タグ:天智天皇 ( 8 ) タグの人気記事

天香具山(物部氏の山?)を詠んだ天智天皇

天氏は物部氏ですね

天智天皇は「三山歌」で天香具山を詠みました
a0237545_19571042.jpg
すると、天智天皇は「香具山」に天が付くのですから、物部氏の皇統を主張しているのでしょうか。
「先代旧事本記」の「天神本記」によると、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)が東遷される時、三十二人の武将と二十五部の物部(軍隊)とその他の従者を従えてきました。三十二人の防衛の従者は
天香語山命(あまのかごやまのみこと)
天鈿賣命(あまのうずめのみこと)
天太玉命(あまのふとたまのみこと)
天兒屋命(あまのこやねのみこと)
天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)
天道根命(あまのみちねのみこと)
天神玉命(あまのかむたまのみこと)
天椹野命(あまのむくぬのみこと)
天糠戸命(あまのぬかどのみこと)
天明玉命(あまのあかるたまみこと)
天牟良雲命(あまのむらくものみこと)
天神立命(あまのかむたちのみこと)
天御陰命(あまのみかげのみこと)
天造日女命(あまのみやつこひめのみこと)
天世手命(あまのよてのみこと)
天斗麻彌命(あまのとまみのみこと)
天背男命(あまのせおのみこと)
天玉櫛彦命(あまのたまくしひこのみこと)
天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)
天神玉命(あまのかむたまのみこと)
天三降命(あまのみくだりのみこと)
天日神命(あまのひのかみのみこと)
天乳速日命(あまのちはやひのみこと)
天八坂彦命(あまのやさかひこのみこと)
天伊佐布魂命(あまのいさふたまのみこと)
天伊岐志邇保命(あまのいきしにほのみこと)
天活玉命(あまのいくたまのみこと)
天少彦根命(あまのすくなひこねのみこと)
天事湯彦命(あめのことゆひこのみこと)
天表春命(あまのうははるのみこと)
天下春命(あまのしたはるのみこと)
天月神命(あまのつきのかみのみこと)

続いて、五部人、天降りに従った人
天津麻良(あまつまら)、天會蘇(あまつそそ)、天津赤占(あまつあかうら)、富々侶(ほほろ)、天津赤星(あまつあさほし)
更に天降りに従ったミヤツコ(造)
二田造(ふつだのみやつこ)、大庭造(おほばのみやつこ)、舎人造(とねりのみやつこ)、勇蘇造(いそのみやつこ)、坂戸造(さかとのみやつこ)


天津物部ら二十五部の人。兵仗を帯びて天降る
二田物部、當麻物部、芹田物部、鳥見物部、横田物部、鳥戸(嶋戸)物部、浮田物部、巷宜(そが)物部、足田物部、酒人(さかひと)物部、田尻物部、赤間物部、久米物部、狭竹(さたけ)物部、大豆(まめ)物部、肩野(眉野)物部、物束(はつかし)物部、尋津物部、布都留(ふつる)物部、住跡物部、讃岐三野物部、相槻(なみつき)物部、筑紫聞(つくしのきく)物部、播磨物部、筑紫贄田(つくしのにへた)物部

船長(ふなおさ)舵取りを率いて天降る
天津羽原(あまつはばら)、天津麻良(あまつまら)、天津真浦(あまつまうら)*以下三人の名がない書がある 天津麻占、天都赤麻良

ここまで「天」が並ぶと、あまの〇〇と来れば「饒速日」の関係者だと思いますよね。
ではでは、天智天皇の近江朝の荒れた都を過ぎる時の柿本人麻呂の歌を思い出してみましょう。「畝傍の山の橿原の日知りの御代から」と詠んでいます。橿原で即位したのは、記紀によれば神武天皇です。神武天皇に長髄彦(ながすねひこ)は言いました。
「昔、天神の御子が天岩船に乗って天より降られました。櫛玉饒速日尊と云われます。私の妹三炊屋媛(みかしきやひめ)またの名・
長髄媛・鳥見媛と結婚して御子が生まれ、可美真手(うましまで)命といいます。私は饒速日命を君としてお仕えしていました。」
すると、饒速日が大王にになっていたのですね。
そして、初代神武天皇から九代開花天皇までの皇后が饒速日の神裔から立てられました。この皇后の皇子が皇太子となり次期の大王となったのです。

