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香具山を詠んだ三人の天皇(2)

吾は山常の大王であるぞ

舒明天皇が香具山を詠んで主張したのは「香具山に降り立ったぞ。これからは私がヤマトの大王であるぞ」ということでした。
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万葉集の巻一の冒頭は雄略ですが、二番歌に舒明天皇の歌が置かれています。それは、明日香に入った初めての男王である舒明帝が、香具山で国見の儀式をして大王であることを宣言した歌であるからなのでしょう。
万葉集がどの大王を祖先とし、どの王朝の繁栄を願い、誰を慈しみ、誰を哀悼し、何を主張しようとしたのかという、万葉集の根幹にかかわることの、その一端が「舒明天皇の国見歌」からも読み取れるのです。


香具山を氏の守りの神山としたのは、舒明天皇です。舒明天皇は「山々が折り重なったようなヤマトの地に降り立ち、群山の中で鳥もよろけるような神山である香久山」を選びました。もちろん、周囲が開けた一等地の甘樫の丘は既に蘇我氏のものでしたから、そこに入り込むことはできなかったのです。
それでも、天香久山の周囲は開け畝傍も耳梨も見えて豊かな土地でした。

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舒明天皇はあんがい伊予国の人だったかも知れませんね。
案内板にもありました「伊予から天降った」という伊予の風土記と、萬葉集を合わせても読むとそういう結論も出てきますね。
巻一の六番歌の左脚に、「舒明天皇は讃岐に行幸されたことはない。ただ山上憶良の類聚歌林によると(日本書)紀には(舒明)天皇の十一年、己巳の朔の壬午に伊予の湯に行幸された」書かれています。
また、巻一の八番歌「熟田津に~」の歌の後に、「斉明天皇が熟田津の石湯の仮宮に行かれたとき、天皇は昔日の物がなおも残っているのを見て、たちまち感愛の情が起こり、哀傷のために歌をお読みになった」ことが書かれています。

34代舒明天皇は明日香の地に入った初めての男王でしたが、それを望んだのは蘇我氏でしょうか。
29代欽明帝の宮は桜井市で、30代敏達帝の宮も桜井市と河内長野です。明日香は田舎だったのでしょう。そこで馬子は飛鳥寺を作り華やかな仏教文化を取り入れました。しかし、用明帝の宮は桜井市、せっかく大王位に着けてやった崇峻帝も宮は桜井市倉橋でした。当時の物流を考えると、大和川を遡れる桜井市の方がずっと政治経済的には有用な土地だったのでしょう。明日香川はあまりに小さく水量も少なかったのです。
崇峻帝は愚かではなかったのですが、蘇我馬子は崇峻帝を暗殺してしまいます。


やっと明日香に迎えた舒明帝は、蘇我系の女帝・推古天皇の遺言のようなもので選ばれた天皇でした。どうしても明日香に「大王」宮を招致したいという推古帝の使命感だったのでしょう。明日香のために、蘇我氏の発展のために。
斑鳩の宮にいた山背大兄皇子は蘇我氏に除かれましたよね。
難波宮の孝徳帝の場合も、中大兄が背いた理由の中に、明日香から離れたことへの蘇我系氏の不満があったかも知れませんね。
経済を握ることが政治の目的だった、人民は関係ない、今も昔もかわらないのですね。

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以来、藤原宮に遷るまで、明日香がひとまず都でした。明日香から大津へ遷都するときの歌は、万葉集のどの歌も不安に満ち、寂しさに心おれそうです。つまり明日香を基盤に生れた王権が他へ遷ることは「本家」を捨てるように思えたのでしょう。
それでも、世は変わり都は遷っていきました。



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by tizudesiru | 2017-09-22 11:15 | 285天香具山と所縁の三人の天皇 | Comments(0)

人麻呂の妻は火葬された

人麻呂の妻は火葬された!
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「柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血哀働して作る歌二首併せて短歌」

の続きです。
巻二「挽歌」

210 うつせみと思いし時に 取り持ちて 吾がふたり見し 走り出の 堤に立てる 槻の木の こちごちの枝の 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど たのめりし 子らにはあれど 世間(よのなか)を 背きしえねば かぎるひの 燃ゆる荒野に 白妙の 天ひれ隠り 鳥じもの 朝だちいまして 入日なす 隠りにしかば 吾妹子が 形見に置ける 若兒(みどりご)の 乞い泣くごとに 取り与ふ ものしなければ 男じもの 脇ばさみ持ち 吾妹子と ふたり吾が寐し 枕付く 嬬屋のうちに 昼はも うらざび暮し 夜はも いきづきあかし 嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども あふよしもなみ 大鳥の 羽がひの山に 吾戀ふる 妹はいますと 人のいへば 石根さくみて なづみこし よけくもぞなく うつせみと 思いし妹が たまかぎる ほのかげだにも 見へなく思へば 

211 去年(こぞ)見てし 秋の月夜は 照らせれど 相見し妹は いや年さかる

212 衾道(ふすまぢ)を 引手の山に 妹を置きて 山道を往けば 生けるともなし

210 あの人は現世の人だと思っていた時に、手を取りあって二人で見た 突き出した土手の槻の木の枝のあちこちに春の葉が茂っているように 深く思っていたあの人であるが、頼りにしていたあの人なのに、常ならぬ世の中の掟に背くことはできないので、かげろうが燃える荒野に、真っ白な天女のヒレに隠れて 鳥でもないのに朝早くから家を出て、入日のように隠れてしまったので、あの人が形見に残して行った幼な兒がものほしさに泣いても与えられる物もなく、男だけれど小脇に幼兒を抱いて、あの人とふたり寝た 嬬屋の中で、昼はうらさび暮し、夜はため息をついて夜を明し、どんなに嘆いてもどうしょうもなく、どんなに恋しく思っても もう会うこともできない。羽がいの山に恋しいあの人がいますと人が言うので、岩根を押し分けてやって来たのに、その甲斐もなかった。この世の人だと思っていたあの人が死んでしまって、ほんの少しほのかな影すら見えないと思うと…


