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213柿本朝臣人麻呂、近江京を詠む

柿本朝臣人麻呂、近江京を詠む
人麻呂は持統天皇にすべてを捧げて尽くした官人でした。公の儀式の場で歌を詠み、皇族の葬儀でも挽歌を詠んでいます。
人麻呂が近江京を感傷する歌を詠んだのは、持統天皇の御代でした。
持統天皇はこの歌をどんな思いで、どんな顔をして聞いたのでしょう。微笑んだのか、涙を流したのか、知りたいものです。

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人麻呂が荒れた近江京を感傷する歌を詠んだのは、持統天皇の御代です。万葉集巻一「藤原宮御宇天皇代」の冒頭は、持統天皇の御製歌です。
28 
春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香来山
この歌に続くのが、29番の 「近江の荒都を過ぎる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」です。
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持統天皇が大津の宮を偲んだという、そこに込められた思いは何でしょうね。
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(大津の錦織遺跡の掘立柱跡)

人麻呂の歌から、中大兄が何者であったかが、読み取れます。では、
玉だすき畝傍の山の橿原の→神霊漂う畝傍山の聖なる橿原におられた
日知の御代ゆ→日を知る(暦を知る・聖ヒジリでもある)王の御代からずっと
あれましし神のことごと→お生まれになった神々(日知王)の悉くが
樛の木のいや継ぎ継ぎに→つがの木のように次々に続けて
天下知らしめししを→
大和で天の下をお治めになったのに
?????????そうです。
すると、天智天皇の皇統は
、いわゆる神武天皇に始まり、大和を治めて来たということです。

始まりは、天照大神だとは言っていません。
伊勢を目指した天武天皇とは祖先の扱いが違うのです。
どいうこと??
天智天皇は、カムヤマト磐余ビコの皇統だと、確認しておきましょうね。

これは、重要な歌ですね。人麻呂は、皇統の出自を歌っているのです。
そらみつ大和をおきて→それなのに、神武以来の大和を捨てて
あおによし平山(ならやま)を越え→
青土を平らに「ならす」と同じ「なら山」を越えて
いかさまに思ほしめせか→
いったい何と思われたのであろうか
天離ひなにはあれど石走る淡海国の楽浪の大津宮に天下知らしめしけむ→
都から遠い田舎の、水が滔々と流れる淡海国の楽浪郡の大津の宮で天の下をお治めになったという
天皇の神の御言の大宮はここと聞けども→
その天皇の神命の大宮はここだと聞くけれど
大殿はここと云えども春草の茂く生いたる→
大殿はここだというが、そこには春草が繁茂する
霞立つ春日の霧れる→
そこは、白く春霞がかかったように涙に曇ってよく見えない
百磯城の大宮処見れば悲しも→あの素晴らしかった大宮の址を見ると、万感の思いが寄せて来て悲しい
この後に「反歌」が二首続きます。人麻呂は、反歌と短歌を使い分けています。長歌の後に、長歌と同じ内容を繰り返し歌うときは、反歌です。内容が重複しないときは、短歌となります。
ここは、反歌ですから「大津宮とすぎにし大宮人を偲ぶ歌」として反復していることになります。
更に、題詞が「近江の荒都を過ぎる時」と地名が先に書かれ、人麻呂の名は後に有ります。
このように歌人が後にくる場合は、公の場での詠歌だそうです。
ですから、この歌は公の場で献じられたのです。もちろん、持統天皇に。
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持統天皇はこの歌をどんな思いで、どんな顔をして聞いたのでしょう。微笑んだのか、涙を流したのか、知りたいものです。
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また明日

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by tizudesiru | 2017-02-09 11:05 | 213人麻呂、近江京を詠む | Comments(0)

210持統天皇の祖父は、未完成の山田寺に死す

大化改新(645)の功労者・蘇我倉山田石川麿の寺
持統天皇の祖父は、ここで自死を遂げました
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山田寺は、見事な塔と金堂が、南北に一直線に並ぶ百済の伽藍様式を取り入れた寺でした。しかし、石川麿が存命中には完成していません。造営中に兄弟の蘇我日向(そがのひなた)の讒言(ざんげん)にあい、一家共に山田寺で自死に到りました。

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(塔跡と金堂跡の基壇)
石川麿は持統天皇と元明天皇の祖父になります。持統天皇の生母・越智娘は中大兄皇子(天智帝)の夫人でしたが、父の石川麿の非業の死を知り嘆き悲しんで亡くなりました。越智娘(おちのいらつめ)は、大田皇女、鵜野讃良皇女(持統帝)、建王(8歳で没)の三人の母でした。越智娘の死後、三人の子どもたちを守り育てたのは誰だったのでしょうね。元明天皇は、石川麿の娘・姪娘(めいのいらつめ)に生れています。