柿本朝臣人麻呂は、近江の皇都を詠みました

a0237545_10241548.png
この長歌も中大兄が何者か語られているのです。
今日はここまで


 歴史ランキング
神社・仏閣ランキング


[PR]
by tizudesiru | 2017-07-02 22:00 | 263天智天皇は物部系の皇統か | Comments(0)

214 天智天皇が建てた寺・崇福寺

天智天皇も寺を建てていた

扶桑略記によると崇福寺は668年建立です
写真は崇福寺です。下の写真は、大津市歴史博物館の売店で買った「かわら」から撮りました。
天智天皇はこんな山の中に寺を建てたのですね。持統天皇の御代に、山寺として万葉集にも出ています。崇福寺は尾根の上に寺院があり、深い谷が間にあります。
a0237545_22272142.png
万葉集巻二の115は、但馬皇女の歌です。
但馬皇女は天武天皇と藤原鎌足の娘(氷上娘)との間に生れました。穂積皇子は、天武天皇と蘇我赤兄の娘(太蕤娘おおぬいらつめ)との間に生れています。どちらも、祖父は天智天皇の腹心の部下でした。
それで、二人は近づいたのでしょうか。高市皇子は 当代きっての権力者であったはずなのに、です。高市皇子はどう思ったでしょうね。どうでもよかったのかな?

但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、穂積皇子を思いて作らす歌一首
114 
秋の田の穂向きの寄れる片寄りに君に寄りなな言痛(こちた)くありとも
  穂積皇子に勅して、近江の志賀に山寺に遣わす時に、但馬皇女の作らす歌一首
115 
後れいて 恋つつあらずは追いしかむ道の隈みに標結へわが背
  
但馬皇女、高市皇子の宮にいます時に、ひそかに穂積皇子に接い、事すでにあらわれて作らす歌一首
116 
人言を繁み言痛(こちた)み おのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る

但馬皇女は、高市皇子の妃となっていたのです。それなのに、穂積皇子に恋してしまった。皇女の恋歌は、高校でも学習するし、よく知られていますよね。
さて、滋賀の瓦ですが、天智天皇の崇福寺より古い寺があるんですが、実はその穴太廃寺を訪ねて行ったのですが、大雪だったしとうとうたどり着けませんでした。それで、大津市歴史博物館で本を買ったのです。では、穴太廃寺の瓦を見てみましょう。

7世紀前半の寺を近江京に合わせて造り変えた」? なんじゃ??意味不明の説明ですね。
これはですね、もともと古寺が穴太にあったのですが、天智天皇が近江に遷都した時、その古寺を造り変えて、方向を近江京に向けた伽藍にしたというのです。私は、向きを変える前の伽藍と瓦のことが知りたかったのです。
a0237545_22275875.png
百済系というより新羅系の古瓦です。多くのことが分かりました。もともとの伽藍は、東に塔、西に金堂でした。創建寺院を取り壊して、再建寺院を造らねければならなかった理由って何でしょう。東西に塔と金堂が並ぶ古代寺院の伽藍は、まるで九州ですよね。

a0237545_23473668.jpg

[PR]
by tizudesiru | 2017-02-11 00:06 | 214天智天皇が建てた寺 | Comments(0)

213柿本朝臣人麻呂、近江京を詠む

柿本朝臣人麻呂、近江京を詠む
人麻呂は持統天皇にすべてを捧げて尽くした官人でした。公の儀式の場で歌を詠み、皇族の葬儀でも挽歌を詠んでいます。
人麻呂が近江京を感傷する歌を詠んだのは、持統天皇の御代でした。
持統天皇はこの歌をどんな思いで、どんな顔をして聞いたのでしょう。微笑んだのか、涙を流したのか、知りたいものです。

a0237545_10241548.png
人麻呂が荒れた近江京を感傷する歌を詠んだのは、持統天皇の御代です。万葉集巻一「藤原宮御宇天皇代」の冒頭は、持統天皇の御製歌です。
28 
春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香来山
この歌に続くのが、29番の 「近江の荒都を過ぎる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」です。
a0237545_12105263.png
持統天皇が大津の宮を偲んだという、そこに込められた思いは何でしょうね。
a0237545_11041291.jpg
(大津の錦織遺跡の掘立柱跡)

