続・大祖神社と志登神社に初詣

続・大祖神社と志登神社に初詣志登神社は延喜式内社(小社)です。田圃の中にポツンとあります。訪れるたびに、どんな人が守っているのだろうと思って不思議な気持ちがしていました。
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志登神社は建て代わっていました。よく見ると平成二十八年の正月、今年ではありませんか。大変ありがたい思いになりました。それも総檜造の素晴らしい神社となっていました。
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藩政時代には原田氏や黒田氏が築造に係っていたようです。
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さて、志登神社のラインは今までにも度々紹介してきましたが、新しい気分で再度紹介しましょう。
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志登神社の東西ラインは、加也山(西)から東に伸ばすと、遠賀川流域の最大の装飾古墳「寿命王塚古墳」に届きます。南北ラインは、北の柑子岳と南の雷山ラインになります。
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その他のラインも見ましょう。
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加也山からのラインが砥石山に届くと、丸熊山古墳や若八幡古墳を通ります。若八幡古墳は三角縁神獣鏡を出土した4世紀の古墳になります。このラインを東西ラインと呼びたいのですが、かんじんの志登神社の境内の南をラインが通ってしまうのです。現在の神社の位置が10メートルほど動かない限り、ラインは成立しません。
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これは、一貴山銚子塚古墳からのラインで、そのまま伸ばすと大嶽を通り福津市の波切不動古墳に届きます。一貴山銚子塚古墳は三角縁神獣鏡も副葬しますが、大事に頭部に置かれた鏡は金メッキの後漢鏡だという、3世紀後半から4世紀前半の糸島地方では最大の古墳となっています。その古墳が6世紀後半の波切不動古墳につながるのは、どういう歴史を反映しているのでしょう。まあ、それはそれで。気になるラインが他にもあるのですが、それは脊振山を二つの延喜式内社が挟むというものです。
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延喜式内社は、10世紀の醍醐天皇の時代の神祭りを反映しています。皇統の継承が危うくなった時期に設定された神祭りですから、そこに託されているのは皇室の安泰でしょう。その式内社が、脊振山を挟んでいます。古来から信仰の対象であった神の山「背振(上宮山)」を守っているのか、縛ろうとしているのか、どちらかと聞かれると『背振の霊力を封じている』と答えてしまいます。他の式内社の状況から引き出された答えでもあります。
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志登神社は伊都国と志摩国をつなぐ陸の橋の聖地に古来より鎮座されているのです。この聖地が守られ残されていくことは素晴らしいことだと思いました。真新しい檜の輝きと香りに心が満たされました。
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# by tizudesiru | 2016-01-09 12:14 | 139大祖神社と志登神社に初詣 | Comments(0)

大祖神社と志登神社に初詣

大祖神社志登神社に初詣1月8日、福岡県糸島市の大祖神社に行きました。この神社は、福岡平野の東に位置する伝承と信仰の山である若杉山、そこに西に向いて立つ太祖神社と相対しています。もちろん、すでに紹介しています。太祖神社に向き合う神社であることなど、ほとんど人に知られていないでしょう。それは地図を広げて分かったことですから。神社は「芥屋の大門」と呼ばれる景勝地の岬の付け根に東に向いて建てられています。
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それにしても、ほとんど人に知られていないような神社が「大祖」神社なのか、ちょっと戸惑いますが、地図で見ると「やはり」と納得します。大祖神社と太祖神社は、東西に相対しています。
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これだけではありません。太祖宮から見て、黄色ラインは夏至の日の出ラインで、黄緑ラインは冬至の日の出ラインです。夏至のラインは福津市の宮地嶽神社の不動古墳に届き、冬至のラインは糸島市の平原王墓・三雲南少路王墓につながります。いずれも、それぞれの時代を代表する一級の副葬品を持つ古墳であり弥生王墓です。
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このようなラインを導き出す大祖神社とは、どのような歴史を持っているのでしょう。他にも、宮若市の竹原古墳(装飾古墳)につながるライン上には大嶽神社が乗ります。小さな丘ですが、山頂に磐座があります。
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芥屋の大門という柱状節理の断崖に窟が開いています。大門神窟の鳥居です。
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こんな大祖神社、初詣は寒かったけれどすがすがしい気持ちになりました。
 この後、志登神社に行きましたが、それはまた明日。
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# by tizudesiru | 2016-01-08 23:16 | 139大祖神社と志登神社に初詣 | Comments(0)

138武士の祭祀線・徳川氏と足利氏

徳川家康足利尊氏の夢?陰謀?武士の祭祀線
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 どなたも御存じのように、平安京は千年の都です。桓武天皇は都を怨霊から守るために平安京を設計されたそうです。その皇子の嵯峨天皇も空海に国家と都の守りを託しました。「空海の霊力」でもすでに紹介していますが、平安京は確かに神社と寺院で守られています。皇居は火災により移動していますから、途中で若干の修正はあったようです。水色のポイントは10世紀の始め、醍醐天皇の延喜式により名神大社として挙げられたいわゆる「延喜式内社」です。神となった祖先霊(陵墓)の力も借りて、都と御所は守られていたのです。
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では、鎌倉・室町と武士の時代になっても「都の守り」が機能していたとなれば、武士にとても由々しきことです。足利尊氏は室町に幕府を開きましたが、後醍醐天皇の菩提を弔うために「天龍寺」を建立したと伝わります。確かに、夢想国師の助言を受けて、国師を開山として創建された禅寺でしょう。しかし、その立地を見ると不思議な気分になります。
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方丈から見える庭は、夢想国師作の池泉回遊式庭園で嵐山を借景としていますが、そこを一本のラインが通っています。
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このラインは、都と天皇家を明治まで守り続けた東寺と、延喜式内社の間にあります。私なりにラインを読んで考えてみると、出雲大神宮と東寺の結びつきを断つという結果を導き出します。まさかと思われるかもしれないので、足利氏の二代将軍の庶子で、三代将軍となった足利義光が建立したという「金閣寺」を見てみましょう。
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上賀茂神社と松尾大社の間にきちんと入っています。義光は中国との外交権を手中にし、倭国王として君臨しようとしていたので、式内社の霊力を断ち切ろうとしたのでしょう。足利氏の夢でもあった政権掌握への密かな布石でしょうか。
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では、江戸幕府を開いた徳川家康も、京都と御所を縛ったのでしょうか。
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これは、2016年のNHKのテレビ番組をカメラで撮ったものです。久能山東照宮とと日光の東照宮が富士山を挟んでラインで結ばれるというもので、墓所が西の近畿に向いているというのは豊臣家を意識してのことだという展開の番組でした。グーグルで見ると次のようになりますが、富士山は山頂を通っていないし、京都も大阪も若干外れます。青のポイントは、日光と久能山の家康の墓所で、黄緑が富士山です。京都では二条城にラインをつないでいます。が、今一つ徳川氏の意図が見え難いですね。
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では、徳川氏は京都には興味を示さなかったのでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。すでに何度も紹介している二条城のラインです。
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徳川氏が京都に築いた二条城は、下鴨神社と角宮(式内小社)のラインを断ち、御所の守りのラインを傷つけています。また、上賀茂神社と東寺のラインの中に入り込み、天智天皇陵と出雲大神宮の間にも割り込んでいます。足利氏と同じように、東寺・出雲大神宮・上賀茂神社の霊力を断とうとしているように見えます。つまり、武士の時代にも祭祀ラインを密かに利用したり、その霊力を遮ろうとする思想はあったということです。


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# by tizudesiru | 2016-01-06 23:22 | 138武士の祭祀線・徳川と足利 | Comments(0)

方保田東原遺跡の庄内式土器

弥生環濠集落方保田東原遺跡(山鹿市)に行きました
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埋蔵文化財の保管施設の倉庫を見せていただきました。大きな溝が埋め戻されて上に資料館が立てられていました。
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この辺りに多く見られる土器だそうです。庄内式の土器も驚くほどありました。近隣の古墳から出土した埴輪もたくさんありました。 
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畿内系・出雲系の土器がたくさん出土する理由は何でしょうね。近くの古墳の埴輪もたくさんありました。
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膨大な資料を持ちながら、方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡はひっそりと見学者を待っていました。みんな働くのに忙しくて古代の土器類を見る余裕などないので、見学者などいないのです。話題の映画を見ることはあっても、話題にもならない遺跡を見ることはないのでしょう。卑弥呼の館というイメージを背負わされた纏向の大型建造物の説明会には、多くの人が押せ寄せました。邪馬台国と卑弥呼だけが人を集めているように見えます。何故このような現象が起きているのか、改めて考え直すと、邪馬台国論争がうやむやに引き延ばされてきた結果なのではないでしょうか。マスコミの過剰な畿内説報道にゆすぶられて「畿内説を信じたいが、畿内説は怪しいかもしれない」と考える人の多くは、「自分で確かめよう」と行動するのだと思います。
 私は「何も持たなかった畿内になぜ王権が生まれたのか」ということに、非常に興味があります。鉄のない地域に開発が進むでしょうか。鉄を生産するには、大量の炭(木材)が必要です。炭も鉄素材も、それを製造する技術も人も、彼らを養う食糧も必要です。大きな力なくしてそれらを確保できないでしょう。または、人やモノや技術がこぞって移動したとすれば、その要因は何かということになります
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庄内式や布留式土器が方保田東原遺跡から大量に出土するということは、資料館の説明によれば交流があったことの証拠だそうです。でも、橿原考古学研究所の方の説明では「纏向では北部九州形の土器はほとんど出ない(出土した土器片も北部九州と断定できない)」ということでした。畿内の庄内式土器の時代には北部九州とは交流がなかった、とするのが妥当でしょうか。しかし、ここ方保田東原遺跡には交流の跡がある、ここは北部九州をスルーして畿内と直接結びついていたのでしょうか。(福岡市の下月隈・雀居・西新町遺跡などでは庄内式土器が出土しているのですが……
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素人には理解が難しいのですが、橿原考古学研究所の報告を見れば、「近畿と北部九州の交流はある時期までは無かった」と考えていいのでしょう。そして、ある時期から突然に始まるのでしょう。
 それとも、「庄内式土器の始まりは九州であり、それが近畿にある時期に人とともに移動した」というのでしょうか。それで、弥生の後期に出発地・発信地である九州に庄内式土器が大量に出土する……と。それなら、理解できそうです。雀居遺跡の木製品の年輪年代が100年ごろとされていますし、それが2世紀後半ごろになって突然多くの土器や木製品とともに「廃棄」されているのだそうです。その時期が、倭国大乱に重なるとか……遺跡の放棄と廃棄が北部九州のあちこちの遺跡で起こっている……そうすると、2世紀後半に大量の人の移動があったことになります。
 人間の大移動は文明の開花と争いを引き起こしますよね。弥生後期にそれがあったのでしょう。
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# by tizudesiru | 2015-12-18 22:50 | 137方保田東原遺跡の庄内式土器 | Comments(0)

136中肥後の古墳群と土器焼成

中肥後の古墳群塚原古墳群
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花見塚古墳は、この古墳群では大きな前方後円墳になります。九州自動車道が古墳群の下を通ったので遺跡が発掘されて、その資料を基に資料館もできて一部が公園化されたのでしょう。花見塚古墳は6世紀の終わりころ築造され、7世紀の初め頃まで使われたと書かれています。
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此処の資料館は写真を撮ってもいいと言われたので、取らせていただきました。20年以上前に来たことがありますが、その時は写真を撮ってはいません。ここで、私は見つけました。人には「泥かぶせ焼き」として、土器の焼成を説明していましたが、『雲南式覆い焼き』と呼ばれる土器焼成方法に再会したのです。この方法は、本の写真入り説明(書籍名忘れ)で見て知っていたのですが、一般的な名称が分からなかったのです。
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非常にうれしかったです。私の説明を聞いた人は、かならずといっていいほど「そんな方法で焼成温度はどのくらい上がるのか。燃える材料が無くなったら温度が下がるし、長時間は焼けないだろう」と焼成方法に疑問を出されていました。そこで、資料館の学芸員さんに訪ねてみると、「かなり温度は上がると聞きました」と言われました。写真に5時間と7時間がありますが、7時間後には表面が赤く焼けています。内部はかなり高温となったのでしょう。
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実験で焼かれた土器が置いてありました。
 他に、「タイ式覆い焼き」のパネルと実験で焼かれた土器も展示されていていました。これは「野焼き」などと言って、よく自治体のイベントなどで使われる焼成方法です。
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二つの土器焼成方法は、須恵器生産の前の技術でしょうが、須恵器の時代になっても手軽な焼成方法として残ったかもしれません。そして、雲南式覆い焼きから穴窯焼成への移行は容易だったことでしょう。泥の覆いを焼成のたびに壊すのはもったいない話ですからね。学芸員さんに撮影許可をいただいて、いよいよ展示室に行きました。今回ぜひとも見たかったのは、古代寺院の瓦です。瓦当て文様が肥後の場合は古いからです。でも、縄文土器から見せてもらいました。
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20数年前に父と資料館を訪れた時、瓦ではなく縄文土器と石器に興味があったのでした。弥生土器以降にはあまり興味がなかったのです。熊本は何処を歩いても縄文・弥生の土器を表採してしまうので、より古いものに興味があったのです。道路や林の地表に落ちている土器や石器は、埋蔵文化財ではなく単なるゴミだそうです。文化財ではないと聞くと、もったいなくて拾って回ったものです。置くところもないくらい拾ったので、今はあまり拾わないことにしています。が、畑に落ちている石器を見ると、何かしら心が動きます。
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 阿高式の縄文土器です。この紋様に魅了されたものです。
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貝製の仮面も有名です。
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貨泉も出土していますから、遺跡が営まれた時期の特定もできるのでしょう。
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丹塗り土器も甕棺もあります。
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古墳時代になると大甕が焼かれました。
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円筒埴輪も石製装飾品も一緒に出土しているようです。岩戸山古墳と同じですね。岩戸山古墳も石人石馬だけでなく形象埴輪・円筒埴輪が一緒に出土していますね。
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さて、古代寺院ですが。
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この金堂と塔が並んでいる伽藍は、太宰府の観世音寺に似てますね。瓦を見てみましょう。
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今回も、すごく面白いことを見つけました。それは、内緒! 気が変わったらお話しすることも……ぜひ塚原古墳群を見に行かれてください。小さな町のたくさんの発見がある資料館です。
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ここには、石之室古墳もあります。石屋形と家形石棺の中間のような埋葬施設があります。では、この辺で!
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# by tizudesiru | 2015-12-17 13:22 | 136古代の土器焼成 | Comments(0)

