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明日香・天智天皇が戻った倭京は何処にあったのか

天智天皇の倭京は何処にあったのか
大化改新後に、難波に都が遷りましたが、孝徳天皇を難波に置いて中大兄は倭京に戻りました。その倭京は何処にあったのでしょう。ヤマトヒメと同じく、倭京の場所も大きさも組織も分からないことが多いのです。が、天香具山と蘇我氏の寺や墓や神社は、その位置を探すカギになるはずです。
倭姫皇后は持統天皇か

さて、天智天皇の皇后の倭姫は、古人皇子の娘であると書紀に書かれています。古人皇子は中大兄皇子(天智天皇)によって誅殺されました。吉野太子とも呼ばれ、吉野に逃れた皇太子でした。その次期天皇の娘だというので、倭姫は皇后になれたのでしょうか。素直に書紀を読むとそうなります。記述を疑わなければですが、そうすると倭姫皇后がなぜ正史から消えてしまったのか(墓すら不明)、持統天皇はなぜ深く天智天皇を慕い、有間皇子を追悼するのか、最後の東国行幸や天皇の忌日の詔の意味が分からなくなります。
元明天皇(天智帝の皇女)は「天智天皇の不改常典」をもって皇位継承の根拠としました。天武天皇の王朝代に滅ぼした前王朝の法を持ちだすのは、異常です。それも皇位継承に関して、です。もろもろの事実は、一つの答えを指し示しているのです。
倭姫皇后が持統天皇だった可能性です。そうすると、もろもろの疑問が解けて、額田王が中臣大嶋と立てた粟原寺の意味もはっきりするではありませんか。
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古人大兄皇子について、おさらい

舒明天皇の第一皇子。母は蘇我馬子の娘・法提郎女(ほほてのいらつめ)、娘は倭姫。蘇我入鹿は次期天皇に古人大兄皇子を望み、古人大兄は太子となっていたと思われる。


古人大兄皇子と並んで皇位継承者とされたのは、厩戸皇子の子・山背大兄王で、その母も蘇我馬子の娘・刀自子郎女でした。古人と同じ蘇我系の母を持つ男子でした。

その山背大兄王は蘇我入鹿に襲撃されて、一族もろともに自害してしまいました。

やがて、乙巳の変。この時、古人太子は皇極天皇の傍に侍していたのですから、重要な立場で儀式に参加していたことになります。自分の支持者であった蘇我入鹿が暗殺された後、古人大兄は自宅へ逃げ帰り門を閉ざし「韓人が入鹿を殺した。わたしは心が痛い」といいました。その意味は何だったのでしょう。

殺したのは「韓人」、それは古人大兄を苦しめたのですが、この時、事件の黒幕(孝徳天皇とされる)を知っていたわけではないでしょう。太子が見た通りの無残な光景に対する気持ちを吐露したのなら、渡来系の人物が入鹿を殺したが、その原因は自分とは無関係ではないと思ったということです。

入鹿が殺されれば皇位継承権は遠のき、自分の身が危ないという意味でしょうか。書紀によればその後、倭姫は父を殺した男の妃となったのでした。

蘇我倉山田石川麻呂右大臣の娘たちも、父を死に追い込んだ中大兄の夫人となりました。越智郎女と姪郎女がそうでした。その皇女達(太田・鵜野・大江・新田部)も父の王権を倒した叔父(天武天皇)の妃となったと書紀に書かれています。これは大事な記述です。当時、この女子たちを他の豪族に分け与えるわけにはいかなかった、その血統を他に分けることはできなかった、のでしょう。「皇后となれる倭姫」となるべき女子だったから。古代では高貴な血統こそが財産でした。それは、中世まで、いえ近世まで続いた伝統的な考え方でした。落ちぶれても血統には威力がありました。だから、倭姫は望まれて天智帝の皇后となったのでした。皇位継承者となるには、高貴な女性を皇后に立てなければならなかった、まるでエジプトの王のように王家の血を引く女性を皇后にすることが必須だったと思います。


中大兄が戻りたかった倭京は何処にあったのか
飛鳥に倭京はあったのでしょうか。それとも三輪山の麓にあったのでしょうか。
其の天智天皇の権力を見るために、石神遺跡や川原宮をラインで見ましょう。石神遺跡からは木棺が出ていますし、河原宮は斉明天皇の葬儀を行ったところですし、後に寺院となりました。天智天皇の所縁の場所です。
天武・持統天皇も四大寺の一つとして大事に扱ったようですね。

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まず、右斜め上から左に下りるのラインを見ましょう。山田寺・川原寺・定林寺とラインが引けます。左上から斜め右下に下りるラインは、本薬師寺・蘇我氏の邸宅跡・川原寺・坂田寺とつながります。
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山田寺・川原寺・定林寺・坂田寺・本薬師寺、この寺院は既に紹介しています。

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(山田寺)

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(川原寺)
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(坂田寺)
坂田寺は鞍作氏の寺でした。石舞台や都塚古墳の近くの寺ですから、蘇我氏の同族でしょう。
では中央のラインです。本薬師寺から川原寺・橘寺に届きます。

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要するに、川原寺は斉明天皇・天智天皇所縁の重要な宮であり、寺院であったことがわかります。天武朝では、大官大寺・飛鳥寺・川原寺・薬師寺は四大寺とよばれ、官寺の代表の役目を果たしていました。国家的な仏教行事や僧尼の取り締まりを行っていたのでした。ただ、薬師寺は皇后の病気平癒のために造られて寺ですが、造営の途中で天武天皇の崩御となりました。在位中にはでき上がっていなかったのです。持統天皇二年に天武天皇追善の無遮大会が、大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田の五寺で行われたのですから、薬師寺は間に合っていないのです。

四大寺は朝廷が重視した寺です。
では、朝廷が重視した神社は何処で、どの神々でしょう。
それは、時代の浪にもまれて分からなくなっているかも知れません。しかし、位置情報は残されているかも知れません。遷座された可能性もありますが。国常立神社のある天香具山からラインを引いてみました。

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国常立神社のある天香具山からのラインを飛鳥坐神社(水色ポイント)に引くと、そのまま延びて石舞台に直線が届きます。では、天香具山から定林寺にラインを引くと、雷丘と蘇我氏邸宅跡がラインに乗ります。蘇我氏を抜きにしては何もできませんね。
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蘇我氏の飛鳥寺は真神原に建てられましたから、辺りは聖なる地だったのです。すると、斉明天皇に関わる板蓋宮・川原宮、草壁皇子が育ったという岡宮(治田神社)辺りも聖地だったことでしょう。

