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長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成

長屋王の亡骸を抱いた男・

平群廣成の慟哭


謀反罪で死を賜った長屋王


長屋王は高市皇子の長子でしたが、家族と共に死を賜わりました。その王の亡骸を埋葬したのは誰でしょう。
罪科ある人の墓はほとんどどこにあるかわかりません。しかし、長屋王の墓は伝承があり、その墓が明治になって整備されたのです。
明治までその墓を伝えたのは平群氏でしょう。

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(長屋王の墓は、奈良県生駒郡平群町にあります。江戸時代の文書に長屋王の墓という伝承が残されていたのです。)

長屋王墓の近所には夫人の吉備内親王の墓もあります。二人を近くに葬るには、それなりの努力と尽力があったと思います。続日本紀には、

「王をして自ら尽(し)なしむ。その室二品吉備内親王、男従四位下膳夫王、無位桑田王、葛木王、鉤取王ら同じく亦自ら経(くび)る」
「長屋王・吉備内親王を生馬山(いこまやま)に葬らしむ。」
「吉備内親王は罪無し。例になずらえて送り葬るべし。」
と書かれています。

この謀反事件で、現天皇の叔母の家族を断罪したのです。吉備内親王は前天皇の妹であり、前々天皇の娘なのです
内親王の家族を全て死なせた事件なのです
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平群氏は長屋王家に出入りしていた

奈良市の長屋王の屋敷後から、多くの木簡が出土しています。その中に、平群廣足(ひろたり)平群廣成(ひろなり)の名が書かれた木簡が見つかりました。

廣足は倭舞の名人だったようで、宮中の雅楽寮(ががくりょう)より派遣を要請されています。

廣成は天平五年遣唐使として唐に派遣されています。帰国後は順調に官位を進めて、最後には従四位上(長官クラスの官職)に任ぜられ、出世を果たしました。
ですから、長屋王の邸宅に出入りしていたのは若い頃でしょうが、その時、主人の難に遭遇しました


数多の兵と役人に囲まれた王の屋敷内に、従者が出入りすることはできなかったでしょう。
屋敷の召使たちも外でじっと邸宅を見つめ、畏れおののいていたことでしょう。
遂に、長屋王と吉備内親王と四人の男子は、死を撰ばされました。
大邸宅の周りの空気は、泣き叫ぶ召使たちの声で震えたことでしょう。
王の妻だった他の女性たちは、各々の実家で知らせを聞いたでしょうから、屋敷の周りにいたのは庶民だったようです。

続日本紀によれば、このあと、都では長屋王事件に
ついて噂と憶測と追悼の声が溢れ、長く終始が
つかなくなるのです。

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吉備内親王は罪無し、しかし、長屋王は…
平群廣成は長屋王の傍に生活したのです。主人を十分に知っています。
主人がいかがわしいことをする人物かどうか、知らないはずがありません。
彼は糾問される主人を待ち続け、死後はその亡骸を抱いて泣いたと思います。
罪無くして逝ったその人を。
だから、平群氏の本貫の地に長屋王の亡骸を葬ったと思うのです。

長屋王の墓は、「前方後円墳の後円部の上に造られている」と書かれた文を読んだことがあります。
罪科のある主人を小さな墓に埋葬しなければならないと十分知りつつ、せめて王墓のような大きさにしたいと、廣成は祖先の墓を長屋王のために提供したと…そう思いませんか。
吉備内親王の墓は少し離れた微高地にありますので、当時はまるで仲良く並んでいるように見えたことでしょう。
平群町の小さな墳丘には、平群廣成の思いが込められていると、わたしは思います。

長屋王の大邸宅は、光明子のものとなりました。

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ここからは、おさらい


なぜこのような悲惨な事件が起こったのか、以前もブログに書いたと思いますが、少しおさらいしてみましょう。事件が起こったのは、
長屋王が恵まれ過ぎていたからです。父母は御名部皇女(内親王)と高市皇子(親王)で、妻は元明天皇の娘であり、文武天皇の妹でした。多大な財力と権力を持ち、当代随一の名家であり、将来も揚々たるものだったのです。

霊亀元年(715)二月、元明天皇(草壁皇子の妃)は「勅して、三品吉備内親王の男女(子供たち)を皆皇孫の列(つら)」に入れたと続紀にあります。
長屋王の子どもたちの身分を三世王から二世王(天皇の孫)あつかいしたのです。