阿蘇ピンク石の石室・井寺古墳

 
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阿蘇石の石室井寺古墳阿蘇溶結凝灰岩で作られた井寺古墳(直弧文が刻まれた石障が有名)に行くことにしました。が、出発して間もなく寄り道をしました。以前、訪ねた「猫伏石」に再会して懐かしかったからです。
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どう見ても古墳ですね。巨石の石室が壊されているようです。猫伏石は「木山街道」のど真ん中にあるのですが、昔の人もこの大石を動かせなかったようです。猫伏石のところで、木山街道はロータリーのような交差点になっています。この石のすぐ近くに「熊野神社」があって、ここにも以前訪ねたことがあります。
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地図で見ると、ちょっとおもしろいようです。
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熊野神社は、雲仙普賢岳と阿蘇の清水寺を結んだライン上に乗っていました。木山とは「木山神宮」のことです。社殿とは少しずれますが、ほぼライン上にあるようです。
 さて、いよいよ井寺古墳に行こうとしたのですが、今度は道を間違えて、中無田熊野神社に出てしまいました。ここは井寺の浮島神社から勧請された神社でした。中無田の水が井寺の湧水と同じように豊かであったので、熊野神社を勧請したのでしょう。湧き水を汲みに来ている人が数人おられました。
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いよいよ井寺古墳に向かいましたが、またもや昔訪れた「沼山津神社」に寄り道しました。
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この神社も地図で見ると、八方ヶ岳と小山山と井寺古墳を結ぶライン上にありました。試しに猫伏石と結んでみると、日吉神社をかすめて、宇土市の城山公園にラインが届きました。宇土市の城山公園は画像には乗り切れませんでした。
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何度もより道して時間を取りましたが、井寺に到着しました。まず、浮島公園に車をおきました。
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一日に13万トンの水が湧いているそうです。広い池の水は澄みきっています。熊野神社が見えます。
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井王とは、非常に興味の湧く姓ですね。この地は井寺ですから、井氏の寺があった地ということでしょうか。
熊野神社から歩いて5分くらいのところに井寺古墳はあります。
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説明板が破れていますが、読み取りはできます。
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井寺古墳の直弧文の装飾壁画写真は、参考資料のものです。写真資料以外に古墳の内部を見ることはできません。石室の積石も阿蘇ピンク石です。
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さて、井寺古墳を地図で見ましょう。
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井寺古墳の西には普賢岳。おつぼ山神籠石のあいだには熊ノ岳。江田船山古墳→打越古墳→井寺古墳と、三か所の古墳は直線上に乗ります。三か所の有名古墳がつながるのは、珍しいことです。
井寺古墳は何を教えてくれているのでしょうね。
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# by tizudesiru | 2015-12-16 00:52 | Comments(0)

2015邪馬台国シンポ・久留米

久留米・邪馬台国シンポジウムに行きました
邪馬台国時代の久留米」と「考古学から見て邪馬台国畿内説は成り立つのか?」という二つの演題の報告をします。
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久留米市の石橋文化センターでシンポジウムがありました。ここには、子どもの頃にも通った美術館があって、青木茂や坂本繁二郎の作品を見ることができました。それら郷土作家の名作は、東京の石橋美術館に移されました。田舎に置いておくのはもったいないという……ことなのでしょうか。ーーまあ、シンポジウムでしたね。 久留米地方の地図です。右下の緑は耳納山地、茶色の範囲は弥生前期の遺跡集中地域、黄緑の範囲は弥生中期の遺跡集中地域、焦げ茶色は弥生後期の遺跡集中地域、です。
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弥生前期の遺跡として、久保遺跡が紹介されました。擬朝鮮系無文土器や黒色研磨土器を伴う集落が存在します。
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弥生中期の石丸遺跡には甕棺墓群の二列埋葬が認められ、間を墓道が通るそうです。埋葬の形式は集団の結びつきや統制を意味するのでしょうか。   
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安国寺甕棺墓群も弥生中期の遺跡です。甕棺墓が最盛期を迎えたこの時期の集落には、丹塗り土器を伴う竪穴住居が確認されています。これらの建物の主軸はほぼ同じで、いずれも焼失住居ということです。同じ集団の住居が同じ時期に焼失したのは、その時期に何か事件があったということでしょうか。弥生中期の甕棺最盛期にです。 
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水分遺跡は、「大半が弥生後期の所産で二重区画溝、周溝状遺構9基、竪穴住居150軒、掘立柱建物10棟、遺物として銅鏃・広型銅矛耳・骨鏃・碧玉・ヒスイ・ガラス製玉・赤色顔料・内面朱付着土器・鉄製品・炭化種子などが出土している。長方形の大型の竪穴住居から、大量の完形土器や床面にまかれた赤色顔料、ガラス小玉160点、炭化米、鉄鏃4、銅鏃3、骨鏃2がまとまって出土している」そうです。ここの人々は、突然の事件で大型建物を見捨てることになったのだろうかと、想像してしまいました。
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大型建物です。
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良積遺跡も弥生後期から古墳時代初頭にかけての遺跡です。「竪穴住居160軒、掘立柱建物30棟、周溝状遺構40基、甕棺墓・石棺墓・土壙墓34基。銅鏃・銅釧・銅鏡4面・鉄製品、ヒスイや碧玉・ガラス製の玉類、石器・畿内系の壺も見られる」そうです。
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文化財保護課の方の報告文には、上記のような記述がありました。弥生中期にピークを迎えた集落に突然の変化、意図的な溝の埋め戻し、大量の土器の投棄、それはこの土地を離れざるを得なかった結果であり、弥生の終焉であると……恐ろしい社会的変化が起こった?!それが邪馬台国の時代なら、久留米周辺も邪馬台国と関係の深い地域であり、邪馬台国の終焉とともにこの地を去った集団がいるという証ではないでしょうか。そして、古墳時代に入っていく!!
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高良山の西麓に位置する祇園山古墳の測量図です。石棺墓に二体が埋葬され、互い違いに寝かされていたと聞きました。ここでも何かあったのでしょうね。高良大社の三角縁神獣鏡は、祇園山古墳の出土物と言われているけれど、推測の域を出ないと書かれていました。
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祇園山古墳の組み合わせ式石棺です。どんな歴史が此処にはあったのでしょう。

さて、次は「考古学から見て邪馬台国畿内説は成り立つか?」という演題でした。 
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奈良県の前期弥生遺跡(黒丸)は、大阪側や北陸側にはなく東南部に(和歌山側に)偏っているそうです。奈良盆地は低地が多く水害を受けやすい地形だそうです。中期の唐古・鍵遺跡には、青銅器(銅鐸)の製造跡や80cmの柱跡の大型建物跡は見られるが、後期にはめぼしいものがないそうで、巴形銅器の破片、ヒスイ勾玉が出土している、奈良には大陸系の遺物・土器はほとんど出ないとのことでした。「めぼしい墓もなく、方形周溝墓があっても副葬品はない、入れるものがない。鉄器はほとんど出ておらず、10点もない(銅鏃が数点)」と説明されました。墳丘墓も少なく、土器を見ると東は伊勢湾まで西は吉備までの交流は考えられるが、大阪との関係はないとのことでした。
 後期には低地から山辺の道の方へ遺跡が上がっていき、「同じ時期の遺跡(白丸・纏向遺跡など)が南北5kmの範囲に見られ、これらの遺跡が大型古墳とかぶる」そうです。
 纏向遺跡には環濠はなく、遺跡を全部合わせると大きいが、各遺跡は河川により分断されているそうです。最近、話題に上った大型建物は河川と河川の間にあり、建物Aは実はなかったのだ
そうです。
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この建物は古墳時代に端が壊されていて、重要な建物だったとは考えられないとのことです。重要な建物には柵が厳重に巡らされ、後の時代になると土塀などで囲まれているそうです。調査報告書では柵と主張しているが、柵とは考えられないそうで、纏向遺跡の出土遺物は唐古・鍵遺跡より少ないとのことでした。銅鐸の耳や銅鏃だったようです。
 このような纏向遺跡で、鉄の生産が始まるのですが、出土した鞴の羽口はカマボコ型で九州福岡県の博多遺跡のものと同型で、朝鮮南部の陶質土器が一緒に出ているそうです(朝鮮からの直接の伝播といいたいのでしょうか)。その鉄製産の時期ですが、布留式土器と一緒に出ていて、箸墓築造の時期と重なるそうです
 また、箸墓は桜井茶臼塚古墳と同じ時期の土器が出ているし、それらの土器は庄内式土器とは違うということです。庄内式土器は、一つ一つ形が違っているとのことです。
 ほかにも石製品や出土土器の説明がありましたが省略します。
 これらのことから、邪馬台国畿内説は成り立ちがたいとのことでした。ただし、5世紀になると、大型古墳が出現し、馬具・武具などの副葬品が見られるようになり、畿内に王権が出現したと思われる、更に、「中山平次郎氏が言われたように、九州の弥生の鏡・玉・貝輪などが大和の前期古墳のルーツとなっている」と話をしめられました。
 纏向遺跡を発掘された先生のご講演、事実の報告だったのでした。
 



 
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# by tizudesiru | 2015-11-29 22:39 | 134邪馬台国シンポ・久留米 | Comments(0)

133ホケノ山古墳は前方後円墳

 ホケノ山古墳とは何? 誰か教えて!と、まあ、こんな気分ですね。ここは、いつから卑弥呼の墓と噂されるようになったのでしょう? いろいろな資料や著作・報告等にたくさん名前が出てきますが、私は残念ながらホケノ山古墳を訪問したことがないのです。ですから、失礼ですが、本やブログで画像を見つけさせていただきました。まず、ホケノ山古墳を画像で探しましょう。
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引かれているライン(青・ピンク・赤)は、青が景行天皇陵と箸墓と孝元天皇陵と見瀬丸山古墳をつないだものです。ピンクは穴師の大兵主神社と結んでみました。ポイントの左端が箸墓(箸中山古墳)です。ホケノ山古墳は箸墓のすぐ近くです。慶運寺のポイントは古墳ではなく、阿蘇溶結凝灰岩(阿蘇石)の石棺に仏像が彫られているので、ポイントを入れました。赤のラインは、新木山古墳と結んでみたものです。
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ホケノ山古墳の画像を拡大してみました。帆立貝式の前方後円墳です。この形が古墳の始まりの時期の形と言われています。しかし、出土遺物(副葬品)は初期古墳のものとは思えないのですが。
 出土遺物としては、画文帯神獣鏡1面、内向花文鏡と半肉彫の鏡片、素環頭大刀1口、鉄製刀剣10口ほど、銅鏃60本以上、鉄製農工具、多量の水銀朱。二重口縁壺(庄内式)小型丸底土器(布留式)などです。
 次の写真はブログから貰いました。小型丸底土器を見ると、口縁部が広い土器であることが分かります。このようなものは、庄内式の時期には見られないものだそうです。最近は、布留式(古式)の小型丸底土器は4世紀以降のものとされているそうです。
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 全長80mの墳丘には葺石があり、中心主体部は後円部中央に設けられた「石囲い木槨」です。これは特殊な構造とされ「木槨」の周りを川原石で囲むという二重構造になっていて、石囲い木槨の内部に刳り抜き式木棺(長5m、コウヤマキ製)が納められていました。写真は、桜井市ホケノ山古墳(第4次調査)現地説明会資料(2000年)から貰いました。このような埋葬施設は初期古墳のものでしょうか。卑弥呼の時代の墓だとすると、「棺ありて槨なし」という倭人伝の記述とは矛盾すると、多くの方が指摘されています
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 また、中心主体部西側に6世紀末の横穴式石室(組み合わせ式家形石棺あり)が設けられています。3世紀の中心主体部の横に6世紀末になって横穴式石室を設けたというわけです。石室は親族か同じ氏族の埋葬施設なのでしょうか。それとも全く無関係の人物の施設なのでしょうか。同じ墳丘を使った理由が分かりにくいですね。
 発掘後の報告書にはノカツギのついた銅鏃が出土とありますが、これも後の時代のものと指摘されているそうです。3世紀の古墳とは認識しがたい問題だらけの古墳のようですね。
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# by tizudesiru | 2015-11-23 22:59 | 133ホケノ山古墳 | Comments(0)

