天皇に伝えたいことがあった行幸で、有間皇子事件を辿るなんて信じられない展開です。
しかも、皇子終焉の地・藤白坂では涙を流し「皇子は無実だった」と読み、紀伊國には「止まず通わん」と十三首を締めくくったのでした。
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もちろん、天智天皇の罠に落ちた悲劇の皇子(皇位継承者だった)の霊魂を慰めることは、これから築こうとしている王朝の繁栄を盤石なものとするための儀式だったと考えられなくもありません。文武天皇にも祟り神としての有間皇子を祀らせ、先々の災難を避けようとしたと。

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しかし、考えてみてください。有間皇子の「まさきくあればまたかえり見む」の歌を思い出してください。「命永らえて戻ってきたら、また、お前を見よう。おまえに会いたい」と詠まれています。皇子は独りではなかったのです。再会したい人や家族があったから濱松が枝を結んだのでした。
皇子が再会したかった家族はどうなったのか。わたしはそれが気になりました。
もし連座をまぬかれるとしたら、誰が守ったのか、それは有りえるのか、などなど考え続けたのです。そして、

藤白坂でその運命を受け入れた有間皇子は霊魂となって、忘れかたみの娘を呼び続けた呼子鳥である、わたしにはそう思えたのでした。

では、天智天皇の皇女だという正史はどうなる? という段階ですね。実は、このことも万葉集を読むかぎり「一つの答え」しかないのです。




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by tizudesiru | 2017-11-13 01:47 | 300持統天皇を呼び続ける呼子鳥 | Trackback | Comments(0)

謎の鳥・喚子鳥は持統天皇を呼び続ける

300万葉集に詠まれた謎の鳥・呼兒鳥
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持統天皇が吉野に行幸した時、高市黒人が「呼兒鳥」を詠む。
「よぶこどり」を万葉集事典で調べると「かっこうか。郭公、渡り鳥、夏鳥。ほととぎすより大きい。灰青色。尾が長く白斑。蛾の幼虫などを捕食。おおよしきり、ほおじろ、もずなどの巣に托卵。声は人を呼び人恋しさを誘う。カッコウと鳴く。他に容鳥(かおどり)は霍公鳥などの説も。」と書かれています。

実は、呼子鳥とはどんな鳥なのか分からないのです。万葉集の謎の鳥です。その鳴き声が「アコー=吾子」と聞こえるので、呼子鳥と呼ばれたというのです。呼子鳥は夫が妻(又は恋人)を呼ぶ鳥ともされますが、わたしには親が吾子を呼ぶイメージしかありません。 

ではでは、高市連黒人の「呼子鳥よぶこどり」を読んでみましょう。だって、この歌は「持統天皇の吉野行幸」で献じられた歌なのです。持統天皇の為に詠まれたとしたら、そこにどんな意味があるのでしょう。公的な場で、謎の鳥を詠んだ高市黒人は、何を考えていたのでしょう。


70 倭には鳴きてか来らむ呼子鳥きさの中山呼びぞ越ゆなる

倭には鳴きながら来たでしょうか、呼子鳥は。ここ吉野では、さきの中山を吾子と呼びながら越えていきます。

この歌が詠まれたのは吉野、それも持統天皇の行幸時で、公的な場と既に言いました。「呼子鳥は大和に向かって吾子を呼びながら越えて行く。よほど吾子を恋しく思っているのでしょうね」と高市黒人は詠んでいるのです。
それは霍公鳥ではなく、呼子鳥と呼ばれる鳥…ということは、呼子鳥が何なのか、その場にいる持統太上天皇をはじめ従駕の人々は知っていたと云うことですね。
鳥は亡き人の霊魂と古代の人は考えていたと、何度も書きました。この呼子鳥も誰かの霊魂なのでしょうね。

吉野で「あこー」と吾子を呼びながら、その吾子のいる倭へ向かう鳥とは誰なのか。そして、その鳥となった霊魂が恋しく思うのは誰なのか?