藤原不比等は「皇太子の首皇子が十五歳で即位すれば、外戚になれるから」と、長屋王家の特別待遇を容認していたでしょう。

しかし、元明天皇が譲位したのは皇太子の首皇子ではなく、娘の元正天皇でした。それは、政変のような衝撃だったのです。
元明天皇は、前年元服した皇太子・首皇子に不安を覚えていました。

養老二年(718)長屋王大納言。大伴旅人中納言。
     この年、養老律令を撰進(藤原不比等ら) 
     功績に関わらず不比等は右大臣のまま
養老四年(720)日本書紀撰進。藤原不比等没
養老五年(721)一月、長屋王右大臣。十二月、元明太上天皇崩御。

元明太上天皇は長屋王家へのレールを敷いて崩御されたのでした。が、チャンス到来と
藤原氏は着々と首皇子の即位に向けて準備をはじめました。

山上憶良ら当代の知識人を東宮(皇太子)の周りに集めます、そして、元正天皇に譲位を迫りました。元より中継ぎを承知だった元正天皇は、元明天皇の崩御の三年目の二月に首皇子(聖武天皇)に譲位されました。崩御からほとんど二年しかたっていなかったのですが。

この時(724年)、長屋王は左大臣となったのでした。
元明天皇の思いが元正天皇に引き継がれていたのでしょうか。
そして、この時、長屋王の運命は決まったのです。

引き金は、聖武天皇の皇太子(基王)が一歳で没したこと(728年)でした。
聖武天皇の皇位継承者より、長屋王の男子の方が有力だったのです。
神亀六年(729年)、基王の死から半年後、長屋王事件は起こりました。

長屋王がどんな左大臣だったか、都の庶民は知っていました。その事をめぐって様々な噂といざこざが起こり、殺人事件も起こりました。もちろん、聖武天皇は十分に知らされていなかったでしょうね。
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全ては、歴史の靄の中に。


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by tizudesiru | 2017-07-25 15:05 | 271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成 | Trackback | Comments(0)

紀伊国・玉津島神社の春

玉津島神社不思議
紀伊国の春を楽しむ旅に出かけていました。昨日、帰ったところです。
和歌山市和歌浦中三丁目四番二六号に玉津島神社は有ります。この辺りは、玉出島ともいわれ、万葉集の時代には島山がまるで玉のように海の中に連なっていたと推察されています。山部赤人の歌に「神代より然ぞ貴き玉津嶋山」と詠まれているように、昔から風光明媚な景勝地だったのです。ここは、聖武天皇や称徳天皇、桓武天皇の玉津島行幸の地でもあります。

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赤い鳥居に桜が華やかに寄り添っています。鳥居の横には万葉歌碑がありました。
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神亀元年甲子の冬十月五日 紀伊国に幸す時に、 山部赤人の作る歌一首 併せて短歌
やしみしし わご大王の 常宮と 仕え奉れる 雑賀野ゆ 疎外に見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒ぎ 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴き 玉津島山

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沖つ島 荒磯の玉藻 潮干満ち い隠り行かば 思ほえむかも
若の浦に 潮満ちくれば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る

赤人の「若の浦に潮満ち来れば潟を波…」の歌は有名ですね。この玉津島神社のご祭神は、稚日女尊(わかひるめのみこと)息長足姫尊(おきながたらしひめみこと)衣通姫尊(そとおりひめみこと)明光浦靈(あかのうらのみたま)の四柱です。四柱の神々はどんなつながりがあるのでしょうね。玉津島神社の周囲には美しい風景が広がります。
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ご祭神は、
稚日女尊…玉津島の神。イザナミ・イザナギの御子で、天照大神の妹、またの名を丹生都比売神(にふつひめのかみ)
息長足姫尊…神功皇后。皇后が海外に軍をすすめた時、玉津島(稚日女)の神の霊威を尊崇し、和歌山県伊都郡かつらぎ町天野と玉津島の二か所に鎮め祭り、自身も玉津島に合祀せられた。
衣通姫尊…58代光孝天皇天皇の夢枕に衣通姫が現れて「立ちかえり またもこの世に跡垂れむ その名うれしき 和歌の浦波」と詠まれたので、光孝天皇の勅命でこの社に合祀された。
明光浦靈…名光浦の霊。聖武天皇はこの地の「弱浜(わかのはま)」の名を改めて「名光浦(あかのうら)」となし、守戸を置き「春秋二季官人を差遣し玉津島の神・明光浦靈を奠祭せよ」と詔勅を発した。
玉津島の神は丹生都姫尊でもあり、この神を神功皇后が二ヵ所で祭り、皇后自身も神として後に祭られ、聖武天皇が詔勅で稚浦靈も祭らせた、という…ここまでは理解できます。しかし、衣通姫尊の歌はなんだか、前の三神とは話がかみあいません。