211 去年見ていた秋の月は今も照らしているけれど、一緒にこの月をみたあの人は年と共に遠ざかっていく

212 衾道の引手の山にあの人を置いて山道を帰って来る時、とても生きている心地がしない。

前回の挽歌の妻とは別の女性でしょうか。この女性と人麻呂は一緒に暮らしていたのでしょう。死亡した女性は朝から白栲の布につつまれて家を出て行ったのだが、もう帰ることはないと嘆いています。そして、一人の幼兒を残していたので、その子が泣いても何もしてやれない男であることを人麻呂は嘆いています。女性は引手の山に葬られたのでしょうか。妻を置いて山から帰るのですから、葬儀を済ませたと云うことです。「使いが来て妻の死を知った」というなかなか会えない207番歌の「天飛ぶや軽の道」の妻とはかなり身分の違う女性のようです。


この挽歌には、異伝があるのです。
表現も大変良く似ています。が、見逃せない言葉があります。

210の最後に「うつせみ(打蝉)と おもひし妹が たまかぎる ほのかにだにも 見えなく思へば

213の最後に「うつそみ(宇都曽臣)と おもひし妹が 灰にて坐せば

これは、大変な違いです。213の女性は、「灰にてませば」と火葬されているからです。

この時代、火葬は一般的ではありませんでした。

火葬された人の名は、書紀にも取り上げられています。火葬の初出は、700年の道照で「粟原にて火葬」とあります。702年没の持統天皇も火葬でした。

では、213番歌を読みましょう。
或本の歌に曰

213 うつそみと おもいし時に 携はり 吾ふたり見し 出立の ももへ槻の木 こちごちに 枝させるごと 春の葉の 茂れるがごと 思へりし 妹にはあれど たのめりし 妹にはあれど 世の中を 背きしえねば かぎる火の 燃ゆる荒野に 白栲の 天ひれがくり 鳥じもの 朝立ちい行きて 入日なす 隠りにしかば 吾妹子が 形見における 緑子の 乞いなくごとに 取りあたふ 物しなければ 男じもの 脇挟み持ち 吾妹子と 二人わがねし 枕つく つまやの内に ひるはも うらさびくらし 夜はも 息づきあかし 嘆けども せむすべしらに 恋ふれども あふよしもなみ 大鳥の 羽がひの山に なが恋ふる 妹はいますと 人の云へば 岩根さくみて な積みこし よけくもぞなき うつそみと 念ひし妹が 灰にてませば

短歌三首

214 去年(こぞ)見てし 秋の月夜は わたれども あいみし妹は いや年離(さか)る

215 衾路(ふすまぢ)を 引出の山に 妹を置きて 山路おもふに 生けるともなし

216 家に来て 吾がやを見れば 玉床の 外に向きけり 妹が木枕(こまくら)

さて、人麻呂は210と213の挽歌のどちらを先に詠んだのでしょう。

わたしは、213が先だと思います。「灰にて坐せば」が先だと思うのです。

火葬とは、由々しきことです。こんな行為を受け入れた女性として、読み手は誰を思い出すでしょう。

平城天皇に万葉集が召し上げられて(806年)、編集を担当した学者は、ここを詠んで愕然としたでしょう。「これは、高貴なあの方を導き出す言葉だ」と。
だから、210を挿入し、213を「或本の歌」としたと、大胆にもわたしは思うのです。
そうでなければ、210と213はあまりにも似ています。手直しをする必要はないほど似ているのです。なのに、敢て手直しをしたのは何処か、「灰にて坐せば」以外にありません。

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「灰」になってヨミガエリを拒否した持統天皇の思いを感じずにはおれません。
では、ここに出て来る「幼兒」とは…あの古今伝授に残された人なのでしょうか。
わたしにはわかりません。
古今伝授と207番歌(人麻呂の妻の挽歌)については、このブログの「264古今伝授に柿本人麻呂と持統天皇の秘密が」を読んでくだされば、少しは説明不足を補えると思います。

それから、前回は「飛鳥と明日香」の紀行文的だったのに、今回は「万葉集」の人麻呂の挽歌について書いているという……ブログの内容があちこちに飛びますね。
ごめんなさい。読みにくいブログになっていることでしょう。
わたしは古代史の謎に興味があるのですが、謎を解く鍵として地図があると考えています。それに、書紀や古事記、先代旧事本記や古語拾遺などの文献、寺社の由緒なども面白いと思うのです。それらのバラバラなパーツを一つずつ拾ってジグソーパズルのようにはめ込んでいるつもりです。だんだんバラバラだったものが、一定の方向に導いてくれるのではないかと、発見したことを書いているのですが。
パーツが多すぎて分かりにくいですよね。
これからも「丁寧に説明していく」つもりです。105.png112.png119.pngよろしくおねがいします。



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by tizudesiru | 2017-07-19 01:35 | 268人麻呂の妻は火葬された | Comments(0)

264古今伝授に柿本人麻呂と持統天皇の秘密が

古今伝授に書かれた秘密
柿本人麻呂は持統天皇の恋人(?ホント?