呼子鳥となった霊魂は〇〇、呼ばれているのは持統天皇だと、わたしは思います。
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(紀ノ川・妹背の山の辺り)
呼子鳥となった人物は、吉野川・紀ノ川につながる人です。
吉野川は、紀伊国では紀ノ川と呼ばれます。(下流と上流では呼び名が違っているのです。持統天皇の吉野離宮はこの川の上流に、聖武天皇の離宮は河口の玉津嶋の辺りに後世造られました。吉野川は天武朝の人々には所縁の深い河なのです。)
持統天皇が在位中に三十回以上も行幸した吉野、その離宮で詠まれた歌は沢山ありますが、「呼子鳥」の歌は、持統天皇が譲位した後の行幸で詠まれたものです。
譲位した太上天皇が心行くまで自分の時間を過ごした時、呼子鳥がよまれた…

紀伊國といえば、持統四年と大宝元年の紀伊國行幸を思い出しませんか。
15歳で即位した文武天皇(大宝元年には19歳)を連れて、持統太上天皇は紀伊国に行幸しました。そこで詠まれた「紀伊国行幸時の十三首」(既にこのブログで何度も取り上げました。)それ以前には、草壁皇子の妃の阿閇皇女(元明天皇)を連れて、持統四年に紀伊国に行幸しています。この時も、有間皇子の鎮魂の為に結松をよんでいます。
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山上憶良は「結松」の歌を知って、後で追和しました。長忌寸意吉麻呂の歌に触発されたのでした。
憶良は、「鳥となった霊魂が何度も何度も通って見ているのを人は誰も気が付かないけれど、松はちゃんと知っている」と詠みました。
憶良が詠んだ鳥となった霊魂は、有間皇子でしょう。有間皇子の霊魂は、愛する人と結んだ「結松」を何度も何度も見に来た、または、松の場所にくれば愛する人に会えると思って見に来たと詠んでいるのです。
有間皇子が愛したのは、松が枝を共に結んだ中皇命(間人皇后)でありついてきていた家族だと思います。

また、高市黒人は32「いにしへの人に吾ありや楽浪のふるき京を見れば悲しき」、33「楽浪の国つ御神のうらさびて荒れたる京見れば悲しも」と詠んだ高市古人と同人とされます。また、持統太上天皇最後の行幸(大宝二年)にも従駕し歌を詠んでいます。長忌寸奥麻呂と並んで、持統天皇のお気に入りだったと云うことです。ですから、

高市黒人は持統天皇の気持ちに沿って、常に歌を詠めたということでしょうね。

呼子鳥となった霊魂は有間皇子、呼ばれているのは持統天皇だと、わたしは思います。
吾子と呼ばれているのですから、持統天皇は有間皇子の子どもだとわたしは思います。(何度か書きましたが)その物語も万葉集で読みましょうね。
その数奇な運命を物語る歌集を。

参考の為に、呼子鳥の歌を探してみましょう。

下の四首で「呼子鳥」が詠まれていますが、この内の二首が吉野宮で詠まれています。やはり、公的な場で女帝の為に詠まれているのです。
呼子鳥を詠めば、太上天皇の心を慰めたのでしょうね。

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呼子鳥は謎の鳥ではありません。
万葉集はその鳥が誰を呼んでいるのか、ちゃんと教えているのです。

また、あした。



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by tizudesiru | 2017-11-10 01:59 | 300持統天皇を呼び続ける呼子鳥 | Trackback | Comments(0)

人麻呂は弓削皇子の挽歌を詠まなかった!

人麻呂は弓削皇子の挽歌を詠まなかった!何ゆえ?
それは何故なのか、詠まなかったのか、詠めなかったのか、詠もうとしなかったのか?
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(香具山と藤原宮)