光孝天皇の夢枕に衣通姫が立ったのは、何処なのでしょう? 京の御所での夢でしょうか? 紀伊國の玉津島での夢でしょうか? 夢枕に立って読まれた歌の故事により、
玉津島の神は「住吉大神(摂津)・柿本大神(明石)と共に『和歌三神』として朝廷はもとより広く一般文人墨客から崇められたそうなのです。後世、玉津島の神に和歌を奉納する歌会「法楽和歌会」が、後西帝・霊元帝・桜町帝・桃園帝・後桜町帝・後桃園帝・光格帝・仁孝帝の各天皇の御代に宮中で催されたそうです。
玉津島の神(稚日女尊)は、衣通姫尊と一体となったということでしょうか。それにしても、玉津島の神が急に「和歌の神」になったのは、衣通姫の夢枕の故事に因ります。
衣通姫は、次のように詠んでいます。
立ちかえり またもこの世に跡垂れむ その名うれしき 和歌の浦なみ
一度この世を去ったけれども、またこの世に跡を残したくなりました。 その名がうれしいことに和歌の浦となったのですもの。寄せくる波のように、何度でもこの世に。
何とも意味深い、そして、ある歴史的な事件を彷彿とさせる歌ではありませんか。後の多くの天皇が心惹かれた「和歌の浦の玉津島神社」には、古くから衣通姫が祭られていたと、どこかで詠んだことがあります…衣通姫の名は「万葉集」にも出てきます。しかし、玉津島神社の由緒書きにある「衣通姫(十九代允恭天皇の妃で絶世の美女)」とは別の女性として出ているのです。
また、明日。

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by tizudesiru | 2017-04-16 00:42 | 242紀伊国・玉津島神社 | Trackback | Comments(0)

194大伴家持は政変の目撃者

194大伴家持は政変の目撃者・(万葉集は倭国の歌)

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万葉集の時代には長歌・短歌・旋頭歌など詩歌の形式の様々ありましたが、古今集の時代になると、ほとんどが「5・7・5・7・7」の短歌に集約され、それが勅撰歌集として残されました。詩歌にも革命的変化が起こったのです。それは、政治の流れと無縁ではないでしょう。

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聖武天皇が即位した時、家持は十歳にもならない子どもでした

古代に倭歌はどのように使われていたのか。

倭歌ですから、倭国の歌です。八世紀になって、「倭国の挽歌」を止めて「日本挽歌」としようと大伴旅人に提案したのは、山上憶良でした。しかし、日本歌にはなりませんでした。

憶良の提案にあった「挽歌」のように、人の終わりに「挽歌」を使った儀式をしたようです。歌は始まりと終わりの儀式に必要なものでした。

年の初め・大王の御代の始めや、年の終わり・人の最後(葬送儀礼)に歌われたのでした。万葉集の巻一は「雑歌(くさぐさのうた)」で、儀式歌が中心です。巻一には、挽歌は有りません。挽歌は巻二にまとめられています。もともとは、巻一が雑歌・巻二は挽歌としてまとめられていたのかも知れません。

万葉集は、巻一から有間(ありま)皇子事件に向かって編集されていました。それが見えにくいのは、大伴家持の手により後期万葉集と呼ばれる歌群が持ち込まれ、後の世に手が加えられたからです。

大伴氏により、後期万葉集と呼ばれる歌群が付け加えられた。

大伴宿祢家持479首、大伴宿祢旅人76首、大伴坂上郎女84首、娘の大伴坂上大嬢11首、大伴宿祢池主29首、他に大伴氏関係の歌多数持ち込まれた。大伴氏に献上された歌群もある。

