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間人皇后の華麗なる生涯・光と影

間人皇女は十代で孝徳帝の皇后に立つ
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間人皇女は、舒明天皇と斉明天皇の間に生まれました。
乙巳の変(645)で蘇我氏本家が滅んだ時、中大兄皇子は十九歳の青年でした。間人皇女は中大兄の妹ですから、立后された時はうら若い乙女だったのです。孝徳天皇は推古五年(597)の生まれですから、間人皇女との結婚はかなりの年の差婚でした。高貴な姫君が恋をすることもなく、老人のもとへ輿入れしたと云うことです。
ですから、大人になるにつれて姫君の心は空しくなっていったでしょう。

華麗なる宮廷生活、しかし、皇女の心の空白は埋められなかった
白雉四年(653)、突然、兄の中大兄皇子が母の斉明皇太后と妹の間人皇后を連れて倭京に帰る事態となりました。そこには孝徳天皇と中大兄皇子との確執もあったでしょう。それは、東宮=皇太子に関わる問題だったかも知れません。であれば、中大兄皇子は自分だけ倭京に帰ればいいのです。しかし、皇后まで連れ出したとは…これは犯罪です。
この状況を古代の視点ではなく現代の視点で見れば、皇后は孝徳朝での宮廷生活に苦しみ精神的な限界に来ていたということではないでしょうか。見かねた兄が救いの手を出した、それに母も賛同した、ということです。しかし、同時に、


皇后の家出は、政治の改革に努力していた孝徳天皇にはダメージだった
若い皇后を気遣う時間が少なかったとしても、孝徳天皇は皇后を大事にはしていたのです。ですが、基本的には対等の夫婦というより「金木つけ吾がかう駒は引き出せず」ですから、皇后は後宮の飾りの一つのようなものだったのでしょう。それが故に、皇后が家出したのです。前代未聞のことでしたから、孝徳天皇は激怒し極位を下りるとまで言い出しました。

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孝徳天皇の最後をみとった間人皇后の決断
白雉五年(654)、心労がたたり孝徳天皇は病に倒れました。中大兄皇子は皇后と共に見舞いに訪れます。そこで間人皇后の目に映ったのは、弱り果てた老いた天皇の姿だったでしょう。そこで、孝徳天皇は毅然として言ったはずです。

「□よ、あなたには大変つらい思いをさせた。しかしながら、あなたは皇后(大后)である。皇后である以上天皇(大王)亡き後は玉璽を守らなければならない。それを、次の天皇に継承するという役目がある。全てあなたの肩にかかる大事だが、あなたはやり通さなければならない。」*□は間人皇后の実名
間人皇后は改めて自分の置かれた立場を理解し、皇后として自覚したでしょう。そこで、「後宮」が次の天皇に引き継がれることも確認したと思います。大勢の役人も後宮の女官もお払い箱にはなりません。
皇后が明日香に戻ったという記事はありませんから、間人皇后は改めて「皇后」になる決心をしたと思います。次の天皇がすべてを引き継ぐまで。
この時、東宮=皇太子は誰だったのでしょう。中大兄皇子が難波宮を去った時に東宮がどうなったのか、書紀には書かれていません。が、有間皇子が皇太子になっていたと思われます。


「後宮」の間人皇后を支えたのは有間皇子だった
皇后が帰ってきても、天皇崩御ともなれば役人も女官も複雑な思いだったでしょうね。そこで、中宮天皇となった間人皇后を支えたのは皇太子=有間皇子だったと思います。万葉集で中皇命は有間皇子を「吾が背子」と詠んだのですから、かなり近しい間柄だったと思います。

しかし、中大兄皇子から見れば由々しき事態です。妹が中宮天皇となったことには異存はなかったでしょうが、孝徳帝の息子にすべてが移譲されることは納得できなかったでしょう。
そこで、皇后=中宮天皇への不敬罪・不謹慎な行為が取り上げられたと考えます。連行された有間皇子に対して中皇命=中宮天皇は、何とか助けたいと「孝徳天皇の遺詔」を以って追いかけたから「紀伊国に往す」となったのです。