弓削皇子の挽歌を詠んだのは、置始東人(おきそめのあづまひと)でした。

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東人は「皇子はいつまでも生きていたいと願っていた」と詠みました。その通りだったのでしょう。弓削皇子は日頃から「我が命は長くはない」と話すことがあったようです。そんな不安を持って生きていたことが万葉集からも読み取れます。いつからそんな漠然とした不安を持つようになったのでしょう。
だいたんに想像するなら、軽皇子立太子の後ではないでしょうか。当時は二十歳ほどの若者でした。多少青臭い言動もあったでしょうが、賢い青年でした。その言動には藤原氏が鋭い視線を向けていたと思われます。
多感な青年は滅びた近江朝にも関心があったようです。天智天皇の葬儀に最後まで仕えた額田王に弓削皇子は親しく歌を贈っています。
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いにしへに恋ふる鳥かもゆづりはの御井の上より鳴き渡りゆく
吉野のゆづりはの繁る御井の上を鳴きながら飛び去って行ったあの鳥は、あの古を恋う鳥なのでしょうか。あんなに鳴いて飛んでいくから、わたしも古に思いをはせました。あなたは古を思う事はありますか。
弓削皇子は近江朝に最後まで仕えた額田王を信頼していたのです。あなたも昔(近江朝)が恋しいのではありませんか? と。
そのころの弓削皇子には、持統天皇の吉野行幸について行っても心に不安があったのです。額田王は若い皇子に歌を返しました。

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額田王は若い皇子に応えました。
まあ、殿下、古を恋うる鳥ですか、それは霍公鳥だったのではありませんか。その鳥はきっと昔を偲ぶように鳴いたのでしょうね、まるでわたくしの思いのような懐かしそうな鳴き方をして。


額田王は人生の辛苦をなめ尽くしていました。娘の夫(弘文天皇)は壬申の乱で殺され、娘は突然死(自死)し、孫(葛野王ら)を抱えて苦労したでしょうね。だからこそ、優しかったのかも知れません。

弓削皇子を取り巻く状況はどんどん変化していきました。軽皇子立太子の半年後、文武天皇の即位です。夫人となったのは、藤原宮子で不比等の娘でした。不比等は文武天皇の乳母だった犬養美千代を妻とします。文武天皇の周囲は藤原色に染まっていきました。

そして、弓削皇子の不安は現実となり、文武三年(699)薨去となりました。
この後ですが、不比等は美千代に女子を生ませ、その女子を文武天皇の皇子の夫人としていくのです。文武天皇の皇子の乳母はなんと犬養美千代でした!文武天皇と聖武天皇の双方の乳母は美千代だったのでした!)

持統天皇は自ら太上天皇となり、必死で文武天皇を支えていました。若い天皇が政治をするのは大変なことでしたから。文武天皇も必死で祖母に答えました。そして、大宝二年(702)持統天皇の崩御となったのです。

こんな状況では人麻呂は弓削皇子の挽歌を詠めなかったでしょうね。だけど、人麻呂が密かに挽歌を詠んだとすれば、万葉集のどこかに置かれているでしょうね。

(太上天皇亡き後(702年以降)、文武天皇も無理がこうじて倒れ長く臥せることになったのでしょう。
夫人の宮子も首皇子(701生)を生むと我が子を抱くこともできないほど精神的に追い詰められ、閉じこもって(閉じ込められて)いったのでした。)


人麻呂は世の移ろいを見ていたでしょう。持統天皇の遺勅を受けて、万葉集を完成させるために日を過ごしていたはずです。才能に恵まれながら若くして世を去った天武帝の男子を人麻呂は惜しんだのだと思います。
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万葉集編集者は弓削皇子の歌を多く残していますから、この若者の死を惜しんだに違いありません。編集者は誰ですか。
わたしは「初期万葉集を編纂させたのは持統天皇、実行したのは人麻呂だった」と思っています。その後いろいろあって万葉集は大伴氏から平城天皇に渡り、勅撰集のごとく編集されたと思っているのです。何度もしゃべりましたが。
なぜ、平城天皇は万葉集に興味を持ち、都を平城京に戻すように望みかつ実行したのか。それは、万葉集を読んで王朝の本当の姿が見えたから、桓武天皇が捨てた平城京こそ王朝のルーツであり意味があると理解したからと、わたしは思っているのです。

