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「倭姫命世記」の倭姫命、聖地を求めて放浪す

一昨日は、万葉集の不思議の一つ、高市皇子の挽歌についてお話しました。今日は、『倭姫命世記』についての話を少しさせていただきます。

『倭姫命世紀』は特異な性格の書とされています。

伊勢神道の経典として五部書が挙げられていますが、『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』、「伊勢二所皇太神御鎮座伝記」、『豊受皇太神御鎮座本紀』の三部書に、『造伊勢二所太神宮宝基本記』、『倭姫命世記』 を加えられて取りあげられるようになったのは、江戸時代だそうです。この中で、『倭姫命世記』と『造伊勢二所太神宮宝基本記』は、神道の教義ともいうべきものを明確に主張していて、その主張も他の三部書とは微細な点で違っているそうです。


倭姫命世記は、『天地開けし初め、神宝日いでます時』という詞で始まりますが、このスタートの詞は「中臣祓訓解」の文に同じだそうですから、同じ理解と思想の元に書かれた文章なのでしょうね。


続いて『御饌都神(みけつのかみ)と大日孁貴(おおひるめのむち)と予め幽契(かくれちぎり)を結び、ひたぶるに天が下を治め、言寿(ことほぎ)宣たまう』とあります。

御饌都神(伊勢下宮の祭神で月神)と大日孁貴(天照大神の別称、伊勢内宮の祭神で日神)が、ひそかに天上で約束をして天下を治め寿いできたと書かれています。天照大神と豊受大神は常にセットなのです。

この二神が月となり日となってきたので、永く世界が保たれてきたのだ、と始まるのです。

倭姫命世記が書かれたのは、日本書紀が広く読まれるようになった後でしたから、この正史に合わせて文章もつづられたはずです。ですから、「倭姫命世記」から正史と離れた個別の真実や事実を引き出すことは難しいかも知れません。しかし、当時の人々が何を思い、何を云おうとしたのかは想像することはできます。

例えば、神々が集まって皇御孫(すめみま)の天下りを決めて、水穂の国を平定するために遣わされた神は、オールスターですね。その初めは、天穂日です。

天穂日(あめのほひ)命 返言(かえりごと)をしなかった。

健三熊(たけみくま)命 父と同じく返言しなかった。

天若彦(あめのわかひこ) 返言しなかった。

布津主(ふつぬし)命・健雷(たけいかづち)命を降して(布津主と健雷が命令して)、

大己貴(おほなむち)神は、その子の事代主(ことしろぬし)に国を平定した時の広矛でもってあまたの鬼神をかり払わせ「葦原中津国を平定した」と復命した。


そこで、三種の神器(神財)を持たせて天津彦火瓊瓊杵(あまつひこほのににぎ)尊を天下りさせた。伴に天児屋(あめこやね)命、太玉(ふとたま)命が従った

降臨した場所は、筑紫の日向の高千穂の槵触(くしふる)の峯であった


上記の展開を読むと、矛文化圏のオオナムチ命が先に葦原中津国を平定していたことは認めています。その子の事代主が天孫のために鬼神を退治したのですから、天下りの為に協力し活躍したのは、オホナムチの一族でした。少なくとも前政権の力を借りて、すんなりと権力が交代したというのですね。更に言えば、矛文化圏の広形銅矛は弥生の末に北部九州一帯では埋納させられていますから、弥生末に大変革があったのは間違いないでしょう。スタートは将に北部九州の説話なのです。


この天孫降臨の時、斎部(中臣氏や忌部氏)の始祖が伴として関わったとするのは、正史と同じでしょう。後世の神官の書き加えなのかも知れません。

天津彦火瓊瓊杵命、その第二子彦火火出見(ひこほほでみ)尊、彦火火出見の太子・彦波瀲武鸕草葺不合(ひこなぎさうがやふきあわせず)尊、彦波瀲武鸕草葺不合の第四子・神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)天皇までの四代は、九州に住んでいたのでした。

神日本磐余彦は、その元年に「日本国に向かひたまふ。天皇みずから諸の皇子の舟をひきいて、師(いくさ)東に征(う)ちたまふ」と、東征し、神武天皇の八年、都を橿原に建てました