では、天智天皇が間人皇后や斉明皇太后やもろもろの役人を引き連れて、難波から戻って来たという倭京はどの辺りでしょうね。やはり天香久山を取り込んで考えましょうか。後の藤原宮が造られた辺り橿原市辺りかも知れませんが、わたしは北上する飛鳥川の東岸辺りに倭京はあったと思うのです。

倭京には、天照太神が祀られているでしょう。「天照太神を度会(わたらい)の五十鈴河上に遷し奉る」と倭姫命世記に書かれていましたから、倭京の頃は祭祀がなかったとしても、持統天皇の時代には天照太神を祀る社も置かれたでしょう。神祭りが入り乱れてはいるでしょうが、痕跡はのこっているはずです。



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by tizudesiru | 2017-12-05 21:06 | 306倭京は何処にあったのか | Trackback | Comments(0)

持統天皇が霊魂となって北へ向かったわけ

持統天皇は霊魂となって北の天智陵へ向かった
未来永劫、霊魂のままでいい!
それは女帝の望みでした。太上天皇は望み通りに白い骨となり、ヨミガエリを望むことなく霊魂となって北へ向かったと、わたしは思います。葬儀を指示したのは文武天皇です。十分に太上天皇の望みを知って執り行ったことでしょう。
天智陵と持統天武陵が同じ経度にあることには意味があるはずです。それは、持統帝と天智帝に深いつながりがあったからだと思うのです。
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また、天智陵が平安京を守る位置にあるということにも意味があるでしょう。
平安京は天智帝の皇統の都として造られました。
しかし、持統・天武天皇の陵墓ともつながらないわけではありませんね。天智陵の真南には持統天皇が眠っているのですから。
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新しい皇統の都のために天智陵は移されることなく守護神となりました。
ここで、また振り返ってみましょう。
意思の強い女帝が貫いたことは天武帝の皇統を守ること。何度も書きましたが、草壁皇子の皇統を守ることでした。しかし、ここで立ち止まりましょう。草壁皇子が天武天皇の皇子であり、持統帝・元明帝・元正帝が天武帝の皇統を大事にしたのであれば、天武帝の他の皇子達の皇位継承権を認めたはず、だと。
では、元明天皇が長屋王の子どもたちのを身分を引き上げたのは何故でしょうか、例外でしょうか。
娘を長屋王に嫁がせていた元明天皇は長屋王の皇統に皇位継承権を認めてもいいと考えたようです。それは、「真の天武帝の皇統に継承してもらいたい」というのが草壁皇子の遺志だったからです。大津皇子を死なせてしまったことを悔やんでもいましたから。妃の元明天皇は夫の遺志を承知していたと思います。万葉集を読むかぎり、元明天皇の夫・草壁皇子への思いは、深く強いと思います。
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それでも、天武帝の皇統は抹殺されてしまいました。
藤原氏が外戚として権力を握るようになって、ことごとく天武帝の皇統は抹殺されていきました。ついに天武帝の皇統が絶え、天智帝の皇統が皇位継承者(光仁天皇)となりました。その息子の桓武天皇は平安京に遷都した時、怨霊・悪霊から都を守ることに腐心しました。その時、天智天皇の陵墓は守り神とされたのです。

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では、神祭りはどうでしょう。伊勢の神祭りが天武帝の祭祀であれば、そのまま次の平安京の権力者・皇統の祭祀となったでしょうか。
明治になって、たしかに天皇家の神祀りとして伊勢神宮が神道のトップとなりました。それまで、天皇の行幸が何百年もなかった伊勢神宮が…です。
ここで、やはり立ち止まり考えさせられます。
天武天皇の壬申の乱を勝利に導いた渡会(わたらい)の神は、天照大神ではなかったのではないか。それは、豊受大神だったのではないか。それを証明しているのが、「人麻呂の高市皇子の挽歌」の一節ではないかと、わたしも思うようになりました。すると、天照大神が伊勢に入ったのは豊受大神より後で、壬申の乱より後、となるでしょう。

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ここで、伊勢の神の鎮座地を求めた倭姫命とその物語は、遠い昔の人でも話でもなく天武天皇以降の時代のことだと思うのです。天智帝の消えた倭姫皇后と、持統天皇の伊勢行幸の大三輪高市麻呂との逸話を考えると、倭姫皇后は消えたのではなく天武天皇の後宮に召されたのではないか、持統天皇の行幸の目的が鎮座地探しだったのではないか、などと考えてしまうのです。
だから、持統天皇の霊魂は北へ向かった。天智陵へと。

では、また明日



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by tizudesiru | 2017-11-24 22:07 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback | Comments(0)

倭姫皇后の運命を握った神とは有力氏族

いつまでもお慕いいたします

人はよしおもひやむとも玉蘰 影に見えつつ忘らへぬかも
天智天皇の崩御後にヤマトヒメ皇后は詠みました。
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149 人はよしたとえ大王を忘れてしまうことがあっても、わたしには大王の御姿がいつもいつも影のように見えていて忘れることはできない。

153 いさなとりをする海のように広い淡海の海、この海のはるか沖から漕いで来る船よ、岸辺近くを漕ぎ来る船よ、沖の船、櫂をひどく撥ねさせないでおくれ。岸辺の船の櫂もひどく撥ねさせないでおくれ。あの方の霊魂は鳥となってもまだ若い鳥だから、櫂がひどく撥ねると驚いて飛び立ってしまうでしょう。(だから強くひどく撥ねさせないで)
切々と皇后は訴えました。皇后の挽歌だけでなく、身近な女性たちの歌も紹介しましょう。中に、舎人の歌がありますから、葬儀の場では男性の歌も多く献じられたのでしょうね。

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婦人(姓氏は未詳)、額田王、石川夫人、舎人吉年の歌が残されています。冬の淡海はきっと暗く沈んでいたことでしょうね。
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この後、倭姫皇后の消息は分からなくなります。どうなったのでしょうね。大友皇子の即位まで、玉璽は預からなければならなかったでしょうし、泣いてばかりでは務まりません。

こんな大役を果たす皇后はどのように選ばれたのでしょう。

人麻呂の「日並皇子尊の挽歌」の中にヒントがあります。
「天地のはじめの時の ひさかたの天の河原に 八百万千万の神の 神集い集いいまして 神はかり はかりし時に 天照日女之命 天をば知らしめせと…」
人麻呂の長歌は、上記のように始まります。ここに、支配者を選ぶ儀式のことが書かれています。