ところで、何故こんなに話が飛ぶのか
(古墳・神社・万葉集・近畿から大阪・熊本・福岡と話が飛ぶのは、何故なのか) 
是についての私の言い訳を書いて見ますと、わたしの中では全てつながっているのです。そんなこと当然のことですが、一つのことを書いていると関係ない事象が結びつくのです。そして、謎が解けていく…
例えば、万葉集の歌を和歌(倭歌)というなら、倭国の歌ではないか。倭国で生まれた歌なら、倭国は何処にあったのだ? 万葉集に倭国の地を探る手がかりがあるだろうか。万葉集の編纂者はどのような認識を持って編纂したのだろうか。となるのです。そして、倭国に徐々に近づいていくのです。まだ答は書いてはいませんが。
さらに、古墳ですが畿内の古墳は箸墓を基準に考えられています。明らかに三世紀の古墳ではありません。しかし、編年がぐちゃぐちゃで副葬品や墳丘の形が納得できるようになっていないのです。たとえば、有名なメスリ山古墳には鏡の副葬はありません。すると、鏡副葬の後の時代に造られた古墳となり、多くの副葬品はどこかからか運ばれたことになるでしょう。では、何処から?
一つ一つの事実は独立しているのではなく、必ずつながっています。
わたしは古代史のパーツを拾い集めています。ジグソーパズルのようにそれらはある結論を導き出すと信じて、ひたすらはめ込んでいるのです。


というわけで、次は黒塚古墳に飛びますね。
ミステリーは、人を引き付けてしまうものですね。


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by tizudesiru | 2017-10-16 20:58 | 290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達 | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂は長皇子を皇太子のごとく歌に詠んだ!何故?

人麻呂が称えた長皇子
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持統天皇の即位は、将来的に孫の軽皇子(文武天皇)に譲位するためだったと、史家は語ります。事実、歴史はそのように動きました。

万葉集も確かに歴史書の通りに読めますが、ところどころに「おや? なぜ?」と歴史の流れと反すると思う箇所があります。
天武朝の皇子に対する柿本朝臣人麻呂の歌もしかり、それは何か所もありますが、今日は人麻呂が長皇子に献じた歌を詠んでみましょう。
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やすみししわご吾大王高光る日の皇子
とたたえる言葉が続きます。まるで皇太子のようです。

更に、「あめゆく月を網に刺し、キヌガサにした」大王だと反歌に詠みました。長歌に重ねて、反歌でも「大王」と飾りたてたのでした。この御猟は天皇の儀式のように馬を並べて行われ、狩場の鹿も鶉もはいつくばって大王を敬ったと詠んだのですから、驚きます。
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「或本の反歌」として、
おほきみは神にしませば真木のたつ荒山中に海を成すかも
の歌が付けたされています。「おほきみは神にしませば」の修飾詞は「天武朝の皇子達と天武朝にしか使われていない」と、万葉学者の指摘です。
天武朝の皇族は「神である」という思想を強く打ち出したのです。だから祖先の時代を神代として正史に残したのでしょう。

皇子の高貴な血統
長皇子は天武天皇と大江皇女(天智天皇の娘)に生れた男子です。弟に弓削皇子がいて、母の弟・叔父は川嶋皇子(天智帝の男子)です。天智帝と天武帝の血統だから長皇子に人麻呂が歌を献じたのでしょう。もちろん、この歌が詠まれた時点では持統帝も認める皇子だったので、公の場で称えられたのです。ほとんど次の皇太子的存在だったのでしょうか。
大津・草壁皇子が没したあと、周囲の目は天智帝と天武帝の二人の血統の男子に向いていたと思います。
長皇子、弓削皇子、舎人皇子は特別な存在だったでしょう。


持統十一年(697)軽皇子立太子(14歳)
人麻呂の歌が献じられた皇子や皇女は特別な存在だったとなると、では何故、長皇子は皇太子にならず軽皇子(文武天皇)が立太子したのでしょう。

軽皇子は14歳でしたが、長皇子は8歳年上ですから凛々しい青年になっていたはずです。持統天皇が孫を愛していても、周囲の豪族や高官を納得させることは難しい状況だったかもしれません。

