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光明皇后の愛と苦悩

新薬師寺は黙したまま光明皇后の苦悩を伝える
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新薬師寺は光明皇后が聖武天皇の病気平癒を祈願して建てた寺院だと云われます。十二神将像で有名です。平安時代末に成立した「東大寺要録」には末寺である新薬師寺について書かれていて、『天平十九年(747)に光明皇后が夫聖武天皇の病気平癒のため新薬師寺を建て、七仏薬師像を造った』とあるそうです。
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写真は新薬師寺のパンフレットです。中央の薬師座像を十二の神将が守っています。
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万葉集の巻八1658は、「藤皇后天皇に奉る御歌一首」です。
吾が背子と二人見ませば幾ばくかこのふる雪の嬉しくあらまし
愛しいわが背の君と二人でこの雪を見られたならば、寒く寂しい雪でさえどんなにか楽しく見ることができたでしょうに。
雪の日、聖武天皇は都におられなかったようです。都に残った皇后は寂しかったでしょう。阿倍内親王(718生)の後十年間も子供に恵まれず、かたや聖武天皇と犬養広刀自の間には安積親王・井上内親王・不破内親王と誕生したのに、光明子にはやっと授かった基王が立太子されながら一歳で死亡という不運に見舞われ、失意の日々を過ごしていたでしょう。長屋王の自刃(729)で臣下出身の皇后となっても、母県犬養美千代(733没)を亡くし、頼りにしていた兄たち藤原四兄弟を亡くし(737)、藤原広嗣の乱(740)では僧玄昉との仲を甥の広嗣に疑われ、この後聖武天皇は恭仁京・紫香楽宮・難波宮と住みかえながら平城京を離れました。
孤独と苦悩の日々、この時、光明子の手に有ったのは、権力と財力でした。
興福寺の五重塔は、一年足らず驚くべき速さで建立されました。
母美千代の菩提を弔うために「西金堂」を建立します。あの阿修羅を含む乾漆八部衆立像などが安置されたお堂です。

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新薬師寺と云い、五重塔と云い、西金堂と云い、莫大な富を持った人にしか造営できないものです。国家の富の6分の1を光明子が持っていたそうですが、そうなんですね…。
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本堂は本来のものではなく、広大な元の新薬師寺内のいずれかのお堂だったそうです。
新薬師寺の仏は素晴らしいまなざしで時代をみてきたのです。
守護神である宮毘羅(くびら)像に蝋燭を上げて祈り、家族の為にも祈った後は外に出ました。気になる物を見つけていたからです。以前にも幾度か来たのに気が付きませんでした。それは、南門のすぐそばに在りました。
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「神像石由来」に「弘文天皇の御曽孫淡海三船公は本邦最初の漢詩集「懐風藻」を編集せられ四面楚歌の中にありながら曽祖父なる弘文天皇(大友皇子)いませし日を顕彰せられ、孝養を讃え四代にわたる御姿石を勧請し永く斎き奉らん願うものなり」と書かれていました。この説明板は新薬師寺に隣接する「鏡神社宮司」様がお書きになったということです。これは、何時からの言い伝えでしょうね。
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この話は、また明日


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by tizudesiru | 2017-06-13 00:08 | 254新薬師寺・光明子の下心 | Comments(0)

198光明皇后の不幸と不運

198光明皇后の不運と不幸

当時の女性たちの中で最高の権力と財力を手にしたのは、光明皇后でした。

しかし、不運で不幸な女性でもありました。もちろん、聖武天皇の皇后になったからです。

権力が光明子を不幸にしたのです。

光明子は生まれた時から聖武天皇((おびと)皇子)の妃となるべく育てられました。母譲りの気丈な女性だったようで、聖武天皇に尽くすことが藤原の娘としての自分の使命だと確信していたようです。