人麻呂の歌から、中大兄が何者であったかが、読み取れます。では、
玉だすき畝傍の山の橿原の→神霊漂う畝傍山の聖なる橿原におられた
日知の御代ゆ→日を知る(暦を知る・聖ヒジリでもある)王の御代からずっと
あれましし神のことごと→お生まれになった神々(日知王)の悉くが
樛の木のいや継ぎ継ぎに→つがの木のように次々に続けて
天下知らしめししを→
大和で天の下をお治めになったのに
?????????そうです。
すると、天智天皇の皇統は
、いわゆる神武天皇に始まり、大和を治めて来たということです。

始まりは、天照大神だとは言っていません。
伊勢を目指した天武天皇とは祖先の扱いが違うのです。
どいうこと??
天智天皇は、カムヤマト磐余ビコの皇統だと、確認しておきましょうね。

これは、重要な歌ですね。人麻呂は、皇統の出自を歌っているのです。
そらみつ大和をおきて→それなのに、神武以来の大和を捨てて
あおによし平山(ならやま)を越え→
青土を平らに「ならす」と同じ「なら山」を越えて
いかさまに思ほしめせか→
いったい何と思われたのであろうか
天離ひなにはあれど石走る淡海国の楽浪の大津宮に天下知らしめしけむ→
都から遠い田舎の、水が滔々と流れる淡海国の楽浪郡の大津の宮で天の下をお治めになったという
天皇の神の御言の大宮はここと聞けども→
その天皇の神命の大宮はここだと聞くけれど
大殿はここと云えども春草の茂く生いたる→
大殿はここだというが、そこには春草が繁茂する
霞立つ春日の霧れる→
そこは、白く春霞がかかったように涙に曇ってよく見えない
百磯城の大宮処見れば悲しも→あの素晴らしかった大宮の址を見ると、万感の思いが寄せて来て悲しい
この後に「反歌」が二首続きます。人麻呂は、反歌と短歌を使い分けています。長歌の後に、長歌と同じ内容を繰り返し歌うときは、反歌です。内容が重複しないときは、短歌となります。
ここは、反歌ですから「大津宮とすぎにし大宮人を偲ぶ歌」として反復していることになります。
更に、題詞が「近江の荒都を過ぎる時」と地名が先に書かれ、人麻呂の名は後に有ります。
このように歌人が後にくる場合は、公の場での詠歌だそうです。
ですから、この歌は公の場で献じられたのです。もちろん、持統天皇に。
a0237545_10241548.png
持統天皇はこの歌をどんな思いで、どんな顔をして聞いたのでしょう。微笑んだのか、涙を流したのか、知りたいものです。
a0237545_12094897.png

また明日

[PR]
by tizudesiru | 2017-02-09 11:05 | 213人麻呂、近江京を詠む | Comments(0)

180天智天皇と藤原鎌足

180天智天皇と藤原鎌足


天智天皇より異例の厚遇を受けた藤原鎌足


それは、何故でしょう。


鎌足は天智天皇の腹心の部下でした。

内臣(うちつおみ)鎌足病気して、見舞った天智天皇

天智八年(669)十月十日、天皇は藤原内臣の家に病気を見舞う

同年 十月十五日、東宮大皇弟を遣わし、大織冠と大臣と藤原姓を賜う

同年 十月十六日、藤原内大臣が薨去した

同年 十月十九日、天皇が内大臣の家に行幸し恩詔を陳べさせ、金香鑪下賜


これまでは、内臣(うちつおみ)ですが、これからは内大臣(うちのおほおみ・うちのおほまえつきみ)となり、内大臣の官は宝亀八年(777)に、藤原良継に授けられるまで百年以上授与されていません。鎌足は特別の官を得たのです


*藤原良継は、鎌足→不比等→宇合→良継(鎌足の曽孫)

「日本書紀」には「日本世紀」からの引用文が載せられています。

日本世紀に、内大臣は五十歳で私邸において薨じた。山南に移して殯をした。天はどうして、良くないことに、強いてこの老人を世に残さなかったのか。ああ哀しいことだ。碑に『五十六歳で薨じた』という