という内容の本を10年位前に読んだことがあります。書名をどうしても思い出せないのですが、「古今伝授」を受けた公家の書き残したものを紹介した本でした。そこには、古今集の序文の読み解きが書かれていました。


古今和歌集・仮名序「二歌聖評」

いにしへより かくつたはるうちにも、ならの御時よりぞ ひろまりにける。かのおほむ世や、うたの心をしろしめしたりけむ。かのおほむ時に、おほきみのくらゐ かきのもとの人まろなむ、うたのひじりなりける。これはきみもひとも身をあはせたりといふなるべし。秋のゆふべ、竜田河にながるる もみぢをば、みかどのおほむために にしきと見たまひ、春のあした、よしのの山のさくらは、人まろが心には くもかとのみなむおぼえける。


昔からこのように伝わって来た中でも、奈良の帝の時代より特にひろまって来たのです。その御代には、歌の心を理解なさっていたのでしょう。その御代には、正三位柿本人麻呂が歌の聖でありました。これは帝も臣下もよく心を合わせ、同体であったと云えるのでしょう。秋の夕暮れ、竜田川に流れる黄葉を帝の目には錦と御覧になり、春の朝、吉野山の桜は人麻呂の心には雲ではないかと思われたのです。


古今伝授とは歌の世界の秘密や言い伝えを伝授することですが、「これはきみもひとも身をあはせたりといふなるべし」の箇所が人麻呂と持統帝の関係を暗示(暴露)した文だというのです。そして、子までなしたと…

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(軽の路は、奈良県橿原市の大軽・見瀬・五条野辺りで下ツ道はそのなごり?)

さて、その人麻呂と持統天皇の秘密は万葉集で読めるのでしょうか。
子どもまでいたというのですが…吉野に頻繁に出かけていた頃の持統天皇はすでに初老の婦人です。健気に有間皇子を追慕し続けた女帝から想像することはできないのですが。万葉集巻二に「妻の死を詠んだ」挽歌があります。

柿本人麻呂の妻死し後に泣血哀働して作る歌二首幷短歌

207 天飛ぶや 軽の路は 吾もこが 里にしあれば ねもころに見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み まねく行かば 人知りぬべし さね葛 のちもあわむと 大船の 思いたのみて 玉かぎる 磐垣ふちの 隠のみ 恋つつあるに 渡る日の くれぬるがごと 照る月の 雲隠るごと 奥津藻の なびきし妹は 黄葉の過ぎていにきと 玉梓の 使いの言えば 梓弓 おとに聞きて いはむすべせむすべしらに おとのみを 聞きてありえねば 吾戀ふる 千重の一重も なぐさもる こころ(情)もありやと 吾もこが 止まず出で見し 軽の市に 吾立ち聞けば 玉だすき 畝火の山に 鳴く鳥の声も聞こえず 玉鉾の 道行く人も 独りだに 似てしゆかねば すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる 


208
 秋山の 黄葉をしげみ まといぬる 妹を求めむ 山道知らずも

209 黄葉の ちりゆくなえに 玉梓の 使いを見れば 相し日おもほゆ


ここで読める「人麻呂の妻の姿は」
妻の里は軽の路の近くで、妻の許に何度も通って逢いたいのだが、止まずに通えば人目に付き、多く通えば人に知られてしまう。今は控えて後に逢おうと思ってひっそりと隠れるように恋しく思っていた…
人麻呂の妻は、人目があって簡単に会えない女性だった、高貴な人?
日が沈むように月が雲に隠れるように、あの人はもみじばのように亡くなったと使いが来ていうので、知らせだけ聞いてもどうしょうもなく、知らせだけきいても何の慰めにもならず…
人麻呂は妻の死に目にもあえず、知らせを受けただけというのです
そして、軽のちまたに在りし日のあの人の姿をもとめても、似た人もいなくて、畝傍山でいつも泣いていた鳥の声も聞こえず、あの子の名を呼んで袖を振った…
妻の面影を求めてただただ軽の巷を彷徨った人麻呂。どうして直に会えないのでしょうね。妻は簡単には会えない人だったのです。

次も、妻の死を傷んだ挽歌です。長歌と短歌ですが、これは、次回にまわします

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古今伝授は、わたしには懐かしい詞です。熊本市の水前寺公園に茶室がありました。そこは細川幽斎の「古今伝授の間」であると、社会科の先生が紹介してくれました。幽斎は肥後藩主細川忠興の父で、忠興の妻はガラシャ・明智光秀の娘です。


細川幽斎は武芸・和歌・茶道・連歌・蹴鞠などのわざを修め、囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深く、当代随一の教養人だったそうです。ですから、公家と交流も深く、三条西実枝に古今伝授を承けました。古今伝授とは古代から伝えられている和歌に関わる秘密を伝授するのですが、内容を書き残してはならず、むやみに漏らしてもなりません。それも、一対一で伝授するという掟がありました。


徳川家光が後水尾天皇に古今伝授のなかみを教えてほしいと頼んで断られて話は有名ですね。


また、幽斎が古今伝授のおかげで命拾いをした話も有名です。

1600年、息子の忠興が会津征伐に出た後に、幽斎は三男幸隆と500ほどの手勢で田辺城を守っていました。石田三成が徳川を討たんと兵をあげ、田辺城は1万5000の兵に囲まれました。幽斎は籠城します。包囲軍には幽斎の歌道の弟子も多く居て、彼らも攻めきれませんので長期戦となっていました。幽斎の弟子でもあった八条宮智仁親王は、2度にわたり講話を働きかけますが、幽斎は受け付けません。ついに智仁親王は兄・後陽成天皇に奏請し、勅使が田辺城に下され、関ヶ原の戦いの二日前に勅命による講和が結ばれました。理由はもちろん、幽斎が死亡すれば「大事な古今伝授が失われる」からです。古今伝授が天皇を動かしたと云うことです。