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(南門から塔基壇、金堂基壇が直線に並ぶことが分かる)

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2002年に「山田寺の発掘」の報告書が奈良文化財研究所から出されています。驚いたことに回廊などそのまま倒れたようでおびただしい遺物が出ました。一部は組み立てて展示されているということです。
寺が一度に倒壊したのなら、写真のように柱も礎石も瓦も共に出土します。しかし、ほとんどの古代寺院址では、少しの礎石とわずかな瓦しか出土しません。つまり、材料は再利用されて、他へ運ばれたということです。瓦の場合はほとんど移動しています。よく似た瓦は、移動した瓦をもとに製造されたということでしょうか。

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山田寺の瓦を見てみましょう。吉備池廃寺の瓦とよく似ています。右下は山田寺の金堂の瓦です。ということは、寺院では金堂が最初に造られたということですから、これが創建瓦ですかね。
中心の小さな点(珠)が若干数が違っているようですが、蓮弁=花びらの中に更に小さな花弁が重なっています。これを子葉と言います。
ですから、単弁八葉軒丸瓦ということでしょう。平瓦を伴います。文様は弧線が重なっていますね。
この組み合わせの丸瓦と平瓦は、福岡でも出土しています。福岡県小郡市の上岩田遺跡
です。
どんな関わりがあるのでしょうね。

それにしても、山田寺を完成させたのは誰で、山田寺がそのまま放置されたわけは何でしょうね。ここに、新しい寺が建てられたなら基壇の破壊などあったでしょう。発掘では、回廊など立派な木材が残っていました。放置してそのまま朽ちさせるのはもったいない気がしますが。「続日本紀」で山田寺は封戸を施されていますから、持統天皇や元明天皇が健在な間は大事にされたということでしょうか。

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この広い敷地のどこかに倉山田石川麿の血が流されたことでしょう。
蘇我日向は石川麿を追い詰めて罪人として誅殺するつもりでしたが、山田寺まで駆けつけると兄が先に自死を遂げていたので腹をたて、屍を斬り刻んだのでした。
石川麿の無実は、やがて明らかになりました。
日向は中大兄のために事を起こしたのですが、大宰府に左遷されました。人々は「しのび流し」と噂したのです。
石川麿は無念だったでしょうね。その霊魂は鎮めなければなりません。
寺を再建し荘厳したのは、石川麿の祟りを畏れた人か、石川麿の所縁の人だったのではないでしょうか。
では、また明日



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by tizudesiru | 2017-02-06 15:54 | 210石川麿の山田寺 | Comments(0)

178天武帝の霊魂は伊勢へ

178天武天皇崩御の八年後の持統帝の御歌

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天武天皇崩御の八年後(693)の九月九日(天武帝の命日)御斎会(ごさいえ)の夜、持統天皇の夢の中に詠み覚えられた御歌一首が、万葉集にあります。御歌なので皇后としての持統天皇の歌となります。

持統天皇の歌は162番歌は、草壁皇子の挽歌167番より前に載せられていますが、現実には草壁皇子の歌の方が時期的に先に詠まれたものです。


草壁皇子薨去(689)の方が、天武帝崩御の八年後(693)より早いのです。
持統帝は人麻呂の歌を夢の中で思い出したのかも知れません。
草壁皇子の挽歌の「高照らす日の皇子は飛ぶ鳥の浄の宮に神ながら太しきまして」と同じ言葉を使っています。      

では、夢の中での一首


162 明日香の
(きよ)御原(みはら)の宮に天の下知らしめしし ()(すみ)しし(わご)大王(おほきみ) 高照らす 日の皇子 いかさまに おもほしめせか 神風(かむかぜ)の伊勢の国は おきつ()も ()みたる波に 塩気(しおけ)のみ 香れる国に (うま)こり あやにともしき 高照らす 日の皇子


明日香の浄御原の宮に天下をお治めになられた、支配者である我が大王は、高きより天下を照らす日の皇子であるのに
どう思われたのだろうか、神風の伊勢の国は沖の藻も靡いている波の上を、塩の気のみが漂い香っている国。そんな国に(何故行かれたのか)。言葉にできないほど慕わしい高照らす日の皇子が…


この歌は中途半端だそうです。夢の中での歌だから、言葉や思いが尽くされていないのでしょうか。
それにしても


日の皇子である天武天皇が行かれたのは、塩気のみが香る伊勢の国でした。


持統天皇にとって、天武帝が伊勢国へ行くとは理解しがたいと、いうのです。伊勢とは、壬申の乱で天武に加勢した神の坐す土地で、天照大神を祀る神社のある土地です。壬申の乱後に、天武帝は皇女を斎宮として送りました。