132箸墓は卑弥呼の墓ではない

箸墓は卑弥呼の墓ではないこの噂を少し考えてみます。もちろん推測に対する憶測なのですが……
 邪馬台国畿内説を唱えている人の中にも「箸中山古墳(箸墓)は卑弥呼の墓ではない」といっている人がたくさんいます。それに、あの纏向遺跡の大型掘立柱建物を「卑弥呼の居館跡ではない」と思っている人もたくさんいるらしいです。近畿に住んでいる人の話ですから詳しくは分かりませんが、マスコミの報道の仕方に疑問を感じておられるのでしょうかね。それにしても、40年間掘り続けて小さな柱穴の建物しか出なかった纏向遺跡になんで大きな掘立柱穴が出たのでしょうか。大きな建物を作るには、それなりの財力・権力が不可欠です。辺りにそれらしいものが見られないのに大型建造物は信じられません。それも、1mもある方形の柱穴で(弥生の大きな柱穴は円形だそうですから)大変珍しいとか……5・6世紀でも珍しい方形の柱穴が弥生時代に出るとは。やっぱり、発見当初の見立てのように7世紀後半の建物跡ではないでしょうか。柱近くの溝から庄内式土器の欠片と布留式土器(4世紀以降の土器)の欠片も一緒に出たのなら、すくなくとも4世紀以降の遺構であることは確実ではありませんか。
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それに、この時代の畿内(邪馬台国時代)には、交流があった半島の土器(楽浪系土器・三韓系土器)は出土していません。壱岐の島の原ノ辻や糸島市の御床松原遺跡・三雲遺跡などには出土しています。福岡平野にも出土しています。最近、「馬韓系土器(鳥足文土器)の出土が1世紀から4世紀の間の半島との交流を示している」と聞きますが、それは後の時代のものでしょう。韓国の学者の方が「鳥足文土器は5世紀の工人が使った土器」と書いておられるのを読みました(その文章はどこかにしまったのですが、探します)。そもそも肝心の楽浪系が出ないのはその地域が交流がなかった証拠です。が、「魏の使者は伊都国に留まり、瀬戸内を使わせなかったから、直接は女王国との交流はなかった」といえば、それまでです。はるか九州まで来た人々は、そこでユーターンしたということになります。
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この写真は糸島の歴史博物館の図録をデジカメで撮ったものです。伊都国では国産鏡(大型内向花文鏡・方格規矩鏡など平原王墓の鏡も)を生産していたそうですから、半島の土器をまねて作ることもできたでしょうね。須恵器の生産が近畿で始まる前に、九州では須恵器を生産していたのではないでしょうかと、素人は思うのです。同じ種類に見える庄内式土器の土器編年を使って遺跡や古墳の暦年代を次々に上げるのは、畿内の学者さんの特色のように思えてきました。一つ年代を上げると、連動して他の遺跡も暦年代を上げるのです。九州の博物館を見て回っても、そんなところはないようです。これからは、むしろ中央から暦年代を下げさせられるのかも知れませんが……鳥足文土器の文章見つかりました。平成24年3月10日に「百済文化と古代日本」というシンポジウムで配られた資料です。この会場には希望者が多くては入れませんでしたが、資料のコピーをもらいました。この資料を読むかぎり、鳥足文土器は少なくとも4世紀後半以降、5世紀にしか日本に来ていないようです。一瀬和夫さんがちょっと書かれたように、楽浪系土器で邪馬台国を探すなら「楽浪系土器も三韓系土器も出ない畿内で邪馬台国畿内説は成り立たない」、ということです。
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さて、国立博物館に特殊器台(図録写真のもの)が展示されていましたが、その文様どこかで見たなあと思いました。
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 見つけました。熊本県の阿蘇市と熊本市の遺跡から出た土器の文様です。(写真は糸島の博物館の図録)熊本市の方は直弧文と書かれています。これらを見ると、重弧文・直弧文はたしかに弥生時代の文様です。しかし、宮山式特殊器台を始め、この特殊器台特殊壺と呼ばれるものが、弥生時代(3世紀)のものとは思えないのです。写真の宮山式特殊器台は前方後円墳の墳丘から出土したものと書かれています。弥生の墳丘に置かれていた(置かれるはずだった)ものが棺として転用されたと説明されているのです。資料的価値の高い遺物だそうです。棺とする時、割れもなく十分に使用できる状態だったのでしょう。ということは、転用されるまでの時間が短かったということになります。つまり、ほぼ前方後円墳の時期に「宮山式の特殊器台は造られていた」となるのです。宮山式特殊器台は、古墳時代の産物かも知れない……すると……、この宮山式特殊器台(岡山県)と都月坂式特殊器台(岡山県)の技術を持った工人集団が箸墓の墳丘上の特殊器台にかかわったと、考古学者の方が言われています。そうなると、箸墓古墳の築造時期は、すくなくとも宮山式特殊器台を持つ前方後円墳より遅い(又は同時期)ことになります。 
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では、同じような特殊器台を持つ岡山の楯築古墳(楯築遺跡)80mの弥生最大の墳丘墓の特殊器台を見ましょう。ここは箸墓より早い墳丘墓とされています。ここも有名なので気が引けますが、素人の憶測です。
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こちらは粉々に割れています。楯築遺跡(2世紀後半)は不思議な墳丘墓です。埋葬施設は木棺と木槨の二重構造で、槨の外側に排水施設の暗渠が設けられているとか、弥生の墳丘墓でしょうかねえ……そもそも木槨の中に木棺が入れられるのは、いつの時代からでしょうか。楯築の特殊器台について、福岡市博物館の図録には、次のような説明がされています。。
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特殊器台が埴輪の原型になると書かれています。一緒に出土している巫女型土製品は形象埴輪の原型とは書かれていません。形象埴輪が出土するのは、円筒埴輪や朝顔形埴輪の後の時期だからです。円筒埴輪より形象埴輪の方が早く出現したとは言えないのでしょうか。
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とても土偶の類とは思えない巫女型の埴輪ですね。頭は別造になっていて首がはめ込まれるようになっています……これだけでも、楯築墳丘墓の築造年代が弥生後期に収まっていることを不思議に思います。箸墓古墳に先行するとされる楯築遺跡と宮山式特殊器台ですが、その時期が弥生終末期にまで延びると箸墓が3世紀末を越えてしまうことになるかもしれません。そうなると当然、箸墓が卑弥呼の墓の可能性は薄くなるのです。それから、箸墓より早くに築造されたというホケノ山古墳があります。卑弥呼の墓と言われる箸墓より古いのですが、近畿では弥生の鉄を副葬するただ一つの帆立貝式の古墳らしいです。最近、このホケノ山が卑弥呼の墓だという噂がたてられています。そして、卑弥呼の鏡として考えられているのが、三角縁神獣鏡ではなく画文帯神獣鏡だそうです。伝ホケノ山古墳出土の画文帯神獣鏡があるからでしょう。画文帯神獣鏡は江田船山古墳でも出土していますが、どうなっていくのでしょうね。
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# by tizudesiru | 2015-11-17 12:51 | 132箸墓は卑弥呼の墓ではない | Comments(0)

131素材がささやく古代の謎

素材がささやく古代の謎大王の棺写真は、宇土市の図書室に隣接する資料室の展示物です。係りの方にお願いして写真を撮らせていただきました。
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左奥は、菊池川産の阿蘇溶結凝灰岩のサンプルです。他は宇土市の馬門石のサンプルで、色はピンクだけではないことが分かります。
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以前、宇土半島の付け根にある楢崎古墳の紹介をしました。ここは馬門石の石切り場の近くにありますが、石棺に馬門石を使っていないそうです。そのために、馬門石のブランドを守るために地域の有力者にも石棺に馬門石を使用することを許さなかったのだという説があります。ちなみに、ここは46mの前方後円墳で、5世紀中ごろのものとされています。その楢崎古墳を見てみましょう。
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石棺の形が少しずつ違っていますから、同時期の埋葬ではなく世代が違う人達の埋葬施設でしょうね。宇土半島本部の古墳築造の状況(新宇土市史より)を見ると、連続している時期と衰退していく地域が分かります。楢崎古墳は宇土半島本部の6期の位置ににあり、辺りでは小さな墳丘になります。
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馬門石の石片が出土したこふんには、峰ヶ塚古墳(大阪府羽曳野市)や今城塚古墳(大阪府高槻市)が在ります。写真は八代市博物館「火の君、海を征く!」の図録をデジカメで撮ったものです。まず、今城塚古墳の石棺石材のかけらです。
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以上、博物館の資料を使わせていただきましたが、馬門石が運ばれているのはたしかです。九州の凝灰岩を使ったのは何故でしょう。特に、同じ宇土市の周辺地域の古墳に「鬼の岩屋式」と呼ばれる石室がありますが、ここに使われている石材は安山岩だそうです。凝灰岩を使わなかった意味が今一つはっきりしません。宇土市の鬼の岩屋式石室を見てみましょう。
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このように、鬼の岩屋式石室は、道路そば、人家の庭先、山道の路肩などいたるところにあるのです。6世紀の群衆墳のようなものでしょうか。一般の人も大いに墓を作ることができたという……
 途中ですが、今日はここまで。
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# by tizudesiru | 2015-11-12 10:21 | 131素材が語る古代Ⅱ | Comments(0)

130素材が語る古代

素材がささやく古代の秘密 クスノキは九州が北限(福岡市立花山・樟の原生林)古代には、楠は九州より北には自生していませんでした。かの有名な百済観音はクスノキの一木造りですから、九州の樟で作られたのでしょう。それとも、百済に樟を運んで造り上げて、再度日本に持ち込んだというのでしょうか。楠では船も作られたそうです。命を懸けて海を渡るとき、地域のご神木で作った楠の船に乗ったのかもしれません。仏像を樟で造るのも、納得できそうです。先に紹介した法隆寺の「多聞天立像」は、樟の一木造りです。これも楠ですから、九州で作られたと考えられます。それを、法隆寺に持ち込んだのは誰でしょう。私も及ばずながら推理をしていますが、以前、紹介した自著にそのことについて少し書きました。
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 古代の遺物は私たちの知らないことを多く語ってくれているのかも知れません。
「美の国日本」に展示されていた鏡が二面ありましたが、どちらも奈良県でした。「新山古墳」の直弧文鏡(上の写真)と、「佐味田宝塚古墳」の家屋文鏡(下の写真)です。いずれも「美の国・日本」の図録をデジカメで撮った写真です。
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この銅鏡の「鉛同位体比」を「Pbデータベース」で調べてみました(これは、ネットにも出ていますから誰でも手に入れられる資料です)。最近、青銅器に熔かされている鉛で産地を探るための資料として、又は青銅器の製作地域を探るため(同一工房を探すため)とかに、鉛同位体比が使われています。でも、鉛は銅の中に鉱物のまま入れて溶かすこともできますが、産地の違う青銅器を混ぜ合わせることも可能なので、産地の特定は難しいようです。
 直弧文鏡の方は探しきれませんでしたが、家屋文鏡は珍しいので見つかりました。データは次の順序で書かれています。①②③④は鉛同位体比で4種類あります。
a鏡種・b分類・c時代・d遺物等の名称・e径・地域遺跡名など・①206pb/204pb・②207pb/206pb・③208pb/206pb・④ 207pb/204pb (文献名など省略)
家屋文鏡のデータ a家屋 b古墳前 c家屋文鏡 d22.7cm e奈良県佐味田宝塚古墳 ①18.223  ②0.8586 ③2.1200 ④15.646
分かりにくいですね。下にプリントアウトしたデータをアップしてみました。
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では、福岡の弥生のデータと比べてみましょう。
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数字は左から①②③④の順で同位体比のデータが並んでいます。古墳時代の奈良と弥生時代の福岡では鏡の成分に違いがみられるようです。ちなみに、平原王墓の破砕銅鏡は国産品と柳田康雄さんが言われていますね。あれは見事な技術で造られた銅鏡でしたので、最近まで舶来品だと信じていましたよね。見事な銅鏡を作る技術が九州にあったのなら、古墳時代になって他所から工人を招いて、技術の劣る鏡を作ったのは何故でしょうね。
 pbデータベースを見ると、確かに製作地域は想像できそうですね。それにしても、銅鐸が九州の銅戈を鋳つぶして造ったという説にゆすぶられますね。

 今日は博物館をはしごしたので疲れて……ここまでにします。
 さて、昨夜の続きです。
纏向遺跡に北部九州産の土器はほとんど無いです。あっても1%くらいです」 
これは、奴国シンポジウムでの奈良文化財研究所パネラーの発言ですが、そりゃあ、そうでしょう。この時代の近畿には半島系土器はまだ多くないし、この時代の対外交流の中心は博多湾沿岸地域にあった(福岡市博物館の図録に解説)のですから福岡市の西新町遺跡からは、半島系の土器や半島の影響を受けた住居跡(室内の隅にオンドル式のカマドがある)、西新式と呼ばれる土器と半島系土器(楽浪系は含まない)、近畿・山陰・瀬戸内などの土器、近くの藤崎1号墳と6号墳からは三角縁神獣鏡がそれぞれ出土しています。ここは方形周溝墓ですが、1号墳の鏡は、滋賀県雪野山古墳鏡と同范で、6号墳鏡のほうは甲斐銚子塚古墳や備前車塚古墳などの鏡と同范です。更に、この西陣町遺跡の人口は突然減少するのです。消滅でしょうか。
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上の写真は、藤崎6号墳の木棺墓と出土品です。この三角縁神獣鏡「二神二車馬鏡」の鉛同位体比を見ましょう。①18.090 ②0.8625 ③2.1321 ④15.603となっています。
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さて、「二神二車馬鏡」に対応する鏡はどれでしょうね。探しかねます。同范鏡ですから、せめてサイズは近似値となるでしょうね。
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この写真は、西新町遺跡の半島系土器です。これらの出土品は、どこが半島大陸との接点であったかを示しているのです。ここで楽浪系土器が見られないということは、楽浪郡が滅びた後の遺跡なのか、それとも交流ルートが違うのか、です。また、西新町遺跡では板状鉄斧(鉄素材)・雛形鉄器・ガラス用の土製鋳型・青銅器の素材の鉛板などが出土していますが、工房などの生産跡が見られないので、物流の窓口だったらしいです。
 鉄器生産跡は西新遺跡より東にある博多遺跡にみられ、大型羽口を使用する大鍛冶が弥生後期には行われていました。この羽口が纏向に伝播するのは、古墳時代になってからですね。だって、纏向には西新式土器は1%しか出ないし、博多遺跡の羽口と同型の羽口が出ているのなら技術の移入は間違いないから、両者を合わせて考えると古墳時代になってからの交流としか言えないのです。いつも、答えは一つの結論に向かいますね。纏向に卑弥呼はいなかったのです。
 桜井市が「卑弥呼と邪馬台国で町おこし」したいと思っておられるという噂を聞きますが、無理をするより古代の交流を現代にも蘇らせるという方向で「福岡市との姉妹都市」などを考えて両者の情報を交流させ、古代を生き生きと現代に結びつける方が、より前向きで楽しいと思います。私は桜井市に何度も旅をして楽しみましたから、両方の都市が結びつくことをすごく期待し希望しているのです。そうなると、いいなあ……ちなみに邪馬台国が●●辺りにあったとか、思っていません。邪馬台国は矛を埋納させられた地域のどこかです。矛で守られた宮殿があった処と思っています。
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# by tizudesiru | 2015-11-08 23:52 | 130素材が語る古代Ⅰ | Comments(0)

129俀国の墓制は巨石横穴墓か

倭国を滅ぼした俀国の墓制巨石横穴古墳
筑紫君磐井を討ったのが「寿命王塚古墳」の被葬者だと書いたばかりなのに、今度は「巨石横穴墓」の出現に、驚かれますよね。確かに、装飾古墳は福岡県南部に広がりますが、いずれも小規模の円墳です。地域の有力者が装飾古墳を進んで取り入れたとも受け取れます。では首長墓と思しき古墳は壁画装飾を踏襲・継続したのか、という問題になると首をかしげてしまいます。装飾古墳の中にじわっと巨石の横穴墓が混じるからです。突然というより、いつの間にかです。そして、巨石古墳が残るようです。
 下の写真は氷川流域の大野窟古墳です。この流域は、畿内で前方後円墳がつくられなくなっても、前方後円墳を継続して造り続ける地域なのです。写真は大野窟古墳のパンフレットから貰っています。
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6世紀後半の氷川流域の大野窟古墳です。
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日本で一番高い天井を持つ玄室で、石棚があります。
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後期古墳で有名な石舞台古墳より玄室の天井は高いのです。
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大野窟古墳の石室入口です。大きな石を使っています。羨道の高さは2mを越えるくらいですから、歩いて玄室に入れます。鍵を開けてもらえれば見学できます。
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玄室の石の組み方には古代の技術が使われています。井寺古墳の玄室にも見られるし、神籠石の水門の石組みにも使われている技術です。これらのことから考えると、同じ石加工の技術を持った集団を掌握できた有力者に、大野窟古墳の被葬者を考えてもいいということです。更に、北部九州に十数か所の神籠石を造ったのは、北部九州の首長であったはずです。神籠石が6世紀の後半なら、築造したのは筑紫君磐井との戦争に勝利した俀国の首長だということでしょう。 
 同じような巨石石室を持つ古墳が、福津市の宮地嶽(不動)古墳です。幾度も紹介した「筑紫舞」を奉納している神社であり、宮地嶽古墳からは十数点の国宝が出土しています。見事な宝冠は、様々な資料に比較対象物として取り上げられています。
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宮地嶽古墳の羨道入口です。日本で二番目に長いそうです。
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雷山神籠石の水門と列石です。下の写真は井寺古墳の石室内の写真です。石材は馬門石で、朱が塗られています。
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線彫の見事さが目を引きます。井寺古墳は緑川下流域になるでしょうか。
 では、装飾古墳を北部九州に持ち込み、続いて巨石古墳を持ち込んだその首長が住んだのは何処でしょう。遠賀川流域? 筑後地方? いにしえの委奴国? 須玖岡本のあった春日丘陵? 筑紫都督が置かれていたかもしれない太宰府? それとも、熊本の菊池川流域? 白川流域? 氷川流域?
 まず、遠賀川流域。寿命王塚の被葬者の家系は、どうなったのでしょう。この王(または将軍)の家系は続かなかったかも知れません。双脚輪状文などの文様を持つ五色彩色の壁画古墳が、王塚古墳の後に遠賀川流域に現れていません。この被葬者の家族に何か失敗があったか、不幸があったのかも知れません。しかし、装飾古墳の中に混在する石棚を持つ装飾古墳・巨石を使った装飾古墳・石屋形も石棚も持たない装飾古墳が福岡南部に普及しています。それらは有力者程度の円墳で規模が小さいのですが、装飾古墳文化が肥後から浸透しているのは間違いないようです。
 ただ、弘化谷古墳(6世紀中ごろ)は双脚輪状文を持ち、この時代最大級の円墳で、石屋形も持っています。王塚古墳の被葬者の親族の一人が筑後地方を任されたと考えることもできます。石人山古墳を見下ろすように築造されていますから、筑紫君の祖先の墓を意識してのことでしょう。しかし、この地で継続しません。糸島にも釜塚古墳という大型の円墳がありますが、こちらは5世紀半ばの築造で時期が違います。
 さて、巨石の古墳文化が入り込んできているのです、やはり肥後から。祭祀線で調べてみると、実に面白いことになります。大野窟古墳から伸ばしたラインが、太宰府天満宮を通り宮地嶽古墳に届くのです。もちろん、巨石横穴墓と紹介した「筑紫舞」を奉納する神社の古墳です。できすぎの展開ですね。
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まとめると下の画像ですが、長い長い行程をどのように測量したのかと、新しい疑問を引き出してしまいますね。
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太宰府とは何だったのかという問題も残しながら……倭国を滅ぼしたのが俀国であり、俀国は肥後と豊前の首長の連合の上に成り立っていたようだが、巨石文化を掌握する首長が大きな権力を持ちつつあったのではないかということです。ここまで。