幽斎は三条西実枝からうけた古今伝授を実枝の子三条西公国と孫・三条西実条に返しました。また、八条宮智仁親王が幽斎から古今伝授を受けた「古今伝授の間」が、大正時代に熊本市の水前寺成趣圓(公園)に移築されたのです。


熊本地震で水前寺公園の湧き水が一時的に止まりましたが、今は回復しているそうです。
遅くなりましたが、明日のお知らせです。北部九州では記録的な大雨で大変な被害が出ていますので、お知らせするのに躊躇しました。が、明日のことですので少し報告します。明日7月8日(土)、久留米大学での公開講座です。

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時間は8日13時からで、今回は事前申し込みが必要でした。
開催されるのかというおたずねがありましたのでお知らせしました。
講座は一時間半ほどですから、万葉集の謎の一部のお話になると思います。
では、明日。


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by tizudesiru | 2017-07-07 00:19 | 264柿本人麻呂と持統天皇 | Comments(0)

太政大臣高市皇子を苦しめた皇女達

太政大臣高市皇子の苦悩 
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持統天皇と吉野行幸の不思議
やっと春が来て、その春も過ぎ夏が来たらしい。神祭りのしろたえの衣を干しているではないか。やっとわたしの時代、天の香具山の時代になったのだ』はつらつとした歌ですが、持統帝が実権を握るのは晩年でしたから、これは初老の婦人の歌です。これから自分の思いを貫くのだという決意の表れた歌なのですが。一体、いつ詠まれたのでしょうね。歌の意味と即位後の吉野行幸が結びつかないのです。

日本書紀の持統天皇の吉野行幸を見ると30回以上あり、即位しても仕事していたのかどうか疑いたくなります。即位は称制期間の三年を経ての持統四年1月ですが、吉野行幸がつづきます。行幸の月は、持統三年(1、8月)四年(2,5,8,10.12月)五年(1,4,7,10月)六年(5,7,10月)七年(3,5,7,8,11月)八年(1,4,9月)九年(2,3,6,8,12月)十年(2,4,6月)十一年(4月)ですから在位中の行幸の多さには驚きますね。これで、天皇としての仕事ができたでしょうか。持統天皇は即位していなかったか(太上天皇と称されているが)、すべてを高市皇子にゆだねていたのかなど疑う人もいますが、高市皇子が政権の中枢にいたとしか考えられません。
天皇が旅行している間は政治を留守司がやっていたことになりますが、その立場にあったのは高市皇子でしょう。持統四年(690)に高市皇子は太政大臣になっていますが、天武帝は天皇親政をしていた(議政官の任命はない)のですから、天武帝存命中から高市皇子が行政のトップだったのでしょう。

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高市皇子が造営した藤原宮
高市皇子が行政のトップとして政治を行っていたところへ「天武十二(683)大津皇子、朝政を聴く」状況が入ってきました。藤原宮が耳成山の南の地に造営されたのは、大津皇子の政治参画によって候補地が変えられたためだそうです。都地を選んだのは大津皇子だったというのです。と云うことは、大津皇子(686没)が大きな存在だったと云うことです。高市皇子はどう思ったでしょうね。
確か、新益京(藤原宮)は「周易」で造られたのでしたね。条坊の真ん中に宮殿があるという京で、平城宮のように北に宮殿が置かれた都とは造営の思想が違っています。
都の中央に宮殿があり耳成山の南の平地に広がる都が…広大な条坊を持った瓦葺の宮殿を持った「新益あらましき」の都が、なぜ捨てられたのか、不思議でなりません。藤原宮は15年で捨てられているのです。
万葉集には藤原宮の「藤原宮御井の歌」など寿ぐ歌がありますが…
遷都の理由は何か、答は少ないでしょう。高市皇子が造った京だから破棄された、藤原宮とは別の思想で造られた都が欲しかった、ここが呪われた京だと思われた、この都を支えた氏族が離反した、謀反者・大津皇子が望んだ都地だったから破棄した、などなど考えられますが。
(藤原宮の瓦も見事です。九州の観世音寺と同じ瓦当文様です。元明天皇の時代になっても60年ほど完成されなかった観世音寺と同じです。この瓦は、この後全国に広がる瓦当文様のモデルとなったようです)。

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ここで思うのは、持統天皇と高市皇子の確執です。ほとんどの権力を掌握していたであろう高市皇子が太政大臣に留まり、称制していた持統天皇が持統四年に即位するという展開は、次の天皇の出現を待っていたためでした。その事は、高市皇子を苦しめなかったのでしょうか。頼りの女帝は留守で、天智朝の皇子皇女が大勢いる中での政治ですから、困難がなかったとは思えません。

大津皇子を死に至らしめたのは、持統天皇の草壁皇子に対する愛の結果だと噂されています。が、天武朝の他の謀反事件を見ても「謀反の判断を下したのは議政官」でした。藤原広嗣の乱も橘諸兄が謀反と判断、長屋王事件も密告を受けて動いたのは藤原氏でした。天皇に直接密告することはできません。間に議政官がいるのです。

ですから、大津皇子を断罪したのは、持統天皇というより高市皇子だったと考えたが自然です。

天武朝の期待の星・大津皇子を断罪(686年)しなければならなかったのが高市皇子だったとすると、その心中はいかばかりだったのか。
そして、高市皇子を苦しめたのは、これだけではありませんでした。高市皇子は壬申の乱の後遺症も残る新政権のトップだったのですから。
妃の御名部皇女は天智帝の皇女ですし、壬申の乱後に妃に迎えた十市皇女(大友皇子の妃だった)は、天武帝が斎宮に向かった後に自殺しています。異母姉・十市皇女の死に高市皇子は苦しみました。その時の歌が、万葉集の挽歌に残されています。さらに、天武帝の皇女で鎌足の娘の氷上娘の生んだ但馬皇女は、高市皇子を裏切り穂積皇子に走りました。これらのことは既に書いていますが。