九州から侵攻した集団が最初に拠点を置いたのは、橿原だったようです。それから九代、神祭りは為政者と同じ屋根の下で行われていましたが、崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖みまきいりひこいにえ天皇)の時、倭の笠縫に天照太神と草薙劔を遷し奉った、と書かれていました。

この後から、崇神天皇の皇女・豊鋤入姫(とよすきいりひめ)命による国国処処に大宮処を求める旅が始まるのです。

斎部(いんべ)氏が、石凝姥(いしこりどめ)神と天目一箇(あめのまひとつ)の末裔を引きつれ、鏡と剣を作らせ、身を護る御璽としました。斎部氏は「弥生の威信財・鏡と剣の役割を熟知してたようです。

次々と祭祀場を求めて還る

はじめは但波(たんば)の吉佐宮に還幸(みゆき)なる。そこは丹波国余社郡です。「ここより更に倭国を求めたまふ」たのですから、まだ倭には入っていません。「この年、豊受の神天降りまして御饗(みあへ)奉る」をありますから、はじめから豊受大神の放浪が始まるようです。


次に、倭国の伊豆加志元(いつかしのもと)宮に遷る

次に、木乃国の奈久佐浜(なくさのはま)宮に遷る

次に、吉備国の名方浜(なかたのはま)宮に遷る

次に、倭の弥和(三輪)の御室嶺(みむろのみね)上宮に遷る


ここで、豊鋤入姫命の妹・倭姫に事依(ことよ)さしめ、御杖代(つえしろ)と定める。

「ここより倭姫命は、天照太神を戴き奉り行幸す」

ここに大きな転機があります。天照太神が特に取り出されて奉られているからです。また、これまでは宮が「遷る」でしたが、ここから倭姫命の「行幸」となるようです。

倭姫命は特別な存在だったというのでしょうか。

更にここから、相殿神に天児屋命・太玉命、御戸開きの神に天手力男命・𣑥幡姫命がきて、御門の神に豊石窓命・櫛石窓命、ならびに五部伴の神がそい仕えるのです。

倭姫命が御杖代になった時に、社殿の形式が揃ったようですね。


次に、大和国の宇多秋(うだのあき)宮に遷る *倭ではなく大和国とかかれている

ここで倭姫命の夢に「夫に嫁がざる乙女にあうように」とお告げがあり、行幸すると八佐加支刀部(やさかきとめ)という娘に会い、仕えさせました。


行幸して、佐々波多の宮に座す

次に、伊賀国に還幸し、市守の宮に隠れる *伊賀国ができたのは天武天皇の時代

次に、同国の穴穂宮に遷る

次に、伊賀国の敢都美恵(あへとみえ)宮に遷る

次に、淡海の甲可の日雲宮に遷る

次に、同国の坂田宮に還幸(みゆき)なる

次に、美濃国の伊久良河(いくらがわ)宮に還幸(みゆき)なる

次に、伊勢国の桑名野代(くわなのしろ)宮に還幸(みゆき)なる

次に、阿佐加の藤方片樋(ふじかたかたひ)宮に遷り座す *


*ここで荒ぶる神との説話が挿入され、一書の逸話も入ってきます。どのような思想と人々の手によりこの書が出来上がったのか、少しは想像できますね。
倭姫命は実在の誰をモデルに書かれたのでしょうね。単なる空想にも思えないのです。
今日は、ここまで。




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by tizudesiru | 2017-11-27 13:19 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback | Comments(0)

持統天皇と倭姫皇后と倭姫の接点

崩御の時まで持統天皇が胸に秘めていたこと
今日はそのお話です。では、最後の行幸からまいりましょう。
持統天皇の最後の行幸はお気に入りの人を連れての旅だった、と前回書きました

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最後の行幸に従駕した人・万葉集には
長忌寸奥麿(意吉麻呂)、高市連黒人、与謝女王、長皇子、舎人娘子

東国行幸に従駕したのは、持統天皇の信頼する人物だったようです。長忌寸奥麿(ながのいみきおきまろ)は、二度の紀伊国行幸(690年・701年)に従駕し歌を詠みました。有間皇子事件を見事に詠み上げたその歌は持統天皇を感動させ、大宝元年の行幸では詔で歌を所望したほどです。高市連黒人も近江朝を偲び荒れた大津京を読んでいます。二人は行幸に従駕し、先々で歌を詠んだのでしょう。(既に紹介済)

