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181藤原不比等とは何者か(1)

181藤原不比等とは何者か?

不比等は、天武天皇(40代天皇)の嬪であった妹の藤原夫人(ふじはらのぶにん)と密通の上、麿(695生)をもうけています。

天武天皇崩御(686没)から十年近く立っているとはいえ、不比等は異母妹と天武天皇の関係をどう思っていたのでしょうね?

天武天皇と藤原夫人の歌を万葉集に見ましょう。

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天武天皇(四十代)から藤原夫人へ賜う御歌

巻二103・わたしの住んでいる大宮に大雪が降った。そちらの住まいの大原の古い里に降るのは、もっと後であろうな

 

藤原夫人(五百重娘)のこたえ奉る歌

巻二104・それはわたくしの岡の神に言いつけて降らせた雪の、そのくだけたものがそちらにも散り敷いたのでしょうね。 

二人は楽しそうにやり取りをしています。藤原夫人は、天武帝が心許した女性だったのでしょうか。

天武帝の死後、この異母妹に不比等は近づいたのでした。

後宮は、女帝である持統帝の治世では機能していなかった。婦人たちはバラバラになったのでしょうか。

不比等は、父の藤原鎌足の鏡王女や安見兒に対する態度とは全く違いますね。
不比等は図々しすぎませんか。本来なら、秘話として処理されたでしょうに。麿は藤原四兄弟の末っ子になっています。少しも隠されていないようですね。

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不比等の母は誰か

千年の長きにわたって、藤原氏が朝廷の重臣であり、皇室との関係を保ち続けてきたのは、異常というか奇跡でしょう。道筋を開いたのは、不比等でしょうか。

不比等は鎌足(669没)の二子であり、壬申の乱(672)には参加していません。乱の当時は十五歳。その母は?

興福寺縁起には、鏡女王が不比等の生母(創作説もあり)とされています。

興福寺は、平城京の別区のようになっている藤原氏の氏寺です。

なぜ、興福寺縁起に鏡女王生母説が出て来たのでしょう? 

高貴な出自の鏡女王の名が必要だったとしか思えません。

 

前回のブログ(180)に書いた鏡王女は、その出自もはっきりしていません。名前の記述も、鏡王女(万葉集)、鏡姫王(日本書紀)、鏡女王(興福寺縁起・延喜式)と微妙に違っていて、同一人物ではないとする説があります。

天武十二年(683)、天武天皇が鏡王女の病気を見舞っています。それは、女王薨去の前日でした。もちろん後宮の女性ではありません。

天皇が病を見舞うとは、鏡王女は特別な女性ですね。天武天皇にもゆかりのある女王なのです。

興福寺縁起では、この鏡女王が不比等の母だというのです。なぜでしょう。車持国子君の娘が不比等の母ではないのですか?


長いので次にまわします。
また、後で




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by tizudesiru | 2016-12-21 14:56 | 181藤原不比等とは何者か(1) | Comments(1)

178天武帝の霊魂は伊勢へ

178天武天皇崩御の八年後の持統帝の御歌

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天武天皇崩御の八年後(693)の九月九日(天武帝の命日)御斎会(ごさいえ)の夜、持統天皇の夢の中に詠み覚えられた御歌一首が、万葉集にあります。御歌なので皇后としての持統天皇の歌となります。

持統天皇の歌は162番歌は、草壁皇子の挽歌167番より前に載せられていますが、現実には草壁皇子の歌の方が時期的に先に詠まれたものです。


草壁皇子薨去(689)の方が、天武帝崩御の八年後(693)より早いのです。
持統帝は人麻呂の歌を夢の中で思い出したのかも知れません。
草壁皇子の挽歌の「高照らす日の皇子は飛ぶ鳥の浄の宮に神ながら太しきまして」と同じ言葉を使っています。      