柿本朝臣人麻呂88首、柿本朝臣人麻呂之歌集369首、柿本朝臣人麻呂之歌(集)中3首と、人麻呂の歌も多いが万葉集中に分散されている。

更に、後世、高貴な人の手により大きな編集のメスが入れられたので、万葉集に託された物語が読みにくくなった。


家持の
479首の歌は、時代を移す鏡でしょう。

家持は自分の歌ばかりでなく、大伴氏や知人の歌、献上された歌も残しました。そこに見え隠れするのは、藤原氏の悪行の告発です。

では、またご一緒に


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by tizudesiru | 2017-01-08 11:49 | 194万葉集は倭国の歌 | Trackback | Comments(0)

193人麻呂編集の万葉集

193人麻呂編集の万葉集

初期万葉集は有間(ありま)皇子事件を意識していると、既に書きました。

それは、巻一と巻二の冒頭を見ればわかってきます。


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1 雄略帝(
大泊瀬稚(おおはつせわか)(たけ)天皇)の歌

2 舒明帝((おき)長足(ながたらし)()(ひろ)(ぬか)天皇)の歌 *間人(はしひと)皇后の父

3 中皇(なかつすめら)(みこと)間人連(はしひとのむらじ)(おゆ)に献じさせた歌 *中皇命は間人皇后

4 反歌

(5 軍王の歌・6 反歌)この歌については別の機会に触れます

前記のように並んだ後に、一気に「有間皇子謀反事件」関係の歌に突入するという並びだったと思います。

つまり、1、2、3、4、(5、6)7、9、1011128、と並んでいたと思うのです。あくまで、そう思うだけです。時間軸で考えれば。ただ、熟田津が四国の港ではなく、難波のにぎやかしい港であったなら、この順番は変わるでしょう。

というのは、8番歌の左脚に類聚歌(るいじゅうか)(りん)からの長々とした説明が引用してあるからです。

内容は「舒明天皇がその元年(639)に大后と共に伊予の湯に行幸された。その後、斉明天皇七年(661)に熟田津の(いは)()の仮宮に泊まり、昔日の想い出のものを見て、(かん)(あい)(こころ)を起こされた。この故によりて天皇が御歌をつくり哀傷(かな)しまれた。

その哀傷の歌が「熟田津に船乗りせむと」という堂々とした歌だというのです。本当に、この歌なのでしょうか。

色々考えるべき点はあるのですが……



巻二は、仁徳天皇の皇后・磐之姫で始まりますが、その歌が仁徳天皇(難波高津宮御宇天皇)代ではなく孝徳天皇(難波長柄豊崎宮御宇天皇)代であったなら…と、両天皇が入れ替えられていたのなら、間人皇后が磐之姫皇后に、すり換えられていたら…やはり、有間皇子事件に行き着きます。

わたしは、後の世の人が、「難波天皇には違いないが、長柄を高津に入れ替えた。間人皇后とは書かず中皇命と書いた」と思うのです。

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更に巻二の挽歌の冒頭の扱いです。

もともと万葉集には、事件と人が分かるように歌が掲載されていたと思います。しかし、高貴な人の手により、主役が消された。

そこに、大きなスキャンダルが隠れていると、私は考えたのです。

中皇命の実名が一度も出てこないのは、高貴な女性だったからです。

天皇・皇太子・皇太后・帥・大臣・〇夫人などの表現も人名を裂けています。が、当時の人には人物が特定できたのでした。万葉集が分かりにくいのは、「いつ誰が何の(誰の)ために編纂したのか」見えにくいからです。これは、万葉集を読む時、常に大きな問題でした。

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持統天皇が人麻呂に詔して鎮魂の歌集を編纂させた」ようだと、ここまでは述べてきました。

誰のための歌集なのかも述べたつもりですが、まだしっかり伝え切れていないようですね。

万葉集の「柿本朝臣人麻呂歌集」の歌を読むと、持統天皇の物語が万葉集の中に展開します。

しかし、万葉集には他にもあまたの物語が組み込まれ埋め込まれ、隠されています。古代史の政変も王朝の光芒もスキャンダルも、勝者ばかりでなく敗者の物語も。


むしろ、敗者のための歌集であったのかも知れません、万葉集は。

しかも、万葉集を受け継いだ大伴家持は万葉集を男性の物語歌集に変えたのです。

そして、時代に翻弄された惜しむべき人々の運命と宿命を言霊として万葉集に託したのでした。





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by tizudesiru | 2017-01-07 13:54 | 193人麻呂編集の万葉集 | Trackback | Comments(0)