〈この回で伝えたかったこと〉装飾古墳の普及は、筑紫君の墓制・妻入横口式石棺の継承を遮断したことを意味していたが、装飾古墳文化圏の首長の系統は途絶え、代わりに同じ肥後の巨石古墳文化を持つ一族が台頭した。この一族が「大い國(俀国)」と、名乗ったのかも知れない。

また今度。 
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# by tizudesiru | 2015-11-02 23:57 | 129俀国の墓制・巨石横穴墓 | Comments(0)

128倭国の墓制

倭国の墓制家形石棺
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(遠景に阿蘇の噴煙が見える。中景は阿蘇火砕流台地の花房台地。菊池川岸に立ち南東を見る)
墓制を見れば、倭国は俀国に滅ぼされたことになる、と前回のブログに書きました。倭国とは熊本の勢力で、邪馬台国を滅ぼした狗奴国であること、狗奴国が鉄をつかって生産力をあげ北部九州を豊かにし、鉄の道具で石の加工をしたことなど、少しふれました。筑紫君の墓制は家形石棺だったことにも触れましたが、それが狗奴国とつながることの説明は足りなかったと思います。
ここでは、そのことを考えてみましょう。では、熊本に集中する装飾古墳の復習から始めましょう。壁画装飾を持つ古墳を装飾古墳とよびますが、その共通性を見つけてください。
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と、公開されている装飾古墳(パンフレットの写真を拡大)を紹介しました。横山古墳は山鹿市古墳博物館に移築されていますから見学できると思いますが、あとは公開の時期でないと見ることはできないと思います。これらの古墳の所在地は、地図で示されています。⑩や⑪は横穴墓と呼ばれる凝灰岩の崖の穴墓で、線彫の装飾が見られます。
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 熊本の古墳はこのような装飾古墳ばかりではありません。何度も紹介したように、狗奴国人は鉄の道具を持った集団ですから、刳り貫き型の石棺を多く造ることができたのです。
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びっくりしますね。宇土市の向野田古墳の女性の骨格です。30歳~40歳で出産経験もある156cmほどの背の高い女性だそうです。骨にハリスの線が見られるので、生前に重金属の中毒などで体がダメージを受けていたようです。石棺に残る水銀朱のような朱丹を人々を惑わす目的で顔や体に日常的に塗っていたことが考えられると、「新宇土市史」の中に書かれています。この本の第一巻のみを宇土市に注文して少し高かったけど買いました。写真はそこから貰いました。
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a0237545_19131288.png向野田古墳は4世紀後半の前方後円墳(89m)であり、竪穴式石槨に舟形石棺が置かれ、鏡3面・腕輪形石製品・玉類・棺外に鉄刀・鉄剣・などが副葬されていました。鏡は方格規矩鏡・内向花文鏡・鳥獣鏡で、弥生の後期に多く副葬されたのは方格規矩鏡(糸島の平原王墓の8割は方格規矩鏡)ですから、向野田古墳はその伝統を色濃く伝えているのです。前方古円墳に女性と確認された人の埋葬は珍しいそうです。それにしても、舶載三角縁神獣鏡を1面副葬された城ノ越古墳より、向野田古墳の築造が遅いとは、どういうことでしょうね。舶載(?)という眉唾な三角縁神獣鏡は4世紀の古墳から出ると聞きますよね。副葬品は古いタイプのセットだが舟形石棺を使用している点から、築造は古墳時代前期の半ばとされているそうです。
 宇土半島基部は熊本県内では最も早く前方後円墳が築かれた地域であり、4群(轟、緑川群・花園群・不知火東、松山群・不知火西部)に分けられていると、市史にあります。宇土市の市史編纂のスタンスは「古墳時代は箸中山古墳(箸墓)から始まる」ですから、最も早い築造とはいえ、畿内より早い設定はありません。それでも、轟、緑川郡の城ノ越古墳(前方後円・三角縁神獣鏡副葬)は3世紀末に属すると書いています。このあとの迫之上古墳(竪穴式石槨・鉄刀、鉄槍副葬)は4世紀中ごろ。不知火西部群の弁天山古墳が4世紀前半とされる他、他の地域はほとんど4世紀後半からの築造とされています。畿内の古墳の暦年代が次々に引き上げられる(その理由も驚きですが)中、九州は一向にその気配はありません。
 ちなみに熊本県の前方後円墳・大型円墳を持つ地域は限られており、9か所が挙げられています(他に小型の古墳群が数多くある)が、次の、①関川(諏訪川)流域 ②菊池川下流域 ③菊池川中流域 ④白川上流域 ⑤緑川中流域 ⑥宇土半島基部 ⑦氷川下流域 ⑧球磨川下流域 ⑨球磨川中流域 以上の地域と紹介されています。
 下写真は、花園町楢崎古墳です。石材は灰色のの阿蘇石です。この古墳には5基の埋葬施設があり、4基が後円部にあります。家形石棺2基・舟形石棺1基です。ここには刳抜式の技術も、組合せ式の技術も使われています。が、石材は馬門石ではありません。
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さて、家形石棺ですが、『新宇土市史』は、「家形石棺という埋葬施設の発案は九州でなされたことは間違いない」といいます。が、宇土市の前期の古墳はほとんどが舟形石棺です。
 そもそも石棺文化はいつ始まったものでしょう。弥生時代の木棺には地域の首長が埋葬されたそうです。古墳時代になると、木棺に粘土郭、木棺に竪穴式石槨、組み合せ式石棺・割竹型雛形石棺(刳抜式)に始まり、中期には横穴式石室に舟形石棺が継続し、組合せ式長持ち型・箱型・家形石棺が加わってくるそうです。後期には、横穴式石室が普及し舟形石棺から刳貫式の家形石棺が出現するというのです。要するに、弥生の組合せ式箱式石棺(一部には縄文時代のものある)は舟形石棺へ引き継がれていて、刳貫式割竹形石棺(?)→舟形石棺→家形石棺、組合わせ式も箱形石棺→長持型石棺→家形石棺 と変化したと言えるそうです。一般に、香川県の「割竹型石棺」が石棺の始まり(白石太一郎・他1985)と言われますが、それが熊本に入ったというのでしょうか。熊本の石棺の変遷を見ると……
 下図は新宇土市史「九州における舟形石棺の分布」です。◆肥前Ⅰ型・◇肥前Ⅱ型・■北肥後Ⅰ型・□北肥後Ⅱ型・●中肥後型・▲南肥後型・◉豊後Ⅰ型◎豊後Ⅱ型・△日向型・〇その他不明 ★石棺製作地。 製作地★は、菊池川下流域・宇土半島馬門・氷川流域になっているようです。
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上図を見ると、菊池川流域の舟形石棺が、矢部川流域の八女地方に入っていることがよくわかります。筑紫君磐井と火の中君は姻戚関係にあったと書かれている通りの分布図です。
では、家形石棺の分布図も見てみましょう。私が筑紫君の墓制だと思っている妻入横口式家形石棺の出自がわかります。
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  同じく新宇土市史「九州における家形石棺の分布」を見ます。〇妻入横口式家形石棺・■平入横口式家形石棺・●その他組み合わせ式家形石棺・◆刳抜式家形石棺 
 上図を見ると、家形石棺は宇土半島基部・菊池川流域に集中し、「妻入横口式石棺」は久留米地方・菊池川下流域・宇土半島基部あり、他には広がっていません。この三地方の強烈なつながりを示すのでしょう。 此処での結論は、「邪馬台国を滅ぼしたのは倭国である。倭国とは熊本の勢力で狗奴国と呼ばれた国である。狗奴国は南筑後から侵入して筑紫を豊かにし倭国と名乗り、首長は筑紫君と呼ばれたが、豊前と協力した肥後の一族内から謀反があり(いわゆる「磐井の乱」)、1年近く戦った筑紫君磐井は豊前に逃れて行方不明になり(風土記)、一族は衰退していった。」ということですが、この筑紫君の首長の墓制が妻入横口式石棺であれば、磐井の乱後には作られなくなる理由はここにあります。また、その家形石棺が、瀬戸内・吉備・畿内に伝播しているのです。それも、阿蘇石が石棺として運ばれているという事実があります。これは、どういうことでしょう。他地域の首長が、遠い九州の石棺を運ばせているのです。九州からの献上品となっていますが……首長が臣下の墓制を取り入れたとは思えません。
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 上の写真は、馬門石(阿蘇溶結凝灰岩)で作られた植山古墳の家形石棺で、ここは推古天皇と竹田皇子の改葬前の墓と言われています。きれいに掃除されていて、副葬品はなかったと思います。
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# by tizudesiru | 2015-10-31 16:13 | 128倭国の墓制 | Comments(0)

127倭国を滅ぼした俀国

倭国を滅ぼした勢力は何処から来たのか  
倭国を滅ぼしたのは、またもや肥後だったという話**筑紫君磐井を滅ぼしたのは、装飾古墳文化圏の人物だったのではないか。その首長の墓が寿命王塚古墳ではないかということを書きました。装飾古墳といえば、熊本で多く見られる墓制です。そして、熊本の墓制が確かに北部九州に入っています。果たして、北部九州は磐井の乱後にまたもや肥後に席巻されたのか。そのことを考えてみましょう。画像は久留米市が小学生に配ったパンフレットの写真をカメラで写したものです。
筑後川流域も、弥生時代は甕棺文化圏でした。
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甕棺が消滅すると、組み合わせ式の石棺が現れます。甕棺文化圏の国が敗れて、石棺文化圏の勢力が入って来たのです。しかし、弥生の墓制の伝統である青銅製武器の副葬は踏襲されています。
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前方後円墳の石室に屍床や石障を持つ古墳が現れます。熊本の[割石を用いた古墳]にも、石障に線彫装飾を施した似た古墳が在ります。熊本の鉄の文化は、石を刻む文化でもあったようです。タガネがなくては石材に細かい彫りを入れることはできません。
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線彫の装飾(直弧文)石棺のことを「123・王塚古墳の被葬者は誰か」で紹介しました。石人山古墳(5世紀)浦山古墳(5世紀後半)の石棺には直弧文が刻まれています。
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a0237545_2252874.png上は浦山古墳、左は江田船山古墳の石棺です。とてもよく似ています。江田船山にも石人山にも「石人石馬」と呼ばれる墳丘に立てた石の装飾品があります。石人石馬は岩戸山古墳のものが有名です。石人山・浦山・江田船山古墳(5世紀)などの「磐井の乱の前の首長の墓制」は、妻入家形石棺のようです 
それが、6世紀後半には家形石棺が消え、円墳に壁画装飾をもつ古墳に変わっていくのです。下の写真は久留米の装飾古墳です。
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装飾古墳が広がるのは6世紀の後半です。磐井の乱(527年)の後であることは、何度も書きました。では、熊本の古墳を見てみましょう。
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石屋形をもつ有名なチブサン古墳です。写真は古墳紹介のパンフレットからいただいています。 
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 熊本は、装飾古墳のメッカです。チブサン古墳は6世紀前半の前方後円墳だそうです。弁慶ヶ穴古墳は切り石で作られています。馬塚古墳は6世紀後半の円墳のようです。御霊塚こふんは6世紀後半の円墳だそうです。長明寺坂古墳は5世紀で、円墳だそうです。大坊古墳は6世紀前半の前方後円墳だとか。
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これは千金甲古墳・6世紀前半で、久留米の日輪寺古墳によく似ています。別当塚古墳は5世紀、田川内古墳は5世紀後半です。
 こうして見ると、5世紀から6世紀前半と6世紀後半ではかなり古墳の印象が違ってきますね。それから、熊本の古墳と筑後の古墳に共通点がありますね。要するに、熊本の墓制が南筑後に入ったということを言いたかったのです。
 磐井の乱とは、九州内の争いだった可能性は強いと思います。では、筑紫君磐井の後に北部九州を席巻した勢力は、北部九州で何をしたのか、となります。彼らは筑紫君の業績を十分に知っていて、それを凌駕するような仕事をしているようです。生産力をさらに上げ、外国とも交流し(隋に使者を送ったのも彼らでしょう)、仏教を取り入れ、律令も作り、戸籍も作り、王家の伝統をつくりあげた。そして、倭国ではなく、「俀国」と名乗ったと思うのです。
『隋書』の本文(皇帝側の歴史)には「倭国」と書かれていますが、周囲の東夷の歴史の一つ「俀国伝」には「俀たい」の字が使われています。「俀」は「倭」の書き誤りであると、現代の中国の学者も日本の学者も言っています。そうでしょうか。当時の歴史学者が漢字を間違えると首が飛びます。「俀」は隋書を書いた歴史家が選んだ字だと思います。万葉集にも「俀人」という字が出てきますが「ねじけびと」と読みます。俀の意味は「ねじけ」なのです。「ねじけた人の国」という意味なのです。アメノタリシホコの国書が生意気だったから、こんな字をつかったのでしょうか。
 それとも、倭国人が自ら「たいいこく」と名乗ったのかも知れません。倭国ではなく「大委國・大いなる委國」と、むかし中国から金印を下賜された「委奴国」の末裔であると言いたかったのかも。しかし、中国人は小ばかにして「たいい」の代わりに「たい(俀・ねじけ)」の字を使った。相手を十分に知っての漢字使いです。隋の使者は九州にに来ています。隋書に「山は阿蘇山あり」と書かれています。俀国の人が阿蘇を自慢して、使者を阿蘇山に案内したのでしょう。人々が火山を畏れ神祭りをしていることも詳しく書かれていますから。要するに、磐井の乱に勝利した側が「俀国」を名乗ったと思うのです。
 倭国は内乱で俀国に負けたのです。では、倭国側はその後どうなったのか。ここでも、やはり東への移動でしょう。彼らを受け入れる体制があったことは、別に触れたいです。また、東の協力で俀国が勝利したのかもれません。阿蘇石の石棺が畿内、吉備、瀬戸内に運ばれているところを見ると、案外裏工作があったのかもしれませんね。すると、この俀国と倭国の相克はまだまだ続くことになります。
 