しかし、(もとい)王(728没)の他に男子をもうけることはできず、女子の阿倍(あへの)内親王(ひめみこ)を皇太子にする(738年)ほかは有りませんでした。母として、それでよかったのでしょうか。阿倍内親王が立太子されたのは二十一歳の女盛りです。過酷な判断だったのではないでしょうか。

この時、光明子は三十八歳、基王を生んだ時の光明子は二十七歳でしたが。十年間子供に恵まれなかったのです。

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長屋王の事件以来、光明皇后はふさぎ気味だったでしょう。
あの日、

天平元年(729)、長屋王の事件は世間を揺るがせました。

世間では長屋王への同情が広がりました。「長屋王は無罪だったのに」と。

噂を鎮めるための勅には「長屋王は悪人だったから除かれ滅ぼされたのだ。衆は三人以上集まって話をしてはならない」と書かれました。

異端を学んだ者、勅禁を破る者、呪詛をする者は罰する」という勅も出ました。(呪詛は大流行していたのです。)

天平二年(730)、光明皇后は興福寺の五重塔を建てたりしましたが、男子を授かることはありませんでした。それは、長屋王の怨霊でしょうか。世間は様々に取りざたしたでしょう。

長屋王の館は官に没収され、光明皇后のものとなりました。これを世間はどう思ったでしょう。皇后は平城宮に隣接する長屋王の住居跡が欲しかったのではないか… そこに、皇后となった藤原夫人は、「皇后宮職」を新設していました。

そこに、疫病の流行でした。


天平九年(737)、大宰府に疱瘡が流行し、たちまち都に伝染しました。そのため、藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麿)が揃って疫病で没しました。まるで天罰。世間はそう思ったでしょう。

この年、遣唐使の玄昉が持ち帰っていた経論を皇后宮職で写経させました。皇后が仏教にすがったのは無理からぬことでした。そして、

天平十年(738)、阿倍内親王の立太子。四兄弟が没した以上、どうしても政権の安定を図らねばなりませんでした。

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天平十二年(740)

そんな時に、藤原広嗣の乱は起こりました。広嗣は大宰府に左遷されたと、不満を感じていました。それを上表文にしたためました。そして、

弟と九州の兵を使って都に攻め上がろうとしますが、失敗しました。

天皇を誹謗することは、それだけで大罪でした。極刑となります。

広嗣は上表文を出した時点で大罪を犯していました。

彼は都からの「光明皇后と玄昉のよからぬ噂」に、怒り心頭だったようです。

しかし、噂です。噂で兵をあげるなど、考えられない事でした。このように、実際に兵を動かした大罪は、この時代には藤原氏だけがおかしました。(他の謀反事件は密告などで露見し、兵など動かしてはいません)

藤原四兄弟の没後に「広嗣の乱」。怨霊の仕業でしょうか。

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大仏鋳造の発願の詔が出されたのは、光明皇后が一番苦しい時でした。光明皇后は仲麻呂を優遇します。(が、光明皇后没後、4年で仲麻呂も乱を起こし斬られました。この時代、二度も藤原氏は乱を起こしました。)
更に、犬養三千代の子であり、兄であった橘諸兄が没すると、甥の橘奈良麻呂は謀反で断罪されました。光明子は、長屋王事件・橘奈良麻呂事件・藤原広嗣の乱と、苦しめられました。

光明子の不運と不幸の遠因は、「皇后」だったからです。

聖武天皇の皇后だったからです。

聖武天皇の崩御後に天皇遺愛の品を正倉院に納めたのは、光明皇后です。

その宝物は寺によって守られ今日まで伝わりました。

「正倉院展」は、毎年大盛況です。宝物の豊富さと豪華さ技術の高さなどに毎回驚かされました。そして、この天皇だけ、何故このように遺愛の品が残されたのかと不思議に思います。他の天皇の私物はほとんど残されなかったのに。


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考えてみると、遺愛の品は「開かずの倉庫」に納められました。