長皇子は、天智帝の娘・大江皇女の嫡子です。人麻呂が歌を奉った皇子で、持統帝は行幸にも連れて廻るほど気に入っていたか、頼りにしていたのでしょう。(長皇子についても、既に紹介しています。)

舎人娘子は舎人皇子の養育を受け持つ氏の女性でしょうか。この人は舎人皇子と恋歌をやり取りしています。それなら、持統帝が目をかけた舎人皇子の関係者となりますね。
東国へはお気に入りの人々を従えての行幸だったのです。

では、人麻呂は? 従駕していなかったのでしょうか。それは分かりませんが、持統天皇はこの行幸ですべてを成し遂げたのでしょう。環幸の後、ひと月で崩御となるのです。旅は疲れるものですが、従駕した人々の歌を読んみると、旅愁はありますが悲壮感など有りません。

前年の紀伊国行幸の意味深な歌とは違うのです。旅先で持統帝は元気だったのでしょうか。

旅から帰った十二月二日、「九月九日、十二月三日は、先帝の忌日なり。諸司、この日に当たりて廃務すべしと勅が出されています。何とも、急な勅です。十二月三日の前の日に出した勅で「次の日は仕事をするな」というのですから。

しかも、九月九日は天武天皇の命日ですが、十二月三日は天智天皇の命日なのです。急な勅は天武天皇のために出されたのではないのです。天智天皇の忌日のために出されたのです。すると、持統天皇の意思なのでね。最後まで天智天皇への思いを抱いていた、最晩年に「隠す必要はない」と判断した、それが持統帝の真実の姿でした。

(十二月)六日、星、昼に見る(あらわる) *星とは太白で金星のことです。太白が昼に現れるのは「兵革の兆し」とされます。

十三日、太上天皇、不豫(みやまいしたまう) *不豫とは天子の病気のことです

天下に大赦が行われ、百人が出家させられ、畿内では金光明経を講じられました。しかし二十二日、遺詔(いしょう)して「素服挙哀してはならない。内外の文武の官の仕事は常のようにせよ。葬送のことはできる限り倹約するように」と言い残し崩じられたのでした。

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天智天皇量の真南に天武持統陵・大友皇子の屋敷跡は石上神宮へ)

持統天皇は「仕事は怠るな。葬儀は簡単に」とは伝えましたが、その他の気がかりについては何も言ってはいません。東国行幸で全てやり終えたというのでしょうか。

ですから、東国行幸が非常に気になるのです。その目的が天の香久山を詠んだ女帝が、実は天照大神の神祭りの場を探していた、とは。

以前、持統六年(692)の伊勢行幸のとき大三輪高市麿が冠を捧げて天皇の伊勢行幸を諫めた話をしました。「大三輪」ですから高市麿は三輪山の神祀りをする氏族でした。『三月は農繁期ですから伊勢行幸はやめてください(我が三輪山は、天智天皇も大切にしておられた。その神山を捨てて伊勢に行かれるのか)』と諫言したのでしょう。
考えてみると、伊勢の神祭りを始めたのは天武天皇でした。

天武十四年(685)初めて伊勢神宮に式年遷宮の制を定める
  
諸国の歌男・歌女らに命じ、歌笛を子孫に伝習さす。
     

 

壬申の乱に勝利したのは伊勢の神のおかげだとすると、天武十四年の「はじめて式年遷宮」は遅すぎです。神への御礼は一番でなければなりません。
また、天武天皇が伊勢神宮の神祭りを始めたのであれば、その皇后の持統天皇が伊勢に行くのを止める大義名分は誰にもありません。まして、大三輪高市麿にも。
上代の三月が今の四月くらいだとすると、農作業が忙しいのは上代の四月から(五月六月)でしょうね。

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最後まで天智天皇を慕いつづけた持統天皇が、三輪山ではなく伊勢に神祭りの場を求めたのは何故でしょうね。その聖地求めの旅が平安時代~鎌倉時代初期に「倭姫の伝承」として『倭姫命世記』に書き残されたのではないかと思ったのです。

