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景行天皇と倭武尊が詠んだ平群の山は飯盛山

古事記にある平群山は福岡市の飯盛山
先に「倭は国のまほろば・倭建命の国偲び歌」と「虚実ないまぜ?古事記と書紀の倭建命の父」(カテゴリ・272平群を詠んだ倭建命)で「平群の山の熊白橿の葉を髻に挿せ」という歌詞をとりあげました。
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この倭建の絶唱に詠われた平郡の山は福岡市の山だと既に紹介していました。その早良郡史のコピーが見つからなかったのですが、家の隅から見つけました。やはり、
飯盛山こそ平群の山だった
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吉武高木遺跡の西に在る飯盛山です。かって、この辺りは平群村でした。将にこの遺跡を中心とした一体です。
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飯盛山から西山麓の室見川を挟んだ一帯を平群郷が占めていました。飯盛・金武・吉武・羽根戸が室見川の西側にあり、田(でん)四ケ(しか)は室見川の東側です。地形的にも近畿の平群と似ていますね。ここ早良郡には伊都国とつながる三カ所の峠がありました。飯場峠や日向( ひなた)峠などは有名ですよね。
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室見川は北に向かって流れています。額田郷で海に注ぎますが、そこには山門(やまと)郷があり、小戸の青木ヶ原が広がり壱岐真根子神社(武内宿祢の身代わりになった真根子を祀る)があります。額田郷も弥生遺跡の宝庫です。奥の島影は残島(能古島)で、オノコロ島(?)とも……だそうです。

この川の中流域・この辺りに平群郷はあったのです。
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西の飯盛山を神山としたのは当然でしょうね。山頂では伊弉冉尊を祀ります。創建時から山頂に伊弉冉尊で、中宮には五十猛命を祀っていました。山頂の玉石は南北朝の戦乱以来、下宮に安置されています。
平安時代になって、廃れていた神社に平城天皇の孫・在原清平から手紙が届き、途絶えていた祭事を復活させたと、神社の由緒にありました。
以来、年間26の行事を執行し、正月十四日の粥占の行事には勅使の参向があったと町史に書かれています。最盛時には神官も十三家あり、七カ所の末寺もありました。

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(飯盛神社・流鏑馬が行われています)
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平群郷の辺りには、伊弉冉命を祀る神社が沢山あります。不思議なことに伊弉諾尊を祀る神社はありません。伊弉冉命と共に祀られているのは、事解男命、速玉男命です。
他の神社には、素盞鳴命(スサノウ)、埴安神、大山祇神、熊野三神、事代主命、少童大神、保食神等々さまざま祀られているのに、伊弉諾命は他の地域に行かないとありませんし少ないです。姪浜の鷲尾愛宕神社には、天忍穂耳命、伊弉諾命、伊弉冉命、火霊産命が祀られています。やはり、伊弉諾命だけの神社はありません。男神は霊験あらたかではなかったのでしょうか。
早良郡は女神を信仰する土地柄なのですね。それは、古代から引き継がれたものでしょうか。すると、中心の神山は飯盛山です。平群郷の神山は、飯盛山です。
ここが、古事記に詠まれた「平群の神山」と思うのです。地名だけでなく古代の神祭りを伝えていますから。

この山に伊弉冉命だけしか祀られていないことを不思議に思ったのは、後の世に進出した氏族、ここの歴史を知らなかった為政者でしょうか。相対する男神を若杉山に太祖神社として祭りました。
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要するに、伊弉諾命が祀られたのは、後の時代ですね。
古代から祭祀をする時、飯盛山を神山として、起点にしてラインを引いたと思います。わたしも古墳や神社や山頂とラインを結んでみました。すると、この十年余りでたくさんの神祭りのラインを見つけました。二点ではなく、山頂・山頂・古墳古墳・古墳・山頂山頂・古墳・山頂神社・古墳・山頂、などなどの三点以上を結んだのです。有効なラインもありますが、偶然もありましょう。でも、地図にのせられた有名どころをつなぎますよ。
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こんなに通過点として、起点としてラインが集まる山はかぎられます。無視できない状況だと思います。これは、古代から神祭りの山だった、祖霊の集まる山だった、ということではないでしょうか。
では、平群郷についてはおわりましょう。



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by tizudesiru | 2017-10-29 16:01 | 272平群を詠んだ倭建命 | Trackback | Comments(0)

倭は国のまほろば・倭建命の国偲び歌

平群の熊白樫を詠んだ倭建命

長屋王の墓が残る平群は、ほとんどがゆるやかな傾斜地です。

ここは、滅ぼされた古代豪族・平群氏の本貫でした。
古事記では倭建命も、平群の山を詠んでいます。

倭建命の故郷は平群ではないのに

命は平群の熊白樫を詠みました。それを髪に挿して、祀り事をしなさいと。

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(奈良県平群町を流れる竜田川、水量も減ってしまったとか。大和川の支流です)