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その後、十市皇女は祟り神になったと思います。過酷な皇女の人生とその結末を考えると、人々は畏れたことでしょう。ひそかに祟り神を慰めたり鎮めたり、守護神として頼りにしたり、南都・鏡神社の辺りに天満宮信仰(菅原道真の祟りを鎮める)の原型として、比賣塚信仰が潜伏していたのだと思います。

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以前に紹介した新薬師寺の門前の「比賣神社」は、鏡神社の摂社でした。
この南都・鏡神社は、806年に唐津の鏡神社(藤原広嗣を祀る)からの勧請です。

806年は桓武天皇の崩御年で、平城天皇の即位年です。平安京の平安の為に南都の新薬師寺の守護神として、強い祟り神を選んだのです。祟りが強ければ強いほど霊力が強力だったし、守護神として頼りになったのです。

比賣塚
にもそういう祟り神としての伝承があったので、鏡神社の宮司様が十市皇女を改めて祭られたのだと思います。
わたしがこの比賣塚を十市皇女と結びつけたのは、比賣塚の横に「神像石」があったからです。弘文天皇(大友皇子)の在りし日を顕彰し、四代にわたる御姿石を長く祀ったと書かれていたからです。隣り合い身を寄せ合う塚と石がある、それは何を意味するのでしょう。比賣塚は十市皇女以外に考えられません。
それは、祟り神となった悲しみの王妃を偲ぶ縁となっていたのです。


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by tizudesiru | 2017-06-24 00:05 | 259王権と高市皇子の苦悩 | Comments(0)

213柿本朝臣人麻呂、近江京を詠む

柿本朝臣人麻呂、近江京を詠む
人麻呂は持統天皇にすべてを捧げて尽くした官人でした。公の儀式の場で歌を詠み、皇族の葬儀でも挽歌を詠んでいます。
人麻呂が近江京を感傷する歌を詠んだのは、持統天皇の御代でした。
持統天皇はこの歌をどんな思いで、どんな顔をして聞いたのでしょう。微笑んだのか、涙を流したのか、知りたいものです。

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人麻呂が荒れた近江京を感傷する歌を詠んだのは、持統天皇の御代です。万葉集巻一「藤原宮御宇天皇代」の冒頭は、持統天皇の御製歌です。
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春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香来山
この歌に続くのが、29番の 「近江の荒都を過ぎる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」です。
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持統天皇が大津の宮を偲んだという、そこに込められた思いは何でしょうね。
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(大津の錦織遺跡の掘立柱跡)

人麻呂の歌から、中大兄が何者であったかが、読み取れます。では、
玉だすき畝傍の山の橿原の→神霊漂う畝傍山の聖なる橿原におられた
日知の御代ゆ→日を知る(暦を知る・聖ヒジリでもある)王の御代からずっと
あれましし神のことごと→お生まれになった神々(日知王)の悉くが
樛の木のいや継ぎ継ぎに→つがの木のように次々に続けて
天下知らしめししを→
大和で天の下をお治めになったのに
?????????そうです。
すると、天智天皇の皇統は
、いわゆる神武天皇に始まり、大和を治めて来たということです。

始まりは、天照大神だとは言っていません。
伊勢を目指した天武天皇とは祖先の扱いが違うのです。
どいうこと??
天智天皇は、カムヤマト磐余ビコの皇統だと、確認しておきましょうね。

これは、重要な歌ですね。人麻呂は、皇統の出自を歌っているのです。
そらみつ大和をおきて→それなのに、神武以来の大和を捨てて
あおによし平山(ならやま)を越え→
青土を平らに「ならす」と同じ「なら山」を越えて
いかさまに思ほしめせか→
いったい何と思われたのであろうか
天離ひなにはあれど石走る淡海国の楽浪の大津宮に天下知らしめしけむ→
都から遠い田舎の、水が滔々と流れる淡海国の楽浪郡の大津の宮で天の下をお治めになったという
天皇の神の御言の大宮はここと聞けども→
その天皇の神命の大宮はここだと聞くけれど
大殿はここと云えども春草の茂く生いたる→
大殿はここだというが、そこには春草が繁茂する
霞立つ春日の霧れる→
そこは、白く春霞がかかったように涙に曇ってよく見えない
百磯城の大宮処見れば悲しも→あの素晴らしかった大宮の址を見ると、万感の思いが寄せて来て悲しい
この後に「反歌」が二首続きます。人麻呂は、反歌と短歌を使い分けています。長歌の後に、長歌と同じ内容を繰り返し歌うときは、反歌です。内容が重複しないときは、短歌となります。
ここは、反歌ですから「大津宮とすぎにし大宮人を偲ぶ歌」として反復していることになります。
更に、題詞が「近江の荒都を過ぎる時」と地名が先に書かれ、人麻呂の名は後に有ります。
このように歌人が後にくる場合は、公の場での詠歌だそうです。
ですから、この歌は公の場で献じられたのです。もちろん、持統天皇に。
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持統天皇はこの歌をどんな思いで、どんな顔をして聞いたのでしょう。微笑んだのか、涙を流したのか、知りたいものです。
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また明日

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by tizudesiru | 2017-02-09 11:05 | 213人麻呂、近江京を詠む | Comments(0)

210持統天皇の祖父は、未完成の山田寺に死す

大化改新(645)の功労者・蘇我倉山田石川麿の寺
持統天皇の祖父は、ここで自死を遂げました
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山田寺は、見事な塔と金堂が、南北に一直線に並ぶ百済の伽藍様式を取り入れた寺でした。しかし、石川麿が存命中には完成していません。造営中に兄弟の蘇我日向(そがのひなた)の讒言(ざんげん)にあい、一家共に山田寺で自死に到りました。