最近こそ二千年の神祀りの神社とか平気で報道しているけれど、伊勢神宮が歴史に登場したのは新しいのです。



更に、明治になるまで、伊勢には天皇の参拝がなかったという。


その伊勢に、天武天皇の霊魂が行かれたというのですから意味深ですね。


伊勢神宮は天武天皇にとって、皇室にとって大事な神であり、氏神の神社であったのです。一般の人が願い事をすることも禁じられていました。


そういえば、万葉集に詠まれる神社には「石上神宮」がありましたね。石上神宮は物部氏の神社で、ご神体は剣(空を切る時のフッという音から、フツ主の神ですね)

とすると、弥生の神であった鏡と剣と玉を祖先神とする氏族のルーツは、北部九州なのですね。


天武天皇は九州と深い関係があったのですね。最初の妻は宗形氏の娘です。息子の高市皇子は「藤原宮」の瓦に、九州の観世音寺や大宰府政庁と同じ文様の複弁蓮華文の軒先丸瓦を葺いています。

九州との繋がりを意識していたのでしょうね。

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観世音寺の軒先丸瓦と軒先平瓦
写真は「一瓦一説」(森郁夫)の写真をデジカメで撮ったもの





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by tizudesiru | 2016-12-14 11:32 | 178天武帝の霊魂は伊勢へ | Comments(0)

177持統帝と天武帝の絆の深さ?

177持統帝と天武帝の絆の深さ?

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持統天皇と天武天皇の合葬墓は、野口王墓(写真はNHKの映像をデジカメで撮影)

天智陵の真南に天武陵があります。
天智陵を改葬したのは文武天皇(持統天皇の孫)でした。天智陵は藤原氏の土地に築造されているそうです。藤原氏は持統天皇と天武天皇に仕えたのです。

さて、藤原氏は天智帝の腹心の部下であったと何度も書きました。
しかし、藤原不比等は持統帝に仕え、目覚ましい出世を遂げました。

では、不比等は天智朝を滅ぼした天武朝に忠誠を誓ったのでしょうか。

気になるところですよね。ですが、今回は天武天皇と持統天皇の絆です。


天武天皇崩御の時、持統大后の御作歌


まず、持統帝が天武帝の崩御の時に詠んだ歌を見てみましょう。

天皇(かむあが)りましし時、大后の作らす御歌一首


159 八隅しし 我が大王の 
(ゆう)されば 召し賜ふらし 明けくれば 問ひ賜ふらし (かむ)(おか)の 山の黄葉を 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも 召し賜はまし その山を 振りさけ見つつ (ゆう)されば あやに哀しみ 明けくれば うらさびくらし あらたへの 衣の袖は ()る時もなし


世の隅々までお治めになられた我が大王は、夕方になると御覧になられただろう。明け方になれば、きっとお訊ねになられただろう、神山の黄葉を。今日だってお尋ねになられたであろう。明日もご覧になるだろう。その山をはるか遠くに仰ぎ見ながら、夕方になると何とも悲しく、明け方になると何とも寂しい思いで暮らしているので、荒栲の喪服の袖は涙に濡れて乾く時もない。


もし天武帝がご健在であれば、きっと神山の黄葉を朝晩お尋ねになったであろう。が、帝は既に崩じられたので、何も問われることはない。(我が大王はもうこの世の方ではないと思いながら)、神山を仰ぎ見ると思い出して悲しい
、というのです。

太后の御歌」となっているので、崩御後余り日が経ない秋の詠歌でしょう。しかし、すっかり遠くの人を恋しく思うように感じます。

次の歌は「太上天皇の御製歌」となっているので、

一書に曰く、天皇崩じたる時の太上天皇の御製歌二首


160 燃ゆる火も取りてつつみてふくろには 入ると
()ずやも智男雲


燃えている火だって、手に取って包んで袋に入れることができるというではないか。そんなこともできるのに、何で・・・できないのか。


161 
()南山(たやま)にたなびく雲の青雲の(ほし)(さか)りゆく月を(はな)れて


北山にたなびいている雲は、あれは帝の霊魂だろうか。あの青雲が星を離れて行く。月さえも離れて…帝の霊魂は何もかも置いて離れていかれるのか。


何度読み返しても、持統天皇の御歌も御製歌も言葉足らずで「亡き人への執着」
が感じられないのです。天武帝と熱烈に愛し合っていたとは思えないのです。でも、天武帝からは大事にされたのでしたね。

あまたの妃の中から、皇后に立てられたのは持統帝でした。


「吉野の盟約」のあと、持統帝は後宮のトップになり
すべての皇子と皇女の母となったのでした。

その皇后・持統天皇と天武天皇との絆は深かったのでしょうか。
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(系図は、小学館「日本書紀(3)」の挿入図をデジカメで撮影)