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# by tizudesiru | 2015-10-31 10:10 | 127倭国を滅ぼした俀国 | Comments(0)

126邪馬台国から倭国へ

邪馬台国から倭国
 甕棺文化圏・青銅製武器(剣・矛・戈)の文化圏・楽浪系土器と三韓系土器が出土する地域にしか、邪馬台国はありません。更に言えば、弥生の鉄が出土する地域であり、弥生の鏡である前漢鏡・後漢鏡を持つ地域にしか邪馬台国はないのです。
 邪馬台国が畿内にあったとすれば、それは狗奴国との戦争に敗れた後、狗奴国の脅威を恐れての集団移動しか考えられません。もちろん、「東にも倭人の国があった(倭人伝)」のですから、東に逃れようと考えるのは自然です。この自然な流れからすれば、狗奴国は邪馬台国より西か南にあったことになります。敵国側に逃げるのは自然ではなく、敵国とは反対側に逃げると思われます。弥生後期に生産力を持っていた地域となれば、肥国でしょう。弥生の鉄の出土量は熊本がダントツで福岡を越えています。食糧と武器がなければ戦争には勝てませんから。江戸時代まで、福岡より熊本の方が生産力は高かったのです。明治になって、中央政府の出先も熊本に置かれました。
 博多遺跡から鞴の羽口と鉄鏃が出土しています。三世紀には鉄製品を作っていたのです。纏向遺跡で出土した鞴の羽口は「博多遺跡のものと同型」です。一之瀬さんの本に「同型で、畿内は筑紫の技術の提供を受けた」と書かれていたと思います。それが、吉備などに広がったと。
 誤解がないように書きますが、鋳造鉄製品は紀元前から九州で作られています。鉄素材を熔かして鉄戈が作られていますし、鉄鏃や鉄斧などの道具も作られています。銅と鉄はほぼ同時に九州に渡っています。3世紀の倭人伝にも「倭が鉄を採っていた」ことが書かれているし、当時の鉄は貨幣代わりだったとも書かれています。3世紀ともなると、鉄はかなり普及していたのです。九州が握っていた「鉄輸入」の利権が奪われたか、移動したか、解体したか、理由は分かりませんが、大きな経済的変化が起こったのですね。写真は、福岡市博物館の図録をデジカメで撮ったものです。
 
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羽口が高熱を受けてただれています。鉄が溶かされたからです。銅の場合はこれほどただれないそうです。
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これは平原王墓(巫女王墓だそうです)の副葬品ですが、これほどの鏡を副葬する人物は単なる王ではないでしょう。それもすべて破砕したのちの副葬ですから、ただ事ではありません。畿内に鏡文化が伝わり、大量の鏡が副葬されるのは古墳時代になってからです。当然、九州の葬送文化の伝播です。
 平原遺跡のこれらの銅鏡は国産だ(柳田康雄)という説もありますが、では、どこで生産したのでしょう。須玖岡本遺跡の辺りの弥生の工業地帯でしょうか。ここが衰退した後に博多遺跡が発展したのでしょうか。鉄と銅の製品は制作場所や工人が違っていたのでしょうか。博物館の学芸員さんが解説してくださると思いますが。
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平原王墓の木棺の上に素環頭大刀が置かれていました。王墓の周濠からは鉄鏃・鏨・ヤリガンナ・斧など出土しています。銅製の鏡は祭祀に、鉄製品は生産に使われていたのです。巫女王は鉄製産をも抑えていたのでしょうか。上の写真の素環頭大刀(約120cm)は五尺刀に相当するとされるものですが、上町向原遺跡(伊都国)の出土品です。五尺刀といえば卑弥呼がもらった大刀で、魏からの下賜品の中にありましたね。弥生の大刀は九州からしか出ないそうです。白く輝く利刀に当時の人は驚いたことでしょう。
 3世紀の九州に大きな変化があったことは、平原王墓の埋葬の様子からも想像できます。世々王がいた伊都国の女王の墓の鏡が、全部割られているのですから。
 巫女が責任を取らせられるのは、古代の中国も同じです。「あぶる」という字は、巫女が占いに失敗して焼かれる字だそうです。おお怖っ! 巫女王も何かの責任を取らされたのでしょうか。
 いつもの私の結論ですが「邪馬台国連合を滅ぼしたのは、狗奴国で肥後の人々だった。彼らが造った国が倭国だった」ということです。「狗奴国は北部九州に鉄を持ち込み生産力を上げ、地域をを活性化し交易を広げ、隣国とも交流し、諸制度を整備し、倭国をつくりあげた」となります。畿内に移動した人は、どう思って見ていたでしょう。大型古墳を作り始めた理由もそこにあるのかもしれませんし。狗奴国の発展を見た他の火国(肥国)の人々はどう感じたでしょうね。筑紫と火国は親しくしていましたから。畿内の倭人も火国の倭人も、心の中で「いつかは……」と思っていたのではないでしょうか。

 
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# by tizudesiru | 2015-10-30 11:16 | 126邪馬台国から倭国へ | Comments(0)

125「新・奴国展」福岡市博物館の諦め?

新・奴国展福岡市博物館に行きました10月21日の午後にのんびり出かけましたが、展示物の多さと内容の充実に驚きました。もちろん、2500円の展示解説図録も買いました。展示物が多くて、時間切れのチャイムが鳴り、国宝の金印を見ないまま会場を出た次第です。
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図録はどのページも資料が多くて読みこなせませんが、「ふくおか創世記」と副題が付けられているので展示の意図は伝わりました。要するに、弥生のふくおか=奴国の時代というわけです。邪馬台国の時代とは言わず、同時代の奴国をもってして、古墳時代以前のふくおかを象徴しているのです。写真は図録を写したものですが、著作権に触れたらいけないので、マイピクチャの表示画面を切り取りましたそれにしても……
今回の展示で見えたのは、歴然とした「邪馬台国畿内説」でした。初めは内容の充実に満足していましたが、「邪馬台国九州説の否定」そのことに気付いて驚き失望しました。地域の博物館として、なんという方向転換でしょう。
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ぎっしりと並んだ展示物。これだけ資料を並べて、「福岡は奴国であり、卑弥呼の邪馬台国ではない」というのです。
では、何が邪馬台国九州説の否定になるのか、見てみましょう。
①題名・新奴国展 此処にあるものは、古の奴国を証明するものですということ。決して女王国ではない、らしい。
②金印の読み方を「漢の倭の奴の国王」と呼んでいること。この奴という字は、「な」と読まないことは、ほとんどの人が知っているだろう。万葉集でも『奴」は『ぬ』としか読まない。古代には「なこく」はなかったかもしれないし、委奴国かもしれないのに。奴国にしてしまっている理由は邪馬台国を使わないためか。
③吉武高木遺跡を王墓の始まりと捉え、倭人伝に従って「世王」ありの伊都(糸島)や春日丘陵の鏡や青銅製武器を副葬した甕棺墓を王墓としている。倭人の国の王たちが九州にいたのなら、当然女王国との交流もあるはず。鉾(矛)で守られた卑弥呼の宮殿は、銅鐸文化圏の畿内ではなく、矛の文化圏であるはず。倭人の王が埋葬された甕棺墓は突然消滅するが、これも追及がない。
④新聞をにぎわした纏向遺跡の大型建物の柱跡の写真パネルが展示されていた。まだ、卑弥呼の宮殿と断定されたわけではない遺構がパネルになっている。40年間も纏向で探し続けても出てこなかった大型建造物跡がやっと出たが、発見当初は柿本人麻呂の住居跡とされた。それは、人麻呂が纏向を歌に詠んでいるし、大型掘立柱穴が方形だったからだが、3世紀に方形の柱穴は類例がなく、7世紀・8世紀の柱穴に方形が見られるという。なのに、纏向の遺構はいつの間にか卑弥呼の宮殿跡になっている。福岡市博物館も纏向大型建造物跡の柱穴を3世紀とみとめたのか。


纏向の大型建造物跡のパネルを見た時は、すごくびっくりしました。纏向の発掘をしている方は「卑弥呼の宮殿」など一言も言われてないはずです。「卑弥呼の宮殿」と報道してほしいと思っているとは思いますが。以前は、白石太一郎さんが「卑弥呼・宮殿」を使って「邪馬台国畿内説」を決定づけるような発言をテレビカメラに向かってされていましたが……
纏向遺跡ののパネルの前に庄内式土器が展示されていました。つまり、纏向遺跡が卑弥呼と結びついたのは、庄内式土器が大型建築物遺構の近くの溝から出たからです。しかし、同じ場所から布留式土器も出ています。今は、布留式土器は4世紀以降らしいということで、纏向4類から外されているようです。でも、同じ遺構から出ているのですよね……

 私としては上記のような展開からして、福岡市博物館は「邪馬台国九州説」を放棄したと思ったのです。正直がっかりして、金印を見ることもなく時間が来たので会場を出ました。400点を越える展示物を並べて、何を考えているのだろうと、図録を見直す元気もありませんでした。

 しかし、そうではないでしょう! 博物館の学芸員の方々ですもの、九州の資料を手に取り目で確かめて実感することがあるはずです。マスコミの過剰な九州潰しに簡単に乗ってはいませんよね。そう思って、やおら、図録を取り直して読みました。ありがとう! 博物館!図録の最後に掲載された「論考」がすばらしかったです。多くの方に読んでほしいし、弥生から古墳時代の暦年代論も期待しています。
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続きは、また、今度!

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# by tizudesiru | 2015-10-29 21:09 | 125「新・奴国展」博物館の諦め | Comments(0)

124宇佐神宮の呉橋

宇佐神宮の呉橋10月6日に宇佐に行きました。遅くなったけど報告を少し
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宇佐神宮の鳥居の奥に呉橋が見える。昭和の初めまで、この西参道が表参道だった。勅使道はここから伸びている。だから、呉橋もここにかかる。一般の人はこの橋を渡ることができなかったので、隣にかけられた橋を渡ったという。
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以前、此処には鉄(かね)の鳥居があったが、戦時中に供出されて今はない。さあ、特別の日にしか渡れない呉橋を渡ろう。
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漆が塗られているが、日本製の漆はもはやピンチらしい。これも中国製の漆だろうか。
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渡り終えて、隣の橋から呉橋を眺めた。 
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さて、呉橋をグーグル地図で見てみよう。
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水色のポイントは宇佐神宮本殿で、西の表参道(旧表参道)に呉橋が架かる。橋のたもとから伸びるのが勅使道である。
宇佐神宮から青ラインを引いているが、これは私好みの祭祀ラインで、宇佐神宮→大富神社(ラインは鳥居にかかる)→天照宮(饒速日を祭る神社)→宮地嶽古墳(福津市の宮地嶽神社=筑紫舞を伝える神社にある古墳)と続くラインである。まず、宮地嶽神社を見てみよう。
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宮地嶽神社の旧宮は参道階段を上り詰めた位置にあったそうだが、古墳は江戸時代に発見されたという。出土物のうち十数点が国宝になっている。宝冠や金銅製の輪鐙や3メートルをこす大刀(九州国博でレプリカ作成)など知られている。 
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天照宮のご祭神は饒速日で、他に合祀する神はいないそうである。
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まとめると、このようなラインになる。それから大富神社であるが、ここを書き忘れたのではない。以前にも紹介しているが、宇佐神宮に勅使が遣わされる時、勅使の飲み水を大富神社から届けるという行事があった。その大富神社が今回も勅使に見ていただくというので、参道で伝統の芸能(感應楽)を披露していた。
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勅使は素通りだったが、大富神社側の人たちは汗を流して必死だった。衣装といい、設えといい、老若男女集まって、大変な奉仕だった。こうして伝統が受け継がれていくのだろうが、どうぞ守り続けてほしいと思った。
それに、宇佐からのラインはまだいろいろあるが、宇佐神宮と切り離せない薦神社のラインを紹介したい。宇佐の放生会は、薦神社の薦をご神体として行うのだ。
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ピンクのポイントが薦神社である。この水色ラインが行き着く先は、香春岳の香春神社(式内小社)である。薦神社は、宇佐神宮(式内大社)と式内小社に挟まれているという不思議。説明がうるさくなるので、この辺りで…
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# by tizudesiru | 2015-10-28 09:28 | 124宇佐神宮の呉橋を渡る | Comments(0)

123 寿命王塚古墳の被葬者

桂川の寿命王塚古墳
被葬者は誰なのか?!
 