神集い 集いいまして(たくさんの神が寄り集まって)
神はかり はかりし(神々が相談を重ねて)


この詞は祝詞(のりと)でもおなじみですよね。上代は神々が集まって相談して支配者を決めていたのです。それは、舒明天皇が即位する時も大臣たちが集まって決めていました。人麻呂は「神」と詠みましたが、それは現実の人間達だったのです。
支配者を決める風習を変えたのは、乙巳の変だったのでしょうね。合議制ではなく、大宮殿を作り役所を整え、律令によって政治を行うことを目指した時に、氏族の主張が優先した合議制は合理的ではなかったのでしょうね。


それで、皇后撰びに戻りますが、上代の大王が選ばれたように皇后も有力者が話し合って選んだと思います。ただ、選ばれる女子の氏は限られていたと云うことです。
古代豪族の中で大后を出した氏は限られていたと思います。

倭姫皇后が古人皇子の娘なら舒明天皇の孫ですから、選ばれるべき立場だったのでしょうね。

(ここで、わたしは妄想します。持統天皇が年に数回も吉野に行幸した理由は何だろうかと。吉野に出かける理由の一つに、誰かに会いに行くのだとしたら、それは誰だろうかと。
吉野太子に所縁の人か、太子に関わった人に会いに行っていたとしたら、それも心ひかれる物語になるでしょうね。)


さて、神々が寄り集まって皇后を決めたのだとしたら、その存在は特別ですし、その最後がどうなったのか、陵墓は何処にあるのか、書き残されねばなりません。
しかし、倭姫皇后については何もないのです。挽歌は残したものの、忽然と消えているのです。数百年前とされる仁徳天皇の磐姫皇后ですら、細かに記述されています。だから、大王となった天智天皇の皇后である倭姫が忽然と消えるのはおかしすぎます。

ヤマトヒメは何処へ行ったのか?
前の王朝の後宮の女性たちが次の政権の大王の後宮に入れられたのなら、倭姫も天武帝の後宮に入れられなければなりません。でも、倭姫は天武帝の後宮に入ってはいません。皇后となったのは、持統天皇です。
倭姫が消えたのは何故か?と思いませんか。
天武帝の持統皇后と天智帝の倭姫皇后の接点はないのか、非常に遠くしかし非常に近い存在、と考えませんか。わたしはここに釘付けになりました。二人の接点、それは、あるのです。

二人の皇后を結びつけるのは、倭姫です。
それはまた明日。



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by tizudesiru | 2017-11-19 00:12 | 304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か | Trackback | Comments(0)

倭姫皇后の運命を握った神は

この一週間、トンデモ説を紹介しています
万葉集は妄想を誘う歌集です。中でも様々に妄想を膨らませてくれる不思議で魅力的な人は、倭姫皇后ですね。天智天皇の葬送儀礼の挽歌が残されているので実在の人には違いありません。今日は、その倭姫についてのお話です。トンデモ説ではありませんが。
天智帝の皇后・倭姫とは何者か

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知りたいですよね、倭姫皇后について。天智天皇の皇后はどのように選ばれたのか。
皇后になれる女性は決まっています。高貴な血統の姫しかなれません。
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大化改新の後も、皇后になれる条件は守られました。なぜなら、大王に事があれば皇后が玉璽を預かることになっていたからです。おろそかに玉璽を扱ってはなりませんから、皇后には大王家の血筋の娘が立てられたのです。どんなに高齢でも、若輩でも、役目は同じでした。
そういえば、年の差がありながら、間人皇女(舒明天皇の娘)が孝徳天皇の皇后に立てられましたね。大化改新後、立后されるべき女性がいなかったのでしょうか? 若い間人皇女以外には? そんなことはないでしょう。古人大兄皇子(舒明天皇の皇子)の娘・ヤマトヒメがいたはずです。それとも、ヤマトヒメはまだ幼く生まれたばかりだったのでしょうか。幼すぎたのか、政敵として父親を討ったばかりだったので孝徳天皇の皇后として具合が悪かったのか、でしょうか。

天智天皇の皇后の倭姫は、名前からして意味深ですね。カムヤマト磐余彦のように意味深な名前です。ヤマトは諱(いみな)ではなく、尊号でしょうか? 万葉集では高貴な方は名前が書かれていません。卿・大臣・天皇・太上天皇・大行天皇・皇后・皇太后などと書かれていますが、該当者が一人ならその人が誰なのかわかるのです。
誰を指すか特定されない場合もありますが、それでも二人ほどにしぼられます。
光明皇后の場合では、藤原皇后・皇后・太后・皇太后・籐皇后などと書かれて必要に応じて使い分けられていますが、諱は書かれていません。皇子皇女の諱は書かれていないのが普通です。


すると、倭姫の「倭」とは諱ではなく、その養育する氏を指し示すのでしょう。当時、倭氏がいたと云うことでしょうか。 皇太子・古人大兄皇子の娘ですから、まさに「倭の姫」だったのですね。
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古人大兄皇子は舒明天皇の皇子で、天智帝とは異母兄弟になります。吉野山に入ったので吉野太子とか、古人太子と呼ばれ、舒明天皇の太子(ひつぎのみこ)=皇太子と誰もが認めていたのでしょうね。しかし、謀反の罪により討たれました

大化改新(645)と呼ばれる乙巳の変は6月でしたが、その9月に古人大兄は謀反を計画したそうです、書紀によれば。蘇我田口臣川堀、物部朴井連椎子(もののべのえいのむらじしひ)、吉備笠臣垂(きびのかさのおみしだる)、倭漢文直麻呂(やまとのふみのあたいまろ)、朴市秦造田来津(えちのはだのみやつこたくつ)と相談したようです。しかし、吉備笠臣垂は、中大兄に自首しました。
その為、古人皇子とその子達ともに討たれ、その妃妾は自ら首をくくった、と書紀に書かれています。
この状況の中を倭姫は生き残ったのです。