すると、持統天皇こそが倭姫皇后だったのではないか。父は有間皇子で、皇位継承者の妃となるべき立場に生れた姫だった。有間皇子事件の後は間人皇后かくまわれたが見つけ出され、古人大兄皇子の娘として天智帝の妃とされた。
そう仮定すると、紀伊国行幸の歌で有間皇子を偲び続けることも、天智・天武の陵墓が同じ経度にあることも、難波宮に重要なことを決める時に行幸があることも、有間皇子事件に類似した宇治若郎子の事件が額田王や人麻呂によって歌われるわけも、天智天皇の葬送儀礼の歌が天武帝より多く残されていることも、天智帝の血統の草壁皇子が薨去した理由も、額田王と中臣大嶋が草壁皇子の菩提を弔ったわけも、持統帝が天智帝が築いた高安城に行幸する理由も、倭姫皇后が忽然と消えた理由も、大津宮を持統帝が懐かしむ理由も、事実を歌として「万葉集」に編集した柿本人麻呂が刑死した理由も、人麻呂に対して元明天皇が激怒したわけも、平城天皇が「万葉集」を編集しなおして事実が分からないようにした理由も……ほとんど同じ糸で結ばれていたので、意味がつながり謎が解け理解できるのです。

倭姫命が天智天皇の皇后と同じ称号で呼ばれているのなら、何らかの接点があると思いませんか。
いよいよ、倭姫命世記を読まなければならなくなりましたね。
長い物語ではありません。近くの図書館にも関係書はあると思います。
では、また。




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by tizudesiru | 2017-11-21 23:49 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback | Comments(0)

「中大兄三山歌」の畝傍山は倭姫を意味する

持統天皇の祖先の山は三輪山ではない
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昨日のブログでわたしはこのように言いました。もちろん、万葉集を読む中で導き出されたことです。

今日のテーマに入る前に、中大兄の三山歌を思い出してみましょう。この歌には、大事なヒントと意味があるのです。
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前回、持統天皇の祖先が神祭りをした山は何処か、それは畝傍山ではないかと書きました。カムヤマト磐余彦の山です。『先代旧事本記』では、この王統が饒速日の王統を滅ぼしたことになっていますね。
以前、「中大兄の三山歌」で述べたように、ヤマト三山は三つの氏族のシンボルの山で、それぞれの氏が祭祀をしていたと紹介しました。中でも新興勢力の二つの王統は伝統的な畝傍の王統の姫を妃にすることでその血筋の尊さを保とうとした、と紹介しましたね。それが耳成山と香具山が、畝傍山を争う歌となったのでした。

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三山歌を読むと、高貴な姫をめぐって争われたのが何時か分かりますね。神代である過去と現在です。過去にもあったでしょうが、現在も同じことが起こりました…それは、中大兄の時代です。
すると、中大兄が皇后にした倭姫皇后がまさに「高貴な血統の姫」となるのでしょう…
では、耳成山側の争いの当事者は誰でしょう。耳成山は藤原宮の北にランドマークのようにそそり立つ山です。藤原宮を造営した天武朝の象徴的山なのです。それでは、耳成山が象徴するのは天武天皇だと云うことになりましょうか。
では、では、通説のように「三山歌の畝傍の姫」は額田王で、中大兄と大海人が額田を争ったというほぼ定説になっている説は成り立つでしょうか? 


それは、歴史の結果で見てみましょう。天智天皇が皇后にしたのは倭姫で、天武帝が皇后にしたのは鵜野皇女(持統帝)でした。選ばれたのが倭姫と持統帝だと云うことは、大変重要なことです。額田王ではないのです。

三山歌が叙事詩だとすれば、この歌を知れば誰にも登場人物が分かったのです。
誰が高貴な姫かを世間が知っていたのであれば、天智天皇崩御の後「倭姫皇后が行方知れず」になるはずはありません。
高貴な姫を他の氏に奪われてななりませんからね。もちろん、高貴な姫ならば額田王もそれなりに大事にされたはずでしょう。しかし、天武帝の後宮には入れられていません。