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(塔跡と金堂跡の基壇)
石川麿は持統天皇と元明天皇の祖父になります。持統天皇の生母・越智娘は中大兄皇子(天智帝)の夫人でしたが、父の石川麿の非業の死を知り嘆き悲しんで亡くなりました。越智娘(おちのいらつめ)は、大田皇女、鵜野讃良皇女(持統帝)、建王(8歳で没)の三人の母でした。越智娘の死後、三人の子どもたちを守り育てたのは誰だったのでしょうね。元明天皇は、石川麿の娘・姪娘(めいのいらつめ)に生れています。

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(南門から塔基壇、金堂基壇が直線に並ぶことが分かる)

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2002年に「山田寺の発掘」の報告書が奈良文化財研究所から出されています。驚いたことに回廊などそのまま倒れたようでおびただしい遺物が出ました。一部は組み立てて展示されているということです。
寺が一度に倒壊したのなら、写真のように柱も礎石も瓦も共に出土します。しかし、ほとんどの古代寺院址では、少しの礎石とわずかな瓦しか出土しません。つまり、材料は再利用されて、他へ運ばれたということです。瓦の場合はほとんど移動しています。よく似た瓦は、移動した瓦をもとに製造されたということでしょうか。

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山田寺の瓦を見てみましょう。吉備池廃寺の瓦とよく似ています。右下は山田寺の金堂の瓦です。ということは、寺院では金堂が最初に造られたということですから、これが創建瓦ですかね。
中心の小さな点(珠)が若干数が違っているようですが、蓮弁=花びらの中に更に小さな花弁が重なっています。これを子葉と言います。
ですから、単弁八葉軒丸瓦ということでしょう。平瓦を伴います。文様は弧線が重なっていますね。
この組み合わせの丸瓦と平瓦は、福岡でも出土しています。福岡県小郡市の上岩田遺跡
です。
どんな関わりがあるのでしょうね。

それにしても、山田寺を完成させたのは誰で、山田寺がそのまま放置されたわけは何でしょうね。ここに、新しい寺が建てられたなら基壇の破壊などあったでしょう。発掘では、回廊など立派な木材が残っていました。放置してそのまま朽ちさせるのはもったいない気がしますが。「続日本紀」で山田寺は封戸を施されていますから、持統天皇や元明天皇が健在な間は大事にされたということでしょうか。

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この広い敷地のどこかに倉山田石川麿の血が流されたことでしょう。
蘇我日向は石川麿を追い詰めて罪人として誅殺するつもりでしたが、山田寺まで駆けつけると兄が先に自死を遂げていたので腹をたて、屍を斬り刻んだのでした。
石川麿の無実は、やがて明らかになりました。
日向は中大兄のために事を起こしたのですが、大宰府に左遷されました。人々は「しのび流し」と噂したのです。
石川麿は無念だったでしょうね。その霊魂は鎮めなければなりません。
寺を再建し荘厳したのは、石川麿の祟りを畏れた人か、石川麿の所縁の人だったのではないでしょうか。
では、また明日



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by tizudesiru | 2017-02-06 15:54 | 210石川麿の山田寺 | Comments(0)

178天武帝の霊魂は伊勢へ

178天武天皇崩御の八年後の持統帝の御歌

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天武天皇崩御の八年後(693)の九月九日(天武帝の命日)御斎会(ごさいえ)の夜、持統天皇の夢の中に詠み覚えられた御歌一首が、万葉集にあります。御歌なので皇后としての持統天皇の歌となります。

持統天皇の歌は162番歌は、草壁皇子の挽歌167番より前に載せられていますが、現実には草壁皇子の歌の方が時期的に先に詠まれたものです。


草壁皇子薨去(689)の方が、天武帝崩御の八年後(693)より早いのです。
持統帝は人麻呂の歌を夢の中で思い出したのかも知れません。
草壁皇子の挽歌の「高照らす日の皇子は飛ぶ鳥の浄の宮に神ながら太しきまして」と同じ言葉を使っています。      

では、夢の中での一首


162 明日香の
(きよ)御原(みはら)の宮に天の下知らしめしし ()(すみ)しし(わご)大王(おほきみ) 高照らす 日の皇子 いかさまに おもほしめせか 神風(かむかぜ)の伊勢の国は おきつ()も ()みたる波に 塩気(しおけ)のみ 香れる国に (うま)こり あやにともしき 高照らす 日の皇子


明日香の浄御原の宮に天下をお治めになられた、支配者である我が大王は、高きより天下を照らす日の皇子であるのに
どう思われたのだろうか、神風の伊勢の国は沖の藻も靡いている波の上を、塩の気のみが漂い香っている国。そんな国に(何故行かれたのか)。言葉にできないほど慕わしい高照らす日の皇子が…


この歌は中途半端だそうです。夢の中での歌だから、言葉や思いが尽くされていないのでしょうか。
それにしても


日の皇子である天武天皇が行かれたのは、塩気のみが香る伊勢の国でした。


持統天皇にとって、天武帝が伊勢国へ行くとは理解しがたいと、いうのです。伊勢とは、壬申の乱で天武に加勢した神の坐す土地で、天照大神を祀る神社のある土地です。壬申の乱後に、天武帝は皇女を斎宮として送りました。


最近こそ二千年の神祀りの神社とか平気で報道しているけれど、伊勢神宮が歴史に登場したのは新しいのです。



更に、明治になるまで、伊勢には天皇の参拝がなかったという。


その伊勢に、天武天皇の霊魂が行かれたというのですから意味深ですね。


伊勢神宮は天武天皇にとって、皇室にとって大事な神であり、氏神の神社であったのです。一般の人が願い事をすることも禁じられていました。


そういえば、万葉集に詠まれる神社には「石上神宮」がありましたね。石上神宮は物部氏の神社で、ご神体は剣(空を切る時のフッという音から、フツ主の神ですね)