ちなみに、 自首した大錦下吉備笠臣垂(しだる)は、天平宝字元年(756)に吉野皇子(古人皇子)の反を告げた功により、功田二十町を賜っています。裏切って何十年どころか、百年以上経っての功田の下賜でした。なぜ百年余後なのでしょうか? 不自然ではありませんか…
他に物部朴井連は饒速日の末裔なので「物部」と冠していたのです。舒明天皇に近い人だったのでしょうね。この人は討たれたのですかね。
朴市秦造田来津(えちのはだのみやつこたくつ)は、小山下(しょうせんげ)という身分で天智元年「百済救援」の役に出て戦死したと思います。天智帝に仕えていたと云うことは、古人大兄を裏切っていたのですね。裏切り者は、吉備笠臣垂だけではなかったのでしょう。
さて、吉備笠臣垂が功田を賜った年は、孝謙天皇が譲位して淳仁天皇が即位した年でした。
天平宝字元年(756)、草壁皇子に岡宮御宇天皇と追号しています。この年に、藤原仲麻呂が「大保」に任命され、「恵美押勝」の姓を賜りました。非常に意味深な年なのです。


廃除された古人皇子の娘という、そういう背景を持った倭姫皇后です。父と家族の命を奪った叔父の天智帝の皇后となったのです。
では、天智天皇の聖体不豫の時に詠んだ皇后の歌です。
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147 天の原を振り仰いでみると、その天上の高きより長く垂れているのような大王の御命は、はるかに何処までもつながっているのです。
皇后は天皇の傍で祈り続けたのでしょう。しかし、天智天皇の病は重篤となり、言葉を交わすこともできなくなりました。

148 青々とした木々が旗のように見える木幡の山、その木幡の山の上を大王の御魂が何度も通っていることは風や雲の動きで私にも分かりますが、大王と直にお話することはもはやできないとは。
どちらも不思議な歌ですね。

聖体不豫の時、皇后はそば近くで平癒を神に祈り続け、言霊によりその霊魂を現世にとどめようとしているのでしょうか。皇后の役割として皇位継承の中継ぎをするだけではなく、聖体不豫の時に言霊により聖体を浄め守る役目もあったのでしょう。大王が神に選ばれた存在であるように、皇后も神に選ばれた存在であったのでしょうね。

また、明日




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by tizudesiru | 2017-11-18 10:06 | 304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か | Trackback | Comments(0)

持統天皇は天智帝と草壁皇子の皇統を守ると決意した

持統天皇の御製歌の意味は…
ずっと引き延ばしてきたこと、持統天皇がなぜ香久山を詠んだのか、このことについて書かなくてはなりませんね。前回の三輪朝臣高市麻呂の諫めが農繁期の「伊勢行幸」に対する抗議というより、「三輪山が見捨てられること、王朝の神祭りが伊勢に移ることへの深い憤り」から来たものであると書きました。
三輪山はもともと饒速日を祀る山でしたから、天氏系の氏の大切な聖地でしたからね。

では、持統天皇の御製歌を読みましょう。既に紹介したカードを使います。

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春過ぎて…冬という困難な時代を一人息子を守りながら耐え忍び、やっと春が来たと思ったら夏になってしまった…ついに、わたしがあの香具山の神祭りを引き継ぐ時がきたのだなあ
しかし
持統天皇は、「天武天皇の神祭りを引き継いでこれから自分が政をしよう」と歌ったのではありません。
引き継ごうとしたのは天智帝と舒明帝の「まつりごと」なのです。
香具山を詠んだのは三人の天皇、天智帝(中大兄)と舒明帝と持統帝でしたね。
その舒明帝や天智帝と同じ祭祀で、国の「まつりごと(政)」を行うと持統天皇は歌ったのでした。


持統天皇がこれほどまでに「天智天皇」の天香具山にこだわるのは何故でしょう。

壬申の乱という、まるで革命のような政権交代を成し遂げた天武天皇の皇后は「天智天皇のまつりごと」に倣おうとしました。天智天皇がつくりあげた戸籍「庚午年籍」を使い、天武天皇の皇親政治を止め、議政官を任命し律令政治を目指しました。夫の仕事をひっくり返したのです。でも、高市皇子に最高位を預け、内部の混乱を避けようとしたのだと考えます。

皇位継承に関しては「直系に継承」という天智天皇の意思に沿いました。具体的には天智天皇の「不改常典」(改めまじし常ののり)として、元明天皇の詔に登場します。天武朝の皇位継承を天智帝の法で縛ろうとするなんて、考えられないことでしょう。持統天皇をはじめ、まつりごとの基本は天智朝を手本としたと云うことです。なぜに?
持統天皇は心から天智天皇を慕い尊敬していたのです。それは、持統天皇の崩御の年まで続きました。
続日本紀からも、その思いが伝わります。
大宝二年(702)十一月二十五日、持統天皇は尾張・美濃・伊勢・伊賀への行幸から戻りました。その翌月の十二月二十二日に崩御となっているのです。
そんな大変な時期、崩御の二十日前、十二月二日に持統天皇は詔を出しました。
「九月九日、十二月三日は先帝の忌日(いみび)なり。諸司、この日に当たりて廃務すべし」
先帝とは天武天皇と天智天皇です。


九月九日は天武天皇の命日、十二月三日は天智天皇の命日。
その命日には仕事をしてはならないという詔ですが、十二月二日に次の日の仕事を休めという、かなり急な詔ではありませんか。それも、この勅は天武天皇の為に出されたのではありません。次の日の天智天皇の命日のために出されたのです。
崩御の二十日前までも、持統天皇は天智天皇を思い続けました。


その理由はもう分かりますね。
天智帝への愛以外にはありません。
今まで、万葉集で確かめてきたことが事実なら、持統天皇は有間皇子の所縁の人、妹か、許婚者か、娘です。となると、鵜野皇女こそ天智天皇に召された畝傍の媛だったと云うことになりますね。
ここで、持統天皇の一人息子・草壁皇子の父親は天智天皇だった、という天武朝にとって大変な展開となるのです。
しかし、考えてみると少しも矛盾はありません。天武天皇は「吉野盟約」で、自分の皇子と同じく天智帝の皇子も我が子として扱おうと約束します。おかしな話です。本当は自分の直系の皇子に皇位継承権を与えたかったでしょうに。天智系の皇子も我が子のように扱うと誓い、大喜びしたのでした。
吉野の盟約は、鵜野皇女の連れ子を我子とするための儀式だったと思います。

しかし、吾子・大津皇子への愛は断ちがたく、天武帝は「朝政を聴く」立場まで引き上げました。大津皇子の即位への道を開けて置いたのです。
草壁皇子は自分の出自を承知していたので、皇太子でありながら極位には着きませんでした。もちろん、草壁皇子は病弱ではありませんでした。万葉集の挽歌に詠まれた通り、狩が好きで阿騎野では御猟を楽しんでいたのです。健康な草壁皇子は大津皇子が極位に着くことを承知していたと思います。