更に、歴史の結果を見ると、天武天皇崩御後に称制(皇位継承の玉璽を手にした)したのは、持統天皇その人でした。行方知れずの倭姫皇后は何処へ行ったのか、なぜ鵜野皇女が皇后になれたのか、もうわかりましたね。高貴な畝傍の姫だったから、鵜野皇女は皇后に選ばれたのです。
額田王は中臣大嶋と結婚し、晩年は草壁皇子の為に菩提寺造りに励みました。
更に、面白いことに、「万葉集の人麻呂歌集」を読むかぎり、倭姫皇后は生き残り、天武帝に懇願されてその皇后となったとなります。その歌集も紹介するつもりですが。
結果、畝傍之姫・ヤマトヒメこそ持統天皇かも知れないと思うようになったのです、ある日、突然。
たぶん、わたしの思いは孤立しているでしょう。こんな出鱈目な解釈は、私自身が意外だったし、詠み続けている正史からは許されないでしょうから。
しかし、万葉集を読んでいると、出鱈目な発想が次々に生まれるのです。
そうして、だんだん「歌には言霊が宿るから、めったに書き直しは出来なかっただろう」という気分になりました。だから、平城天皇は侍臣に詔して『万葉集を撰ばしむ』と、編集によって攪乱したのだろうと想像したのでした。
最近、わたし自身も、万葉集はかなり事実を記録していると、確信するようになりました。
わたしは長い間書きたかったことをやっと少し書きました。
すべて万葉集を繰り返し読んで、ある日突然分かったことです。一つの仮説からすべての謎が解かれていった、そんな感じです。


では、今日のテーマ「持統天皇の祖先の山は三輪山ではない」に入りましょうか。
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これは、万葉集巻一の「伊勢国行幸時の歌」です。柿本人麻呂はこの時の行幸に従駕していません。しかし、都に残って行幸の持統天皇を思っています。行幸先の伊勢では、大宮人は毎日のように船に乗っているようですが、海は荒れるのにと人麻呂は心配しました。大宮人は船で何をしているのでしょうか、遊んでいるとは思えないのですが。歌の意味はそのまま理解してください。

この行幸が朱鳥六年(692)ならば、従駕した石上麻呂はまだ大臣になっていません。が、万葉集には最終の官職で「大臣」と書かれています。石上麻呂が大納言に任官されるのは大宝元年(701)で、右大臣になるのは慶雲元年(704)でした。没年は養老元年(717)で、左大臣にまで上り詰めました。持統・文武・元明・元正と四人の天皇に仕えた多分有能な人だったのでしょう。
その有能な人材が従駕して、伊勢に行幸したのですね。目的があったはずです。それは、伊勢行幸時の歌五首に付けられた「脚」から想像することができるでしょう。

次のような「脚」がつけられています。
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三輪朝臣高市麻呂は、持統天皇の伊勢行幸を諫めました。後世『霊異記』は、高市麻呂の農民愛撫の様を讃え、諸天も感応すると書きました。
では、高市麻呂は本当に「農民愛撫の立場」で天皇を諫めたのでしょうか。わたしにはそうは思えません。三輪朝臣
間違いなく三輪山につながる氏族です。彼が心から怒ったのは、三輪山ではなく伊勢に神祭りを求めた持統天皇に対してだったと思います。「我が三輪山を見捨てて、伊勢に神祭りの場を求めるとは何事ですか」女帝に対して、すべてを投げ打ち抗議したのでしょう。
彼は冠を脱いで天皇に捧げましたから職を賭したのです。事実、大宝二年、長門守に起用されるまで官位はなかったそうです。
それほど、三輪山が大事だったのです。
確かに、このあと三輪山は第一の神祭りの場ではなくなりましたからね。

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藤原宮から耳梨山を見る
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藤原宮から香具山を見る
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藤原宮から畝傍山を見る

藤原宮は、三山に守られていますね。
それにしても、なぜ持統天皇は「春過ぎて夏来るらし白妙の衣ほしたり天香具山」と、堂々とした香久山を詠んだのでしょうか。もちろん、これは大事な話です。
また、あした。
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by tizudesiru | 2017-11-15 00:26 | 302草壁皇子の出自を明かす御製歌 | Trackback | Comments(0)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城に瓦があった
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
261隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵善寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、仏像を供養したのか

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