皇后としての苦痛の年月を思い出す品々を、光明皇后は見たくなかった、見るのが辛かった、二度と目に触れないものとしたかったと、思うのです。

それは、封印。それは、聖武天皇への決別だったのかも知れません。

そして、権力によって大事なものを失ったことの後悔でしょうか。

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また明日




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by tizudesiru | 2017-01-12 22:18 | 198光明皇后の不幸と不運 | Comments(0)

197 光明子の苦悩と懺悔

197光明皇后の苦悩と懺悔        

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701年生まれの光明子は、夫の聖武天皇(首皇子)と同じ齢でした。

(おびと)皇子(聖武天皇)の乳母は光明子の母・犬養三千代です。

首皇子と光明子は、生まれた時から運命の糸に縛られていました。

県犬養橘宿祢(あがたのいぬかいのたちばなのすくね)三千代(みちよ)(県犬養命婦(みょうぶ)

東人の娘。()(のの)(おほきみ)に嫁し、葛城(かつらぎ)王(橘諸兄)()()王・牟漏(むろ)女王)を生む。

後に藤原不比等の室となり光明子(光明皇后)を生む。

養老(ようろう)元年(717)従四下より従三位、養老五年(721)正三位になるが、同年5月に元明天皇不予(ふよ)により入道。天平五年(733)の薨去。

葬儀は散一位で行われ、同じ年に贈従一位。

天平八年(736)葛城王・佐為王に橘の姓を下賜。

(おびと)親王は三千代と藤原不比等に深宮の奥で大事に育てられました。

成人した首親王と光明子は結婚させられました。

光明子が阿倍(あへ)内親王(こう)(けん)天皇)を生んだのは、十七歳か十八歳の時です

幼いまま母となりました。

皇后になるための特訓は受けていたはずですが、まだ精神的には子供だったと思います。

夫の聖武天皇には犬養広刀自という女性が仕えて、三人(安積(あさかの)皇子(みこ)・井上内親王・不破(ふは)内親王)の男女に恵まれました。安積皇子が生まれたのは、光明子が生んだ皇太子・(もとい)王(九月没)が薨去した翌月でした。

自分が産後の憂鬱にイライラしている時に犬養(いぬかいの)(ひろ)()()懐妊し、更に自分が愛息を亡くした時に広刀自が出産するという現実、後宮の女性の言の葉に上った噂はどんことだったでしょうね。

光明子の嘆きと恨みは大きかったと思います。

基王の没年(728)の年、長屋王家の殲滅計画がなされたとしても、光明子は反対しなかったでしょう。

聖武天皇はそれを知らずに、安積皇子の誕生を喜んでいたでしょうね。

藤原氏にとっても、ゆくゆくは広刀自の生んだ皇子皇女の権力への道は閉ざさねばなりませんでした。

そして、藤原氏にとって気になることは、聖武天皇のまじめさでした。

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聖武天皇は叔母の元正天皇と約束を交わしていたようで、即位の年(724)には紀伊国行幸をしました。その時、冬十月、

山部赤人(やまべのあかひと)の長歌に「やしみしし 我ご大王の常宮(とこみや)と仕え奉れる」

という詞が使われています。聖武天皇は、紀伊国の雑賀(さいか)の宮を仮宮ではなく常宮として使うつもりだったようです。紀伊国には特別の思い入れがあった、特別の所縁の地としていた、ということです。

何のための行幸か、すでに何度も述べた通り、「大宝元年辛丑冬十月の持統太上天皇の紀伊国行幸」は「有間皇子の所縁の地への鎮魂のための行幸」でしたから、聖武天皇もその行幸をなぞり亡き人を偲んだのです。

そして、紀伊国には「止まず往来」しょうと、常宮としたのでした。

持統帝の死後の柿本人麻呂の紀伊国の旅も、亡き人をしのぶ旅でした。

亡き人の所縁の地を訪ねることは、霊魂に触れるための行為でした。

聖武天皇は那珂(なか)郡と海部(あま)郡に長逗留し、名草(なぐさ)と海部の二郡の田租を許し、(わかの)(うら)明光(あか)浦と地名も変えました。

聖武天皇は誠実だったのです。気弱とか意志薄弱とか云われますが、権力におごらず心優しい人だったのでしょう。三十年以上も母の藤原宮子にも会えず、寂しかったと思います。