持統天皇は帝王(天智天皇)の娘で、礼節を好み、母性の徳があったと書かれています。草壁皇子は、大津宮で生んだとも

そうすると、大津宮に遷都(667)する前、白村江敗戦(663)の前、天智元年(662)に、草壁皇子は生まれたのですね? 九州に身重の娘を連れて来ていた? 父の天智帝の宮で草壁皇子を生んだ? 
この時、持統帝は17歳ということになります。
草壁皇子が生まれた大津宮が九州の那の大津ならば、持統天皇は幼くして母を亡くしていますから、その後、父の宮で暮らしていた?
では、大海人皇子と結婚した後は、何処でどのように暮らしていたのでしょうね。この辺りがあいまいなのですね。

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by tizudesiru | 2016-12-11 10:30 | 177持統帝と天武帝の絆の深さ? | Comments(0)

167・持統天皇の孫・文武天皇の仕事

167・持統天皇の孫・文武天皇の仕事

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文武天皇は15歳で即位しました。

夫人は藤原宮子(不比等の娘)です

文武天皇は若い天皇でしたから、持統天皇が太上天皇として全面的にバックアップしたのです。

ですから,文武天皇の仕事には、持統太上天皇の意思が入り込んでいるのです。

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その中に、おや? と思う仕事があります。


文武三年(699)の山田寺に封三百戸


それに、越智(斉明天皇陵)と山科(天智天皇陵)の造営
です。

山田寺は祖父蘇我石川麿が無念の最後を遂げた寺です。

そして、斉明天皇は天武天皇の母、天智天皇は天武天皇の兄。


陵墓の造営(改葬になります)は当然でしょうか?

ここで、 前に紹介した「163・持統天皇の最後の願い・火葬と合葬」を思い出してください。


持統天皇は真っ白な骨となって、天武天皇陵に合葬されたのです。霊魂がその墓を離れ、未来永劫飛びまわるために。

陵墓の造営が重要であること、祖先・天皇の墓はその王朝にとって意味があること、お分かりですよね。

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(山城の天智天皇陵)

では、高市皇子(天武天皇の第一子)の墓が高松塚であれば、その墓と文武帝は如何なる関係になっているでしょう。

以前、高松塚古墳は文武天皇の墓という伝承がありました。

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(まだ、高松塚古墳の石室が調査中のライン・石室の真上を通っています)


治田神社(草壁皇子の岡宮跡)→高松塚古墳石室→岡宮天皇陵(草壁皇子陵の改葬前の墓)


高市皇子は、後皇子尊(のちのみこのみこと)と呼ばれました。

であれば、草壁皇子の宮跡とその陵墓に挟まれて眠るのは当然かもしれません。

そして、あろうことか、文武天皇の崩御。

持統天皇亡き後の公務が多すぎたのでしょうか。

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文武天皇陵は、現在天武天皇の真南になっています。しかし、最近「中尾山古墳」(八角形墳丘墓)が改装後の文武天皇陵とされています。

その中尾山古墳は、なんと耳成山の真南にあります。


高市皇子と耳成山の間ですね。

そのわけは、①耳成山と高市皇子の霊力を受け取ろうとした。

または、  ➁高市皇子と耳成山の霊力を遮断した。


更に、草壁皇子の墓も最近は岡宮天皇陵ではなく、「束明神古墳」とされています。

よりよい子孫の繁栄を願って陵墓を改装したのでしょう。
それも、牽牛子塚(斉明陵)、天智陵、中尾山古墳と、八角形の極位に上ったという墳丘墓の形式に揃えたかったということでしょうか

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持統帝の天智天皇への思いがだんだんはっきりしてきましたね。

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文武天皇の傍に藤原氏がぴったりと寄り添って、その行動をコントロールしていたのも確かです。

藤原氏は計画的に謀略を積み重ねて、権力の頂点に駆け上っていくのです。


また明日


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by tizudesiru | 2016-11-24 11:34 | 167持統帝の孫・文武天皇の仕事 | Comments(0)

164・持統天皇との約束・柿本人麻呂ことあげす

164・持統天皇との約束・柿本人麻呂事挙げす

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「柿本人麻呂が初期万葉集の編纂者」と以前のブログ(157・持統帝の霊魂に再会した人麻呂)に書きました。