では、夢の中での一首


162 明日香の
(きよ)御原(みはら)の宮に天の下知らしめしし ()(すみ)しし(わご)大王(おほきみ) 高照らす 日の皇子 いかさまに おもほしめせか 神風(かむかぜ)の伊勢の国は おきつ()も ()みたる波に 塩気(しおけ)のみ 香れる国に (うま)こり あやにともしき 高照らす 日の皇子


明日香の浄御原の宮に天下をお治めになられた、支配者である我が大王は、高きより天下を照らす日の皇子であるのに
どう思われたのだろうか、神風の伊勢の国は沖の藻も靡いている波の上を、塩の気のみが漂い香っている国。そんな国に(何故行かれたのか)。言葉にできないほど慕わしい高照らす日の皇子が…


この歌は中途半端だそうです。夢の中での歌だから、言葉や思いが尽くされていないのでしょうか。
それにしても


日の皇子である天武天皇が行かれたのは、塩気のみが香る伊勢の国でした。


持統天皇にとって、天武帝が伊勢国へ行くとは理解しがたいと、いうのです。伊勢とは、壬申の乱で天武に加勢した神の坐す土地で、天照大神を祀る神社のある土地です。壬申の乱後に、天武帝は皇女を斎宮として送りました。


最近こそ二千年の神祀りの神社とか平気で報道しているけれど、伊勢神宮が歴史に登場したのは新しいのです。



更に、明治になるまで、伊勢には天皇の参拝がなかったという。


その伊勢に、天武天皇の霊魂が行かれたというのですから意味深ですね。


伊勢神宮は天武天皇にとって、皇室にとって大事な神であり、氏神の神社であったのです。一般の人が願い事をすることも禁じられていました。


そういえば、万葉集に詠まれる神社には「石上神宮」がありましたね。石上神宮は物部氏の神社で、ご神体は剣(空を切る時のフッという音から、フツ主の神ですね)

とすると、弥生の神であった鏡と剣と玉を祖先神とする氏族のルーツは、北部九州なのですね。


天武天皇は九州と深い関係があったのですね。最初の妻は宗形氏の娘です。息子の高市皇子は「藤原宮」の瓦に、九州の観世音寺や大宰府政庁と同じ文様の複弁蓮華文の軒先丸瓦を葺いています。

九州との繋がりを意識していたのでしょうね。

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観世音寺の軒先丸瓦と軒先平瓦
写真は「一瓦一説」(森郁夫)の写真をデジカメで撮ったもの





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by tizudesiru | 2016-12-14 11:32 | 178天武帝の霊魂は伊勢へ | Comments(0)

177持統帝と天武帝の絆の深さ?

177持統帝と天武帝の絆の深さ?

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持統天皇と天武天皇の合葬墓は、野口王墓(写真はNHKの映像をデジカメで撮影)

天智陵の真南に天武陵があります。
天智陵を改葬したのは文武天皇(持統天皇の孫)でした。天智陵は藤原氏の土地に築造されているそうです。藤原氏は持統天皇と天武天皇に仕えたのです。

さて、藤原氏は天智帝の腹心の部下であったと何度も書きました。
しかし、藤原不比等は持統帝に仕え、目覚ましい出世を遂げました。

では、不比等は天智朝を滅ぼした天武朝に忠誠を誓ったのでしょうか。

気になるところですよね。ですが、今回は天武天皇と持統天皇の絆です。


天武天皇崩御の時、持統大后の御作歌


まず、持統帝が天武帝の崩御の時に詠んだ歌を見てみましょう。

天皇(かむあが)りましし時、大后の作らす御歌一首


159 八隅しし 我が大王の 
(ゆう)されば 召し賜ふらし 明けくれば 問ひ賜ふらし (かむ)(おか)の 山の黄葉を 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも 召し賜はまし その山を 振りさけ見つつ (ゆう)されば あやに哀しみ 明けくれば うらさびくらし あらたへの 衣の袖は ()る時もなし