*日本世紀は、高句麗の僧・道顕による編年体の歴史書で、日本書紀の基本的資料の一つとなった。


では、天智天皇と中臣鎌足の関係を万葉集で見ましょう。



a0237545_11273786.png

(鏡王女も安見兒も天皇から鎌足に与えられた女性です)

鏡王女は気位の高い人でした。

一般には額田王の姉と言われています。

(たま)櫛笥(くしげ)は「覆い」にかかる枕詞で、大切な化粧箱だそうです。

覆いで隠すわけではありませんが、夜が明けてからお帰りになって、貴方の名が人に知れるのはいいのでしょうが、わたくしの名が立つのは口惜しいのです。

鎌足の歌の珠櫛笥は、「みもろ」に掛かります。化粧箱の身と蓋の「み」に掛かるのです。

そうですか。みもろの山の「さな(かずら)」のように「さ寝ず」でいいのですか。そうなったら、貴女はとても耐えられないでしょう。



鏡王女は、口惜しかったでしょうね。

鏡王女は、もともと天智天皇と恋仲だったのです


天皇、鏡王女に賜う御歌一首

妹が家も継ぎて見ましをヤマトなる大嶋の()


いとしい貴女の家をいつも見たいものだ。せめて、やまとの大嶋の嶺に私の家があったらいいのに


鏡王女こたえ奉る御歌一首

秋山の()(がく)御念(おもほ)


秋の山の木々の下を流れる水は流れながら水かさを増していきます。その水のように、わたくしの思いの方が勝っております。殿下の御思いよりは


二人は恋仲というより、鏡王女(683没)は天智天皇の寵妃だったのです。鏡王女の歌は「御歌」とありますから、彼女は皇族でした。

それが、藤原鎌足(669没)に与えられたという…のです。


鏡王女としては耐えられなかったことでしょう。しかも、身重だったとか。(この子が定恵だったという説があります)

鏡女王は、藤原鎌足の室となっています。


藤原氏の台頭と持統帝との結びつきの要因は、この辺りにありそうですね。 
次は不比等の歌ですね。が、彼自身の歌は万葉集にはないのです。
ですが、不比等の話をしましょう。





[PR]
by tizudesiru | 2016-12-20 12:37 | 180天智天皇と藤原鎌足 | Comments(0)

169・額田王の恋歌と素顔

169額田王の恋歌と素顔


額田王は恋多き女性だったのでしょうか。
美女だったようですが。


a0237545_14510749.jpg

万葉集にも額田王の恋の歌はあります。巻四と巻八に。

額田王、近江天皇を思いて作る歌一首

488 君待つと吾が恋おれば我がやどの簾動かし秋の風吹く

*巻八1606は、巻四488と同じ題詞で同じ歌


あなたが何時お出でになるかと待っていると、わたしが恋しく思っているからでしょうか、わたしの館の簾を動かして秋風が吹いてきました。簾をうごかしたのは、あなたではなかった…


額田王の歌は、
78916171820112113151155488・(1606)の13首 のうち1首は重複してるので、12首。


内容を見ると、非常に政治的な歌が多いようですね。

488と1606以外の歌を見てみましょう。

7は、額田王(兎道若郎子の京を歌った・悲運な皇太子を暗示

8は、額田王(百済救援軍として熟田津を出航する時の歌

9は、紀温泉に幸す時に額田王の作る歌(有間皇子事件当時の詠歌


8は、斉明天皇御製歌とも「類聚歌林」にかかれているという。天皇に代わって額田王が歌を詠んだと云われているのです。いずれも斉明天皇の時代の歌です。

a0237545_22315964.png


額田王は若かったのに、上の三首は恋愛とは関係ないようですね。

16は、天皇、内大臣藤原朝臣に(みことのり)して、春山の万花の(にほい)と秋山の千葉の(いろ)とを競ひ憐れびしめたまふ時に、額田王が歌をもちて(ことわ)る歌天皇の詔で判定する歌

17は、額田王、近江の国に下る時に作る歌、井戸王、すなわち和ふる歌(近江遷都の時の詠歌

18は17の反歌

20は、天皇、蒲生野に遊猟したまふ時に、額田王が造る歌(天皇の宴席での詠歌


16は、非常に文化的な内容での天皇の詔です。春と秋のどちらが優位なのかを、額田王が判定するのです。次は、遷都の時の詠歌と「類聚歌林」に書かれているので、公的な詠歌です。その次も、天皇の前で詠んだもの。