人麻呂の紀伊國の旅は、持統天皇との思い出の地を訪ねる旅愁を求める旅ではありませんでした。

形見の地(亡き人の霊魂が漂う地)を訪ね、霊魂に触れる為の旅でした。黒牛方は、有間皇子の終焉の地、藤白坂の近くの海岸です。その海岸に、

女帝との約束を果たすべきか否か、人麻呂は、女帝の霊魂に確かめに行ったのです。

「お言葉のままに、事挙げしてよろしいのでしょうか。わたくしは決心がつきかねております」

人麻呂が迷っていたのは、万葉集の編纂を続け、それを文武天皇に奏上することでした。

答は「詔のままにせよ」だったのです。

無念の最後を遂げたゆかりの人、滅ぼされてしまったゆかりの人を追慕し、その霊魂を鎮め、鎮魂歌集として末永く朝廷に伝えること。

それが、持統帝の詔でした。

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人麻呂は命を賭して「事挙げ」の決心をしました。


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葦原の水穂の国は、この国を支配する神様としては言葉にして言い立てたりはしない国だ。

だが、わたしはあえて言葉にして言うのだ。どうぞご無事で、真にお幸せにと、障りもなくご無事であれば、荒磯浪のアリのように在りし時にお逢いしたかった。

百重浪、千重浪のような後から後から押し寄せて来る波のように、私は何度でも事挙げする。

わたしは亡き帝のために何度も何度も事挙げする。

反歌(長歌と同じような中身を繰り返す短歌という意味)

敷島のの倭の国は、言霊の霊力によって幸をもたらす國である。私は、言霊によってこの国の幸を願う。どうぞ末永く、無事でおいで下さい。


人麻呂が決心して「万葉集」を奉ろうとしたのですが、そこに、

文武天皇(持統天皇の孫・42代天皇)の突然の崩御でした。

やむを得ず、母の元明天皇(草壁皇子の妃・43代天皇)に奏上したのでした。

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元明天皇は激怒しました。

そこに皇統の秘密が書かれていたのです

それは、誰にも知られていることだったと思います。が、

それをわざわざ事挙げする人麻呂を許せなかったと思います。
それが故に、草壁皇子が苦しみ、持統天皇が文武天皇のために身を挺して政を支え力尽きたことを、元明天皇は承知していました。
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人麻呂は流罪になりましたが、さらに刑死となりました。

それを甘んじて受けたことが、万葉集でも読み取れるのです。


またあとで





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by tizudesiru | 2016-11-21 11:33 | 164・持統天皇との約束・人麻呂ことあげ | Comments(0)

163・持統天皇の最後の願い・火葬と合葬

163・持統天皇の最後の願い

・火葬と合葬墓

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大宝2年十二月二十二日、持統天皇崩御

「続日本紀」文武天皇、大宝二年十二月条に

太上天皇、(かむあが)ぬ。遺詔(いせう)したたまはく

素服(そふく)挙哀(こあい)することなかれ。内外の文武の(つかさ)()()は常のごとくよ。

喪葬のことは、努めて倹約に従へ」とのたまふ。


持統天皇の火葬・天武陵への合葬

持統天皇の最後の願いは火葬であり、野口陵への合葬でした。

歴代天皇の中で、初めての火葬でした。

しかも、合葬墓です。

ここに、何かしらの違和感があります。

天皇位に上ったということは、神になったということですから天皇の葬儀は、神として葬送儀礼が行われ、陵墓が造られました。

ひとりひとりが一柱の神となって祀られてきたのでした。それなのに…
墓も作らず、骨のみを残し、霊魂となって飛び去ったのです。どこへ?
もちろん、天智陵へ向かって。

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天武・持統合葬陵は、山城の天智陵と経度がおなじです



天智陵→藤原宮・大極殿(白ポイント)→ 天武・持統合葬陵(青ポイント)

持統天皇は、「天智天皇の墓の真南に眠る」ことを希望したのです。なぜ?

もちろん、天智天皇と死後もつながっていたかったからです。

持統天皇にとって、淡海は忘れられない思い出の地でした。

草壁皇子を大津で生んでいます。

柿本朝臣人麻呂は「近江皇都の在れるのを哀しむ歌」を献じています。

なぜ、持統天皇は、天智帝をそこまで愛したのか。

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全て、持統天皇の出自、宿命に関わることです。
鬼のように冷静で、藤原氏と手を組んで、あまたの皇子皇女の運命を変えた女性として知られる持統天皇。その実像は、万葉集を読むと違ってくるのです。
ここで、いち早く持統天皇の最後を持って来たのは、他でもありません。
持統帝がいかなる宿世を持った人だったのか、考えてもらいたいからです。

紀伊国行幸に見られる有間皇子への強い追慕の念と、鎮魂の思い。持統帝は皇子の所縁の人としか思えません。
天武天皇の政権下では、寺院の建立が盛んでした。それは何故なのか。失った人が多くいたということでしょうか。
祖父の石川麿の山田寺(浄土寺)の再建だけではありません。