世の隅々までお治めになられた我が大王は、夕方になると御覧になられただろう。明け方になれば、きっとお訊ねになられただろう、神山の黄葉を。今日だってお尋ねになられたであろう。明日もご覧になるだろう。その山をはるか遠くに仰ぎ見ながら、夕方になると何とも悲しく、明け方になると何とも寂しい思いで暮らしているので、荒栲の喪服の袖は涙に濡れて乾く時もない。


もし天武帝がご健在であれば、きっと神山の黄葉を朝晩お尋ねになったであろう。が、帝は既に崩じられたので、何も問われることはない。(我が大王はもうこの世の方ではないと思いながら)、神山を仰ぎ見ると思い出して悲しい
、というのです。

太后の御歌」となっているので、崩御後余り日が経ない秋の詠歌でしょう。しかし、すっかり遠くの人を恋しく思うように感じます。

次の歌は「太上天皇の御製歌」となっているので、

一書に曰く、天皇崩じたる時の太上天皇の御製歌二首


160 燃ゆる火も取りてつつみてふくろには 入ると
()ずやも智男雲


燃えている火だって、手に取って包んで袋に入れることができるというではないか。そんなこともできるのに、何で・・・できないのか。


161 
()南山(たやま)にたなびく雲の青雲の(ほし)(さか)りゆく月を(はな)れて


北山にたなびいている雲は、あれは帝の霊魂だろうか。あの青雲が星を離れて行く。月さえも離れて…帝の霊魂は何もかも置いて離れていかれるのか。


何度読み返しても、持統天皇の御歌も御製歌も言葉足らずで「亡き人への執着」
が感じられないのです。天武帝と熱烈に愛し合っていたとは思えないのです。でも、天武帝からは大事にされたのでしたね。

あまたの妃の中から、皇后に立てられたのは持統帝でした。


「吉野の盟約」のあと、持統帝は後宮のトップになり
すべての皇子と皇女の母となったのでした。

その皇后・持統天皇と天武天皇との絆は深かったのでしょうか。
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(系図は、小学館「日本書紀(3)」の挿入図をデジカメで撮影)

持統天皇は帝王(天智天皇)の娘で、礼節を好み、母性の徳があったと書かれています。草壁皇子は、大津宮で生んだとも

そうすると、大津宮に遷都(667)する前、白村江敗戦(663)の前、天智元年(662)に、草壁皇子は生まれたのですね? 九州に身重の娘を連れて来ていた? 父の天智帝の宮で草壁皇子を生んだ? 
この時、持統帝は17歳ということになります。
草壁皇子が生まれた大津宮が九州の那の大津ならば、持統天皇は幼くして母を亡くしていますから、その後、父の宮で暮らしていた?
では、大海人皇子と結婚した後は、何処でどのように暮らしていたのでしょうね。この辺りがあいまいなのですね。

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by tizudesiru | 2016-12-11 10:30 | 177持統帝と天武帝の絆の深さ? | Comments(0)

165・天武大地震(678年)=筑紫大地震

天武天皇七年(678)


九州で大地震
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(福岡県久留米市で、耳納断層に関わる筑紫大地震の爪痕の特別展があっています)

この地震により、筑紫平野の寺院や役所が倒壊しました。上岩田遺跡の瓦が出土しています。ほとんどが垂木先瓦でした。「たるきさきかわら」とは、屋根ではなく垂木の木部が風雨にさらされて痛むのを防ぐための瓦です。
屋根を葺く瓦は他の寺院に運ばれて再利用されたので発掘されなかったのです。
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(小郡埋蔵文化財センターの展示物・写真撮影可能)

八弁蓮華文の文様で、蓮弁の中に子葉があります。飛鳥の山田寺の瓦の文様と同じでしょうか。
瓦のお話もしたいですね……
また、東日本で地震がありました。
大きな被害になりませんように。
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by tizudesiru | 2016-11-22 12:12 | 165・天武大地震(筑紫大地震)678年 | Comments(2)

162・天武朝の女性たちの悲劇・その2

162・後宮の女性たちの悲劇・その2

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吉野盟約とは、天武八年(679)五月五日

天武天皇が「千歳の後に、事なからしめむと欲す、いかに?」

と問えば、皇子達、「ことわり、(いや)(ちこ)なり」と答えた。


千年の後まで事がないようにしたいが、どうか?