額田王は、立場的に公の場で活躍していた、常に政治の表に立っていたようです。


額田王はただの美女ではなかった!?

a0237545_14494021.png

額田王こたへ奉る歌一首

112は、額田王、(こた)へ奉る歌一首倭京より(たてまつ)り入る弓削皇子に奉る歌

113は、吉野より(こけ)生す松が枝を折り取りて(おく)る時に、額田王が奉り入るる歌一首弓削皇子に奉る歌

年を取った額田王に若い皇子が様々に問いかけたのでしょう。

公的な舞台から身を引いても、若い皇子に頼りにされる存在だったことが分かります。学識経験者として、政治的相談役だったのでしょうか

151は、天皇の大殯(おほあらき)の時の歌二首天皇の葬儀の挽歌

155は、山科の御陵より退り散くる時に、 額田王が作る歌一首(天皇の葬送儀礼の挽歌


a0237545_22252514.png

a0237545_22270991.png

この二首は、天智天皇の葬送儀礼の時の挽歌です。倭姫皇后や石川夫人(蘇我石川麿の娘の姪娘)と共に、額田王の挽歌も残されています。


額田王は天智天皇の嬪や夫人としての記述はありません。では、天智朝では、どんな立場だったのか。
それは、後の時代の内侍などのような、政治的な女官でしょうか。

女性の任官記事がないので、何とも言えませんが、額田王の歌からかなり政治的なものが読み取れます。しかも、才能ある美女だった、そんな額田王を天智天皇も愛したに違いありません。
 
葬儀の最後まで額田王は、山城陵にいたのですから。
明日香に帰った額田王は何をしたのか、そこに、大きなメッセージが残されているのです。



[PR]
by tizudesiru | 2016-11-26 22:43 | 169額田王の恋歌と素顔 | Comments(0)

168・額田王は天智天皇を愛し続けた

168・額田王は天智帝を愛し続けた

a0237545_14510749.jpg

112 (いにしえ)霍公(ほととぎ)()(もえ)


過ぎた昔を懐かしむ鳥は、それは霍公鳥でしょう。霍公鳥は蜀魂とも云われていて、亡き皇帝の魂が鳥となった姿だそうですよ。あなたが見たその鳥は不如帰です。きっと私が昔のことを懐かしく思うように、懐かしそうな声でその鳥も鳴いたことでしょうね。
 


額田王は、王朝が変わっても、幾つになっても、天智天皇を偲びました。


額田王は天智帝の崩御・葬送儀礼の最後まで仕えた人です。

書紀には初めは天武帝(大海人皇子)に召され十市皇女をもうけたと書かれています。万葉集の「中大兄の三山歌」は、大海人皇子と中大兄が額田王を争った歌だとも解釈されています。

その額田王の歌です。(額田王については「144・有間皇子事件の目撃者」で既に紹介していますが、斉明帝にも仕えていました)

ここでは、額田王自身が最後まで愛した人は誰かということです。

それは、天武天皇(大海人皇子)ではありません。

明日香での額田王の暮らしは、天智天皇を偲ぶ毎日だったのでしょう。

額田王の歌・万葉集巻二にある112番歌は、弓削皇子(699没)とのやり取りの歌です。

a0237545_15003092.png

a0237545_14494021.png

若い弓削皇子は、父の天武帝より先の帝の方を愛しているに違いない額田王に興味を覚えたのでしょうか。

ゆづるはの三井の上を鳴き渡って行った鳥がいましたが、あれは昔を懐かしむという例の鳥でしょうか。どうでしょう?