191 消された物語・有間と間人

191消された物語・有間皇子と間人皇后

有間皇子と間人皇太后の歌は、万葉集の扉を開ける鍵の一つです。

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中皇(なかつすめら)(みこと)は、有間皇子と自分とを同等に並べて歌を詠みました。

以前に紹介した時は、訳文に「陛下」とは書かず「殿下」を使い、皇太子として間人皇太后が有間皇子に接したように書きました。

しかし、今回は有間皇子を「難波長柄豊崎宮御宇天皇」の跡継ぎとして、ほとんど玉璽を渡された状態であるとして訳文を書きました。

つまり、有間皇子を追って来たのは中皇(なかつすめら)(みこと)(玉璽を預かっている人)なのです。これには重大な意味があります。

書紀では、斉明帝に玉璽(ぎょくじ)ったようてい中皇命存在以上大王(おおきみ)御璽(みしるし)孝徳帝ってい間人(はしひと)皇太后以外

10「陛下、お気持ちをお察しいたします。陛下がこの先どれほど命を永らえられるか、わたくしの命さえどれほどのものであるか、誰が知っているでしょう。ですが、岩代のあの岩ばかりの岡の草は根を深く下ろし、あのように命をしっかりとつないでおります。岩代の岡はその命運を知っているのでしょうか。さあ、あの岡の草根を結んで、互いの命の永からんことを祈りましょう。」

皇子も応えました。

「貴女の云う通り、この岩代に生える松は根を深く下ろし、これからも長く命をつないでいくのだろう。わたしもその永からん命を願って松の枝を引き寄せて結んでおこう。わたしに神の御加護があれば、再びここに還って来る。そして、この松を見たい。貴女も見たいのだ。」

皇后の歌は、他にも二首あります。若い有間皇子を間人皇太后は何故追いかけて来たのか。

皇子の紀伊国への護送(旅)がどんな意味を持っているのか、間人は十分に承知して追いかけて来たのです。


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11「陛下、白浜が見えております。明日、出立の松原を過ぎれば、太后のおられる白浜も遠くは有りません。太后はわたくしの母ではありますが、母の意にそわず難波宮に残ったわたくしの言葉など聞いては下さいますまい。まして、兄にすれば。…陛下、今夜はどうぞごゆっくりお休みくださいませ。草が足りなければ、陛下が結ばれたあの小松の下の草をお刈りくださいませ。必ず陛下のお体をお包みしてお慰めすることでしょう。」

間人皇太后は、有間皇子を「わが背子」と呼びました。

背子は特別な親しい間柄に使われる表現です。

有間皇子は間人皇太后にとって特に親しい男性だったことになります。

そして、次の日になりました。

12「陛下、今一度お声を聴きとうございます。わたくしがかねてより見たいと申し上げていた野島は見せていただきました。あの野島の海人が潜水して白玉を得ているのですね。願いを懸ける白玉を。でも、陛下は白玉を拾おうとはなさらなかった。底深い阿胡根の浦の白玉を拾って祈ろうとはなさらなかった。わたくしの心には深い恨みが残りました。ああ、白玉を拾って祈りたかったのに。」

以前は「陛下」とは書かず「殿下」と書きました。しかし、今は、夫の孝徳天皇が難波宮に倒れた時から「皇后」としての立場に戻った間人皇后は、孝徳天皇崩御の後は「中皇命」として難波宮に玉璽(ぎょくじ)を以って行政の処理をしていたと思います。昔も今もトップの死によって、行政がストップすることはないのです。百官がいましたから。

有間皇子の歌は、挽歌の二首だけです。歌の中では、皇子はへりくだってはいません。額田王が詠んだように「最後の瞬間まで皇子は凛としていた。「い立たせりけむいつ橿が本」凛としてお立ちになっていた厳橿の下に。死に臨んで木の下にお立ちになった時も。