このことに触れないまま、秋を迎えてしまいました。実は、昭和10年の発掘報告書「筑前王塚古墳」を読んでいて、今までの疑問にある意味が加わったのです。そのことを書くつもりでしたが、忙しくて先送りにしてしまっていました
寿命王塚はこれまで幾度も取り上げてきた遠賀川流域最大の前方後円墳で、しかも装飾古墳なのです。下の画像は王塚古墳のパンフレットで、展示館に設けられた施設の写真です。色鮮やかな石室内の様子をうかがい知ることができます。
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それにしても、6世紀の後半に広がるのは装飾古墳ですが、ほとんどが円墳です。磐井の乱(527年)以降、九州では前方後円墳が築造されなくなり、代わりに広がったのが円墳と言われます。それも、筑後地方には装飾古墳が多いのです。肥後形と呼ばれる石屋形も見られます。
筑前と豊前の間にある王塚古墳は石屋形・石棚を持ち、その石材は様々な地域のものが使われているというのです。支配地や出身地の石材を集めさせたのでしょうか。しかも墳丘の版築は、黒色の土と赭色の土を交互に突き固めてあり、断面は縞模様になって大変美しかったそうです。壁画装飾に使われたのは五色の顔料で、このような五色使いの装飾古墳は類例がないと思います。馬・靫・双脚輪状文・三角文などの豪華な壁画です。では、他の装飾古墳を見てみましょう。
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 筑後川南岸の日岡古墳(前方後円墳)の装飾です。赤の顔料で円文・同心円文・蕨手文などが描かれています。
次は重定古墳です。ここには石棚があるようです。
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弘化谷古墳(円墳)の装飾で、この古墳は同時代では最大級の円墳となっています。ちょうど谷を挟んで石人山古墳(前方後円墳)の隣にあります。
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弘化谷の石室の紋様の説明もされています。同心円文・双脚輪状文などが赤色顔料で描かれています。双脚輪状文が描かれた古墳は多くはありません。熊本の釜尾古墳や横山古墳などにも描かれていますが、同じ墓制を持つ人々の墓なのでしょう。それにしても、隣にありながら石人山と弘化谷は何故に墓制が違っているのでしょう。
石人山は筑紫君一族の墓と言われ、岩戸山古墳より100年ほど遡る古墳だそうです。写真を見ても分かるように、妻入家形石棺に直弧文の線刻があり、極めて特徴的な様相です。
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これらの家形石棺の墓制が継続しないのです。石人山古墳にしても、久留米の成田山にある浦山古墳(前方後円墳・妻入家形石棺・石棺内に直弧文の線彫)にしても、首長と思われる地域最大の古墳です。一族の首長の墳墓の形式が消えるのはただ事ではありません。
527年の磐井の乱後に、前方後円墳が消えて円墳が多くなるということと関わりがあるのでしょう。家形石棺に変わって入ってきたのは、6世紀後半に増える装飾古墳ですから、この墓制を持つ人々が筑紫君一族と入れ替わったことになるのでしょうか。
そうすると、ある結論に達しませんか? 装飾古墳群の中で最大最高の装飾を持つのは、寿命王塚古墳です。この被葬者が磐井の乱に関わり、筑紫君一族の権益・権力を奪った、のではないかということです。 では、彼こそ物部麁鹿か、又は継体天皇?彼らが磐井を滅ぼしたと、記紀には書かれています。彼らではなくとも、磐井を攻めた側の勢力の有力者に近いでしょうね。まあ、そう慌てることはありません。
継体天皇は北陸か近江の出身とされていますが、近江や北陸の墓制が北部九州に入って来たかというと、そのような痕跡はなく、逆に九州の墓制が入り込んでいるのです(そのことは、福井の方々が様々なところで発表されています)。つまり、磐井の乱は九州内の勢力の内輪争いだった可能性もあるということです。しかし、ミヤケが置かれています。畿内の王権の出先としての屯倉です。その後、豊前側に次々にミヤケが置かれたようです。6世紀には経済が活気づき、全国的に群衆墓が作られます。福岡平野周辺の群衆墓もほとんどが横穴式石室を持ち、丘陵地帯を覆い尽くしているようです。
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ここで、寿命王塚に戻ります。この被葬者が福岡平野も支配していたと言えるのは、祭祀ラインを引いてみると分かります。
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福岡平野の古来より信仰されてきた山は、脊振山であり宝満山でありますが、王塚古墳と脊振山頂を結ぶと宝満山頂を通過します。王塚からそのまま直線を伸ばすと、他にも届くようです。脊振と宝満山の間に観世音寺が来て、その講堂の屋根を通過するのも面白いですから、自分で試されてはいかがでしょう。
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つまり、王塚古墳は、これからも見過ごしてはならない首長墓だということです。
個人的には、王塚の被葬者は筑紫君磐井を滅ぼした側の長であったと思っています。彼が記紀に登場する人物なのかどうかは別に考えます。

 
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# by tizudesiru | 2015-10-28 08:13 | 123寿命大塚古墳の被葬者 | Comments(0)

122宮地嶽神社の筑紫舞・2015年

宮地嶽神社「浮神」が
四十数年ぶりに
舞われた 
早めに行ったのに、すでに人でいっぱいでした。
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今年はカメラスタンドを置いて撮影する人が多かったし、ビデオカメラの人も大勢いました。ほとんどの人がシャッタを切るので、カメラの手や頭が邪魔でいい写真が撮れませんでした。今年はお天気が良かったので、とても暑かったのですが、みんな熱心に陽にさらされて見ていました。
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つくし神舞「秋風の辞」、つくし巫子舞「橘」、つくし神舞「勧文乙の曲」、つくし神舞「ふき」、つくし巫子舞「雪月花」、つくし神舞「浮神」の順番で奉納されました。「浮神」で安曇磯良とおぼしき人物が白布をかぶって登場する、さすがに魅力的な舞でした。「浮神」は宮司しか舞うことはできないそうで、宮司のお話によると、舞の譜面である「舞譜」を見ながらずいぶん練習したとのことでした。
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詞もなく、ササラと鼓太鼓の音と龍笛(龍の鳴き声と言われる)だけで舞う「浮神」は、天上神が磯良にまい降りて舞う「つくし舞」の秘儀だそうです。本当に感動しました。
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# by tizudesiru | 2015-10-25 23:12 | 122宮地嶽神社の筑紫舞 | Comments(0)

121福岡市博物館「金印ロード」プロジェクト

金印ロードプロジェクト
福岡市博物館のイベントに行きました とりあげた画像は、4人の学芸員の方々が会場で紹介されたものをデジカメで写したものです。少しぼやけているのはその為です。
日本三景『天の橋立』より素晴らしいと、江戸時代には褒められていたという、海ノ中道。天の橋立は3キロほど、海の中道は10キロありますから、昔の人は驚いたかもしれません。
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金印発見の地・志賀島の名所を訪ねると福岡の歴史が見えてくるという、博物館の視点は納得なのですが、
なにせ人集めができていなくて会場は空席が目だちました。しかし、志賀島について再度考えることができました。
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海の中道遺跡からは、製塩跡や釣り針だけではない出土品があります。それは、博多湾を挟んで対岸に鴻臚館があったし、大宰府への官道があったからです。鴻臚館は8世紀と言われますが、「トイレに使った木のへらを炭素14で調べると、4世紀という結果もでた」そうですから、古代から何らかの施設があったと考えていいのでしょうね。学芸員さんは、こんなことは言われませんでした、念のために書いておきます。
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志賀海神社には三福の掛け軸が残っていて、勝馬にあった元宮が内海側に遷ってからのものでした。中央の境内図には神の影向の姿がうかがえ、人々の姿はありません。しかし、社の位置と規模が現在の志賀海神社と同じです。
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仏像も素晴らしいものがありますが、なにしろ人が少ない島ですから仏像泥棒が心配です。
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絵画として、昔の志賀島が登場するのは、蒙古襲来絵詞で最古のものということです。このころ貿易で栄えていたのは、箱崎と博多だということでした。
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元寇防塁が築かれた砂浜海岸と当時の入り江がよくわかります。
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金印公園ばかりではなく、蒙古塚も忘れてならない場所です。志賀島を訪れた著名人もたくさんいて和歌を残しています。細川幽斎の歌もありました。
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志賀島の人々のコミニュティについての話が面白くて、長年の疑問が少しとけました。
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志賀海神社には、年間70の行事があり、社人と呼ばれる人々に支えられているそうです。また、同年齢や異年齢の結びつきが組織されていて、結束力が強いということでした。海で暮らす人々の生活意識なのでしょうか。
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志賀島の若者は、2月の厳しい海に入り潔斎して、行事を守っています。しかし、年々少なくなる人口は伝統継承の不安を未来に残しています。
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もちろん、金印ロードという観点から志賀島を考えていくことも大切ですが、現在の島の人口減少をどう食い止めるか、福岡市は考えなくてはならないなあと、よそ事とは思えない気持ちになりました。
もちろん、志賀島に観光資源が溢れていることは間違いありません。志賀島を訪れて感動するのは、外海と内海を一緒に眺められるということ。外海のブルーの波に乗って遊ぶ若者が楽しそうに見えること。行きつけの料理屋さんのお刺身がいつもおいしいこと。博多湾の奥に連なる三郡山地と脊振山地の山々が美しいこと。夜には対岸の夜景がきれいに見えること。早春の海の美しさ、夏の海の青さ、夕日の美しさと日没の後の余韻に至るまで、数え切れないほどの佳さがあり魅力にあふれています。それらを知らないのは不幸というものでしょう。すべて簡単に手に入るものですから。それも、海を渡って志賀島に入るコースが最高でしょう。金印を博物館で見て、そのまま志賀島に渡るというコースは開発できないものですかね。
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# by tizudesiru | 2015-10-25 21:29 | 121博物館の『金印祭り』 | Comments(0)

120 九州国博「美の国・日本」

九州国博「美の国・日本」に行きました
今回も展示物数が少なかったので、それぞれの展示物の間が広く開いていてゆっくり見ることができました。しかし、それが1600円は高いです。四階の常設展の方が見ごたえがあった感じです。まあ、それはさておき少し思うところがありましたので、書きました。お見せする写真は、2500円で買ったカタログのものをデジカメで写したものです。著作権の問題に触れるといけないので、本を写していると分かるように斜めから取りました。
  
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火炎土器は、東北でも各地の国博でも常設展示してるので珍しくはないのですが、やっぱり縄文はすごいね、と感心しました。もちろん、土偶も見ました。遮光器土偶には赤い彩色がされていたのですね。小さな窪みにそれが残っていました。今回、私がぎょっとしたのは、法隆寺の「多聞天立像」でした。 
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お顔立ちもお姿も七世紀を思わせる端正なたたずまいでしたが、頭に鉤が撃ち込んでありました。後ろに回ってしみじみ見ましたが、悲しくなりました。カタログを買って、家で広げるとやはり鉤が写されていました。写真をアップしましたが、見てはならないものを見た感じです。仏像の頭に杭を打ち込んだものを飛鳥仏で見たと思いますが、それは目立たないように、同じ工房で付けられたと納得できる処理がなされていたと思います。
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あまりに無残な光背の取り付け方だったので、会場では寂しくなって凝視してしまいました。どう見ても、違う工房の人が仏をいたわらずに取り付けたと思いました。多聞天の悲しげなお顔が印象に残り,ほとんどが東京の国博のものでどこかで見たなあと思ったし、正倉院宝物にしても、毎年行われる奈良の「正倉院展」には及びもつかず…と、言うより「正倉院展」そのものをやってほしかった気がします…「日本の美」ですから…年を取ったせいでしょうか、物足りませんでした。
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そうは言いながら、福岡の栗田遺跡の丹塗磨研土器(前2世紀)は大きくて立派でした。北部九州の丹塗土器が消えた後、畿内に現れる丹塗土器ですが、岡山の宮山遺跡の特殊器台(3世紀)もありました。宮山式の特殊器台は奈良の箸墓の墳丘上の特殊器台の基となった形式を持っているそうですから、箸墓の築造はいったい何時なのでしょうか。この特殊器台が円筒埴輪の原型だとか……です。埴輪についてはいろいろ思っていることがあるので、そのうちに書きましょうね。
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熊本のマロ塚古墳(5世紀)の甲冑を見ました。この古墳は所在地も埋葬形態も不明です。遺存状態が良好なので、直葬とかではなく横穴式石室とかだったのでしょう。鋲留の技術は浮羽の月岡古墳(4世紀)の甲冑(国産)などにもみられるのですが、政権中枢の渡来系技術者の工房で集中的に生産され、政治的関係に基づいて各地の首長に配布されたものと説明されています。……3世紀まで鉄を持たなかった畿内の王権が、4世紀には西日本に号令をかけて、甲冑を配布できる存在になったというのです。そんな一大変革は、いつどのような過程をたどって起こりえたのでしょうか。いまだに? 解明されないままです。
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犬も疲れて寝ちゃいました。
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これらの品物が選ばれたのは何故でしょうか。「美の国」というタイトルがすっきりしませんでしたね。
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# by tizudesiru | 2015-10-23 10:49 | 120九州国博「美の国・日本」 | Comments(0)

119基山とは何だったのか

基山とは何だったのか
                      
 現在、基山は「古代山城」=椽肄(基肄)城跡 として知られている。その山城を築いたのは、663年の白村江敗戦後であると「日本書記」に書かれている。天智天皇の御代である。
 基山の東側山麓に延喜式内社である筑紫神社が鎮座しているが、ここにある由緒の中に「城山から天智天皇が椽肄城を築くために祭祀されていた神を降ろした」と書かれている。「城(き)山とは基(き)山のことである」ことを、十年ほど前に地元の教育委員会の文化財課で確かめた。
これらのことから、古代より基山の頂上に神が祀られていた・天智天皇の時代に神祭りの場が変えられ、山の下に降ろされた・そこは筑紫神社だという・基山に椽肄城(朝鮮式山城)が築かれた・筑紫神社は延喜式の時代に名神大社となった、ということが分かる。