古事記の倭建命・たくさんの歌が掲載されている

命の父は大帯日子瘀斯呂和氣で、纏向の日代宮に治天下天皇(景行天皇)です。
母は若建吉備津彦の娘・針間の伊那毘能大郎女。
同母の兄妹は、櫛角別王。大碓命。
倭根子命。神櫛王。
       小碓命(倭男具那命)=倭建命

倭建命は西に東に兵を進め、あげくの果てに心身ともに疲れ、杖をついて能煩野(のぼの)までたどり着いました。そこで「国偲びの歌」を詠み、薨去しました。

倭は国のまほろば たたなずく青垣 山隠れる 倭しうるわし

倭は国の中でももっともすぐれたところで、たたみ重ねたように連なる青垣のような山々の中に籠っている、倭はうるわしい。

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続いて
命の全けむ人は 畳薦 平群の山の 熊白樫が葉を 髻華(うず)に挿せ その子

わたしは、もはや生きて故郷に帰ることはできないだろう。命ある者は、畳んだ薦を広げたような平群の山の神霊のこもる樫の葉を髻(もとどり)に挿して、神に感謝をするのだぞ、お前たち。

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さて、倭建命の歌は能煩野(のぼの)で読まれました。
また、続けて、

愛(は)しけやし 吾家(わぎへ)の方よ 雲居起(た)ち来も

なつかしいなあ、我が家の方から雲が湧いて来るよ


この時、命は危篤状態になりました。

嬢子(おとめ)の床の辺に 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや


乙女の(ミヤズ姫のこと)床の横にわたしが置いて来た剣、その刀剣があったなら、その刀剣が、ああ…

と歌いおえ、崩(かむあが)りされました


さて、倭建とは何者でしょう

西も東も平定した(九州から関東まで)
皇室の宝の草薙劔を持っていた・
各地に地名を残した・
本人も皇太子息子は帯中津日子(仲哀天皇)
妃は垂仁天皇の姫・尾張の娘も妻とした・

平群熊白樫(くまかし)の霊験を知っていた・

天皇ではないのに、死去した時「」と書かれた
*宇治若郎子も崩と書かれていたと思います。

書紀では「国偲び歌」は景行天皇の歌となっている
倭建の記事が異常に多い
 
それにしても、古事記は正直です。物語を無理にでっち上げていないかも知れません。
それぞれの天皇の記述が極端に多かったり、少なかったりするのです。例えば、成務天皇は、単行本では6行。景行天皇は、220行(16ページ)なのです。220行のほとんどが、倭建のエピソードとは・・・。全く、古事記は何を伝えたいのでしょう。

わたしは、倭建は、筑紫の人だと思います。
なぜなら、熊襲と出雲と東国にまで遠征したのに、筑紫は討っていません。纏向も討っていません。纏向には別の同族がいたからでしょうか。皇太子が三人いるのも不思議です。それぞれ別の王族の皇太子と見たほうが自然です。
それに、倭建の曽孫・迦具漏比賣を大帯日子天皇が嫁にして子をもうけています。
息子の曽孫と結婚するなど、有りえないことです。
では、倭建は大帯日子天皇の皇子ではなく、遠い先祖となります。

気が付かれましたか、倭建の遠征地と大国主の勢力範囲と重なりますね。


倭建は倭王武かもしれません。彼は自ら甲冑を着て東西に兵を進めましたから。その伝承が、大国主=倭建と結びついた!!
どこかで聞いたような話になりますか?

すると、倭建の本貫は何処なのか。

福岡平野の西となりますね。そこにも平群がありましたから。倭建は平群の山の神を頼りにしていたと云うことですから。

貴方は、どう思いますか?
このブログの「大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる」を合わせて読んんでくださいね。「彷徨える大国主」あたりも一緒に読んで下さればありがたいです。

また、明日

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by tizudesiru | 2017-07-27 11:08 | 272平群を詠んだ倭建命 | Trackback | Comments(0)

192人麻呂の編集・軽太郎女皇女の歌

192人麻呂の編集・軽太郎女皇女の歌

有間(ありま)皇子と(こう)(とく)(36代天皇)の皇后だった間人(はしひと)皇女の物語を僅か首の歌に見ました。が、何度も言うように、この物語は万葉集ができた当初は隠されてはいなかったと私は思っています。