とすると、弥生の神であった鏡と剣と玉を祖先神とする氏族のルーツは、北部九州なのですね。


天武天皇は九州と深い関係があったのですね。最初の妻は宗形氏の娘です。息子の高市皇子は「藤原宮」の瓦に、九州の観世音寺や大宰府政庁と同じ文様の複弁蓮華文の軒先丸瓦を葺いています。

九州との繋がりを意識していたのでしょうね。

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観世音寺の軒先丸瓦と軒先平瓦
写真は「一瓦一説」(森郁夫)の写真をデジカメで撮ったもの





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by tizudesiru | 2016-12-14 11:32 | 178天武帝の霊魂は伊勢へ | Comments(0)

177持統帝と天武帝の絆の深さ?

177持統帝と天武帝の絆の深さ?

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持統天皇と天武天皇の合葬墓は、野口王墓(写真はNHKの映像をデジカメで撮影)

天智陵の真南に天武陵があります。
天智陵を改葬したのは文武天皇(持統天皇の孫)でした。天智陵は藤原氏の土地に築造されているそうです。藤原氏は持統天皇と天武天皇に仕えたのです。

さて、藤原氏は天智帝の腹心の部下であったと何度も書きました。
しかし、藤原不比等は持統帝に仕え、目覚ましい出世を遂げました。

では、不比等は天智朝を滅ぼした天武朝に忠誠を誓ったのでしょうか。

気になるところですよね。ですが、今回は天武天皇と持統天皇の絆です。


天武天皇崩御の時、持統大后の御作歌


まず、持統帝が天武帝の崩御の時に詠んだ歌を見てみましょう。

天皇(かむあが)りましし時、大后の作らす御歌一首


159 八隅しし 我が大王の 
(ゆう)されば 召し賜ふらし 明けくれば 問ひ賜ふらし (かむ)(おか)の 山の黄葉を 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも 召し賜はまし その山を 振りさけ見つつ (ゆう)されば あやに哀しみ 明けくれば うらさびくらし あらたへの 衣の袖は ()る時もなし


世の隅々までお治めになられた我が大王は、夕方になると御覧になられただろう。明け方になれば、きっとお訊ねになられただろう、神山の黄葉を。今日だってお尋ねになられたであろう。明日もご覧になるだろう。その山をはるか遠くに仰ぎ見ながら、夕方になると何とも悲しく、明け方になると何とも寂しい思いで暮らしているので、荒栲の喪服の袖は涙に濡れて乾く時もない。


もし天武帝がご健在であれば、きっと神山の黄葉を朝晩お尋ねになったであろう。が、帝は既に崩じられたので、何も問われることはない。(我が大王はもうこの世の方ではないと思いながら)、神山を仰ぎ見ると思い出して悲しい
、というのです。

太后の御歌」となっているので、崩御後余り日が経ない秋の詠歌でしょう。しかし、すっかり遠くの人を恋しく思うように感じます。

次の歌は「太上天皇の御製歌」となっているので、

一書に曰く、天皇崩じたる時の太上天皇の御製歌二首


160 燃ゆる火も取りてつつみてふくろには 入ると
()ずやも智男雲


燃えている火だって、手に取って包んで袋に入れることができるというではないか。そんなこともできるのに、何で・・・できないのか。


161 
()南山(たやま)にたなびく雲の青雲の(ほし)(さか)りゆく月を(はな)れて


北山にたなびいている雲は、あれは帝の霊魂だろうか。あの青雲が星を離れて行く。月さえも離れて…帝の霊魂は何もかも置いて離れていかれるのか。


何度読み返しても、持統天皇の御歌も御製歌も言葉足らずで「亡き人への執着」
が感じられないのです。天武帝と熱烈に愛し合っていたとは思えないのです。でも、天武帝からは大事にされたのでしたね。

あまたの妃の中から、皇后に立てられたのは持統帝でした。


「吉野の盟約」のあと、持統帝は後宮のトップになり
すべての皇子と皇女の母となったのでした。

その皇后・持統天皇と天武天皇との絆は深かったのでしょうか。
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(系図は、小学館「日本書紀(3)」の挿入図をデジカメで撮影)

持統天皇は帝王(天智天皇)の娘で、礼節を好み、母性の徳があったと書かれています。草壁皇子は、大津宮で生んだとも

そうすると、大津宮に遷都(667)する前、白村江敗戦(663)の前、天智元年(662)に、草壁皇子は生まれたのですね? 九州に身重の娘を連れて来ていた? 父の天智帝の宮で草壁皇子を生んだ? 
この時、持統帝は17歳ということになります。
草壁皇子が生まれた大津宮が九州の那の大津ならば、持統天皇は幼くして母を亡くしていますから、その後、父の宮で暮らしていた?
では、大海人皇子と結婚した後は、何処でどのように暮らしていたのでしょうね。この辺りがあいまいなのですね。

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by tizudesiru | 2016-12-11 10:30 | 177持統帝と天武帝の絆の深さ? | Comments(0)

167・持統天皇の孫・文武天皇の仕事

167・持統天皇の孫・文武天皇の仕事

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文武天皇は15歳で即位しました。

夫人は藤原宮子(不比等の娘)です

文武天皇は若い天皇でしたから、持統天皇が太上天皇として全面的にバックアップしたのです。

ですから,文武天皇の仕事には、持統太上天皇の意思が入り込んでいるのです。

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その中に、おや? と思う仕事があります。


文武三年(699)の山田寺に封三百戸


それに、越智(斉明天皇陵)と山科(天智天皇陵)の造営
です。

山田寺は祖父蘇我石川麿が無念の最後を遂げた寺です。

そして、斉明天皇は天武天皇の母、天智天皇は天武天皇の兄。


陵墓の造営(改葬になります)は当然でしょうか?