天智帝・天武帝の二人ともすでに鬼籍に入っているのです。どちらを霍公鳥にたとえてもいいのでしょうが、額田王は「ゆづるはの(王朝を譲った)三井」の上を鳴き渡った「その鳥は不如帰」と答えました。あっさりと「わたしも昔のあの方が懐かしい」と返したのでした。


弓削皇子はこの後も額田王と歌のやり取りを続けたようです。

さて、
額田王と大海人皇子とのやり取りで有名なのは、「天智天皇が、
(かま)生野(ふの)遊猟(みかり)(668年)された時の歌」がありますね


天皇、
(かま)生野(ふの)遊猟(みかり)したまふ時に、額田王が作る歌


20 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る


紫草の生える野には標が張られ立ち入りが禁止されている、その紫野を行きながら貴方がそんなことしては野守に見られないでしょうか、わたくしに袖を振るなんてこと。

皇太子の答へたまふ御歌


21 
(むら)(さき)のにほへる妹をにくくあらば人嬬(ひとづま)ゆえに吾恋めやも


まるで紫草のように美しい貴女を心憎く思っていたら、人妻のあなたに惹かれたりはしないでしょう。


四十歳近くの額田王としては余裕の歌なのでした。

額田王と皇太子(大海人皇子)は、天智天皇の宴の席で歌のやり取りをしているのです。衆人が見ている中で。

二人は、かっては子ども(十市皇女)までもうけた仲。誰もが知っていました。


今( 668)は、額田王は天智に仕えていて、娘(十市皇女)は天智帝の後継者である大友皇子の妃となっていました。

大友皇子と十市皇女の間に葛野王が生まれるのは、次の年(669)です。

やがて、天智十年(671)天皇崩御

そして、壬申の乱(672)大友皇子敗れる

その後、額田王と十市皇女は明日香に帰った


額田王は、明日香に帰っても天智帝を想いつづけていました
a0237545_15123217.png
額田王の気持ちは当然弓削皇子にも伝わったことでしょう


弓削皇子は天武天皇の息子であり、天智天皇の孫、母も天智帝皇女でした。
皇統を継げる血統だったのです。
それが故に、軽皇子(文武天皇)の立太子に異議を申し立てたのです。
それを、十市皇女の息子の葛野王に叱責され止められました。

弓削皇子が言いたかったのは何だったのか。葛野王が弓削皇子を𠮟った理由は何だったのか。気になる所です。
それが為の、弓削皇子の早世(文武三年)でしょうか

またあした




[PR]
by tizudesiru | 2016-11-25 15:24 | 168額田王は天智天皇を愛し続けた | Comments(0)

167・持統天皇の孫・文武天皇の仕事

167・持統天皇の孫・文武天皇の仕事

a0237545_12425429.jpg

文武天皇は15歳で即位しました。

夫人は藤原宮子(不比等の娘)です

文武天皇は若い天皇でしたから、持統天皇が太上天皇として全面的にバックアップしたのです。

ですから,文武天皇の仕事には、持統太上天皇の意思が入り込んでいるのです。

a0237545_11110989.png

その中に、おや? と思う仕事があります。


文武三年(699)の山田寺に封三百戸


それに、越智(斉明天皇陵)と山科(天智天皇陵)の造営
です。

山田寺は祖父蘇我石川麿が無念の最後を遂げた寺です。

そして、斉明天皇は天武天皇の母、天智天皇は天武天皇の兄。


陵墓の造営(改葬になります)は当然でしょうか?

ここで、 前に紹介した「163・持統天皇の最後の願い・火葬と合葬」を思い出してください。


持統天皇は真っ白な骨となって、天武天皇陵に合葬されたのです。霊魂がその墓を離れ、未来永劫飛びまわるために。

陵墓の造営が重要であること、祖先・天皇の墓はその王朝にとって意味があること、お分かりですよね。

a0237545_11141666.png

(山城の天智天皇陵)

では、高市皇子(天武天皇の第一子)の墓が高松塚であれば、その墓と文武帝は如何なる関係になっているでしょう。

以前、高松塚古墳は文武天皇の墓という伝承がありました。

a0237545_11175924.png

(まだ、高松塚古墳の石室が調査中のライン・石室の真上を通っています)


治田神社(草壁皇子の岡宮跡)→高松塚古墳石室→岡宮天皇陵(草壁皇子陵の改葬前の墓)