万葉集巻二の冒頭歌・磐姫皇后の「難波天皇を待ち続ける歌」は、この事件を暗示しているのです。難波天皇が連行された理由は、前歌に続く
軽太郎皇女の歌が示すように「禁断の愛」だったでしょう。磐姫皇后と軽太郎皇女の歌は、偶然並んだのではありません。難波高津宮天皇とは、後に贈られた有間皇子の諡号かも知れませんね。
(また、有間皇子の父・孝徳天皇は、皇子とよばれました。木梨皇子や太郎女皇女とも「」という名で有間皇子事件を引き出そうとしていると思います。)
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(丹後半島・間人の祭り)
有間皇子事件後、間人皇后は間人(たいざ)に身を隠した
丹後半島の間人(たいざ)には、聖徳太子の母・穴穂部間人皇后が身を隠したという伝承があると紹介しました。それも、聖徳太子の母ではなく、孝徳朝の間人皇后の伝承ではないかと書きました。聖徳太子信仰の高まりの中で、間人皇后に「穴穂部」が付いたと云うことです。「御所・中宮」と付く場所が伝承地として残されていることもありますから、ここに高貴な女性が来られたのは事実でしょう。
さて、どちらの皇后でしょう。まず、穴穂部間人皇后ですが、弟の穴穂部皇子が物部守屋に三輪君親子を殺させたり(586)、守屋と組んでいた中臣勝美が殺されたり(587)と、物部蘇我の争いが続きました。穴穂部皇子が馬子に殺され(587)、遂に物部守屋も蘇我氏との戦いに敗死(587)しました。この間、用明天皇が崩御(587)し、崇峻天皇が即位(587)しました。穴穂部皇子も泊瀬部皇子(崇峻天皇)も穴穂部間人皇后の弟です。夫が病気・弟が皇位継承の時期に、一人丹後半島に避難したと云うことですかね。
孝徳朝の間人皇后は、有間皇子が殺害された(658)後、中宮天皇として玉璽を持って逃げたとしたら、その住まいは「御所」と呼ばれ、「中宮」と崇められたことでしょう。こちらが、より伝承に近づくと思います。そして、伝承は拡散し膨らんでいったのです。

物語や伝承は、どんどん膨らんんでいく
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万葉集巻十三に木梨軽皇子の歌が掲載されています。3263番歌ですが、「古事記」の允恭記の「軽太子と衣通姫」の歌謡にそっくりです。少し違っているのは「国にも 家にもゆかめ 誰がゆえか行かむ」のところで、古事記では「家にも行かめ 国をも偲はめ」となっています。古事記には、「反歌」「或本の反歌」は有りません。後期万葉集の巻十三が編集された時、古事記(712年完成)は既に出来上がっていますから、古事記の歌謡をもとに造られた物語歌ですね。。古事記では上の長歌の後に「かく歌ひて、すなはち共に自ら死にたまひき」となっています。軽太子の悲劇をなぞりながら、人々は少しずつお話を付け加えていくのですね。後期万葉集になると、叙事詩にかなり脚色がなされるようです。

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by tizudesiru | 2018-01-17 21:08 | 319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや | Trackback

孝徳天皇の難波宮から聖武天皇の難波宮へ激動の百年

孝徳天皇の難波宮から聖武天皇の難波宮へ激動の百年
藤原宮は15年で捨てられたが、難波宮は生き延びた
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(大阪城南・難波宮址)
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(歴史博物館画像・難波宮)
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難波宮は交通の要衝にあり、外交・経済活動の要の地にありました
何処と深くつながっていたか、ラインで見ましょう

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東西に意味があるなら、藤原氏が難波宮の真東に社殿を建てた理由はひとつ
藤原宮は捨てられましたが、難波宮は長く使われ続けています。平城京遷都を計画した時、為政者にとって難波宮はどのような意味があったのでしょう。春日大社の位置を考えれば、その答えは自明のことでありましょう。

難波宮から見ると平城京はほとんど真東に当たりますが、難波宮大極殿に対応するのは平城京の大極殿ではないのです。難波宮大極殿からの東へラインを引くと、東西の関係に収まるのは藤原氏の氏神・春日大社です。春日大社は難波宮の位置を意識して造られたのです。藤原氏の氏神と孝徳天皇霊の霊的な一体化です。
聖武天皇は難波宮を副都としましたから、難波宮はずっと重要な位置に在りました。