では、草壁皇子のために造った寺は?
(明日香村の岡寺は。僧義淵が造りました) 
一人息子の草壁皇子の死に接した時の持統帝の姿は、書き残されていません。
孫の軽皇子(後
の文武天皇)に、阿騎野で草壁皇子の霊魂に触れさせ、15歳で即位させ、自分は太上天皇として文武天皇を補佐し続けました。
そして、最後には天智帝(38代)と天武帝(40代)を結ぶように野口陵を造り、そのライン上に藤原宮を造営したのは、偶然ではありません。
更に、最終的に自身もそこに眠ったという、この軌跡から匂い立つのは、女性としての意思だと思います。

山城の勧修寺も、宇治の平等院も、禅宗の万福寺もこの直線に乗っています。
このラインの意味は、少なくとも十世紀の人までは知られていたということでしょう。



またあとで





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by tizudesiru | 2016-11-20 11:42 | 163・持統天皇の最後の願い | Comments(0)

157・持統帝の霊魂に再会した人麻呂

万葉集集・巻九の挽歌の冒頭の五首 

ここには、人麻呂の想いが凝縮されています。



157・人麻呂が偲んだ持統天皇 

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万葉集・巻九「挽歌」の冒頭の五首 


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挽歌の冒頭は『宇治若郎子の宮所』の歌でした。高貴な方の歌を冒頭に置くという形式を踏襲するための配置だったのでしょうか。いえ、人麻呂歌集に置かれた五首はセットです。一緒に並べたから意味があるのです。
そして、宇治若郎子の運命を有間皇子の運命と重ね、皇子が皇太子だったこと、父王に極位を譲られていたこと、無情にもその命を政敵により奪われたことを伝えたのです。
一首目は、寓意のある歌でした。
次が、

紀伊国に作る歌四首
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黄葉(もみじば)は、故人・亡き人のことです。人麻呂は、他にも『葉』と書いて、葉(もみじば)とも読ませています。

では、二首目


1796・黄葉の過ぎにし子らと携はり遊びし磯を見れば悲しも

もみじばのすぎにしこらとたづさはりあそびしいそをみればかなしも


亡くなってしまった愛する人と手を取り合って遊んだ磯を見ると悲しくて仕方ない。あの人は、確かにここに来た。
 

紀伊国で、愛する人と遊んだとき、その人は独りではなかったのでしょうね。


1797・塩気立つ荒磯にはあれど往く水の過ぎにし妹が形見とぞ来し

しおけたつありそにはあれどゆくみずのすぎにしいもがかたみとぞこし


浪が荒くて潮の香り立つ荒磯ではあるけれど、流れ去った水のように鮮やかに亡くなってしまったあの人の形見だからこそ、わたしは此処へ来た。

あの人の形見のこの地で、あの人の霊魂に会い、あの人の意思を確かめる為に、此処に来た。

更に、

塩気立つ荒磯に流れ去る水ののように亡くなってしまったあの人は、昔ここに来た。有間皇子の形見の地として、あの人はここへ来た。しかし、今わたしはあの人の形見の地として、ここへ来たのだ。

 

「形見とぞ来し」は重要な言葉です。霊魂に出会うための詞であり、行為なのです。次の「文武天皇の冬猟」のところでお話しましょう。

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1798・いにしへに妹と吾が見し黒玉の黒牛方を見ればさぶしも 

いにしへにいもとわがみしぬばたまのくろうしがたをみればさぶしも

以前、あの人と黒牛方を見た時、その真っ黒な岩を見ても寂しくはなかったが、今はあの人がいないことで、こんなにも悲しく寂しいのだ。

黒牛方の痕跡があるのは、和歌山県黒江です。藤白坂を下りたあたりの海に、人麻呂は来ているのです。 


1799・玉津嶋磯の浦みの真砂にもにほいにゆかな妹も触れけむ 

たまつしまいそのうらみのまなごにもにほいにゆかないももふれけむ 

紀伊川の下流域に浮かぶ数々の島の浦の真砂にもしっかり触れて行こう。その砂は、むかしあの人が何度も何度も触れて涙を流した真砂なのだから。私も真砂にふれて、あの人の想いを染みこませて帰ろう。

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人麻呂は、なぜ紀伊国に旅をしたのか。

愛する人を亡くした後に、その形見の地を訪ねたのか。

その思い出は、海で遊んだこと・黒牛方を見たこと。

このくらいの思い出の地を形見とするのは不思議です。

いえ、人麻呂は『故人が形見の地としていたところ』に来たのです。

同じ形見の地に。
持統帝が常に心を置いていた海辺に。


人麻呂は故人の心の裡に触れてしまっていたのです

二人が愛し合ったとは書いてない。

敬愛する人が触れた真砂にも触れて行こう、あの人が触れたに違いないから。

持統帝崩御後、人麻呂は万葉集の編纂をして、文武天皇(持統天皇の孫)に献上する約束を果たそうとしていた。しかし、人麻呂は躊躇していたのです。

なぜなら、そこに皇統の秘密が書かれていたから。
だから

文武帝に万葉集を献上してもいいのか、持統天皇の霊魂に確かめるために紀伊国に来たのでした。


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果たして、持統帝のこたえは?