弓削皇子は「軽皇子の立太子」に異議を申し立てました。
それは、当時の状況を反映してのことでしょう。彼は「兄の長皇子がより皇太子にふさわしい」と思っていたかもしれません。しかし、弓削皇子の異議申し立ては葛野王(大友皇子の子)に一喝されました。


長皇子の立太子を望んでいた勢力は、権力が何処に動いたのか思い知らされたでしょうね。

この後、高貴な皇子たちがどうなるか想像できますね。
弓削皇子は三年後寂しく薨去し、長皇子は文武天皇崩御後に再度脚光を浴びるのですが……舎人皇子は自分の立場を理解し一歩下がり臣下のように振る舞うという……

その歌の紹介は、また。


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by tizudesiru | 2017-10-15 01:10 | 290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達 | Trackback | Comments(0)

香具山を詠んだ三人の天皇(2)

吾は山常の大王であるぞ

舒明天皇が香具山を詠んで主張したのは「香具山に降り立ったぞ。これからは私がヤマトの大王であるぞ」ということでした。
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万葉集の巻一の冒頭は雄略ですが、二番歌に舒明天皇の歌が置かれています。それは、明日香に入った初めての男王である舒明帝が、香具山で国見の儀式をして大王であることを宣言した歌であるからなのでしょう。
万葉集がどの大王を祖先とし、どの王朝の繁栄を願い、誰を慈しみ、誰を哀悼し、何を主張しようとしたのかという、万葉集の根幹にかかわることの、その一端が「舒明天皇の国見歌」からも読み取れるのです。


香具山を氏の守りの神山としたのは、舒明天皇です。舒明天皇は「山々が折り重なったようなヤマトの地に降り立ち、群山の中で鳥もよろけるような神山である香久山」を選びました。もちろん、周囲が開けた一等地の甘樫の丘は既に蘇我氏のものでしたから、そこに入り込むことはできなかったのです。
それでも、天香久山の周囲は開け畝傍も耳梨も見えて豊かな土地でした。

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舒明天皇はあんがい伊予国の人だったかも知れませんね。
案内板にもありました「伊予から天降った」という伊予の風土記と、萬葉集を合わせても読むとそういう結論も出てきますね。
巻一の六番歌の左脚に、「舒明天皇は讃岐に行幸されたことはない。ただ山上憶良の類聚歌林によると(日本書)紀には(舒明)天皇の十一年、己巳の朔の壬午に伊予の湯に行幸された」書かれています。
また、巻一の八番歌「熟田津に~」の歌の後に、「斉明天皇が熟田津の石湯の仮宮に行かれたとき、天皇は昔日の物がなおも残っているのを見て、たちまち感愛の情が起こり、哀傷のために歌をお読みになった」ことが書かれています。

34代舒明天皇は明日香の地に入った初めての男王でしたが、それを望んだのは蘇我氏でしょうか。
29代欽明帝の宮は桜井市で、30代敏達帝の宮も桜井市と河内長野です。明日香は田舎だったのでしょう。そこで馬子は飛鳥寺を作り華やかな仏教文化を取り入れました。しかし、用明帝の宮は桜井市、せっかく大王位に着けてやった崇峻帝も宮は桜井市倉橋でした。当時の物流を考えると、大和川を遡れる桜井市の方がずっと政治経済的には有用な土地だったのでしょう。明日香川はあまりに小さく水量も少なかったのです。
崇峻帝は愚かではなかったのですが、蘇我馬子は崇峻帝を暗殺してしまいます。


やっと明日香に迎えた舒明帝は、蘇我系の女帝・推古天皇の遺言のようなもので選ばれた天皇でした。どうしても明日香に「大王」宮を招致したいという推古帝の使命感だったのでしょう。明日香のために、蘇我氏の発展のために。
斑鳩の宮にいた山背大兄皇子は蘇我氏に除かれましたよね。
難波宮の孝徳帝の場合も、中大兄が背いた理由の中に、明日香から離れたことへの蘇我系氏の不満があったかも知れませんね。
経済を握ることが政治の目的だった、人民は関係ない、今も昔もかわらないのですね。