その事は、大津皇子にも伝わっていて、草壁の意思を受けてもいいのか、天武帝の崩御後、伊勢の姉に相談に行ったのです。大伯皇女の不安は的中し、大津皇子は死を賜りました。その政治的判断は高市皇子がしたと思います。行政のトップは太政大臣の高市皇子でしたから。
高市皇子は最高権力を握った持統天皇に畏敬の念を抱き、その胸の裡を察したのでしょう。天智系の皇統を残したいと思っていることを。

大津皇子の死後、自責の念で草壁皇子は苦しみました。そのために、自死を選んだと思います。日本書紀は「薨去」のみしか伝えていません。病気平癒のために誰も出家していないし、大赦もなく、その葬儀をどのようにしたのか、一切書かれていません。(万葉集でその様子を知る以外にないのです。)
「乙未、皇太子草壁皇子尊薨」の一行のみです。弔いの使いの描写一つありません。

常々、持統天皇は、特定の皇子や皇女を大事にしています。
特に、明日香皇女の病の時は、沙門一〇四人を出家させました。人麻呂に挽歌も詠ませました。既に、紹介した通りです。しかし、大事な草壁皇子には沙門の出家はないのです。
特に寺を建立したとかもありません。草壁皇子の為に寺を建てたのは、中臣大嶋と比米額田です。
中臣大嶋は壬申の乱で斬られた中臣金の甥です。比米額田は額田王とされています。
二人は、なぜ草壁皇子の菩提を弔ったのか、答は一つです。草壁皇子が本来の主人・天智天皇の血統だからこそ菩提を弔う寺を建てたのです。
どの事実も、草壁皇子の出自と死の真実を指し示しているのです。
持統天皇は草壁皇子を失いました。その落胆と絶望はどんなに大きかったか。
しかし、残された道は一つしかありません。天智天皇の皇統・草壁皇子の皇統を守る以外にないのです。その決意の歌が「春過ぎて夏来るらし白妙のころもほしたり天の香具山」なのです。

つまり、持統天皇の御製歌は草壁皇子の出自を明かす歌なのです

持統帝が大事にした皇子・皇女は、長皇子(母・大江皇女)や舎人皇子(母・新田部皇女)、明日香皇女や阿
閇皇女・御名部皇女でした。
このような扱いをした理由はひとつ、なぜなら、彼らは天智帝の子孫だったからです。

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ですから、当然、持統天皇が大事にしたのは、先祖とつながる山田寺・川原寺・飛鳥寺・橘寺など蘇我氏・舒明帝や天智帝の所縁の寺院となりましょう。それは、同じ様式の瓦(山田寺式の瓦)が使用されていることでもわかります。
川原寺は九州で朝倉宮で崩御された斉明天皇の葬儀を天智天皇が執り行ったところでした。もともと宮殿で、後の世に寺とされたのです。橘寺は川原寺の正面の岡にある聖徳太子ゆかりの寺です。
吉備池廃寺も奥山廃寺も山田寺式の瓦が出土していますから、関係の深い寺だと云うことになりますね。
瓦は別の機会に紹介します。特に、奥山廃寺について紹介したいことがあります。

持統天皇の時代、大事にされた山田寺です。
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(冬の山田寺)
ここ山田寺は、蘇我倉山田石川麻呂の終焉の地です。其の霊魂は鎮められなければなりませんでした。

また、あした。



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by tizudesiru | 2017-11-16 00:42 | 302草壁皇子の出自を明かす御製歌 | Trackback | Comments(0)

持統天皇と呼子鳥をめぐる謎

続・持統天皇を呼び続ける呼子鳥
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歴史書を無視した話になってしまいました? 持統天皇の出自について、
前回のブログを見てびっくりですか? 確かに、無茶な展開でしょうね。

鵜野皇女は正史では蘇我石川麿右大臣の娘と天智天皇の間に生まれた皇女となっています。が、巻九の「紀伊国行幸の時の十三首」を繰り返し読んで、わたしには疑問が湧いて来たのです。持統天皇は何故にこれほど「有間皇子」を偲び続けるのかと。
はじめは、十三歳の鵜野皇女は有間皇子の許婚者だと思いました。孝徳天皇の跡を継ぐべき有間皇子と鵜野皇女は孝徳天皇の意思で婚約し、有間皇子は極位を継ぐべき立場にあったと思いました。そうなると、岩代まで有間皇子を追ってきた中皇命の歌の意味が分かりにくくなります。なぜに、父親の皇后という立場の女性が有間皇子を追って岩代まで来たのか、不思議です。兄の中大兄皇子の為に有間皇子に付き添ってきたという通説が成り立つでしょうか。

巻九と巻一と巻二(挽歌)を読むかぎり、中皇命は自分の意思で有間皇子を追って兄や母とは別に紀伊国に入っていたのです。「幸す」と「往く」と使われた漢字が違っていますから、それは揺るぎません。

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有間皇子に玉璽を伝えようと思っていたから、有間皇子が追っ手によって殺された後、中皇命(間人皇后)は逃げたと思います。日本海側の間人(たいざ)と呼ばれる港町に。間人(たいざ)に難を逃れた間人皇后は聖徳太子の母ではなく、孝徳天皇の間人皇后が追っ手から逃れたのだと思います。同じ「間人」ですから、聖徳太子信仰と結びついて伝承が残されたのだろうと。
だから、天智天皇は妹の間人皇太后が薨去した後、母の斉明天皇と合葬した後でなければ、即位できなかったのではないでしょうか。玉璽が手元にないのだから。
天智天皇は玉璽を得て初めて正式の大王になったのでした。

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では、持統天皇の母は誰でしょう。山田寺に封が下されたり見事な瓦が葺かれたり、天武朝の手厚い扱いを見ると持統天皇が蘇我系の女子であることは間違いないでしょう。