このことは『人麻呂の我は事挙げす』で触れましょうね。




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by tizudesiru | 2016-11-14 11:17 | 157持統帝の霊魂に再会した人麻呂 | Comments(2)

156・人麻呂は女帝のために生きた

156・持統天皇のために

柿本朝臣人麻呂は生きた


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宇治若郎子は悲劇の皇子


宇治若郎子の宮所を詠んだ人麻呂


宇治若郎子の宮所の歌一首


1795 妹らがり今木の嶺に茂り立つ嬬待つの木は古人見けむ


いもらがり いまきのみねに しげりたつ つままつのきは ふるひとみけむ 

愛するあの子のもとへ「今来た」という意味になる今木の嶺に、茂り立っている松の木は、嬬(つま)を「待つ」の木であろうが、此処に住んでいた古人もこの松を見たのであろうか。


おや?

宇治若郎子は仁徳天皇の弟でしたね。

応神天皇の末子で、仁徳天皇と極位を譲りあった末に自ら命を絶つという悲劇の人。有名な自殺した皇太子の話でしたね。そして、此処には松が詠まれているのです。


これは、挽歌の冒頭です。

仁徳天皇の弟の宇治若郎子の宮所とは、何処でしょう。仁徳天皇は時代がかなり上り、日本書紀の記述で見ると4世紀となります。卑弥呼の少し後の時代です…? 

人麻呂はそんな古い時代の宮所の松を詠んだのでしょうか?


宇治若郎子自身の歌は日本書紀にも万葉集にもありません。

宇治若郎子は皇太子でしたが即位せず、三年間も兄と極位を譲りあい、ついに亡くなったのです。不自然でしょう。


ここに寓意が込められているのです

どんな?

皇太子でありながら、即位できなかった。身内により皇位を奪われた皇子である。誰かに似た状況ではありませんか。そう、有間皇子に、よく似ています。


有間皇子事件を宇治若郎子になぞらえて、人麻呂は挽歌に詠んだのです。


ここは、あの方がお住まいになっていた宮だが、もうあの方はいない。今木の丘に松が茂り立っている。愛しい人の許へ来たという「今来」という名は今となっては空しいが、今木の丘の上に……。松の木さえ、あの方を「いつまで待つ松の木」であろうが、あの松をあの方もごらんになったのだ。

 

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柿本人麻呂は、ちまたの噂通り、持統天皇を崇拝し愛していました。それは深い敬愛でありました。持統天皇の崩御後も霊魂に話しかけ、面影を追い続けました。

人麻呂の愛の証、それは万葉集の編纂と献上でした。人麻呂こそ初期万葉集を編纂した人なのです。
持統天皇のために編纂し、約束を守って万葉集を献上し、それが故に刑死したのです。

「すぎにし人の形見とぞ」 

すぎにし人の形見とぞ……これが人麻呂の歌を解く鍵になる詞です

人麻呂を想うと、この言葉が胸に突きあげます。
彼がいかに持統帝と萬葉集を愛したか。
それが故の刑死を甘んじて受けたのですから。刑死の年は、和銅元年(708)、刑を執行させたのは、元明天皇(阿閇皇女)でした。あの草壁皇子の妃であり、文武天皇の母、心優しい人でした。しかし、人麻呂に死を賜った…その事情は、おいおいお話ししましょう。万葉集を読みながら。
今は、人麻呂の話です。

さて、人麻呂は持統太上天皇崩御の後、再び紀伊國を訪ねました。なぜ?
もちろん「すぎにし人の形見」の地だから、その霊魂に会いに行ったのです。愛する持統天皇の霊魂に


万葉集・巻九の挽歌の冒頭歌

大宝元年(701)紀伊國行幸の歌は、巻九にありました。冒頭から有間皇子を偲ぶための編集になっていました。
同じく巻九の挽歌の冒頭の五首は、「右五首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出る」と説明されています。もちろん、人麻呂自身の歌です。
『宇治若郎子の宮所の歌一首』『紀伊国に作る歌四首』の五首です。

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宇治の都を詠んだ額田王 


宇治若郎子につながるような歌を額田王も読んでいます。二つの歌の『宇治』には共通点があるのでしょうか。


  額田王の歌(または皇極上皇の歌ともいう)