1・古代の基山の山頂で行われていた祭祀は、いつの時代から始まったのだろうか
 古代の神祭りを知る手がかりはなかなか見つけられないが、地形(山頂)と墳墓の位置などを参考に考えることはできると思う。山頂は古来「神の座ます處」として聖地とされていたようだし、古代の信仰が時代により若干変わったとしても、山頂は残されているからである。登山にしても、明治になるまでは楽しみではなく信仰の行為であった。古来より人々は山を見て天候を見極め、朝夕手を合わせて豊穣を願ったのである。つい最近まで山頂には古代の祭祀が残されていたので、どんな神をどのように祀っていたか少しは分かる、と思われるのである。
その山頂が三か所も直線で連なるとき、人々は崇敬の念を厚くしたのだろう。
基山とつながる山々のことを考えてみよう。まず、九千部→基山→砥上岳の三山である。
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九千部のもともとの山名(古代における山名)は不明であるが、ここが古代の聖地であったことは別に取り上げるとして、九千部から見れば基山は夏至の日の出の山である。このラインは砥上岳にまでは延びる。更に延びるのだが、ひとまず砥上岳に留めておく。砥上は神功皇后の伝説の山であり、筑紫野の宮地岳と東西に並ぶ神の山である。
「とがみ」と言えば、大分県日田市にある「津江三山」と呼ばれる渡(と)神(がみ)岳・釈迦岳・御前岳の中の渡神にも神功皇后伝説がある。それは、「古くは水晶山と呼ばれたが、神功皇后が三韓征伐戦勝の礼に神を迎え祭ったことから渡神岳と呼ばれるようになった」ということである。山頂には雨乞いの神事に使われる祠が祀られているという、釣鐘型の急峻な山である。
 同じ「とがみ」の名を持つのは偶然とも思えないが、砥上がもともと渡神だとすると、いずれの神が渡られたのか、と展開することになる。一方、大分の津江三山のほうは直線でつなぐと、久留米の高良大社にまでラインが届く。高良大社の祭神は武内宿祢というから神功皇后に結びつき、このラインはまんざら出鱈目でもないようだ。大分の渡神岳に降りた神は、まっすぐ高良大社に向かわれたとして、その神の出発地については思うところがあるので後述したい。
次に、基山から大分の渡神岳にラインを引いてみよう。すると、耳納山地の最高峰の鷹取山を通る。基山からのラインは、二か所の「とがみ岳」につながり、古代には意味を持っていたと考えていいだろう。目視できる三か所の山頂が連なるのは特異な特別なことであろう。その起点は基山である。
ちなみに鷹取山は高良大社の真東の山だが、東に鷹取山を置いて、大社は不思議に北を向いている。
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 基山の神祭りはいつの時代に始まったかであるが、当然7世紀の半ば(白村江戦後)よりさかのぼる。それも、政変に近い出来事が起こった頃、つまり権力者が交代して神を何処からか連れてきたからである。二か所の山にそれぞれに神が渡来られた時、「とがみ岳」が神の山とされた時代はいつだろうか。それも九千部が聖地であった頃である。
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 高良大社に武内宿祢が祀られた時なら、渡神岳から渡ったのは武内宿祢となるのだろうか。武内宿祢を武人神と考えるなら、砥上山頂に今も武宮(たけみや)として武神がまつられているし、神功皇后が勧請したという武甕槌神とも重なってくる。砥上は「新羅征討の時、兵士を集め兵器を研がせた」ので砥上と呼んだそうだが。古代に祭られていた神は武神であり、武内宿祢か武甕槌の可能性があるとして、次に進もう。
では、他の砥上岳ラインからも神祭りの時期を探ってみよう。
おつぼ山神籠石→帯隈山神籠石→砥上岳→御所ヶ谷神籠石という砥上岳を通るラインがある。神籠石を結ぶラインである。神籠石とは、神籠石式山城と呼ばれる古代山城のことで、朝鮮式山城と呼ばれる椽肄城や大野城とは工法や仕組みが異なるとされる古代建造物であるが、書紀などの史書には登場しないので謎の古代建造物とされている。その三か所をつなぐラインが砥上山頂を通過することには何らかの意味があると考えられる。
が、ここではその築造時期を問題にしたい。神籠石が正史に記載がないとすれば、正史の編纂者はその建造物を知らなかったようだ。もしくは、知っていたが書かずに済ませることができたし、誰に咎められることもなかった。すると、政権側の建造物ではないのだろう。白村江敗戦時からずっと無視され続けたということは、その時点で築造されていたのであれば、政権側とは関わりないことは間違いない。人が踏み込まないような山の斜面に高さの揃った(規格品)切り石が隙間なく数キロにわたって並ぶなど、一部の人間の思い付きでつくれるものではない。国家的な事業であるというのは大方の見方である。が、目的や施行者が不明なのである。
 神籠石は交通の要衝に置かれているし、いずれも同じ工法であるということから、国を挙げて築造したのは、白村江敗戦後ではなく、出土土器の編年から6世紀半までは遡るだろう。砥上岳が三か所の神籠石をつなぐとしたら、砥上山頂で神祭りも行われていたかもしれないが、目測して方向を決めるためには重要な地形・位置にあったためであるとも思われる。また、知られている神籠石は山城として必要な倉庫跡などの痕跡が見当たらないし、古墳を中に取り込んでいる例もあり、単なる山城とも考えられず神祭りの場としての視点も残されているようだ。この三か所の神籠石ラインは夏至の日の出ラインであり、その間に砥上岳は存在する。神の山・砥上から日が昇ることは信仰の対象だったのだろう。だから砥上を取り込んだライン上に神籠石を築造した・・・
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神籠石の時代に砥上が聖地であったからこそ、九千部・基山から見た日の出の方向としても重要だったと思われる。ここで、九千部→基山→砥上のラインと神籠石→砥上ラインが、平行ではないことに疑問が出てくる。前者は九千部の山頂から見た場合の6月22日の日の出をパソコンで確認したものである。どちらのラインも太陽が山頂に来る。
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 図のように、黄色のラインも黄緑のラインも目測できる夏至の日の出のラインである。黄緑と黄色ラインは理論上では平行になりそうであるが、これらは平行ではない。雷山→若杉山、井原山→砥石山、九千部山→砥上山の黄緑ラインに共通するのは高い山からの目視ということであろうか。しかし、脊振→王塚古墳は黄色であるが、このラインは王塚が平地にあるので、王塚から見た冬至の日没のラインと考えることもできる。これは、夏至や冬至のラインが古墳時代には重視されていたことの証ともなるかもしれない。
念のために、北からライン上に乗る社寺や遺跡と山を上げておこう。
大祖神社(糸島市)→灘山(糸島市)→志賀海神社の元宮(外海側)→宮地嶽神社の古宮
・一貴山銚子塚古墳→宮地岳(糸島市)→小戸→香椎宮本殿裏→遠見山→六嶽(遠賀川流域)
・飯盛山(山頂は伊弉冉命)→博多区の住吉神社(延喜式内社)→鉾立山(香椎宮の東)
・雷山(そそぎ山)→若杉山の太祖神社→若杉山
・井原山→須玖岡本遺跡の高地→砥石岳
・脊振山→観世音寺の講堂→天開稲荷神社(太宰府)→宝満山→寿命王塚古墳(主軸線)
・九千部山→基山→砥上岳
・おつぼ山神籠石→帯隈山神籠石→砥上岳→御所ヶ谷神籠石

他に、九千部からの6世紀より遡るラインがある。九千部は福岡平野の南に広がる山塊である。九千部からラインを北上させると、香椎宮に当たる。香椎宮は大嶽と鉾立山の東西ラインのほぼ中心に位置する。大嶽は磐座を持つ古代信仰の場であり、今も神社が祀られている。香椎宮は神功皇后伝承地・仲哀天皇の香椎宮跡伝承地で廟であり、今日でも官幣社ならぬ幣を奉られる神社である。香椎宮と九千部のほぼ中央に弥生時代の須玖岡本遺跡がある。
 九千部が古い神祭りにかかわっていたと思われるのは、須玖岡本遺跡を通って香椎宮に届くからである。須玖岡本遺跡は弥生中期の中心地であったと考えられる。ここには中国と交流した王墓があり、鏡・銅矛・鏃の鋳型が出土する弥生の最先端の一大工業地帯である。この春日丘陵の南に九千部山頂があり、須玖岡本より基山山頂も望める。福岡平野をはさんで北に立花山と南に九千部山。立花山は本来「二神山」と呼ばれる香椎宮のご神体山である。
また、香椎宮の東にある鉾立山は、玉依姫伝承地である。玉依姫が宝満山に降りる前に鎮座地を探していた時、矛を立てて菅岳と高さを比べたという山である。この鉾立山から南北ラインを南下させると、鉾立山→砥石山→宝満山→宮地岳→高良大社と山頂を直線がつなぐ。まことに不思議な有難い太陽時計のラインができている。須玖岡本から見ると夏至の陽は砥石山から、春分秋分の陽は宝満山から、冬至の陽は宮地岳から昇る。宮地嶽は江戸時代までは「天の香久山」と呼ばれていたという。
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九千部が古代の人々にとって重要な山であったことは、上記のことからもうなずけることだろう。

更に、基山と志賀海神社の元宮(勝間側の外海に面している)と結ぶ線上には、基山→日拝塚古墳→福岡城天守跡(築城前の赤坂山?)→志賀海神社元宮とならぶ。日拝塚古墳は春分秋分に大根地山から日が昇るのが見えるので命名された前方後円墳である。この日拝塚の位置は、焼ノ峠古墳→天拝山→日拝塚→愛宕神社とか、脊振山→日拝塚→(須玖岡本)→竹原古墳とか、平原王墓→飯盛山→日拝塚→観世音寺とかの様々なラインが通過する。まさに古代の信仰のラインの通過点となっている。
基山からのラインが日拝塚を通るのはそこに意味があったからである。日拝塚古墳が築造される時、重要だった山は、飯盛・脊振・天拝・大根地・基山の山々であった。そして、古墳築造に欠かせないのが過去の王墓や首長の墳丘墓であったようである。墳丘墓は盛り土のおかげで目印となりやすかったのだろう。
重要だったと思われる山々には、それぞれに神が祀られていた。イザナミ・五十猛・荒穂などその土地のゆかりの神であり、各地の首長が祀っていた神々だろう。
九千部南北ラインと宝満東西ラインの交点が須玖岡本遺跡であり、ここを中心に考えると、砥石・宝満・宮地岳(筑紫野)が太陽時計の山頂であり、重要だったことがうかがえる。そして、九千部は太陽が毎日かならず南中する山である。ここが信仰の対象になるのは想像に難くない。
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 さて、これまでの山々の連なりと寺社と古墳の状況から考えると、九千部・基山・砥上・宝満・飯盛・鉾立・宮地(筑紫野)の山頂が重要な意味を持っていた頃とは、古墳時代となるのだろう。もちろん、その時代前の弥生の風習や伝統も受け継いでいたのであろう。須玖岡本のある春日丘陵の状況からして、この時代には弥生の信仰や伝統が色濃く残り、そこに新しい人々(侵入者)により新しい神が持ち込まれたという構図になる。

2・入り乱れた神々の出自を少しだけ考える
 では、侵入者が持ち込んだ信仰(神々)とはどんな様相を示していたのだろうか。これまでに侵入者としての可能性があるのは、高良大社の武内宿祢や宝満山の玉依姫である。
 延喜式内社の志登神社(小社)が鎮座する糸島市の志登は、古来より玉依姫上陸の聖地とされてきた。ここでも、玉依姫は外から来た神のようだ。鉾立山の伝承は玉依姫が鎮座地を求めていた時、菅岳より気に入った山を見つけたので鉾立山に矛を立てて高さを図ったという。やはり外からの侵入した神であることがうかがえる。
また、平安時代(九世紀)の大宰府の官人は穂波の大分宮に幣を奉るため参詣しなければならなかったが、その為に伯母(玉依姫)の山・宝満山を越えるのは不敬であるとして、十世紀になって大分宮は筥崎宮(福岡市東区)に遷宮された。侵入した玉依姫は、長く宝満山に留まっていたようである。
 玉依姫は何処からやって来たのか。菅岳や鉾立山を知っていて、穂波町など複数の町の町史に同じ伝承が書かれていることから、福岡県の東北部からの侵入ということになろうか。のちに、玉依姫は神武の母として「宝満大神」と呼ばれ、方々の宝満神社に祭られていく。平安時代になっても、宝満山は「伯母の山」として大宰府の官人に重要視され、穂波町の大分宮に国司が幣を捧げるのに宝満山を越えねばならないことが不敬であるとされたのである。

 ほかにも、延喜式内社の名神大社としてより、宗像三女神の神社として有名になっている宗像大社は、基山のほぼ北になる。三重県の伊勢神宮のほぼ真北にある気多神社は、もともと伊勢神宮の北の神社として作られたという。気多とは北のなまったものであるとか。とすると、宗像大社も「ある神社(地点)」の北を意識して造営されたのだろうか。宗像大社そのものにも、もともとの祭神は大国主命だったという説もある。万葉集を詠む限り、その可能性もかなりありそうである。
近隣では祭神のほかに大国主命を密かに祀る神社が点在する。三女神も他からの侵入した神の可能性も高い。もとは三女神ではなかったという話も方々でなされている。祭神の入れ替えは政変時の条件であろう。
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紫色(基山→宗像大社)
薄茶色(基山→日拝塚古墳→舞鶴城天守→志賀海神社元宮)
黄緑色?(基山→英彦山・高住神社→宇佐神宮の旧社→熊野本宮大社・大祓)*有名どころを結ぶ?
基山のほぼ真南に荒穂神社があるのは気になるところである。荒穂神社→基山→天拝山の荒穂神社と、基山は南北の荒穂神社を結びつける。


 次に、渡神岳に渡った神であるが、江田船山古墳→国見山→渡神岳のラインから察すると、肥後から渡り来られた可能性がある。
渡神岳→英彦山の北岳→御所が嶽(神籠石がある)
 渡神岳→鷹取山→基山(すでに紹介している)
 渡神岳→釈迦岳→御前岳→高良大社(すでに紹介している)
 渡神岳に渡来た神は北部九州に浸透したことがうかがえるだろう。渡神がその侵入の起点となった。まさに渡神岳なのである。また、その出発地として菊池川流域が考えられるということである。江田船山古墳からのラインがそれを示す。
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 さて、肥後の勢力と言ってもそれは江田船山古墳が在る菊池川の下流域のみではない。次の図でも分かるように、阿蘇の神もかかわっているようである。
①八方ヶ岳→男岳→岩戸山古墳
②草壁吉見神社→阿蘇中岳→八方ヶ岳→脊振
③八方ヶ岳→国見岳→鷹取山→大巳貴神社→宮地嶽古墳(福津市)
④高千穂神宮→阿蘇中岳→高良大社
⑤阿蘇中岳→釈迦岳→熊渡山→宮地嶽古墳
 こうしてみると、肥後の神々が侵入した跡がうかがえそうである。そして、古墳時代に入って更に広い範囲からの侵入となったと想像される。
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3 基山とは何か
 基山のことを考えるとき、近隣周辺の神社や山との関係のみに注目すると「基山」を見失う。脊振山系の端に何気なく存在する山だが、古代の祭祀線を求めるときに目視するために使われたようである。つまり、神の通過された場所である。ラインをたどるためには重要な位置にあり、神が通過された土地として後々までも払い清めたのであろう、と想像するのである。その根拠は、山頂と神社、山頂と墳丘墓を結びつけるラインである。
 時を経て、聖地として伝えられ土地に地元の神が祀られたり、政権交代により新しい神が渡来られたりしたのであろう。そこが聖地であることは、長く人々の生活や気持ちの中に残っていたということでもある。だからこそ、白村江敗戦の大転換期に古来からの神が降ろされた。いや、聖地であるからこそ、国守り(政権を守る)の山城が築かれたのである。他の神籠石も神祭りを背景に築造されたようである。朝鮮式の山城も、基本的には神籠石と同じ思想の基に築造されたとしたら、それも十分に理解できるし考えられることである。
 「基山とは何か」という問いに対する私の答えは「古来より基山は聖地であった。神が渡るときに通過する神の道の通過点であった。」となる。
 
 ひとまず、ここまでにします。
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# by tizudesiru | 2015-09-25 23:40 | 119基山とは何か | Comments(0)

118石人山古墳と王塚古墳

石人山古墳と王塚古墳

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だいぶ前に見学に行ったときに頂いたパンフレットの写真である。見事な直弧文と円文が映し出されている。この夏の8月久しぶりに石人山古墳を訪れた。そこで見たのは、人っ子一人いない閑散とした風景であり、驚いたというよりショックだった。5世紀の重要な古墳であり、資料館も隣接するのに、これほどまでに興味を持たれていないのかという思いが押し寄せた。
 この古墳は「貞享元年(1685)三月、一条村の南岡に石人を立つ」とあって、石人が最も早く発見された古墳であるという。墳丘は主軸線が東西となり、二段築造の前方後円墳(107m)である。横幅約2m、奥行き約3.9mの石室を有し、横口式家形石棺(凝灰岩)に精巧な線彫装飾が見られる。重圏紋・直弧文・三角文・獣面文・山形陽刻など、一面に掘られているという。棺身は四枚の凝灰岩を組み合わせており、高さ1.4m、長さ2.3mある。また、墳丘くびれ部に立つ石人像は甲冑を着け、像高は1.9mあり、国の重要文化財に指定されている