有間と間人の二人の歌は、中皇命(間人皇太后)の歌3首。有間皇子の歌2首です。

僅か5首の歌が、なんと多くのことを教えてくれるのでしょう。

これら5首から読めるのは、二人は深く愛し合っていた、ことです。

理由は一つ、孝徳帝の崩御後、難波宮の後宮は皇太子が受け継いだのです。


それで、間人皇太后は難波長柄豊崎宮に残ったのでした。

有間皇子に玉璽が渡る。

世間はそう思ったでしょう。

その世間を欺くように、有間皇子は連れ去られた。

待つべきか、追いかけるべきか。いや、何があってもわたしが迎えに行く。


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しかし、その愛は有間皇子謀反事件によって断ち切られました。

間人皇太后の怒りと悲しみはいかばかりだったことでしょう。決して、兄・中大兄皇子を許さなかったと思います。

中皇命が玉璽を渡さなかったから、中大兄は皇位につけなかったのです。

中大兄は、皇祖母尊と間人皇太后の葬儀を済ませ陵墓に葬った後に即位しました。

また、有間皇子事件(658)後に、皇子の後宮は天智天皇の後宮へと変更された。

更に、壬申の乱後は、天武帝の後宮に変更されたのです。

それでなくては、宮廷に仕える女性たちは、政変の度に彷徨わねばなりません。

それがどんなに過酷でも、宮廷の女性も生きているのですから。

まず、間人皇太后の愛と、断たれてしまった思いについて書きました。

持統天皇はこの有間皇子を幾度も思い出し、その霊魂を慰め鎮めました。その意味は、まだ十分に書いていません。



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by tizudesiru | 2017-01-05 22:04 | 192有間皇子と間人皇后の物語 | Trackback | Comments(0)

189万葉集に隠された間人皇后の愛と悲劇

189間人皇后の愛と悲劇


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万葉集・とりかえばや物語(1)

万葉集の巻二は不思議な始まり方をしています。

(いわの)(ひめ)皇后(仁徳天皇の皇后)の歌で始まるのですが、これが本当に磐姫皇后の歌だとすると万葉集中で最古の歌になります

万葉集・巻二の冒頭歌は誰の歌なのか

   (いわの)(ひめ)皇后(おほきさき)、天皇を(しの)いて作らす歌四首

85 君が行き()(なが)くなりぬ 山たづね迎えか行かむ 待ちにか待たむ

   右一首は、山上憶良(やまのうへのおくらの)(おみ)類聚歌(るいじゅうか)(りん)()

   磐姫皇后が天皇を想って御作りになった歌四首

あのかたがお出かけになってからずいぶん日が経ちました。山に分け入りあの方をお迎えに行きましょうか。それとも、このまま待って待ち続けましょうか。(山上憶良臣の類聚歌林に掲載あり)


磐姫皇后が思っているのは、仁徳天皇です。仁徳天皇が出かけたまま帰らないというのです。天皇が他の女性のところに出かけているので嫉妬しているというのでしょうか。それにしても長い不在なのです。


86 
かくばかり恋つつあらずは高山の磐根し巻て死なましものを

これほどまでにあの方を恋しがっているよりは、あの方をお迎えに行って高山の岩を枕にいっそ死んでしまったほうがいい


87 
()りつつも君をば待たむ(うち)(なび)くあが黒髪に霜の置くまで

ずっとこのままあの方を待ち続けよう。打ち靡くようなわたしの黒髪に霜が降りたように白髪になってしまう時までも。


88 
秋の田の穂の()()らふ朝霞(あさかすみ)いつ()(かた)()が恋やまむ

秋の田の稲の穂の上に立ち込める朝霧がいつの間にか消えて行くように、わたしの恋も何時かどこかに消えて止むのだろうか。

   或本の歌に曰く


89 
居あかして君をば待たむ ぬばたまの吾が黒髪に霜はふるとも

   右一首、古歌集中に出ず

ずっとこのまま居てあの方を待っていましょうか。ぬばたまのように黒い私の髪に霜が降ったように白髪になるとしても。


85~88は連作になっています。89は別に「古歌集」から付け加えた歌です。

あの方が出かけて長く帰らないので、山に踏み入って迎えに行きたいが。

・いっそ険しく高い山の岩を枕に死にたいくらいあの方が恋しい…

・このままあの方をまちつづけよう。髪が白くなるまで。

・私の恋は朝霧のように消えることがあるのだろうか。

・(いえいえ、このまますっと何年でも白髪になってもあの方を待っていよう)