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新しい体制(律令政治)への転換を目指して「大化の改新」の詔をだした孝徳天皇の難波宮。そこは、律令政治の出発の地であり、理想の地でありました。
律令政治を藤原鎌足も孝徳天皇と共に目指しました。豪族の合議ではなく、律令によって国を動かす。富の分配を豪族以外で行うためには、律令が必要でした。
春日大社の社殿の位置は、鎌足と孝徳天皇(軽皇子)は深く結びついていたと強調したかったから選ばれたのでしょう。

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孝徳天皇の難波宮は人々を驚かせた
第一次難波宮は掘立柱の宮殿でしたが、「表現できないほど素晴らしい」と人々を驚嘆させました。この難波宮を詠んだ歌が「難波津の歌」であると、去年このブログでも書いています。仁徳天皇の代を寿ぐ歌ではなく、孝徳天皇の宮を寿ぐ歌に他ならないと。
発掘された難波宮の壮大な宮殿跡を見ると、「大化改新はなかった」などとは思えません。大化改新の詔は、孝徳天皇の理想が具現化したものに違いないでしょう。藤原鎌足は孝徳天皇(軽皇子)と理想を語り合っていました。
(鎌足は軽皇子を尊敬していたし、皇子も鎌足を気に入っていたのです。)
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その後、難波宮は火災にあいながらも存続し続けました。天武天皇も持統天皇も難波宮を使いました。文武天皇も行幸しています。
瓦葺の第二次難波宮の宮殿は、第一次難波宮とほぼ同じ位置に同じ配置で造営されました。奈良時代には、藤原氏は鎌足と軽皇子を結びつけ、春日大社の地を大極殿の真東としたのです。東西ラインは難波宮の重要性を肯定していますが……他のラインはどうでしょうか。

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不思議なことに、難波宮は平安時代の「延喜式式内社」に挟まれているのです。
延喜の帝(醍醐天皇)の代に奏上された延喜式、その中の式内社の中でも官より奉幣されるべき名神大社がありますが、その名神大社に難波宮が挟まれるという、由々しき事態になっているのです。

醍醐天皇は、皇統が切れそうになった時、皇籍に復帰された宇多天皇の御子で、宇多天皇の在位十年に譲位を受けた天皇でした。そして、どうしても果たさなければならない使命が、皇統の継続と維持でした。だからこそ、全国の神祭りを見直し、皇統の弥栄と継承を祈るための神社が選ばれました。
皇統への祟り神は封じ込められ、退座させられ、古代の氏族が祭祀する神々の霊力は断ち切られました。そのために式内名神大社は配置されました。(このことを紹介することが、このブログを始めた理由でもありました)
古代には霊力は信じられていたし、それは日常生活も政治も経済も左右したのでした。


画像を見てください。
下鴨神社・御所・酒解神社・難波宮・生国魂神社のラインは、難波宮大極殿を見事に挟みます。下鴨神社など三社は、みな式内名神大社になります。式内社の三社に挟まれることは、めったにありません。しかもラインは天皇のお住まいそのものを通ります。すると、御所と難波宮は三か所の式内社の霊力で守られたことになりますね。

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舒明天皇・天智天皇・持統天皇が詠んだ天香具山にもラインが届く
また、明日香の天香具山と結ぶと、越智神社(若干ずれている)を通り、藤原宮の大極殿をラインが通ります。平安京・平城京・藤原宮がこんなラインで結ばれるとしたら、どんな意味があるかわかります。藤原宮の大極殿(白ポイント)を通るのですからね。

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不思議なことに、天香具山と結ぶと藤原宮が、下鴨神社と結ぶと御所が取り込まれるのです。こうして、十世紀には三都は新しい物語に組み込まれていくのです。
ラインは自然にできたものではありません。その時代を生きた為政者の切なる願いや、暗躍する野望を背景に作られたものなのです。
孝徳天皇崩御の654年から聖武天皇崩御の756年の約百年間、その後も難波宮は激動の時代をずっと見まもりました。藤原宮や平城宮より長く存続した宮処なのです。
それは、万葉集のほとんどの歌が詠まれた時期ともだいたい重なります。

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あらためて、難波津の歌を読みかえしましょうか。孝徳天皇を偲びながら。


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by tizudesiru | 2018-01-07 12:30 | 316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮 | Trackback

飛鳥の明日香と呼ばれた霊魂の地が二ヵ所ある理由

飛鳥はいつからアスカと呼ばれたのか
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(藤原宮から天香具山)