7 金野の 美草刈葺き やどれりし 兎道の宮子の かりほし念ほゆ

 あきののの みくさかりふき やどれりし うじのみやこの かりほしおもほゆ


「金」とは秋のことです。中国の五行説に基づいて秋を表した文字です。

秋の野で草を刈り取って屋根を葺き、仮廬をお作りになって、あの方が宿となさった、あの宇治の都の仮廬をずっと思い続けている


額田王が詠んだ宇治の宮子とはどこでしょう。

宇治若郎子に所縁の宮であれば、額田王も皇子の悲劇を詠んだと思われます。有間皇子を宇治若郎子に擬して、牟婁温泉に護送された時に草を刈り取って仮廬とした、あの悲劇の旅を詠んだとしたら、どうでしょう。

あの秋の出来事、もう寒くなっていたのに野宿のために草を刈り仮廬の屋根を葺かれた、高貴な方にはお辛い旅の宿であったろうに。秋になると、宇治の若郎子のように命を絶たれたあの方の仮宮を思い出してしまう。

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次は、人麻呂が紀伊国で詠んだ歌です。
彼が愛していたのは……


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by tizudesiru | 2016-11-13 12:32 | 156・人麻呂は女帝のために生きた | Comments(0)

155・持統太上天皇の紀伊国行幸の最終歌

155・紀伊國に止まず往来む


持統天皇の心緒を述べた行幸の最終歌

いよいよ紀伊國行幸十三首の最終歌です…

大宝元年・紀伊国行幸の最終歌では、何をどのように詠んでるのでしょう。

1679 紀伊国に止まず通はむ妻の杜妻よし来せね妻と云いながら
きのくにに やまずかよはむ つまのもり つまよしこせね つまといいながら

 紀伊国にはこれからも続けて通って来ます。ですから、妻の杜の神様、その名の通り「妻の杜」の神ならば、妻を連れてきてください。「妻」という名なのですから。

妻の杜に祈りを捧げたら、ひたすら都に戻るのでしょう。

ここで、捧げた祈りは、妻の杜の神に『神ならその力を見せてほしい。妻の杜なら、わたしの大事な妻を連れて来てほしい。その名のように』という、無理難題だったのです。

それも、次の行幸さえ危ぶまれる老女帝が「紀伊国に止まず通わん。」と、祈ったのでした。 

紀伊國には「止まず通って来たい」が十三首目、最終歌なのです。

それは、女帝の率直な願いでした。
では紀伊國行幸の十三首を振り返ってみましょう。

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いもがため われ玉もとむ おきへなる白玉よせこ 沖つしらなみ
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しらさきは さきくありまて おほふねに まかじしじぬき またかへりみむ
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みなへのうら しおなみちそね かしまなる つりするあまを みてかへりこむ
あさびらき こぎいでてわれは ゆらのさき つりするあまを みてかへりこむ
ゆらのさき しほひにけらし しらかみの いそのうらみを あへてこぐなり
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くろうしがた しほひのうらを くれないの たまもすそひき ゆくはたがつま
かざなしの はまのしらなみ いたずらに ここによせくる みるひとなしに

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わがせこが つかいこむかと いでたちの このまつばらを けふかすぎなむ

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ふじしろの みさかをこゆと しろたえの わがころもでは ぬれにけるかも
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せのやまに もみじつねしく かむおかの やまのもみじは けふかちるらむ
やまとには きこえもゆくか おほがのの たかはかりしき いほりせりとは
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きのくにの むかしさつおの なりやもち しかとりなべし さかのうえにぞある
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ここに見えるのは、持統帝の有間皇子への強い執着、亡き人への鎮魂の想いです。
鵜野皇女(持統帝)は有間皇子を知っています。心の深くで思い続けています。
持統天皇の子ども時代の呼び名は、鵜野(うの)皇女、宇野讃良(うののさらら)皇女などがあります。有間皇子事件は658年ですが、その時鵜野皇女は十三歳ぐらいです。

有間皇子は持統帝にとって、いかなる存在だったのでしょう。それが、紀伊国行幸を読む大きな動機でしたね。

有間皇子は持統天皇の所縁の人、親族である可能性は高いです。


では、

①鵜野皇女(持統天皇)は、有間皇子の妃(または婚約者)

➁鵜野皇女(持統天皇)は、有間皇子の妹

③鵜野皇女(持統天皇)は、有間皇子の娘

④鵜野皇女(持統天皇)は、父・天智帝に代わって有間の鎮魂をしただけで、有間皇子との血縁は薄い

以上考えられますが、あなたはどう思いますか。

わたしも、長くこのことを考えました。

私の結論は他の所でお話しします。
有間皇子とは何者だったのか、実はそれも万葉集で解けるのです。
そして、柿本朝臣人麻呂とは何者だったのかも。




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by tizudesiru | 2016-11-12 11:53 | 155・持統帝の紀伊国行幸の最終歌 | Comments(0)


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