 長い間、この石人山古墳が筑紫君磐井の墓だとされてきた。しかし、現在は磐井の墓は「岩戸山古墳」が決定的になり、石人山は筑紫君の祖先の墓とされている。そして、時期的には岩戸山より一〇〇年ほど遡るというのである。
 ということは、五世紀初めの家形石棺を持つ首長の文化圏で、葬送文化として使われた紋様が何であったのか、どんな墳丘装飾品を持っていたのか、かなり時期を特定することができると思われる。
 畿内の墳丘などの時期を特定するのは土器であるが、かなり曖昧である。布留式とか庄内式という土器は、あまり形や型式では素人には見分けがつかないものが多い。むしろ、区別された意味がわからない。最近、炭素14の数値からして、庄内式はどの段階もほぼ同じ時期という結果が出たらしい。ぱっぱりそうかと思って、あまり驚かなかった。
 しかし、九州は、甕棺の時代から古墳の石室の変化・墳丘の形・副葬品の鏡の編年・土器の編年がすりあわされてきたので、かなり時期の推定は正確であるらしい。

まだ続きますが、また後で
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# by tizudesiru | 2015-09-25 10:12 | 118石人山古墳と王塚古墳 | Comments(0)

積石塚の被葬者はなぜ積石塚に眠ったのか

積石塚の被葬者
なぜ相島の東の海岸に埋葬されたのか。それも、4世紀から6世紀であり、7世紀は追葬がほそぼそと行われた。さらに、5世紀の終わりと6世紀の初め辺りに大きな変化があったらしい。そうなると、答えは絞られる。
 倭王権が大きな事件に巻き込まれた「磐井の乱」は527年で、6世紀の前半。
 積石塚の被葬者が筑後の磐井と結びついていたなら「糟谷屯倉を献上し死罪を免れようとしたという筑紫君葛子」は、相島まで勢力を持っていたことになる。
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# by tizudesiru | 2014-07-14 10:47 | 117太宰府・宝満・沖ノ島 | Comments(0)

相島トレッキング・積石塚古墳群

相島・積石塚古墳群の散策
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6月の最終日曜日に相島に行きました。20人以上の人が集まったので、用意した資料が間に合うか心配でしたが、ひとまず大丈夫でした。相島は、20年ほど前に亡き父と散策した思い出の地です。父と散策した頃は、まだ遺跡も古墳群も整備されていなくて、どこを歩いたらいいかわかりませんでした。しかし、どこを歩いても墓しかなく、大小の墓を飛び石のように渡り歩いたという印象が残っています。
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相島には江戸時代に朝鮮通信使の客館が置かれました。
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積石の墓群は島の東側の海岸にしかありません。古墳群のある海岸から対岸の福津市宮地嶽神社を見ることができます。
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4世紀の前方後方墳と6世紀の円墳(横穴式石室)です。ピークは5世紀になります。
ここ相島の積石塚の変遷は、沖ノ島・津屋崎古墳群と連動しています。つまり、5世紀の終わり・6世紀の初めに、何か大きな変化があったのです。それは、九州における一大事件でしょう。
 まさに磐井の乱のような事件です。
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# by tizudesiru | 2014-07-13 23:58 | 117太宰府・宝満・沖ノ島 | Comments(0)

やっと本を出しました

ブログを再・再開します。

一年近くの間ブログをほったらかしにしていました。ごめんなさい。
この一年間にはいろいろなことがありましたが、いろいろな講座に参加させていただいたり、発表させていただいたりして大変勉強になりました。それに、昨年からとりかかっていました「古代史関係の本」を出すことが出来ました。8年ほど前に仕事を辞めた時に書いておいたたものでした。ブログを始めた頃発表したことを見直し、最近の知見や思いを加えました。それまでに考えていたことに対して、内容的に不十分な点が多かったので多少筆を加えたのです。8年も経過すると、かなり新しい発見が加わります。

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# by tizudesiru | 2014-07-12 22:39 | 117太宰府・宝満・沖ノ島 | Comments(0)

116大王は神にしませば

大王は神にしませば

大王は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬らせるかも  (万葉集 巻三 )235
大王は 神にしませば 天雲の 五百重が下に 隠りたまひぬ (万葉集 巻二 )205
大王は 神にしませば 真木の立つ 荒山中に 海を成すかも (万葉集 巻三 )241
大王は 神にしませば 赤駒の 腹這う田井を 京師となしつ(万葉集 巻十九)4260
大王は 神にしませば 水鳥の すだく水沼を 皇都となしつ (万葉集 巻十九)
4261
 「大王は 神にしませば」の表現は、壬申の乱に勝利した天武天皇とその皇子に限って使われていると、小学館の万葉集の注釈にあり、集英社の「万葉集釋注 二」(伊藤博著)にも書かれています。
 235番の歌は、「天皇、雷の岳にいでます時に柿本朝臣人麻呂が作る歌一首」です。「大王の 神にしませば」の表現を初めて使った人は、人麻呂でしょうか。
 205番の歌は、文武三年(699)七月二一日、弓削皇子が亡くなった時、置始東人(おきそめのあずまひと)が作った長歌の後の反歌です。弓削皇子と仲のよかった春日王が文武三年六月二十七日に没しているので、そのひと月後に弓削皇子の薨去となります。
 弓削の皇子の歌「吉野にいでます時の御歌一首}(巻三242)に
滝の上の 三船の山に 居る雲の 常にあらむと 我が思わなくに
が、あります。この歌に、春日王が答えます。
大王は 千歳に座さむ 白雲も 三船の山に 絶ゆる日あらめや (243)
 弓削皇子は自分の運命を予感していたのでしょう。それに和する春日王は、「千年も生きられるでしょう」となぐさめました。これらの歌の後に、「或本の歌一首」として柿本人麻呂の歌集から紹介されています。
み吉野の 三船の山に 立つ雲の 常にあらむと 我が思はなくに (244)
 人麻呂は、弓削皇子と春日王の歌を知っていたのでしょう。


また明日
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# by tizudesiru | 2013-10-11 00:34 | Comments(1)

115こんにちは万葉集!

こんにちは万葉集
忙しくてまたまたブログをお休みしました。再開です。
我が背子を 大和へ遣ると 小夜更けて 暁露に 我が立ち濡れし
ふたり行けど 行き過ぎかたき 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ

 上記の歌は、「大津皇子、ひそかに伊勢の神宮に下りて、上りくる時に、大伯皇女の作らす歌二首」です。
 事件が起こったのは、朱鳥元年(686)九月、伊勢神宮の斎王であった姉に会いに行った大津の皇子。弟を大和へ帰す事への姉大伯皇女の不安。父天武天皇が崩御して十五日、まだ喪中です。大和では何かが起こっているが、それはまだ見えない。
 十月二日、それは起こってしまった。親友だった川島皇子から、大津皇子の謀叛が漏れてしまう。
 十月三日、磐余の訳語田(おさだ)の舎(いえ)の池のそばで、大津皇子は殺されます。妃の山辺皇女は髪を振り乱し裸足で走り来て、殉死するのです。
 なぜ大津皇子は死ななければならなかったのか。
 それは、天武天皇に期待され愛された皇子だったからです。健康で文武に優れ、側近からも一目置かれていました。大津と大伯の母は、天智天皇の皇女で太田皇女。持統天皇の姉にあたります。皇位継承の点でも、十分な条件がそろっています。母を幼くしてなくし、今また父天皇の後ろ盾なくして、頼りは伊勢の斎王である姉だけだったのでしょう。
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 ラインを一つだけ紹介します。天武天皇の陵墓から二上山にラインを引きました。磐余で死を賜った大津皇子の屍は、二上山(ふたかみやま)に改葬されています。天武陵から見ると、二上山は夏至の日没の方角で、二神山から見ると天武陵は、冬至の日の出の方角です。このラインを大阪側に伸ばすと、なぜか仲哀陵に届きます。
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# by tizudesiru | 2013-10-10 01:11 | Comments(0)

114平城京・天武朝の都の守り

平城京天武朝都の守り神々と仏に守られた都
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 白い印が平城京の太極殿です。北に向かって左が第一次平城宮の太極殿。右が第二次平城宮のものとなります。都があちこち動きましたから、そのたびに移動したのでは大変だったでしょう。戻ってきたときには移築はせず建てなおしたそうです。 
 赤1は、明日香から移動した薬師寺。赤2は、明日香の大官大寺が移動して、大安寺となっています。赤3は、明日香の元興寺(飛鳥寺)が移動しています。飛鳥寺は理由は分かりませんが、移動が遅れています。後から都に入ったから位置がずれるのでしょうか。
 西大寺と東大寺が太極殿を挟んではいません。第一次太極殿の東にあるのは、光明皇后の法華寺です。東大寺は、東西に伸びるピンクラインの東奥にあります。南北のピンクラインは、天智陵からのものです。
 平城宮の北に来る古墳は、磐之媛命陵です。ここからのラインが二つの寺院に届きます。隠れていますが、青や紫ラインは、神功皇后陵から出ています。この時代にも伝承はあったのでしょうか。それとも改葬して、または祭祀の場として造営されたのでしょうか。
 第一次平城京は、黄色ライン(磐之媛命→平城天皇稜→太極殿→垂仁天皇陵)。
 黄緑ライン(磐之媛命→開花天皇稜→元興寺)では、寺院が守りについています。
 白ラインは、磐之媛命陵から南下し、耳成山に届きます。天武朝は、繰り返し耳成山を守りに使っています。
 赤ラインは太極殿→南大門→姫皇子神社→神武陵→岡宮天皇稜 に伸びています。
 青紫ラインは、神功皇后陵→太極殿→大安寺となります。此処も寺院がきます。元興寺の移動が遅れているので、初めは大安寺が都の守りに活躍したことでしょう。

 第二次平城京は、水色ラインで守ったようです。薬師寺と大安寺と太極殿が三角形を作り、第二次太極殿の真南には明日香で最大の前方後円墳・見勢丸山古墳(欽明陵)がきます。欽明天皇陵を取り込んだ太極殿となっているのです。    
 
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薬師寺からの黄色ラインは、薬師寺→法隆寺→用明天皇稜に届きます。様々に想像出来ますが、ここではやめておきます。赤1は薬師寺、赤2は法隆寺です。
 都の守りに寺院が大きな役割を持っていたことは、ラインからも確認できます。仏教によって国を守ろうとした最初の天皇は誰で、いつからでしょう。それは、仏教伝来とも関わります。薬師寺や法隆寺が九州から移動移築されたという説もあります。興味のわくところですね.

都の守りについては、既にこのブログで紹介した事とほとんど変わりはありません。同じラインを使っていますから。以前はただラインを紹介しただけでした。そのラインを見れば答えは出ると思ったし、色々な解釈をする事が出来ると思ったのです。今回紹介したのは、都の守りにどんな神が関わり、どんな祭祀をしていたかを確認したかったからです。平城京と平安京では、守りの神々が似ているようでも、全く違います。藤原宮・平城京は、祖霊を守りの神々としています。この違いは、何処から生まれたのでしょう。 興味あります。
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# by tizudesiru | 2013-08-26 17:41 | 114天武朝の都の守り | Comments(0)

113神となった斉明天皇

となった斉明天皇
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 白い印は藤原宮、赤1は牽牛子塚古墳で最近の発掘で斉明天皇陵と発表されました。赤2も、斉明天皇陵です。このころの天皇陵はいくつもあります。改葬されているようです。改葬の記録もあるそうですから、多くは間違ってはいないと思います。さて、赤2の斉明陵ですが、藤原宮を通る緑ラインの起点にあります。このラインは、藤原宮を通り箸墓に届くのですa0237545_028915.gif
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藤原宮は箸墓と斉明天皇のライン上に造られたのでしょうか。 八角形の牽牛子塚古墳に改葬する前、斉明天皇陵は箸墓・藤原宮ラインの選ばれた位置にあった、神となって「新益京」を守る位置にあったという事です。
 改葬後の赤1の牽牛子塚古墳は、天武天皇陵・岡宮(草壁皇子の宮)と並びます。母である斉明天皇を川原宮でモガリしたのは天智天皇ですが、此処に天智天皇の影はありません。飛鳥には、欽明天皇や敏達天皇や舒明天皇推や斉明天皇と、天武系の草壁皇子・文武天皇などの強いつながりを示すラインが多くあります。どうゆう事でしょうね!父のみならず母までも天武系が独占しているのです。壬申の乱に勝利したからでしょうか。壬申の乱とはなんだったのでしょう。以前ブログでも紹介しましたが、天智天皇は舒明天皇の皇子ではなく、斉明天皇の連れ子であったという説も頭をかすめます。だから、天武天皇が壬申の乱を起こしたと。

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赤2の斉明陵(越智崗上陵)からアスカとかかれた「飛鳥寺」を通り、ラインが行きつくのは、天王山古墳です。崇峻天皇の真の陵墓とも聞きます。馬子に暗殺されたという崇峻天皇。本当は、有能な人だったのではないでしょうか。飛鳥寺は、斉明陵と天王山古墳のほぼ中央に建立されています。何を意味するのでしょう。崇峻天皇の御魂を鎮め、その霊力を斉明陵に持ってきたのでしょうか。更に、斉明天皇陵を詳しくみます。
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少し整理しました。
 見勢丸山(真の欽明陵)と牽牛子(斉明陵)と岡宮天皇陵は、直線状に乗ります。牽牛子塚古墳が造営されたのは何時かというと、天武帝崩御後かつ草壁皇子薨去後、祖先の欽明天皇の霊力を借りて改葬されたのです。「正当な皇統の主張」がなされているのです。新しい政権の樹立は、正当な皇統の上に成り立つのでしょう。
 更に、話は継体天皇にも飛びます。
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 継体天皇陵と言われる今城塚古墳と、太田茶臼山古墳です。どちらも継体天皇の墓と言われます。そこから2本のラインが出ています。
星印が今城塚古墳です。
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 二本のラインはどちらも見勢丸山古墳(欽明陵)を通り、文武陵に届きます。
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 どちらも高松塚古墳を通ります。どうやら文武陵を築造するころ、継体天皇の陵墓がどちらか不明になっていたようです。あいまいなラインはその事を示しているのでしょう。 
 箸墓・応神陵・継体陵・欽明陵・斉明陵は、天武系の皇族にとって皇統の証明には欠かすことのできない陵墓だったのです。これは、7世紀後半から始まっているようです。
 王墓がつながるラインの存在、それは弥生から古墳時代にかけての九州の墓の造営に見られるものです。それを畿内に持ち込んだのは誰か。天武系の誰かです。その人は、九州の墓制を熟知していたでしょう。
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天武系の王朝は、本当に九州と関係が深いのでしょうか。
気になるところですね。また、付け加えですが、
九州から東遷した神武天皇と崇神天網は同一人物ではないかという説を聞きます。ラインで見てみましょう。古墳が二人の天皇の陵墓かどうか本当はわかりませんが。
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 北から崇神天皇陵→耳成山→神武天皇陵 と、なっています。直線に並びます。どうでしょうね。偶然ですかね。

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# by tizudesiru | 2013-08-25 01:37 | 113神となった斉明天皇 | Comments(0)


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188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島

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