和銅三年、「飛鳥の明日香の
里を置きていなば」と別れを惜しみ、元明天皇は明日香を去りました。

和銅三年(710)には、[飛鳥(とぶとり)の明日香]という言葉が定着していたのですね。
しかし、古事記(712年撰上)・日本書紀(720年撰進)では、アスカは「飛鳥」で統一されてます。712年頃までに「飛鳥」は、「とぶとり」ではなく「アスカ」に変わったのです。元明天皇は古風な言い回しを用いて古京を懐かしんだのでしょう。

それにしても、社会科では「あすか時代」を飛鳥時代と書き、博物館のこの時代の仏像にも「飛鳥仏」と書かれています。飛鳥(とぶとり)をアスカと読むようになったのは、いつからでしょう。

ブログにも書きましたように、万葉集には「飛ぶ鳥の明日香」は四例、それは柿本人麻呂の川嶋皇子の挽歌(持統五年・691年)、同じく人麻呂の明日香皇女の挽歌(文武四年・700年)、平城宮遷都の時の元明天皇の歌(和銅三年・710年)、巻十六の由縁雑歌(後期万葉)に一例です。

「飛ぶ鳥の明日香」は、限られた地域の限られた意味を持つ言葉となっています。しかも、挽歌と結びついた言葉です。元明天皇も死別した夫や息子を「君があたりは見えずかもあらむ」と偲びました。やはり亡き人につながります。「飛ぶ鳥の」を美称とかたずけるわけにはいかないでしょう。「アスカは亡き人を思い出させる地」として、霊魂の地「アスカ・飛鳥」となったのです。
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また、人麻呂が草壁皇子(持統三年・689年)の殯宮で詠んだ歌には「飛ぶ鳥の浄(きよみ)の宮」とありますから、「飛ぶ鳥の明日香」はまだ使われていません。
とすると、「飛ぶ鳥の明日香」が定着したのは、持統三年から五年の間となりましょう。「飛ぶ鳥の浄の宮」は、人麻呂にとっても、万葉集にとっても大変重要な言葉となります。

ただ、丁丑年(天武六年677年)十二月上旬に葬ったと記されている小野毛人墓誌銘に「飛鳥浄見原宮治天下天皇」とあり、丁丑は天武六年(677年)となるのです。が、この墓誌の作成年次には疑問が持たれています。後に作られた墓誌だというのです。
大方は、明日香が「飛鳥」と定着したのは、天武天皇の御病が重篤になった時、平癒を願って「朱鳥」と改元され、宮を飛鳥浄御原宮というようになったからだと日本書紀(720年)に書かれていますから、これを支持しています。


遠津飛鳥は捨てられた…蘇我氏の残像を払う為に
考えてみると、不比等はなぜ明日香を選ばなかったのでしょう。
平城宮遷都は「藤原不比等の暗躍の結果だった」と、このブログで書きましたが、明日香を捨てる理由は何でしょう。藤原氏所縁の談山神社も近くにあって、鎌足の産湯井戸跡もあるし、大原(小原)は藤原氏の出身地だったようですし。更に、中大兄皇子と藤原鎌足には「乙巳の変」の所縁の土地が方々にあります。でも、明日香は都として選択されなかった。
一つには、都を大きくするには飛鳥は狭かったし、水の供給に問題があったと云われています。確かに、明日香川の水では十分ではなかったでしょう。

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(明日香川のながれ・甘樫の丘の北)
しかし、飛鳥を切り捨てる理由はもっと他に、深い意味があったのではないでしょうか。そこには蘇我馬子も住んだという嶋荘には嶋宮という宮殿があり、岡宮があり、浄御原宮があり、天武朝の宮が集中していました。が、何より蘇我稲目以来の蘇我氏の影も強く残る土地だったというのが大きかったのではないでしょうか。昔は、大伴氏も中臣氏も蘇我氏の組織の中に組み込まれていたのですから。
だから、

蘇我氏の残像を捨て去ること、それが遷都の最大の目的だった。
舒明天皇の墓を押坂内陵(八角墳)に改葬した理由も、「明日香からの切り離し」です。天智帝と同じ八角墳にしたのは、同じ皇統であることを強調するためです(元の陵墓は明日香にあったが改葬されたとすると、そこは…)。
推古帝と竹田皇子の合葬墓も明日香から「近津飛鳥」に改葬された(前方後円墳ではなく方墳として改葬した)ということです。方墳ですから、舒明帝の八角墳とは形式を変えています。選ばれたのは、近津飛鳥でした。