それでも、有間皇子が薨じた時十九歳だったという日本書紀の記述が、「持統帝は有間皇子の家族」説の大変な障害となりました。

それで、「日本書紀」が意図的に有間皇子の年齢を一回り(十二年)操作したという怪しげな説を持ちだす以外にないのですが…

あえて、次のような内容をブログに紹介してきたのです。ほとんど、去年から書いていることです。


・孝徳天皇の四十歳すぎに生れた後継者としては遅すぎるので、有間皇子はもっと早くに生れていたのではないか。
・中大兄皇子(三十歳過ぎ)がライバル視する年齢なら有間皇子は同年代に近いのではないか。
・難波宮には後宮も東宮もあったようだが、中大兄皇子は東宮には入らなかったし、妹も母も連れてヤマトへ戻っているので、皇太子ではなかっただろう。
・政権が変われば、後宮の女性たちは次の後継者の後宮に入れられたのではないか。孝徳朝の女性は有間皇子の後宮へ。有間皇子の後宮の女性は天智朝へ。天智朝の女性は天武朝へ。政権が変わるたびに女性は次の政権に引き継がれることになっていたので、十市皇女や吉備采女(近江朝の采女)の悲劇となった。
・中皇命は次の後継者である有間皇子の妃となることを承知していた。
・十市皇女の自殺によって後宮の中に不安が広がったので、天武天皇は「吉野の盟約」と呼ばれる儀式で、天智朝の皇子も含めて「家族になる儀式(謀反は起こさない)」をしたのではないか。それによって、天武天皇は満足して「吉野よく見よ」の歌を詠んだのではないか。

などなど、少しずつ書いて来ました。それは、有間皇子が十九歳ではないという前提によって引き出されたことですが、万葉集を読むかぎりこのようなことになってしまうのです。

わたしは古代史研究家ではないので平気で「とんでも説」を書けますが、日本書紀を読めるような研究者は「とんでも説」は出されませんね
もちろん、わたしも長い間「正史」に書かれていることを疑うなんてことはありませんでした。
しかし、元々好きだった万葉集を時々読むうちに疑問に思う事が次々に出て来たのです。「なぜ」を重ねていくうちに「持統天皇の出自って正史の通りなのかな?」という気分になったのでした。
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(紀伊国の春)
そして、巻九を何度も読むうちに「もしかしたら持統天皇は有間皇子の所縁の人!」ではないかと思うようになったのでした

だって、持統天皇は草壁皇子を亡くした翌年に息子の妃を連れて紀伊國行幸に出たのに、有間皇子の岩代の海岸を訪れ結松に涙しているのです。息子を思って泣くならともかく、三〇年も前に謀反の罪で刑死した有間皇子の謂れある地を訪ねて涙するなんて、所縁の人ではなくて考えられなかったのです。草壁皇子を偲んで泣いたのは、嫁の阿閇皇女(元明天皇)でした。嫁はむしろ他人でしょうに、母は息子ではなく更に縁の薄い有間皇子の霊魂を鎮めようとするなんて。
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更に、四〇年後、大宝令の完成した大宝元年に持統太上天皇は文武天皇と紀伊国行幸に出ますが、徹底して有間皇子を偲ぶ旅でした。若い文武天皇に伝えたいことがあった行幸で、有間皇子事件を辿るなんて信じられない展開です。
しかも、皇子終焉の地・藤白坂では涙を流し「皇子は無実だった」と読み、紀伊國には「止まず通わん」と十三首を締めくくったのでした。
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もちろん、天智天皇の罠に落ちた悲劇の皇子(皇位継承者だった)の霊魂を慰めることは、これから築こうとしている王朝の繁栄を盤石なものとするための儀式だったと考えられなくもありません。文武天皇にも祟り神としての有間皇子を祀らせ、先々の災難を避けようとしたと。

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しかし、考えてみてください。有間皇子の「まさきくあればまたかえり見む」の歌を思い出してください。「命永らえて戻ってきたら、また、お前を見よう。おまえに会いたい」と詠まれています。皇子は独りではなかったのです。再会したい人や家族があったから濱松が枝を結んだのでした。
皇子が再会したかった家族はどうなったのか。わたしはそれが気になりました。
もし連座をまぬかれるとしたら、誰が守ったのか、それは有りえるのか、などなど考え続けたのです。そして、

藤白坂でその運命を受け入れた有間皇子は霊魂となって、忘れかたみの娘を呼び続けた呼子鳥である、わたしにはそう思えたのでした。

では、天智天皇の皇女だという正史はどうなる? という段階ですね。実は、このことも万葉集を読むかぎり「一つの答え」しかないのです。




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by tizudesiru | 2017-11-13 01:47 | 300持統天皇を呼び続ける呼子鳥 | Trackback | Comments(0)

柿本朝臣人麻呂・近江朝を偲ぶ

もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも
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(電車で宇治川を渡る時の一枚)
宇治川を渡る時に思い出すのが、万葉集巻三の264番歌・柿本朝臣人麻呂の歌です。しかし、考えてみると、ちょっと違和感というか、変ですよね。
宇治川を見て、天武朝に仕える人麻呂が偲ぶのは滅ぼした近江朝だったとは…ちょっと、不思議ではありませんか。
確かに、宇治川の上流には琵琶湖があり、広い淡海が少し狭くなる辺りに天智天皇の近江朝の都がありました。大津京が京だったのはほんの数年ですが、万葉集では深い哀悼の思いを込めて繰り返し詠まれました。
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万葉集巻一に、人麻呂は「天智天皇こそ日知王の皇統を継いだ大王だ」として歌に詠みました。そして、「その大王が石走る淡海国の楽浪の大津宮で天の下を統治したのに、その王朝は滅び、都は荒れ果てた」と嘆いたのでした。この歌は人麻呂の個人的な哀悼の歌ではなく、公的な場での歌です。
この歌が詠まれた時、持統帝も天武朝の皇族も、壬申の乱で天武側に加担した氏族も、その場にいたでしょう。人麻呂だけでなく誰もが近江朝を偲んだというのでしょうか。壬申の乱の功労者の高市皇子も…傍にいたのなら微妙ですね。

そして、反歌二首では「ささなみの志賀」と詠んでいます。使われたのは「楽浪」と「左散難弥乃」の漢字でしたが、「ささなみの」という枕詞は、近江朝を引き出す言葉として人々の胸に残りました。それまでは「天さかる夷(ひな)=遠い田舎」であった淡海の国でしたが、「ささなみ」の志賀といえば、滅びた王朝と深く結びつくようになったのでしょう。
「ささなみの」が一句目にある歌は、万葉集には11首あります。その中で「神」がつくささなみのが四首あります。154番の石川夫人の歌は「天智天皇の葬送儀礼に詠われた挽歌」です。206番の置始東人の歌は、弓削皇子の挽歌として詠んだ歌です。
「神楽浪」は、高貴な人の霊魂漂う地として「楽浪」に特別な場所と意味を与えているのでしょう。
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弓削皇子は大津京で薨去されたのではありません。しかし、ささなみの志賀のさざれ波に例えて「いつまでも生きながらえていたかった」という皇子の思いを詠んだのでした。母が天智帝の娘の大江皇女だったから、天智帝の皇統を継ぐ皇子だと、神楽浪の志賀の浪に例えているのでしょうか。
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そして、宇治川の歌です。人麻呂は宇治川を見ても近江朝を思い出したのでした。

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この人麻呂の秀歌については、また明日、語り合いましょう。




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by tizudesiru | 2017-11-07 00:43 | 299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ | Trackback | Comments(0)

無理が通れば・小水城の不思議な版築

無理が通れば土塁ひっこむ?
小水城って何でしょう? 