道理はまことに明白です。


六人の皇子が「われら十余りの王は、それぞれ母が違っているが、天皇の勅に従い、これから助け合い逆らうことはしない」と天武帝と持統皇后に盟約をしました。


六皇子とは、草壁・大津・高市・川島・忍壁・志貴
ですが、この誓いの詞は正確ではありません。違っているのは、母だけではないのです。六人のうち二人の皇子(川嶋・志貴)の父は、天智天皇でした。父も違っていました。

ここで行われた儀式は「皇太子決め」でしょうか。

草壁皇子が立太子されるのは、天武十年か十二年です。


十市皇女のように思い詰めて苦しむことはないと、天皇が家族として後宮の女性達と、その連れ子達を認めたのです。

だから、川嶋皇子(天智帝の皇子)、志貴皇子(天智帝の皇子)が吉野盟約の六人に入っているのです。滅ぼした前王朝の皇子を入れて、「千歳のことなき」を誓い、新皇族が発足したのです。


川嶋皇子の姉は、大江皇女です。姉弟そろって新家族となったのです。

吉野盟約とは「新王朝を立てたことを確認し、前王朝の子女も含めて新王朝の家族となる儀式だった…と思います。


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天武天皇は歓喜した


吉野宮に行幸して「新王朝」の儀式をした時の喜びの歌が万葉集巻一にあります。気持ちの上でも、全ての女性と皇子皇女たちを受け入れようとしたのです。


天皇吉野宮に
(いでま)す時の御製歌

27 淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三


よきひとの よしとよくみて よしといいし よしのよくみよ よきひとよくみ

ここ、芳野を、淑き人が良い所だと、よくよく見て、好しと言った。その芳野をよく見よ、若い良き人達よ。よく見よ。


天武朝の後宮


天武天皇の妃には、天智天皇の皇女が四人入っています。
大江皇女と新田部皇女は、壬申の乱後の後宮入りでした。

大田皇女蘇我氏系母) 大津皇子(663~686)・大伯皇女

鵜野讃良皇女蘇我氏系母)草壁皇子(662~689)

大江皇女(忍海造母)  長皇子・弓削皇子 *676年以降の出生

新田部皇女(阿倍氏系母)舎人皇子 *676年以降の出生


新田部皇女の姉・明日香皇女の嫁ぎ先ははっきりしません。なぜ、明日香皇女を後宮に入れなかったのか。そこがキーポイントでありますが。


大江皇女と新田部皇女の初産の時期
から推察すれば、壬申の乱当時は二人は稚かったのでしょう。長皇子と舎人皇子は、大津皇子や草壁皇子の出生年と比べても遅い出生年となっています。

つまり、若い皇女も高齢の婦人も、全て次の王朝に移動させ、その自由を束縛しました。耐えかねた采女が自殺したようです。


壬申の乱という内乱の後、女性たちはこぞって天武朝の皇子に振り分けられたということでしょうか。女性たちはしたたかに生きて行くのですが…

高市皇子(654~696)の妃にも天智帝の皇女が入っています。

御名部皇女蘇我氏系母)長屋王(676~729)

十市皇女(母は額田王) 葛野王は大友皇子の子


草壁皇子の妃に天智帝の皇女が入っています。

阿閇皇女蘇我氏系母)元正天皇(680生)文武天皇・吉備内親王


大津皇子の妃にも天智帝の皇女

山辺皇女蘇我氏系母)* ~686没 ? 