近津飛鳥と呼ばれるようになったのは、いつ?その理由はは何か?
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用明天皇陵(方墳)も、孝徳天皇陵(円墳)もなぜか近津飛鳥に在ります。それも、改葬されたからです。同じく王家の墓を「明日香」から切り離したかったからです。
かし、王墓の改葬ですから、簡単に実行できません。だから、人々を納得させる(欺く)ために、都に近い霊魂の地として「近津飛鳥」と呼んだのです。「飛鳥」は奈良朝が作りだした「当て字」でしょう。
要するに、明日香に残したのは、蘇我氏と天武朝の人々の墓だった(天武持統陵は「八角墳」)……それが奈良朝の藤原(不比等)氏の構想でした。

誰かが計画し実行しなければ、なんとなく墓が改葬されるはずがありません。すると、舒明・用明・推古の陵墓の改葬は、ある時期(それは奈良時代か)に一斉に実行されたと云うことになります。それは、「近つ飛鳥」という呼び名から分かります。近い遠いは都を基準に使われましたから、「近津飛鳥」は明日香より平城京に近い明日香の意味です。そして、飛ぶ鳥が「飛鳥(あすか)」となった。
理由は様々にあったでしょうが、ある権力者は藤原宮の人々(天武朝)の霊魂を明日香に残した(藤原氏が封じた)ままにしたかったのです。

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(叡福寺・聖徳太子陵墓)
とすると、聖徳太子陵が近津飛鳥に在ることは不思議なことになります。

孝徳天皇の墓は聖徳太子廟ではないか

大王ではないのですから、聖徳太子が実在でも改葬の必要はないのです。では、叡福寺の陵墓は、誰の墓なのか。それは、もちろん孝徳天皇の改葬墓です。他に該当する天皇はありません。石室の構造、石室の切り石からして終末期、石棺の台には格狭間(こざま)が彫られていました。明らかに後世の仏具の装飾でした。すると、聖徳太子墓では有りえません。更に、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后(聖徳太子の母)も一緒ですからね。
大胆な説ではなく、孝徳天皇の改葬墓と考えたが自然なのです。三骨一廟の三骨とは、孝徳天皇・間人(はしひと)皇后・斉明天皇以外には考えられません。二人の女性は斉明天皇と間人皇后で、牽牛子塚古墳からの改葬です。この二人を明日香に残したままにするとは考えられません。舒明天皇陵の改葬をしたのなら、其の皇后(斉明天皇)の墓も改葬するはずでしょう。

改葬されたのです、二人の女性も近つ飛鳥に、「孝徳天皇の玉璽を守り、天智天皇に渡した中宮天皇として」間人皇后も合葬されたと考えるのが自然です。同じ間人皇后ですから、後の人々は伝承としての「穴穂部間人皇后」と名前の点で混同したかも知れません。
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これで、昨年から書いて来た「永福寺の聖徳太子陵墓の謎」の一部を書いたと思います。叡福寺聖徳太子陵の不思議については、去年のブログを見ていただきたいです。
昨年は、謎だらけであることを紹介していました。

明日香はなぜ「飛鳥」となったのか、それは何時なのか、いかなる意図があったのか、それと「飛鳥」と呼ばれる「近津飛鳥」はどうつながるのか、書きました。

七世紀から八世紀の王墓の改葬がなぜ多いのかも絡んでいましたが、そこには大王家と結んだ藤原氏の大きな野望と創作したい物語があったのです。
その物語の創作は、日本書紀を正史にする上に欠かせない作業だったのかも知れませんね。



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by tizudesiru | 2018-01-05 14:22 | 315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬 | Trackback

190間人皇后の愛と悲劇(2)

190間人皇后の恋

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なぜ、間人(はしひと)皇后(こう)(とく)ったしょう

書紀によると、孝徳帝は皇后に歌を送って言われました。

金木(かなき)()(こま)()()吾が人見(ひとみ)

あれほど大事に後宮の奥深くに置いて人目に触れないようにしていたのに、貴女を人が見たというのか(誰かがあなたに手を出したというのか、その事で貴女は後宮を去ったのか)