高市皇子は、後皇子尊(のちのみこのみこと)と呼ばれました。

であれば、草壁皇子の宮跡とその陵墓に挟まれて眠るのは当然かもしれません。

そして、あろうことか、文武天皇の崩御。

持統天皇亡き後の公務が多すぎたのでしょうか。

a0237545_11211097.png

文武天皇陵は、現在天武天皇の真南になっています。しかし、最近「中尾山古墳」(八角形墳丘墓)が改装後の文武天皇陵とされています。

その中尾山古墳は、なんと耳成山の真南にあります。


高市皇子と耳成山の間ですね。

そのわけは、①耳成山と高市皇子の霊力を受け取ろうとした。

または、  ➁高市皇子と耳成山の霊力を遮断した。


更に、草壁皇子の墓も最近は岡宮天皇陵ではなく、「束明神古墳」とされています。

よりよい子孫の繁栄を願って陵墓を改装したのでしょう。
それも、牽牛子塚(斉明陵)、天智陵、中尾山古墳と、八角形の極位に上ったという墳丘墓の形式に揃えたかったということでしょうか

a0237545_11292294.jpg


持統帝の天智天皇への思いがだんだんはっきりしてきましたね。

a0237545_09264003.png


文武天皇の傍に藤原氏がぴったりと寄り添って、その行動をコントロールしていたのも確かです。

藤原氏は計画的に謀略を積み重ねて、権力の頂点に駆け上っていくのです。


また明日


[PR]
by tizudesiru | 2016-11-24 11:34 | 167持統帝の孫・文武天皇の仕事 | Comments(0)

163・持統天皇の最後の願い・火葬と合葬

163・持統天皇の最後の願い

・火葬と合葬墓

a0237545_22510734.jpg

大宝2年十二月二十二日、持統天皇崩御

「続日本紀」文武天皇、大宝二年十二月条に

太上天皇、(かむあが)ぬ。遺詔(いせう)したたまはく

素服(そふく)挙哀(こあい)することなかれ。内外の文武の(つかさ)()()は常のごとくよ。

喪葬のことは、努めて倹約に従へ」とのたまふ。


持統天皇の火葬・天武陵への合葬

持統天皇の最後の願いは火葬であり、野口陵への合葬でした。

歴代天皇の中で、初めての火葬でした。

しかも、合葬墓です。

ここに、何かしらの違和感があります。

天皇位に上ったということは、神になったということですから天皇の葬儀は、神として葬送儀礼が行われ、陵墓が造られました。

ひとりひとりが一柱の神となって祀られてきたのでした。それなのに…
墓も作らず、骨のみを残し、霊魂となって飛び去ったのです。どこへ?
もちろん、天智陵へ向かって。

a0237545_11243528.png

天武・持統合葬陵は、山城の天智陵と経度がおなじです



天智陵→藤原宮・大極殿(白ポイント)→ 天武・持統合葬陵(青ポイント)

持統天皇は、「天智天皇の墓の真南に眠る」ことを希望したのです。なぜ?

もちろん、天智天皇と死後もつながっていたかったからです。

持統天皇にとって、淡海は忘れられない思い出の地でした。

草壁皇子を大津で生んでいます。

柿本朝臣人麻呂は「近江皇都の在れるのを哀しむ歌」を献じています。

なぜ、持統天皇は、天智帝をそこまで愛したのか。

a0237545_11250113.png


全て、持統天皇の出自、宿命に関わることです。
鬼のように冷静で、藤原氏と手を組んで、あまたの皇子皇女の運命を変えた女性として知られる持統天皇。その実像は、万葉集を読むと違ってくるのです。
ここで、いち早く持統天皇の最後を持って来たのは、他でもありません。
持統帝がいかなる宿世を持った人だったのか、考えてもらいたいからです。

紀伊国行幸に見られる有間皇子への強い追慕の念と、鎮魂の思い。持統帝は皇子の所縁の人としか思えません。
天武天皇の政権下では、寺院の建立が盛んでした。それは何故なのか。失った人が多くいたということでしょうか。
祖父の石川麿の山田寺(浄土寺)の再建だけではありません。

では、草壁皇子のために造った寺は?
(明日香村の岡寺は。僧義淵が造りました) 
一人息子の草壁皇子の死に接した時の持統帝の姿は、書き残されていません。
孫の軽皇子(後
の文武天皇)に、阿騎野で草壁皇子の霊魂に触れさせ、15歳で即位させ、自分は太上天皇として文武天皇を補佐し続けました。
そして、最後には天智帝(38代)と天武帝(40代)を結ぶように野口陵を造り、そのライン上に藤原宮を造営したのは、偶然ではありません。
更に、最終的に自身もそこに眠ったという、この軌跡から匂い立つのは、女性としての意思だと思います。