気が付かれましたか。同じ皇女でも、蘇我系の母を持つ皇女が重要だったことが。

蘇我石川麿は右大臣・蘇我赤兄は左大臣にまで上りました。特に、石川麿の娘達は皇女を生みました。その皇女の子どもたちが皇位継承者になったのです。

 

蘇我氏は大化改新(645)で滅びたのではありません。本家は滅亡しましたが、分家の子女が王朝を支えたのです。


持統天皇は苦しんだのか?

さて、天智朝からたくさんの女性が移動させられたとして、持統天皇はどのような立場になるのでしょう。


また後で


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by tizudesiru | 2016-11-19 10:43 | 161・天武朝の女性たちの悲劇 | Comments(0)

159草壁皇子の薨去の事情


159・草壁皇子の隠された薨去の事情 


日本書紀のおける草壁皇子の薨去の記事はわずかです
。亡くなったと書かれているのみです。

「御病したまう」とか、病気平癒を願って何人得度させたとか、記述はありません。草壁皇子の娘の氷高皇女が病気になった時、持統帝は140人を出家させました。明日香皇女(天智帝の娘)の病気にも104人を出家させています。

それなのに、草壁皇子のために出家した人はいません。

皇太子だったのに。

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草壁皇子は病弱だったのでしょうか


草壁皇子の挽歌に、舎人が詠んだ反歌二十三首が並んでいます。


173 高光る わが日の皇子のいましせば 嶋の御門は荒れずあらましを

174 よそに見し 檀の岡も 君ませば 常つ御門ととのいするかも

183 我が御門 千代とことばに栄えむと 想ひてありし 吾し悲しも

191 毛衣を ときかたまけていでましし 宇田の大野は 想ほえむかも


皇子を「日の皇子」と尊び、墓所となる「檀の岡」はよそ事だと思いたのに宿直することとなってしまって、「我が主人は千代に栄える」と思っていた自分が悲しい。狩の装いの毛衣を着て、宇多の大野にお出でになった時のお姿が忘れられない…と読みました。皇子は元気だった…

突然の薨去だったようです。

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草壁皇子のライバルは、大津皇子だったのか? 


女性問題に関しても、大津皇子にポイントを取られていたと解釈されています。
草壁皇子の歌は、集中に一首のみです。


日並皇子尊、石川郎女に贈り賜ふ御歌一首 郎女、
(あざな)を大名児といふ

110 大名児 彼方(おちかた)野辺に 刈る(かや)の (つか)の間も われ忘れめや

ああ大名児、彼方の野辺で刈る草の一束のツカのような、ほんの束の間もわたしはお前を忘れることはない。

この歌の前に、大津皇子の歌があります。


 大津皇子、ひそかに石川郎女に
()ふ時に、津守連通、その事を占へ(あら)はすに、皇子の作る御歌一首

109 大船の 津守が占に()らむとは まさしに知りて 我がふたり寝し

大船が泊まる津と同じ、津守の占いに現れるとは、将にこちらも承知のうえでふたりは寝たのだ。


こうしてみると、石川郎女を奪ったのは大津皇子で、草壁皇子はまだ未練がある、と読み取れるようです。しかし、もともと、大津皇子と石川郎女は恋仲だったようです。

 

   大津皇子、石川郎女に贈る御歌一首

107 あしひきの山のしづくに妹待つと吾立ち濡れぬ 山のしづくに

   石川郎女こたえ奉る歌一首

108 吾を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを


このように並んでいますから、二人はアツアツだったのです。石川郎女は、途中で草壁皇子に召されたのかも知れません。それで、密に大津にあったのだと。

この恋のバトルは大津皇子が優位だったという説が有力です。

確かに、大津皇子は魅力的な青年だったのでしょう。


懐風藻にも漢詩を残し、日本書紀にも「詩賦は大津より始まる」と書かれています。何より天武十二年(683)「朝政を聞く」とあり、朝政に参画しはじめていました。天武天皇の大きな期待が大津皇子に掛けられていたのは間違いないのです。