「見る」という行為は、万葉集の時代「眺める」ではないのです。皇后が誰かを愛したのではないかと、後宮であってはならないことを問いかけている歌です。世間では、間人皇后が愛したのは中大兄皇子だと云われています。

そうでしょうか。

であれば、大スキャンダルで中大兄皇子は極位には着けません。

わたしは、皇后の愛した相手は兄ではないと思います。

中大兄はそんな危ない橋は渡らない、用意周到な計算高い人で、あの藤原鎌足が見込んだ男です。鎌足は孝徳帝から中大兄皇子に乗り換えたのですから。

間人皇后の相手は中大兄皇子ではありえません。

大后(おほきさき)は、後宮中宮トップ地位にあ

その大后が仕えていた者を引き連れて、(さい)明皇太后(めいこうたいごう)難波宮内裏(だいり)ガランしょう。のお引越ん。孝徳帝絶望し、国位たい山崎(やまさき)山城(やましろ)乙訓(おとくに)山崎(やまさき)郷)す.

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白雉年(651)、難波宮はその異様なまでの大きさで人々の前に顕れていました。この年、孝徳天皇は新宮に遷り、難波(なにわの)長柄(ながらの)豊崎宮(とよさきのみや)(なづ)けました。難波は、大変ったしょうね。

大化改新(645)(みことのり)により新体制の政治が始まり、人々は期待っていしょう大スキャンダルってた。

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(この大極殿の北に内裏がありました)


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by tizudesiru | 2017-01-04 12:24 | 189間人皇后の愛と悲劇 | Trackback

188孝徳天皇の難波宮を寿ぐ

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188孝徳天皇の難波長柄豊崎宮を寿ぐ歌

わたしには、大化の改新の中心的存在であった孝徳天皇の御代の歌が万葉集中に一つもないことに疑問を持っていました。それは、何故か?

①孝徳天皇に歌の素養が無く、残されるべき歌がなかった。

しかし、書紀には孝徳天皇自身の歌が残されている。

➁万葉集編集者は、孝徳天皇の御代の歌を取り上げたくなかった。

孝徳帝の息子の有間皇子は繰り返し追慕され、後の世まで偲ばれている。

③孝徳天皇の御代の歌がないのは、単なる偶然である。

4500首の中に一首も無いのは偶然だろうか。

④元は孝徳天皇の御代の歌はあったが、後の世に意図的に削られた。

意図的に削ったのは誰か。その人物の削りたい理由は何か。

①②③④のいずれも問題あり、ですね。

しかし、わたしは④だと思っているのです。平城(なら)(みかど)万葉集と、文献てい万葉集編集の手を入れることができた人は、平城天皇です。家持死して二十年後のことでした。


そこで、平城天皇は確認されたでしょう、万葉集編纂の意図を。

元明天皇が激怒した理由も十分に承知されたでしょう。

そこに書かれていたのは、「天武から天智の皇統に皇位が戻ったことを易姓革命」と認識している桓武天皇の皇統にも、触れたくなかった何かということでしょうか。


そこで、桓武帝の皇子である
平城天皇が、万葉集に詔により大きな編集のメスを入れさせた、と思います。結果として、孝徳天皇の御代の歌が消えた。


しかし、です。

そのゴースト(影)は残ったのです。

孝徳天皇の名前が、仁徳天皇にすり替えられた。

何と畏れ多い、しかもゾッとするスリリングな話、と思われたでしょうか?


ですが、仁徳天皇を孝徳天皇に変えて読むと、万葉集の歌が生き生きとある歴史的な事件を伝えていることに気が付くのです。

それは、興味本意な面白さを追求した読み方になるのでしょうか。

この万葉集に込められた鎮魂の思いとドラマに、わたしは何度も泣きました。

万葉集は高貴な女性のために編まれた歌集です。

持統天皇の思いが溢れています。そして、額田王や鏡女王や元明天皇の切なる思いが、愛するものを奪われた悲しみが、読み手の胸を打つのです。


大伴家持は初期万葉集の意図と意義を十分に分かったうえで、藤原氏の陰謀を告発したのです。

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ということで、以前紹介した大阪城の前に広がる難波宮を思い出してください。難波宮は何度も皇居となりました。孝徳天皇・天武天皇・聖武天皇の御代に。


特に、
孝徳天皇の時代には、掘立柱の巨大な宮殿が造られました。

藤原宮や平城宮のような形式の宮殿なのです。

「形容のしようがないほどすばらしい」と云われた孝徳天皇の難波長柄豊崎宮を寿ぐ歌こそ、難波津の歌なのです。

文化の起点は難波宮に在ったからこそ、難波津の歌が古今集に取り上げられ、かるた競技の始めに詠まれるようになったのです.