堂々と、しかも読み手に分かるように柿本人麻呂が編集していたと、私は考えているのです。

難波(なには)天皇の「難波長柄(ながらの)豊崎(とよさきの)宮御宇(みやにあめのしたしらしめす)難波高津(たかつ)宮御宇」仁徳天皇(16代天皇)に変えたのは、後の人です。

後の学者も各歌の信憑性を疑い、様々に検討を加えています。巻二の冒頭の「(いわの)(ひめ)皇后の歌」には納得しかねたのでしょうか。詳しい左脚があるのです。

磐姫皇后の御歌で85~89の歌の内、山上憶良(やまうえのおくら)の「類聚歌(るいじゅうか)(りん)」にあったのは、85だけだとを入れています。

それでは、86~89は誰がここに置いたのか。89は「古歌集」から選ばれたのですから、それは編集者の手元にあった「古歌集」からの引用に他なりません。

86~88の三首は、言葉と表現方法から「柿本人麻呂」の作だと云われています。

すると、人麻呂は熟慮の結果として「磐姫の四首を並べた」のでしょう。


さて、
(いわの)(ひめ)皇后の四首の後に、軽太郎女(かるのおほいらつめ)の歌(90)が置かれています。

この90番歌が、磐姫皇后の85番歌とそっくりなのです。

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これは、軽太郎女の決心を歌ったものです。

万葉集中の磐姫皇后は、大変けなげで書紀の磐之姫とはかなり違って、「どんなに年を取ろうと白髪になろうとあの方をお待ちしよう」と決心していました。


しかし、軽太郎女は違います。

軽太郎女は決然と立ち上がり、太子を迎えに行くのです。


軽太郎女(軽太娘)皇女の歌が語る政変

90 君が行き()長くなりぬ山たづの迎えを往かむ待つには待たじ

あの方がお出かけになってからずいぶん日が経った。お迎えに往こう。このまま待って、待ち続けるなんてできない。

万葉集には「右の一首は、古事記と類聚歌林というところに同じくあらず」と書かれ、磐姫皇后の御綱柏を海に投げ捨てた嫉妬の話が先に紹介された後、「また曰く」と、軽太子と軽太郎女の話が紹介されています。


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左脚には「遠つ飛鳥の宮に天の下知らしめす雄朝嬬稚子宿禰(をあさづまのわくごのすくねの)天皇(すめらみこと)(19代・允恭天皇)の二十三年の春三月、(きのえ)(うま)の朔の庚子(かのえね)に、()(なしの)軽皇子(かるのみこ)を太子となすてい

書紀の允恭天皇紀(19代)によると、確かに、仁徳天皇(16代)の三子・允恭天皇(履中天皇の弟)の二十三年に、木梨軽皇子が皇太子(ひつぎのみこ)二十四年太郎女密通まいす。木梨皇子皇太子であったず、伊予皇女た。

安康(あんこう)天皇紀20代)によると、允恭天皇四十二年正月に天皇崩御。冬十月、皇太子暴虐(軽太郎女との問題)のため群臣の信頼を損ない、群臣が弟の(あな)()皇子ついった穴穂皇子とうし、穴穂皇子太子物部大前宿祢自害伊予


となっているのです。しかし、よく見ると木梨軽皇子は伊予には流されていません。物部大前宿祢の家に逃げ込んだのですから。事の発覚が允恭二十四年で、自害は天皇崩御の四十二年になっています。


このズレの意味は何でしょうか。

古事記では、軽太子は大前小前宿祢の家に逃げ兵器を備えたが、穴穂皇子が軍を興して大前小前宿祢の家を取り囲んだ。

しかし、宿祢は太子を説き伏せ「われ捕らえて貢進せん」と軽太子を差し出したので、太子は伊予に流された。

宿禰は、ほかに軽皇子を救う方法がなかったのでしょう。


そこで、軽太娘皇女が「君が行きけ長くなりぬ」と歌うのです。

皇女は軽皇子を追い到り、お互いに歌を交わしました。そして、「共に自ら死にたまひき」という結末になります。

 

古事記・日本書紀ともに、共通するのは「謀反」事件です。

それも、皇太子の謀反ではありません。皇位を奪ったのは、他の皇位継承者でした。軽太子をスキャンダルで追い詰め、流罪にし、死に到らしめたという…

どこかで見たような展開です。


そうです。
皇太子をスキャンダルで追い込み、死に至らしめる、まるで有間皇子事件にそっくりではありませんか。

軽太娘皇女の歌が万葉集に置かれた意味はここにあります。

当時の人には、万葉集・巻二の冒頭の五首の意味が全て分かったことでしょう。

驚きの編集と云わねばなりませんね。




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by tizudesiru | 2017-01-06 23:55 | Trackback | Comments(0)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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232岩戸山古墳の歴史資料館
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241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
261隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵善寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた

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