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以来、藤原宮に遷るまで、明日香がひとまず都でした。明日香から大津へ遷都するときの歌は、万葉集のどの歌も不安に満ち、寂しさに心おれそうです。つまり明日香を基盤に生れた王権が他へ遷ることは「本家」を捨てるように思えたのでしょう。
それでも、世は変わり都は遷っていきました。



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by tizudesiru | 2017-09-22 11:15 | 285天香具山と所縁の三人の天皇 | Trackback | Comments(0)

人麻呂の妻は火葬された

人麻呂の妻は火葬された!
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「柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血哀働して作る歌二首併せて短歌」

の続きです。
巻二「挽歌」

210 うつせみと思いし時に 取り持ちて 吾がふたり見し 走り出の 堤に立てる 槻の木の こちごちの枝の 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど たのめりし 子らにはあれど 世間(よのなか)を 背きしえねば かぎるひの 燃ゆる荒野に 白妙の 天ひれ隠り 鳥じもの 朝だちいまして 入日なす 隠りにしかば 吾妹子が 形見に置ける 若兒(みどりご)の 乞い泣くごとに 取り与ふ ものしなければ 男じもの 脇ばさみ持ち 吾妹子と ふたり吾が寐し 枕付く 嬬屋のうちに 昼はも うらざび暮し 夜はも いきづきあかし 嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども あふよしもなみ 大鳥の 羽がひの山に 吾戀ふる 妹はいますと 人のいへば 石根さくみて なづみこし よけくもぞなく うつせみと 思いし妹が たまかぎる ほのかげだにも 見へなく思へば 

211 去年(こぞ)見てし 秋の月夜は 照らせれど 相見し妹は いや年さかる

212 衾道(ふすまぢ)を 引手の山に 妹を置きて 山道を往けば 生けるともなし

210 あの人は現世の人だと思っていた時に、手を取りあって二人で見た 突き出した土手の槻の木の枝のあちこちに春の葉が茂っているように 深く思っていたあの人であるが、頼りにしていたあの人なのに、常ならぬ世の中の掟に背くことはできないので、かげろうが燃える荒野に、真っ白な天女のヒレに隠れて 鳥でもないのに朝早くから家を出て、入日のように隠れてしまったので、あの人が形見に残して行った幼な兒がものほしさに泣いても与えられる物もなく、男だけれど小脇に幼兒を抱いて、あの人とふたり寝た 嬬屋の中で、昼はうらさび暮し、夜はため息をついて夜を明し、どんなに嘆いてもどうしょうもなく、どんなに恋しく思っても もう会うこともできない。羽がいの山に恋しいあの人がいますと人が言うので、岩根を押し分けてやって来たのに、その甲斐もなかった。この世の人だと思っていたあの人が死んでしまって、ほんの少しほのかな影すら見えないと思うと…


211 去年見ていた秋の月は今も照らしているけれど、一緒にこの月をみたあの人は年と共に遠ざかっていく

212 衾道の引手の山にあの人を置いて山道を帰って来る時、とても生きている心地がしない。

前回の挽歌の妻とは別の女性でしょうか。この女性と人麻呂は一緒に暮らしていたのでしょう。死亡した女性は朝から白栲の布につつまれて家を出て行ったのだが、もう帰ることはないと嘆いています。そして、一人の幼兒を残していたので、その子が泣いても何もしてやれない男であることを人麻呂は嘆いています。女性は引手の山に葬られたのでしょうか。妻を置いて山から帰るのですから、葬儀を済ませたと云うことです。「使いが来て妻の死を知った」というなかなか会えない207番歌の「天飛ぶや軽の道」の妻とはかなり身分の違う女性のようです。