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では、孝徳天皇の物語も紐解いていかなければなりませんね。そして、家持が告発した藤原氏の悪行にも迫らねばなりません。政変のはざまではかない命を燃やした美しき女性たちの物語を、やはり共有したいと思います。
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誤解を招きそうなので、付け加えます。難波津の歌は、古今集の仮名序に紹介されている歌です。仁徳天皇の御代の始まりの歌とされています。ここにも、仁徳帝の名が使われていますが、(それなら、万葉集に掲載されてもいいでしょう)歌の通りに天皇の御代の始まりの歌なら、孝徳帝の難波の宮こそふさわしいと、わたしが思ったということです。
では、また明日



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by tizudesiru | 2017-01-02 15:32 | 188孝徳帝の難波宮を寿ぐ | Trackback

187難波宮を寿ぐ歌

187孝徳帝の難波津の歌



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「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の歌は、

孝徳天皇の難波長柄豊崎の宮を寿ぐ歌ですよね!」

というと、こんな返事が帰って来ます。

「嘘! 難波津の歌は、仁徳朝を寿ぐ歌でしょう?!」

さて、どうなのでしょう。


聖帝としておなじみの仁徳帝の都は難波高津宮でした。それは、大阪城の辺りと言われています。確かに、孝徳帝の難波長柄豊崎宮に遺跡が重なるようにも見えます。


仁徳天皇の高津宮は何処だったのか、平安時代にも分からなかったのです。

貞観八年(866)、勅命により難波高津宮跡が探索され、その地に(今の大阪城の辺り)に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったという。しかし、豊臣秀吉が大阪城を築城する際に、現在地(比売古曽神社の境内に遷座し、比売古曽神社を地主神として摂社とした)に遷し難波高津神社とした。

平安時代の発掘調査が現代のような信頼のおけるものでなかったことはわかりますが。それにしても、大阪城の辺りにそれらしい遺構があったということですかねえ。


仁徳天皇の出自・父は応神天皇

仁徳天皇は、応神天皇(誉田(ほんだ)(わけ)天皇)の第四子でした。

仁徳(にんとく)天皇(なかつ)(ひめ)す。

誉田別天皇は、(じん)(ぐう)皇后のおなかの中に長くとどまらせ出産を遅れさせて生まれた天皇として知られています。

誉田別天皇(誉田天皇)宮・明宮(大隅(おおすみ)宮)軽島(かるしまの)豊明宮(とよあきらのみや)(奈良県橿原市大軽町に比定)難波にも大隅宮(東淀川区大隅・または中央区)古事記には軽島之明宮となっている。七一歳で即位百十一歳で崩御。


父の誉田天皇は、末子の
菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)皇子皇太子大山守(おおやまもり)皇子不服謀反大鷦鷯(おおさざき)皇子謀反を知り郎子郎子大山守た。皇子書紀てい


兄を倒したにもかかわらず、三年間も大鷦鷯尊と皇位を譲りあい菟道稚郎子は即位しませんでした。そして、ついに自殺してしまいました。

a0237545_21490099.png

このような不可解な事件後に仁徳天皇が即位したのです。


民の
竈門(かまど)ない御覧った仁徳帝三年間ったという聖帝てい


仁徳帝の宮の修理は、仁徳十年からです。

さて、「難波津に」の歌は、仁徳帝のどの時点で詠まれたものでしょうか。

a0237545_21501883.png

ボロボロの宮室を見ながら、「さあ春になりました。ここ難波津に咲いている木の花は、長い冬をじっと耐えていましたが、春になったので今こそ良い時期だと咲き香っているのです。この花のように咲きほこってくださいませ」と帝の御代を詠んだというのでしょうか。


これも若干…不可解な話ですね。



今年は難波宮でスタートです。また後で
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by tizudesiru | 2017-01-01 12:46 | 187難波宮を寿ぐ歌 | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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