大宰府を守る水城と同じでしょうか?
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大野城市教育委員会の「上大利小水城跡」の現地説明会に行ってきました。
天智天皇の治世につくられたという大野城(朝鮮式古代山城)から長く延びる土塁が水城です。
大宰府を守るために造られたとされています。
今回の現地説明会は、この水城ではなく「小水城」です。

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上大利の小水城が何処にあるかわかりましたか?
それは100mたらずの本当に短い土塁なのです。
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日本書紀・天智三年(664)以降に造られた水城とほぼ同じ時期に造られた「小水城」だそうです。
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右に何処にもあるような土手が見えます。これが削平された土塁です。
矢印のところで切れていますが、奥の丘陵に土塁は届いていたということです。

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矢印の辺りにトレンチがありました。
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版築土塁の基盤となるのは、谷部の底の花崗岩バイラン土でした。頑丈な部分まで掘り下げて版築をしているということでした。

1トレンチ

北側へ緩やかに傾斜している積土と土塁の裾部。積土のなかから須恵器(古墳時代)が少量出たそうです。黒い層は平安時代の土器が出土した腐植土層です。小水城の北側には、平安時代には水が溜まっていたそうです。
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版築はうすい層を何層にも重ねています。同じ土塁のはずですが、反対側の土塁の版築の層は厚いのです。明らかに工法が違っています。
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同じ土塁の中で版築の技法が違っていました。理由は、2トレンチのほうは基盤(花崗岩バイラン土)がしっかりしていたので版築も緻密ではなかったということでした。

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土塁の幅は緑の線の範囲と推定されています。
「土塁が東に向かって低くなっているのはなぜですか?」と尋ねました。
答は、木樋などの排水施設が見つかっていないので、排水のために東側が低いのかも知れないということでした。

それにしてもふしぎです。白村江敗戦後に造られたのは水城・小水城・大土居・前畑遺跡の土塁、そして大野城、基肄城・鞠智城だそうで、これらのすべてに版築技法がつかわれています。
どの土木工事を取り上げても、大変な人手と食料と統率力と経済力が必要です。
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見学会の会場の説明パネルに「巨大な防衛線」と書かれています。あの羅城説のことです。
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ここでも、羅城説が取り上げられていました。

羅城という大土木工事には、誰がかかわったのでしょう。
白村江敗戦後の筑紫國の人々が造ったという想定です。
二万の男性を亡くした筑紫国の婦女子と老人が、手弁当で版築の棒を握ったのでしょうか。食糧生産にもはげみながら…
白村江戦には兵糧として食料も持ちだしたでしょう。だから、備蓄されていた食料はすでに無かったでしょうに。残った人々は飢えていたでしょうに。


羅城があったとしても、白村江敗戦後に造るのは無理! ではないでしょうか。
無理が通ったというのでしょうか。無理が通れば道理は引っ込むのでしょうか。
…などと書きましたが、上の言葉は単なる疑問符です。
本音は、発掘している若者に頑張ってほしいのです。未来も彼らにかかっているのですが、過去も彼らにかかっているのです。彼らの真摯な思いが貫かれれば歴史は自ずから開いてくれると思うのです。

わたしは歴史のホントのところを知りたいのです。
不快な言葉があるかも知れませんが、本音は単純。歴史は世界の誰にとっても大切なものです。

今、熊本に来ています。
此処に来ると、過去の人々の努力と挫折と願いと喜びを感じることができるのです。

誰にも、素晴らしい明日を。


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by tizudesiru | 2017-09-03 01:31 | 279小水城の不思議な版築 | Trackback | Comments(2)

天香具山(物部氏の山?)を詠んだ天智天皇

天氏は物部氏ですね

天智天皇は「三山歌」で天香具山を詠みました
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すると、天智天皇は「香具山」に天が付くのですから、物部氏の皇統を主張しているのでしょうか。
「先代旧事本記」の「天神本記」によると、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)が東遷される時、三十二人の武将と二十五部の物部(軍隊)とその他の従者を従えてきました。三十二人の防衛の従者は
天香語山命(あまのかごやまのみこと)
天鈿賣命(あまのうずめのみこと)
天太玉命(あまのふとたまのみこと)
天兒屋命(あまのこやねのみこと)
天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)
天道根命(あまのみちねのみこと)
天神玉命(あまのかむたまのみこと)
天椹野命(あまのむくぬのみこと)
天糠戸命(あまのぬかどのみこと)
天明玉命(あまのあかるたまみこと)
天牟良雲命(あまのむらくものみこと)
天神立命(あまのかむたちのみこと)
天御陰命(あまのみかげのみこと)
天造日女命(あまのみやつこひめのみこと)
天世手命(あまのよてのみこと)
天斗麻彌命(あまのとまみのみこと)
天背男命(あまのせおのみこと)
天玉櫛彦命(あまのたまくしひこのみこと)
天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)
天神玉命(あまのかむたまのみこと)
天三降命(あまのみくだりのみこと)
天日神命(あまのひのかみのみこと)
天乳速日命(あまのちはやひのみこと)
天八坂彦命(あまのやさかひこのみこと)
天伊佐布魂命(あまのいさふたまのみこと)
天伊岐志邇保命(あまのいきしにほのみこと)
天活玉命(あまのいくたまのみこと)
天少彦根命(あまのすくなひこねのみこと)
天事湯彦命(あめのことゆひこのみこと)
天表春命(あまのうははるのみこと)
天下春命(あまのしたはるのみこと)
天月神命(あまのつきのかみのみこと)

続いて、五部人、天降りに従った人
天津麻良(あまつまら)、天會蘇(あまつそそ)、天津赤占(あまつあかうら)、富々侶(ほほろ)、天津赤星(あまつあさほし)
更に天降りに従ったミヤツコ(造)
二田造(ふつだのみやつこ)、大庭造(おほばのみやつこ)、舎人造(とねりのみやつこ)、勇蘇造(いそのみやつこ)、坂戸造(さかとのみやつこ)