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当時の宮廷の官人も周囲の豪族も大津皇子に期待していた。

持統帝も草壁皇子もそれを知らないはずはありません。


上記の「大名児」の歌ですが、

大名児よ、わたしは何処か分からない彼方で刈り取られた草の一束のように、ほんの束の間もお前を忘れることはないが、それは、何処か分からない彼方の草だ。だから、お前も彼方の草と同じ、それでいい。

とも読めるかなア、これは読みすぎでしょうね。

しかし、草壁皇子は承知だったはずです。大名児とは、宮廷の侍女だったのでしょうから、豪族の娘だったのかも知れません。自由に恋ができない女性が大津皇子を愛しても許してあげたのではないでしょうか。


さて、草壁皇子は天武十年(681)か、十 二年(683)に皇太子になりました。

非常に遅い立太子です。

同時に、大津皇子は「朝政を聞く」となっています。

天武天皇としては、大津皇子に極位への道を用意しておきたかったのです

天武天皇崩御


朱鳥元年(686)五月、天皇の病を卜うと、草薙劔の祟りというので、熱田社に安置。

仏法にて病の平癒を誓願。

諸国は主な神社に幣を奉り、天皇の病の平癒を祈念。

「天下のことは全て皇后と皇太子に啓上せよ」の勅

朱鳥元年とする。

皇太子・大津皇子・高市皇子に封四百戸

9月4日・皇子・諸臣ことごとく川原寺で天皇の病平癒を誓願。

99日・天皇崩御

911日・殯宮を建てる

924日・殯の礼。大津皇子が謀反を起こす

102日・大津皇子の謀反が発覚

103日・大津皇子に賜死。山辺皇女が殉死


これらの出来事のことごとくを、草壁皇子は見聞きしていたのです。

草壁皇子が苦しまないはずはありません。

皇太子でありながら即位しなかった大きな理由は、ここにあると思います
大津を死なせてしまった

このことが、草壁皇子の心を縛り、即位を拒否したと思うのです。

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草壁皇子は苦しんだ挙句、高市皇子に皇位継承を託しますが、母が承知しません。群臣と母と高市皇子の取り巻き勢力の板挟みで、皇子は自ら命を絶ったと思います。
だから、書紀の記述は短く。万葉集の挽歌も「高市皇子の挽歌」より短いのです。人麻呂が崇拝する持統帝の息子の挽歌を粗末にするわけはありません。彼は、あれ以上書けなかった。
悲しすぎて、悔しすぎて書けなかったのです。

むしろ。草壁皇子は大津皇子に皇位が継承されることを考えていた。
彼の申し出を受けてもよかった。
大津皇子は姉にも相談し、決心を固めた。
しかし、事は謀反とされ、大津皇子は死を賜った。
草壁皇子は責任を感じたのです。
母との三年間の軋轢を経て、ついに…
これが、私が日本書紀から読んだことです。
あなたはどう思いますか?
つぎは、大津皇子について書きましょうか。




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by tizudesiru | 2016-11-16 11:44 | 159・草壁皇子の薨去の事情 | Comments(0)


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56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線
59続石上神宮の視線
60藤原京の守り
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮
63あおによし奈良の都は
64続・あおによし奈良の都は
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実とは
67石城山神籠石ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社
71尾張国の式内社
72紀伊国の式内社
73近江国の式内社
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳のライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社の不思議
92薦神社の不思議2
93金富神社と鉾立山
94 金富神社と鉾立山 2
95 金富神社と鉾立山3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
101宇佐神宮と九州の神々
100日知王の山々
219法起寺式伽藍
207中大兄とは何者か
149有間皇子を愛した間人皇后
102安心院の二女神社
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島

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