山城の勧修寺も、宇治の平等院も、禅宗の万福寺もこの直線に乗っています。
このラインの意味は、少なくとも十世紀の人までは知られていたということでしょう。



またあとで





[PR]
by tizudesiru | 2016-11-20 11:42 | 163持統天皇の最後の願い | Comments(0)


地図で分かる生活と歴史


by tizudesiru

プロフィールを見る
画像一覧

最新の記事

稲荷山古墳の被葬者と雄略天皇
at 2017-08-19 13:31
稲荷山古墳鉄剣銘文・乎獲居臣..
at 2017-08-17 22:22
乎獲居臣の八代の系譜
at 2017-08-17 00:34
稲荷山古墳の金石文の訓み解き..
at 2017-08-16 11:31
稲荷山古墳は仁徳陵の4分の1
at 2017-08-15 01:14
知っていそうで知らない江田船..
at 2017-08-13 17:43
阿倍寺の近くの艸墓古墳
at 2017-08-11 14:30
左大臣安倍倉梯麿の安倍寺と墓
at 2017-08-10 20:47
明日香・奥山廃寺に秘められた物語
at 2017-08-08 10:38
蘇我馬子の菩提を弔ったのは誰
at 2017-08-06 22:19
福岡市の平群・地図で読む物語
at 2017-08-05 00:02
大型甕棺墓の時代の木棺墓
at 2017-08-02 21:26
大型甕棺の種類、見分けにくい..
at 2017-08-01 20:01
三種神器発祥の地・吉武高木遺跡
at 2017-07-30 17:36
虚実ないまぜ?古事記と書紀の..
at 2017-07-29 22:00
倭は国のまほろば・倭建命の国..
at 2017-07-27 11:08
長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
at 2017-07-25 15:05
卑弥呼の宮室は吉野ケ里ではない?
at 2017-07-24 14:44
邪馬台国論争・TBSの着地も..
at 2017-07-23 14:29
大国主を追放したのは、何処の..
at 2017-07-22 17:27

記事ランキング

カテゴリ

全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1大宰府の位置
2竹原古墳
3間夫という山
4筥崎八幡宮
5弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6平原王墓ラインから分かること
7八女丘陵の古墳のライン
8高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山
11羽白熊鷲と脊振山
12羽白熊鷲と古処山
13九千部山と香椎宮
14国守りの山は何処に?
15神籠石が教えてくれる古代
16六世紀の都
17神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
39神籠石から分かること(4)
40神籠石から分かること(5)
41神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43古代の宮殿は何処に?(1)
44江田船山と筑紫君磐井
45筥崎宮から見た太宰府天満宮
46高千穂の峰から阿蘇へ
47雲仙が守った首長は、何処
48神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50醍醐天皇の都の守り
51十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社
53空海の霊力
54出雲大社と熊野本宮大社
55大山古墳の謎
56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線
59続石上神宮の視線
60藤原京の守り
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮
63あおによし奈良の都は
64続・あおによし奈良の都は
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実とは
67石城山神籠石ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社
71尾張国の式内社
72紀伊国の式内社
73近江国の式内社
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳のライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社の不思議
92薦神社の不思議2
93金富神社と鉾立山
94 金富神社と鉾立山 2
95 金富神社と鉾立山3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
101宇佐神宮と九州の神々
261大化改新後、大国魂神社は総社となる
256平城京と平安京
219法起寺式伽藍
207中大兄とは何者か
149有間皇子を愛した間人皇后
102安心院の二女神社
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造を命じた首長は誰
263天智天皇は物部系の皇統か
264柿本人麻呂と持統天皇
265消された饒速日の王権
266大宰府・宝満・沖ノ島
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んんだ倭建命
273大型甕棺の時代
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳

画像一覧

以前の記事

2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2014年 07月
2013年 10月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 05月
2013年 02月
2012年 11月
2012年 09月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月

タグ

フォロー中のブログ

絵本ぶろぐ

検索

メモ帳

その他のジャンル

外部リンク

ファン

ブログジャンル

歴史
旅行・お出かけ