万葉集では、いっそ死にたいとまで思い詰めている磐姫皇后一体何があったのでしょうか。

いくら待ってもあの方は帰って来ない。こんなに待っているのに。


しかし、書紀の仁徳紀では、磐姫皇后は待ちません
。夫が他の女性を召そうとしても許しません。

むしろ、出かけて長く帰って来なかったのは磐姫皇后の方です。

磐姫は紀伊国に三綱(みつな)(かしわ)を取りに行ったのですが、皇后の留守をいいことに仁徳天皇は八田皇女を召しいれます。


難波まで帰って来てそれを知った皇后は怒って川を上って山背に去り、再び難波に帰ることはありませんでした。
仁徳天皇は磐姫皇后に「帰ってほしい」と歌を送ります。あれほど愛し合ったではないかと歌で呼びかけるのですが、皇后は聞きませんでした。

待ち続けたのは仁徳天皇の方です。

万葉集と日本書紀では、立場が逆転しているのです。


万葉集は鎮魂のための歌集です
言霊(ことだま)により(たま)にふれたり、霊魂を慰めたり鎮めたりする歌を集めた歌集です。そこに嘘を並べても意味がありませんし、むしろ、悪霊を刺激してしまうでしょう。

古代人は言霊を畏れました。死者の名を出さないようにしたし、(いみな)(本名)を口に出すことさえ避けたのですから。


万葉集は言霊が信じられた時代の歌集なのです。そこに嘘を並べても畏れ多いのですから、歌そのものは信頼できるでしょう。
或皇后の歌は存在したでしょう。

もし、それが磐姫皇后でなかったとしたら……

「もし」が可能なら、非常に恐ろしい事件が浮かび上がってくるのです。
また、明日


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by tizudesiru | 2017-01-03 15:44 | 189間人皇后の愛と悲劇 | Trackback | Comments(0)

188孝徳天皇の難波宮を寿ぐ

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188孝徳天皇の難波長柄豊崎宮を寿ぐ歌

わたしには、大化の改新の中心的存在であった孝徳天皇の御代の歌が万葉集中に一つもないことに疑問を持っていました。それは、何故か?

①孝徳天皇に歌の素養が無く、残されるべき歌がなかった。

しかし、書紀には孝徳天皇自身の歌が残されている。

➁万葉集編集者は、孝徳天皇の御代の歌を取り上げたくなかった。

孝徳帝の息子の有間皇子は繰り返し追慕され、後の世まで偲ばれている。

③孝徳天皇の御代の歌がないのは、単なる偶然である。

4500首の中に一首も無いのは偶然だろうか。

④元は孝徳天皇の御代の歌はあったが、後の世に意図的に削られた。

意図的に削ったのは誰か。その人物の削りたい理由は何か。

①②③④のいずれも問題あり、ですね。

しかし、わたしは④だと思っているのです。平城(なら)(みかど)万葉集と、文献てい万葉集編集の手を入れることができた人は、平城天皇です。家持死して二十年後のことでした。


そこで、平城天皇は確認されたでしょう、万葉集編纂の意図を。

元明天皇が激怒した理由も十分に承知されたでしょう。

そこに書かれていたのは、「天武から天智の皇統に皇位が戻ったことを易姓革命」と認識している桓武天皇の皇統にも、触れたくなかった何かということでしょうか。


そこで、桓武帝の皇子である
平城天皇が、万葉集に詔により大きな編集のメスを入れさせた、と思います。結果として、孝徳天皇の御代の歌が消えた。


しかし、です。

そのゴースト(影)は残ったのです。

孝徳天皇の名前が、仁徳天皇にすり替えられた。

何と畏れ多い、しかもゾッとするスリリングな話、と思われたでしょうか?