そんな聖武天皇が安積皇子や長屋王の王子達を皇太子としないように、藤原氏はことを急ぎました。

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神亀六年(729)

二月十日に密告があり「ひそかに()(どう)を学びて国家を傾けむとす」

その夜、兵が長屋王の宅を囲みました。

指図したのは藤原武智麻呂、長屋王宅に向かったのは式部卿の藤原宇合、その他もろもろの官人、そして長屋王の館を囲ませたのです。王家の人々に、逃げる道は何処にも有りませんでした。

*左道とは、良くない道、邪道ということで、長屋王が何か具体的にしたというのではありません。何もなかったのです。

二月十一日、取り急ぎ官の人事を仮に済ませ、

朝十時には、舎人(とねり)親王、新田部(にいたべ)親王と皇族のトップをそろえ、大納言・多治比(たじひの)真人(まひと)池守(いけもり)、中納言・藤原(ふじはらの)武智(むち)麻呂(まろ)長屋王の罪を(きゅう)(もん)しました。

長屋王には、もはや妻や子を救うことはできません。

たぶん、王は自分の身と引き換えに妻子の命乞いをしたと思います。

神亀六年(729)長屋王の謀反の密告は二月十日

二月十二日、王をして自ら()なしむ。その室二品吉備(きび)内親王、男従四位下膳夫(かしはで)王、無位桑田(くはた)王、葛木(かつらぎ)王、(かぎ)(とり)王ら同じく亦自ら(くび)る。

身分の高い皇族を手に掛けることはできませでした。自ら死なせたというのです。男子四人は立派な皇位継承者でした。

続日本紀には、長屋王についてはさんざん誹謗していますが、吉備内親王については『罪無し』と書いています。

事は起ってしまいました。聖武天皇がどんなに嘆かれたか知れません。

長屋王家の滅亡の後、光明子は皇后となれたのです。

長屋王事件は、光明子の中に何を残したでしょう。

光明子の業績を見れば、その事が分かります。

天平二年(730)、興福寺の五重塔の建立を発願し、年の暮には完成させた。

五重塔建立は長屋王事件の翌年でした。

五重塔を造らねば落ち着いておれなかったのです。

天平五年(733)、興福寺の東金堂に対面する西金堂は、橘三千代の一周忌に間に合うように造りました。

天平五年~八年には、多数の財物を法隆寺に施入しました。

天平十一年(739)、法隆寺の東院を建立

天平十九年(747)、聖武天皇のために新薬師寺を建立

中でも

天平八年(736)、僧玄昉が持ち帰った経論の書写を発願し、皇后宮職の写経所で写経させました。写経は天平勝宝元年(749)まで続きました。

この皇后宮職が置かれた場所は、何処でしょう!

他でもありません。

あの長屋王の邸宅跡でした。

あの忌まわしい事件の館跡に、光明子は「皇后宮職」という役所を置いたのでした。そこで、玄昉の持ち帰った経論を十年以上もかけて写経させたのです。なんということ、長屋王の屋敷は官に没収され光明子のために使われたのです。

懺悔のつもりの写経でしょうか。

僧玄昉は、光明子の心の闇を解きほぐしたのかも知れません。

光明子も藤原氏という権力者集団を背負って、時折、心が折れそうになったことでしょう。


また明日


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by tizudesiru | 2017-01-11 16:41 | 197光明子の苦悩と懺悔 | Comments(0)


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203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264柿本人麻呂と持統天皇
265消された饒速日の王権
266大宰府・宝満・沖ノ島
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んんだ倭建命
273大型甕棺の時代
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラ
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
284明日香川原寺の万葉歌の謎
285天香具山と所縁の三人の天皇

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