ここで、 前に紹介した「163・持統天皇の最後の願い・火葬と合葬」を思い出してください。


持統天皇は真っ白な骨となって、天武天皇陵に合葬されたのです。霊魂がその墓を離れ、未来永劫飛びまわるために。

陵墓の造営が重要であること、祖先・天皇の墓はその王朝にとって意味があること、お分かりですよね。

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(山城の天智天皇陵)

では、高市皇子(天武天皇の第一子)の墓が高松塚であれば、その墓と文武帝は如何なる関係になっているでしょう。

以前、高松塚古墳は文武天皇の墓という伝承がありました。

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(まだ、高松塚古墳の石室が調査中のライン・石室の真上を通っています)


治田神社(草壁皇子の岡宮跡)→高松塚古墳石室→岡宮天皇陵(草壁皇子陵の改葬前の墓)


高市皇子は、後皇子尊(のちのみこのみこと)と呼ばれました。

であれば、草壁皇子の宮跡とその陵墓に挟まれて眠るのは当然かもしれません。

そして、あろうことか、文武天皇の崩御。

持統天皇亡き後の公務が多すぎたのでしょうか。

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文武天皇陵は、現在天武天皇の真南になっています。しかし、最近「中尾山古墳」(八角形墳丘墓)が改装後の文武天皇陵とされています。

その中尾山古墳は、なんと耳成山の真南にあります。


高市皇子と耳成山の間ですね。

そのわけは、①耳成山と高市皇子の霊力を受け取ろうとした。

または、  ➁高市皇子と耳成山の霊力を遮断した。


更に、草壁皇子の墓も最近は岡宮天皇陵ではなく、「束明神古墳」とされています。

よりよい子孫の繁栄を願って陵墓を改装したのでしょう。
それも、牽牛子塚(斉明陵)、天智陵、中尾山古墳と、八角形の極位に上ったという墳丘墓の形式に揃えたかったということでしょうか

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持統帝の天智天皇への思いがだんだんはっきりしてきましたね。

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文武天皇の傍に藤原氏がぴったりと寄り添って、その行動をコントロールしていたのも確かです。

藤原氏は計画的に謀略を積み重ねて、権力の頂点に駆け上っていくのです。


また明日


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by tizudesiru | 2016-11-24 11:34 | 167持統帝の孫・文武天皇の仕事 | Comments(0)

164・持統天皇との約束・柿本人麻呂ことあげす

164・持統天皇との約束・柿本人麻呂事挙げす

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「柿本人麻呂が初期万葉集の編纂者」と以前のブログ(157・持統帝の霊魂に再会した人麻呂)に書きました。

人麻呂の紀伊國の旅は、持統天皇との思い出の地を訪ねる旅愁を求める旅ではありませんでした。

形見の地(亡き人の霊魂が漂う地)を訪ね、霊魂に触れる為の旅でした。黒牛方は、有間皇子の終焉の地、藤白坂の近くの海岸です。その海岸に、

女帝との約束を果たすべきか否か、人麻呂は、女帝の霊魂に確かめに行ったのです。

「お言葉のままに、事挙げしてよろしいのでしょうか。わたくしは決心がつきかねております」

人麻呂が迷っていたのは、万葉集の編纂を続け、それを文武天皇に奏上することでした。

答は「詔のままにせよ」だったのです。

無念の最後を遂げたゆかりの人、滅ぼされてしまったゆかりの人を追慕し、その霊魂を鎮め、鎮魂歌集として末永く朝廷に伝えること。

それが、持統帝の詔でした。

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人麻呂は命を賭して「事挙げ」の決心をしました。


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葦原の水穂の国は、この国を支配する神様としては言葉にして言い立てたりはしない国だ。

だが、わたしはあえて言葉にして言うのだ。どうぞご無事で、真にお幸せにと、障りもなくご無事であれば、荒磯浪のアリのように在りし時にお逢いしたかった。

百重浪、千重浪のような後から後から押し寄せて来る波のように、私は何度でも事挙げする。

わたしは亡き帝のために何度も何度も事挙げする。

反歌(長歌と同じような中身を繰り返す短歌という意味)

敷島のの倭の国は、言霊の霊力によって幸をもたらす國である。私は、言霊によってこの国の幸を願う。どうぞ末永く、無事でおいで下さい。


人麻呂が決心して「万葉集」を奉ろうとしたのですが、そこに、

文武天皇(持統天皇の孫・42代天皇)の突然の崩御でした。

やむを得ず、母の元明天皇(草壁皇子の妃・43代天皇)に奏上したのでした。

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元明天皇は激怒しました。

そこに皇統の秘密が書かれていたのです

それは、誰にも知られていることだったと思います。が、

それをわざわざ事挙げする人麻呂を許せなかったと思います。
それが故に、草壁皇子が苦しみ、持統天皇が文武天皇のために身を挺して政を支え力尽きたことを、元明天皇は承知していました。
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人麻呂は流罪になりましたが、さらに刑死となりました。

それを甘んじて受けたことが、万葉集でも読み取れるのです。


またあとで





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by tizudesiru | 2016-11-21 11:33 | 164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ | Comments(0)


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170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264柿本人麻呂と持統天皇
265消された饒速日の王権
266大宰府・宝満・沖ノ島
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んんだ倭建命
273大型甕棺の時代
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラ
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
284明日香川原寺の万葉歌の謎
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳

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