ですが、仁徳天皇を孝徳天皇に変えて読むと、万葉集の歌が生き生きとある歴史的な事件を伝えていることに気が付くのです。

それは、興味本意な面白さを追求した読み方になるのでしょうか。

この万葉集に込められた鎮魂の思いとドラマに、わたしは何度も泣きました。

万葉集は高貴な女性のために編まれた歌集です。

持統天皇の思いが溢れています。そして、額田王や鏡女王や元明天皇の切なる思いが、愛するものを奪われた悲しみが、読み手の胸を打つのです。


大伴家持は初期万葉集の意図と意義を十分に分かったうえで、藤原氏の陰謀を告発したのです。

a0237545_15251301.png

ということで、以前紹介した大阪城の前に広がる難波宮を思い出してください。難波宮は何度も皇居となりました。孝徳天皇・天武天皇・聖武天皇の御代に。


特に、
孝徳天皇の時代には、掘立柱の巨大な宮殿が造られました。

藤原宮や平城宮のような形式の宮殿なのです。

「形容のしようがないほどすばらしい」と云われた孝徳天皇の難波長柄豊崎宮を寿ぐ歌こそ、難波津の歌なのです。

文化の起点は難波宮に在ったからこそ、難波津の歌が古今集に取り上げられ、かるた競技の始めに詠まれるようになったのです.



a0237545_15282951.jpg


では、孝徳天皇の物語も紐解いていかなければなりませんね。そして、家持が告発した藤原氏の悪行にも迫らねばなりません。政変のはざまではかない命を燃やした美しき女性たちの物語を、やはり共有したいと思います。
a0237545_21193071.png
誤解を招きそうなので、付け加えます。難波津の歌は、古今集の仮名序に紹介されている歌です。仁徳天皇の御代の始まりの歌とされています。ここにも、仁徳帝の名が使われていますが、(それなら、万葉集に掲載されてもいいでしょう)歌の通りに天皇の御代の始まりの歌なら、孝徳帝の難波の宮こそふさわしいと、わたしが思ったということです。
では、また明日



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by tizudesiru | 2017-01-02 15:32 | 188孝徳帝の難波宮を寿ぐ | Trackback | Comments(0)

182鎮魂の歌集・初期万葉集

182鎮魂の歌集・万葉集

a0237545_21103716.png

さて、三回にわたって藤原(ふじはら)不比(ふひ)()とは何者か」について書きました。


なぜ、このように不比等について書いたのかというと、政界に出てはトップまで上り詰めたのに、万葉集では藤原不比等の影があまりに薄いからです。彼は、歌を詠まなかったのでしょうか。


また、時は天武朝であるのに「滅ぼされた王朝の創始者・天智天皇との関係」を繰り返し持ちだす藤原不比等、それを許した持統帝と元明天皇を不思議に思ったからです。


万葉集の時代に、天皇の外戚として藤原氏は権力の頂点に上り詰めました


しかも、藤原氏は天智帝と鎌足の関係を強調したあげく天智帝の御落胤とまで主張し始めました。


時は、天武朝です。滅ぼした王権の残照にすがりつくなど考えられないことです。何ゆえ藤原氏が天智帝との結びつきを強調し続けるのか、それを時の皇室が許すのは何故か、大きな疑問です。


藤原氏は初期万葉集編纂に関わってはいませんし、壬申の乱の時子どもだった不比等が成長する間に、初期万葉集は一定の方向を以って編集され続けていました。

a0237545_21574499.png


(藤原氏関係の歌は、見ての通り、鎮魂の思いは何処にもありません。初期万葉集とは藤原氏関係の歌は、質が異なるようです)

他にも「幾つもの疑問」


万葉集を読むと、幾つもの疑問に立ち止まらねばなりませんでした。


持統天皇が心寄せるのは有間皇子であり、その追慕は尋常ではないが、どんな因縁があるのか…

・持統天皇は柿本人麻呂と他歌人に幾度も近江京を哀しむ歌を詠ませた、そのわけは?

人麻呂は「事挙げす」というが、何を事挙げしたのか

草壁皇子は病弱ではなかったのに、何故か即位しなかった!

天武天皇「吉野の盟約」に感動・歓喜したのはなぜか

・人麻呂は持統帝の詔により万葉集の編纂をしたのか

持統天皇と天武天皇の同じ場で詠まれた歌がないのは何故?

 光明子と聖武天皇の歌は残されているのに

人麻呂が柿本佐留だとすると、元明天皇の怒りは何だったのか


上記の疑問は、途中ですが少しずつ解けてきました。
ここで、改めて問い直しましょう。
万葉集は、誰が何の目的で編纂したのか。
それを誰が手を入れたのか。






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by tizudesiru | 2016-12-24 22:47 | 182鎮魂の歌集・初期万葉集 | Trackback | Comments(0)


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283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
284明日香川原寺の万葉歌の謎
285天香具山と所縁の三人の天皇
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287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
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