天津物部ら二十五部の人。兵仗を帯びて天降る
二田物部、當麻物部、芹田物部、鳥見物部、横田物部、鳥戸(嶋戸)物部、浮田物部、巷宜(そが)物部、足田物部、酒人(さかひと)物部、田尻物部、赤間物部、久米物部、狭竹(さたけ)物部、大豆(まめ)物部、肩野(眉野)物部、物束(はつかし)物部、尋津物部、布都留(ふつる)物部、住跡物部、讃岐三野物部、相槻(なみつき)物部、筑紫聞(つくしのきく)物部、播磨物部、筑紫贄田(つくしのにへた)物部

船長(ふなおさ)舵取りを率いて天降る
天津羽原(あまつはばら)、天津麻良(あまつまら)、天津真浦(あまつまうら)*以下三人の名がない書がある 天津麻占、天都赤麻良

ここまで「天」が並ぶと、あまの〇〇と来れば「饒速日」の関係者だと思いますよね。
ではでは、天智天皇の近江朝の荒れた都を過ぎる時の柿本人麻呂の歌を思い出してみましょう。「畝傍の山の橿原の日知りの御代から」と詠んでいます。橿原で即位したのは、記紀によれば神武天皇です。神武天皇に長髄彦(ながすねひこ)は言いました。
「昔、天神の御子が天岩船に乗って天より降られました。櫛玉饒速日尊と云われます。私の妹三炊屋媛(みかしきやひめ)またの名・
長髄媛・鳥見媛と結婚して御子が生まれ、可美真手(うましまで)命といいます。私は饒速日命を君としてお仕えしていました。」
すると、饒速日が大王にになっていたのですね。
そして、初代神武天皇から九代開花天皇までの皇后が饒速日の神裔から立てられました。この皇后の皇子が皇太子となり次期の大王となったのです。

柿本朝臣人麻呂は、近江の皇都を詠みました

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この長歌も中大兄が何者か語られているのです。
今日はここまで


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by tizudesiru | 2017-07-02 22:00 | 263天智天皇は物部系の皇統か | Trackback | Comments(0)

214 天智天皇が建てた寺・崇福寺

天智天皇も寺を建てていた

扶桑略記によると崇福寺は668年建立です
写真は崇福寺です。下の写真は、大津市歴史博物館の売店で買った「かわら」から撮りました。
天智天皇はこんな山の中に寺を建てたのですね。持統天皇の御代に、山寺として万葉集にも出ています。崇福寺は尾根の上に寺院があり、深い谷が間にあります。
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万葉集巻二の115は、但馬皇女の歌です。
但馬皇女は天武天皇と藤原鎌足の娘(氷上娘)との間に生れました。穂積皇子は、天武天皇と蘇我赤兄の娘(太蕤娘おおぬいらつめ)との間に生れています。どちらも、祖父は天智天皇の腹心の部下でした。
それで、二人は近づいたのでしょうか。高市皇子は 当代きっての権力者であったはずなのに、です。高市皇子はどう思ったでしょうね。どうでもよかったのかな?

但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、穂積皇子を思いて作らす歌一首
114 
秋の田の穂向きの寄れる片寄りに君に寄りなな言痛(こちた)くありとも
  穂積皇子に勅して、近江の志賀に山寺に遣わす時に、但馬皇女の作らす歌一首
115 
後れいて 恋つつあらずは追いしかむ道の隈みに標結へわが背
  
但馬皇女、高市皇子の宮にいます時に、ひそかに穂積皇子に接い、事すでにあらわれて作らす歌一首
116 
人言を繁み言痛(こちた)み おのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る

但馬皇女は、高市皇子の妃となっていたのです。それなのに、穂積皇子に恋してしまった。皇女の恋歌は、高校でも学習するし、よく知られていますよね。
さて、滋賀の瓦ですが、天智天皇の崇福寺より古い寺があるんですが、実はその穴太廃寺を訪ねて行ったのですが、大雪だったしとうとうたどり着けませんでした。それで、大津市歴史博物館で本を買ったのです。では、穴太廃寺の瓦を見てみましょう。

7世紀前半の寺を近江京に合わせて造り変えた」? なんじゃ??意味不明の説明ですね。
これはですね、もともと古寺が穴太にあったのですが、天智天皇が近江に遷都した時、その古寺を造り変えて、方向を近江京に向けた伽藍にしたというのです。私は、向きを変える前の伽藍と瓦のことが知りたかったのです。
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百済系というより新羅系の古瓦です。多くのことが分かりました。もともとの伽藍は、東に塔、西に金堂でした。創建寺院を取り壊して、再建寺院を造らねければならなかった理由って何でしょう。東西に塔と金堂が並ぶ古代寺院の伽藍は、まるで九州ですよね。

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by tizudesiru | 2017-02-11 00:06 | 214天智天皇が建てた寺 | Trackback | Comments(0)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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カテゴリ

全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
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2竹原古墳
3間夫という山
4筥崎八幡宮
5弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6平原王墓ラインから分かること
7八女丘陵の古墳のライン
8高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山
11羽白熊鷲と脊振山
12羽白熊鷲と古処山
13九千部山と香椎宮
14国守りの山は何処に?
15神籠石が教えてくれる古代
16六世紀の都
17神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
39神籠石から分かること(4)
40神籠石から分かること(5)
41神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43古代の宮殿は何処に?(1)
44江田船山と筑紫君磐井
45筥崎宮から見た太宰府天満宮
46高千穂の峰から阿蘇へ
47雲仙が守った首長は、何処
48神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50醍醐天皇の都の守り
51十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社
53空海の霊力
54出雲大社と熊野本宮大社
55大山古墳の謎
56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線
59続石上神宮の視線
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64続・あおによし奈良の都は
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67石城山神籠石ライン
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75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳のライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社の不思議
92薦神社の不思議2
93金富神社と鉾立山
94 金富神社と鉾立山 2
95 金富神社と鉾立山3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
101宇佐神宮と九州の神々
278西原村の旧石器・縄文・弥生の資料
309白村江敗戦後、仏像を供養した?
309白村江敗戦後の霊魂
289人麻呂が見た王朝の皇子達
256平城京と平安京
219法起寺式伽藍
149有間皇子を愛した間人皇后
102安心院の二女神社
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城に瓦があった
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
261隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵善寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺

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