この挽歌には、異伝があるのです。
表現も大変良く似ています。が、見逃せない言葉があります。

210の最後に「うつせみ(打蝉)と おもひし妹が たまかぎる ほのかにだにも 見えなく思へば

213の最後に「うつそみ(宇都曽臣)と おもひし妹が 灰にて坐せば

これは、大変な違いです。213の女性は、「灰にてませば」と火葬されているからです。

この時代、火葬は一般的ではありませんでした。

火葬された人の名は、書紀にも取り上げられています。火葬の初出は、700年の道照で「粟原にて火葬」とあります。702年没の持統天皇も火葬でした。

では、213番歌を読みましょう。
或本の歌に曰

213 うつそみと おもいし時に 携はり 吾ふたり見し 出立の ももへ槻の木 こちごちに 枝させるごと 春の葉の 茂れるがごと 思へりし 妹にはあれど たのめりし 妹にはあれど 世の中を 背きしえねば かぎる火の 燃ゆる荒野に 白栲の 天ひれがくり 鳥じもの 朝立ちい行きて 入日なす 隠りにしかば 吾妹子が 形見における 緑子の 乞いなくごとに 取りあたふ 物しなければ 男じもの 脇挟み持ち 吾妹子と 二人わがねし 枕つく つまやの内に ひるはも うらさびくらし 夜はも 息づきあかし 嘆けども せむすべしらに 恋ふれども あふよしもなみ 大鳥の 羽がひの山に なが恋ふる 妹はいますと 人の云へば 岩根さくみて な積みこし よけくもぞなき うつそみと 念ひし妹が 灰にてませば

短歌三首

214 去年(こぞ)見てし 秋の月夜は わたれども あいみし妹は いや年離(さか)る

215 衾路(ふすまぢ)を 引出の山に 妹を置きて 山路おもふに 生けるともなし

216 家に来て 吾がやを見れば 玉床の 外に向きけり 妹が木枕(こまくら)

さて、人麻呂は210と213の挽歌のどちらを先に詠んだのでしょう。

わたしは、213が先だと思います。「灰にて坐せば」が先だと思うのです。

火葬とは、由々しきことです。こんな行為を受け入れた女性として、読み手は誰を思い出すでしょう。

平城天皇に万葉集が召し上げられて(806年)、編集を担当した学者は、ここを詠んで愕然としたでしょう。「これは、高貴なあの方を導き出す言葉だ」と。
だから、210を挿入し、213を「或本の歌」としたと、大胆にもわたしは思うのです。
そうでなければ、210と213はあまりにも似ています。手直しをする必要はないほど似ているのです。なのに、敢て手直しをしたのは何処か、「灰にて坐せば」以外にありません。

a0237545_01043458.jpg
「灰」になってヨミガエリを拒否した持統天皇の思いを感じずにはおれません。
では、ここに出て来る「幼兒」とは…あの古今伝授に残された人なのでしょうか。
わたしにはわかりません。
古今伝授と207番歌(人麻呂の妻の挽歌)については、このブログの「264古今伝授に柿本人麻呂と持統天皇の秘密が」を読んでくだされば、少しは説明不足を補えると思います。

それから、前回は「飛鳥と明日香」の紀行文的だったのに、今回は「万葉集」の人麻呂の挽歌について書いているという……ブログの内容があちこちに飛びますね。
ごめんなさい。読みにくいブログになっていることでしょう。
わたしは古代史の謎に興味があるのですが、謎を解く鍵として地図があると考えています。それに、書紀や古事記、先代旧事本記や古語拾遺などの文献、寺社の由緒なども面白いと思うのです。それらのバラバラなパーツを一つずつ拾ってジグソーパズルのようにはめ込んでいるつもりです。だんだんバラバラだったものが、一定の方向に導いてくれるのではないかと、発見したことを書いているのですが。
パーツが多すぎて分かりにくいですよね。
これからも「丁寧に説明していく」つもりです。105.png112.png119.pngよろしくおねがいします。



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by tizudesiru | 2017-07-19 01:35 | 268人麻呂の妻は火葬された | Trackback | Comments(0)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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1大宰府の位置
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55大山古墳の謎
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156人麻呂は女帝のために生きた
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158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
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175草壁皇子の挽歌
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177持統帝と天武帝の絆の深さ?
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181藤原不比等とは何者か(3)
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206古墳散歩・唐津湾
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212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城に瓦があった
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
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248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
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251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
261隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵善寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
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